たしかにあなたは私をみたわ、
でも、私のいうことは何もきかなかった・・・

たとえばぼくが他人の作品を見るとき、一体そこに何を見ているのだろうか。もしその作品のなかに、ぼくが良いと考えている何かや、共感できるものや、興味をもてる要素だけしか見ていないとしたら、そんなことで本当に何かを見たといえるのだろうか。結局それは、他人の作品の中に自分を写し見ているというだけだ。
しかし、それならそれ以外の何を見ることが可能なのだろう。自分があらかじめ知っていること以外のものを見ることなどできるのだろうか?

もし今、「芸術」という言葉を何のテレも躊躇もなく素朴に信じられるとしたら、その人は相当すごい人か、余程のバカだろう。こんな時代に何かを造ろうとしたら、どうしたって他者からの承認や共感をアテに(それを基準に)して造るしかないだろう。そうでもしなければ、不安で死にたくなってしまう。でも、不安で死にたくなりながら生きることが、そんなに悪いことだろうか。他人にウケなければならないという強迫神経症とともに生きるのと、どちらがマシだといえるのか。

おそらく現代を生きる人にとっては、現実との自然な繋がりは絶たれててしまっている。それぞれの個人の(個別な)行動やはたらきかけと、世界(現実)の変化との間に、どのような直接的な因果関係も見い出せないのだ。目を向ければ見ることができ、手を伸ばせば触れることのできる「現実」を素朴に信じることなどできはしない。
この手が粘土に触れ、その冷たさを感じ、粘土を掴み、捏ねて、物質の抵抗を、肌触りを感じ、この手によって目の前の粘土が確かに変型してゆく、といったリアルな感触をどこまで信じてよいのだろうか?
セザンヌはモネをつよく意識しながらも、モネのような、目による自然との交感、を信じることが出来ず、だから、セザンヌは自然(あるいは絵具や画布)との神秘的な合一ではなく、ひとつひとつはゴミのようなものでしかないかもしれない現実の切れ端を縫い合わせるようにして関係づけ、なんとか世界の一部分を構成しようとするしかなかったのだろう。
このような構成は、当然、セザンヌという「個人」が生きているかぎり、完結する、ということはあり得ないのだし、こうした構成は、必ずしも他者に向けて示されたものではないだろう。(セザンヌ自身にとって必要だった、ということ)
問題なのは、芸術作品の完成、などではなくて、現実から隔てられてしまっている<私>が、現実と関係するために行う思考の持続の方で、それは、だから、必ずしも他者に向けた"表現"という形式をとる必要はない。

絵画を描くことは、完結しない思考を孤独に生きるということであり、絵画を見ることは、他者の<思考=生>を見るということであって、それ意外ではない、と、とりあえずは言い切ってしまおうと思う。

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