古谷利裕
世界公園というテーマパークでダンサーをしている主人公の女性が、最近、ロシアからやってきたばかりの同僚の女性ダンサーの楽屋を訪ねる。二人は、言葉は全く通じないものの、互いに親しさを感じはじめている。ロシア人ダンサーは、舞台衣装の上にジャンパーのような上着を羽織っている。主人公のために高いところにある棚から何かを取ろうとして立ち上がり、腕を上へと伸ばした彼女の肩から上着がするっと落ちて、その、決して美しいとは言えない骨ばった背中が露出する。この、骨ばった美しいとは言えない背中が、ロシアに子供を残して北京へやってきて、そして、モンゴルへ嫁いでいって以来一度も会っていない妹にいつか会いに行きたいと口にする、周囲とは言葉も通じないこの女性の、孤立や不安や寄る辺無さを、その存在の感触を、雄弁に語るだろう。
ロシアから中国へやって来て、そしてモンゴルへと向かおうとするこのロシア人ダンサーの存在は、世界の(大陸の)途方もない大きさと、しかし、そこにいる人間が生きることのできる範囲の、極めて制限された小ささとを同時に感じさせる。彼女は、広大な大陸のなかを大きく移動するのだが、おそらくそのどの場所においても、ほぼ似たような環境で生活することが強いられるだろう。そのような意味で彼女は、世界公園という、世界中の名所がミニチュア化されたテーマパークのなかに、その狭い空間に、閉じ込められるようにして生活する主人公たちとたいした違いはない。即物的な意味においては、世界は広大であるが、人間にとっての、自分が生きることのできる(自分が存在することの許される)環境としての世界は、きわめて限定された狭いものでしかない。たとえ、主人公たちにとって世界そのものであるような「世界公園」から抜け出し、主人公が「私の知り合いで乗った人はいない」と言う飛行機に乗って遠くへと飛び立つことが可能だったとしても、だからと言ってロシア人ダンサーが、自分が生きることのできる(囲い込まれた)狭い範囲の外へと飛び出せたというわけではないだろう。
世界の大きさと人間の小ささ。ジャ・ジャンクーの映画からはいつもこのような感触が響いてくる。ジャ・ジャンクーの映画から感じられる閉塞感は、開放的なフレームから雪崩れ込んでくる風景の、そして音の、圧倒的な大きさや広がりといつも同時にある。(『世界』の主人公は服にいつも鈴をつけていて、彼女は常に鈴の音と共に存在しているのだが、この、動くたびにチャラチャラと鳴る耳障りですらある甲高い乾いた金属音は、決して彼女の側にあるのではなく、彼女を囲い込む風景=空間の側にあり、彼女と風景とを残酷に切り離すものとして作用している。)ジャ・ジャンクーの登場人物や物語は、多分に通俗的な「情」によって動いている。そしてその情は、いかにもアジア的なウェットな感傷であふれているだろう。しかしそのような人間の情や感傷は、現実的な社会の動き(お金の流れ)の大きな力のなかで、ほとんど無力に押しつぶされてしまう。ここに現れる「無情感」も、きわめてアジア的であると言えよう。つまり、物語やドラマとしてのみみるならば、ありふれているとさえ言えるかもしれない。しかし、ジャ・ジャンクーの映画が、それなりに胸に切実に迫っては来るものの、結局は通俗的に流れてしまいかねない情の世界というだけでない、ジャ・ジャンクーの映画にしかみられないリアリティをつくりだしているとしたら、それは、登場人物たちが生きて動いている風景=空間の圧倒的に強力な現前によると思われる。つまり、個々の人物たちの生きる情の世界と、それを踏みにじって進行する世界の動きとの対立が、ドラマとして描かれるのではなく、人物と、彼らの住む風景=空間の乖離として、あるいは、人物たちの情の世界と、風景=空間のあまりに(身も蓋もない)即物的な現前との乖離として、視覚的、聴覚的なものの現れによって示されているのだ。ジャ・ジャンクーの登場人物たちは、「世界公園」のような風俗的・人工的な場所でも、(『プラットホーム』での)生まれ故郷の農村の自然のなかでも、風景=空間から決定的に切り離され、そこに居場所をもたない。そしてその情も、(『青の稲妻』のように)せいぜい流行歌のなかでしか存在を許されない。
ところで、最近ヴィム・ヴェンダースの『都会のアリス』を久しぶりにビデオで観たのだが、思いのほか人物の顔のアップの多い映画だと感じた。それはともかく、ヴェンダースのロード・ムービーにおける風景は、その風景のなかを動いてゆく、孤独に彷徨する人物の内面や実存のようなものと切り離せない。それは決して人物の心象風景などではなく、人物とは切り離された「異質なもの」ではあるのだが、その異質性や、風景から立ち上がってくる生々しい表情は、それを観ている人物が孤独であること、人間関係の網の目から転げ落ちてしまっていることよってはじめて「現れる」ものである。つまり、ヴェンダースの登場人物は、人間関係から切り離されることによって環境=空間からはじき出され、そこで自分の身体とは切り離された(もはや「環境」ではなくたんに視聴覚的なものとなった)「風景」と出会う。(ヴェンダースにおいて風景の「異質性」は、生々しさとして現れると同時に、絵はがきのような「うすっぺらさ」としても現れる、両義的なものだ。それは、ポラロイドカメラやテレビというメディアや、車の窓枠というフレームによって、身体から切り離されたものとしてこそ初めてたちあがるような「風景」である。)だからこそ、風景の異質性や生々しさは、人物の孤独や寄る辺無さと「相同なもの」として映画のなかに置かれるのだ。人物の孤独は風景のなかに場所を得るわけでもなく、そこに書き込まれるわけでもないのだが、双方が同時にたちあがることによって相互に照らし合い、結果的に、風景は人物の孤独をも「表現する」ことになるように思う。風景は、人物の内面を表現するためにあるのではなく、風景それ自身としてあり、人物と風景は切り離されているのだが、「切り離されている」ことによってこそ人は風景と出会うので、風景は人物の孤独「も」同時に表現することになる。
だが、ジャ・ジャンクーの『世界』では、風景は人物のあり様を「表現」せず、もっと根本的に切り離されている。切り離されているという言い方は正確ではないかもしれなくて、風景は人物に対して圧倒的に作用し影響を与えるのだが、人物は風景に対して全く何の作用も及ぼすことが出来ない、という感じなのだ。だから風景はたんに圧倒的なものとしてそこにあり、しかしそこで生活する人物をまったく「表現」しない。人物はそのような風景に呑み込まれ、晒されながら、自らの場所をなんとか得るために、「情」による繋がりを求め、そのなかで生きようとする。だからジャ・ジャンクーの人物は常に群れとして存在し、恋人や幼なじみや家族といった、情による関係を強く求める。情による湿ったドラマが、圧倒的な風景のなかで、風景の乾いた暴力的な現前の力に吹き晒されながら展開し、人物と風景とは残酷に切り裂かれたままで共存する。そこから聴こえるかすかなきしみが、(常に群れとなり情による繋がりを求める)人物の(しかし一人一人は孤立した)存在を感じさせるのではないだろうか。
『世界』では、登場人物たちが携帯電話のメールでメッセージをやり取りする場面が、デジタル的なアニメーションによって表現されている。これは興味深いことと思われる。つまり、メールの送受信が行われる空間でのみ、人物と風景との即物的でハードな乖離が消滅し、別のソフトな時空が浮上してくるのだ。携帯メールを可能にするメディア的な環境は、人物の求める情と齟齬なく結びついて、環境と情とが溶け合って一体化した(かのような)時空があらわれる。これは、ハードな現実(風景と情の乖離)を生きる登場人物にとって、現実とは別の「夢」の次元とでも言うべきものを可能にしている。しかしその「夢の次元」を可能にしているメディア的環境(テクノロジー)は、登場人物たちを癒すものであると同時に、囲い込むものでもあるだろう。それは、世界を手軽に体験させると言いつつも、実は人を狭い範囲に囲い込んでしまう「世界公園」と同様の環境であるからだ。