DESERT MOON(映画・読書・その他、11)

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ジャン・ユスターシュ『ぼくの小さな恋人たち』『アリックスの写真』
ユスターシュ『わるい仲間』『サンタクロースの眼は青い』『不愉快な話』
春の日
ラウル・ルイスの『見出された時』
清原と「冴え」
近代絵画的なイメージについて(セザンヌ/モネ/マティス)
保坂和志『明け方の猫』を読んだ。
那須博之『ビー・バップ・ハイスクール/高校与太郎音頭』とデパートの屋上
絵画(加藤陽子/加藤泉)
午前中のつよい春の日射し
吉田修一の『最後の息子』(文藝春秋)を読んだ
連休の中休み/絵を描くこと
リヒター/フォトペインティング/ウォーホル
ある日、風邪をひく。
行定勲の『ひまわり』をビデオで。
アレクサンドル・ソクーロフの『ドルチェ-優しく』
セドリック・カーンの『倦怠』をビデオで。
阿部和重『ニッポニアニッポン』を読む。


  ジャン・ユスターシュ『ぼくの小さな恋人たち』『アリックスの写真』
01/4/6(金)
●澁谷ユーロスペースで、ジャン・ユスターシュ『ぼくの小さな恋人たち』『アリックスの写真』。
『ぼくの小さな恋人たち』は、ほんとうに素晴らしい。あの坂道を下る自転車、カフェの前の中途半端に開けた空間、少年の職場の前の、あの狭苦しくてやや上り坂になっていて、その先へ抜けている道、隣村のはずれで、サリナスへ行くという少女たちをナンパした時に吹いているあの風。これらはもう「映画的」としか言い様のない形象を獲得していて、しかもこの「映画的」というのは、決して過去の映画のレファランスからくるものではなく、おそらくユスターシュ自身の過去の記憶を要素として、それを構成し構築することによって得ることの出来た「映画的な形象」なのだと思う。つまり、「映画」というあらかじめ到達すべきものとしての絶対の目標がある訳ではなくて、自分の構築したもの、つくり出したものの強度によって、そこに初めて「映画」という形象が現れ、その強度、あるいは形象によってこそ、「映画」という概念は支えられるのだ、というようなものだ。だからこの映画を、ヨーロッパ映画の流れのなかに伝統的にある、「思春期映画」とでも呼ぶべきものと比べて、その偏差についてどうこう言うことには、大した意味はない。この作品は、他の作品との比較ではなくて、この作品自身として語られなければならないようなものなのだと思う。
この映画で、多分にユスターシュ本人と重ねられていると思われるダニエルと名付けられた少年は、この少年自身が「主役」として描かれるというよりは、この映画の世界そのものを感受している身体として、映画を支える基底的な存在として登場している。つまりこの映画は、ダニエルによって感受された「感覚」によって構成されている。ダニエルがすべての場面に居合わせていなければならないのは、映画がダニエルを追っている(描いている)からではなくて、ダニエルによって支えられているからなのだ。しかし当然のことながら、映画においては基本的に一人称というのはあり得ないので、その「感覚」は三人称として構成=構築し直されなければならず、つまり画面のなかに常に、それを感覚している存在であるダニエルが写り込んでいる、ということになる。この、一人称が常に三人称として構成し直され、その世界を感受している身体そのものが、構成し直された世界ではその世界の一部分として、その内部に対象として写り込んでしまっている、という感覚が、ここで言う「映画的」な、という感覚なのだと思う。この非-求心的な拡散する感覚こそが「映画」なのだ。
この映画は、ダニエルの「感覚」を描く(と言うか、感覚を要素として構成されている)ものであるから、ダニエルの成長や性の目覚めといった「物語」が語られている訳ではないことは勿論だが、彼の感情や思考が描かれている訳でもないので、彼の表情はいつもニュートラルな掴みどころのないものに保たれているし、映画の流れも常に淡々としていて、起伏がない。母親に引き取られた後の彼の境遇は、かなり悲劇的なものだといえるはずなのだけど、ここでは物語としての悲劇が語られないだけでなく、感情としての悲劇も語られることがない。(人物たちの動きはまるで機械仕掛けのように生気がない。だが、その身体の表情は、ヤバいほど生々しい。しかし、それは物語とは全く関係がない。)なにしろダニエルは状況に流されるばかりで、自分の意志を表明したり、自分の意志で行動したりすることが全くと言っていいほどないのだから、彼が何を考えているかなど、全く分らない。彼が自分の意志でする行動といったら、人込みに紛れておずおずと女の子の身体に触ることくらいのものなのだ。
だからダニエルという存在が重要なのは、あくまでも感覚受容体=身体としてであり、世界のなかを駆け抜けて、世界を構成する要素を拾い上げるシフターとしてなのだ。重要なのは彼の悲劇的な境遇やその感情なのではなく、彼によって感受され、映画によって三人称的なものとして構築された形象、つまり、男たちのたむろするカフェの空間であり、その前を横切って性的な記号を振りまく女たちの形象であり(窓に写った女たちを追う、あの素晴らしい横移動。)、彼の職場の前の坂道であり、そこで毎晩のように男と抱擁し合う女の形象であり、並木道をまるで幽霊のように行き来する男女たちであり、そこでキスをする度に帽子を落とすカップルであり、それを見ているユスターシュであり、バザーの雑踏や少女たちのコーラスであり、村はずれの畑の道を吹き抜けるみだらな風であり、坂道を転がるように下ってゆく三人乗りの自転車の運動であり、ニエーヴルという村であり、ナルボンヌという地方都市であるような、映画的な形象なのだ。つまりこの映画は、過去の記憶の物語化でもなく、記憶の再現ですらなくて、感覚的な記憶を構成要素として、スクリーンにあらわれる映画的な形象によって、それ自体として記憶と「等価」なものを出現させてしまおう、という試みなのだと思う。感覚の記憶を再現する映像なのではなくて、感覚の記憶と等価であるような映像の「かたち」を構成する探究。
この映画は基本的に、上記のような形象がいくつも羅列されることによって出来ていて、物語のような起伏や流れというものがほとんど感じられない。ある形象があらわれ、消えてゆき、また別の形象があらわれる、という風にただ時間に沿って並べられているだけで、それらが構造化されるという気配が希薄なのだ。複数の異なる形象が、平面的に並べられ、それらのただ並列されているだけの形象たちを、1本の映画作品として纏めているのは、唯一ダニエルと名付けられた少年の身体のみなのだと思える。そしてダニエルの感覚受容体としての身体は、世界をあからさまに性的に色づけるだろう。しかしここで世界を性的に色づけるダニエルという身体は、同時に、世界が発している性的な表情に初めて直面して、初々しく震えているような身体でもあるのだった。
01/4/7(土)
●ユーロスペースで、『ぼくの小さな恋人たち』と同時上映されている『アリックスの写真』は、20分にも満たない短編ながら、とても興味深い。写真家が友人に対して、自分の撮った写真についての説明を語ってゆくのだが、そのコメントの内容と、画面上に示される写真が次第にズレてゆくさまを、たった4つのカメラポジション(そのうち1つは冒頭の1
ショットに使われているだけなので、実質3つのポジション)だけで簡潔に示している。まあ、言ってみれば、映像と言語との関係の曖昧さとか、結びつきの恣意性のような事を表してると言えるのだろうが、それよりも興味深いのは、この2人の登場人物の関係の方にある。ここでは女性の写真家が、彼女よりやや年下と思われる男性の友人に向かって、ほぼ一方的に、自分の写真についてのコメントだけを喋り、男性はただ、ああ、とか、うん、みたいな調子で相槌を打っているだけで、それ以外の言葉は全くなくて、ただ机の上の写真を示すショットと、2人が並んで腰を下ろしているツーショットの単純なくり返しのみがあるだけなのだけど、ただこれだけのことで、この2人の普段の関係のあり方や、なんとなくだけど性格のようなものまで感じられてしまうし、見方によっては、女性が男性を性的に誘惑している、もしくは挑発しているという風に読めないこともない。つまり、このごくシンプルな映画作品が示してしまっているのは、誰かが何かについて語るという場合、その場にあらわれるのは、語られている何かについての言述だけではなく、語る者と受け取る者との関係性であり、だから言葉を発することは、何かについて述べるということよりも、その二者の関係の間に何らかのアクションを起こし、その関係に変化をひき起こそうという行為である、ということなのだ。簡単に言ってしまえば、言語におけるコンスタティブな内容とパフォーマティブな効果のズレであり、そのズレがひき起こすごくごく微妙な波風が、このとてもシンプルな映画作品を、とても繊細に震わせているのだと思う。
01/6/29(金)
●ビデオで出ていたので、ユスターシュの『ぼくの小さな恋人たち』を見直してみる。改めて見直しても凄い。ユーロスペースで見逃した人はビデオででも是非。
これは世界に対して無防備に曝された身体によって浮かび上がる感覚についての映画であると言える。無防備であるしかない少年の身体は、世界が彼に投げかけてくる様々な感覚によって貫かれて、その小さくてか細い感覚受容体は感覚によって満たされ、彼を激しく揺さぶる感覚=情動はその身体=器から溢れてしまいさえするだろう。まるで大雨に曝された容器が、みるみる水で満たされて、溢れ出て、それでも雨は落ちてくるので、水面が常にふるふると震えているみたいに。しかし彼は、自分から世界へと働きかけるための、どのような力ももっていないので、徹底して受け身である他、なすすべがない。彼は、世界に対して働き掛けるような行動をとることが出来ないだけでなく、自身の身を貫く感覚=情動を表現するすべももたないので、いつも無表情であるか、それに近い微かな表情の変化しかみせないだろう。映画はこの少年の無表象に寄り添うように、静かに淡々と進行するだろう。(少年に感情移入しようとしても、少年はいつも取りつくシマの無い無表情な「イメージ」にしか過ぎないのだった。)この映画はしかし、少年を巡る物語や、少年の身体についての映画ではなく、徹底して無防備であるしかない少年の身体という装置によって可視化された(構成された)、世界の様々な感覚=表情を記述する映画だと言うべきだろう。少年の身体は、それ自体としては常にバラバラに拡散してしまう「映像」の束を、ひとつの映画作品として束ね、組織化するための装置だと言っても良いだろう。ここで、少年の身体によって焦点化され生成される感覚=情動は、あくまで世界の側にある感覚=表情の変奏のひとつにしか過ぎない。だから、ラスト近くのサリナスへと至る道の途中に吹いている、あの何とも言えない素晴らしい風は、決して少年の性欲のざわめきの暗喩などではなくて、「風」も「性欲のざわめき」も、世界のなかにある様々な感覚=表情のひとつであるという意味で、全く等価なものとして併置されているのだ。(実は、「風」も「性欲のざわめき」もそれ自体としては画面には写らないものであって、それぞれ、揺れ動く草花や少年の身体の動き等によって暗示されるしかないものなのだが。この映画で実現されている「感覚」というのも、視覚的なものではなくて、そのような「暗示」によるものなのだった。)

  ユスターシュ『わるい仲間』『サンタクロースの眼は青い』『不愉快な話』
01/4/26(木)
●澁谷、ユーロスペースで、ジャン・ユスターシュの『わるい仲間』『サンタクロースの眼は青い』『不愉快な話』。ユスターシュと言えば、あの圧倒的な『ママと娼婦』しか知らなかったのだけど、今回の特集でちょっとイメージがかわった。なにしろ『わるい仲間』『サンタクロースの目は青い』『ぼくの小さな恋人たち』なんていう映画は、シネフィル体質の人の「最も神経過敏な部分」を直撃するような感じの、びっくりするくらいオーソドックスな「いい映画」だったりするのだ。逆に言えば、あまりにつくりが上品過ぎて、シネフィル以外の人にはウケようがないのではないかと思えてしまうくらいに「押し出し」が弱いと言うか、「キャッチー」(これってもう死語?)なところがない、と言うことなのだ。青山真治氏がboidで書いていた、ユスターシュの「擁護を必要」とする「弱さ」と言うのは、こういうことなだろうか、とも思う。これらの作品は、批評によって強く擁護されなければ、下手をすると日々、大量に生産されている他の凡庸なフィルムのなかに埋もれて見えなくなってしまう危険があるようなフィルム、と言うか。とりあえず、誰が観たって凄いと納得せざるを得ないだろう特権的な傑作である『ママと娼婦』以外の作品は、初期のヌーヴェル・ヴァーグのような、映画を撮ることの幸福さと悲痛さがないまぜになって震えているような初々しさにくらべるとかなりクールで抑制されているし、かと言って、作家の映画としていかにも分り易いような特色(個性?)を強く前面に押し出している訳でもない。あまりにも渋くて上品で、嫌な言葉だけど「玄人ウケ」するような抑制されたつくりになっている。描かれている内容にしたところで、冴えない若者の冴えない日常が描かれてるのだけで、面白い物語もスキャンダラスな要素もない。(『不愉快な話』はスキャンダラスな内容と言えなくはないが、でもそれは「売り」になるようなものとは言えず、良識のある人なら口を噤んでしまうような文字通りに「不愉快な」ものな訳だし。)人の共感を得易いと思われる「文学的な」感傷性も抑制されてしまっている。今やユスターシュは伝説的な名前である訳だけど(しかしこの「伝説」というのが、一体どの程度の範囲にまで有効なのか疑わしいけど)、もしぼくがユスターシュと同時代に生きていて、しかも彼の映画のプロデューサーだったりしたら、こういう映画をどうやって「売れ」ばいいのだろうか、と頭を抱えてしまうだろう。勿論、作品自体は文句なく素晴らしいものであるのだが。例えば、『サンタクロースの眼は青い』には、ジャン・ピエール・レオーが夜道で仕事帰りの女の子をナンパする長回しのシーンだとか(夜の、石で出来た街に反響する靴音の素晴らしさ!)、女の子が元ボクサーの男を毎晩待っている、カフェの入り口の細長い空間だとか、数えあげれば切りがない程素晴らしい瞬間に満ちているのだけど、それらがあまりにまっとうに映画的なので、それらを声高に賞賛することがなんとなく憚られてしまうような感じなのだ。
このような思い巡らしはまったく意味のないもので、地味だろうが「売り」がなかろうが、素晴らしいものは素晴らしいのだし、堂々と素晴らしいと声高に主張するべきだ、という意見が恐らく正しいのだろう。作品は、それ自体の輝きの力によって、何度でも回帰してくるはずなのだ。そのような「作品の力」を信じられないなら、作品を観たりつくったりすることには何の意味もないだろう。しかし、そのような「正しさ」だけで、本当にこういう作品を存在させ続けることができるのだろうか、という不安から解消されることも、永遠にあり得ない事なのだろうが。

  春の日
01/4/8(日)
●近くにある公園で散ったらしい桜の花びらが、ここまで流されてきて舞っている。強いけどどこかとろっとした暖かい風が、黄色味がかった若い葉をつけた木々をざわざわと揺らして吹き抜けている。鈍くぼやけた空の青。滲んだ雲。少し曲がりながら上っている公園前の道路には、花見をするための路上駐車の車がずらっと並んで道路の幅を狭めている。ユキヤナギの白くて小さな花が、、そこここからひゅーっと伸びている茎にびっしりと咲いていて、長い茎は花の重みでしなって下を向いている。暖色のつよい、濁った感じの光が、重たく淀んでたゆたっている。荒っぽく吹きつける風も、どこか粘っていて重ったるい。引っ越し用の大型トラックが唸りながら坂道を上ってきて、ナマリ色の荷台に日の光を鈍く反射させ、砂ボコリを舞い上げて低い振動とともに通り過ぎる。団地のベランダには、たくさんのシーツや布団がびっしりと並び、あたたかい光をその身に受けとめてふくらんでいる。《男の神経は弛緩し、記憶の海綿体にこの風景が染み込んでゆくのを楽しみます。》(島尾伸三)光が海綿体に侵入してきてそれを満たし、膨張させる。光に対して反応する、眠ったくてゆるゆるの欲情。
01/4/9(月)
●ナマリ色の重たく曇った空。そこから染み出てくる光。汗ばむような陽気。いくら眠ってもまだ眠い。重たい目蓋、重ったるい身体。電車に揺られている。低い振動。午後過ぎの空いた電車は、時間調整のためいくつもの駅でしばらくの間留まることになる。うとうとと眠ったり起きたりしているので、はっと目覚めて、随分と長いこと停車したままだなあ、と思うと別の駅だったりする。都心に近づいた駅で、リクルートスーツの新人風の集団によって、電車は予想外の混み方をする。どこから紛れ込んだのか、蠅がブンブン飛び回っている。半分以上眠りの方へと落ち込んでいた灰色の意識が、けたたましい車内放送で現実へと引き戻される。「お急ぎのところたいへん申し訳ありません。ただいま、車内でお客様同士のトラブルがありました関係でしばらく停車いたします。」どろっととろけたようだった車内の空気が、ちょっただけピッと張りつめた感じになる。

  ラウル・ルイスの『見出された時』
01/4/10(火)
●日比谷シャンテ・シネ2で、ラウル・ルイスの『見出された時』。この映画は、長いとはいえ3時間に満たない長さしかもっていないはずなのだけど、観ている間は、一度この映画の世界に足を踏み入れたら、もう永遠にこのなかをさ迷っているしかないのではないかと思ってしまうような感じで、これは基本的に「始まり」があって「終り」があるという映画の時間の構造とは別の、気がつくといつ始まったのか忘れてしまっているし、いつ終わるとも知れないという、永遠に「中間」であるような時間のなかで、我を忘れてひたすら映像と音響を浴びているという体験なのだとふと勘違いしてしまうような時間の持続によって出来ているのだ。恥ずかしい話だけどぼくはプルーストの『失われた時を求めて』を最後までは読めてなくて、だから最終章である『見出された時』については蓮實の『物語批判序説』に書いてあることくらいしか知らなくて、この映画はプルーストなんてみんな読んでて当たり前でしょうという態度でつくられているので、バラバラに示される出来事の時間的な前後関係だとか、人物同士の関係なんかが正確に把握出来たとは言えないし、どの程度原作に忠実に構成されていて、どの程度映画的に再構成されているのか判断出来ないのだが、もともとこの映画は、迷路のなかに迷い込んでゆくように時間的に今いる自分の位置を見失ってゆくことによって、今流れている時間=現在の現実性が見失われることによって、返って、事物のひとつひとつの表情が、人々の仕種や振る舞いの生々しさが、人々が集まり犇めいて意味のない噂をつぶやき合っているそのざわざわしたざわめきが、固有の時間や、固有の意味から切り離されて、純粋に表情として、粒立ったリアリティーとして立ち上がってくるようなものなのだから、無理をして秩序だったものを探ろうとするより、いきなり知らない街に放り出されてしまった外国人であるかのように、途方に暮れながらひたすら細部の表情を読み取ろうと画面を追ってゆくことの方が大切だろうと思う。画面のサイズも、映画の規模や予算も全く異なるのだけど、ぼくはこの映画を観ていて鈴木清順の『ツィゴイネルワイゼン』を思い出したのだけど、それはただたんにマルセルのヒゲのある顔つきや黒づくめのいでたちが藤田敏八を連想させるからというだけでなく、『ツィゴイネルワイゼン』もまた同じように時間のなかに迷い込んでゆく、客観的な実際の上映時間が分らなくなってしまうような映画であり、アクチュアルな現実を見失うことで、別種のリアリティーが浮かび上がってくるような映画だったからだろうと思う。だから『ツィゴイネルワイゼン』が明らかに幽霊の映画であるように『見出された時』も幽霊の映画であるし、例えば、ジョイスの『ザ・デッド』がそうであるように『見出された時』は死者たちについての映画であるのだ。マルセルは、敷石に躓いたり、ココアのポスターを見たり、マドレーヌの味を感じたりした、現実の世界での生々しい感覚によって過去を見出したと言うよりも、歳をとり、病気をして、文学にも自分の才能にも絶望して、ほとんど現実を見失い、半ば幽霊と化した人物として社交界へと復帰したからこそ、つまりそこでの現実の利害関係などどうでもいい存在としてそれに接し、それを感じたからこそ、そこに膨大な「過去」を見出すことが出来たということではないだろうか。
この映画は傑作というより、凄くヘンな映画だと言うべきだろう。この不思議さは一体何なのだろうか。文芸大作、オールスターキャスト、立派な装置、美しい撮影、流麗なカメラワーク、凝ったドルビーの使用、もうこれだけ並ぶとぼくなんかはうんざりしてしまうのだけど、それほど豪勢なつくりなのだけど、どこかインチキ臭いチープさを漂わせているし、その一方でいくらなんでもやり過ぎだと思うほど凝りに凝った画面が、しかし不思議なほど嫌らしさを感じさせなかったりもするのだ。もしかしたらこれは、あまりに堂々と「芸術」をやってしまっている、ということなのかもしれない。例えばアンゲロプロスみたいなヨーロッパの監督だと、ここまであからさまに「芸術」しちゃうことが出来なくて、どこかで現実の(現代的な)問題とリンクしようとしてしまうのだろうけど。

  清原と「冴え」
01/4/11(水)
●ぼくはプロ野球中継を熱心に観るような野球ファンではないのだけど、たまたま観ていた中日-巨人戦で、ちょっと良いシーンを見ることができた。8回表の巨人の攻撃で、ツーアウトで一塁ランナーに高橋が出ていて、打席は清原という場面。中日のピッチャーは紀藤で、何球目かは忘れたけど清原に対してワンストライクとった後の投球で、高橋が二塁へスチールをきめる。投球はストライクで、清原は追い込まれた訳だが、その時センターからのカメラが捉えた清原の表情が凄く良かったのだ。清原の表情かすうーっとかわった。なんと表現したら良いのか、顔つきがぱっと明るくなったと言うか、何か「とても嬉しそうな」表情になったのだった。その時清原が考えていたことは、高橋に対して「お前、やるなあ」と言う事だったかもしれないし、「これで長打の必要がなくなって樂になった」だったかもしれないのだが、その時の清原の「心理」がどうあれ、その、力が抜けて気力が充実してくるような、ふうーっとよい顔になった瞬間がすばらしかったのだった。この表情で、今年の清原は心身ともにとても良い状態なのだろうなあ、ということがすごく良く感じられた。(ここでは、高橋の行為の「冴え」が、清原の身体に対して何かしらの影響をおよぼした、ということなのだろう。そして高橋の「冴え」を敏感に察知し得た清原も「冴え」ていたという訳なのだろう。)
野球の中継でやたらと選手の顔の表情を追い掛けるような「心理主義的」な傾向に対して、野球というゲームの運動性や身体の動きを捉え損なってしまうという批判があるのは分かっているし、ぼくも確かにその通りだと思うのだけど、あの清原の一瞬の表情の変化を逃さずに捉えていたりするのを見せられると、意外な拾い物もあるのだなあ、と思うのだった。その後、清原は見事にタイムリーツーベースを打って、二塁ベース上でガッツポーズをすることになるのだが、こういう、「結果」が出てしまった後の「満足げ」な表情などは別にどうてもいいと思うのだけど。
プレー中の選手を、アップに近いサイズで追うのは、どう考えても上品なこととは思えないし、それを見て「いやあ、気合いの入ったいい顔をしていますねえ」なんて解説者が言ったりするのは、本当に馬鹿馬鹿しいという以外のなにものでもないのだが、それでも、人間の顔の表情というものが、何かの「徴候」が現れる場としてとてもデリケートな場であるのは確かではあるのだろう。おそらくあの瞬間に、清原というスポーツ選手としての身体のシステムの内部で、何かが「ふっ」と動いたであろうことは間違いがないことだと思える。
まあ、単純に、冴えている人の冴えてる顔を見るのは気持ちがイイ、ということなのだが。

  近代絵画的なイメージについて(セザンヌ/モネ/マティス)
01/4/13(金)
●セザンヌがモネに対して「素晴らしい眼だ。しかし、眼にすぎない。」というようなことを言ったのは、一体、どの時期のモネについてだったのだろうか。一般にモネは、視覚の純粋性に賭けた画家、目の前で刻々と移りゆく光の状態をひたすらに追い掛けた画家、太陽の光が物に反射して、それが大気というプリズムのなかを通って複雑に分化する様をデリケートに追いつづけた画家だということになっている。普通、絵画が対象の形態や固有色を確固としたものとして描くことが出来るのは、それが「そう見えている」ように描くからではなく、我々がその対象について「そのようなものとして知っている」ように描く(構成する)からなのだが、モネはあくまでも「そう見えている」ように描こうとした結果、対象の形も固有色も、果てには対象の意味や存在そのものまでもが光のなかで解体されてしまうような、狂気じみた絵画を出現させることになった、と。例えば丹生谷貴志は、モネが死んだばかりの妻の皮膚の色が変化してゆくのに魅惑されて、我を忘れてそれを描きつづけたというエピソードを引いた後に《モネは悲しみという主観を無視して動きだした自分の眼の自動運動を呪う手紙を書き記しているのだが、ともあれ、モネはほとんど狂気と言ってよい徹底ぶりでその眼からあらゆる主観を蒸発させることに専心していたわけである。》と書くのだが、このようにモネにおける「視覚」を強調するときに忘れられているのは、画家は「見る眼」として存在しているだけでなく、「描く手」としても存在しているのだという単純な事実だと思う。丹生谷氏の言う「眼の自動運動」とはつまり、「手の自動運動」でもある。ごく単純な事実として、モネの晩年に近い作品ほど、それを描いた画家の身体を強く意識させる絵画作品も珍しいのだ。(確かに、初期のいわゆる「印象派」風の絵を描いている時のモネは、多分に視覚的な画家なのだが。)
絵画を「純粋な視覚」として語ろうとするとき、そこでは絵を描くのには「時間がかかる」という単純な事実が忘れられている。眼が捉える刻々と変化する光のスピードに、手は決して追い付くことは出来ない。絵画には複数の層があり、けっしてその表面にあらわれている「一層」だけで出来ているのではない。(つまり複数の質の異なる時間が折り込まれている。)ことにモネの手は、例えばゴッホのように絵具が乾くのを待つものもどかしいというように忙し気に動いているのではなくて、タッチにみられる絵具の粘りや、下の層の絵具とその上にのった絵具との関係等をみると、かなりゆっくりと動いていたはずなのだ。モネは、硬めに錬った絵具をコシの強い筆にたっぷりとつけて、それをゆっくりと動かしていると思う。そしてその時、下の層の絵具は「軽く乾いている」という状態で、上からのせた絵具にほんの僅か混ざり込む、という感じであったはずだ。そしてその「混ざり込む」感触を、モネは眼ではなくて、筆をもつ手の感触で操作していたはずなのだ。モネの、特に晩年の絵画には、視覚的な、あるいは造形的な意味での「構成」というものがほとんど見られないのは確かだろう。しかしそれを、絵画の構造や構成が太陽の光によって溶けて蒸発してしまい、そこに「純粋な視覚」が浮かび上がる、という風に読むのは、あまりに事を表面的に捉え過ぎているように思える。そこには、複数の層を構成的に重ね合わせて1つの平面をつくろうという、横の広がりとは別種の層の「構成」の意志があるし、それに、絵具というたんなる工業製品を、絵画と言える質を持つ「物質」へと変換させるために組織される「手の感覚」の構成があるのだ。モネは確かに、絵画のなかに描かれた対象の固有の意味や存在を蒸発させてしまったのだが、それにとって変わって「光」や「視覚」があらわれたのではなくて、そこには絵具という物質の「質」そのものによって成立する絵画、そして絵具を操作する身体の固有性を浮かび上がらせる絵画、という全く新しい地平を出現させたのだと思う。それは「純粋な視覚」などではなく、むしろ混濁した感覚、視覚によってそれ以外の複数の感覚が呼び出されて混じり合うような場としての絵画なのだ。モネによって画面にのせられた絵具には、まるでモネの身体が混ざり込んでしまっているようにさえ見えるのだ。(だからむしろ、セザンヌの方がモネよりも「視覚的」な画家なのだと言える。晩年、ほとんど視力を失ってから描かれた作品においても、モネは徹底的にモネなのだった。)
例えば映画の画面を見るという時、それはイメージを見るということであって、フィルムそのものやスクリーンそのものを見ることではないだろう。しかし、絵画を見る時、それはそこにあらわれたイメージを見るのと同時に、そのイメージを成立させている基底材そのものをも見るということで、つまり、イメージの組成や構造、「ひとつ」のイメージを成立させている「複数」の来歴を同時に見るということであって、それが「実物」を見るということの意味なのだと思う。だからそこまで見なければ「絵画」を見るということの意味はないのだ。と言うか、人は普通、「視覚的なこと」ではなくて、そういう事こそを「見ている」はずなのだ。例えば人の書いた文字を見る時、その内容と同時に筆跡を見ているはずだし、筆跡を見るというのは、視覚的な形態を見るというよりも、その人が文字を書いている身体の運動性や、その動きのクセのようなものを感じている、ということであると思うのだ。(勿論、同時に紙やペン先やインクの選択のクセ、つまり趣味のようなものも感じているはずだし。)
01/4/14(土)
●カメラによって撮影されたイメージが、必然的にある「視点」を持たざるを得ないのに対して、絵画には、少なくともぼくが良いと考えている絵画のつくるイメージには、「視点」という概念は必要ない。「視点」という考え方から自由であるはずなのだ。と言うかむしろ、あるイメージが存在するとき、それは必ずある特定の「視点」を持っているはずだという考え方そのものが、カメラという装置によって思考が引っ張られてしまった結果でしかないのではないだろうか。
例えばセザンヌの絵画が、写真や遠近法的に秩序だったイメージに慣れている目から見るとおそろしく歪んでいるように見えるのは、そこに「視点」という考えがないからだ。キュービズムの画家たちは、それを「多視点によるイメージの合成」だと勘違いした訳だが、「多視点」と言うと「ひとつの視点」によるイメージがいくつもあって、それらをバラバラに解体した後に統合するということになってしまうのだが、セザンヌにおいてはおそらく、そもそも「ひとつ視点」というものが成立していないのだ。セザンヌにおけるこのような特色をきちんと理解して継承したのはピカソではなくてマティスであるだろう。マティスの絵画には、視点もなければ対象との明確な距離感もない。(勿論、だからと言って無秩序で混乱している訳ではない。)マティスによる「絵画の平面化」は、視点という概念とは無関係に成立するイメージを構築するために編み出されたひとつの解答としてあるのであって、例えばグリーンバーグ風のフォーマリストが言うような「平面化」そのものを目的としてなされたのではないのは当然のことだ。
マティスにおいてはイメージは、モネにおいてそうだったのと同じように、もはや視覚的な要素だけで出来ている訳ではない。その色彩は、色彩と言うよりむしろ物質としての「絵具の質」として捉えられるべきものだし、絵具の重なり方や基底材との関係、つまりイメージを成立させている組成そのものまでが、「イメージ」のなかに繰り込まれている。例えば、赤い地の上に黒い線がひかれている時、それがあらかじめ赤く塗られた平面に黒で線が引かれたのか、黒く塗られた地に赤い絵具が重ねられ、黒い線の僅かな幅だけ塗り残されたのかによって全く意味が違ってしまう。当然、このような構造の違いを、イメージを成立させる層を一層しか持たない写真図版によって複製することは出来ない。つまり、そのイメージの組成をもイメージの一部として取り込んでいる絵画作品が複製不可能なのは、複製の精度の問題ではなくて、原理的な問題なのだ。
カメラが対象を捉える時、そのイメージはカメラと対象との関係によって、必ず俯瞰であるか仰角であるか水平であるかに分類されてしまうし、その位置関係が対象のイメージそのものに大きな影響を与えるのは言うまでもないだろう。俯瞰で撮られた人間の顔と、仰角で撮られたそれとはかなり印象が異なる。(つまりカメラによるイメージには、必ず対象とそれを見ている目との関係が写り込む。)しかし、例えばセザンヌにとっては、その対象を上から見下ろそうが、下から見上げようが、「それ」を見ているということに変わりがない以上、本質的な問題ではないのだ。セザンヌの静物画では、しばしば画面の右と左とでテーブルの傾斜が異なるし、稜線がズレている。テーブルに置かれた物も、ひとつひとつ見られている角度が異なる。ひとつの対象においてさえ、その上と下とではいつの間にか角度がかわっている。キュービストを始めとする多くの人が、これをいくつもの視点から見たイメージを、ひとつの画面上に造形的に統合して配置したのだ、と勘違いする訳だが、セザンヌにはそもそも、「いくつもの視点」という感覚などないはずだし、複数のものを統合=合成してひとつにするという感覚もないと思う。セザンヌが考えているのは、ひとつひとつのものが、正当にそれ自身としてあらわれるように配置することであるはずだし、それぞれのものがそれ自身であるようなイメージを出現させるように描くことであるはずなのだ。だから重要なのは、目の前にあるひとつひとつのものなのであって、それを見ている画家の視点や画家と対象との関係でも、それを描こうとする画家の造形的な(形式的な)野心でもない。おそらくセザンヌにとってモチーフというのは、その対象との関係を明確に出来ないもの、それを距離をもって眺めたり操作したりすることなど出来なくて、それが存在しているという感覚に画家の身体が貫かれてしまっているようなもののことなのだと思える。(キュービズムにおけるイメージの構成は、絵画というよりどちらかと言うと映画における映像のモンタージュに近い感覚ではないかと思う。絵画によるイメージの構築の感覚というのは、映画などに比べると、ずっと未分化で野蛮で無意識的で、つまりは「幼稚」な感覚なのだろう。)
01/4/15(日)
●セザンヌの絵画にあらわれているのは、複数の「視点」などではなくて、もっと直接的に複数の(無数の)筆致であり、その筆致がひとつひとつ画面に置かれてゆく時間の長さであり、あるタッチと別のタッチの間にある時間のズレであり、画面に筆を置いてゆく手の(身体の)運動であるのだ。画家は見る眼であると同時に描く手でもあるのだから、見る眼が描く手を導くばかりでなく、描く手の方が見る眼をつくり出しもするだろう。眼と手は、互いに協調して働く訳だが、もともと全く違う原理で動いているのだから、常に小さな違和や齟齬を生み出しつづけてもいる。絵画は、イメージであるのと同時に物質であるというだけでなく、さらに手の運動の直接的な痕跡でもある。プランと呼ばれるセザンヌの不器用な手による筆致は、決して小林秀雄の言うような「自然から聞き取られた純粋な楽音」のようなものではなくて、微妙に調律がズレているしどうしても響きが濁ってしまう楽器の音のようなもので、その独特のズレや濁りがどうしてもその絵画を観る物にセザンヌという固有の身体を想起させてしまうようなものなのだ。ぼくはセザンヌの絵の前に立つといつも、そこにそれを描いているセザンヌの身体の「幽霊」のようなものが見える気がするほど、そのタッチは「ある固有の身体によって描かれた」という生々しさをもっている。(勿論、基本的に絵画は直接画家の手で描かれてはいるのだが、どの絵画もそれを強く感じさせる、という訳ではない。)モネやマティスの絵画も、セザンヌ以上にそれを描いた身体を想起させるものではあるのだが、それは身体的な感覚が絵具のなかに溶けて混ざっているというような感じであるのに、セザンヌにおいては、決してそのなかにとけ込めないというもどかしさと共にある身体として、絵画の「前に」幽霊として立ちあらわれるような感覚なのだ。
セザンヌが素晴らしいのは、決してそこに自然の純粋なハーモニーが鳴っているからではなくて、不純で、ノイズに満ちていて、画面の至るとところに今にもカタストロフィが起こりそうな亀裂が走っているにもかかわらず、ぎりぎりのところで決して決定的な「無秩序」には落ち込まない、というところだと思うのだ。つまりそれこそがリアルな現実なのではないか。例えば岡崎乾二郎は言う。《前に天気予報の話をしましたが、雨か晴れかという予報は間違っていて、確率的にすでにもう何パーセントかは常に雨なんです。それが亀裂でしょう。ところが予言という形態は、それを全部時間的な因果関係に展開しなおして、晴れたあと雨になると言いかえる訳です。》今は晴れて(上手くいって)いるけど亀裂がある以上、そのうち雨(カタストロフィ)がやって来ますよ、というの終末論的な世界ではなくて、常に何パーセントかは雨であるような、確率論的な世界。セザンヌにとって重要な「時間」というのは、因果関係を展開して「物語化」を可能にするようなものとは全く別種の、常に何パーセントかは雨でありつづけるような時間であるのだ。
●ぼくが4/13からだらだらと書いてきたことで何が言いたいのかと言えば、つまり「絵画」というものにとって、視覚的な構成はそれほど重要な本質的なことではないし、何かを描くとき、それを描く主体による「視点」(つまりは主体と対象の関係の定位)などという概念は必要ないのだし、そうである以上、絵画はフレーム(あるいは文脈)という問題に捕らわれる必要もないのだ、と言うことなのだ。つまり、絵画をつくったり、それを観たりする時に、「視覚的な構造」や「視点」や「フレーム」という問題に関わったり引っ張られたりしている限り、そこからは大したものは引き出せないのだから、そんな概念はさっさと忘れてしまって、ひとりひとりが全然別のやり方を見つけださなければもうどうしようもない、と言うことなのだ。必要なのは、大層な理想や目的や展望などではくなて、具体的なほんのちょっとした「やり方」でいいの訳なのだが。

  保坂和志『明け方の猫』を読んだ。
01/4/19(木)
●「群像」5月号に載っている、保坂和志『明け方の猫』を読んだ。保坂氏は、ぼくにとってとても重要な小説家だ。でも、ここ数年ははっきり停滞しているように感じていた。停滞と言うのはつまり、保坂氏の現在の関心や感じているリアリティーが、「小説」としてピタッとした適当な形態を獲得するまでには、まだ随分時間がかかるのではないだろうか、という感じのことで、その「志の高さ」に敬服しつつも、しかしあまりにも「小説」というジャンルが(歴史的に)持つ形式的な強制力のようなものを、軽くと言うか甘く観過ぎているのではないだろうか、という疑問でもあった。実際、『生きる歓び』のような小説を読まされると、いくらなんでもこれはあんまりだろう、これを「小説作品」として発表するというのは、芥川賞/谷崎賞作家である自分の「地位」に甘え過ぎなのではないか、と思ってしまうのも仕方がないだろう。しかし、そうだとしてもぼくは当分の間は保坂和志の熱心な読者でありつづけるだろうし、ぼくの目に入るかぎり、新作を追いつづけるだろう。『プレーンソング』や『東京画』や『猫に時間の流れる』といった作品は、それくらいは充分に価値のある作品であると思うのだ。でも新作にあんまり期待はしないけどね。
しかし、ぼくのそのような考えは間違っていた。ぼくは保坂先生をナメておりました。「お見それしました、すいませんでした。」と言うのが『明け方の猫』の一読後の感想だった。
『明け方の猫』は、明け方の夢のなかで猫になった「彼」が、猫の身体と人間の思考をもちながら「夢」の世界を横切ってゆく小説だ。猫の身体によって世界を感じ、それを人間の思考が処理してゆく訳なのだが、夢のなかで新米の猫である「彼」が、少しづつ猫の身体、猫の感覚に慣れてゆくにしたがって、そこには猫の感覚とも人間の思考とも明確に分離できない、それらが混じりあった、ある不思議な厚みと形態をもった「世界に対する感覚/感情」が徐々に形成されてゆく。正直、書き出しはあまり冴えているとは言えず、また保坂的な思考実験の展開を味もソッケもなく記述したものを、「小説」として読まされることになるのだろうか、と少々うんざりもしたのだが、読みすすんでゆくうちにそれが間違いだとわかり、その世界は「小説」と呼ぶしかないような、独自の厚みと抵抗と錯綜と密度とを、つまりリアリティーを、その記述の流れが明確に浮かびあがらせてゆくことになる。
この小説の叙述の流れと、そこに指し挟まれる思考の明滅のリズムは、本当にまるで猫の動きを直接的に想起させるようなリズムになっている。いわば猫の一人称と言ってもいいこの小説においての「視点の移動」の仕方の見事さは、こんなに「猫的」な小説は他にあまりみたことがない、と思わせる程のもので、この、デビュー以来猫の小説ばかり書いている小説家の、猫との付き合いが、尋常でない密度と濃度をもったものであるのだということを、改めて見せつけてくれるのだ。(「彼」という人称代名詞が使われてはいるが、この小説は明らかに一人称によって書かれていて、「彼」という言葉を読む度に、そこに違和感が生気するように仕掛けられている。つまりこの「彼」は本来「ぼく」と書かれるのが自然であるところをあえて「彼」と書かれている訳で、その距離の混乱が、夢のなかでの主体と対象との関係における自由な距離の伸縮、夢のなかでのリアリティーある距離感のようなものをつくり出している。)
猫の描写が優れているのではなくて、描写や叙述の速度やリズムや動きや形態が、「猫化」しているのだ。特に後半、猫と化した「彼」が、猫の身体をかなり使いこなせるようになり、人間的な視覚を中心とした空間把握ではなくて、猫的な主に聴覚と嗅覚によって構築された空間像を獲得することが出来た後の、その聴覚と嗅覚によって組み立てられる遠心的な空間の描き方、描写は素晴らしくて、ついつい立ち止ってそこだけ何度も読み返してしまう。そしてこのような空間把握は、猫的であると同時に、夢のなかでの空間把握ってこうだよなあ、と言うリアリティーももっているのだ。こんなことは言うまでもない当然の事かもしれないが、この小説は、科学的なデータをもとにして猫の感覚を擬人化して記述したものなどでは全くなくて、人間(と言うよりも、ある固有の人物=身体と言った方が良いかも)の身体が感覚する世界と、猫の身体が感覚する世界が、「夢」という領域でふいに重なり合って混ざり合い、そこに誰のものとも言えない不思議な感覚、この小説によってしか立ち上がらないようなひとつの感覚の形態、世界に対するリアリティーのかたちを、「小説という装置」によって、立ち上がらせようとするものなのだ。
この小説は途中で何度も、「これは夢なのだ」というような言葉がくり返し書き付けられているし、「この夢の世界のルール」というような言葉も何度も目にすることになる。つまり読んでいる間じゅうずっと、これはあくまで「夢」の世界での出来事であることが常に意識されるような書き方になっている。しかし、にも関わらずこの夢には「外」がないのだ。すくなくともこの小説の内部においては、「夢の世界」こそが唯一の世界であって、その外に逃れることは出来ない。決して現実に戻ることの出来ない夢の世界、そこから逃れることが出来なくて、その内部で生きるしかない夢の世界というのは、つまりそれこそが「現実」だということだろう。このような世界を考えた時、人は誰でも「カフカ」という名前を思い浮かべるだろう。だいいち、人が猫になるというのは、人が虫になる『変身』と全く同じではないのか。当然、保坂氏が『明け方の猫』のような小説を可能だと思い、それを具体的に構想している時に、カフカという存在がとても大きな支えとしてあっただろうことは疑いがないだろう。しかしこの小説は、基本的にカフカ的なフォーマットの内部にいながらも(内部にいたままで)、そこからどこまでズレて動いてゆくことが出来るのかという挑戦でもあるようなものだと思えるのだから、カフカという名前を口に出すことで、何かが分かった、何かが解決したのだ、と思ってしまうのははっきりと間違いだと言える。
保坂和志という作家は、どう考えても多彩な作家とは言えないだろう。デビュー作からほぼ一貫して、全く図々しいほどの放慢さで、同じような時間の流れ、同じような身体感覚、同じような感情を、くり返し描き続けていると言ってよいと思う。もちろんそれは単調なくり返しではなく、書き直される度にそれらの感覚が新たに検証され直し、新たな形で生み出され直すようにして反復されてきた訳だ。だから『明け方の猫』という小説がカフカ的であるということは、「カフカ的な手法でやってみようか」というような方法的な野心が先にあった訳ではなくて、あくまで保坂的な感覚の追求が、ある地点でカフカ的な形式と出会ったということであって、この順番を間違えて結果だけからものごとを見ると、作品というものの生命は失われて、「奥泉光」的な不毛に、あるいは「高橋源一郎」的な不毛に、陥ってしまうのだと思う。
01/4/22(日)
●大きく開いた窓の外で、常緑樹の枝に沢山ついた緑の葉が強く吹き付ける風でうねるように揺れて、よく晴れた陽の光や影がキラキラしているのをのんびりと眺めながら、保坂和志の『明け方の猫』を読み返してみた。ゆっくりと少しづつ文字を追い、ちょっと読んでは、顔を上げて外をしばらくぼんやり眺め、また本に目をおとす、といった感じで。読み返してみたら、一読した時に感じた書き出しの冴えないと言うか、生硬でまどろっこしい感じというのは、実は、この小説のかなり異様な世界の設定へと、読者を無理なく誘うと言うかそれを意識させないうちに納得させるために、かなり綿密な計算の上でここに置かれた導入部であることに気が付いた。ぼくはどうしても、この種の「段取り」のようなものを鬱陶しいとかめんどくさいとか思ってしまいがちなのだが、おそらく時間的な配列で何かを表現(説得)しようとする場合、この「段取り」というのが、何よりも重要なことだとさえ言えるのだ。極端なことを言ってしまえば、「物語」というのは「段取り」のことだとも言える訳で、だとすると、物語の無時間的な「構造」を分析することには、大した意味などない、ということになってしまう。
あと、この小説のなかで、視覚は無時間的なものなのではないかという記述があったのだが、それには疑問がある。よく、視覚は一瞬にしてモノを捉えると言うけど、それも嘘だと思う。視覚が無時間的なものに感じられるのは、多分、視覚というものが複数の情報処理をそれぞれバラバラなやり方、バラバラなリズムで並列的に行っているから、例えばAからBになり、BからCになるというように「物語化」(段取り化)されづらく、つまりそこに1本の線としての時間を見いだしにくいからだろうと思う。しかし複数の線としての時間は常に介入しているはずなのだ。確かに目というのは基本的にカメラと同じ構造をしているのだけど、視覚的な情報の処理というのは、カメラが一瞬にしてある視点、あるフレームをもったイメージを定着するのとは全く違ったやり方でなされていて、複数の要素が絶えず結ばれたり解かれたりして動きつづけているのだと思う。例えば向こうからやってくるAという人物に出会ったとき、ある人物が向こうから特徴のある歩き方で歩いてくるということと、それをAという人物だと判定することと、そのAという人物の様子がどうか(元気だとか疲れているみたいとか、機嫌がよさそうとか悪そうとか)ということと、Aの着ている服の色がきれいだということとは、それぞれが違った視覚的要素を違ったやり方で組み立てる(モンタージュする)ことによって構成されるのであって、そしてそれらのモンタージュは時間のなかで解かれたり結び直されたりしながら常に修正されつつ動いているはずだと思う。だから、たとえ対象が不動のものだったとしても、それに対する視覚的な認識は時間とともに解かれたり結ばれたりしつつ動いている訳で、そうでなければ、ただの動かない物でしかない絵画を、長い時間をかけて見つづけることなどできないだろう。(絵画的なイメージが、視点も、固定したフレームももたない、というのはこういうことなのだ。)
それにしても『明け方の猫』という小説は、ぼくが保坂和志の小説なかで一番好きな『東京画』にとても近い感じの小説で、そこにはいわゆる「物語」はほとんどなくて、ただ世界の認識=記述だけがあるようなものだ。(だからこそ一層その認識=記述を配置する「段取り/順番」が重要になってくるのだろう。)ただ世界の認識=記述でしかないものが、何故「小説」として魅力的なものでありうるかと言うと、恐らく、それを認識=記述するある固有の人物=身体の動き方の魅力ということになってしまうのだろうと思う。しかしその人物=身体とは、実際にそれを書いた保坂氏本人そのものとぴったり重なるわけではなくて、そこに書かれた言葉の連なりからその外側へと迫り出すように浮かび上がってくる、ある虚構の人物(作中人物とも作家とも別の人物)の「幽霊的な」身体ということなのだろう。この小説の、人間でもあり猫でもある人物によよって捉えられた、異様なと言うか混濁したな世界にリアリティを与えているのは、このような虚構としてしか存在できない幽霊的な身体の、その存在の力なのだとは言えないだろうか。

  那須博之『ビー・バップ・ハイスクール/高校与太郎音頭』とデパートの屋上
01/4/20(金)
●那須博之『ビー・バップ・ハイスクール/高校与太郎音頭』をビデオで。88年公開のシリーズ5柞目。凄く面白い。素晴らしい。基本的には、それぞれの学校で「番」をはっている実力者たちは皆仲良しで、少々荒っぽいじゃれるような喧嘩をたまにしたりはするが、普段は「連れ」たちとダラダラだべっていたり、女の子の後を追い回していたり、授業をサボって屋上でタバコを吸っていたりで、彼らが本当ならばしたくもない「抗争」をせざるをえなくするのは、下っ端の「悪役高校生」の策略による。つまりこの映画(このシリーズ)は、見せ場として「抗争」のような大げさな喧嘩を必要としているものの、全編を流れる基本気なトーンとしては、いかにも80年代的な、お気楽で楽天的な空気、いわば「小春日和の時代」の空気によって支配されていて、リアルな感触としての「暴力的なもの」のザラザラした昏い輝きなどとは一切無縁だし、否応なく「抗争」に巻き込まれてしまったとしても、彼らはどこまでも清々しいほど単純でフェアな人物でありつづけていて、ここには、逃れようもなく、ある政治的な状況に巻き込まれてしまう人物の運命的な「悲劇」などというものも、一切みることが出来ない。しかし、そういう非現実的で甘っょろい、どこまでもユルい小春日和の日射しのなかでこそ、純粋な細部の輝きが、荒唐無稽な戯れを演じるのだ、などといううんざりする程に聞き飽きたような言葉が、この映画(このシリーズ)では何故かとても美しくて貴重なものとして実現されている。この作品は、例えばエドワード・ヤンの『クーリンチェ少年殺人事件』などに比べると、確かに決定的な何かが欠けていると言えるだろうが、しかし少なくとも『クーリンチェ...』と思わず比較してみたくなってしまうくらいには、細部の輝きに満ちているし、貴重な作品だと思える。少なくともここには、雑多なものの輝きを雑多なままで放り出したままにしておく、という姿勢があり、作品の完成度を高めるのを急ぐあまりに雑多なもの(無数のおっちょこちょい)を切り捨てて、作品自体をひとつの「純粋」なシステムにしてしまおうとするような「罠」からは自由なのだ。
01/4/21(土)
●昨日観た、那須博之『ビー・バップ・ハイスクール/高校与太郎音頭』の雑多な出鱈目さを観ながらぼくが思い出していたのは、ちょうど「休日のデパートの屋上」のようなザワザワした感じだった。地方都市にある、中途半端な規模のデパートの、何とも中途半端な屋上の休日。囲いのなかには100円入れると何分間か走る乗り物が何台があり、狭いところをぐるぐる回っているだけの汽車の遊具にまばらに子供たちが乗っていて、空には何故か吊られた万国旗が舞っていたりする。一角にあるゲームコーナーには、もぐら叩きやバスケットゲーム、UFOキャッチャー、その他流行からズレたゲームが置いてあり、その隣にはソフトクリームや焼そばなんかを売っている売店、その前あたりに、ペンキの剥げたテーブルやイスが置かれている。テーブルには赤、青、黄色の色褪せたパラソルがついていて、屋上の強い風に煽られてパタパタはためいている。エレベーターで上がってきて屋上へと出る出入り口の附近は、小さなペットショップがあって、いかにも病気を持っていそうなインコや、ケージの中で弱りきっている子犬などが、ぎゃあぎゃあ騒いでいる。そんな屋上でも休日にはそれなりに人出があって、普段はひっそりしている仮説ステージで、仮面ライダーショーとか、地元のアマチュアバンドのへたくそな演奏などが行われていて、そのまわりには人が集まっている。ステージでの演奏などは全く気にしない様子で、ゲームコーナーからはピーピー、ピコピコと騒がしい電子音が溢れ出ているし、金属ポールのやや高い場所に取り付けられたスピーカーからは、エレクトーンで演奏されたイージーリスニングの音楽が流れつづけている。人目に付かない裏の方には、錆び付いた鉄板やら、壊れたイス、季節外れの「氷」と書かれた看板などが無造作に重ねて立て掛けてある。家族連れや、どこか冴えない感じのカップルたち。ソフトクリームで服を汚して親から怒られている子供、買い物の途中で喧嘩になり、ムスッとして口を聞かない両親、ウァー、とかガーとかいきなり奇声を発する子供、手持ち無沙汰でひっきりなしに帽子や髪の毛をいじっているカップルの女の子、100円で走る乗り物で前の車にぶつかり、その拍子にハンドルに頭をぶつけて泣き出す子供、ベンチに座ったまま長いことボーッとしている老人、ペットショップで子猫が欲しいとグズっている子供、デパートのマークの入ったカッコ悪いエプロンをつけているやる気のないアルバイトのがさつな動作、汽車に乗っている子供に声をかけて写真を撮ろうとしている父親、非常階段の脇でたむろしているヤンキーたちのまったりした雰囲気。強い風の音、風がのぼりや旗をビュービュー鳴らす音、ゲーム機やスピーカーからの音、人々の話す声が四方八方から湧きたってきてゆらゆら揺れる、すぐ下を走る自動車の音、遠くを走る救急車のサイレン、館内放送で迷子のお知らせ...。世界の雑多さ、騒々しさ、溢れ出てくる様々な表情たち。つまり『ビー・バップ・ハイスクール/高校与太郎音頭』とは、そういう映画なのだった。

  絵画(加藤陽子/加藤泉)
01/4/5(木)
●今日から祖師谷大蔵のギャラリーTAGAで始まった加藤陽子・展の作品は、もう鬱陶しいくらいに、超重量級に「本気」なのだった。この「本気」が、一体どのような根拠によって支えられているのか不可解なくらいの、いくらなんでもこんなに本気じゃあヤバいんじゃないだろうかと引きぎみになってしまうほどの「本気」さが、彼女の作品には漲っているのだ。(4/1の日記で言及した笙野頼子のような「愚直」な本気さ。)だからここに展示されている作品は、それを受け取ろうとする側に、かなりな覚悟と感受性の懐の深さを、押し付けがましいくらいに要求する。何も全ての人が、自分の存在の全てをべったりと張り付けてしまっているような、ここまでの本気さを受け取らなければならないという義務などないのだから、ちょっと、そんなにヘヴィーなのはパス、と言ってしまうことはできる訳なのだが。(しかし、いかにも賢明に「本気」のヘヴィーさをはぐらかし、避けることに成功したかと思えた人も、必ずどこかで、不意に回帰する「本気」に襲われてしまうだろうということは避けられないと思うのだが。)
彼女の絵画作品の過剰なまでの本気さは、既成の美術批評の言葉にはどうしたって上手く納まらない訳で、だから彼女自身、自分の作品について語る適当な言葉を持ってはいないので、彼女の口から出てくる言葉は、時にバカじゃないかと思えるほど素朴なものであったり、時にはアブナイ人なのではないかと思えるくらいに「神秘」がかっていたりするのだし、彼女の作品そのものにも、そのような弱さを時に覗かせるものがあるのは事実なのだが、しかし少なくとも成功している作品については、近代主義的な形式分析にも充分耐え得るくらいのクールな形式性をも同時に兼ね備えたものである、ということは強調しておきたい。
実は、ぼくと加藤陽子とは、10代の頃からお互いに知っていて、いわば古い知り合いといった関係である訳で、そういう人に対してこういう風に書くのはなにか「仲間誉め」(しかしこの文章は誉めたことになっているのだろうか)みたいで嫌らしいのだけど、彼女の作品にみられる半端ではない「本気」さは、美術というジャンルに限らず、もっと広い領域まで含めてみても、そうそうめったに見られるものではないということは事実であると思うのだ。特に今回の展覧会に展示されている『春』と題された作品は、彼女の代表作にもなり得るようなものだとぼくには思えた。
01/4/24(火)
●国分寺の23GALLERYでやっている「1995-99/加藤泉・展」はとても良かった。ぼくは絵画に関してはすれっからしだし、どうしても難しくコネクリまわすように考えてしまったりしがちなので、絵画を観て素直に「とても良い」なんていう感想が出てくることはめったにないのだが。加藤泉氏の作品は、図像的に言えば、胎児にも昆虫にも見えるような妙な形態の奇形的な人物が、余白を大きくのこしたカンバスに、ヌルヌルッと、ボソボソッと描かれているというもので、こういう風な図像を描く人は別に珍しくはなくて、と言うより「こういう感性」はむしありふれてさえいて、今どき、と言うか、ちょっと前の「ああ、こういうのって流行ってますよね」という感じ(吉田戦車的な感性の形象と言うのか)に過ぎないのだけど、加藤氏の作品がこの手のもののなかで特に優れているのは、たんにイメージの特異さにだけ頼っているのではなくて、それが絵画=物質としてもしっかりと出来ていて、と言うか、こういうイメージが先にあって、それを図示するために絵画があるのではなく、カンバスや絵具という物質と関わりそれらに触れているうちに、必然的にこのようなイメージが浮かび上がってきたのだと思わせるような説得力があるからなのだと思う。イメージが先行するような、イメージの特異さをだけ見せるような絵画作品には、そのイメージそのものを成立させている基底材であるカンバスや絵具という物質に対してあまりにガサツであると言うか無神経であったり、あるいはイメージのために物質をかなり無理矢理に、強引にねじ伏せているという感じが強かったりすることが多いのだが(例えばF・ベーコンなんかだと、こういう強引さをプレザンスの強さだと勘違いさせて見せているところがズルいと思うのだが)、加藤氏の作品は、むしろ物質の物質としての存在感が、うつろなものでしかないイメージの超現実的なリアルさをしっかりと裏打ちしているという感じなのだ。つまり、このようなイメージは「絵画」でなければありえない、というようなものになっているのだ。
この手の特異なイメージで勝負するような作家というのは大抵、あまりに「狙い」がミエミエで嫌らしかったり、あるいは逆に、自分のもっている「天然」な素材にあまりにも無自覚に頼り過ぎだったりすることが多いように思うのだけど、加藤氏の作品は、かなり意識的にしっかりとつくられている(例えばフレームに対する処理の仕方などは明らかに意識的だろうと思える)と同時に、加藤氏にしか出せないような、正真正銘に「天然」であるような雰囲気も醸し出していて、こういうものを作れる人こそが「作家」と呼ばれるべきなのだろうと感じさせる。つまり「絵画」というものが存在するのだ、ということを、アイロニー抜きに示してくれるような作品なのだった。

  午前中のつよい春の日射し
01/4/27(金)
●午前中のつよい春の日射し。近所の、大きな庭のある古い平家建ての家。その庭の真ん中あたりの物干しに布団が干してあって、あたたかい陽を受けて白く眩しい光を放っている。布団の表面には、庭に植えてある木の影が、布団にできた細かいシワにあわせて揺れたような形になって、くっきりと落ちている。重みで軽くしなっている物干し竿。奥に、二台並べて置いてある自転車の金属部分が、庭のなかでそこだけがシャープな感じで、キラキラ輝いている。その脇に、犬のいない犬小屋が、ホコリを被って無造作に放置してある。門から玄関までつづいている飛び石が、そのまわりの赤黒い土との対比で白々と浮き上がって見える。濃い緑の葉のなかに、埋もれるようにして咲いている、ツバキの花の赤。いくつかの赤い塊。内側に巻き込んでゆくような花びら。その家は、引き戸が気持ちよく開けっ放しにしてあるので、表の通りからも家の中が丸見えだ。乾いていて陽の匂いのする風が、家のなかを通り抜けてゆくのだろう。

  吉田修一の『最後の息子』(文藝春秋)を読んだ
01/4/29(日)
●吉田修一の『最後の息子』(文藝春秋)を読んだ。97年に「文學界」の新人賞をとったデビュー作らしい。この、最近芥川賞をとった作家(訂正、『熱帯魚』で芥川賞もらったとばかり思ってたけど、駄目だったみたいだ。)は、名前だけは知っていたけど、大して興味は感じてなかった。昨日、ビデオ屋に行った時に、狙っていたビデオが皆貸し出し中じゃなかったら、その後ぶらっと古本屋に立ち寄ることはなかっただろうし、古本屋で偶然この本に目がいったとしても、ポイントカードのポイントが貯まっていなかったら、購入はしなかっただろう。そういう偶然と気まぐれから、軽い気持ちで読んだ。
とても良い小説だったので驚いた。しっかりした構成、安定した技術、魅力的な登場人物たち、センスを感じさせる語り口。この第1作を読んだだけで、この人が充分に作家としてやっていけるだけのものを持っているということは誰にでも分るだろうし、売り方次第では結構な人気作家にもなれそうな、良質の通俗性もある。「文學界」は良い新人を引き当てたものだ、という感じ。漫画家で言えば、ちょっと多田由美を連想させるような透明さがある。インテリやくざっぽいやさぐれっぷりも、なかなかキマッているし。年齢はぼくより1つ下、阿部和重と同じ齢。へえ、こういう人が同世代にいたんだ、という感じ。とても良い、とても良いのだけど、でも何と言うか、全てが「小説」というフィルターを通して現れた出来事と言うか、小説の内部で納まった出来事であって、それが一瞬も「揺らぐ」感じがないのが、物足りないと言えば、物足りない感じがする。そこら辺が、もう一歩突っ込んだ興味を感じることが出来ないところなのか。
『最後の息子』は、日記を修正液で消しているところをビデオで撮影しているシーンから始まる。そこから回想へ入ってゆくのだが、その回想は書かれた日記によって導かれるのではなくて、ビデオテープによって導かれる。この小説の主な物語=回想は、再生されたビデオの画面という形で語られることになる。ビデオという装置の導入は、たんに今日的な風俗を表すための意匠ではなくて、この小説の構造に深く関わっており、基本的なトーンを決定するものでもある。回想された過去の内部へと一気に入ってゆくのではなくて、あくまで再生された画面を見ているという距離感が、この小説に独自の透明感を与え、かつ、話者であり主人公でもある「ぼく」の醒めた感覚(この「醒めた感じ」はしかし、かなりあやうい均衡によって成り立っているのだが)に明確な形を与えてもいる。小説は、ビデオ装置を媒介とすることで、語る「ぼく」と語られる「ぼく」との間に安定した距離を設定しながらも、要所要所では巧みに記述がビデオ画面から過去そのものの内部へ入り込んだりして、微妙に距離を伸縮、調整しながら物語を語ってゆき、その伸縮を制御する絶妙な運動神経によって、物語を色づけ、独自のトーンをつくりあげている。こういう「距離感覚」のさじ加減は、本当に洗練されていてシャープだと思う。(何箇所か、不用意に子供の頃の思い出を語ってしまうシーンがあるけど、でもそれも「伏線」上必要な事だったりするし。)
ただここで、語る「ぼく」(現在)と、語られる「ぼく」(過去)との距離の伸縮の処理があまりに見事で破綻がないことが、逆に、結局これって上手な「小説」に過ぎないんじゃん、という「嘘くささ」のようなものを感じさせてしまうというのも事実なのだ。「技術」という次元で全てが解決されてしまっている、と言うのか。ここでいきなり阿部和重の『アメリカの夜』と比較してしまったりするのは不当なことかもしれないのだが、語る者と語られる者との距離、そのズレや混乱や分裂による運動性だけで、見事に悲惨で滑稽な「活劇」を成立させてしまっている『アメリカの夜』は、距離のズレや混乱や分裂を決して「小説の技術」の内部だけで処理してしまわない(処理することが出来ない)ということによって、常に何かが揺らぎつづけていて、それがこの小説のスケールの大きさとリアリティにつながっていると思うのだ。
『最後の息子』に導入されているビデオという装置は、たんなる意匠ではなくて、小説の構造やあり方そのものに深くかかわっているものではある。しかしそれは、小説の内部のみに関わっているのであって、現実にあるビデオ装置、あるいはビデオによる映像の感触そのものとは、ほとんど通じ合ってはいないように思える。それはあくまで小説のための技術、小説にのみ奉仕するように機能するものであって、ビデオ装置が導入されてしまったことで、小説そのものが揺らいでしまったり、エクリチュールの質に何らかの変化が起こってしまうというのではないのだ。例えば保坂和志の『プレーンソング』には、いつもビデオカメラを持ち歩いていて、その場を撮影しつづけている人物が登場する。『プレーンソング』においては、この人物が撮影した映像は示されることがないし、『最後の息子』のように、ビデオ装置が小説の構造を立体化することもない。しかし『プレーンソング』に導入されるビデオという装置は、ただたんに1人の人物のキャラクターを特徴づけるための小道具などではない。この人物の持っているビデオカメラによって、小説のリズムやエクリチュールの質に、微妙ではあるが絶対的な影響が与えられてしまう、というようなものなのだ。ビデオという、とりとめもなくいくらでも廻しつづけ、撮りつづけることの出来てしまう装置の導入によって、とりとめのない生活をしている登場人物たちの生活の描写に、ふと底知れないオソロシイものが走り抜ける瞬間が招き寄せられていると思うし、そこまで行かなくても、日常的なものの描写が、カメラの介入によって微妙に変質してしまう様を見ることができるはずなのだ。ラストに位置付けられた、あの素晴らしい海岸のシーンの描写などは、ビデオをもった人物の登場によって準備され、それによって初めて可能になったものなのではないかと思わせる。つまり保坂氏は、明らかに現実にあるホームビデオの映像、その独自の時間の感覚やテクスチャーなどに触れていて、それによって何かしら触発されて文章が書かれていることは間違いない、と思えるような小説になっている。一方、『最後の息子』のビデオ装置は、あくまでも小説のために奉仕するものとしてあり、そこから一歩もはみ出すものがないように思われる。つまり吉田氏は、始めから小説をかなり限定された狭い範囲でのみ考えていて、そのことによって、物語を語る時の、安定性や独自のセンスが保障されているというように、どうしても見えてしまうところがある。

  連休の中休み/絵を描くこと
01/5/1(火)
●連休の中休みで、まともに授業をやってもしょうがないということなのだろうか、近所の中学生たちが、大勢(1クラスというのではなくて、1学年全てという感じ)が出て、公園やその近くでパラパラと散ってしゃがみ込んで写生をしていた。いまどきの中学生が、こんなにおとなしく絵を描くのかなあ、と思うくらいに、皆、結構ちゃんと描いているのだった。確かに、今頃の時期が、公園の植物に若葉が出ていたり花が咲いたりと、最もニュアンスの豊な時期だし、外でしゃがんでいても、暑くもなければ寒くもなくて、こういうことをするには絶好の時期なのだろう。
人が絵を描いていると、単純に自分も描きたくなってウズウズしてしまう。身体とは触発し触発されるものだ、と言ったのはドゥルーズだっけ。でも、よくそこら辺りでスケッチブックやカンバスを広げているおじちゃんやおばちゃんの絵画サークルの人を見掛けても、全然絵なんか描きたくならないし、むしろ絵画なんてつまらないものだ、とうんざりしてしまうことが多いのだけど。多分、ある程度(中途半端に)絵が描ける人は、目の前にあらわれている圧倒的なニュアンスの豊かさに触発されるよりも先に、絵とはこう描くものだ、このような手順を踏んでやれば、この風景をそれらしい絵として封じ込めて纏めることが出来る、と言うことの方が勝ってしまい、その段取りが、圧倒的な現実のニュアンスによって揺るがされることがなく、むしろ現実からの知覚の方を技法に合わせて矯正してしまうからだろう。若者は感性が鋭い、などというのは本当に笑ってしまうような嘘なのだが、それでも子供はものを知らない分だけ、素直に(知らず知らずのうちに)周囲の環境から触発されてしまうものらしくて、近くを歩きながら横目でチラチラと描いてるものを覗いてみると、ぼくの画家としての「描きたい」という単純な動物的本能を刺激してくれるようないい感じものが、結構あるのだった。勿論、このような「新鮮さ」だけでは絵画は到底持ちこたえることが出来ない訳で、絵画には歴史もあるし、社会空間のなかで具体的な他者との関係から生じる「作品」としての意味というのもあるのだ。でも、このような「新鮮」さが根底にないとしたら、そんなものには何の意味もないように思える。(ぼくはここで、何人かの「絶対にあんな風にはなりたくない」作家の作品を、具体的に思い描いているのだった。)
考えてみればぼくはもう10年以上も屋外で写生するなんてことはしていなくて(したい思うことは、しばしばあるのだが)、作品をつくるときは必ずアトリエに「引き蘢る」のだけど、それには一応理由はあって、屋外のような様々なニュアンスが渦巻いていて次々と襲ってくるような場所では、それを受け取る(知覚する)のに精一杯になってしまい、とても描く/つくるという出力/構築の作業にまでは手が回らない、と言うことなのだけど、でもそれはどうも言い訳くさくて、本当は、外で描くなんてまるで「ベレー帽をかぶった画家」みたいで、或いは「阿呆なパフォーマー」みたいでカッコ悪いじゃん、と言うことらしくて、つまりは社会的な自意識の方が、愚直な描きたいという欲望よりも勝ってしまっていると言うことで、こんなことじゃまだまだ駄目だなあ、と思うのだった。

  リヒター/フォトペインティング/ウォーホル
01/5/2(水)
●64年から65年頃の、フォトペインティングを制作している時期のゲルハルト・リヒターのノートから引用。
《人やものをデッサンするときは、プロポーションや正確さ、抽象やデフォルメといったことに意識的になってしまう。写真を描き写せば、そんな意識は遮断される。自分のしていることがわからない。私の仕事は、「レアリスム」よりずっとアンフォルメルに近い。写真には、ある独自の抽象性があって、それをみぬくことはそう簡単ではない。》
《写真は描かれることによって、もはや特定の状況についての伝達ではなくなり、そこで描写されたものは不条理でばかげたものになる。絵画として、それはあるべつの意味、別の情報をもつのだ。》
《おそらく、写真はこんなに完璧な映像なのに、なんとも哀れな存在でしかないことが、私にはいたたまれないので、写真を効果的で目にみえるものにしたくなるし、とにかくつくりたくなるのだ(たとえ、そこでつくられたものが写真に劣るにしても)。そして、つくるとは、私にとって理解できず、思考できず、計画できない行為である。だから、たえず写真を描き写しつづけるのだ。それは、写真の背後にはなにも隠されておらず、写真を描きうつすことしかできないからである。あることがらをあまり支配せず、これほどまでに身を委ねること、それが私を刺激するのだ。》
《もし、私の絵画がもとの写真とは異なっているなら、それは私の意志、造形的意図によるものではなく、技法によるものである。そしてこの技法は、私の意図や影響のおよぶ外にある。なぜなら、モデルや写真や絵画と同じように、この技法そのものが現実だからだ。》
《写真を描きうつすとき、それは仕事のプロセスにすぎないのであって、それが私の世界観を特徴づけているわけではない。つまり、生の現実のかわりにその複製を、セコハンの世界を提示するという意味で、写真を描きうつしているのではないのだ。私が写真を利用するのは、レンブラントがデッサンを、フェルメールがカメラ・オブスクーラを利用したのと同じである。》(『写真論/絵画論』より)
●「あることがらをあまり支配せず、これほどまでに身を委ねること」ができるから、写真をただそのまま描きうつす。このとき、描く主体としてのリヒターは限りなく小さく縮小して、あるイメージを別の場所へと移行させる媒介としての、描く身体としてのリヒター、純粋な画家の身体と化したリヒターがたちあがってくるのだろう。そして、このときほとんど非人間的な描く機械と化したリヒターの身体を貫いているのは、ある種の無機的な「死」の感覚であると思う。ここで言う死とは、生を暴力的に中断させるもの、生きるものに必ず訪れる終点としての死ではなくて、生と死との差異にほとんど意味がなくなってしまうような、生も死もともに包み込んでのっぺりと広がる、荒涼とした場所としての死のことだ。死に重大な意味があるのは生きるものにとってだけであって、例えばもっと客観的な、物理学的な世界においては、ただ物質の結合や離散が果ても無く行われているに過ぎない。そのような即物的な場所という意味での死。生きている有機体である人間の身体のなかに、それとは全く別のシステムである「即物的な死の世界」が駆け抜けてゆくこと。そのような即物的な世界こそが、「モデルや写真や絵画と同じように、この技法そのものが現実だ」と言うときに「現実」と呼ばれているものなのだろう。そしてリヒターのフォトペインティングに昏い輝きを与えているのは、おそらくこのような「即物的な死」の感覚なのであって、決して、西洋絵画のあらゆるテクニックをとっかえひっかえ使って、絵画の不可能性を言い立てるようなシニカルな態度によるものではないし、ましてや、ボケた写真をそのまま描き写したときの曖昧な輪郭が醸し出すある種の柔らかな「感性」などにあるのではない。
●それに近い感覚を、ぼくはウォーホルからも感じる。ウォーホルがモンローやジャッキー、あるいは自動車事故現場の写真などのイメージを、シルクスクリーンで無造作に全く無意味な反復をさせるとき、そこにあらわれてくるのは消費社会の象徴でもポップ・アイコンでもなく、人間にとっての意味や人間の意志に関わりなく存在するシステムの全くクールなあり方でありそのシステムの作動であり、人間が構成する現実の外にあるような現実の姿であるように感じる。(大げさに言えば、それは取り留めのない宇宙的な広がりさえ感じさせる。)それは人間にとっては全く冷たくて苛酷で取りつくシマもない、とてもじゃないけどそんな場所には住めないというような、そんな世界(即物的な死の世界)で、彼の作品は我々が住んでいる場所の薄皮一枚隔たった所にあるそれにふと肌が触れてしまうような恐ろしさがあるのだ。ウォーホルはちっとも「ポップ」な作家ではない。

  ある日、風邪をひく。
1/5/3(木)
●5月とは思えない寒い夜。駅からバスターミナルを越えてゆく立体的な歩道を通って歩いてゆく。銀行の建物の裏側の細い道、しばらくずっと壁が続いているところに、その壁の無表情さを隠すために、小さくて細長いディスプレイ用のショーウインドウがあるのだが、模様替えのためなのか、それともガラスが破壊されたのか、そのガラスの表面がすっぽりと青いビニールシートで被われていた。それでも、ショーウインドウ内部の照明はつけっぱなしのままで、薄暗い細い道に、ビニールシートを通ってその内側から染み出してくる青くて細長い長方形の光が、ぼうっと浮かんでいるのだった。ここ数日で多発している暴力的な事件の報道の影響なのか、その場所に溜まっているような青い光が、何かヤバいものを引き寄せるような光であるようにも見えてしまうのだった。
01/5/4(金)
●明け方、寒くて、身震いで目が醒めた。気付いたら、身体は冷えきっていて、首すじから背中にかけて、身体の芯からくるような重たい震えがはしっていた。夢のなかでは、このツーンと芯から伝わる震えが、肉を金属とか紙とかで鋭くスパッと切ってしまった時の、痛みより前にくる、あのゾゾッとした嫌な感じ(肉の切り口から金属の肌触りを感じるような、と言うか、舌で鋭い刃先をなめるような恐怖と鉄の味の混ざったような嫌な感じ)に変換されていて、夢では右腕の肘から下のところを、その同じ場所を、何度も何度もくり返し鋭い刃物で切られていたように気がする。切られても、嫌な感じだけ残してすぐに傷は消えるから、何度もその同じ場所を切られて、嫌な感じが幾重にも重なって肩凝りのように蓄積されるみたいな感じ。嫌な震え、嫌な目覚め。
01/5/8(火)
●治りかけていると思っていた風邪が案外しぶとい。予定をキャンセルして昼間は寝ていることにした。呼吸をするたびに、肺のあたりに妙な引っ掛かりがあって、ぜいぜいする。しかし、この「ぜいぜいする」という言葉は、風邪の症状をあらわすときに一般的に使われている言葉なのだろうか。子供の頃、風邪をひいて実家の近くにあった掛かり付けの病院へ行くと、犬のような顔をした東北訛りのある医者が、聴診器の先の冷たい金属部分をぼくの胸にあてながら、「ああ、少し、ぜいぜいしてますね」と言っていたので記憶している言葉なのだか、よく考えてみれば、それ以外の場所で聞いた記憶がないし、ぼく自身も使った憶えがないのだった。関係ないけど、ドクターペッパーの味は、子供の頃その病院でもらった、シロップ状の甘い風邪薬の味にそっくりだ。汚い話で申し訳ないのだが、いままでサラサラと流れていたハナミズが、ネバネバと粘つく感じになり、タンが喉の奥に絡むようになると、もう風邪も末期の症状で、もうしばらくすると治るだろう。ぜいぜいする感じというのは、子供の頃は風の初期症状だった気がするのだが、今では、ぜいぜいと咳とが風邪の最末期に出てくる症状で、これが結構しつこく残るのだった。最近では、年齢のせいなのか、風邪の症状が一遍に襲ってくるのではなくて、バラバラになって時間差でやってくるような感じになった。

  行定勲の『ひまわり』をビデオで。
01/5/7(月)
●行定勲の『ひまわり』をビデオで。忙しさも峠を越え、風邪も直りかけているので、ちょっと軽めに映画を観ようと思った。決して褒められるような作品ではないし、かなり恥ずかしい映画だけど、嫌いとは言い切れないところがある。出だしの部分で、同棲中のカップルがモメているシーンで、意味がよく分らない(新しい感覚ってやつなんだろうけど)、固定ショットと手持ちのカメラでの揺れるショットの切り返しなんかがあったりして、これは外れかなあ、と思ったのだが、はっきり外れとも言い切れない。この映画はあらゆる要素が全て中途半端という感じで、一体この監督は何をやりたかったのかイマイチつかみづらい。と言うか、この映画が面白いのかつまらないかも、なかなかつかめない感じなのだ。顔も思い出せないような小学校の同級生が事故死して、その死の前日に何故かその女の子からの留守電メッセージが入っていた。主人公の男は同棲中の女とモメているのだが、とりあえず東京にいる同級生に声をかけて、葬式のために久々に故郷に戻る。顔も思い浮かばずに曖昧だったその死んだ女の子の輪郭が、葬式に集まった複数の人々の記憶によって徐々に浮かびあがってくる。こういう物語を設定する時点でもうかなり危うくて、こんな話はどうしたって甘っちょろいセンチメンタルなものになってしまう訳だし、どうせそうなら、ほとんど大林宣彦並みに徹底して通俗的にやってしまうか、あるいは、死んだ女の子の残した痕跡や複数の人物による記憶をもっとクールに扱い、記憶(過去)と現在の相互浸透やズレを複雑に(理知的に)組織化してゆくかしなくてはならないと思うのだけど、結果としてどっちつかずの中途半端なものになってしまっている。
結局のところ、不在の者を巡るノスタルジックでセンチメンタルでいい気な思い出話に過ぎないとも言えてしまえるこの映画が、それでもどこか面白い所があるとしたら、始めはたんに謎として登場人物や観客を惹き付けていたにすぎない死んでしまった女の子の存在が、映画が進行してゆくにしたがって、「たしかにそこに1人の人間が存在した」と思われるような抵抗感とともに浮かんでくるようになる、という所にあるだろうと思う。それは、かつて同級生だった誰か、ということでも、謎の死をとげた誰か、ということでもなくて、どこにでもいる誰でもあるような誰か、しかし確かにどこかに生きていた誰か、であるような、匿名でありながら、確実に存在する者、なのだ。その人物に対して、ほとんと関心などないにも関わらず、かつて同級生だったという義理だけから葬式に参列した者たちの間に、そこに集まった複数の人物の記憶が交錯することで、かつて同級生だったかどうかなどとは無関係に、「あるひとりの女の存在」がむっくりと立ち上がってくる(構成される)、という感じ。(ただ、映画としては、最終的にはこの女の子の存在を、同級生たちの思い出の中に回収してしまって、美しく終わろうという感じではあるのだが、それを超えて、匿名のある女、の存在が突出する感じも同時にあるのだ。)袴田吉彦が投げたドッヂボールのボールが、麻生久実子の肩の辺りにぶつかって、ボコッという鈍い音をたてて跳ね返る。ぼくとしては、もうそれで充分に全てを語ってしまっていると思えて、その後のヒマワリが咲いているところとか、日蝕とか、余計な装飾はいらないと思うのだが。もしかしたらぼくは、このシーンがあるからというだけの理由で、この、あらゆる意味で「甘い」映画が嫌いになれないのかもしれない。
この映画で麻生久実子が演じたような人物は、勿論それ自身として存在している訳だけど、ただ存在するだけでは誰からも見られることのない、匿名の存在であるのだ。そしてそれは、複数の視点、複数の記憶、複数の痕跡によって、それらが交わった交点において構成されることによって初めて、投げかけられたドッヂボールを跳ね返すような、がっしりとした存在感を得ることができるのだ。ボコッという音とともに跳ね返ったボールの感触を、人はそう簡単に物語や思い出として回収することはできないだろう。あるひとつの固有性とは多分そういうもののことで、だからそれは決して固有名化されないものなのだと思う。

  アレクサンドル・ソクーロフの『ドルチェ-優しく』
01/5/9(水)
●BOX東中野で、アレクサンドル・ソクーロフの『ドルチェ-優しく』。ぼくは必ずしもソクーロフを「好き」ではないのだが、それでも、ソクーロフが恐ろしいほどの動物的な嗅覚をもった天才であることは疑いようのないことだと思える。例えば、この映画の正方形という画面の形態にしても、考えに考え、練りに錬った「狙い」としての正方形でもないし、ある刺激的な「試み」としてやってみたという正方形でもなく、なんというか何の言い訳もなしに「いきなり」正方形な訳で、そしてその「いきなり」が、後からみれば画面が正方形をしていることが特異なことだという事実をふと忘れてしまうくらい、納得のいくものになってしまっている。ソクーロフというのは「映画史」によって支えられなくても映画がつくれてしまうような人なのではないか、映画史はソクーロフを必要としても、ソクーロフは映画史など必要としない、今、たまたま映画と関わってはいるが、映画と関係のない場所にいても、いつどんな状況においても、ソクーロフの鋭敏な嗅覚は、その場所で何か本質的なものを掘り当ててしまい、それをどのような形ででもモノにしてしまえるのではないか、とそんな感じがする。確かにソクーロフの映画には、許し難いと思える程に反動的ところがあって(例えば『精神の声』第一部のあのナレーション、なんなんだあれは!)、観ていてしばしば不快にさえなるのだが、それでも凄いと言わざるを得ないし、最終的にはねじ伏せられるようにして納得させられてしまう。鬱陶しい程の繊細さと、恐ろしい程の図太い力強さ。
スクリーンの両側に黒い余白が出来てしまう正方形の画面は、どこかポラロイドカメラによる写真を思い起こさせるもので、正方形という形態から、いつも以上に画面は静態的で動きがないのだが、しかし、四角く区切られたフレームの内部は、いわゆるアクションとは全く別種の、画面内部の粒子のひとつひとつが常に細かく振動しているような、静かなようでざわざわしているような、不思議な動きでみたされている。複雑な多重露光と現像処理によるのだろうが、画面のトーンは常に微妙なムラを含んでいて、明るさや色調も常に少しづつ変化している。冒頭の、舟の先っぽのソクーロフらしい人物の後ろ姿と、ラスト近くのあの素晴らしい嵐の山のショット以外は、ほとんど全て室内で、一人芝居のように生い立ちを語る島尾ミホの姿(いや、語ってるのではなく、はっきりと演じている)を、ゆっくりゆっくりとショットを重ねながら追ってゆく。島尾ミホの声(正直言うとぼくはこの声をあまり好きではない。好きではないと言うか、どこか安心できないような、なにか神経を常に引っ掻かれるような感じがする声。声と言うより、口調がそうなのかもしれない。演じることに慣れていない人が演じている時の口調。)、廊下がしなる音、畳を足の裏が擦る音など、その場で見えるものが発している音の他に、ノイズと混じった潮騒が強くなったり弱くなったりしながらずっと持続していて、それがふと気がつくといつの間にか雨音に変わっている。(島尾ミホの語りを追い掛けるように、ソクーロフのナレーションが少しズレてかぶさる。)途中何度か、画面が見えない状態(実際には見えているのだが、見ていても見えていない状態)になり、音だけを聞いている感じになる。ふと、画面と音とがほとんど無関係に存在しているのではないかと思えてくる。その時にはっきりと、これはドキュメンタリーではなく、演じられた語りであり、つくられた時間なのだということを確信する。階段を捉えた俯瞰のショット、階段の下から「マヤさん」と声をかける島尾ミホ、そしてゆっくりと上から島尾マヤが降りてくるシーンの素晴らしさに打たれる。階段の手すり越しに2人が抱き合うとき、おそらく不自由であるだろうマヤさんの右足が、座りの良い場所を探して微妙に所在無さげに動く、その些細な動きの表情までもカメラはきちんと捉えている。母と娘は別れて、母は再びひとりになって、娘について語りはじめる。それを覗き見ようとする娘の顔が、ピントがぼけたまま画面の隅をチラチラするときの、不思議なサスペンス、と言うか胸がぎゅっとなるような感情。いつの間にか、雨風の音がとても大きくなっている。そして、あっと驚くしかないような、素晴らしいラスト。正直、島尾ミホの自分語りにうんざりしていなかった訳ではないぼくも、この圧倒的なラストを見せられれば、無条件に納得するしかないのだった。ソクーロフは天才だと言うしかない。ああ、南の島だ、という感じと、そして、場ちがいではあるけど、「雨が降るように人が死ぬ」という言葉を思いだした。
この映画を観ている間に、ぼくがずっと思っていたのは、ぼくの祖母のことだった。ぼくはいわゆるお婆ちゃん子で、子供の頃から、そして今でも実家に帰ったりするとそうなのだが、祖母の昔の苦労した話というのを、それももう何十回何百回とくり返し聞かされた話を、下手をすると何時間にも渡るような話を、聞いてきたのだが、それを聞く時の、苛々するような感情、それはもう何回となく聞かされた話だからというだけでなくて、その話が、表面的にはいかにも優しく謙虚であるように聞こえるが、実は、田舎の人独特の、いつも自分たちが世界の中心で、自分たちの価値観こそが絶対だというような驕った感覚を露にしているものだからなのだが(それを聞かされる方の都合もあまり考えてないし)、そうした苛立たしさと同時に、目の前にいて言葉を発している身体が、もう80年以上生きてきていて、その声、その言葉、その話が、そのような時間をくぐり抜けて来たものであることへの(確実にある強さや深さを持っていることへの)、驚きや感動や敬意のようなものも感じさせるものな訳で、それに加えて、肉親でありぼくの幼年時代の少なくない時間をかなり密着して過ごしてきたことからくる愛情と反発も混じっていて、なんとも複雑で困った感情とともに、結局ずるずると長時間話につき合うことになるのだが、そうした困った感じを、なんとなく落ちつかない感じを、ぼくは島尾ミホ氏の自分語りからもずっと感じていたのだった。
01/5/10(木)
●アンゲロプロスの『永遠と一日』をビデオで観直していて、このとても美しい、何かが崩壊してゆく様を前にして、その崩壊の内部にいながら、崩壊に安易に同調してしまうことに断固として抵抗しているのだけど、その抵抗の素振りそのものが「崩壊」という事実の肯定に他ならず、緩やかに崩壊してゆくその緩やかな速度のなかにしか自らのいる場所をみつけられず、しかしそれでも断固として崩壊には抵抗する、というアイロニカルな頑固さのなかで、ひたすら自らの強度を高めていくような映画を観ていると、このじっくりとふんばりつづける持続の姿勢の強さに打たれながらも、昨日観たソクーロフの『ドルチェ-優しく』が、そのような閉塞感とは全く無関係に、軽々しいフットワークと動物的な素早さによってつくられていることに、改めて気付くのだった。
アンゲロプロスの映画の運動が、いつも重たいものを背負っての重厚で緩慢なものであるのに対して、ソクーロフは、ほとんど運動を停止してしまったかに見えるような淀んだ状態から、まるで猫がヨーイ、ドン、のヨーイの姿勢なしに静止からいきなり運動へと移り変わるように、いきなり動きだして何かをつかみ取ってしまうのだ。(例えば『ドルチェ=優しく』で、ある土地に生きるひとつの身体と、その土地に太古から吹付けているであろう雨風とが、並立していながら、ふいに交錯してしまう瞬間。)何年か前の『カイエ・デュ・シネマ・ジャポン』の座談会で誰かが、ソクーロフは世界に亀裂がはしるのをカメラを向けて待っているから、待っているうちに飽きちゃうんだ、とか、世界から何かが降りてくるのを「受け身」の姿勢で待っているのだ、という発言をしていたと記憶しているのだが、多分それはちょっと違っていて、世界には常に既に亀裂がはしっているのであり、だからこそ映画作家は世界にカメラを向ける訳で、カメラを向けつつ亀裂を探っているソクーロフは、鋭敏な嗅覚である瞬間に亀裂のありかを察知すると、動物的なスピードでそこへ一気に「攻め込んでゆく」のだと思う。(構築的な作家ではなく、狩猟的な作家だとは言えるかも。)ぼくがソクーロフは本当に凄いと思ったのは実は『精神の声』で(ソクーロフが最初に日本に紹介された時は、なんでこんなのが良いのかちっとも分らなかった)、多分ソクーロフはそれ以前にビデオというメディアについてなど大して考えてはいなかったのだと思えるのに、ビデオ装置を手にするやいなや、いきなりあんな作品を実現させてしまうのだ。ソクーロフは、今どき珍しい、笑ってしまうくらい大時代的な「芸術家」ではなくて、現代的なメディア環境にも極めて鋭敏に反応する現代作家なのだ。この鋭敏な感覚こそが刺激的なのだと思う。確かに、「なんだよこいつ」と思ってしまう部分も少なくなくて、ぼくとしても全面的に肯定はできないのだけど。

  セドリック・カーンの『倦怠』をビデオで。
01/5/11(金)
●セドリック・カーンの『倦怠』をビデオで。どう考えても強引で無理のある展開をテンポの良さだけで納得させ、古臭くて特別面白いとも思えない題材を丁寧で冴えた演出で最後までみせ切ってしまうセドリック・カーンの演出家としの力量は大したものだとは思う。ただ、ぼくとしては、決して理知的に処理出来ない、内面化することの出来ない世界の不透明さ理不尽さのようなものが、ひとりの「女」という形象において集約的にあらわれるという話は、ちょっと同意しかねるというか、うんざりするしかないのだ(例えばユスターシュにしてデプレシャンにしても、女は常に複数に割れて登場する。)。でも、その「女」が、いかにも男を惑わす女という感じとは全く異なった、ただ鈍重にどーんと存在する肉の塊のような女で、男の欲望を巧みに挑発したりはぐらかしたりするような人物ではなくて、あらゆる「意味」への欲求を吸い取って無化してしまうような空洞のような塊であり、勿論無垢というのとも違って、徹底して重さも抵抗感もない存在でありながら、肉体的には、重さと抵抗感の塊のような人物であるところが、面白いと言えば面白い訳だけど。よく、女優の「体当たり演技」などというバカな言い方があるけど、文字どおりどーんと体当たりをくらわしてくるようなソフィー・ギルマンという女優の肉のやわらかい重さは、しかし湿った感じやニュアンスといったものを持たずにサラッとしているし、その立ち姿や歩き方は、服を着ていても裸でも、どちらでも素晴らしくて、ドスドスドスと歩くその堂々としたリズムが、セカセカと流れがちなこの映画のなかで際立っている。この映画では女が男に誘惑の表情をみせることなど一度もなくて、だから男はただもう自ら墓穴を掘り、自分で仕掛けた罠に自分で掛かるように、自らドツボにはまって一人で独楽のようにクルクルと回っているだけなのだった。
意味のないところに意味を必死で見つけだそうとし、秘密などないところに秘密の匂いを嗅ぎ付けて、自分勝手にドツボにはまって自滅してゆくインテリ男の神経症的なセカセカした動きのリズムが、この映画を支配するリズムになっている。シャルル・ベルリングは、この男を、中年男の実存的な重さ、粘つくような鈍重さとは無縁に、ほとんどドタバタ喜劇のようにあくまで軽やかな運動性において演じていて(いきなり走ったりするし)、しかしこの運動性は、アメリカのスクリューボール・コメディのような純粋に抽象的なフォルムにまで達することはなく、常に具体的な次元での「苛々」とともにあるもので(この辺がとてもヌーヴェル・ヴァーグっぽい)、だからどこまでも見苦しくみっともない。この落ち着きのなさやみっともなさを見ると、映画好きの人なら誰でもジャン・ピエール・レオーを思いだすと思うけど、レオーの場合は、どこか愛らしさとか、飄々とした味のようなものとともにあると思うのだけど、ここではただもう徹底して見苦しくてみっともないのだった。(みっともなさを、中途半端に人物の魅力で救わないところが、潔くていいのだ。)このみっともなさを具体的にひとつひとつの細部を重ねて表してゆく演出はとても冴えていて素晴らしく、中年の哲学教師が若い女にハマッて自滅してゆくという、聞いただけでうんざりするような話を、ただその冴えた才能だけで面白い映画にすることに成功している。ただ、これだけ素晴らしい演出家が、何故わざわざこんなにつまらない題材を取り上げるのかがぼくなんかにはよく分らないのだ。(ソフィー・ギルマンという凄い女優を発見したからなのだろうか。)よく知らないのだけど、フランスという所は、今でもこのような話がある程度「風刺」とか「挑発」として切実な有効性を持ってしまうような社会なのだろうか。

  阿部和重『ニッポニアニッポン』を読む。
01/5/17(木)
●新潮6月号に載っている阿部和重『ニッポニアニッポン』を読む。阿部和重の小説は、基本的に孤独な人物のモノローグによって出来ている。この小説において、主人公と語り手の間に微妙な距離が設定されているが、それでもこの小説の流れそのものが、主人公の妄想の展開や気分の変化とほとんど同調していることに変わりはない。一方で、粘着質にパラノイアックな妄想をかき立てその妄想を着々と構築的に展開してゆくこの男は、同時に忘れっぽくて矛盾に気付かず、その時々の気分に支配されやすく、単純で直情的ではやとちりで、意志が薄弱でもある。このような主人公の性質が、ほとんどそのまま阿部和重のテキストの表情をかたちづくっていると言ってもいいだろう。勿論、このような性質が作家である阿部氏の人格を反映しているだろうなどというバカなことを言いたいのではない。このような設定の人物が、小説に阿部和重的な運動を実現させるための装置として、ほとんど唯一の装置として、いつも機能している、と言いたいのだ。
孤独な人物の孤独な妄想を延々と書きつづってゆくこの小説は、しかしちっとも閉じられたものにはみえない。それは、孤独な妄想をユーモラスな活劇のように書いてゆく阿部氏独特の筆致のせいもあるだろうが、それだけではなくて、この孤独な少年に孤独な妄想を持つことを許している条件が、決して「内面的」な理由などではなく、少年に仕送りをしつづけることのできる両親の経済的な余裕だとか、閉じこもったままでも様々な情報を得ることを可能にするインターネットによる環境などの、社会的な条件に支えられていることがきちんと書き込まれているからだろう。ほとんど誰にも会わずに一人で生活している少年という存在自体が、既に、周囲から切り離されてある「孤独な魂」などではなく、社会的に構成されたひとつの現象であり、様々な社会的な力に接続し、それらの錯綜によって可能になったひとつの場でもあるのだ。阿部氏の小説の主人公が、ごく自然に読むとそれが人格(内面)を持った一人の人物であるという説得力に乏しく、いかにも狙ってつくられたようなわざとらしさを感じさせるのも、彼(登場人物)のつくりあげる妄想が、一人の特異な存在が築き上げる独創的な創造物などではなくて、そこここに流通している社会的な言説が、たまたま妙な形で一人の人物という場所で切り貼りされたものに過ぎないからだろう。(勿論、だからこそリアルなのだ。)
孤独な妄想、孤独なモノローグのなかに既に、様々な外部が流れ込んでおり、それが社会的な条件によって成立したものであるとしても、それはひとつの吹きだまりのようなものであり、常に流動的に変化しつづける現実とはやはり切り離されているので、それは現実とはスムースに接続されないし、現実とは別の場所で、現実とは別の原理でどんどん展開していってしまう。しかし、阿部氏の小説の主人公たちは、決して現実を無視して妄想の世界に逃げ込んだりはしない。出来得る限り情報を収集しようとするし、得られた情報をもとにして必死に思考を巡らせて認識をつくりあげるし計画もたてる、それにもとづいて、しかるべき一瞬に一撃で世界を変容させてしまうべく、自らを鍛練することも忘れはしない。でも、結果としてそれらは全て、妄想を肥大化させることにしか貢献しない。そして、あっけらかんとした現実は、それらの努力を、何の悪意もなく無表情なままであっさり無駄なものにしてしまう。だから、主人公は悲劇を生きることすら出来ずに、ただ空回りするだけだ。この空回りの瞬間にこそ、一瞬だけ妄想は解かれ、それが世界と接触し、笑いを誘い、世界を肯定することができるのかもしれない。しかしそれによって、世界は少しも変容しはしない。その後も妄想はシャボン玉のように、日々生まれては、解けてゆくだけだ。
このようなことは、『ニッポニアニッポン』に限らずに多くの阿部和重の小説に言えることで、このような状態を描くとき、阿部氏のテキストはとても高い質を獲得することができるのだと思う。しかし、上記のような構えでは、結局無数のドン・キホーテのバリエーションを描くことにしかならないのではないか。勿論、ドン・キホーテはうつくしいし、ドン・キホーテであることは不可避だとすら思う。でも、ぼくが必要としているのは、それとは別種の世界との接触の仕方だと思うのだ。例えば阿部氏の小説でも、『みなごろし』などは、それとは少し違った世界との接触の仕方によって貫かれているように思う。
(阿部氏が「トキ」を題材にしたことの批評性や、律儀に具体的な年月日を書き込んでいることの意味については、ぼくには明確には論じることが出来ないのだった。)
01/5/18(金)
(昨日につづき、『ニッポニアニッポン』について、もう少し。)
●阿部和重の小説は、基本的に「私」と世界の闘争を描いていると言える。その時、「私」は、すでに様々なメディアによって世界に貫かれた、世界によって造形された存在(データベース=インターフェイス的な私?)としてしか描かれないし、「私」の世界への闘いは、結果的に空回りし、失調してしまうしかないとしても、「私」が世界から何かしらの異変を察知し、それを回収すべく、情報を集め、思案を巡らし、世界に対して有効な一撃を加え得る存在となるべく自らを鍛える過程が、小説の多くの部分を構成していることに違いはない。主人公が世界を回復しようという思いの、あるいは欲望の、その「熱さ」(その「熱さ」は、無論常に笑いとともにあるようものなのだが、そしてその笑いこそが最大の魅力であるのたが)が、テキストの持続を(その持続の動機づけを)保障し、必ずしも主人公に感情移入している訳ではない読者にもその「熱さ」はある程度感染し、テキストを読みつづける時の動機にもなるのだ。(後藤明生によって見いだされた、様々な意味で後藤明生的な小説、『アメリカの夜』が後藤氏と決定的に異なるのは、このような「動機の熱さ」であって、後藤氏は、そのような「熱さ」、つまり対立とは徹底して無関係にテキストを構成しようとした。)しかし、「私」対「世界」という図式を採用する限り、「私」が構成する世界は、決して「世界」そのものには届かず、厳密には妄想と区別が出来ないものであり、世界のリアリティは、その世界像(妄想)が破られる地点にしか見いだすことが出来ない。つまり極端なことを言えば、阿部氏の小説には、私と世界(味方と敵)しか存在しないのだ。世界のなかに特権的な対象があり、それを獲得するためのほとんど妄想と区別のつかない計画をたて、世界=敵の顔色を慎重に伺いつつ、鍛練を欠かさずにチャンスを待つ人物の、滑稽な運動性、その悲喜劇。
『ニッポニアニッポン』を読んでいて気になったのは、終盤にちらっと出てくる瀬川文緒という女の子との、佐渡をドライブする短いエピソードだ。緊密に構成されたこの小説のなかで、取ってつけたようにも感じられる緩いエピソードではあるのだが、ここには今までの阿部氏のテキストには存在しなかったもの、世界と、「私」とは別のやり方、別の原理、別の利害で向き合い、それを処理している者=他者との並立、のような事態が、ちらっと現れているのではないだろうかと感じた。この瀬川文緒という女の子は、最初は、主人公にとって世界のなかの特権的な対象であり躓きの石でもある本木桜という存在が回帰したもの=幽霊として登場する。(その部分を読んだ時、ぼくはアンゲロプロスの『ユリシーズの瞳』で、主人公と関係する女を全て同一の女優が演じているのを見た時のように、とてもうんざりしたのだった。)しかし、まるで何度も回帰するトラウマのように登場したその女の子は、次第に、普通の女の子、ただどこにでもいるような、主人公にとって特定の意味に染められていない存在へと変質してゆくのだった。何か特定の意味がある訳ではないが、しかしそこに確かに存在するという不定型の厚みをもった存在。今までの阿部氏の小説に、普通の女の子が、大した役割ももたずに、ただ登場し存在しつづけるという事態が一度でもあっただろうか。2人は全く別の目的、別の思いをもちながらも、一台の軽自動車に並んで乗り込み、観光地を一緒にまわるのだ。極端なことを言うようだけど、ぼくはこの部分を読んでいるとき、この弛緩した佐渡ドライブが、前半の緊密に構成された妄想=物語と同じくらいの長さつづいたら、阿部和重にとって、今までないような特別な、画期的な小説になるのではないか、とちらっと思ったのだった。
阿部氏の小説に対する基本的な疑問は、主人公がもつ妄想と区別のつかない緊密で強度に満ちた世界像も、その世界像をあっけらかんと無化してしまう現実も、共に作家である阿部和重によって構築された(コントロールされた)ものでしかない、ということなのだ。勿論、阿部氏のテキストは、単純には、作家という主体によって完璧に制御されたものとは言えないくらい、めくるめくような雑多な情報が投げ込まれていて、それによってテキストに無数の外への通路が走り、それが阿部氏の小説のリアリティーを支えるものになってもいるだろう。(その「情報」が存在している現実社会の動きを、阿部氏がコントロールすることは出来ない訳だし。)しかしそれらの雑多な情報も、阿部氏の特異な才能によって見事に整理され、雑多な情報の荒れたテクスチャーなども上手く生かしつつ、きっちり阿部和重的な小説へと、「熱い動機」によって中心化された世界へと、編み上げられてしまう。それはとても立派なことではあるのだが、そのテンションの高い立派な構築が、結局いつも「私」と世界との闘争という「落としどころ」に納まってしまうようにみえるのが、ちょっと残念でもあるのだ。
阿部氏の小説を読んでいると、「物語」を語るというのは、結局、情報をどのような順番で示し、それをどこまで示して、どこを示さないか、というさじ加減のことなのだなあ、とつくづく思うのだが、でもそれって情報操作ってことだし、「支配者」の手口じゃん、とかも、思ってしまうのだ。
(いや、基本的には好きなんですけど。ホントに。)


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