99年の制作ノートから(2)

(メモ)
絵画においてフレームとは、四角く区切られた内側、あるいは内側と外側を分ける境の線のことではない。多くの絵画は、その空間的な境界をフレームだと思って制作されてしまっている。しかし、フレームとは、絵画をどこから始めて、どのように終わらせるか、ということであり、その内部に、どのような時間を含ませるか、ということでもあるはずだ。つまり、フレームは、空間的なものであるだけでなく、時間的なものでもあるのだ。(例えばセザンヌにとってフレームは、決して画布の「きわ」のことではないはずだし、彼は一度だって、画面のきわや大きさから、作品を考えたことはないはずだと思う)
画面を構成することは、空間を構成するだけではなくて、時間を構成することでもある。ぼくが絵画を考えるとき、映画のショットという概念と切り離して考えることは出来ない。それは、視覚的な仕切りとしてのフレームがあるだけでなく、時間の持続をもち、始まりと終わりをもつ。ショットは、たちあがり、持続し、そして途切れる。イメージとはそういうものだと思うし、そういうイメージを成り立たせているものをこそ、フレームと呼ぶはずだろう。(美術家が映画に興味をもつとき、光や構図、映像のテクスチャー等には敏感なのに、しばしば、時間性、あるショットに内在する時間、複数のショットを繋いだときに構成される時間、等に対しては、無感覚であるようにみえるのは何故か)
(メモ)
<八千領般若経>より引用。(不去不来の縁起)「たとえば絃楽器の音が生じるとき、どこから来たのでもなく、消えるときにどこに移るのでもない。原因と条件のすべてによって音は生じる。木の胴により皮ににより絃により棹により駒により撥により人の巧みな技ににより、原因により条件によって絃楽器の音が顕われる。その音は、胴からではなく皮からではなく絃からではなく棹からではなく駒からではなく撥からできなく人の巧みな技からではなく、すべてのあつまるところに音は顕われる。消える音もどこにもゆかない。」
(メモ)
事物との距離は決してゼロにはならない。しかし、距離を操作することは放棄する。(つくっている最中は引いてみない。やりとりしない、やりとり、は素材との「対話」などではなく、素材を思い通りに言い包めようとする、「騙しのテクニック」だ。距離の感覚をもたない人は下品だ。しかし、時にはあえて下品である「 勇気」が必要だろう。
(メモ)
フィッツジェラルド「崩壊」より引用。
「あなたがグランドキャニオンが崩れてゆくのを思っているとき、本当に崩壊しているのは、あなたの精神じゃなくて、実際のグランドキャニオンの方なのよ・・・・」
(メモ)
もし、イメージが穴だらけでスカスカだったとしても、その穴を撫でるようにして埋めてしまっては駄目だ。絵画を一枚のフラットな平面ととして考えてしまうことを拒否すること。
絵画空間を、横へとのび拡がってゆくものとしてみるのできなく、縦からの、視線との、無数の垂直な交わりの束ととして、みる。視線は、決して横へと滑ってはゆかずに、画面を一気に視覚的に捕らえたりもしないで、マシンガンが、瞬く間に壁に無数の穴を穿つ(イーストウッドの「ガントレッド」のバス! )ようなスピード感で、視線は、表面と、何度も何度も、出会い直す、と考えたらどうか。
視線と垂直に交わり、そして僅かにブレる、無数の点の集まりで出来た穴だらけの平面=表面、それによって実現されるイメージ。そう考えれば、それが、でこぼこや、隙間や、歪みや、断絶に満ちたものであってもかまわないはずだ。そうすれぱイメージは、具体的に「もの」でありながらも、宙に浮く。
絵画は、ぴん、と張られた滑らかな平面ではなくて、でこぼこ、ざらざらで、穴だらけで、波打っていて、よじれていて、にもかかわらず、厚みも重さももたずに、表面=イメージでありつづける。いくつもの異なる次元が、ひとつの平面のなかにひしめく。
(メモ)
雨があがった。夕方、まだ暗くなりきっていない広く平ぺったい陸上競技場。薄青い澄んだ空の空気。覆っていた思い雲が切れて散らばり、薄く、切れ切れの雲が何層にも重なって、それぞれが異なる速さで流れている。雲のなかを通過してくる光り。重なりの薄い部分が、複雑に乱反射した不思議な光で、輝いてみえる。光は空から降ってくる。それは、雲のなかにプールされ、様々に屈折して表情を変え、地上へと降りてくる。絵画は空に嫉妬する。
(メモ)
「自閉症」的な清清しさの方へと向かう。それは、常に時流に敏感で周囲を意識していなければいけない、とか、他者に理解してもらえなければ表現の意味などない、とか、みんなに共通の「現代的な課題」に取り組まなければならない、とかいった「神経症的」な思考の形式から自由でいるために、そうするのだ。(無論、生物として、あるいは社会的に"生きてゆく"為には、いつもまわりをみて自分の位置を確かめていなければいけないし、他者に向かって自分の立場を表現し、自分の居るための場所を確保しなければならないのだが、「作品をつくる」というのは、それとは少し違う場所でなされる行為だ。作品を"発表する"、というのはアクチュアルな行為といえるが、制作は、あくまでヴァーチャル-潜在的-な次元で行われる。)
「中島敦と問い」から中島敦「章魚木の下で」より引用。
「書けなければ書けないで、何も無理をして書かなくてもいいではないか。(略)全然書けなくなったり、自己の作品に不安を感じたりするような人迄が、今迄文学をやって来たからというそれだけの事実に引きずられて、無理に書斎に齧りついていることはない。(略)食料や衣料と違って代用品はいらない。出来なければ出来ないで、ほんももの出来る迄待つ他はないとお舞う。」
こんな言葉にクラッときてしまうのはあまりにナイーブに過ぎるだろうか。しかし、「ほんものの出来る迄待つ他はない」というのは素朴なナチュラリズムなどではない。「つくる」ためには「待つ」ことが不可欠だ。本質的な意味で「つくる」ためには時間を、それも計測不能な時間を必要とする、という、つくることに対する、そして時間に対する厳しい倫理のあらわれなのだ、と読むことが出来る。
外をみて、外を向いて「つくる」人は、このような「待つ」時間の重要性を知ることは出来ない。それでは、「この状況の中(内側)の差異」しか生産することが出来ない。「ほんもの」をつくるためには、外面的には、常識的な市民のような涼しい顔で淡々と生活しながらも、それとは全く別種の「待つ」時間を、「外の状況」とは無関係に(自閉的に)内側に隠し、それを含みつつ生きること、が必要だ、と感じる。(でも、待ってる間に死んでしまうかも・・・)
誰もぼくの(あなたの)作品など必要としていないのだから、部屋の外に必死の形相の編集者を待たせている流行作家のようにして「つくる」ことなど、なんの意味もない。「食料や衣料と違って代用品はいらない」1
(ぼくがここで、閉じる、ことや、待つ、ことを強調するのは、多くの人が、開く、ことや、理解される、ことをあまりに安易に強く欲望していて、それに縛られ過ぎているように感じているからで、だとすると、ぼくのこの態度自体が既に「外へ向いて」しまっている、ということになるのだろうか・・・・)
(メモ)
自閉症というのは基本的に先天的な脳の障害で、解剖学的にみると前庭系に問題をもっているそうだ。前庭系というのは、体の位置状態についての情報を視床下部に与える部位で、だから自閉症者は体の平衡をとるのがとても苦手で、特に体を回転させると強い恐怖を感じるという。また、感覚刺激による徐電位の変移を調べると、身体刺激だけで、通常の脳では身体運動をスタンバイするのと類似の波形が出るそうで、つまり、大きな音とか揺らぐ光などを感じるだけで、走りまわったりするのと同じような体験をしているらしい。(過剰で不安定な身体の運動感覚をもっている。)
にもかかわらず自閉症者は、しばしば奇声を発したり、手の平をひらひらさせたり、頭や体を揺り動かしながら、くるくると回転運動を繰り返したりするそうだ。(ぼくが一度だけ接したことのある自閉症者は、おとなしく絵を描いていたかと思うと、いきなり奇声をあげて立ち上がり、くるくると踊りだしたりしていた。)
これは、自閉症者が文字どおり他者に対する関心を持たないので、他者に何かしらのはたらきかけをして、それに他者が反応するのをみて、自己の存在を確認する、という通常の人の「
自己存在を確認するシステム」が駆動しないために、自分自身に対し、困難で、大きな負荷のかかる行為を強いて行い、その際に感じる「抵抗感」をフィードバックして自ら感じることで、自己の存在を確認している、と考えられているそうだ。(自閉症者の自己確認はナルシズムとは違う。ナルシズムとは他者の視線によって自己をみて、自己が他者の欲望に合致していることで満足するわけで、つまり、あらかじめ想像的な他者の視線が自己の視線のなかに組み込まれている。対して、自閉症者は、他者、というものを構成できない。)
自閉症者の内部においては、自分自身の身体の運動感覚や声等が、それらを感じている自分にとって、他者として発見され、できるだけ正確に読み取られ、計測され、評価される、という出来事が生じている。彼らは自らの行為を常に他者として発見しつづけ、自己の内部のみで、自己の存在を確認しつづけている。(果てしない回転運動-デュシャン?)
ざっと、こんな話を読んだとき、ぼくは自分が「作品をつくっている時間」を思い出さないわけにはいかなかった。
(メモ)
薄曇りのせいか真夜中になってもぼんやりとあかるい夜。巡回の為に敷地の外れにある球技場へ行く。12時をまわっている時間なので、勿論そこには誰もいなくて、3月にしてはまだ冷たい風が、ネットに沿って生えている背の高い雑草をサラサラと音をたてて揺らしているる。市街地の灯りを反射して茫洋とと光っている雲、に、照らされて浮かぶ平べったくて広い平面。ぼうっとした不思議な明るさ。芝生は黒々として見え、ところどころ露出している土が妙に赤く浮かんでいて、サビだらけのサッカーゴールが無造作に倒されて置いてある。本来なら人に見られるべきでない光景を、今ぼくは見てしまっているのだ。
周囲に全く人の気配のない夜中の道を歩いていると、踏みつけている砂利の感触まで、昼間のそれよりずっと硬質で、尖っていて、非親和的な感じがする。こんなとき、「世界は人に見られるために存在している訳ではないのだ」という、当然と言えば全く当然のことを強く感じて、自分という存在が限り無く希薄になって、拡散してゆく、"この感じ"。
(メモ)
おそらく21世紀の半ばにでもなれば、脳神経学や認知科学、情報工学等の発展によって、完全にとは言えないまでも、我々が人間固有の特別なものだと信じてきた、心だの愛だの感情だの感動だのといった、そういうものたちのメカニズムが明確なかたちでほぼ解明され、化けの皮が剥がされ、正確で客観的な形式で記述されるようになり、心のうごきや衝動的な行動、あるいは突発的な激情とかといったものでさえ、かなり正確に予想し、制御することまで可能になるだろう。気まぐれや、いいかげんな心変わりといった自分ではランダムで予測不可能なものだと思っていた(ゆるい)ことがらさえも、その根拠を(きっちりと)洗いだされ、かなりの精度で予測されてしまうだろう。
我々が普通コミニュケーションと呼んでいる行為も、今ではそのシステムがかなり明らかにされてきていて、その探究の結果は、マーケティングの技術として使用され、この世界をほぼ支配してしまっているといっても過言ではないだろう。(もしかすると、リアリティーなんてものも、ほぼ、マーケットの技術に還元されてしまうのではないか?)
魂だの愛だの超越性への指向だの、そんな人間的な(神秘的な)特別のものだと考えられてきたことがらが、結局、脳の内部の電気的な信号の伝達と化学的な変化による「効果」でしかないのならば、それらのものごとを外部から、物理的化学的に操作することはたやすいし、(恋愛とか芸術とか信仰なんかより、麻薬の方がよりダイレクトで有効だ、ということになる)もともと、愛も魂も神も、物理学的な法則によって説明可能なものでしかなくなる。
つまり、ヒトという存在は何ら特別な存在ではない、ということ。それはこの宇宙のなかで起こっている、様々な物理的変化や進展の、ごくごく末端の、とるに足らない、ほとんど意味のない切れつ端、砂漠の砂のひと粒のようなものなのだ。
これらの事実が、次第にはっきりしてきた現在においてもなお、人間に対して超越的な意味を付与しようとする人たちに、ぼくは、まともな知性があるとは思えない。(「ナニワ金融道」というマンガに「神がいないっていう事実を徹底的に分かっていないから貧乏するんちゃうか」という、のけぞるようなセリフがある。)
こんな世界に澄む我々には、夢をみることも希望をもつことも許されないし、絶望すら成立しないのではないか。
そういう世界のなかで生きることは果たして不幸なのだろうか。決してニヒリズムに陥ることのない、カラカラに乾いた笑いとともにある絶望(まるで真冬の澄んだ青空のよう名・・・乾燥し晴れわたって底の抜けた・・・)、を最大の悦びと恐怖とをもって受け入れようと思う。そんななかでさえ、堂々と絵を描いてしまうのだし、生きていることを喜ぶのだ。

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