不意に事件は起きてしまう。事件が起きたと気づいたときにはもう既に事件は起きてしまった後なのですね。だから事件の起きた瞬間のことは後になると何も憶えてはいない。匿名の群集に何とか紛れ込み、他人からすこしも浮かび上がることのない存在へと、うまいこと成り切ってしまうことができたとと安心してしまうのは、とても危険なことで、実は、誰でもない誰かを粧うなんて、そうそう簡単に出来ることではないと肝に銘じておかなければならないでしょう。いつなんどき、発見され、告発されて、周囲から浮かび上がった異物として、ふいに選別され排除されてしまうかもしれないのですから。全く思いもよらなかった些細な事柄から、自分がたつた今までその一員だった多数の匿名的な視線の生け贄にに祭り上げられてしまう、そんなことは、いつ起こったって何の不思議もないのですから。何ら著しい特徴のないファーストフード店の客の手に、突然、一丁の拳銃が飛び込んでくる、さえない中年の男の前に、突然歳若い魅力的な少女が姿を現す。と、とたんにそれまで大勢の人込みのなかに紛れ込んでいたはずの私が、そのなかから弾き飛ばされ、匿名の視線に包囲されてしまう。まさかこんな風にことが運ぼうとは思いもしませんでした、などと言ったところで既に手後れというものでしょう。私は、組織の秘密活動員であるため、私の勤務する大学でも、何の特徴もなく目立たない一研究者であるようにと細心の注意を払っていましたし、決して際立つことのない人間として、大勢のなかに埋もれて生活することに喜びさえ感じていたのです。しかし、それが、ある日突然、レイという少女に出会い、手許にするりと当然のように拳銃が滑り込んできて、派手な、といっても実はそれほど大したものではなかったのですが、拳銃戦を演じさせられるはめになってしまい、一時的にでも観客たちの視線を集め、群集から弾き出されて浮き上がり、その結果、レイと一緒にその場から逃走せざるを得ない、ということになってしまう、こともあるわけです。
レイと私は迷路のように入り組んで両側の壁が迫ってくるような狭くて息苦しい路地裏を何度も角を曲がつては走り、曲がっては走りを繰り返して、私には自分が今いる位置も向かってる方角も定かではなくなり(この辺りの地理にはかなり詳しいはずなのですが)、前を走るレイから発せられる、汗と体臭とコロンの入り混じった匂いが鼻先を掠めたかと思う間もなく、それが乳児用のミルクのような匂いに変わり、それでもまだ狭く入り組んだ路地を走って、饐えた小便のような臭いのする道から、安物の油の揚げ物の匂いが漂う辺りを曲がり、生ゴミから流れ出ている汁の溜まりを飛び越して洗剤臭のする排水溝沿いをしばらく行くと、急に、ただっ広い空き地、所々にまだらにバラストが敷いてあり、緩やかな起伏があり、バラストのない場所には乾いた赤土が露出していて、砕けたコンクリートの塊が積んであつたりする空き地に出たのでした。レイはその先にある半壊した古い工場あとのような建物を指さし、あそこで休みましょう、と、はあはあ、息を切らせた声で私に言うのでした。
バラスト敷きの拾い空き地を横切って行くと、ここはどうやら昔の工場への引き込み線の跡らしく、錆ついたレールが途切れ途切れで雑草づたいにつづいていました。赤土の部分には瓦礫が散乱し、割れたカラスの破片が地面から垂直に突き出ていたり、さびた鉄条網が無造作に丸めて放置されていたりで、レイは、あしもと、気をつけてね、と言いながら小走りに進み、レイの後について走りながら私は、幼い頃学校の帰り道で偶然に会っただけの女の子となぜか気が合ってしまい、ランドセルを背負ったまま一緒に河原で遊び(ランドセルの脇にぶら下げていた給食袋が動く度に揺れて脇腹や二の腕に当たる)、それから、その子の家までのこのことついて行き、狭い路地の奥の薄暗くて小さな建物が並んでいる場所にあったその家で遅くまで遊んでいて、気がつくともう辺りは真っ暗で、急いで家に帰ろうとしたのだけど道が分らず、泣きながら家になんとか辿り着いた時にはもう随分遅くなっていて・・・・などということを思い出していたのでした。こんな状況でそのようなのんびりした昔のことなど考えているようでは、つくづく私は組織の一員として不的確な人間なのだと言わざるをえないでしょう。全く。
女の子とはその後二度と会うことはありませんでしたし、内気で人見知りする子供だった私がなぜたまたますれ違っただけのような女の子と仲良くなったのかは全く分らないし、そのへんのことはよく憶えていません。だからあれは、私の幼い欲望がつくりだした妄想だったのかもしれません。古くていかにも安っぽいつくりの、歩くと床がぎしぎしと鳴り、引き戸のレールが歪んでいて戸を開けるときにがたがたと音をたてて揺れる、幸福ではないという雰囲気が家全体に染みのように張り付いている家の、あまり陽の差し込まない湿った台所で、背の高い食器入れから背伸びしてリボンシトロンのマークのついたコップをとってくれたときみえた幼く丸い足の裏や、毒々しいジュースの黄色、決して散らかっているわけではないのに雑然としていてまとまりのない印象の家の様子、おそらくそれは、その家にあったものたちに、ある統一した趣味や好みというものが全く感じられなかったからだろうと、今になって思うのですが、それらの事柄は、とてもくっきりと憶えているわけです。
たどたどしい手付きで包丁を使い、リンゴを剥こうとしてざっくりとかなり深く指を切ってしまって、血がだらだら指をつたって掌まで流れているのに、目をぱっちりと見開き、小さく薄い唇を尖らせて、顎をつきだすような格好で、平気、平気、へっちゃらだよう、と言った時の凛とした表情などは今思い出しても、ジーンときてしまいます。
(椅子にのっかって天袋の奥からひっぱり出した古びた救急箱から絆創膏と軟膏を取り出して、傷口に黄土色の軟膏を埋めるように塗り込み、その上から絆創膏を張ったのですが、すぐに、絆創膏のぷつぷつとあいた空気穴から血が滲んでしまう、という状態でした。)
陽が暮れて薄暗くなったことにふと気づいてしまうと、私は、自分が今、どことも知れない場所にいるのだということに対する恐怖が急激に大きく拡がって、その恐怖感から、女の子になにかとても酷いことを言ってしまったような気がするのですが、それがどんな言葉だったのかは思い出すことが出来ません。でも、それからしばらくの間、その言葉に対する罪悪姦で胸がが潰れるような思い出すごしていたような・・・・そんなことを私は、レイの後について空き地を横切りながら、思い出していたのでした・・・。