古谷利裕
押井守の作品において、犬、あるいは犬との生活は「リアルさ」と深く関わっている。例えば、実写作品『アヴァロン』では、全体に茶色がかったトーンに統一された画面のなか、主人公アッシュが飼っている犬の食事をつくるシーンに登場する野菜だけが、まるでスーパーリアリズムの絵画のように、妙に鮮明に示されていた。ちょっと『ソイレント・グリーン』を思わせもする薄汚れた未来世界で、人間たちは流動食のような、どうみても美味しそうには見えないものを食べているのだが、アッシュは犬のためにわざわざ高価な「本物の野菜」を買ってきて料理する。しかしこの「本物」であることを示す不自然な鮮明さは、いかにも「これがリアルですよ」というような取って付けたウソ臭さがあり、薄っぺらである。ここで、括弧付きでいかにもという感じで示された「リアルさ」が、どのように位置づけられているのかは、『アヴァロン』という作品を観るだけでは、明確にはされない。
『アヴァロン』では、三つの異なる位相の世界が描かれている。一つは、多くの人が参加している戦闘ゲームが行われている電脳空間である。ここでは、人々はチームを組んで戦闘に加わっているのだが、アッシュは単独で戦う勇者であり、彼女はこのゲーム空間内ではちょっとした有名人である。アッシュは、このゲーム内の戦闘に勝利することで得られる報酬によって経済的に支えられており、いわばこの戦闘は彼女の職業である。(と言うか、このゲーム空間そのものが、資本主義的な市場空間の比喩となっている。)二つめは、生身の彼女が犬と暮らす現実の空間であり、この現実空間の「現実性」(ゲーム空間との違い)は、主に汚れた感じや寂れた感じによって表現されている。アッシュはここでは犬と暮らす、地味な一人の女性である。そして三つめが、噂でささやかれる電脳ゲームの未知のステージで、そこに踏み込んだらもう二度と「現実」には帰ってくることが出来なくなってしまうかもしれないという場所である。
一つめの世界と二つめの世界とは、日常的に行き来が可能であり、ゲーム空間はアッシュにとって職場でもあるのだから、これは現実上の二つのレイヤーであり、その違いは、例えばプロスポーツのスタープレイヤーのスタジアム内の華々しい世界と、その孤独な私生活というくらいの違いしかない。電脳空間は、人々が、自らがそこから生み出された自然環境とは別に、テクノロジーと共同性によってつくりあげたもう一つの世界、いわば(殺し合いという形での)象徴的な交換の行われる純粋に象徴的な次元と言える。つまり『アヴァロン』という作品の基本的な世界の設定は、複数のレイヤー(現実/電脳=象徴)を行き来することの出来る「こちら側」の世界と、一度踏み込んだら戻ってこれなくなってしまうかもしれない一元化された「あちら側」(電脳の果ての向こう側)の世界、によって成り立っている。
複数のレイヤーの混在する「こちら側」の世界から、一度踏み越えると二度とは戻ってこられない「向こう側」へと行ってしまうという点で、『アヴァロン』のアッシュも、『GHOST IN THE SHELL 攻殻機動隊』や『イノセンス』の草薙素子も同じ構図に収まってしまう。こちら側の世界が、不透明で混濁した、つまり無数の瘤のような固有性やいくつもの異なる次元が絡み合いこんがらがったものであるのに対し、向こう側の世界とは、押井氏の好む《世界は情報の流れであり「私」は均一なマトリックスの上の結節点に過ぎない》というような世界観がそのまま実現しているような世界、つまり、歴史も固有性も様々な次元も、全て膨大な情報の流れへと一元化されて消失する、冥界のようなイメージであろう。ここで、アッシュや草薙素子を「向こう側」から誘ってくるのが「男性(異性)」であることの意味は無視できない。(『GHOST IN THE SHELL 攻殻機動隊』の人形遣いが「男性」であるのかは微妙だが、少なくとも「男性の声」によって表現されている。)つまり「向こう側」がたんに固有性が消失する非人称的な情報の流れ=マトリックスとして捉えられているのではなく、本来他者である男と女が完全に合一出来るような、プラトニックなユートピア、存在が溶け合う原初的な海のようなイメージが重ねられていることは明らかだろう。(『アヴァロン』では、成功しているとは思えないにしろ「向こう側」の世界像にひと捻りが加えられているのだが、「広大なネット空間」の比喩として、無数の光が明滅する都市の俯瞰ショットが示されて終わる『『GHOST IN THE SHELL 攻殻機動隊』』にはあきらかにそのような傾向がある。)そして、「女」が冥界からの声に誘われて「向こう側」へ旅立った後、こちら側には「男」が一人で残される。
『イノセンス』とは、こちら側に残された男(「女」が存在しなくなり、空虚でしかなくなった「こちら側」で生きる男)、バトーの物語だ。そして押井守において、こちら側とは「犬」のいる世界のことなのだ。(『アヴァロン』で、アッシュが向こう側へと渡ることを決意したとたんに、犬が消えてしまったことを想起されたい。)では、人をこちら側の世界へと結びつける、犬の存在、あるいは犬との生活とは、どのようなものなのだろうか。
それは、犬という動物の生々しさやリアルな存在感によって、半ばサイボーグと化したバトーが、人間としての自らの固有な身体の存在(つまり情報化に抗するものとしての物質的な実在)の残り香のようなものに結びつけられるということとは、少し異なる。『アヴァロン』のアッシュも『イノセンス』のバトーも、異性としても、仕事上のパートナーとしても特別な存在であった者に置き去りにされた人物であり、こちら側の世界には「愛=意味」があり得ないというような生を生きる者である。そのような孤独でニヒリスティックな人物の傍らにこそ、犬という形象があらわれる。だから端的に言って犬とは「幻」に過ぎず、それは、ここには不在である愛する者の眼差しを代行する存在に過ぎない。ただ、そのような幻としての眼差しを傍らに置くことによって、孤独な人物がかろうじてこちら側にとどまることが出来るのだ。限りなく意味を失ってモノクロームと化す世界のなかの、限りなく意味を失った私の行為(生)を引き受け、そこに最低限のわずかな意味や彩りを与えてくれる他者の眼差しとして、犬という形象が浮かび上がる。バトーは犬を愛し、愛することでその「眼差し」を幻の他者として立ち上げ、そこに向かって、それを支えにして、世界に僅かばかりの意味を付与することが出来る。バトーは、犬という形象を傍らに招き寄せることで、かろうじて自分を保ち、(草薙素子が不在の)こちら側の世界の関係の網の目の内側に着地することが出来ている。
『イノセンス』には、『アヴァロン』や『GHOST IN THE SHELL 攻殻機動隊』とは異なる「人形」という主題が導入されている。人が人形に魅了されるのは、それが人に似ているのにも関わらず、明らかに人ではないからだろう。人形にはまるで人間のように「目」があるのだが、それは決して私を見ていない(にも関わらず見ているとしか思えない)。犬は生物であるから、その目は何かを認識し、それに反応して行動する。性的な愛玩物としてロボット化された人形もまた、何かを認識し、それに反応して動くという点では同じかもしれない。しかし、犬はあくまで生物として自分のために(利己的に)行動する(存在する)が、人形はその所有者を満足させるために(人間の欲望に沿って)少女であるかのように擬態する。(例え我が侭に振る舞うとしても、それは「我が侭に振る舞って欲しい」という所有者の欲望を反映したものに過ぎない。)犬の(人間にとっての)他者性は、その利己的な性質によって確保されるのだが、人形の他者性は、それが似姿であること(本物そっくりであっても本物ではないこと、あるいは、もともと「ある」ものではなく、「似せてつくられた」ものであること)の効果によってあらわれる。犬は利己的で充実した幻影であるが、人形は純粋で空虚な幻影=イメージである。押井氏自身がどのように考え、どのような発言をしているのかは知らないが、『イノセンス』はこのような犬と人形の微妙だが決定的な差異をめぐって展開されているように思う。つまり、愛=意味を失った孤独な「私」にとって、犬は、こちら側にとどまるための伴侶(他者の眼差しの代替物)たり得るが、人形はそうではない、と。
だが、少女の脳がコピーされ人形はもはや人形=イメージとは言えず、利己的な機械=生物とかわらないのではないだろうか。だからこそ、「タスケテ」と叫び人間に「否」を突きつけるのではないか。しかし、「タスケテ」というメッセージを実際に発しているのは、囚われている少女であろう。この時、人形は「利己的な機械」ではなく、メッセージを運ぶメディアとなっている。だからこそバトーは、メッセージの伝達経路をたどって少女にまで辿り着くのだ。つまり人形はこの時、メッセージの乗り物に過ぎない。(『イノセンス』では『A.I』とは違って、オリジナルとコピーの違いははっきりしている。)
少女にまで辿り着いたバトーの、唐突で理不尽な怒りは観客をたじろがせる。バトーは助けを求めた少女に対して、お前のために犠牲になる人形たちのことを考えなかったのか、という怒りをぶつけるのだ。このような理不尽な怒りは、ここでバトーが、犬とも人形とも異なる、極めつけの利己的な存在(少女=ワガママなクソガキ)としての他者にふいに突き当たってしまって、うろたえたことによって生じたのだろう。おそらくバトーは、「タスケテ」というメッセージが、純粋なイメージとしての人形自身から、自然に発生したものであって欲しいと、どこかで期待していたのではないだろうか。そのようなバトーのロマンチックで淡い夢は、生身の少女=ワガママなクソガキという他者によってあっけなく破壊されてしまう。
ラスト近く、バトーが人形の視線を見返すような切り返しがみられる。しかしここでバトーが見ている(そしてバトーを見ている)眼差しは人形のものではなく、それを持っているトグサの娘の眼差しなのだと解釈するのが自然だろう。しかしバトーはトグサの娘の目を直接に見返すことはなく、ただ人形を媒介としてそれを見返すことで、その視線を感じることしか出来ない。バトーとはそのような人物であり、『イノセンス』は、そのような人物のこちら側の世界での生のあり様を描いているのだと思う。