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偽日記(にせにっき)

99'11/5から


昔、ぼくがまだ中学生だった頃だと思うけど、荒木経惟が「女校生・偽日記」という映画をつくった。「独占! 大人の時間」とか、そんな風な、子供の見てはいけない番組で、荒木氏がその映画について喋っていたのを憶えている。ぼくは、隠れてこそこそとその番組を見てた。まだ、テレビが一人に一台という時代じゃなかったのだ。

その映画を実際に観たことはないし、観たいとも思わないけど、「偽日記」という言葉はずっと頭の隅にのこっていた。なんとなく気になる言葉だった。

「偽日記」という言葉に、特別に意味があるわけじゃないけど、まあ、必ずしも本当の事だけを書いているわけではない、といった程度にとってください。でも、日記ってみんなそうかも。


●展覧会のお知らせ●
「組立」永瀬恭一×古谷利裕展 (
「組立 paint/note reallink」)
会期:2008年6月16日(月)〜29日(日)会期中無休
会場・共催:masuii R.D.R gallery (
HP地図)
時間:11:00am〜19:30pm
フリーペーパー「組立」を会場内で会期中のみ発行。執筆者:永瀬恭一・古谷利裕 他(未定)


「組立」対話企画・磯崎憲一郎×古谷利裕
-日時:2008年6月21日(土)19:30〜21:00
-場所:「組立」会場 masuii R.D.R
-定員30名(¥500円)
-要事前予約
--★予約開始は4月28日(月)からメールにて受付
--★都合により開催日が6月28日(土)に変更になる可能性があります。
-コーディネート:永瀬恭一(詳細は
http://d.hatena.ne.jp/nagase001/)


アトリエ風景(こんな感じの場所で制作しています。というか生活もしています。)

 古谷利裕ドローイングス2006・展(6月14日〜7月16)/@A−things(東京)
の画像が観られます。
画像画像2画像3画像4(はてなフォトライフ)

(2005年の、かわさきIBM市民文化ギャラリーでの展覧会の図録を配付しています。もし、興味はある方がいらっしゃったら、
メールで住所を教えていただければ、お送りします。)



08/05/30(金)
●本のためのゲラの直しをして、書評のための本を読んで、「組立」展で配布するフリーペーパーのための原稿を書いて、一日が終わる。とにかく、頭を「書く」モードにしてする仕事はここ二、三日ちゅうに終わらせて、そのあと切り替えて、「読む」モードでやるべき仕事がまだ、ごっそり半分残っている。むしろそっちの方が大変。
●いまおかしんじ『おじさん天国』をDVDで。改めて観直しても、やはりすごい傑作だと思った。(強弁であることを承知の上で、)ぼくが知っている限りで、Jホラーの最高傑作ではないかと。しかも、こんなに幸福なホラーがあり得るのかと思うほどに幸福な映画。この、ゆるゆるの幸福感こそが、死への抵抗であり、呪い(運命)の解除であり、超越性への担保となる。
世界のなかにある激しい振動-振幅(愛/憎、快楽/苦痛、生/死)の徴候であるとともに、それをそこに封印するためのおまじないでもあるかのような、苛烈さとゆるゆるさの境に浮かび上がる、女の子の背中に赤いマジックインキで書かれた「高山たかし」という文字(だからそれは、風呂でいくら洗っても消えないのだ)。この文字による封印で可能になった、微温的な密着感のなかで互いを適当に許し合うゆるゆるな世界では、夢と現実とが自然につながり、生と死との境目さえも消えてしまうほどに幸福だ。(幸福なのは映画を観ている観客であって、この映画のなかで、世界の苛烈さを一手に引き受けさせられている「おじさん」は実はあまり幸福でないかも知れないのだが、しかしおじさんには、彼の性交の要求を適当な感じで受け入れてくれる多数の女性が存在するし、働かないおじさんに居場所を提供してくれる若いカップルの友人もいて、そのカップルのおかげで最後にはちゃんと地獄から生還できるので、やはり幸福なのだ。)勿論これは完全な幻想の世界ではあるのだが。
あと、車のなかでの性交シーンを撮らせたら、いまおかしんじは世界で一番上手いんじゃないかと思った。(『たまもの』でもそう思った。)

08/05/29(木)
●あとがきを除いて、本のための原稿はとりあえず全部できた。最後の原稿をメールで送信する。順調にいけば、一ヶ月後には店頭に並ぶはず(まだこの先いろいろあって、ほっとするには早過ぎるのだが)。
まだ具体的には書かないけど、タイトルは、ぼくが最初に考えていた(そうしたいと思っていた)のとは少しちがって、この本に収録されるリンチ論のタイトルが、そのまま本のタイトルになる予定。装丁は、「この人に是非」と思っていた人に引き受けてもらえたようなので、まず間違いはないと思う。値段は、最初は二千円前後くらいと想定していたのだけど、ぼくの悪いクセで原稿を長く書き過ぎたせいで、もうちょっと高くなるみたいだ(でも三千円よりは下)。
本で取り上げている作品で、一番あたらしいのは、つい12日前に観た中野成樹の『Zoo Zoo Scene(ずうずうしい)』で、一番古いのは多分、15世紀のレオナルド・ダ・ヴィンチ。1400年代から今月まで、トスカーナ地方から野毛山まで。この、550年くらいの時間の幅だけでも、ちょっとすごいんじゃないかと...。(まあ、レオナルドだけ飛び抜けて古くて、あとはだいたい二十世紀以降なのだが。)
全体の構成は、1.イメージをめぐって、2.絵画をめぐって、3.男の子、女の子の方へ、となっている。「3」だけ浮いているというか、取って付けたような感じかも知れないけど、これがないと、何と言うかフェアじゃない気がする。ぼくにとって、リンチを観ること、マティスを観ることと、『ウテナ』や『フリクリ』を観ることは密接に繋がっている。本では、いろいろなジャンルの作品が雑多に取り上げられてはいるけど、全部繋がっているというか、結局同じことを言っているというのか...。
●鶴田法男『ドリームクルーズ』をDVDで。やはり、鶴田法男のホラーは、感情のホラーで、世界の自律的な運動(呪い)に対して、愛(感情)の力が強く作用する(余地がある)。あらかじめ世界に書き込まれている「呪い」が全てで、愛が書き込まれるスペースがまったくない高橋洋や、世界の自律的運動の進行が最も優先される黒沢清とは異なっている。
愛の作動が期待されているということは、未来が期待されているということでもあって、鶴田法男の映画には、だから未来へとのびてゆく時間がある。ひたすら構造の反復である高橋洋の映画には、未来という時間(未来という感情)がそもそもない。黒沢清にはおそらく、世界の自律的運動が、運動として自らを展開するための余白としての、貧しい未来がある。
おかしくなる前の、普段の状態での石橋凌の怖さがもうちょっと出せるてると、もっとずっと面白かっただろうと思う。普通の場面の描写での、三角関係のあり様の緊張感が足りないと思った。あと、この映画では、鶴田法男が『ヌーヴェルバーグ』(ゴダール)をやっている、という楽しみもある。

08/05/28(水)
●ぼくは計画をたてない。(狙ったものは必ず「外す」自信がある。)きちんとした計画があると、その計画のプレッシャーに負けてしまうからだ。住宅ローンとか組む人ってすごいと思う。ぼくだったら、三十年間ずっとローンを支払いつづけなきゃいけないと思った時点で(その三十年という時間のプレッシャーに負けて)怖くなって失踪してしまうだろう。ぼくだって、毎月家賃を支払っている(支払いつづける)のだから、(金額の大きさはちがっても)結果としてやってることは変わらないのだが、三十年先の未来から現在が規定されていることと、とりあえず今月の家賃はなんとか払えた、と、その都度月ごとに思うこととは全然違う。
絵を描く時も、それを完成させなきゃいけないと思うと、それだけで気が重くなって手が入らなくなってしまう。だから、とりあえず、描き始められるに足りるリアリティ(手がかり)が得られたらはじめて、つづけられるに足りるリアリティが持続する限りつづけて、もう、これはこれでいいんじゃないかと思えたところでやめる。それ以外のやり方を知らない。
この日記だって、はじめた時はなんとなくはじめて、たまたま今までつづいているだけで、はじめから、十年つづけることを目標にしよう、とか思っていたら、一週間でやめていただろう。目標なんてたてると、目標に支配されてしまって(というか、目標の支配からわけもなく逃げたくなってしまって)ろくなことにならない。(少なくともぼくの場合は。)完璧な完成系をイメージして、そこに向けて一歩一歩近づくべく努力する、とか、ぼくには思いもよらない。
でも、こういうやり方だと、複数のことを同時に進行しなければならなくなると、簡単に脳の容量が足りなくなって、いっぱいいっぱいになってしまう。今がまさにそれだ。記憶と、場当たり的な思いつき(結局ぼくは、場当たり的な思いつきと、その行為の反復による蓄積-記憶-経験しか信用していないみたいだ)でやっていると、処理しなければならない情報の量が増大した時に、「すっかり忘れていること(意識から落ちていること)」がいろいろと出てきそうで怖い。

08/05/27(火)
●朝起きて、すこし原稿を書いて、昼前に、郵便物を出すためと、レンタルのDVDを返すために外出する。するとすごく天気がよくて、湿気も適度で、今年はじめての五月らしい陽気なんじゃないかという陽気で(来週くらいから梅雨入りらしいので、もしかすると今年で唯一の五月らしい陽気で)、そのままふらふらと散歩する。そんな余裕もないのだが、しかし、このような陽気のなかでの散歩は、あらゆる用事に優先されるべきだ。
河原を歩くと、今日はもう、光も空気も、木々の緑や雑草も、すべて完璧にすばらしくて、今日の散歩の幸福と興奮の記憶だけで、来年の五月までの一年間をのりきることが出来るのじゃないかとさえ思えた。
それにしても、強い陽光のもとで、濃い緑の葉をびっしりとつけた枝や、みっしりと勢い良く繁る雑草が、風でゆらゆらと揺られている光景を見ることは、何故こんなにも興奮させられるのだろうか。ぼくにとって緑とは、癒しとかではなく、まさにアドレナリン出まくりの興奮状態を招くものなのだ。もしかすると、ぼくにとって絵を描くということは、このような、木々の緑が風に揺さぶられているところを見る時の興奮を再現させるという以外のことではないんじゃないかとさえ、時々思う。いや、そう言い切ってしまうことにはさすがに躊躇があるのだが、そんな予感がしなくもない。
●あまりに興奮し過ぎたので、一時間くらいの散歩でぐったり疲れてしまう。帰って少し昼寝して、午後はずっと喫茶店で原稿。ホラー映画論、書けたっぽい。

08/05/26(月)
●朝目覚めて、コーヒーをいれて飲みながらしばらくぼーっとする。その後原稿を書く。昼前に、散歩がてら、一駅分歩いて用事を済ませ、帰りに都まんじゅうを買って、歩きながら食べる。五月とは思えない、じっとりと湿った空気。部屋に戻って、一時間くらい昼寝した後、ノートパソコンを持って喫茶店に行き、原稿を書く。夕方、帰るついでに買物をして、部屋で夕食と一緒にワインを飲んで、すぐに寝る。変な夢をみる。就職した会社が、勤めはじめて三日くらいで倒産して、明日からこなくていいと言われ、身の回りを片付けた後、同じ部署の人たちと打ち上げみたいに飲みにゆく。アルバイト以外で働いたことがなく、そんな職場っぽい経験など一切ないのに。三時間くらいで起きて、夜中から朝方まで、また原稿を書く予定。この日記はその合間に書いている。
●それでも、そんななか『電脳コイル』24話〜26話をDVDで観た。(以下、ネタバレ。)
物語というものが何かしらの形で着地しなければならない運命をもっている以上(着地しなければ「向こう側」に置き去りにされてしまう以上)、結局、こういう風に終わるしかないのかなあ、と思った。
絶妙なバランス感覚によって保たれたテンションは最後まで持続するし、とても賢明な決着のつけかただとは思う。ただ、『電脳コイル』の空間のリアリティを支えることの一つに、それが内側へ向おうとする方向をもつと、いつの間にか外側へつながってしまい、逆に、外側へ向っていこうとすると、いつの間にか内側へと入り込んでいる、という構造があると思うのだけど、最後になって、やや内向きになり過ぎているように思った。
間交差点からつながる保存された古い空間が、イサコ一人の心を癒すためにつくられた場所だったり、その空間が維持されている理由が、猫目の父への思い(メガマスへの復讐)だったりするのは、いままですっと観て来た末に、そこに着地しちゃうのか、と、ディック的な時空の歪みがいきなりエヴァンゲリオンになってしまったみたいな落胆を感じた。(実際、イサコとミチコさんが一緒にいる場面など、ほとんどエヴァになってしまっている。)それに、ヤサコとイサコが一心同体みたいになるところとか、ああ、こうなっちゃうのか、とも思った。もうちょっと、開いたまま終わるという感じにはできなかったのかなあ、と。(と、文句は言うものの、観ながらけっこう泣いてました。あと、ヤサコを包み込んで空を飛ぶサッチーに、おお、と思った。)
とはいえ、最後には、やはりイサコはイサコなのだというところをちゃんと見せて終わるバランス感覚は、さすがに大したものだと思った。
●全体としては、画期的とも言える、すごく面白いアニメだった。
●個人的にいちばんリアルだったのは、古い空間にいるヤサコが自分の記憶を見るという場面で、子供の頃のヤサコの道案内をするヌルが、ヤサコのおじいさんの姿になって、ヤサコが、あ、おじいちゃん、でも、おじいちゃん死んだんだよ、と言うと、そうじゃ、わしは死んだんじゃった、忘れとった、と答える場面。
ぼくは、祖父が亡くなって長い間(十年以上は)何度も繰り返し見つづけた夢があって、それは、(既に取り壊されてない)実家で夜中に目覚めてトイレに行くと(実家には、普通の和式のとは別の個室に、男性用の小便器があった)、そこに死んだ祖父の死体が立っていて(幽霊ではなく、実際の死体)、タバコを吸っているのだった(晩年の祖父は医者からタバコを禁じられていて、トイレで隠れて吸っていたのだが、じつは家族は皆吸っているのを知っていて黙認していたのだった)。ぼくは、ああ、おじいちゃんはまだ死んだことに気づいてなくて、また出て来ちゃったんだ、と思い、おばあちゃんが見たら驚くから、もう出てこないように、おじいちゃんは死んだのだからもう出て来るな、とちゃんと言わなければいけないと思うのだが、どうしてもそれを言い出せなくて、にたっと笑って(タバコを吸っているという事実を)おばあちゃんには内緒だぞ、と言う祖父に、ああ、分かってるよ、としか言えないのだった。

08/05/25(日)
●岡崎論につづいて、もう一本の原稿も書けた。これで、本の絵画に関する章の原稿はそろった。あと、ホラー映画についてと、ある小説家について(別に問題ないと思うので書くけど、大道珠貴について)の原稿を書いて、あとがきみたいなやつを書くと、本の原稿はすべて揃うことになる。それを今月中にやる。本当の出来るのだろうかとも思うけど、「本当に出来るの?」と考えるとびびって手がとまるので、結果を先取りせず、とにかくやる。ただ、やる。
でも、それが今月中に出来たとして、来月はさらにハードになることが予想される。これも考えると怖いので考えないで、今やることを、ただやる。
きっと七月になったら何もすることがなくなる。それを夢見て今やることをやる。でも、することがなくなると、すぐにお金もなくなる。
●頭が興奮していて、寝ていても夢ばかりみる。どれもがちゃがちゃと忙しない夢で、面白いのだが、寝た気がしない。頻繁に金縛りにあう。いないはずの誰かに、後ろから抱きつかれて、ぎゅっと絞めつけられる。その時はすごく怖いが、解かれるとすぐに恐怖を忘れる。時々、頭のなかで何かがどーんとはじけたような衝撃がはしり、それで目覚める。
(十代の頃は頻繁に金縛りにあったが、二十歳過ぎてほとんどなくなった。最近それが復活してきているのは、厄年になって、十代の頃と同じくらい、身体の中味が大きく変化しているのだろうか。そういえば、古井由吉「白暗淵」に、40歳になった頃から、何の理由もなく体重が7キロほど減った、という話があった。)

08/05/24(土)
●岡崎論、なんかできたっぽい。まだ推敲していろいろ修正する必要はあるだろうけど、なんとか最後まではいけた。でもほっとしている余裕はなく、すぐ次をやりはじめる、はず。
●手で字を書くという機会がめっきりなくなって、最近、壊滅的なまでに字が書けない。今日、アパートの契約の更新に不動産屋まで行ったのだが、ぼくの場合連帯保証人が妹で、続柄の欄に「妹」と書き込もうとして、すんなりと字がでてこないので焦った。(でも、来月から家賃が五千円安くなる。)
●散歩の途中、大きな公園のなかにある野球場裏から駐車場へと抜けるあたりで小雨に降られる。何故か、散歩の途中でここを通る時に、雨に降られる確率がすごく高い気がする。
フランケンズのブログを読んでいると、次にやる「夜明け前後」(サローヤン「おーい、救けてくれ!」)も面白そうな感じで、観に行きたいのだけど、6月13日から16日って、展覧会の直前で、しかも今抱えている仕事のいくつかの締め切りとも重なって、かなり無理っぽい。時期がもう少し前後にズレていたら、絶対観に行くのに。

08/05/23(金)
●昨日の日記を書いた後、岡崎論をもう一度読み返して、思い切って構成をがらっと変えることにした。書いたものを七割くらいは残しつつ、着地点だと思っていたところを出発点にして、議論の順番をがらっと変えてみたら、先に進めそうな感じになった。そこまでで頭がどんよりして限界だったので寝た。
●朝起きて、前の晩に構成を変えた原稿をあらためて読んで、何とかこのままいけそうだということを再度確認して、川村記念美術館へ出掛ける。
●佐倉周辺の水田は、前に14日に来た時より随分と苗が育っていて、水かさは引いていて、前は水面という感じだったのが、今は黄緑という感じで、普通に田んぼっぽくなっていた。
●ただ、色を観るというだけのことに、何故これだけ興奮するのか。全身の細胞が振動する感じだ。マティスとボナールは勿論だけど、ぼくにとってモーリス・ルイスがとても重要な画家であることを、改めて思い知った。ルイスの絵は、言ってみれば、ただ絵の具が綿布に染み込んでいるというだけの絵なのだが、粘度の高い絵の具がどろっと流れながら布に染み込むことで、どこにも位置を持たない(綿布でも絵の具でもないその隙間に)「色彩そのもの」が立ち上がる。予備校の頃に習っていた講師の人がルイスの絵について、「絵はきれいなだけじゃダメだけど、ここまできれいだったらそれだけで充分だよよね」と言っていたのを思い出す。
それにしても、ルイスの色感というのは、他にちょっと例がないような不思議なものだ。マティスの色感は、油絵の具の特性を生かしつつも、その根拠にやはり「自然」との繋がりをもつものだが、ルイスは色感は、なんというのか、「アクリル絵の具的」とでもいうのか、アクリル絵の具というものが存在しなければあり得ないような、絵の具の特性を十二分に引き出しつつも、絵の具そのものに依存しているような感じで、アクリル絵の具そのもの以外にはこの現実世界に根拠をもたない感じで、しかも同時にルイスでなければ実現出来ないようなものでもあり、なんとも不思議な感じなのだった。
●ニューマンの「アンナの光」はとても良い作品なのだが、それにしても、「アンナの光」の巨大なオレンジの塊よりも、初期マティスの「ラ・ムラド(コリウールの風景)」という小品の、ごく小さなオレンジの色面の方が、より強いものに感じられてしまうことも事実だ。
●絵画は「実物」をみなきゃ駄目だというのは理屈以前の事実で、それは情報の量と精度が圧倒的に違うということなのだが、しかし、長く実物を観る機会がない時期がつづいたり、実物でも、つまらない作品ばかり観ていたりすると、ついつい、その事実を忘れてしまいがちだ。
●マティスでもっとも重要なのはおそらくキャンバスや紙の地の白への鋭敏な感覚で、どれだけの量の絵の具がのったとしても、地の白の鮮度がまったく落ちないというところだと思った。たとえ地の白が全て絵の具で隠れてしまったとしても、油絵の具の半透明の層はいくらかの光を地にまで届かせ、反射させるのだから。(これも、実物を観なければ決して理解できないことだ。)
●美術館でばったり友人に会って、ベンチに座って話していたら、「古谷さんですか」と、偽日記を読んでいるという人から声をかけられた。学生だと言うので大学生だと思って話していたら、17歳だというので驚いた。17歳の人に読まれているのなら、「偽日記」も捨てた物じゃないんじゃないかと思った。ぼく自身は今日41歳になった。きんどーさんの年齢を追い抜いてしまった。

08/05/22(木)
●朝起きたら外は良い天気だったので、今日こそはと思って、アパートの裏の駐車場を使って、日の光で作品の写真を撮る。パソコンでチェックして、昼過ぎに送る。永瀬さん、大幅に遅れてすいません。
●午後から夜中まで、ずっと途中で滞っていた岡崎論を書く。それなりに進んだけど、進んだ分だけ闇が深くなった感じがする。ここが着地点だ、と思っていたところにまで辿り着いたのに、そこは着地点ではなかったことが判明する。このまま進むべきなのか、途中までもどって、そこからやりなおすべきなのか。
とりあえず気分をかえるためにこの日記を書くことにした。この後、もう一度はじめから読んで、対策を考える。
●そもそも、最近、岡崎作品の実物を観ていないのに岡崎論を書いてるのが間違いなのかも知れない。図版をいくら眺めてても何も出てこない。
●原稿の進み具合がどうであれ、明日は断固として川村記念美術館までマティスを観に行く。(目が覚めたら既に夕方だった、ということでもない限りは。)

08/05/21(水)
●桜金造の怪談が面白いという話を聞いて、ちょっと検索してみたら、その時聞いた話でぼくが一番好きだった「いるよ」という話を、本人が公式ホームページの「金造の怖い話」というコーナーで書いていた。ただ、文字として読むと、話で聞いたほどは面白くない。(聞いた話はもっとシンプルだった。)このコーナーで一番面白いのは、二話-ニ「幽霊はどこにいる」〜タクシー〜という話が、すごく中途半端なところで「つづく」になってしまってその先がない、というところだ。えっ、そこで「つづく」って...、という肩すかし感が、絶妙に気持ち悪くて面白い。。
あと、「一ミリの女」という話と「恐怖の千切りキャベツ」という話が「2ちゃんねるの過去ログ」で読める。これは本人が書いたものではないけど、話をこのくらいシンプルにした方が面白い。(夢のなかでいつも助けてくれるおじさんがいきなりトンカツ持って遊びに来て、それを自然に受け入れるって、すごくいい話だ。)
以下引用。
●《2 名前: 1ミリの女じゃ無かったですか? 投稿日: 1999/12/03(金) 06:25
ある知り合いが、ずっと、部屋に閉じこもったままなので(数日間も)
心配になって、友人と様子を見に行った。
玄関口で、「お前どうしたんだよ?」などと聞いても「いや、女がよ」
としか言わない。(女が寂しがるから部屋から出られない)
「おんな おんなって、おまえ 何処に女なんかいるんだよ!」
と言って、一歩踏み込んだとき、ふと横をみると、タンスと
壁のあいだの約1ミリの空間に女が居てこちらを「じぃ」っと
睨んでいた。
と言う感じの話しでした。桜金造の怪談は非常に面白いです。
私のお気に入りは、「恐怖の千切りキャベツ」とか言うやつ。 》
●《4 名前: 一部うろ覚え 投稿日: 1999/12/03(金) 23:30
いつも、夢の中に出てきては助けてくれる人が居た。
誰かに追われていたら、かくまってくれたり、溺れていたら
引き上げてくれたり。実際には会ったことがないけれど
とにかく、夢の中でピンチを救ってくれる人だった・・・。
ある日、寝ていると、誰かが来た。
「いやぁ、来ちゃったよ!」
見ると、その、夢で会うおじさんだった。
でも、何故かまったく不思議な感じがせず(会ったのは初めてなのに)
「あぁ良く来てくれたね」と言って部屋に上がってもらった。
「途中でトンカツ買ってきたから一緒に食べようよ」
と言うので、「あぁいいね!じゃぁ俺、キャベツでも切ろうか」
と言って、キャベツを切りながら二人で楽しく話しをしていた。
すると、途中から、おじさんの返事が返ってこなくなった。
「あれっ?」と思うと突然辺りが真っ暗になり、気が付くと
ベット(ふとん?)の上にいた。
「なんだ夢か!」「そりゃそうだよな」などと考えながら、
起きたついでに、のども渇いていたので、台所に水を飲みに
起きていくと・・・・・・・・・。
そこには、さっき自分が切りかけていたキャベツの千切りが
あった・・・。
と、言うような話しです。》
●どれもごく単純な構造の話なのだけど、自分の脳の一部が、自分の意志とは切り離されて自動的に作動してしまい、それをあたかも外からやってきたもののように別の自分が感じる(見る)、みたいな感触がとても面白い。特に、「千切りキャベツ」の話は、ぼくにとっては怪談ではなく、「幸福そのもののあらわれ」のように感じられる。
●「恐怖の千切りキャベツ」は、いまおかしんじの映画『おじさん天国』(以前に書いた感想、12。)にも通じるかんじがちょっとある。

08/05/20(火)
●野毛山動物園で観て一番面白かったのは何種類かいる小型の猿で、おそらく大型の猿も同じなのだろうけど檻の空間の大きさの関係であまり感じられないのだが、小型の猿は本当に木の上、あるいは木と木との間の空間という(あるいは天と地の間という)「中空」で生活しているという感じで、それは地面という平面で暮らすのとも、鳥のように空を飛ぶのとも全く違う、重力や空間の感覚のなかで生きているのだろうなあということが凄く感じられたということなのだった。猿にだって勿論、人間や物と平等に重力は作用しているはずなのだが、おそらく、自身の体重や重心の捉え方の正確さ、自分の筋力とそれによって飛び越えられる距離との関係を測る正確さ、枝のしなりが支えうる重さやその重さに対する反発力への予期の正確さ(その誤差を修正するスピード)、張り巡らされた枝のネットワークへの把握力(上下左右へとひろがる空間への把握力)、木の枝という不安定な足場で身体を安定させられるバランス感覚、等々が飛び抜けていることによって、その運動神経によって、中空という(「地面」のようには物理的には実在しない)次元をひらき、そこを住処とすることが可能になるのだろう。それを見ているぼくにも、中空という場が開かれていくのが見えるかのようなのだった。そして、そのような猿の動きを見ていてはじめて、『肝心の子供』のラストが、感覚的に理解出来たように思えた。(『眼と太陽』の最後にも、螺旋を描いて木から降りてくるリスの印象的な動きがあった。)
●とにかく淡々とこなすしかない用事を、なんとか五月中にやり終えてしまって、それから集中して他のこと(本のための原稿やゲラの直しや対談のための準備)をしようと思っていたのだが、淡々とこなさなければいけない用事が途中で停滞してしまっていて、あまりに進まなくなったので、目先をかえるために、これを一旦後回しにして、先に本のための原稿を少し書いて、しばらくしてから用事の方へ戻ってくることにした。
そうと決めたからは、原稿を書くためには、やはりもう一度川村記念美術館までマティスを観に行った方が良いと思った。25日までで、最後の土日はきっと混むから、木、金のどちらかくらいに行ければと思う。(金曜は誕生日でもあるので、金曜に行くかも。)とはいえ、やはり佐倉までの道のりは遠く、なかなか億劫だし、貧乏人には往復の交通費だけでもけっこう痛いのだが。
(あと、さらに、美術館にマティスのけっこういい感じの画集が、三万円以上する値段で売っていて、14日に行ったときはそんなに現金をもっていかなかったので諦めるしかなかったのだが、もう一度行くとなると、もしかしたら買ってしまうかもしれなくて、しかしそんなことをしてしまったらその後の経済的状況がとても恐ろしいことになる。もう一度現物を手にとって観てみなければどちらとも言えないのだが、買えるだけの現金を持って行ってしまうことはおそらく避けられなくて、それはとても危険なことなのだ。やばい。)

08/05/19(月)
●昨日の夜から徹夜して、作家論の直しと、もう一つ別の原稿を書く。朝方、作家論の直しをメールで送信。少し眠って、昼頃に、もう一つの原稿を読み返して少し直し、メールで送信。少しぼっとする。本当はほっとする余裕などないのだが、ほっとすることにする。ほっとすることにして、散歩に出る。(あなたはちょっとほっとし過ぎです、現状を考え、もっと緊張感をもってください、と、自分につっこみたくなる。)
●土曜の野毛山動物公園の公演を観ていたという人からいただいたメールに、会場にいた「どこかのバンドのミュージシャンみたいな男」の記憶と、偽日記の記述と、「美術手帖」の前の号に載っていた写真の記憶とが、後になって頭のなかで一致して、あ、あれが古谷だったんじゃねえの、と思った、と書かれていた(多少、脚色あり)。「どこかのバンドのミュージシャン」みたいって...。他人の描写(視線)を通して自分を観るのって、すごいへんな感じがする。

08/05/18(日)
●今日の散歩は電車。電車に乗って、新宿まで行って、そのまま折り返して帰ってきた。昼間はよく晴れていて、ぼくはよく晴れた日の昼前くらいの、電車やバスのなかに射してくる光の感じがとても好きなので。ただ、日記をつけているくせに曜日の感覚が崩壊していて、平日だと思いこんでいて昼前の電車なら空いていると思っていたのに、思いのほか混んでいて、あ、日曜日だ、とその時気づいた。でも光の感じはとても良かった。新宿まで行っても何もしないでそのまま帰ってきたのは、用事がたてこんでいるから。(つまり、たてこんだ用事にうんざりしたからちょっと外に出掛けたということ。)

08/05/17(土)
●横浜の野毛山動物公園に、中野成樹、誤意訳・演出『Zoo Zoo Scene(ずうずうしい)』(エドワード・オールビー『動物園物語』)を観に行った。まず、スタッフに先導されて動物園をひとまわりして、閉園後、動物園内の広場で上演がはじまる、というもの。野毛山動物公園は、浪人時代にスケッチに行ったり、大学時代に映画の撮影に行ったりしたことがあったが、訪れるのは二十年ぶりくらい。
ぼくの演劇へのアレルギーは、生身の人間が直接目の前で何かをすることの鬱陶しさにあり、そしてその鬱陶しさを「ないもの」として「虚構の次元」をたちあげるためには、結局、いろいろな前もっての約束事を暗黙のうちに受け入れなければ成立しないものなんじゃないか、ということで、つまり簡単に言えば、なんかしらじらしいしわざとらしい、ということなのだが、この偏見は、岡田利規や中野成樹を観ることで徐々に解消されつつある。いや、解消されるのではなく、中野成樹の舞台は、まさにその鬱陶しさのあり様が作品となっている感じがした。
動物園を一巡して広場に着いて、まず驚くのは、それなりに見晴らしがよく広さもある広場の一画に、すごく小さな舞台と、その舞台をせせこましく取り囲むようにぎっちりと詰められた客席が用意されていたことだ。こんなに広い場所なのに、なんであんなせせこましい舞台なのか、と思う。
上演がはじまる。俳優は舞台上ではなく観客からとても遠い位置にいて、観客もまだ客席に着いていない。一人の男がもう一人の男に近づいてゆき、何か話しかける。二人はなにやら話しているようなのだが、セリフは観客には全く聞こえず、動物園の動物のうめき声やカラスの鳴き声ばかりが聞こえる。この距離がとても不思議な感じだ。もしかすると大きな劇場等で演劇を観る時には、もっと距離が離れている場合もあるかもしれないのだが、ここは動物園であり、観客もツアー旅行の待ち時間みたいにして、ぼさっと突っ立っている。それでもそこで何かが演じられていることは受け入れて、それを観ている。二人は言い争う感じで、少しずつ観客から遠ざかってゆく。映画で、長回しのロングショットを撮影している時のスタッフは、こういう感じで芝居を観ているのかなあ、という距離感。
いったん見えなくなるまで遠ざかった男のうちの一人が観客に向って歩いてくる。男は、観客たちに対面して、そこに設置してあるマイクを使って、知らない人に動物園であったことを話していたら逃げられてしまったと語りかける。観客は、その男が俳優で役を演じていると知りつつ、ごく近い位置から対面で、しかも舞台と観客席という仕切りなしの同一平面上で話しかけられることで、実際にあぶない奴に話しかけられたような感覚をもつ。ここでは、普通に(虚構の次元というフィルター抜きで)他人と近い距離で対面した時に自然の作動する防衛的な機能が作動するのだと思われる。観客が俳優を見るだけでなく、俳優もまた観客を見ているのだという、当たり前の事実が緊張を強いる。極端な遠さから極端な近さへのフレームの移動。しかもここでは、演技と現実の境界も揺さぶられる。だがここで、男がマイクを使っていることで、発言する側とそれを聞く側という仕切りが(視線の非対称性が)、かろうじて保たれているように思った。
その俳優に促されて観客はようやく席につく。舞台も客席も狭く、広い場所なのに観客はぎゅうぎゅう詰め(という言い方はやや大げさだが)にされる。ここでは、俳優と観客の距離が近いだけでなく、観客同士の距離もきわめて接近したものとなる。(客席はコの字型になっていて、向こう側の観客も、すぐ近くに見える。)このことの効果と作品上のテーマは密接に関係しているだろう。男は、今度は舞台の後ろから(壇上ではなく、観客とは舞台を挟む形になって)、マイクで話しはじめる。あいかわらず距離は近いが、舞台という仕切りを間に挟むことで、観客は虚構上の人物であるはずの俳優=役との距離を安定させることが出来るようになる。そこで喋っているのはただのあぶないお兄ちゃんではなく、それを演じている人なのだ、と。
しばらく男の話がつづいた後、冒頭で遠ざかっていったもう一人の男が客席の後ろ側をぐるっとまわってやって来て、舞台上に立つ(というか座る)。ここからは、せいぜい二畳くらいしかない狭い舞台の上で、二人の俳優が演じることになる。舞台装置は細長い立方体の箱状のものだけであり、その舞台上での位置の変化や、それが縦になったり横になったりすることで、空間のバリエーションがつくられる。ぼくの顔のすぐ前に俳優のケツがある、というくらいの距離で、狭い舞台からこぼれ落ちてしまいそうなギリギリの動きで演じられる。近い位置から見上げるような角度で観ているので、演劇というより、相撲やプロレスを観ている感じだ。しばらくすると舞台上でもマイクが使用されるようになり、これもまた、狭い舞台の上で二人の俳優の距離感に変化をつけることになる。
二人が壇上にいるということの仕切られた隔たりと、しかし俳優の身体がごく近い位置にあることの密接な距離感とが、不思議な効果となる。(大きな広がりのなかの、狭いところにぎゅっと集められた観客と俳優とのあり様は、劇中にでてくる「檻」という言葉に説得力を与える。)俳優の細かい動きや表情がよく見える半面、近くからかぶりついている自分の視点の限定性もまた、強く意識される(向こうから見たら、一歩離れてみたら、全然違って見えるだろう)。男は、ズボンの尻のポケットにカッターナイフと(それを隠すための)財布を入れていて、劇中しばしばそこに手をやるのだが、それが演出上の仕種なのか、それとも、カッターがポケットから落ちてしまいそうなのを演技をしつつ気にしていて、演出以上にそこに手をやっているのかは分からない。この距離だと嫌でもそういうことが気になる。それに、ここまで距離が近いと、演劇だと分かっていても、カッターの刃が出て来ると、それだけで緊張がはしる。
ここでは、俳優と場所、俳優と役、俳優と俳優、俳優と観客、そして観客と観客、観客と場所との距離感が常に揺さぶられていて、しかもそれは、たんに技法として揺さぶられているのではなく、戯曲のそのもののテーマと絡んだ形でそれがなされている。やほり中野成樹の舞台はすごく面白いと、改めて思った。

08/05/16(金)
●これはまったく「思いつき」の域を出ない雑な話でしかないけど、作家には「幽霊好き系」と「宇宙人好き系」がいるように思う。例えば、黒沢清や清水崇が幽霊好き系なのは当然として、『リング』や『らせん』の脚本家であり、清水崇の師匠でもある高橋洋はあきらかに「宇宙人好き系」であるように思う。あるいはシャマランや、楳図かずおは、宇宙人好き系であろう。
もっともらしい言い方をするならば、幽霊好き系は、世界の全てを想像界の作用としてみようとすることによる歪みを作品化するのに対し、宇宙人系は、世界のすべてを象徴界の作用においてみようとすることによる歪みを作品化する。だから、幽霊好き系は、その場その場であらわれる齟齬、矛盾、亀裂を敏感に察知して形象化するが、謎に対して体系的な解を求める欲望は強くない。謎とはそのまま世界のなまなましい感触であり、そもそも解を求めるようなものではない。対して、宇宙人好き系は、世界を体系的に理解すること、あるいは作品を体系的に構築することを強く望む。というかむしろ、オカルト的な体系が先にあって、世界はその体系に従って強引に解釈され、その解釈の強引さによる歪み、世界そのものと解釈との摩擦の感触こそが作品化される。(だから科学もオカルトも、共に「宇宙人好き系」の人のものだ。)宇宙人好き系にとって世界は体系的な秩序のもとにあり、「謎」は最大の問題であり、それは常に体系に従って解釈され、解かれなければならない。
幽霊好き系にとっても「世界の法則」の存在は信じられているが、それは人知を超えたものであり、それを直接的に把握することははじめから求められていない。世界は常に新たな驚きとして現前する。宇宙人好き系にとっては「世界の法則」は体系として把握されていなければならず、世界のすべては既にどこかに書き込まれて決定していて(アカシックレコード)、世界に「新しいもの」は到来しない。新しくみえるものは常に「謎」であり、それは体系的に解釈されるか、あるいはより精密な体系によって解消されなければならない。世界のすべてはあらかじめどこかにあるイデア的な真理の反復であり、その反映であるという感触がある。
ぼく自身はあきらかに「幽霊好き系」に属するように思う。だから、「宇宙人好き系」の作品は、直接的な共感によって理解するのではなく、その組成を分析し、その分析を通じて他人の頭のなかを自身の身体の上でトレースするというようなやり方で理解することになる。この分析の過程は同時に学習の過程でもあり、分析的把握を通じて、ぼく自身も少しずつ「宇宙人好き系」の感情や世界への感触を、まさに感情や感触として理解するように、つまり宇宙人好き系の感情がぼくの頭のなかでも多少は作動するようになってくるだろう。
例えば、横尾忠則は強烈に「宇宙人好き系」の画家だと思う。だからぼくには、その作品を直接的に理解することは難しい。その作品に近づき、そこ感情や感覚をぼく自身の身体の上でも作動させるためには、分析的な過程という媒介が必要なのだと思う。

08/05/15(木)
●昨日マティスを観た興奮の余韻を身体のなかに残しつつ、喫茶店で作家論の直しをする。今日は久しぶりに晴れて暖かいのだが、そのため喫茶店では冷房がはいっていて、それが効き過ぎで、一度脱いだ上着を、またすぐに着ることになる。ジッパーを首の上の方まで上げる。
作家論の第一稿は67枚くらいあって、それを60枚程度まで短くすることを目標に書き直すように要請されているのだが、自分ではいろいろ切って短くしたつもりでも、新たに書き加えたところもあって、トータルだと1200字くらいしか短くなってない。でも、これ以上短くしようがない。明日、改めて検討することにして、別の用事をはじめる。と、とたんに眠くなる。

08/05/14(水)
●昨日の日記で自分が書いたことに背中を押されて、川村記念美術館へマティスとボナール展を観に行った。住んでいるところから美術館のある佐倉駅まで二時間半から三時間かかり、そこからだいたい三十分に一本出ている送迎バスで二十分くらいのところに美術館はあって、連絡が悪かったりすると片道四時間ちかくかかったりする。千葉から銚子行きの電車に乗り換えるとそこは水田がひろがる土地で、どこまでもつづく水田のすべてに、ちょうど田植えが終わったばかりという時期なのでなみなみと水が張られていて、そこに雨降りの重たい曇り空が反映している風景が印象的だった。
●リニューアル後はじめて美術館に行ったのだが、リニューアルはなによりこの美術館の充実したコレクション(やたらとデカイ戦後のアメリカ美術)をよりよい状態でみせるためのもので、まずこれがすごく良かった。ロスコルームは以前より広くなり、照明もやや明るさを増して見易くなったし、ステラの作品がまとめて置いてある一画では、この作家の重要性を改めて感じさせられた(ステラはやはり決してバカには出来ない)。しかしなによりも、ルイスとニューマンの作品が素晴らしく、それらの作品は以前に何度もこの美術館で見ているのだが、まったく新たに出会い直したという感じで見ることが出来、学生時代から好きだったのでちょっと見飽きた感じになっていたルイスとニューマンを、やっぱすごくいいなあと新鮮に観られて、認識を新たにさせられた。ニューマンの「アンナの光」は、これ以上ないというようなよい状態で設置されていた。そして、ニューマンやルイスやステラを観た後に、それにつづいてマティスを観ると、戦後のアメリカ型フォーマリスムが、いかにマティスと直接的につながっているか、というか、ほとんどマティスの可能性の一部分をそのまま拡大させたものだということが、感覚的にすごくよく分かるようになっている。(「アンナの光」のオレンジなんて、ほとんどマティスそのままだと思う。)
とにかく、現在の日本でこんなに充実した美術館が、一つの企業の力によって成立しているということは奇蹟のような話で、DIC(大日本インキ)は本当にえらいなあと思った。
●ボナールは勿論とても良い画家なのだが、マティスと並んでいるとどうしてもマティスばかりを観ることになってしまう。そういう意味でとてももったいなくて、「マティスとボナール」ではなくて「マティス展」と「ボナール展」とをそれぞれやってくれたらなあ、と思った。ボナールは、ひとつの色彩のなかに、マティスよりもより多くのことを含ませることが出来る。
マティスのなかには、既に絵画の可能性の全てが含まれているという感じさえする。セザンヌとマティスをちゃんと観るためには、人に与えられた一生ではあまりにも短か過ぎると思うくらいだ。(というか、そういうもののことを「芸術」というのだ。)今回の展示では、マティスのいわゆるまとまった代表作のようなものはなくて、割と小粒の作品があつめられている。しかし実はマティスほど「代表作」という概念とほど遠い画家はいなくて、マティスの絵はどれも中途半端といえば中途半端で、しかしそのどれも完璧に絵画であって、一枚のごくちいさくささやかな画面のなかに、絵画の様々な可能性が惜しげもなくつぎ込まれていて、しかもそれが可能性のままできわめて無造作にごろっと放置されている。おそらくマティスの作品のつきない魅力というのはこのことからくるのではないか。なにかを完成させるのではなく、いかに可能性を豊かに拾い出し、その目眩がするほどの可能性を、可能性のままで無造作にごろっとそこに追いておく。マティスほど、形式や様式の完成度に無頓着な画家もいない。追求されているのは、もっと別のことなのだ。描きかけのままで放置されたような作品、きまぐれでちゃちゃっと手を動かしたようなドローイングのなかに、既に絵画のすべてがあるようにさえ感じられる。画面から溢れてくるほどの可能性が示されているのに、それはやはり未完成であり、だからこそマティスを観ると、絵が描きたくてしかたなくなる。だからこのような、雑多な寄せ集めのような展示こそが、マティスにもっともふさわしいのかもしれない。そもそも、マティスの作品を体系的に整理することなど不可能だし、可能だったとしてもそんなこと意味がない。
展示を観てまわっているうちに、身体の芯からゆっくりと静かに、しかし強い興奮が沸き上がってきて、それが徐々に全身にひろがってゆき、身体の全ての細胞が振動しているんじゃないかというくらいの興奮に貫かれて、このまま自分が沸騰して蒸発してしまうんじゃないかと思われるくらいになった。このまますぐにアトリエにもどって、今抱えていることや約束をすべてキャンセルして、とにかく絵を描くことだけをするべきではないのか、という思いに駆られた(そんなことをしたら一ヶ月でお金がなくなるのだが)。しかし、あまりにも興奮したのでぐったりと疲れてしまい、帰りの電車のなかでは泥が崩れるような感じで座っていた。(帰る時間はどうしてもラッシュ時になるが、美術館から東京方面は混雑とは逆向きなので、座れて助かった。)
●25日で終わってしまうけど、もう一度観に行ければなあ、と思う。

08/05/13(火)
●やってもやっても終わりがみえてこない用事と、先月書いた作家論の直しに追われているうちに、もう一つ別の短め原稿の締め切りが迫りつつあり、そのこともそろそろ考えはじめる必要が出て来た。暇な時はまるで何もすることがないのに、重なる時は重なる。五月六月は、自分としては考えられないくらい重なっていて、いま抱えていることが本当にちゃんと出来るのかと途方に暮れる。とはいえ生活はいたってのんびりとしていて、朝起きてコーヒーを飲みながら、今日は何しようかとぼんやり考えることから一日がはじまるし、雨が降っていなければ一、二時間は散歩するし、淡々とこなしてゆく以外どうしようもない先の長い用事をしている合間、合間には、かなりの時間ぼんやりしている。(ぼくの頭の基本設定は「ぼんやり」なので。)
●だが、こういう状況だとなかなか外へ出掛けることが出来なくなる。都心から離れたところに住んでいることもあって、どこかへ出掛けるとほぼ一日が潰れることになる。それに、これは年齢のせいもあるのだろうが、沢山の展覧会をまわるとか映画館をはしごするとかいうことが出来なくなった。あわただしく沢山のものを見てまわるよりも、一つの場所で落ち着いてそれをじっくり見たいという思いが強い(もともとケツが重いのだが)。見たものや読んだものを咀嚼する時間(ぼんやりする時間)も、何かを見る時間以上に重要だと思う。
●川村記念美術館のマティスとボナールは絶対見逃せない、と何度も思いつつ、川村記念美術館は微妙に遠くて、なかなか出掛けるきっかけを得られない。それと、横尾忠則は、もう一度体勢を立て直して再挑戦したい。今度はこちらとしても、それなりの作戦をたてた上で。
●『怪奇大家族』(9話〜13話)をDVDで。面白かった。清水監督には、ハリウッドでえらくなっても、たまにはこういうこともまたやってほしい。それにしても、ぼくはどうも、UFOや宇宙人よりも幽霊の方が好きらしい。というか、幽霊のことを好き過ぎる。

08/05/12(月)
●「文學界」6月号の「星のしるし」(柴崎友香)を読んだ。ほんとは、今、小説をじっくり読んでいる余裕はないのだが、はじめの方をチラッとみてみたら、思わず引き込まれて最後まで読んでしまった。「主題歌」の主人公の実加が確か28歳くらいで、「星のしるし」の果絵は30歳手前ということになっていて、そんなに年齢はかわらないはずだけど、しかし主人公をとりまく状況が大きく動いていることに、ちょっと動揺した。それにともなって、この作家の大きな特徴である多方向へとのびてゆく開放的な空間のひろがりも、やや影を潜めている感じで、小説全体のトーンが、内側に向いて濃くて重たいものになっている感じだった。
例えば、果絵の恋人である朝陽の家にいろんな人が常にあつまってくるのは、「主題歌」の女子限定カフェや「ブルー、イエロー、オレンジ、オレンジ、レッド」の夫婦の家とかわらないのだが、しかし、「ブルー、イエロー...」の家の、家というよりも溜まり場といった方がいいような、誰かがポツポツやってきては、それぞれ好きな時に帰ってゆくかのような開放的な雰囲気は「星のしるし」の朝陽の家にはなく、そこは基本的に朝陽と果絵のいる場所であり、そこに正体不明な闖入者としてカツオが居座り、さらに、ちょくちょく友人の皆子がやってくるという、ある程度安定した構造ができあがっている。朝陽の昔のバンド仲間や、店のバイトがやってくることはあっても、それは小説内の一挿話としてそのような場面があるということで、関係が(場所が)無限定に開かれている感じではない。
ビリヤードの玉がぶつかるように、それぞれ独立してバラバラに存在する個人が、偶発性や気まぐれによって関係をつくって広がるような展開(話でだけ聞いていた友達の友達に会う、とか)ではなく、ある程度安定した恒常的関係(親子、親戚、夫婦、恋人という関係)が複雑に折り重ねられるという展開になっている。登場人物はかなり多いのだが、その関係が外に向ってひろがるのではなく、内側に向って重ねられてゆくことによって、濃くて重たいという印象が感じられるのだろう。いままでのこの作家の登場人物たちとはちがって、ここで人物たちは、もはやふわふわとした根無し草のような生活を許されなくなっているような年齢に達しており、社会的な関係の網の目の重さが、ぞれぞれにのしかかっている。読んでいてまず、そのことに動揺させられる。
下手をすると小説としての動きが制限されてしまいそうな関係の恒常性のなかに、イレギュラーな動きを導入するのがカツオという正体不明の人物だろう。だからこのカツオは、いままでの柴崎友香の小説に登場してきた、それ自身で魅力的な男の子たちとは異なり、あくまで作品の構造によって要請された、技巧的な人物といえるだろう。(例えば「主題歌」の森本のような人物は、この小説の人物たちの関係のなかにはもはや入ることが出来ないように感じられる。)以下、ネタバレだが、最後にカツオが消えてしまうということは、カツオでさえも、この小説の関係のなかでは居場所を得ることが出来ないということだと思う。(この小説の世界では、カツオのようにふらふらしていることは許されなくなっている。)それは、この作家の小説をずっと読んできた者としては、かなり衝撃的なことだ。
●もう一方で、この小説はあくまで女性たちの話として限定されてもいる。果絵の恋人の朝陽(名字なのか名前なのかあだ名なのか)も、皆子の夫の岡ちゃんも、きわめて存在が薄く、ほとんど寝ているだけという印象がある。果絵の父親もほとんど出てこない。最も目立つ男性はカツオであるけど、前述したようにカツオは作品の構造上の人物であり、小説に不確定な動きをあたえる狂言回しというか、ほとんど宇宙人(UFO)のようなものといってよい。唯一、印象的な男性の登場人物は、亡くなってしまった果絵の祖父かもしれない。
●この小説は、占いや風水やヒーリングがテーマでもある。現代の若い女性を主人公にしたような小説をあまり読まないのでぼくが知らないだけかもしれないのだが、占いをこのようなスタンスで描いた小説をぼくは他に知らない。(小説に限らず、映画やドラマも含めたフィクション全般で。)スピリチュアルなものが、批判的にでもなく、神秘主義的にでもなく、民俗学的(科学的)にでもなく、独自のやり方で捉えられていて、ああ、そういうことなのか、とすごく納得出来る感じなのだ。そして、占いを主題化することによって、この作家がいままであえて触れていなかった領域、会社の上司への憎悪(職場環境の負の部分、社会的な環境)、母親の情緒の不安定で大きな振れ(母親-肉親との関係の微妙さ)、親戚関係の複雑さ、友人の重たい病気(病気への不安)、友人とその夫の実家との関係のむつかしさ、等を、紋切り型に堕することなく、過度に深刻にもならずに(とはいえそれはかなり重いものだが)、リアルに掬い上げているように思われる。(これらの多くは、年齢とそれに伴う社会的な関係の恒常化、固着化によって生じる。)
母親が頻繁に模様替えをすること、玄関マットがいきなり花柄にかわっていたことの理由を、あとになって風水の雑誌で知り、そこから母親の感情について思いを馳せる場面とか、すごくよかった。
●この小説は、見ず知らずの他者からの、正体不明の視線ではじまり、終わる。主人公がいる場所からは、道路を挟み、さらに空き地を挟んだ向こうにあるアパートのベランダにいる人が、こちらを指さしているように思え、向こうから「わたしのことは見えるんだろうか」といぶかしく思う場面ではじまり、電車で向いにすわった「たぶんわたしと年の変わらない女の人」が、「こっちを見ている」にもかかわらず、「わたしが彼女を見ても、なぜか視線が合わないように感じ」るという場面で終わる。その前に、朝の公園で、小学生と目が合い、二人の小学生が「わたしの方を指差してなにか言い」「二人でわたしを見下ろ」す、という場面もある。
この視線は、「主題歌」の主人公が、自分の知らないところから恋人や同僚に見られている、愛情のこもった視線とは異なり、見ず知らずの他人からの、出会い頭で意図不明の視線である。この視線の不気味な感触は、主人公の見る宇宙人の夢の感触と響き合うようにも思われる。ただ、この不気味さを、文学的に解釈して、次第に社会的、固定的な関係に取り込まれてゆくことへの不安の表現として読むのは、ちょっと安易過ぎるように思われる。むしろこの不気味さは、作品の構造のなかで明確な位置をもたないからこそ、不気味なのだと思われる。むしろこのよくわからない不気味さの感触こそが最初にあり、それがこの作品をたちあげる動因になっているのではないかとさえ、感じられる。
●ぼくがこの小説を一読して、一番印象に残った場面を引用する。亡くなった祖父のことを思い出している場面。
《祖父は施設に入る前から緩やかに記憶が薄れていって、最後に会ったそのときはわたしのことはまったくわからなくなっていた。祖父はベッドに上半身を起こして座り、窓の外を見ていた。祖父はわたしが、つまり知らない人が、そばにいることに戸惑っているようで、しゃべらなかったしわたしの顔も見なかった。随分時間が経ってから、窓の外を見たままだったけれど、今日は桜島がきれいに見える、あんたも見なさい、とだけ言った。窓の外はまんべんなく白い曇り空だけが見えていた。わたしは、うん、と答えた。》

08/05/11(日)
●横尾忠則のタブローのまず最初にくる印象は絵の具がこなれていないという感じで、これまつまり、絵の具の質が作品の一部としての位置や役割をもっていなくて、ただチューブから出したそのままがそこに塗り付けられているという感じのことだ。そしてぼくは、そのようなあまりにナマな感触の絵の具で描かれた大画面の絵を観ると、身体的なレベルでのダメージを受けるのだということを、昨日知った。このダメージとは具体的には平衡感覚が揺さぶられるという感じで、船酔いだとか、スイカ割りの前にする、目隠しされてぐるぐる回された後の感じとか、そういうのに近い。これはある程度一般的な反応なのだろうか、それとも、ぼくがあまりにも「美術史と共に絵を観る」ということに慣れてしまい過ぎているせいで起こることなのだろうか。
●絵の具がこなれてなくて、質になっていないような絵のことを、風呂屋のペンキ絵のようだとか言う。だが、ぼくは五、六年前まで銭湯に通っていたけど、そこの壁いっぱいにあった、定期的に描き換えられる富士山や三保の松原の絵を観ても、別に気持ち悪くなったりクラクラしたりしなかった。風呂屋の絵はもっとあっさりと、システマティックな構造によって描かれている。(どういう順番で、どういう風に描いていったのかがすぐ分かってしまうような単純な構造ではあるが。)横尾忠則の絵が下手にみえるのは、風呂屋の絵にははっきりとある、絵の具を塗り重ねて層構造をつくるような構築性がないからだと思われる。
●だとすれば、ぼくの平衡感覚を揺さぶる作用は、絵の具の質や色彩の対比の問題よりも、絵の具によって絵が描かれる時に通常構築されるはずの層構造がぐずぐすになっているということろから来るのかもしれない。眼が構造を確認できないから、どろどろと流れてゆく絵の具の流れに見ることがどこまでも流されて、手がかり(手すり)となる支点をみつけられないからだ、と。(このことは、横尾忠則の絵画に滝のイメージが頻出することと関係があるかもしれない。)
●横尾忠則の絵は、基本的に外から持って来た借り物のイメージのコラージュでできている。その点では、イラストやデザインの仕事と大きくことなるわけではない。例えば「TとRの交差」では、空はゴッホだし、汽車はモネだし、キリコのポスターやフェリーニの映画の看板があり、遠くに見える風景はエル・グレコのようにも見える。
コラージュとは、文脈を切断されたイメージたちが寄せ集められて、新たな別の文脈(空間)をつくりだすということだろう。そこでは、個々のイメージが孕んでいる文脈からの切断されたことのショックによる力と、イメージ同士の組み合わせの意外さの力によってインパクトが得られる。しかしそれらのイメージ全てが、横尾忠則の手によって、キャンバスの上に絵の具で描かれる時、すべてがぐずぐすに混じり合い、文脈を切断されたイメージたちが、事後的、人工的に新たな文脈として構築されるという、ある距離感のようなものが失われるように思う。
要するにコラージュとは、無理矢理文脈から切り離してきたものたちを、無理矢理に結びつけるという無理矢理さのショックこそが新鮮なのだが、横尾忠則の筆にはそのような新鮮さを保つ速度や距離感がなく、単調にべたべたと塗り付けられる絵の具によって各イメージはどんよりと混じり合う。しかしだからといって、もともと出自の異なるイメージが完全に馴染み、混じり合うことはなく、そのための明確なパースペクティプも構築されないから、齟齬や空間のねじれは依然として残る。シャープに違和感が立ち上がるのでもなく、すべてがぐずぐすにひとしく混じり合うでもない、ねじれが鈍く浮かび上がってくるような感触が、横尾忠則の絵画に不穏な気持ち悪さを孕ませるのではないか。ねじれがあり齟齬があるのは明白なのに、そのエッヂがみえてこない、というような。

08/05/10(土)
●世田谷美術館で「冒険王・横尾忠則」展。ぼくは今までおそらく一度も、横尾忠則という画家に関心をもったことがなかったのだけど、人から強く薦められて、めったにない大規模な回顧展らしいし、せっかくの機会だからと思って観に行くことにした。しかし、まるでぼくの無意識が観ることに抵抗しているかのように、電車で本を読んでいて、乗り換えるべき駅を乗り過ごしてまた戻るということを二度もやってしまって、なかなか美術館にたどり着けなかった。
●会場に入ってすぐの、ルソーのパロディみたいな絵を観た時には、正直言って観に来たことを後悔した。この先、こんなへたくそな絵をたっぷり観せられるのかと思うと気が重くなった。
次のコーナーにすすみ、比較的大型画面の「Y字路」のシリーズになると様子がかわった。画面中央に建物があり、そこから左右に別れた二本の道路がずっと奥にまでのびているという構造は、この骨組みだけで既に何か根本的に不穏なものを含んでいるようで、これを発明したというだけで凄いことではないかと思った。上手いか下手かと言えば、中学生の美術部員が描いたような絵だとしか思えないのだけど、特に「宮崎の夜」と題されたシリーズの三点は、その一点のサブタイトルが示す通りに「台風前夜」というような不穏な空気、まだ何も起こっていないうちに、その予感だけで空間がはち切れそうに膨らんでいる感じがして、ゾクゾクするものがあった。リンチを思わせるような赤と黒との対比、あるいは「宮崎の夜2」のひたすらに黒い黒の質は、おそらく今まで絵画によって実現されたきた色彩の質とは、まったく別のところからやってきて絵画に宿ったかのように思われるものだ。
しばらくすすむと「二十年後のピカソ」という作品があって、これは、この展覧会のなかで、普通の意味で絵画としてもっとも完成度が高い作品で(そう感じられるのは、全体がピカソ風のタッチでまとめられているからだろう)、普通に絵画として傑作と言っていいのではないかと思った。滝なのか鍾乳洞の中なのか分からないが、上から水が落下してくる岩場を背景に、少年と少女が木製の橋を渡っている場面が、上下が転倒して描かれていて、そのフレームの左上の隅から、転倒した場面を俯瞰しているかのようなピカソの顔が描かれている。これはちょっと荒川修作的な転倒と双生児的な感覚を思わせるもので、地球上で生まれた生物のすべて(特に地上の生物)が、そもそもその存在の根本から前提にしている重力という感覚を、とても見事にくるっと宙に吊っている。
しかしその隣りに置かれた「ナポレオン、シャンバラ越え之図」という絵は、ぼくの絵画に関する感覚から言えばおよそあり得ない最悪の絵で、おそらく表現主義のパロディを意図したものと思われる色使いは、観ているだけで気持ちが悪くなる。ぼくの感覚から言えば、この二枚の絵が「並んでいる」ということがあり得ない話で、このあり得なさに心臓が圧迫される。ここで、気持ちが悪いとか心臓が圧迫されるというのは決して比喩的な表現ではなくて、実際に気持ちが悪くなり、心臓がバクバクしはじめた、ということだ。
このあたりでぼくは、個々の作品に対して分析的に把握したり、良いとか悪いとか判断したりすることを放棄した。とにかく、絵を観るということが、こんなに直接的にフィジカルに作用してくるものだということを、はじめて体験した気がする。心臓はバクバクするし、胃はキリキリとするし、胸はムカムカする。
ぼくは画家で、すくなくともここ二十年以上は、生活の中心も関心の中心も絵画にあって、画家として自分の感覚をつくってきた。それは例えば、職人が機械で測定出来ないほどの小さな誤差を手触りで感知するというような、そのような感覚を、絵画において自らのものに出来るのように感覚を磨き上げるということでもある。(今の自分にそんなに大それたことが出来るとは言わないけど。)横尾忠則の絵は、ぼくのこのような感覚に根本から揺さぶりをかけてくる。というか襲いかかって来る。
ぼくだって現代の東京に生きているのだから、例えば歌舞伎町の派手なネオンの下を通るくらいでは、趣味が悪いとは思っても感覚が耐えられないなどということはない。それはごく日常的な風景として処理される。しかし、横尾忠則の絵は、そんなものよりもずっと激しく、ぼくの感覚の「許せない」と感じる部分につかみかかって来る。その絵の具の練り、そのプロポーションの狂い方、その色彩の配置の仕方、そのいちいちが身体に(決してポジティブな意味でではなく)びんびんと「くる」のだ。絵を観るというよりもむしろ、苦行をくぐり抜けるという感じですすんでゆく。
それでもまだ、展示の前半部である二階の展示室は甘かった。一階の展示室では、さらにすさまじいことになっていた。だいたい、画家に転向して二十年以上も油絵の具やアクリル絵の具で絵を(しかも無茶苦茶精力的に)描き続けている人が、何でこんなに下手でいつづけられるのかが不思議なのだ。下手という言葉を使うと、上から目線で、ちょっと余裕こいて軽くバカにしているというようなニュアンスにとられるかもしれないのだが、全然そんなことはない。絵を観ているぼくには全く余裕がない。何かの感覚が、まったくオブラートに包まれることなく、何のクッションも間になく、直接的に、無遠慮にこちらの内部にべろっと入り込んでくる感じのことを、とりあえずそう呼ぶしかないから下手と言っているのだ。「ブルーアイランド」の青とか、これあり得ねえだろう、「花巻温泉」の赤とか、これあり得ねえだろう、こんなこと許されるはずねえだろう、と頭のなかでぶつぶつ言って抵抗してみるのだが、それは既にこちらへ無遠慮に入り込んできてしまっている。
これもまた比喩でも大げさにでもなく、本当に足下がおぼつかなくなって、目眩でくらっと一瞬倒れそうになった。(昨晩はちゃんと寝ているし朝食も食べている。)一階の展示のなかでもっとも作品として完成度が高く、普通にきっちり出来ていると思われる「集合と分散--その力と動き」の前にあるソファーに座ってすこし休んだ。展覧会を観ることがこんなに「苦しい」経験だということははじめてだ。
横尾忠則は、美術史的には、80年代に世界的に流行したニューペインティング(新表現主義)の画家の一員ということになるだろう。イラストレーターから「画家宣言」をしたのも、そのような流れのなかでのことだ。ただこれは、美術史上の出来事というより、特定の画廊が仕掛けた流行という側面が強くて、今では、新表現主義として活躍した画家の名前を聞くことはほとんどなくなってしまった。
だから、当時から現在まで一貫して同じようなスタイルで絵を描きつづけている横尾忠則は、もともと「一人わが道を行く人」だったのだ。ニューペインティングの流行が横尾忠則に火をつけたとしても、実際にはニューペインティングとは全く関係がなかったのだろうと思う。横尾忠則の頭の中は「実際にこうなっている」としか思えないような強さが作品にはあるのだ。しかし本当に頭のなかが「こうなっている」のだとしたら、そのような頭のなかと、日常的な現実との折り合いを、横尾忠則はどうやってつけているのだろうか。
正直、こんなもの観なければよかったと思った。しかし、観てしまったからには、これを観なかったことにしたり忘れたりすることは出来ないと思う。観てしまったからには、このことについて考え、このことに影響をされないわけにはいかないだろう。(いや、いきなり横尾風の絵を描きはじめたりするとか、そういうことはあり得ないけど。)とりあえず、今のぼくにでも何とか受け入れられる、「Y字路」シリーズや「二十年後のピカソ」、「集合と分散--その力と動き」あたりが、考える入り口となり得るかもしれない。
美術館から用賀の駅まで歩く間、胸焼けと原因不明のゲップがつづいた。

08/05/09(金)
●昨日はじめて講談社に行って社屋のなかに入って、『まんが道』を思い出した。『まんが道』に講談社が出てきたかどうかは憶えてないけど、主人公の二人がビビりながらも原稿を持ち込む「出版社」って、なんかこんな感じの建物(というか、内装)だったよなあと思った。天井が高くて壁が白くて、装飾的なフレームみたいに柱がある。
大江健三郎賞の対談があったところは、いかにも講堂という感じで、あんな場所が普通にビルのなかにあるのが凄い。しかも六階だし。(しかし、かかっている肖像画がダサすぎた。)事故で電車が遅れてなければ、かなり余裕をもった時間に着いていたはずで、そうすれば、もっとじっくり建物が観られたのに、と思った。あまりうろちょろは出来ないにしても。
●最近、ぼくがお会いする機会のある人で、美術関係者以外の人のなかに、会田誠のファンがとても多いことに、少なからず驚いている。しかもその多くが女性だというのも、ちょっと意外な感じだ。昨日も、
「わたし、会田誠さんすごい好きなんですよ、ほら、手帳の表紙も会田さん」
「あ、ほんとだ。ぼくこの前、会田さんとお会いしたんですよ」
「えっ、ほんとですか、すごいじゃないですか」
という話をした記憶があるのだけど、ぼくはこれとまったく同じ話を、同じこの方と前にお会いした時もしているということに気づいた。言っているその場でも既視感のようなものがあったのだが、後から考えても、間違いなく同じことを繰り返している。
そもそもこの会話って、
「わたし○○(有名芸能人とか)の凄いファンなんですよ」
「そうなんだ、オレ、○○ならよく知ってるから今度会わせてせてやるよ」
「えー、ほんとですか、すごーい」
とか言われて、いい気持ちになるおっさんと全然かわらないじゃん(というか、まさに「それ」だ)と思って、軽く落ち込む。今になって思い返して落ち込んでるのではなく、「この前お会いしたんですよ」と今、口から出ているその瞬間にもう、ああ、これ言わなきゃよかった、と後悔していた。しかもこの恥ずかしいあやまちを、ぼくは同じ人に二度も繰り替えしてしまったのだった。
(そもそもぼくはこの日記でも会田誠ネタを使い過ぎてると思う。あの座談会はそのくらいインパクトのある経験だったということなのだろうけど。)

08/05/08(木)
●講談社に、大江健三郎賞の公開対談を聞きに行った。(中央線が事故で止まっていて、間に合わないかと思ったのだが、ギリギリ間に合った。)この賞は、受賞者よりも、あくまて選者である大江健三郎中心の賞なのだということがよく分かったのだが、しかし、大江健三郎が本気で岡田利規の小説を好きなのだということも、ひしひしと伝わって来て、それにはちょっと感動した。岡田利規というあたらしい小説家が出て来たのだから、自分はもういついなくなってもいい(かなり極端な意訳)、くらいの感じだった。
その後、打ち上げに参加させていただいたのだが(勿論、大江健三郎はその場にはいないのだが)、ぼくは呑むと動くのがかったるくなって(というか基本、動くのはかったるいのだが)終電を逃して帰れなくなる。他の人たちは、お開きになると皆すーっとタクシーに乗っていなくなってしまい、ぼくと、チェルフィッチュの俳優と、元チェルフィチュの俳優の三人だけ、ぽつんと残される。とりあえず三人でタクシーで新宿まで移動して、新宿で始発までいられるところを探そうということになった。チェルフィッチュの俳優はべろべろに酔っていて、タクシーのなかでずっとぼくの肩と二の腕を噛んでいた。
新宿に着くと、チェルフィッチュの俳優は急に翌日の稽古のことが気になり出して、眠れるところを探すといって一人でタクシーで去ってゆき、ぼくと、元チェルフィッチュの俳優(初対面)の二人だけが残される。初対面とはいえ、互いのブログを読んでいるということが判明していて、というかそもそも、ぽくが「岡田利規」という名前をはじめて知って、岡田利規という人ががなんか面白いらしいと知り、出てすぐに戯曲集『三月の5日間』を読むことが出来たのは、この人のブログを読んでいたからなのだった。この人は、「ユビュ王」「三月の5日間」(初演)「労苦の終わり」に俳優として参加していて、今は東大の大学院にいるという人で、朝までやっている居酒屋で、男二人だけで地味に、ぼそぼそと、初期チェルフィッチュの話や、現在の演劇の話をして、朝になったのでした。
(実は、前日は胃が痛くて一日ほぼ何も食べてなくて、今日も、スープとチーズくらいしか口に入れてなくて、その上、用事で二、三時間しか寝てなくて、しかも電車が遅れていたので乗り換えの時とかあり得ないくらい全力で走っていたりもして、かなりだるだるで頭も澱んでいて、そんなコンディションで、結果として徹夜して朝まで呑むとこうことになって、翌日というか、今、これを書いているのは9日の昼頃なのだが、今日はさぞボロボロな一日になるだろうと思っていたのだが、今のところは軽い頭痛があるだけで、体調は問題ないみたいだ。)

08/05/07(水)
●お知らせ。「群像」6月号のREVIEW ARTというコーナーに「2つの異なる光--今澤正と福居伸宏」という文章を書いています。
●目の前に物があって、今、それを知覚しているということの絶対的な強さというものがある。テーブルの上にはコーヒーの入ったカップがあり、ぼくはそのコーヒーの色を見ているし、その香りを感じている。カップの淵にはコーヒーのしずくが溢れた跡がついている。すぐ脇にはハンガーに吊るされたジャージがあって、その赤い色は眼の隅にちらちらと入ってくる。この文の連なりを打ち込んでいるパソコンからはブーンという音が聞こえている。カーテンのない磨りガラスの窓からは外からの白い光が射している。今、見ているコーヒーの色、口のなかから鼻へとひろがるその味と香りは、それを思い出しているよりもずっと強い刺激、高い精度で、ぼくの感覚に与えられている。
美術作品がオリジナル(一点モノ)であることの意味は、ベンヤミンが言うようにアウラがどうしたということよりも、たんに物そのものがもつ絶対的な情報量の多さにある。複製された絵画は、その色彩をいかに正確に再現していたとしても、油絵の具の層構造までを再現することは出来ない(少なくとも今のところは)。その物を前にしている時に私が感じていることの全てを、私は意識的、分析的に知り、記述することが出来るわけではない。意識や分析は常に近似値であり、偏向があり、その意識や分析を図として浮かび上がらせる地そのもの(世界と身体)は、常に意識・分析からこぼれ落ちる。だから、感覚の厳密さを問題にするのなら、その絵を見た時の感覚をもう一度再現しようとするのならば、再びその絵の前に立たなくてはならない。
(勿論、意識や分析、あるいは言語のもつ「粗さ」によってこそ、物の同一性、私の同一性が保たれ、つまり、世界の安定と私の安定が保たれる。厳密に物質的なレベルで言えば、昨日の私と今日の私は同じとは言えないし、昨日のこの絵と今日のこの絵とも同じコンディションとは言えない。しかしまあ、だいたいのところ「同じ」とみなしても不都合はない、と。この「だいたいのところ」が作動しないと、世界は混沌となり、私は崩壊する。感覚の厳密性への追求と、「だいたいのところの成立(まあ、キャラクターといってもいいかもしれない)」をどのように両立させるのかは、実際に作品をつくる者としては、常に実践的な問題としてある。)
●しかし同時に、知覚と記憶とを切り離して起動させることは出来ない。知覚は常に記憶を幾分かは巻き込んだかたちでたちあがる。私は、目の前にいる「この人」が好きなのか、それとも「私の好きなタイプ」が好きなのかを、厳密に分けることは出来ない。それは常に両方でワンセットとなって成立する。
あるいは、二十世紀中盤の前衛芸術は、記憶を排して純粋な知覚のみで作品を成立させようとした。(記憶とはつまり歴史であり、歴史によって形作られた社会的階級や階層でもあるから、それを一回チャラにして平等化するため。)しかし、このように純粋化(抽象化)された作品を見るためには、実際のところは、目利きとして身体化された美術史的記憶が必要とされる。知識をひけらかす饒舌な教養-記憶は退けられても、身体化された暗黙の教養-記憶までを退けることは出来ない。というかそもそも、このような次元での記憶を失うのならば、作品というもののもつ意味そのものが失われてしまうだろう。
●そもそも絵画は、何かが描かれるものだ。牛だったり人だったり林檎だったりが描かれる。物質としてのキャンバスと絵の具の構造、それによってたちあがる色彩と形態の構造、であると同時に、そこに描かれた牛なり林檎なりの状態、という次元がある。
もし、牛を見たことがない人なら、そこに描かれているものを知ることが出来ないのだろうか。しかし、牛の絵を見ることで牛を知るということもある。牛を見たことがなくても、例えば猫や象なら見たことがあるかもしれない。そして、その猫や象の記憶と、絵に描かれた牛の状態から、牛というもののイメージが、その人の頭のなかでぐっと動きだすことがあるかもしれない。それは実際に牛を見た時に得られる感覚とまったく同じではないだろうが、幾分かは重なりあい、あるいは、牛の感触の核心のようなものに触れているかもしれない。絵を観た牛を知らない人の記憶にはたらきかけ、「牛の感触」を導き出すのは、たんに描かれた牛の図像だというだけでなく、その図像を成立させている色彩と形態の構造であり、その物質的基盤であるキャンバスと絵の具の構造であり、それが、今、目の前にあるということの強さなのだ。眼の前にあるキャンバスと絵の具という物質の現前こそが、そこにはない「牛の感触」を導くのだ。
(だから、当然のことながら、絵を観る時に必要な記憶とは美術史的なものだけではない。というか、美術史的な記憶にしかはたらきかけない絵は、きわめてか弱いものでしかない。絵を観る人は、その人自身に蓄積されたあらゆる記憶を総動員して絵を観るのだし、絵は、観るひとのそのような記憶までもを巻き込むことで、目の前にはない別の何事かを現前させる。誰もがその人のもっている限定された記憶からしか目の前のものを判断できないが、しかし知覚によって記憶が刺激され、知覚と記憶が混じり合うことで、その限定を越えることは可能なばずなのだ。そうでなければ「作品」に意味などない。)
●絵画にとって、それが目の前にあることの強さは絶対的である。しかしそれは、目の前にある物質によって与えられる感覚そのものの強さだけが重要なのではない。物質は同時に媒介でもあり、常に目の前にある以上の何かを人の頭のなかにたちあげるだろう。しかしそのためには、目の前に実物があるという、知覚の厳密さという媒介を必要とするのだ。

08/05/06(火)
●昨日の夜中から起きているので、昼前には頭がどんよりしてきたのだが、外があまりに良い天気なのでこのまま部屋で用事をしているのは勿体ないと思って、出掛けることにした。昼前からだともう千葉にある川村記念美術館にまでは行けないから、汐留の松下電工汐留ミュージアムのマティスとルオー展に行くことにした。
予想したよりもずっと良い展示だった。マティスが良いのは、まあ「分かっているよ」という感じだけど(とはいえ、実物を観る度に、ああ、というショックはある)、ルオーがこんなに良いとは思っていなかった。油絵の具で描かれたタプローの色彩が、こんなに澄んでいるとは知らなかった。今までぼくが画集で観て知っていた(知っていると思っていた)ルオーとは全然違うルオーがあった。(水彩で描かれた作品は、ぼくの知っているルオーに近いものだったけど。)
ルオーの絵の、太い輪郭線によって囲まれた単純な形態と色彩は、通常ステンドグラスからの影響だというように言われるし、実際、水彩で描かれた作品などはそのような説明で納得できるものかもしれないけど、油絵の具の作品は、おそらく絵の具の物質性が、ルオーの意図以上の何かとシンクロして、意図しなかったものまでをも引き出してしまっているという凄さがあるように感じられた。
ルオーの色彩は、ひとつひとつを取り出してみれば濁っているということになるのだろうけど、その濁った色同士の関係(響き)が澄んでいれば、作品としては澄んだ色彩という風に見える。それは、明度が低い色を使っていても、色同士の響きが澄んでいれば、明るい絵のように見える、ということと同じだ。(明るく輝く黒というものもある。)
ルオーの油絵のごてごてに塗りたくられた質感は、おそらく歳月を経たテンペラ画の風合いを感じさせるもので、擬似的な古さ(現在からの遠さ)を感じさせる。そしてその効果は、単純化され太い輪郭線で縁取られた形態や、熱く塗り重ねられた絵の具の底の方から染み出て来るような色彩の非物質性によってさらに強められ、今、ここから遠くはなれた時空を出現させる。それは遠い過去というより、この現実の底深くに隠された、古い層の出現であるかのようだ。それは、いま、ここから遠くはなれた、おぼろげな幻想のようなものなのだが、その幻想的光景の「遠さ」のリアリティは、目の前にあるごてごてに塗り重ねられた油絵の具の物質的な現前によって支えられているように思った。(逆に言えば、それがない水彩画は、やや弱いもののようにぼくには思われた。)
強引な力技ともいえるルオーの油絵と、西洋絵画の洗練の極致のようなマティスの絵のコントラストがまた強烈で、クラクラしてしまった。マティスの人物画の、赤や黄色のうつくしさには、観る度に何度も改めて驚かされる。なんていうこともなくささっと仕上げたような薄塗りの風景画(ほんとうに何て言うこともなくて、画集で観たら、ちょっといくらなんでも力抜き過ぎじゃないの、と思うようなもの)から感じられる、光と空気と、色彩の冴え。(色彩といっても、ほとんどモノクロームに近くて、派手だったり鮮やかだったりする色は使われていないのだが、そのような色でも色同士の響きによって、冴えがうまる。)適当にしゃばしゃば塗っているように見える粗い筆致の、その長さ、幅、勢い、方向の全てが、画面全体のなかで完全に計算されているとしか思えない配置。
普通、「センスが良い」という言い方のなかには、「冴えている」という意味と同時に、「上手く納まっている(落としどころが絶妙、とか)」というニュアンスがあると思うのだが、マティスはセンスが良すぎて突き抜けてしまい、納まりどころがみつからなくて溢れてしまう感じなのだ。
展覧会の最初の方に、ギュスターブ・モローそっくりの絵があって、えっ、これ誰が描いたの、もしかしてルオー? 、と思ってキャプションを観たら、実際にモローの絵だった。いきなり、「マティスとルオー展」じゃないじゃん、と思った。(ルオーとマティスは、同じ時期に共にモローに絵を習っていたので、この展示は別におかしくはないのだが。)
寝不足と、予想以上に展示がよくてがっつり集中して観てしまったことで、帰りはふらふらだった。余裕があれば上野の西洋美術館にも、と思っていたのだが、時間的にも体力的にも無理だった。

08/05/05(月)
●こまごまと忙しい。ずっと部屋に籠って淡々と用事をこなす。なかなか外に出られないのは、忙しいということもあるが、ずっと部屋で籠って用事をしていると、睡眠のリズムが滅茶苦茶になってしまうからで、ずっと単調な用事をしていると突然眠気に襲われて、そういう時は無理をしても効率が上がらないので一、二時間くらい寝てから再開するのだが、そういうことを一日に二回くらいしてしまうと、今度は纏まった睡眠の方が浅くなり、三時間くらいで目覚めてしまい、一日に浅い睡眠を二、三回とるみたいなことになって、睡眠のリズムがどんどんずれ込んでゆく。例えば川村記念美術館にマティスとボナールの展覧会を観にゆくためには早起きして出掛けなければならないし、マティスやボナールを観るのにふさわし体調にしておかなければならないのだが、早朝にすっきり目覚めるということにはなかなかならないのだった。(『インランド・エンパイア』を観た日は、昼過ぎに目覚めて、それから支度して出掛けると丁度夕方の上映に間に合うというように、リズムがぴったりと合って、すっきりした状態で観られたのだった。)
今日も昼過ぎに打ち合わせのために外出しただけでずっと部屋にいて、打ち合わせの帰りに買物をして帰ると、昨日の午前二時くらいからずっと起きているので頭が澱んでいて、早めの夕食を食べて晩の早いうちに寝ると、目覚めるのが夜中で、ということになってしまうのだった。
こんな状態をつづけるのはよくないので、この用事は五月いっぱいできっちりと終わらせたい。

08/05/04(日)
●『怪奇大家族』5話から8話をDVDで。7話と8話(7怪と8怪)があまりに面白くておどろいた。こんなに面白いドラマを、深夜ひっそりやっていたなんて。こういうのは、出来ればDVDじゃなくて、深夜になんとなく点けたテレビで、予備知識とか無しで偶然見つけて、「なんだこれは!」みたいな出会い方をしたかった。
無縁仏の死者は幽霊になっても霊界での地位が低く、皆からさげすまれるので、それならいっそ幽霊になどならずに死体のままでいようとするあぶれ者たちがいて、そのようなあぶれ者たちをあつめて、あぶれ者たちの居場所としてスナック「まあ冥土」を経営する、アウトローで、死体たちから兄貴と慕われるメメント森という人物(じゃなくて死体)がいる。「まあ冥土」には夜な夜な死体愛好者たちが客として訪れる。しかし霊界ではメメント森の存在を疎ましく思っていて、つぎつぎと刺客を送って来る。
という風に8話のあらすじを書いてもおそらく面白さは全然つたわらないのだが、とにかくこれは脚本のレベルで凄く面白い。霊界における幽霊の階層があり、その階層秩序に反するアウトローとして、生者でも幽霊でもない「物としての死体」という非公式的な位置があって、そしてそのような、本来あってはならない「意思をもった死体」たちに対して霊界が送って来る刺客がゾンビで、つまり、死体は既に死んでいるから刺客といっても殺せないわけで、しかしゾンビに噛まれれば、自らの意思で死体に留まる死体たちは、その意思を失ってたんなる自動機械としてのゾンビになってしまう、という設定がまず面白いのだった。
特に面白い7話と8話の脚本を書いたのは同じ千葉雅子という人で、この人は一体どんな人なのだろうと思って調べたら、「猫のホテル」という劇団をやっている人らしい。(でもこれは、映像だから面白いのであって、演劇としてやって面白いとはあまり思えないのだが。)この脚本を、監督の豊島圭介は、(北野武-黒沢清的な)任侠ものの感じと、ロメロ的な感じとをごちゃ混ぜにして見せるのだが、それはたんにパロディという水準を超えて、映画としてかなり質が高く作り込まれていてる。豊島監督のつくったものは、今までどれもいまひとつという感じをもっていたのだが、はじめて面白いと思った。メメント森役の松重豊のおかげで成り立っているという部分も大きいけど。でもここまで完成度が高いとB級テイストじゃなくなってしまう。

08/05/03(土)
●『インランド・エンパイア』を4回観たということは、一体、あのローラ・ダーンのどアップを何時間見つづけたことになるのだろうかと考えると、笑えてきた。ただそれだけで、相当におかしなことだ。
もし道ですれ違ったら挨拶してしまいそうだ。ローラ・ダーンがそこらへんを歩いているわけはないのだが、しかし、そこらへんを歩いているおばさんとかにいそうな顔ではある。いや、いそうでいないところが絶妙なのか。そもそも、どアップじゃないと気づかないかもしれないのだった。
だいたい、編集中のリンチは、ああでもないこうでもないと試行錯誤する間、来る日も来る日もローラ・ダーンのどアップの映像を繰り返し観ていたはずで、それも尋常じゃないことだ。本当はリンチは、その時こそ一番幸福だったのかもしれないのだが。
(あの執拗などアップの連続は、誰よりも編集中の監督こそが真っ先にうんざりしてしまいそうなものなのだが、それでも、こうでなくてはならないのだ、という確信によって、それをやり切ってしまうリンチは、やはり普通ではなくて凄い。)

08/05/02(金)
●早稲田松竹に『インランド・エンパイア』(デイヴッド・リンチ)を観に行った。四回目。最初は立川で、二回目、三回目は恵比寿で、四回目は早稲田で。ぼくは、映画をビデオやDVDで観ることにあまり躊躇はないのだが、この作品だけは、DVDでは観る気がしない。実は、一度DVDをレンタルしてきたことがあるのだが、どうしてもDVDでは観る気にならなくて、そのまま返してしまった。映画をDVDで観ることに躊躇しないのに、これだけはDVDでは観る気がしないということは、ぼくはこの作品をいわゆる「映画」とは違うなにものかとして捉えているのかもしれない。映画だろうと映画ではなかろうと、この作品が凄いものであることにはかわりはなくて、そのことを今日もまた改めて身をもって確認した。否応もなく強制的に浴びせかけられる、分割不能な塊としての三時間は、DVDのように、途中で止めることが可能な(実際には止めなかったとしても)媒体では経験不能なのだった。観る前に相当な覚悟がいるのだが、その覚悟まで含めて、この作品を観るという経験なのだ。映画が、視覚(パースペクティブ)や、時間、空間を越え出るためには、ここまでやらなくてはならないのだった。粘膜を、目の粗いやすりで擦られつづけるような三時間。とはいえ、さすがに四回目なので、全体の流れや雰囲気を前もって知っているため、多少の余裕はできて、前よりもより細かく細部の感触のひとつひとつを確かめながら観ることが出来た。(最初の一時間くらいは、けっこう笑っていた。)この映画を観る時、どうしても途中で頭が朦朧とするというか、疲労で集中が途切れてしまう瞬間があるのだけど、今回は三時間通して、割合とクリアーな状態を保つことが出来た。早稲田松竹は、いままでこの映画を観た映画館でいちばんスクリーンが小さいので、最前列で観てもフレーム全体が自然に目に入るということもあるのかもしれない。(それにしてもこの映画の顔への近さは強烈過ぎると改めて思った。ただ「近い」というだけのことが、こんなにも暴力的なのか。)
この映画では、こけおどし的な、暴力的な音が溢れているのだが、なかでも特に、電話の着信音が際立って暴力的なのだと感じる。電話のベルが響いた後では、何故か、電話が鳴ることを一瞬前から予感によって察知していたという気持ちになるのだが、それは、その音のあまりに暴力的な唐突さに対する防衛として、音が鳴った後に、クッションとして事後的に偽の記憶が過去にずれ込んで生成されるのだろうと思う。つまりそこで一瞬、時間が逆回りするのだ。そして、そのようなことを経験するということが、この映画を観るということなのだ。
「ロコモーション」や「シナーマン」を、ぼくは今後一生、死ぬまで、この映画と切り離して聴くことは出来ないのだ。それは多分ぼくだけではなく、世界中で『インランド・エンパイア』を観た人の多くがそうなはずで、それは、ミュージシャンにとってというか、曲それ自体にとって、かなり迷惑な話なのだと思う。それにしても、この映画のラストのダンスシーンは素晴らしくて、四回目だというのに、そのあまりの幸福さに、失禁するかのように泣いてしまうのだった。

08/05/01(木)
●『櫛の火』(神代辰巳)をビデオで。はじめて観たのだけど、これは神代監督のなかでも最高傑作の一つなのではないか。はじめから思い切りだるだるな感じで、決してテンションが上がることなく、終始かったるそうな感じが持続して、しかし延々と執拗に、薄暗いところで男女がひたすら絡み合っているだけ、という映画。物語的にはけっこうヘビーな話なのだが、映画としては重たいというよりダウナーな感じで、ひたすらだるだる、ぐずぐず、ずるずるで、ドラマの重さとかはどこからただだ漏れになって、どうでもよくなってしまう。神代監督の映画は皆、多かれ少なかれそんな感じではあるが、ここまで徹底して「それだけ」というのは(全作品を観ているわけではないが)他にはないんじゃないかと思う。それは、原作が古井由吉であることとも関係があるのかもしれない。(ラストシーンでは、ジャネット八田は見事に古井由吉的な「女」になっていた。)ドラマも、映画的な時間や空間も、だるだるの雰囲気のなかで、すべてがだるだるに流れていってしまうという半端ではない凄さ。さすがに神代辰巳といえども、ここまでのだるだるに達することが出来たのは稀だったのではないか。
主演の男性が草刈正雄だったというのも良かったのだと思う。例えばもしショーケンとかだったら、もっとやりすぎてしまうというか、元気が良過ぎるというか、過剰な感じがでてしまって、ここまでだるだるにはならなかっただろうと思う。最初のカットでの、草刈正雄のなんとも力の抜けたうめき声からして、だるだる感全開なのだ。このだるだる感はおそらく、七十年代という時代と不可分なもので、今、これをやろうと思っても誰にも出来ないのだろうなあ、と思った。(おそらくこの時代には「アンニュイ」という言い方で言われるものがある実質を持って存在していたのだと思う。)昔は誰もがやった(「こんばんは、森進一です」と同じくらい誰もがやった)「(歯を噛み締めたままで)こんにちは、草刈正雄です」というモノマネを、久々に思い出した。(草刈正雄、ジャネット八田、桃井かおり、高橋洋子、河原崎長一郎、岸田森、名古屋章、芹明香、とつづくクレジットをみただけで、ああ、この時代、と思ってしまう。『櫛の火』は75年公開。)
『赤線玉の井・ぬけられます』や『悶絶!!どんでん返し』のような破天荒さや、『四畳半襖の裏張り』のような端正さに依らずに、ただ神代監督のだるだるな資質のみを最も徹底して追求した、ちょっと凄い作品。

08/04/30(水)
●『電脳コイル』21話から23話をDVDで。ここまで来ても全然テンションが落ちないで維持させてるのはすごい。人を「向こう側」へ誘う力としてのハラケン-カンナというラインが一応決着をみたと思ったら、それよりもさらに深くて強い力としてのイサコ-兄のラインで畳み掛けててくるという展開には感心させられた。同じものを反復させつつ、それをより強く、より複雑なものとすることで、作品そのものの謎の奥深くまで連れてゆかれることになるし、作品としての構造も、強く複雑なものとなってゆく。あと、最初に設定された作品内ルール(例えば、オートマトンは神社や個人の家には入れない、とか)が、作品の進行のなかで破られてゆくことによって、だんだん抜き差しならない感じになってゆくという展開も上手いと思った。
「こうなった原因はすべて私にある」とイサコが言う時、最近読んだばかりのディックの『流れよ我が涙、と警官は言った』で、アリスの頭のなかによって世界全体が歪んでゆくという話を思い出した。ここでは、一人の内面的な小学生の抱く「思い」が世界を歪ませるというより、もともとあった世界の歪みと、小学生の思いとが共振することで、歪みが増幅されてしまい、それによって「思い」が「現実」にまで食い込んでくる、ということなのだろう。今までいっさいみせていなかった、イサコの家庭の事情を、ここで一瞬だけちらっと見せる、というのもすごいリアルだ。あの朝の食卓での短い会話がなかったら、その後のイサコに関する展開の説得力が全然ちがってくる。ハラケン-カンナをめぐる話の時にはすっかり前景から退いていたタイチが、また再び活躍するのもいい。場違いに「ヘイクーを俺に返せ」とか言うタイチはやっぱ良い奴だと思った。
古い空間と新しい空間との対立が、コイルズとメガマスという2つの企業の対立として説明されたり、大黒市の行政が半官半民で行われているだとか、小学校の教室が高層ビルの最上階にあったりとか(学校裏サイトみたいなのも出てくるし)、そういういかにも現代風な細部が、これみよがしではなく、作品の背景となって、作品そのものの説得力を支えているところもいい感じだ。
『電脳コイル』は、一見、古典的な物語や絵柄、古典的な動きで、古典的な子供向けアニメへの回帰のようにもみえるけど、しかし、古典的なアニメでは、ここまで深くて広がりのある世界設定はあり得ないし、ここまでデリケートな人間関係の描写もありえない。例えば、ヤサコとフミエとの距離の微妙さとか、普通子供向けアニメではあり得ないだろうと思う。「サリーちゃん」でいうヨシコちゃんキャラであるフミエというキャラクターに、こんなに複雑な陰影(時々ふっと、すごく嫌な奴の側面をみせる)をもたせるか普通、とか思う。(この作品はあきらかにキャラ指向とは逆の方向に向っている。)これはやはり大変な作品なのだと思う。

08/04/29(火)
●昨日の夕方からはじめて今日の昼頃まで、徹夜して、作家論をなんとか最後までもっていった。明日一日かけて直して、とりあえず第一稿としたい。今月中になんとかしたかったので、ちょっとほっとする。でも、徹夜なんかしちゃったので、後から冷静になると、徹夜して書いたとこ全部使えねえ、ってことにもなりかねないのだが。
ここまではもっていきたい、と思っていたところにはなんとか行けたけように思うけど、書きたいと思っていたことの半分くらいしか書けないものだなあ、と思った。作家論ではなくて、対象を一つの中編小説に絞って、作品論としてがっつり書いた方がよかったのかも、と、ちょっと思う。
●昼過ぎから三時間くらい眠って、夕方から出掛け、一週間ぶりくらいに電車に乗った。とはいえ、借りていたDVDを返しにいっただけ。(一週間前も、編集者と打ち合わせした後、ツタヤとジュンク堂に寄って帰っただけなのだった。)最近、近所を散歩する以外まったく出掛けていない。人ごみに出るとクラクラする。観たい展覧会がいくつかあって、それは絶対に見逃さないようにしたいのだが。
●作家論を書くことは、キツいけどとても楽しいことだ。でも、この後すぐ、キツくてあまり楽しくないことが待っている。これを来月中にやっつけてしまわないと、その後のこと(展覧会の準備、本のための原稿を書くこと、磯崎さんとの対談のために小説を読み込むこと等)に支障が出てしまう。でも、一ヶ月でできるだろうか(今まではそれを、二ヶ月かけてやっていた)。
花粉症もようやく落ち着いてきて、来月は、一年でもっとも良い季節だというのに、あまり出歩けないかもしれない。でも、散歩はするけど。

08/04/28(月)
●この世界には、セザンヌを分る人と分らない人がいて、そこには広くて深い溝があるんじゃないかと、最近つくづく思う。例えば、美術手帖の座談会で会田誠さんと話した時、会田さんはしきりに「自分には抽象絵画が分らないんだ」ということを言っていた。これは、半分は会田さんの「日本の抽象画」のドメスティックな特殊性みたいなものに対する、挑発を含んだ批判的立ち位置を示している発言なのだが、それと同時に、おそらく本当に、素朴に「分らない」と言っているのだとも思った。そして、抽象画を分らないというのは、要するにセザンヌが分らないということなのだと思う。
例えばゴダールは、確か『映画史』のなかで、映画は印象派を引きづく古典的な(19世紀的な、だっけ)芸術なんだということを言っていた。そこでゴダールが意識しているのはマネであって、けっしてセザンヌではない。おそらくゴダールは、セザンヌに本当の意味での興味はなく、理解もしていないと思う。おそらくそこが、ストローブ=ユイレとの決定的な違いなのだと思う。勿論それは、どちらが偉いという話ではないが。でも、映画が好きな人の多くは、マネには興味があっても、セザンヌには興味がないように思える。(勿論、マネとセザンヌには連続性があり共通性があるけど、マネからセザンヌへは、色彩や筆致の在り方において、絵画の存在形態において、決定的なジャンプがある。)おそらく現在、美術に興味をもつ多くの人も、マネならばすんなり理解出来るが、なぜセザンヌがそんなに持ち上げられるのか理解できないという感情をもっているのではないだろうか。
でも、セザンヌというのは彼抜きには絵画というものがそもそも考えられないような大きな存在で、絵画と(表象と、表現と)世界との関係の在り方に、決定的な何かを刻み付けている。それは、たんに絵の具とキャンバスでしかないものが、どうやって世界全体と触れ合うことが出来るのか、ということに関することだ。それは何も、セザンヌだけが孤独にそうだということではない。それは大きく言えばルネサンス以降、現在までの広義の近代絵画の全てにおいて中核的な問題が、セザンヌにおいて最もはっきりと容赦なく露呈しているということなのだ。だから、セザンヌさえ理解できれば、ルネサンス以降現代までの絵画の中核はほぼ掴めたということだし、逆にセザンヌが分らないというのは、ルネサンス以降の絵画を、その表面的なイメージの変遷としてしか捉えていないということなのだ。(ポストモダン以降の美術は、まさにセザンヌを理解しないということによる「自由」、セザンヌの抑圧からの「自由」のなかで展開されているように思う。それは、ルネサンス以降の広義の近代が完全に終わったということなのかもしれないのだし、そのようなものを頭から比定するつもりもないけど、ただ、ぼくにはそのような意味での「自由」は必要ない。)
多くの人は、ことさらセザンヌを持ち上げるようなタイプの人は、むつかしい理屈をこねて人を見下し、自分の優位を保とうとするような人なのではないかという感じを持っているのではないかと思う。(例えば会田さんはあきらかにそういう風に感じているのだと思った。)あるいは、モダニズムやハイアートを持ち上げる、一種の贅沢品としての文化-教養主義的な人なのだと。セザンヌに興味がない人に、無理にセザンヌを分かれとは言わないし、セザンヌを分からない奴は駄目だなどという思い上がったことを言う気もないけど(その人にとって何が重要かというのは、全く人それぞれなわけだから)、でも、それは全然違うのだ、ということだけは分って欲しいと思う。少なくとも美術という領域においては、セザンヌ以上に強烈で、セザンヌ以上に気が狂っている人は、セザンヌ以降には一人もいないと断言してもいい(と、ぼくは思っている)。それは現在地点においても、今あるどんなアート作品よりもずば抜けて強い力をもっている(と、ぼくは思っている)。少なくともぼくには、「本当に」そう見えているし、「本当に」そう思っている。(それはぼくの立ち位置とか主義主張とか利害関係とか、そいういレベルのことではない。それがぼくの「症候」であり「外傷」であり「信仰」であるということなのかもしれないのだが。)
少なくともぼくにとっては、絵を描くというのは繰り返しセザンヌを参照するということであり、セザンヌ抜きの絵画史というのは考えられない。それは絵画史のなかの任意の一点ではなく、セザンヌの作品は絵画というものの本質の一部として組み込まれており、決して切り離せない。絵を描く以上どうしたってセザンヌを無視できない。セザンヌを、たんにモダニズムの象徴だとか権威として片付けようとする人は、その作品が突きつけて来るものを正面から見ようとしていないだけだと、ぼくには思われる。別にモダニズムとか、そんな文脈なんてどうだっていいし、場合によっては寝返ったっていいけど、セザンヌに忠実であることだけは外せない。
ぼくだって、「セザンヌを見た」というトラウマ的な経験さえなければ、何と言うか、現在のアート界の世界水準を見据えて、そこでの自分の立ち位置を考えた、戦略的な作品展開をすることも出来たかもしれない(それで成功出来るかどうかは、当然、全く別の話だが)。でも、セザンヌを見てしまった以上、自分の短い人生と限られた能力のなかでは、そんなことをやっている余裕などないのだ。
人はそれぞれ、自分の持つ資質や能力や身体や立ち位置からみた、それぞれの興味と関心と利害のなかを生きるしかないのだから、全ての人にセザンヌが理解されるべきだなどとは思わないし、そもそもそんなことあり得ない。セザンヌに興味がないとかセザンヌなんか嫌いだという人でも、その人が面白い人やいい人なら是非友達になりたい。でも、作品に裸で向き合わずに、セザンヌなんて、教科書に載っているような古い絵を描く昔の人でしょ、というような、粗くて雑な「位置付け」で作品や作家を処理できると考えているような人は、軽蔑する。

08/04/27(日)
●今の時期、夜から朝にかわる時間は午前四時四十分みたいで、いつもこの時間になると、突然鳥が鳴きだす。
●『ブレードランナー』(リドリー・スコット)をDVDで。多分、十何年ぶりに観たと思うけど、こんな映画だっけ、というほど、ほとんど憶えていなかった。まあ、憶えてなくて当然、というくらいの映画なのだが。公開当時にすげーっと思ったセットというか美術というか特殊効果による未来風景は、そういうのこそが最初に古くさくなるわけで、なんかセンスのよくないところばかりが目についてしまった。これはごく普通のジャンル映画で、しかもきわめて凡庸な出来だと思う。
そもそもこの映画はディックの原作とはほとんど関係ない映画で、この映画のレプリカント(アンドロイド)は、ほぼ完全に人間としか思えなくて、ただ、特殊な立場に追いやられている人(あるいは、特殊な能力をもった犯罪者集団)でしかなくて、ディックの原作にあった、ほとんど人間にみえるのに、微妙なところでどうしても違うというような繊細なニュアンス(性的関係を持った後のリックとレイチェルの会話や、アンドロイドたちのイジドアに対する態度、蜘蛛の脚を切断するプリス等)がない。だから、完全に人間としての感情を持つとしか思えないレプリカントを(宇宙船を奪う段階で人を殺しているという理由はあるものの)平気で殺してしまうハリソン・フォードを受け入れることは困難だ。特に、最初に殺される女性のレプリカントは、何も悪いことしていないし、彼女がレプリカントであることを認定する検査さえ行われないうちに、ただベビの鱗が一致したという状況証拠ひとつで、逃げたからといっていきなり撃ち殺してしまうのは納得できない。凶暴な態度をとったわけではないんだから、まず逮捕して検査だろう、と普通は思う。そういう段取りがいい加減だとそれだけで作品に対する不信感がうまれる。それにハリソン・フォードは、一方でレプリカントであるレイチェルに同情し仲良くやっているのに、もう一方でプリスを殺すのに何の躊躇もないって、そりゃないだろうとも思う。さらに、あれだけレプリカントを殺しておいて、最後にレイチェルと一緒にどこかへ逃げようとか、そういう虫のいいことが何故平気で出来るのか。

08/04/26(土)
●『アンドロイドは電気羊の夢をみるか?』(フィリップ・K・ディック)。これはさすがに凄い傑作。特に終盤、「15」以降くらいの、まるで手を緩めないというか、まったく容赦のない展開には、一体どこまで連れてゆかれるのかと途方に暮れた。この小説を読み始めてしまったおかげで、今日はまったく作家論の原稿に手がつけられなかった。随分前に観たきりでうろ憶えだが、リドリー・スコットの映画では確か、アンドロイドの偽の記憶にからめて、アイデンティティーの危機みたいなことが焦点化されていたように思うけど、それはこの小説の重要な点をまったく取り逃がしているように思う。
この小説の、特に後半の部分を読んでいる時にずっと感じていたのは、まるで樫村晴香みたいだ、という感触だった。特に『言葉の外へ』に収録されている保坂和志との対談(とはいえ一方的に樫村氏ばかりが発言している)「自閉症・言語・存在」は、まさにディックのこの小説についての話であるかのようだ。(この対談ではこの小説の、アンドロイドが蜘蛛の脚を切り落とす場面が言及されている。)つまりぼくには、この小説に出て来るアンドロイドというのは、対談で問題となっている自閉症のことであるように思われた。
この小説を、ディックの、人間の共感能力の賛美であるかのように読むのは、あまりに単純すぎる。ここでは、高度な知能をもったアンドロイドが共感能力を持ちうるか、ということが問題になっているのでさえないと思う。ここで問題にされているのは、人間が(ほとんど遺伝的なレベルで)共感能力(=転移=感情=愛)の働きに支配されてしまっていて、決してそれを越えることのできないことの「どうしようもなさ」こそが問題となっているとしか思えない。ここに出て来るマーサー教が、すべてインチキのまがいものだったとしても、人間にとってはそのインチキこそが真実であり、人はそのインチキを真実として生きる以外に仕方がない、というような感情こそが、この小説の根底にあるように思われる。アンドロイド=自閉症とは、そのような共感能力の支配から自由である存在であって、純粋に悟性によって生きることの出来る者であり、そうであるがゆえに、共感=愛/憎しみ=転移のなかを生きるしかない人間にとって、最大の脅威であり、恐怖であり、また、そのことによって魅惑されるものでもある。
(レイチェルがリックの山羊を殺すのは、自分と同形のアンドロイド、プリスを殺されたための「復讐」でさえない、ということがリックをはげしく消耗させる。その行為が「人間」の外にあるものだからだ。しかもリックはレイチェルに少なからず惹かれている。だが、この感情にはそもそも届け先がないので、愛も憎しみも生じることが出来ないのだ。もしレイチェルの行為が愛=憎しみの作用としての復讐であったとすれば、それはリックにも理解可能なもので、レイチェルに対してなんらかの感情を作動させることができる。しかし相手がアンドロイドであり、そのような感情の受け止め手には決してなり得ないことを、リックはそこまでの経験から思い知らされている。感情は生まれても、その届け先がない。ルーパ・ラフトに感情移入出来、その死を悲しむことが出来た小説の中盤では、リックはまだ「人間の外」をみておらず、幸福であったとさえ言える。)
愛とはつまり、他者の存在によってしか自分の存在の確認(実感)をもつことが出来ないということであり、その時、その他者(相手)もまた、自分同様に、他者の存在によってしか自己確認できない存在であることが必要とされる。愛と憎しみ、共感と反感、転移等の機能は、そのような相互作用のなかで生じる。愛の機能があるのは人間だけではなく、おそらく、つがいをつくり子供を一定期間養育する必要のある哺乳動物一般に遺伝的にセットされた機能であり、それは地球上での長い生存競争と進化の過程で獲得されたもので、その作用は非常に強力なものだ。だからこそ、何らかの理由でこの機能を失調させている者は、人間にとって自身の存在そのものを危険に晒すような脅威として表象される。
フロイトは、ナルシシズム型神経症(ある種の精神病)では、転移が成り立たないから、精神分析が有効ではない、と言っている。つまり精神分析は基本的に愛の作動によって成立する技法であり、しかし人間においては、その愛を作動させる無意識が「言語のように構造化されている」ために、それは言語を媒介として行われる。だが、それは基本的には動物的な愛の作動なのだから、分析医の身体的現前(愛の対象)がなければ発動しない。想像的=動物的次元を媒介として、象徴的=言語的次元を動かそうとする。そこで、分析医の身体的現前(愛の対象)への転移が起こらない場合には、そもそもその技法は有効に働かない。つまりそれは「人間の外」を扱えない。
この小説が扱っているのはおそらく、人間が、人間の外にあるものの感触にいかに耐えられるか/耐えられないか、ということであろう。あるいは、人間の外にあるものに対して、いかに対処することが可能か/不可能か、ということだ。
(純粋な悟性として作動するアンドロイドのバスター・フレンドリーは、マーサー教がまがいものであることを「正しく」指摘するし、人間であるリックの悟性も、マーサー教を信じることが「正しくない」こと、さらに、アンドロイドを殺すことが「正しくない」ことを認識するが、同時に、人間には他にやりようがないこともまた、認識せざるを得ず、それを行うしかない。)
樫村晴香は上記の対談で、『ひとりぼっちのエリー』という自閉症の娘について母親が書いた本を、次のように語る。
《で、この『エリー』という本ですが、確かに自閉症の症候を正確に記述している。しかしこれが優れているのは、それが母親によって書かれた、つまり母親というもう一つの症候を実は記述し、しかもその母親が、自閉症という自己とは異質な存在、症候と出会い・記述・認識する過程で、自ら加工し直していく過程が描かれているからだ思います。》
《この天使は、母親が子供にもつナイーブな「同類-人間」の基準にとっては、動物、というか機械なのです。(略)母親は愛の力を信じますが、次第に、天使は動物で、愛も他人も必要ないこと、それどころか、完全に幸福で、それ自体で満ち足りていることを認識します。不幸なのは母親の方であり、関係を求めているのも、母親なのです。そしてそれを知った上で、彼女はなお、この満ち足りた存在をこちら側の世界に引き入れる押さえがたい欲求を自覚する。それは愛というより、暴力の行使で、エリーのためというより、自分のためです。つまり相手のための行為・存在として自己を信じていた幻想の破壊と共に、自分の方こそ本当は動物であることが認識され、しかもなお、その愛情は動物的なものとして肯定される。これは大きな、認識論的変更です。》
ここで、《他人》を《必要ない》というところ、《それ自体で満ち足りている》というところが、同類を必要とするこの小説のアンドロイドたちとは多少ニュアンスが異なるのだが、それ以外は、ほぼエリーとアンドロイドたちは同じ位置にあり、ここで言われている「母親」の位置に置かれているのがリックであり、そしてこの小説の読者である、と言えるように思う。
●この小説で、脚を切られるのが蜘蛛であり、最後に出て来るのがヒキガエルであることは、実際に飼われている(象徴的な意味をもっている)電気羊や山羊などよりもずっとリアルであり、強い印象を残す。あと、レイチェル/プリスというのは、ほとんど綾波レイだなあと思った。

08/04/25(金)
●散歩をしていて、道に迷うことが出来た。住んでいるところの近くは、もうかなり散歩し尽くしてしまっているので、道に迷うどころか、未知の場所に辿り着くことも困難なのだが、今日はほんの十分程度なのだけど、完全に方向を見失って、自分がどの辺りにいるのかさえ分からなくなることが出来たのだった。近所(といっても、歩いて一時間以上はかかるところだったけど)を歩いている限り、たとえ今まで通ったことのない場所に出たとしても、方向を失うということはまずないのだが、今日はすっかり失ってしまった。方向を失うためには、ただ未知の場所に出るだけでは駄目で、そこに至るまでに、いかに複雑な、つまりデタラメな経路を経たのかということが重要になる。いかに気まぐれに歩くことが出来るかということ。これに成功するのは、思いのほか難しいのだ。はじめて通る道に出たとしても、だいたいこっちの方向に、このくらいの距離歩けば、あの辺りに出るはずだというカンがはたらき、だいたいはそのカンの通りになってしまうのだが、そのカンがまったく外れてしまって、さらに見馴れない場所に出てしまったところから、えっと驚き、方向を失ったまま歩くという状態がはじまる。結局は近所なのだから、しばらく歩いていればどこかしら見知ったところに出てしまうのだが、それまでの束の間、まったくどこだか分からないところを分からないまま歩くという経験が可能になるのだ。これは本当に希有な時間なのだった。今日は、散歩は一時間くらいで軽く切り上げて、喫茶店でがっつり原稿を書くつもりだったのが、おかげて随分とたっぷり歩いてしまった。
●作家論、四十枚を越える。
●ベルトルッチ『シェルタリング・スカイ』をDVDで久々に観る。うわー、映画だなー、と思う。映画監督っていうのは、自分の欲望を実現させるために、大勢のスタッフやキャストを手段として動かしたり、大きなお金を消尽したりすることに、少しの抵抗もないような人でなければ駄目なのだなあ、と思った。(もしこの映画がこけたら、プロデューサーはどれだけの借金をつくるんだろうか、とかいうことを、撮影の時は少しも申し訳なく思わない人、というか。)
ぼくは基本的には、ベルトルッチは『1900年』でやりたいことのすべてをほぼやり尽くしてしまい、『ラストエンペラー』や『シェルタリング・スカイ』の時期は、自分が七十年代にやったことを、規模や予算を大きくして(そして中味をちょっと薄くして)反復しているだけだと思うのだが(この時期は「拡大すること」こそが目的だったのだと思うのだが)、映画というのは、規模を大きくすればそれだけでそれなりに凄くなるわけで、単純に、凄い風景が映っているというだけでおーっと思うのだし、大勢の人が動いてるのが映っていればそれだけでおーっと思うもので、しかも七十年代ほどのテンションはないにしてもベルトルッチなのだからそれは見事なもので(まだ、最近のベルトルッチほどゆるゆるじゃないし)、ひたすら豪華なマニエリスムを楽しむように楽しい。ほとんど何も考えないで、気軽にするすると観られる程度には薄くて、しかし138分の間すこしも飽きることなく常に新鮮に眼が惹き付けられるくらいに充実している。無責任に美食に徹して、わー、すげー、と思いながら最後まで観られる。そして、そのような時期のベルトルッチにとって、坂本龍一は最良の作曲家だったのだなあと思う。

08/04/24(木)
●『コンナオトナノオンナノコ』(冨永昌敬)をDVDで。悪くはないと思うし、さすがだと思うところは多々あるけど、全体としては中途半端な感じ。『パビリオン山椒魚』が派手にスベってしまったので、職業的な映画監督として、このくらいのことはちゃんと出来るんですよということを示した、というようなもののように感じられてしまった。与えられたネタを料理した、というか。
アイデアというか、小ネタというか、そういう次元で冴えた感じがあるのに、それが作品全体の構造に絡んでないから、小ネタが小ネタでしかない、という風にみえるのだと思う。特にナレーションがそうで、こんな風に中途半端に冨永調のナレーションを入れる必要があったのだろうかと思う。「亀虫」とか「ヴィクーニャ」とかでは、ナレーションの過剰こそが(言葉こそが)作品を動かしているという感じすらあったのだが、ここではたんに装飾的な過剰さしかなくて(言葉自身が独立した系として成り立つほどではなくて)、この監督は画面に自信がないから言葉を被せてるんじゃないか、という風にみえてしまう。音楽も、使い過ぎで効果が薄れるというか、中途半端にうるさい感じ(音楽それ自体はかっこいいのかもしれないけど)。主人公の女性が、同僚と大して望んでないけど他にいないからという感じでセックスしていて、しかしその同僚もまた途中で観たいテレビ番組のためにそそくさと帰ってしまい、ベッドでふてくされたまま朝を迎えるという場面の背景に音楽が流れているのだが、この場面など特に音楽がすごいうざいというか、邪魔な感じがした。ナレーションにしても音楽にしても、どちらも、徹底してやるのかやらないのかどっちつかずで、手数が中途半端という印象。
玄関入ってすぐ左にある狭い部屋(別れた恋人が同居していた部屋)がゴミ置き場みたいになっていて、そこに捨てたトウモロコシが育ってゆくという、いかにも冨永監督っぽいアイデアも、アイデアとしてはすごく面白いのに、作品の一部としてはいまひとつ生かされてなかったように思う。あと、冨永監督は広い空間というか、引いた画面が撮れないという弱点もけっこう露呈された感じで、いなくなった子供をみつけた夫婦が帰る途中にタクシーのなかから川を見るシーンで挿入される、夜の川面のカットは、ちょっとそれはないんじゃないか、こういうところをもっとちゃんとみせてよ、という感じだった。ただ、狭苦しい室内空間とか狭い庭とかの撮り方は相変わらず面白いと思う。(冨永監督には、部分的にはすごく冴えた撮り方をしているのに、別の部分ではかなり凡庸なことを平気でしてしまう感じもあって、長編一本分をちゃんと持続し切れていない、というところがちょっとあると思う。)
女優の撮り方というか、画面のなかでの女性の動かし方というか、そういうものに、冨永監督にしか出来ないなにかがあるようには感じられた。シネフィルぶった言い方になってしまうけど、下着姿の女性(つまり、ちょっと気を抜いた時の感じ、ということなのだと思う)を魅力的に撮れる監督は、才能があるのだと思う。(逆に男性は、俳優のキャラに頼り過ぎとも思えた。)でもこの感じは、この映画のような(二人の主人公の対比みたいな形で、割ときっちりと、図式的に構成されたような)物語、題材ではなく、もっと別の、(どっちに転んでゆくのか、とらえどころのない感じの)冨永監督に資質にあった題材でこそより発揮されるのではないかと思った。与えられた題材であったとしても、もっと自分の資質の方へ引き付けてしまってもよかったのではないか、と。

08/04/23(水)
●散歩の途中でふと蘇った古い記憶。学生の頃だから、もう十七、八年前になる。当時つき合っていた女の子が、大学に入って最初に借りたアパートがあまりにも不便なところにあったので引っ越しを考えていて、一緒に不動産屋をまわっていた(一緒に住むことを考えていたわけではないが、ぼくが住んでいた、つまり今でも住んでいる最寄り駅の近くで探していた)。だからそこには、不動産屋の車に乗って行ったはずだ。駅から少し離れているんですけど、とても良いところなんです、と不動産屋が言ったかどうかは憶えていない。どちらにしても、車にもバイクにも乗らないその女の子が住むために探していた部屋だから、そんなに極端に駅から遠いはずはない。その同じ日に、他にどんな部屋を見たのか、その不動産屋がどこだったのか、そういうことは全く憶えていなくて、ただ、そのアパートのあった一帯の記憶だけがある。住んでいる場所の近くのはずなのに、妙に見馴れない道を通って、周囲を高い木立に囲まれて、そこだけまわりから切り離されたような場所に、何棟ものアパートがまとまって建っていた。
そこが、自分が住んでいるところからそれほど遠くはない場所であることが信じられないくらい、雰囲気からして違っていた。まるで山奥の別荘地に入ってゆくように、軽く昇っている一本道だけが、その一帯に繋がっているという感じだった。確か、その、ゆるやかに昇ってゆく一本道の両側に、枝分かれするような細い道があって、そのそれぞれの道の先にアパートが一軒ずつ、全部で六棟だか八棟くらい建っていた。
その時見た部屋のことは全然憶えていない。ただ、その場所の、周囲からの切り離された感じと、その内部に漂う強い内輪感のようなものを印象深く憶えている。学生専用のアパートだったのか、そこには若い人しかいなかったという印象が残っている。道の脇とか、空き地になっているところとかに、何人かずつかたまって人がいて、その人たちがなんだか皆やけに楽しそうにしていて、そして皆、不動産屋の後について歩くぼくたちに親しげに声をかけてくるのだった。学生さんですか、どこの大学ですか、一緒に住むんですか、ここは楽しいですよ、是非引っ越し来てくださいよ、仲良くやりましょう。まるでその一帯が、独立したコミューンを形成しているかのような感じ。当時はまだ若かったし、今よりもずっと尖って、ギスギスした感じで生きていて(体型は今よりも丸かったけど)、見ず知らずの人に親しげに声をかけてくるようなベタベタした雰囲気を最も嫌っていて(大学のサークルの仲良しっぽさとかが大嫌いだった、今から考えればそれはたんなる自己防衛でしかないのだが)、そういう雰囲気にはほとんど自動的に、なんか気持ち悪いとか鬱陶しいという警戒感が発動するはずなのに、何故かその時だけは、その妙なくらいな生暖かくて馴れ馴れしい空気をとても好ましく感じていた。もし女の子がここに住んだら、ぼくもここの一員みたいになれるのかなあ、なとどと思ったりもしたくらいだ。
おそらく、その時に発生した自分自身の感情の動きの意外さによって、その場面を今でも憶えているのだと思う。その場所そのもののもつ特別な雰囲気が、ぼくにそのような感情の動き方をさせたのではないか、というように。というか、そこで感じた、「ここの仲間になりたい」という感情が、当時の自分の普段の感情の動きとはあまりにかけ離れているので、本当にその場面が現実であったのかが、とても怪しいとさえ思える。あれは夢だったのではないか。何か寂しいことがあって、集団のなかに暖かく迎えられることような夢を見ることを強く望んでいたということなのではないのか。そう考えると、この記憶自体が疑わしく思える。あの場所は本当にあったのだろうか。
そんなことを突然思い出したので、おぼろげな記憶をたどって、その場所のある辺りにまで行ってみようと思った。駅から、こっちの方向へ向って、これくらいの距離だったはずだ、という感じは残っているので、その辺りをぐるぐる歩いてみた。
行き着いたのは、山をざっくりと削って出来たような、割合新しめの、住宅の建ち並ぶ大規模な造成地だった。テレビドラマに出て来るような、いわゆる住宅地っぽい風景がそこにはあった。こういう場所は、平日の昼間はびっくりするほど人がいない。先までどこまでも住宅が並び、洗濯物も干され、どの家も手入れの行き届いた庭木や鉢植えが並び、ピカピカに磨かれた車があるのに、人の気配がない。ごくたまに、よろよろと歩く老人か、ベビーカーを押す若い母親か、郵便配達のバイクとすれ違うだけだ。ゆったりと幅がとられた広めの道路が、日を浴びてまっすぐにずっと先までつづいているのだけど、がらんとして何もない。こんなところをぶらぶら歩いているぼくは思いっきり不審者なのだが、ぼくはこういう人気のなさが変に好きなのだった。
結局、記憶は宙に吊られたままで、川沿いの道まで戻ってくると、川のこちらの岸から向こうの岸に渡ってロープが張られ、そこに沢山の鯉のぼりがつけられていて、川の上を風でゆったりと舞っていた。ソメイヨシノではない種類の桜(だと思う)が、気持ちの悪いほどに密集して、びっしりと満開の花をつけていた。その花の下に、花見をするというよりも日射しを避けるような感じで、何人ものお年寄りが座っていた。ぽかぽか暖かい日の川沿いの道は、平日の昼間でも人が多い。すれ違った中年の男性が桜を見て、「うざってえなあ」と言ったのが聞こえた。まさに「うざってえ」という感じで重たくびっしりと花をつけているのだった。

08/04/22(火)
●今年中には出るはずの本のための打ち合わせで編集者と会う。いままで書いた分のゲラをどさっと渡されて、あー、本当に本が出るんだ、という気持ちになる。原稿は、あと四分の一くらい残っていて、割と順調に書けていたのが、岡崎乾二郎論が、途中で停滞して、そこでちょっと止まってしまっている。それは岡崎さんがすぐれた作家であると同時にすぐれた理論家でもあるからで、岡崎さんの作品について書いているつもりが、突っ込んで行こうとすると、いつの間にか岡崎理論の後追いになってしまうという罠にはまってしまうからで、そこをどう突破するのかというのが、思いのほか難しい。それを書いている時目の前に、実際に岡崎さんの作品があるわけではない、というのも、難しさの一因だ。(古くからの岡崎マニアなので、図録は沢山持っているのだが。)
本の内容は、大雑把に、映画と演劇についての章、美術についての章、思春期について(つまり、アニメとラノベについて)の章の、3つの章で、全体を通してイメージのあり様について考察する、という感じになる。思春期について、というのがちょっと唐突という感じがするかも知れないのだが、ぼくにとって、イメージの問題は、感情の問題と切り離せないものなのだ。(ラノベといっても、思いっきり拡大解釈した意味でのラノベで、いわゆるラノベからは大きくズレている。例えば初期の橋本治とか。)文芸誌に発表した、現代文学についての文章はこの本には含まれない予定。
美術についての章に書いた小林正人論は、編集者が個人的にはこれが一番面白かったと言ってくれたのだが、小林論の主要な登場人物である、小林正人、バーネット・ニューマン、クレメント・グリンバーグという3つの名前が、一般の読者にはほとんど馴染みがないものなので(というか、美術に馴染みがある人こそ、グリーンバーグという名前をみただけで、ゲゲッといって敬遠する人が多いと思われ)、もうちょっとわかりやすい説明を入れて欲しいと言われる。ぼくの書くものはおそらくそれなりにややこしいもので、そうそう気軽に読めるものではないかもしれないし、それは半分はぼくの頭が悪いための整理不足せいもあるのだが、半分は、ややこしい問題を考えているのだから仕方がないという側面があって、ただそれでも、読者に予備知識を要求したり、固有名の乱舞でこけおどしをしたりするような文章には絶対したくなくて、基本的には丸腰で丁寧に文章を追っていきさえすれば理解できるというものにしたいのだけど、美術について書くときは、どうしても必要以上に熱くなってしまって、それが結果としてバリヤー(ATフィールド?)を形成してしまって人を跳ねつけてしまうということになりがちで、そこは気をつけなくては、と思う。(それは、分かり易いようにレベルを下げるということではなく、レベルを下げたくないからこそ、来る者を拒むような、余計な障害は取り除いて開かれたものにしたいのだ。)あと、もうちょっと改行を多くしてくれと言われる。
早ければ七月、遅くても九月に出せるようにということで、目標としての締め切りが具体的に設定され、厳しいなあと思う半面、ああ、本が出るんだ、という盛り上がりも徐々にに湧きつつある感じ。
●ぼくの本とは別に、もうすぐ出るものから、まだ正式には企画が通っていないというものまで、進行中の企画を編集者から聞いて、そのなかには楽しみなものがいくつかあった。

08/04/21(月)
●喫茶店で作家論のつづき。(この喫茶店は、建物の二階にあるチェーン店で、タバコは吸わないけど、ぼくはほとんど窓際の喫煙席に座る。書いている対象の作品と妙にリンクしている。)25枚を越えた。ここまではなんとか辿り着けた。でも、この先がさあ大変。ここで一旦仕切り直して、もう一度作品をじっくり読んで、この先の作戦を考えることにする。
それとは別に、『流れよ我が涙、と警官は言った』(フィリップ・K・ディック)を読み終えた。第一部でのジェイスンとキャシイとの会話で、この作品のネタはだいたい割れるのだけど、第二部になって出て来るフェリックスとアリスのバックマン兄妹の登場が、この作品世界のねじれをより一層複雑にする。この世界のねじれがキャシイではなくアリスによるものであること(しかし実はキャシイの存在こそがアリスによる世界の歪みに説得力を与えていること)、そして、表の主人公がジェイスンであるにもかかわらず、この小説全体としては、主人公のジェイスンの世界でもなく、世界を主観的に歪ませたアリスの世界でもなく、フェリックスの世界として収斂されること(まさにタイトルの通りに)。このような複雑な多視点的な構造が、これらの登場人物のすべてを同等な重さの存在にするのと同時に、作品の歪みを解き難いものにしている。そしてさらに、第四部で、それら人間たちの関係-感情によって複雑に絡んだ世界のあり様は、一個の青磁の花瓶という物によって俯瞰的に一気に相対化される。まるで作品全体が一個の花瓶によってみられた夢であるかのように。あるいは、この花瓶が人間たちすべての墓であるかのように。このあたりはちょっと小林秀雄みたいだ。
メアリー・アンは勿論だが、ほんのちょっとしか出てこないモニカ・ブッフという人物がとても印象的だ。おそらく、70年代のアメリカ西海岸とかには、キャシイやモニカみたいな感じの女の子はけっこういたのだろう。あと、主人公のジェイスンが「スイックス」であるという設定が微妙な感じだ。物語だけを考えれば、たんに性的に魅力のある有名人というので充分だと思うのだが、ここでわざわざ、遺伝子操作によって人工的につくられた「特別な存在」でありつつ、今では既にその「特別さ」が殆ど意味をもたず、忘れられている、という感じが、ディックにとって必須だったのだろう(性的に魅力があるという以外に、どういう風に特別なのかよく分からないのだが)。これはむしろ、ジェイスンの特性として必要だったというよりも、ジェイスンの「特別さ」に対するフェリックスの感情の綾(スイックスに対抗するためにセヴンを仮構するというような)として、必要だったのかもしれない。

08/04/20(日)
●『呪怨-パンデミック』(清水崇)をDVDで。最近、全く映画が観られない。映画館に足が向かなくなってしまったし、DVDをレンタルしてきても、だいたい最初の10分くらいで、もういいや、と思ってしまう。(で、ダンスのDVDばかり観ている。)しかしこれは最後まで観ることができた。最後までちゃんと観られたのはフィンチャーの『ゾディアック』以来だと思う。
清水崇のつくった映画の全てが良いとは思えないけど、一歩一歩着実に良くなっていて、そこが凄いと思う。『呪怨-パンデミック』はほとんど一瞬もだれることなく最後までゆく。清水崇という監督はいわば徹底して小ネタの人で、ホームランが打てないというか、一本一本丁寧に単打とかバントとかを重ねてゆくしかない人だと思うし、その小ネタそのものも、「呪怨」シリーズをずっと観続けてきた者には、どこかで観たようなものが多くて、新鮮味はなく、有無も言わせず引き込まれる(例えば『悪魔のいけにえ』みたいな)ということは基本的にないのだが(だいたいもうホラーなんてネタが尽きているといえば尽きているのだし)、しかし、その一つ一つの小ネタが確実にブラッシュアップされていて、しかもネタ同士の関連も緊密になって、かなり凄い作品だといってよいと思う。監督としてはおそらく、もう「呪怨」はうんざりで、もっと違うことをやらせてくれよ、という感じなのだろうけど、ここまで執拗に繰り返したからこそ(繰り返すことが、そもそも「呪怨」の重要なテーマなのだし)、ここまでの完成度に至ったのだ、という凄みがある。
基本的に小ネタの人だからこそ、全体をつまらない物語に収斂させることなく、一つ一つの細部の感触だけで映画を成立させることが出来ていて、そのことがこの映画の確固とした強さになっているのだと思う。途中で、カヤコの母親の話が出て来たところで、徹底して根拠がないところがこのシリーズの過激なところなのに、話の根拠をそっちにもっていってしまうと『リング』みたいになってつまらなくなってしまうのではないかという危惧が一瞬あったのだが、話がそっち(つまり「根拠」に頼る方向)に行きそうになっても、ギリギリのところで、あくまで小ネタの精度の方へ、細部の感触の方へと戻って来て、ああ、さすがだ、やはりこの監督は信用出来るのだ、と思う。(もしかすると「根拠」にもってゆくことで「呪怨」のシリーズを終わりにさせたいのだろうか、とも思ったのだが、結果としてそうはなってなくて、このシリーズはきれいには終わりようがないのだ、そこが最も「恐い(リアルな)」ところなのだ、という所に戻ってくるところが信用出来る。)一度「根拠」の方に行きかけて、再度、最初の事件の無根拠な反復へと戻ってきてからの展開は凄くて、アメリカから姉を追ってやってきた女の子と、最初のカヤコの事件とがぴったりと重なる展開のところなどは、この映画作家の資質の最もすぐれ部分があらわれていると思う。(なんというか、ブレッソン的に断片化されたタルコフスキーというか。)
清水崇は空間の描写が丁寧で、ホラーというのはつまり、客観的なカット割りのなかに、いかに(得体の知れないものの)主観的な気配を混ぜてゆくか、ということで、それはつまり、客観的な空間を組み立てながらも、そこにどのような歪みや隙間をつくってゆくのか、ということで、この映画はほとんどそれだけで出来ているといっても良いと思うのだが、同じネタを何度も何度も反復することで、その精度が凄いことになっていると思った。あと、清水監督はキャスティングのセンスが絶妙に良い(特に女の子の)といつも思うのだが、それはアメリカの俳優に関しても充分に発揮されていると思った。女の子が三人並んで歩いているだけで、その関係が一瞬にして察せられてしまう、みたいな配置の仕方をする。こういうのが上手くないと多分ホラーは出来ないのだろうう。

08/04/19(土)
●喫茶店で作家論のつづきを書く。ここ二日くらい停滞していたのだが、いままで書いたところを直すことで、少し先まですすんだ。なんとか論を書くことでいいのは、書かなければそこまでは読み込めなかったというところまで読めて、新たな面白さを発見出来ることだ。しかし、そこで体感したことの全てを書けるというわけではないのがもどかしい。(あたりまえのことだが、書くということは、読むということとぴったりとは重ならない。)それでも、その(必ずしも「書く」ことに現れないかもしれない)読む体感-経験はぼく自身にとってはとても貴重なものだ。
ディックを少し読んだ。

08/04/18(金)
●昨日の夕方、わりと近くに住んでいるという、偽日記を読んでます、という若い学生の方とお会いして、少し話をした。いろんな話をしたのだけど、ぼくにとって特に印象深かったのは小島信夫の話で、その方は小島信夫がすごく好きだという人で、特に『別れる理由』が圧倒的にヤバくて凄いとのことだった。『寓話』や『菅野満子の手紙』になると多少マイルドになるけど、『別れる理由』はヤバさや不穏さが全開で、特に三巻目の後半は尋常ではない、ということを熱く語るのを傍らで聞いているうちに、これはぼくも『別れる理由』をちゃんと通して最後まで読まないといけない、いや、読みたくて仕方がない、という気持ちになってきた。(その人が言うには、四人しか入れない部屋に四千人詰め込んだら部屋が壊れた、みたいな小説だ、と。)
ぼくは長い小説を読むのがかなり苦手で(というか、本を読むこと自体が苦手なのだと最近つくづく思うのだが、特に小説は全身で持っていかれる感じなので、そこに長く留まるのはかなりキツい)、カフカの『城』やベケットの『モロイ』くらいがギリギリ精一杯みたいな感じで、トルストイとか本屋で手に取ってパラパラするだけで途方に暮れてしまうし(トーマス・マンだったらいけそうな感じ、読んでないけど)、大西巨人とかプルーストとかムージルとか、本が並んでいるのをみただけで気後れしてしまう。小島信夫も『寓話』はなんとか最後まで辿り着けたけど、『別れる理由』は手を出すのに躊躇する感じだった。要するに長距離を走る体力がない、あるいは、長い距離を走る走り方が分かっていない、ということなのだけど、特に小島信夫は、大して長くない『抱擁家族』を読み通すのに、どれだけ苦労したか(これは、面白くないということではなく、あまりにも濃いので)ということを考えると、「三巻目の後半」まで本当に辿り着けるのかは、とても心もとないのだが。
ともあれ、そのためには本を手に入れるところからはじめなくてはいけない。ウェブの日本の古本屋で検索すると、三冊揃いで一万二千円から一万五千円くらいだ。先週、二万円分もラカンのセミネールを買ってしまったばかりなので.....。
●そんなことを言いつつも、今日も本を衝動買いしてしまった。『メタ構想力---ヴィーコ・マルクス・アーレント』(木前利秋)という本で、著者についても、扱われている内容についても何も知らないのだが、書店でなんとなく手に取って、「あとがき」に惹かれて買ってしまう。まだ第一部の第一章をさらっと読んだだけだが、期待がもてそうな感じ。以下、あとがきの引用。
《ひとはよく、いまここにはいない他人が何をどう思い何をなぜ考えているのか、あれこれ推測したり思案したりする。他人の身になって考える、相手の立場に立って想像するなどという。カントも「すべての他者の身になって考えること」を「視野の広い思考様式」だと言った。すべての他者には当然ながら現にここにはいない不在の他者も含まれる。簡単に言えばこうした他人が考えていることについて自分が考えてみること、表象の表象、広い意味での他者の構想力にかんする自己の構想力、メタレベルにおかれた構想力というべきものが主題としたモティーフである。》
昨日お会いした人ともちょっとだけ話したのだが、小島信夫のひたすら長くなってゆく時期の小説を貫いている関心も、このようなところにあるのではないだろうか。
●本屋で「美術手帖」をみかけたのだが、付録が紐で括り付けてあるのために立ち読みができないようになっていた。1800円もする雑誌を、中味を見ないで買うことはなかなかないんじゃないだろうか。

08/04/17(木)
●お知らせ。今日発売の「美術手帖」五月号(特集あらうんどTHE会田誠)に、「先生、僕に「絵画」を教えて下さい!」というタイトルで、会田誠、彦坂尚嘉、辰野登恵子との座談会が載っています。カラー写真付き。ぼくは真っ赤なジャージを着ていますが、これは、人気有名アーティストや大御所の方々に気圧されないように、気合いを入れて行ったということのあらわれです。つまり、それだけビビっていたということです。
タイトルからして、会田さんの「ネタ」っぽさ全開で(とはいえ、ネタの一端を担うにはぼくではあきらかに役不足で、「岡崎乾二郎」という名前がない時点で、そもそもネタとしてはインパクトに欠ける、ということになると思うのだけど)、このお話を受けるかどうかはかなり迷ったのですが、お会いした印象では、ネタ感はむしろ希薄で、会田さんは、思いのほか真摯で率直な方だと感じました。ただ、座談会中の辰野さんの発言にもあるのですが、「その正直さって本当なの」という疑問がないわけではありませんが。
もともとぼくと会田さんとでは、美術に対する考え方が根本的に違うし、何よりも作家としての評価が天と地ほど違うわけで、まるっきり違うからこそかえって話しやすかったという感じは、ぼくの方としてはありました。紙面では採録されていないローカルな美大ネタみたいな話で、ああ、同世代なんだなあ、と感じるところも多々あったりもしました。実はぼくは、会田さんの学部の卒業制作「死んでも命のある薬」を、リアルタイムで芸大の卒展で観ているのでした。会田さんのモチベーションを支えるものとして根強くあるように感じられる、80年代後期から90年代初頭くらいのバブリーな日本のアートシーン(というか、美大シーン?)への違和感や嫌悪感みたいなものも理解出来ないではないし、会田さんの仮想敵である「抽象画」というのは、おそらくそういうものの象徴なのだろうとも思いました。会田さんからみれば、ぼくなんかは、その敵の末裔のザコキャラみたいな感じなのだと思います。
雑誌全体(会田さんの特集だけじゃなく)をパラパラと眺めて改めて思うのは、自分がいかに「現代アート」の世界から浮いているか、ズレているか、場違いであるか、という感じです。そんなこと今頃気づいたのかよ、って話ですが。

08/04/16(水)
●一駅となりの家電量販店まで歩いて、ファックスのインクフィルムを買って、帰って電話機にセットして、送信されてきたゲラを受信し、直してそれを送信してから、今日はなんとしてでも、ずっと書き出せないでいる作家論を、とにかく強引にでも書き出してしまわなければと気合いを入れ、ノートパソコンを持って喫茶店に出掛け、書き出す。出だしの七枚くらいを書く。なんとか滑り出せたが、これが、おぼろげに「ここが重要」と思っているところまでちゃんと辿り着けるのか、そして、未だおぼろげである「ここが重要」ということに、明確な形を与えられるのかは、書いてみなければなんとも言えない。先の方を見過ぎないで、ちょっとずつ進んでゆくつもり。
とはいえ、作家論にしろ作品論にしろ、それを書いている間は頭を常にそのことでいっぱいにしておく必要があって、それ以外のことに使えるスペース(容量)がきわめて狭いものになる。このテンションはそんなに長くはつづかないので、テンションのつづく期間のなかで、ある程度のところまではやり切ってしまう必要もある。それ以外のやらなければいけないことがいろいろと棚上げにされるわけだし、やらなければいけないことは後にひかえてもいるので、今月中には作家論にある程度の形がみえてこないと、その後がきつくなる。ここ一週間から十日くらいは、気が抜けない感じだ。でもまあ、一日で集中出来る時間は限られているので、それ以外の時間は、普段以上にぼーっとして過ごすことになると思うけど。

08/04/15(火)
●ずっと部屋にいて原稿を書いていて(でも全然書き出せてないんだけど)、外出は食料を買いに行くだけという生活を何日かつづけていると、ヒゲも剃らないし洗髪もしない(最近、髪が長いので洗髪が超面倒臭い、洗うのも乾かすのも面倒だし、かといって切りに行くのも面倒だ)ので、何かだんだん爛れた感じになってくるから、今日は、出掛ける予定も人と会う予定もないけど、とりあえず朝起きたらヒゲを剃ることにした。せっかくヒゲを剃ったので意味もなく外に出て、一時間くらいぶらぶら歩く。ちょっと歩いただけなのに、汗をかいて全部着替えなくてはならないくらいに暖かい日だった。どこの空き地も、雑草の緑が濃くなっている。
●『三月の5日間』をDVDで観ていて、ミッフィーちゃんが自分の「勉強部屋」について語る短いセリフにグッときた。(ちょっと、キューカーの『素晴らしき休日』を思い出す感じ。)この、ミッフィーちゃんが自分の勉強部屋でウェブ日記を書く時間が、この後の『ゴースト・ユース』での、主婦の午前の仕事と午後の仕事の合間のなにもしなくていい三十分や、『フリータイム』の朝のファミレスでの三十分に繋がっているのではないかと思った。『三月の5日間』では、渋谷での「奇蹟の5日間」に至るミノベくんとユッキーさんの出会いがある一方、対照的に、奇蹟なんかに全然至らない、アズマくんとミッフィーちゃんとの映画館での出会いがあって、この後の作品の展開との関係では、むしろ後者の方が重要であるようにも思える。
ぼくは「労苦の終わり」は戯曲を読んでいるだけで、それはテキストとして読むとちょっと冗長のように感じるけど、最後の方で、これから結婚しようとするジュンちゃんが、電車のなかで眠って夢をみるシーンがあって、このシーンが素晴らしいと思うのだが、このシーンは、『フリータイム』の三十分とも、「私の場所の複数」の、部屋でうだうだしつつ夫を思っている感じともつながっているように思え、作家としての岡田利規の資質の基底にあるのは、この感覚なんじゃないかと感じた。
(ミッフィーちゃんやジュンちゃんにしても、『ゴースト・ユース』や『フリータイム』にしても、「私の場所の複数」にしても、岡田利規の資質がもっとも現れるのが、いつも女性の登場人物を通してだ、というところも面白い。ぼくは、小説「三月の5日間」はあまり良いとは思えないのだが、最後の方で女性の語りになるところでは、ぐっと面白くなるし。)
●夜、食料の買い出しから戻ると、ファックスが、受信中のインク切れで途中までしか印字されていなかった。でも、これから再び出掛けて、一駅となりの家電量販店まで行く気力はなくて、本当は急いだ方がいいんだけどと思いつつ、明日に先送りすることにした。

08/04/14(月)
●昨日、今日と、ほぼ一日中パソコンの前に座っていて、原稿を書き出そうとして、書き出せないまま、パソコンの前にいるままで本を読んだり、ネットをみたり、何度も意味なくメールをチェックしたり、また本をパラパラめくり返したりして、一日が過ぎてしまう。書きたいことがないわけではなく、それをどこからはじめるのかもだいたい決まっているのだが、どうにも踏ん切りがつかない。むしろ、書きたいことがいろいろあり過ぎて、整理が難しいというくらいなのだが。機が熟するのを待っているのか、それともたんに面倒なことを先送りしているだけなのか。
他にもやらなければいけないことが、段ボール箱二箱という物質的な現前として、目の前にあってプレッシャーをかけてくるのだが。

08/04/13(日)
●近代が、科学やテクノロジーの発展によって人間の能力がどこまでも拡張してゆくと信じられた時代で、近代、あるいは現代芸術が人間の感覚や認識をどこまでも拡張させ、更新させててゆくことを目的としたものだとするならば、それはほぼ六十年代くらいで終わっている。(いや、おそらく本当は三十年代くらいで終わっている。)それは、テクノロジーの発達が、人間の力の拡張という「希望」の「比喩」として機能していた時代が終わったということだろうし、(近代の理念そのものである)共産主義が、人間の社会のあらたなあり方の「希望」としてあり得た時代が終わったということだろう。(六十八年とはおそらく、希望のはじまりではなく終わりなのだ。それ以降、科学やテクノロジーの発達や社会の変化や「政治」は、資本と結びついて自動的に進行してゆく止めることの出来ない何かで、つまり人間はそれを再帰的にデザインし制御することは出来ず、自然の移り変わりや時間そのもののように絶対的で、「希望(理念)」とはほとんど関係がなくなった。)
でもそれは、近代芸術、あるいは現代芸術の作品そのものの意味が終わっているということではなく、それを感覚や認識の意識的な拡張や更新の(広義の「再帰性」の)道具としてみるという、狭くて浅くて粗い見方が終わったということでしかない。すぐれた作家は(近代、現代作家も)、もともとそんな狭くて浅くて粗いところだけで作品をつくっていたわけではない。
デュシャンでさえ、おそらく共産主義に希望をみていた。でも、彼の作品はそれとはほとんど関係がない。多くの誤解をうけているが、デュシャンは多分、「美術の更新」(つまり、古いものを否定して先にすすむ、みたいなこと)などには何の興味もなかったと思う。(デュシャンによるマニフェストなど想像出来ない。)彼の作品はただひたすら自分自身の欲望のあり様に忠実に、自身の感覚的経験そのものを問題にしているだけだろう。(デュシャンの「便器」を、美術史上の文脈操作の問題として読むのは、デュシャンではなく、それを観ている観客の欲望であり、彼の後につづいた作家や批評家の欲望であって、デュシャンの作品の偏った縮減的要約でしかないだろう。)デュシャンは、マティスにおける色彩の効果を考えるのと同じようにして、自身のレディメイドの効果や極薄について考えていたはずなのだ。(それはおそらく、人間の感覚的な経験が、必然的に「人間」や「現実」からはみ出してしまうということについての探求であるはずだ。このようなことを言うと、そんな考えはオウム事件で破綻したはずだとか、そういう狭くて浅くて粗いことを言う人がいるのだが。)
●例えば、ドゥルーズの、領域化-脱領域化-再領域化みたいな話は、脱領域化がエラくて価値のあるもので、領域化や再領域化という権力に対する抵抗だ、というような単純でアナーキーな話ではないはずで(実際、ドゥルーズは、芸術はリトゥルネロによってある小さな領域をつくることからはじまると言っている)、それは月の満ち欠けのような世界の自動的な進行のあり様の一つのモデルで、領域化があれば必ずそこからこぼれ落ちるものがあり、しかしそれはまた必然的に再び領域化される、というようなことで、すぐれた作家(芸術家)はそれらの動きの全てを同時に扱う(あるいは、それらの全ての力に貫かれる)のであって、いま、よくありがちな芸術家=ハッカーみたいないかにも文化左翼っぽい単純な捉え方もまた、決して間違っているわけではないにしても、狭くて浅くて粗いものでしかなく、スローガンとして威勢がよい(それを言っている人にとって気持ちがいい)という以上の意味をもたない。(ドゥルーズにも、多分にスローガン好きのところがあるのは確かだけど。)おそらく、作家はそれとは別の場所で考える。

08/04/12(土)
●「なんとか論」を書くというのは、まずなんといっても一義的には愛と尊敬の行為以外のものではなく、対象に対する愛や敬意がなければ、わざわざそんなに詳細にしつこく作品を読み込むことなんて、面倒くさくてとても出来るものではないし、大してシャープではない頭を酷使するのは、そもそも相当しんどいことなのだ。ぼくは、出来ることならば常にぼんやりとしていたい。
ただ、分析するという行為は愛や尊敬の営みとは両立しがたいところもあって、それはどうしても、冷たく残酷に自動的に進行するもので、しかし完全な中立、中性として作動するということでもなく、下手をすると逆向きの意地の悪い感情のスイッチが入り、何かを暴きたてる時の下品な欲望とその歓びが作動してしまう危険が伴う。そしてさらに、愛と敬意の間には埋め難い微妙な違いがある。しかし同時に、敬意としての愛と、より動物的、原初的な愛とは、本来未分化なもので切り離しがたくもある(厳しい緊張を伴った尊敬すらも、おそらく動物的な愛-密着の感情を基盤としなければ成り立たない)。愛(愛着、密着)を前提としたべたべたしとあられもないうっとうしさと、何かをあばきたてることで自分の優位を確保しようとする幼稚で下品な欲望(「正しい」ことを主張する人は、大抵このような欲望に捕われているにすぎない)との、どちらをも遠ざけて、敬意による緊張-愛によって、あくまでも理知的に振る舞うというバランスを保つのはとてもむつかしい。
そもそも、感情を排して冷静に、ニュートラルに、と言う時に、そのような冷静な態度を実現させるものは、「感情を排したい」という強い感情-欲望であり、それが感情-欲望である以上、そこには必ず決してニュートラルではない偏った原因があるはずで、しかし、人はしばしば、ニュートラルでありたいと望むニュートラルではあり得ない欲望、中立的でありたいと願う偏った欲望、冷静でありたいと願う熱い欲望の存在(その作動)に気づかない。(似非科学をことさら批判しようとする人を動かす欲望は、似非科学を信仰したいと望む人の欲望と、同じくらいに偏っているのだという事実を、批判する人は知っていなければならないと思う。)
さらに、もし仮に、そのようなバランスがとれたからといって、一体何になるんだ、という根本的な疑問もある。うっとうしくてみっともなくてフェアじゃなくても、あられもなく愛のよろこびに溺れた方が、ずっといいじゃんか、というような。あるいは、愛などといううっとうしいことさえも遠ざけて、ただぼんやり、まったりと、ぽかぽかと日にあたって、ひきこもって、あるいは節度ある限定されたゆるい社交の空間のなかだけで、平和に暮らせればその方がずっといいではないか、と。(ぼくは、ほとんど常に後者を望む。)
ただ、高度な作品そのものがもつ厳しさや強さや切迫性だけが(そこから垣間見られる「現実」の手触りだけが)、そこに緊張をはしらせ、感情の流れを押し返し、理性を要請してくる。(つまり、作品の「質」が問題とされない場所では、理性は作動しないだろう。)

08/04/11(金)
●通い慣れた道を歩いている時に、ふと目が覚めて、歩きながら眠ってしまっていたことに気づいた。夢のなかで、とてもうつくしい夕日を見ていたような気がする。以前にも、こんなことが何度があったという記憶が、強いリアリティを伴って蘇った。そのまましばらく歩いているとまた目覚め、普通に部屋で寝ていて、いままでのことがすべて夢だったことを知った。夢のなかで感じた、いままでも何度かこんなことがあったという偽の記憶の、強いリアリティの感触が、強いリアリティのままで残った。

08/04/10(木)
●必要があって「わたしの場所の複数」(岡田利規)を、ほとんど一行単位でメモをとりながら読む(それはちょっと大げさで実際には2、3行ごとくらいかもだけど)ということをやっているのだけど、そうすると、この小説がいかに緊密に構築されているのかが分かってあらためて驚く。ゆっくりとたちあがり、細かな振動(あるいは断層)が徐々に増幅され、不安定にゆらゆら揺れながら力を溜めて、ある地点でふいにジャンプする、という運動が何度か繰り返されることで、奇跡的なラスト(というか、隣りの女の視線)に到達する。(この女の視線を、ぼくは以前書評で、ちょっとわざとらしいのではないかという風に書いたことがあるのだけど、完全にぼくの読み方が間違っていました。ごめんなさい。ここに到達するためにすべてがあるとさえ言えるのかも。)詳しい分析はここでは書かないけど、部屋のなかで一人の女性がごろごろしているだけの小説なのに、ほとんどジェットコースターみたいな動きを感じる場面さえある。
しかし驚くのはその緊密さそのものだけでなく、夫婦の感情が切迫してくる場面になると、作品のなかに引きずり込まれてしまい、「一行ごとにメモをとりながら読む」というようなことがまったく不可能になってしまうというところだ。あらゆる歯車がかみ合っているような緊密な構築性と、「この時」だからこそこのように書けた(「この時」でなければこうは書けなかった)というようなあやうい一回性とが両立している感じにはらはらする。
(多分、あとでいくらでも直せる、という意識で書くと、後者が決定的に失われるのだと思う。)

08/04/09(水)
●「新潮」5月号の「小説をめぐって三十七」(保坂和志)のものすごい圧力(筆者の頭のなかの発熱や振動がそのまま伝わって来るような)に押されるようにして、本棚から「I.W---若林奮ノート」を取り出して読んでいた。若林奮の文章は、魅力的だけど難解で、ところどころほとんど意味が取れないところがある。しかし、その意味不明なところまで含め、このようにしか書き様がない、このように書かれる必然性がある、というようなものになっているので、その分からなさを噛み砕かずにまるごと受け止めなくてはならない。磯崎憲一郎の文章や、保坂和志の文章や、若林奮の文章を読んでいると、文章を書いている時の自分は、全然芸術家じゃないなあ、と思う。絵を描いている時は、分かり易さとか通りの良さなどはまったく考えずに(そんな余裕はない)、ただひたすら「これ以外にありえない」という地点を探しているのだけど、文章を書く時ははじめの発想からして違うのかなあ、と。
ただ、50枚とか60枚とか、ある程度のまとまった長さのあるものを書く時は、先がみえないとか、余裕がないという点で、多少は絵を描く時に近づいているのかなあ、とも思う。10枚くらいだと、ある程度フレームがみえているから、どうしてもフレーム内の配置とか操作のような感じになるけど(フレームを空間的に把握すると時間が消えてしまう、絵を描く時は、はっきりとフレームが見えているにもかかわらず、あたかもそれが把握できていないかのような状態で描くにはどうればよいのかが、大きな問題となる)、50枚とかだと、(ぼくにとっては)フレームが大きすぎて全体をあらかじめ把握できないから、後でつじつまがあわなくなるかもしれなくても、端っこから一つずつ順番に書いてゆくしかしょうがない、という感じになる。

08/04/08(火)
●「眼と太陽」(磯崎憲一郎)をもう一度読んだ。(『肝心の子供』をはじめて読んだ時には、その日のうちに三回繰り返して読んだのだったが。)とりあえず一度は最後まで読んでいるので、全体の流れなどは分かっているはずで、最初に読んだ時よりは多少は余裕をもって読めるかと思ったのだが、最初の時よりもさらに動揺させられた。この小説を読むという経験はまさに「動揺させられる」という感じで、『肝心の子供』の、世界の内側にいるのか外側にいるのか分からないような不思議な感触とはまた違って、右も左もわからないままで世界のただなかに放り込まれる感じなのだった。
●主人公の仕事仲間で、いつも近くにいながらもその存在感の希薄さでかえって印象的な遠藤さんという登場人物がいて、その遠藤さんが突然、過去にあったピアニストとの恋愛の話を長々とするところがあって、そのピアニストの彼女の演奏会に行ったら、隣りの席に彼女の父親としか思えない人物が座っていて、なぜかすごく不機嫌そうだったという場面で、次のように書かれている。《咽びながら俺を睨みつけ、そのままいまにも胸ぐらをつかんで、座席のかげに倒し、思い切り殴りそうだった。》「いまにも」と「殴りそうだった」によって、実際に俺-遠藤さんが殴られたわけではないと分かるのだが、しかし、意味として、実際に殴られたわけではないと分かるのは「いまにも」と「そうだった」によってだけなので、それを読んでいる側は、イメージとしてはほとんど「殴られている」ところを想起してしまうわけで、このようなイメージと意味との分離というかズレみたいなものの作用が、この小説ではかなり大きなものとしてあるように思った。実際に起こらなかったことも、そう「書かれている」以上、起こったことと同等の強さをもつ。しかし、それは起こらなかったと否定される。それによって、ほとんど「殴られた」ところを想起した読んでいる側の感情が、するっと宙につられ、宙につられることでかえって、もやもやとしたまま存続する。「殴られた」世界と「殴られなかった」世界とが分離して、同時に存在しているかのような。

08/04/07(月)
●お知らせ。「群像」5月号に、ぼくの書いた「踏みとどまる《膝》/古井由吉『白暗淵』論」という文章と、あともうひとつ、ReviewArtというコーナーで「「日本近代絵画」と熊谷守一」という文章が載っています。興味のある方は読んでみて下さい。ReviewArtは、今月も含め、三ヶ月つづく予定です。(目次の名前の配列をみると、ぼくが四人の女性作家に取り囲まれて、吊るし上げをくって、しょぼんと小さくなっているみたいに見えて、情けなくていい感じです。)
●しかし、本当に読むべきなのはぼくの文章ではなく、「文藝」夏号に載っている磯崎憲一郎の新作「眼と太陽」だと思う。『肝心の子供』というすごい傑作の次の第二作で、相当のプレッシャーがあるんじゃないかと思ったのだけど、そんな力みなど感じさせずに、私はこれからも淡々と書いていきます、みたいな大人な対応の二作目で、しかもとても面白い。(この小説に関しては、ネタバレしない方がいいように思うので、「文藝」が出たばかりの今の時点ではあまり詳しい内容まで踏み込まないようにしようと思うけど、最後まで読むと意外にもベタな小説とも言えて、そこも含めて面白かった。)
書き出しを読んで、今回はいかがわしい感じ全開でゆくのかと思ったのだが、意外にもそうでもなくて、終盤に唐突に出て来る生々しい恋愛のエピソード(これをどう考えればいいのかについては、一読しただけでは判断は保留したいのだけど)も含めて、先の予想がつかないという点では前作と同様なのだけど、前作では、語りの視点が世界に遍在しているというか、視点のありかが掴めないで、語りが生まれ、語られることの傾向(偏向)が生まれるのと同時に世界のあり様が決定されているような感じだったのに対して、この作品では、語りが一人の人物(というか、三十歳前後の男性という、ひとつの身体)に収斂することによって、世界のあらわれと、身体の振動(発熱)とが一致して生じているかのような、読む人の身体に直接的に作用するような感じになっていた。(それはぼくが男性であり、三十歳という年齢を既に経験しているから、ということもあるかもしれないけど。)前作が、捉えどころのない掴み難さによって人を世界の運動そのものに直面させるようなものであったとすれば、この作品はもっと直にくる感じ、と言えばいいのか。小説家としての磯崎憲一郎の「地」は、もしかすると二作目の方にあるのかも、とも感じた。
●この小説では、皮膚が痒くなったり、整髪料が粉状になって散ったりと、アメリカの空気の乾燥についての描写があるのだけど、そのような描写以上に、磯崎さんの文章そのものに湿り気が感じられなくて、それが描かれていることとすごくフィットしていて、情緒的に思える場面も湿り気がなくて、そのことがこの小説の清潔感につながっていると思った。
●(追記)前の部分で「ネタバレ」みたいな書き方をしたのは全然正確じゃなくて、「眼と太陽」を最初に読む時、ひとつひとつの文の面白さを読み、そして、その文と次の文との関連や発展や飛躍の面白さを読んでゆくのでまずは精一杯で、小説全体を通してある主題というか、方向性のようなものまでは、今、文を読んでいるその時には思い至るところまではいかないままで読み進め、そして最後まで読んでいった結果として、いままでのところを振り返れば、この小説には明らかに「主題」と言えるものがあって、様々な細部がその主題をめぐって書かれていたのだと事後的に納得するのだが、すくなくとも最初に読む時には、その「主題」を前もっては知らないままで読み始める方が面白く読めるだろう、ということで、別にこの小説の最後にどんでん返しがあるとか、大きな仕掛けがあるとか、そういう意味ではないのだった。ちょっと誤解されるような書き方だったかもしれないので、追記しておきます。

08/04/06(日)
●丘がいくつも重なっているような地形なので坂道が多く、無計画に開発されたような土地なので道がやたらと入り組んでいるから、歩いていると、ふいに、見晴らしの良い開けた場所にでる。開けた場所は、視覚的に遠くまで見渡せるだけでなく、音が遠くからそこへと集まってくるような場所でもある。車の音、電車の音、鳥の声、子供のはしゃぐ声など、見えないものの音がたくさん聞こえてくる。少年野球のチームが練習しているような音と声が間近に聞こえるのだが、どこにも見えず、その位置がよくわからない。真下の公園には、バスケットの練習をしている男の子と、それを見ている女の子の姿が見えた。
●わりと近く(といっても、歩いて30分くらい)に少年院があって、その少年院の高い塀と線路とに挟まれた細い道を散歩でよく通るのだが、高い塀の頭を越すくらいの高い桜の木が、花をいっぱいつけていた。その塀のなかからも、野球をしているような音と声が聞こえてくる。こちらは、少年野球と違って、もっと野太い声で、ウォーッ、とか、ライト、深追いするな、とか聞こえる。バットとボールがあたるキンという音も、強くて重たい。こんなに桜が咲いている、こんな陽気の日に、少年院のなかなんかにいると、気持ちがザワザワして、野球でもやってないとやりすごせないだろうなあ、と思う。
●まわりの道路からすり鉢状に低くなっている公園の周りは、ぐるっと桜の木が取り囲んでいて、びっしりと花をつけている。しかしその花はもう散りはじめていて、公園から道路を挟んでとなりにある、何も植えてなく表面をきれいに均されている畑の赤黒い土に、散った花びらが水玉模様のように落ちている様子は、まるで草間弥生の絵みたいでちょっと気持ち悪いほどだった。
●日曜の午前中に住宅街を散歩すると、自分だけ取り残されて人が一斉に消えてしまったのではないかと思うくらいに人とすれ違わないのだが、近所では花見のメッカである、野球場や陸上競技場、体育館などもある大きな総合公園は、人で溢れていた。桜並木のある陸上競技場の横の道には、縁日のような出店がずらっと並び(食べ物だけでなく、射的とか金魚すくいとかまである)、フェンスに沿って並べられたテーブルと椅子には、隙間なく人が座って、昼前なのに既に赤い顔をしている人も多くいた。並木道を抜けると開けた広い場所があり、そこもビニールシートを敷いた団体の人や、花壇のブロックに腰を下ろした家族やカップルなどで埋め尽くされていた。花のピークは多分先週だったと思うのだけど、人は今週の方がずっと多いのは、このぽかぽかとしたいい陽気のせいなのだろう。
●世界がこういう時間だけで埋め尽くされていないことを理不尽に感じるようないい陽気なので調子にのってずっと歩きまわっていたら、案の定、帰ってからひどいことになった。花粉症の薬は、せいぜい三時間くらいしか効かない。

08/04/05(土)
●『回想のヴィトゲンシュタイン』(岡崎乾二郎)について、もうちょっとだけ。上映後、作家自身が、この映画の元ネタのひとつに「オズの魔法使い」があると明かしていたが、それはとても納得がいくことだ。ヴィトゲンシュタインのかぶり物や、様々なバリエーションで出てくる鉄腕アトムなど、本来「心」のないものに、我々はなぜこんなに過剰に感情を感じて(付与して)しまうのか、ということが、とても大きな関心としてあるように思われた。我々には、犬に感情があるのはすぐに分かるし、他人に痛みがあることも分かる。なぜ分かるのか、あるいは、本当にそう言ってよいのか、について、哲学的に探求することはほとんど意味がないと思う。(科学的になら意味があるかもしれないが。)機械に「心」があると言えるのか、ということとも違うと思う。そうではなく、ここでの関心は、心がないと分かっているものに、なぜかこちら(観る側)から「感情」を貼付けてしまうという、向こう側ではなく、こちら側で発生してしまう、ある感情の過剰なのだと思う。「なぜ海岸はいつも、海の近くにあるのか」という、いかにも分析哲学っぽいギャグ(言葉)は、港にぽつんと座っている、(「心」のない、かぶり物の)「ヴィトゲンシュタインくん」の物悲しい表情(無表情)の映像とセットになることで、はじめて強く印象づけられる。この2つのものの間(落差)にある、みえない過剰こそが、問題とされている。
(追記)●この映画には、直接撮影された人間の「顔」が出てこない。ビデオ映像を再撮影した(引用マークのついた)「有名人」としてのバロウズや原節子、写真図版のエイゼンシュテインなどは出て来るし、アニメのキャラクターとして、ヴィトゲンシュタインやアトムの顔は出て来るし、人形のアトム、かぶり物のヴィトゲンシュタインも顔をもつが、人の表情や感情をもっとも直接的に伝える生身の「顔」がない。顔が遮断されていることで、かえって、こちら側(観客)の「感情を読み取ろう(付与しよう)」という能動性が強く喚起され、作動させられることになる。
●あと、やっぱりこの映画は(デジタル変換されているとはいうえ元々は)八ミリ映画で、例えば、蓮の葉の緑や、そこにたまる水滴の表情の美しさなどは、八ミリフィルムでしか捉えられない質をもつもので、ぼくはどうしても、こういうベタなうつくしさに一番惹かれてしまう。

08/04/04(金)
●旧四谷第三小学校体育館で、『回想のウィトゲンシュタイン』(岡崎乾二郎)。1988年、多摩ヴィヴァンのためにつくられた幻の八ミリ映画。ウィトゲンシュタイン的な問題というものに、ぼくは今ほとんど興味がないので、ぼくにとってこの映画は、風景ショットのフレーミングの異様なまでの格好よさと、曇天の鈍い白い光が強く印象にのこる映画だった。あと、どこからの引用なのかよく分からないけど、この映画のテーマを要約しているとも言える、「すべてを録画する録画世界があったとすると、その世界にないのは録画することだけだ」と発言するバロウズが、やたらいい顔をしていた。
長い間、その存在を知っていて、観たいと思っていても観る機会の得られなかった激レアものというのは、どうしたってこちら側の勝手な期待と思い込みが昂進してしまうもので、ぼくは勝手に、いわゆる「映画的」な感性などに頓着しない、「悟性」だけでつくったような、知性が問答無用に現前しているような、ギスギス、キリキリした映画を予想していたのだけど、普通に上手くて、こちらの感情にもぴったりフィットするような映画で、意外だった。編集というか、ショットをどこではじめて、どのタイミングで終わらせるかとか、どのショットの次にどのショットを繋げるのかみたいなことから、しかるべきタイミングで、しかるべき音楽をかけることで、こちらの感情を惹き付けたり揺さぶったりするとか、そういうのが本当に上手くて(とても甘美な音楽の使い方は、八ミリ時代の黒沢清を思わせる)、岡崎乾二郎って、やっぱ滅茶苦茶センスのいい人なのだなあと思う半面、正直、映画作家ではない岡崎氏が、こういうセンスの良さで映画をつくってしまうということに、ちょっとつまらないなあ、という感じも持った。
実は、この映画の主題は、感情というか、感情の操作ということなのではないかとも思った。ウィトゲンシュタインがつまらないのは、人が(「頭の良い」とされている人がしばしば)ウィトゲンシュタインに惹かれてしまう、というときのその「感情」については、ウィトゲンシュタインでは問題化することが出来ないということで、それはまさにバロウズが言っていた、録画世界では「録画すること」だけが欠けている、ということと同じだろう。そしてこの映画では、その欠けている感情を、どのように操作可能かということが、裏の主題としてあるのではないだろうか。どんなに、難しそうな、知的な問題が展開されていたとしても、しかるべきタイミングでしかるべき音楽がかかりさえすれば、人はそれをすんなり感情として納得してしまう。えっ、それでいいの、と疑問に思う前に、ああ、いいなあ、と納得してしまう。例えばこの映画では、ウィトゲンシュタインの「かぶり物」をしたキャラクターが出て来るのだけど、かぶり物は、表情の変化がない(みえない)ので、逆に、ちょっとしたことからそこに過剰に表情を読み取ってしまう。ちょこっと頭を傾けているだけで、あるいは、海岸近くの港でぽつんと座っているだけで、そこに何か、思慮深さだとか物悲しさのような感情を強く受け取ってしまう。この映画を観ている観客に起こっていることは、表面で展開する知的な問題と、それを裏で支える感情的な側面との、ミもフタもない分離が強制的に経験される、ということなのではないだろうか。
●映画がはじまった途端に、強めの地震があってビビった。

08/04/03(木)
●夢の中。ぼくは高校生で、体育の授業で校外をランニングして河原に出る。多分、季節は夏で、河原には強い光が射して、風景が異様なまでに、細部までくっきりと見える。鬱蒼と繁る様々な種類の雑草の、そのひとつひとつの形態や重なり、濃い緑から黄緑色までの色彩の異なり、それらが風で時間差に揺れるその動きのいちいち、水の流れのうねり、表面のさざ波、そこに反射する光のきらめき、河原の石のひとつひとつの粒だち、その大きさや色や形の異なり、河原に沿った道のアスファルトの舗装の表面の凸凹、何人かの子供が網で魚を撮ろうとしている、その網の編み目、水しぶきのひとつひとつ、子供が抱きかかえるほどの大きな魚を掴まえる、その鱗の一枚一枚、表面のぬめり、鰓の動き、焦げ茶色のような体表の色とそのグラデーション、子供が来ているTシャツの袖のほつれ、それらの細部が、空間や位置関係を失うほどに、すべてが異様にくっきりと目に入ってきて、ぼくはそれらから目を離すことができず、橋の上で動きを止め、突っ立ったまま河原を眺めている。背後から、教師や同級生の、お前なにやってんだ、という声が聞こえているのだが、動けない。
●夢から覚めて、細部の気持ち悪いくらいのクリアーな感触が消えないまま、カラーチャートのことを思い出した。浪人している頃、ぼくは、一枚に一色で、何百色の微妙にニュアンスのことなる色が印刷された短冊状の紙が単語カードのようにリングで繋がれて、その一つ一つにちゃんと色の名前(紙の裏に書かれている)がつけられた、デザイナー用のカラーチャートを買って(確か、かなり高価だったことを憶えている)、よく眺めていた。おそらく、絵のなかで色彩を組み立てるという途方もない行為の、一つのよりどころとするために買ったのだと思う。しかし実際には、そのカラーチャートに印刷された一つ一つの色をただ眺めているだけのことが、ぼくにとって、殺伐とした浪人時代の大きな楽しみの一つとなった。たんなる意味のない色見本なのだが、ただ色を見るというだけのことが、はっきりと質をもった感覚を呼び起こすこと、並べてみなければ違いが分からないほどに微妙な色の違いが、異なる質をもち、ことなる感覚と結びつくこと等を、驚きと歓びとともに発見した。ただ意味もなく色がグラデーションのように並んでいるだけの紙の束を、まるで多様な風景を見るような感じで、というかもっと言えば、エロ本を見る時のような興奮と歓びをもって見ていた。お前どんだけ頭おかしくて、どんだけ変態なんだ、という話なのだが。
●今日、おそらく(おそらく、というのは、今後判断がかわる可能性がなくはないからだ)油絵の具を使って描いた絵が一枚完成した。F30(91.0×72.7センチ)という、大して大きなサイズではないが、描きはじめてから三ヶ月くらいは経っている(自分の日記で確認したら二ヶ月の間違いでした、体感的にはもっと長いかんじだった)。実際手を動かしていた時間は凄く短いし、載っている絵の具の量も少ない。では三ヶ月(二ヶ月)も何をしていたかと言えば、「置いておいた」のだ。要するに何もしていないということなのだが、しかしアトリエの(ということは寝起きし、住んでいるところの、ということだが)壁に表を向けてずっと立て掛けてあって、それをことさら見ようとしてなくても、それがそこにあることが常に意識されていて、ということは、それがまだ完成という状態ではないことがずっと気にかかったまま生活しているということで、それは、その間ずっと頭のなかで作品をつくっているということで、そのようにしているとある時にふと、次にするべきことが見えてきて、その時にそれをする。でも、それだけではまだ完成とはいえない、言ってみれば「気持ちの悪い」状態なのだが、でもそこでその勢いで続けて手を入れないで、そこはぐっと我慢して、また「置いておく」。そういうことを三ヶ月くらい(二ヶ月です)つづけていて、今日の朝、あっと思ってちょっと手をいれたら、ああ、これでいいんじゃん、と思った。最近、色彩の仕事はこんな感じで、手数は少なくなっているのに、制作期間は長くなっている。(やはり、カラージェッソとは、見切る時間の「速度」が違う感じだ。)
一方、線の仕事はまったく逆で、一度手をつけたら、その日のうちに完成にもってゆく必要がある。画面との接点が、一度でも途切れたら、たとえそれが満足のいく状態ではなくても、もうそこから手を入れることが出来なくなってしまうからだ。だから、息をつめて一気に最後までもってゆかなくてはならないのだ。なんか最近、すごく両極端になっているなあと思う。

08/04/02(水)
●iPodを聴くために使うイヤホンには、ハードな部分と、それと耳の穴とを媒介する、ふにゃっとしたソフトな部分があって、それが耳への当たりを柔らかくすると同時に、その弾力によって耳へと固定され、保持される仕組みになっている。最近ではそのソフトな部分は、各人の耳の大きさや形状にあわせて、だいたい大中小と三種類くらいついていて、ハードな部分とソフトな部分とは着脱可能になっている。でもそれは意外に取れやすくて、気づいた時にはなくなっていて、どこで落としたのか分からない、という事態にしばしばなる。ソフトな部分がなくなって、ハードな部分がむき出しになると、耳に固定しようと思っても、すぐにぽろっと落ちてしまうし、音の伝わりも悪くなる。でも、そのソフトな部分だけを別売りしているなんてことはないので、また新しくイヤホンそのものを買い直さなければならなくなる。
イヤホンを買うために、というか実はそれは本当はどうでもよくて要するに散歩なのだが、一駅となりにある家電大型量販店まで歩いてゆく。イヤホンを買った後で、都まんじゅうを買おうと思ったのだが水曜は休みで、原稿料が振り込まれてようやくちょっと余裕ができたので久しぶりに本屋に寄ろうと思って、長崎屋のエスカレーターを昇ってゆくと、そこにあったはずの喜久屋書店がなくなっていた。
フロア全体に白いシートが被されてあって、あれっと思って近づいてゆくと、3月31日で営業を終了しました、と書かれていた。驚いたのと同時に、ああ、やっぱり駄目だったのか、と思った。喜久屋書店は関西に本拠を置く本屋のチェーン店らしいのだけど、昨年、長崎屋の6階から8階までのフロアすべてを使った大型の店舗をオープンさせた。駅前には既に2つの大型の書店があり、駅から少し距離があることもあり、はじめから「そんな無謀な」という感じだったのだが、その上、当初は、いつ行ってもびっくりするくらい人がいなくて、本の配置というのか展示というのかレイアウトというのか、そういうもののセンスが微妙に悪いし、これで大丈夫なのだろうかと思ったのだけど、最近では少しずつ客が増えている感じで、品揃えが良い店なので、なんとかつづいてほしいと思って、微力ながら本はできるだけそこで買うようにもしていた。
駅からの距離という問題もあるけど、長崎屋のなかにある、ということも大きかったのではないだろうか。別に長崎屋が悪いということではないが、長崎屋はデパートとスーパーの中間くらいの感じの、割と昔ながらのという感じのこまごまとたものを売る庶民的な店で、そのなかに大型の書店があるというイメージがなかなか持ちづらいし、そもそも、長崎屋の利用客と、大型書店を必要とするような客とは、客層がほとんど重ならないと思われる。実際ぼく自身、そこに本屋が出来るまで長崎屋を利用したことはほとんどなかったし、本屋に行ったついでに長崎屋で買物をするということもなかった。ああ、やっぱり駄目だったかと、すごくがっかりしながら、反対側のエレベーターまでまわって、下っていったのだった。
古本屋で、筑摩世界文学大系のベケットとブランショの巻を百円+税で買って(以前は、筑摩世界文学大系とか、集英社の世界の文学とかは、古本屋の店先に安価で大量に積んであったのだけど、最近はあまり見かけない気がするのだが、こういうのは今は百円でもなかなか売れないのかもしれない)、古着屋で五百円と四百五十円の帽子を買って(古着屋のレジにいたおっさんの、ちょっとオダギリジョーっぽく後ろで束ねた髪が豪快に波打っていて、これを下ろしたらどんだけ長いのだろう、と思った)、歩いて帰った。途中で、夢美術館という変な名前をもつ美術館で「日本近代絵画のなんとか」という展覧会をやっていることをポスターで知ったのだが、立ち寄らなかった。小さな公園に一本だけ立っている桜の木を見て、相米の『雪の断章・情熱』のキャッチボールのシーンを思い出して、あのシーンは素晴らしかったとつくづく思った。♪いこーかもどろーおかオーロラの下でえー。

08/04/01(火)
●小高い丘のてっぺんにある、鉄棒とジャングルジムが置かれているだけの小さな公園に、そのつつましさに不釣り合いなほど背が高くて立派な桜の木が十本くらい立っていて、でもその木が桜だとは今まで気にかけてなかったから知らなくて、ちょうどそれが今満開で、その丘からじくざく状の階段になった急な坂道を下った下にある小学校の前の道を通っている時に、丘の上にびっくりする程の桜の花の塊が見えて、うわっすげえと思って、その塊を目印にして迷路のように入り組んだ住宅街を辿ってゆくと、公園に出たのだった。その公園はいつも人気がなくてひっそりしていて、住宅街のなかの人のいない公園に見馴れない中年男が一人でぽつんといるというのはそれだけで怪しく、人を警戒させてしまうような情景なので、普段はそこは通り過ぎるだけなのだが、「桜を見ている」という言い訳があればなんとか許されるんじゃないかと思って、今日はしばらくそこにたたずんでいた。午後六時前くらいの時間で日はかなり傾いていて、公園は高い位置にあるから、太陽の光は真横からというより、斜め下くらいの方向から花に当たっていて、光を通過させる半透明な花びらのごちゃごちゃした重なりは、異様な感じで白く輝いて見えた。
●午後は喫茶店で、先月の中頃に行われた人気有名アーティストと大御所二名との座談会の原稿をチェックしていた。自分が喋ったことが文字に起こされているのをはじめて読んだのだけど、これはスペースの都合もあって仕方ないのだろうが、喋ったことが文字になっているというよりも、喋ったことが要約されていると言った方がよいくらいに圧縮されて、構成されていた。あの日の、煩雑でとりとめもなく長くつづいた話(三時間半くらいつづいたた)を、よくもこんなに纏められたものだ、この記事を書いた人は相当苦労したんじゃないだろうかと感心する一方、ここまで纏められると、言おうとしたことの趣旨やニュアンスにかなりのズレが出て来てしまうというのも事実なので(勿論それは仕方ないことで、記事を書いた人に対する不満を述べているわけではない)、自分の名前がついている発言である以上、これはこのまま出すわけにはいかないという箇所がかなりあって、しかし、スペースの制限があるので、直すにしてもほぼ同じ字数で直すしかなくて、つまり、これでは足りないというところを書き足すという直し方は出来ないから、表現の仕方や例の出し方そのものをまるっきりかえてしまうしかないという部分が何ヶ所かあった。これは、その日の発言を修正するのではなくて(前後のつながりもあるし)、同じことを言うために違う言い方を探す、というこだ。で、記事の字数を数え、この字数でなるたけ正確に言うにはどのような表現があり得るかを考え、それを紙に書いてまた字数を数え、削除可能なところを削ってまた数え、うーんと唸ってまた別の表現を探す、みたいなことを延々やっていた。
●美大生を中心とした若い人を読者層としている雑誌の都合上、そんなにつっこんだハードな話にはなっていませんが、こんなに噛み合ないものなのか、という、四人のちぐはぐさが笑えて面白い、という記事にはなっていると思いました。でも、普通、会話ってそういうものなんだとおもいます。噛み合ない四人の話が混沌に陥ってしまわなかったのは、進行役の人気有名アーティストの準備と配慮と人柄のおかげだと思います。今月の下旬に出ます。
●あと、どうでもいい話だけど、ぼくの発言の最後に「〜だと思いますね」みたいな、同意を求めるのではなく、ちょっと生意気っぽく挑戦的に響く「ね」がついているところがいくつか目について、ぼくは普段あまりそういう喋りかたはしないと自分では思っているのだけど、無意識のうちに出たのか、それとも、そういう風にキャラづけしようという意図があるのか。(思い過ごしです。)

08/03/31(月)
●大学卒業して四月から社会人で、これからの人生、不安もあるけど前向きに、みたいなブログを読んで、自分にはそういうことが一度もなかったということを、改めて思った。
大学の卒業の日は、ぼくが今まで生きてきたなかで最も落ち込んでいた日のうちの一日であることは間違いなくて、諸々の事情が重なったこともあり(悪いことが重なる時は重なる)、四月からの自分の居所がまったく決まっておらず、大げさじゃなくて、真っ暗な闇のなかに捨てられる感じだった。(さらに、卒業式と謝恩会の間の空いた時間に観た、ぼくの青春では神のような映画作家だった相米慎二の新作がつまらなくて、それに愕然として、いっそう落ち込んでいた。)謝恩会は渋谷の店であって、それが終わった後、夜の道玄坂をとぼとぼ下っていた時に見た風景とよるべなく絶望的な気持ちは、今でも憶えている。
大学にもう少し残るつもりだったのがダメになって(ダメになるという可能性をまったく考慮にいれていないところが、そもそもおかしいのだが)、住むところだけはなんとか、家賃一万二千円の、六畳、風呂なし、共同トイレのボロいアパートを確保してあったけど(同じアパートの四畳半の部屋はもっと安かったが、それだと本を入れると寝る場所がなかった、そこには、取り壊しになるまで十年住んだが、ずっとネズミに悩まされた、アトリエも一万ちょっとで借りられるところがあって、その2つの破格の家賃のおかげで、卒業後10年をしのげた)、就職は勿論最初からする気がまったくなかったのだが、バイト先すら決まっていなくて、というか、まったく世間知らずの学生だったから、どういう種類のバイトでどの程度働けば、ギリギリ食っていけるのかという感じすら全然分かってなくて(バイトの経験すらほとんどなかった、学生のときは、バイトする時間があったら絵を描きたいと思っていた、というか、働くのが徹底して嫌いなだけなのだが)、親に泣きついてもう一ヶ月だけ仕送りしてもらって、その間になんとかしなきゃと思っていたのだが、その「なんとか」が、どういう「なんとか」でどの程度の「なんとか」なのかの予測も立たず、目の前には何もなく、これからどうしてゆくのかの方針もなく、一日先の自分の姿も思い浮かべられない状態だった。状況的な厳しさよりも、未知の「社会」に何の準備もなく一人で放り出された、先が見えないことの不安がすごかった(そもそも、あまりに甘い見通しで「準備」してない自分がバカなだけなのだが、そしてその「バカ」は今でもまったく治っていないのだが、そのほかにもいろいろあって本当に「一人」という感じだった)。とはいえ、それは93年で、まだバブルの余韻が多少は残っていた時期だったので、「なんとか」なってしまって、それから今まで、様々なことを誤摩化したり先送りにしたりしながら、「なんとか」やってきてはいるものの、今の状況は、大学を卒業したその日と、歳くっただけで、先が見えないことでは、ほとんどかわっていないような気がする。ただ、先が見えないことに慣れちゃっただけだ。

08/03/30(日)
●作品について何か書く時、後ろめたさと恥ずかしさが伴う。書いていることが、その作品の一部にでも擦っていれば上出来で、しばしば空振りだったり、あるいはたんに自分の関心を書いているだけだったりする。「なんとか論」とかを必死で書いて、それなりに書けたと思っても、一応完成した後にその対象である「なんとか」を読み返したりすると、自分の書いたことがこの作品にどの程度まで深く関われているのか怪しく思え、自分の強引な手つきが見えてきて、こういうことを書くことって、作品にとってどういう意味があるのだろうか、などと考えてしまう。自分が「上手いこと言う」ことが目的なんじゃないの、と。
後ろめたさと恥ずかしさとを感じながら、それでも書くのは、書いておかないと忘れてしまうからであり、書かなければここまでは考えなかった、というところまで考えられることがあるからなのだが(しかしやはり、「上手いことを言う」快楽というのもあることは否定できないのだが)、言葉にするということは決算みたいなもので、もやもやとした不確定な広がりとしてある感触を、言葉にする時点である程度価値を固定させてしまうということでもあり、だから、今はあえてそれは言葉にしない方が良い、もやもやしたままで持っていた方がいい、という判断が必要なことがあって、これは忘れてはいけないことで、何でもかんでも明快に言えばいいというものでもない。(この株をいつ現金化するのがよいか、というタイミングがあるのと同様、このもやもやをいつ言葉にすればよいか、というタイミングもある。)
その作品に触れなければ感じられなかったことがあり、その感じから導かれたものから出発して、それを実際に言葉で書いてみなければ、ここまでは考えられなかったという「考え」がある時、その「考え」は絶対どこかで作品そのものと繋がっているはずなのだが、しかし、その「考え」は必ずしも作品そのものを「説明するもの」というわけではない。作品→考え、という連続性はあっても、考え→作品という連続性があるとは限らない。

08/03/29(土)
●『電脳コイル』18話〜20話をDVDで。このアニメを子供の時に見ていたら、それこそ向こう側に持っていかれて戻ってこれなくなってしまったかもしれない。さすがに今では、すれっからしなので、ある程度距離を置いていろいろ分析的に観てしまったりするのだけど、それでも「向こう側」に対する恐怖と希求は、人間の感情のもっとも古い層に依然としてあって、物語は、いろいろと現代的な意匠をほどこして、そこを刺激してくる。
『電脳コイル』は、「向こう側」を開くための、人の「向こう側」への欲望をリアルに刺激するための、こちら側の様々な設定や段取りなどにおいて非常にすぐれた作品ではあるけど、しかし、「向こう側」そのものの表象になると、やはりちょっとトーンダウンするように思う。そもそも「向こう側」というのは、「こちら側ではない」という風な否定や、古い空間と新しい空間のズレとかいうようなズレとしてしかあらわすことの出来ないもので、それそのものを形象化しようとすると、まあだいたい似たり寄ったりにしかならないのは仕方がないのだけど。
ただ、『電脳コイル』がすぐれているのは、向こう側そのもののあり様ではなく、子供達が「向こう側」へと惹かれてゆくという、その吸引力こそがいつも問題となっているところだと思う。向こう側へと人を導く「物語」を、知性によって吟味したり批判したりすることは容易いけど、人が常に「向こう側」へと引かれてしまう感情をもつ必然性があることは、そのような吟味によっては消失しない。『電脳コイル』では、非常に巧みな設定と段取りで、人を「向こう側」へと誘いつつも、例えば、向こう側へ入っていってしまいそうになるハラケンを押しとどめるのが、ヤサコによるまた別の強い感情であったりすることろがいいと思う。(感情はおそらく、別の感情との相殺によってしか解決しない。)それは、ヤサコ自身もまた、向こう側へと強く吸引される資質をもっていることによって、さらに説得力を増す。これも、物語としてはありふれてはいるのだが、物語はたんに、物語の定型としてだけあったのでは作動せず、絶えずその時々に、巧みに語り直され、上演し直されなければ作動しない。おそらく、物語として繰り返し上演され、何度も「向こう側」への欲望を刺激されつつ、しかしその都度押しとどめられるという繰り返しによってしか、本当に「向こう側」へ行ってしまうことを抑制することは出来ないのではないかと思う。(とはいえ、本当に「向こう側」への親和性の強い子供だったら、それでも向こう側に持っていかれて戻ってこれなくなってしまうかもしれないのだが。)
●とりあえず、20話までで、ヤサコ-ハラケン(カンナ)というラインの問題は一応の解決をみて、今後、イサコとその兄、そしておそらく問題の核心であろう、病院とヤサコの祖父の問題へと切り込んでゆくのだろう。まあ、こういう話の解決はたいてい、過程よりも面白くなくなるのは仕方がない。それでも「向こう側から戻ってこれない」ということにならないように、きちんと解決はしておく必要はあるのだ。

08/03/28(金)
●近所の川縁の桜並木はまだ満開ではなく、木によってばらつきがあるけど、六分から八分くらいの咲きだった。桜は、全体を引いて眺めるよりも、木の下に入って見上げて、空を背景に眺めた方がより一層異様な感じが増して、しかも、晴れた青い空よりも、今日のような薄曇りでぼんやりと白い空が背景の方が、その非現実的な薄ピンク色の散らばりの浮ついたような霊気が強まって(空の色も桜の色も同様に不安定で、コントラストも強くないから対比的にも不安定で、より妖しい)、桜の並木の下の道を、ぽかんと口をあけたようにして上を向きながらゆっくりと歩いていると(移動しながら見ると、よりクラクラ度が増す)、すっかりトリップしたような感じになる。桜を見る度に、やっぱりジャクソン・ポロックは偉大だなあと思う。
桜の花は、図案化された桜のマークに全然似ていない。いわゆる桜色ですらない。いい感じの薄曇りだなあと思っていたら、雨が降ってきた。
●高校生の時、チャリンコ通学で、川縁の道を海の方へ向って下ってゆくのだけど、そこにもずらっと並んだ長い桜並木があって、でも、満開の時はたいがい春休みだし、桜の木は花が咲いていない夏の時期は異様に毛虫の多い木で、自転車ではしっていると上から毛虫がポタポタ落ちてきて、頭や肩についたり、道路に潰された毛虫の死骸が沢山貼り付いていたりした。毛虫ストリートの距離はけっこう長くて、その間じゅう、ちょっと首をすくめるような感じでペダルを漕いだ。

08/03/27(木)
●「わたしの場所の複数」(岡田利規)を、かなり時間をかけでじっくり読み返した。ところで、何日か前、岡田利規と柴崎友香とが同じ年(73年)に生まれたと聞かされて、へえ、と思った(あと、舞城王太郎も)。その言葉にひっぱられたわけではないが、「わたしの場所の複数」と「主題歌」とが、意外な程に共通する要素が多いということに、驚きながら読んだ。それはつまり、昨日の日記でも書いた、視線と感情との絡まり合いのメカニズムにおいて、ということなのだが。そして今、ぼくにはそのことにこそ強いリアリティを感じている。「わたしの場所の複数」は、その形式的な側面や、内容-主題的な側面(あからさまにプロレタリア文学的だ)よりもむしろ、その感情的な側面こそが重要で、あのような形式は、感情的な側面によってこそ要請されたのではないか、と感じた。

08/03/26(水)
●「主題歌」(柴崎友香)は、女子好きの女性たちが女の子限定カフェをする話で、ぼくのようなおっさんの入り込む余地がないようにも感じられるのだけど、読んでみると意外にも男性の存在をかなり濃く感じる。
この小説の主な男性の登場人物は、主人公の実加と同棲している洋治、実加の大学の後輩の森本、実加の会社の上司の瀬川課長といったところだろうか。なかでも森本はとても魅力的なキャラクターとして描かれていて、(前に読んだ時も同じようなことを書いたと思うのだけど)ぼくにはこの小説の最初の方はどうしてもぴんとこない感じなのだけど、森本とりえが出て来るあたりから急に面白く感じられるようになる。(ぼくにとってはこの小説は「森本の出てる小説」という感じだ。)森本ほどに魅力的には描かれていないし、出番もちょっとしかないのだけど、瀬川課長もまた、渋い脇役というか、出番が少ないわりには大きな存在感を示しているように思われる。この二人の人物はまったく似ていないのだけど、二人ともが、この小説の中心にいる女性たちとはちょっと違った感じの存在の仕方をしていて、小説が、女性たちだけの世界へと流れていってしまうことを食い止めて、女性たちとは別の世界の存在の徴候を小説のなかに招き入れ、奥行きをつくっているように思われる。(いきなり小田ちゃんの母親が出て来たりすることろもそうなのだが、この小説は題材的に一見間口が狭いようにみえて、なかにはいると思わぬひろがりがある。)
それに比べ、実加と同棲している洋治という人物は、出番の多いわりにはいまひとつ明確な印象を残さないというか、顔が見えてこないというか、無色透明な存在のように感じられる。プレイボーイを見ながら会社から帰ってきた実加との、けっこう長いやり取りの場面もあるのだけど、その場面は下手をすると、実加の「女子好き」を説明する場面であるかのようにも感じられてしまう。では、洋治という人物の存在が薄いのかと言えば、そうでもない。
この小説は三人称で書かれているのだが、視点はほとんど実加に貼り付いていて、その近くにいるのだが、何度か実加から離れる場面もある。そのなかでとりわけ印象的なのが、実加がプレイボーイを見ながら会社から帰って来るところを、洋治が部屋のベランダから見ている場面だ。ここで視点は実加から離れていて、実加を見ている洋治の視線に、実加は気づいていない。この場面が、何故そんなに印象的なのか、ずっとよくわからなかった。
同じ『主題歌』という本に収録されている「六十の半分」では、ふと立ち上がった敬一という男性が、ベンチに座っている中学の同級生である香奈という女性の「つむじ」を見て、中学時代の香奈が、《背が低かったこと》を思い出す。この場面で、敬一が香奈のつむじを見ている視線を、香奈はおそらく気づいていない。しかし、そうだとしても、この視線が、その後、香奈に《中学生の時の自分の感じが一瞬戻ってきた》ような感じを呼び起こさせることになる。
あるいは、「ブルー、イエロー、オレンジ、オレンジ、レッド」で、登場人物の絵莉と周子は、今、ここにはいない男性のことを意識していて、その男性へ向けて、今、ここで自分が見ているもの、感じていることを送りとどけたいと思っている。男性は不在であるが、不在であることによって、世界の表情を活気づける。
この二つの小説を読んだ後に「主題歌」を読むと、洋治による視線の効果が、多少はみえてくるように思われる。おそらく、この場面での洋治の実加への視線は、実加において存在している(実加の内部に存在している)ものの表現なのではないか。分かりづらい言い方かもしれないが、実加は、洋治の視線を具体的には「知らない」にも関わらず、そのような視線を送ってくる存在を知っていて、そのような視線を確信していることが、実加にとっての洋治との関係を支えているもののように思われる。「六十の半分」の香奈が敬一の具体的な「つむじを見ている」視線を知らないにしても、その場面で、香奈と敬一と良太との間に、そのような視線のやり取りが共有されていることは、無意識のなかで確信されている。そのような無意識の確信を成立させているのが、中学時代を共有した時間であり、その記憶であろう。
「ブルー、イエロー、オレンジ、オレンジ、レッド」で、絵莉と周子は、今、ここにいない男性の存在を強く感じている。しかしそれは、恋愛の初期の特別な高揚のなかにいるからで、実加と洋治との関係は、もっと長く安定したもので、既に同棲しているから、例えば絵莉の春生への感情のように強く意識されることはない。しかしそれは、もっと安定したものとして、いちいち意識されなくても、表面には出ない奥のところで作動していて、そのような、いちいち意識されないけど、ゆるやかに、そして安定して作動している感情を表現するのが、あの、ベランダからの視線だったのではないだろうか。実加が洋治からの視線を、(具体的には)知らないけど(無意識のうちに)確信していることと、周子が不在のがっちゃんに向けて、ここで起きていること全てを伝えたいと思っていることとは、表現のベクトルは逆向きで、熱さもことなるけど、同じような感情の逆側からの表現なのではないだろうか。
実加にとって、そのような感情(自分を見ている視線への確信)は、いちいち意識されないくらいに安定して作動するようになっているから、それを美加の意識としては(つまり一人称としては)描けない。だから、三人称として、実加の外側からの視線として、実加に内側の感情の作動が描かれたのではないだろうか。それがいちいち意識されない程になっているのは、実加と洋治との間に共有された時間の厚みによる関係の安定があるからであり、それはおそらく「六十の半分」の中学時代の経験のような質をもっている。この視線は、時間の厚みの表現でもあるのではないか。
だから、洋治があまり印象的なキャラクターとして描かれていないのは、その必要がないからで、実加にとって彼は、安定した(信頼のおける)関係を無意識のうちに支える「視線」として(あるいは携帯プレイヤーに残された音楽のような存在として)存在していれば、それで充分だからであろう。

08/03/25(火)
●新宿のコニカミノルタプラザ、ギャラリーBで。大谷佳展「concrete ph」(31日まで)。モノクロプリントの黒い調子はそれ自体でうつくしく、それは版画のインクの黒を思わせる物質的な手触りをもつ。この美の感触が、写真という装置が写しとってしまう世界の圧倒的なイメージと、我々の知覚との切断のショックをやわらげ、安心させ、そのイメージとの関係をもつことが可能であるかのような感情を保持させる。それはだから、つるっとしたガラス面に、無機質な色彩で定着されていた福居伸宏による作品のような、知覚とイメージとのつよい切断の衝撃よりは、ややマイルドな感じを生む。だから良いとか、だから悪いとかではなく、大谷佳は、人と世界との圧倒的な切断のあり様(強度)を提示する福居伸宏よりは、写真が定着させてしまうイメージと、自身の知覚、あるいは自身の生とを、なんとか関係づけようと格闘しているように思われる。
展示でも、一方で、決して肉眼では見ることの出来ない、多様な世界の細部が同居し、溢れ、それを見る者の眼を否応無しに発熱させるようなイメージをもつ都市の風景と、もう一方で、立派な枝をひろげ、豊かに葉をつけた木の下に水溜まりのある風景や、暗い室内と白く明るい窓のコントラストがうつくしい光景など、眼がすんなりと「美」として受け入れることの出来るようなイメージとが、同時に示されている。このブレというか、この振幅の幅は、写真家がカメラを持って街を歩く時に、その都度出くわしたものに対して、自然にとる態度の変化の幅を示していると思われる。当然のことだが、カメラは自分自身で街を歩くことはない。街を歩くのは人間(写真家)であり、街を見るのも人間である。街を歩き、見る、人間と、それを写し取るカメラという、本来ことなる原理の間の関係のあり様は、事前に決定されているわけではなく、それはその都度目の前にあらわれる都市の風景によって、それに向けてフレームを定めシャッターを切るという行為の度に、新たに計り直されている、という感じがある。ただ、だとしたら、もう少し大きな振幅があってもよいのではないか、つまり、カメラの原理と知覚の原理との間の緊張や摩擦や葛藤の起こる幅が、もう少し大きなブレとしてあってもよいのではないか、という気もする。(ただそれは、写真を、写真家の「作品」として提示するのならば、という前提があってのことだ。ぼくには、写真というものがどの程度「作品」であるのか、よく分からないところがある。いや別に、作品としての写真を否定しているのではなく、ただ、良く分からない、距離を計りかねる、ということで、ぼくにとっての写真の面白さは、その分からなさにこそあるとも言える。)
●展示を観た後、新宿の街を歩き、今観た写真のように風景を見ようと努力してみるのだが、やはりどうしても、写真のように見ることは出来ないのだった。

08/03/24(月)
●昨日の日記に書いた福居伸宏の写真がデジカメで撮られているのかどうかは知らないけど、そこで見られるのはデジタルなテクノロジーの存在によってはじめて可能になったような視覚像だと思われる。(現像液のようなケミカルな液体を通していない、乾いた感触がある。)それは、人間に知覚から切り離されてその外側にあり、我々はテクノロジーによって、その外に触れる衝撃を経験する。
ぼくは、八十年代のゴダールの映画を観て、人の顔の見方がかわった。ゴダールは人の顔をまるで風景のように撮る。しかし、現在のハイヴィジョンカメラなどで、ベタな照明を当てて顔をアップで撮ると、それはおそらく人の顔ではなく、肌を構成している物質が見えるのだと思われる。人は、顔を風景として見ることを受け入れられても、顔を物質として見ることを受け入れられるのだろうか。おそらく人は、そこにさえもあらたな快楽を見出しはするだろう。そしてその快楽は、人間の「外」に触れる快楽でもある。そこにひとつ新たな層が付け加わる。人は、人の顔を、顔(表情、感情、欲望)としても見るし、風景としても見るし、物質としても見る。古い層は決して消えることなく存続しつづけるが、そこに重ねられ新たな層との齟齬は、ますます大きくなるだろう。現代を生きるというのは、この齟齬の落差の大きさの「ショック」のなかを生きるということだろう。
近代という時代が、科学やテクノロジーの発展によって人間の存在が(人間の能力が)拡張してゆくはずだと信じられていた時代だとすれば、近代が終わったということは、果てのない科学的な認識の発展と進歩は、人間をまったく拡張させず、ただ、世界と人間との落差を、つまり、人間と世界との切断こそを、果てしもなく拡大させるのだということに気づいてしまったということだと思う。我々は増々世界の詳細を知るようになるが、しかしそこで知られた世界は、人間には住むことのできない、人間には変えることのできない世界だ。果てしなく広がる世界と、そこから取りこぼされつづける人間。人間は人間の「外」を知り、その驚きを一瞬だけ快楽として感じつつも、自らの位置を再び認識し、その変わらなさを知り、(決して忘れることの出来ない落差によるショックの記憶を留めつつ)諦めとともにそこに留まる。
絵画はきわめて古いメディアだ。それは、人が見たものを、人の手で描く。それはおそらく、何万年も前の、ラスコーやアルタミラで既に完成している。あとは、一旦完成されたものが、その時々に使える道具や技術によって多少のバリエーションを増やしつつも、ひたすら反復されるだけだろう。人間の外の世界を告げるハードなテクノロジーとは違って、それはあくまで人間の位置に留まり、人間による経験を構成することに関わる。だから良いとか、だから悪いとかではなく、だからもう終わったとか、だから今こそ貴重だとかではなく、たんにそうである。そうであることに徹する過激さ、とんでもなさ、底の深さ(底のなさ)というものがあり、そのような人間的な経験の徹底によって人間からはみ出してしまうこともあり得る(本当はここが一番重要かも)。そしてそこには、たんに反復だけではなく、半端ではない分厚い蓄積もある。
何万年も前から、晴れた日があり、曇った日があり、雨の日があり、暖かい日があり、寒い日がある。晴れた暖かい日の日光を浴びる歓びがあり、寒い日の冷たい雨に濡れる辛さがある。(それは、精密化される気象予報のテクノロジーと両立する。というか、気象予報のテクノロジーによって、そのような経験が解消されてしまうことはない。)おそらく人は、そういう経験のなかで生き、そういう経験のなかで狂う。その単調な繰り返しにうんざりするのか、それとも、その反復のとんでもなさに、その都度、新たに驚くことが出来るのか。

08/03/23(日)
●昨日観た、TKG Contemporaryでの福居伸宏展「ジャクスタポジション」について。
眼が強制的に開かされて、そこに像が貼り付いてくるような経験がある。
人は普段、風景を観る時、それを空間的に把握しているが、視覚像そのものは空間的なものではない。つまり人は、視覚像を空間的な認知の助けとして利用している。空間的な認識(五十メートルくらい先に左の曲がれそうな道がある、とか)だけでなく他にも、表情による予測(空が暗くなってきたから雨になりそうだ、とか、この木の床は腐っていそうだから体重をのせない方がいい、とか、この林檎は赤くなって食べごろだ、とか)などもあるが、それらは基本的に行動のための判断に結びつくもので、確かに、電車のなかから眺める風景とか、散歩の時に見ている風景とかは、そのような行動の必要性からゆるく切り離されているけど、しかし、まったく切り離されている訳ではない。見ることは常に時間と空間のなかにあり、眼はいつも動いていて、それは時空のなかでの身体の動きと連動している。
勿論、見ることは認識や行動とだけ結びつく訳ではない。林檎の味を味わうように林檎の赤を味わうし、肌への感触を感じるようにざらざらした物の表面の表情を感じるし、心臓の鼓動のリズムを感じるように、規則正しく並んだ建築物の柱からもリズムを感じる。つまり行動や認識から切り離されて自律した「感覚」そのものを生じさせもする。このような意味で「感覚」は、必ずしも時間と空間の秩序のなか(つまり人間の行動の必要性)に納まるものではなく、時空からはみ出た場所での経験を構成することもある。
しかし、福居伸宏の写真作品によって与えられる視覚的な経験は、これらのどれとも異なっているように思われる。それは都市の風景であり、映っているもののほとんどが人工物である。光源もすべて人工的な街灯や蛍光灯などの照明である(おそらく、長時間露光で弱い光を捉えたであろう画面は、人間の眼が見る光とは別種の表情をもっているかのようだ)。しかしそこには人間が一人も映っていない。フレームの全ての場所がほぼ同等にピントが合っているので、どこから、どこへ向けて撮影した(見た)という視点(支点)が感じられない。(それは、似た表情の風景が複数枚並べられていることでさらに強調される。)モノクロではなくカラーであるが、色彩は最小限に抑制されている(しかしそこには、モノクロのトーンには解消されない、余剰としての色彩の気配がある。)。
人工物であるが、そこに人がいない。しかしそれは廃墟ではなく、そこには電気が送られていて、電気による照明が輝いている。人に捨てられ、時間のなかで朽ちた廃墟ではなく、いきなり人間だけが消去されてしまったかのような風景(つまり、人間こそが、風景から捨てられている)。多くの建築物は直線によって構成され、その窓や柱も規則的に並んでいる。だが、同一画面に映り込む複数の建築物は、その用途やデザインが異なるだけではなく、建てられてからの時間や使われ方も異なるため(そしてその全てに等しくピントが合っているので一望することが出来ないため)、一つの画面に同時に複数の時間が映り込んでいるようである。人間によって作られ、使われたという時間はあるのに、しかし人間がいない。だからおそらくここには、たんに支点の消失があるだけでなく、何かを「見ている」人間が消失している。人間から切り離された「視覚像」を、人間である観者が「見て」いる。いや、人間から切り離された視覚像なのだから、それを「見る」ことは人間(観者)には出来なくて、必死にそれを見ようとして、近づいたり遠ざかったりする。何とかそれを「見る」ことが出来なければ、人は自分が存在する位置を失ってしまう。そこに写されているのは、今、自分がいる場所であり、自分がそこで生きている場所であるはずなのに、自分ではその場所を「見る」ことが出来ないなんて。(きわめて素朴な感想としても、我々は「こんなもののなかで」生活しているのだ!、という驚きもある。)
いや、だから、見るのではなくて、視覚像が向こうから勝手にやってきて、強制的に貼り付くのだ。それは、行動や認識の指針ともならず、味わうことも出来ない、暴力的に押し付けられた視覚像であり、その過度に鮮明な像のあまりのクリアーさに犯され、寄生され、脳が乗っ取られるかのような強烈な経験を強いるようなものなのだ。私は、嫌なのに、勝手に勃起させられ、勝手に精液を搾り取られ、勝手に快感を感じさせられている、かのような感触。世界は私の外側にあり、私はそれを知ることが出来ず、しかしそれに暴力的に従わされる。そこでは、認識し、行動し、あるいは味わう主体としての人間が廃棄させられ、世界そのものに乗っ取られしまっているかのようだ。
しかし、福居伸宏の写真を見るという経験には、そのようなイメージの経験の強烈さだけでなく、ある種の郷愁のような、やわらかい感情が、同時に含まれている。それは、強制的な射精のあとにやってくる、なだらかな倦怠のやさしい感触であるかもしれない。あるいは、あらゆる能動性を剥奪された後の諦めと共にやってくる、冷たい安らかさのような感情なのかもしれない。福居伸宏の写真から染み出してくる、あの無機質でやわらかな光は、(おそらく資本主義下の都市生活者になら無意識のうちに共有されているであろう)世界に身体や脳が乗っ取られるかのような記憶の感触に、非常に危険なやさしさをもって触れてくるものを含んでいるようにも思われる。

08/03/22(土)
(この日記、書き直しました。すげえバカみたいな間違いをしていたことに気づいた。シェルカウイとジャレを間違ってた。自分の眼が信用できない。)
●西巣鴨の、にしすがも創造舎で「スリー・スペルズ」(ジャレ+シェルカウイ+ジルベール+フェネス)、清澄白河のTKG Contemporary / 小山登美夫ギャラリーで、福居伸宏展「ジャクスタポジション」。
●「スリー・スペルズ」は、去年埼玉で観た「ゼロ度」(アクラム・カーン+シディ・ラルビ・シェルカウイ)で圧倒的に素晴らしかったシェルカウイがとにかく観たくて行った。シェルカウイが出るらしいという以外の事前の知識はまったくなかったけど、昨日知って、とにかく速攻チケットを予約した。「毛皮のヴィーナス」(10分)「ヴェナリ」(17分)「アレコ」(24分)という三つの演目で約一時間のダンス作品なのだが、シェルカウイは振り付けのみで、出てなかった。
●「毛皮のヴィーナス」。白い毛皮にすっぽりとくるまった女性ダンサー(アレクサンドラ・ジルベール)が舞台中央にいて、うねうね動く。この動きがすごく気持ち悪くて変で、そこにある毛皮のなかに、一体どういう状態で人間がはいっているのか、最初は全く見当もつかない。エイリアンみたいというか、フランシス・ベーコンの描く変な怪物みたいな感じで、白い物体がうねうね、ぷるぷるしていて、その動きを人間がしているとは信じられない。その動きが、次第になんとなく人間ぽくなって、その白い物体(毛皮)から、出産されるように黒い衣装の女性ダンサーが出て来る。そして今度は、生まれた女性と生んだ白い怪物(毛皮だけど)とが戦うように絡み合い、最終的に女性が勝利する。作品の展開としては、ありがちな「神話的展開」で、退屈だとしか思えないのだが、最初のまったく人間を感じさせないうねうねした動きから、終盤の白い怪物とのもみ合いまで、ジルベールという女性ダンサーの動きがとても魅力的ではあった。
●「ヴェナリ」。これはぼくには、その面白さがまったく分からなかった。最も退屈なタイプの神話的想像力のダンスによる翻訳としか思えない。そこでなされる動き(ダミアン・ジャレ)がたとえ立派であっても、というか、立派であればあるほど、返って退屈さが増すばかりだ。こういうのは、ヴッパタール舞踏団みたいに、キワモノと物量で下世話にやった方がずっと面白くなるのだろう。
●「アレコ」。ノッケから、ジルベールが、座った姿勢で、両手、両足と長い髪とを絡み合わせて、一体あなたの身体の状態は今どうなっているんだ!、手と足とがなんでそんな風に絡むんだ!、という妙な動きをするのが無茶苦茶面白い。一見、ホラー風というか、楳図かずお風というか、表現主義的な動きにも見えるのだが、決して、とり憑かれてる系ではなくて、隅々まで冷静にコントロールされているのが分かるような、妙なのにエレガントという風なものだ。このダンサーは、立っている状態よりも、座ったり、横になったりしている姿勢での動きがとても面白い。
そこにジャレが登場。まず、カンフー映画風のやり取りで客を笑わすのは、まあ、軽いサービスといった感じだろう。ジルベールは長い髪を使ってジェレを撃つ。しばらくもみ合った後、シェルカウイがジルベールの髪を掴むと、ジルベールは自らの髪をハサミで切ってジャレから逃れる。(次の舞台もあるはずだから、これはきっとカツラなのだろう。)そして、ジルベールがとてもうつくしい歌をうたう。何語か分からない、ちょっとオリエンタル風のメロディ。音響によってその歌にズレがつけられ、さらにジャレもズレて歌う。ここから後が圧倒的に素晴らしかった。
横たわるジルベールに、ジャレはまったく触れることなく、ただ、その歯でジルベールの衣装を噛んで引っ張る。ジルベールの衣装は非常に伸縮性にすぐれていて、すーっと伸びる。その、衣装の布の伸縮する、ごく弱い力だけの作用で、二人は横たわったまま、絶妙の絡み合いをみせる。力の支点は、ジャレが噛んでいる歯と布にあるのだが、布が伸び縮みすることでその力が不安定に分散し、その分散した不安定な力の作用によって二人の動きが起動し、振動し、絡まってゆくのだ。不安定で微弱な力が繊細に受けとめられ、そこから波紋のように、きわめてやわらかい動きが繰り出され、それが相手にも作用してゆく。この場面は本当に素晴らしいのだが、ここでは、主な動きをみせるのはジルベールであり、ジャレはあくまでサポートという位置に留まっている。(この、アレクサンドラ・ジルベールというダンサーは、相当面白いと思った。)
最後に、ジャレのソロがあった。何というのか、柔道の受け身のような動きでごろっと横たわったかと思えば、そのまま滑らかに、フィルムの逆回転のように起き上がるというように、動きの始点も終点もなく、勿論、反動をつけるような動きなど一切なく、様々な運動が途切れなく連鎖していて、しかもどこにも力が入っていない(どこで力を支えているのかよく分からない)ようなやわらかな動きがつづく。このままずっと観ていたいと思った。今日はこれを観られて本当に良かった。

08/03/21(金)
●代々木のギャラリー千空間での、堀由樹子展「道草」について。(四月八日まで。水、木曜休み。)
●多分、この展覧会は「happen」という作品を観るためのものとなる。その隣りにあったもう一点の大作(「海へと続く道」)は、あまり上手くいっていないように思えた。(それはおそらく、黄色の位置が決まっていないので、黄色がまるで「神秘的な光」みたいに見えてしまっているせいだ。それと、あの、あまりに遠近法的な構図というか、作図で、絵を成立させるのは、どう考えても難しいと思う。)
「happen」は山を描いた作品のように見える。堀さんは今までも風景のようなものを描いているけど、今までのものと異なっているのは、空間のスケールが大きくなったこと、画面の上にいくに従って遠ざかってゆくような奥行きが認められること、抜けている空間としての空が画面最上部分に描かれていること、等がある。今、VOCA展でみられる「畠」のような絵は、以前までのものの延長で、風景ではあるけど、あくまで平面としてみられる。だが「happen」にはあきらかに奥行きが認められ、そのことで、例えば画面に対する線の入り方や、形のあり方の自由度が増し、それによって画面に複雑な動きが生じ、さらに色彩の新鮮さをも導きだしているように思えた。
ただ、同時に、この作品ではまだ、線(線として見える赤の部分)の、「奥行きのある空間」に対する関係の仕方が明確ではなく、それは時に平面的な空間のなかで作用する線のようであり、時に、奥行きのある空間において、形態に寄り添って「位置をもつ」線のようにも見える。勿論、平面であるキャンバスに絵を描く時、「線」は常にどっちつかずであるしかないのだけど、その「どっちつかず」の線たち組織の仕方というか、制御の仕方にばらつきがあり過ぎるようにも思えた。(ここ、自分で書いてても、何言ってるのかよく分からない文だなあと思う。)
ぶっちゃけて言えば、もうちょっと整理されてていいんじゃないか、という感じ。色彩の新鮮さと、複雑な表情の面白さが大事にされているのは分かるし、それは良いと思うのだが、ここまでだと、まだ混乱の印象の方が先に見えてしまうように思えた。もうちょっと整理しても、表情の複雑さは充分に「見える」と思う。(多分、「空」の処理の仕方とかに問題があるんじゃないかと思った。)
VOCA展の「畠」だと、納まりもいいし、見えやすいのだけど、そこにもうちょっと膨らみというか、揺れが入り込めるような奥行きをつくりたい(堀さんは、こっちも動いているし、向こうも動いている状態、というような言い方をしていた)というのは、すごく分かる気がするのだけど、それって、描いている時の画面の把握やコントロールに必要なものが、飛躍的に増やすことになると思われる。すごく難しいところに踏み込んでいるように思えるし、その成果として、色彩の新鮮さと表情の面白さが出ていると思うのだが、それがまだ充分には整理されていない、という印象を受けた。
●あと、この展覧会を観に行った人は、ギャラリーのスタッフに頼んで、是非スケッチブックを見せてもらうことをお薦めする。堀由樹子という画家のポテンシャルの高さをととても瑞々しく感じることが出来ると思う。
●「ブルー、イエロー、オレンジ、オレンジ、レッド」(『主題歌』(柴崎友香)に収録)について。
「六十の半分」の世界が、一気に鮮やかにたちあがるのに対して、こちらはもっとゆっくりと、ちょっとまどろっこしく感じられるほどに少しずつ、しかし分厚く、空間がたちあがり、時間が積み重ねられる。それはまさに、深酒した翌日、ぼうっとした頭や重たい胃の状態で目覚め、徐々に昨夜の状況が把握され、記憶もはっきりしてくる、といった状態と重なる。読者は、空間の丁寧な描写の積み重ねのなかで、ゆっくりと登場人物が置かれている状況を把握する。二つの冷蔵庫、ソファーで寝ているちょっと苦手な感じの女の子、畳に寝ている名前の知らない男の子、外から射す午後の光と軒の影、外の音、そして、昨晩までは人が大勢いたその部屋に、自分も含めて三人しか人がいないという不在感。おそらく、パーティーというほど大げさなものでなく、友達と、友達の友達くらいの人も集まるというゆるい集まりで、遅くまで騒がしく呑んでいた昨夜があり、そのままいつの間にか寝てしまって、目が覚めたらぽつんとそこに残されていたという感じだろう。親しい友人のものであるとはいえ、他人の部屋であることの、親しさとよそよそしさ、その新鮮さ。
そしてどうやら、そのゆるい集まりは曖昧に今夜もまだつづくみたいで、祭りの後のようなぽつんと取り残された寂しげな感覚は、徐々に人が集まって来ることで、まったく消えはしないで持続したまま、そこに新たな空気が流れ込んで来る。(まったく消えはしないのは、そこにもっとも重要な人物の不在が常にあるからなのだが。)そのような感じが、空間の丁寧な記述と、積み重ねられる時間によってあらわされる。お祭りのようなはなやいだ感覚が、一旦萎みかけながらも、宙づりのまま持続するなかで、小説の中心にいる登場人物の一人は、見えるものや聞こえるものの新鮮さを、ひとつひとつ改めて感じる。その新鮮さは、世界そのものの新鮮さであるのと同時に、その人物の、今はそこにいない人物への思いによって召還されたものでもあるようだ。(もしその不在の人物がここにいたら、その人物のことばかりが気になってしまうと思われるので、このような世界の新鮮さに触れられたかどうかは分からない。)路地の奥にある家、ぽつり、ぽつりと人が集まってくる感じ、不意にかかる音楽、九月の空、畳で寝ていた坊主頭の男に藤田という名前が与えられるくらいには親しい感じになる、洗い物や掃除であわただしく動くその家の住人、琉球ガラスの器の色、層のように重なる時間。
この小説では、前半の友人の家の場面と、後半のクラブの場面とでは、視点となる人物が移動する(絵莉から周子へ)。二人は友人の友人という間柄で、その存在は知っていたが、会うのは初めてという関係にある。二人は共に、恋愛のはじまりの特別な高揚感のなかにいるのだが、今、この場所にその男性はいない。前半の絵莉は、昨晩はここにいて、今はいなくなってしまった男性の不在を感じており、後半の周子は、もうすぐここへやってくるだろうけど、今はまだいない男性の不在を感じている。不在によってその存在を感じ、世界はその不在のなかで膨らみを増してたちあがる。そして、絵莉と周子は、クラブのステージで踊るダンサーについて、まったく同じ感想をもつことで一瞬重なり合う。(おそらくここの部分が、「主題歌」へとつながってゆく。)

08/03/20(木)
●新百合ケ丘のテアトロ・ジーリオ・ショウワで「パレルモ、パレルモ」(ピナ・パウシュ ヴッパタール舞踏団)、代々木のギャラリー千空間で、堀由樹子展「道草」。
●「パレルモ、パレルモ」はすごかった。もっていかれた。すごかったけど、そのすごさの内実の多くは、物や人が、ほとんどナマのまま舞台の上にある、という種類のものであるように思った。生真面目なダンサーなら、ピナ・バウシュなどキワモノだ、と言うのではないか。実際、舞台のつくりも、ショートネタコント集みたいというか、ぼくはドリフターズの「八時だヨ、全員集合」などを思い出した。ドリフのコントで、舞台上につくられたセットに、実物の自動車が突っ込むという大ネタ(オチ)があったけど、冒頭の、ブロック積みの壁が崩れるところ(隣りに座っていた中年の女性は、ヒッ、と言って座席から少し浮き上がった)とか、その少し後の爆発(今度はぼくがヒッ、となった、しばらくその残像で瞬きの度に光がまぶたの裏で発火した)とか、大勢のダンサーがバタバタ駆け回るとか、そういうのって、基本的にドリフのネタとかわらない、安易にエフェクトを狙ったスペクタクルだとも言えてしまう。(というか、それを突き抜けてるけど。)じゃあつまらないかと言えばそんなことはなく、時にうっとりするくらいうつくしいし(しかしこのうつくしさも、何というか、てらいもなくうくつしくしちゃっているという感じではあるが)、時に舞台上はがちゃがちゃと騒がしく荒れていて、そのベタなエフェクト(ネタ)のいかがわしさも含めて、ひどく面白いのだ。
成熟と退廃とは紙一重で、その紙一重のところを揺れている感じと言えばいいのか。成熟の果てのやけくその退廃というか、イロニーとしての退廃というのか。その、成熟の行き着く果て、という感覚が分からないと、たんにロマン主義的なものへの回帰にみえてしまいかねないのだが、そのヤバさと戯れているというのか。これに素朴に感動したらまずいだろうという警戒感をもたせつつも、でもやっぱすげえや、という感じで押し込まれる力技(休憩前の場面とかすごかった)。頭の上に林檎を乗せて全員で踊るのとか、下手すれば新春スター隠し芸大会のネタみたいだけど、それでも壮観だし、ラストのガチョウのダンスのうつくしさには、ベタだなあと思いつつも、ベタに感動させられてしまう。
作品としての統一性みたいなものよりも、即物的ながちゃがちゃ感というか、でこぼこ感で尖っているところが、多分いいのだと思う。時にあからさまにウケ狙いのネタであり、時にあからさまに「ここ感動するとこ」みたいにはずかしげもなく美しく、それが流れとしての必然性や形式としての統一性にあまり頓着されずに、さくさくと切り替わる(ネタのスイッチに切り替えます、とか、いまから美のスイッチをいれます、みたいに)うちに、感情が巻き込まれ、もっていかれる。頭の上に林檎を載せて踊る場面で、何人かのダンサーがそれを落としてしまうとか、女性ダンサーが、これから恋人に会いにゆくために着替えているみたいなダンスをする時、舞台上にまき散らす香水の匂いが、すこし遅れて観客席まで漂ってくるとか、そういうベタな(作品として制御されていない、今、目の前でやってます、みたいな)即物性みたいなものが、作品を退廃的な美とか、「普通に面白い」という退廃から救っている。(でも、舞台が汚れたり、散らかったままになるというのは明らかに「狙い」としてやっているわけで、その辺りも、すごく効果的であるからこそ、危うくもあるのだけど。)このような即物的なざっくりとした粗さというのか、ナマであることの感触を強くみせつけられると、逆に、例えばチェルフィチュなどで、いまどきの若者の言葉そのままとか、演じているのかどうか分からないだらだら感とか言われているものが、いかに演技として高度に(ある意味では過度に)制御され、組み立てられたものなのかが分かる。「パレルモ、パレルモ」では、そのような高度な制御よりも、一つ一つの物、一人一人のダンサー、一つ一つの振り付けのもつ、ナマモノの感触の強い押し出しが作品を支えているように思った。でもそれは、例えば「爆笑レッドカーペット」とどこが違うんだ、という危険を常に孕みつつ、やはりどこかで決定的に質が違うと言える「突き抜け」があるのだと思う。
●チェルフィッチュの、下五〇センチ切ったという抽象化された(俳優の距離の操作によってその都度意味を変える)舞台美術と、「パレルモ、パレルモ」のブロック塀や水や林檎の、あからさまな即物性(それはほとんど、今そこにある「そのもの」の現前という以外の意味を、ベルリンの壁の崩壊を先取りしたとか言って無理矢理「読もう」としなければ、持たない)は、まったく対極にあるもののように思われた。

08/03/19(水)
●昨日と一昨日の二日で、約55枚の原稿の直しと、約11枚の原稿を書いて、その前の日は不安と緊張の座談会で、テンションの高い日が三日つづいたので、今日はまる一日ひたすらぼけっとしていた。「3の倍数と3のつく数字のときにアホになります」(世界のナベアツ)の、アホになった時の顔のような感じで、一日過ごした。
●『主題歌』(柴崎友香)に載っている「六十の半分」はすごく鮮やかな小説で、ちょっと上手過ぎるんじゃないかと思うくらいだ。例えば「1」の部分では、カナダへ移住するために空港にいる(しかし国内線の空港らしい)香奈と、空港まで香奈に呼び出された中学時代の友人の良太が、そこでばったりと、結婚式に出るために帰省してきた同じく同級生である敬一に会う(彼らは皆三十歳である)、という場面が描かれる。この作家が空港という開放的な空間を描けばそれだけで鮮やかになるのは当然なのだが、それだけではない。
この場面は三人称で書かれていて、時折良太や敬一の視点も混じるのだが、基本的には香奈が中心に居て、香奈による一人称として書き直されたとしても、それほど大きな印象の違いは無いように思われる。しかしただ一ヶ所、この場面が三人称で描かれなければならなかった理由であるように感じられる一文がある。(良太は赤ん坊を連れていて、敬一はその子をあやしている。香奈はベンチにすわっている。)
《泣きやまない子どもをあやすのに飽きた敬一が立ち上がると香奈のつむじが見え、香奈の背が低かったことを思い出した。》
前後の部分ももっと引用しなれば、この部分の視点の転換の鮮やかさは分からないのだが、ここは、ただ敬一への視点の転換が鮮やかであるということだけではない。敬一が立ち上がって香奈のつむじが見えたというだけならば、それはたんにカット割りが鮮やかだというだけなのだが、さらに、つむじが見えたことが、香奈が背が低かったという記憶を喚起するところが凄いのだ。つまりこれは、敬一がよく香奈の隣りに立ってつむじを見ていたという過去があることを示しているし、その場面やその時間の重なりさえも想起させる。たったこれだけのことで、今まで空間的なひろがりとその中での動きの鮮やかさを感じていた読者が、一気に時間や記憶までをも巻き込まれる感じになる。たんに中学時代の友人と説明されていた人物たちの関係が、リアルに「中学時代を共有した人たち」だと感じられるようになる。世界が一気に膨らみと厚みを増す。
この後、香奈は敬一との会話で、《中学生の時の自分の感じが一瞬戻ってきたように》思うのだが、この感覚がリアルなのは、前に引用した敬一による記憶の喚起が描かれているからなのだ。空間のひろがりと時間の厚みとが同時にたちあがるような、こういう場面を、こんなに簡潔に書ける小説家はすごいと思う。

08/03/18(火)
●昨日の夜中から朝までかかって原稿の直しをして、朝から昼前までちょっと寝て、起きてからそれをもう一度読み直し、細かい部分をさらに直して、昼頃に原稿をメールで送り、その勢いで、いくつかのメールの返事を書き、昼過ぎから、用事半分、散歩半分で出掛け、でも、ぶらぶら歩いていても寝不足だとどこか身体が重い感じで、夕方に帰って来て(帰って来たら留守電に「これで入稿します」と連絡が入っていてほっとする)、軽い食事とアルコールを摂取し、三時間くらい寝て、夜遅くに起きて、別の原稿を書き始める。
こんな風に書くとなんかすごい売れっ子みたいだけど、こんなのはそうそうあることじゃない。たまにしか忙しくないから、忙しいのも面白い。
●永瀬恭一さんとの二人展「組立」の、トークイベントのゲストが、小説家の磯崎憲一郎さんに正式に決まりました。6月21日の土曜日、19時半から21時頃までを予定しています。(今まで人に聞かれた時、まちがって22日とか言ってたかもしれないと、今、書いていて気が付いた。)詳しくは「ここ」を参照して下さい。《都合により開催日が6月28日(土)に変更になる可能性があります》と書かれていますが、それは、磯崎さんは会社員でもあるので、週末に急な出張が入る可能性もなくはないので、念のために予備日を設けたということです。ご了承ください。
絵画の展覧会のゲストがなんで磯崎さんなんだ、人を集めるために古谷がたまたま面識がある有名人を呼んだだけじゃないのか、と思われるかもしれませんが、永瀬さんとこの展覧会のために最初に会って話した時、トークイベントのこととはまったく無関係な話で、『肝心の子供』がすごく面白かったという話を永瀬さんがしてきて、で、それとは別の話として、トークは二人だけじゃなくて第三者がいた方が良いということになり、じゃあ誰に来ていただこうか、誰なら来ていただくことが可能か、という話になり、その時にぼくがふと、永瀬さんの『肝心の子供』への熱い思いを思い出して、たまたま磯崎さんのメールアドレスを知っていたので、ダメでもともとで、一回ちょっと問い合わせてみようか、ということになったのでした。
だからまあ、展覧会とは関係ないと言えばあまり関係なくて、ただ、展覧会を口実にして『肝心の子供』の小説家にお話を伺いたい、ということなのですが、もともと永瀬さんの「熱い思い」から出たことで、ぼくが面識がある人だから頼んだ、というわけではありません。

08/03/17(月)
●来月発売される文芸誌に載る予定の原稿の改稿をずっとやっていた。昼間は喫茶店で、いったん部屋に戻って、頭を切り替えるために散歩に行って、帰ってからまた少しやって、夕方から酒呑んでちょっと眠って、夜中に起きて、また朝までやるつもり。
●『主題歌』(柴崎友香)に収録されている二つの短編がすごく良かった。今はちゃんと感想を書いている余裕はないけど。「六十の半分」は断片的なシーンが驚くほどに鮮やかで、それが玉突きのようにして意外な方向へと動いてゆく。「ブルー、イエロー、オレンジ、オレンジ、レッド」は、もっと分厚く、じっくりと時間と空間の層を記述してゆく感じ。そのなかで、同じ空間にいて、同じような思いをもちつつも、別々に切り離された二人の人物が、一瞬交錯する。どちらも、三人称によってしか書けない数行が挿入されることで、世界が一気に膨らむ。

08/03/16(日)
●今日は、ぼくとほぼ同世代の人気有名アーティストと、ベテランというか、日本美術史上には必ず名前がみられるだろう大御所のアーティスト二名と、ぼくの四人という、どう考えてもぼくだけ「格」として釣り合わない、不思議な取り合わせの座談会に出席してきた。「格」が釣り合わないという場違い感というかアウェー感だけでなく、このメンバーで本当にちゃんとまともに話が成り立つのかというような人選でもあって、事前にはかなりの不安があり、緊張もあったのだけど、人気有名アーティスト(基本的にこの人がメインの企画、考えてみればこの人が一番不安だったのかも)の、配慮の行き届いた進行のおかげもあって、なんとか座談会として成立したのではないかと思え、ほっとした。ほっとしたと同時に、どっと疲れた。(激論、みたいなものを期待する人には肩すかしかもしれないけど。)人気有名アーティストは、この後ももう一本インタビューがあるとのことで、売れっ子はパワーが違うなあと思った。
名前を伏せてあるのは大した意味があるわけではなく、約一ヶ月後に出る雑誌の企画なので、今の時点でネタをばらしてしまわない方がよいのではないかということで、発売時には改めてお知らせします。
(ぼくだけ「格」として釣り合わない理由は、人気有名アーティストがあっさりと明かしてくれて、まず最初に岡崎乾二郎さんに依頼して断られ、次に松浦寿夫さんに依頼して断られ、三番手としてぼくのところに話が来たらしい。「そのライン」の末席ということで、ローテーションの谷間の谷間の、困った末の大抜擢みたいなもので、こんな機会は滅多にないのだけど、それでも、これに乗るべきなのかどうか、正直ぼくもかなり迷いました。でも結果としては面白かった。)

08/03/15(土)
●もうちょっと『フリータイム』(チェルフィッチュ)。
岡田利規の作品では、語られるエピソード、語られる人物が、それを語り、演じる俳優から切り離されている。誰かの役を誰かが演じるというよりも、あるエピソード、ある人物を、みんなでリレーして、順々に語り、演じている。(『フリータイム』は二人の女性の話であり、二人の男性の登場人物は端役でしかないから、当然のように、男性の俳優も女性として語り、女性を演じる。ここで、ことさら女性的に演じたりはしてなくて、「当然のように」女性として語る、という微妙なところが面白い。というか、女性について語る、というのと、女性として語る、ということの中間あたりで揺れていて、その局面によって、どちらか寄りになる感じ。これは『ゴーストユース』にはなかったことだ。『三月の5日間』にはちらっとあったかも。)
そして、舞台上では、語りや演じることだけが行われているわけでもない。語りの外にいる俳優も舞台の上で何かしら変なことをしているし、語り、演じている俳優も、身体の一部では語っていても、別の一部では別のことをしていたりする。そして、舞台上にいるそれぞれの俳優たちの動きや存在は、関係があるのか、ないのか、よく分からない。というか、ほとんどバラバラに、それぞれで存在しているように見えて、それが時に唐突に、「この人は〜で」と指示したり、されたりする関係を持ち、あるいは、ふいにダイアローグを成立させてしまうような関係を持つ。(しかしそれは一時のことで、その関係はいつの間にか解かれ、移行している。)つまり、一見無関係であり、だからこそ関係は常に不確定で、その局面、局面によって流動的に変化する。
舞台上でされていることは、語ること、演じること、動作をすること、会話すること、(あの人が西藤さんです、とか、ファミレスの四人がけのテーブルで、みたいに)何かを何かとして指示(指定)すること、等であるのだが、それらばそれぞれ独立して、バラバラに進行しており、そのバラバラなものが、その都度、交錯し、関係を結び、解き、また別の関係を新たに結び、また解き、ということが、何層もの複雑な仕方で、より合わされているのだと思われる。
だから、ある俳優が何かを語ったり演じたり動作したりしているというよりも、語りの流れが、ある時はこの俳優に宿り、また別の時は別の俳優に宿り、そして舞台の別の場所では、ある行為の流れが、ある俳優に宿り、別の俳優へと移ってゆく、ということなのだと思う。流れを、俳優(の同一性)の単位で観てはいけないのは、ただ語りの次元でだけではなく、あらゆる次元で、様々な要素が(それぞれ孤立して、内発的に動いているはずの)俳優を越えて、まるでいろんな種類の霊が取り憑いたり離れたりするように、各俳優間を漂い、舞台の上を漂い、移ろっている感じなのだ。
そしておそらく、フレームからの自由というのは、まさにこのような状態のことなのだ。
このような、各要素の無関係性、というか関係の流動性、同時複数性が、非常に高度な密度と精度とで組織されているからこそ、舞台全体に、濃厚な「気配」としか言いようのない何かが漂い広がるのだと思う。こういう状態に達することではじめて「30分が永遠だ」ということが言える。それは決してメッセージではなく、ある「経験の状態」を名指すものなのだ。
●上野の森美術館で、VOCA展。毎年、VOCA展については、悪口以外のことを思いつくことが出来ないのだが、今年は比較的マシだった。マシだ、という以上のことではないが。しかし、なかで一点、常陸活志という人の、栃ノ木を描いたペインティングには感銘を受けた。絵画というものがどのようにあるべきなのかを教えられ、身が引き締まる思いだった。
●すごく恐い夢を見た。内容はなんてことない。場所は自分の寝ている部屋。ぼくは布団に寝かしつけられ、ピストルをつきつけられていて、耳のすぐ横あたりに何発か発砲される。マジ恐い。勘弁して欲しい。何かを要求されているわけではない。そのピストル男はただ面白がってやっているのだ。ぼくはビビって、助けてくれとか、やめてくれとかさえ言うことが出来ず、声も出ずにただ口を無様にぱくぱくさせている。マジ恐いけど、ただそれだけ。その時見えていた主観的な光景は、実際に寝ている場所から見えるものそのままで、その、赤いジャージ姿のピストル男が立っていた位置には、ぼくが昼間着ていた赤いジャージがひっかけてある。
だから多分その夢を見ている時、ぼくは寝ながら半分目をあけて、実際の部屋の光景を見ていたのだろう。そして、眼に入った派手な赤いジャージが、ピストル男に変換された。
それはともかく、この夢は本当に現実と区別がつかないくらいリアルにクリアーで恐かった。目が覚めて、そこに男がいないと分かって少しほっとしたが、恐怖の余韻は生々しくのこっていて、しばらく荒い息のまま呆然として動けなかった。最近よく、こういう夢を見る。悪夢とはかぎらないが、内容はシンプルで、でも現実以上にクリアーなので、目が覚めてから、それが夢だったのか、それとも前日の実際の記憶なのか、しばらく分からない。寝ぼけていて分からないのではなく、前日の記憶を追ってみて、連続的な流れのなかに位置をもたないことを確認して、はじめてその記憶が「夢だった」と分かる、というくらいだ。
この異様なクリアーさは何なのだろうか。別にヤバい薬とかやっているおぼえはないのだけど。

08/03/14(金)
●『フリータイム』(チェルフィッチュ)つづき。
●昨日の話のつづきで、「こんなに大きいスイカがあった」として実物のスイカを示すとしても、「こんなに大きい」と驚いたそのスイカは既に食べてしまったからなくて、その替わりに同じくらいの大きさの別のスイカを示すとしたら、それは実物であると同時に実物ではなく、そのものであると同時に比喩でもある。フィクションというのは、別のものを同じものとして反復させることが出来るという事実によって、成り立つ。
●『フリータイム』では、ファミレスで朝コーヒーを飲みながらぐるぐる円を描いている女の子が、その前の日に、終電間際(終電一本前)の電車に駆け込みで乗ったら、そこに座席を占領して眠っている酔っぱらいのおっさんがいて、そのおっさんが子供の頃に亡くなってしまったおじいちゃんそっくりで、あっ、おじいちゃんだ、と思った、という挿話がある。まったく別の人だと分かっているのに、それを「おじいちゃんだ」と思うこと。しかも、そう思おうとしたり、そう思わせようと誰ががしたり(つまり似せたり)することなく、いきなり、おじいちゃんだ、と思ってしまう、ということ。
しかも(以下、ちょっとネタバレになってしまうけど)、この女の子は、その「あ、おじいちゃんだ」と思ったことを、「最近よく一緒に食事をするようになった男の子」に話したいと思っている。つまりこのエピソード自体が、その男の子に向けたものとして(男の子の存在を前提にして)想起されている。しかし実は、この男の子は存在しなくて、女の子の妄想上の人物であることが明かされる。ここにも、フィクションのもう一つの原理がある。それは想像上の誰かに向って語られる。あるいは、想像上の誰かへの感情こそが、フィクションを起動させる。「こんなに大きなスイカがあった」と伝えたい相手がいなければ、フィクションはたちあがらない。(この、想像上の誰かは、現実の誰かに当てはめられることもあるが、しかしそれは逆ではなく、つまり、現実上の誰かがいないから、その代替として想像上の誰かが設定されるのではなく、想像上の誰かを想定しているからこそ、そこに現実の誰かを当てはめることが可能になる。)
本来異なるものを、同一のものとして受け取ること、そしてそこには、常に感情が貼り付いていること。おそらくフィクションとは、この二つのことによって可能になる。例えば、私は毎朝林檎を一個食べる、と人が言う時、昨日食べた林檎と今朝食べた林檎との違いは「ほとんど」意識されていない。しかしそこでも、昨日の林檎はしゃきしゃきしていたけど、今朝のはぱさぱさしているなあ、と思ったりもしている。「毎朝食べる」という時、林檎の(本来別の「物」であるはずの)同一性は、私の生活の規則正しい同一性を保証してくれる比喩(おまじない)でもある。しかしそれでも、その都度違ったものとして、毎朝新たに「味わわれる」ことになる。今日の林檎が、あくまで今日の林檎のままで、昨日の林檎の比喩になり得るように、俳優は、自分自身であると同時に、誰か別の人物へと離脱することも出来る。でもそれは、演劇という「枠」があるからこそ可能なのではなくて、我々は普段、そのようなフィクションのなかに生きていて、だからこそ逆に、演劇というフレームを設定することも可能になるのだ。
(フレームが先にあると考える人は、フレームから逃れようとして、結局フレームに拘束される。フレームは結果としてあると考える人のみが、フレームの内部にいるようにみえて、実はフレームから自由であり得るのだ。『フリータイム』における「三十分の自由」とは、そういうことでもあると思う。)
●またちょっと別の話。ちょっと前のところで、女の子が、「最近よく一緒に食事をするようになった男の子」に向って話したいと言っていたその「男の子」は実は存在しなかった、と簡単に書いたのだけど、それは、舞台の終盤近くなって、「実はあれは嘘です」と一度だけ語られるのだけど、しかし「嘘」ですと言われたからと言って、それまでずっとそうだと思って話を聞いてきた時間がある以上、その存在は簡単にゼロになるわけではなく、むしろ逆に、そこで「嘘」だと宣言されることによって、かえって男の子の存在が強くなる感じさえする。(アフタートークで佐々木敦が言っていたように)「嘘です」という言葉が本当か嘘か分からないということも勿論あるが、そういうことではなく、「嘘です」という言葉が本当だろうと嘘だろうと、それまで語られつづけてきた時間があり、その時間のなかで話を聞いていた側のなかで生まれた男の子の存在がある以上、その経験は決して抹消することが出来ない。
同様の仕掛けがもう一つあって、それは、実は今、女の子の父親が癌で入院していて、酔っぱらいのおっさんが亡くなったおじいちゃんに見えた原因の一つに、そのことがあるのだろうということが語られ、その後、これはみんな私のいい加減な推測なんですけどね、と、それはその女の子を見ていたウェイトレスが勝手に妄想したことだとして、その事実性が否定される。しかしこの否定もまた、実際にはそれほど強くは作用せず、一度聞いてしまった、父親が癌だという話は、観客に強く印象づけられたままだ。
ここにもまた、フィクションの力が作用していて、一度語られたものは、それが事実であろうが、そうでなかろうが、否定によってでは、簡単に消去したり反転させたりすることが出来ない。フィクションの経験においては、Aと非Aとは等価なものとして並立する。そしてこの原理もまた、決して虚構という枠のなかだけで作用するものではない。演劇とか映画とか関係なく、我々が普段、日常的にしている会話のなかでも、このような原理は作動している。「私はあなたを嫌い、ではない」と言われた時、「ではない」という否定の前に置かれた「嫌い」を聞いた時のショックは、その後否定され、意味として了解された後にも、完全に消えるわけではない。フィクションはたんに意味の次元にだけあるのではなく、経験の次元にもショックとして作用する。「嘘です」という否定によって、意味においてはゼロになっても、経験においてはゼロにならない。フィクションの力はおそらくそこにある。そして、意味と経験とが相反することは、日常的に、普通にある。そしてそれはまた、フィクションにおける経験と、現実における経験とは、経験の場においては質として等価であるということでもある。
我々がもともとフィクションのなかで生きているからこそ、作品としてのフィクションに力が宿る。

08/03/13(木)
●晴れているのに、空も地上も霞んでいた。
●チェルフィッチュ『フリータイム』について、ちょっと。
最近は、ぼくのパフォーマンスアレルギーもだいぶ後退して、演劇とかダンスとかも観るようにはなったのだけど、それでもまだ、生身の人が、リアルタイムで、人前で何かをすることを、作品とする、ということに対する疑問や違和感が消えたわけではなく、むしろ、その違和感の感触を確認するために観るという感じではあるのだけど、『フリータイム』を観てほとんどはじめて、生身の人が、リアルタイムで、人前で何かをするということに対して、すんなりと納得出来たというか、ああ、そういうことなのかと呑み込めた感じがした。それはつまり、何故フィクションという次元が成立することが出来るのかということの根本的な部分に触れるというか、フィクションというものの最も原初的な形がパフォーマンスということなのだなあ、ということだ。それは、何故作品というものが可能なのかということの、根本に関わることだ。
●舞台美術について。会場に入ってすぐに、舞台上のセットを見たとき、正直、これはどうなのだろうと疑問をもったのだが、作品の進行のなかで、そのような疑問は消えていた。中途半端にオブジェとしての存在感があり、中途半端に作品の設定を説明しちゃっているようなセットは、たんに邪魔でしかないんじゃないかと思ったのだが、それが絶妙な効果になっていたのは、演技と演出の質によると思われる。
つまり、それはある時は、フィクションとしてのその場がファミレスであることを説明するものであり、ある時は舞台上の空間を仕切る抽象的な仕切りのようなものであり、またある時は、俳優の動きを妨害したり、逆に誘発したりするための装置(障害物のような意味での「物」)であったりする、という風に、その「意味」が、場面や局面に応じて変化する、ということだ。そのようにセットの意味が変化するのは、俳優の演技の、セットに対する関係の取り方が、その都度変化するからだろうと思う。
●チェルフィッチュの演技の面白さは、演技が「現実」に対してとる関係や距離が、その局面によって絶妙に変化するというところにあると思う。(そしてその変化は、いつの間にか起こっている。)生身の俳優であることと、演技する身体であること、伝聞であることと、本人の役のように演じること、具象的な説明であることと、抽象的な仕切りや動きであること。それらは、完全にどちらか一方の極に振れてしまうのではなく、とちらかというとこっち寄り、みたいな感じで、中間領域でうつろいながら、いつの間にか、あっち寄りになっていたりする。テキストの内容と俳優の身体の動きとの関係も複雑で、ある時は、ほとんどテキストに沿って動いているようにも見えるし、また別の時は、テキストと動きとがまったく切り離されて動いているようにも見える。あるいは、身体の一部はテキストに寄り添っている(あるいは、引っ張られている)が、他の一部は、まったく別の原理によって動いているように見えたりもする。(そしてそれが、近づいたり、また離れたりする。)チェルフィッチュを観るということはつまり、このような複雑な関係や距離のうつろいを見るということだと思う。
●フィクションとは、ある構えや構造が先にあって、そのなかで成立したりしなかったりするものではなく、その都度、現実とフィクションとの複雑な関係のなかで、こっちに寄ったり、あっちに動いたりすることで、成立したり、しなかったりするものなのだ、ということが分かる。というか、現実などという安定した基盤がどこかにあるのではなく、我々が現実と信じているものが、実は様々な次元でのフィクションの折り重なりであり、寄り集まりでしかないことが、チェルフィッチュをみていると納得されるのだと思う。
●例えば、「こんなに大きなスイカがあった」と身振り手振りで示すことと、そのような意味と無関係に、その身振りだけを反復すること、あるいは、その身振りの「腰の動き」だけが、まったく別の局面で反復されること、その時、手は葡萄のことを思い出していたりすること、あるいは、身振りなしにスイカだけが物としてあること。でも、そのスイカは実物ではなく書き割りだったりすること。あるいは、実物のスイカがあっても、その人が「こんなに大きな」と驚いた、その当のスイカとは別のスイカだったりすること。フィクションと現実といっても、その関係や距離には様々な異なる次元があり、「現実」というものがもしあるとしたら、異なる次元のフィクションが同時に成立することの出来る場、としてしかあり得ないだろう。
●『エンジョイ』や『ゴーストユース』では、映像や字幕などを多用して、舞台の上の情報を複雑に多層化することが試みられていたが、『フリータイム』では、そのような多層化は、俳優のフィクションや現実との関係や距離の取り方一つで、つまり、ただ俳優の動きそれだけによって、達成可能であるという確信によって、きわめてシンプルだと同時に複雑な、とてもうつくしい舞台になっていたのだと思う。

08/03/12(水)
●六本木のスーパーデラックスでチェルフィッチュの『フリータイム』を観る。とりあえず今日は、これがすごく面白かったということだけを記しておきたい。ぼくは今まで、岡田利規のつくった舞台を、映像では『三月の5日間』『目的地』、ナマでは、『エンジョイ』『ゴーストユース』それから、ほうほう堂とのコラボレーションと、ベケットの『カスカンド』の演出を観ていて、それぞれとても面白かったのだけど、『フリータイム』はそのどれからも飛び抜けて面白いと思った。極端なことを言うと、既に『フリータイム』を観てしまった今、もう、自分が持っている『三月の5日間』のDVDを観直す気がなくなってしまった、というほどだ。とはいってもまあ、また観るとは思うけど。
(ぼくは『ゴーストユース』とかなり近いものを感じたのだが、しかし、俳優の力量の違いによって、こんなに決定的に違いがでるのかと、驚かされた。つくりがシンプルな感じになっているのも、俳優の力こそが前面に出ているということだと思う。それと、『ゴーストユース』よりずっと小さい空間で間近に観られるから、俳優の指先から足先までの微妙な動きや気配までがまでよく伝わる。なかでも特に、黄色いベルトの、ずっとぐるぐる円を描いていた女優、プログラムで確認すると伊東沙保という人らしいのだが、この人の動きはすばらしかった。セリフを喋ること(頭部)と、手の動き(手)との、乖離と接合との微妙なバランスとかが面白いと思った。)
●あと、これは批判めいた言い方になってしまうのだが、ポストパフォーマンストークという習慣は、もう少し検討の余地があるのではないかと思った。勿論、観客へのサービスとしてやっているのは分かるし、今日、そこで語られたこと(特に岡田氏の発言)は、とても面白くて、聞けてよかったと思うのだけど、それでもなお、ついちょっと前まで、俳優たちが緊密に、繊細に、つくりあげていた舞台の空間を、まだその気配や余韻が濃厚に残っているうちに、それと全く関係のない人たち(たとえ作・演出家だったとしても)が、どすどすと土足で上がり込んで(土足じゃないけど)、余韻を台無しにしてしまうということに、ちょっと疑問を感じた。しかし今までは、演劇を観て、その後にトークがあっても大して疑問には思わなかったのに(話がつまんない、と思うことはしょっちゅうだけど)、今日に限って特にそう思ったということは、この作品がそれだけ濃厚でデリケートな気配を、演技が終わって俳優が去った後にさえもなお立ちこめさせつづけているような密度で、漂わせることに成功しているということだと思う。
●今日は、編集者と二人の初対面の小説家とご一緒させていただいたのだが、この二人の作家のそれぞれの存在感に圧倒され、やはり小説家というのは「選ばれた人たち」なのだなあと思った。小説家の方からすれば、初対面で大して話しもしていないのに、一体何が分かるというんだ、という話ではあるだろうけど。でも、ごく素朴な意味で、作家とその作家が書く小説は似てるもんなんだなあ、と思った。
●今日、生まれてはじめて、出版社のお金でタクシーを使って、深夜の六本木からアパートまで送ってもらうという贅沢をしてしまった。最初は、いくら「助かる」とはいえ、そこまでされるほどの何かをこの会社に対してしているはずもなく、こんなことを受け入れてしまって良いのか、六本木のマンガ喫茶とかで始発を待つべきだったんじゃないか、と、後ろめたい思いでいたのだけど、タクシーの窓から見える深夜の都市の光景にすっかり魅了されて、そんなことはどうでもよくなってしまった。
ぼくは免許も車も持っていないし、深夜のタクシーを躊躇なく使えるような経済状況にはないし、ぼくのまわりにいる人もだいたい似たようなものなので、深夜の空いている道路を突っ走る車の窓から見える都市の夜景など、そうそう見られるものではない。世界にはぼくの見たことのない未知の表情が沢山隠されているのだ。けっこう疲れていて眠くもあったのだが、眠るどころではなく、次から次へと流れてゆく夜景が眼に侵入してきて、どんどん大きく眼が開かれてゆく感じだった。こんなことめったにないのだから、このままずっと着かないで、朝まで走っていればいいのにと思ったのだが(勿論、こんなことを思えるのもタクシーチケットがあるおかげなのだが)、予想よりもずっとはやく、すんなりと部屋に辿り居てしまったのだった。

08/03/11(火)
●買物のために部屋を出たら、あまりに暖かくて天気がよいので気持ちよくなって、花粉の脅威など忘れて、そのまま隣りの駅まで歩いて行き、大型書店をのぞいて、都まんじゅうを買って食べながら歩いて、二時間くらいの道草の末に買物をしてから帰った。案の定、夜には大変なことになった。
●山崎ナオコーラ「長い終わりが始まる」(「群像」2月号)。この作家の小説をはじめて読んだのだけど、事前に勝手に思っていたのとはイメージが違っていた。もっと、のらりくらりと掴みどころのない、エキセントリックな感じの作風なのかと思っていたら、凄い生真面目でストレートな小説なので驚いた。
書き出しの部分とかは、のらくらした感じでとても読みにくい変な文章で、この「変」な感じこそがやりたいのだろうと予想していると、だんだん切迫したような感じになってきて、よくも悪くも実直な感じで、押し込まれるように、読む姿勢を正す。
書き出しの部分がすごく読みにくいのは、情報を提示する順番やタイミングが変だからで、状況がなかなか呑み込めないように書かれている。いきなり小笠原という主人公の名字が示され、ついで、大学で同学年の宮島と田中という人物と話す場面があるのだが、この、三人で話している場面でもまだ、小笠原が男なのか女なのか分からない。宮島は「宮島くん」と呼ばれ(同学年の男性を「くん」づけで呼ぶので小笠原は女性なのかなあと、ちらっとは思う)、田中は自分のことを「オレ」と言うので男だと分かるのだが、最初からずっと出ずっぱりの小笠原だけは、マンドリンケースにローソンの袋をひっかけて持っているという細部以外は、具体的にその姿がイメージ出来ないようになっている。(映像的にイメージすれば、主人公のところだけモザイクがかかってるみたいだ。)そして、この三人の会話の場面が終わってからようやく、ほとんど説明的な口調で、小笠原の年齢や容姿が告げられる。(しかもそこには、《背も手も小さくて、だからマンドリンが弾き易い》という、この時点では無駄口としか思えない説明が混じる。勿論それは、今後の展開の先触れのようなものでもあり、全体としては無駄ではないのだが。)
だいたいずっとこんな感じで、無駄口のような細部は見えてきても、イメージを限定したり固定させたりするような描写がないまますすみ、そして唐突なタイミングで、さらっと重要なことが告げられたりする。えっ、そんなことここで言うの、みたいな。印象的な描写や記述を重ねてイメージを厚くしてゆくような文章ではなく、不安定な転がり方をしつつ、意外な情報を小出しにしてゆくことで、その都度局面を新鮮にする、という感じと言えばよいのか。やりすぎるとトリッキーな感じになってしまうと思うけど、この予断を許さないような変な転がり方が、描かれている内容と密接に関連しているので、納得が出来た。
ずっと主人公が出突っ張りで、三人称の語りは時に主人公とほぼ一体化して一人称に限りなく近づくかと思えば、突然冷静な(説明的な)コメントがはいってりして、語りと主人公の関係も不安定で、それが、主人公が世界に対して持つ解離的な距離の感触を伝えることにもなる。
描かれているのは、ちょっと痛い感じに生真面目で、まわりの見えていない女の子の、恋愛というか、恋愛以前の人間関係のようなものなのだけど(というか、こういう言い方がダメで、関係はそれぞれひとつずつ別ものだということが書かれているのだけど)、この女の子が、ちょっと痛い感じに生真面目というか不器用だということが分かるのは、けっこう読みすすめてからで、つまりここでも、キャラクターの属性を限定するような描写や情報を事前に読者に知らせることなく、それは常に何歩か遅れて示される。(登場人物の印象が鮮やかに刻まれる、ということがない。)つまり、主人公に対して、ある程度、この人はこういう人なんだろうと思って読み進めることが出来なくて、はじめて会った人と話しているような、探りながらという感じでずっと読むことになる。(例えば、主人公の小笠原は、冒頭の場面で既に田中という男の子に好意を持っていて、田中も既にそれを知っているのだが、読者には「隠されて」いて、読者が「知らされる」のは、もっと後になってからなのだ。そういう「雰囲気」が事前に醸し出されることなく、いきなりその事実だけがポンと投げつけられる感じ。まあこれは、小笠原と田中との間に「友人」としての関係が確立してしまっている、ということの表現でもあるのだが。)
登場人物はしばしば、堀之内とか桜井とか、ぶっきらぼうに名字だけで示され、まあ、大学のサークル内の狭い話だから、それが大学生だろうとはすぐに分かるけど、それ以上の説明もないままで、男か女かも、後になってやっと分かったりする。桜井について小笠原と田中とが話す場面でも、桜井がサークルの後輩だという以外の事前の情報がほとんどないので、まったくの部外者が知らない人についての会話に立ち会わされているような感じで、イメージが掴めないまま読むことになって、その後、田中が桜井に告白した、みたいなことで、ああ、あの会話はそういうことなのかと振り返って理解される。映像だと、説明抜きで人物が出て来てもその「姿」は見えるけど、小説で名字だけポンと出て来ても、それが「人」だということしか分からない。そういうことを、かなり意図的に利用している感じ。小説だと、名前の文字面というのがそのままその人物の視覚像の代用みたいなところがあるのだけど(例えば音生とか芽衣とかいう名前で年配の女性はイメージしにくい)、この小説では、小笠原とか田中とか桜井とか堀之内とか、割とよくあるが故にイメージ喚起的ではない名字が採用されていて、名前だけで人物のイメージが特定されないようになっている。
イメージをもたないままで読み進めることが強いられる、トリッキーとも言える記述のスタイルが、しかしそれほどわざとらしくは感じられないのは、この小説ではきわめて真面目に、ケレン抜きに、この不器用な女の子と男の子との関係が描かれているからだろう。(とはいえ、あくまで女の子目線の話なので、田中という男の子の方の「捉えどころのなさ」は、あまりにとっちらかっていて、それ自体としてリアルではないように思われるが、それはあくまでこの女の子からみて、相手が捉え難いということの表現だとして考えれば、全然アリだと思う。)真面目すぎて、読んでいて恥ずかしくなってしまうくらいなのだった。ここで恥ずかしいというのは、真面目であることが恥ずかしいのではなくて、真面目さが生々しさに繋がっていて、その他人事とも思えない生々しさに照れることなく正面から向ってゆく感じを、自分の恥ずかしいところを突かれるようで、恥ずかしく感じてしまうということだ。だからここで恥ずかしいとは、読んでいるぼくが押し込まれているということで、つまりリアルだということだ。この小説の、イメージを限定させない不安定で捉えどころのないトリッキーな記述は、のらりくらりした調子のためにではなく、この生真面目さに読者を直面させるためにあるように思われた。だから、読んでいる途中で思わず姿勢を正す事になった。
ただ、そうとは言っても、生真面目すぎてちょっと世界が狭いんじゃないかという気もする。もうちょっと、遊びや余裕やひろがりがあってもいいんじゃないか、と。で、このように、この小説に対する感想と、小説の主人公の女の子についての感想とが、ほとんど重なってしまうようなところが、この小説の切迫的ななまなましさ(リアルさ)でもあると同時に、ちょっと間口が狭いようにも感じてしまうところでもある。あと、音楽(演奏)の話がやや具体性を欠いていて、割と簡単に比喩に流れがちなところとか、冒頭のマンホールの蓋に溜まった雨水の印象的な描写が、すぐ後の《人間も同じようなもので、この街に溢れる男女は...》みたいなところで簡単に意味によって受けられてしまうところことか(この段落はない方がいいと思った)、不用意に「文学」になりすぎちゃってるんじゃないかと思ったところもあった。

08/03/10(月)
●昨日の日記で、マティスにおいて、光源が消失することと、明暗法からほぼ完璧に離脱することとの密接な関係について書いたけど、もう一つ、そこには視点の消失ということがあると思う。光源が消失すること、明暗による画面の制御から離れること、視点が消失すること、の三つは、不可分に絡み合っている。
●ただ、これは決して特異なことではない。むしろ、フレーム全体がパースペクティブによって制御され、ある一つの(あるいは複数の)光源が特定され、物の立体感が光と影との対立によって浮かび上がる、という形で絵画が組織されることの方が、ルネサンス以降のヨーロッパ絵画という特異な形式であるのだ。しかしその形式があまりに見事な形で洗練され、その迫真性が高められ、さらに、おそらく写真の発明ということによって強化されたということもあって(写真によって得られるイメージは、このような西洋絵画の技法によって描かれるイメージととても近いもので、写真によってその正当性が保証された)、あたかもそれこそが正しい絵画であるかのように思われた。だがもともと、絵によって表現されるイメージは、写真的な視覚とは別のものなのだ。(例えば、似顔絵がとても「似ている」と思える時の似ているは、写真が本人の証明となる、というのとは、まったく別の原理であろう。「似ている」という感覚は、決して写真装置によって保証されるものではないのだ。)パースペクティブとは、写真装置の原理ではあっても、決して「視覚の原理」だとは言えない。とはいえ、一度、徹底してパースペクティブと光による形式を通過した後で、それが放棄されることと、最初からそれがないこととは、全く異なるだろうけど。
●ルネサンス初期の絵画がマティスの形式に似ているように感じられるのは、ルネサンス初期においては、パースペクティブや明暗法は、あくまで部分的に利用されているのであって、画面全体を制御するところまで体系化されていなくて、特に大画面の壁画などにおいては、その技法は折衷的であり、複数の原理の雑居状態として成立しているということろだろう。ルネサンス初期とマティスとが異なっているのは、マティスの前には油絵の具というメディウムがあり、油絵の具によって実現されてきた、ヨーロッパ絵画における、光の屈折や空気の厚みの高度な表現の達成があったという点だろう。
確かに、マティスが明暗法やパースペクティブから離脱することが出来たのは、ルネサンス初期の絵画から得たものが大きかっただろうと思われる(浮世絵などからの影響もあっただろうし)。しかし同時に、マティスの色彩には、(イタリアではなく主に北欧において発展した)17世紀以降の油絵の具による絵画の、明暗とはまったく別の原理によってなされる「光」の表現や、「空気の厚み」の表現の達成が深く響いていることも見逃せない。
●通俗的な意味でキュビズムが説明される時、よく多視点ということが言われる。例えば、この花瓶を、上から見た時と、左から見た時と、右から見た時の像が、画面の上で繋ぎ合わされている、と。(しかし本当は、すぐれたキュビズムの作品においては、像=図が分離-接合されているのではなく、それを成り立たせている異なる空間=地=文脈こそが分離-接合されている。異なる空間が接合されているということはつまり、驚くべきことにそれが成立していることを保証する「何の根拠も無い」のだ。それは常に繋ぎ間違いだ。)だがマティスは、このような意味でも、キュビズムとはあまり関係がない。マティスにおいては、切子状の複数の空間-地が分離-接合されているというよりは、見ることは、視点という特定の点を失い、画面全体に漂ってひろがる。見ている場所そのものがない。つまり視点がない-成り立たない。それこそ本当に、夢のなかでなにかを見ているようですらある。人が何かを見る時、それは決して、視点があり、対象との距離があり、フレームがあるというような、カメラ的な視覚と同じことではない、もっとあやふやでとらえどころのないひろがりのなかで「見ている」のだ、ということが分かる。いや、あやふやなひろがりのなかで「見ている」という状態が雲のように浮かび上がる。(特にマティスのアトリエを描いた作品、「茄子のある静物」や「赤いアトリエ」あるいは「ダンス」のような大画面の作品において。いやあるいは「ピアノのレッスン」とか。挙げれば切りがないのだが。)
しかし、これはあくまで作品の構造の問題であって、それを具体的に「見ている」観者は、どうしたって特定の位置からそれを見ているのだし、三次元的な時間、空間に縛られてしまっている。「生きている人間」には、どうしたってある「視点」が存在してしまう。そうである限りにおいて、マティスの作品を具体的に「見る」時、それは常に「見切れない」という形で見るしかない。だがそれは本当だろうか。見ることがフレームから切り離される瞬間というのが、マティスを見るという経験のなかにはあるように思われる。マティスの絵を見ることによって、観者は、生きている人間からほんのすこしだけ離脱する、自分の目の位置という三次元的な時空から、ほんの少しだけ離脱する、のではないだろうか。
●マティスを見る時、もしかすると目ではないものによって見ているのかもしれない、とさえ思う。(視覚像として構成される、視覚ではないもの。)デュシャンはマティスの色彩について次のように言う。
《マティスの色彩は....その場では捉えようがありません。あれは透明で、推察するに、ごく薄い色彩です。しかし、あなたが彼の絵の前を立ち去った後になって、はじめて、絵があなたを捉えて離さなくなることがわかるでしょう。....マティスへの私の興味は尽きるところがありません。》
勿論、デュシャンにとって「極薄(アンフラマンス)」というのは重要な概念だ。《ヒトガ立チ去ッタ直後ノ椅子ノ暖カミ、ソレハ、極薄デアル》。つまり、今、そこには居ない人物の気配のようなマティスの「色彩」。

08/03/09(日)
●『マティスとピカソ/二人の芸術家の対話』というDVDをツタヤで借りて来て、呑みながらぼんやり観ていた。まあ、はじめから期待はしていなかったけど、内容的にはみるべきものはほとんどなかった。
ただ、面白かったのはピカソの息子の発言で、一般的なイメージでいうと、ピカソとマティスとではピカソの方がエラそうにしている感じだけど、実際にはマティスの方が「静かな暴君」という感じで堂々としていて、ピカソはマティスに会いに行く時、いつもすごく緊張していた、と言っていたことだ。まあ、考えてみれば、そうだろうなあと納得するのだけど。(しかしこの映画では、ピカソの近くにいた人、息子や最後のパートナーなどの発言はあっても、マティスの近くにいた人の発言がない。これは、晩年のマティスがいかに人を寄せ付けずに、一人で仕事だけをしていたかということをあらわしているように思える。四十歳代の後半に、ニースにアトリエを移すのも、知り合いがほとんどいない土地で制作に没頭するという目的もあったらしい。まあ、奥さんと離れて浮気してたっていう話もあるけど。)
あと、ピカソはほとんどモデルを使わなかったらしい。身近にいる人物を描くときでも、ポーズをとってもらったりすることはあまりなく、ほとんどの場合記憶で描いた、と。椅子やツボなどの静物を描く時でも、アトリエに実際にある椅子やツボを描くのではなく、どこかの絵に描かれていた椅子やツボを描く、と。対してマティスは、いつもモデルを使った。(そして、マティスとモデルとの距離は、異様に近い。)
ぼくにとってピカソとマティスの違いははっきりしていて、ピカソはあくまで明暗法とモデリングの画家で、それは伝統的な西洋絵画の範疇に属する。ピカソが革新的なのは、その、明暗法とモデリングによってつくりだされたものの、画面内での組織の仕方が新しかったということだ。(だから実際のところ、キュビズムは明暗によるモデリングを否定したセザンヌとほとんど関係がない。)しかし基本的には伝統的な作風なので、古典的な作風にも容易に回帰可能だ。(ぼくの個人的な意見では、ピカソは絵画よりもむしろレリーフの作品が優れている。つまり、キャンバスという基底面が前提とされない時に優れている。あるいは、絵画においても、もっとも優れた作品はレリーフ的な空間構造をもっている。色彩と言う面では、ピカソはほとんど伝統的だ。)
対してマティスは、スペースの配分と色彩の画家で、これは西洋絵画の伝統とはズレている。勿論、まったく参照元がなくていきなりのオリジナルだというわけではなく、一方にセザンヌがいて、もう一方にピエロ・デラ・フランチェスカがいるし、後期印象派の画家たちがいなければ、マティスは自らの資質を発見することもなかったかもしれない。(色彩というより、絵の具の質という面では、必ずしも西洋絵画からズレているというわけではないと思うけど。)この映画ではマティスの、「デッサンはより少ない要素で描かれる絵画で、白い紙に黒い線を引くだけで、白の質を変えることが出来る」という発言を引用しているのだが、この発言にマティスの絵画の特徴が端的にあらわれていると思う。均質な紙の白を、黒い線で「切り分ける」という身振りだけで、その内実にはまったく手をつけずに「質」を変えることが出来るのだ。既にある基底面を、切り分けることで別物に変質させ、分裂させると共に統合する。つまり、明暗やモデリングはほとんど関係がない。(明暗もモデリングもなしに、どうやってボリュームを表現するか、という追求が、マティスの人物画であろう。)
1954年にマティスが亡くなった後も、ピカソは生き続ける。ぼくは、好き嫌いということで言えば、マティスが亡くなった直後くらいの時期のピカソがピカソでは一番好きだ。ピカソが最もマティスに近づいた時期、という言い方はあまりにマティスの側に立ち過ぎている言い草だけど、まるで、死んだマティスとコラボレーションしているかのような絵を、この時期のピカソは描いている。このことだけをみても、この二人の関係が特別なものであったことが分かる。
(抽象表現主義にもピカソ派とマティス派がいる。ピカソ派の代表は、デ・クーニングとポロックだろう。マティス派は、ルイス、ロスコ、ニューマン、ホフマンなど。ゴーキーはマティス的な絵もあるけど、意外と基本はピカソ寄りだ。だが、なんといっても抽象表現主義で最もマティス的なのは、60年代はじめくらいまでという限定付きでだけど、フランケンサーラーだと思う。もっとも、この人も初期はもろにピカソなのだけど。)
●おそらく、ピカソに決定的に欠けているのは、空気を描くことへの関心だろう。
空気を描くことが、意識的に主題化されたのは、17世紀のオランダ絵画からではないだろうか。それはつまり、フェルメールでありレンブラントということなのだが、それよりももっとはっきりとしているのがライスダールだろう。
要するに、風景画のキモとは「空」の表現であり、空という、そこから光が降ってくる何もない分厚い空気の層を、平べったい面の上にどのように表現するのか、ということだ。風景画が、ロマン主義的な、鬱蒼とした深い森とか、切り立った崖の上に建つ古城とかいった文学的な主題を抜きに、たんに「風景」としての表現を得て、たんなる風景が絵の主題として認められるようになったのは、空という分厚い空気の層を表現することが可能になったからだと思われる。空という、そこから光が降りてくる何もない広がりを、油絵の具の半透明の層を塗り重ねることでできる独自の光の屈折によって表現出来たからこそ、それは絵としての自律性を持ち得る表現力を獲得した。
それ以降、空は常に、風景画の表現の強さを支えるキモとなる。ライスダールの空、コンスタブルの空、バルビゾン派の空、ハーグ派の空、クールベの空、モネの空、ゴッホの空、セザンヌの空、初期アンソールの空。そこから光が降りてくる分厚い空気の塊。その厚みを、空気の流れを、それによる光の屈折を、あるいは雲を通過してきた光の鈍い輝きを、雲のダイナミックな動きを、どのように捉え、どのように表現出来るかで、風景画の強さはほとんど決まってしまうとさえ言える。(そして、それを可能にするのがおそらく油絵の具だ。)そして、ヨーロッパ絵画において、空(空気)の表現とは、ほぼそのまま光の表現のことだ。
ピカソには、このような空=空気の層=光への関心が、ほぼ完璧に見当たらない。しかし、最もすぐれたピカソの作品においては、油絵の具の薄く半透明な複数の層の重なりのかわりに、レリーフ的な、複数のことなる基底面の交錯があるので、空気の塊=光の屈折の表現による視覚的な厚みのかわりに、構造的(認知的)な厚みが出現している。ピカソの色彩はほとんどの場合、単調であるか濁っているのだが、それは作品構造の複雑さと正確さによって埋め合わせられ、補って余りあるものとなる。
だがマティスもまた、空にはあまり興味がないかのようなのだ。マティスは基本的に室内の画家であり、風景の画家ではない。ここがセザンヌと決定的に違うところだ。だがマティスの色彩にはピカソとは違って外光が含まれている。だから空気の厚みも存在する。しかしその光は、空から降ってくるものではなく、どこかから染み出して広がり、既にそこにあるかのような光なのだ。(まあ、セザンヌもかなりの程度でそうなのだけど。でもセザンヌには明確に「空」がある。)モロッコの光やニースの光は、空から降って地上に届くのではなく、「そこ(空気の中?)」にはじめからあって漂っている。マティスの色彩の不思議な感触、平面的でありながら厚みをもち、空気を含んでいるような色彩は、このことと関係があるように思われる。あるいは、マティスが明暗法からほぼ完璧に離脱できたのも、このことと関係があるのかもしれない。
おそらくマティス以降、絵画における光は空から降って来るものだけではなく、それ自身として既にそこにひろがっているようなものも可能になる。(それは、色彩間の微妙な調整だけでなく、下地の白いひろがりへの配慮によって可能になる。)これは、色彩の意味そのものの変化でもあろう。そしておそらくこのこと(光源の消失)が、ある種の抽象絵画を可能にする。

08/03/08(土)
●ぼくは昨日の日記で、散歩の後、《目は腫れるし、鼻の奥から喉にかけての粘膜がじんじん痛むし、ハナミズは垂れるし》という状態になったことの原因を、何の疑いも躊躇もなく「花粉のせいだ」と判断している。でも、その判断の根拠はと言えば、(天気予報なども含めて)「みんながそう言っているから」という以上のことはない。これはけっこう不思議なことだ。
市販の花粉症対策の薬を使えばある程度は効く、というのがもう一つの根拠となるかもしれないけど、医者に行って花粉症だと診断されたというわけでもない。ぼくは小さい頃から、やけに鼻がぐずぐずしたり、鼻詰まりが酷かったりする時期があって、たんに鼻が悪い子供だと思われていて、耳鼻科に通っていたこともあったけど、原因が何なのかもよく分からないまま、通院する度に鼻を洗浄されて、何の薬かよく分からない薬をもらって、それでも別に良くなることもないのでそのうち医者にいかなくなってしまう、ということを繰り返した。(鼻が悪いのは、心持ちがよくないせいだ、ともよく言われた。)それがいつの間にか、花粉症という症状が人に広く知られるようになり、私は花粉症だという人が増え、それでなんとなく自分も花粉症なのだと考えればいろいろつじつまがあうので、まあ花粉症なのだろうというところで落ち着いた。
勿論、花粉症というものには科学的な根拠があるのだろうけど、ぼくが、自分は花粉症で、この症状は花粉によるものだと「信じている」という時の、その根拠は別に科学的なものではなく、やはり、みんながそうだと言っていて、そうだということになっているから、きっとそうなのだろう、ということでしかない。
僕は別に、すべての根拠を疑わなければならない、自分で検証しなければならない、ということを言いたいのではない。その逆で、どうせそんなこと出来ないのだから、得意なことや好きなことならともかく、それ以外は、人に預けることの出来るものは預けちゃって全然オーケーなのではないか、とさえ思っている。それでつじつまが合い、それでことがうまく運ぶのなら、別にそれでよい。ただその時、その判断は「人に預けちゃっているものなのだ」ということくらいは、意識しておいた方がいいとは思うけど。
でも、ここで、ぼく自身の身体に起きた、ぼく自身の閉ざされた感覚でしかない《目は腫れるし、鼻の奥から喉にかけての粘膜がじんじん痛むし、ハナミズは垂れるし》という苦痛が、花粉症という言葉の一般化、花粉症に対する認識のひろがりによって、なんとなく外側から形を与えられ、位置を与えられて、納まりどころを得るというのか、正当性を得られるかのように思ってしまうのは、何とも不思議なのだった。たんに鼻の悪い子供として、鼻をぐずぐずいわせていた時よりも、今、花粉症の人として、鼻をぐずぐずさせている時の方が、(苦痛は一緒でも)どことなく堂々とぐずぐずさせているように思えてしまうことが、自分でも何か納得がいかなくて、ひっかかることではある。権力を得る(身体が権力に貫かれる)っていうのは、こういうことなんだよなあ、と。
唐突なようだけど、芸術とは、このような意味で、決して「場所を得る」ことのない経験こそが、問題にされるのだと思う。

08/03/07(金)
●気軽に散歩に行けない季節になった。早起きして、午前中原稿を書いて、ちょっと昼寝してから、午後、二時間くらい散歩したのだけど、散歩中はそれほどでもなかったものの、帰ってきてから、目は腫れるし、鼻の奥から喉にかけての粘膜がじんじん痛むし、ハナミズは垂れるし、ということになった。二、三日くらい前までは、散歩してても、多少鼻がぐずぐずするものの、まだ大丈夫という感じだったのだが、とうとう「きた」のだった。ぼくは、杉よりも檜に反応するみたいなので、今のところまだ、そんなに悲惨なことにはなっていないのだけど、さすがに顔を長時間外気に晒すのはきつくなってきた。といって、マスクにゴーグルで散歩するというのも、興ざめだし。
●長めの原稿(といっても6、70枚とか、そんなものだけど)を書く時、書き出しは、これから長く書いてゆくための最初の強いアタックが必要なため、どうしても気負った鬱陶しい感じ、あるいは気持ちを押し付けるような独善的な感じになる。長めの原稿の終わりの方は、とりあえずはやく決着をつけたいという気持ちで、駆け足というか、拙速なものになりやすい。終わりの方の駆け足は、もっとゆっくり、もっとためて、と意識的にタメをつくり、はやく決着したいという気持ちを抑制しつつ、書き続ける時間に留まる(書き終えるのを先延ばしにする)必要があるが、書き出しの勢いや鬱陶しさは、その先を書き続けるために、ある程度はどうしても必要なもので、そのまま突っ走って、一通り最後まで辿り着いてから、はじめに戻って書き直すか、不必要ならばっさり切ってしまえばいいのかもしれない。(実は、切ってしまうようなところにこそ「気持ち」が一番入っていたりするのだけど、でもその「気持ち」は、後の論の展開のなかに染み込んでいるはずで、というか、そうでなければ「ダメな文章」なわけで、だから「気持ち」の部分は切っちゃってもきっと大丈夫なのだろう。)
●その日暮らしの自転車操業なので、原稿を書いても、掲載保留というのがいくつかつづくと、見通しがひっくりかえり、簡単に経済的に行き詰まってしまう。まあ、でもなんとかなるでしょうと楽天的に構えて、次の原稿を勝手に書き出してしまうしかないのだった。
●先日、用事があってお会いした磯崎憲一郎さんは、一年で100枚書くのが限度だと言っていた。以前、青木淳悟担当の編集者から、青木さんは一ヶ月かかって3枚とかいうことも普通にある、ということを聞いた。やっぱ、あれだけの文章を書くということは、そういうことなのだなあと、「新潮」の保坂和志・岡田利規対談を読みながら思った。

08/03/06(木)
●制作。従来の作品の延長としての制作と、いきなりはじまってしまったマティス風の絵(08/02/19の日記参照)の制作とが、切り離されたまま、並行してつづいている。マティス風の絵の方は、良いのか悪いのか自分でもよく分からなくなってきている。手と頭がバラバラで、自分が何をやりたいのかよく分からないまま、手が勝手に先行して、絵が動いてゆく。一体どこに行こうとしているのか。手の制御を緩め過ぎなのだろうか。ただ、今までとは違う感じで、ダイナミックに空間を動かせているような感触はある。でも、その結果として出て来ている状態をどう判断すればよいのかよく分からない。判断を保留したままで、良いのか悪いのかよく分からない作品がいくつか出来てゆく。
とにかくぼくの手は、今すごく素朴に絵を描きたがっているようなのだ。油絵の具に手を出したことで、何か抑圧が解けてしまったかのようだ。冷静に考えれば、こういう時はだいたいドツボにハマっていることが多いわけで、すごくヤバいところに入り込んでしまったのかもしれないという気もする。とにかく、マティス風の絵の方は、当分は形にはならないであろうことを覚悟して、手探りでつづけてゆく。
一方、キャンバスに線だけで描く仕事の方は、完成度が高くなってきているように思われる。この仕事の元になるドローイングを、これもいきなり始めてしまったのは、2年半か3年くらい前で、今ようやく、ああ、これがやりたかったのか、と自分のやりたかったことがおぼろげに見えてきたみたいだ。もし、ジャクソン・ポロック先生の幽霊と話す機会がもてたならば、これこそがオールオーバー以降(1950年以降)の、晩年の私がやりたくて出来なかったことだ、と言って下さるに違いない、と、大口をたたいてみる。
というか、ぼくこそがポロックの幽霊だ、と更なる大口をたたきたくなる。ただ、この仕事にも、マティスの幽霊の関与も大きいし、不可欠なのだが。ちなみに、44歳で亡くなったポロックが死んだのが56年で、マティスはその二年前の54年、84歳まで生きていた。(マティスの後に抽象表現主義がくるのではなく、マティスと抽象表現主義は同時代なのだ。)
あと40年とは言わないが、あと20年長くポロックが生きていればなあ、と思う。確かに1950年のポロックは素晴らしいのだが、オールオーバーの形式の完成によってポロックの可能性が尽くされたわけでは決してなく、むしろそれ以降、一般的には「ユングへの回帰」などと言われ、弛緩していると言われてしまうような反グリーンバーグ的な作品にこそ、大きな可能性が(ポロックの可能性の中心が)秘められていたのだと思う。ただ、その可能性を実現するためには、おそらくポロックはもう一度改めて絵画を勉強し直す必要があっただろう(マティスの幽霊を召還する必要があった)。そのためにはやはり、20年くらいの時間は必要なのではないか。ポロックの名声からすれば、あせらなくても20年くらいなら余裕でその名声だけでもで生きていけたと思うのだけど、当時のモダニズムの、常に「進化(新しさ)」を要求する進化主義的な空気が、それを許さなかったのだろうか。ポロックはアル中になり、飲酒運転で事故って死んでしまう。

08/03/05(水)
●昨日書いた、今澤正の作品は、ぼくがこの日記でいつも書いている「絵画」についての考え方とはほとんど一致していない。つまり、ぼくと今澤くんとでは、絵画でやろうとしていることが全然ちがう。(あたりまえだけど。)
今澤くんは、わりと忠実なグリーンバーグ主義者みたいなところがあって(といっても、今澤くんはグリーンバーグに興味などないと思うし、読んだ事もないだろうけど、結果としてそうなのだ)、岡崎乾二郎が的確に指摘しているのだが、グリーンバーグにおいて(ということはつまり、アメリカ型フォーマリスムにおいて)大きな問題は知覚と想起とを厳格に区別して、想起なしに純粋な知覚としての作品をたちあげるというところにあった。抽象表現主義の作家がいわゆる「形態」を排除して、図と地とが一体化した「空間」のみを提示するような作品をつくったのは、形態がみえると、必ず人はそこに何かを想起してしまうからだ。例えば、日の丸はたんに白い地に赤い円形が描かれているだけだが、それを人は日の丸と呼び、そこに太陽のイメージをみる(同時に社会的なコンテクストも呼び寄せる)。あるいは、画面にただ三角形を逆さにしたような図を描くだけで、人はそれを杯のようなものとして観てしまう(同時に、杯にまつわる様々な神話的物語も呼び寄せる)。つまりそれは純粋な知覚(視覚)ではなく、知覚+想起となってしまう。
なぜ想起が混じるとダメなのかというと、イデオロギー的にはいろいろあるけど、要するにそれは作品の外にあるもので、作品の外にあるものの力を作品が借りることで自律性が弱くなるということだ。もっと簡単に言えば、形態がなにかしらの具体物と結びつくことで意味が確定してしまうと、そこで「見ること」が解決してしまって(あるいは見ることから問題が逸れてしまって)、見ること(知覚すること)の宙づり性(による緊張)が消えてしまうということだ。宙づりの解決=弛緩が、前衛をキッチュ(俗)へと堕落させる。(このようなモダンな作品に対して、ポストモダンの作品は逆に、知覚を軽視して、想起=文脈を重視する傾向をもつ。)
しかしこれはあくまで公式的な見解で、実は真の狙いはほかにあるように思う。知覚から想起が排除されて、純粋な視覚性がたちあがるというのはどういうことか。その時、知覚は、何かについての知覚ではなくなり、現世にある何かしらの具体的物質から切り離された知覚そのものとなり、つまり知覚=夢(想起)というのとほとんど同じ状態が出現する(排除された想起は知覚そのものとぴったり重なって回帰する)。作品(物)からヴィジョン(像)を読み取るのではなく、見えることがそのままヴィジョンとなる(物と像とが一体化することで物が消える)。かげろうのようにたちあがる作品。これはつまり、物質から解き放たれた精神の比喩であり、存在することで少しも失墜していない純粋な「存在」そのもののあらわれの比喩であり、世界の非物質的なあらわれ、つまりは恩寵そのもの、光そのものということになる。これはフォーマリスムというよりは神学的(プロテスタント的?)であり、グリーンバーグが、作品が部分に分解することのできない「単一性(一挙性)」としてあらわれる状態の実現に理念として固執したのにも、このような意味(世界の意味が一瞬にして開示される恩寵)があると思われる。(グリーンバーグを愚直に読むことしか出来なかったミニマリズムの作家は、このことが理解できなかったから、フリードから批判された。)
今澤くんの作品は、このような状態を、(下手をすればニューマンやルイスよりも上手に、かつコンパクトに)実現させてしまう。しかし、ほとんどグリーンバーグの理念の実現であるかのようにみえる今澤くんの作品が、グリーンバーグからズレる一点があり、それはその作品にあきらかに「家」を思わせる形態がみえることだ。それは、単純には図像にみえないような、非常にデリケートな操作が施されてはいるが、しかしそれでも、誰がどう見ても「家」に見える。
この、最後の一点の、グリーンバーグとの微妙かつ絶対的なズレこそが今澤くんの作品の非常に面白いところだと思う。この一点で神学からこぼれ落ち、崇高な恩寵は俗っぽいキッチュへと転落しかねない。しかしまた、作品の非常に高度なありよう(色彩の質の高さ及び、見ることを決して確定させない配慮)は、それを簡単にキッチュに見せることもない。異次元から突如出現したかのような、非物質的な色彩(光)の崇高ともいってよいであろうあらわれと、形態のもつ子供向けの玩具のような親しげなくだけた表情とが(近付き難さと親しさとが)、平然と両立し、不思議にブレンドされているところが、なんとも面白いのだ。
●これは昨日の夜ことだけど、人との待ち合わせのために新宿へ出て、時間より微妙に早くついてしまったので、待ち合わせの場所とは少しズレた、大きな通りが交差する十字路のところのガードレールに寄りかかって、ビル群の窓の灯りやネオン、恐いような勢いでぐんぐん歩く人たち、甲虫の集団のように見える車の群れなどを、排気ガスや花粉を流してくれるかのような小雨のなかで、やー、新宿だなー、とか思いながら口をぽかんと開けて(上を向くから口が開く)、音というより振動のようなエンジン音や足音を浴びつつ、イマイチ現実感のない夢のような感じで眺めていたのだけど、その十字路の角に大きなそば屋があって、その前に何台もの自転車が停めてあって、白衣に白い頭巾の店員が、大きなお盆にお椀をびっしり並べ、さらにその上にまたお盆を載せて、そこにもびっしりとお椀を並べ、溢れないようにその二重のお盆全体をラップできつく巻いたものを片手で持って店から出て来て、それを肩に担いで自転車で出前に出て行き、しばらくすると別の店員が帰ってきて、また出て行き、また帰って来て、何人の店員でまわしているのか分からないけど、けっこう頻繁に自転車が出て行ったり帰って来たりしていて、邪魔にならないようにそこからちょっと離れて、その動きに魅了されてずっと眺めつつも、前に新宿でバイトしていたこともあったけど、こんなに忙しないところではもう絶対働きたくないなあ、と思っていたのだった。

08/03/04(火)
●昨日は、京橋のギャラリー・テラシタで、今澤正「New Works」展を観た。(3/29まで、日曜休み。)
今澤くんは友人で、友人の作品についてこういう言い方をすると身内誉めっぽくなってしまうのだが、今澤くんは良い画家なのだなあと改めて思った。今澤くんの作品は、まるで漆塗り職人のような高度な技術を必要とするもので、しかし、自らが構築し獲得したその高度で独自の技術によって逆に身動きができなくなっている感じが最近の作品にはあって、そのことは当然作家自身も自覚していて、ここ数年は特に、制作するのがとても苦しそうだった。
今回展示された作品は、おそらく、そのような状態から脱することがかなり強く意識されたもので、そしてそれはかなりの程度で成功していて、ずっと今澤くんの仕事を観続けている眼にも、とても新鮮なものとして映った。しかし、その新鮮さ、あるいは、ある種のこう着状態からの脱出は、今までになかった新しいことをやったとか、今までやってきたことを壊したとか、そういうことでは全然なくて、むしろ原点に返ったというか、いや、こういう言い方は後ろ向きで違うかもしれなくて、より自分自身に忠実になることによって、改めて新鮮さを獲得した、という感じなのだった。
作家が「鮮度を保つ」というのは、つまりこういうことなのだなあと思った。今までしなかった新しいことに挑戦するとか、今までの自分の殻を破って自身を拡大させるとかいうのではなくて、前よりもより一層、自分自身に忠実になることで、その度に何度でも、新しいものとして改めて「自身の資質」を発見し直す、ということ。再び、三たび、発見し直された「自身の資質」とは、それ以前のものと同一のものの回帰ではないし、そのたんなる焼き直しでもなく、その間の制作の時間や技術的な試行錯誤の厚みによってより鍛え上げられ、あたらしく生まれ変わった「それ」なのだ。
結局作家がすることは、毎回同じだけど違う作品をつくること、あるいは、毎回違うけど結局は同じ作品をつくることなのだ。だがここで、「同じ」とか「違う」という言葉の意味は、通常の意味とはかなり違っている。毎回同じだけど、同じであることによって、その都度新しいものとなる、とか、毎回違う経路を辿るけど、結局はこの地点こそが望まれているらしくて、ここに来てしまうのだが、しかし、同じ地点でも、そこへ至る経路が違えば、やはりその都度新しいのだ、というようなことだ。
今回展示されている作品を観て、ぼくは、今澤くんが学生の頃につくっていた、板の上に透明な茶色系の色を重ねて、画面の中心部分に昆虫のような形態がぼんやりと浮かびあがる作品と、99年から2000年頃につくっていた、今の形式の元になるような作品のことを思い出していた。つまり今澤正という作家は、過去のその二回と、今回とで、三たび、自分の「資質」を、新たなものとして発見し直すことに成功しているように、ぼくには感じられるのだ。
学生の頃の作品と今回の作品とでは、作風や形式が全然違うし、なにより完成度に大きな差がある。しかしそれでも、ある形態なり色彩なりが、夢と現実との狭間にあるような、捉えどころの無い場所からふわっと浮かび上がってくるような感じとか、そのあらわれ方のやわさかさの感触とか、その、浮かび上がって来た形態なり色彩が眼にあたえる圧力や抵抗の強さや肌触り(眼に与える肌触りというものがあるのだ)などに、共通するものを感じるし、この感じこそが、今澤正を「画家」にしているのだなあ、ということを感じる。
今まで、透明な層を何層にも重ねることで実現されていた複雑な色彩は、今回の作品では、不透明な色彩の、割りあいと少ない層の重ねあわせにとってかわられている。そのことは、画家が、色彩間の響き合いの調整と判断の精度において、より自信を増したことによって得られた、ある種の単純化であるのだが、その不透明な色彩の組み合わせのバランスによって、どちらかというと鈍いと形容されるであろう色彩が、やわらかであると同時に非常に強い輝きを発することになる。そして、形態として見えるか、色彩のひろがりとして見えるかが微妙で、同時にどちらでもあり、どちらでもないような、色面の形と面積の絶妙な調整と、どうやったらこんなことが出来るのかというような高度な技術を感じさせるエッジの処理とが、その輝きをより非現実的なもの(現実のなかには場所をもてないようなもの、異次元から突然にあらわれたようなもの)にしているように思われる。複雑な二種類のグレーとの対比によって、強く、やわらかく輝くオレンジ色は、まさに、絵画によってしか得ることの出来ない「光」を感じさせる。
(あと、今までの今澤くんの作品と比べるとサイズがやや小さめなのだが、このくらいのサイズが、ちょうど良い感じに思えた。)

08/03/03(月)
●おそらく、よしながふみは、革命など絶対に不可能だと思っているのではないだろうか。革命とはいわば鉄道模型やガンプラのような「男の子のおもちゃ」だ、と。その作品の根底に流れているのは、世界に対する(他者に対する、愛に対する)基本的な諦念であり、その諦めこそが知性と繊細な配慮を呼び寄せているように思われる。ぼくが昨日、「男性的」という言葉で言おうとしたのは、多分そのことだ。ニヒリズムとは徹底して知的であることを強いられることで、つまり知性のない者(男の子)はニヒリストたり得ない。(想像的な母親に向って)拗ねてみせるという媚態くらいがせいぜいだ。偉大な、男の子たちの映画『クーリンチェ少年殺人事件』で、唯一男性的(知性的、ニヒリスト的)な存在が、殺されてしまう女の子で、彼女は、私は決してかわることはない、世界がかわらないのと同じように、というセリフを吐く。
男性的(ニヒリスト的)であるとは、母という位置を失うことではないか。「私は誰?」という問いかけに、愛をもって答えてくれ、それによって私の存在を保証してくれる想像的な母のかわりに、その位置に(大文字の他者ではなく)自身の身体的快楽を置く。そのとき、自身の存在の証明は、ただ自身の身体的興奮とその感触によってのみ保証される。私は誰?という問いかけは、器官の快感(この感覚)という答えを得る。そこでは感覚の質こそが私を支える(愛や象徴と同等の強さをもつ、感覚の質が要請される、よいセックス、おいしいワイン、うつくしい風景、ここちよい気候...)。そして、そのような自己完結(自己充足)の砂を噛むような味気なさは、ひたすらに明晰な知性と認識によってのみ埋め合わせられる。(その時、知-言語は象徴-父から切り離されて使用されなければならない。)
世界はかわらない。象徴的な秩序は主体的には動かせない。私は、そこで偶然に与えられた位置に閉じ込められ、その場所において主体をかたちづくるしかない。だとしたら、そのようにして閉じ込められた場所で、どのようにすれば、そこで、そのように、かたちづくられてしまった主体(私自身)に対して、最も繊細な配慮が可能になるのか。(つまり、よりマシに生きられるのか。)
私が、ここに閉じ込められ、「ここ」であることのために「こうなるしかなかった」主体を抱えているのと同様に、他者もまた、「そこ」である限り「そうなるしかなかった」主体を抱えている。であるのならば、その「場所」の違いによる主体の違いに対しても、それが共感不可能なものであっても、最大限の配慮が払われなければならない。これは、ニーチェ的な「諸力」の強度(狂気)に間違っても触れてしまうことのないように、周到に張り巡らされた防衛装置でもある。例えば『大奥』という作品を起動させ、駆動している基本的な感情(モチーフ)とは、そのようなものであると思われる。高度にポストモダン的な感情。それは意外にも、プラトン的なホモソーシャル的世界に近づく。よしながふみの登場人物は、男性も女性も「男性的」である。(ただ、ニヒリスティックな世界では愛が蒸発しているので、その根底にあるのは、プラトニックな朋輩への愛ではなく、自分とは異なる他者への配慮なのだが。自身とは異なる他者との偶然の邂逅を運命として受け入れ、その他者への配慮を、事後的、意識的に愛へと育て上げ、愛を人工物として加工し直す作業、というべきか。)
●付け加えるならば、ぼく自身は「男の子的なもの」を必ずしも否定しているわけではない。男の子的ながさつさや無神経さによってしか取り結ぶことの出来ない、世界との特別な関係というものがあり、ぼくはいまでもそれに魅了されている部分があることを否定できない。(それは勿論、無自覚であることによってのみ許される、甘ったれた暴力なのだが。)それは例えば、悲劇的な様相としては『クーリンチェ少年殺人事件』などにあらわれ、楽天的様相としては『ビーバップ・ハイスクール』や『ワルボロ』などにあらわれている。

08/03/02(日)
●『フラワー・オブ・ライフ』(よしながふみ)の一巻を読んで思うことは、よしながふみは、きわめて「男性的」な作家であるということだ。ここで、男性的というのは、マッチョだとか、男の子っぽいということとは、とても遠いことだ。例えば、男の子っぽいということは、徒党を組みたがり、粗野で、繊細さと他者への配慮を欠き、思い込みが激しく自己中心的で、それでもなお、自分のことを誰かがいつも気にしていてくれるということを前提にして生きることを、自分が「男の子」であることによって「許されている」と無自覚に信じ込んでいられるということだ。この、男の子であることの無自覚なずうずうしさは、それ自体ときに美徳であり、眩しさであり、かわいげであるかのように、多くの人によって愛されている。マッチョであるということは、男の子が「無自覚」であることについて、自覚的に、確信犯的に、そこに居直っているということであろう。
そして、「男性的」であるということは、男の子的な無自覚さ(かわいげ)が決して許されない環境にいる者が強いられる、ある覚醒と理性の場である。だから、むしろ、男性よりは女性の方が、より「男性的」であることが多いとさえ言えるのかもしれない。よしながふみは、男の子であることに徹底して疎外されていることによって、常に男性的であることが強いられている作家であるように思われる。その作品は、常に繊細で、理知的で、頭の良さを感じさせるバランス感覚に優れていて、政治的に正しい。『フラワー・オブ・ライフ』の登場人物中で、波乱を起動させる存在であり、最も「男の子っぽい」人物である主役の花園春太郎でさえ、男の子的粗野(=無邪気)さからはほど遠い、理知的な存在である。(彼は白血病であったために、男の子的無邪気さが許されなかった。)それこそが、この作品の最もうつくしい部分であるのと同時に、この作品の限界であるようにも思えてしまう。それはきわめて理性的でありつつも、常に理性の範囲内に留まり、そこを踏み越える力を感じさせない。(例えば同じ作家の『彼は花園で夢を見る』は完璧なまでにうつくしい作品だけど、その完璧さは何かを干上がらせることによって成り立っているかのようだ。)
例えば大島弓子は、よしながふみが男性的であるということと同じ意味で、きわめて男性的な作家だと思う。大島弓子の登場人物はいつも、世界や他者との関係において、理知的で戦略的である(あたかも「天然-無垢」であるかのようにみえる時でさえも、それは世間-他者に対する主体の戦略である)。それは、男の子的、マッチョ的な粗野や無自覚とは遠くはなれた聡明さや自覚性とともにある。しかしその理知的な戦略は、自身の欲動のはげしい明滅や、他者が投げかけてくる欲望や悪意の予想のつかなさによって、いつも破られ、失敗する運命にある。(そもそも、原初的な「失敗」こそが、登場人物に自覚-戦略を強いるのだが。)大島弓子の(特に70年代の)作品の魅力は、他者-世間に対してきわめて自覚的、理知的であるにも関わらず、それが自身の欲動や、他者の欲望、悪意によって破産させられてしまうという(常にその危険にさらされているという)、激しいダイナミズムのなかにあるということだ。(樫村晴香が、大島弓子が「政治的」な作家であると言うのは、そのような意味であろう。)だが、よしながふみの作品は、あくまで理性の範囲内に留まり、そのようなダイナミズムに欠ける。そこでは常に理性が制御し、波乱でさえ理性のよって起こされ、理性によって抑制される。(政治-摩擦は消失し、高度な対人関係における配慮-外交が前面化する。)登場人物は全て、自身の位置を理解し、自分自身に配慮し、そして他者のありように配慮する(たとえそれが時に充分ではないとしても)。花園が三国を「かわいい」と思う時、そのかわいさ(欲望)は、理性をくすぐりはしても、破壊はさせない。ここでは他者の欲望や悪意もまた、理性による制御の範囲内にある。
欲動において、欲望において、快楽において、あるいはセクシュアリティにおいて、主体性などあり得ない。誰かが誰かに誘惑された時、その主体性は、誘惑され欲望し快楽を得る者の側にあるのか、それとも、誘惑し、欲望を誘発し、関係を操作する側にあるのか。(だがそこに、権力関係、強者と弱者は存在するかもしれない。しかしそれは、容易に逆転するし、常に相対的だ。)欲望とは誰に対しても等しく常に暴力である。だからそれに対しては嘘-偽装による防衛-戦略が必要である。これがおそらく大島弓子の世界であると思われる。対して、よしながふみにおいては、欲望や快楽よりも「主体」が重んじられる。主体を破壊するような強い欲望は周到に排除され、主体は自らの主体性を、そして自分自身の「位置」を、運命として受け入れる。(『大奥』などはきわめて後期フーコー的な作品なのかもしれない。)よしながふみにおいては、自分自身は絶対的に守られなければならず、よって、他者の主体もまた、同じように守られなければならない。そこは踏み越えてはならない。そこでは主体への配慮こそが最も重い価値を持つ。
岩館真理子の『雲の名前』では、主人公の存在の基盤が徹底して否定される。主人公が階段の上の屋敷を訪れるのは、不確かな自身のアイデンティティの確認のためであるが、しかし、そこでの一連の出来事は、そこへと至る以前よりも、より徹底して、自身の根拠を失わせることになる。なにしろそこでは、主人公による「私は誰(私の存在する位置は?)」という問いかけに対し、「あなたなどはじめから存在していない」という答えがかえってくるのだから。主人公はその存在を根底から否定される。主人公はそこにいるにもかかわらず存在しない。しかしこの作品が素晴らしいのは、この答えによって主人公が、自身の存在の(象徴的な)位置などとは無関係の、生の場所を発見することだ。原初的な他者(母)から突きつけられる、存在そのものの否定が、主人公の自由の場所を開くのだ。自身の象徴的な位置に捕われた、階段の上の家の人たちの演じる(欲望が複雑に絡み合う)安っぽいメロドラマ(ここでの人間関係に、よしながふみによっては決して描きだされない、べとついた気味の悪さがあるのは、彼や彼女には主体がなく位置、位置によって強いられる欲望だけがあるからだろう)のなかを通り抜けることを通して、主人公は、自分自身の主体や位置や根拠を失い、そして、生を得る。(「ぼくは存在したの?」という問いに対し、「確かに存在した」という答えを得るとともに死んでしまう『ニンゲン合格』の主人公とは対極にある。)階段をてっぺんまで昇ったら、実はその階段そのものが存在しなかったかのような清々しさ。

08/03/01(土)
●ぼくの作品を欲しいという方と、ギャラリーでお会いして話す。その時、その作品が壁にずっと立て掛けてあって、それを観ながら話していたら、だんだんその作品を手放したくなくなってきた。すごい自己愛的で気持ち悪いと思われるかもしれないけど、ぼくは自分の作品が結構好きなのだと、改めて思った。
勿論、自分の作品だけが好きなわけではないし、自分の作品こそが抜きん出て素晴らしいと思っているわけでもない。制作の途中で、自分のやっていることが信じられなくなったり、自分の能力の足りなさにうんざりすることはしょっちゅうだ。アトリエにたてかけてある自分の作品が見える場所で、尊敬する画家の画集などをパラパラ観ていて、そのモードのまま、目の端に自分の作品が映ったりすると、巨匠の作品と比べた時のその脆弱さに力がぬけたりもする。
とはいえ、やはりどこかで、いや、そんなに悪くもないんじゃないの、とか、というか結構いいんじゃねえの、とか、ああ、この色とか渋いよなあ、とか、ちゃんと思っていて、こういう自足は危険といえばすごく危険でもあるのだけど、そうはいってもこれがなければきっとつづけられない。
絵を描くのが好きだ、とか、自分の作品も結構好きだ、とか、そういうことはまともな「美術家」は恥ずかしくてなかなか言えないもので、その恥ずかしさを誤摩化すために、いろいろと難しいことを言ったり、やったりもする。ここで恥ずかしいという感覚はとても重要で、恥ずかしさを感じない人は信用出来ない。それは勿論そうなのだが、それでもやはり、この人自分の作品が好きなんだろうなあと思えない人の作品もまた、信用出来ない気がする。
●ぼくの作品は高いと思う。ぼく程度の評価しかない作家の一般的な値段の設定より、おそらく二割から三割くらい高い。値段を高くすることは、ぼくにとって経済的に有利にはならない。買う気で来たけど、これじゃあちょっと手が出ない、と言われることも割とある。普通に考えれば、これは気軽に手が出る値段ではないよなあと、自分でも思う。ごくたまに、若くて、そんなに裕福だとも思えない方が買ってくださったりすると、とても嬉しい半面、こんな値段で申し訳ないなあという気にもなる。(とはいえ、そんなに常識はずれに高いわけではない。ぼくにもその程度の社会性はある。)
現代作家の作品を気軽に買いましょう、みたいな流れがあって、それはそれで別に良いのだけど、ぼくは自分の作品はそんなには気軽に買ってほしくない。というか、そんなに気軽に買えるような軽い作品はつくっていない、という程度の自負はある。(手放す方としても、そんなに手軽に手放せるものでもないのだ。)基本的に「一点モノ」である美術作品というのはそういうものだと思っている。それは一種、呪物的な力ももつ。その作品を引き受けるということは、結構重いことでもあるはずだ、と。(そんなことを言いつつも、ぼくは、他人の作品については、軽く買えるような作品しか買ったことがない。ずるいなあと自分でも思うのだが、呪物を引き受けるには、それなりの覚悟が必要なのだった。)
「近代絵画」とか言ってる奴が何を言ってんだという話だし、こんなに重いことを書くと、もともと売れない作品がますます売れなくなりそうだったりもするのだけど。別に、「俺様の作品をありがたく受け止めろ」とか、そういうことじゃないです。しかし、芸術作品というのは基本的に敷居の高いもので、そこにはちょっとは無理しなければ越えられない壁があるはずだ、ということです。あと、念のために書き加えておけば、ぼくの作品そのものには、呪物的などろどろしたところはまったくなくて、むしろそういう作品は嫌いです。

08/02/29(金)
●『電脳コイル』、15話から17話をDVDで。凄い面白い。お話が急速に核心に近づいた感じ。でもまだ先は長いので、まだまだ何かあるのだろうけど。
こういう言い方は安易だし下品でもあると思うのだけど、それでもやはり、押井守的なもの(『うる星やつら2』だけでなく『攻殻機動隊』系まで含めて)は、もう完全に過去のものになってしまったのかもしれない。「エヴァ」などに代表される90年代のアニメは、80年代のアニメを終わらせたわけではなく、いってみれば「問題の在処」を移動させて、違う場所に問題をみつけたということだと思うけど、『電脳コイル』は、80年代のアニメと同じ場所にいて(例えば「向こう側=電脳世界」の扱い方とか)、より大きくかつ精密な問題の構えによって、80年代的なアニメを完全にその内部へ吸収し梱包してしまい、内部でそれを解消させてしまうのではないかという可能性を感じる。つまり、このままいくと80年代的な(およびその延長上にある)アニメの問題構成自体が、無効になって(リアルではなくなって)しまうのではないかという予感。『うる星やつら』によって刻みつけられたトラウマは、『電脳コイル』を観ることで解消される、とか。それは勿論、新たに『電脳コイル』というトラウマを背負うということなのだが。友引町は大黒市へと書き換えられる。(ただ、だとしても古い空間=友引町からイリーガルは発生しつづけるだろうけど。)この作品はそのくらい「構え」の大きい作品なのではないか、と感じさせる3話だった。
●神話の構造分析みたいのは下らないと思うし、そのような構造分析の成果を使って組み立てられる物語も下らないけど、しかしそれでも、民俗学的、神話的なものの吸引力には何かしら脱構築不能なものがあるのは確かで、モダンな作品はそれに対して非常に禁欲的(かつ批判的)で、逆に、ポストモダンな作品はそれをまさに構造分析のレベルで扱える(つまり脱構築可能である)と低く見積もっていて、つまりどちらも「そこ」には踏み込めないのだけど、『電脳コイル』には、非常に精密で繊細な手つきで「そこ」に踏み込もうとする力が働いているように思う。しかしやはり「そこ」はヤバい場所で、ちょっと間違えるとすくに単調なオカルトになってしまうし、また、構造分析の成果の物語のような退屈なところに着地、収束してしまったりする危険もあって、『電脳コイル』もキワキワと言えば常にキワキワなわけで、その意味でも今後の展開は見逃せない。(具体的に言えば、病院とか、ヤサコのおじいさんとか、そういうところにお話-秘密を収束させないで欲しいなあ、と思う。)
●こまかい部分の作り込みもよくて、例えば17話で男の子たちが古い空間のなかでサッチーに追われて逃げるシーンでの細かい空間の設定(駐車場みたいな場所の脇に段差があったりとか)がすごいリアルで、ここまで空間をきっちりつくってるアニメって他にないよなあ、と思ったりした。基本的に昭和ノスタルジー的な風景なのだけど、風景ではなく空間が問題になっているから、安易なノスタルジーにはならないのだと思う。それはイメージによってではなくて動きによって生まれる。その動きとは、いわゆるアニメーション的な動きばかりとは限らない。
●この辺りになってテレビが登場してきて、ワイドショーでコメンテーターがキラバグについて語っていたりするのは結構微妙で、今までは割と大黒市という架空の場所のなかでの話だったのが、いきなり扱われる空間が全国にまで広がって、そうするとやはり「現実」との関係がデリケートになってくる。ヤサコの金沢時代の友達が北海道へ引っ越すなんていう話もあって、虚構の場所と現実に存在する場所との関係をどう調整してゆくのか難しくなっていくように思われる。
●『電脳コイル』は予想以上に『回路』(黒沢清)に近いところがあるなあとも思った。

08/02/28(木)
●『ゾディアック』(デヴィッド・フィンチャー)をDVDで。面白かった。デヴィッド・フィンチャーの映画をはじめて面白いと思った。出だしのところでは、もしかして凄い傑作なんじゃないかっていう予感が漂っていたのだけど、まあ結局は、そこまで凄くはなかったのだけど。
こまかい部分の丁寧なつくりこみが凄くて(特に音が凄い)、あらゆることのクオリティが高いのだと思うけど、もう一歩、突っ込んだところがあってもいいんじゃないか、と思った。いや、基本的には「突き抜けないこと」のもどかしい持続こそがこの映画なのだけど、それでももうちょっとなんかこう、「おおっ!」っていうのがあってもいいんじゃないだろうか。
犯人らしいおっちゃんと警察がはじめて面会するシーンに、もうちょっと緊張感があっていいんじゃないかとか、最後に出てくる殺されかけた男のたたずまいに、もう一つ何かがあってもいいんじゃないか、とか。あと、主役の漫画家と女の子がはじめてデートするシーンは面白いし、その後いつの間にか『ダーティーハリー』を一緒に観る仲になってたりするのもいいのだけど、結婚した後、二人の関係が離れてゆく描写とかは、いまひとつのように思えた(映画全体としても、この辺りでちょっとだれる感じ)。主人公が家に帰って来て「今日はどうだった」とか言うと、奥さんが「長かったわ」と答えるところなど、セリフとしては気が利いてるけど、演技というのか、画面の空気としては、二人の距離の感じがあまり出てないように思った。展開としては、絶対奥さんが実家に一旦帰って、しかしまた戻って来るのだということは見えているのだから、こういうところは描写の冴えだけが命なのだと思う。(寝ているところを電話で起こされる警官夫婦の描写はいい感じ。)終盤、犯人かもしれない映写技師の家へ上がり込んでしまった時のサスペンスも、ちょっと安っぽい気がする。(終盤、「もどかしい持続」の緊張がちょっと途切れがちになるのだが、ここはそれを安易な盛り上げでなんとかしようとしている感じ。)
おそらく、犯罪シーンの強烈さによってはりつめていた前半の緊張の持続と、人間ドラマ的な空回りの描写が中心となる終盤の緊張の持続とが、強さとしていまひとつ釣り合っていないということなのだろう。それは、ゾディアックが沈黙してからの、主人公がドツボにはまってゆく描写の展開がいまひとつということなのかもしれない。こっちが前半以上に充実していたらすごい傑作だったのかも。でもここで充実とは、主人公の狂気じみた突っ走りを強調することではなく、あくまでもどかしさを持続させることなのだと思うけど。とはいえ、全体としてはかなり面白かったし、フィンチャーみたいな人がこういうケレン抜きに堂々と正攻法みたいな映画をつくるようになるのだがら、ハリウッドってやっぱすげえな、と思った。アメリカの映画文化の厚みというのか。(時期的にどうしても、ロス疑惑の捜査をつづけているロス市警の刑事の執着のことを思ったりもした。)
あと、映画では10時間後っていうのも、7年後っていうのも、字幕が出るだけで、同じテンポでポンポンと時間が進むのが、考えてみれば凄い変で、何でそんなに変なことを普通に納得出来ちゃってるのだろうかと、観終わった後で思い返すと不思議で、それも面白い。(ビルがどんどん出来てゆくことで時間の経過を示すとか、ああいうのはいらないと思う。まあ、ここでちょっと小休止、みたいなことなのだろうけど。)
あと、薄明るい夜の感じが気持ち悪くてよかった。
●難航していた小林正人論の第一稿がなんとか最後まで辿り着いた(約40枚)。これは本に載る予定なのだけど、何年か前(何年なのかもう忘れた)の「BT」の批評賞に応募したものが元になっていて、それには落ちたわけだけど、選評で椹木野衣氏に、まあ読ませるけど、結論が弱い、というようなことを言われて、その、結論が弱いというのは書いた自分でもすごくよく分かっていて、でもその結論の部分はずっと書けなかった。
書きながら今、思い出したのだけど、元々はもっと古くて、批評空間webで、岡崎乾二郎の次は小林正人について書きたいといって編集者からボツにされたのが最初のやつで、あれは確か2001年だから、7年もこれを引きずっていることになる。7年の執着の末にしては、やはりまだ結論は弱い気もするが、今の時点ではここまでしか書けません。(仮のタイトルは、最初は『絵画における二つの層の分離について/小林正人とバーネット・ニューマン』だったのだけど、学術論文みたいで堅苦し過ぎるので『フレームのこだまと、宿命の光/小林正人「絵画の子」とバーネット・ニューマン「英雄的にして崇高な人」』くらいの感じにしとく。)
しかし曰く付きのものなので、これもまたポツになったりするかも。とりあえず一晩寝かせて、もう一度読み返してみることにする。

08/02/27(水)
●熊谷守一はおそらく、天性の色彩家ではないと思う。初期の作品ではむしろ、かなり色彩を恐れているようにすらみえる。クマガイにとって色彩は常に、不安定なもの、妖しいもの、制御困難なもの、としてあるようだ。1917年に描かれた、「風」で、風によってしなっている木の背後に、うっすらと出ている虹の気持ち悪さは忘れ難い。
それは色が使えないということではない。前にも書いたが30年代中頃の薄塗りの風景画はまるでニース時代のマティスのようであり、このような薄塗りは相当なセンスがなければ出来ないだろう。しかし、同じ時期に描かれたヌードの絵をみると、色彩は不安定かつきわめて野暮ったいものとなる。(日本近代絵画によくある、勘違いした表現主義、勘違いしたフォービズムのようですらある。)例えばマティスのフォーブ時代のヌードであれば、画面全体としての色彩の位置が正確に決まっているから、人物の肌に赤や黄色が塗られていても、そこが鬱血していたり、黄色い絵の具が肌についているようには見えない。しかしクマガイのこの時期のヌードで、人体に赤が使われると、それが位置をもたないので、鬱血しているかのようであり、緑が使われると痣のようであり、白が使われるとぶよぶよ膨らんでいるようであり、結果、人体が死体のように気味の悪いものに見えてしまう。これはたんに作品として上手くいっていないということであって、これをすぐに、クマガイが礫死体や水死体を描いたことがあるという事実と結びつけるのは単純すぎるだろう。しかしここで、何故か人体を描く時だけ、色彩に対して冷静でいられなくなってしまうことには、何かしらの意味があるように思われる。そして、この時、画面を不安定にしているもっとも大きな要素が赤の使い方であり、しかし同時に、それはその後にクマガイの手法のキモとなる、(塗り残された)赤い輪郭線の使い方の萌芽となっているようにも見えて、両義的な感じだ。
●クマガイにとって、その初期から常に「赤」が問題であるようにみえる。それは赤というよりも、赤褐色、朱色、くすんだピンク、と呼ばれる方が適当であるような、強烈さよりも不安定さを感じる暖色である。薄塗りの風景画がマティスのようにすっきりしているのは、そこにほとんど暖色が使われていないということにもよるだろう。暖色が使われると、風景画でも薄塗りでは済まなくなって、塗りが厚くなっている。とりあえず赤と呼ぶことのできる不安定な暖色は、クマガイのウイークポイントであると同時に、初期から一貫した関心の中心にあるもののように思われる。(そしてとうとう、35年の「烏」で、画面全体を不安定な暖色が覆い尽くす成功した作品が描かれる。)そして、晩年のクマガイモリカズ様式で多用される塗り残された輪郭線は、そのほとんどが赤と呼び得る色彩によるものだ。かつて、画面を不安定にしていたもっとも大きな要因であった赤が、晩年の様式では、その位置の無さによって輪郭を示し、画面全体をつなぎ止めるようになることが面白い。
●タブローにおいて、塗り残されたネガティブな線としてある輪郭線は、クマガイの日本画では、筆で直接描かれた線としてあらわれる。タブローと日本画とのもっとも大きなちがいはおそらくここにある。塗り残された線でなく、筆で描かれた線であるから、この線はタブローの線よりもずっと画家の身体的な動きを反映するものとなる。日本画を描くクマガイは、身体の動きが直接線に反映されることの楽しさを味わっているかのようだ。身体の動きによって生まれる線が刻まれる舞台は、そこで身体を動かせるための、それなりの大きさが必要となる。クマガイの日本画の方が、タブローよりも一般にサイズが大きめだというのは、そのような理由だろう。つまり、身体の物理的なサイズとの「関係」によって、作品にも「サイズ」が生じる。クマガイは日本画において、タブローにおける「時間と空間の外にあるかのような、大きさがないかのようなイメージ」の強烈さを手放すかわりに、自由闊達に動く線のいきいきした躍動を得ていると思われる。これはこれで、非常に魅力的なものだ。
●どうでもいいことだけど、ゼロ年代ももうすぐ終わりという今になって、まさか「三浦さん」がゴミ出しの時に雪で滑って転ぶ映像をまた観ることになるとは思わなかった。

08/02/26(火)
●美術作品がある空間に展示される時、そこにはことなる二種類の空間が発生する。作品が置かれることで、その空間全体に及ぼす影響と、その作品そのものが内包する(作品そのものの作用の内にある)空間だ。この二つを厳密に分けることは難しいが、しかし、混同することは出来ない。
ある作品は、ある特定の空間のなかでつくられ、特定の空間に設置される。その時、作品は、それがつくられた空間を呼吸するようにそのの影響を受けるだろう。そして作品は、それが設置される空間の影響も受けるし、その空間に影響を与えもする。しかしそれと、作品そのもののもつ空間性とは一致しない。たとえはジャコメッティの彫刻は、それが内包する空間はそれほど大きくはないが、それによって影響される空間はとても大きい。ジャコメッティの小さな彫刻が一点置かれるだけで、美術館の展示室全体の空気の張りが変化する。(念のために書くが、彫刻作品において、その作品が内包する空間の大きさとは、その作品の物理的な大きさのことではない。)
絵画の場合、フォーマットがある程度決まっているので、描かれた空間の大きさと、そのフレームの物理的な大きさとの分裂として、それは比較的みえやすい。(絵画の場合、そのフレームの物理的な大きさが、ほぼ、作品が現実的な空間に与える影響の大きさを左右するとはいうものの、これも厳密には一致するものではない。)描かれた空間の大きさとは、別に広大な風景が描かれているから空間が大きいとか、そういうことではない。その作品が、作品として内包し、動かしている空間のふところの深さのようなもののことだ。(だから、描かれた-表象された空間の大きさと、描かれた-作用する空間の大きさとの間にも、分裂がある。広大な風景を描いた、空間の小さい絵もある。)
その作品で問題にされている空間的スケールと、その作品が実際にもっている大きさとは必ずしも一致しないし、一致することが良いことでもない。例えば、バーネット・ニューマンの作品は、作品が問題とする空間的スケールと、実際の物理的なフレームの大きさとが厳密に一致することが求められている。しかしそれは、ニューマンの作品としてはそれが必要だったということであり、その一致は決して一般化されるものではない。(というか、そう簡単には一致しないということが、ニューマンの作品を振動させている。)
シアトリカルでミニマルな美術作品がつまらないのは、その作品が、現実的な空間へと与える影響や効果のみを問題としていて(それが「表現」だと思っていて)、それと、その作品そのものに内包される空間との分裂という、美術作品のあり様の根本的な問題が見過ごされているからだ。(本当は、作品をつくるということは、後者を「発生させる」ということなのだ。)要するに、ニューマンの作品や、あるいはジャッドの作品の、ギリギリのところで成立しているの特異な達成を、安易に一般的なものへと流用してしまっている。もっと言えば、作品というものの一番重要なキモの部分を理解していない。(当時それは、「イリュージョンの廃止」という名で問題化され、モダニズムの公理としては、それが絵画の進歩の一つだとさえされていた。公的な「問題」として一般化されることの恐ろしさ。)
熊谷守一のきわめて小さなサイズの作品を観ていて強烈に感じるのは、その物理的なサイズのつつましさと、そこで扱われている空間の捉えどころのなさとの、恐ろしいまでの分離だ。美術館のなかを歩いていて、ああ絵がかかっているなあと思う時にみている、建築空間のなかでの作品の物理的なスケール感と、その絵に近寄って、一枚一枚の「その絵」を観ている時に観ているイメージのもつ底抜けのスケール感とが、まったく一致しない。もっといえば、熊谷守一の絵は、物理的な大きさを持たない絵であるかのようなのだ。昆虫や植物といった小さなものを描いた、ごく小さなサイズの絵が、物の大きさやパースベクティブといったものを見失ってしまうような「大きさのないイメージ」として迫って来る。
子供の頃に風邪で寝込んでいる時、ぼくはよく、自分の口のなかには到底入り切らないような大きなものが、無理矢理口のなかにはいってきて、それがさらにもこもこと巨大化して、自分の身体が内側からひっくりかえされてしまうような、妄想というか、幻覚的な感覚に苦しまされた。熊谷守一の絵を観るときの感覚は、どこかでその時の感覚と繋がっているようにも思われる。

08/02/25(月)
●お知らせ。6月の後半(16日〜29日)に、埼玉県川口市にあるギャラリー(masuii R.D.R gallery)で、画家の永瀬恭一さんと二人展をすることが決まりました。
これは永瀬さんの企画で(詳しくはブログ「組立 paint/note reallink」を参照して下さい)、永瀬さんが何人かの作家と連続して二人展をやろうという企ての第一回目となります。
ぼくと永瀬さんとは大学の同級生なのですが、学生の頃はまったく接点がありませんでした。おそらく、一度も言葉を交わしたことさえなかったと思います。はじめてまともに話をしたのは、卒業して10年以上経った、永瀬さんの個展の会場ででした。
それ以来、お互いに作品も観ているし、ブログも読んでいるという関係なわけですが、そこには微妙な距離があります。勿論、険悪な関係だということではありません。傍から見れば、似たようなことをしている二人ということになるのでしょうが、当人たちにとってみれば、似ているからこそ、細かな違いが無視できないものとなります。
永瀬さんから、二人展をやらないかという話をいただいた時に、面白いかもしれないと思ったのは、二人展であることによって、その微妙な違いが隠蔽されてしまうことなく、むしろはっきり見えてくるのではないかと思ったからでした。例えばこれがグループ展だと、どうしても仲間内っぽくなったりとか、あるいは逆に寄せ集めのように見えてしまうとも思われます。(永瀬さんが、グループ展ではなく、連続した二人展という形を考えているのも、そのようなことだと思われます。)
かといって、ことさら相違点を際立たせ、対立を見せようということでもありません。相手を圧倒して自分が目立てばよいということでもありません。たんに、違うものを並べてみよう、ということです。並べてみたら、いろいろ見えてくるものもあるかもね、というくらいのことです。すり寄るわけでもケンカするわけでもなく、冷静に違いを認識しよう、と。
まずなにより、ぼくは自分から積極的に動いてなにかをしようとすることのない怠惰な人間で、そこからして、いろいろと企画を立ててそれを実現するために精力的に動いてゆく永瀬さんとはまるで違うわけです。絵を描いて酒呑んで散歩していれば自己完結してしまうかのような怠惰な人間としては、永瀬さんのような人に突っついて刺激してもらうのは、大変にありがたいことでもあるわけです。
今回の企画で重要なことの一つに、「言葉」を大切にしようということがあります。信じてはもらえないかもしれませんが、ぼくには、本当は作家は黙って作品だけを提示するのがいいのじゃないか、という変な気取りがどうしてもあります。作品について説明するのは、どこか不純な行為ではないかという後ろめたさが抜けません。ぼくがこの日記で、自分の作品の制作過程をわざわざ書いたりするのも、自分のなかにある変な気取りに対する抵抗のような気持ちがあるのかもしれません。
変な気取りは変な気取りでしかありません。本気で絵を描いて生きていきたいのならば、自分がやろうとしていることを、周囲の人たちに理解してもらうことが不可欠です。そのために言葉はとても重要なものだと思います。その一環として、フリーペーパーをつくって会場に置こうという永瀬さんのアイデアは、面白いものだと思いました。(たんに、作品解説とか、批評家のありがたいお言葉とかよりも、フリーペーパーの方がカッコイイし、広がりもある感じがします。)
そしてそこ(言葉を大切にすること)には当然、ぼくと永瀬さんとが、互いの関心事について、どこが重なっていてどこが違うのかについて、話しをする、ということも含まれています。
この展覧会が面白いものになって、永瀬さんの企画のたちあげとしても、ぼく自身の展覧会としても、やってよかったということになればいいなと思います。
(川口までは、新宿からだと埼京線で赤羽まで行って、赤羽から京浜東北線で一駅です。乗り換え時間も含めて20分ちょっとくらい。東京からだと、京浜東北線一本で25分くらい。多摩地区の人は、西国分寺から武蔵野線で南浦和まで、そこから京浜東北線というのもいいかも。)

08/02/24(日)
●50年代から60年代はじめ頃までの熊谷守一の色彩の強烈さはどこからくるのだろうか。勿論絵画は、光りの反射によって「見える」のだけど、クマガイの色彩は、それ自体が発光しているというか、どこか得体のしれない光源が内蔵されているかのようだ。クマガイは日光の画家ではない。晩年のクマガイは、昼間は庭を歩き回ったり、昼寝したりしていて、皆が寝静まった夜中に、電燈の光りの下で制作した。つまり、昼間、庭で見たものを、夜中に描いた。そこでは、色彩も形態も記憶のなかから浮かびあがってくるものとなる。このことは何か関係があるのだろうか。
●クマガイが絶妙に日本的な趣味を回避していること。たしかに、クマガイの色彩や形態の趣味は、日本画にその多くを負っている。しかし、それが、板の上に厚塗りの油絵の具で、そしてあの独自の小さなサイズの絵としてあらわれる時、それはまったく違った感触となる。強いて例えれば、ゴッホが模写した浮世絵のような、ちょっと勘違いした(空気を読み違えた)日本趣味のようなものになる。
例えば岡田謙三は、抽象表現主義以降の(つまり当時最先端の)形式に、上手く日本的な情緒をブレンドすることで、アメリカで評価された。そしてその評価が日本に輸入される。このような国際派は現在も大勢いるだろう。対してクマガイは日本の中で、いかにも東洋的な隠居生活をしているかのようなイメージに守られつつも、より徹底して日本的な磁力から作品が切り離されている。
日本の洋画には、まさに「日本の洋画」としか言えないような独自の感触がある。(それを完成させたのは安井曾太郎とか梅原龍三郎とかなのだろうが。)例えば、須田国太郎のような、インテリでヴェネチア派の研究者でもあり、海外生活も長いような画家でさえ、その磁力から自由ではない。あるいは、最晩年の藤田嗣治ならば、その磁力から脱し得たと言えるかもしれない。しかしその作品は、ぼくには、ちょっと直視するのが辛いくらいに悲惨なものに思われる。クマガイは、学生時代の習作的な作品をのぞけば、ほぼ一貫して「日本の洋画」という磁力から自由だ。自由だ、というのは、例えば晩年のフジタのようにそこから遠く離れているということではなく(フジタは自由ではないからこそ、遠く離れなければならなかった)、きわめて近くにいながらも、決定的に異なっている。例えば、30年代の厚塗りの風景画など、絵の具の厚さやタッチの感じも、色彩の趣味の渋さも、あきらかに日本的な趣味だと思えるのに、作品は何故か「日本の洋画」には見えない。それは「日本の洋画(日本近代絵画)」ではなく、たんにモダンな絵なのだ。(おそらくクマガイは、自分の仲間や二科展の絵くらいの狭いサークルの作品しか見ていないはずだし、西洋の近代絵画への興味などほとんどなかった筈なのにも関わらず、そうなのだ。)
●晩年のクマガイモリカズ様式を可能にした決定的なものは、やはりあの輪郭線だろう。輪郭線のおかげで、位置も光源ももたないような広がりとしての色彩を作品に導入することが可能になったのだと思われる。クマガイの、色彩をくっきりと切り分ける輪郭線は、描かれた線ではなく、残された線だ。つまり、塗り残された部分が結果として線に見える。これは、マティスがセザンヌの塗り残された部分から受け取り、独自のものとして発展させた、ブランクとして機能するネガティブな線と、ほぼ同じ機能をもつ。(クマガイの油絵が日本画に限りなく近付きながらも、決定的に異なっているのは、板の上に厚く塗られた油絵の具の質感だけでなく、このブランクとして機能する線のためなのだ。これを、セザンヌもマティスもニューマンもステラも参照することなく、独自に発見してしまうのだ。)
しかしこの塗り残された線を、いったいどうやって残していたのかが、いくら作品を観てもよく分らないのだ。タッチの方向や使われた筆の太さからすると、「線」となる部分を器用に塗り残すのはほとんど不可能であるように思われる。では、色が塗られた後から、棒状のものの先端で引っ掻いて絵の具が落とされたのだろうか。しかし、塗り残された部分には、下地に朱色の鉛筆や絵の具で引かれたアタリの線がきれいに残っているし、正確にその部分が塗り残されているのをみると、塗った後で削りとられたわけでもないようだ。マスキングテープを使うということも考えられるが、マスキングテープでこれほどに自在な曲線が作れるものなのだろうか。
ひとつ思いついたのは、凧糸のような太めの糸を、アタリの線の上に貼付けて、そこに絵の具がつかないようにしてから絵の具を塗って、その後にそれを剥がす、というやり方だ。しかしそれで本当に上手くいくのかどうかは、やってみなければ分らないけど。
マスキングテープを使って「塗り残された線」をつくるというのは、50年代60年代のアメリカのフォーマルな絵画でさかんに使われていた技法で、このことからも、アメリカ型フォーマリズムの絵画とクマガイとの近さを感じる。実際、60年代中頃に描かれた、身震いする程に渋い鳥の絵などは、最良の時期のフランク・ステラを想起させる。しかし、美術史的な位置付けはともかく、作品の質や面白さ、複雑さという点では、ずっとクマガイの方が上だとぼくは思う。
●例えば色価というのがある。これだけの面積のこの黄色は、どれだけの面積のあの緑と釣り合うのか、というようなことで、マティスなどは、遠近法によってではなく、このような色のバランス(色価の配置)によって空間をつくり、動かす。しかし、これだけの面積の黄色と、これだけの面積の緑とが「釣り合う」というのはあくまで画面全体として観た時のことで、だから、画面全体としては、この画面左の黄色い色面が、画面右側の緑の色面より後ろ(奥)にあるように見えても、黄色の部分の周辺にだけ注目すると、黄色こそが画面の一番手前に出て来たりする。このような、色彩のもっている「位置」の不安定さこそが、マティスの絵を動かし、複雑にしてもいる。どの色(どの部分)に注目して観ているかによって、画面(空間)の様相が変わる、複数の異なる層が分離しつつ重なったような画面も可能になる。しかし、クマガイの色彩は、このようなものとも異なるように思われる。
マティスでは、注目する部分によって空間の様相がかわり、そして、それら複数の空間に共通するような基底的な空間がないままで、複数の様相が重ねられるのだが、とはいえ、それぞれの空間は、最低限、三次元的な秩序の範囲内にあるように思われる。そしてなにより、そこには常に重力が感じられる。そのことは、マティスが決して抽象画を描かず、ぎりぎりのところで現実空間との繋がりを保っていることと、深く関係するように思われる。要するにマティスは物を「見ながら」描いている。最後の根拠はそこにある。しかしクマガイにおいて色彩は、三次元の空間を脅かす、ある強さとして経験される。クマガイの絵のイメージを支える空間は、現実のものであるよりも記憶の地平であるようだ。例えば、61年に描かれた「ほたるぶくろ」の、コバルトグリーンのような色のひろがりから浮かびあがる、紫のほたるぶくろ。これは、コバルトグリーンのひろがりのなかに、紫の裂け目が露呈されたようでもあり、紫の連なりの与える衝撃によって、コバルトグリーンの広がりがひらかれたようでもある。そしてそこにちょこんと加えられる蜂の黒と黄色。この黒が、画面に最低限のまとまりを生んでいるとも言えるが、その黒い蜂の首のごく小さな面積の黄色は、ここに目をやった途端にこの画面全体がくるっと裏返ってしまうかのように、目のなかで広がり、視線を支配する。このような色彩の経験には、空間的な拠り所がほとんどない。この不安定で非現実的な色彩の経験を、ぎりぎりに現実的な認知に結びつけているのは、ただ、明解な輪郭線のみであるように思う。明快な輪郭線によって辛うじて、現実的な場所を得ることのない不確定な色彩の経験が、可能になっているかのようなのだ。
●クマガイの書や日本画については、基本的には、求められたから描いた、あるいは、お金になるから描いた、というようなものだと思う。とはいえ、なかには良い作品も結構ある。
●ここのところ陽射しが春っぽかったのだが、今日は風が強くて塵が飛ばされたせいか、空気が澄んで輪郭のくっきり立つような冬の光りで、空も冬の冴えた色だった。高い位置から小学校のグランドを見下ろす道を歩いていると、大勢の子供が青と赤の服に別れて走り回っていて、一塊りになりながらも、青と赤とが入り乱れ、混じり方がかわってゆくのを面白がって見ていた。でも、一体何をしているのかさっぱり分らなかったのだが、しばらくして、どうやらサッカーらしいと気づいた。下手なサッカーは、皆がボールに向かってかたまって動いて行くので、一塊りの集団の、青と赤とが入り乱れてゆくような動きになるのだった。サッカーとしてはダメだけど、妙に面白い動きだった。

08/02/23(土)
●昨日は、埼玉県立近代美術館まで、熊谷守一展を観に行った。予想を超えて充実した展示で、作品数も多く、うれしい半面、こんなにいっぺんには観れないよ(こんなにいっぺんには受け取りきれないよ)とも思った。熊谷守一は「日本近代絵画」の奇蹟みたいな人で、つまり、日本近代絵画という範疇にいながらも、「日本近代絵画」という文脈を必要としない強さにまで作品を高めることの出来た、ほとんど唯一の人だと思う。(ちらっとあったクマガイへの疑問、例えば、日本趣味や工芸的な仕上げに流れがちな傾向があるんじゃないか、みたいなものは、これらの作品の充実の前で吹き飛んでしまった。実物を、ある程度の数まとめて観れば、そんなことはないと分かるのだった。)
確かに、高橋由一や岸田劉生は凄いけど、それはあくまで「日本近代絵画」のなかで突出しているということだし、藤島武二は上手いけど、それは当時の貧しい情報のなかでよくぞここまで、という意味でだし、つまり「日本近代」という劣悪な条件(文脈)のなかでは凄いということだ。しかし熊谷守一は、展覧会でマティス、ボナール。クマガイと作品が並んでいてもまったく遜色ないし、ロスコ、カロ、クマガイと並んでいたっておかしくはない。(おかしくはない、というのは、共通した要素があるということだけではなく、同等の強さがある、ということだ。タイマン張れる、と。)しかも熊谷は、若い頃はともかく、ある年齢を過ぎてからは、西洋美術で何が起こっているかという情報など感心がなく、まったく自分勝手に自分の作品を追求していて、そうなってしまっているところがすごい。(ピカソやマティスくらいは知っていただろうけど、大して興味もなかっただろうし、ましてや抽象表現主義やそれ以降のフォーマルな絵画などまるで知りもしなかったはずなのに、ほぼ同時期に、似たようなことを、というかもっと凄いとをしていたのだ。)青木繁や藤島武二と同世代(芸大の同級生)の人が、あんな作品を作れてしまうなんて。
しかし、例えば藤田嗣治がヨーロッパで高い評価を得、国吉康雄や岡田謙三がアメリカで高い評価を得ているというような意味での国際的な評価は熊谷にはおそらくなくて、国内的な評価しかないのが不思議と言えば不思議だ。(まあ、ずっと日本にいたからだけど。)海外に作品がほとんど売れていないからこそ、こんなに充実した展覧会が可能なのだと思われる。フジタもクニヨシもオカダも、近代絵画の「王道」ではないマイナーな作風であることから、「向こう」としては受け入れやすかったのだろうけど、クマガイは図らずして「王道」と重なってしまっているから、そんなことを「日本人」にやられてもねえ、という感じもあるのだろうと思う。
作品と直接関係ない話ばかり書いてしまっているけど、ついでにもう一つ言うと、熊谷守一というと必ず、最晩年の仙人のような風貌の枯れた写真ばかりが強調されるけど、これはあまりに偏ったイメージ操作で、もともとクマガイは野武士のような無骨な風貌で、頑強な身体をもった人のはずで、展覧会でも68歳の時の写真が一枚だけ展示してあったのだが、ほとんど四十代くらいにしか見えない若々しさで、むしろかなりなまなましい。実際作品を観れば、枯れた人があんなに強烈な色彩の仕事をするはずがないと分かるのだが。
●ごく初期の作品からでも、クマガイの関心の異様さがわかる。描き方そのものはいかにも油絵のお勉強みたいに見えるけど、そこでの関心のあり様は、いわゆる「洋画」をやっている同級生たちとは基本的に違っているようだ。ロウソクの微かな光のなかで浮かび上がる自画像などは、レンブラントが捉えるやわらかな光の繊細な表情などではなく、暗闇に火を点したら、一瞬、見えないはずの幽霊が見えてしまった、というその瞬間を捉えているかのように見える。見えないはずのものが、しかし確かに見えてしまう(しかも自分の顔のなかから)、その妖気のようなものを捉えようとしているように、ぼくには思われる。風に揺さぶられてしなっている木を描いた絵も、そんな瞬間が見えているはずもないのに、しかし何故か捉えられてしまっているある瞬間を描こうとしているのではないか。(後ろに虹が出ていることの異様さ。)これを無理矢理に西洋絵画と関係づけるとするならば、最も近い感じはマネではないだろうか。マネの絵が瞬間を捉える独特のやり方。それはスナップショットによって捉えられるものとは別の、絵でしか捉えられない「ある瞬間」であるように思う。それは、ベルト・モリゾやマラルメを素早い筆致で捉えた肖像にもっとも分かりやすくみられる。クマガイが、後に結婚することになる女性を描いた「某夫人像」などは、どこかマネのベルト・モリゾの肖像を思わせる。(まあ、マネと比べれば随分と野暮ったい筆致ではあるけど。)ただ、マネの捉える瞬間は割とクールなものなのだが、クマガイの捉える瞬間は、もっと妖気=狂気の気配が強く漂っている。(だからクマガイは、クールベ-高橋由一的な、近代絵画の王道としてのリアリズム(それは、油絵の具という「物質」の発見でもある)とは別の場所から出発している。あるいは、学生時代、いつもわざわざ薄暗いところで絵を描いていたというのだから、印象派-外光派的なものとも逆のベクトルをもっていたのだろう。)
●この感じは、晩年のクマガイモリカズ様式の作品にも、形をかえてはっきりと受け継がれているように思う。初期の作品では、暗い闇のなかから微かな光で一瞬ふわっと浮かびあがるものの捉え難さとしてあったものが、晩年には、強烈な色彩の効果によって確定的な位置関係が失われることと、一見単純にみえる形態が、しかし視線による把捉をするっと逃れてしまうように絶妙に配置されることによって、瞬間としてではなく、時間の消失のようなものとして実現されているように思う。(そのためには、あの「塗り残された線」の力も大きい。)時間が消えることで空間も消える。触れることも近づくことも出来ず、ただ「見る」ことしか出来ない純粋化されたイメージが、時間と空間の外にあらわれ、まるで永遠にそこにありつづけるかのようでもある。確かに見えるのに近づけない、すぐそこにあるのに、薄皮一枚隔てて異次元であるようなイメージ。見ることしか出来ないことのあやふやな強烈さとでも言うのか、自分の内部にあるのか外部にあるのかさえ確定できないし、いわゆる「目で触る」ようなことも許してくれないような幽霊=イメージであるように思う。
●有名な「ヤキバノカエリ」は、晩年の様式でありながらも、初期の作品に近い感触をもつ。この作品のキモは要するに、画面のほぼ中心に位置する骨壺の白が、現実ではないかのような異様な昏い輝きをみせる点にあろう。この白を輝かせるために、周囲の色、主にくすんだピンクというのか、白を混ぜられた赤紫というのか、そのような色の調子が調整されている。つまり、初期作品において、闇からロウソクの光によって一瞬ぼうっと浮かび出すものが、ここでは、沈んだピンクの色調のなかから、異様な白として浮かびあがる。絵の構造としては、むしろ単調なものとも言えるのだが、それでもこの白のもつ妖気は、ただごとではないように感じられる。
●30年代中頃の、薄塗りの風景画などは、ニース時代のマティスのようにすら見える。描かれているのはニースではなく、最上川なのだけど。
●展覧会をみると、一生を通してほぼどの時期の作品も充実していて、まずそのことに驚かされるのだが(まったく絵を描いていない時期もあるのだが、描いている時はいつも、その時期なりの充実した作品をつくっている)、それでも最も油が乗っていると思われるのは50年代で、それは画家の70歳代と重なる。この時期、枯れるどころか狂い咲きのように増々生々しい。70歳代で最も生々しいのだから、画家という人種は、生物学的な年齢とは別の時間に生きているものなのだと、改めて思う。
●クマガイは、人体に対しても強い関心を持ち、それは礫死体を描きもするくらいなのだが(今回はそれは展示されていない)、晩年の様式において、人体(ヌード)の作品だけは、過度な様式化がなされているようで、いまひとつのように感じられた。それは何故なのだろうか。ぼくがなにかを見落としているのだろうか。

08/02/22(金)
●食器を洗っていて、洗剤を出そうと容器の腹の部分を指で押すのだがなかなか出なくて、空気ばかりがヒュッと出て、それを何度か繰り返すうちに世界が切り替わり、意識が浮上し、今、自分は横になって眠っているのだということを自覚する。その時、手は軽く容器を押すような動きをしていた。この手の動きが目覚めの原因なのだろう。眠くて仕方がないのだけど深く眠れず、さっきから何度も浅い眠りの夢と目覚めとを繰り返していたのだということを、この時に改めて思い出す。寝返りをうち、眠ろうと努める。
エスカレーターの上に立っていた。昇りだった。次の階につき、切り返してさらに昇る。それを何度も繰り返す。そのうちに、すぐ後ろに知り合いがいることに気づき、振り返って話をする。その間にもエスカレーターは上昇している。その上昇の速度と滑らかにつながるように、また意識が横たわる自分に戻って来る。後ろにいたはずの知り合いの不在をいぶかしく思いつつ、ああ、自分は今眠ろうとしているところなのだと思い出す。枕の位置を少しだけ動かし、寝返りをうつ。
金網があり、そこに大勢の人が集まっている。どうやら金網の向こう側はグランドになっていて、スポーツの試合が行われているようだった。人が多すぎて、向こう側の様子は分からない。人の切れ間を探して、金網に沿って歩いて行く。喚声が湧く。しばらくして声をかけられて振り返ると、通路の後ろ側にある高くなった塀の上におっさんがいて、兄ちゃん、ここからならよく見えるぞと言っている。そちらへ行こうとして身体の向きを換え、その歩いてゆくスピードで意識が浮上して、横になった自分へと戻って来た。ああ、またこっちか、と思い、さっきから一体何度これを繰り返しているのかと思う。寝返りをうつ。
地元の博物館のような場所で、展示を見ている。詳しく見ようと近づくと警報ブザーが鳴るので、あわてて離れる。他の展示物でも、少しでも近づこうとするとブザーが鳴る。これじゃあ全然見られないじゃないかと軽く苛立ち、展示室を抜けて外に出たところで、知らない顔の女性に声をかけられる。この人、誰だっただろうかと思い出そうとするのだが、全く心当たりがない。ぼくのことを先生と呼ぶので、おそらく教育実習に行った時に担当した生徒の一人なのだろうとアタリをつけ、差し障りのないような受け答えをする。中庭にはテーブルとベンチがいくつも設置され、そこにはその女性の夫と子供、その友人の家族もいるようだった。(声をかけられた時は制服を着た学生だったような気もするのだが。)その人たちに挨拶する。女性とその友人は、お互いのブーツを誉め合っている。自分がなぜここにいるのか、ここにいていいのかと居心地の悪さを感じつつ、とても気持ちのよい天気で、気持ちのよい風が吹いてくるので、ベンチに座ったまま動く気持ちがなくなってしまう。その気持ちのよい空気のトーンがゆっくりと変化するように、こちら側へ戻って来る。
向こう側の夢の光景があまりに鮮やかでリアルなので、こちらへ戻って来た寝ぼけ頭の自分の存在の方が、よほどあやふやで、向こう側で見た切れ切れの世界こそが本物なんじゃないかと感じていた。しかし、いつまでこれを繰り返すのかと思った。

08/02/21(木)
●絵画はそれを観る人の前に、一挙に与えられる。つまり情報は一挙に開示される。一挙に与えられるというのは、一挙に把握される、というのとは違う。決して一挙に把握することが出来ない塊が、一挙に与えられることによって、それを観る人それぞれのなかで「観る」ための時間が動き出すのだと思う。単純に、まず何処に視線をやり、それがどう移動してゆくか、とか、どの細部とどの細部とに注目し、そこにどういう関係(構造)を見出してゆくか、とか、そこで見出された関係性が、別の細部の発見によって、どう動いてゆくのか、とか、そういう順番は観る側が決める。その時間性(あるいは、ある認識と別の認識との間の落差)が、絵画の空間をたちあげ、そして動かす。だから絵を観ることは、(意味を探る、とかいうこととはまた別の、感覚による)解読とか、解凍のような作業となる。その時間性、空間性のたちあがりや動きは、あくまでそれを観る人それぞれの、固有の身体や認識や気づきのリズムに預けられる。
映画や小説がそれと違うのは、情報が開示される順番がある、というところだ。いくつかあるカットを、どういう順番で並べ、どういうタイミングで切り替えるのか、ということに大きな意味が出て来る。つまり時間や動きがある程度つくる側によって操作されていて、それを観たり読んだりする人は、まずそれを受け入れ、それに従う。時間や動きはすでに(ある程度)つくられている。だから逆に、その流れを受け入れた個々の身体に内部で発生する感覚は、時間とは別のもの(時間を通して与えられる、時間とは別のもの)、時間から離陸した何かだという側面もあるのかもしれない。物理的に時間に縛られることによって、感覚的に時間から離脱する、というような。(時間的な縛りという意味では、小説は比較的ゆるやかで、映画ではほぼ絶対的だと言える。映画には傍線を引いたり書き込みをしたりすることが出来ない。)
ただこの違いは、既に出来上がったものとしての作品を前にしてのことだ。制作の過程において、小説が、時間のなかで一語一語順番につづられ、映画がワンカットずつ順番に撮られるのとかわらず、絵も、時間のなかで、一本一本線が引かれ、一筆ずつタッチが重ねられる。つまり「時間」のなかでつくられる。(だから版画や写真は、おなじ平面的表現でも、絵画とは大きく異なる。勿論、個々の作品の作られ方において幅があるので、一概には言えないけど。)ただ、それが展開される場所が、小説では時間であり、絵画では空間(平面のひろがり)であり、映画には、時間的な展開と(フレームという)空間的な広がりが同時にある、ということか。(しかし多くの映画においては、主となるのは時間的展開であるように思われる。映画の空間は、フレームのひろがりであるよりも時間の展開によってひらかれる、という意味で。)
●それにしても、昨日観た『春の惑い』はすごかった。観ている二時間ちかい時間、一度も瞬きも呼吸もしなかったんじゃないか(そんなことはあり得ないわけだけど)と思うくらい、息つく間もなくすべての瞬間が充実していた。酸素が濃すぎて窒息する、みたいな感じだった。冷静に考えれば、すごいバカみたいな話で、こんな脚本なんで映画にしようと思うかなあという感じなのに、そんなこととはまったく無関係のように、映画はすごいのだった。(主人公の妹の誕生日の場面の横移動など、映画ってこんなことも出来るんだ、と驚いた。中国語の音の響きがこんなにうつくしいということも、はじめて知った。)
一方に『インランド・エンパイア』みたいな映画があって、もう一方に『春の惑い』みたいのもあって、そのまったく相容れないような両極端を、平気で呑み込んでしまっている映画というジャンルは、やっぱすげえと思わざるをえない。(でもどちらも、現代-同時代的な要素や社会的なひろがりがまったくないという点では見事に一致しているのだった。それも含めてすごい。)

08/02/20(水)
●『春の惑い』(ティエン・チュアンチュアン)をDVDで。女が城壁を歩いている。男が物置のようなところを片付けていて、戸のようなものを壊してしまう。遠く汽笛が聞こえる。汽車の、地面と車輪との間の隙間から、向こう側に一人の男が降りたのが見える。廊下をゆっくりと老人がやってきて、旦那様と呼びかけ、木戸を軋ませて開き、不在の室内で何かを拾い上げる。汽車から降りた男が道を足早に歩いている。まだ、この時点では、これらのカットの間の関係は分からず、これから何が起ころうとしているのか予測できない。あらゆる事が不確定なまま、ただ画面を眺め、音を聞くだけだ。しかし、一つ一つのカットで見えるもの、聞こえて来る音から、何か未知の世界がゆっくりとたちあがる気配が感じられる。ああ、これが映画なんだなあと思う。
老人は、物置を片付けていた男にマフラーを渡す。この男は病気であるようだ。春が訪れたこと、戦争が終わったことが告げられる。女が屋敷に戻って来る。どうやら女と男は夫婦のようで、その仲は微妙な距離があるようだ。女は窓辺で刺繍をはじめる。汽車から降りた男が屋敷の木戸を叩く。女は、誰かが木戸を叩いているから見にゆくように老人に言う。そこで、学校へ行っているもう一人の登場人物の名も告げられる。老人が戸を開けると汽車から降りた男は既に裏へとまわっている。決して説明的にはならないゆるやかさで、少しずつ関係性がむすばれてゆく。
汽車から降りた男は裏木戸を叩き、最初の男はそれを開くが、既に汽車の男は塀の崩れたところからもう敷地に入ってきている。二人は古い知り合いであるらしい。10年ぶりの再会だと言い合う。一方の男は古くさい身なりで、古めかしいヒゲをはやしている。もう一方の男は、モダンな白いスーツ姿だ。老人がやってくる。どうやら老人とも知り合いであるらしい。お坊ちゃま、お久しぶりで、とかなんとか。自分が裏から入ってくるのは、いつも通りのことだと笑い合う。旧知の者達の、懐かしい再会の雰囲気。しばらくして女もやってくるが、そこですぐに、汽車の男と女とが訳ありであることが察せられる。ゆったりとたちあがったものが、そこでぐっと動きだすのを感じる。ああ、映画だなあ、と思う。
映画では、様々なものが見え、様々な音が聞こえる。しかし、そこに見え、聞こえるものしか知る事ができない。それ以上には近づけない。だが、そこに見えるもの、聞こえる音がいくつも重なることで、その関係から何かがたちあがり、空間がひろがり、世界がひらかれる。そして、その関係が動いてゆくのを感じる。ただ、そこに見えるもの、聞こえる音たちの関係と、その動きだけから、それ以上の何かが捉えられたような気持ちになる。あるいは、見え、聞こえるというよりも近くへと、ぐっと迫ることが出来たような気持ちになる。ああ、映画だなあ、と思う。
ここにみられるのは、きわめて紋切り型のお話なのだが、それだけでなく、見えるもの、聞こえるものたちの複雑な諸関係からたちあがる、世界のあらわれがある。映画って不思議だなあ、と思う。
●ずっと部屋にいると慣れてしまって分からないのだが、外から帰って来て玄関を開けると、油絵の具のにおいがむっと迫ってくる。あ、この感じ、と、その度に記憶の回路が開く。十代の終わりから二十代はじめにかけての長い長い浪人時代、ほとんど一日中油絵の具のにおいのなかにいた。でも、すきま風の通るようなボロい木造の建物なので、においが漏れて近所から苦情がくるのではないかと、ちょっと不安にもなる。
(以前、泊まり込みのバイトをしている時、夜、仮眠室で墨汁を使ったドローイングをしていたら、引き継ぎする人に、古谷くんの後、いつもへんなにおいがするんだけど、ヤバいこととかしてないよね、と言われて、はじめて、墨汁のにおいが、いつまでもかなり強く部屋に籠るのだということを意識した。汚さないように、というのはすごく気を使っていたのだけど、墨汁のにおいがそんなに鼻につくとは思っていなかった。こっそりやっていたので、誤摩化すのに苦労した。)

08/02/19(火)
●マティス風の絵(という言い方はどうかとも思うが、便宜上こう呼んでおく、15日、17日の日記を参照のこと)を、あれから2点描いた。でも、やはり最初に描いたやつが一番いい。ただ、どうも、後戻り出来ず、こっちの方向へ進まなければ仕方がない感じになってきた。(色彩の仕事は並行してつづけるけど。)はじめは、わっ、すげえ、こんなの描けちゃったよ、というノリだったのに、「こっちの方向へ進まなければ仕方が無い感じ」とは、随分調子がかわってしまっている。気が重い。気が重いというのは、本当に、こっちに行っちゃって大丈夫なのか、自分、という感じだ。こっちに行くことに対しての確信が持てず、決定的に間違った方向へと一歩踏み出してしまったかのもしれない、という不安もある。ただ、そのような気持ちより先に、手は、既にすっかりそっちへ向いて滑り出してしまっているようだ。自分の手が「描いてしまう」ことの恐さというのか。
今の描き方だと、F30(91.0×72.7センチ)くらいの大きさのフレームの絵を、ほぼ5〜10分で描いてしまう。これは全然楽ではない。緊張して緊張して緊張して、気合い入れて気合い入れて気合い入れて、ある一点でダッとはじめ、一発決めで、後戻りなしで、一気に最後まで、という描き方は、ほとんどスポーツというか、相撲とか柔道とかの選手ってきっとこんな感じなのだろうなという感じで、マジに身体的にキツい。勘弁してほしい。ほんの少し前までは、油絵の具はゆっくり描けるところが良くも悪くもある、なんて言ってたのがウソみたいだ。アクリルで描いていた時よりも断然はやく描いている。ただ、今、はやく描く必要があるのは、このような描き方をはじめたばかりなので、掴んだと思ったら一気に行ってしまうことが必要で、こね繰り回していると「感じ」を見失ってしまうからで、もう少しつづければ、「感じ」を保ったままの宙づり状態を維持出来る様になり、捏ねたり練ったり、いろいろ揺さぶったり、保留したりすることも可能になってくるだろうとは思う。(その前に、やっぱこれダメ、と思うかもしれないが。まだ迷っている状態なので、とりあえずはやく描くことで手を先行させて、「描いてしまって」から、その結果についてじっくり考えたいのだ。)
ぼくはいつも、絵を描く前にいろいろ考えたり、イメージを濃縮させたりして準備しても、実際にキャンバスの前に立って、絵の具をこね始めると、だいたい、いきなり別のことをはじめてしまうのだけど(実際に「物」に触れた時の感覚を信用するしかないのだ)、それにしても、今回の「別のこと」は、あまりに別すぎて、自分でも予測がつかないくらい別だった。困った。まあ、カラージェッソは出来る事の幅がはじめから狭いので、「別のこと」といってもたかが知れているのだが、油絵の具は本当にいろんなことが出来てしまうので、こういうことにもなる。
●ただ、少なくとも、マティスが(あの素晴らしい、驚くべき)絵を「どのように描いたのか」ということの端緒くらいは、自分の身体において掴めたのではないかという感覚はある。マティスはきっと、こういう風にして線を引いていたのだろうし、こういう感じでスペースを意識し、捉え、動かしていたのだろうという感触を、実際に手を動かしている短い時間だけは掴んでいるように思う。しかしまだ、その結果として出て来るものが、マティスの絵の半端なイミテーションみたいなものに留まってしまっているから、それに対して確信がもてないのかもしれない。野球少年が、イチローを真似たフォームで、とりあえず一本ヒットが打てて、ああ、イチローって「これ」なのか、と感じたとか、その程度のことなのかも。

08/02/18(月)
●早起きして、気合いを入れて原稿に向う。10枚分くらい進んだところで頭がフリーズし、まだお昼前なのに、一日の仕事をやり終えたかのような虚脱状態で、しばらくボーッとする。
一日分の頭脳労働はもう終わり。足りない画材を買いに出る。外が、あまりにいい日射しなので、一駅分歩いてから電車に乗ることにした。日射しはきれいだし、空は澄んでいるし、そんなに無茶苦茶寒くはないし、花粉もまだ本格的には飛んでいないみたいだし、散歩するための日のようだ。寒いと、どうしても早足になるが、そうでもないと、歩く速度がぐっと遅くなる。遅くなると、足をひきずるような歩き方になるらしく、時々、思いがけずに靴の裏が地面を擦ってズズズッという音がたって、軽く驚く。隣り駅のちかくで「都まんじゅう」を買って、電車のなかで食べる。
●芸術はやはり、スポーツに似ているように思う。ごく一握りの、凄い人がいて、その人のする凄いプレーがある。それ以外の多くの人は、その凄いプレーに魅了され、そこまでは至らなくても、少しでもそこに近づこうと努力する。この世界のなかには凄いものがあり、それに驚き、魅了され、それを尊敬する。このシンプルな動機が、ほとんど全てだ。勿論実際には、スポーツには、政治や経済や自己承認への欲望(俺様はエラい、とか、モテたい、とか、ランキングで何位、とか)といった「妖怪」たちがびっしりと絡みついていて分ち難い、きわめて生臭くドロドロした世界なのだが、それら全てを背負い込んでもなお、生き残っているシンプルな動機があり、敬意と驚きがある。
(象徴的な秩序が破壊された後に自由がやってくるとかいった素朴なアナーキズムは馬鹿げている。マイクロポップとか。そうではなく、象徴的なものは常にあり、かつ不可欠なのだが、しかし同時に、いま、ここは、常に自由の可能性に開かれてもいて、それを具体的に実現させているのが「凄いプレー」なのだと思う。)
だからそれは民主主義でも平等でもない。できる奴がいて、できない奴がいて、その差は歴然としている。できる奴は常にごく僅かだ。ただ、凄いプレーの前では、全ての人は平等であるだろう。凄いプレーは、それができる人が所有するものではない。凄いプレーヤーだろうと、凡庸なプレーヤーだろうと、観客だろうと、批評家だろうと、凄いプレーへの敬意と驚きはかわらないし、様々な形ではあれ、「それ」にちかづきたいという気持ちもかわらない。その点では平等であり、また逆に、それがないのなら何の意味もない。まず最初に凄いプレーがあり、それへの驚きと敬意とが生まれ、すべてはそこからはじまる。
凄いプレーへの驚きと敬意を、超越的な欲望とか、メタ化への欲望とかいった言葉で説明することはできない。あるいは、カント的な普遍への要請としても。たんに、おおっ、すげーっ、という驚きがあり、これは一体どうなってるんだ、あるいは、どうやったらこんなことが出来てしまうのか、という疑問がつづく。そして、どうやったら、この凄さの一部分でも、自分の身体として反復させることが出来るのか、あるいは、この凄さにどうやったら一歩でも近づくことが出来るのか、という試行錯誤がつづく。
ただ、スポーツを例にすると、どうしても話がマッチョなものに傾きがちではある。冬の晴れた寒い午前中の空の澄み方とか、塀から飛び降りる猫の身のこなしとか、空き地に生える雑草の伸び方とか、そういうものもまた、凄いプレーと同等に「凄いもの」であろう。(念のために言うが、それらは「日常のなかの些細な表情-感情」を表現-代表するものということではない。あくまでそれ自体が「凄いもの」なのだ。)芸術とはおそらく、世界のなかにある「凄い出来事」に自分をすっかりと預けてしまうことだ。だからそれは、まったく主体的な行為ではない。そもそも、凄い出来事への「驚き」とは、私が驚くのか、世界そのものが驚いているのか、区別がつかない。

08/02/17(日)
●一昨日、五分くらいでさらって描けてしまった絵は、アトリエで異彩を放ちつつ、他の作品をじわじわと圧迫しているみたいでもある。ぼく自身も、ほとんどたまたま描けてしまったようなこの絵に、動揺させられ、揺らがされてしまっている感じだ。時間がたつにしたがって、やったー、描けた、みたいに無邪気に喜んでいるだけでは済まない感じになってきた。描けてしまったこの絵を、自分はどう引き受けていくべきなのかが、重たくのしかかってくる、みたいな。
この絵は、白いキャンバスの上に、数本のシンプルな線が引かれただけの状態で、自分としては画期的なのだが、人が観れば、えっ、これのことなの、と、拍子抜けするような、未だ描き出しですらないもののようにもみえるかもしれない。絵は、キャンバスの(あるいは色面の)物理的な大きさと広がりとが空間に作用するはたらきと、キャンバスの上に絵の具を置き、描くことで生まれ、動いて行く空間との、拮抗であり、緊張であり、共鳴でもあるようなものとして、あらわれる。(これは単純に、リテラルな空間とフェノメナルな空間という風には分けられない。空間は常にフェノメナルなものであり、しかし、その次元が複数ある、ということだ。だから空間は二層あるだけではなく、描くことによって、キャンバスのリテラルなひろがりさえもが、複数の層へと分離する。)ぼくはそのように考えているし、以前にも何度もそのように書いた。ただ、言葉で言うのとそれを作品として実現するのとはまた別なのだけど、この絵は、たった数本の線だけで、ぼくのいままでの作品と比べてはるかに、複雑で大胆に、とても深い懐と大きな振幅をともなって、それを実現出来てしまったように、ぼくには感じられたのだ。特に、キャンバスのリテラルな大きさ(広がり)の捉え方の正確さと、そこへ線で切り込んで行く時の大胆さが、大きくことなる。
で、この絵は、今その隣に置いてある、それなりの量の絵の具が置かれ、色彩や筆触同士の関係もかなり綿密に調整されている制作途中の別の絵に対して、挑戦的なというか、脅しをかけるようなとも言える視線を送り、挑発してきているようで、そこには、かなり大きな緊張が発生している。ぼくが抽象表現主義以降の、ミニマル-リテラル-シアトリカルな作品を退屈だと感じるのは、画家の力量としての「描く力」によってしか制御できないし、たちあがることもない、不安定な、「描く事で動く空間」に対して、あまりに臆病でありすぎる、ということなのだが、それと同様の、お前ら臆病過ぎるんだよ、という挑発を、この絵は、アトリエにある他の作品に対して行っているようにみえる。
自分の力量もわきまえないで、この挑発に簡単にのってしまうと、それこそボコボコにされて、絵を描く(作品を組み立てる)という行為そのものが崩壊してしまう恐れがある。しかしかといって、この絵が他でもない「自分の手」によって描かれてしまった以上、その挑発を無視することも出来ない。手に負えない問題児を抱えてしまったかのように気が重くもあり、正直どう対処すべきか途方に暮れているのだが、それは同時に、どこかわくわくする感じてもあるのだった。
●『不思議の海のナディア』1〜4話をDVDで。面白かった。展開が全くのご都合主義なのだけど、それが、アニメの快感原則に徹底して忠実なご都合主義であるところが素晴らしい。そして、アニメの快感原則を先導する欲望の対象は、やはりメカと女の子なのだった。

08/02/16(土)
●今年の予定というか、計画というか、願望というか、そういうものは(不確定な部分を多く含みつつ)いくつかあって、そのなかで、まあ、よほどのアクシデントでもない限りおそらく実現出来るだろうと思うのは本が出ることで、これは、出来れば夏前、遅くても秋頃までには出せるようにと、今、原稿を書いている。(映画や絵画を対象として「イメージ」について考察するというようなもの。あとアニメとかもちょっと。)
あとは、展覧会を二つ考えていて、一つは、国内ではあるけど東京から遠く離れたぼくにとっては未知の場所でのグループ展に参加させていただこうと思っていて、これはでも、時期も含めてまだあまり詳しいことまでは決まっていない。もう一つは、東京周辺で展示が出来ないかと考えていて、これはまだ予定ではなく「野望」(そんな大それたものではないけど)の域を出ていなくて、具体的なことは何も言えないのだが、今日はそのための密談に出掛けたのだった。
ただぼくは、展覧会のために作品をつくるということはしないので(展覧会があろうがなかろうが、作品は出来る時には出来るし、出来ない時には出来ない)、展覧会が実現しようが、しなかろうが、それとはまったく無関係に、制作は普通に、淡々とつづけてゆきます。

08/02/15(金)
●今日、すごくいい絵が五分くらいでさらっと描けてしまった。上手いね、自分、と、自分で自分に感心してしまった。いままで四十年生きてきて、もっともマティスにちかづけた五分間だった。これがたった一度だけのことではありませんように。(たんにマティスの真似じゃん、とか言うな!)
●美容院のカードをみると最後に行ったのが去年の二月で、もうまる一年、髪は伸ばしたまんまの放置状態なのだが、ヒゲを剃る時に髪が顔にかかると鬱陶しいので耳にひっかけて鏡をのぞくと、その顔にどこか見覚えがあって、誰かに似ているような気がするのだが、ずっと誰だか分からなくて、今日、ふと、それが母親であることに気づいた。
母親に似てるなんて当たり前のことなのだが、ぼくは小さい頃から父親にそっくりだとずっと言われつづけていて(母方の祖母からは「瓜二つだわねえ」とさえ言われた)、学生の頃などは父親の若い時の写真をそのまま学生証の写真にしても大丈夫なんじゃないかと自分でも思ったし(さすがに髪型が「時代」を感じさせてしまうけど)、展覧会を父親が観に来た後などは、たいてい画廊の人に、「お父様だとすぐにわかりましたよ」と言われるくらいなので、鏡のなかの自分の顔に母親を見出すことになるとは思ってもいなくて、なかなか気づかなかったのだろう。
おそらく、髪が伸びて、髪の質とかクセの感じとかが母親に似ているので、そこから、自分の顔にある母親に似ている側面が見えてきたのだろう。顔の上半分(目と額)は、案外母親にも似ているんだ、と今更ながら思った。(母親に似ているというより、母方の顔の感じを、自分の顔のなかにもみつけた、ということか。)
●『神霊狩/GHOST HOUND』の1〜3話をDVDで。脚本が小中千昭ということもあって、ちょっと期待して観たのだけど、最初の方だけを観る限りでは、いろいろ外してるように思う。思わせぶりな演出がいまいちだし、アニメとしての絵や動きの質も、そんなに高いとは思えない。初期の石森章太郎っぽい(「龍神沼」とか)キャラクターも、なんか動かしにくそうだし。あと、声優喋りで方言というのも、ちょっと微妙。それに、方言はどうしたって具体的な場所と結びついてしまっているいるはずなのに、話の舞台は、風景を見るかぎりでは一般的な(抽象的な)「田舎」でしかなく、それ以上の、その地方の独自性みたいなものは感じられない。(九州の方の方言ぽいけど、何で九州?、という感じ。まあそれは、これから明らかになるのかも知れないけど。)アニメで風景(場所)を表現することの難しさを、改めて感じたりもする。(そう考えると、やはり『電脳コイル』は例外的に上手くいっているのだなあと思う。)
「お話」のレベルでは、まだまだ滑り出しっていう感じで何とも言えない。まあ、期待しないでもうちょっとだけつづきを観てみようと思った。

08/02/14(木)
●一昨日の日記に、《唐突に、今までとはまったく違う感じの絵を油絵の具で描きはじめ》たということを書いたのだが、描きすすめてゆくと、(久しぶりに使った油絵の具の新鮮さは持続しているものの)やはり、そんなに違ってない感じになってくる。まあ、自分が描いているのだから当然なのだか。(作品をつくるということは、繰り返し回帰してくる「自分」に、その都度新鮮に対することが出来るか、ということでもある。飽きても取り替えのきかない「自分」を、どうやってその都度新鮮なものとしてたちあげ直すことが出来るか、というか。)
自分の作品を眺めていると、学生の頃の二十年くらい前と、やってることは基本的には全然変わっていないのだなあという気もしてくる。まあ、この二十年で多少は上手くなっているはずで、その分、やりたいことに少しは近づいているとは思うのだけど。しかしその「進歩(?)」の具合は、二十年という時間の長さにしてはどうなのかとも思う。二十年もかかってこんなものか、と。これは進歩などというものではなくて、若い頃はいろいろとあった余計な色気が後退して、やりたいことのブレが少なくなった、やりたいことをずうずうしくやれるようになった、ということでしかないのかも。そう考えると、人が一生の間でやれることの少なさを感じる。芸術は長く、人生は短い、という紋切り型は、リアルなのだった。
だとすると、もっと勤勉にやらなくては、ということになるのだが、根が勤勉ではないので、外が晴れて、わりとあたたかいと、すくに散歩に出てしまうのだった。花粉の時期になると、そうそう散歩もしていられなくなるし。
●最近はすっかり「牛」に魅了されていて、散歩に出るとついつい大きな牛舎の方へ足が向いてしまう。一見、無気力な家畜で、ただだらだらと餌を食っては糞を垂れ流しているだけにみえる牛たちも、ちょっと眺めているだけで、生得的な性格に違いがあることがみえてくる。他の牛の食っている餌にまで首をつっこんで横取りしようとする強引な奴もいれば、なにかと遠慮ぎみで、一歩引いているような奴もいる。足音に敏感で、近づくとすぐに振り向く奴もいれば、我関せずで、まるでこちらを気にしない奴もいる。繰り返し回帰する性格としての「私」。

08/02/13(水)
●油絵の具の良いところは乾燥が遅いのでゆっくりと描くことが出来るところで、油絵の具の悪いところは乾燥が遅いのではやく描くことが出来ないというところだ、なんていうことを改めて確認しながら絵を描く。それにしても、絵の具や溶剤のにおいが部屋じゅうをただよい、これは、絵を描いているのだという気分を盛り上げもするのだが、ぼくはアトリエで生活もしているので、このにおいのなかで寝起きしたり食事したりもするわけで、それはあまり快適なこととは言えないのだが。(アクリル系の絵の具はほとんどにおわないのだ。)いままで使っていたカラージェッソという色材は、描きにくいものではあるのだが、扱いづらいということはないのだが、油絵の具は、描きにくいという前に扱いづらい色材で、今はまだこの抵抗感を楽しんでいるような段階でもある。実際に制作をしていると、油絵の具の特徴はこの扱いづらさにこそあって、独自のなまなましい質感や色彩の半透明性などは、それに付随してくるものにすぎないのじゃないかとさえ思えてくる。
●油絵の具というのは本来、層構造をつくることでがっしりとした質感を構築するのために開発された。しっかりとした下地の上に、半透明の層をいくつも重ねてゆくことで、(反射光が半透明の層のなかで乱反射することで生まれる)独自の色彩と、堅牢なマチエールを実現する。とはいえ、厳密な意味での油絵の具の古典技法をしっかりと守っているのは、油絵の具の技法を完成したと言われるファン・アイクくらいなもので、歴史的に著名な画家は、皆どこかで「正しい技法」からは外れた、変なことをしているものなのだが。
堅牢な下地に、半透明の層を重ね、そこに詳細な描き込みを加えるという油絵の基本的な構造を破って、仕上げに近いところで不透明な絵の具をナイフでがっつり乗せるという荒技を開発したのがクールベで、いわゆる狭義の近代絵画はそこからはじまる。だがクールベではまだ、絵の具の層を重ねてゆくという、基本的な層構造はまもられいてた。
油絵の具の層構造そのものを破壊したのは、一方ではマネであり、もう一方では印象派だろう。マネは、油絵の具を意識的に薄く、平板に使うことで、独自の「はやく描ける絵」を実現した。印象派は、いってみればデタラメな、素人っぽい絵の具の使い方で、層構造をなし崩しに壊した。例えばモネは、絵の具を何重にも厚く重ねるが、それは層構造をつくるのではなく、たんにタッチが重ねられているのだ(層の単位ではなく、ひとつひとつのタッチの単位で思考されている。)。
絵の具を重ねるという層構造ではなく、絵の具を並べるという並列構造を意識的に探求したのが、後期印象派の画家たちで、スーラ、ゴッホ、ゴーギャン、セザンヌなどだ。いちばん分かりやすいのは、絵の具を混ぜることも重ねることもやめて、ただ点を並べることで絵を描いたスーラであろう。しかしスーラの絵は、光学的な理論に支えられたもので、それを超え出るようなものは希薄だ。ゴッホの独自のあのタッチは、乾燥の遅い油絵の具をつかって「はやく描く」ために要請されたという側面も大きいとぼくは思う。あの刻み付けるようなタッチで描くことで、下の層が乾燥していないうちに、絵の具が混ざることなく、上の層を重ねられる。
層構造から並列構造への移行によって前面に出て来たのがタッチという単位だろう。セザンヌがモネを高く評価するのは、モネこそがタッチという単位で思考することを画家たちに可能にさせたからだと思う。そして勿論、タッチという単位で絵画を思考することを、最も過激に、徹底して行ったのがセザンヌだ。セザンヌは、モネのようにタッチを重ねるのではなく、タッチを並列せることで絵をつくる。このやりかたは、セザンヌが晩年になるに従ってより徹底され、より過激になってゆく。
タッチを重ねるのではなく並列させて絵を描く時、必然的に、タッチとタッチの隙間が生まれる。この隙間からは、キャンバスの下地が覗く。セザンヌはある時期から、これをことさら埋めることをしなくなる。この跳躍は、驚くべきことだ。ここであらわれる「塗り残し」は、意図的に残されたものではなく、あくまで「結果として」残ったものだ。そしてそれは、仕上げとして「埋められる」必要はないのだ。それでも絵は成り立つ。絵画のフレームの内部にあらわれた、絵画の外側にあるもの。イメージのなかにあらわれた、イメージの外にあるもの。それは、はっきりと(隠されることなく)「見える」ものであるのに、イメージの秩序の内部には属さないものなのだ。同時には存在し得ない「別の秩序」に属するものが、あるフレームのなかに同居する。そしてそれがあからさまに可視化されている。
念のために言うけど、これは東洋的な意味での「余白」とはまったく異なる。水墨画の描かれない「紙」の白い部分は、描かれた部分と連続した空間に属している。白い部分と描かれた部分には、同じ空気が流れている。しかしセザンヌの塗り残された部分は、たんにキャンバスの地そのものであって、描かれた部分(イメージ)と空間的な連続性がない。それは盲点のようなものだ。しかしこの盲点は「見える」のだ。この可視化されたブランクは、見えるのに見えていないことで(イメージと、イメージを支えるものとが、同時に見えてしまうことで)、画面のなかに可視的な断層をつくる。
タッチとタッチとの隙間を埋めなくても、平気で絵が成り立ってしまうこと。人間の視覚がこの状態を「受け入れて」しまえること。むしろそれによって、絵画の空間はより広く広がり、複雑に重なるようになること。このことの衝撃を、最も真摯に、深く受け止めたのは、やはりマティスだと思う。初期のマティスのフォービズムは、点描を点ではなくタッチの単位で行うというということで、これは当然スーラよりもセザンヌに近い。マティスはほとんど最初期から、タッチとタッチとの隙間を、フレーム内にあるフレーム外としてしっかりと意識している。そしてその意識は、タッチというよりも色面や線についての思考である、晩年の、ヴァンスの壁画や切り紙絵にまではっきりとつづいている。
マティスの絵が、同一のフレーム内に、複数のことなる次元を同時に重ねるという信じ難い達成を示すのが可能になったのは、セザンヌの絵で、タッチとタッチの隙間が意味するものを徹底して考えていたからだと思われる。しかしそれは、なにもマティスが史上はじめて実現したことではない。なにしろ、人類は数万年も前から絵を描いているので、そこに「新しい」ものなど何もないし、絵画には「新しさ」などに頼らずに充分に成立する強さがある。例えばルネサンス初期の壁画なとで、セザンヌの絵画にあるフレームの内部にあるフレームの外としての「塗り残し」は、イメージの内部にある、別の秩序のイメージとして、建物の壁や柱、地面や空によって実現されている。それらによってイメージは複数の次元に分割され、また、その分離されたものを繋いでもいる。だからマティスの絵は、セザンヌに負っているのと同じくらいの重さで、ピエロ・デラ・フランチェスカにも負っている。
(この断層は、さらに発展すると、戦後アメリカ絵画が実現した、ラウシェンバーグなどの「フラットベッド」型の絵画をも生むだろう。しかしそこまでくると、イメージは情報の一つの単位へと縮減されてしまい、そのなかで身体を運動させることの出来る「空間」を失う。つまり絵画が脳のなかに吸収されてしまう。実は意外にも、マティスのやろうとしたことをさらに先にまで進めようとしたのは、おそらく、オールオーバー以降の最晩年のポロックだと、ぼくは思う。しかしそれは、一定の成果がみられる前に画家の死によって途切れてしまった。ぼくにとっては、それ以来「絵画の歴史」は途切れている。)
●多分、ぼくが映画のなかの「幽霊」に興味があるのは、以上のことと深いつながりがある。

08/02/12(火)
●今日、なんか唐突に、今までとはまったく違う感じの絵を油絵の具で描きはじめてしまった。これはいったいどうなんだろう、と、期待と不安でドキドキする。こんな感じはずいぶんと久しぶりだ。拙速に判断せず、結果を急がず、様子をみながら手探りでちょっとずつ進めていこうと思う。だいたい、油絵の具で描く時、どの溶き油、どのメディウムを使って、どの程度の厚さで絵の具を置くと、どのくらいの時間で、どの程度、乾燥するのか、というカンを、すっかり失ってしまっている。絵を描くということはつまり、絵の具の乾燥する速度にリズムを合わせることでもあるので、これが分からないというのは、本当に先が見えない感じで進めてゆくことになり、とても不安で足下がおぼつかないのだが、それがまたドキドキする感じでもある。これが人に観せられるようなものにまで発展してくれるかどうかは、まだ全然分からないのだが。
●昨日観た『ブラック・スネーク・モーン』のDVDに、テレビシリーズの『デッドゾーン』の一回分(「ダブルヴィジョン」)が、オマケというか、プロモーション目的というかで収録されていて、それがとても面白かった。いや、作品としては、チープなテレビドラマに過ぎないのだけど、思い切りぼくのツボだったのだ。
『デッドゾーン』は、物や人に触れることで、人に見えないヴィジョン(触れた人、物の過去や未来のある瞬間)を見ることが出来る主人公が、その能力で様々な事件を解決するという話になっているらしい。映画で、同じ状況にいて、ある人には何かが見えて、他の人にはそれが見えない、という場面の「表現」を、ぼくはなぜかとても面白いと感じる。ぼくにとってホラー映画の面白さは、主にそこにあるし、例えば『ベルリン・天使の詩』なんかも、そこが面白い。「ダブルヴィジョン」ではタイトル通り、ヴィジョンを見ることが出来る人がもう一人出て来る。そこでヴィジョンの表現がより複雑になるところが、なんとも面白いのだ。
普通に人が「見る」ことの出来るものもとりあえず「ヴィジョン」ということにすると、ここには四種類のヴィジョンがあらわれる。ヴィジョン1、普通に人が「見る」ことができる状況。ヴィジョン2、主人公にのみ「見える」ヴィジョン。ヴィジョン3、もう一人の女性サイキックにのみ「見える」ヴィジョン。ヴィジョン4、二人のサイキックに共通して「見える」ヴィジョン。つまり、一つの客観的状況を示すための、四種類の質の異なるショットがある、ということになる。ぼくはもう、これだけでうれしくなってしまう。これは例えばタルコフスキーの『鏡』ような「芸術」ではないので、分かりやすく、一つのヴィジョンは一人の人物によって統制されていて、ヴィジョンの複雑な混合は、人物同士の関係に沿って表現されはするのだが、ヴィジョンは、主観的な「夢」ではないので、あくまでひとつの客観的な現実(場面)の、四つの異なる側面ということになる。どの人物も、すべてのヴィジョンは見ることは出来ない。(主人公はヴィジョン3を見られないし、もう一人のサイキックの女性はヴィジョン2を見られない。保安官はヴィジョン1しか見られない。それらの人物が、同じ場所に立ち会って事件に対する。)物語は、独自のヴィジョンを見ることの出来る二人の、二種類の異なるヴィジョンの偶然の交錯によって動きはじめる。この、複数の質の異なるヴィジョンの複雑な混合のあり様(表現)が、ぼくにはたまらなく面白く感じられる。(物語そのものはすごくチープだけど。)
結局、ぼくが自分の作品(絵画)でやろうとしていることも、これにとても近いように思うのだ。勿論それは、横顔にも見えるしツボにも見えるとか、水が下っていると思ったらいつの間にか昇っていたみたいな、単純な視覚的トリックとしてではなく、もっと身体や感覚の全てを使ったものとしてなのだが。

08/02/11(月)
●『ブラック・スネーク・モーン』(クレイグ・ブリュワー)をDVDで。「あらすじ」をみる限りではぼくの最も敬遠したいタイプの映画じゃないかという予感がして(「セックス依存症の女の子を孤独な男がブルースの力で癒す」って...、しかも「鎖に繋いで」って...、えーっ、そういうの勘弁してよっていう...)、半信半疑で、嫌になったらすぐやめようと思って観始めたのだけど、意外によくて、最後まで観てしまった。(人に薦められなかったら決して観なかっただろう。)
お話の次元だけで言えば、トラウマも悪魔憑きも一緒なのか、みたいな、トラウマものとエクソシストを混ぜたような感じで、観ている途中でも、これ以上キリスト教色が強くなるとちょっときついなあ、とか思うところが何度もあったのだけど、その都度ギリギリで行き過ぎにならなくて、他にも、話が(欺瞞的な)嫌な方向や(いかにもトラウマ物っぽい)安易な方向に流れそうになると、その都度ギリギリで踏みとどまって「そっち」には行かないバランス感覚ですすんでゆき、映画が中盤を過ぎる頃になると、当初の疑いは消えて、すっかり信頼して映画の流れを見守るようになるのだった。
はじめのうちは、エロ映画をやりたいのなら半端に「いい話」に結びつけるなよ、みたいな嫌な感じに流れそうな匂いと(あの鎖はどうしても暴力的にインパクトあり過ぎるし)、あまりにもキリスト教的(アメリカ的保守)な価値観が前に出てき過ぎるんじゃないか、という予感とで、かなり引いた感じだったのだけど、本当にギリギリのところで絶妙に嫌な感じには流れなくて、そのうちに、音楽の力もあって、だんだん、これは素直に「いい話」ってことでいいんじゃないかと納得するのだった。
鎖で監禁とか言っても、監禁状態はあっけなく破られて、サミュエル・L・ジャクソンがすんなり他の人(牧師とか)の助けを借りてしまうところがけっこうミソで(ここでサミュエル・L・ジャクソンの「孤独」みたいなのを強調し過ぎると、随分と独善的な感じになってしまうだろう)、そのためにどちらかというとスモール・タウン物の佳作みたいになっている。(結局、孤独な男がブルースによって女の子を癒すのではなく、良識のある大人たちが若者の面倒をみる、若者の面倒をみることを通じて大人たちも救われる、若者と大人たちを媒介するのが音楽だ、みたいな話なのだ。この映画は「売り方」を間違っている。)
積極的に凄くいいとは言えないけど、こんな紋切り型の要素ばかりを集めて、ここまで説得力のある映画にしてしまうのは、アメリカ映画の底力なのか、それともたんに音楽の力なのだろうか。(ドラマチックな要素はいっぱいあるのだけど、そのひとつひとつをあまり深追いしないでサラッと流しているところもミソなのかも。)とにかく、バランス感覚の勝利みたいな映画だと思った。
主役の女の子(クリスティーナ・リッチ)は、ポカンとした顔がなんかすごく良かった。

08/02/10(日)
●『the EYE』(パン兄弟)のDVDを借りてきて観たのだけど、途中でやめてしまった。これはぼくが今、「映画を観る感じ」の状態ではないから、こらえ性がなくなっているからかも知れないけど。『ゴーストハウス』のDVDが出てて、そっちを借りようと思ったのだけど、比べてみたら『the EYE』の方が面白そうだと思ったのだけど、ぼくには駄目だった。
最初、タイトルの部分や、病院で主人公の隣のベッドの女の子が丸坊主だったりするところで、あっ、これは面白いのかも、と思ったのだが、既に分かり切っていることの描写をしつこく何度もやり過ぎるので、飽きてしまうのだった。(このしつこさは「親切さ」でもあって、日本のホラー映画はもっと洗練されている分、不親切だと言えるのだろうけど、ぼくにはその親切さがまどろっこしく感じられてしまった。観客は既に充分に分かっているのに、登場人物はいつまでも分からないという風に、同じ描写を何度も押して行くというのは、ドリフのコントで観客が「志村、後ろ、後ろ」とか言って楽しむみたいなものなのだろうか。)お話としては、上手く撮れば凄く面白くなりそうなのに。というか、無茶苦茶、ぼく好みのお話なのだけど。
あと、この監督の撮り方だと空間がどうなってるのかよく分からなくて、最初はその分からなさが、視覚を取り戻したばかりの主人公の混乱と響き合っていて面白くも思えたのだけど、空間がよく分からないと、主人公だけに何かが見えていて、他の人には見えていないということの表現が、スマートに出来ないのだった。(ぼくは「そこ」こそが観たいのに。というか、「そこ」の説明がくどいので嫌になってしまったのだろう。きっと、ぼくはどこかで、ホラー映画は「空間」だと思い込んでいるフシがあるので、空間の扱いの雑なホラーは嫌になってしまうのだろう。)ドアの覗き穴みたいな小道具も、もっとスマートに使えないのかなあ、とか思ってしまった。(最初の約30分しか観てなくて、これから面白くなる可能性もあるけど。)
●ここまで書いてきて、もう一回観たら面白いんじゃないかという気持ちに、だんだんなってきてしまった。
●テレビをつけたら「ブラックバラエティ」という番組をやっていて、中居正広がプロ野球選手の形態模写をやっていて、それがすごいツボにはまって、爆笑しながら観ていた。モノマネが面白いのは、たんに似ているということだけでなく、目の前でやられていることと、埋もれてしまっている記憶とがふいに共振して、それが掘り起こされる瞬間が面白いのだなあと思った。だから、たとえそっくりであったとしても、掛布とか江川とか、そんなに忘れていない、いかにもモノマネされやすい選手のはそれほど面白くなくて、レオン・リーのスローイングの形とか、大豊のバットを構える前の仕種とか、落合の立ち方とか、王貞治の(一本足ではなく)バットを握る前の仕種と握り方とか、そういう微妙に忘れている(意識から落ちている)ところをくすぐられると、それをきっかけに一気に記憶が蘇って来て、そうそうそれだよ、という感じになるのだった。(でもこういうのって、ふいに、たまたま観たから面白いのであって、改めてもう一度やってもらっても、そんなには面白くないのかも。)
ぼくは今ではプロ野球をほとんど観ないし、いつ頃から観なくなったのかも思い出せないくらいなのだけど、かつてはけっこう熱心に(テレビでたけど)観ていたんだなあということも思い出すのだった。

08/02/09(土)
●「線」というのは、おそらく空間のなかでの動きであり、その動きによって空間のなかで別の質をもった空間をたちあげ、動かす、ということだ。それは、線が手の動きの痕跡を残す、とかいうような単純なことではない。線がすることは、空間を仕切るという身振りであり、空間は、仕切られることによって生まれ、動き、震える。ぼくが今、線だけの仕事でやっているのはおそらく、仕切るという身振りだけで、空間の「質」をたちあげることなのだろう。
それに対して色彩は、空間をすり抜けるというか、空間に納まらない何かとしてあるように思われる。色彩は空間の質というより、触覚的な質をもたらす。密着しない触覚。それは距離をもつが、その距離は空間的には確定できない距離であるようだ。色彩が触覚的でありながら密着しない(距離をもつ)というのは、色彩が色彩同士の関係をもつ、ということでもある。色彩は、色彩同士の関係によって、新たな「質」をつくる。関係とはつまり空間のことで、だから色彩も空間をもつ。それ自体としては空間的ではない色彩が、関係によって空間を含む。
しかし、このように考えることはあやうい。絵画には、まず、線があり、色彩があり、形態があり、それらが組み合わされて何か(質)が出来上がるという考え方は、既に出来上がった絵画を前提としてなされるものだ。そうではなくて、事前にある不確定な何かが、結果として線となり、色彩となり、形態となることで、絵画(の質)が生まれるのだ。(これは一見素朴な表現主義のようだが、そうではない。)
重要なのは、事前にある不確定な何か、結果が出た後に事後的にその存在が(可能性として)確認されるしかないのだが、しかしそれは事前に「あった」のだというしかない何かが、ある閾を越えて、線となり、色彩となり、形態となって生まれ出て来る、その閾を越える動きや力の発生する場所で考えることだ。そこを外れてしまうと、面白くない。
これは、自分が作品をつくる時だけの話ではなく、他人のつくった作品を観たり読んだりする時も同じだ。「そこ」を捉えようとするのでなければ、たんに、作品を言葉でもてあそんだり、型にあてはめたり、切り刻んだりするというようなことになってしまう。
●夜中に目覚めて外をみたら、雪がきれいにつもっていた。

08/02/08(金)
●昨日、今日とつくっていた作品はF40号(100.0×80.3センチ)というサイズで、特に大きいサイズとは言えないのだが、これはあくまで今のぼくの感覚でしかないのだけど、キャンバスの規格サイズだと、F30号(91.0×72.7センチ)くらいまでは小品という感じなのだが、F40号となると、フレーム内の空間の大きさの捉え方、その中で可能な動きの組織の仕方、あるいはその大きさを「もたせる」ためにするべきこと、等の質が大きくかわってくる。
今やっている線だけの仕事は、最初は便箋のサイズではじめたもので、これは、どこにでも持ち歩けて、気が向いた時にいつでも描けるようにと思った(コクヨの便箋に筆ペンで描いていた)こともあるのだが、先ず最初は、線だけで(自分がやろうとしていることで)はその大きさくらいしか「もたせる」ことが出来ないと思ったからだった。それが、F6(41.0×31.8センチ)やF8(45.5×38.0センチ)くらいのスケッチブックへと発展していって、ようやくF40号くらいのタブローにまで辿り着いた。やっていること自体はほとんどかわらないし、人がみたら、スケッチブックでやっていた作品を拡大コピーしたのとどこが違うの?、と思うかも知れないけど、線を引いている時の身体の使い方や、空間の意識の仕方(線を引くということは、その引かれた線以外の場所の全てのスペースを意識するということなのだ)が、画面のサイズが大きくなると随分と違う。意識すること(あるいは、無意識のうちに捉えるべきこと)の量が格段に増えるのと同時に、描く身体が描きながら感じている空間の気持ち良さも随分とちがう。気持ちが良いというのは、ああも動けるし、こうも動けるという、潜在的な動きの可能性(自由度)が大きいということで、それは不安でもあって、その不安を気持ちいいと感じるには、ある程度の「出来る」という自信が必要なのだ。
ぼくは以前は、かなりサイズの大きい作品をつくっていた。学生の頃は、体育館のように大きな大学のアトリエが使えたこともあるが、卒業してからも、三十代はじめくらいまでは狭いアトリエで制作できる最大のサイズ(だいたいF150号、227.3×181.8センチくらい)の作品を普通につくっていた。それはぼくが、絵を描きはじめる最初に、アメリカの抽象表現主義(アメリカ型フォーマリスム絵画)の強い影響下にあったからなのだけど、それに疑問を感じ始めた頃から、作品のサイズは徐々に小さくなっていった。
クールベ以降の狭義の近代絵画はそもそも、宮廷や教会に飾られるような、バカでかい歴史画や宗教画のようなスペクタクル的空間に対する批判からはじまったという側面もある。近代絵画が実現した「質」は、バカでかいサイズを拒否したことによって生まれたとも言える。実際、モネのようなどこまでも拡張してゆくフレームを例外とすれば、ゴッホもセザンヌも、そんなに極端に大きなサイズの絵はない。(セザンヌの水浴図はかなり大きいけど。)それがかわったのはマティスによる。マティスは、それまでの絵画がもっていたフレーム内の空間の扱い方とは、まったくことなるスペースの使い方をするようになる。描かれたもの(絵画として表象された空間)の大きさだけでなく、たんに(リテラルな)そのものとしてのフレームの「大きさ」を、絵画の空間として利用するやり方を発明した。だからマティスの画面の大きさは、それ以前の歴史画的スペクタクルの大きさとは根本的に質が違う。
フレーム(あるいは色面)そのもののリテラルな大きさを、絵画の(表現の)「内容」として利用するという意味で、抽象表現主義はマティスに多くを負っている。しかしマティスにおいては、あくまで、描かれることで発生する絵画的な空間と、キャンバスそのもののもつリテラルな大きさとが、時に絡み合い、ときに齟齬をきたす、というような複雑な関係をもっていて、その複雑さそのものが面白い。つまり、絵画的空間は、あくまで「描かれる」ことによって生まれて来るものなのだ。しかし、抽象表現主義は、フレームそのもののリテラルな大きさをそのまま「表現」とするという方向に、安易にはしり過ぎたという側面がある(特に、バーネット・ニューマンやマーク・ロスコ、彼ら自身というより、彼らに影響を受けたその後のミニマリズムの画家たち、結局彼らは、「描く」のが下手だったから、そういう方向に行かざるを得なかったのだと思う)。ぼくは、そのことが抽象表現主義(モダニズム的フォーマリスム絵画)の衰退の大きな原因であると思う。つまり、絵画はやはり「描く」ことで生まれる空間が問題にならなければ面白くないのだ。このことを意識した時から、ぼくの絵画への姿勢は大きく変化し、ぼくの作品は小さくなってゆくのだが。(現在でも、壁一面を色面で埋めるようなタイプの巨大な絵画-インスタレーションがあるけど、それはだいたい、抽象表現主義のそのような側面を安易に「効果」として利用しただけの、ネガティブな意味でのシアトリカルなもので、まったく退屈な作品であることがほとんどだ。)
絵画の空間(表現)を、画面のリテラルな大きさに「依存する」のではなく(そして、安易なスペクタクルに依るのでもなく)、描かれることで発生した空間と、リテラルな大きさとの絡み合いとして成立させようとするのならば、画面のサイズをそうそう簡単には大きくすることは出来ない。自分自身の画家としての「描く」技倆を磨き、その技倆への自信に応じて、徐々に大きくしてゆくしかないのだと思う。(勿論、作品が大きければ良いなどという単純なことではないし、大きい作品が難しく、小さい作品はそうでもない、などとは簡単には言えないのは、当然のことだ。)

08/02/07(木)
●午前中は油絵の具で絵を描いた。
油絵の具を使ったのはいつ以来だっただろうか。といっても、今している仕事は白いキャンバスに黒い線だけの絵だから、黒(と、そこに分からない程度の混ぜられる少量の青と白)しか使ってないけど。絵の具とテレピンのにおいをかぐと(長い長い)浪人時代を思い出す。
今日使った油絵の具は、99年にホルベインという画材メーカーのスカラシップで奨学生になったときにもらったやつ(年間で50万円分の画材を提供してもらえた)で、それがまだ残っているくらいに油絵の具を使ってなかった。今、主に絵の具として使っているのはカラージェッソというアクリル系の下地用の色材で、これをはじめて試したのは、この99年の奨学生の時で、どうせタダで貰えるのだからちょっと試してみようと思って使ってみて、意外にもに気に入ってしまって、それ以来、色材は主にカラージェッソなのだが、その時にはこんなに気に入るとは思わなかったので、50万円分の大部分は既に油絵の具を貰っていて、その時の絵の具がまだ半分弱くらいは残っているのだった。(油絵の具を引っ張り出してきたのは、多分、今のアトリエに移ってからは初めてだ。)
カラージェッソはもともと、ジョットとかピエロ・デラ・フランチェスカみたいなフレスコ画のような質感を再現するようなイメージで開発された色材らしくて、不透明で光沢がなく、ボソボソッとして筆で描くと伸びがなく、乾燥すると石膏みたいな質感になり(普通のアクリル絵の具よりも粉っぽい感じ)、さらに色数も少なくて、普通に描画に使うにはかなり使いづらい色材なのだが、ぼくは、(まるでガムが靴の裏にこびりついて固まってしまうみたいに)絵の具の塊がキャンバスの表面にへばりついて固まるような質感と、湿り気が無く、やや鈍くてやわらかい色調が好きで、というか、好き嫌いの問題ではなくて、カラージェッソの質感は既にぼくの絵に不可欠な一部分で、だからカラージェッソ以外の色材で描く時は、発想や描き方から替えなくてはならないくらいなのだが、今日油絵の具を引っ張り出してきたのは、今まで紙へのドローイングとしてやってきた線の仕事の延長を、もっとサイズの大きめのキャンバスを支持体にしてやってみたいと前から思っていたからで、その場合、大きめのキャンバスのなかで引かれるであろう「長めの線」を引くにはカラージェッソでは伸びが足りなくて、途中でプツッと途切れてしまったり、ボソボソしてしまったりするから、もっと筆に馴染みがよく含みもよくて、すっと伸びのある油絵の具が必要だったからだ。
久々に油絵の具を使ってみて思ったのは、ただ、黒い線を引いただけなのだが、それでも油絵の具によって引かれた線は、どこかなまなましい豊かな表情があるということだ。もっとも、この豊かな表情がくせ者で、油絵の具独自の豊かさが絵を弱くしてしまっている作品の例を、ぼくは山のように観ている。(特に、西洋絵画-油絵に詳しく、その形式性にも意識的な人こそ、この罠にハマりやすい。)油絵の具独自の、質感のなまなましさと色彩の半透明性は、そこに振り回され、そこにはまり込んでしまうと、ぬめぬめとした気持ちの悪い絵をつくりあげさせてしまいがちなのだ。(いわゆる「油絵」というものが、ぼくにはとても気持ち悪いのだ。)そこが恐い。ぼくが、カラージェッソのような、使いづらく、どちらかというと表情も単調な絵の具を好むのは、そのためでもある。
●絵を描くのは午前中が良いみたいで、本を読んだり原稿を書いたりするのは、夜遅くが良いみたいだ。
というか、夜遅くというのは、周りが暗くなって静かになるから集中しやすいということで、要は、(前の晩に呑んでいなければ)昼前の二、三時間というのが一日のうちで最も頭が働くように感じられるので、その時間は出来れば絵を描くことに当てたい、ということなのだが。

08/02/06(水)
●すくなくともぼくにとっては、作品をつくるためには引きこもって一人になる必要があるようだ。これはどういうことなのだろうか。
先週は、ぼくとしては珍しく、人と会ったり、出掛けたりする用事がつづいた週で、とはいえ、その間に何の用事もなく一日部屋にいる日もあったのだけど、そんな日も、作品や原稿にはまったく手がつけられなかったし、本さえもまともに読めなかった。(ジジェクみたいに、電車のなかとかで読み流すような本は読めるのだけど、そうではなくて、ちゃんと読んだのは『イルクーツク2』に載っているいくつかの短編だけだった。)
「人と会うモード」とはいっても、ぼくの場合大して社交的になったり戦略的になったりする(できる)わけではないのだけど、それでも、気持ちが外(というか他者や関係)へと向いている時は、描いたり、書いたり、読んだりすることに、うまく入ってゆけなくなる。何か、リズムが根本的に違うというか。(とはいえ、引きこもってばかりいると、それはそれで煮詰まってしまうし、なにより生きていけなくなるので、まずいのだけど。)
例えば、展覧会などをやって、多くの人から作品についての感想を言ってもらったりした後は、いったんその「感想」を忘れるというか、その感想が他者の口から出たことの現前的な強さが薄れるまで、作品に手を入れられなくなる。それは、作品をつくっている時、自分のした行為に対する判定はとても微妙で、常に不安が伴うから、その判定が、ついつい他者の口から出た言葉に過剰に引っ張られ、あるいは、それを根拠として寄りかかってしまいがちになるからだ。他者の口から出た言葉は、それくらい強いものなのだ。言葉というものの強さによって、判定の厳密さが狂わされる。言葉による正しさは、作品としての正しさの根拠にはならない。(だったら、人の意見なんて聞かなくても同じじゃん、といわれるかもしれないけど、そんなに簡単なことではない。それによってしか気付けないことも多々あるし、それが「刺激」や「導き」や「支え」となることもある。ただ、そこに責任を預け、それが「寄りかかるべき根拠(法)」のようになってしまってはマズいのだ。)
●作品(芸術)はコミュニケーションではない、とか言い切ってしまえば、それはスローガンとしてはそれなりに格好いいけど、どうもそうでもない。ずっと以前、一度だけ、友人が先生をしていた知的な障害のある人のための絵画教室の(主に力仕事担当の)手伝いをしたことがあった。そこにはダウン症の人と自閉症の人がいて、ダウン症の人は、それぞれにとても個性的な面白い絵を描くのだけど、自閉症の人は絵を描かない。自閉症の人にはおそらく「表象」という概念がないのだと思うけど、例えば、水入れのなかに絵の具を溶かして、それが水のなかを広がって行くのをずっと眺めていたり、キャンバスの上に絵の具を飛び散らせて、それを眺めていたりする。つまり、何かを表現するのではなく、ただ美しい「現象」を眺めて喜んでいる。そのうちに、水入れの水は濁ってくるし、キャンバスの上も汚れてくる。そうなると、一気にキャンバス上に汚い色を塗りたくって潰してしまい、それでもう絵には興味がなくなる。(ある「美しい状態」をキープしようという気持ちがない。それでも、行為の区切りとして、キャンバスを塗りつぶしはする。)
作品をつくるということはやはりなにかしらの表現する行為であり、そこで自分がつくったもの(あるいは見たもの、あるいは自分自身)を、象徴的-想像的な他者へ向って送り出しているのだということを、この事実は示しているように思う。自閉症の人は具体的な他者に興味が無く、よって象徴的-想像的な他者というシステムも作動せず、表象を他者へと送り出す欲望をもたないので、作品をつくることはなく、ただ、目の前の現象が自身の感覚に与える歓びを純粋に受け止めているのみなのだと思う。
(ぼくはそういう自閉症的な状態をとても美しいと感じるのだが、しかし、自閉症はたんに自閉症であり、それを美-比喩として受け取ってしまうこと自体が、自分が神経症的なものの圏域=転移的空間に属してしまっていることの証拠であろう。とはいえ、自閉症的なものに強く惹かれる程度には、自閉症的ではあるだろう。)
作品とは、何かしらの形で他者へと向けられたメッセージであり、それが具体的な誰かに宛てられ、その効果が性急に期待されたものではないとしても、象徴的-想像的な他者へと向ってなされる語りかけであり、捧げものであるということになるしかない。人は否応無く、他者からの承認を必要とする。象徴的-想像的な他者という言い方が気に食わないならば、それをドゥルーズ的に集団的アレンジメントと言っても基本的にかわらない(集団的アレンジメントって、象徴界-象徴的秩序の多少ニュアンスをかえた言い換えに過ぎないように思う)。
でもこれは、たんに「作品をつくる人」の内部で作動する生産システムの問題に過ぎない。作品そのものの力はまたちょっと別だ。「作品をつくる人」は、象徴的-想像的な他者の作動によって、具体的な他者との関係を一時的に保留することに「耐えられる」ようになり、「一人」になることが出来る。問題なのは、ここで必要とされる象徴的な秩序そのもの(の構築)でなく(勿論、それは重要だが、それは意識的-能動的になされ得るものなのだろうか?)、保留に「耐えられる」、ということの方だ。そして、この保留によって一時的に開かれた時空のなかで可能になる「何ものか」そが重要だということだろう。(単純に、制作は、この保留の時間によってこそ可能になる。)保留の時空のなかで、「現在」や「現状」に従属することのない、別のコミュニケーションの「どんな回路」を開くことが出来るのか、あるいは、(象徴的-想像的な他者へと送られたものが自身の身体へと回帰した時に)孤独のなかで、どんな状態を生きることが出来るのか、ということではないか。
セザンヌが、誰にも認められないまま長いこと絵を描きつづけ、死ぬ直前まで絵を描きつづけていられたのは、セザンヌにとって生きることが、絵を描くという行為を通じてしか開かれることのない何ものかだったからだと思うけど、それと同時に、ルーブル美術館に代表されるような「絵画(美術)」という制度(象徴的-想像的な他者)への信頼が、確固たるものとして成立していたからではないだろうか。具体的なあの批評家やあの画家は馬鹿でしかなくても、「絵画」だけは自分をその一員として正当に評価してくれるはずだ、と。私は大文字の「絵画」と共に絵を描き、「絵画」へと作品を捧げるのだ、と。セザンヌの作品の強さや深さは、大文字の絵画への信仰によっても支えられている。しかし、セザンヌの作品は、決して大文字の「絵画」には回収されない。それどころか大きくはみ出す。だが、その「回収されない何か」が生み出されるためにこそ、大文字の「絵画」が機能する。
とはいえ、現在を生きる者ならおそらく誰でも、セザンヌと同等の強さで、大文字の「絵画」を信じることなど出来ないだろう。それはつまり、(自閉症ではない)誰もがセザンヌと同等の強さで、(具体的な他者との関係を保留して)「一人」になる時間が確保出来ないということでもある。象徴的-想像的な他者の力が弱くなることで、具体的な他者との関係への依存の度合いが大きくなる、というのは、ポストモダンのありふれた光景だろう。具体的な他者との関係への依存が強くなるということは、権威主義から脱し、具体的な他者こそを尊重することを可能とするということであると同時に、一般的には「現在」や「現状」への従属の度合いが強くなり、それを「保留する」ことが困難になる、という傾向があるだろう。
だが実際には、具体的な誰かとの出会いによって現在の保留が可能になることもあるので、そうとも言い切れないのだ。(例えば、ぼくが今でもまがりなりにも絵を描きつづけていられるのは、同じように絵を描いている友人が、数は少ないが、たまたま何人か近くにいたことによるところが大きい。これは否定出来ない事実だ。)おそらく、ポストモダン的な現在における、「現在」を脱出する希望はここにあるのではないかという気もする。ただそれは(「現状-偶然」に多くを負うので)非常に不安定で、こころもとないものではあるが。(よくも悪くも、セザンヌのような強固な一貫性は期待できない。)ともあれ、象徴的-想像的な他者の力が微弱でしかあり得ない(そのこと自体が良いとも悪いとも言えない)現代に、どのようにして保留の時空をつくりだしてそれを保持し、より強く、より深く、「現在」や「現状」から離陸できる状態を生むことが出来るのかということこそが、常に問題となると思う。
「作品」が、具体的な他者との関係-現実的、社会的空間を保留し、そこから一旦離脱したところに立ち上がるもので「なければならない」と言う時、その「なければならない」は何かしらの「法的(普遍的)な正さ」に依存し、そこで要請されるもの(カントが言う様に)ではなく、ただ、少なくともぼく自身の生において、そうである「必要がある」ということだ。なぜかは知らないが、それが「必要」なのだ。
●ということで、今日は雪のなか、画材を買いにでかけた。

08/02/05(火)
●『電脳コイル』12話から14話をDVDで。この一つ前の11話から、12、13話と、お話の本流からはやや外れた、イリーガルに関するちょっとした三つのエピソードという感じ(イサコが出てこないし)。この三つの話のそれぞれがとても面白い。11話は、アニメとしてのイメージが面白いし、12話は、すべての登場人物の顔に「ヒゲ」を描き込みたいという、ほとんど教科書への落書きみたいなアイデアのレベルで面白い(ちょっと、藤子不二雄のSF短編みたいな話でもある)。そして13話はちょっといいお話になっていると同時に、この『電脳コイル』という作品の空間的なリアリティの厚みを感じさせるものだ。この、方向性の異なる三つのエピソードがそれぞれ面白いものであることによって、この作品の世界設定の奥深さというか、潜在的なもののひろがりを改めて感じる。このような「含まれているものの大きさ」を感じるのは、たんに設定が精密だということではなく、この作品世界の空間のあり様が、我々が普段現実的な空間から感じているものの奥にあるものと、響くところがあるからなのだと思う。
14話は、いままでの展開を総集編のように振り返りつつ、今後の展開を予感せるという、全体が予告編のようなつくり。長くつづくシリーズには、このような回も必要なのだろう。それにしても、の作品は細部にまでわたってかなり多量の伏線が散りばめられているのだなあと思った。伏線の張り過ぎは、終盤で作品そのものの運動を阻害してしまうことがあるので、そこがちょっと気になった。「電脳コイル」という言葉がはじめて出て来た。
あと、いままで基本的に子供(+お婆さん)だけの物語で、主要な登場人物でメガ婆を除いて最も年上なのが女子高生の「おばちゃん」だったのだが、はじめて大人の男性が絡んで来たのが、今後の展開にどう影響するのかも、ちょっと気になる。

08/02/04(月)
●友人の展覧会のオープニングに顔を出すために出掛け、途中で経堂の古本屋に立ち寄る。ラカンのセミネールが安く出ているという情報を得たから。『フロイト理論と精神分析技法における自我』を上下揃いで3800円で買った。この本は、以前神田の古本屋でみかけた時は一万五千円とかいう値段がついていた。(他にも、『精神分析の倫理』と『精神分析の四基本概念』もあった。持っているので買わなかったけど。)
いまでは、フーコーもドゥルーズもデリダも文庫で読めるというのに、何故、ラカンの本はみんな高い上に手に入りにくいのだろうか。(「日本の古本屋」を検索すると、『エクリ』は、一巻が単独で五千円、三巻揃いだと二万円というのが相場みたいだ。ぼくは一巻しか持っていない。)「ラカン入門」みたいな本はけっこう出てるのに。(最近ではとうとうジジェクのが出たし。)せめて『精神分析の四基本概念』くらいは岩波文庫から出してほしい。『エクリ』も、全部は無理にしても、いくつかの論文をピックアップして、文庫で新訳で出す、という風にはいかないものなのだろうか。
●ジジェクの『ラカンはこう読め!』は、気楽に(話半分で)だらだら読むのには丁度いい本だ。でも結局、ジシェクは、ラカニアンというよりヘーゲリアンなのだと思う。(とかいって、ヘーゲルについてあまり知らないけど。)ちょっと面白いところがあったので引用する。
《今日の進歩的な政治の多くにおいてすら、危険なのは受動性ではなく似非能動性、すなわち能動的に参加しなければならないという強迫感である。人びとは何にでも口を出し、「何かをする」ことに勤め、学者たちは無意味な討論に参加する。本当に難しいのは一歩下がって身を引くことである。権力者たちはしばしば沈黙よりも危険な参加をより好む。われわれを対話に引き込み、われわれの不吉な受動性を壊すために、何も変化しないようにするために、われわれは四六時中能動的でいる。このような相互受動的な状態に対する、真の批判への第一歩は、受動性の中に引き籠り、参加を拒否することだ。この最初の第一歩が、真の能動性への、すなわち状況の座標を実際に変化させる行為への道を切り開く。》
ジジェクで問題なのは、「状況の座標を実際に変化させる行為」というものの具体的なイメージが全然みえないところにあるのだけど、それはともかく、最近のアニメなどで、あまりに無邪気に「男性原理的な能動性」が礼賛されているのには、ちょっとびっくりすることがある。「グレンラガン」みたいなのから「まなびストレート」とか「クラナド」みたいなのまで、それは感じられる。(男性原理的な能動性を先導するのが「天然-無垢な少女」の「純粋な思い」だったりする。あるいは、どちらかというと女性の方が、このような能動性の病にかかりやすい気もする。)そんなに簡単に90年代をなかったことにしていいの?、と思う。例えば、『少女革命ウテナ』で、ウテナが決闘に参加しつつ参加していない(決闘に意味などないことを示すためにだけ決闘する、ウテナの真の闘いは別のところにある)ことの意味や、『エヴァ』のシンジ君が何故あんなにウジウジしていなければならなかったのかということの必然性について、もうちょっと真剣に考えなくてはいけないのではないかと感じる。(まあ、ぼくがもともと、いつも「忙しくしている」ような人のことをどうしてもどこか信用出来ないと感じてしまう、というだけのことかもしれないけど。)
●展覧会のオープニングで、十年くらいは会っていなかったんじゃないかという大学時代の友人と会う。人は、年齢によって見かけはかわっても、「喋り方」は全然かわらないものなのだなあ、とつくづく感じた。その友人と、いま何やってるの?、みたいな話になって、友人は、片手間につくったもの(右手を骨折したので左手でつくったようなもの、という言い方をした)が予想外に売れたので、半年くらいは何もしなくてもいいんだ、と言っていた。で、その後の話の流れで、その「左手でつくったようなもの」が、「初音ミク」のことだと分かって驚いたのだった。(その道で相当成功しているということは、前から間接的に聞いてはいたけど。)

08/02/03(日)
●柴崎友香「クラップ・ユア・ハンズ !」(『イルクーツク2』)。最初に読んだときは、正直、なんかよく分らなかったのだけど、何日か置いてもう一度読んだら、妙に面白かった。でも、どうして面白いのかは、よくわかってない。
柴崎友香の小説を読んでイメージすること。大きな、でも浅い川があって、水面の上に飛び石のようにいくつも石が出ている。その石を、川に落ちないようにして、ぴょんぴょんと飛んで、向こう岸までゆくような感じ。そこでは、人並みはずれた身体能力(跳躍力とか)や、アクロバティックなバランス感覚(中国雑伎団みたいな)が示されているわけではない。それでも、決して川に落ちることなく、リズミカルに次の石へと飛び移ってゆける、(石を選ぶ)的確な選択とバランスの感覚が常に保たれていて、何よりその動きそのものが見ていて面白い、という感じがする。そこには、決して「派手で凄く面白い事」が書かれているわけではないが、しかし「退屈」に落ち込むことが絶妙に避けられている。
おそらく小説に限ったことではなく、作品において、リアルであるということは「面白い」ということで、退屈だというのは、リアルではないということだ。ここで、いくら現実と照らし合わせて正確で(あるいは正当で)あったとしても、それが「退屈」を感じさせるものならば、作品としてリアルではない。しかしここで、前述した《決して「派手で凄く面白い事」が書かれているわけではない》という時の「面白い」と、《リアルであることは面白いということだ》という時の「面白い」は違っている。つまり、あまりにも分りやすく「面白いこと」は面白くない(リアルではない)のだ。(逆に、退屈なところがリアルだ、という面白さもある。)単に退屈を避けるだけでなく、面白い(1)と面白い(2)とが、的確に判定される必要がある。でも、何がどっちかということは、すごい微妙なことだ。リアルである「面白いこと」は、実際に書く事やつくることを通じてしか出てこない。というか、作品をつくるということは、自分のしたことに対してのその微妙な判定をいちいち何度も繰り返しながら進んでゆくことだとも言える。
●次に引用するシーンは、大学の正式ではないチアリーディング部に所属する主人公が、サークルの仲間たちとストレッチしながら、クリップで留めておいたはずのポテトチップスの袋の口が、部屋に帰ったら開いていたという話をしているところ。それ以前に、部屋には幽霊が出るという話もされていた。
《「ねずみじゃない?」
体育館の裏の通路でストレッチをしながら、幸恵ちゃんが言った。開け放たれた扉から、中でレシーブの練習をする女子バレーボール部が見える。手が痛いのになんでできるのかなあ、と思う。脇をのばしたポーズのまま、わたしは答える。
「でもうち二階やで。築二年やし。」
「関係ないって。前わたしんちも出たことあるもん」
わたしと左右対称のポーズの幸恵ちゃんが言うと、通路にぺったり足を広げた七実がこっちを見上げた。
「というか、誰かが家に入ってんじゃない?」
「ポテトチップス食べに?」
「そうそう、おなか空いてるんだよ」
今度は反対側に体を倒した幸恵ちゃんは、あっさり納得しているようだった。わたしは、腕を降ろした。
「ねずみが?」
「違うよ、幽霊」
それだけ言って七実は黒目が大きい丸い目で、じっとわたしを見上げていた。遅れた貴雪が、ごめんごめんと階段を上ってきた。》
この一見なんでもないシーンの冴えた感じ。例えばこのシーンを、この文章と同等なくらいの冴えた感じを維持しつつ映画に撮るとしたら、監督には相当な力量が必要となるだろう。三人いるうち、二人が組んでストレッチをしていて、残りは一人で足を伸ばしている。主人公は二人と会話をしつつも体育館のなかのバレーの練習をみて、会話とは別のことを考えている。会話と行為と視線(注意)の移動とが同時に別々に動いている。会話は、主題をキープしつつ、三人であることから妙な展開をする。もう一人がやってくることで、シーンが途切れる。
会話だけとっても、「というか、誰かが家に入ってんじゃない?」という新たな意見の提示に対し、「ポテトチップス食べに?」というややボケた対応がつづき、しかしそれが「そうそう、おなか空いてるんだよ」と当然のように受けられ、「ねずみが?」という文脈からズレた対応ののち、「違うよ、幽霊」という意外なところに着地する(これを言う七実はもっともその手の話を怖がる人とされている)。ここで現実的に考えれば、「というか、誰かが家に入ってんじゃない?」という話題に対しては、通常、ストーカーとか変質者とかいう話につながりがちで、そうでなくても、誰もいないはずの部屋で留めたはずのクリップが外されていたという話は、ねずみなどではなく、まず最初に「そこ」が疑われ、気味悪がられるはずだと思うのだが、会話が「そこ」向かうことはおそらく意図的に避けられている。何故さけられているのかと言えば、会話がそこに向かってしまうと小説として面白くない(リアルではない)展開に陥ってしまうからだろう。(お話としては、分りやすく面白くなるのかもしれないけど。)それは、「幽霊」が出て来ると、話が自動的に呪いとか凄惨な事件とかに結びついてしまうのと同じくらいに、退屈なことなのだ。(勿論、「現実的」にはそれは切実なことではあるだろうけど。)
ただ、このような冴えた感じは、柴崎友香の小説ではいつものことで、「この小説」独自の妙な面白さの説明にはならない。
●この小説で、「幽霊」はホラー映画の通りに、ホラー的表現の紋切り型そのままで登場する(幽霊の登場の場面でのみ、紋切り型を「あえて」やっているように思える)。にもかかわらず、主人公の反応は、ホラーとは違っている。ここにある妙な落差が面白い。主人公は、幽霊を、前に住んでいた人の気配が残っているだけなのだろうと自然に受け入れている。(だからここでの幽霊は、『その街の今は』に出て来る古い写真のようなものなのだろう。)ただ、本当にまったく恐怖がないのかと言えば、そんなことはないような感じでもある。それはたんに、場所にとりついた記憶(過去)というだけでなく、主人公が過去に見た夢の記憶とも繋がっていて、表面に強くあらわれはしないが、奥深い場所で静かに響くような恐怖があるようにも感じられる。ここで作家は、幽霊を描写しているのではなく、ホラー映画(の技法)を描写しているのかもしれない。ホラー映画を描写しつつ、それが子どものころに夢で見た恐怖とどのように響いているのかということを、小説に書く事で確かめようとしているようにも思われる。
この小説で幽霊は、たんに過去の厚みや過去の実在を示すものというだけではないように思う。それは、体育館のなかのバレーの練習が「見える」ことと、幽霊が「見える」こと、あるいは、スーパーで男の子が「ぶつかってくる」ことと、子どものころ見た夢で女の人が「ぶつかってくる」こととが、重なりつつも、それでも別の次元にあって、ズレているというような、不思議な感触を浮かび上がらせる。この微妙なズレる感触こそが重要なのかもしれない。
●あるいは、この作家においては、やはり「見えること(見かけ)」の不思議さがとても重要なのかもしれない。例えば、この小説の登場人物たちは、チアリーディングのサークルであるにもかかわらず、正式なものでないため、チアの衣装やボンボンなどを使えない。つまりチアに「見えない」。そもそも、それを始めたのがその「見かけ」に惹かれたからなのに。この微妙な「見えなさ」のもどかしさのなかに(そう「見える」ようになりたいという動きのなかに)、登場人物たちはいる。幽霊も、最初は気配だけで目には見えず(というか、見ないようにしている)、しかし「居る」ことは確信されている。それがある日、見えて(見て)しまう。見えた(見てしまった)ことで、幽霊は納得して(あるいは、それを「見た」ことで主人公に変化があって)、幽霊は、その気配さえも消えてしまう。(幽霊の過ぎ去った後に水着のグラビアアイドルのイメージとポテトチップスの袋がポツンと残る、みたいな感じ。)そして、幽霊を可視化するのが、紋切り型のホラー映画の技法であるという微妙さが、また面白い。(そして幽霊が消えた後のシーンで、チアガールのイメージ-写真がどっと溢れる。)
●あるいは場所。主人公にとって幽霊は、前の場所と新しい場所、前の部屋と新しい部屋、前の環境と新しい環境(恋人と別れたばかりである)との間にある違和感や摩擦のなかに現れる。そしてそのギャップ=幽霊を直視することで、その齟齬は調整され、幽霊は消える。ここまで言うと、ちょっと理屈っぽ過ぎるかも。
●だが、この小説で最も重要なのは、そこではないのかもしれない。この小説で普通の意味で最も「いいシーン」は、京王線の電車のなかで、主人公と、同じサークルのオネエキャラの男の子貴雪との間で、何気ない約束が交わされるシーンだと思う。(この約束もまた、「場所」と「見る」ことに関わることなのだった。)そして、主人公がその約束を忘れずにちゃんと果たすのだということが、同じ本に載っている中原昌也と長嶋有との合作小説のなで示されているところが、笑えて、ちょっと感動する。

08/02/02(土)
●4日からはじまる友人の展覧会の搬入と作品の設置の手伝いに行った。ぼくはこの友人の展覧会の案内状(DM)に短い推薦文みたいなのを書いていて(あくまでも画廊の企画で、ぼくがキュレーションしたわけではない、そんな「力」はないし、あったら自分の展覧会をやる)、この画家のことはもう二十年以上前から知っていて作品を観つづけているし、事前に、展示する作品の写真は見せてもらっていたから、まあ間違いはないと思っていたけど、それでも、推薦文を書いた責任上、作品の実物が展示されているところを展覧会がはじまる前に観て、自分が書いたことがウソではないことを確認しておかなくては、という気持ちもあった。で、それがウソになってしまうことはなかったということを確認できて、安心して帰ってきた。
●YOKO KATO展「藪漕ぎ」は、2月4日(月)から14日(木)まで、銀座のギャラリー福山(TEL.03-3564-6363)で開催されます。日曜は休み。展示されているのは、キャンバスに油絵の具で描かれた絵画12点。それと、リンク先では開館時間が11時半から19時になっていますが、正しくは12時からです。(というかこれ、さらに電話番号も違ってるし...。)
●DMに載った推薦文は、以下の通り。
《加藤陽子は見えないものを捉えようとして描く。見えないものを見えるようにするのではなく、見えないものとしてそれを捉える。だがそれは、捉え難いからといって曖昧なものでは決してなく、この世界に存在する確固とした何かだ。だからその作品を観る時も、目で見るだけではたりない。画家が、知覚の全て、身体の全て、記憶の全て、感情の全てを用いて、時にはそれを超えたあり得ない何かをさえ用いて捉えようとする何ものかに、その絵を観る者もまた、それらの全てを用いて反応し感応することが求められていると感じる。画家がそれを求めるのではなく、絵画そのものがそれを求めている。しかしそれは、肩肘を張って、眉根を寄せて皺をつくり、深刻そうに凝視することでではなく、肩の力を抜きリラックスして、心を開いて絵の前に立つことでこそ可能になると思う。》

08/02/01(金)
●今日発売の「風の旅人」Vol.30に、ぼくの書いた「ないものの(頭の中での)存在」という文章が載っています。あと、Vol.18から二年間、13回つづいたこの連載「現代生活の中の絵画」は、今回で終了することになりました。
●一駅先のヨドバシカメラまで歩いて行って、デジタルデータをプリントして(プリンターを持っていない!)、その近くの無印良品でファイルを買って、また一駅分歩いて帰ってくる。人に見せるための作品ファイルをつくる。ぼくは、こういう工作的な仕事がひたすら面倒くさい。(一駅分歩くのは全然面倒ではない。)プラモデルとか、夏休みの宿題の「創意工夫」とか、きちんと完成させたことがない。しゃれたレイアウトなんかにもあまり興味がない。自分で絵を描くための木枠やキャンバスさえ、出来ることなら人に頼んで組んだり張ったりしてもらいたい。しかし、面倒でも微妙なところで自分じゃなければ分からないことがあるので、仕方なく自分でやるしかないのだが。でも、全部自分でやるというのは、必ずしも良い事ではない。苦手なことは、それが得意な人にやってもらった方がずっといいと思う。とはいえ、外注する経済力がないので自分でやる。
●『クラナド』1〜4話をDVDで。これはあまりにもキツくてついていけない。口直しに『怪奇大家族』1〜4話を。これはたいへん面白い。仲良しがあつまって楽しくマニアックなことをやるという基本線をあくまでキープしつつも、商売としてもしっかり成り立つ形へ落とし込むことが出来る清水崇は、若いのに立派な、希有な人なのだなあと思う。

08/01/31(木)
●『夜の天使』(ジャン=ピエール・リモザン)をビデオで。観たことあるはずなのに全然憶えてなくって、あれ、こんな映画だったっけと思い、ジュリー・デルピーはいつになったら出て来るんだとか思って観ていたのだけど、どうも『天使の接吻』と勘違いしていたらしい。決してつまらなくはないのだけど、すごく面白いというほどでもない。面白い場面とかけっこうあるのだけど、いまひとつ何かが足りない感じ。いかにも、ヌーヴェルヴァーグ以降の(シネフィルのつくった)フランス映画という感じに納まってしまっているからなのだろうか(その形式性や批評性、「ジャンル」に対する距離感=依存度などが「いかにも」な感じ)。八十年代というのは世界的にこんな感じだったんだなあということの内部にしかなくて、そこを突き破って出て来るものがないというのか。ただ、観たのは随分前で、記憶もおぼろげなのだが、『天使の接吻』はもうちょっと、微妙であることの妙な面白さがあったように思うのだけど。
でも、ラストはやたらとよかった。『夜の天使』ってこういうことか、と。それまで、内面も感情もみせずに無為に犯罪を繰り返していた主人公が、自分の犯罪がバレて捕まることよりも、彼女に自分の身分をいつわっていたことがバレるのが嫌で急に気弱にぐたぐたになって、その彼女も、それまで主人公には大して気がないような感じだったのに、ふいにあらわれた主人公を屈託ない笑顔でうれしそうに迎え、主人公が手錠をされていることを隠したまま、この映画でほとんどはじめて幸福そうな感じで二人が抱き合い、しかしそれは長くはつづかず、後始末があるからと彼女は去り、主人公は手錠を隠しながら彼女を見送る。このシーンはこの映画で唯一、奇跡的に二人の感情が素直に流れることが可能だったというシーンであるように思った。

08/01/30(水)
●チェルフィッチュの『フリータイム』の稽古を、すこしだけ見学させて頂くことが出来た(コネで)。部外者がいきなり入り込んだのだから当然だけど、最初は、そこで「何が問題にされているのか」がよく分からなくて、しばらくはポカンと眺めていた。岡田氏が俳優に対して話していることも、何のことを言っているのかよく分からない。しかし、おぼろげにでも見えて来るにしたがって、どんどん面白くなっていった。
岡田氏の言葉は、具体的な動きのへ指示とかではなく、俳優が動いている時に感じる感覚や、動きをつくるイメージに対して介入するような言葉に聞こえた。動きは、外側から決められるのではなく、俳優の内的な感覚に作用する言葉によって、俳優自身から生まれてくる感じ。「今、途中で膝が曲がったよね、その曲がった瞬間は意識出来た?、その瞬間が意識できたら、それをもうちょっと大きくしてみてもいいかもしれない。」このような指示は、膝をもうちょっと大きく曲げろ、というのとは異なるようだった。実際、次の動きで、俳優は必ずしも膝を曲げるとは限らない。しかしその時、下半身の動きはあきらかに違ったものとなる、みたいな感じだった。このような指示と、俳優の中の何かとが上手く響いたような時に、動きは劇的にかわってゆく。いや、動きそのものの変化は小さなものなのだが、その僅かな違いで、動きがぐっと面白くなったり、つまらなくなったりする。そこはほんとに、ちょっとした違いなのだった。同じ場面を、何度も何度も繰り返しつつ、そのような僅かな違いを、しつこく確認してゆく。それなりにこなれて形になってきても、動きは振り付けのように固定されることはなくて、あくまで俳優が動いている時にイメージしている感覚(によって動きが導かれること)こそが問題にされているようだった。このような細かい作業の執拗な繰り返しのなかから、「既にあるものの価値」に寄りかかるのではない何かが、すこしずつ引き出されていくのだろうと思った。
テキストと動きの関係も、とても微妙で面白かった。ある言葉が、俳優の動きの面白い展開を誘発しているようにみえたり、あるいは、ある説明が、俳優の動きをどうしても縛ってしまったりもするようにみえたりした。そこをどう導き、どう動かしてゆくのかというところは、それぞれの俳優と岡田氏との間に築かれた関係の違いによって様々なアプローチがあるようにみえた。

08/01/29(火)
●『白暗淵』(古井由吉)を、ようやく最後まで読む。「潮の変わり目」で、死そのものにぎりぎりまで近づいたその世界は、「糸遊」では、すれ違うようにして死が身体のなかをすっと通り抜け、最後の「鳥の声」では、「潮の変わり目」のラストで予感された「春」が訪れ、登場人物の「男」は四十歳過ぎという頃まで若返り、最後には梅の香りと重ねあわされた、「女の肌の香」がたつところでしめくくられる。
とはいえ、この四十過ぎの男は、現在四十歳ということではなく、人生の終わりちかくから(あるいは「死」の側から)眺め返され、思い出された「四十歳」であり、それは、「男」が四十代であるから、ある生々しい「春」の感触が訪れたというより、ある生々しい春の感触の訪れによって、四十代が過去-記憶から「呼び出された」という感じのように思われる。
●最後の「鳥の声」で、「男」が、三十前に同棲していてその後別れた「女」と、十二年ぶりに街中でばったり再会して、その後しばらくした大晦日の場面。
《大晦日の夜に男は更けてから家でひとり酒を呑んで、丁度に酔ったところでもぐりこんだ寝床の中から、除夜の鐘の鳴る頃からこの界隈の産土神へ詣る人たちの、凍てついた路に響く足音へ耳をやっていた。男女子供の別ばかりでなく老若のほども足音から聞き分けられる気がした。そのうち人通りがたまたま絶えて、足音の去った表通りのほうから、流れ集まった人の群れて行くのが風の止んだ夜の潮の音のように伝わり、なにやら自分はもう生涯を無事に尽くした後のような、不思議な安堵感が満ちあげ、女と別れた時に自分はもう済んでいたのだ、女もそのことを見届けて安心して帰ったにちがいない、と睡気の中から思った時、傍らに寝ていた女に肘をつかまれた。》
映画では、フレームの外のことは分からないし、小説でも、書かれていないところがどうなっているのかは分からない。しかし、「ひとり酒」と書かれているのだから、家で一人で呑みながら女のことを思っているのだと読んでいたのに、いきなりそこに「傍らに寝ていた女」があらわれて驚く。一体この「女」は、いつからそこにいるのか。そしてこの「女」は、十二年前に別れて最近再会した「女」なのか、または別の「女」なのか。合理的に考えるのならば、酒を呑んでつらつら考えているうちに、いつの間にか眠りのなかに移行していて、男が肘をつかまれ、この引用部分の後で、「抱き寄せ」て「抱き込み」もするこの「女」は、夢のなかにいるということになろう。
とはいえ、この場面を読んでいて得られる感触は、たんに、女のことを考えているうちに、女の夢をみた、という単純なものではない。この「女のことを思い出している男」の存在(現在)がそもそも、時間の外にいる「話者」によって「思い出されているもの」であるような感触があること、そして、この男がもつ「生涯を無事に尽くした後」のような「不思議な安堵感」は、四十過ぎの「男」のものというより、超越的な位置にいる「話者」の気分が「男」へと流れ込んでいったかのように感じられること、そして、ただ「女」とだけ書かれたこの女の存在が、顔のみえない、匿名的な感触をもち、つまり具体的なイメージを結びにくいため、十二年前と現在との見た目上の年齢の違いがイメージされにくいこと等によって、時間があやふやとなり、この場面が、十二年前のことを思いつつ酒を呑んでいる一人ぐらしの現在四十過ぎの男の場面であると同時に、現在女と住んでいる三十前の男が「酔いの感覚」のなかで女を抱きながら、十二年後に一人でいる自分の姿を予感している場面でもあるかのような感触も漂う。つまり、これら全てを思い出している超越的な「話者」の記憶のなかで、この二つの時間が相互に照らし合わされつつも、混じりあっているような感触こそが、つよくたちあがる。このような記憶の混濁のなかで、「春」が訪れるようだ。

08/01/28(月)
●もし、自然のなかには線などないのに、絵画のなかには線があることに驚くのなら、ただそこにある絵の具(チューブのなかの絵の具、パレットの上の絵の具)と、絵の上に置かれた絵の具とがまったくことなる質を持っていることにもまた、驚かなくてはならない。絵の具は、たんに物質としてある状態から、表現の質に変化することで、絵画の一部となり、絵画を成立させる。ただ、絵の具としてうつくしいというままでは、それは絵画とは成り得ない。(余談だが、線を引くということは、決して形態や意味を確定し、固定させることではない。線を引くということは、空間をどう捉えるのかということであり、その空間のなかでどのように動くのかということでもあり、そしてまた、その動きをどう捉えるのかということなのだ。これは別に抽象的なことではなくて、普通にデッサンを描く時にこそ、そうなのだ。)
別に絵画でなくてもいい、自然のなかにある物質、あるいは、ただそこにある物質が作品となるには、それが表現の質へとかわる必要がある。作品は、ただ自然の模倣であるのではないし、ただ頭のなかの模倣であるのでもなく、その中間に、それらを響き合わせる媒介としてある。たんなるノイズとしての身体の発する音-声が、表現の質としての叫びへ(あるいは歌へ)と変質する時、その叫び(歌)は、自然でもなければ記号でもない。ピッチャーの投げる豪速球は、自然でもなければ記号でもない。セザンヌのひとつのタッチは、自然でもなければ記号でもない。それは、意味以前にありながらも、読み取られることを待つものであり、何かを組み立てる単位となり得える固有性を保持し、意味へと向う萌芽、指向性をもつ(指向性であるに留まる)。「表現の質」はおそらく、自然(事物)から記号へと変質する途上で生まれるものなのではないか。そして作品は、それら「表現の質」を合成し、組み立てることによって成立する。
だから作品は、意味でもなければ無意味でもなく、構築でもなければ生成でもなく、分離でもなければ融合でもなく、その境目にあり、境目を通り抜ける力のことであり、その場所でしばし自身の姿を留めようとする作用のことだろう。

08/01/27(日)
●随分と久しぶりに都心にまで出た。日曜に出掛けると、街中に人が多いのはまだしも、店のなかまでも人でひしめきあっていることにうんざりしてしまう。
●『彼女たちの舞台』(ジャック・リヴェット)をDVDで。(日記には書かなかったけど)昨年末に『嵐が丘』をビデオで観直した時も思ったのだけど、リヴェットが本当に面白いのかどうかはもはやよく分からないし、そんなことはどうでもいい。ただ、ぼくはとてもこれが好きなのだということを、何度も改めて確認することが、ぼくにとってリヴェットを観るということなのだった。リヴェットはただひたすら、人物を動かすことを通じて、カメラによって空間を記述し、事物を描写しているだけなのではないだろうか。『嵐が丘』なんていう物語や小説に、リヴェットが本気で興味があるとは思えないし、もし、興味があるのだとしても、それとこの映画とはあまり関係がないように思える。『嵐が丘』にあるのは、ただある田舎の風景や風土であり、土地の起伏であり、そこに生える植物であり、そこにある建物であり、そこで使われる農具や家具や食器であり、そこに射す光であって、ドラマではまったくないように思えた。ただ、カメラがある時間の持続のなかでそれを捉えるためのシフターとして、まるで機械仕掛けのような人物が、そのなかを移動し、なにかしらの身振りをみせる。
『彼女たちの舞台』には、多くの女優が出演しているが、そこにあるのは、演じる身体の提示でもないし、火花を散らす演技合戦でもないし、それぞれの人物のキャラクターやその関係の描出や、そのダイナミックな変化でもない。(いや、それらのすべてであるのかもしれないが、それらは皆ゆるいものでしかない。)繰り返される演劇のリハーサルは、別に、演じる身体の二重化のような意味をことさら担っているとも思えない。演劇のリハーサルは、ある一定の緊張を保ちつつも、(物語に従属しない)だらっと流れる時間そのものを映画にもたらすことが出来るという理由からだけ、選択されているように思える。そこにある行為は、登場人物の存在の危機に関わる切迫した状況から脱するためのものではなく、あらかじめ書かれたテキストに基づく、反復することを前提とした身体の動き(行為)であり、発話である。しかしそれは、演劇の(決して、やり直しのきかない本番ではないが、本番-未来に向けて何かが真剣に探られてはいる)リハーサルであることによって、一定の緊張は保たれる。(「遊戯」というのはそういうもののことだ。)
あるいは、たんにリヴェットは、この小さな劇場の空間が好きで、この空間のもつ様々な潜在性をカメラによって記述したいためだけに、延々と女優たちにリハーサルをさせつづけているようにも思える。
女優たちは、ことさら強くその身体を提示されたり、あるいは、それぞれの間に激しい葛藤や摩擦といったドラマが生じたりするわけではない。彼女達は、例えば、テーブルの上に、様々な皿や、壜や、コップや、パンや、果実が、びっしりと置いてあるのと同じように、あるいは、建物のなかに、タンスや、テーブルや、ソファや、ベッドや、暖炉や、階段が、配置されているのと同じように、映画のなかに配置されている。ただ、彼女たちはそれらの事物とは異なり、空間を移動し、その関係を変化させ、身振りを示し、服を着替え、声や言葉を発するので、映画のなかの時間を起動し、生成し、それによって空間や風景や事物の様々な側面が順を追って顕在化される。
リヴェットにとって重要なのは、ドラマでも物語でも、演じる身体の強度の提示でもなく、おそらく空間や事物の描出と、それに伴う時間の生成であるのだから、ドラマや身体やアクションが、強く、熱く、濃く、出て来てはいけない。しかし、適度な緊張と関心とを持続させなければならない。完全にダレてしまってもいけないのだ。リヴェットの映画に頻出する、紋切り型の物語、謎や陰謀、(順列組み合わせ的な)幾何学性、チープな神秘主義、演劇(遊戯)的性格等は、決して本気でのめり込んだりしない、切迫性のない、しかし弛緩し切ってもしまわない、適度にリラックスしながらも一定の緊張を保った状態を、長時間持続させるために要請されたのものように思われる。
最も重要なのは、そのような冗長な時間をつくりだすことそのものにあるのかもしれない。冗長な時間のなかでしか感得されない何かを捉えること。あるいは、そのような時間のなかにしか生まれない何をつくり出すこと。ひたすら遊戯のための遊戯としか思えないひきのばされる時間が必要なのは、そのためなのだろう。リヴェットの映画は、何かを示そうというよりも、出来るだけ映画の時間をひきのばそう、終わりを先送りにしようという欲望の強さによって、際立っているようにもみえる。いつまでも映画のなかに居たい、映画館を出て現実に戻りたくない、本番-決定-目的に至りたくない(それ以前の猶予に留まりたい)、という退行的な欲望が、映画をつくらせているのではないかとさえ思える。それは決してバカにされるようなことではない。世界は現実によって覆い隠されているのだし、人間の生は必ずしも現実のなかにあるわけではないのだから。
●でも、こういう映画って、自分に、時間的、精神的な余裕がない時には、全然うけつけられなかったりもする。

08/01/26(土)
●昨日、『白暗淵』(古井由吉)の「潮の変わり目」を読んでいて、フーコーがビンスワンガーの「夢と実存」の「序論」として書いた文章の、想像と夢の関係に関する、次に引用する部分を思い出した。おそらくここでフーコーは、あからさまに恋愛について語っているのだが、恋愛ついて語る時のフーコーは、徹底して「たった一人」である。「誰かを想像する」ことによって、最も徹底して、最も深く「たった一人」となる、という感触が、いかにもフーコーっぽいと感じる。古井由吉は、たった一人であることの底で、ある匿名の「女」に出会い、みずからの分身に(再度)出会い、集合的な何かに触れる感触もある。しかしそのような出来事全体が、最終的には古井由吉という「たった一人」へと還ってくるという意味で、フーコーと通底する。(ただ、「潮の変わり目」の最後に唐突にあらわれる「春の気配」(死の先にある未来の気配のような感じ)は、それをも突き抜ける何かであるかのようだ。)
《今日私は、ピエールがこのニュースを聞いたらどうするだろうかを想像してみようとする。言うまでもなく、彼の不在が私の想像力の動きをとり囲み、これを制限してはいる。だがこの不在は、私が想像力を働かせるに先立って、しかも暗黙のうちにではなく、かれこれ一年以上も彼と会っていないことへの後悔というきわめて急迫した様態で、すでにそこに現前していたものである。この不在は、かつて彼が立ち寄ってくれたときの痕跡をいまなおとどめている見慣れた事物のうちにまでも、すでに現前していたのだ。このように、彼の不在は私の想像力に先行し、これを彩ってはいるのだが、だからといって、この不在が私の想像力の可能性の条件だということにはならないし、その形相的指標なのでもない。仮に私が昨日もピエールに会っており、そして彼が私を苛たせたり、あるいは侮辱したりしたのであれば、今日私の想像力は彼をあまりに私に近づけてしまい、私はそのあまりに生なましい現前にむせかえってしまうことだろう。》
《想像のなかで彼が部屋にいるのを見るというとき、私は、自分が鍵穴から彼をうかがっているとか外から彼を眺めていると想像したりはしない。私が魔術によって見えないままで彼の部屋に入ってゆくというのもまったく正しくない。想像するとは、こまねずみの寓話を実現することではないし、ピエールの世界に身をはこぶことでもない。それは、ピエールのいるその世界になりきることなのだ。私は彼の読んでいる手紙であり、注意深く読み進める彼の視線をおのれのうちにとり集めている。私は、彼をあらゆるところから観察しており、そしてまさにそれゆえに彼を「見る」ことのないその部屋の壁なのである。だが、私は彼の視線や彼の注意でもある。私は彼の不満であったり彼の驚きであったりする。私は単に彼のおこなうことの絶対的な主人なのではなく、私は彼がおこなうそのことなのであり、彼がそれであるところのものそのものなのだ。それゆえ、想像力は、私がすでに知っていることになに一つ新たなものを付けくわえたりはしない。だが、だからといって、想像力は私になに一つもたらしもしなければ教えもしない、と言うもの正しくない。》
《私がピエールを想像するとき、なるほど彼は私に従い、その所作の一つひとつは私の期待に応え、ついには私が望めば私に会いにきさえする。だが、想像的なものとは、そこで私が未知のことをなに一つ学びはしなくともそこにおのれの運命を「認める」ことのできるような、そうした超越としておのれを告知するものなのである。想像においてさえ、というよりむしろ、とりわけ想像において、私はおのれに自身に従いはしないし、またおのれ自身のとりこになっているというそれだけの理由からしても、おのれ自身の主人ではない。私がピエールの帰還を想像するとき、私はいたるところにいるのであり、彼のまわりにも彼のなかにもいるのだから、私は彼と顔をつきあわせるわけではない。私は彼に話しかけるわけではないが、彼としゃべりはする。私は彼と共にいるわけではないが、彼に「喧嘩を吹っ掛け」はする。またそうであればこそ、私はいたるところにおのれを見いだしおのれを認めるのだし、この想像のなかで私はおのれの心情の法則を読み解き、おのれの運命を読みとることにもなるのである。》
《想像するとはむしろ、おのれ自身をおのれの世界の絶対的な意味として指向することであり、おのれ自身を、みずから世界となり、ついにはおのれの運命であるこの世界にしっかりと根を下ろすような、そうした自由の運動として指向することなのである。してみれば、意識がおのれの想像するものを通して指向するのは、夢のうちであらわになる本源的運動だということになろう。そうなると、夢みるとは、ことさらに強く生きいきと想像する仕方などではないことになろう。逆に、想像するとは夢のただなかでおのれ自身を指向することであり、つまり想像するとは、夢みているおのれを夢みることなのである。》
《私がピエールの帰還を想像する場合に本質的なのは、私が門を飛び越えるピエールの心像をもつ、ということではない。本質的なのは、私の現存在が、夢における偏在性にゆきつこうとして、おのれを門のこちらがわにも向こうがわにも配分し、帰ってくるピエールの思いのうちにも彼を待っている私の思いのうちにも、彼の微笑みのうちにも私の喜びのうちにもあますところなくおのれを見いだしながら、夢のなかでと同様に、この出会いがまるでおのれの実存の成就ででもあるかのように、それへ向けられている実存の運動を発見するということなのである。》

08/01/25(金)
●古井由吉の『白暗淵』は、その気になった時にちょこっとずつ読んでいて、日記を調べたら読み始めたのが去年の12月21日だから、もう一ヶ月以上もかけて、ちびちび読み進めていて、最近ではもう先に進む気があまりない感じでゆっくり読んでいるのだけど、今日「潮の変わり目」を読んで、これはスゲーと思った。
古井由吉の小説を読んでいる時にいつも見えてくるのは、この小説を書いている作家の後ろ姿のようなもので、つまり、刻み付けるように原稿用紙に一文字書き、一文書いては、ふうっと一息ついたり、興に乗って次へ進んだり、一旦立ち上がってトイレに立ったりお茶を煎れたりしながら、じわじわと書き継いでいる姿なのだった。それって結局、これだけ時間や空間や人称をぐだぐだにしても、そこにいるのは古井由吉たった一人で、そこに収斂されるんじゃないか、という感触でもあるのだが。
古井由吉の小説は、どれも同じといえば同じようなのもで、そこにあるのは、ちょっとした入り方の違い、息継ぎや息の長さの違い、距離の操作のタッチの違い、仕種の違いとか、そのくらいのもので、つまり、同じ人が同じことを長年ずっとやりつづけていて、その同じことのその都度の振動の微妙な違いを感知するというような読み方になる。毎晩同じことを習慣としてつづけていても、その晩毎に微妙に調子がことなるものだし、習慣とはそもそも、その微妙な事なりを計測するためにこそあるかのようだ、だからその文章の呼吸は、そのままそれを書き継いでいる作家の呼吸の記録ようにも感じる。初出の一覧をみると、年に二月くらいのペースで休みつつも、それ以外は毎月一本という律儀なペースで、ここに収録された連作(?)は書かれている。そしておそらく、この作家は、そのようにしてもう何十年も書き続けているのだろう。ぼくが読む一編は、何十年もの間つづけられた習慣の、「ある晩」のバージョンということになろう。
『白暗淵』を読んでいて感じたのは、わりと頻繁に「見得を切」っているという感じだ。空間とか時間とかをかなりぐだぐたにしつつ、ある部分で唐突に見得を切って決めてみせる、みたいな。ぐだぐたな流れがつづいて、ふと改行があったかと思えば、次の二行がやたら「キメキメ」だったりする。その見得を切る感じが、ちょっと俗っぽいようにも感じられつつも、何度かに一度は、その見得がグサッときて、おおーっ、と思う。部分部分で、ここは凄いとか、これはちょっと臭いんじゃないか(「女」がでてくると割と型に流れる感じがする)とか、この手は使い過ぎじゃんとか思いつつも読み進めてゆくと、「潮の変わり目」みたいな「スゲーッ」というところまで跳躍している作品にぶつかる。このような、何度かに一度の大きな跳躍のために、毎晩の習慣は持続される必要があるのだろう。
「潮の変わり目」は、読みながらだんだんこちらのテンションがあがってきて、これは一体どこまで行っちゃうのだろうと興奮していると、終盤で「船」が出て来るところで、「えーっ、そんな分かりやすいイメージに流れちゃうの」と一旦ガクッとくるのだけど、その後また、それ以前とはちょっと違う感じて盛り返して、予想外の最後にまでつれてゆかれる。それもまた凄い。まだ二編のこっているのだけど、こんなの読んじゃうとこちらが息切れしてしまって、簡単に次には行けなくなる。

08/01/24(木)
●『ユメ十夜』をDVDで。(必要があって、清水崇のパートを観るため。)ぜんぜん面白くない映画だった。でも、こういう企画もののオムニバスは、かえって(作品としての出来不出来とはまた別に)、それぞれの映画作家が、普段どんなことを考えているかとか、その資質がどんなだとかが、無防備に露呈されてしまうものなのだなあと感じ、その興味から最後まで観られた。そのような意味で、山下敦弘はきっと面白い人なのだろうなあと思ったし、西川美和はきっとつまらない人なのだろうなあとも思った。最後の、山口雄大のパートは面白かった。
(『ユメ十夜』は割とだらっと観ていたのだけど、人のことを「つまらない」と言うからには責任があると思って、ここを書いてからもう一度集中して西川美和のパートを観直したのだけど、きっちりとした丁寧な仕事ではあると思うものの、やはりまったく面白くなかった。ついでに山下敦弘のパートも観直してみたら、やたらと面白くて、つづけて二回観てしまった。すくなくとも前半は傑作と言ってもいいんじゃないかとさえ思った。この監督には、あるドラマがあってそれを「外す」んじゃなくて、リアルな描写のもつシュールさみたいなものだけで一本もたせるような映画をぜひつくってほしいと思った。最初の方の田んぼの短いシーンだけで、四人いる男の子たちの関係性とキャラクターをみごとに描きだす描写力と、にも関わらずそれはそのシーンだけのことで、四人の関係はその後はどうでもよくなってしまう理不尽な展開。しかしだからこそ、その描写によって浮かび上がったものの感触そのものが、宙に浮いたまま解決せずに持続する。この作品がたんなる不条理コントと違うところは、この監督の卓越した描写の力による。西川美和の丁寧さは、きっちり型にはめこんでゆく丁寧さなのだけど、山下敦弘の描写は、型からじわじわとはみ出てくるものこそを捉える。展開の理不尽さと意外性でぐいぐい押してくる山口雄大の作品とはちがって、山下敦弘の作品は、描写によって生まれて宙に浮いた感触が、展開に乗り遅れたまま残留し、それらが相互に浸食しつつも積み重なってゆくかのようだ。)
●『天元突破グレンラガン』の1、2話をDVDで。あまりに下らなくて、あまりにバカなので、けっこう笑えた。(つづきを観ようとは思わないけど。)「少年ジャンプ」的王道まっしぐら、みたいな。ただ、アニメが、90年代の過度に内面化され屈折した世界から抜け出たとして、その先が、このようなあまりに素朴で単純な男性原理の礼賛に行き着く(回帰する)のだとしたら、それはどうなんだろうと思う。(絵柄にしても、ロボットなどのデザインにしても、演出にしても、あくまで分かりやすくお子様向けに徹していて、それ以上のことははじめからまったく考えていない、というだけなのだろうけど。)

08/01/23(水)
●遅く起きたら既に雪景色だった。でも、もう雨まじりの湿った雪になっていて、積もった雪はべちゃべちゃで、雪だるまとかはつくれそうにない感じだった。それでも、同じアパートに住む子供たちは、裏の駐車場で、わあわあとはしゃぎながら雪合戦をしていた。湿った雪は握っても固まらないので、ただ、半ば水の混じった雪を散らしあっているようにしか見えなかったけど。

08/01/22(火)
●編集者の方が近くまで来てくれて、近所の喫茶店でお会いする。喫茶店で対面して話していると、視点が、相手の顔か、手元の自分のコーヒーカップ(あるいは相手のジュースのコップ)くらいしか移動できなくて、焦点の距離がどうしても固定してしまうためか、だんだん目がしばしばしてきて、涙目になってくる。また、たまたま、上手く視線を逃れさせられるようなスペースのない席で、視点を遠くのものに移すためには、そっぽを向くような姿勢にならざるを得なくて、話の途中で唐突にそっぽを向くのはいくらなんでも失礼なので、焦点がかっきりと固定されてしまってることを意識すると変に目に力がはいって、さらに目がしばしばしてくる。いや、たんに、暖房の効いている店内が異様に乾燥していただけかもしれないけど。
時期ははっきり決まっていないけど、「リンチ論」は近いうちに掲載される方向(「方向」というのはまだ確定ではないという意味)。あと、三ヶ月という短い期間だけど、アート時評みたいなものを書かせてもらえるっぽい。
●編集者は、わざわざここまで来たついでに近くの美術館に寄ってゆく予定だそうで、ぼくが、ここから歩いても四十分くらいですよ、と言うと、四十分も歩けません、と、タクシーに乗って行った。ぼくとしては四十分というのは普通に「歩く」距離なのだけど、ちゃんとした社会人は躊躇無くタクシーを使えるのだなあ、と、当たり前のことに関心するのだった。というか、自分のズレ具合が笑えるのだった。
●ぼくはここ一年くらいまったく髪を切ってなくのばしっぱなしで(主に経済的な理由)、髪型がかなりひどいことになっていて、それでも秋頃まではハンチングとかで誤摩化していたのだけどそれも限界で、最近では頭全体をすっぽりと隠せるニット帽がないととても人前には出られない感じで、無精髭とか生えてる顔を鏡で観ると自分でもさすがにこれはヤバいだろう、ただでさえ昼間からぶらぶらしてるあやしいおっさんなのに、と思うのだが、ここまでくると、十年以上通っているのにここ一年すっかりご無沙汰の美容院にも行きづらいし、今は寒いからもうちょっと暖かくなってから、とも思ったりして(そういえばぼくは子供の頃から床屋が嫌いで理由をつけては先延ばしにしていた、じっとしているのが嫌なのだ)、なかなか髪を切りにゆくきっかけがない。ということで、帽子のままで失礼しましたという言い訳でした。

08/01/21(月)
●映画では、ショットはいきなり途切れるし、いきなりはじまる。それに、原理的には、あるショットの後に、どんなショットでも繋げられる。そこに何かしらの「根拠」はなくてもいい。この感じは、ゴダールの映画を観ていると特に強く思う。DVDで観ていると、えっ、何いまのモンタージュ、とか思って、手元のリモコンで、ついつい巻き戻してもう一度みたりしてしまう。(何度も観ているはずなのに。)そういう風に映画を観るのはあまり良い事だとは思わないので、なるべくしないようにしているのだけど、ゴダールの映画では、ついついしてしまう。というか、ゴダールは、そういう風に観ることを前提にして編集しているとしか思えない。ある意味、どこから観始めて、どこで観るのをやめてもいいような感じでもある。
『勝手に逃げろ/人生』はとても好きな映画で、何度も観ているのだけど、それでも、えっ、いまの何、と思って、何度か巻き戻してしまう。ゴダールの映画では、画面や音で、あまりにも多くのことが同時に起こっているので、字幕を読む余裕がない。(それに、だいたいいつも同じようなことしか言ってないし。)多くのことが同時に起こっているということは、焦点がないということで、ある部分に焦点を合わせていれば、その焦点との関係性(遠近法)で全体の構図が見えてくるということがない。つまり、常にがちゃがちゃしていて、集中できない。タバコを取り出して火をつけながら、電話をかけるために受話器を取り上げ、ダイヤルしながら受話器を肩に挟んでタバコを手に持ち、ダイヤルするのを中断してコーヒーをすすり、背後から声をかけてくる人に対応し、通話先の人と言い争いをしながら、タバコを手にしたまま、背後の人が髪や肩を触ってくるのをとりなし、タバコを吹かしたかと思えば、唐突に背後にいる人とキスをする、という感じ。そこには一つの流れにはまとめられない複数の流れが同時にあり、ある流れが唐突に途切れたかと思うと、別の流れが唐突にそこに加わる。こういう感じが面白くて仕方がないのだけど、それが「面白い」という感覚を人に説明するのは難しい。
『勝手に逃げろ/人生』の冒頭近くで、ナタリー・バイが喫茶店で何か書き物をしていて、窓の外にちらっと視線をやり、コーヒーを持って来たウェイトレスの方に向き直って、今の音楽は何?、と聞くと、ショットは仰角ぎみのウェイトレスのクローズアップに切り替わり、そのウエイトレスがふいに振り返るタイミングでショットが途切れ、全然関係ない他のテーブルの客のミドルショットに切り替わる。この流れというか、モンタージュを、とても面白く思うのだが、その理由はよく分からない。まるでナタリー・バイの視線で繋いだかようなウェイトレスのアップへのモンタージュが、しかし実はその視点ではありえない方向から撮られていることで、空間がふっと膨らみを増し(何か「別のもの」の視点を想起させ)、それが他の客のテーブルのショットへの、さらなる空間の広がりの萌芽となり、それを誘発する、からだろうか。
あるいは、緑の芝生の広がる広い場所で、地域の大勢の人たちが集まって何かスポーツのような催しをしているところを捉えるロングの横移動のショットが、ゆっくりと右から左へと動いてゆくと、自転車を押したナタリー・バイが左からフレームインしてきて、彼女の動きにあわせて、カメラは左から右へと動きをかえる、というショット。この、空間のひろがりと、そこに人が大勢集まり、点在し、それぞれバラバラに何かしている、という感じを(いかにも、田舎の休日の催し物という感じを)、こんなに見事に一つのショットに納めている例を、ぼくは他には知らない。(同じゴダールの『ワン・プラス・ワン』の最後の海岸でのショットもそんな感じだが、そのショットではゴダールの「走り」こそが素晴らしいのだった。)それが面白くて仕方がない。例えばアンゲロプロスなどは、もっと大げさに、仰々しく、同じようなことをするのだが、そこには「休日の催し物」的な、ゆるんだ空気とひろがりはない。ゴダールは、本当に何気なく、そういうすごいことをする。

08/01/20(日)
●内的な秩序の、外的環境に対する自律性。外的な環境の変化に対して、内的なものがある一定の関係性を維持していること。例えば生命。私の体温は、寒い外から、暖かく暖房の効いた室内に入っても、ほぼ一定の値を維持する。あるいは、三ヶ月前の私と、今日の私とでは、新陳代謝などにより、物質的なレベルではまったく同一とは言えないが、それでもほぼ同一の性質、技能、記憶を維持している。
作品が、自律しているということ、外的環境から「閉じている」ということは、そのようなことを意味している。今朝の気持ちのよい空気は、午後になれば消えてしまうし、夕暮れの微かで透明な光は、夜になると消えてしまう。しかし「作品」はそれを、(とりあえず、今ここにある)なにかしらの媒介物を加工し、それを自律的に存在する「ある関数」へと変換することで、恒常性をもたせ、保存する。その保存は決して永遠のものではないが、作品の内的な関係性(自律性)が持続する限りは、持続する。作品とは、ある感覚を現前させる装置であると同時に、それを記録し、保存する装置でもある。
何故、保存するのかといえば、そこへ「遅れてやってくる人」のためにだ。作品は、その出来事が起こったときはそこに居ることが出来なかった人、あるいは、その時はまだ生まれていなかった人を、そこで、ひっそりと「待っている」のだ。作品は、人が、その作品にふさわしい観者になるのを、あるいは、未だ存在しない観者が生まれてそこへやってくるのを、いつの日か読まれ、理解されるのを、黙って静かに待っているものなのだ。作家は死んでしまうかもしれないし、生きていても「別者」へと変質してしまうかもしれないが、作品は、そこでそのまま待っている。(だから、未だ観者が存在しない作品こそが、つくられるに値する。)
作品は、内的関係を維持し、「待つ」という性質によって、生きている我々が必然的に捕われている「同時代」や「現代」を逃れる力をもつ。現在が我々「生きるもの」に強要する「同調」という強力な圧力から逃れる力をもつ。生きている者は、生きつづけたいのであれば、現在が突きつけて来る外的環境に対応するしかない。しかし作品は、現在とはまったく別種の時間をもつことが出来る。これが「作品」というもののもつ、もっともうつくしくて貴重な側面だと思う。作品は、やはりなにかしらの表現であり、コミュニケーションの手段ではあるのだろうが、しかしそれは、「現在」という時制の縛りから、あるいは時間そのものから逃れるコミュニケーションなのだ。(ぼくは、セザンヌと会うには遅く生まれ過ぎた。しかし、セザンヌの作品は、彼が見たサントヴィクトワール山を、それを見ることで掴まれた感覚を、現在にも伝えている。)
現在つくられている多くの作品は、「作品」というものが、「未だ、ここに居ない者」をひっそりと「待っている」ものだという、作品の最も貴重な側面を、あまりにないがしろにしているように、ぼくには思われる。現代作家の作品が、ただ「現代」を表現するだけのものであるのならば、そんなものは観るに値しない。

08/01/19(土)
●『日向で眠れ』(アドルフォ・ビオイ=カサーレス)。残念ながら、『モレルの発明』や『脱獄計画』ほどには面白くなかった。冒頭から、語り手の「信用出来ない気配」がありありで、やっぱカサーレスすげえ、って感じで読み始めたのだけど、物語全体の仕組みと、その語りの信用出来なさの気配とが、あまり上手く噛み合っていないように思った。最初は、語り手の信用出来なさにドキドキしながら読み進めるのだけど、そのうちに、この語り手の信用出来なさは、たんに物語を語る上での効果に過ぎないものだったのかと思えてしまう。語りの感触と、物語上の仕掛けとが拮抗していなくて、仕掛けの方が勝ってしまっていて、しかも、その物語の仕掛けそのものはそんなには面白くない。おそらく、『モレルの発明』や『脱獄計画』と共通する、カサーレス的な主題の追求と(それはすごくよくわかるのだけど)、それ以前の小説とは異なる、ブエノスアイレスの貧しい「露地住まい」の人々の描写とを、無理矢理組み合わせようとして、あまりうまくはいかなかったということだろうと思う。いや、信用出来ない語り手によって語られる、露地住まいの人々の描写そのものは、とても面白いのだけど、物語を理路整然とまとめようとする時の「仕掛け」の方が簡単過ぎて、そんな風にまとめるなら、混乱したままの方がずっと面白いのに、と思ってしまうのだ。というか、その(信用出来ない不穏な)描写の面白さをもっと追求して欲しいのに、物語の仕掛けの都合の方が優先されてしまうことが、ぼくには不満で、それによって評価が過小になっているのかもしれないのだが。
『モレルの発明』や『脱獄計画』にも「謎」は存在するのだが、ネタバレしてもその面白さはまったく揺らぐことはない。だけど、『日向で眠れ』は、読んでいる途中でだいたいネタは割れてしまうのに、作者はネタがバレていないという前提で書いていて、そのネタで引っ張れると思っている感じがつまらないのかもしれない。ただ、『モレル』や『脱獄』にはなくて、この小説にあるのが、登場人物の一人一人がかなり魅力的だという点で、主人公の家でずっと働いているというセフィリーナという老女とか、主人公の妻の姉であるアドゥリアーナ・マリーアみたいな、面白い女性像を、カサーレスは具体的にちゃんと書けるのだということをこの小説は示してはいる。アルディーニという友人も魅力的だし、何故か分らないけどいきなり入院した主人公に惚れてしまう看護婦のパウラという人物も面白いのだけど、でも、それが「物語上の都合」で設定されたようにみえてしまうところが、この小説の弱いところだと思う。(この小説の主人公はやたらと女性にモテるのだけど、そもそもこの主人公の語りそのものの根拠が分らず、その語りが信用出来ないものなので、たんにモテていると思い込んでいるだけかもしれないという、どちらか確定できないスリリングな感じがあるのだけど、最後まで読んでゆくと、結局たんに普通にモテる人だという感じで「解決されてしまっている」ところが面白くないのだ。そのとたんに、パウラという不思議な人物がたんに物語の都合であらわれた人物のように思えてしまう。主人公の語りが「信用出来ない」ものである理由が、単に物語りを語る上での意匠に過ぎないもののように感じられてしまう。主人公が時計職人というのも、ちょっとわざとらしい気もする。)
●この小説は、主人公から、古い、今では疎遠になっているはずの友人へ宛てられたの手紙という形式で書かれていて、この手紙が書かれる動機や目的(書き手がやたら切迫していることの理由)が読者にはずっと分らないことによって、この「語り」そのもの(語りの根拠)が宙に吊られて、それがこの小説の不穏な緊張感となっているのだけど、途中で、だいたいその目的が読めてしまうので、そのとたんに、物語の仕掛けばかりが前面に出て来るように感じられ、弱くなってしまうのだと思う。ただ、最後の方でちょっとがっかりするとはいえ、途中までは、かなり面白い小説であるには違いないのだ。

08/01/18(金)
●散歩をしていて、いきなり、何もない芝生のひろがりに出くわして、どこかの大学のグランドかなにかだろうかと思ったのだが、その隅に数頭の羊とヤギがいるのをみつけた。動物を放牧する場所のようだった。住んでいるアパートから、まっすぐ歩けばせいぜい二十分くらいのところなのだが、こんな近くにこんな場所があるなんて今まで知らなかった。大きな木々で隠れて見えなかったところに、地面をえぐったように下ってゆく坂道があって、そこを下ってゆくと、四、五十頭の牛が並んで草を食べている大きな牛舎があった。
牛は、歩いている道からを柵を隔ててすぐそこにいて、ぼくの気配を察して顔を向けた牛の顔が、手が届くほどの距離にあった。うわっ、牛ってやっぱでかいなあ、と思って見ていると、一番近くにいるその牛の肛門から、糞が、ぼたぼたっと落ちた。牛の糞は、食べている藁がほとんどそのまま出てきている感じで、匂いもあまり強くない。こいつら、食うのも出すのも一緒なんだなあ、と、その、あまりに自然なというか、そのまんまな排便にちょっと感動した。うんこするのにしゃがみもしねえよ、みたいな。犬や猫なら、もうちっょと(人間に近いような)排便という感じがするのだが、牛のはほんとに無造作で、ただ、食べたものが身体を通過する間に多少醗酵されて、そのまま出て来て落下するだけっていう感じで、でもこの感じは、本来(人間のように過剰に意味づけされていない)動物にとって排便というのはこういうものなのか、それとも、肉や牛乳を生産するために生まれては死んでゆくという風に、家畜化されたことで、食うのも出すのも自動化されて、無気力になった、みたいなものなのか、どっちなのだろうと思った。
別に排便に限らず、牛の存在のあまりにも「そのまんま」な感じは、人間が人間のためにつくりあげた街の中を歩いている時に、ふいに出くわすと、ちょっとしたショックを感じる。その大きさや、息づく感じは、まさに生き物の生々しさで、意識とか自己イメージみたいなものに制御されてなくて、擬人化したりキャラ化して捉えることが出来ないような、生き物の生々しさ「だだ洩れ」みたいな。(野良猫などを見ていると、身体が「運動」そのものとなっているかのように見えるのだが、牛舎の牛は、身体が、ただ「存在」そのものに同化してしまっているかのようだ。)
あと、羊って、すごい変な顔してるなあと、しげしげ眺めてしまった。絶妙のバランスの外し方をしている。羊は、白くて長い毛をもっているので、ヤギや牛に比べて「汚れ」が目立って、きたならしい感じで、より「獣感」が生々しい。村上春樹の「羊男」のことを、ちらっと連想した。
●獣感と言えば、イタリアに行った時、スーパーでイノシシのサラミというのを買って来て、ホテルの部屋で食べた。口に入れる前は、すごく強い獣の匂いがして抵抗があるのだけど、口に入れてしまうとメチャクチャ美味しくて、日本で普通に売っているサラミよりも随分と太くて大きいその一本を、ワインと一緒にまるまるぺろっと食べてしまった。その翌日は一日中、自分の体からそのサラミと同じ獣の臭いがたっているのをずっと感じていた。ああ、自分も動物なんだなあと、思ったのだった。

08/01/17(木)
●『もうひとりいる』(柴田一成)をDVDで。ツタヤのレンタルが一本200円だった日にまとめて借りてきたなかの一本で、何の予備知識もなくなんとなく観たのだけと、ちょっと面白かった。映画としてみれば、不満はいっぱいあって(特に、この監督は俳優の演技をみられない人なんじゃないかと感じた)、あまり質が高いとは言えないかもしれないけど、何というのか、「新鮮」だった。ホラーというジャンルはもう完全に飽和状態だと思ってたけど、まだジャンルとしてやれることがいろいろとあるんじゃないか、と思わせてくれるような映画。(というか、これをもっと徹底してやれば、ジャンルを突き抜けた異様なものが出来るのではないか、と。)
特にすごいことは何もやってないし、むしろ小さくまとまり過ぎの印象がある。ただ、恐怖の対象が幽霊ではなくドッペルゲンガーであること、そして、登場人物全てのドッペルゲンガーが登場すること(だから、どの人物も「もうひとり」ずついる)が、この映画の面白いところだと思った。手法的には、ドッペルゲンガーはたんにカットバックで二人にみせているだけだし(黒沢清のマルチ画面みたいな形式的に「凄い」ところはまったくない)、人物の顔や骨格が歪む(おそらくここが最大の恐怖のポイントだろう)のも、おそらくきわめて簡単な画像処理がなされているだけだと思われる。(それにしても、リンチの『インランド・エンパイア』でもそうだったけど、ほとんど福笑いのような次元で、ごくチープな画像処理で顔が歪むことが、何でこんなに異様な感じをもたらすのだろうか。このちょっとした画像の歪みが、世界の基盤を揺るがし、世界全体を信用ならない感じにしてしまうのだ。)
つまりこの映画は、(Jホラーにおいて異様に発達した)小手先の怖がらせるテクニックの精度によってみせようとする作品ではなく、あくまで、全ての人物が鏡像的に分裂してしまうという構造的な異様さ、恐さ、そして可笑しさによって成立している。むしろ、細部に(こけおどし的に)「凄い」ところがまったくなくて、構造的な異様さだけが、(順列組み合わせ的に)淡々と展開されてゆくところが新鮮なのだと思う。この感じはちょっと、黒沢清の『花子さん』に近いかも。(とはいえ、それにしてももうちょっと俳優の演技や人物の描写を丁寧にやってほしいとは思う。クライマックスに近づくにつれ、ちょっとそれはないんじゃないかという感じがどんどん増してくる。)

08/01/16(水)
●夢のなかでふいに爺さんに手を掴まれる。爺さんは座り込んでいる。わたしはもう間もなく死ぬから、それまでここにいてみとってほしい、と、爺さんは言う。まわりに人は大勢いるのに、何故自分なんだ、と思う。爺さんはぼくの左手を握って離す気配がない。仕方が無いと思い、覚悟を決め、わかりましたと答える。なるべくはやく済めばいいなあと思う。でもそれは、はやく死ねということなのだと思い直す。手間はとらせないと言う爺さんの口ぶりは既にかなり弱々しいものではある。
このまま静かに、ゆっくりと事切れるのだろうと思ってみていた。しかし爺さんはいきなりもだえ出す。実は死にたくない、助けてくれ、いや、わたしにかわってお前が死んでくれ、と訴えるかのように、はげしく喘ぎ、苦しんでいる。どこからこんな力がと思うほど強く、爺さんはぼくの左手を握り、ひっぱり、その爪がぼくの掌に食い込んでいる。ぼくは痛みを感じ、その力の強さへの恐怖を感じてうろたえる。一体何なんだ、抵抗しないではやく死ね、とさえ思う。しぶとく粘る、というよりも、最後の一線をなかなか越えられずに苦しんでいるかのようだ。爪はさらに強く、深く、掌に食い込み、鈍い痛みは腕から肩にまで伝ってゆく。
とうとう一線を越え、ふいに力が抜け、握っていた手がみるみる物質と化し、だらっと重くなる。それまでの力に対する恐怖とは別の恐さを感じ、恐怖にうろたえてしまったことにうしろめたさを感じ、その感じのなかにいるままで目覚めた。それは夢からこちらの世界へとそのまま持ち込まれた。
目が覚めてからも当分の間、左の掌に爪が食い込む痛みの感触が、ついちょっと前まで強く握られていたかのようななまなましさのまま、ずっと残った。

08/01/15(火)
●引用、メモ。ランシエールとジジェク。政治の詩的機能と「現実的なもの」。快感を与えるシニフィアンの力。樫村愛子「ポストモダン的「民意」への欲望と消費」(「現代思想」2008年2月号)より。(図書館に「文藝」をコピーしに行った時にみつけて、一緒にコピーしてきた。)
《ランシエールは、プルデューが、文化と権力を結合して、持たざる者の政治的不可能性を指摘したとして批判している。プルデューは、この点で、アルチュセールと同じく、科学主義、知万能主義の過ちを犯しているという。ランシエールによれば、すべての人間は「語る者」である限りにおいて、平等である。社会的地位によって語る者でないと規定することこそが権力が行ってきたことだからである。プルデューがしばしば政治を「脱神話化」の機能として考えるのに対し、ランシエールは、政治の詩的機能、感性的機能を評価する。そして政治は「脱神話化」ではなく、信頼や幻想の機能であると指摘する。》
《ランシエールにおいて重要なのは、ラクラウの考えるような、不在という現実的場所に政治という自由の可能性が単に偶然やってくるということではなく、プルデューが振りかざした民衆における知の壁を、美的なもの-隠喩というシニフィアンの効果によって突破しようとした点である。》
《ランシエールは述べる。(...)政治的対話は、「ロゴスと、ロゴスを感覚と共に計算に入れること---感性的なものの分割=共有---との結び目そのものに関わるがゆえに、政治的対話の証明の論理は、不可分に表出の美学でもある。『美学』とは、切り離された表現制度のあいだのコミュニケーションをもたらすものである」。》
《もちろんここで、現実には、フランス革命の歴史の揺り戻し一つとってみても、政治は自己啓発セミナーのように権力の奪取においてすべてを変えてしまうものではない。長い時間をかけて人々を変える力をもつ権力装置の布置を暴力的に特権的に書き換えうる、合意をまさに美学的表現や隠喩において取りつけるものでしかない。しかしそのことの効果は大きいものである。そしてその権力の奪取と装置の布置の書き換えという出来事は、ゼロからいきなり出現するものではなく(「ベルリンの壁」のように偶然として語られる歴史的出来事は、その出来事そのものにおいてはそうであるが、無数の偶然性を胚胎する条件をすでに備えていただろう。もし無からいきなり出現したようなものであれば、現実の持続が困難なため、トラウマでしかなくなり、揺り戻しせざるをえない)、それを可能にする現実的変容を基礎としている。》
《ベルシーは、ジジェクが現実界を空無と同一視し、非観念論であるラカンをドイツ観念論の再現へと誤用していることを批判している。ジシェクにおいて、現実界は生体から切り離され、構造化された不在となり、最終的には空虚な空無となる。彼において現実界は心的現象として遡及的に生み出され、その構成の外傷的な瞬間は、社会的対立として外部に投影されるため、死の欲動の出現を代表象する。それゆえ彼にとって、現実界の空無を満たす「崇高な対象」は、魅了とすると同時に嫌悪感を引き起こすものであり、ラカンが記述する「快感を与えるシニフィアンの力」を無視する。》
《ジジェクは、この意味で、ランシエールの政治の美学の意味を理解することはない。ランシエールの政治の美学は、美学が人々に与える力についての記述だからである。テレビと結合したポストモダン的ポピュリズムの隘路において現出する政治的なものをランシエールのいう政治の美学がどうつかまえうるかについては、ここで簡単に述べることはできないが、例えば、ドゥルーズが述べたように、強迫的な(転移)コミュニケーションの回路を断ち、非=コミュニケーション的な空洞や断続器を作るという方法もその一つである。》

08/01/14(月)
●今出ている「文藝」春号に、『肝心の子供』の作者の磯崎憲一郎と保坂和志の短い対談が載っていて、立ち読みしたら面白かったので、図書館でコピーしてきた(ごめんなさい、貧乏なので)。
『肝心の子供』を読んだ時、まず思ったのは、この、現実からズレた世界がいきなり中空にあらわれたかのような小説は、どのような「とっかかり」によって書き始められたのだろうか、ということで、つまりその点の「掴み難さ」だった。この点について磯崎氏は、最初にあったのは、ブッダの子供にラーフラ(束縛・差し障り)という名前をつけたのがブッダではなくその父で、しかもその名前をつけたことに大喜びしたという事実を知った時の、「その変な感じが最初にポンとあったんですね」と述べている。(つまりそれは、書き出しの文そのままということだ。)
ぼくは小説家ではないけど作家(画家)の端くれではあるので、作品がはじまる場所にある、「ひっかかり」のようなものが凄く気になる。その作品が動き出すときに最初にある、着想というほどしっかりしたものではなく、ある違和感のようなもの。それは決して作品のテーマなどではないし、謎でもなく、まさにただの「とっかかり」なのだけど、この「とっかかり」に力がなければ、作品は遠くまで転がっていってはくれない。このとっかかりに潜在的な力がありさえすれば、あとは、そこから自ずと出て来るもの、展開されるものの邪魔をなるだけしないように転がしてゆくことが、おそらく作家の「技術」ということになる。
その意味で、この磯崎氏の発言はとても腑に落ちるものだ。この小説が「そこ」から動き始めたことが納得出来る。だからといって、この小説の謎が解けたというわけではなく、作品自体は謎でありつづけているのだけど。ただ、この話を読んで、この小説はやはり「親子の話」なのかなあと感じた。それは、親子の話として要約できるということではなくて、「親子」という関係によって動き出し、スイッチが入り、その震動が持続し得るような燃料があたえられたもの、という意味なのだが。つまり、実際に子供がいる人だからこそ書けたというような小説なのだなあ、と。
●『肝心の子供』には、意外にも、磯崎氏の実際の経験が多く反映されているそうだ。例えば、ブッダの妻ヤショダラが城の敷地を水田で埋め尽くしてしまうという話(これはとてもうつくしいイメージだ)は、磯崎氏がアメリカへ出張した時が田植えの時期で、上空から見たら千葉や茨城のあたりが一面水浸しだった風景に感動したことによるものだったり、ブッダが出家する時に、結婚した時の銀の食器が錆びているのをみつける場面は、磯崎氏が結婚した時にもらったステンレスのスプーンが錆びていたことによるそうだ。しかし、これだけだと、では何故、その場面が、現代を生きている男が、飛行機から水田を見た場面や、スプーンの錆びを発見した場面として描かれるのではなく、ブッダに起こったこととして描かれたことによってリアリティが生まれるのかは説明できない。その点について、磯崎氏の次の発言がヒントになるように思われた。
《小説の冒頭に、ブッダが結婚式の朝に馬に乗って山を散策しに行くと、そこにサギを見つけるシーンがあるんですが、僕はここで「しばらくの間ふたりでそちらを見ていた」というように、馬とブッダを「ふたり」とあえて数えているんです。僕も十五年前、自分の結婚式の朝に犬を散歩に連れて行って、犬がサギを見つけて犬と僕でサギを見ていたことがあったんですけど、その時の「犬と僕がサギを見ている変な感じ」というのがですね、どうにも忘れられない。これは僕にとって、何というかリアルなんですよ。それで、こういうリアルなものっていうのは古代インドの小国の王子が経験してもおかしくないのではないか、と。じゃあそれは普遍的な感覚なんですねって言われると、あえてそうは言いたくないところもあるんです。ただ、何かそういう感じこそを書くべきだと思うんです。》
ぼくには、ここに、『肝心の子供』という小説の不思議さの秘密の一端があるように思われた。世界の内側に立っているのか外側にいるのか分らないような、不思議な距離感や温度の文章、というか、世界が、自分自身で自分を記述しつつ、それによって自分で自分を産出しているかのような文章の不思議さは、自分自身が実際に経験した「感じ」を、とても遠くにいる、古代インドの王子の経験として記述し直すということによって可能になったのではないだろうか。(考証が厳密でないとはいえ、ブッダが歴史上に実在した人物であるということの作用もあるのではないだろうか。)それによって、一つ一つの細部がリアルでありつつも、今、ここにある現実とは別の現実(世界)を中空に立ち上げるかのような文-小説が可能になったのではないだろうか。
●ぼくはこの日記をほとんど毎日書いているのだけど、毎日書けるということは、毎日書けるようなことしか書いていない、ということでもある。つまり、もっと深く考え込んでしまえば手がとまってしまうかもしれないのに、それを避けて、浅いところで妥協しているから書き進められる、と。しかしそれでも、毎日バットを振っていればまぐれの当たりもあるかもしれないし、それがまぐれであったとしても、「当たった」という事実が自分を変えてくれることもあるかもしれない、という希望によって書いているわけだ。でも、本当にそれで良いのか、と思わないでもない。それって、文を書くという行為をナメてるんじゃないのか、と。『肝心の子供』のような小説を読むと、そういうことを思ったりもする。

08/01/13(日)
●引用、メモ。『バナナブレッドのプディング』(大島弓子)の衣良と、それ以前の作品の少女たち、男色家たちとの違いについて。愛から「真実への要求」を抜き取ること(擬装)について。《人が知るかぎりで最後の種類の愛情》としての「作品」という形式について。この部分には、何度でも繰り返し立ち返る必要がある。「嘘の力と力の嘘---大島弓子と、そのいくつかの政治学」(樫村晴香)から。
《衣良に至るそれまでの世界では、母を求めるようにして信頼のやすらぎを男性に求める、素朴な波動の少女たちが一方におり、しかしその要求は現実に何者かに出会うやいなや、その対象の不完全さを明かしてしまい、したがってごく普通には、欲望は不完全なものをめぐりゆきて、そのそれぞれの不完全さにおける完全なものとの異なる仕方の差異を集め、ひとつの象徴の世界を作り上げ、それを不完全なものの父となして、たがいに偽りを分かちあうが、この素朴な少女の対極にいる、力強い女性たちや男色の者たちは、その偽りを分かつには、理想や価値や未来の名の後ろにある不完全なもののすべての形と真実を、すでに多く知りすぎてしまい、それゆえ愛を再び生きるために、空白への跳躍と、他人の無知と欲望へみずからを賭けることになる。いずれにせよ彼女たちにおける愛は、母を求めるように答を求める類の愛であり、その答の充満が、逆に愛そのものを困難にし、したがってそれがさらに、信ずることの倖いへの要求と、その反転の哄笑の繁茂を増大させる帰結を生む。
衣良がひそやかに進む道は、その真実と答はある意味でもはや愛から手を引き、それ自身で<庭の薔薇の花のように>語りだし、そのため逆に愛は、それとなく待ちつづける日々のなかで、ときに聞こえる声のように、偽らずかつ強がらぬ姿で、たがいに出会う世界である。つまり愛が真理の肥大を生み、それに苦しめられる世界から、むしろその充溢があまりに大前提に化したゆえに、反対に愛はそこから流出しだす、より新しい世界への移動である。衣良に至る少女たちが、幼年時代そのままの愛のすべてを守るべく、過去と未来にはさまれて、常に現在が滑り落ちてしまう世界にいたならば、衣良はその同じ少女でありながら、過去と未来を現在にはさみこむ、新しい制度と共同体を、はじめて発案する者となる。》
《じっさい、彼女の考案した<世間に後ろめたさを感じている男色家の男性の、カムフラージュとしての偽装の結婚>という選択で、真に重要なのは、<世間に>なのか<後ろめたさを感じている>なのか<男色家>なのか、あるいは<男性>、<カムフラージュとしての偽装>、<結婚>のどれなのか? それはきわめて緊密に結びつきつつ、じつはすべてが同等に重要なのであって、その緻密さは、恐ろしくも人を驚かせずにはいられない。<世間に>後ろめたさを感じているゆえに、その男性の愛はみずからの不可能を制度に委託する、いわゆる普通の主体の愚かしさをすでにまぬがれ、しかし<後ろめたさを感じている>男色家であることで、享楽の集積者として他人の欲望を支配せず、だが<男色家>ゆえに、知の限界にはすでに至り、しかもやはり<男性>として、欲望の主体たることの苦痛をひきうけ、衣良の性愛の可能的対象者として彼女を待ち、そして何よりも、すでに<偽装>であることで、相手に答と対象を求める充溢への再度の性急さは棄却され、しかし<結婚>という、隠れながらも待ちつづける意志によって、たがいを察し合おうと表明する。ここでの偽装とは、性急さと、それゆえに愛を過去に従属させてしまう信ずることの激しさへの、中止の手段なのであって、みずからの偽装を他人の快楽の目録とすることで真実を支配する、男色家的=人喰い鬼的偽装とは正反対のものである。》
《彼女のその闘いと、より深い愛の希求が、どのように帰結したかはこの作品では明らかでない。<わたしには自信がある/わたしは誰にだってすんなりとけこめるのよ>という衣良が、野の草々や庭の薔薇と語るように、人々と語りあえることになったかどうかは、難しいところだろう。というのもその彼女の振舞いは、庭の薔薇のようでありながらけっして庭の薔薇そのものではなく、むしろ強い震えの豊かな言葉が、みずからと、さらにやがて来る他者をそこで待ちつづけ、そのことが暗黙の了解として多くの人々に、<それとなく>すでに知られていることがそこでは前提となるからである。そして少女まんがにおいては、男性には過酷なほどの英知が期待されつつ、同時に彼らは――現実がそうであるように――存在論的に(?)愚かなのが常なので、聞かれることを得なかった彼女の声は、まったくの草々と薔薇の声となって、現実には山奥の山荘で療養する発狂した『ダリアの帯』の黄菜(きいな)の発する、<うふふふふ☆うふふふ☆やだあ☆それはへんよ☆ふふふふふ>という、緩慢にたゆらぐ気流のような音となる。だがここで、人は衣良の立てた戦略の、もう一方の帰結を知らねばならない。衣良の歩む、それ自身を知りながら、いつか聞かれることを互いに待ちつづける道ゆきは、実はその最も近いものは、作品といわれるそれの振舞いである。作品は、耳をやがてそばだてられる情愛豊かな自然であり、反対に聞かれることの少なさは、作品を自然に返してしまう。衣良が求めた、人が知るかぎりで最後の種類の愛情とは、作品に向けて贈られるようなそれであり、あるいは衣良の慎しさとは、作品がもつ慎しさに似通っている。》

08/01/12(土)
●必要があって、『少女革命ウテナ』(97年)と『フリクリ』(99年)とをちょこちょこと観直しているのだけど、改めてこの二つの作品が驚くべき傑作であることを思い知らされる。ぼくはアニメに関して、そのほんの表面を撫でているだけでちゃんとした観客とは言えないのだが、90年代終わりの時期こそが、日本のアニメーションの絶頂期であるように、この二つの作品を観るとすごく思う。(そのテンションを生んだのはやはり『エヴァ』なのだろう。そしてその質的充実は、「世紀末」みたいな物語とはほとんど関係がない。)例えば『電脳コイル』などは、文化としてのアニメの成熟を示すような作品ではあっても、ブレイクスルーとなるような瞬発力があるというわけではない。(勿論、それはそれで素晴らしいのだが。)
『フリクリ』は『エヴァ』の子供のような作品だろう。『エヴァ』は、その感情的同調性の直接的な強さと、ロボットアニメとしての造形力やメタモルフォーゼの表現の驚くほどの質の高さによって飛び抜けている。ロボットのメタモルフォーゼ、戦闘、破壊、爆発等の表現の精度を、あくまで快感原則にどこまでも忠実に従う方向へと高めて行くことの果てに、ふと、不気味なものに触れるところまでいってしまう。つまり、表現の瞬発的な強度という意味で飛び抜けた作品だろう。その一方で、物語的な主題の展開(追求)という意味では中途半端で破綻しているとも言える。そして、『フリクリ』は、『エヴァ』の優れた点をそのまま受け継ぎ、一種のセルフパロディとも言える形式によってそれをさらに凝縮させたかのようだ。物語的な主題はセルフパロディのような形によって縮小され、その一方、ロボットのメタモルフォーゼ、戦闘、破壊、爆発等の表現の精度の方こそが、より純粋化されて前面に出て来る。感情的な同調性は、断片化された物語素の圧縮的な過剰によって担われ、その、複数の断片的物語素と、表現のマテリアルとも言えるロボットの造形、メタモルフォーゼ、戦闘、破壊、爆発等の表現が、同一の画面のなかで圧縮的に混ぜ合わされ、画面は常に多方向へと向って行く複数の運動が共存する場となっている。特に驚くべきことは、言葉によって書かれたらたんに陳腐としか思えない比喩的表現が、アニメであることによって、具体的イメージと、動きとリズムとをもつことで、まったく別の独自の質を獲得している点であろう。(ハリウッド映画が生産するイメージに比べて日本のアニメが圧倒的に勝っているのは、メタモルフォーゼの表現の質の高さだと思う。)
『ウテナ』はひたすら冗長であり、徹底して冗長であることによって、他に例のない孤高の傑作となっている。ここまで、同一の主題をしつこく、徹底して展開し、追求した作品は他にないのではないだろうか。『エヴァ』とは真逆で、瞬発力ではなく、持続力によって抜きん出ている。毒をもって毒を制するように、物語をもって物語を制するような作品。『フリクリ』のような圧縮された多方向への動きはなく、むしろ単調な反復運動の繰り返しのなかで物語はあくまでも単線的に進行し、うねうねと蛇行する。半ば退屈しながらも、物語の毒なかにどっぷりと浸され(しかしそれは、物語のベタな消費を許さない緊張感を常にともない、しかし安易にメタレベルへと逃れる道は塞がれている)、人が物語には把捉され、捕われてしまう様々なバリエーションのなかを巡りゆき(だから、圧縮された映画版はまったく面白くない)、その執拗さにあきれ、半ばうんざりしながらもその地獄巡りに付き合い、よりそって進むことで、最後には思ってもみなかったような場所にまで連れてゆかれることになる。(姫宮アンシーはきわめて特異なキャラクターだ。ラカンの言う「女は存在しない」そのままのようなキャラクターだろう。そして、この物語は、ウテナの物語であるより、ネガティブにしか存在しないはずのアンシーの物語としてあるとろが凄い。)

08/01/11(金)
●『ムーたち』が面白かったので、『ゴールデンラッキー』と『えの素』をちょっとずつ読んでいる。(この人のマンガは、一気にダーッとは読めない。)榎本俊二という名前は前から知っていたし、『えの素』はちょこちょこ読んだりしたのだけど、これまではあまり面白いとは思えなかった。『ムーたち』を読んだことで、「この世界」への入り口が得られたように思う。
1月6日の日記にも書いたけど、この人の作品の特徴は、世界からノイズの多くをすっきりとカットすることで、日常的現実の次元から後退し(つまり日常的現実の世界を構成する因果律から解き放たれて)、記号や記述の次元での整合性によって作品が制御されている点だと思う。ここでノイズとは、世界に厚みや安定性をもたらしている意識されない感触のようなもので、それは一方で「記憶」からやってくる上澄みや澱のようなもので、もう一方では、知覚されても意識されないほどに微かな世界の振動のようなもののことだ。そのような「含み」がすっきりとカットされてしまっていることが、以前のほくにとってこの作家の作品への違和感というか、入り込めない感じの原因だったのだろう。この作家の作品においては、世界は大胆に記号化され、その域はきっちりと限定されその外はなく(例えば『ゴールデンラッキー』に比べれば、『えの素』はその扱われる音域が広くとられてはいるが、その厳密な限定性はかわらない)、その展開のルールは一定に保たれるように思われる。だから、まず、この作家のマンガを読む時のもっとも分かりやすい快感は、現実的な世界から切れ味鋭くスパッと切り離される快感であろう。(これはある意味、とても幼稚な快楽でもある。言葉を憶えたての子供が、しばしば「大きなアリと小さなゾウ」みたいな言葉遊びを好み、その記述の次元での規則性の快楽と、それが世界と乖離していることの滑稽さの快楽を楽しみ、そしてそれが「言語を操る」行為の能動性の快楽とつながっていることに、とても近いのではないだろうか。さらに、この作家の作品に頻繁に、あまりに安直に「死」があらわれるのは、死という未知の恐怖を「記述」の秩序に強引に従わせたいという強い願望と、その恐怖へチラッとだけ触れる快感によるのではないだろうか。)
日常的な現実の感覚からすれば、その世界は不条理であり逸脱に満ちているが、作品内部の規則は厳密であり、そこに破調や逸脱はあまりない。作品はあくまで、その作品の記述の規則のなかで展開される。この厳密な規則性は、揺らぎのない強力なリズムを生み、そのリズムによって生じるグルーヴ感が、この作家の作品の大きな魅力となる。この作家の作品では「あるコマ」に視線を長く留めることは難しい。読むことには、ある切迫感を強いられる感じがある。展開のはやさや飛躍のリズムだけでなく、絵柄や描線の次元でも、それは滑らかでありひっかかりが少ない。(しばしば登場する排泄物や吐瀉物も、臭いや粘性をあまり感じさせず、サラサラしているかのようだ。きわめて下ネタの多い『えの素』にさえエロの要素は希薄なのは、この、臭いと粘性の希薄さによると思われる。理知的で清潔な下ネタなのだ。)読者は、考えたり立ち止まったりすることなく、まずはこのグルーヴに「乗ってみる」ことからしかはじまらない。記述の次元での規則性は、ノイズがカットされていることでリズムの規則性を際立たせ、ひとつひとつのイメージの不条理性への違和感に立ち止まっている時間は、それほど長くはない。ひとつひとつのイメージ(と、それへの違和感)を楽しむというよりも、それらのイメージが次々と展開されるリズムを楽しむという傾向が強く感じられる。(しかしこのグルーヴ感は、かならずしも読む「速さ」によって生まれるものではない。ひとつひとつのイメージによる抵抗を、その都度きちんと受け取ることの連続によってしかグルーヴは生まれない。だから読む速度それ自体は速くは読めないし、少し読むだけで疲れる。)ひとつひとつのイメージへの違和感(イメージを味わう事)は、このリズムからやや遅れてやってくるかのようだ。
こう考えると、榎本俊二は吉田戦車の対極にいるかのように思われる。吉田戦車のキャラクターやイメージは、ノイズとノイズの相互干渉から形作られ、意識以前の記憶の澱や上澄みがその説得力を保証するもののように思われる。つまり、それは記述の次元では整合性をもたず、記憶と身体の次元から立ち上り、そこに起源と価値をもち、それが記号に付着したかのように感じられる。たどたどしい描線は、記号と臭いとを結びつけるのに役立ち、動物的キャラクターは、人間の「人間以前の記憶」と結びつく。作品の展開も、リズムを脱臼するような外したテンポで行われ、時間は漂いだし、線状の時間は解体されたかのようだ。吉田戦車における日常的現実からの乖離は、記号-記述の次元のリズミカルな暴走によるのではなく、過剰なほどに繊細なノイズの聴取と、記憶への深い沈降によってなされるように思う。(吉田戦車の世界は常に「懐かしい」が、榎本俊二の世界は懐かしさからの離陸-切断によってこそ成り立つ。)
吉田戦車のようには、記憶や世界との直接的な繋がりをもたない(というか、「切断」をこそ強調する)榎本俊二のイメージは、しかし、その展開のリズムとグルーヴによって、再び身体との繋がりを得るように思われる。日常的現実の次元から記号-記述の次元に移行することで純粋な振動そのものになったかのような作品のリズムが、そもそも外的現実とは切り離された身体そのものの律動としてある欲動の流れと、ふっと同調した希有の一瞬に、そのイメージ、その作品は、記憶-身体とは別のところにある律動-身体へと作用する、のではないだろうか。(例えばその時、排泄という行為は、排泄物というフェティッシュから離陸して、たんに排泄するという行為-感覚となる、とか。)

08/01/10(木)
●すこし前をお爺さんがゆっくり歩いている。腰が曲がって前屈みの姿勢で、両手は後ろにまわし、曲がった腰のあたりに置かれている。その手に、コンビニかスーパーの白いビニール袋をぶら下げている。ビニール袋は、お爺さんの尻あたりで振り子のように揺れている。ビニール袋の揺れは、お爺さんの動きによって生じているはずなのだが、お爺さんの動きの緩慢さに対して、袋はせかせかと忙しなく左右に振れている。その揺れには、遠くからずっと目がひきつけられていた。ぼくもゆっくり歩いているのだが、それでもだんだんと距離が詰まってきたのだ。ビニール袋は揺れている。この道はこのまままっすぐ行くと土手に突き当たる。おじいさんはふいに立ち止まる。止まると、曲がった腰がすっとのびる。手は腰から体の横へと移動し、袋は右手で持たれる。一息つくとまた歩きだす。歩きだすと腰が曲がる。手も元の腰の位置にもどる。そして袋が揺れる。
途中でお爺さんを追い抜いたか、あるいは、お爺さんは手前の角を曲がったのかも知れない。土手に着いた時にはお爺さんの姿はなかった。いつ、ビニール袋の揺れから目を(意識を)離したのか憶えていない。目の前には川と河原。天気のよいあたたかなお昼前の河原を、下流の方へと歩く。

08/01/09(水)
●昨日読んだ『脱獄計画』(アドルフォ・ビオイ=カサレス)と同じ、サルヴァシオン群島の刑務所が舞台となっているので、スティーブ・マックィーンの出ている『パピヨン』のDVDを借りてきて観たのだけど、この映画では「孤島」という空間がほとんど生かされていなくて、どんな場所なのかという「感じ」はあまり分からなかった。「島に送られると一生出られない」とされる、その「島」と、島に送られる手前にある収容所との関係がよくわからない。マックィーンが、一体いつから「島」にいるのかが、ただ映画を観ているだけでは分からなくて(おそらく「独房」からが「島」なのだろうけど)、つまり、映画として、この物語が「島」を舞台にしたものだということがほとんど問題にされていなくて(この監督はそもそも「空間」にほとんど関心がないように思われた)、辛うじてラストだけが(とってつけたように)「島」であることが強調されているだけだった。
●『脱獄計画』には、二人の叔父(ピエール、アントワーヌ)がいて、二人の甥(グザヴィエ、アンリ)がいる。この一族の間には、塩田の権利をめぐるいざこざがあり、二人の甥の間には、イレーヌという女性をめぐる対立がある。つまりこの小説の語りは、二つの鏡像的なライバル関係の磁場のなかにある。一族の長としての権力をもつ兄ピエールに対して、弟アントワーヌは、アンリの追放について意義を申し立て、その帰還を要求する。つまり、アントワーヌはアンリの側について兄に抵抗しているようにみえる。しかし実は、アンリは塩田の一件について、アントワーヌの弱みを握って、それを隠したままで任地に赴いており、だからアントワーヌとしては、アンリに帰ってきて欲しくないのではないかと疑うことが出来る。(「弱みを握っている」からこそ、アンリはピエールにではなく、アントワーヌに帰還を要求する手紙を出すのではないか。)そしてこの点において、(イレーヌとのことでアンリに帰ってきて欲しくない)グザヴィエと利害が一致する。つまり、一見、ピエール-グザヴィエ対アントワーヌ-アンリという風にみえる鏡像的ライバル関係はめくらましで、アントワーヌとグザヴィエが組むことで、アントワーヌにとっては、兄ピエールに対して自己の責任を隠蔽出来るし、グザヴィエにとっては、イレーヌとの結婚を実現出来る、という利益が生じる。つまり、ピエールとアントワーヌ、グザヴィエとアンリ、という対立関係は実は同等のものではなく、アントワーヌはピエールに依存しているのであり、グザヴィエはアンリに対して不利な状況にある、のではないか、と「推測」できる。
以上の点を考えれば、アントワーヌによって書かれた手記(この「小説」そのもの)は、アントワーヌとグザヴィエが二人で共謀してアンリを殺害し、その事実を隠蔽するためにこそ書かれた、と「推測し得る」。(その事実を「誰に」対して隠蔽するのかと言えば、兄のピエールに対してであろう。)勿論これは、「推測し得る」ということでしかなく、確証はない。しかし、このように疑えてしまうことによって、この小説のあらゆる記述の細部が疑わしく、油断のならない不穏さを帯びることとなり、その切迫感が細部を粒立たせている。
だとすれば、この『脱獄計画』の世界で最も上位に位置し、「語り」を制御する磁場の中心にいるのはピエールであるということになる。そして、この小説にはもう一人のピエールが存在する。物語の磁場の中心にいて、その「謎」を背負っているカステル総督もまた、ピエールという名前をもっている。

08/01/08(火)
●『脱獄計画』(アドルフォ・ビオイ=カサレス)。これは凄い。冒頭からいきなり、やたらと不穏であり、あらゆることが信用ならない。語り手も、登場人物も、時間の進行も、どれも「確からしさ」を与えてくれない。主人公の書いた手紙を、その宛先である叔父が、部分的に引用しつつリライトしたのが、小説の本文となっている。まず、この書き手である叔父が、主人公であり、事の顛末の報告者である甥のことを信用していない。ことあるごとに、甥の性格的欠陥が叔父により指摘されている。(悪く言ったあとに、わざとらしく「それほどでもない」と取り繕ったりするところが一層あやしい。)つまり、孤島で起きた検証のしようもない出来事の唯一の報告者の信頼性が、常に疑われなければならなくなる。それだけでなく、この書き手の叔父そのものもまた、どうも信用できない。この甥と叔父を含めた一族の間に、どうやらトラブルがあるらしく、この叔父による手記は、そのトラブルに関する自己の責任をなにかと隠蔽しようとしているフシがある。というかそもそも、この手記(小説の本文そのもの)が、はじめからこのトラブルにおける自己の責任を隠蔽する目的で書かれたのかもしれないという感じさえ漂う。だいたい、甥からの断片的な手紙だけが唯一の情報源であるはずなのにもかかわらず、この手記は、見て来たかのように詳細でありすぎるところがあやしい。そして、過度に詳細であるにもかかわらず、ちょっこちょっこと部分的な欠落があることもまた、あやしさを増す。(甥の手紙が直接引用される部分でさえ、その手紙は叔父の手元にしかないわけだから、本当にそれが手紙そのままの引用であるのかという検証は出来ない。)
そもそも、主人公が孤島に「島流し」になった原因が、この一族のトラブルに関することだった。そしてこの主人公には、もともと虚言癖があるかのような記述もある。この主人公は故郷に婚約者を置いてきており、そのためになるたけ問題を起こさずに任務先での使命を終え、出来るだけすみやかに帰還したいと願っている。だが、この婚約者の女性をめぐってはライバルが存在する。主人公の従兄弟であり、主人公に替わって任務地を引き継ぐことになっている男がいて、この男の手紙によれば、その婚約者の女性は、主人公とは別れて、この従兄弟と結婚することになっている。従兄弟は、主人公に自分の口からこの事実を告げるべきかどうか悩んでいる。しかし、この従兄弟の言い分も信用できない。
つまり、叔父にとって(トラブルの秘密を握っている)も、従兄弟にとって(恋敵である)も、主人公は邪魔な存在で、こいつが「消えて」くれれば、ことのつじつまを自分に都合よくどのようにでも合わせるこど出来るのだ。(例えば、ドレフュースと呼ばれる模範囚は、主人公の手紙によれば大変に真面目で信頼出来る男のはずだが、従兄弟の手紙によると、まったく無能で信頼できない人物であるかのように書かれている。どちらの記述が「適当」であるかについては、宙に浮いたままだ。)
このように、この小説は「語り」の次元で、様々な「物語外の思惑」が何重にも重なって信用出来ないことになっている。そして、この孤島で起こっている出来事もまた、非常に不透明で謎に満ちたものである。読者は、きわめて限定的で、断片化された、しかも、相当に偏向され加工されていることが予想される情報によってしか、この物語を知ることが出来ない。(そしてそのことが、物語の内容とも密接に関わっている。)この物語は、ある「謎」を巡るものなのだが、そもそもその「謎」を構成している世界の成り立ちが信用ならないので、読者は「謎」によって誘惑される物語に心地よくのせられることは出来ず、ただただ不穏な感触の細部を、見通しが効かない状態で、できるだけ詳細に読み込んでゆくしかない。
この小説は、物語の次元では、一応ちゃんと「謎」は解かれている。そのような意味で、これは超絶技巧の記述トリックであり、密室殺人でもあるミステリだともいえる。いわゆる、どこにも着地しないような難解な小説ではなく、ただ「筋」として読んでも楽しめるようにはなっている。しかし問題なのは、そのように一応整合性があるかに見える物語の、様々な部分に欠落や矛盾があり、その整合性を成り立たせる基盤(基底)そのものが「信用ならない」というところだ。つまり、読んでいる間じゅう持続する、不穏な感覚が凄いのだ。(このような「信用ならない」状態で読みすすめてゆくからこそ、マッドサイエンティストである総督の「実験」の内容に説得力が生まれるのだ。)
この小説は、出来事にいちいち律儀に日付がつけられている。しかし、この律儀さこそが、実はもっとも信用ならないものだ。この小説では、はじめの方で、近づきつつある戦争への不安が語られている。そして、途中で、主人公の従兄弟から書き手である叔父に宛てて出された手紙の日付が、1913年となっていることが書かれている。つまりこの戦争とは第一次大戦のことだろう。しかし、読み進むと、マッドサイエンティストである総督の口から、ナチスについての言葉が聞かれる。(この「小説」が実際に書かれたのは1945年である。)ここで、小説の時間は二つの対戦の間で宙づりになってしまう。
この小説でもっとも分からないのは、どう読んでも、小説の中頃で主人公が死んでしまうかのように書かれているとしか思えないのだが、にもかかわらず、そのすぐ後に、何事も無かったかの様に、主人公は、いつものように出掛けて行くというところだ。その後、主人公が死んだはずだということは、この小説ではまさに「なかったこと」にされてしまう。そんなことアリなのか、と思って、自分の「読み」の精度が不安になってしまう。最後まで読んだ後に、もう一度戻って、その場面の前後を読み返したのだが、どう読んでも死んでいる。いや、でも、どこか読み落としがあるような気もするし....。つまり、この、語りも、登場人物も、時間も、すべてが信用ならない小説で、最も信用ならないと感じるのが、何よりも「自分の頭」なのだった。本当に自分はこの小説をちゃんと読んだのか、と、細部の読みや記憶に多くの欠落があるのではないか、と、そういうことの不安こそが浮上してくるのだ。最も信用ならないものは、自分と世界との対応関係であり、また、外部からの感覚的入力をある秩序だった世界像へと構成する、自身の「統覚」そのものなのではないか、と、揺らいでくるのだ。そしてこの感覚こそが、この小説が「物語」の次元で問題にしていることでもあると思う。

08/01/07(月)
●お知らせ。今日発売の「新潮」二月号に、ぼくの書いた青木淳悟論「書かれたことと書かせたもの」が載っています(分量はページにして21ページ)。あと、ぼくの書いた青木論が載っているのは「新潮」なのですが、「群像」の二月号には青木淳悟による「S潮社にべったり」というエッセイが載っていて、笑えます。(青木淳悟はエッセイでも記述が変で面白いです。)このエッセイによると、青木氏は今、週五で「S潮社」に通って小説を執筆していて、この「G像」のためのエッセイも「S潮社」社内の一室でこっそり書きだしたところ、「S潮」編集部の担当者がやって来て「Aさん、K談社G像の締め切り今日だそうですね」とか言われて、(T・ヤスタカさんからの贈答品であるらしい)「高級チョコレート」とコーヒーを差し入れられた、とか。S潮社社内で書かれつつあるAさんの新作を楽しみにしています。ただ、念のために書いておきますが、ぼくは「S潮」編集部の人から「Aさんについて書いてくれ」と言われて書いたわけではなく、自分で「青木淳悟について書きたいんですけどどうでしょうか.....」と言って書きました。
●引用、メモ。フーコーのビンスワンガー『夢と実存』序論における、夢と想像力と(私の)死について。田崎英明「死、ことば、まなざし」(『無能な者たちの共同体』)より。
《フーコーはいう、夢は眠りを死の光のもとで目覚めさせる、と。夢は人間学の眠りからの目覚めなのではないだろうか。あるいは、「人間の死」とは、人間学の見る夢なのかもしれない。フーコーは夢を経験のひとつの形式として捉えることを力説する。だがそれは、経験する主体が喪われた経験である。たしかに、この時期のフーコーは「実存」という名で、この経験の主体を名指してはいる。しかし、実存は、その深いところで、すでに死んでいるのではないだろうか。まるで、自分の死にいまだ気づいていないかのように、経験され、眺められる世界。》
《私たちの知覚の対象は、それ自体として存在している。それは私たちの空想の産物という意味でのイマージュではない。たしかにそこに存在している。だが「存在している」とはどういうことか。それは、あたかも、万物が自らの存在を夢見ているかのようなのだ。「存在する」ということと「夢見る」ということが、ほとんど同義であるような、想像力論である。
夢見ること、それは、世界の自己構成の根源的な働きなのである。》
《夢において、すべては「私」であるという。つまり、夢において夢見る存在は孤独なのである。この孤独は、人間的実存が「世界的存在」であるということ、この世界へと人間が開かれていることを意味している。人間が世界へと開かれているという根源的な経験は、他者とこの世界を共有しているという共存在の経験へと導きはしない。そうではなくて、この世界とこの実存との一致、この世界そのものである実存の自由な投企が、孤独において開示されるのである。もちろん、この世界には、さまざまな事物が存在し、また、他者も存在する。しかし、他者と共有する覚醒時の世界よりも、夢見る世界の方が、あるいは、知覚の奥底でうごめいている想像力の世界の方が、より根源的なのである。つまり、私の死後の世界こそが私にとって、もっとも根源的であり、私の自由が十全に実現している。》
《自分がすでに死んでしまっていることに気づかないか、あるいは、そのことを忘れてしまっているかのようにして、自分自身を模倣する。存在の根本には、このような時間の間違い、錯時、つまり、アナクロニズムがあるのかもしれない。夢や、そして、そもそも想像力とは、死の先取りではない。そうではなくて、このようなアナクロニズムなのだ。なぜ、無ではなくて存在があるのか。それは、夢見ているからである。自分がすでに死んでしまっていることに気づかずに事物は夢見ている。夢の存在論は、したがって、アナクロニックな時間性によって特徴づけられる。
人間学は、夢を通じて事物の存在に触れてしまう。それは非人称の「経験」といってもいい。そこには、模倣する主体の死と引き換えに模倣が生じるのである。》

08/01/06(日)
●『ムーたち』(1)(2)(榎本俊二)。これは面白かった。この、とても複雑な組成をもつマンガについて、一読しただけで簡単には語る事はできないのだけど、この作品は、世界からノイズや破調を徹底して排除し、世界を記述によって外側から規定したいという強い欲望に貫かれているように思われた。その記述のあり様は、解説で斉藤環が書くように(しかしなぜこのようなコミックに解説がつく必要があるのかさっぱり分らないのだけど)、父と息子のペアである虚山親子(この作品において母親の存在はきわめて希薄で類型的だ)においては、真実ではなく記述装置の滑らかな作動こそが目指されるゲーム的な記述であり、孤高の求道者、規理野においては、正確な計測と計算にもとづく、真実を探求するかのような形式であるという違いはある。しかしどちらにしても、それは、世界から、不定形なもの、熱いもの、捉え難いもの、制御不能なもの、不確かなもの、恐ろしいもの、を、「記述すること」によって外側から形づけ、制御したい(排除したい)という強い傾きによって成り立っている、きわめて理知的な世界であろう。
このことは、3つめの「ニュートラリング」というエピソードに既にはっきりとあらわれている。このエピソードは、スクーターが故障して立ち往生してしまった母親を、父親が迎えにゆくという場面からはじまる。車で母親を迎えにゆく父親は、そこで猫を撥ねてしまう。この一連の場面で使われる擬音語は、プシュリ、プルリ、ブロリ、パラリ、カチリ、ピカリ、ガチャリ、パタリ、ポチリ、ブオリ....と、3音で最後に「り」で終わる音に、強引に整えられている。この安定したリズムと形式性が、猫を撥ねてしまうというショッキングな事態の生々しさを消失させている。そしてなにより、このエピソードでは、重たくて持ち上がらないスクーターを持ち上げるために「重い気持ち」を頭のなかで「ニュートラル」に設定しなおして、「重さ」の限界点を「頭のなかでずらせば」「いくらでも力がでてくる」ということになってしまう点に特徴がある。世界が「記述」の規則によって成り立っているからこそ、こんなことが可能になってしまう。このエピソードは後に、歯医者にいっても、「痛み」のニュートラルな点を設定し直すことで痛みが消えるというエピソードに受け継がれ、それはさらに発展して、痛みを「感じる」点を徐々にずらすことで、自分の体の外にもってゆくという荒技にまで発展する。
しかしこれだけでは、この世界はただルイス・キャロル的世界の延長にすぎないということになる。このマンガでもっとも面白いところは、世界を徹底して記述のもとに置くことで「外在化」させ、そこであらわれる世界から「熱」や「痛み」や「切迫性」を消し去り、その淡々とした表情(世界の自動化した進行)が魅力的であるのと同時に、その強引な記述のほころびがふっと垣間見せる、瞬間の寂寞感のようなものにもあると思われる。「ニュートラリング」でも、重さの設定をずらすことでスクーターを持ち上げることに成功した父親は、調子にのって事故にあった自動車までも持ち上げようとして、腕を「ボキリ」と折ってしまう。ここでも、物理的な限界は設定では動かせない、という別の理知的な記述によってその帰結は納得されるのだが、それでも、腕が「ボキリ」と折れる瞬間の衝撃は完全には覆い隠すことは出来なくて、この鈍い衝撃が「作品」を成り立たせている。
この父親が息子の無夫(ムーオ)の誕生日に買ってあげた本を捨てられるエピソード(「難解世代」)にも、このマンガの、熱や痛みを消失させることで「感情」を干上がらせ、理知的な記述が支配する世界りなかで、それでも干上がり切れない幽かな感情の残余のようなものの存在が胸をうつ。本を捨てる現場を目撃した父は、「誕生日のプレゼントをゴミ箱に捨てられる瞬間を生きているうちに見ることができるとは思わなかったよ」と息子に言う。これが決して「嫌み」ではなく、字義通りの意味しかもたないことは、この作品世界をここまで読んできた読者には明らかなことだ。「ボクはお父さんに貴重な体験をもたらしたの」と問う息子もまた、しらばっくれているわけではない。(「嫌味」のような、高度な対人関係の技法こそが、この作品で最も完全に排除されているものだろう。)そして父は「イエスかノーかでいうなら(ここでコマがかわる)イエスかな」とあくまで冷静に答える。感情が干上がった(というか、感情の表出形式がない)この作品世界では、このような婉曲的な形でしか感情は表されない。(表されないということはつまり、意識されないということだ。)難しくてさっぱりわからないから捨てたという息子に対し、今は難しくてもいつかは分るかもしれないと父は説得するのだが、結局息子は納得しない。つまり、父と息子の会話のゲームで息子が勝利する。(このゲームの展開が、この作品の面白さの「公式的」な側面だ。)ここまでならば、この『ムーたち』という作品世界内部の「規則」に厳密に従った展開だといえる。しかし、最後のほんの小さな3コマで、「お父さん やっぱり捨てるのやめるよ」と息子が言う夢を見て目覚めた父が、ゴミ箱の前で捨てられた本をみてたたずむ、という展開は、作品世界からの、ほんの僅かの慎ましい逸脱としてあり、その逸脱こそが、作品の(裏側の)魅力となっている。(両肘が関節と逆方向に折れてしまっても何の痛みも感じない得体の知れない父親が、ここで幽かなうずきのような痛みを感じている。)
そして、この作中でも最も表情の貧しい息子の無夫こそが、実は最も不安定な存在である。つまりこの作品は、表面上のクールで理知的な表情の裏に、あくまで世界の把捉不能な寄る辺なさに対する恐怖が貼り付いていて、その恐怖への抵抗(防衛)として、無表情と記述の過剰が選択されている。他人の存在が気になって落ち着けない、という無夫に、父親が、逆に「気になる」ことをノートに片っ端から書き出して、記述となることで無害化された「気になることたち」を使って遊戯すること(能動性を得ること)で、それを克服する技法を教えるエピソード(「過記帳」)などは、この作品そのものの創作の技法が明かされているかのようだ。
そして、作中もっとも魅力的な人物である規理野。彼は、あらゆることを記述し、そこに法則性(真理)を見出すことによって、世界の「外側」にたちたいと強く願い、それを日々実践している。虚山親子にとって、あくまで世界の恐怖や痛みから逃れるための技法としてあった記述は、規理野においては、完全な真理として把握されなければ気が済まない。虚山親子にとっては、いま、ここが外在化されればそれでOKなのだが、規理野にとっては、世界全体、時間全体が外在化されなければ(つまり「神」とならなければ)ダメなのだ。(だから規理野には、セカンド自分やサード自分は必要がない。)規理野は、虚山親子よりもより深く狂っているという意味で、より魅力的である。(しかし、手続きに多少問題があるとはいえ、これは正当に「科学者」の態度であろう。)勿論、彼のもくろみはことごとく失敗する。「赤いもの」の分布を計測していた規理野は、女性のスカートが風でめくられただけで、鼻血を出して自身も「赤いもの」の一部となり、世界の外へと脱出することに失敗する。公園の様子を毎日定点観測していた規理野の父は、そこに規則-真理をみつけ、その「外」に立つよりも先に、世界内部の規則に負けて、既に亡くなってしまっていた。(この作品のうつくしいところは、相容れない、しかし本来似た者同士である、規理野と虚山親子とに交流があるということだ。)

●留守にするので、三、四日、更新をお休みします。

08/01/01(火)
●昨日の日記を書き終わってから、iPodの中身を久々に大幅に入れ替えて、その勢いで、朝方までいろいろとCDを引っ張り出して聴いていたら、頭が興奮して全然眠れなくなったので、そのままずっと起きている。
ぼくは、音楽に詳しくないというだけでなく、自分の耳にまったく自信がない。自分のことを、根本的に「音楽がわからない奴」だと思っている。ぼくにとって、音楽ほどに、作品を受け取ることの寄る辺無さというか、作品が、あくまで自分の身体(感覚)によって受け取るしかないものであることの根本的な孤独を、その都度、強く感じさせられるものはない。同じ音を聴いていても、隣りにいる人と自分とでは、その「頭のなかで鳴っていること」は異なっていて、その人の頭のなかで鳴っているものを、そのまま自分が経験することは決してできないのだ、と、音楽を聴く度に強く感じるのだ。(「作品」というのはそもそも、ある媒介を通して形象化された、人の頭のなかの再現でもあるだろう。そしてそれは、それを受け取るそれぞれの人の感覚受容器を通してしか受け取られない。)自分の耳に自信がないということはつまり、自分の「頭のなかで鳴っているもの」が、おそらく隣りの人の「頭のなかで鳴っているもの」に比べて、かなり貧相なものでしかないだろうとしか思えない、ということだ。あるいは、今鳴っているこの音を、ぼくの耳-頭は決して充分にクリアーには捉えきれず(捉えたという手応えを感じることが出来ず)、常にどこか茫洋とした不確かさでしか捉えられない、という感じのことだ。(実際に、手で物に触れるように、音に触れられる人もいるのだろうと、想像してみることしか出来ない。音楽についての言葉に意味があるとすれば、この「想像」の密度と精度を増すための助けとなる時であって、決して人と共有する「正しい」とされる何かを外側から記述する時ではないと思う。「分る」か「分らない」かという決定的なことを、言葉は決して記述できないだろう。)これは、速く走ることが出来ないとか、手先が不器用で上手く組み立てられないとかいうことと同様の、ぼくがぼくの身体をもって生きている以上、ほとんど絶対的な条件としてあることだろう。こういうことは、「お勉強」によってはどうすることも出来ない何かだ。(お勉強ができる人は、これを「お勉強」によってどうにかしようとする、または、どうにか出来ると考えるのだろうけど、それは間違っているんじゃないかと思う。)これは、音楽を好きではない、とか、聴かない、とかいうこととは、また別の話だが。
そんな奴の言う事だからもとより当てにはならないのだが、今まで、いろいろ聴いてもどうもよく分らなかったというか、ピンとこなかったドビッシーが、高橋悠治の演奏で聴いて、もしかしたらドビッシーって「こういうこと」なのか、というのがはじめて一瞬だけ掴めたような気がする。(その演奏が決してオーソドックスなものではないということくらいは、ぼくにも分るのだが。)「分る」ということは、例えば自転車に乗れるようになるということで、その「理解」が正しいか正しくないかは、自転車に乗れているかいないかによって検証されるのだが、「作品」が「分る」ということは純粋に感覚的な次元の出来事なので、その妥当性を検証するのは困難なのだが。

07/12/31(月)
●『電脳コイル』(磯光雄)をDVDで。まず、既にレンタルしてあった、9話から11話までが収録されている「4」を観て、面白かったので、近所のツタヤまで出かけて行って「1」から「3」までを改めて借りて、もう一度1話から11話までを通して観直した。(ここまで書いたところで年があけた。)
11話までだとまだ半分もいってないのだろうけど、全体像というか方向性みたいなのが、おぼろげに感じられるようにはなってきた。というか、一ヶ月に一枚のペースで出る、3話分収録のDVDで観ていると、次を観る時には前のお話の記憶があやふやになっているのだけど、つづけて観ることで、いろいろと細かいところまで分るようになる。
『電脳コイル』は最近のアニメのなかではもう圧倒的に面白いのだけど、それは何か「新しいもの」というよりも、既にあるものの様々な要素を、これ以上ないというくらい絶妙に組み合わせていることからくるように思われる。前にも書いたと思うけど、ぼくにとってこのアニメの面白さは、何といっても空間のリアリティにこそある。メガネというアイテムによって可能になるのは、現実的な空間と電脳空間とが重なるということで、メガネをかけた子供たちは、電脳的な空間にいるのと同時に、現実的な空間のなかにもいる。(現実的な身体をもつと同時に、電脳的な身体をも持ち、現実の身体を動かすことがそのまま、電脳的な身体を動かすことになる。)そしてその重なりこそが、逆にその二つのズレをより顕在化し、分離を促進し、そのズレこそが、その「向こう側にある何か」を招き寄せる。子供たちにとって、空間がそのようなものとしてあるのは、何も電脳化されているからではない。子供たちにとって、まず現実の空間こそが、ここで描かれているように見えているのだし、感じられている。そのような空間感覚それ自体は、新しいものではなく、民俗学的(怪談的)とも言えるような普遍性をもつものだろう。しかしそれが、電脳メガネによって、より精密な「表現形」を得る。(例えば、サッチーが入り込むことの出来ない「結界」の存在が、お役所の縦割り行政を理由にして説明される時、民俗学的(あるいは人類学的)空間感覚と、現実上の空間とが、あざやかに結びつく。)電脳上の古い空間と新しい空間との間にある裂け目は、ただ電脳上の裂け目なのではなく、そこに現実的な裂け目が重なる。それによってリアルな「向こう側」を出現させることが可能になる。だからこそ、神社や古い路地や廃工場などが、たんにノスタルジックな風景としてだけではなく、生々しいテクスチャーとして浮かび上がってくる。(サッチーやキューちゃんに追いかけられたり、電脳ペットに話しかけている姿を、メガネをかけていない大人からみたらどう見えるのだろう、とか、想像するのも面白い。それはもう端的に「病気の人」とかわらないと思う。こちらの側からみた、『電脳コイル』ダークサイドみたいなお話も可能だろう。)
お話としては、過去が醸し出す「謎」の匂いに頼り過ぎるきらいがあって、そこはどうかとは思う。転校してきたヤサコからみれば、大黒市の小学校でのフミエやハラケンの過去は謎であり、逆に、フミエやハラケンからすれば、ヤサコの過去は謎である(ヤサコ自身にとっても、自分の曖昧な記憶が謎となる)。そしてイサコの過去は、その双方にとって謎としてある。おそらく、この物語は、この三つのバラバラな過去=謎の間の関連性が徐々に明らかになってゆくという方向で進むのだろうと思われる。ここでその謎を強く匂わせ過ぎ、謎によって観客の興味を引っ張ってゆくようになり過ぎると、とたんに面白くなくなる。こういうお話が、童話として描かれると、どうしてもそういう感じになってしまいがちだろう。しかしこれはアニメであって、謎の吸引力と拮抗するかそれ以上の、ドタバタした動きがあり、細部の過剰があり、イメージの連鎖の面白さがある。これはもう、日本のアニメーションの技術的な蓄積と表現力の幅が総動員され、縦横無尽に利用されている。一方で、ヤサコやハラケンといった内省的なキャラクターが世界設定の複雑さや深さを表現しつつも、もう一方でキョウコやフミコやダイチといった、常に多方向へと落ち着きなく動き回るキャラクターが、作中に常に動きを導入し、ひっかきまわしている。(『攻殻機動隊』と『未来少年コナン』と『回路』とが融合したかのようだ。)
『電脳コイル』がぼくにとって馴染みやすいのは、この作品が子供の頃に愛好した天沢退二郎の童話やNHKの少年ドラマシリーズなどの記憶と同種の匂いを濃厚にもっているからでもある。空間が電脳化した世界では、ハッカーとは魔法使いのことだ。天沢退二郎の童話では三種類の魔法があった。『電脳コイル』でも、メガ婆の使う古流(「コリュウ」というのは「古流」だと思われる)の魔法と、イサコの使う暗号屋の魔法があり、今後、もう一つ別の魔法が出て来るのか、それとも、もう一つの魔法とは、ハラケンの伯母さんたちの使う、役所の(つまり公的な承認に保護された)魔法ということなのかもしれない。魔法とは技術の体系であり、そこに真実(謎)は含まれない。『電脳コイル』の世界で真実=謎とはバグ(イリーガルやキラバグ、あるいはミチコさん)のことであり、つまりは空間の裂け目からあらわれる得体のしれないリアルな何かである。この作品は、いわゆる子供向けの童話としての縛りをもつので、おそらく最終的には、このバグが何かしらのかたちで「記憶」と結びつくことによって「謎」が明かされ、それなりにきれない終幕を迎えるのだろうと予測される。しかし、この作品が、童話としてきれいに完結するだけでは納まらないような危うく過剰な感覚をもつとすれば、このイリーガルという存在が、どこか黒沢清の『回路』における(「タスケテ」とうめく遍在する無名の)幽霊たちとつながる感触をもっている点だ。(7話などは、もろに『回路』だし。イリーガルとはまさに、『回路』における消されてしまった存在の黒い染みそのものであるかのようだ。)『電脳コイル』は、子供向けのファンタジー的なアニメとしては、あまりに不穏な細部をも含んでいる。
しかし同時に、この作品は子供たち一人一人の感情や関係を、とても丁寧に拾い上げ、描いてもいる。不穏なものを含みつつも、通俗に流れることも、アートにはしることもない(『回路』のように世界を滅亡させたりはしない)腰の強い粘りと、仕事の丁寧さこそが『電脳コイル』の最大の魅力かもしれない。(全体のお話の流れからすると傍系なんだろうけど、11話の、自分が生息出来る古い空間と共に成長する魚型のイリーガルのイメージなど、すごく面白い。サッチーの造形とか、素晴らしい。)

07/12/30(日)
●朝、テレビをつけっぱなしにしていたら、今年注目された企業の社長たちがあつまって、業績自慢や自身の方針や教訓といったお説教をたれるというような嫌らしい番組がはじまって、そこである投資会社の社長が、群衆心理について話していた。例えば、サブプライムローンの問題について、ほとんどの人が本当はそんなこととは関係がないのに、それが「問題だ」とされると、みんな不安になって自分の持っている株を売り始めて、その結果、株が安くなり、そのおかげで私たちが安く多量の株を買うことが出来るようになる、と。つまり、誰か影響力のある人が「こうだ」と言うと(あるいは、そういう「空気」が蔓延すると)、群集心理でみんなそれに一斉に流されるので、それに流されない一部の優秀な者が儲けることが出来る、と言っているわけだ。それに対して他の社長が、そんな秘密をここでバラしたら、みんながマネしてあなたが儲からなくなるんじゃないか、と言うとその社長は、いや、群集心理は何千年たっても決してかわりません、と自信たっぷりに答えていた。つまり、大多数の人は、常に、ある「流れ」に無自覚に乗らされてしまうようなバカでありつづける、と言っているわけだ。これは、自分のことを優秀だと思って疑わない高慢な人の(つまり、自分を「メタ」のレベルに置けると思っている人の)、人間を根本的に見下してバカにしたきわめて嫌らしい発言ではあるけど、現状をみると、それ(「群集心理は何千年たっても決してかわりません」)が正しいと認めざるを得ないようにも思えてしまう。おそらくそれは、ほとんど「動物的」な次元で設定された条件なのかもしれない。(でもこの社長も、自分にもその動物的条件が否応無くセットされてしまっていて、そこから完全には自由になれないことには無自覚なんだろうと思う。だからこそ、あんなに自信満々でエラそうにしていられるのだろう。)朝からすごい嫌な気分になった。

07/12/29(土)
●妙にあたたかい日。散歩していても、汗がじっとりと染み出てきて気持ちが悪い。
●『サイドカーに犬』(根岸吉太郎)をDVDで。この映画が割とよいという話は聞いていたけど、ぼくはどうしても竹内結子が苦手なので劇場公開の時は敬遠していた。でも、観てみたら、竹内結子の映画ではなくて、あくまで小学生の女の子(松本花奈)の方が中心にいる映画なので、それほど抵抗はなかった。こういう女の子をみつけてきて、ここまできちんと演技させ、それを丁寧に撮っているというだけで、とても貴重な映画だと思う。それに比べれば、大人のキャラクターが、悪くはなくても、いまひとつありきたりなように思えた。(ほとんと、松本花奈っていう女の子がすべて、みたいな映画だと思う。とはいえ、相米慎二みたいには、この女の子を前面に出してはいないのだが、そのことで返って、この女の子の内省的な感じが拾えている。)最後の方で、それまでずっと抑制的だった女の子が、父親の古田新太のお腹に頭突きするところは泣けた。ああ、この(頭突き=感情を弾力をもって優しく吸収する分厚い肉をもった)丸い「お腹」があるから古田新太なのか、と納得した。あと、最初と最後に出て来るミムラが思いのほかよかった。勘所を掴めず、へんなところに力がはいっちゃってるようにみえてどうしても好きになれない竹内結子も、この役を彼女がやることで、小学生の女の子からみたら、自由で豪快な感じにみえるかもしれないこの父の愛人が、実はけっこういっぱいいっぱいな、余裕のない感じで感じで生きている人なのだ、という含みが出て、かえってよかったのかもしれない。(例えば、竹内結子が子供とキャッチボールするシーンがあるのだけど、このシーンで竹内結子は、この人は絶対いままでキャッチボールなんてやったことがないに決まっていると思えるような投げ方、受け方をする。カッコイイ自転車に乗って颯爽とあらわれるこのキャラクターとしては、キャッチボールくらい普通に出来て欲しいとも思ったのだが、この、出来ないキャッチボールを実は無理してやっているのだ、という感じが、かえってキャラクターの幅となっているのかも知れないと、思い直した。)
今の下らない日本映画バブルのなかでも、こういう地味な企画がちゃんと通って、ベテランの監督が力を発揮する機会がもっと増えればなあと思う。(この映画だって、『三丁目の夕日』みたいのが流行って、その延長の昭和ノスタルジーみたいな文脈で成立した企画なのだと思うけど。最近のツタヤで、古い日本映画がやたらと充実しているのも、昭和ノスタルジーみたいなものが流行っているおかげだろうし。)

07/12/28(金)
●『メリー・ポピンズ』をDVDで。ロバート・スティーブンスの映画というより、ディズニー・プロダクションの映画。なんというのか、人工甘味料と人工着色料がたっぷりのお菓子の家に閉じ込められた子供たちのみる悪夢のようなイメージが圧倒的。この悪夢から抜け出せないと、それはおそらくリンチの映画のような世界に育ってゆくのではないだろうか(ハトの餌を売る老婆のイメージなど、いかにもリンチ的ではないだろうか、あと、子供たちの「顔」とか)。本当は、『メリー・ポピンズ』との関連ではリンチではなく、ティム・バートンとかの名前が出て来るべきなのだろうけど、例えば『チャーリーとチョコレート工場』とかは、『メリー・ポピンズ』を観てしまうとあまりにマトモ過ぎるように思えてしまう(子供たちの「顔」の選び方からしてイマイチだと思う)。あと、例えば、シュヴァンクマイエルがいかにグロテスクなイメージをつみ重ねようとも、そこには、クラフト的な手作りの感触があり、あるいは日常的ディテールとの繋がりの感触があり、それが人を安心させるところがあるのだが、この世界にはそれがない。(それが悪いと言っているのではなく、そこが違うと言っているだけ。)
このイメージのとんでもなさは、技術と気合いとか半端ではない熱量で注ぎ込まれていることも勿論なのだが、やはり「お金」の力が大きいように思う。何にどの程度使うのが適当かというような、お金に関するバランス感覚が失効してしまうくらいの膨大なお金が前提とされてはじめて、このような、濃淡もなく、根本的な方向感覚が失調したようなイメージの連鎖の世界があらわれるのではないだろうか。豊かさの飽和の果てにしか出てこないようなイメージ。気が狂ってコントロールを失った過剰さが、「子供向け」の映画の「型」のなかに無理矢理押し込められることで生じる歪み。(この映画がつくられた60年代前半のハリウッドは、テレビに対抗するためにやたらと大規模な大作を連発して、自らのシムテムの崩壊の危機をまねいていた。)
単純に楽しいことは確かなのだが、それを楽しんでしまうことの裏に、常にどこかしらやましさや後ろ暗さが貼り付いてしまうような感じ。いっさいの影が排除されていることによって、返ってその裏側の影が強く意識されてしまうような感触がある。(ブラックなネタみたいなのもチラチラ見え隠れするのだが、実際に表に出て来るそれらのものは切れ味も鋭くなくて、どうでもよいものだ。)
●笑い過ぎて空中浮遊してしまうおっさんのシーンがすごく好きだ。ぼくが観た事のある、映画の空中浮遊のシーンでもっとも素晴らしい。ぼく自身も普段しょっちゅう、あんな感じで宙に浮いているような気がする。(ただ、義足のジョークのどこがそんなに面白いのかはよく分からないけど。)あと、子供たちが煙突の下から「スパッ」と吸い込まれて、屋根の上に「パッ」と出て来るシーンの、「スパッ、パッ」という呼吸がとてもいい。この二つのシーンは、裏側の暗さや歪みとは関係なく、ただ幸福だ。

07/12/27(木)
●去年も同じようなことを書いた憶えがあるのだが、「M-1」というのは、つくづく良くないなあと思う。普段、お笑いについて別に大して興味がない人でも、ついついM-1については何か言いたくなって、言ってしまう。別に、人は何でも好き勝手に発言してよいのだし、誰が何を言ってもいっこうにかまわないのだが、そこでは言っているのではなく、たんに言わされているのだということが自覚されない。(何かを「言わされる」ということは、何かを言いたいのに「言えない」のと同じくらいの抑圧だと思う。)
コンテストとかオーデションそのもの(あるいはメイキングとか)をショーとしてみせて、プロモーションとするという手法は90年代くらいからテレビではすごく洗練されてきて、それはそれで「売り方」としてはアリだと思うのだが(というか、そもそもコンテストというのはプロモーションの手法の一つなのだが)、それがあまりに洗練され過ぎると、観客はその手法によって無理矢理盛り上がらされているのか、その内容に面白いところがあるから盛り上がっているのかが、分らなくなる。観客は無理矢理、審査員(批評家)であるかのような位置へとつかされるか、あるいは、無理矢理にコンテストを受ける芸人の側に感情移入させられる。あるいは、同時に両方に。それはつまり、M-1という権威の一部を自身が担っているかのような前提を知らず知らず受け入れさせられていることになる。でも、人が何かを「面白い」と感じるのは、もっとあやふやな場所でであって、決してそのような場所においてではないと思う。そんな評価の枠組みが最初にある時点で、既に「面白くない」のだ。(「そんなの関係ねえ」に、新鮮な驚きを感じることと、それを「今年の世相を反映するなにごとか」として位置づけることとは、まったく別のことだ。付け加えれば、「位置づける」ことと「分析すること」とも、別のことだ。分析は往々にして位置づけを不能にする。)
コンテストに強いというのは、ひとつの立派な適応能力であり、それ自体否定されるべきものではないが(だからこれは、勝ち残った芸人がダメだということではまったくない、「芸人」は、どんなやり方にしろ、自分が仕事をしつづけることが出来る状況をつくればよいのだ)、その場があまりに多くのものを切り捨ることで成り立っていることを、観る人がついつい忘れてしまうことが問題なのだと思う。(それを「忘れさせる力がある」からこそ、プロモーションとしての効果が大きいのだろうけど。)
例えば、人はついつい、今年のベストテンだとかを考えてしまう。あるいは、美術の「現在」、小説の「現在」、映画の「現在」などという、ありもしない抽象的枠組みを措定して、そこから遡行して何かを捉えようとしてしまったりする。(例えば、六本木クロッシングのような展覧会を、肯定するにせよ、否定するにせよ、それを美術の「現在」の何らかの反映としてみようとしたりする。それは、よかったり悪かったりする、いくつもある展覧会のうちの「一つ」に過ぎないのに。付け加えれば、ぼくはそれを観てません。)それはM-1と同様の「枠組み」(既に確固として「ある」とされている、本当はきわめて脆弱な枠組み)というものの偽の強さによる罠なのだと思う。人は、枠組みを与えられると、安心して「語り」はじめる、というか、「語らされてしまう」。でも、そんなところを掘っても何も出てこないと思う。それはあくまでプロモーションとして、あるいは、社交的な空間においてのみ、一定の意味をもつ。(社交-政治的空間が、具体的に多くのものを動かすことは、勿論、無視出来ないが。)人は、現代について語ることで、人と「現代」を共有していることを確認して安心したり(自分の「現代」のズレを修正しようとしたり)、あるいは、他人の言う現代よりも、自分の現代の方がより「現代」であることを主張して、自分の優位を示そうとする。現代に対するアンチを掲げたとしても、結局は同じ土俵の上にいることになる。(権力というのはつまり、本来ことなるリズムであるはずものののシンクロを強いること、つまり、何らかの枠組みを強引に共有させようとするということなのだと思う。)それは、何かをつくること、何かを考えること、あるいは、人の言うことをちゃんと聞こうと(フロイトが患者の言う事を聞こうとしたように)すること、とは、ほとんど関係がないことだと思う。それは、何かをつくろうとし、考え、聞き取ろうとする時に必然的につきまとう寄る辺なさを、みえなくするために作動する。(我々を規定してしまっている「現代」というものが本当にあるとしたら、それとはまったく別の位相にあるはずだ。我々は誰でも常に現在に触れているのだが、現在の一端に触れているのであって、誰のものであるにせよ、その現在は決して何かを代表するものではないはずなのだ。)

07/12/26(水)
●引用、メモ。《主体は対象の一次元である》こと、について。デュシャンの二つの作品(「大ガラス」と「1.落下する水、2.照明用ガス、が、与えられたとせよ」)と、アクタイオーンの神話(ディアーナの水浴)との関係について。オクタビオ・パス「★水はつねに★複数で書く」より。(《》内が引用、()内はそうではない。)
《われわれの見るものは、われわれの欲望のイメジだ。「絵をつくるのはそれを見るひとびとだ」。しかしオブジェもまたわれわれを見る。もっと正確には、われわれの眼差しはオブジェのなかに包括される。わたしが絵を見るということが絵をつくるのは、わたしがその絵の一部になにることを受け入れるという条件においてのみである。》
(例えば、「....が、与えられたとせよ」を観る時、そこで描かれた股を開く女性のイメージは、それを観る者が、扉の穴から中を覗くという行為によって、はじめて露になる。「覗く」という行為がイメージを生む。しかしその時、観者は、「見る主体」ではなく、強制的に作品のメカニズムの一部にされ、「覗き屋」の役割を演じさせられている。女性のイメージは「覗き屋」を必要とする。)
《(デャシャンの作品における)裸体を見つめる眼差しと、この眼差しのなかにそれ自身を見つめる裸体との弁証法は、いやおうなしに古代異教の大いなる神話のひとつを呼び起こす。ディアーナの水浴とアクタイオーンの失墜である。》
《アクタイオーンの陵辱は過失であり、犯罪ではなかった、とオウィディウスはわざわざ語っている。彼が女神の水浴を目撃するにいたったのは、欲望によるのではなく、運命によるのであった。ディアーナも共犯者ではない。アクタイオーンの姿を見たときの彼女の驚きと怒りは純粋だった。しかしピエール・クロソフスキーが卓抜たる論文のなかで示唆するように、女神は自分自身を見たいと欲求しており、これは誰かほかの者に見られることを暗示する欲望である。それゆえに、「ディアーナはアクタイオーンの想像の対象となる」。この作用は(「大ガラス」の)「花嫁」のそれと一致する。彼女は(「大ガラス」の一部である)「眼科医の証人たち」という手段をとおして自分自身に自分自身の裸体のイメジを送り、同じことをディアーナはアクタイオーンを通して行う。眼差しは汚す。そして処女の女神は汚されることを欲する、とクロソフスキーは指摘する。》
(「....が、与えられたとせよ」の扉の奥で股をひらく女性のイメージは、誰のものでもない誰かの視線に向けて股を開いている。しかしその扉によって閉ざされたイメージは、ただイメージ自身だけでは自らを支えられず、未だ「見られ得る」という潜在性に留まる。そのイメージは具体的な誰かに「覗かれる」ことによって、イメージとして生まれる。つまり、それを覗く者は、そのイメージを顕在化させるために、イメージの生成のために奉仕させられている。「覗く」という労働を強いられる。それは、両性具有でもあり、複数の固定されない姿を持つ狩りの女神ディアーナにとって、たまたま誰かに見られてしまうことによってしか、自身のイメージを確定できないことと対応する。ディアーナは見せようとしたのではないし、アクタイオーンは見ようとしたのではない。しかし、アクタイオーンが「見てしまった」ことによって、そこに偶発的な一つの回路が生じ、アクタイオーンは(ディアーナが欲している)イメージのために奉仕する者の位置へ自動的に位置づけられ、ディアーナの回路の一部へと包括される。)
《アクタイオーン神話とデュシャンのふたつの作品の類似は、すでに指摘した。凝視する者が凝視され、狩人が狩られ、処女は自分を見る男の視線のなかに自分を見る。デュシャンのいう「往復運動」は、彼のふたつの作品のみならず、その神話の内部構造にまさしく照応する。アクタイオーンはディアーナに依存する。彼は彼女自身を見たいという彼女の欲望の道具である。同じことは「眼科医の証人たち」の場合にも起こる。。それはまったくの往復運動である。「花嫁」は幽霊、不可視の実在の投射である、とデュシャンは何度か語っている。「花嫁」は「瞬間的な静止状態」「寓話的外観」である。クロソフスキーは、ディアーナの本質的肉体もまた不可視であることを指摘する。アクタイオーンの見るものは、外観、一瞬の肉体化なのだ。ディアーナと「花嫁」のなかに、アクタイオーンと「眼科医の証人たち」が包括される。ディアーナと「花嫁」の現れは、誰かが彼女を見ていることを必要とする。主体は対象の一次元である。その反射の次元、その眼差しである。》
(「彼らは彼女を見る彼ら自身を見ながら、「花嫁」に彼女のイメジを送り返す」。「....が、与えられたとせよ」で裸体のイメージを覗く者は、ただその裸体を見ているだけではなく、それを覗いている自身を意識し、自身を見てもいる。まず木の扉を見、それに近寄って穴から中を覗く者は、まさに数歩前の自身の視線によって、覗いている自分が見られていることを感じるだろう。このような分離と、アクタイオーンを鹿へと変身させ、それによって自身を自分の犬たちによってかみ殺させるものとは、どのような関係があるのだろうか。)
●ここまで書いてふと疑問が湧いた。ここでオクタビオ・パスは「往復運動」と書きながら、独身者と花嫁の関係を、花嫁が優位のものとしてみている。花嫁こそが、「不在の実在」を反映するもの(反映ではあっても、より「真実」に近いところにある反映)で、それを見る独身者たちの眼差しは、その反映を生むための「反映の反映」という位置に置かれる。独身者たちは、花嫁のメカニズムに包括される。しかしここで終わっては、たんに(見る者が主体で、見られる者が客体だという)主客を逆転させただけで、「往復運動」にはならないのではないか。
「大ガラス」において、花嫁は、独身者たちの視線によって裸にされることを必要とし、独身者たちは、裸にされる花嫁のイメージを必要とし、互いに相手(の視線-幽霊)を必要としながらも、この両者は決定的な地平線(窓枠)によって分けられ、互いに孤独で、触れ合うことは出来ない(しかしこのガラスには銃弾が撃ち込まれ、ヒビもはいっているのだが)。だから、どちらの世界も他方を包括することのできない分離して並立した世界であり、かつ、表裏一体となって分ち難く結びついている、というのが、デュシャンにとってのリアリティなのではないだろうか。ここにあるのは、解決されない(終わることのない)互いに反映し合う構造であり、一方から他方へ、他方から一方へという往復運動があるのみで、そこには花嫁の側の優位という着地点はないのではないか。(ガラスの支持体はあやうく、この世界全体は壊れてしまうかもしれないという感触はあるのだが。)しかし重力はあり、上下はあるかのようだ。これはデュシャンの世界が、完全には観念的なものではないことを示すと思う。

07/12/25(火)
●『悦楽共犯者』(シュヴァンクマイエル)をビデオで。傑作とかいうものではないけど、面白かった。笑えるし。「共犯者」というタイトルとは異なり、ここに出て来る人物は皆、自身の快楽のための装置を、一人でこっそりと制作し、こっそりと一人でそれを使用する。(唯一、郵便配達の女性のみが、自らの快楽を目指すのではなく、一人一人の孤独な快楽を細い線で結ぼうとするのだが。)その快楽の装置自体は、わりとありふれていてなんということもないのだが(だから傑作とは言えないのだが)、装置をつくる具体的な過程を丁寧に見せているところが、一体どんなものが出来るのかと期待させて面白い。一番笑えたのは、奥さんをベッドに一人残して、納屋のようなところにこもって熱心に作業するおっさんで、このおっさんは登場人物中最も熱心に何かをつくっていて、一体どんなに凄い装置をつくっているのかと思えば、出来た物は、あんなに熱心につくってこれかよ!、と拍子抜けするような情けない代物で、しかしそれが、でもまあ結局そういうことだよなあと、笑えるのだった。(まあ、『アリス』のような作品を徹底して作り込んでつくっている自分自身を外側からシニカルに捉え直したような作品といえば、それまでなのだけど。ただ、この作品が「笑える」のは、耽美にはしらず、かといって、ただシニカルなだけでもなく、その微妙な感じが維持されているからなのだと思う。あと、「つくる」過程の描写がリアルで、つくるってこういうことなんだよなあ、という説得力がある。)
ただ、シュヴァンクマイエルの長編はどれもそうなのだけど(『アリス』はそうでもないけど)、導入部分がすごくつまらない。『悦楽共犯者』も、最初のつまらなさがもう少しつづいていたら、ビデオを止めて、観るのをやめてしまっただろう。最初のネタいらないだろうと思う。『オテサーネク』は、最初の三十分くらい観て面白くないのでやめてしまったのだが、もう少し我慢して観てれば面白くなったのかもしれない。
●夜中にテレビをつけたら、清水ミチコの芸歴二十周年番組みたいなのをやっていて、だらだら観ていた。ぼくは、おそらくこの人のテレビデビューの「冗談画報」という番組をリアルタイムで観ていて、面白いと思って途中からビデオに録画して、そのビデオを何人かの友人にも見ろと言って貸したおぼえもある。(「冗談画報」は新人発掘の深夜番組なのだが、割とそれからすぐに評判になって、あまり時間を置かずに「徹子の部屋」とかに出ていたという記憶がある。とはいえ、ぼくは割とそれっきりで、その後特にファンになったわけではないのだけど。)その時に、確か山口百恵の「ジプシー」という曲にのせて(ものマネで)山手線の駅名を順番にすべて歌うという、特に面白くもないネタがあったのだが、ぼくは何故かそれを観ていて山手線の駅名をその時に全部憶えてしまった。(その時はまだ実家にいたので山手線に乗ることなどほとんどなかった。)だから今でも、例えば渋谷から駒込まで行くのにどれくらいの数の駅を通過するのかとか考える時、頭のなかでいちいちその曲のメロディにのせて、渋谷原宿代々木新宿新大久保高田馬場....、と出て来るのだった。メロディがすごく鬱陶しいのだけど。

07/12/24(月)
●『欲望のあいまいな対象』(ブニュエル)をビデオで。物語としては、いかにもオヤジがよろこびそうなエロ話のネタと大差なくて、おっさんが女の子といい感じになる→もうすこしでなんとかなりそうだ→しかしその直前で思ってもみない抵抗に出会う(猥談ではここが笑うところ)...→二人の仲は決裂(だがおっさんは諦めきれない)→しばらくすると偶然出会ってまたいい感じに...というのが何度も繰り返され、繰り返されるごとに話が大袈裟にエスカレートし、かつ、おっさんのイライラも募ってくる。この映画では、いいようにもてあそばれるおっさんの側にも、誘惑してははぐらかす女性の側にも重点はなくて、単調な誘惑とはぐらかしのプロセスの繰り返しが示される。いや、視点はあきらかにおっさんの側にあって、だからこそその欲望の対象である女性のイメージが確定できなくて揺れ動く(二人一役)のだけど、しかしここで語られる物語がそもそも、(とりあえずは)全てを清算した後のおっさん自身の口によって、過去の既に済んだ出来事として(まるで他人事のように冷静に)語られるので、迫真性は後退し、淡々とした図式的反復が強調される。(この物語はパリへと帰る電車のなかで語られ、この電車の規則的な進行が、物語の単調な展開と重なる。)おっさんのイライラは、みぞおちのあたりのわだかまりのようなものに留まり、それはおっさんを狂わせることはあるかもしれないが、世界の秩序、あるいは映画の進行の秩序を揺るがすには決して至らないだろうという範囲内にある。(水をかけようが、かけられようが、電車は一定の速度ではしる。)
たんなるオヤジの猥談のような話が、下品にも退屈にもならずに、単調な反復のその単調さに安心しつつも、その都度の新鮮さを生みつづけるは、やはりこの映画でも、ブニュエルの関心が、反復されるイメージそのものであるよりも、反復と展開のメカニズムにあり、そしてその底には、時間の客観性への揺るぎない信仰のようなものがあるからだと感じられた。(ブニュエルの映画からは、どこか神学的な禁欲性が感じられ、例えばヒッチコックのような「淫ら」さはないし、パゾリーニとかフェリーニとかにある「雑」への指向もあまり感じられない。)
しかし、この映画で目立つのはそのようなことよりも、世界の法則でもあり、カラクリの仕掛けでもあるような、淡々とした進行の外側にあるものが、これ以前の映画に比べてより大きくあらわれている点だろう。爆発ではじまり爆発でおわるという印象のこの映画では、世界のカラクリや、時間の進行の客観性そのものを破壊しかねないものが、テロリストの暴力として、男と女の欲望のお話とはまったく無関係に作品に粗暴に介入してくる。(以前の映画でも、自律したカラクリをその外側から脅かすものの気配は、常にちらついてはいるのだが。)電車を降りてからもなお、延々と(永遠に)つづくかのような男と女の欲望のカラクリ仕掛けは、暴力的な爆弾の炸裂によって、その根底からあっさりと破壊されてしまう。この、テロリストたちの挿話は、おっさんと若い女との欲望のカラクリのお話とはまったく絡んでなくて、作品としての内的な必然性は乏しく、きわめて唐突で恣意的であるようにもみえる。(たんに時代の空気の反映でしかないようにもみえる。)しかしおそらくそうではない。ブニュエルの禁欲性はもともと、この外的な暴力に対する防衛としてこそ、要請されていたものなのではないだろうか。六十年代後半につくられた完成度の高い作品とは違って、この遺作となった作品では、もはや(現実そのものであり、死そのものでもあるような)唐突な爆弾の炸裂に拮抗できるほどの、強く自律したカラクリをつくり得なくなっている、ということだろうか。しかし、そのことによって、この映画には異様なリアルさが刻まれているようにも思える。

07/12/23(日)
●『昼顔』(ブニュエル)をDVDで。この映画ってつまり、カトリーヌ・ドヌーヴに、あんなことやこんなこともさせてみたい、という映画なのだけど、それがここでは不思議なくらいエロくない。この映画には、見せると思わせてはぐらかしたり、もったいぶってじらしてみせたり、あるいは逆に、あるイメージを濃厚にたっぷり見せたり、というような、誘惑の素振りというのが一切ないからだと思う。カトリーヌ・ドヌーヴは、縛られ、服を破られ、むち打たれ、泥を投げつけられ、頬を叩かれ、いろんな服を着ては脱ぎ、髪をほどき、サングラスをかけ、下着姿になり、背中を見せ、手荒く扱われ、窮地にたたされ、等々、紋切り型のポルノ的イメージを次々となぞるのだけど、それが、はい次これ、その次はこれ、みたいにして、一定の速度でサラサラ流れて行く。ここでは、様々なポルノ的イメージにまみれながらも、決して気高さを失わないカトリーヌ・ドヌーヴの美しさが讃えられているわけでも、勿論ない。逆に、紋切り型のポルノ的イメージのチープさと、これみよがしに戯れているのでもない。カトリーヌ・ドヌーヴは確かにとても美しいのだが、その美しさは、この映画の進行と同じように、きわめて素っ気ないもののように思われる。美しさが汚されることがないとしたら、それはその素っ気なさによる。イメージは次々と逃れ去ってゆくのだが、それは、誘惑の身振りとして逃れ去るのではなく、たんに機械的なリズムで、順々にあらわれては、逃れ去って行く。あまりの素っ気ないので、そこに近づくことも、それを汚すことも出来ない。それはただ、機械的に、段取り通りに、浮かんでは過ぎて行く。(娼館の「教授」と呼ばれる客が、段取りに厳しいのと同じように。あるいは、冒頭の馬車のシーンで、カットがかわっても延々とつづく馬の足音のリズムのように。)カトリーヌ・ドヌーヴのうつくしさに魅了されながらも、そのイメージは、街中でたまたますれ違った美人を、振り返ってすこしだけ目で追う、という以上の関係をイメージとの間でつくることができない。ブニュエルはこの映画で、ある意味では思い切り好き放題のエロ爺いなのだが、しかし、そのイメージの進行をほんの一時も滞らせ、遅延させることがないという意味では、きわめて禁欲的なのだ。(立ち止まって、イメージを惚れ惚れと眺めることがないし、ましてや、それに触れるかのように迫ろうとはしない。)ブニュエルにとってはそのくらい、機械的な時間の進行のブレのなさというのは、絶対的な「世界の法則」なのではないだろうか。
ブニュエルが興味があるのは、イメージそのものではなくて、イメージが生起して動いてゆくカラクリの方なのではないだろうか。イメージはあくまでもカラクリ通りに、そのメカニズムに沿って動くべきもので、そこには予測不能な出来事は起こらない。その段取りのなかに巻き込まれるカトリーヌ・ドヌーヴが、そこで何を考え、何を感じているのかは、まったく分からない。ただ、その身体に、機械仕掛けの人形となって段取りを通り抜けるという受苦が突きつけられる。「ある段取りを通り抜ける身体」のイメージを、我々は観ている。その時、それを観ている者の欲望は、その段取りによって押さえつけられ、型付けられているのか、それとも、そもそも、そのような段取りによってこそ、欲望が生起するのだろうか。

07/12/22(土)
●『哀しみのトリスターナ』(ブニュエル)をビデオで。ブニュエルの映画で重要なことは、時間が正確なリズムを刻んで進行するということなのではないだろうか。これは、説話上の時間ということではなく、あくまでも映画としての時間という意味で(説話上の時間が行ったり来たりすることがあったとしても、それより、映写機のなかでフィルムが送り出される速度の一定さ、一方向性の方を強く感じる、というような意味で)。だから、説話の都合によっても、あるいは描写の都合によっても、アクションの都合によっても、時間が乱されることはなく(時空の伸縮や濃淡は生まれず)、つまり、説話や描写やアクションよりも、時間の進行の正確さが優先される。(様々な事柄が、ウソのようにあっけなく進行する。)ブニュエルの映画の残酷さとは、時間が決して「人間的」なものにならず、あくまで淡々と進行してしまうことにあるのではないだろうか。すべてがゼンマイ仕掛けのように進行し、例えばヒッチコックのように、時間や空間が心理化することは決してなくて、時間はあくまで人間たちの外側にあり、自身の秩序を厳守しつつ外側から絶対的なものとして人間に作用する。(ゴダールがビデオでするように、編集台の上で、映像を一時停止させたり、速度をかえたり、巻き戻させたりするような時間の操作は、ブニュエルにとっては世界の冒涜のようなものなのではないか。例えば、スローモーションははじめからそれを狙って高速度撮影されるべきもので、編集によってフィルムの送り出しの速度や方向をかえることは、世界の法則をねじ曲げることだ、というくらいの感じ。)
この感じは、プログラムピクチャーを量産していたメキシコ時代も、巨匠となったフランス時代も、基本的にはかわらないように思われる。そしてそれはおそらく、初期のシュールレアリスム時代に既に刻みこまれていたものではないかと感じる。
●リンチ論は、冷静になって、改めて通して読んでみると、思ったより暑苦しくもなく、混乱もしていなかった。

07/12/21(金)
●リンチ論、第一稿をなんとか書き上げる。60枚とちょっと。冷静に読み返せば、おそらく内容的に繰り返しになってしまっている部分がいくらかあると思うので、推敲してもう少しスリムにしたい。
●古井由吉のあたらしい本(『白暗淵(しろわだ)』)の最初の方を少し読んだ。そうしたら、これ、まるで青木淳悟じゃん、と思う文章にぶつかって驚いた。以下に引用する部分は、「ふるさと以外のことは知らない」のなかに書き込まれていても、少しもおかしくないと思う。(というか、以下の文章が書き込まれていたら、あの小説はもう少し「分かりやすい」のではないか。正確に言えば、青木淳悟の小説はもうちょっと「若い」バージョンだけど。)
《分身というものを思った。ここまで来る道の、幾つかの辻のようなところで自身を、後へ置き残すか、立ち去るのを見送るかして、別れて来た。それらの片割れたちと、年が詰まるにつれて、そこかしこで出会う。置いてきたはずのが、先のほうを行く。どれも、長い道の涯に近くまで来て、ようやく一生の運命を悟りかけたふうな背を見せる。
通りすがりの見ず知らずの人間について行ってしまった分身もある。去られたほうはそれを気づいてもいないので哀しみもせず、出会うまでは探しもしない。自身とはじつに時折の分身たちの、往来のようなものかもしれない。分身たちのほうが先に、物を思う境に入るようだ。》(「朝の男」)
●『州崎パラダイス 赤信号』(川島雄三)をDVDで観る。(昨日『くずれる水』を読んだら、何故か観たくなったので借りてきた。河つながり。)「いやー、映画ってホントにいいもんですねえ」とか言いたくなる。この映画をつくった年に、確か川島雄三は一年に4、5本の映画をつくっていたと思う。そういう時代にしかつくることの出来ない映画だ、とか、つい言ってしまいたくもなるけど、それは本当だろうか。この映画を観ながら、ぼくは何度もジャ・ジャンクーの『青の稲妻』のことを思った。川島雄三とジャ・ジャンクーは、作品の形式的なところではまったく似てないけど、紋切り型の(何度も何度も繰り返し語られる)「お話」を、描写の力によって、映画として、新たなものの反復として成立させようとしているところが共通しているように思った。描写というのは「表象」であるよりもむしろ「反復」のことで(そういえば『くずれる水』も、「描写というのは反復のことだ」という小説だと思う)、それだけで凄い何ものかなのだと思う。(ただ、描写の力といっても、『長江哀歌』になると、ちょっと違ってしまっているように思うのだが。)

07/12/20(木)
●リンチ論が大詰め。ここを書くためにいままで積み上げて来たんだ、という感じ。それにしても、書いていて、どうもこの文章は全体的に熱過ぎるようにも思えてきた。「熱い」といえば聞こえはいいけど、ようするに、書く側の思いばかりが強く、クドく出てしまって、「暑苦しい」んじゃないかという恐れがある、ということだ。
リンチ論は、喫茶店に出勤することなく、部屋で書いている。でも、部屋だと、昼間よりも周囲が寝静まった夜中の方が集中出来るので、どうしても、夜中の12時をまわったあたりから書き始めるということになってしまって、せっかく昼型になった生活が、また昼夜逆転してしまいそうだ。健康的な生活をするためには、「出勤」が必要なのだろうか。
●金井美恵子『くずれる水』を久々に読み返してみた。最初の「河口」は、すごくシャープでエッヂが立っていて、いいなあ、面白いなあ、と感じたのだけど(おそらく、この「河口」が書けたことで、それ以降の連作が構想されたのではないか)、「水鏡」を経て、つづく「くずれる水」が、思いのほか、装飾過多で鈍重な感じがした。金井美恵子は、こっちの方向に傾くと、かったるくなる傾向があるように思った。官能的な描写の途中に、《男根的な、器官的な欲望ではなく皮膚的な、いや、むしろ、皮膚の裏側がひっくり返されて表面にむき出されているような非器官的欲望、とわたしは考える。いや、考えるのではなく(もちろんのことだ)、欲望の時間を皮膚で生きる。》とかいう、説明的な文が挟まれてしまうのは、興ざめのように思われる。しかしそれ以後、「水入らず」「洪水の前後」とつづくうち、「河口」にあったような、明快な細部がシャープに立ち上がりつつも、その着地点が失われている、という尖った感じから、風俗的な細部のとりとめのなくゆるやかなひろがりと反響によって小説が支えられるような感じに徐々に方向が転換されていって、また盛り返してくる。書きながら手探りしている感じが感じられる。同じ文章が、文脈を微妙にズラされて何度も反復されるのは、前衛的な手法というよりむしろ親切な感じで、ここ、いい場面だからちゃんと読むように、とか、気に入ったところを何度の読むのは楽しいでしょ、と指南されている感じだ。(「書くこと」の倫理性とかいうよりむしろ、文の連なりが意味に着地する瞬間の危うさ、不安定さと戯れているような感じだと思う。)実際に、何度も繰り返される文章を律儀に読んでいると、その都度味わいが変わってくるし、読み落としていた部分を発見して焦ったりもする。
(ただ、今のぼくには、どうしても最初に置かれた「河口」が一番面白く感じられてしまう。「河口」は『くずれる水』以前の『単語集』や『プラトン的恋愛』に収録されているような短編の延長のようでありながら、それらともちょっと違うように思われた。とはいえ、最近、これらの本を読み返してはいないからあやふやな印象なのだけど。「河口」のテンションで長く書くことは困難なのだろうか。というか、これは「短い小説」の書き方で、長い小説の魅力は別にある、ということなのだろうか。)

07/12/19(水)
●『モレルの発明』(アドルフォ・ビオイ=カサーレス)を読みながら、青木淳悟の「四十日と四十夜のメルヘン」のことを思い出していた。カサーレスは青木淳悟と違って、SF的ともいえる、割合はっきりとして分かりやすい「お話」の輪郭があるのだけど、それを記述する一人称の話者の信用の出来なさの感触と、そのような信用出来ない語り手を通してしかあらわれてこないような世界そのもの(空間と時間)の不安定さの感触が、似てるように思う。他者(システムの外)が存在していなくて、しかし強い「他者への指向性」だけが、その閉じられたシステムのなかで空転しつつコダマしているような感じ。空転するからこそ、ますますそのコダマは増幅され、複雑化される。というか、重要なのは、そんな「閉じられたシステム」がそもそも成立しているのかどうかさえもが、きわめてあやしい、という感触だろうと思う。(実際にあるのは、ただ、いくつかの断片化された文章のまとまりのみで、つまりいくつもの小さなシステムの寄せ集めにすぎず、それを制御する統覚あるシステムなどないのではないか。そこに「一つの」システムを読み取るのは、読み取る側の恣意と読み落としによる効果に過ぎないのではないか。)そもそもそれがかつて作動していたのかさえあやしい、既にいくつもの断片へと半ば解けてしまっている、あるシステムのコダマ(残像)のなかで、(これもまた、そもそもそれが存在しているのかさえあやしい)別のシステム(他者)への「指向性(あるいは固着性)」のコダマが鳴り響いている、という感じ。(ただ、その指向性と固着があるからこそ、それが幻だとしても、「一つのシステム(主体)」という仮象が生じる。)そこでは、閉ざされて外がない事と、解体寸前にまで開いてしまっていることとが、別のことではなくなっている。

07/12/18(火)
●リンチ論を書いていて、細部を確認するために『マルホランド・ドライブ』のDVDを借りてきて観たら、ついつい惹き込まれてずっと観てしまった。ぼくにとって今年はまさにリンチの年で(そのきっかけは樫村晴香さんにお会いしたことによるのだけど)、リンチの何本もの映画を何度も繰り返し観た。それは別に、リンチ論を書こうと思って観たのではなくただ面白くて観たのであって、リンチを繰り返し観た結果として、リンチ論を書いているわけなのだった。
とはいえ、初期のリンチは、ぼくには今でもあまり面白くない。『エレファントマン』と『デューン 砂の惑星』はまったく面白いと思えないし、『イレイザーヘッド』も、主人公の頭かぽろりととれてしまって世界が反転する短いエピソード以外は、あまり面白くない。『ブルーベルベット』でさえ、人が言うほどいいとは思わない。(だからこれらの映画は「何度も繰り返し」ては観ていない。)ぼくにとってリンチは『ワイルド・アット・ハート』でいきなり面白くなり、『ロスト・ハイウェイ』でようやく映画作家「デイヴィッド・リンチ」となる遅咲きの(努力と持続の)作家なのだ。そしておそらく、リンチがリンチとなるためには小説家・脚本家であるバリー・ギフォード(『ワイルド・アット・ハート』の原作者で『ロスト・ハイウェイ』の脚本の共同執筆者)の力の作用が必要だった。ただ、『ナイト・ピープル』というリンチのドキュメンタリーを観ると、二人の共同での脚本執筆の時の関係は、あまり良好ではなかった感じが匂ってくるのだが。
●リンチ論が、とうとう『インランド・エンパイア』の部分にさしかかるので緊張する。

07/12/17(月)
●昨日も書いたけど、シュヴァンクマイエルの『アリス』ではカットごとに縮尺というかスケール感が少しずつ違っていて、そのためにパースペクティブが成り立たない感じがある。人は、映画館の大きなスクリーンに顔が大写しになったとしても、その顔が巨大化したとは感じない。それは、映画の見方を知らない、はじめて映画を観るような子供でもそうだろう。メルロ=ポンティは、映画には地平がないと言って批判したが、人は、映画の外にある地平において(映画の外にある基準に照らして)、映画を観る。人は、普通、いきなり人の顔が巨大化することはないと知っているから、他の物との大きさの比率に変化がなければ、顔が巨大化したのではなく、たんに部分が大写しになったのだと理解する。しかし『アリス』では、そこに人形や模型によるアニメーションが含まれるために、物のスケール感に関して、映画の外と照らし合わせて判断することが出来ない。唯一、スケールの基準になるのが生身の人間によって演じられるアリスのみで、しかしこの基準となるはずのアリスが、物語上で大きくなったり小さくなったりするということは、アリスの役をやっている女の子が実際に大きくなったり小さくなったりするはずはないので、セット(模型)や人形との大きさの比率が変化するということで、まさにその基準そのものがブレてしまうということになるだろう。しかも、「ある大きさ」の時のアリスと別の人形や模型との比率が、(アニメーションの部分は別に撮影され、後から繋げられるという理由もあるだろうけど)カットごとに微妙に狂う。つまり、この映画の内部の空間においては、映画の外の現実的な空間の「地平」が役に立たなくなる。このことが、この映画の「世界」を成立させている。
これはおそらく、『インランド・エンパイア』で、形が歪む程のどアップがしつこく多用されることとも関係がある。いかに観客が、人の顔の普通のサイズを熟知していて、それが極端に大きくなったり小さくなったりしないことが身にしみて(というか、おそらく生得的に脳に組み込まれて)いたとしても、他の基準と切り離された顔ばかりが、しかも、人(顔)によってその近さやゆがみ、ピントのボケ方等が微妙に異なっている(つまり、ある顔とべつの顔とが存在する空間がなめらかに繋がっていない)アップばかりをみせられつづけていると、その「顔」のイメージが、映画の外側にある現実的な空間のなかにあるそれと、同じ基準(地平)のなかにあることが疑わしくなってくる。つまり、空間的な原基が失われてしまって、「そこにあるメカニズムを測るためには、そのメカニズムの外の基準は使えない」という空間が出現する。(しかも、途中で、縮尺不明でパースペクティブがおかしい、ウサギ人間の部屋もあらわれる。ここで、部屋のサイズは箱庭のようにみえるのだが、顔の隠された人間たちは、普通の人間のサイズのようでもある。)
「そこにあるメカニズムを測るためには、そのメカニズムの外の基準は使えない」という空間が出現すると、そこには、そのシステムの外が存在することの徴候であり、同時に、システムの外へ出ること(メタレベルに立つこと)を禁止する蓋でもあるような(外が内側にたたみ込まれたような)幽霊のようなイメージがあらわれる。『アリス』においては、それはおそらくアリスの「口」なのだが、『インランド・エンパイア』には、そのような記号がたくさんあるのではないだろうか。

07/12/16(日)
●シュヴァンクマイエルは、まず『ファウスト』を観てけっこう面白くて、次に『オテサーネク』を観たのだがこれが全然駄目で(多分この人は物語を語り出そうとすると駄目なのではないだろうか)、途中まで観てやめた後、再びつづきを観る気がしなくて、そのまま返却して、その時にまた借りてきた『アリス』はすごく面白かった。
多分この人は典型的なシュールへレリスムの人で、シュールレアリスムというとまず最初に「手術台の上でなんとかとなんとかが出会う」みたいな異質なイメージの出会いの意外性みたいなことを言われるけど、それは一面にしか過ぎなくて、本質的には、イメージが自動的に産出され、自動的に作動してゆくメカニズムを捉えようとするところに特徴があると思う。イメージの豊かさとか、異質なイメージの出会いとかとはまったく無縁であるように思われるデュシャンが、しかし幾分かはシュールレアリストであるというのは、メカニズムへの興味が共通しているからだろう。ただ、シュールレアリスムは、そのメカニズムのひとかたまりとしてある機械が、その総体として一つの母性的なイメージ(つまりその内部に豊かなイメージが孕まれる全体)としてあらわれるのだが、デュシャンにとってはメカニズムの総体もまた、単にメカニズムに過ぎなくなて、それは人間味を帯びない。(ダダイズムや未来派は人間性の「否定」という主張になるのだが、おそらくデュシャンはただ人間に対して「無関心」なのだと思われる。)
デュシャンやルーセルのメカニズムは、膨らみを持たないメカニズムそのものであるのだけど、シュヴァンクマイエルのメカニズムを構成するイメージはある含み(記憶)をもち、ふっくらとした膨らみを持つ。イメージが膨らみをもつというのはつまり、メカニズムがなにかの隠喩となっているということだろう。メカニズムが隠喩となることで、他者に対する表現性が生まれる。しかしそれがあくまでメカニズムに留まり「物語」とならないのだから、その分だけ非人間的であり、つまりおそらく、非人間性の(人間的な)比喩になっているのだろう。
シュヴァンクマイエルは、実写とアニメーションを組み合わせるのだが、アニメーションを実写に近づけるのではなく、実写をアニメーションに近づける。人形が人間化するのではなくて、人間が人形化する。(『オテサーネク』が面白くないのは、物語を語っているということだけでなく、実写率が高いということにも原因があると思われる。)それによって人間が(イメージの連鎖によってかたちづくられる)メカニズムの一部にすんなりと溶け込むことができる。そこで人間は人形化(非人間化)されるのだけど、それ自体は自動的(非人間的)に作動する「連鎖のメカニズム」によって産出されるイメージの一つ一つは、微妙に人間的な記憶と繋がっていて、つまりその世界が世界全体として人間化されているのだろう。世界は人間とは無関係に自動的に進行するが、その世界の全体は、どこか人間味がある。そこでは生臭い人間的感情は蒸発しつつも、あたたかな(時にえぐくもある)手触りだけは残っている。
(『ファウスト』を観ていて、ぼくは最近の黒沢清を連想した。最近の黒沢映画の過剰な視覚性は、案外人形アニメの世界に近づいているのではないだろうか。もし『LOFT』で中谷美紀のうつくしい顔を捉える充実したショットがなかったら、『叫』で、作家本人を思わせる実存の重みと疲労を刻み付ける役所広司の存在がなかったら、その世界はかなり人形アニメに近くなるのではないか。実際、『LOFT』の安達祐実や『叫』の葉月里緒菜は、ほとんど人形のように扱われてはいなかっただろうか。)
『アリス』が他と比べて特に面白いのは、常に縮尺が狂っている感じがあるからだと思う。アリスの物語とはつまり、アリスの縮尺がかわる話なのだが、アリスの大きさが特にかわってない時でも、(実写の人間の少女によって演じられる)アリスと、(人形によって演じられる)ウサギやカエルやイモムシといったその他の登場人物(?)との大きさの関係が、カットがかわる度に微妙にズレていっているように感じられるのだ。(これはおそらく、背景となる模型と人間=アリスの関係をみせるカットと、背景の模型と人形=ウサギとの関係をみせるカットとを関係づけるための縮尺関係を、それほど精密には設計していないせいだと思われる。だがこれは、意図的になされているのだろうと思う。)つまり、アリスとウサギの大きさの関係が揺らぐので、ウサギが実際にどのくらいの大きさなのかが、最後までよく分からないのだ。カットがかわる度にパースペクティブが混乱するので、空間の全体というか、空間の基準が想定出来ない。次にどのようなイメージが出てくるのか、どのような展開があるのかが予測出来ないのではなく(展開そのものは、アリスの話なので、ある程度は想定できてしまう)、そのイメージを生じさせ、展開を支える基底となる空間そのものが、次のカットでどうなってしまうのか(どのように歪むのか)が分からないのだ。空間の基準が掴めないことの不安定さが最後までつづくからこそ、常に先の展開が驚きであり、予断を許さないものとなる。(『ファウスト』では、人間と人形の大きさの関係は割合安定していて、人形が実際に「どのくらいの大きさ」なのか分かってしまうので、空間的には『アリス』ほど複雑ではない。)
『ファウスト』には、人形を操作する「手」が、『アリス』には、この物語を語っている「口」が、何度も繰り返し示されていた。こういうのを安易に「メタ」な視点としてみてしまうのは間違いだと思う。むしろこのイメージは、これ以上の先(外)はない、と、「メタ(超越的)」な視点に蓋をするものであるように思う。アリスが主人公である物語を語っているのがアリスの「口」であるとするならば、この世界にそれよりも外はないし、入り口も出口もないことになる。(これは『ロスト・ハイウェイ』で、「ディック・ロラントは死んだ」という言葉を、言うのも、聞くのも、同じ人物であることと似ている。)そこにあるメカニズムを測るためには、そのメカニズムの外の基準は使えないのだ、と、その「口」は示している。

07/12/15(土)
●散歩の途中で雨に降られた。空は明るかったので通り雨ですぐにやむだろうと思って、ちょうどさしかかった公園の駐車場の木陰で雨宿りする。空は青く、傾きかけた日が射して、目の前は日向であるのに、雨はどんどん強くなってくる。雨が防ぎきれなくなって、少しずつ、葉が密度濃く繁っている木の下へと移動する(地面を見て、なるたけ濡れていないところを探して、そこへ移動する)。はじめは、距離をおいてバラバラに雨宿りしていた人々が、皆、濃い茂みの木の下を求めて、少しずつあつまって、次第に一ヶ所にかたまるようになる。傾きを増す日の光はさらに強くなり、駐車場のアスファルトや、向こう側の木々には眩しい光が射しているのに、雨は増々ひどい降りになって、雨粒にきらきらと光が当たっているという、何とも非現実的な風景を眺める。なかなかあがる気配がみられないので、しびれを切らして雨のなかに走って出て行く人もちらほらいる。
雨にでも降られないかぎり、散歩をしていても、一ヶ所に立ち止まってそこの光の推移を十分も二十分も眺めているということは、なかなかない。それを考えると、スケッチするという行為の重要さに思い至る。スケッチをすることによって、飽きることなく、同じ風景を長時間眺めていられるだろう。本来画家とは、そのようにして一日の大半の時間を過ごすべき者のことなのだろう。そのようにして受け取られた感覚の全てを作品として表現することなど出来るはずもなく、画家は多くの感覚の記憶を、自身の身体に蓄積したまま、そのような毎日を繰り返し、老いて死んでゆく。とかいう物語は、あまりにも単純に美化されすぎてはいるのだが。(実際にはそんなに「幸福な」画家はそうそういないだろう。)
随分と長く雨のあがるのを待っていたような気がするのだが、実際は、せいぜい二十分かそこらで、長くても三十分は経っていないだろう。そのくらい人は、ただぼけっと突っ立っている事が苦手なのだ。かなり小雨になってきて、雨宿りしているのはぼくと、一組の爺さん婆さんだけになったのだが、ここまで待って中途半端に濡れるのは嫌なので、さらに粘って立っていた。
雨があがって歩き出す。濡れた地面が傾いた日の光でぎらぎらして眩しい。雨で埃が流されたせいか、空気が澄んで遠くの方までがくっきりと見え過ぎて、遠近感がおかしい(遠くの風景が手前の方にぐっと迫ってくる)。雲間から帯状になって光が射しているのが見える。

07/12/14(金)
●ブニュエル『銀河』をビデオで。この映画を観たのは、確か83年か84年頃に日本で公開された時以来。同じ頃に、有楽シネマで『勝手にしやがれ』と『気狂いピエロ』が二十年ぶりとかでリバイバルされたり、シネ・ヴィヴァンで『パッション』とか『ミツバチのささやき』とかが公開されたり、『ションベン・ライダー』がつくられたりしたわけで、いわばシネフィルバブルのはじまりの頃。(あと、今、手元にある『構造と力』には、「1983年11月5日 第1版第4刷発行(第1版第1刷発行は、83年9月10日)」と書いてあるから、この本を読んだのもその頃だと思う。)驚きと目眩のなかでいろんな映画を観始めた頃で、その頃に観た何本ものくらくらするような映画のなかでは、印象はあまり強くはなくて、ずっと、晩年のブニュエルの、割と緩い感じの作品という認識のままだった。
緩い感じの作品というのはその通りなのだが、巨匠の晩年にのみ可能な自由闊達さが、思いのほか新鮮に感じられた。おそらくブニュエルにとっては、愛憎が拮抗すると思われるキリスト教を正面から題材にしつつも、つねに「余裕げ」な距離を保ちつづけている所が、若い頃に観た時には物足りなく感じられたのだろう。いくつものエピソードが、巡礼する若者と老人の二人組の道中を縦糸にしてルーズに結びつけられている。緩い結びつきによってしか得られないだろうと思われる、エピソード間の予期せぬ結びつきや関係性が鮮やかに思えた。例えば、まるで巡礼の老人の回想エピソードのようにして、無造作にキリストが登場するのに驚く。(しかもこの映画のキリストは、映画で観られるキリストのなかで最もチャラいんじゃないかと思うくらい、チャラい感じなのだ。常に半笑いの遊び人風で、どことなく信用できなさそう。)無造作であることの新鮮さが、この映画を貫いてずっと持続する。巡礼者の若い方が、子供達による、いかにも教師からのお仕着せであることがぷんぷんする説法を聞きながら、革命家たちによって銃殺されるローマ法王を想像しているシーンで、若者の想像のなかでの銃声が、その隣にいた男にまで聞こえるという場面は、なんということもないと言えばなんということもないのだし、映画的な仕掛けとしてはプリミティブでさえあるのだが、何故かハッとさせられた。このようなシーンは、脚本として読まされたならば、わざとらしいとしか思えないかもしれないのだが、全体としては緩めの演出のなかで、驚くような新鮮さを得ている。
巡礼者たちはその道中で、エピソードによって、現代から中世まで、大きな幅をもった時間のなかをルーズに行き来する。このルーズな行き来を自然なものとしているのは、巡礼者たちの「貧しい身なり」の普遍性(どんな時代にいても「貧しい身なり」はそんなに違和感がない)と、ヨーロッパの都市が、今でも、何百年前に建てられたような建築物を普通に内包しているという事実によっているだろう。何百年も前の人物がいきなりあらわれることを可能にするのは、そうなっても不思議はないと思わせるような舞台(環境)が、現実にあるからなのだろう。
(ブニュエルにあるような、歴史的記憶や宗教的教養=抑圧の厚みは、例えばリンチにはない。リンチにある記憶は、多少はアート的なものも含むとはいえ、おおむねアメリカの大衆文化の記憶に限られている。『銀河』に出て来るような、芳醇な生ハムや、キリストの血であり肉でもあるワインやパンなどは出てこなくて、せいぜいが、甘過ぎるチェリー・パイか、ファミレスのコーヒーがあるくらいだ。ブニュエルの余裕げな自由闊達さと、リンチの余裕のない強迫性との違いは、このあたりにも原因があるのかもしれない。)
巡礼者たちが、フランスから国境を越えてスペインに入ったところと、目的地であるサンチャゴについたところで、この映画の演出としては異質な「主観的なショット」が何故か唐突にあらわれるのにもハッとさせられる。別にこの主観的なショットにそんなに深い意味があるわけではないのだろうけど、(便宜上「主観的なショット」というけど、むしろ「非人称的なショット」といった方が適当かもしれない。)こういう細かい新鮮さこそが、この映画のルーズな進行を支えているように思う。そういうばワンカットだけ、走る自動車の窓からのトラベリングのカットが、これも唐突に(というか、映画の「次のカット」は常に唐突にやってくるのだけど)あらわれて、これにもハッとさせられた。
とはいえ、この映画の面白さは、基本的には、一つ一つのエピソードの「説話」の次元での面白さなのかもしれない。(「映画」としての面白さよりも、「説話」としての面白さの方が優先されているのかもしれない。)真面目な修道女が、男に誘惑されて修道院を去ったが、何年もしてから悔い改めて帰って来ると、修道院の仲間は彼女がずっとそこで働いていたかのように接してくる。彼女が不在の間、マリア様が彼女に替わってお勤めを果たしていたのだ。などというエピソードは、「映画」を越えて面白いものだと思う。(このエピソードには「映像」がなくて、司祭によって言葉で語られる。)キリスト教に対して、余裕げではあっても、シニカルで挑発的な姿勢をもつこの映画でのブニュエルも、このエピソードは「うつくしもの」として扱っているように感じられる。
(高級そうなレストランで、そこの支配人のような人物と給仕とが、店の仕事をこなしつつもキリスト教談義をしているエピソードをみると、ゴダールがやってることも、結局こういうことだよなあ、とも思った。)

07/12/13(木)
●今日は朝から一日かけて部屋の整理。大掃除にはまだはやいけど、大掃除が可能になる状態をつくるためのもの。(同時に、喫茶店にまで出勤しなくても原稿が書ける状態をつくるためのもの。)アトリエ部分は、あまり整理して、空間がかしこまった感じになると手が入らなくなってしまうので、散らばっているゴミを捨てたり、筆や描画材をちょこっとまとめて置いたりするくらい。
部屋の整理といってもその作業のほとんどが本の整理で、これはもう整理のしようがないのだけど、書斎や書庫などという贅沢なものを持てないし、手前と奥の二列に詰めてある本棚ももうとっくに飽和状態なので、本は段ボール箱に入れて、その箱を何段にも積んで置いておくしかない。部屋じゅうに散らばっている本をかきあつめて、近々読む予定か、あるいは頻繁に参照する可能性の高いものと、そうでないものとに分けて、そうでない率が高いものほど、下の方の箱に詰め、徐々に上へと積み上げて、近々読む可能性の高い物は、出来るだけ目につくところに置いておき、さらにその全体をいくつかの「山」に分けて、部屋のなかに出来るだけコンパクトに納まるように配置し直す、というだけの作業が、まる一日かかってしまう。(ウチには机やテーブルといったものがないので、本を積み上げて、その上にカルトン(デッサンの時に使う大きな画板)を載せて、そこにノートパソコンを置いて机がわりにもしている。)
●夕方まで作業した後、用事で新宿まで出る。ついでに立ち寄ったジュンク堂に、「日本の古本屋」で購入して、ちょうど出がけに届いたのと同じ本が、棚にあった。本体価格は古本の方が安いのだけど、送料と振り込み手数料を足すと、書店で買う方が30円安かった。(でも、探しに行った目当ての本はなかった。)

07/12/12(火)
●リンチ論のつづきを書く。以前にこの日記で書いたことが、メモがわりになる。青木淳悟論は、この日記に書き付けた感想などはまったく参照せずに、一から、あらためて小説を読み直すことではじめたのだけど(ぼくの持っている青木淳悟の本は、意味不明の記号やイラストなども含め、様々な書き込みがびっしりされている)、リンチについては、自分が書きつけた印象や感想などを頼りにして書いてゆくことになる。勿論、必要な部分をDVDで参照したりはするし、途中でもう一度、『インランド・エンパイア』を観に行くかもしれないけど。リンチの映画を観るときの一つの罠として、説話的な構造分析をついつい一生懸命やってしまって、その次元でのつじつま合わせに終始してしまうという危険があると思う。(実際にリンチは、かなり律儀につじつまを合わせている。)もう一方で、ごく表面的な意味での奇異なイメージの連鎖の次元だけで、そのリンチっぽさを味わって済ませてしまうことも退屈だ。そうではない、別の構造を見出すためには、細かい分析に入って行く手前で捉えられる「感触」という次元を、どうやってちゃんと維持出来るかということが重要であるように思う。そのためには、作品を観た直後の、未整理な感想は役に立つと思われる。というか、それしか頼りに出来ない。
●ちょっと放置してあった『コスモス』(ゴンブロヴィッチ)のつづきを読む。まだ終わってない。途中、猫の死体が出て来るあたりで、ちょっと退屈になったのだけど、馬車で遠出するところで、またぐっと面白くなった。でも、「おーっ、すげーっ」という風に前のめりになって入り込む感じではないけど。微妙に、前傾姿勢になったり、やや引いたりしつつ、探り探りに読み進める感じ。決して突き抜けることなく、ぐちぐちと踏みとどまるこの「粘り」を、どのように捉えたらよいのか迷いつつ。

07/12/11(月)
●書こう、書こうとずっと思っていて、なかなか書き出せなかったデイヴィッド・リンチ論を、えいやあっ、という感じで書き始める。ニーナ・シモンの「SINNERMAN」を大きな音で繰り返しかけて、それに背中を押されるようにして。(『Pastel Blues』というアルバムに収録されているオリジナルは10分以上の曲で、映画では曲の中程から使われているみたいだ。)これを年内に書き上げるのが、年末の目標となる。
●夏に書いていた作家論(青木淳悟論、65枚くらい)が雑誌に載ることになって、原稿料のアテが出来て気が緩んだせいか、最近ちょっと、Amazonとか「日本の古本屋」とかで、本やCDを買い過ぎている。(来年のピナ・バウシュの高いチケットを買ったばかりなのに!)今日も、高橋悠治のCDを何枚かまとめて注文した後に、もっと絞り込めばよかった、と後悔した。勘違いするな、この残高であとどんだけ持ちこたえなきゃいけないのかちゃんと考えろ、と、自分に言いたい。
●今年、近所に(電車ではほんの一駅だけど、歩くと片道40分くらいかかる、大抵歩くけど)関西が本拠地らしい、デパートの3フロアを全て使った大型の本屋が出来て、その事実を最近知ったことも、本を買い過ぎる原因の一つになっている。でも、最近までその存在をぼくも知らなかったという事実に象徴されるように、その本屋にはいつ行っても、びっくりするくらい客がいない。

07/12/10(月)
●ずっと死んだ状態だったiPodが復活した。で、『ジャッキーブラウン』のサントラを聴いている。ボビー・ウーマックとビル・ウィザースとミニー・リパートンは、ちゃんとアルバムを探して聴こうと思う。
●それとはまたちょっと違うのだけど、高橋悠治の『ATAK006』というCDに入っている「それとライラックを日向に」をiPodで久々に聴く。電子音と声と(カフカの)テキストによる作品。イヤホーンで聴いていると、頭のなかに、自分とは別のひとつの身体が形成されるような感じがする。(その身体を「私」は自身の分身として経験する?)その身体は、(ボルヘスの「円環の廃墟」とは違って)必ずしも「人間の形」をしている必要はない。というか、まったく別の形をしていることに意味がある。iPodとイヤホーンだけがあれば、そこに出来する別の身体。荒川修作の誇大妄想的な大きさに対抗できるものがあるとしたら、それは高橋悠治のこの作品のなかにあるように思われる。というか、荒川の考えていることを実現するのに、そんなに大規模な「建築」が本当に必要なの?、という疑問が、この作品によってはじめて可能になる。もっと小さな行為によっても、「解釈しながら手続きを構築する」ことは可能ではないか。「仏壇のなかに私が入ってゆく」という時、実際に外側に大きな仏壇をつくる必要があるのか。荒川自身がいうように、たとえ《お腹が空いて》いたとしても、まず《いっぺんご飯をね、歩いていって廊下に一つ置いてみる》という行為をすることによって、ただの家を「仏壇」にしてしまうことも可能ではないだろうか。(しかしそれが、梶井基次郎の「檸檬」になってしまっては駄目なわけなのだが。)高橋悠治の作品は、そのための希望を示しているように思う。
『カフカ 夜の時間』という本に挟まっている、浅田彰との対談での以下の発言が、「それとライラックを日向に」について語っているように思われる。ここで語られるカフカは、例えば『城』を書くカフカとは、またちょっと別のカフカだろう。
《カフカで面白いと思うのは、たとえば小ささということかな。自分をだんだん小さくしてゆくと、極限においてどこに行きついて、そこでどういうふうに人と出会うか。それを書くだけじゃなくて、実際そういうふうに生きてゆくんだよね、カフカは、最後には病気になるでしょう。水も飲めなくなって---そこまでいくと、極限状態のコミュニケーションの形が見えてきたんじゃないか。それまで、ユダヤ人が借り物であるドイツ語で何を書いてもウソにしかならないという根本問題を抱えている作家が、実際に病気になって、動けないで、声を出せないで、書くだけになってしまう。そうするとたとえば、花が活けてあって、それが水をどんどん飲んでいるということを書くわけね。その時点において頼っている言葉は、いままで書いてきた言葉とは違う意味で使われている言葉だよね。そういう状態には興味がある。》

07/12/09(日)
●ゴンブロヴィッチ『コスモス』を読み始め、だいたい三分の一くらい読んだ。どんな小説でもたいがいそうなのだが、最初のうちは「これ、どうなんだろう」という疑いの感じが強いなかでそろそろと歩みをすすめるもので、特に、雀の首吊りみたいな細部には「ゲーッ」と思ったのだが、相手の言葉をとりあえず受け入れつつ探りを入れるように読み進めるうち、次第に、何をやろうとしているのか、というか、どう読んだらよいのかの感じがつかめてきて、少しずつ面白くなってくる。(名前は知っていても、ほとんど予備知識のない、はじめて読む作家の小説を最初に読むときにある壁というのか、抵抗のようなものを越えるのは、けっこう大変なものなのだった。)
とはいえ、すごく変で面白いと思える時と、根本的に不毛なことをやっているだけなんじゃないかという疑いとが、半々のまま読み進めている感じではあるのだが。でも、あらかじめこちらのなかにある判断基準に照らして簡単に面白いとか面白くないとか言えてしまうようなものは、本当は大して面白くないもので、半信半疑であるにもかかわらず、とりあえずもう少し先までは読んでみようという気にはなっていて、そういう思いの中で読んでいる状態のことこそを、面白いというのかもしれないのだ。
●ここ何日かずっと、寝る前に荒川・茂木対談をひっくりかえして、少しずつ読み返しては、いろいろ考えている。荒川の話には基本的に脈略に沿った流れなんかないから、ひとつひとつの細部を検討して、自分でそれらの関係や関連を見つけ出してゆくしかない。ていうか、たんにバラバラに読んだ方がずっと面白い。荒川は仏壇のなかに住む、というようなことを言う。《..仏壇っていうけど、本当は部屋中が仏壇でなくちゃいけないの。だから、私は三十年ほど前、仏壇の部屋をつくろうとしたの。》《それで、仏壇のなかで寝るわけ。そうしたらだれでも、おばあさんたち、うわあって言わないか? 仏壇のなかに私が入ってるって言ったら、これ、あんまり恐ろしくて入れない。(略)デザインはあるんだよ。三鷹で見たでしょう? あれが全部仏壇でできているの。》「仏壇のなかに私が入っている」ということの感触をどう理解すればよいのか。「仏壇のなかに私が入っている」という感触によって、私は、私から遠く離れた「私」を想定することが出来るということなのだろうか。荒川は異様に(律儀に)リテラルなところがあるから、仏壇を大きくしてそこに住めば、仏壇のなかで住むことになると考えるのだけど、それではたんに、仏壇みたいに見える(悪趣味な)家に住むというだけではないか、という疑いはある。例えば、今ぼくが住んでいるアパートの部屋が、まるで仏壇であるかのようにそこに住む、というか、たんなるアパートの部屋を、ぼくが「住む」という行為を通して仏壇として出現させる(仏壇化させる)、ということも可能なのではないだろうか。いやしかし、それでは不徹底だということなのかもしれない。荒川にとって仏壇とは、何よりも自身の分身(=排泄物)が祀られる場所としてある。《君、便所へ行ってウンコをしたり、ピーピーしたときに「俺の分身が!」って言って泣くやついないだろ。あれに泣くようになってほしいんだよ。「おい、悪かったな」とか言って。それで便所から出てこないやつが出てきたら、そしたら、私たちもやっと少し安心する。》《そのときにはじめて仏壇っていうのが必要かもしれないね。ウンコをこうやって置いとくの。ベタベタの。》「仏壇のなかに私が入っている」というこは、こういうことでもある。このイメージだけを取り出せば当然、これって桁外れのナルシシズムとどう違うの? っていう疑問もあるだろう。しかしこのナルシシズムは底がぽっかりと抜けている。(私の分身は、私にまったく似ていないだけでなく、私を代理表象することさえもない。分身の鏡像性が私の存在を支えるのではなくて、私が無数の分身の方へと遠ざかってゆき、私のステイタスが分身へと漏れ出して移動してゆく感じだろう。)つまりそれは、そもそも穴だらけでスカスカであり、無数の入り口と出口があって、そのそれぞれが勝手に外と行き来しているような種類のものなのだ。(実際、荒川の作品のスカスカさほどナルシシズムの感触から遠いものはないだろう。専制君主的ではあっても。作品構造の反転性-双子性は、きわめて言語的であり専制的であるが、もう一方で物質としてのスカスカさは、それを逃れる無数の穴としてある。実際、その作品においては、その見かけ奇異さや反転的構造はあくまで入り口であり、常に地面が傾いていること、無数の穴蔵が分裂的に並列され、どの穴蔵にも入り口や出口が沢山あること等の方が重要であるように感じられる。)
荒川の語る面白エピソードは、思いつきや気まぐれのようにポンポンと脈絡なく飛ぶ。だから、それらを個々に検討しつつ、相互の関連を考えてゆくのだけど、その時、「脈略なくポンポンと飛ぶ」ことの意味も考える必要がある。(それが「面白い」からといって)一つのエピソードだけに必要以上に足をとられると、「それって結局ナルシシズムとかわらないじゃん」とかいう間違った結論へと至ってしまう。

07/12/08(土)
●『恋愛睡眠のすすめ』(ミシェル・ゴンドリー)をDVDで。特別に面白いってことは全然ないけど、ミシェル・ゴンドリーってこういう人なんだろうなあ、というのが凄く感じられて、これはこれでいいんじゃないかと思った。『エターナル・サンシャイン』はアメリカ映画だから、商品としてちゃんとヒットするようなものとしてつくられていたと思うのだけど、この映画は割と好きなようにつくっている感じで、それがこういう感じに納まってしまうところが、ミシェル・ゴンドリーという人の凡庸さをあらわしてもいる。ちょっと初期の大林宣彦を思わせるような作風で、素朴なアート系の人という感じ。つまりこの人は、自身のこだわりを追求するというような意味での「作家」としては割と平凡であまり面白くなくて、ミュージック・クリップみたいに、外側に制約が強くあるなかでこそ(絶対的なテキスト=規則が別にあるなかでこそ)、突き抜けた面白いものがつくれるような人なのだろう。
それにしても、シャルロット・ゲンズブールって、いくつになったのだろうか。映画を観ていて、なんかこの人みたことあるなあ、と思っていて、途中で、もしかしたらシャルロット・ゲンズブールじゃないだろうか、と思って、映画がおわってから確かめたらそうだった。なにか凄くいい感じで「普通っぽく」なっていた。スターとか、芸能人とかではなくて、そこらへんに普通に歩いている人が、たまたま「職業は俳優です」みたいな感じ。
それに比べると、男の子の方(ガレル・ガルシア・ベルナル)がちょっと格好良過ぎる感じがする。物語上の役としては、冴えない男の子の話なのだけど、「見た目」的には、カッコイイ(かわいい)男の子と、(おそらく男の子より年上で)特に美人というわけではない女の子という風になっているのは、一方では、この映画が観客を主に女性と考えてつくられているからだろうけど、もう一方では、ミシェル・ゴンドリー自身の自己イメージが「ナイーブでかわいい男の子」だからなのだと思う。この映画では、例えば、夢のなかで書いた手紙の内容を、何故か現実の女の子が知っているという、頭の中味がその外側へと流れ出てしまうような、(「恋愛」的には奇蹟かもしれないけど)ある意味とても気持ちのわるい状態を扱っていながら、それが結局、「ナイーブでかわいい(かよわい)ぼく」の自意識の問題へと収斂されてしまうところが、つまらないと言えば、イマイチつまらない。(ミュージック・クリップが面白いものになり得るのは、その自意識を音楽という外側の規則が突き破ってしまうからなのだろう。)
とはいえ、「ナイーブでかわいいぼく」という自意識が、手作りのクラフトみたいな形で、物質的な手触りを通して示されているので、まあ「許せる」というか、微笑ましい感じになっていて、嫌いではないのだけど。ケミカル・ブラザースやカイリー・ミノーグのPVでは、手作りクラフト的な「あたたかみ」を手放すことによって(それは音楽によって促されたのだろう)、「気持ちの悪い」領域にまでぐっと踏み込んでいたと思うのだけど、この映画では逆に、決してそれを手放さないところが、物足りないのと同時に、いいところでもあるのだと思った。

07/12/07(金)
●本を読んでいたり、映画を観ていたりするときに、ふいに強烈な眠気に襲われることがあって、その時には、ほんの三十分くらいだけど、すごく深く眠ることができる。(音楽を、その音の細部まで聞き漏らさないように入り込んで聴いている時、その覚醒と地続きのまま、いつの間にか寝てしまっていることがぼくにはあるのだけど、本や映画の場合、いつの間にか寝てしまっていたというのはなくて、頭の芯がしびれるようになって、これ以上集中はつづかないから、ここで寝てしまうしかない、という区切りが意識される。)
そのような眠りの覚め際に、夢のなかで、がっしりとした存在感があり、手触りがあった物が、「眠りが覚めてゆきつつあるのだなあ」という意識とともに、すうっと消えてゆく感じを、はじめて「意識的」に捉えることが出来た。それまで充実した「物」としてあったものが、手のなかでその手応えが霧のように消えてなくなってゆくのだった。眠りのなかで、「あ、覚めてゆく」という感じがあったので、(半ば)意識的にそれに抵抗して、再び眠りのなかに戻ってゆき、それとともに夢の彩りも戻ってきて、しかしそれも一時のことでまた覚醒に向い、もう一度眠りの方へ傾こうとして、また....、というような、眠りと目覚めとの境界線での行き来を、半ば意識的に何度か繰り返した。こんなことを経験したのははじめてで、目覚めた後もとても強烈な感覚(手のなかで物が消えてゆく)として残ったのだけど、これを書いている今では、その感じをもう既にかなり忘れてしまっている。
●作家論のゲラの直しを郵送で返した。

07/12/06(木)
●ニーナ・シモンの声を聞くと、どうしても『インランド・エンパイア』の記憶と結びついてしまう。別に映画で使われていた「SINNERMAN」じゃなく、全然違う感じの曲でも、その声がある特定の表情をみせた瞬間、その声の表情が『インランド・エンパイア』の印象と一体となって、切り離せなくなってしまうのだ。それは具体的に映画のどの場面の記憶というのではなく、暗くてザラザラした、粘膜にヤスリの表面が接しているような感触なのだが。ニーナ・シモンの声(のうちのある特定の表情)が、『インランド・エンパイア』という映画の要素の一部として組み込まれ、呑み込まれてしまったかのようだ。映画とは、何て暴力的で専制君主的なものなのかと感じる。
でもまあ、全ての映画がそのような強い重力を発生させるわけではない。3日に観てから、『ジャッキー・ブラウン』のサントラをなんとなく聞いているのだけど、映画の冒頭で使われ、映画全体の雰囲気を華々しく決定づけている「110番街交差点」(ボビー・ウーマック)は、それ自体としてタランティーノの映画全体よりもずっと強く存在していて、むしろタランティーノの映画の方がこの曲の力に寄りかかり、もたれかかっている。映画と音楽との関係は、ほとんどの場合はそういうものだろうと思う。(映画の輪郭よりも音楽の輪郭の方が強い。そもそも、映画は雑多なものの集まりなので、それ自体で「強い輪郭」をもたないことによって映画なのだから、音楽によって、その輪郭が代替的に示される感じがある。)「ロコモーション」でさえ、リンチのためにつくられたんじゃないかと感じられてしまう『インランド・エンパイア』や、ベートーベンでさえ、ゴダールのために作曲したんじゃないかと感じられてしまう『カルメンという名の女』のような、特別な例外を除いては。

07/12/05(水)
●『芸術の神様が降りてくる瞬間』(茂木健一郎)に載っている荒川修作の話が凄い。ぼくの知っている限りのアラカワの対談やインタビューのなかでは、もっとも分りやすく、素直に、その(あまりにも)広大なビジョンが語られているように思う。本屋で買って、そのすぐ近くのマクドナルドで、喫煙席しか空いてなかったのでもうもうと立ちこめる煙の中で読み始めたのだけど、興奮して自分の鼻息が粗くなってくるのを感じた。これは対談というよりもひたすらアラカワが語っていて、茂木氏はただ間の手をいれる程度の発言しかしていない。ぼくは茂木健一郎の本をほとんど読んでないけど、この人には独自の才能があるように感じられた。自分を、頭の良い、シャープな存在に見せようというような自意識がかぎりなく希薄で、自分を消して、とにかく相手にきもちよく語ってもらおうということに徹することが出来る人、というのか。とにかく、アラカワからこれだけの話を引き出せるということは、それだけで充分に凄い。
ここでは、アラカワの言う「位相的なもの」が、とてもシンプルに語られている。奈義の竜安寺について、《いや、二つあるの。なんでも二つあるんですよ。ないのは、あなただけなの。》と言っている。あらゆるものがペアで存在する場のなかに(たった一人しかいない)私が入り込むと、私はそこで自身の分身をつくりだす。この分身の発生が、荒川のあらゆる活動の基本にあるように思われる。(デュシャンとアラカワとの共通点は、その作品、というより「装置」が、分身をつくりだすものだという点にあるのではないか。)そして、アラカワが「位相的な《生命》」と言い、《生命を外につくる》と言っているのは、おそらく、ここにあるこの身体、この私ではなく、その「分身」の方をこそ「私」だと捉えるということではないだろうか。それが《位相的な《生命》が数万も出現しているのだ》と感じるための、最も基本的なレッスンとなる。この感覚は、例えば『肝心の子供』(磯崎憲一郎)で、全てのカエルを「このカエル」と捉えるラーフラではなく、このカブトムシに冬を越えさせるより、このカブトムシから次のカブトムシをつくりだしてそれへと引き継がせることに関心をもつティッサ・メッテイヤに近い。あるいは、ボルヘスで言えば、全ての「これ」を記憶し、その充実した記憶と共に死んでゆく「記憶の人、フネス」ではなく、夢のなかで人間をつくり出して現実に出現させてしまおうとする「円環の廃墟」に近い。あるいは、平倉圭がゴダール的分身に見出しているものに近いものがアラカワにもあるが、アラカワはゴダールとは違って、物語やイメージを媒介することなく、ある装置をつかって、それを直接体験させ(出現させ)ようとする。あるいは、その出現の現場そのものが問題となる。(アラカワの分身は、イメージとして「似ている」ことにはあまり関係がない。)私の分身が偏在する場としての世界で、この私、この身体への固着的執着がかぎりなく後退するすることが、アラカワにとっての「死なない」ことの基本的なイメージではないか。
●以下、気になった部分をいくつか引用。
《茂木/仮想の「自分」が実際にいると ?
荒川/環境と共につくりあげている、いない私を。いない私って何だろう?》
《そう、まさに分身だね。そうすると、いったい分身はどれくらいあるかっていうこと、そんな簡単なもので、二つも三つもできるんなら、そういうものがなくても、私が毎日呼吸して歩いているときには、とてつもないことをやっているんだっていうことがわかってくる。そうしたら、私たちはそれを調べる科学が欲しいんだよ。そのために、今生きている地球上の全人間を使いたいの。》(「今生きている地球上の全人間を使いたいの」ってさらっと言うのが凄過ぎる。)
《解釈しながら、その手続きを必ず構築していかなきゃいけないの。なぜなら、解釈したり鑑賞したりしていっても、何かがわかったとか、知ったっていうだけじゃそんなものしょうがないだろう? だから、手続きを通してそれと同じものをつくっていくんだよ。それで、これはチョウチョになっちゃいましたっていったときにね、じつは、これは菜の花になりましたっていったら、どうなる? 途中までは同じもので、でもちょっとこの部分を変えるだけで、菜の花になったり、チョウチョになっちゃったりするの。そうしたらそれで初めて、ああ、チョウチョが菜の花を欲しがるのがわかるっていうことになる。》
《茂木/ああいうふうに人間がなればいいんだ。
荒川/そう。「人間がなれば」じゃなくて、人間はああなの。》
《私が変な夢を見てパッと飛び起きて、汗をかいたとするでしょう。でも、それでまた黙っちゃうんだ。どうしてそんなものを、そのようなときに見たかっていう科学がないの。だからすべてね、最も素晴らしい体験、経験をしたのに、それ自身に対してそれを知るための科学も芸術も、何もないわけ。だからみんな物語にしちゃう。》(素晴らしい体験の「それ自身に対してそれを知るための」科学や芸術というのがつまり、「解釈しながら手続きを構築する」っていうことのなだろう。)
《そう。その「忘れ物をしてきたように感じる場所」こそ、もう一人の分身の私だろうね。しかも共同体の。で、感じるだけじゃないんだよ。「感じる」ってことが、なんでできてるかっていうことを、君たちが確実に科学してほしいんだよ。それをだれもしてくれないから、みんな、「今日はこう感じたな」で忘れちゃうんだよ。感じるっていうのは、ものすごい物質があるんですよ。》(「「感じる」ってことが、なんでできてるかっていうこと」をきちんと知ろうとしないから、「今日はこう感じたな」で忘れてしまう、という指摘は凄く重要なものではないか。あと、アラカワにとって分身とは、イメージとして「似ている」ものではなく、それに対し「懐かしさ(忘れものをしてきたような感じ)」を感じるもののことなのだろう。この「懐かしさ」の質には独自なものがあり、いわゆるノスタルジーのような、時間を経たものから感じられる、物質的なものの厚みとはまったく別の事柄なのだが。)
《それでね、たくあんをすっと中に入れるんじゃなくて、いっぺんご飯をね、歩いていって廊下に一つ置いてみるんだよ。お腹が空いていてもだよ。本当に廊下が食べ始めるっていうようなときに、パッと食べてみろよ。うまいから(笑)。そう思わないかい? 一度やってみてよ。今日からでもいいから。それか便所へ持っていって、ポッと便器に入れてくるんだよ。まずこれを食べとけって。それからだよ、これを食べるのは。》

07/12/04(火)
●一月に発売の雑誌に載るはずの、この夏に書いていた長い作家論のゲラのチェックをしているのだけど、文芸誌の校正の細かさというかその丁寧さに驚き、感動しつつも、自分がまったくバカみたいなケアレスミス(読み間違い)をしていることの指摘に、顔が赤くなる。こんなことで、ホントにちゃんとこの小説を読めているのかと不安にもなる。
●とはいえ、昨日と今日、二度、自分の書いたものを通して読んでみて、細かい部分の修正だけで、大幅な直しはなしでいいんじゃないかと思えた。
●韓国の高校生と一緒に二本の韓国映画を観て、その後でディスカッションするという夢を見たのは、おそらく寝る前に『バンジージャンプする』という何とも言いようのない映画を観たインパクトのせいで、『バンジージャンプする』にはイ・ビョンホンが出ているのだけど、夢のなかで観た映画には豊川悦司みたいな感じの俳優が出ていて、かなり暴力的な作風の映画だった。豊川悦司似の俳優が、夜中に目覚めてベッドから出て、いきなり自分が泊まっているホテルの部屋に火をつけて、非常ベルが鳴り響き、スプリンクラーから水が吹き出すなか、非常階段から一人颯爽と脱出し、燃える建物を背景に車でホテルから遠ざかり、しばらく行ったところにある広い空き地で、手にカッターをもった男と格闘する(掌をざくっと切りつけられる)ところまでを、強引な長回しで追っているシーンが印象にのこっている。夜の深い暗さのなかに、車のライトに照らされた雑草の緑がケバケバしく浮き上がっている空き地を、カメラは滑らかに横移動してゆく。上映後のディスカッションで学生の一人(女の子)が、ポン・ジュノの新作(「グエムル」の次のやつらしい)を観たけど全然いけてなかった、あの人はわたしたちのなかでは既に古臭くて、終わっているという評価だ、と発言した。ぼくは夢のなかで最初は教師とか講師という位置だったのだけど、いつの間にか留学している学生になっていて、ディスカッションの後、彼らと一緒に数学の授業を受けつつ、次の定期テストの心配をしていた。学校の建物やそのまわりの風景は、自分が通っていた高校ではなく、弟が通っていた高校に似ていた。下駄箱のあるところから校門までの道に沿ってある金網に、大学合格者とその大学名がよく分からない不思議な文字(ハングル文字ではなく、そこは既に韓国ではないみたいだった)で書かれたものが、ベタベタと貼りつけられていた。

07/12/03(月)
●タランティーノの『ジャッキー・ブラウン』をDVDで。タランティーノの映画では何が好きかと言われれば圧倒的にこの『ジャッキー・ブラウン』で、確かに映画としての欠点を言い立てればいくらでも言えるかも知れないけど、とにかく主人公のジャッキー・ブラウンのキャラクターが好きなのだ。(というか、パム・グリアに見とれているだけで充分な映画なのだ。)冒頭で、いかにも下品な(あまりにも七十年代的な)青い色をしたスチュワーデスの制服姿を観た瞬間に、これは絶対に面白いに決まっていると思ってしまう。(途中で着替えられる、黒いスーツも格好良過ぎる。)
勿論、タランティーノのいつものことで、つかみの格好良さはまさに最初だけで、物語が動きはじめたとたんに、映画はかったるいものになる。特にこの映画では、別に派手なアクションがあるわけでも、奇抜なアイデアがあるわけでも、複雑な語りの構造が仕掛けられているわけでもない。ありふれたお話を語っているだけなのに、上映時間が二時間半以上もあって、誰がどう観ても長過ぎる。長くなってしまう理由は明らかにタランティーノの語りの能力の欠如で、例えば、五十万ドルをショッピングモールの試着室で受け渡すシーンが、三人の視点から、三度反復して示されるのだけど、このシーンには、何も三度も反復しなければならないような複雑な構造やアイデアがあるわけではない。この程度の状況の推移は、時系列に沿った単線的な流れの上でサクサクと表現されるべきで、それが三度も繰り返されるのは、とう考えても冗長であろう。あるいは、この映画には、特に見せ場となるようなシーンもなければ、アクションもなく、あくまで話の推移をテンポよく見せるような題材なのに、それをスムースにダレることなく示すことが出来ないから、余計な小ネタや会話(台詞)の面白さで間を持たせるしかなく、それで一層時間が長くなる。
でも逆に、この映画の良さは、タランティーノが、こけおどしの派手なシーンをみせたり、意味なく構造を複雑にしたりすることなく、地味な話を、あくまで地味に語ろうとしているところにあるように思われる。冗長であり、傑作とは言い難いこの映画の、しかしその愚直な語りによる魅力は、他のタランティーノの映画にはあまりみられないもののように思う。おそらくタランティーノには、自分がお話を語ろうとするとかったるくなってしまうという自覚があり、『デスプルーフ』などでは、開き直ってそれをネタとして使って、意図的に停滞する時間そのもの(+アクション)で見せようとしていると思う。でもそれは、あくまでその映画一本でのみ成り立つネタであって、その面白さはネタとして上手くいっているという種類のものであろう。例えば、ぼくには『デスプルーフ』のカート・ラッセルよりも、『ジャッキー・ブラウン』のロバート・デ・ニーロの方がずっと魅力的にみえる。タランティーノは、タランティーノなりのやり方でロバート・デ・ニーロの演じる人物を丁寧に描写しようとしており、カート・ラッセルがカート・ラッセルであることに寄りかかっている『デスプルーフ』よりも、そういう方向の方がタランティーノの資質に合っているのではないかと思う。(タランティーノにとって必要なのは、カート・ラッセルのような俳優ではなく、デ・ニーロのような俳優なのではないか。)その違いは、『ジャッキー・ブラウン』のパム・グリアと、『デスプルーフ』の、後半の四人の女の子とのキャラクターの魅力の違いに、もっと大きな形で現れている。『デスプルーフ』の女の子が、割合上手くいっているとはいえ、あくまでも類型的にキャラとして分けられた四人でしかないので、カート・ラッセルをやっつけたとしても、女の子たちが悪者をやっつけた爽快さ以上のものにはならない。例えば、もし、スタントをやっているガタイのでかい女の子のキャラクターが、もう少しちゃんと生かされていれば(たんに「お喋り」だけでないそれ以上の描写がなされていれば)、随分違ったのではないかと感じる。
『ジャッキー・ブラウン』のパム・グリアは、ファム・ファタルでもビッチでも犯罪のプロでもなく、たんに44歳の追いつめられたありふれた女性でしかない。(パム・グリアという女優がブラックスプロイテーション映画でどのような位置にいたのかとかいう知識はぼくにはない。)彼女は、自分の身を守るために、自身の人生を見失わないために、なんとか窮地を切り抜けようとする、あぶなっかしい犯罪のアマチュアに過ぎない。結果として全ての人たちをだしぬき、まんまと五十万ドルを手にしたとしても、たまたま「窮鼠猫を噛む」が上手くいっただけであろう。そしてそのような姿をこそ、タランティーノは丁寧に追ってゆくのだ。表面的には、すべてを見通してクールに乗り切る颯爽とした美人であるようにみえつつ、クローズアップではやはり44歳の中年女性であり、サミュエル・L・ジャクソンを事務所で待ち伏せるシーンで、銃を撃つ仕草を繰り返す姿などは、いかにも様になっていなくて、彼女がアマチュアでしかないことが示されている。(ここでパム・グリアが格好良く銃を撃ってしまったり、保釈金融業者のロバート・フォスターまでをもまんまと騙してしまったりしたら、この映画は台無しになる。たんなるお約束通りの映画になってしまう。)例えば、役割からすれば、ロバート・フォスターが最も五十万ドルを持ち逃げしやすい位置にいながら、パム・グリアは信頼してその役を彼に託し、彼もそれを裏切らない。つまりこの映画は、どんでん返しやアイデアの面白さを追求する先の読めない犯罪映画ではなく、どこか素人っぽい甘さのある、パム・グリアとロバート・フォスターという中年たちのぎこちない(恋愛にまで至ることのない)友愛のような関係を描く映画なのだ。メキシコへとたつパム・グリアと、アメリカに残るロバート・フォスターとの別れのラストシーンのもどかしさは、この映画の良さがもっとも分りやすく出ているように思う。
(ただ、映画としての持続を支えるものとして、サミュエル・L・ジャクソンの俳優としての力に頼り過ぎているようにも思うけど。)

07/12/02(日)
●11月25日から、29日と12月1日を除いて、毎日(意識的に)同じコースを散歩している。ゆっくり歩いて二時間ちょっとくらい。今日は出掛けたのが午後1時半過ぎで既に光がやわらかくなっていたことと、それ程空気が冷えてはいなかったことで、風景に緊張感がなく、割と親しげでやわらかく、だらっとしていた。(だから畑の土が戦慄のように迫って来ることはなかった。)畑に放置されていた立ち枯れのナスは、根から抜かれて横に倒してあった。数日前まではすごい勢いで葉が繁り、沢山の花が垂れていた木立朝鮮朝顔は、一回り小さくなったようにしんなりとして、しなびた花が五、六個垂れているだけだった。途中で突っ切る公園ではフリーマーケットが行われていたようなのだが、もう店じまいの時刻で、祭りの後の潮が引いてゆくような雰囲気のなかを歩いて抜けた。
風景が向こうから勝手に目に入ってきて強引に目を見開かされるようなことはなく、どちらかというと「歩く」という身体の行為の方が意識されつつ、ぼんやりと考えごとをしながら散歩していた。ただ、部屋を出てすぐの、住宅街にある一軒の家の庭に生えていた、名前は分からない小さな木に隙間だらけについていた、ホオズキを連想させるような色の葉の赤が、この日記を書こうと思った時に最初に鮮明に思い出され、今もずっと強くイメージされている。

07/12/01(土)
●『肝心の子供』で文藝賞になった磯崎憲一郎さんの友人たちによる、受賞おめでとう会みたいなのがあって、(ぼくは磯崎さんとはいままで二度ほどお目にかかっただけなのだが)お誘いいただいたので出掛けた。一人一人についてくわしくは分からないけど、年齢も普段やっていることにもかなり幅がありそうな二十人くらいの人(著名人含む)が集まっていて、濃厚な場が形成されていてとても面白かった(というか目眩がした)。でも、せっかく誘って頂いたのに、磯崎さんとはあまりちゃんと話ができなかったのは、場の雰囲気に圧倒されたからというだけでなく、午前中に改めて読み返した『肝心の子供』の凄さに圧倒されていたからで、今回読んだのは四回目なのだけど、最初に読んだ時は、なんとか感想のようなものをひねり出せたのだが、繰り返し読んでゆくにつれて、うーんと唸るばかりで、そう易々と何かを言わせてはくれないような小説なのだった。
●ある人からは『バンジージャンプする』という韓国映画が凄いと言われ(というか、話を聞いてそれはさぞ凄いことだろうと思った)、別の人からは、ゴンブロヴィッチの『コスモス』という小説が凄いから読めといわれ、また、シュヴァンクマイエルを観ろ、とも言われた。こういう風に人から直接すすめられるのは、何かをするいいきっかけになり、刺激になる。(とはいえ、ずっと前から数人に薦められているキム・ギドクは、観てないのに絶対に好きではないだろうという予感による抵抗が強くて、どうしても手が出ないのだけど。)
●帰ったら、夏に書いた長い作家論の掲載の予定が決まったというメールがきていて、ほっとする。

07/11/30(金)
●お知らせ。「風の旅人」(vol.29)に、「ナイフと傷、反復と共鳴」という文章を書いています。あと、現物はまだ確認していませんが、「InterCommunication」(2008年winter)に、ICCでやっていた坂本龍一+高谷史郎のインスタレーション《LIFE −fluid, invisible, inaudible …》のレビュー(「たった一人で自分の頭の中に居るような……」)を書いています。
●『きょうのできごと』(柴崎友香)の文庫版に、単行本には収録されていない「きょうのできごとのつづきのできごと」という小説が載っていること(そしてそれが密かに傑作であるらしいこと)を知り、買おうと思って最寄り駅の駅前の本屋をのぞいたのだけどなくて、ひとつ隣の駅にある大型の書店まで散歩がてらに歩いて行って買い、近くのマクドナルドに入って、登場人物や細かいところなど忘れているので「きょうのできごと」から読みはじめ、半分くらい読んだところで、けっこう差し迫った用事のメールを携帯から出し(ぼくは、人との待ち合わせの時以外、普段はほとんど携帯を使わないのだけど)、つづきを読もうと思ったのだが、すぐに返ってくるはずもないメールの返事が気になって集中できないので、店を出て最寄り駅近くまで歩いて戻って、そこで再び、今度は最寄り駅前の、学校帰りの高校生たちでごった返しているマクドナルドに入って、その喧噪のなかでつづきを読んだ。
「きょうのできごとのつづきのできごと」を読むと、自然に映画版『きょうのできごと』も観たいと思うようになっていて、その足で近所のツタヤへ寄って借りてきて、部屋で観たのだけど、映画はまったく面白くなかった。(面白くないので、この場面をもし自分が監督だったらどういう風に撮るだろうとか考えながらでもないと、とても最後まで観ていられなかった。)
「きょうのできごと」を読んでいると、具体的にそんなに詳しい描写があるわけではないのに、一度だけその川っぺりを延々と歩いたことのある鴨川周辺の雰囲気を思い出すのだが(とはいえ、小説に出てくる「加茂川と高野川が合流して鴨川になるところ」を、ぼくは知らないのだけど)、映画では実際のその場所が映し出され、目に見えているにもかかわらず、たんに、どこにでもある「橋」としか思わないのは、考えてみれば不思議なことだ。(夜景で風景があまり見えないからというだけのことなのかも知れないけど。)
おそらく、面白い映画でもそうでない映画でも、映画の撮影現場というのはとても面白いものなのだと思う。しかし、面白い映画でもそうでない映画でも、その現場の面白さ(カメラの後ろ側の「空気」のようなもの)が出来上がった映画作品から感じられるものはあまりないように思われる。というか、その「現場」の空気から切り離すことで、映画という虚構の地平が成り立つということなのかもしれないけど。(でも、本当にそうなの?、みたいなことが「きょうのできごとのつづきのできごと」には書かれているようにも思える。)以前、多分『いま、会いにゆきます』とかいうタイトルの映画の、かなり大掛かりなロケ現場に行き当たったことがあり、大勢のスタッフがそれぞれバラバラに動いているのが面白くて、しばらく遠巻きに眺めていたことがあった。でも、その映画を観たいとはまるで思わないのだった。
(現場を遠巻きに外からみているのと、その内側で働いているのとでは、その見え方がまったく違うのだろう。「きょうのできごとのつづきのできごと」の原作者は、そのどちらでもない中途半端な「原作者」という位置から、撮影をみているのだった。)
●「きょうのできごとのつづきのできごと」は、「きょうのできごと」とつづけて読むと、ちょっと調子が変わっていることが感じられる。描写の(というか、運動の)粒が細かくなって、その粒がくっきりと鮮明になっている感じがするのと、あと、けいとと真紀が、ちょっと大人っぽくなった感じがする。
「きょうのできごとのつづきのできごと」では、A面で、自分が別に何とも思っていない男の子から好意をもたれているということの不思議さ、そして、その他人の頭のなかにある感情によって、自分の感情すらも変化してしまうかもしれない事に対するとまどいのようなものが繊細に、「きょうのできごと」の登場人物たちによって(虚構の次元として)語られていて、B面では、映画『きょうのできごと』の撮影現場を見学している原作者が、自分の頭のなかでつくられたものが、大勢の他人たちによって別の形になってゆく様をおどろきとともに眺めている顛末が、撮影のルポ風に描かれる。一方で、他人の頭のなかにあるものが、自分を動かして、自分のなかに別の感情が生まれるかもしれないこと(その微妙な徴候のようなもの)と、もう一方で、自分の頭のなかにあったものが、他人を動かし、それによって別の「形をもったもの」が、今、実際に生まれつつある瞬間にたちあっていることとが、繊細な手触りで捉えられて、裏表のように対置され、そのふたつの世界がふっと交錯する。この小説では、ある現実的な状況から、頭のなかに虚構に次元が立ち上がることと、その虚構によって、今度は現実的なものが動かされてゆく感触が、京都の冬の夜が更けてゆく底冷えのするような寒さの感覚(京都の冬の夜のことなんてほとんど知らないけど)のとともに、浮かび上がってくる。フィクションがリアルであるということはどういうことなのか、という感触が、ふわっと素早く救い上げられている感じがする。

07/11/29(木)
●若い画家が二人、アトリエに遊びにきてくれた。アトリエを割とオープンな感じにしていて、気軽に人を呼んで作品を観てもらったり、人のアトリエへも行ったりする人もいて、まあ、広いスペースを数人で借りて共同アトリエにしているような人は自動的にそうなるのだけど、ぼくにとってアトリエは、どっちかというと籠るための穴蔵とか巣穴のような場所で、他人をアトリエに入れるにはちょっとした抵抗があったのだけど、でもまあ、当分作品を発表できるアテもないし、わざわざアトリエまで来て作品を観てくれるという人がいるのなら、もうちょっと積極的に来てもらってもいいのかなあ、という風に思えた。バリバリに制作モードになっているような時はちょっと人には立ち入ってほしくないのだけど、区切りのような時期には、むしろ来てもらって風を通してもらった方がいいのかもとも思った。(とはいえ、狭くてボロくて汚いところなので、来てもらっても決して心地よい空間などではないのだけど。)
●お互いの作品のこととか、セザンヌとかマティスとかモランディとか、あるいは、ピエロ・デラ・フランチェスカとかカラヴァッジョとかの話をしている分には、十歳や二十歳くらいの年齢や世代の違いはあまり関係ないというか意識しないのだけど、その後場所を居酒屋に移して、若い画家の彼女なんかも合流したりすると、ああ、やっぱ若いなあ、と、自分は歳くってしまったんだなあ、と意識させられたりもするのだった。「芸術をやる」というのは、こういう二重の時間を生きることでもあるのだなあ、と。
●これは相手が絵を描いている人だからということもあるのだろうけど、例えば80年生まれの人なんかと普通に話が通じるのは、考えてみれば不思議なことでもある。世代的な違いとか共通項とかを探ったりすることなく、いきなり、「マティスの制作途中の連続写真を見ると、完成作品になるまですごくいろいろやってるけど、完成した作品を観ると割合薄塗りだから、これは描いた上に積み重ねられているのではなくて、一旦絵の具を剥がしてから、その都度新たに描き改めるみたいに描いているのかも(絵の具が積み重ねられるのと、剥離させてから描きなおすのでは、作品の意味というか制作の態度として、かなり違う)」みたいな話が(初対面ではないにしても、二三度しか会った事のない人と)自然に出来ることは、ちょっとすごいことではないか。こういう話は別に、共通の批評的言説とか美術教育とかに媒介されたものではなくて、真面目に絵を描くことを普通につづけていれば、当然こういう問題にでくわすでしょうという点で、普通に話が通じる部分があるということで、たとえ現代の「現代美術」の文脈(というか「市場」)のなかで絵画に狭くてマイナーな場所しか与えられていないとしても、たんに絵を描くというシンプルなことこそが、依然として貴重でありつづけていることの証拠の一つでもあるように思われた。(これには前提として、お互いの作品をある程度は知っている、ということが必要だろうけど。互いに作品を観ればある程度は「分かる」から、いちいち共通項や違いを探ったり、自己紹介したりする面倒がなくなる、ということのなかも知れないけど。)

07/11/28(水)
●散歩をしていると、黒ずんだ畑の土の色さえもが、ほとんど戦慄のようにして迫ってくることがある。これは少しばかり病的なことなのだろうか。きれいに整備された畑の片隅に、三列にわたって、まったく手つかずで実のついたままに立ち枯れになっているナスが放置されていた。乾燥して焦げ茶色になって、くしゃくしゃっと縮まった葉や茎や実。
立ち枯れのナス以外は、何も植わってないきちんと耕された土がひろがり、ずっと遠くまで見渡せる。かなり先の方にある牛舎が見える。その前の道を自転車が通り過ぎて行く。
この時期に黄緑色の葉をみっしりと豊かにつけ、背高くたちあがり、たくさんのラッパ形の白い花を下に垂らすように咲かせている木立朝鮮朝顔を対岸の土手にみつけ、その姿にため息をつくしかないような動揺を覚える。眼が離せなくて、しばらく立ち止まって、こちら側の岸からそれを眺めていた。
大きな墓地の真ん中の道を突っ切る。この墓地の敷地の隅には、地割れのように深く切れ込んだ小さな川が流れている。川の向こう側は、たっぷりと敷地がとられた高級そうな(決して高層ではない)集合住宅があり、そちら側の岸には大きな木が密集するように生えている。こちら側からは切れ込んだ川で近づけず、(建物の裏手になるので)向こう側はそこの住人くらいしか近寄らないせいなのか、その木立ちからは、騒がしいほどに様々な鳥の声がこぼれ落ちてくる。でもその姿は、時折ぱたぱたと飛びたつ数羽が確認されるだけで、なかなか見ることができない。

07/11/27(火)
●マティスの作品としては、いままでは割と関心が薄かったタイプの作品(1935〜6年頃に描かれた、後に「ルーマニアのブラウス」とか「夢」へと発展してゆくような、オダリスクとは異なるタイプの人物画)が、突然、それまでとはまったく異なる新鮮さで眼に入って来て驚く。いままでの自分は一体何を観ていたのか、と思うほどに、そこでマティスがやろうとしていたこと、掴もうとしていたものが、ありありと、まさに手で触れられるようにはっきりと感じられた。(実物を観ているわけではなく、画集で観ているのだが。)作品に触れるというのは、こういう瞬間のことをいうのだ。
●「グエムル」の元ネタのひとつだということなので、機動警察パトレイバーの「廃棄物十三号」を観た。これは元ネタというよりも、完全に原作といっていいくらだった。ポン・ジュノは、これを換骨奪胎することで「グエムル」の構想をつくったのだろう。
ただ、パトレイバーの方は、怪物ものというよりも人間ドラマが主で、若い刑事とベテラン刑事の関係、若い刑事と恋人との出会い、ベテラン刑事の孤独、警察と軍との関係、そして母と娘の関係といったものが描かれていて、怪物が派手に動き回るシーンは二つしかない。(アニメにしか出来ないことを抑制して、むしろアニメが苦手なことをあえてやっている感じだ。)
ネタバレになるけど、パトレイバーではいわば娘=怪物で、母親が怪物を育ててしまう話なのだが、「グエムル」では母親は不在であり、娘が怪物に連れ去られる。パトレイバーでは、ベテラン刑事が家族に逃げられ、科学者の女性は家族と死に別れ、若い刑事は独身である(そして母は不在の娘の代理として怪物を育てる)、という風に、不在であることによって家族が際立つことになっているのだが、「グエムル」では、あからさまに家族が扱われることで、それはむしろ希薄になる。「グエムル」の家族は、家族というよりも、共通の目的(利害)によってたまたま集まった個人によるグループという感じの方が強い。(家族がはじめて集まる共同葬儀のシーンにそれはよくあらわれている。)
パトレイバーでは、怪物は娘でもあり、それは半ば人間化されてもいる。観客は、感情移入が困難であるものに対する感情移入を経験し、それがある強い感情を喚起する。(クライマックスのシーンで、両生類を思わせるヌメヌメの怪物がかっちりとした人工的な鎧をまとっているイメージなどあからさまなのだが、これは「エヴァ」に近いイメージであり、怪物は多分に心理学化されている。)
「グエムル」の怪物は、たんに得体の知れない怪物であって(つまり母=根拠は不在で、人間化=家族化されていなくて)、そこに感情移入は起こらない。(だから冒頭から、もったいぶらずにあっさりと可視化され、この怪物への感情ではなく、その動きそのものに、観客は魅了される。)この怪物をアメリカの隠喩だなんていうのは、馬鹿げている。「グエムル」においては、面倒臭い説明は全部「アメリカのせい」で済まされている。その意味で、この映画は「アメリカのおかげ」で成り立っているとさえ言える。
怪物対軍隊(警察)という話になると、実写映画では予算的に困難になる。だから必然的に、怪物対少人数の集団の話になる。(ここで少人数の集団は、公的に認可された権利をもたないので、怪物と同時に公的なものとも戦うハメにもなる。)
パトレイバーはとても丁寧につくられてはいるが、ドラマが過剰であり、それがやや鬱陶しいのと、過剰なドラマが必然的に紋切り型を引き寄せ、アニメとしての表現力を弱めてもいる。(ただ、ベテラン刑事の描写などはけっこう凄い。杖で橋の欄干をガンガン叩くところなど、おーっと思った。)「グエムル」は、物語の構えを単純化することで、むしろより多くのものをそのなかに含み込むことに成功しているように思う。

07/11/26(月)
●昨日、昼間に散歩したコースと、まったく同じコースを、今日は夕方歩いてみた。本当は、全く同じ時刻に、同じコースというのをやってみたいと思ったのだが、昼間に用事があって夕方となってしまったた。(かなり冷えていて、途中でトイレにいきたくなってしまい、トイレのある公園まで、やけに急ぎ足になってしまった。)あえて同じことを反復することのなかにある、違い。
ぼくは、日が強く射している時と、刻々と光の状態がかわって暗くなってゆく時間に散歩するのが好きで、どうも曇天の散歩ではあまり興奮しないみたいだ。(散歩とは、ぼくにとって、ゆったりと和むというよりも、知覚が過剰になって興奮する状態なのだ。勿論、一面では、だらしないくらい和んでもいるのだが。)
●ウエルベック『素粒子』をなんとなく読み始め、半分くらいまで読んだのだが、ぼくには、この小説から面白いところを一ヶ所もみつけることができなかった。一種の社会学的な記述(68年のせいで、我々の性生活はこんなことになってしまった、みたいな)としては一定の意味があるのかもしれないが、皮肉というよりもむしろ甘えを強く匂わせる偽悪的な調子がわざとらしすぎるように感じた。あと、科学的な言説を文学的な修辞として用いるやり方が、なんか違うように思う(全然クールじゃない)。
●『電脳コイル』6〜8話。だんだん面白くなってきた。傑作の予感すら漂いはじめる。いわゆる「アニメ絵」から離れた絵柄で、地方都市のリアルを背景にしつつ、現実と向こう側の世界との行き来を描くような一連の作風(『となりのトトロ』とか『風人物語』とか『かみちゅ』とか『ノエイン』とか)の流れの上にありつつ、そのなかで、現実と向こう側の世界との微妙な境界のあり様が(少なくともぼくにとっては)突出してリアルだと感じられる。子供の頃は(そして多少は今でも)、本当にこのようにして空間を感じていた。ところどころ、ノスタルジーが行き過ぎになる感じもあるけど、臭くなる寸前でギリギリに踏みとどまっているように思う。そして、この種のファンタジーは(小説だと)しばしば、光と闇のような静態的二元論に落ち着きがちなのだが、電脳空間という設定と、アニメとしての「動き(運動神経)」が、そこへと安易に着地してしまうのを防いでいるように思われる。

07/11/25(日)
●暖かく晴れた日。歩いているだけで軽く汗ばむほど。外にいる、というだけで、ひたすら気持ちがいい。書き終えた原稿をメールで送ってから、昼前に出掛け、出来るだけ静かなところを選んで、ただゆっくりと歩く。赤や黄色になったものでも、緑のままやや色があせた感じのものでも、木についた沢山の葉々に強い日の光が当たっているのを見ることは、何故こんなにぼくを興奮させるのか、と、いつの思う。葉の色、形、質感、光の受け止め方、重なり具合、しなり、複雑な影の落ち方、枝からの生え方、一枚の葉の大きさとその塊の量感との関係、一本一本の木で異なるそれらの複合された印象は、それぞれに異なる質の、しかしどれも歓びと胸のざわつきとを伴った感覚をぼくに与える。そのバリエーションは無限にあるかのようで、次から次へと眼を奪われ、その印象を整理することは出来ない。そして、その背景の空の青はとても濃くて深い色だ。
近所に、家の前の庭に、建物を覆い隠すくらいに大きな柿の木が四本も生えている家があって、その柿の木に沢山のオレンジ色の実がついていた。それだけでなく、その家の窓辺には、干し柿がずらって並んで干されていた。(ということはあの木は渋柿なのだろうか。)
農家の庭先の無人販売所で売っていたナスを思わず買ってしまい、ナスを手にぶら下げたままで、ずっと歩いた。帰ってから、それを炊飯器で炊いて、むさぼるように食べた。ああナスだ、ナスの味だ、と思いながら。

07/11/24(土)
●「ミシェル・ゴンドリー Best Selection」というDVDを観てみた。やはりミシェル・ゴンドリーは、映画よりも、ミュージック・クリップの方が断然面白い。この人は、ビョークの「Human Behavior」で注目されたらしいのだけど、ビョークと組んだ作品は、どちらかというとこの人の本領からはズレているように思えた。
おそらくこの人は、全体的なイメージがあってそこから細部を考えてゆく人ではなく、はじめから精密な細部のイメージがあり、そしてその細部と必ずしも有機的な関係にあるわけではない、細部たちを組み立てるための規則や公式が別にあって、それを一つ一つ結びつけて行く作業が、作品を「作る」ことだ、という感じなのだと思う。ミュージック・クリップの仕事が面白いのは、事前に絶対的なテキストとしての音楽があって、映像はあくまで、あらかじめある音楽との「結びつきの規則」によって導かれるからではないだろうか。というか、この人にとっては、「音楽」という全体があるのではなく、一つ一つの音と、その継起を保証するリズムのみがあって、映像はその一つ一つの音やリズムに、正確に、そしてきわめてリテラルに結びつけられる。その徹底した律儀さの気持ち悪さ、というのか。(音楽と映像とが完璧にシンクロする、ホワイト・ストライプス「The Hardest Button to Button」やケミカル・ブラザース「Star Guitar」の異様な気持ち悪さ。 )
一つ一つの細部はおそらく、ミシェル・ゴンドリーの頭のなかにだけある、ある固有の記憶や偏った傾向性によって形作られているもので、それ自体は外側にある世界と何ら関係をもたないのだが、その一つ一つの細部が、ミュージシャンによってつくられた曲の、具体的な一つ一つの音と結びつけられることで、結果として「一つの流れ(物語や世界観)」をもった映像が生まれる。だから、曲を聞いてイメージをつくるのではなく、曲の要素を分解して、それを、自分の頭のなかにあらかじめあるイメージと一つ一つ正確に対応させ、結びつけてゆくのだろうと思う。おそらくこの人にとって、細部のイメージは絶対的なもので、それは既にはっきり「見えて」いて、その「見えて」いる通りに実現されなければ我慢出来ない、という感じなのだと思う。だが、その細部たちの結びつきや構築性は、ミュージシャンのつくった音楽の規則に従っている。(ダフト・パンク「Around The World」やカイリー・ミノーグ「Come Into My World」などが典型的だろう。)
(初期のメルヘン調のものは、ロブ=グリエを思わせるようなものだが、最近の、よりざっくりとリテラル度が増したものは、マルセル・デュシャンに近付いているようにさえ感じられた。「Human Behavior」のようなメルヘン調の作品でさえも、そこから最も強く感じられるのは、メルヘン的な世界観ではなく、「蛾の回転」という反復される細部の、異様なまでにクリアーな感触なのだ。)
あと、基本的にこの人の作品は、「一つのアイデア」で強引に押し通す感じがある。沢山のアイデアを盛り込んで作品を豊かにするのではなく、たった一つのアイデアを徹底してやり切ってしまう。あまりに徹底してやってしまうので、そのアイデアがそもそも面白いものだったのかそうでないのかが、最後にはどうでもよくなってしまう。(唖然としたのはジャン=フランソワ・コーエン「La Tour De Pise」で、これで最後まで通すのかよ!、という感じだ。)
例えばケミカル・ブラザース「Let Forever Be」の、PCをつかった編集なら簡単な操作で出来てしまうような映像のエフェクトを、わざわざ三次元的にセットで再現して、それをエフェクトでつくられた映像ときれいに繋げてしまうというようなアイデアは、アイデアとしてそんなに面白いとは思えない。面白いとは思えない上に、撮影や編集の作業はえらく大変であることが予想される。だがここでは、そんな面白くもないアイデア一本で最後まで押し切り、しかもそれがかなり凄い精度で実現されているので、それを見せられると、そこに異様な説得力が生まれてしまっているのを認めざるを得なくなる。(単純に、なんだこりゃ、という感じだ。)撮影はさぞ大変だっただろうし、その大変さを支えるモチベーションとなるはずのアイデアがそもそも、わくわくするような面白いものとも思えないのだが、おそらく細部の正確さに異様にこだわる人だと思われるミシェル・ゴンドリーは、そんなこととは関係なく、その大変な作業を喜々としてこなすのだろう。そういう人にしか作れない作品というのがある。物語よりも、細部の感触と数学的規則を必要とするような人なのではないかと感じた。

07/11/23(金)
●昨日、photographers' gallery+IKAZUCHIで観た大友真志の作品について、感想をとりとめなく書いてみる。
●一見、慎ましくあるようで、非常に多弁である。多弁ではあるが、決して声高ではない。撮影場所は、おそらく実家のリビングのようなところなのだろう。二つに分けられたスペースに展示されている9枚の写真は、全て同じ場所で撮影されているようだ。それは、撮影のために整理されているようでいて、日常生活が行われている場であることによる、がちゃがちゃした感じも残っている。
●母親を撮った写真が4枚、姉を撮った写真が5枚。母2枚、姉3枚の一室と、母2枚、姉2枚の一室に分けて展示されている。母は、写真館で記念写真を撮るかのような衣装を着、そのようなボーズをとっている。姉は、それよりはややくだけた姿勢で、着ているものも普段着に近い。カメラと対象との距離やフレーミングも、それを反映している。母親を撮った写真では、姉よりもやや距離がとられ、フレームもきっちりとしている。photographers' galleryの方に展示されていた2点では、ほぼ同一の光、ボーズ、フレームであり、ほとんど同一のイメージと言ってよいもので、ほんの僅かな首の傾け方の違いがあるだけだった。(この僅かな違いは、2点が並べられていなければ感知出来ないだろう。)姉を撮った写真は、一枚一枚、対象との距離やフレームが微妙に変化している。姉も、それに呼応するようにポーズや位置をかえてる。photographers' galleryの3点では、カメラはやや高い地点から姉を捉えており、カメラを見つめる姉の眼差しは、ほんの僅かだけ上目使いのようにも見える。ここで3点が並んでいることで、距離とフレーミングの融通性のようなものが感じられる。同時にそれは、撮影の時間の推移も感じさせる。
●母親は、展示された4点の写真で、ほぼ同じ顔や表情に納まっており、ほぼ同一の印象のなかにある。姉は、一枚一枚で微妙に印象の異なる顔をしているように思われる。実際、ここには一人の姉がいるのか、それともそっくりな二人の姉がいるのか、写真を観るだけでははっきりと断言出来ない。IKAZUCHIの方に展示された1点は、フレームといい光りといい、ほとんどフェルメールかと思うような美しい写真(からし色のシャツ、ブルーのスカート、手前の植物の緑、そして背後のドアにあたる光り)なのだが、姉の写真で、フレームや光りが「絵画的」な納まりのよさをもっているのはこの1点だけだった。
●母親は、まるで写真館で撮る写真のようなポーズをとっているが、そこはおそらく日常生活が営まれている場所だと思われる。端正なポーズをとる母親の座っているソファーの手すりにかかっているカバーが、軽く反り返っている。このなんでもないカバーの反り返りに目が吸い付けられ、この細部にやけに魅了される。また、別の写真で、母親がつけているブローチに、やけに目が吸い寄せられてしまう。あるいは、その写真の背後に写りこんでいるドアのノブの誘惑。あるいは、姉の写真に見られる無造作なパーカー、そこから垂れ下がる紐。こういうものたちは、写真によってはじめて「見る」ことが出来るものたちではないだろうか。
●photographers' galleryに展示された姉の写真には、低い位置にある太陽光が、部屋のなかに強く差し込んでいる。この光りのあり様がまた、この空間が日常的な空間であることを物語っているように感じられた。姉の下半身には外からの強い光りがあたり、それに比べると上半身はやや暗がりのなかに埋もれている。しかしこのような描写では正確ではなく、直射日光のあたっていない部分も、物をくっきりと見るのに充分な明るさはある。そして顔の部分には、そのどちらでもない絶妙な光りがあたっているように思われる。
展示されている作品を観て、まず最初に魅了されたのは、photographers' galleryの方に展示された3枚の姉の写真の「顔」だった。ぼくはいままで、このような顔を何度も見たことがある。街を歩いていて、電車のなかで、あるいは知人のなかにも。しかし同時に、このような「顔」は、今ここではじめて見た。おそらく、このような顔は写真でしか見ることができない。(というか、「この写真」でしか見られない、という質をもったものだ。)この顔はカメラを見ている。つまり撮られていることを意識している。しかしここには、人に見られていることを意識しないで撮られた顔とは、別種の何ものかが露呈しているように思われる。(ぼくはフリードの「反演劇性」や「没入」という概念を感覚的にももの凄く良く分るのだが、しかし、このような写真を観ると、それが概念としても、分析の道具としても、いかに不十分で偏ったものであるのか、ということも分る。見られることを意識したからといって、人は自らの対他的なイメージを完全に制御することなど出来ない。)あるいはポーズにしても、それは意識されたポーズであると同時に、ある無防備さもあるような、どちらでもあり、どちらでもないようなものに見える。
この顔、この視線、この姿勢が、つまりここで溢れ出ている何かが、弟である写真家との関係によって生まれるものなのか、そうではない別の何かなのかは分らないのだが。
●対して母親は、カメラの前であきらかに他所行きの顔をしているようにも見える。撮られることを充分に意識した顔、そしてポーズ。(とはいえ、充分にリラックスはしているように思われるが。)しかしここでは、撮られることを意識しているというその事実によって、逆に露になる何かが溢れ出ているようにも感じられる。その意識のされ方そのものに、その人の何かか゛露呈されている。そしてそれを撮る子供である写真家は、母親のそのような「意識の仕方」を充分に尊重しつつも、そこから溢れる余剰をこそ捉えようとしているように思われる。これはきわめて上品な態度だと思われる。
●複製技術による作品の、複製不可能性のようなものを感じた。実際、こんなに高度な作品が、プリントすることで同等の質のものをもう一枚、二枚とコピーすることが出来てしまうものなのだろうか。というかそもそも、これは技術的な問いなのだろうか。例えば、ぼくが感じた感覚は、この場所で、このように展示されることによって成り立ったもので、同じ作品でも、別の場所で、別の作品と並べられたら、また別の感触になるのだろうか。というかそもそも、ぼくが感じた(ここで充分に記述出来ているとは全く思えない)このあまりに複雑な感触を、そっくりそのまま、もう一度再現することなど本当に可能なのだろうか。複製技術の高度化は、逆に、それを受け取る我々の身体や感覚の同一性の方を揺るがすことになるのではないか。

07/11/22(木)
●新宿のphotographers' gallery + IKAZUCHIで、大友真志写真展「Northern Lights - 1 母と姉」、青山のboid+で、金村修「ダンテロブスター」。どちらもよかったけど、特に大友真志に惹かれた。人はイメージのなかの「何を」観て、「何に」魅了されるのだろうか。それは、凝視したり精査したりすることで把捉できるものではなく、きわめて捉えどころがないものなのだが、しかし、その「捉えどころのなさ」そのものに魅了されているのではなく、確実に「何か」が(しかも、すごく多くの「何か」たちが)捉えられてはいるはずのだ。フリードによるバルト論が想起されるが、しかしフリードの言葉もバルトの言葉も、決定的なところでその「何か」を取り逃がしている、ということを、大友真志の作品たちは、静かに、しかし強く主張しているようにもみえる。言語も、観ることそのものさえも、この作品の前では歯が立たず、ただその前で手持ち無沙汰に佇むしかない。
●ミシェル・ゴンドリー『エターナル・サンシャイン』をDVDで。17日の平倉圭さんのレクチャーの最後の方で、ちらっとミシェル・ゴンドリーのミュージック・クリップを観せてもらって(カイリー・ミノーグと、あとは多分ケミカル・ブラザースだったと思う)、その何とも言えない(脳のなかに閉じこめられるかのような)気持ち悪い(けどクセになりそうな)感じが気になっていて、ツタヤでビョークのクリップなんかも借りてきて観てみた。ミシェル・ゴンドリーの映画といえば、ぼくはいままで『ブロック・パーティー』しか観たことがなかったので(これは映画としてどうこう言うような映画ではないので)、どんな映画をつくるのか、ちょっと覗いてみようという感じで観た。
すごく考えてつくられている恋愛映画、というか、優秀なオタクのつくった映画という感じ。ミュージック・クリップで感じた、得体のしれない気持ち悪い感じが、きっちりと練られた長編映画では理路整然と説明されてしまった、というような物足りなさはあるけど。いまや、恋愛映画というか、「ロマンチックなお話」というのは、ここまで複雑なことをやらなければ成り立たないのだなあ、と思った。ロマンチックな場面というのを「現在時制」で成立させるのはとても困難で、だからそれは「記憶」としてあらわさざるを得ない。つまり、「記憶が想起されている現在」こそが、甘美で、かつ痛切なものとなるわけだ。その「記憶が想起されている(記憶が再生されている)現在」を、物語の仕掛けとしてどのように組み立てるのか、ということがこの映画の中心的な問題となる。(そのために主人公はベッドの上で眠りつづけなければならなくなる。)凍った川の上で二人で寝そべって星を見ているというだけでは、その場面が甘美なものとはならず、それが反復され思い出される時、それも、その記憶そのものが消えてしまうかもしれないという危機に瀕している状態で思い出されることによって、その場面がかけがえなく貴重なものとなる。(反復の一回性(?)とでもいうべきものが、ある場面をかけがえのないものにする。)そのために、「脳のなかに閉じこもる」かのような設定が必要となっている。ただ、もっと徹底して「閉じられた」感じの映画なのかと思ったら、記憶を消す方の側の(脳の外の)人たちの恋愛事情なども織り込まれて、過度にマニアックになってしまうことが周到に避けられていた。(その辺りのバランスの良さも、ミュージック・クリップの印象とは違っていた。)
途中のちょっとした違和感が伏線となる見事な時間的なトリックがあって、その後、このまますんなり「めでたし、めでたし」になるのかと思うともう一波乱(過去の回帰、あるいは呪縛の発現)があり、この結構深刻な波乱(回帰、呪縛)が、「いいさ(O.K)」という肯定の一言でふわっと溶けてゆくところは凄くいいと思った。(同じことを繰り返すことになったとしても、それは決して「同じ」ではないのだから、それでも「いいさ(O.K)」ということなのだ。)この場面が、この映画で本当に良いと思えた唯一の場面だけど、この場面があるだけで、この映画が忘れ難いものとなった。(人を、循環する構造(=呪い)の外へと導き出すのは、『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド』のラストみたいな責任と決断ではなくて、「それはそれでいいさ」「それでもいいんじゃねえ」みたいな、ちょっとした肯定の一言なのだった。)

07/11/21(水)
●淵野辺のプルヌスホールに、OPAP(桜美林大学パフォーミングアーツプログラム)の『ゴーストユース』(作・演出/岡田利規)を観に行った。岡田利規が、学生と一緒につくった舞台。微妙な部分も含めて、とても面白かった。淵野辺は割と近いので観に行ったのだが、行ってよかった。
●まず思ったのは、二十歳そこそこの大学生に、こんなに難しいことを要求するのか、ということ。岡田氏は、相手が学生だからといって決して手加減せず、おそらく現時点での自身の関心を、ガチでぶつけているのではないだろうか。俳優やスタッフが学生だから要求の質をちょっと下げて、そこである程度の完成度を目指す、というものではないように思う。相手がそれをどの程度理解し得るのか、受けとめ得るのか、ということを事前に想定してそれに合わせるのではなく、こっちも本気でやるからそっちもともかく本気で受け止めろ、みたいな。教師として学生に対するのではなく、たんに若い俳優やスタッフと一緒に仕事をする、というスタンスのような感じがする。(そしてそれが直接、作品の内容とつながっている。)
●とにかく、舞台が広くて、俳優が沢山でてくる。最後に俳優全員が並んだときに数えたら19人もいた。この19人が、夫婦とその妻の友人という、たった3人の登場人物を演じる。岡田利規の作品において、一人の俳優が複数の人物として語り、あるいは、一人の登場人物が複数の俳優によって演じられるのはいつものことだけど、それが19人の俳優の間でなされるのが、単純に凄い。男性の俳優は常に夫であり、女性の俳優が、時に妻であり、時に妻の友人となって、その役割をリレーする。(正確には、俳優は常に、役の人物であるのと同時に観客に向かって「語りかける人」でもある。俳優は登場人物を演じるというより、俳優自身の身体として舞台上にいて、ある仕草をし、ある語りをし、それが別の俳優へと受け継がれ、伝播する。)同一の主題(例えば、子供の誕生日プレゼントについて夫婦が相談する、あるいは、妻がその友人と電話で会話する)が、19人の俳優たちによって、役割を交代しながら引き継がれ、微妙な差異を含みつつ反復され、展開される。勿論、会話(台詞)だけでなく、様々な動きや姿勢が、舞台上の大勢の俳優たちの間で、反復的に伝播してゆく。大勢の俳優たちが同時に舞台上にいて、それぞれがバラバラに存在しつつ、主題(会話や仕草)が受け継がれ、伝播し、反復される、ほとんど音楽的とも言うべきこの事態は、作品の中盤に、驚く程の複雑さを実現する。(単純に、もっと上手い俳優やダンサーをあつめて、これくらいの規模でもやってほしいと思ってしまう。)
●舞台の中央には時計があり、それは現実の時刻を示している。しかし冒頭、俳優は、現在が午前11時45分であると想像しろ、と要求する。設定としては、主婦が、午前中の仕事を終え、午後の仕事(子供を幼稚園まで迎えに行く)までの、つかの間に「何もしなくていい時間」ということになっている。しかし観客は常に、現実の時刻を示している時計を目にし、それを意識させられる。
あるいは、この話は現在35歳の夫婦の話であるが、それを演じるのは二十歳前後の俳優たちである。俳優たちは、現実には、二十歳前後でありながら、35歳の役を演じている。しかし、設定上では、見た目が二十歳そこそこだけど、それは「何もしなくていい時間」に二十歳の頃の自分を思い出しているからで、実際には35歳なのだ、ということになっている。(見た目は大学生に見えるかもしれないけど、「本当は」35歳なんです、みたいなことが台詞として何度も語られる。)過ぎ去った時を想起している人物であるかのように語る俳優は、実際はその時を生きている人物であり、自身の与えられた役柄こそが、想像されたものである。
このような、両立しない時間の多層性がこの作品の動力となる。35歳の時点から二十歳の頃を想起している作家、演出家の岡田利規と、二十歳の時点から35歳を想像している俳優たちという、噛み合うことのない齟齬が、この作品の根本にあり、それによって作品が、ある緊迫した生々しさを帯びる。冒頭、チェルフィッチュのあまり質のよくないコピーのようにも見えてしまってもいた俳優たちの仕草は、次第に、その「下手さ」によってこそ生々しさを得ているようにみえてくる。作・演出/岡田利規の「作品」としての完成度は、二十歳前後の俳優たちの身体に常に脅かされている。
●その必然として、中盤、高度に音楽的な複雑さを獲得した舞台は、それ以降、「青年の主張」的な、性急さによってその複雑さが脅かされる傾向に流れる。「内容」が急速に競り上がって来て作品としての緊密さに危機をもたらすという傾向は、『エンジョイ』にもはっきりとみられたように思う。おそらく、一直線に作品の完成度に向かうことのない危うさこそが、岡田利規という人なのだろう。しかし、『エンジョイ』ではどこか「他人にかわって語る」という側面があったと思うのだが、この作品では、まさに実際にそこで演じている二十歳の俳優たちの「現実としてのあり様」が、作品としての完成度を揺るがすことになる。この辺りの危うさ、微妙さこそが、この作品の最もスリリングな、キモになるのだろう。
●『ゴーストユース』を観ていて思ったのは、若い頃はとにかく「結果」が欲しかったのだということ。若い時というのは、この先の自分の生のあまりの「長さ」に圧倒され、その寄る辺なさに耐えられず、とにかく何かしらの「結果」によって足場を得たいと思う。(しかし、先のあまりの「長さ」にうんざりしている時から、ある日突然、自分の生の「有限さ(先が限られていること)」に気づいて愕然とすることになるのだが。)だが、「結果」をはやく得たいという気持ちによってこそ、人は何か良くないものに「取り込まれ」てしまうのだが。ただし、そんなことを言えるのはぼくがもう四十歳にもなっているからで、若い時にそれを聞いても、そんなのお前が既におっさんになってるから言えることじゃん、としか思わなかっただろう。しかしだとしても、ぼくはおっさんとして、結果をあせると良くないものに取り込まれる、と言うしかないのだが。
●映像(ビデオカメラ)の使い方やマイクの使い方は、『エンジョイ』よりもずっと納得のいく感じで練られていたように感じた。しかし、携帯メールによって示される字幕の「問いかけ口調」は、ちょっと鬱陶しいようにも思った。俳優による観客への「語りかけ」のなかにある「問いかけ口調」も、くどくなるとお説教臭く感じられた。

07/11/20(火)
●『愛その他の悪霊について』(ガルシア=マルケス)。例えば(いわゆる「近代小説」である)フローベールの『ボヴァリー夫人』だったら、非人称的なものであるとはいえ、明らかに語り手の視点のようなものがあり、描写するものとされるものの間の位置関係のようなものが感じられる。(別にフローベールじゃなくても、中上健次でも綿矢りさでもそうなのだけど。)簡単に言えば、読んでいて、ここでカメラの位置がかわったとか、ロングショットからミドルショットになったとか、そういうのが分る。つまり空間が動く。そして、その視点の変化が、時間の伸縮や緩急をつくり、時間の切断、省略(ジャンプ)を可能にもする。でも、マルケスの書き方には視点というものが感じられなくて(空間が希薄で)、言葉の進行のリズムが描かれる対象に先立っている感じがする。映画で例えて言えば、フィルムに刻まれた視点の変化やモンタージュのリズムを感じるというよりも、映写機の回転そのものやそれを回転させている動力、機械的に正確にコマを送り出してゆく運動の方を、強く感じる、ということだろうか。それは、語られる内容によって小説が動いてゆくというよりも、内容の外側にある、内容とは切り離された世界の進行のリズムが内容のなかへと刻まれていって、それに従って、内容(物語の内部)が動いて行くような感じといったらいいのだろうか。(だからそれは、「描写」に対する「語り」ということともちょっと違うことだ。)内容の外側にある、時間の客観性みたいなものを、読んでいて最も強く感じた。この時間とは、物語のなかに流れる時間とはまた別にあるもののように思う。(物語の時間がジャンプしたり前後したりしても、読む時間にはあまり濃淡がなく、常に一定に流れる、というのか。)

07/11/19(月)
●寒い日。夕方、買い物に出たら、住宅街の道で、鼻へと吸い込んだ冷たい空気のなかに、石油ストーブに火をいれた時の煤けた匂いがかすかに混じっているのを、粘膜をざらっと擦る軽い刺激とともに感じた。歩いていて、かなり長いこと、その匂いはつづいた。そんなにどこの家も、石油ストーブに火をいれているのか、それとも、この匂いは、今感じている寒さの質から、勝手に連想されて頭のなかで作り出されている幻のようなものなのだろうか。
●ストローブ=ユイレ『階級関係』をDVDで。20パーセントオフで売っていたので、つい買ってしまった。(お金ないのに。)カフカの『アメリカ(失踪者)』を原作としたもの。これは無茶苦茶シャープで格好いい映画で、カットを割るというのはこういうことだ、モンタージュとはこういう風にするのだ、という見本みたいな映画。(130分近くあるけど、ストローブ=ユイレの映画なのに全然キツくなくて、普通に面白く観られる。)前に特集上映で観てとても面白くて、何度も繰り返し観たくなるような映画なので、ずっとDVDを買いたいと思っていたのだけど、今まで何かと縁がなく機会を逃し続けていたのだった。(今日は奮発して『階級関係』を買おうと決心して店に行ったらたまたまなくて、かわりに『モーゼとアロン』を買ってしまったりとか。)
ある場面の全体を示すようなカットがないので、カットがかわるこどに、空間が思わぬ方向に伸縮する。一体、その場に何人の人がいるのかも分らず、えっ、そこにも人がいたの!、みたいな驚きが、カットがかわるたびにあるような映画。その場の全体像が示されず、次のカットで何が起こるのか予測出来ない不穏な感じがずっとつづくという意味で、カフカの書き方に忠実で、この映画がストローブ=ユイレとしては特異な撮り方でつくられているのは、おそらくカフカのテキストに従っているということだろうと思う。空間が時間に従属しているというか、空間が時間に対して無防備になっているというか。ただ、カフカにはなくて、この映画にあるのは、相手の人物が延々と喋っている時に、それを聞いているカール・ロスマンのリアクションが、切り返しのカットとして示されることだろう。リアクションと言っても、ほとんどがただ無表情で突っ立っているだけなのだけど。(いわれのないことで一方的に責められていても、カール・ロスマンはただ黙ってそれを聞いているだけなのだ。冒頭の火夫がそうであるように。)小説だと、人物が長々と喋ると、それを聞いている別の人物の存在は読者の頭のなかで後退するけど、映画では無言で聞いているだけの人物の存在が切り返しで示される。この無言の切り返しのカットによって、この映画は、自身が映画であることを主張しているように思う。

07/11/18(日)
●朝、目が覚めてテレビをつけると、森尾由美と磯野貴理と松居直美の番組が終わるところで、それにつづいて、中村うさぎとマツコ・デラックスと、あと一人、ぼくは知らないのだけど、割と若い(三十前後)女性で、株のトレーダーだという人のトーク番組がはじまった。コーヒーをいれて飲みながらぼんやりと観ていたのだが、面白くて引き込まれ、最後の方ではほとんど泣きそうになるくらい感動してしまっていた。日曜の朝からこんなに凄い番組に出くわすなんて、テレビも決してバカにしたものではないと思うのだった。ただ、このスタッフがダメだなあと思ったのは、凄い会話がそこで成立しているというのに、時間がきたらさっさと話しを終わらせて、カメラをとめようとしていることで、普通だったら、番組としてどの程度使えるのかはともかく、凄い状態がそこにある限り、話が盛り上がっている限り、あるいは、出演者やスタジオのスケジュールが許すかぎり、この状態を目の前にしているのなら、カメラをとめようなんて気には、この話の腰を折ろうとするなんて気には、とてもならないはずだと思うのだけど。
話は、株のトレーダーの女性が、「バカな若い女」の典型みたいな、下らない紋切り型のことを言い、それを他の二人がぼろくそにツッコミつつ、三人それぞれの「業の深さ」が語られる、というような感じだった。このトレーダーの女性は、本当にバカのなことしか言わないのだが、それを他の二人は本気で罵倒し、かつ、トレーダーが立派なのは、いかにも恐ろしげな二人に罵倒されつづけながらも、遠慮したりめげたりなどせずに、平気でまたバカなことを繰り返し言うのだった。(マツコ・デラックスは、この女性に、あなたのいいところは空気を読めないところよ、と言っていた。)おそらく、この三人には既に親密な関係があり、そこではこのような役割(怖い先輩とバカだけどかわいがられている後輩)が既にある程度決定されているからこそのことだろうけど、それでも、バラエティ番組などであるような、お約束としてのボケとツッコミではなく、(多分に観客の目が意識されつつも)三人が真剣に話していることが伺われるのだった。
トレーダーの女性が中村うさぎに向かって、「たまにはグランドキャニオンみたいな大自然を見に行けば癒されるんじゃないですか」というようなバカなことを言い、あまりに下らなさに中村うさぎがギレて(勿論これは、多分に演劇的なもので、相手を意識した一定の抑制のなかにあるのだが、しかし同時に本気でもあるようなものだ)、「じゃあグランドキャニオンのほとりに住んでる人は悩まないのか」「そういう人だって、男がまたあの女に会いに行ってるとかいう細かいことでグチグチ悩んでるんだ」(「グランドキャニオンのほとりに人は住まないと思うわよ」とマツコ・デラックスがツッコミをいれ、「ああ、そうなの」と言い)「どんなに宇宙が広大でも、その広大さが、あたしの人生のこのつらさに何をしてくれるんだ」とまくしたてるところは感動的だった。ここで(適当に受け流すのでもなく、お説教をたれるのでもなく)年下の人に対して真剣に身をもってキレてみせる中村うさぎは、本当にエラいなあと思った。
中村うさぎの夫は、中村うさぎが生命保険に入ることを拒否しているという話。その夫は働いてなくて、中村うさぎに食わせてもらっているそうで、中村うさぎは、自分が働かないとこの男は生きていけないと思っていて、そのことが「自殺しない」ためのストッパーになっている、と、「夫は思っている」。だから、生命保険に入って、自分の死後も夫がなんとか生きて行けると思ったら、この女は自殺してしまうんじゃないか、と「夫は心配している」。という話を、妻である中村うさぎが、あくまで「夫がそう思っている」という話としてする。人間における「愛」というのは、こんなに複雑で面倒くさい形態でようやく成り立つのだった。人間の頭の中というのが、いかにデフォルトで「蝶番が外れて」いて、複雑で不安定で、面倒くさいものであるのか。そして、その事実を誤摩化さないことがいかに貴重であるのか。

07/11/17(土)
平倉圭さんのレクチャーを聞きに、秋葉原にある明治大学サテライトキャンパスへ。九時半からはじまるのだが、九時半に秋葉原に着くためには、七時半には部屋を出る必要があり、そのためには六時半には起きなきゃいけなくて、六時半なんて、下手すると普段は「まだ起きている(寝てさえいない)」時間だったりもする。前の晩、はやく寝るためにアルコールを飲み、でも二時間くらいで目覚めてしまい、仕方がないのでまた飲み、さらに二時間くらい寝る。そんな状態でも、冬の朝の引き締まったような空気は気持ちがいい。こんな朝はやく外に出るのは、ひさしぶりだ。
「分身を追跡する」というタイトルで、現実と映像との関係についての話。ビン・ラディンの映像や9.11の映像を枕にしつつ、『マイノリティ・リボート』『デジャヴ』そしてちょっとだけ『インランド・エンパイア』について語られる。(9.11以降の映画の質的変化を示すため、それ以前の映画として『ファイト・クラブ』も引かれた。)話を聞きながら途中で、こういう話の延長に『インランド・エンパイア』があると思うのだけど、平倉さんはあの映画についてはどう考えているのだろう、と思っていて(「10+1」のレビューは立ち読みしたけど、もっと突っ込んだ話として)、最後にその話がちらっと出たので、ああ、やっぱりつながりを意識しているのだなあ、と思った。でも、そのつづきをもうちょっと聞きたかった。
『マイノリティ・リポート』も『デジャヴ』も、現実が映像によって浸食されているような世界の話ではあるけど、その「映像」を使って現実世界について「探偵(捜査)」することが可能だという意味で、現実と映像とはかろうじて切り離されている。(というか、「作品内」で、二つの異なる次元が階層化出来ている。だから、主人公の主体的な行動も可能になる。)でも、『インランド・エンパイア』では「探偵」が存在出来ない。(ローラ・ダーンは一応、男を殺すことで作品世界のなかで何事かを成し遂げ、何かしら解決のようなものをもたらしたようにみえるけど、しかしその殺した男がローラ・ダーンの顔になったりもしていて、彼女の主体的な行為によって何かがなされた=現実がかわった感じとはちょっと違う。)夫がお金持ちのハリウッド女優のパートが「現実」であるという保証もどこにもなくて、実はあのパートこそがいちばん「妄想」臭くさえある。『インランド・エンパイア』は、プリコグの頭のなかの映像を、(人が受け入れ得る最低限の秩序の設定で)どうやって編集以前の状態により近い状態で取り出せるのか、みたいな作品のように思う。『インランド・エンパイア』には「現実」はなくて「映像」のみがあって、その時「現実」は作品の外、つまりその映像を操作しているリンチという存在であり、その映像を浴びせかけられている観客ひとりひとりの存在ということになってくる、と、ぼくは思うのだけど(その時観客は、プリコグに同化してその強度を受け取ろうとしつつ、トム・クルーズとなってそれを分析しようともするという風に、分裂を余儀なくされる)、そこらへんを平倉さんはどう分析するのか(例えばゴダールとどのように違うか、とか)に興味がある。まあ、そこんとこは自分で考えろ、ということなのだが。
●こういう場で、はじめて「質問」をしてみた。質問をするには、何故そのようなことを聞くのかをある程度説明する必要があり、しかしその説明がうまくいかないと、何を聞きたかったかのポイントが(喋っているうち自分でも)よく分らなくなってしまって、結局、質問ではなく自分の意見を一方的に言っただけ、みたいになってしまった。話をするのは常に難しい。

07/11/16(金)
●責任というのは厄介な概念で、何ものかを背負ってしまったとたんに、人はしばしば自らの位置を見失う。いやそもそも、人間にとって、何ものをも背負わないというのは、限りなく不可能に近いことではあるけど。ただ、正しさに対して責任をとろうとすると、その途端、しばしば人は、「正しさ」において語り、あるいは、「正しさ」を代表して語る、という位置から語り、行為してしまう。たかだか一人の人間でしかない者にとって、それが誰であろうと「正しさ」を代表することなど不可能であるはずなのに。むしろ、その「正しさ」が、どのような「邪な欲望」によって要請されているのかこそが探られる(自覚される)べきだろう。不可避的に身体を持つ我々にとって、それぞれの身体が要請する、それぞれに固有の利己的で「邪な欲望」によってしか世界と(他者と、言語と)の接点をもつことは出来ない。だから、決して「正しさ」ではなく、それぞれの「邪な欲望」を引き受ける、ということろにしか、責任はあり得ないのではないか。倫理が、自己(の身体、欲望)に対する自己自身の関係の問題としてまず成り立つという点が確認されてはじめて、他者との関係が問題となるのではないか。邪な欲望に汚染されない「正しさ」はあり得ない。それは、正しさがあり得ないということではなく、邪な欲望のただなかにいることの自覚によって、はじめて(邪な欲望によって限定された)「正しさ」を問題にすることが出来る、ということだと思う。
●「精神分析の反メタ言語論」(立木康介)より引用、メモ。
《主体がなんらかの現実に酷い目に遭わされている、と訴える。その現実は、彼にとっては他者の作り出す現実であり、それについて自分はそもそも関係がない、自分には責任がない、と彼は考えている。これにたいして精神分析は、この「他者からやって来る」現実に、じつは主体自身が----たとえ無意識の水準においてであれ----少なからず加担しており、その現実の生成に文字どおり「主体的に」関与している、ということを、主体に気づかせるように機能しなければならない。こうした「反転」は、分析のはじめの時期にとりわけ重大な役割を演じる。なぜなら、まさにこの手続きこそが、主体に自らの症状を、あるいは、彼の訴える問題のなかでの彼の主体的な立場を、引き受けさせるように働くからである。このような主体的引き受け(assomption subjective)なくしては、精神分析はいかなる意味においても機能しないだろう。》
《主体が外的な、他者からやってくる現実として告げることがらのなかに、主体自身の分、主体自身の荷担が見出されるまさにその点こそ、主体の語らいとこの現実とがひとつに交わる接点であり、この点において語らいに区切りをいれることが。そのままこの現実のなかでの主体の在り方に目印をつけることになるのである。語らいとそれが記述する現実(既に言語的に構成された現実)の間のメタ言語的差異が、こうして取り払われる。そして私たちは、他者からやってくる現実として主体に捉えられていたもののなかで、主体自身の関与が明らかにされるこの脱メタ言語的な地点において、ラカンが「主体の転覆と欲望の弁証法」のなかで告げたあの荘重な格言を思い出さないだろうか----De Alio in oratione, tua res agitur(他者についての語らいのなかで、あなたのことが問題になっている。)》
《(...)それはなにも、前節で強調したような「主体の分裂」を消し去るということを意味するのではない。むしろその逆である。ドーラの語らいを、他者によって作られる現実についての無矛盾的で閉じられた言語から、彼女自身のことがそのなかで告げられている言語へと変化させることは、必然的に、はじめの語らいが覆い隠している彼女自身の矛盾を明るみに出さずにはおかない。ここにおいてドーラは、言表内容の閉じられた連鎖から弾き出され、その言表を行う者としての主体的な立場を請け負うようにと求められるだろう。》
●「他者についての語らいのなかで、あなたのことが問題になっている。」というのは、ラカンが、ルネサンスの絵画について、そこには、それを観ている者の眼差しこそが描き込まれている、というのと、同じような意味なのだろう。ここが、リンチとかとすごく関係がある、と思う。

07/11/15(木)
●メタ言語は存在しない。あるいは、メタ権力は存在しない。これはおそらく、人間の条件であろう。ラカンの理論などとは無関係に、この感覚は、生きて生活している時の感覚として、分る人には、嫌というほどリアルに分るのではないか。というか、全ての人はこの感覚を分っているのだが、分っていることを認める人と、それを認めない人がいる、ということだろうか。
●例えば、言葉としては同じ「主体の分裂」という事態も、それが「パラドクス」として(「メタなんとか」として)生じる時と、「パラドクス以前のもの」として「最初からある」時とは、まるで質が違う。「作品」を読む(受け取る)時、その違いを感触として感じ取れなければならない。
●「精神分析の反メタ言語論」(立木康介)より引用、メモ。
《だが私たちはここで、「メタ言語」ということばにより正確な定義を与えておきたい。メタ言語とは、なんらかの言語行為や言語的構成物についてなされ、そうした言語的対象の意味や真偽を判定し、しかもそれ自体はそうした判定から免れているかのように振る舞う発言の総体である。》
《「メタ言語はない」というラカンの命題が、大文字の他者の真理を保証するシニフィアンの欠如として私たちに示しているのは、なによりも、言語というもののなかに、本当のことを本当のこととして決定づけるいかなる権威も存在しないということである。むろんこれは、真理が存在しないという意味ではない。そうではなく、真理を真理として肯(うべな)う言葉は、言語を話す誰の口からも(したがって分析家の口からも)、けっしてやってこないということである。それゆえ誰も、どのような団体も、さらにはどのような言語も、真理の名のもとに権威をもつことはありえない。「メタ言語はない」という命題は、究極的には、「いかなる権威も真理によって根拠づけられない」ということと同義なのである。》
《話している主体は、けっして自らの話している内容のなかに存在することはできない。「言表行為」の主体は、「言表内容」の主体と同一ではない。ラカンにおいて、自己述定の不可能性と主体の分裂とは、このように同じことがらをさすのである。
このようなラカンの立場は、言語というものがけっして無矛盾的な、確固たるものではない、という考えに貫かれている。ラカンにおいては、自己述定の不可能性は言語に内在しており、それはある意味でパラドクス以前のことがらである。パラドクスは、上述したように、語(シニフィアン)の同一性を仮定することによってはじめて生まれる。したがって、パラドクスを回避して言語の無矛盾性を保持しようという試みは、この仮定を問いに付することを避けるための努力と言って差し支えない。(略)
「シニフィアンの同一性」とはラカンにとって、そもそも維持することのできない(またその必要もない)虚構にすぎない。そのような虚構によって言語の確固性を保とうとすること、すなわち、「パラドクス→自己述定の禁止→メタ言語の想定」と進む理論構築の試み(ラッセルの「階型理論」に代表されるようなもの、引用者追記)は、それゆえラカンとはほとんど無縁なのである。(略)
それゆえラカンが教えるのは、むしろ言語の構造の不安定さと、それに伴う主体の分裂という事実を引き受けるということである。これはとりもなおさず、人間の条件とも言うべきものに向き合うことにほかならない。そうすることによってはじめて、私たちはフロイトの発見した「無意識」を精神分析の経験のなかに厳密に位置づけ直すことができるだろう。》

07/11/14(水)
●『グエムル 漢江の怪物』(ポン・ジュノ)をDVDで。驚いた。これはすごい傑作。ぼくは現代アメリカ映画をちゃんとは観ていないので挙げる名前が貧しいのだが、この映画は、トニー・スコットより、サム・ライミより、ティム・バートンより、そして黒沢清より、断然凄い。この映画と肩を並べて比較できるのは、スピルバーグの『宇宙戦争』くらいではないだろうか。おそらく、ポン・ジュノは、映画も沢山観てはいるだろうけど、アメリカ映画よりも日本のアニメの方がずっと好きだというような人だと思う。(なにしろ長編第一作目が「フランダースの犬」なんだし。)しかしそうだとしても、『宇宙戦争』を他人事ではなく、本気で受け止めた(ぼくが知っている限り)唯一の映画作家がポン・ジュノだったのではないかとさえ感じた(監督が意識している、していないに関わらず)。ぼくがもし黒沢清だったら(こういう仮定はそもそも相当おかしいのだが)、この映画を観てすっごく悔しいと思っただろう。この一作で『回路』がかすんでしまったようにさえ感じる。もし「ゼロ年世代の想像力」などというものが本当にあるのなら、それは日本のアニメのなかにあるのではなく、ポン・ジュノの映画のなかにこそある。(ぼくにポン・ジュノを薦めてくれた人は、ポン・ジュノとウェス・アンダーソンとを並べていたのだが、『グエムル..』を観てそれに納得がいった。)『殺人の追憶』が2003年で、『グエムル..』が2006年だから、たった三年でここまでやったわけで、それも凄いと思う。『殺人の追憶』は相当ヒットしたらしいから、製作する条件としてかなり恵まれてはいたのだろうけど、それでも凄い。『ほえる犬は噛まない』を観れば、この監督に並ではない才能があることは分るのだが、いきなりここまでのものをつくってしまうとは。才能のある人が本気で努力すると、こんなに凄いものが出来てしまうこともあり得るのだ。夜中に観たので、興奮してまったく眠れなくなって困った。
この映画を観ると、例えばタランティーノを観て喜んでいることが何と甘っちょろいことかと思う。(勿論、「甘っちょろい喜び」も人生のなかで貴重であり、全然ありなのだけど。)ユマ・サーマンのジャージ姿とぺ・ドゥナのジャージ姿とを比べただけで、その差はあきらかだろう。そもそも、アクションやモンタージュを支える「運動神経」の質が違うのだろう。ポン・ジュノのアクションは決して速くはなくて、例えば、一家が病院から脱出するシーンで、車に乗り遅れてしまったぺ・ドゥナを捉えるカット。ゆっくりと走る車のなかから捉えられるぺ・ドゥナは、走ることさえなく、悠々と駐車中の車の間を歩きながら走行する車に近付いてきて、なにごともないかのように車に乗り込む。にも関わらず、ここでは何かが「動いている」感じがある。(どうやって病院から抜け出すかという「方法」にこだわって、そこに見せ場をつくるのではなく、ある運動のみをみせてあっさり脱出できてしまうところも良いと思う。)あるいは、ライフルに残った最後の一発で怪物を倒すと言う爺さんが、しかし残りの弾の計算を間違えていて撃つことが出来ず、怪物にやられてしまうまでの一瞬の時間の猶予がスローモーションで引き延ばされるカット。ここでは、たんに段取りが説明されるのでもなく、引き延ばされた死をサスペンスとして示すのではなく、ある一瞬に起こった出来事(失策)が、「起こってしまった」ことのどうしようもなさこそが、この遅さによって示される。(一見説明的にみえるスローモーションにも、独自の「遅さ」の質があるように思う。『殺人の追憶』で気になった、わざとらしいタメがこの映画では全く気にならない。)あるいは、検問で、賄賂を要求する役人と爺さんとのやりとりが、クローズアップの切り返しで示されるシーン。ここでは、眼球や瞼のちょっとした動き、首のごく僅かな傾け方、等が、派手なアクションに負けない程の「動き」を画面に与えている。(ポン・ジュノは「顔」を捉えるのが特に巧みな監督だと思う。ソン・ガンホの顔の素晴らしさ。)前の二作を観るかぎり、ポン・ジュノは、才能はあるけど穴もある人という印象なのだけど、この映画では冒頭のカットからいきなり傑作という雰囲気が漲り、それが途切れることなく最後まで持続するので(ひとつひとつのシーンにこめられているアイデアの量が半端ではないだけでなく、それらがことごとく噛み合っている)、このシーンが凄いあのシーンが凄いという話はいくらでもつづけることが出来るのだが、それをいくらつづけても、この映画がいかに凄いかには必ずしもつながらないようにも思う。(それにしても、細部について際限なく話したくなってしまうような映画ではあるが。)
この映画は、たかだか河っぺリにたった一匹の怪物があらわれたというだけの話が、いつの間にか現代の韓国の社会全体の雰囲気を反映し、アメリカと韓国との関係さえも反映するひろがりをみせたかと思うと、それが結局はある一家の話へと収斂してゆくのだが、それでも、社会派でもないし、家族が大事という感動の話にも着地しない。監督自身の世代を反映するかのような細部(火炎ビン!)もあるが、それがことさら前に出てくるわけでもない。かといって、純粋な「アクション」のみが提示されているというのでもない不純な要素がたくさんあるし、映画マニア、アニメマニア的なだけの映画でもない。(ある意味すごくペラペラなのだが、シャマランみたいに、分りやすく「変(=現代的)」なわけでもない。)この映画は、フィクションの原理にも、現実の原理にも、そしてジャンルの原理や純粋なアクションの原理にも、そのどれにも安易にもたれかかることなく、その全てを同時に意識しつつ、そのどこにも着地しないキワキワの緊張を保ちながら、「この映画」そのものとしての、独自の「運動の軌跡」をつくり出しているという点で、傑作なのだと思う。

07/11/13(火)
●『ほえる犬は噛まない』(ポン・ジュノ)をDVDで。これはさすがに面白い。おそらくポン・ジュノはたくさんアイデアがある人で、いろんなテクニックも使える器用な人で、だからいろいろやりすぎて『殺人の追憶』のように、何をやりたかったのかよく分らない感じになってしまったりもするのだろうけど、『ほえる犬は噛まない』では、ごく狭い範囲での話のせいか、登場人物たちの性格づけがはっきりしているせいなのか、それともコメディというジャンルによって制御されているせいなのか、様々に盛り込まれるアイデアとテクニックが、たんに要素の羅列という風にはみえなくて、中身がぎっしり詰まっているようにみえる。ただ、唯一ちょっと納得出来ないのは、最後の方でイ・ソンジェが、犬を殺したのは自分だと告白しようとするのに、ペ・ドゥナがあくまでそれに気づかないということで、これはなにか、うまくはぐらかされたような感じだ。ここで、ぺ・ドゥナがその告白に「どう反応するのか」が撮れてないと、この映画は終わらないのじゃないかと思う。別に、何か言葉を喋ったり、行動を見せたりしなくても、リアクションの表情を見せるワンカットでもあればいいと思うのだが(というか、ワンカットだけで示す方が難しいか)。ここでぺ・ドゥナに、どういう反応をさせればよいのか、監督には最後まで分らなかったのだろうとは思う。上手くはぐらかしているからこそ、この映画が気持ち良く終わるのであって、何かしら反応をみせたら、そこは失敗しているようにみえてしまうかもしれないのだが。あるいは、ここで告白が失敗するからこそ、イ・ソンジェの「気持ち」が決してその受け止め手を得られずに宙づりなままであるからこそ(思いが通じないからこそ)、その後の、いろいろあってなんとか教授になれたイ・ソンジェが、大学の教室のなかで見せる、どこを見ているのか分らない無為の表情が、この「どこにも決着しない感じ」が(人生がとりとめもなく「ただ」つづいてゆく感じが)、素晴らしいのかもしれないのだが(このシーンでのイ・ソンジュの佇まいは本当に素晴らしいのだ)。大袈裟さに言えば、ソニアに出会い損なったラスコーリニコフのようなのだ。ここまで書いて、この解決されない感じこそが、この映画の良いところなのかも知れないと、ぺ・ドゥナは気づかなくていいのだと、考えがかわってきた。
●コメディというのはつまり、構造とそこからこぼれ落ちる出来事(アクション)とのズレの間に生じるのだなあ、と、この映画を観ていて思った。だから、『殺人の追憶』ではちょっとわざとらしいようにも思えた「伏線」が、ここでは有効に機能するのだろう。例えば、イ・ソンジェが老婆から犬を奪う場面の坂道で林檎(梨?)が転がることが、その後、トイレットペーパーとして反復される瞬間が素晴らしいのだろう。あるいは同じシーンの、イ・ソンジェの犬を抱いたままの策越えのジャンプが、ポケベルで呼び出されたぺ・ドゥナが管理事務所へ戻ろうとするシーンの、唐突で不器用な策越えとして反復される瞬間が素晴らしいのだろう。あるいは、犬を探す少女のフードを被った黄色い衣装が、犬殺しを追跡する時にフードを被るぺ・ドゥナへと反復され、それがさらに、ポスターを貼るイ・ソンジェの黄色い雨合羽へと受け継がれる時、これがたんに視覚的な類似性(映画的なテクニック)を超えて、「笑い」とともに、その都度異なった「新たな意味」として反復されるからこそ、素晴らしいのだと思う。(『殺人の追憶』の時もそうだったのだが、この監督の「しっとりした雨」の描写は好きだ。)
●この監督は、一面で、ちょっとわざとらし過ぎるような説明的な描写をしてしまいがちなのだが、もう一方ですごく繊細な描写もあって、そのちぐはぐさも面白い。というか、繊細な描写そのものが素晴らしい。例えば、ぺ・ドゥナの親友の太った女の子(とその職場の文房具屋)が最初に出て来るシーンで、ぺ・ドゥナが濡れた傘の先で女の子をかるく突っつくのがロングっぽいカットで示される。このシーンでは観客はまだぺ・ドゥナとこの女の子との関係を知らないから、ぺ・ドゥナはたんに無神経(無配慮)から女の子に濡れた傘をぶつけてしまったのかと思うのだが、その後、この女の子との関係を知ると、これが「意図的な無配慮」であり、親密さのあらわれであることが知れるのだ。すごく何気ない親密さの表現で、こういうところがすごく上手いなあ、と思う。それに、この女の子の職場である、意味不明な程に狭い文房具屋が素晴らしいし、その狭い空間に無理矢理押し込まれるように二人でいるシーンも素晴らしい。あと、亡くなった老婆から受け継ぐ「遺産」が切り干し大根だったりするところに、感動して泣きそうになる。骨壺を連想させるような形態の容器に、切り干し大根を詰め込むぺ・ドゥナの仕草...。
あるいは、イ・ソンジェが犬探しのビラをコピーしているシーンで、ぺ・ドゥナの話から、自分が殺した犬が原因で老婆が亡くなってしまったことを知る切り返しのモンタージュの呼吸。ぺ・ドゥナが、まるで犯人がイ・ソンジェであることが気づいたかのような驚きの表情をみせ、次にイ・ソンジェの鼻から鼻血がつつっと流れ(つまりぺ・ドゥナは鼻血に驚いたのだ)、次にその鼻血がコピー機に垂れて、血の滲みがコピーされる。この展開の意外さと呼吸の素晴らしさは、まさにモンタージュによってつくられるアクションとはこういうものだということを示している。ぺ・ドゥナが、イ・ソンジェの探していた犬を見つけて部屋まで届けるシーンで、イ・ソンジェが部屋のドアを開けるとそこにぺ・ドゥナがいて、ひと呼吸あってその後ろから太った女の子がちょこんと顔を出す呼吸とか、こういうなんでもない小ネタが、絶妙のタイミングでなされているところに才能を感じる。(ただこれは、映画というよりちょっとアニメっぽい呼吸かもしれないのだが。)
あと、イ・ソンジェが犬を見失ってしまったことをなじる彼の奥さんが、彼に向かって金槌を投げ、それに逆切れしてイ・ソンジェが奥さんに向けてそれを投げ返そうとするアクションをみせ、観客があっと思うと、次の瞬間バリンとガラスの割れる大きな音が鳴り、それは窓に向けて投げられたことを知る。こういうアクションのシーンの呼吸の巧みさこそが、この映画を面白いコメディとして成り立たせているように思う。
●草薙幸二郎氏が亡くなられたそうだ。東映セントラル(セントラル・アーツ)は、八十年代に十代だったぼくにとっては、八十年代にまで生き残っている七十年代の痕跡のように感じられていた。それは、まずなにより『ビー・バップ・ハイスクール』なのだけど、映画だけでなく、テレビドラマの『探偵物語』、『俺たちは天使だ』、『プロハンター』、『あぶない刑事』(『あぶない刑事』の頃になると既にあまり真面目には観てなかったけど)でもあり、それらによって決定的な何かがぼくに刻まれたように思う。それらに出ていた、草薙幸二郎、成田三樹夫、あるいは中条静夫といった俳優は、もう、こっちの世界には存在しないのだった。

07/11/12(月)
●対談集『映画のこわい話』(黒沢清)。全体としては、特別に面白い本というわけではなかったけど、相米慎二との対談が素晴らしくて感動した。親しいという訳ではないが、まったく知らない仲というのでもないと思われる二人の映画作家(ディレクターズ・カンパニーでの経験が、「相米みたいな作り方はやめよう」と黒沢清に思わせたのではないだろうか)の二人が、相手への遠慮と緊張とを基調にしつつやや距離をとって話をしていて、ときおりその間に、相手の懐深くまでぐっと踏み込んだところでの応酬が、しかし節度を失わず、ごく手短に成立し、走り去る。黒沢清と相米慎二という、世代も作風も異なる作家の間に、こういう対話が成立するのだということに感動するし、それを文字という形ででも読めることに感謝したい。
『ニンゲン合格』の頃は、まだ相米は生きていたんだなあ、と思う。十何年かぶりで、ビデオで『あ、春』を観直す。すごくいいのだけど、素晴らしく面白いというわけではない。どこが「違う」のだろうかと考える。(相米の映画としては例外的に、年配の女性が三人ともとてもいい。本当は、年上の女性-女優を捉えるのがすごく上手かった人なのではないかと思った。その部分は充分に展開されないままとなったのだが。あと、斉藤由貴が眠っている佐藤浩市の腹をそっと噛むシーンがとてもエロかった。)この「違う」という感覚(「相米の映画そのもの」であったものが、何か「技」でしかないものになってしまっている、という感じ、ジャストミートであったものに、やや芯からのズレが紛れ込んできた感じ)が、中学生の時からリアルタイムでずっと相米を追いかけていたぼくに、『夏の庭』以降の相米を遠いものだと感じさせたのだろうと思う。

07/11/11(日)
●論争というものがあまり信用できない。例えば、イチローが、自らのバッティング理論(テーゼ)と基本的に対立する理論(アンチテーゼ)をもつバッティングコーチとの対論を通じて、そのバッティング技術を高める(止揚する)、なんてことはあまり想像できない。イチローにその技術を更新させることを促すものは(あるいは、その獲得された「技術-理論」を検証するものは)、凄いピッチャーの投げる凄いボールであって、対立するバッティング理論との間で戦わされる論争ではないはずだ。あるいは、フロイトに、常にその理論の更新を促しつづけたものは、目の前にいる患者の存在であって、フロイトの理論に反対する者との間で起こる論争ではないだろう。(この、二種類の「他者」の違いは重要だと思う。)
●より良いものを生み出そうとする時、その「正しさ」は決して一つではない。ある正しさと、根本的に相容れない別の正しさがある。例えば、イチローと松井の仲が悪いとしても、それはそれで仕方がない。これは相対主義ということではない。どちらも、限定的に、しかし絶対的に、正しいのだ。(どんな正しさも、決して「全て」ではない。)つまりそれは、イチローと松井が論争(あるいは協力)したからといって、それを超克するような、より優れた新たなバッティング技術が簡単に生まれるわけではない、ということでもある。(イチローはイチローとして、松井は松井として、それぞれのバッティングをそれぞれで追求するしかない。)それはまた、たんに論争するだけでは「話した」ことにならないということでもある。
●ある人が何か意見を言い、もう一方の人がそれとは異なる意見を言って、双方で相手の問題点を指摘して、意見を戦わせつつ議論を深めてゆく、というようなスタイルでなければ「話したことにならない」みたいな思い込みは、一体どこから出て来るのだろうかと思う。そういうのって、ある意味すごく安直でさえあるんじゃないだろうか。安直というのは言い過ぎだとしても、それは人が話をすることのあり様にごく一部でしかない。人はもっと普通に話すのであり、あるいは、人と人とはそう簡単には話せない。(例えば、フロイトと患者との「対話」は、どのように成立していたのか。)コミュニケーションは言葉だけでなく、様々な要素、様々な次元が同時に絡み合って進行しており、それが作用する時間のスパンもまちまちのはずだ。(その場ですぐ反応できる言葉もあれば、何年も経ってから作用する言葉もある。)
●異なる立場、相容れない意見をもつ者による論争が下らないといっているのではない。だがそれは、何かを生み出すものではなく、妥協点を、落としどころを探るためのものとなるだろう。それは、同一の空間や限りある資源を共有するしかない我々が、そのなかで異なる立場の者とそれを分け合い、その分配比率を調整しなければならないという条件のもとでは避けて通れない、ということだ。だからそれは、より良いものを目指すのではなく、より多くの人にとってより少なく悪いものを目指すことになる。これは論争というより政治であり、落としどころは常に中庸なものとなるだろう。こちらはこの部分を妥協するから、お前はこれを譲れ、という具合に。それは常にその都度の具体的な折衝としてあらわれる。
●正しさというのはとても危険なもので、あることを正しいと思った瞬間、それにそぐわないことは皆「間違っている」と思いがちだ。間違っている、ならまだマシだが、それを共有しないことを「悪」だとさえ思うようになる。そして、自分はこんなに「正しい」考えをもち、「正しい」行いをしているのに、それを認めない周囲は、皆間違っていて、許せないと思ってしまう。だが、そんな「正しさ」は根本的に間違っているはずなのだが。

07/11/10(土)
●今日は全然頭が働かない。頭の芯が痺れているようで、何かをはじめようとすると、すぐに眠気が襲って来て、ぼーっとなって、集中できない。頭のなかがどろーっとしている。こういう時でも、無理して集中しようとしているうちに、徐々に頭が働き出すこともあるのだが、今日は、一時間粘っても全然ダメなので、あきらめて、強いアルコールをガーッと飲んで、一度寝てしまって、夜中にでも起きて仕切り直しだ、と思う。しかし、飲みはじめるとだらだら飲んでしまって、なかなか寝ない。酒好きなのでこういうことになってしまう。昼間っから自分の部屋で。
確か坂上二郎が以前、飲みはじめると何軒もハシゴしていつまでもだらだら飲みつづけてしまう人のことを「スケベ酒」と言うんだ、とテレビで言っていた。あれは鈴木ヒロミツが亡くなった時で、「あいつはスケベ酒でねえ」と言ってから、いやいや、こっち(小指を立てる)の方のスケベじゃないですよ、と言って、その説明をした。
だらだら飲んでいたので、夜中に目が覚めても、体にアルコールが残っていて、いまひとつしゃきっとしない。
●喫茶店で、暖房は効いているのだけど、足下がスースーした。ああ、冬の感じだ、と思う。

07/11/09(金)
●『殺人の追憶』(ポン・ジュノ)をDVDで。薦められて、ポン・ジュノをはじめて観た。何というか、変な映画で、一本の映画としての統一した印象がない。いろんな映画のいろんな要素やテクニックを、ほとんど脈絡なく継ぎ合わせて出来ているような感じ。しかも要素がやたらと多い。そして、タメが長い。ごった煮なんだけど、味が絡んでなくて、一口ごとに味が違う、というか。基本的に俳優は、タメとミエの演技で、演技だけでなくカットのタメも長い。で、必然的に、説明的な感じになるのだが、しかしテレビドラマみたいにそれをベタでやるのではなく、けっこう格好良く撮っている感じもあるので、そのチグハグさも妙なのだ。
田舎の刑事のコンビと、都会の刑事の対立の描写は、どうみてもコメディとして思えないのだけど、何か「笑う空気」じゃない。都会の刑事は登場シーンでいきなり田舎の刑事に飛び蹴りくらわされてて、「とび蹴りって」とツッコミを入れつつ「笑うところ」のはずなんだけど、そんな感じでもない。あと例えば、犯人が写っているカットが一つだけあるのだけど(暗くて誰だかわからないけど)、犯人が襲いかかる呼吸もふくめて、その辺りだけいきなりホラーの調子になる。あるいは、最後の方で刑事の奥さんが襲われそうな雰囲気を盛り上げておいて、それをすっと外して実は後ろから来た女学生が襲われるという一連のシーンも、そんなサスペンスのテクニックがここで必要なの?、という感じ。さらに、ほとんどラスト近くで、刑事の相棒が足を切断しなければならなくなるというエピソードがあるのだけど、え、なんでここにそのエピソード?、みたいな。さらに、やっと目撃者を見つけて、目撃者に犯人を写真を見せて、さあどうなるかという時、目撃者はいきなりわけのわからないことを言い出すのだけど、そんな強引な期待の外し方があるのか!、みたいな。(最後の容疑者が、あまりに「いかにも」な感じで登場することも含め、観客の感情-期待のもっていき方が強引すぎる。)時代背景を示す描写も、どこか取ってつけたような感じだし。で、ラストは唐突に芸術っぽくなって余韻をもたせるって...。目の前のシーンがチカチカと移り変わって流れてゆくので、時間が積み重なってゆく感じがあまりない。(犯行が反復されるので、長編としての「流れ(リズム)」はあるのだが。)
とはいえ、たんに退屈させないために要素をたくさんつめこんだガチャガチャしただけの映画というわけでもない。最初の死体がある場所のアイデアは素晴らしいと思うし、二つめの殺人で、殺人事件に慣れてない田舎の警察が現場を仕切れなくて、死体が横たわってるそばを子供たちが走り回っていたり、犯人の足跡を耕耘機が通って消してしまったりするシーンも面白い。階段を下った地下にある取調室(というより、あれは完全に拷問室だけど)の空間も面白い。階段の真ん中辺りに小窓があって、田舎の刑事のコンビの拷問を都会の刑事がそこから冷ややかに眺めている(しかし、なぜ止めないのか)のも面白い。容疑者に蹴りをいれる時、傷が残らないように厚いカバーを靴に被せるという細部や、取調中に、おっちゃんが階段を下って取調室の暖房に火を入れにくる描写も面白い。犯行現場でマスターベーションしていた男を追いかけているうちに、へんな石切り場みたいなところにたどり着く場面も面白い。刑事が女学生を訪ねて学校を訪れた時、その女学生が刑事と二人でいる自分に対する他の女の子の視線を常に意識している感じとか、芸が細かい。(その後の絆創膏はいかにも「伏線」という感じだけど。)それに、刑事の奥さんがハードに働く夫を呼び出して、湖のほとりみたいな場所で「屋外点滴」するシーンはとても好きだ。あと、何度も繰り返される、雨と空襲訓練の雰囲気も割と好きだ。最後の方にゆくに従って、刑事たちの疲労と焦燥が濃くなってゆく感じも、ちょっとクサイけど良い。ただ、全体的な傾向として、「余韻」を引っ張ろうとし過ぎている感じが、描写の切れを悪くしているようにも感じた。
統一した印象がないので、感想を書こうとすると、こうやって細部を書き並べることになる。(統一感のなさは、登場人物が「どういう奴」なのかよく分らないところからくるのかも。)これ一本だけでは、ポン・ジュノがどんな監督なのか、ちょっと掴めない感じだ。

07/11/08(木)
●かなり前から持ってはいたのだけど、なかなか最初の二、三ページを通過することのできなかったクロソウスキーの『肉の影(バフォメット)』の、なんとかプロローグの部分を通り抜けることが出来た。とはいえ、見通しを塞いだような、ただ足下みのを見て迷路を(あみだくじ上を)歩かされるような文章と、同じ人物が何通りもの呼び方で呼ばれていて混乱してしまうのとで、一度読んだだけでは何が書いてあるのか掴みきれず、あたらめて最初からもう一度、一度目よりもずっとゆっくりと読み返して、ようやく書かれていることが呑み込めた。(とはいえ、これから先の展開についていけるかどうか不安だ。)
●少しぼーっとしてから、『遠まわりする雛』(米澤穂信)の、最初の三つの短編を読んだ。米澤穂信の小説はどれも、必ず何かしら独特の「引っかかり」というか「屈折」があり、それが不思議な面白さになっている。最初の三つの短編に限って言えば、どれもホータローと千反田えるとの関係についての話で、これは古典部シリーズというよりもむしろ、小市民シリーズのバリエーションみたいな感じだ。二人の男女の関係を描くのに、いちいちミステリ的な仕掛けという媒介を間に挟まなければいけないという回りくどいところに、その引っかかりが発生する秘密があるのかもしれない。
●荒川修作の発言から。「歩く」ことについて。《私はある環境の中で何かを見つけながら、見られながら、私自身の身体の中を歩いている何かを感じます(笑)などと言うとどうなりますか?》
これは「現代思想」の荒川+ギンズ特集に載っていた佐々木正人、福原哲郎との鼎談からの引用なんだけど、この鼎談で、佐々木氏や福原氏の言うことは、なんとなくイメージとして理解できる。ぼくは福原哲郎という人がどんなダンサーなのかまったく知らないにもかかわらず、《姿勢とは大地に対する決断です》とか「ある姿勢をとる時かならず重力が作用していて、重力を支える接触面の身体の側を足といい、世界の側を大地という」みたいに言われると、なんなく納得してしまう。(それに対しアラカワは「足がなくちゃ歩けない」というのじゃダメだ、とか言って、引用部分の発言となる。それにしても、この言葉の強さは何なんだろうか。)でも、アラカワの発言は、イメージとして理解することが出来なくて、言葉として、字義通りに、そのまま受け入れてみる(あるいはまったく受け付けない)しかない。荒川の身体は「言葉」だけで出来てるんじゃないかとさえ思う。(荒川の作品のまったく引っかかりのない滑らかさ、ハリボテのような薄っぺらさ、物への無関心。)まずその異様さを体感すること。
●アラカワのつくった住宅では、収納がいっさいなくて、そのかわり、天井にいくつもフックが打ち込まれていて、持ち物は全てそこからぶら下げることになっていた。これは何かとても特徴的で、おそらく現実的にも比喩的にも「押し入れの奥にひっそりとしまわれた記憶」というものを嫌っているということで、あらゆる記憶=持ち物は「目に見えるところ」に常にぶら下がっていて、視線の動きだけによって(その都度)即物的に現前しなくてはならない。そして同時にそれは、他者の視線にも常に晒されていなくてはならない。裏側に隠された物がないということは、厚みがないということだろう。

07/11/07(水)
●kuriyamakoujiさんのブログ(http://d.hatena.ne.jp/kuriyamakouji/20071107)に、先日行われた保坂和志さんとぼくの対談についての反応が引用されいました。ぼくは、それが厳密なロジックにもとづくものであろうとプロレス的なものであろうと論争という形式を好まない(意味を見出せない)「いい加減な奴」なので、反論ではなく、(おそらくぼくの喋りが未熟であったことが原因だと思われる)単純な誤解の訂正と自分の発言の補足だけをしておきたいと思います。
《また、先日大学の文化祭で小説家保坂和志の講演を聞いたのですが、そこで映画作家デヴィッド・リンチを、時系列にそった通時的な因果律や一貫した主体の自己同一性から自由な『フレームから外れた』作家として安易に称揚してしまう保坂や、その対談者である画家の古谷利裕の態度に、....》
あの場でぼくが言おうとしていたことは、リンチが、たんに《時系列にそった通時的な因果律や一貫した主体の自己同一性から自由な》だけの作家と「いかに違っているか」、ということだったのですが。リンチにおいて、因果律の解体や同一性の崩壊は、たんに「結果」であって、それを引き起こさざるを得ない「不穏な何か」こそがリンチのリアリティである、ということを一生懸命言おうとしていたのですが、残念ながらそれは伝わらなかったみたいです。時間的秩序や同一性を歪ませてしまう程の強い力とはおそらく「現実」(保坂さんの嫌いな言い方をあえてするなら「外傷」)なわけですが、しかしその現実は決して「作品」と切り離して、その外側に見出せるようなものではない、作品のゆがみそのものによってしか感知されないような「現実」なのだ、ということでした。(リンチは「美学的」な側面からはまったく評価できないと思います。普通に「映画的」にみれば、ひどいショットばかりから成り立っています。)
《古谷さんも偽日記の『サッドヴァケーション』評を読む限り、狂気の母性と責任の父性の相克については良くお分かりのようなのに、講演では保坂のいい加減さに単に加担しているだけのような気がしました。》
『サッドヴァケイション』に対して批判的なことを言うとしたら、それはまさに《狂気の母性と責任の父性の相克》というような要素を作品から独立して切り離して、それのみで議論したり、それによって作品を評価したり批判したりが簡単に出来てしまう、という点があります。それがつまり、「東京タワーが千代田区にある」という事実を作品とは無関係に評価できてしまう、ということだと思います。リンチの映画の「現実」はまさに作品と一体となってしか存在せず、だからこそ逆に、作品に対して(作家に対しても)徹底して「外」にありつづけるとも言えます。この歪みのなかにこそリンチの現実があると思うのです。(ぼくが、保坂さんの「野蛮さ」に魅了され、引っ張られているという指摘は、否定しませんが。)
《....「東京タワーは千代田区にある」という記述は「東京タワーは港区にある」という常識を皆が共有しなくては宙づり状態は生み出されない。でも、僕が言いたいのは「東京タワーは港区にある」という常識が読者にとって自明のものであるという前提が無くてはそれは成立しないでしょってことなんですけどね。社会学的言説によれば、そういった常識的な共通前提の維持がかなり危なくなっている訳で、そういう状況を無視しているようにしか見えないんですよね・・・。》
社会学的な次元で、そのようなことが問題となっていることはぼくも知っているし、それを(社会生活の上で)無視できるとも思いません。ぼくにも、そのような視点からの問題意識はあります。ただ、そのような社会学的視点そのものを揺るがすくらいに強い「別のリアリティ」がリンチにはあり、それに従うことこそが芸術における論理であり倫理であるのだと思います。リンチにおいては、「東京タワーは千代田区にある」という文は「東京タワーは港区にある」という作品の外の事実(常識)との関係で作動するものではないと思います。作品の外の事実(現実ではなく「事実」)は、作品内部ではまったく無効であり、事実である資格を剥奪されています。(善し悪しはともかく、リンチやアラカワにおいては、その点が他に例をみないほどに極端である。そこで現実とは、常識や共通認識とはまったく別の、もっと直接的でかつ知覚不能なものです。)つまりそれは、社会学が「現実」としているものが本当に「現実」なのか、人は本当に社会学的な現実のなかで(のみ)「生きて」いるのか、ということでもあります。それが間違っているということではなく、それを現実とする「フレーム」とは別のフレームを芸術は成立させることが出来る(すくなくともその「可能性」のなかでつくられる)、ということです。それは必ずしも「美的なもの」に還元されるのでもありません。芸術が一番エラいとは言いませんが、社会学の方が芸術よりエラいとも思いません。芸術が社会学や倫理の問題の翻訳である必要はないと思います。
(余談ですが、ぼくにはカントの超越論性とラカンの象徴界を短絡しているような斉藤環氏の議論-茂木健一郎批判は納得できません。ラカンによってカントを復活させたいという「欲望」は理解できますが。でもラカンは、「それは無理だ」ということをこそ言っているように思います。例えば『精神分析の倫理』において。もともと、フロイトの、外への攻撃性が内側にねじ曲がって超自我が生まれるという説明は、カントの道徳や自由への根本的な否定ではないでしょうか。斉藤氏はたんに、クオリアでは説明出来ない「象徴界」のはたらきがあり、原初的に刻みこまれた「否定」があるのだ、ということだけ言えばいいのに、何か「変なもの」を背負っちゃってる感じがします。)
●ぼくは、ここで引用されている文章を書いた人の問題意識を理解できないわけではありません。でもそれは、あの場での保坂さんとぼくの話とはまた別の次元の話だと思う。ぼくは自分を芸術家だと思っているので、(必ずしも論理的ではなくても)芸術の話を真剣にすることが最も「責任ある真面目な態度」なのだと思っています。全ての人が、同一の正しい問題を正しく共有しなければならない、という一方的な前提こそが疑うわれるべきだと、ぼくは思います。
(追記07/11/08)
●もうこれ以上反応する気はありませんが、乗りかかった舟なのでもうちょっとだけ。「追記」の部分について。(たんに「つまんねー」とか「ゆるいよ」とかだったら、そうですか、すいません、てだけの話なんだけど。)
●多分、あなたのいらだちは下記の部分に集約されているのだろうと思います。
《リンチを楽しめる人なんて、その殆どが通俗的な因果律を片方に強固に持っているインテリ人間な訳で、そこら辺の言語を鍛えていない兄ちゃん姉ちゃんなんかがリンチを理解できる訳が無い。それなのに、そういった経路無しに芸術が、それ自体で成り立つ、なんてことを無邪気に言ってしまう。そういう無邪気さがどういう上げ底で成り立っているか見ようとしていない。》
(1)まず一点。《リンチを楽しめる人なんて、その殆どが通俗的な因果律を片方に強固に持っているインテリ人間な訳で》って、あなたの「インテリ人間」に対するイメージはあまりに歪んでいます。まるでインテリ人間=社会的な強者みたいじゃないですか。そんなの何十年前のイメージですか。多分、リンチが好きなような変人とも言える「インテリ人間」の多くは、現在の社会では、かなり貧しい生活やきびしい立場を余儀なくされていると思います。(ぼくも含めて。ぼくをインテリというのはキツいけど。)それに、リンチなんかをわざわざ好きになるのは、《通俗的な因果律を片方に強固に持っている》ような人ではなく、むしろそれが常に揺らいでしまっているような不安定な人のはずです。リンチは(現代芸術は)、壷や骨董品じゃないんだから。あなたの意見は、ごく素朴な「人間観察」的な次元でズレていると思います。
(2)二点目。《そこら辺の言語を鍛えていない兄ちゃん姉ちゃんなんかがリンチを理解できる訳が無い》について。一体あなたは何の権利があって「そこら辺の言語を鍛えていない兄ちゃん姉ちゃん」を代表しているのですか。「そこら辺の言語を鍛えていない兄ちゃん姉ちゃん」たちから選挙で信任されたんですか。マーケティングの結果ですか。世間の常識ですか。誰が何を面白いと思うかなんか分からないじゃないですか。あの日の講演はまさに、こういう考え方に陥らないためにはどうすればよいのか、を巡るものでもあったと思います。フレームに捕われないというのはそういう意味でもあって、「そこら辺の言語を鍛えていない兄ちゃん姉ちゃんなんかがリンチを理解できる訳が無い」と思い込んでしまった(そういうフレームを前提としてしまった)瞬間に「負け」なんです。そこで既に、マーケティングや資本主義やネオリベや「日本」という強力なフレームに負けてるわけです。(勿論、結果として「理解されなかった」なんていうのはしょっちゅうなわけですが、そんなことで負けてたら芸術家なんてやってられません。実際、あの日の講演の言葉はあなたにはまったく「理解されていない」わけだし。)そんなのは「ゲイジュツカ」のたわごとだと思うのならば、それはそれで仕方ありませんが。
(3)三点目。《そういった経路無しに芸術が、それ自体で成り立つ、なんてことを無邪気に言ってしまう。そういう無邪気さがどういう上げ底で成り立っているか見ようとしていない。》あなたのイメージはかなり一方的です。どこかに、しっかりした自己と揺らがない自信とがっしりした経済的な基盤をもった強者である「インテリ人間」がいて、もう一方でそこから徹底的に疎外された「そこら辺の言語を鍛えていない兄ちゃん姉ちゃん」がいる、と。後者からみたら前者は何て無邪気で能天気なんだ、と。しかし、実際、芸術に興味をもち、それに関わって生きている人の多くは、経済的にめちゃくちゃ貧しいし、精神的にも不安定であやうく、きわきわで生きてるような人が多いですよ。ぼくも含めて。(必ずしも高度な教育を受けているわけでもないし。ぼくも含めて。)少なくとも「安定した基盤(常識)」が先にあって、その上に乗っかってはじめて「芸術(ズレ)」がはじまる、ということではないと思います。(勿論、「いい家」の生まれという人もなかにはいますけど。)これは理念とかではなく「現実」です。実際には、なけなしの現実のなかで、どうにかこうにか、きわきわでやってるわけです。だからこそ、リンチがリアルなのだと思います。
●あと、これは繰り返しになりますが、もう一点。
《いわゆる芸術家にありがちな『フレームから外れろ』的なクリシエでしかなく...》
あの場では二人とも決して「フレームから外れろ」なんて単純なアジテーションをしていないことは、普通に聞いていれば分かるはずです。あそこで言っていたことを端折って纏めれば、(1)どうしてもフレームから外れてしまう人がいる(作品がある)、(2)そのような作品にどうしても惹かれてしまう私がいる(おそらくそれは私自身も否応無くフレームからズレてしまう部分があるからだろう)、(3)それは一体どういうことなのだろうか(どうしてそういうものをリアルだと感じるのだろうか)、(4)そういう事実を決して誤摩化すとなくちゃんと考えよう、ということです。ここでメッセージがあるとしたら、「フレームから外れろ」じゃなくて、「フレームは壊れる(確固たるものではない)」であり「その事実(フレームから外れてしまうこと)を誤摩化すな」という方にあるはずです。(これは単純に表現力、あるいは読解力の問題で、ぼくの言い方が悪かったのか、あなたの理解力に問題があるのか、どちらかです。)

07/11/06(火)
●『「三十歳までなんか生きるな」と思っていた』(保坂和志)。収録されているエッセイは全て初出で読んでいるのだけど、纏めて読むとまた印象がことなる。熱くて真面目な調子に圧倒される。読んでいる間中、「お前はいい加減なんだよ」と言われつづけているようにさえ感じた。ここで保坂氏は、現状のどうしようもなさを、決して「どうしようもない」と思うな、と強く言っているようだ。どうしようもなさをどうにかすることが出来るとしたら、それは、決して「どうしようもない」とは思わないことしかない、と。そんなこと言って、じゃあお前は具体的にどうすればいいと思っているんだよ、と問い返されたとしても、そんなの知るか、でも、嫌なものは嫌だし、納得できないものは納得できないのだ、と言い続け、そしてそこに留まって考えつづけろ、と。
●気になった部分をいくつかメモ。
《回想される情景の中では今はすでに死んでいる人が生きているのだが、見方を変えれば、回想される情景の中にいる自分自身もすでに死んでいる人と同じように戻ってはこない。私は今すでに死んでいる人と会うことができないが、回想の中にいる自分自身とだって会えるわけではない。私がよく知っている私はそういう死者の領域にちかいところにいるのだ。》
《しかし、フロイト的に考えてみても、対象(世界)について思考するときに、対象を思考するサイクルの中に〈思考する自分〉という項が入っていないかぎり、思考する人間の中に内省的思考が芽生えず、「自分が全能である」という幻想は、思考の点検を受けないまま温存されてしまう。》
《彼らには私有財産とか知的所有権という発想がないから、真似ることにも真似られることにも何も抵抗がないのだが、もっと根本的な理由は所有権うんぬんということではなく、自我の境界がはっきりしていなかったからだ。Aさんの手先の動きを見るBさんは、時間が経つとその手先がAさんのものだったか自分のものだったかどうでもよくなっている。大事なことは、素材に対して働きかける手先の動きとして、いままでよりも有効な動きが自分たちの中に生まれたことであり、それが群れの中の細工好きな者たちの知識や技術として共有されてゆくことになる。》
《---というと、話は今回の最初(入口)にもどってしまうわけだが、入口にもどってしまったとしても、はじめて通過する入口と二度目に通過する入口では自分の中が完全に同じというわけではない。
堂々巡りとしか見えない話でも、二度目三度目では必ず自分の中に変化が起こっている。変化のほとんどは劇的なものでなく、堂々巡りの回数を重ねて起こるわずかなものなのではないか。》
《イラクではいまでも毎日のように自爆テロが起きている。私はあれをイスラム過激派と米国との戦いとは思わない。指揮する階級の人間がいて、それに煽られたり洗脳されたりして進んで死んでゆく人間がいて、それに巻き込まれて死ぬ人たちがいる。すべての戦争がそうとしか私には思えない。言葉を換えれば、政治的な理念や思想信条が何であれ、自分は絶対に死なないポジションをまず確保してからあれこれ言う人がいて、もう一方でそういうポジションの人たちから「いつ死んでもおかしくない」と位置付けられている人たちがいる、ということだ。》
●「自分が生まれていない可能性」の話は、どうにも納得しがたくてモヤモヤする。このモヤモヤというのが問題の吸引力でありリアリティなのだが。モヤモヤしている限り、人はそれについて考えざるを得なくなる。

07/11/05(月)
●『陽気で哀しい音楽に』(佐藤弘)。この本は、三日の講演の時、会場に来ていた作家本人から頂いた。
正直、最初の「秋」という章は、この作家の良い部分とあまり良くない部分とが半々くらいで、うーん、という感じだったのだけど、二つの目の「秋の終わりと、冬の始まり」という章がすごく良くて、引き込まれて、そのまま最後まで読んだ。二章めを読みながら、ああ、この作家はここで一皮剥けたんだなあ、と感じた。一皮剥けたなどという言い方は、上から目線で偉そうでちょっと感じが悪いかも知れないけど、自分の身近な人でも、テレビなどでしかみない芸能人やスボーツ選手でも、その人が一皮剥ける瞬間をみせられると単純にうれしくなる。それは自分のこととか他人のこととか関係なく、この世界のなかにあらわれた「良いこと」としてうれしく感じられるのだ。別にこの小説がもの凄い傑作だとは思わないけど、そのような意味でとても良くて、読めて良かったと思った。
この作家の長所でもある、のらりくらりとした調子は、最近の作品では手癖みたいになっているところがあって、ちょっと鼻につく感じもあったのだが、少なくとも二章め以降では、それは抑制されている。この小説は、この作家のいままでの作品のなかで一番普通で、シンプルなつくりで、お話としても、よくあるフリーター小説なのだけど、文体的な特徴にも、技巧的な捻りにも頼ることなく、普通に、登場人物と細部の魅力だけで勝負出来る力量がこの作家にあることを、この小説は示している。シンプルでありながら、お話の流れやテーマに収斂されることのない多様な細部の動きがあり、絡み合いがある。この小説の良さをどのように表現したら良いのかはむつかしい。読んでいて、ただ「いいなあ」と思ったり、可笑しくて笑ったり、身につまされて胸がいっぱいになったり、登場人物たちを「若いなあ」と思い、自分が既に二〇代からは遠く離れてしまったことを改めて感じたりする。(この作家の小説の読んでいつも思うのは、身体感覚にしても感情の動き方にしても、二〇代の作家にしか書けないような小説だ、ということだ。年期のはいった作家ならもっと上手く書くかもしれないけど、それは全く別ものになってしまう。その時の若さとは、別に「風俗的な新しさ」というようなことではない。)この作家の小説はいつも、男女の関係にちょっとした捻りによる「距離」を設定していて、それが小説を動かしてゆく動力のひとつにもなっていると思うのだが、時にそれがちょっと方法的な不自然さを感じさせてしまうこともあるのだけど、この小説での会田と早織との関係はすんなりと納得出来る感じだ。(中村という女の子との関係の描写もすごくいい。)
この小説には、嫌な奴が一人も出てこない。それを、この小説の狭さだと言う人もいるかもしれないけど、ぼくは、それこそが、この小説のもっとも美しいところなのではないかと思う。登場人物のすべてが、世界に対して(すくなくとも音楽に対しては)愚直なほど真面目に向かい合っている。オレの大切な小説のなかに、いい加減な奴なんか一人も出してやるもんか、という作家の強い気持ちが感じられる。もしこの小説が、三章めの「冬、十二月」で終わっていたとしたら、ちょっときれいにまとめ過ぎじゃないのか、イタリアの民謡で締めるのはズルいだろう、とか思ってしまうかもしれないけど、最後に「クリスマス」という短い章があることがすごくいいと思う。最後の主人公の台詞には感動して胸がいっぱいになった。

07/11/04(日)
●昨日の講演の保坂さんの発言について、気になったことをもうちょっと。保坂さんは、「エッセイでは、例えば東京タワーは千代田区にある、と書かれれば、それはすぐに現実と照らし合わせて間違いだということになるけど、小説でそのように書かれた時、それは外の世界との関係ですぐに間違いだとは言えず、一旦その判断が保留されて、その記述が適当であるかどうかは、小説全体によってしか支えられない」ということを言っていた。これを、小説は小説として閉じられた世界で成立する、という風に受け取った人も(質問などを聞くと)いたみたいだけど、それは微妙に違うように思われた。
ここで重要なのは、小説に書かれたことの真偽は直ちには決定できずに保留されるということと、その真偽を支える根拠は小説全体にしか求められないということ、という点にあると思われる。小説を形作る細部と、その細部を組み合わせるメカニズムとの関係によってしか、「東京タワーは千代田区にある」という記述の真偽は検証され得ない。そのことが、小説に書かれたことは、小説内の世界として成り立てば良いということと微妙に違うのは、「小説内の世界」などという安定したフレームが事前に想定されるのではなく、ある記述を保留し保持したままで読み進める時間のなかでは頼るべきものが何もない、ということなのではないか。ある記述に対する真偽の判断は、現実(小説の外)の規則によっても虚構内の規則によってもすぐには決定されず、決定されないからこそ、そこに書かれていることのひとつひとつをいちいち「真に受け」て読み進め、それを保持しつづけ、そしてその最終的な決定(しかしそれを「最終」とする保証はどこにもないのだが)は、「いちいち真に受けて読んでいた時間の総体(その時間を経てきた自分の脳-身体)」によって保証され検証されるしかない。(その外の根拠には逃げられない。)だから、真偽の根拠はあくまで「小説の全体」やそのメカニズムにあるのであって、「小説内の世界」にあるのではない、ということなのではないか。
『カンバセイション・ピース』のラストの、綾子の歌は骨になり土になった犬や猫たちにも聞こえていただろう、ということを、そこだけ取り出してオカルトだとも、そうではないとも言えない。それは、この小説を最初から読んできてここにたどり着いたときに、この記述がどのように響くのかによってしか決められない。そしてこの「結果」を、小説全体(最初の文から出発して、そこまでたどり着いたということ)から切り離して「そこ」だけ他で利用することも出来ない。あるいは、『インランド・エンパイア』のラストのダンスのシーンは、そこだけ取り出して観ても、何ということもないものかも知れないが、三時間の迷宮の果てにたどり着くことによって、素晴らしい瞬間となる。(何かを「真に受け」て受けとめるためには、時間を圧縮することが出来ない。)
●ただ、この発言は(ぼくの記憶が正しければ)『マルホランド・ドライブ』のカウボーイのシーンを観て「フィクション観が揺さぶられた」という話からつづいていた。『マルホランド・ドライブ』に出て来る映画監督は、黒幕から指示された主演女優を断ったことで、映画から下ろされるだけでなく全財産も凍結されてしまう。そこで謎のカウボーイと会うことになる。カウボーイは監督に、「人の態度はある程度その人の人生を決める」とかいうような意味のありふれた人生訓を話す。それに適当に相づちをうつ監督に、話を合わせているだけだろう、本気で同意しているのかと問いつめ、心から正しいと思ってると答える監督(だが、態度としては「そういう態度」ではない)にカウボーイは、何を?、と問い返す。すると監督は(やや早口で)、カウボーイが言った人生訓をまったくそのまま録音を再生するように反復する。(だが、日本語の字幕では、カウボーイの言ったことの「意味」を要約して答えたことになってしまっている。)保坂さんはこのシーンを観て「フィクション観が揺さぶられた」と話し、それにつづいて上記の話になった。この二つの話の繋がりというか関係を、ぼくは掴めていない。
とはいえ、ことさらこの二つを関連づける必要はないのかもしれない。この話はこの話として面白いので、書き留めておく。

07/11/03(土)
●中央大学で、保坂和志さんと対談。昨日の寝る前くらいから、なんでこんなに、と自分でも不可解なくらい緊張していた。あまり眠れなかった。中央大学へと向かう途中、乗り換え駅でトイレにいった時、パンツを後ろ前に履いていることに気づく。今朝、どんだけ緊張してたんだよ、と可笑しくなって、それで少し緊張がほぐれた。多摩都市モノレールのなかでは、外の景色を観る程度の余裕はできた。
人前で喋る時って、事前に用意したことしか喋れないものだなあ、と思った。例えばこの日記に書いていることは、書きながら考えたというか、書くことによって思いついたこと、書くことで考えが導かれたことがけっこう多いのだけど、喋ることによって考えが引っ張られるとか、喋ることで喋る前には考えてなかったところまで考えがのびてゆく、ということはなかった。これは慣れの問題なのだろうか。
講演終了後、主催したサークルの人から色紙を書いてくれと頼まれて、そんなことしたことがないから、何を書いていいか分らなくて困った。保坂さんが猫の絵を描いていたので、ぼくはドラえもん(猫型ロボット)の絵を描いた。
講演を聞きに来ていた柴崎友香さんとはじめてお会いして話した。初対面の人と最初に話したのが幽霊と心霊写真の話って....。
●講演会での保坂さんの発言でぼくが重要だと思ったのは、人が言っていることはいちいち「真に受ける」べきだということ。例えば荒川修作が「死なない」と言えば、それは本気で「死なない」ということを考えているのだ、という前提でその発言を読み、その作品に触れるべきだということ。それは、アラカワ教に入信することでも、アラカワを教祖として奉るのでもなく、アラカワの頭のなかを自分の頭によってトレースして、アラカワが「死なない」といっている時のその身体的な状態を自身の身体によって再現-体験してみることで(完全には無理でも、そこに近付こうとすることで)はじめて、アラカワの言う「死なない」の意味が理解できる、というようなことだと思う。つまりここでは、言葉の意味は、その時の身体の状態ということになる。
(例えば、凄いピッチャーでも、シーズンオフの気を抜いた時にはシーズン中のようなボールは投げられない。同様に、アラカワにしても、生活しているすべての時間で「死なない」ことを信じられる状態にあるわけではないと思う。しかし、ある瞬間には本気で「死なない」ということを信じることが出来ている。「死なない」というのは、その時の脳や身体の状態全体を意味している。だとしたら、それを信じることが出来ている時のアラカワの身体の状態を、自身の身体として一時でも再現するということが、アラカワの作品を理解するということになる。そのような理解は外側からの解説では不可能で、その人の言う言葉を字義通りにいちいち本気で「真に受ける」必要がある。それによってはじめて、言葉が隠喩という機能を超える。)

07/11/02(金)
●『電脳コイル』1〜5話をDVDで。普通に面白い。電脳ナントカとかいっても「新しさ」を強調するというより、きわめてオーソドックスな(ちょっと懐古趣味のはいった)ファンタジーになっている(天沢退二郎の童話などが想起される)。ただ、一応「電脳」的な世界を舞台にしているので、こちら側の世界と向こう側の世界との閾がひくくて、「向こう側の世界」がすごく近い感じなのがリアルだ。ある種の内面的な子供は、実際にこういう風に空間を感じているものだ、というリアリティがある。ただ、キャラクターの設定がいまひとつで、あまりに類型的。おばあさんのキャラとか、(括弧付きの)「アニメ的」であり過ぎるし、男の子たちのキャラなど、三十年以上前のアニメのキャラクターみたいだ。(いまどき「おやびん」とか言わせるのってどうなのか。)日本のアニメが歴史的に蓄積してきた、アニメ的類型の集大成のような感じもするけど。

07/11/01(木)
●本を読むために喫茶店に入り、席についたら、背中側の隣りの席から、やたらと耳にからみつくような喋り方をする声が聴こえてきて、席を選択を誤ったと後悔した。背中側なので姿は見えないが、中年の夫婦らしくて、夫の方が一方的に喋っていて、妻の方は相づちをうつくらいだ。夫は、独り言みたいに勝手に喋っていて、妻の反応を確かめるように、最後に必ず、ねえ、お母さん、ねえ、ねえ、と言う。妻の相づちがないと、いつまでも、ねえ、ねえ、ねえお母さん、ねえ、ねえ、ねえ、ねえ、と続け、しかもだんだん声が大きく、不快だという調子を含ませるようになってゆく。ねえ、の変わりに、なあ、だったり、え、え、え、だったりもする。
話の内容にではなく、その粘るようなしつっこい調子がどうにも耳についてしまう。どうやら、飼っている猫が手術をしなければならないらしく、その夫はしきりにそれを、かわいそうだ、と言い、何故よりによってうちの子が、とか、うちの子は何か神様に悪いことでもしたというのか、うちの子はあんなにいい子なのに、と嘆いているのだが、その後に、ねえ、お母さん、ねえ、ねえ、ねえ、と相づちを強要したかと思うとつづけて、今日オープンしたばかりだという団子屋の悪口を言い、あんなので新規オープンて言うんだから笑っちゃうよな、全然人いないよ、アンコの量が少ないって文句言ってやれよ、なにがサービスだよ、なあ、なあ、そうでしょ、ちょっとお母さん、ねえ、ねえ、なあ、おい、と言い、また、リンちゃん、なんてかわいそうなんだ、今晩はリンちゃんと一緒に寝てあげなくちゃなあ、それで明日は元気に送り出してやらなくちゃ、ねえ、お母さん、ねえ、ねえ、ねえ、ねえ、と言い、つつけて、石油の値上げで今日からいろいろ値が上がるという話になり、麺類、カレー粉、ねえ、値上げだって、値上げ、カレー粉、ちくわ、え、ちくわだってよ、ちくわ、ねえ、お母さん、ねえ、麺類、カレー粉、ちくわ、ねえ、ねえ、ねえ、と言ったかと思うと、どこかへ電話したらしく、あっ、どうもお世話になります、○○です、実はうちの子が病気で、入院することになりまして、え、いや、猫です、猫ちゃん、リンちゃん、それでアヤちゃんとはしばらく会わせてあげられなくて、はい、術後の経過がよければ一週間で帰ってきますので、またその時はよろしく、ええ、そうです、そうです、ではまた、と電話を切り、すいません、すいません、すいません、すいません、すいません、と、大声でしつこく繰り返してウエイターを呼び、ええと、ガムシロップとミルクをもう一つずつもらえますか、いや、それぞれに一つずつ、つまり二つずつ、そうそう、それだけ、はいよろしく、と言い、あの子は優しい子なのになあ、なんでよりによって他の子じゃなくてうち子がなあ、かわいそうになあ、なんでかなあ、でも元気に送り出してやらないとなあ、がんばってくるんだよって、ねえ、はやく帰ってリンちゃんに会いたいなあ、ねえ、そうでしょ、ねえ、お母さん、ちょっと、ねえ、ねえ、ねえ、あ、母さん、雨あがったみたいだよ、ねえ、雨、雨やんだ、母さん、やんだよ雨、雨やんだ、ほら、雨、ほら、母さんほら....。
おそらく、場違いに声がでかいということや、独り言のように勝手に喋っているということや、同じことを何度も繰り返すということよりも、自分の発言に対する反応を相手にしつこく強要する粘っこい調子が耳につくというか気分に引っかかるのだと思う。ぼくが、こういうことをここに書くというのは、話し声が耳につくという受動的な状態を、書くための観察モードという能動的な状態に切り替えることで、ネガティプに耳がひっぱられる嫌な感じを解消しようということなのだろう。それは、軽い悪意の発動に対し、書くことを意識することによって悪意を解消することであろう。(かわいがっている猫の病気という事態に対する動揺が、妻への依存の感情を普段以上に波立てているのかもしれないのだ、と思うことも出来るようになる。)
それにしても、奥さんの方も、わざわざ反応を遅らせている気配があった。自分が反応を返さなければ、いつまでもしつこく、ねえ、ねえ、ねえ、と押し続ける人だということは夫婦なのだから当然分っているはずなのに(いい加減に相づちを返した方が鬱陶しくないのは分ってるはずなのに)、あえて反応を返さないというところにもまた、軽い悪意の発動を感じた。この反応の遅延は、奥さんの軽い復讐でもあるのかも(復讐とはつまり、発動してしまった悪意を解消させるためのものだ)。しかし夫の方は、決してその悪意を察知することはないのだろう。
●これらのことは、すべてぼくの背中側で起こったことであり、ぼくはこの夫婦の姿を、ほんの一目も見てはいないのだった。

07/10/31(水)
●恵比寿ガーデンシネマで『インランド・エンパイア』(デヴィッド・リンチ)、三回目。もうすぐ終わってしまうのでもう一度観に出かけた。(千円で観られる日だったし。)一番前の右の端の方の席で、スクリーンを近い位置の右斜め下から見上げるような感じで観た。顔が歪むほどのクローズアップなど、対象とカメラとの適切な距離を放棄したかのような画面がつづくこの映画は、フレーム全体がきっちりと捉えられる位置よりも、フレームが歪むくらいの近い位置で観た方が良いと思ったので。カメラの先が鼻にぶつかるんじゃないかと思う程のどアップには、「近いよ」とのけぞってしまう。思ったよりも細かいところまできちんとお話の辻褄が合っていた。
一回目も二回目もそう思ったのだが、やはり三回目に観ても、ラストのエンドクレジットの場面は素晴らしい。この場面それ自体が独立して素晴らしいというよりも、三時間もの間、暗くて狭い迷路を抜けて来た果てにこの場面が訪れるというのが素晴らしいのだ。この場面を観るために、三時間の闇を抜けてきたかのようだ。生きていて、正気でいる限り、薬物にでも頼らなければ、こんなに「幸福」な気持ちになることはないのじゃないかとさえ思われるほどだ。(『ワイルド・アット・ハート』のラストの「ラブ・ミー・テンダー」は、まだアイロニカルなものともとれてしまうような弱さがあった。)残念ながら、その幸福は、クレジットの場面の時間しか持続せず、会場が明るくなると消えてしまうのだけど。(せめてその余韻が、恵比寿駅まで歩く間くらいはつづいたらいいのに。)
昨日だったか一昨日だったか、テレビをだらだら観ていたら、ある女優が、元サッカー選手との交際の噂について聞かれて、「日本にたまにしか帰ってこない人と恋愛できるわけないじゃないですか」と答えていた。愛する対象が目の前にいること、その直接的な身体的現前(接触)は、「愛」にとってやはりとても重要なことなのだ。これはとても健康的なことだ。『ワイルド・アット・ハート』での、ニコラス・ケイジとローラ・ダーンとの性交の描写は、そのような、愛の対象が現前することの重要性を示していた。しかし人はおそらく、何かとりかえしのつかないものを喪失するという経験を経ると、それだけでは足りなくなる。(フロイト-ラカン的に言えば、そもそも人は、生まれた時から、あらかじめ世界を喪失しているのだが。)人はしばしば、そこに居ない誰かを頭のなかでつくりだして、それを頭の外の空間に投影しさえする。(例えば『惑星ソラリス』はそういう映画だろう。)その時、それをつくりだしてしまう頭の中の仕組み(組成)の現実性は、頭の外にある、そんな奴は本当は実在しないという現実性と同じくらいに、(人間にとっては)「現実」であろう。そしてそれは、現実であるだけでなく、必然でもあろう。(『インランド・エンパイア』はまさに、「頭のなかの仕組み」の現実性や必然性に関わる映画だろう。)
フロイトは「文化への不満」で、人生の目的は結局のところ幸福(快感)を求めることで、人にとって最も大きな幸福(快感)は性的な快感であるとする。しかし、性的な快感に依存して生きることは生をきわめて不安定なものにする(愛する人はしばしば容易に失われる)から、より安定し長く持続し得る幸福の対象を、その代替物としてたてなければならないとする。(つまり、人間にとってのあらゆる「価値あるもの」は、性的な幸福-快感の代替物である、と。)人間の幸福への欲望は必ず挫折-失望する運命にあるのだが、(その代替物として機能する)「文化」は、その挫折-失望を、より多くの人に対して、より小さいものとするための装置であり、それを別の方向へのポジティブな力とする装置でもある、と。文化は、失望をいかに洗練した形で飼い馴らすのかということに関わる。そもそも人の生の形は、それぞれがその失望を、どのような別の形に書き換え、昇華することが出来るのかということによって決まる。一昨日の日記で触れた『宗方姉妹』の木暮実千代は、上原謙と決して結ばれることはないという失望を、死んだ夫の視線と共に生きるという積極的な形に書き換えて、そこで生きようとする。だがそれはもはや、愛の対象=直接的な身体的現前という、動物的な健康からは遠く離れてしまっている。
しかし『インランド・エンパイア』は、そのような、失望の昇華という意味での文化的洗練とは異なるものだ。同時に、その異様なクローズアップは、(動物的な次元での)直接的な身体の現前とは異なる。そのイメージはこちらに覆いかぶさってきて、こちらを包み込むかのような迫って来るのだが、決して触れること(手応えを感じること)は出来ず、「愛の対象」として安定した像を結ばない。それはイメージそのものがそのまま暴力(の気配)であるかのようなイメージなのだ。『インランド・エンパイア』は、「頭のなかの仕組み」の現実性にまつわる映画なのだが、その「頭の中の現実性」は常に、「頭の外の現実」に取り囲まれ、晒され、攻められている。(そもそも、「頭の中の現実性」は、「頭の外の現実」の一部なのだ。)我々の持ち得るイメージや物語は、「頭の中の現実性」の外へは出られないのだとしても、我々が「生きている」場所は「頭の外の現実」であり、同時に、「頭の中の現実性」と「頭の外の現実」とのギャップ(軋轢)の場所なのだ。おそらく『インランド・エンパイア』とは、そういう映画なのだ。だとしたら、そのギャップが解決し軋轢が消失してしまうかのような、あの幸福に満ちたラストは、やはり死の場所なのだろうと思う。

07/10/30(火)
●お知らせ。今出ている「映画芸術」(421号)に、「モンガイカンの観劇記/中野成樹+フランケンズ『遊び半分』、サンプル『カロリーの消費』を観る」というレビューを書いています。もともと、この二つの舞台のレビューを十五枚で書いてほしいという依頼だったのですが、普段は演劇をほとんど観ないぼくとしては、ただ「作品」のレビューをサクサクッと書くわけにはゆかず、作品を作品として成立させている「演劇」というメディアそのものに対して、ぼくが感じている違和感のようなものから書き始めるしかなく、結果、二十三枚を超えるような原稿となってしまいました。(枚数を超過した原稿を受け入れていただいた編集部に感謝します。)
作品のレビューというより、演劇というメディアについての話だったり、「自分語り」みたいなものだったりする部分が多くなってしまってもいるのですが、しかしこれはあくまで、この二つの舞台を観たこと、そこから感じられ、刺激されたことから、導かれ、考えられたことによって書かれいるはずです。(だからむしろ、具体的に作品に触れている後半部分よりも、そうではない前半部分の方が、より「作品について書いている」のかもしれません。)

07/10/29(月)
●何年かぶりに『カンバセイション・ピース』(保坂和志)を読み返していて、何故か、タルコフスキーの『惑星ソラリス』の最後のショットを思い出した。ソラリスの海に浮かぶ主人公の家を俯瞰で捉えたカメラが、ずっと引いてゆくショット。(『カンバセイション・ピース』は、ソラリスの海に浮かぶ小津安二郎の家なんじゃないか、と。)
●で、読むのを中断して、こちらはもっと久しぶりに『惑星ソラリス』をビデオで観た。この映画は、タルコフスキーの作品としては、映画として弱くて、この映画の面白さは主にその「お話」の次元にあると思う。
主人公の科学者は、ソラリスによって物質化されて現れた、十年前に死んだ妻の幻影を、「これが罰なのか贈り物なのか分らないが」と言う言い方で示す。それは、彼のなかで彼女がまだ死に切っていないということなのだが、それは、彼女の死に対する後悔と後ろめたさがあるからだ。彼女は夫婦喧嘩の後、自殺する。そして、不仲の原因はどうも彼の方にあるらしいことが匂わされている。激しい喧嘩の後、彼は家を出る。その際、彼女は「死ぬ」という言葉を口にする。しかし彼はそれを本気にせずに、そのまま立ち去る。しばらくして彼は、家には彼が実験用として持ち帰った毒物があったことを思い出す。翌日になってから、心配になった彼が家へ戻ると、妻は毒物を注射して既に死んでいた。(幻影には、その注射の跡が生々しく残っている。)
ここでは、彼の後悔は複雑に絡み合っている。彼はただ、不仲の原因となった妻への裏切りを悔やんでいるだけではない。彼女の「死ぬ」という言葉を真に受けなかったこと、毒物が家に持ち込まれているのを忘れていたこと(あるいは、それを家に持ち込んでしまったこと)、そして、毒物の存在に気づいてすぐに家に戻るのではなく、戻るのが翌日になってしまったこと等をも、悔やまざる得ない。もし、死ぬと言う言葉を本気にしていたら、もし、毒物を家に持ち込んでいなかったら、もし、気づいてすぐに家に戻っていたら、そのような幾重にも重なる「もし」が、彼の罪悪感と疾しさとを常に刺激しつづける。
彼が、罪悪感や疾しさを感じ続ける限り、彼女の存在は彼のなかで生々しく生きつづけるだろう。もし、彼女が偶然の事故や長く煩った病などで亡くなったとしたら、死後十年もたてば、その存在は遠くなり、想い出として納まるべき場所に納まってくれたかもしれない。しかし、彼が疾しさを心に感じるその度に、彼女の存在は繰り返し生々しくたちあがり、そしてその彼女の存在の生々しさが、疾しさという感情を活気づけ、罪悪感が色あせることを禁ずる。罪悪感によって、彼女は常に彼の近くに居つづけ、彼は常に彼女を近くに感じつづけることとなる。彼のなかで死者が、なかなか死者という位置に納まってくれないのだ。頭の中の現実と、頭の外にある現実とが乖離しつづける。これは彼にとってひどく苦痛であるだろうが、しかし彼が苦痛とともにある限り、彼女は常に彼の近くにいる。彼にとって、物質化した彼女の生々しい幻影が、「罰」であるだけでなく同時に「贈り物」であるというのは、そのような意味でだろう。しかし贈り物は常に罰と同時にしかあらわれない。彼は苦痛のなかにいつづけることによってしか、愛の対象を維持できないのだ。この物語が、人を強く惹き付けるのには、このような意味で、愛の対象が常に苦痛とともにしか立ち上がらないということ(苦痛を手放せば、愛の対象を失うということ)に、強いリアリティがあるからだろうと思われる。それにしても、人間の頭のなかは、なんと難儀なものだろうと思うのだが。
●そういえば、小津の『宗方姉妹』で木暮実千代は、長年、山村聰と夫婦をつづけながらも、ずっと上原謙を思い続けていた。そしてとうとう、夫と別れて上原謙と結ばれようかという時、夫が自殺する。夫の自殺によって、木暮実千代は上原謙と結ばれることを完全に断念する。この映画の最後で木暮実千代は、妹の高峰秀子に言う。夫が死んでから、ずっと夫から見られているような視線を感じている。ずっとうまくいっていなかった夫が、死んではじめて近くに感じられるようになった。夫が死んではじめて本当の夫婦になれたような気がする。これからはこの夫(の視線)と一緒にずっとやっていく、と。人間の頭のなかでは、何と奇怪な演算が行われているのかと思う。

07/10/28(日)
●本を読んでいて何かを思いつく。あるいは、そこに書かれていることとはまったく別のこと(しかし、なにかしら繋がりのあること)を考える。その時、その考えにはとても手応えがあり、リアリティがあるように感じられる。しかし、そのまま続けて本を読んでいると、2、3ページ後には、その2、3ページ前に考えていたことを忘れてしまったりしている。前のページに戻って、考えが浮かんだ時に読んでいた部分を読み返してみるが、思い出せない。なので、今度そんなことがあったら、本の余白にでも、思い出すための導きとなるようなメモを残しておくことにする。だが、そのメモをみても、考えの外枠のようなものは思い出せても、そこで感じていた手応えやリアルさまでは再現できない。結局、夢の感触を目覚めた後では完全には再現できないのと同じように、ある「考え」も、それが過ぎ去ってしまった後には完全には再現できない。(だが、まったく関係のない時に、ふっと蘇ってきたりもする。)
「考え」を完全には再現できないとしても、その「考え」をある程度は表現(把捉)出来ていると思われるような「文」を組み立ててみることはできるのではないか。そう思って本を置き、頭のなかで言葉を組み立てようとする。だが、夢を言葉にしようとすると、「言葉にする」という加工の過程で必ずある変形が生じるのと同様に、「考え」にも変形が生じてしまう。そして、一度言葉として成立させてしまうと、その言葉への加工の前にあった原-感覚へは、ほとんど戻れなくなってしまう。とはいえ、言葉にするという過程(時間)によって、あらたに加わることもあり、それによって「考え」の密度が増すこともある。
と、こんなことばかりやっているので、最近、まったく本を読み進み、読み終わることができない。

07/10/27(土)
●京橋のギャラリーKで、稲垣真幸展、府中のLOOP HOLEで、大槻英世展。二人とも大学の後輩ということになる。年齢的に、十歳とまではいかなくても、だいたいそのくらい離れていると思う。それだけ離れていると、おそらく、美術というものに初めて触れた時に見えていたものというのか、バックグラウンドになるものというのか、学生時代に影響を受けたものというのか、そういうものがまったく違っているのだと思う。特に、ぼくがその影響下にある最後の世代だと思うけど、バブル期までの日本の美術と、それ以降とでは、決定的とも言っていいような断絶がある。(一応、戦後からバブル期くらいまではには一定の連続性があるように思われる。)自分が学生の頃に一生懸命に観たり学習したりしたものは一体何だったのか、と思うくらいに、価値観とか作品の評価のあり様とか、あるいは作家としての凌ぎ方みたいなものまで、急激に様変わりしたように思う。ぼくなんかはまったく狭間の世代だという感じがあり、旧世代の価値体系には乗り遅れたし、新世代の感覚には違和感がある。(ぼくは旧世代の方が良かったと言っているわけではない。)
とはいえ、最初は違和感を感じていた自分より下の世代の作家の作品も、その作家が十年くらい真面目に制作をつづけているならば、やっぱ、絵を真面目に追求していれば、必然的にこうなってくるよなあ、と、バックグラウンドが全然違うと思われるぼくなどにも納得できるようなものになってくるのが面白い。話を世代論的に一般化するのは、それぞれの作家に対して失礼になるのだが、最近、自分よりも十歳くらい年下の作家の作品を観て、そのように感じることがよくある。
稲垣くんの作品を観るのは三度目なのだが、変な言い方だけど、だんだんベタに「画家」になってきちゃってる、という感じだ。ファイルで初期の作品などを見せてもらうと、いかにもイマドキ風の作品で、絶対その方がウケがいいと思うのだけど、だんだんオーソドックスになってくるというのか、真面目に絵を描くようになってきている感じなのだ。作品としては、風景をモチーフにしつつ、異なる装飾的なパターンをぶつけて、その落差によって空間を生み出してゆくような作品で、ポップな感触を残しているのだが、このような作品の場合、風景は写真などを利用して描くことが多いと思うのだけど、稲垣くんは自分でしたスケッチをもとにして制作しているそうだ。そのスケッチも見せてもらったのだけど、本当にベタにスケッチで、「こういうことをしはじめると、だんだん深みにハマるよね」みたいな話をした。ぼくも最近、ベタなクロッキーとかをやってたりしたこともあって、絵を描くことの面白さの基本はこうだよね、みたい話になるのだった。ベタにスケッチしたり、ベタにクロッキーしたりすることは、「現代アーティスト」にとってかなり恥ずかしいことで、はじめはどうしても格好つけた感じでアートっぽく描いてしまうのだけど、しかしやっているうちに面白くなってハマってしまって、どんどんベタになってくる。それを自分の「作品」とするかはともかく、絵を描くというのはどういうことかということを体で掴むためには、こういうことが最も有効であるように思う。もっとも、それは十年以上「現代絵画」についての試行錯誤があった上で発見で、同じようなことを受験生の頃にやってた時は、なんで今さらこんなことをさせられなきゃいけないのか、とか思ってたわけだけど。
大槻くんの作品ははじめて観た。とにかく絵の具の「塗り」の技術が半端ではなくて、それだけでこの作家がいかに真面目に絵画に取り組んでいるのかが分る。勿論それは、技術のための技術ではなく、作品のあり様を決定する、作品がそのようなものであるために必然的な技術なのだ。大槻くんの作品は写真や図版では絶対に再現不可能なもので、その、フラットで光沢のある表面には、常にその作品を観る自分の姿や背景が映り込む。さらに、おそらく何層か塗り重ねられて生み出されるのであろう深みのある色彩と相まって、視覚的には絵の表面の位置の確定が困難になる。つまり、絵が「そこにある物質」としては、捉え難いものになる。それは、図像が映像的に描かれている作品ではなくて、物質としての作品自体が映像化して捉え難いものになるような作品で、それによって、そこに描かれた像の儚さが、儚さとしてのリアリティを持つ、と言えばよいのだろうか。その徹底して滑らかな表面は、描かれた図像以外に目の引っかかりを持たないのだが、そこに描かれた電信柱や雲もまた、表面に映り込んでくるもの以上の実在性があるわけではなく(映り込みは観者が位置を変えるたびに変化するし)、視線はどこにも決着せず、しかしそれが電柱と雲だということはすぐに分るから、その認識と視線の浮遊とが乖離して、その像がまるで、思い出せそうで思い出せない、もどかしい記憶のようになる。(一方、白の絵の具の物質的な側面が前に出ている赤い作品は、その物質性の見せ方、落差の仕掛け方がいまひとつ単調なようにも思われた。)

07/10/26(金)
●11月3日に中央大学で行われる保坂和志さんの講演会に、対談相手として出ることになっていて、その紹介記事がおとといの読売新聞に出ていた。(その掲載紙が今日届いた。)その見出しが「作家の保坂和志さん、在野の書評家と対談」となっていて、笑えた。この記事を書いた人は、短い見出しのなかで、ぼくのことを一般的な読者に向けてどう表現したらよいのかについて、けっこう苦労したのではないかと思った。
きわめて短い記事のなかで、有名な「作家の保坂和志さん」と対談する無名の相手のことを、一般的な読者にむけてわかりやすく説明しなきゃいけなくて、そのために必要なのは正確さではなく「通りの良い物語」なわけで、そこで、一言で説明されるぼくの社会的なあり様は、「在野の書評家」になるわけか、と。
「在野の書評家」というのは日本語としてもちょっと違和感があるが、しかし、ではこれ以外に上手い言い方があるのかといえば、ぼくにも思いつかない。このきわめて短い記事は、保坂和志と、「みんなは知らないだろうけど保坂が褒めてる奴」とが対談する、という情報を示すためのもので、そこで見出しでは「みんなは知らない...奴」を一言でどう描写するのかが問題となる。たんに「画家の古谷利裕さん」では充分ではないのは、この講演はあくまで「小説」を主題としたものなので、その対談相手が何故「画家」であるのかという点の説明がされないからだろう。だからといって、ただ「書評家(ライター)の古谷利裕さん」でも説明が足りない。まあ、別にそれでもいいのだが、それでは、ぼくと保坂さんの関係のはじまりを説明する、この「偽日記」の存在が消えてしまう。そこで苦肉の策として「在野の書評家」と。(あと、ぼくの本業があくまで「画家」であることへの配慮もあるのだろう。)
例えばぼく自身も、バイトをしていた時の職場とか、親戚の集まりなどでは、一般的に通りのよい「売れない画家」もしくは「画家志望の者」という物語の範囲内で言動を制御することになる。「日展とかに出してるの?」とか質問された時、いちいち、日本の現代美術の複雑な現状を詳しく説明した上で、自分の立ち位置を説明したりなどせず、「いや、ぼくはちょっと系統がちがうんですよ」くらいの言葉でお茶を濁す。「どんな絵を描いてるの、風景とか?」「いや、ちょっと抽象的な...」「ピカソみたいなわけわかんないやつか」「まあ、そんな感じですかね」「じゃあ、死んでから価値があがるってやつだな」「いやあ、生きてるうちのがいいですよ」正確ではないが、嘘はついていない。ただ、そのさじ加減をどうするのかは、常に難しい。通常の会話で、他人は、面倒な話につき合う程に人に関心をもっているわけではないが、かといってあまりに通り一遍な紋切り型で流し過ぎれば失礼になる。そのさじ加減は、場や相手によって調整されなければならない。(実際にぼくがそれを上手くやれているかどうかはまた別の話。)それが新聞という場で、その読者という相手だったら....。
新聞記事の言葉は、社会的な空間のなかで、一般的なコンセンサスにおける妥当性のもとに書かれる。しかもごく限定されたスペースで。(だからそれは常に正確ではないが、正確ではないことによって社会的に機能する。)そのようなことは知っていたが、知っているということと、そのようなものによって自分が「描写される」という経験はまた別だ。自分が社会的な目からざっくり描写された、ということは無名で非社会的な者にとっては新鮮なのだ。そうか、在野の書評家だったのか、自分は、と。自分の存在が、いかに社会的にわかりやすい位置をもたない、「自称芸能プロダクション社長」とかと同じくらいにうさん臭いものなのかということを、他者の言葉を通じて、別のアングルから「見る」ことができたわけだった。
(別にこれは自分を卑下しているのではないし、逆に自分の中途半端な位置(在野の書評家!)そのものに特別な意義を見出しているわけでもなく、ただ、偶然にテレビカメラの端っこに写ってしまった自分の姿を見て、ああ、こんななのか、自分は、と、ちょっと笑えた、というようなことだ。)
●保坂和志講演会の詳細については、ここ、で。内容についてのちょっとした予告。先日、この対談の打ち合わせで保坂さんとお会いした時、そのうちの多くの時間が『インランド・エンパイア』の話になりました。なのでリンチの話が出ると思います。勿論、ちゃんと小説の話にもなるはずですが。

07/10/25(木)
●『リング0』(鶴田法男)をDVDで。ぼくには「リング」シリーズのどこが面白いのかわからない。特に『リング2』など、かなりひどい映画だと思う。だが、これはけっこう面白かった。この映画は、途中までは「リング」シリーズの一本というよりも、完全に鶴田法男の映画で、つまりは、繊細な感情の表現としてのホラーになっている。呪いのビデオとか、貞子の呪いとかとはほとんど関係なく、劇団内部での複雑な人間関係と、そこで生じる感情的な軋轢によって、幽霊が発生する。関係や感情の摩擦によって、微妙に空間や時間が歪んでゆく様を、鶴田監督はいつも的確に捉える。主演の仲間由紀恵は、女優としての力量としては、『リング2』の中谷美紀に比べるとかなり劣るといわざるを得ないのだが、『リング2』の中田秀夫監督が、中谷美紀の「一番いい顔」を最後のショットまでとっておくために、(そこから逆算して)映画の途中ではその魅力をかなり抑制せさている(というか、ぶっちゃけ殺している)のに対し、『リング0』の鶴田監督は、それぞれの場面において、その都度、仲間由紀恵の良い表情を最大限に引き出し、それを拾おうとしているように思われる。『リング2』のつまらなさと、『リング0』の面白さとの違いとは、つまりはそういうことなのだと思う。
映画は終盤、仲間由紀恵を劇団員たちがよってたかって撲殺してしまうところから、鶴田的世界から、高橋洋的なグラン・ギニョール的世界へと移行する。これはこれで面白いのだが、しかし、高橋洋的グラン・ギニョール世界と、鶴田監督の資質とはあまり相性が良いとは思えず、映画としてはやや低調になる。
●それにしてもぼくは何故、こんなにも幽霊のでてくる話が好きなのだろうか。ぼくは基本的に、ホラーを観てもほとんど「恐い」とは思わない。それはほとんどはじめから、分析的な視線でしか観られない。にもかかわらず、幽霊の話だというだけで、観たくなってしまうのだった。

07/10/24(水)
●「文藝」に載っている「肝心の子供」(磯崎憲一郎)についてのメモ。
●まず、文章がとても面白かった。淡々と一定の調子で流れ、すべてが終わった後で、すべてを把握した人物によって綴られているかのような調子でありながら、時折、とてもなまなましい場面が描かれる。これは、語り手のような特定の主体が想起されるというよりも、個人の身体や感覚を超えた(そこから一旦切れた)言語によって可能になった、言語自身が自動的に語るかのような語りであるように感じらた。すべてが終わった後から語られるような、波乱や動揺をカットした安定したの調子が、些細な出来事や描写の表情をかえってきわだたせ、大きな流れを通観するような機械的な記述の進行が、逆に、そのなかにいる個々人の生きる別々の時間のことなりを際立たせているような。世界と個人の身体との間の緊張した利害関係から切れたところで、はじめて可能になる認識が語られる。そして、その突き放したような記述の安定感が、利害関係のただなかで(現在を)生きる読者に対して、安定を与える(死の恐怖を軽くする?)ような作用があるようにも思わた。
●ブッダとヤショダラとが共に城で暮らしている小説の最初の部分が、ぼくにはとても魅力的に思えた。互いにまったく別の方を向きながら、生活の形式のみを共有しているかのような。(特に、三日間ネムの木の下に居つづけたブッダにヤショダラがお粥をもってゆく場面。)
●ラーフラとヤショダラとはしかし、そのように生活習慣を形式としてさえ共有することが出来ない。ラーフラは、あらゆる蛙の違いを識別出来、しかもその違いを記憶出来る。だから蛙を、どれも同じ蛙一般として処理できない。だから、日々異なる事柄を、繰り返される生活の習慣や形式上の反復として処理することも出来ない。それは、ひとつひとつ違うものになってしまう。ラーフラは、無限の細部をもつ外側の世界を、内的形式によって縮減して、それにあわせて制御できない。あらゆる出来事は同等で、偶然であると同時に必然であって、世界を法によって秩序化できない。
●ブッダにとって、うつくしいアショダラを妻として選んでしまうことは「屈服した」ような感じを与えるのだけど、息子のラーフラにとって女性(色欲)はまた違った意味をもっているように思えた。あらゆる事柄を、それをそれとしてそのまま記憶として保持しているラーフラにとって、あらゆる記憶が同等に重要であって、しかもそれが際限なく増え続ける。そのような記憶の重さに押しつぶされそうであったラーフラは、サリアに対する(自身にとって意外ですらある)欲望によって、世界の細部に濃淡が生まれるというか、ある方向付けが生まれたのではないかと思われる。そのことは、無限に増え続ける記憶の重荷を軽くする。色ボケして愚かになることが出来る。(アシャダラは、自身の生活環境=習慣を自身でつくりあげ、それを維持するような女性だが、サリアは、熱し易く冷め易い、楽天的ですぐにあきらめる性格をもつことも、ラーフラにとって重要だっただろう。生活習慣の組織化は、世界の偶然が自己の安定を脅かすことへの高度な防衛であるが、楽天的であきらめやすいことは、自己、あるいは記憶のへ関心と執着の度合いの低さをあらわしていると思われる。アシャダラは腐り難い食物である米をもたらすが、サリアは腹が減れば、世話になった農家から平気で肉を盗み出す。ラーフラにとってはすべての記憶が自ずと蓄積されてしまうので、ことさら米を蓄積するような行いが耐えられない。)
●ブッダは、この世界に実在する別の者である息子を生み出したことで、この世界に対する責務を果たしたように思われ、何かから解放される。(例えば、美しい妻に惹かれてしまうということも、自分を世界の責務へと結びつけておく一つの働きのようなもので、息子が出来たことで、そのような結びつきから解放される、というような。)しかし息子のラーフラは、そのような世界との意味的な関連やそこからの解放というような問題は成り立たない。世界の無限の差異を、それとしてそのまま受け取ることが出来、記憶してしまう者にとって、それぞれの物が「それがそれとしてある」ということ以上に重たいものはなく、しかしそれは意味ではないのでそこから解放されることもなく、おそらくそれ以上の強い関心(色欲や修行のような?)によって、その重さからしばし解放されることが出来るだけだろう。(あるいは、知覚対象の明確さが揺らいで世界が振動と化すようなローヒニー河岸での体験のようなものによって。)ブッダやラーフラのような裕福な生まれではなく、世界のなかで自分が生き延びることを第一の関心としなければならないラーフラの息子ティッサ・メッテイヤは、父や祖父のような「重さ」を感じる余裕もなく、ただ虫に魅せられ、虫を飼育するという行為を通してのみ思索する。ここで、ティッサ・メッテイヤと、彼に飼育されるカブトムシやクワガタとの(時間における)主従関係は、この小説の語り手と、語られる者たちとの関係を想起させるもののようにも思われる。ただ、ティッサ・メッテイヤは、役にも立たない虫の飼育をするという意味で変わった子供(思索する子供)であるが、「虫の飼育」という具体的行為から、思索を切り離して抽象化するほどには、彼の生には余裕がない。だから、この虫の飼育という思索の形態は、ブッダの宗教や、アショダラの生活習慣の構築のように確固としたものではないが、ラーフラのように形式が成り立たないわけでもない、小さな形式としてある。(ただ、小説としては、主にティッサ・メッテイヤについて語られる終盤部分で、記述がやや平板な感じになるようにも思えた。)ここで、それそれの思索の形や道筋は、もって生まれた資質や、生まれた条件という偶然に、あくまで支配されているように思われる。
●ブッダ-ラーフラ-ティッサ・メッテイヤという流れとは別にある、マガダ国王ビンビサーラのエピソードも、とても印象深い。自分を緩慢に殺そうとする息子への憎しみと、幼い頃の息子が病気から生還することを本気で望んでいた記憶とか同居することに苦しむビンビサーラにとっての記憶の重さは、ラーフラがもつものとはまた別種のものであるように思われる。そして、ことなる感情の同居が、彼に現実と夢との区別を失わせることになるものまた、必然であるように思われる。(このビンビサーラの感じこそが、ぼくにとっては最も親しいものかも知れない。)

07/10/23(火)
●今出ている「文藝」に載っている、文藝賞になった「肝心の子供」(磯崎憲一郎)という小説が凄い。とにかく凄く面白い。今、日本で書かれているあらゆる小説とほとんど無関係にぶっとんでいるという意味で、圧倒的に飛び抜けている。今、これを読まない手はないと思う。というか、ことさら「今」読まなければその魅力が目減りしてしまうような小説ではなく、おそらく五年後に読んでも、二十年後に読んでも、びくともせずに面白いと思われるので、そうそうあせって読む必要もないのかもしれないけど。
多くの人は、ボルヘスという名前を想起するかも知れない。しかし、ボルヘスはもっと「意味」へと収斂される度合いが高いが、この小説は徹底して尻尾を掴ませない、固定した意味からすり抜ける動きがある。尻尾を掴ませないにもかかわらず、なにかやたらと具体的な感触もある。そしてその動きこそが、時間の進行と「死」のリアルな手触りを示す。
●おそらく、ぼくはこの小説を書いた人と一度だけお会いした事がある。(たぶんあの人で間違いないと思う。)それも、荒川修作がつくった住宅で。小説を書いている人だということは知っていたけど、こんな凄いものを書く人だったとは。

07/10/22(月)
●喫茶店に入るとうっすらと暖房が効いていて、上着を脱ぐ。そこに長時間居て表に出ると、寒いとまではいかないが、軽く火照った体が外気との予想外のギャップを感知する。火照るような人工的な暖かさのなかから、涼しいところへ出て行くという感じに、体が慣れていない。
この夏から出勤するかのように通っている喫茶店(二階にある)では、タバコは吸わないのに喫煙席に座る。窓際にあるから。もうもうと煙がたちこめているのは嫌だが、他の席からふわっと漂ってくるタバコの匂いは(花粉症の時期でなければ)嫌いではない。大学に入った年から二〇年近く通っている駅前の道を見下ろす。
中古のパソコンのバッテリーは三時間弱しかもたないから、原稿を書いていても、それ以上はつづけられない。それは、だらだらと惰性で続けずに作業を中断するよいきっかけではあるのだが、せっかくエンジンが暖まってきたところなのに、という時もある。オーダーし直して、新しく来たコーヒーを飲む。
パソコンをしまって、コーヒーの匂いを感じ、しばらくボーッとする。鞄から筆記用具と本を取り出す。ノートは使わず、必要があれば本の余白にごちゃごちゃと書き込む。あるいはメモ用紙(クロッキー帳だけど)を使い、本のページに挟んでおく。文庫本は携帯には便利だが、余白に書き込み難いのが困る。付箋を使うことは最近おぼえた。

07/10/21(日)
●『突破口!』(ドン・シーゲル)をビデオで。面白かった。この映画はかなり細かく伏線がはられていて、そこも面白いのだけど、例えば、その緻密なつくりに気づかなかったとしても(例えば、ズタズタにカットされたテレビ放送などで観たとしても)、その核心となる面白さがそれほど損なわれることはないように思う。密度濃く、綿密な構成できっちりつくられていることが、豪快で大掴みに捉えられる(時間と空間の)鷹揚さのようなものを、少しも損なわせていない、というのか。細かい作り込みがかったるさやまどろっこしさに繋がらない。これってつまり、結局は運動神経ということなのだろうか。
(冒頭の銀行を襲撃するシーンで、ウォルター・マッソーが何故、わざわざ足にギプスをしていたのかの理由が分らなかったりするのだけど、それはそれで納得してしまう。あと、物語的にこまかいことを言えば、主人公が秘書の部屋から銀行の頭取へ電話した時点で、追手は主人公の居場所を掴んでいるのだから、今までの追手の行動から考えると朝まで待たずに、速攻で主人公の寝込みを襲うはずなのに、なぜこの時だけ悠長に翌朝まで待つのか、というのが納得出来なかったりするのだが。)

07/10/20(土)
●引用、メモ。ジョアン・コプチェク「視覚の筋かい---見ることの支えとしての身体」(『女なんていないと想像してごらん』)。ルネサンスの遠近法が、視覚原理にもとづく古典幾何学ではなく、射影幾何学に依っていたということは、ラカン派的な解釈を超えて重要なことだろう。
《しかし、ルネサンスの遠近法は、カメラ・オブスキュラの古典幾何学ではなく、射影幾何学に基づいていた。(略)ここからも明らかなように、また多くの理論家の主張とは反対に、ルネサンスの遠近法は、絵画平面の外部にあるいかなる点を参照することもなく機能する。いいかえれば、ルネサンスの遠近法は、そこから一定の距離をとったところに位置する、想定された外的な観察者の目に依拠しているのではない。その領野はひとえに、絵画に内在するある点の周囲に構成されるのである。》
《射影幾何学は、表象をのがれるもの、数量化された、表象化された世界のなかに居場所を持たないものを見出すために発明された。これは、射影幾何学が表象不能なものを表象しようとした、という意味ではない。そうではなく、射影幾何学が、この表象不能なものの存在をみずからの手続きにしたがって証明しようとした、という意味である。》
《古典幾何学の目的は、二次元面にできるだけ歪みのないように物体を描く際の助けとなることであった。その関心の中心は、実際の物体に類似した像、あるいは視覚的な類似性を図面のなかで維持することにあった。一方、射影幾何学の関心の中心は、射影における物体の変形を研究することによって、なにが射影の過程で変化せずにそのまま残るのかを確定することにあった。それが維持しようと努めたのは、物体の不変的性質であって、視覚的な類似性ではなかった。平行関係は、射影のもとで維持される特性ではない。なぜなら、この方法の実践によってもたらされるのは、絵画において消失点と呼ばれる、ある一点におけるすべての線の交差であり、水平線と呼ばれる、絵画面を横切る直線の形成であるからだ。》
《先に述べたように、この方法は、物体の視覚的な特性を調べるためのものではない。そのため、それは純粋に視覚的な空間を生み出すことはないし、またその意図も持っていない。従って、これらの絵画に現れる消失点と水平線を、視覚の錯覚として、誤ってわれわれの目に映る物体としてとらえることはできない。消失点と水平線は、どこか別の場所から視覚的領野へと投影[射影]された、見る主体の目を刻印しいてるのである。》
《(...)消失点は、見る主体の場所を表している。それと同時に、第二の点も知覚できるようになる。距離点である。それは、「画家が[自分が描いているもの]を表象するために----a rirarlo、すなわち、そのものの特徴を一つ一つ描写するために----すくなくとも観念的に身を置いている場所」を示している。これこそがラカンが眼差しの点として示した点である。彼がいうように、射影幾何学の関心は測定ではなく照応にあるので、眼差しの点は測量的に決定されない。とにかく重要なのは、なんらかの距離が、あらゆる距離ないし間隔がこの二つの点、すなわち、消失点あるいは見る主体と距離点あるいは眼差しとの隔たりとして絵画のなかに印される、ということである。なぜそうなのか。ルネサンス遠近法の目的は、最終的になんであるのか。それはなにをしようとしているのか。それは、目によって知覚されたものperceptumのなかに、知覚するものpercipiensを捕らえようとしているのである。ここにおいてラカンは、絵のなかへの観者の目の出現だけでなく、目に見える世界への眼差しの出現にも言及する。通常であれば、眼差しは目に見えるものではない。というのも、主体は、眼差しから分離することによって見る主体となるからである。しかし、知覚されたもののなかには、射影[投影]を通じて、われわれが絵に向ける目だけではなく、われわれのほうを見返す目もあらわれる。絵がわれわれを見返すことができるのだとすれば、その理由はただ一つ、われわれが絵から距離をおくことができる、あるいは後ずさりすることができるからにほかならない。結果的にこれが意味しているのは、知覚するもの、あるいは知覚する主体は、単なる点として、静止した抽象的な位置として表象されることはなく、あくまで、見ているわれわれが立っている点とわれわれのほうを見ている点とを隔てる間隔、あるいはギャップとして表象可能になる、ということである。》

07/10/19(金)
●引用、メモ。ジョアン・コプチェク「エジプト人モーセと、南北戦争以前の南部における黒人の大乳母....」(『女なんていないと想像してごらん』収録)より。メタ言語は存在しないし、権力の外(メタ権力)も存在しない。(以下の引用でコプチェクが最も言いたいのは、ドゥルーズやフーコーに反して、メタや外部をつぶすものが「現実」という「否定」である、という、「否定」の重要性であろう。)だからこそ、言語や権力は自身の内部へと折れ曲がり、折り畳まれ、自己分裂的、自己言及的にならざるを得なくなる。ここまでは納得出来る。(つまり力を折り畳ませるものが「現実という否定」なのだ。)そして、言語や権力がそれ自身へと折れ曲がる地点こそが、主体化の場所だということも理解出来る。権力は、折り畳まれた権力自身によってのみ、自らを限界づける。しかし、そこに自由をみることが本当に可能なのだろうか。以下、引用。
●《ドゥルーズは、フーコーは『性の歴史』を書いたことによってみずからを窮地に追い込むことになった、と考えている。権力関係に外部は存在しないというテーゼは、袋小路に行き着いた。なぜならそのテーゼは、「『権力の真理』ではないような『真理の力』を想像すること、権力の総合線ではなく抵抗の横断線を解放するような真理を想像すること」を不可能にしたからである、と。ドゥルーズの読解によれば、『快楽の活用』のフーコーは、セクシュアリティを権力によって構成されるものとしてだけでなく、権力の外部が内部化されたものとして、あるいは権力の外部が権力の内部に折りたたまれたものとして捉えることによって、この袋小路を突破していった。ここで気がつくのは、権力には外部がないというテーゼがこの修正によって損なわれてはいない、ということである。テーゼは無傷のまま残る。権力の外側には依然として外部はないが、ただし今度は権力の内側に外部があるのだ。》
《(ドゥルーズによれば)フーコーは、ギリシャ人がいかに力forceを折りたたんでいたか、彼らがいかに力を反り返らせていたか、ということを示してみせる。こうした言い方をする際、念頭にあるのは、ギリシャ人たちが節度ある性生活を実践するのは断念や犠牲といった道徳心によるのではない、むしろそれは自己形成の行為、自己を変えるための克己の実践を構成している、というフーコーの議論である。ギリシャ人は、セクシュアリティにおける受動的な状態から自由になるために、情念に囚われた状態から抜け出すために、性的欲動に対する自己制限ないし自己抑制を行うのである。ドゥルーズの読解において、この自己抑制は、セクシュアリティを禁欲的に抑制するものとしてではなく、セクシュアリティ自体を定義するものとして浮上する。ここにいたってセクシュアリティは、外的な規定に抵抗する、自己に対する---あくまで自己であって、他者ではない---関係として考えられている。》
《力が突然折り曲がるようになるのは、自己制限をするようになるのは、なぜなのか。それは、現実的なものが介入するからである、といえるだろう。権力には外部がないのだとすれば、つまりフーコーが主張するように、人や国家機関が権力に巻き込まれないまま権力を掌握したり遠隔操作したりするための足場となるような、権力を超えた場所は存在しないのだとすれば、権力自体の内部には、権力から逃れる可能性を否定するなにかが存在していなければならない。そして、この可能性を否定するなにかは、それ自体、否定不可能なものでなければならない。なぜなら、フーコーがつとめて明確にいおうとしているように、それを除去あるいは否定することは、権力自体の崩壊をまねくからである。言語あるいは象徴界のなかにあって、あらゆるメタ次元、あらゆるメタ言語の可能性を否定するもの---それがまさにラカンによる現実的なものの定義である。この除去不能な否定、象徴界の中心にある固い核によって、シニフィアンは自己分裂や自己言及を起こすことを余儀なくされる。というのも、メタ言語が存在しないとき、シニフィアンの意味作用は、他のシニフィアンを指示することによってしか成立しないからである。要するに、外部が形成されるのを避けたいときには、先にも述べたように否定を避けてはならない。》
《象徴界の内的な限界---すなわち、シニフィアンの無力状態---としての現実的なものは、象徴界とは別の場所があることを仮定するのではない。現実的なものとは、象徴界の上部あるいは外部に出る可能性をつぶす障害である。(略)権力を限界づけるのは、シニフィアンの場合と同様に、権力自身だけ、権力がみずからに課した無力状態だけである。そしてそのときのみ、主体は、権力の網の目から逃れられないながらも、権力に受動的に従属する者としてではなく、主体化する能力をもったものとして捉えられるようになる。というのも、主体は、権力の内的な限界の内部、権力の自己分裂を引き起こす必要最小限のギャップの内部に身を置くかぎりにおいて、規定され確定されたアイデンティティの強力な牽引力から自由になれるからである。まとめよう。権力には外部がない、それゆえ権力に抵抗するものもない、という言い方は正しくない。権力が、ただ権力だけが、権力に対して作用する---これがより正しい言い方である。権力は、みずからを抑制する力を持っているのだ。》

07/10/18(木)
●清水崇の映画をDVDで何本かまとめて観直した。おそらく、最初のオリジナル版『呪怨』の時点では、たんにホラー的な様々なテクニックや小ネタをやりたかっただけで、それらを一本の作品に纏めるために、あの複雑な構造や、あの家や、伽?子をめぐる物語が考えだされたのだと思う。つまり個々の、バラバラな小ネタが先にあって、物語や構造はそのための方便に過ぎなかったのだろう。最初の『呪怨』では、ただ怖がらせるという「効果」だけが高濃度に圧縮されていて、それらを束ねるための、あるいは、それらがそこから生み出されるはずの根本的な感情や物語がない。だからその「効果」(テクニックや小ネタ)は、それを束ねる軸をちょっとズラしてやるだけでコメディにもなるギリギリのところで成り立っていた。(その方向性は、実際『幽霊VS宇宙人』や『怪奇大家族』などで試みられている。)つまり、おそらく清水監督にとってホラーはかなりの程度「技術」とその応用の問題で、ホラーそのものに対するこだわりはそれほどないのだと思われる。『呪怨』のあたらしさやあやうさは、そこにこそあった。
しかし、劇場版の『呪怨2』(『呪怨』は、オリジナル版の1、2があり、それとは別に劇場版の1、2がある)あたりから、「小ネタ」そのものから、本来繋がらない小ネタを「どのように繋ぐのか」、あるいは、それを「繋ぐものは何なのか」ということに、興味の中心が移っていったように思われた。最初はたんにネタの「繋ぎ」の役目でしかなかった複雑な構成は、ここでは時間的、空間的に隔てられた場所をどのように繋ぐか(あるいは、その繋がらなさをどのように示すか)というより積極的な意味を帯びるようになる。それは、隔てられた遠くからの「呼び声」のような形をとる。例えば、新山千春の部屋の不気味な打撃音や、マグカップが倒れるという出来事は、未来の、死後の自分からの呼び声であり、二階の部屋で眠っている酒井法子を目覚めさせるのは、死んでしまった母親からの呼び声である。この、遠く隔たった場所からの呼び声は、作品に「呪い」とは別の、「愛」といってもよいような人間的な原理を導入し、そこに独自の感情を生起させる。例えば、縁側にたたずむ酒井法子と、まだ生きていた頃の伽?子と少年の姿が一つのフレームに共存し、少年が酒井法子のコーヒーをこぼすことで、二つの時間がふっと触れ合う瞬間などでは、徹底的に呪いが蔓延し、呪いが全てを飲干してしまう『呪怨』の世界には似つかわしくないような、ある強い情感が生まれる。勿論、『呪怨』の世界では、呪いこそが全てに勝利するわけだが、酒井法子は、その呪いさえも愛をもって受け入れるかのようだ。
隔てられた時間や空間が、なにかしらの媒介によって触れ合うということがらが本格的に主題化されたのが『輪廻』であると思う。この映画では、前世と現在、山の中の廃墟となったホテルとそれ以外の空間とが、殺した者の狂気と殺された者の怨念によって結びつけられている。いや、正確には、この映画で隔てられたものを繋ぐのは、狂気や怨念といった人間の感情ではなく、それを超えて作動する世界の原理としての、反復強迫的なメカニズム(輪廻-呪い)であるだろう。とにかくこの映画では、隔てられたものを繋ぐ(隔たったものがふっと触れ合う)ための映画的なテクニックが、これでもかと詰め込まれている。(恐怖よりもむしろ「繋ぐ」ことの方が強く主題化されることによって、作品がちょっとアートっぽくなっている。)だがここでは、愛や情感のようなものはそれほど強くはなく、呪いの原理こそが、異なる次元を結ぶ原動力となっている。一度刻まれてしまった呪いの原理は、時間の外にあって生き続け、時間や空間を歪ませる力をもつ。
だが一方で、この映画では、その呪いの力は、殺された少女(の代替物である人形)による「いつまでも一緒だよ」という声によって形象化されているので、この少女の感情(殺されたことへの怨念であるよりも、殺した父への愛情、しかしこの固着し執着する愛情はほとんど呪いと同義だ)こそが、惨劇の反復(輪廻)を促しているかのようでもある。(あるいは、この少女の兄から、兄の生まれ変わりである映画監督へと渡されるゴムボールは、呪いの原理であるよりも、人間的な意思を感じさせるものだ。)とはいえ、この映画では劇場版『呪怨2』ほどには、人間的な感情や意思は上手く形象化されていない。例えば、ゴムボールははっきりと兄による人間的な意思のあらわれで、それが映画監督に映画をつくらせるのだが、人形や声は必ずしも少女には帰属せず、むしろ非人称化された世界の原理としての呪いに近い。このように異なる「呪い」が混同されていることが、この映画をやや弱いものにしているのかもしれない。
●劇場版『呪怨2』の、市川由衣の短いパートは、ほとんど『インランド?エンバイア』みたいだ。市川由衣が走っていて、ふと振り返ると自分が倒れていて、それを友人が抱きかかえている、というシーンとか、すごく面白い。幽体離脱が、走っていてふと振り返る、という形であらわされるのが面白い。あと、『輪廻』では、廃墟になったホテルの手前にある商店街のロケーションが素晴らしい。鳥居とか。

07/10/17(水)
●喫茶店で原稿を書いていて、いきなりノートパソコンの画面が真っ暗になってあせった。たんなるバッテリー切れでよかった。(ある作品のレビューを書いていて、その作品の「微妙さ」こそを書きたいのに、遠回しな、直接言うことを避けて批判をほのめかすみたいにも読める文章になってしまって、それをどうしたらよいか考えているうちに、バッテリーの残量を気にするのを忘れてしまっていた。)もともと中古で買った(これを今、表で取り出すのがかなり恥ずかしいくらい古い)パソコンなので、バッテリーのもつ時間が短いのだ。この喫茶店に八月くらいから頻繁に通って長居するようになって、店長(おそらく二〇代後半の女性)がバイトの面接をしている場面に何度が出くわして、その会話の感じでなんとなく合否が察せられるようになってしまった。昼はコーヒー飲み過ぎ、夜はウイスキー飲み過ぎで、夜中に胸焼けで目が覚めた。朝方はもうかなり肌寒い。

07/10/16(火)
●京都で狩野永徳展がはじまったけど、観に行けるかどうかは(主に経済的な理由によって)微妙だ。一昨年、京都に行った時に立ち寄った京都国立博物館はいい感じにさびれていて、人もそんなに多くはなくて、ゆっくりと展示物を観ることが出来たのだが、狩野永徳となるときっとすごい人なのだろう。
一昨年、京都に行ったのは11月のはじめ頃で、京大の大学祭に呼ばれて小説家の星野智幸さんと中上健次について話すためだったので、いまごろの時期は、中上健次の小説を集中して読んでいた。その時思ったのは、中上健次の小説で重要なのは、父や母や兄であるよりむしろ、姉たちと(腹違いの)妹の方ではないかということだった。父や母や兄との物語を起動させるためには、姉という媒介が必要となる。中上健次が中上健次になった瞬間が刻まれているといえる「蝸牛」でも、物語は姉がいなければ発動しない。それと、腹違いの妹の、べったりとまとわりつくような気持ち悪いとさえ言える感触が、その小説世界に独自の表情を生んでいた。(秋幸は、母親を含む女性の近親者に徹底して甘やかされており、その愛情空間のどろっとした濃度は、ちょっと他の作家の小説では感じられないくらいに濃厚なものだ。そしてそれは、母との関係よりも、姉や妹という距離でこそ、より生々しい。)そんなことを思い出したのは、最近あった、新興宗教の施設内での集団のつるし上げで女性が殺されてしまったという事件の報道をみて、中上健次の小説(特に『地の果て、至上の時』)を連想したからだ。

07/10/15(月)
●歌舞伎町にある映画館(名前忘れた)で、タランティーノの『デスプルーフ』。途中では、いろいろと不満やひっかかりを感じるのだけど、最後のカーチェイスの気持ち良さで、それらがすべてどうでもよくなる。ひたすら気持ちがよいままで、それが損なわれる前に(余計な疑問が生まれる前に)スパッと終わらせるラストも見事だと思う。最後のカーチェイスの、きわめて単純な気持ち良さに全てを賭けることが出来たということは、つまりそれが可能であるという自身の技量に対する自信を持ち得たということなのだと思う。
ただ、そこに至るまでの展開に、(主に脚本家としての)タランティーノ的なかったるさが出てしまっているように思う。最初に、女の子たちのお喋りを延々と見せつづけるところは良いと思うけど、それをもう一度繰り返すのはどうかと思う。この、微妙な差異を含む反復が伏線にもなっているのだけど、それは、後から「構成」として頭に思いうかべるのなら、まあ、それもアリかと思えるのだが、実際に観ている時は、これは二度はもたないでしょう、と感じられてしまい、どうしても中盤がかったるい。そう感じるのは、二組目の女の子たちのキャラの描き分けがあまり上手くいっていないからかもしれない。(もっと簡潔な描写にした方がキャラが立つのかも。)細部にアート的なつくりこみをいろいろ工夫しているのは分るのだけど、それだけでは弱いと思う。(でも実は、ぼくが「かったるい」と感じる部分こそがウケているのかもしれないのだが。)
これはまったく好みの問題でしかないのだけど、ぼくには『ワルボロ』の方がずっと興奮できた。

07/10/14(日)
●おそらくリンチにおいては、イメージ(見ること、見えるもの)は信用されていない。見ることの出来るもの(イメージ)は常に幻想的に歪んでいるし、それが示すのは何かの徴候のみであって、出来事そのものではない。イメージは常に過剰であるのだが、その過剰さによって肝心な何かを覆い隠す。あるいは、見えるものはすべて仮のものでしかないが、それは現実的な何かを「匂わ」せてはいる。『ロスト・ハイウェイ』で、男が自分の目で見ることが出来るものは、妻の過去に関する様々な徴候に過ぎず、見ることのみでは何も決定的な事柄を確定出来ず、妻の殺害という現実的、決定的な出来事は、ビデオテープの映像という、外から(半ば強制的に)やってくるものによってしか知ることが出来ない。男は決してそれを、「自分の目」では見ることができない。
『マルホランド・ドライブ』で、映画監督は、だいたいにおいて好き勝手に映画をつくることが許されるが、その中心となる「主演女優」だけは自分で決めることが許されない。それは、何重にも仕切られた部屋の奥に隔離された、黒幕的な小男によって予め決定されていて、映画監督は、自分から切り離された場所で行われたその決定を、ただ受け入れるしかない。この小男の存在は、『ロスト・ハイウェイ』のビデオ映像と同じ位置にある。男は、(自分の意識は知らない)「妻の殺害」という事実を、外側から告げ知らせる映像に従い、自分がやったこととして受け入れるしかない。同様に、映画監督は、どこか知らないところで既に小男によって決定されている主演女優を、自分の意思による決定として、受け入れなければならない。どちらも、自分の意思から切り離されたところからやってくる命令としてしか、自分の行為や意思(現実)を知ることができない。見ることが出来るイメージ(大掛かりに行われているオーディション)は、実は決定的なこととは無関係だ。(この黒幕の小男のいる部屋は、しばしば、『ロスト・ハイウェイ』のビデオ映像のように俯瞰で捉えられている。)
『マルホランド・ドライブ』を構成するほとんどの部分が、ナオミ・ワッツ(として仮に形象化されている「ある女」)による幻想なのだが、この幻想-イメージが幻想であることを告げるのは、この世界のなかであきらかに「浮いている」オブジェ、ローラ・ハリングによってどこか知らないところから持ち込まれた、異様な輝きをもつ青いオブジェのみであろう。この外在化された青いオブジェは、ナオミ・ワッツの幻想を解除し、現実へと連れ戻す。この青いオブジェのみが、幻想-イメージの世界で、唯一その外側の現実(ローラ・ハリングの殺害)を示すものであろう。
イメージは常に偽物で、信用できないとしても、その外側から、イメージの信用出来なさを告げ知らせ、それとは別の場所にある現実の存在を知らせるような、イメージとは別の審級が、ビデオ映像であったり、黒幕の存在であったり、異様なオブジェであったり、によって示されていた。しかし『インランド・エンパイア』では、そのような審級を示すような決定的な要素がない。テレビショーの司会者は、黒幕というほどに強い力はない。テレビを観て泣く女は、ただ泣くばかりで決定的な何かを告げてはいない。辛うじてウサギ人間の場面のみが、すべてが信用ならない幻想であるかのようなこの映画の世界の外側に位置していて、外の世界の存在を示している。しかしそれはおそらくある種の「遠さ」の感触を示すのみで、現実的な何かしらの「事件」を意味しているわけではない。
つまり、イメージの外にあるであろう何かしらの現実は、徹底してその徴候としてしか示されない。『インランド・エンパイア』において、イメージがとても軽く(粗雑に)扱われていることは、リンチが本来もっているイメージそのものに対する不信をあらわすものであるのと同時に、その粗雑さそのものがイメージの徴候化(具体性の縮減)の実現としてある。イメージそのものがイメージへの不信を示し、このイメージをそのまま信用するなと告げ、その外(別の場所)に何かがあると告げている。しかしその何かは、信用出来ない(だらしなく増殖するかのような)イメージたちの関係によってしか知ることは出来ない。
●顔はおそらく、他者の存在の感触を触知させる最も端的な記号であろう。リンチの極端な顔のアップは、顔に近付くことで他者の内密性にまで触れたいというような、淫らな欲望を示すものであろう。しかし、顔に近付き過ぎることは、顔を皮膚の肌理と起伏へと還元してしまい、その人物の同一性や固有性の記号としての「顔(イメージ)」を崩壊させる危険がある。リンチのどアップは、他者を欲望することがそのまま他者を破壊することと地続きであることを、生々しく示しているように思う。そしてリンチの映画はいつも、そのことをこそめぐるものだろう。だからこそその物語が常に、セックス、裏切り、暴力、殺害をめぐるものになってしまう。

07/10/13(土)
●しつこくリンチ。ある人から、『インランド・エンパイア』のウサギ人間のシーンや『マルホランド・ドライブ』の黒幕的なおっさんの部屋のシーンでの、微妙な俯瞰ショットの不思議さを指摘されて、それを気にしながら『インランド・エンパイア』を観ていたら、「ロコモーション」のかかるダンスシーンでも、ほぼ同じ感じで俯瞰のカメラ位置が選択されていた。常に、空間を潰したり、歪ませていたりしているこの映画で、カメラがこの位置にくる時だけ、空間が普通に成立している。しかし逆に、この普通さが確かにとても妙な感じなのだった。幽体離脱的なポジションというか。
考えてみれば、『ロスト・ハイウェイ』では、このような幽体離脱的な視点こそが主題となっていた。ある夫婦が自分たちの家の玄関に置かれたビデオテープを観てみると、そこには、家の内部を俯瞰っぽい位置から撮った映像が映されていた。それはエスカレートして、次の日に置かれていたビデオでは、寝室で夫婦が寝ているところが、微妙に俯瞰的な位置から撮られていた。『ナイト・ピープル』という映画でのリンチのインタビューでは、このアイデアを思いついた時に、これをもとに映画が出来ると思って、すぐにバリー・ギフォードに一緒に脚本を書こうと連絡したということだった。
このビデオ映像はつまり、この映画の主役である「ある男」(この映画では主役の男は二つの身体-イメージに分離している)の、視線から分離したもう一つの視線(精神分析的に言えば「眼差し」)が外在化したものだといえる。おそらく人は、潜在的に、自分を含む空間を、三次元的な座標として外側から捉える空間把握のマトリックスのようなものを内在させており(そのようなアルゴリズムが無意識に働いているからこそ地図が読める)、ちょっとした危機的状況になるとその眼差しが「外にあるもの」として意識化される。意識が混濁している時に、自分の寝ているベッドをやや高い位置から見ているような感じをもったり、あるいは、暗い夜道を歩いている時に、誰かの気配を感じたりする。前者は自分を見る自分として、後者は、自分を見ている誰かとして、潜在的アルゴリズムが実体化する。『ロスト・ハイウェイ』で、男に視線の分離を促すのは、妻への強い不信であり、そしてこの視線の分離が、おそらく男に別の人物への変身(分裂)を促す。
そしてこのビデオ映像はある日とうとう、ベッドルームで惨殺される妻の映像を映し出す。勿論、妻を殺したのは男であるのだが、男にはその記憶はない。つまり妻の殺害は、男から分離したもう一つの視線によってしか意識されない。こうしてみると、リンチは本当に、同じような映画ばかりつくっている。
リンチの映画は、行為や出来事ではなく、徴候や幻想によって出来ている。つまり徹底して非アクション映画だと言える。「ある女」や「ある男」は、外的な環境や行為することから切り離されることによって、世界を徴候で満たし、空間を幻想的に歪ませる。それは能動性の放棄であり、世界を複数に分裂させ、自己の同一性さえ解体する。(しかしそれによって、誰でもない誰かという地平が僅かに開かれる。)一方、目的をもった能動的アクションは、本来バラバラに分裂しているはずのものを、強引に結びつける作用がある。つながらないショット、繋がらない空間、つながらない時間、そして、バラバラな身体部分、分裂する自己は、目的をもつアクションによってアクロバティックにつなぐことが出来、バラバラな世界はそれによってシンクロし、統合を得る。例えばトニー・スコットは、現在と四日半前という、本来つながらないはずの、まったく異なる時間-系を、アクロバティックなアクションによってつないでしまう。確かにそれは健康的なことではあろう。中井久夫は次のように書く。
《頭のなかが乱れてまとまらないときに何かからだを機能的に使うことをすると一種の統一感が生じます。スポーツのあいだは悩まないでしょう。行為というのはいっときに一つのことしかできません。大声を出すのも、いっときには一つのことしかしゃべれませんから、同時にいくつもの考え頭のなかをかけめぐっているときには統合の方向、コントロールの方向に向かうのです。特に恥ずかしい考え、あられもない考えのときです。》(『こんなとき私はどうしてきたか』)
リンチの映画はあくまで、《頭のなかが乱れてまとまらない》まま、《恥ずかしい考え、あられもない考え》が生起する場所(原-私としての欲動の場?)に留まる。

07/10/12(金)
●もうちょっと『インランド・エンパイア』。昨日、ローラ・ダーンが口にする「死んだ息子」について触れたけど、この息子が実際に生まれたのかどうかは怪しい。まあ、そんなことを言えば、この映画の出来事のことごとくが怪しいのたけど。女が夫に子供が出来たことを告げ、男は自分には子供が出来ないのだと言う。つまりこの子供こそが妻の裏切りの証拠となる。ここから夫の暴力がはじまるのか、それとも以前からあった暴力が女に裏切りをさせたのか、あるいは裏切りなど本当はなかったのか。時間的な順序が関係ないどころか、人物の同一性さえ定かではないこの映画の世界では、それらのことは皆あやふやであるに留まる。ただ確かなのは、「ある女」が、「子供が出来た」と言い、「子供が死んでしまった」と言ったことであり、つまり、本当に子供が出来たのか、ただそれを望み妄想しただけなのか、生まれたとして子供の死は何によるのか(堕胎であるかも知れない)等はともかく、子供の存在とその死を強く意識した「ある女」がいたということだろう。(そしてその「ある女」は、夫と子供と和解すること、彼らに「天国」で迎え入れられることを強く望んでいることは「確か」なのだ。)あらゆることが定かではなく、イメージさえ、いい加減に撮影しているとしか思えないこの映画で、リアルなことと言うのは、そういう風にリアルなのだ。誰が誰を殴ったのかは定かではなくても、そこに確実に「暴力の気配」だけはあり、誰が誰を裏切ったのかは定かではないが、確実に「裏切りの気配」はあり、誰が誰を殺したのかは定かではないが、確実に「殺人の気配」だけはあるのだ。(そして最終的には、誰でもない誰かとしての「ある女」の死があるように感じられる。)具体的な事柄を、具体的なイメージを使って示すしか無い映画で、具体性を後退させて、徴候のリアリティを示そうとするからこそ、この映画の錯綜した構造や、一見たんにだらしないとしか見えないイメージ(カメラと対象との距離が適切だと思えるショットがほとんどないということは、適切な距離を正確に「外している」ということだろう)の垂れ流し的持続が必要となるのだろう。中盤の構成のゆるみのようなものも、そのために必要なのかもしれない。
(昨日の日記で、すべての女性が「顔のない後ろ姿の女性」に収斂されるというようなことを書いたが、それはちょっと言い過ぎで、「世界の掟」の側に居る人物、テレビショーの司会者やホームレスの黒人女性、裕木奈江などは、後ろ姿の女性(ある女)へとは重ならないだろう。)
誰でもない誰か、誰かと特定され名指される以前の「ある女」の「頭のなか」のあり様が、ほとんど無時間化された構造のなかで示されるという意味では、『マルホランド・ドライブ』と同じだと言える。しかし、『マルホランド・ドライブ』では、その「ある女」の仮の形象が、ナオミ・ワッツとしてほぼ安定していた。『インランド・エンパイア』では、ある女は、ローラ・ダーンの二つのペルソナであり、彼女を殺そうとする女でもあり、彼女の家に訪ねて来る老女でもあり、彼女を取り囲む娼婦たちでもあり、誰だか分らない祈っている女でもあり、ポーランドの女でもあり、テレビを観て泣いている女でもある。つまりある女の「誰でもなさ」がより増している。『マルホランド・ドライブ』では、夢(妄想)や回想を位置づける、現実の現在という地平が、ほんの僅かとはいえ存在するのだが、『インランド・エンパイア』では「現実の現在」という基底的な次元がなくて、あらゆる次元が相対化されている。後ろ姿の太った女性は、あらゆる「ある女」を一つに収斂させ得る僅かな徴としてその身体的現前を示すのみで、確固たる現実的時空を構成するところまではいかない。(だからこの映画に「現在」という時間があるとすれば、それは「ある女」の「死のはじまり」から「死の完成」までの一瞬ということになろう。その一瞬のなかに、だらだらと三時間もつづくともいえるこの映画の全構造が凝縮され収斂される。)この映画には、様々な次元の関係のみがあって、それが着地する「地面」がない。だがそれによって、徴候が徴候として、それのみで際立つのだと思う。

07/10/11(木)
●恵比寿ガーデンシネマで、デヴィッド・リンチ『インランド・エンパイア』。二度目。この映画は、前半すごく面白いのだが、中盤になって、要素を詰め込み過ぎて散漫になるのと、いくらなんでもどアップばかりで押しまくる演出が単調に思えて来て、やや退屈になってくる。(ローラ・ダーンの顔だけは終始素晴らしい。それにしてもこの映画では、リンチ自身がカメラを操作しているのだろうか。第三者としてカメラマンが介在すると、ここまで妙な空間の歪みかたはなかなかしないのではないか。)そして、セックスと不信と暴力の気配が濃厚に充満する暗くて狭い廊下を三時間にわたって延々と彷徨っていたようなこの映画が、それを抜け出し、唐突な和解のシーンで幕を閉じ、天国的なクレジットのシーンになると、はんの少しだけ、このまま死んでもいいかも、という気持ちになる。そんな気持ちは、映画館を出ると消えてしまっているのだが。
この映画は、死んだ息子と殺した夫に、天国で再会し和解してハッピー、みたいな終わり方をする。『イレイザー・ヘッド』には、「天国ではすべてうまくゆく」という曲が流れるのだが、この映画もそんな感じ(つまり、「天国」でしかうまくはゆかない)で終わる。この映画で、他の要素との関連がみられない、孤立した、浮遊した要素がおそらく二つある。一つは、二度出て来る後ろ姿のみが示される太った女性で、もう一つがローラ・ダーンによって唐突に「息子が死んでから生きる気力がない」と口にされる「死んだ息子」の存在だ。この映画は、誰かが誰かから見られ(誰かが誰かを監視し)、誰かが誰かから裏切られ(誰かが誰かを裏切り)、誰かが誰かに暴力をふるい(誰かが誰かから暴力を受け)、そして誰かが誰かを殺す(誰かが誰かから殺される)という映画で、しかし、その受動的な誰かと能動的な誰かとが(つまり、殺すのも殺されるのも)結局は同一人物だという、歪んで折り返された構造をもつ空間のなかで進行する。(ローラ・ダーンを殺すドライバーは、もともと彼女が持っていたものだ。)極端に言えば、この映画に出て来る女性はすべて同一人物であり、男性はすべて(夫の)影であろう。そしてその(個体化以前にある、誰でもあるような「ある女」として)全ての女性の存在を引き受け、束ねているのが、顔のない、後ろ姿のみが示される太った女性のイメージであろう。(単純に言えば、「死」と「暴力」以外のこと全ては後ろ姿の女の頭のなかの出来事である。)執拗にアップで捉えられつづけるローラ・ダーンが、その執拗さにおいてほとんど顔の同一性が解体され、純粋な情動-表現となることによって、顔のない後ろ姿の女性と表裏一体として重なり合う。ローラ・ダーンが、自分で自分を見るふたつのシーンが、この映画の受動と能動とが共に(分裂した)同一の人物においてなされていることを示すだろうし、ラスト近くで、彼女が男を銃で撃つと、その男の顔が彼女自身の(歪んで加工された)顔に変わるシーンが、この映画そのものである誰でもない誰か(ある女)の死をあらわす。(ローラ・ダーンは二度死ぬのだが、ここではローラ・ダーンだけでなく「ある女」が死ぬ。あるいは、この男は「夫からの暴力」の「徴候」を表すという意味では、このシーンは夫の殺害でもあろう。)この世界の内部にいて、受動と能動に関わるローラ・ダーンと、そのような自分自身を外側からテレビで眺めつつ涙する女とが、「死」によって重なり合う(「ある女」の死が完成する)。そして、死後の世界で、自分に暴力をふるいつづけた(女に殺された)夫と、先に死んでしまった息子が、彼女をあたたかく迎え入れ、受け入れるところで映画は終わる。女が夫を殺したということは、ローラ・ダーンが眼鏡の男に向かって喋りつづけるシーンが、警察の取調室を連想させることからも察することが出来る。
だからこの映画の顔の無い後ろ姿の女性のイメージは、『マルホランド・ドライブ』の顔のないベッドの上の死体とほぼ同じ役割をもつ。そして、ローラ・ダーンのまわりに集う娼婦たちのイメージは、暴力を受けた「ある女」の存在が、過去に幾度も反復されていたことのあらわれ(冒頭の顔のない娼婦と客、そして反復されるレコードのイメージ)であり、そしてまた、天使の代替的表現でもあるだろう。だから、ラストのクレジットの場面は、ローラ・ダーンが天使たちに囲まれて天にのぼってゆくという、まるで『フランダースの犬』のラストのようなシーンなのだろう。
●映画における顔のクローズアップとは、おそらく映画以前にはあり得なかった何かなのだ。スクリーンいっぱいにまで拡張された巨大な人の顔は、顔でありつつも、自然な状態で人が認識する「顔」とはまったく別ものになっている。それは、ごく親しい人の顔を間近から見つめるという事柄とは、根本的にことなる体験を見るものに強いる。ぼくはそれを、八十年代のゴダールの映画を見て知った。しかし、ゴダールの顔が、顔をほとんど風景のようなもの(光を反射する起伏と肌理のある皮膚)として捉えているのに対し、リンチの顔は、人の同一性の記号でもある「顔」が今にも崩壊して皮膚に還元されてしまうギリギリのもの(崩壊の徴候を示すが崩壊し切ってはいない)であり、同時に、同一性から切り離された純粋に情動的なものの強さとそのバリエーションとを示すものでもある。つまり、顔は「顔(他者の同一性の記号)」であることを解体されるのだが、それが他者(「誰か」)の存在の濃厚な徴であることは保持されている。

07/10/10(水)
●上野の東京都美術館で、フィラデルフィア美術館展。モネ「睡蓮、日本の橋」、セザンヌ「ジヴェルニーの冬景色」、ブラック「フルーツ鉢のある静物」、エイヴリー「黒のジャンパースカート」が良かった。ピサロもモネも、いかにも「印象派」っぽい、甘い色彩の絵ばかりだったのだが、この媚びた選択はちょっとどうかと思った。コローはともかく、クールベやマネはあまり良い作品ではなかった。学生の頃、ドガの「室内」をすごく観たかった。今観ると、演出過剰でややうんざりするのだが。ピカソの自画像は、良くも悪くもピカソの資質が素直に出ている絵で、ちょっと良かった。キュービズム風の絵が並んでうんざりしているところにブラックの絵があると、そこだけが輝いているように見える。マティスの「青いドレスの女」はもっとサイズの大きい絵かと思っていたのだが、意外に小さくて驚く。(作品保護のためとはいえ、マティスの絵にガラスをはめるのはやめて欲しい。)モネの「睡蓮、日本の橋」を観ながら、セザンヌは最晩年のモネを観ないで死んでしまったのだなあと思った。「モネはたんなる目にすぎない、しかしなんと素晴らしい目だ」と言ったセザンヌが、もしこの絵を観ていたらどう思っただろうか。おそらく「これは素晴らしい達成だが、だがその達成は、モネの方向性が基本的に間違っていたことを証明してしまってもいる」というようなことを思ったに違いない。エイヴリーは良い画家だなあと、改めて感じた。ホッパーとエイヴリーには、その後のアメリカ型色彩絵画(カラーフィールドペインティング)の可能性の全てが、既に備わっている。ホッパーはちょっとダサめで朴訥としているが、エイブリーは無茶苦茶センスが良い。趣味の良さだけで絵を成立させることが出来る程に。(ホッパーの絵はこの展覧会にはない。念のため。)日本で、エイヴリーとフランケンサーラーの本格的な展覧会が開催されることを願う。(エイヴリーの色彩を観ているとフランケンサーラーを思い出すということで、この展覧会にはフランケンサーラーもない。念のため。)
●映画は、自ら動くことで観る者の動きを奪い、絵画は動かないことによって観る者に動きを強いる、とぼくはいつも思う。特にセザンヌ。ぼくは、セザンヌの絵を落ち着いてじっくりと観ることが出来ない。まず視線が決して落ち着かなくて常に動いているし、胸がゾワゾワして、貧乏揺すりのように体を揺らしたり、首を左右に傾げたり、二三歩動いてみたりと、体も常に動いていて、ソワソワ落ち着かない。にも関わらず(だからこそ)「結果として」セザンヌの絵の前には長い時間留まってしまうのだ。落ち着かないからこそ、常に一定の緊張と注意が、絵に対して払われている状態がつづく。セザンヌの絵をうっとりと眺めることなど想像できない。絵画は自らが動くことがないため、それを観る者の視線を(解決しない)動きに誘わなくては、一瞬にして理解され、消費され、立ち去られてしまう。じわじわと滲みてくるような色彩の味わいや、細部の細かい描き込みなどで、観る者の足を止め、視線を留めることも出来るが、それだけでは充分ではない。セザンヌの絵は、無数の音が同時に鳴り、そのそれぞれが独自の動きをもち、しかしそれぞれ密接に関係していて、その全てを同時に聴くことなどとても出来ない、というような状態に似ている。だから、あの音からこの音へ、この音とあの音の関係から、あの音と別の音との関係へ、という風に注意が常にずれ込み、移ろって落ち着かず、しかしそのような状態がしばらく続くうち、ある時ふと、その全ての音の関係が同時に捉えられたかのような瞬間が訪れ(おそらくその時、時間の外にある複雑な構造が感覚的に把握され)、その時に「セザンヌの空間」としか言えないようなものが、ガツンと立ち上がる。それは注意を少しでも緩めると、すぐに逃れ去ってしまうようなものなのだが。
●セザンヌの絵の前に長く留まっていると、いろんな人がセザンヌについて喋っている声が聞こえてくる。「水彩画風に、ちゃちゃちゃっと描いてるのね」みたいに言う人が多い。余計なお世話だけど、そういう人には、「セザンヌは一筆加えるのに、何時間も迷ったり考え込んだりするような画家なんですよ」と教えてあげたい。そのことを知るだけで随分と見え方がかわってくると思う。(知識によって見方が分るのではなく、知識によって「水彩画風」という紋切り型の偏見が取り除かれるのだ。)速く描くことによってしか描けない絵もあるけど、それでは決してセザンヌのようにはならない。素早く動くためには、その動きが成立するためのフレーム(地平)が安定している必要があると思うのだが、セザンヌは決して事前には成立していないフレームを、一筆一筆の筆触の複雑な関係によってつくりあげようとしているのだから、素早い動きとはまったく別のものが必要とされる。「ジヴェルニーの冬景色」は、描きかけのようにも見える、キャンバスの地が大きく残されている絵なのだが、だからこそ、普通のバランス感覚からみれば、このフレームのなかを、こんな順番で筆を入れてはいかないでしょう、という違和感がはっきりと見える。(速く描くと、どうしてもフレーム内でのバランスをとってしまう。あるいは自分自身の身体的な癖が前景化してしまう。)それは、絵の内容(一つ一つの筆触)が、物理的なフレームであるキャンバスのひろがりを裏切っているかのようだ。しかしさらに注意深く見てゆけば、その偏りが、これ以外にはあり得ないものだということが理解されるような、ある「空間」が立ち上がってくるのだ。

07/10/09(火)
●日比谷シャンテシネで、ジャ・ジャンクー『長江哀歌』。ジャ・ジャンクーは理屈抜きですごく好きなのだが、(観ることの出来た)五本目ではじめて、イマイチかなあ、と思った。いつもは、その圧倒的な風景と音とに触れると、それだけで興奮するのだが、この映画の、いかにも「風景を見せてます」というショットには、ちょっと引いてしまう感じがある。「三峡」という場所は、ジャ・ジャンクーにとって最後まで「題材」であることに留まっているように思うのだ。そんなことを言えば、『世界』の世界公園だって、あまりにあからさまに狙った「題材」なのだが、『世界』では、その狙いを超えてジャ・ジャンクーの作品になっているというところまで押し返していた。(『世界』では、冒頭の鈴の音から既に、ジャ・ジャンクーの映画なのだった。)ジャ・ジャンクーの映画の凄さの何割かは、「現代中国」という題材によるのだと思う。それは、実家の庭先を掘ったら石油が出て来たみたいなもので、それはズルいよとも思うのだが、しかしそれでも、現代中国を撮れば誰でもがジャ・ジャンクーになれるわけではなく、現代中国という題材の利点を最大限に生かしつつも、ジャ・ジャンクーの映画にしかありえない瞬間をつくりあげていた。しかし、『長江哀歌』では、三峡という場所がそれ自体として凄過ぎるので、映画作家としてのジャ・ジャンクーがそれに負けてしまっているようにみえる。もっと言えば、中途半端にあるドラマ的な部分が必要なくて、ひたすら三峡という場所(撮影対象)を捉えることに徹した方がずっと良かったのではないか、と思えてしまうのだ。(もっとじっくり腰を据えてドキュメンタリーとして撮るべきではないか、とか。)例えば、このショットは、この風景を見せたかったから、ここに人物を配置して、こういう風にカメラを動かしたんだろうなあ、という意図が見え過ぎて、冷めてしまうところが多過ぎる。(つまり、映画作品としての必然性があっての配置や動きではなく、ただ風景を見せるためだけのそれに見えてしまう。)見せたい(撮影しておきたい)風景があまりに多過ぎて、それを出来るだけ(手際良く)見せようとすることが、逆に、ジャ・ジャンクーの映画にいつもある、圧倒的な風景と音の現前を殺してしまっているような印象さえ受けた。(編集のリズムなんかも、いつもと違って冴えがないように感じた。)
ジャ・ジャンクーの映画の面白さは、現代中国の圧倒的に大きな風景と、そのなかで生きる一人一人の人物のささやかな「情」のようなものとの残酷なまでの乖離が示されているところにあると思う。ここで、圧倒的に大きな風景とは、一人一人の生活や感情を置き去りにし、押し流してて進んで行く、世界の大きな流れのことでもある。人物は風景に対してあまりに卑小なのだが、その卑小な人物の情をしっかりと繊細に描き出すことが、人物と風景との「乖離」を強く印象づけ、それが作品の力ともなる。しかしこの映画ではその情の部分が、風景を見せるために(その都合で)仕立てられたかのようなわざとらしさ、弱さがあるため、風景の現前の力も弱くなってしまっているのではないだろうか。ジャ・ジャンクーはある意味で、すれっからしといってもよいほどに巧みに映画を組み立てるのだが、いままでの作品では、その手際良さよりも、圧倒的な風景の力と情の演出の細やかさの方が強く出ていたのだけど、この映画では、いかにもな「手際の良さ」の方が先に見えてしまうのだ。いかにも、他所からやってきた映画監督が、「現代中国の問題」を示すために、三峡という題材を使って、手際良く仕立て上げた啓蒙的映画にみえてしまう、といえば言い過ぎだろうか。さすがに、後半は盛り返して、チャオ・タオが出て来る一連のシーンなどでは、「ああ、ジャ・ジャンクーの映画だ」と思えるシーンもすいぶんあるのだけど(チャオ・タオがペットポトルで水を飲んだり、扇風機にあたったりするだけで「ジャ・ジャンクーの映画」になるのだから凄い)、全体としては、作品として弱いという印象なのだ。個別的に面白いところは沢山あっても、それがちゃんと絡み合っていないというか、それらが絡み合う必然性がみえない。この映画を観た多くの人はおそらく『ヴァンダの部屋』を思い出すと思うのだが、それに比べると、あまりに手際良く仕立て上げられた感じがし過ぎてしまうところが弱いのだと思う。

07/10/08(月)
●『発狂する唇』(佐々木浩之)をDVDで。この映画は公開の時に観て、この日記でもかなり強くけなした憶えがある。しかし改めて観るととても面白かった。当時のぼくにはこの映画の面白さを理解することができていなかった。というか、勘違いしていたのだと思う。だが、その後、『血を吸う宇宙』や『ソドムの市』などを観ることによって見方がかわった。(つまりぼくはこの映画を佐々木監督の作品としてではなく、高橋洋の作品として捉えているのだが。)
この映画は「商品」としては、あえて狙ったカルト、ネタとしてのチープな悪趣味というような文脈の上に置かれている。公開当時、ぼくはその感じがすごく嫌だった。しかしそれはあくまで、商品としてこの作品を「売る」ための位置づけであって、実は高橋洋の一連の作品はネタとは程遠い、むしろ他者を必要としない、批評されたり理解されたりウケたりすることを欲していない、徹底した原理主義的な態度から出来ているのだと思われる。それは、共感によってではなく、解読によってしか解かれないようななにものかである。(自ら主張することなく、ただひっそりと読まれることを待っているという意味では、他者を欲しているのかも知れないが。)
しかしここで原理とは、映画の原理とかいうことではない。それは、自らの身体に意識以前に刻み付けられたしまったものに対して、どこまでも忠実であるという意味での原理主義なのだ。高橋洋の作品では、人はいともたやすく、しかも残酷に人を殺すし、また、いともたやすく殺される。世界は苦痛と陰謀と暴力に満ちていると同時に、その死はきわめて薄っぺらである。この世界では、死より因果の方が重いのだ。この世界で死が薄っぺらなのは、人が死によってでは決して苦しみから解放されないからだ。だから人は、死んでもおな、再び苦しむためにこの世に帰って来る。一度刻み付けられた因果の徴は、個人の死を超えて果てしなく反復する。だから「私が死ぬ」ことには重たい意味はなく、殺し殺されることが何度も繰り返されることの苦痛の方が重いのだ。これは高橋氏の哲学とか世界観とかではなく(哲学とか世界観とかの次元でこんなことを言ったって、それはたんに幼稚なだけだ)、ふと気づいた時には既に自身に刻みつけられてしまっていた、自分では動かしようのない世界への感触なのだろう。そして高橋氏の作品には、常にこの感触が刻まれているという意味で、原理主義的なのだ。
因果が死を超えるという感覚は、当然物語的には「血」の話となる。呪われた血をもった一家が、訳も無く、意識すらせず人を殺しつづける。しかし実は、呪われた血をもつ一家だけが呪われているわけではなく、それに関わり、そこに群がる全ての人々がこの呪いのなかに含まれているのだ。あらゆる人々が呪いのなかに巻き込まれ、互いに果てなく殺し合う地獄のような光景は、しかしいつしか妙な熱狂を、よろこびであるかのような熱をも帯びる。もしかすると、殺し殺されることの苦痛よりも、この妙な熱狂の方がより強い恐怖として刻まれているのかもしれない。そこでは、個の死の「軽さ」は救いではなく、苦痛の永遠の持続を意味する。そしてこの恐怖が(因果の連鎖が)解除されるためには、人智を超えた「何ものか」の到来が必要であり、その「何ものか」の到来を巡って、オカルト的人物と裏の巨大組織とが、互いに対立しつつ動いている。これはまったく典型的な(困った人の)「妄想」のあり様そのままだと言える。(テレビが話しかけてくる、というのもまた、典型的な妄想のあり様だろう。)しかし高橋洋は、このような典型的な、あやしいトンデモ妄想と、たんに「ネタ」として戯れているのではないように思う。それはあきらかに(理性的には)、チープで、薄っぺらで、幼稚で、バカげた妄想に過ぎないと「分って」はいるのだが、それを充分に理解しながらも、どうしてもそこにあるリアリティに引っ張られざるを得ないのだ、という感じだと思う。こんなものはまったくバカげている。しかし、私は何故かそのような「世界」にこそリアリティを感じ、そこで生きているかのようなのだ、と。(高橋氏の作品は、このような自身のリアリティに常に忠実だという意味で、原理主義的なのだ。)だから、そのチープさや俗悪さを作品として意図的に反復させて、半ばそこにはまり込みつつも、その世界を(そして自分自身を)「笑う」しか仕方がないだろう、というような。それは、外側から作品世界を操作するような「メタ」的な視点に立つということではない。メタ的視点に立てないからこそ(それを拒否するからこそ)、自らの手で作品を繰り返し作り、その作品世界の微妙さのなかで、なんとか「笑う」ことが可能な場を成立させなければならないということなのだと思う。だからこそ作品に、たんなるネタを超えた力が宿る。

07/10/07(日)
●道を歩いていたら、坂の途中で、ピュウゥという小さな穴から空気が抜けるような間抜けな音がして、上から何かが落ちてきた。落ちてきたと思ったのは1羽のハトで、落ちたのではなく、降りてきたのだったが、その間抜けな鳴き声(ピュウゥ)と、無様な姿勢で、落ちてきたようにしか見えなかった。優雅な着陸や離陸をみせ、うつくしくも獰猛な形態をもつカラスや、あくまでも小さく軽やかな雀などとは違って、ハトの動きの不器用な間抜けさは、着陸の姿勢だけでなく、その後の、トッ、トッ、トッという、いちいちつんのめるような歩き方にもあらわれている。形も間抜けで笑える。灰色だし。立ち止まってしばらくその、トッ、トッ、トッ、トッという歩みに見入っていた。

07/10/06(土)
●渋谷のBunkamuraで、「ヴェネツィア絵画のきらめき」。なんともチャチい展覧会だけと、ティツィアーノの「洗礼者ヨハネの首をもつサロメ」を観られたのはよかった。イタリアに行って浴びるほどに絵を観た時にも感じたのだが、展覧会全体を通して、油絵の具という物質から、何と言ったらよいのか、ある鬱陶しさというか、独自の気持ちの悪い強さを感じた。そしてその質感に、自分からは遠いような距離感を強く感じる。キリスト教についてはほぼ何も知らないのだけど、パンがキリストの肉でワインがキリストの血であるように、油絵の具もまた、キリストの肉であるかような、生々しくも気味の悪い感触だ。おそらくこの感触こそが「油絵」なのだろう。だが例えばクールベ以降の近代絵画からは、そのような感じは受けない。だから、リアリズムというのは、たんに「見えるものを描く」ということ以上に、まず油絵の具という物質そのものの捉え方が、ヴェネツィア派以降クールベ以前の西洋絵画とはまったく異なるということのなだと思う。
●ブリヂストン美術館で、「セザンヌ 4つの魅力」。セザンヌはちょっとしかなかった。最近つくづく思うのは、ぼくにとって絵画とは、要するにセザンヌとマティスのことなのだ。時によって、マティスより断然セザンヌだな、と思ったり、でもセザンヌだけだとあまりに貧し過ぎて、絵画の悦びはマティスにこそあると思ったりするのだけど、でもセザンヌとマティスであることはほとんど揺らがない。で、セザンヌはティツィアーノやヴェロネーゼのようなヴェネツィア派に繋がり、マティスはピエロ・デラ・フランチェスカのようなフィレンツェ派(?)につながっているのではないだろうか。
とはいえ、セザンヌは視覚的にはとても貧しい。視覚的な豊かさという意味では、ブリヂストン美術館にある作品でも、例えばルノアールの宝石のような色彩とか、モネの空気のなかの光りの揺らめきを捉える目とか(ブリジストン美術館のモネとルノアールはとても充実している、マティスはイマイチだけど)、そしてなにより、ぼくにとって視覚の悦びと言えばボナールなのだが、そういうものに比べ、セザンヌは視覚的には貧弱だとさえ言える。セザンヌの絵は、それを「観る」ことによって、視覚とは別の何かが駆動される感じなのだ。視覚よりも深くて捉え難い、自分のなかにある自分以前の何かが動き出す感じ。
●ポリアコフが一点展示されていた。ポリアコフは別にこれといって面白いわけではない。というか、むしろ退屈な抽象絵画なのだが、ぼくは何故かとても好きで、惹き付けられてしまう。色彩というより、絵の具の感触が、自分のある部分とすごく「馴染む」感じなのだ。
●ブリヂストン美術館に行って、エジプト時代のセクメト神像とかブロンズの猫の像とかを観るたびに、人間は三千年くらい前からほとんど変わっていないのだなあと感じる。これは、自分が生きている現実(のある部分)にとても近い、という感触。むしろ、キリスト教的な西洋よりも、ぼくには紀元前10世紀前後のエジプトの方が身近にさえ感じられる。

07/10/05(金)
●八月いっぱいかけて書いて、その後何度か改稿した作家論が、どうやら完成、掲載のめどが立ってきた。午後からは、それとは別の件で、新宿で編集者と打ち合わせ。こちらの実現はまだちょっと先の話。その後、紀伊国屋をちらっと覗いてから、喫茶店にはいって、作家論とは別の原稿のゲラを直す。部屋に帰ると、また別の原稿依頼のメールがきていた。こうやって今日一日だけを切り取ってみると、なんだか売れっ子でとても忙しい人みたいにみえる。だから、あたかもそうであるかのように書いてみた。
●ストローブ=ユイレ『ルーブル美術館訪問』をDVDで。とても好きな映画。当たり前のことだけど、これは一見、絵画をひたすら観せているようでいて、思いっきり「映画」なのだった。例えば、ティントレットを観せた後、唐突にセーヌ河とその手前の木立の実景を見せる呼吸とか(木の葉が揺れ、水面がさざ波立ち、船が横切るこのショットは本当に素晴らしい)、ドラクロアの『アルジェの娘たち』を観せてから、次に『十字軍の入城』に移り、その後一時ジェリコーを観せて、すぐに『十字軍の入城』に戻り、ふたたび『アルジェの娘たち』に帰ってくる展開とか、あるいは、ヴェロネーゼの『カナの婚礼』の部分に寄ったり、引いたりする、対象とカメラとの距離の変化のタイミングだとか、こういうのは、絵画を「撮影対象」としながらも、絵画とは関係のない、映画としての、映画ならではの展開なのだった。ある意味それは、絵画を殺してさえいる。
●この映画でも朗読されている『セザンヌとの対話』でのセザンヌの発言から引用。《言い伝えによると、救世主の降臨の夜、パレスティナ中の葡萄の木に花が咲いたという。我々画家が描くべきなのは葡萄の開花だ。救世主の生誕をラッパで知らせる天使の急旋回ではない。自分の見たものだけを描こう。》
ここでセザンヌが言っているのは、文学的、物語的、象徴的な想像物である天使を描くのではなく、目に見える葡萄の花を描くべきだという、単純なリアリズムではない。セザンヌは、葡萄の花ではなく、「葡萄の開花」をこそ描くべきだと言っているのだ。花を描くのではなく、開花するということ、開花という出来事を描くべきだと言っている。それは開花を促す「力」を描くということでもある。それも、救世主の生誕の日の開花を。それはある意味、天使以上に「見えない」ものだ。

07/10/04(木)
●愛とはおそらく転移のことだ。つまりそれは、人は、自分の存在の手応えを確認するために、他者による承認を必要とする、ということだ。「欲望とは他者の欲望である」というのは、「欲望とは、他者が私を承認してくれることを望む、ということだ」の言い換えであろう。他者が欲望するものを得ることが、他者の承認が得られることの代替物として作用するからこそ、人はそれを欲望する。(私の愛するうつくしい女は、私の男性的魅力の「他者からの承認」を表現する、とか。)それはまた、人が欲望するのは常に他者である、ということでもある。人は、他者による承認を欲するからこそ、他者を欲する=愛する。ヴォネガットの言う通り、親切(他者への配慮)は愛よりもずっと貴重なものだが、残念ながら、欲望の強さとしては、愛より弱い基盤しか持たない。人は親切(配慮)だけによってはおそらく生きられない。そしてもし、人にとって愛が不可避のものならば、憎悪もまた不可避となろう。
人が「動物化」すれば、「他者の欲望(他者への欲望)」としての「欲望」は解除され、生理的、自己充足的な「欲求」の充足によって満足が得られる、というのは本当だろうか。つまりそれは、愛=転移は、本当に超越的なものの作動によってあらわれる「欲望」なのだろうか、という疑問だ。しかしおそらく、犬や猫にはあきらかに、ただ生殖の相手を求めるということに還元されない愛=転移が作動している。それはたんに、人間が勝手に自己の姿を投影して擬人化しているのではないだろう。親が一定期間子供を育てたり、あるいは序列のある群れをつくったりする動物は、少なくともその成り立ちに愛=転移が不可欠ではないのだろうか。犬や猫が親子でじゃれ合う時、それは補食行為の練習であるそうだ。つまりそれは、生得的な能力だけでは補食能力が充分ではなく、生まれた後の学習が不可欠だということだ。そしてその学習(教育)を行うのが親や群れのメンバーであるのならば、親や群れの先行世代による無償の贈与(ふりそそぐ愛)がなければ、子供は生きる能力を身につけられないということだ。そこでは、補食能力が生得的にセットされているのではなく、愛=転移の作動こそが、生得的にセットされている(おそらくその方が効率が良いのだろう)。つまり、愛=転移(他者へと向かう力動)は人間に固有に作動するものではなく、動物的な次元で、既に生得的にプログラムされてしまっているのではないか。例えば、猿の群れのなかでの役割や序列のようなものは、生得的にプログラムされることは不可能で、後天的に、群れの他のメンバーとの関係によって決まるのだろうから、ここでも明らかに愛=転移は作動している(愛=転移の方こそがプログラムされている)。あるいは、犬には転移が作動するからこそ、飼い犬は猫と違って家族のなかでの序列の位置(地位)を意識する。さすがに、象徴的なものの作動による「大他者」という概念は作動してはいないだろうけど、しかしボスという概念はある。たんに親から子へと注がれるものとしての愛が(あるいは子の親への依存が)、群れをつくるほどの転移にまで成長している以上、象徴的大他者(超越的な次元)の成立まではあと一歩ではないだろうか。群れのなかにいる猿が、群れの他の個体との関係によって自己の位置を認識しているとしたら、それはほとんど「欲望とは他者の欲望である」と紙一重ではないだろうか。勿論、象徴界の作動の有無は決定的な違いで、シニフィエがシニフィアンの連鎖の効果としてしか決定されない人間において、主体の象徴的な位置は決して固定されないのだが、猿にとって群れの内部での地位は、一度決まれば決して揺らぐことはなく固定されるのだろうから。ただ、人間と共に生活する動物は必ずしもそうではないかもしれない。(自分で書いててもこの辺りはいかにもあやしい感じがするけど。)
ポストモダンといわれる思想が目指したことの一つに、人間的な次元で働き、人を束縛しもする愛=転移というものを、人間的な(再帰的な)自由のために、どのように相対化し、あるいは解除する(意識的に書き換える)ことが出来るかということがあったと思う。愛=転移は、対話を促し、コミュニケーションを可能にし、社会の成立を可能にするが、同時に、人を象徴的な閉域に閉じ込め、他者(仲間ではない者)を排除させ、憎ませ、殺し合いを促す。もし愛=転移が、象徴的、超越的次元において作動するものであるのならば、それは同じく象徴的、超越的次元(思想や倫理や言語)によって、相対化し、解体し、より良いものへと書き換えることも可能であろう。それはおそらく、再帰的近代の最も過激でうつくしい試みの一つであろう(68年的思想や共産主義というのはそのような試みとしてあったと思われる)。しかし、愛=転移が、動物的な次元で既に書き込まれたプログラムとしてあるとすれば、それは象徴的、超越的な次元によって書き換えることは難しいだろう。愛や性について、それを生物学的な由来に還元するような言説が、ポストモダンにおいては執拗に批判されつづけたが、それはどこまで有効なのだろうか。(有効ではないと言っているのではなく、うつくしいスローガンとしてではなく、冷静に「どこまで」有効なのか、が問題なのだ。)愛=転移が、種が生き残るための有効な戦略としてプログラムされているとするなら、人は、それによって悦びを得、それによって生きることが可能になるのだが、同時に(愛は常にその反転形としての憎悪を含むので)、その外にいる者を、憎み、排除し、貶め、殺し、殺し合わせるものでもあることも必然的だろう。すくなくとも、そのような「感情」から自由になることは困難だろう。(憎しみ、殺し合うことから解除されるためには、愛と悦びを捨てる必要があのだろうか。)
●精神分析は勿論、言語=象徴界において行われるのだが、それを作動させる転移の発生には分析医の身体的現前(想像界)による媒介を必要とする。精神分析における想像界とは、生態的、生得的な次元を基盤に成立するものと言えるだろう。

07/10/03(水)
●四谷アート・ステュディウムのGALLERY OBJECTIVE CORRELATIVEで、中山雄一朗展「トムはジェリーを殺せない」。例えば、人は顔をどのように捉えるのか。ある人が、ある程度太ったり痩せたり、髪型が変わったりしても、あるいは、歳をとってふけたとしても、その人だと分る。あるいは、右斜め前から撮られた写真しか見ていない人物を、左斜め前から見てもある程度は判別出来る。その時、人は顔を構成する様々なパーツの関係の比率のようなものとして、人の顔を捉えているのだと思われる。印象(特徴)というのは、その比率のあり様のことで、フォルムそのもののことではない。顔の記憶が、写真を撮るように正確な形態として残るとしたら、少し太ったり痩せたりしたら、というか、怒ったり笑ったりするだけで、その人物とは分らなくなってしまうだろう。
構造という言い方をすると、何か大雑把な骨組みのことのように聞こえるが、しかし、ここでの「比率のあり様」というのは、もっと厳密で、細かいニュアンスまで含みつつも、かなり自由な可塑性をも持つものだろう。人は、顔を(大勢の人のなかからでも探し出せる程に)その繊細なニュアンスまで含めて捉え、しかし、そのニュアンスは、(表情の変化などによって)形態が大きく変わっていたとしても、そこに同一性を察知出来るほどのものであろう。(おそらく、フリードの言う一挙性とは、このような時間の外にある構造としての「比率のあり様」のことなのだろう。)
中山雄一朗の作品は、ざっくりとした、構造だけを見せる作品のようにみえる。使われている素材は、細長い木の板と、円柱形にされた粘土、そしてそれらを結びつける縄(加えて一部の作品ではボルトとナット)のみだ。それらの素材の組み立てられ方も、素材を相互に貫入させながら反転させたりぶっちがいにしたりするなど、対位法的なもので、特にそれほど複雑でも目新しくもない。にもかかわらず、その作品は独自のユーモラスで魅力的なキャラクターを成立させている。一見ぶっきらぼうに提示された作品は、その構造を読み込もうとする、しばしば無味乾燥にもなってしまう視線を向ける観者の口元を、知らず知らずのうちに緩め、半笑いのようにさせてしまう力がある。(縄は、独立したパーツをつくるというより、木の板と粘土とを縛ることで繋ぎ合わせ、あるいはそのテンションで作品の形態を維持するために、媒介として使われるのだが、しかしもちろん、その縄の表情も作品のキャラクターを決定づける重要な要素となっている。)だいたい、木の板と円柱にした粘土とを、縄でざっくり結びつけるような作品など、「もの派」の時代に誰かが思いついてやっていてもおかしくはないのだが、少なくともぼくはこのような作品は他に知らないし、その作品の「関係」がつくりだす魅力的なキャラクターは、もの派の作品にはみられないものだ。美的でもなければ、洗練された加工がなされているわけでもない素材が、ぶっきらぼうに提示されているだけなのに、そこには、素材の質感のナマな提示やその異化などということに留まらない(勿論それも「比率のあり様=キャラクター」の一部に含まれるのだが)、同時に、最近流行のヘタウマ調的媚態からも慄然を身を引きはがした、この作家の作品にしかないと思われるような、独自の質が感じられるまでに高められている。(「良い美術作品」とはこういうものだ、という、一種の典型的なお手本のようですらある。)粘土に乾燥のためのヒビ割れが出来ていたとしても、それによって作品としてのキャラクターが損なわれるでもなく、かといってそれが特に(美的)効果をあげているというでもなく、たんに、こういう作品ではそういうこともあり得るだろうなあ、と(アクシデントではあるが想定内のものとして)受け入れられるようなものである。作品とは表層の効果ではなく、ある種の関数なのだということを思い知らさせる。しかしその関数は、具体的な「その物質の手触り」を通してしか成立しない関数なのだ。ぼくも作家の端くれとして、こういう作品を見ると、「へーっ」と関心しつつ、じわじわと嫉妬がわき上がって来るのだった。とても刺激を受けた。

07/10/02(火)
●立川シネマシティで『ワルボロ』(隅田靖)。この監督は『ビー・バップ・ハイスクール 高校与太郎行進曲』で助監督としてはじめて映画の撮影に参加し、その後二〇年、セントラル・アーツの仕事を中心にやってきた人だそうで、そのような人の監督デビュー作が、黒沢満プロデュースの不良(ツッパリ)モノだということを「映画芸術」を読んで知り、映画版(那須博之版)「ビー・バップ・ハイスクール」シリーズに半端ではない執着をもつぼくとしては、これは絶対観に行くしかないと思って観た。予想以上に素晴らしくて、観ている間じゅう、興奮したりドキドキしたり泣いたりと、感情が動かされっぱなしだった。いまどき、こんな映画が成立するということだけで凄い。一直線にガンガン突き進んでゆくような勢いがあると同時に、細かい丁寧な描写もあってそれが厚みとなっているし、けっこう複雑な不良たちの勢力分布も、勢いやリズムを殺すことなくちゃんと理解できるようになっている。
物語の設定としてはおそらく七十年代後半くらいだと思うけど、映画としては、八十年代の日本映画風の感じで、古いといえば古い感じの映画なのだけど、その古さは、たんに感覚が古いということでも、ノスタルジックに古さを狙っている(かつてのプログラムピクチャー風をアート的に再現するとかいうような)わけでもなくて、その「古さ」を強引に現代において成立させてしまおうという感じで、その実直で強引な力技がこの映画の勢いにもなっているように思う。感覚としては古いんだけど、その「古さ」が現代としてちゃんと成立している、という不思議さがある。(例えばこの映画の台詞はおそらく同時録音ではなくアフレコで、俳優のアクションと台詞とに微妙にズレた感じがあって、これがちょっと古い感じで、最初それに軽い違和感があったのだが、次第にそれが効果的に使われてるように思えてくる。特に、卒業式でのコーちゃんと山田との教室のシーンでの、コーちゃんの去り際のオフぎみの一言など、アフレコ的なズレのなかだからこそ上手くいっているのではないか。)
この映画の、虚構における現実との距離のとり方が、なんとも東映風で、その感じも古いと言えば古い。例えばこれは中学生の話ということになっているのだけど、登場する俳優はどうみても中学生には見えない。それでも「中学生」ということに「なっている」。(昔、東映で『ドカベン』が映画化された時、高校野球の話なのに、俳優は平気でおっさんが使われていたりした。)中学生の身体はやはり中学生によって演じられなければ嘘で、あきらかに二十歳を過ぎていると思われる松田翔太は中学生には見えない。(まるで花形満のように、当然のように車を運転している中学生もいるし。)しかしここではそのようなリアリズムは問題とされない。いわば登場人物はマンガやアニメのキャラクターとそれほど大きくは違わない。あるいは喧嘩も、どうみてもそこまでやったら死んじゃうでしょうという喧嘩を、彼らは毎日のように繰り返す。ボコボコにされても翌日には復活している。そうとう重傷で病院に入院しても、すぐにそんな怪我はきれいに治ってしまう。(死のリアリティは排除される。)この映画での喧嘩は、抽象的な次元にある純粋なアクションとしてある。(このような意味で、おそらくぼくにとって「ビー・バップ」的な世界は、幻想のユートピアみたいなものなのだ。)しかしそれでも、喧嘩はあくまで生身の身体をもった者によって行われる。そこには過度に(マンガ風に、あるいはCGなどを使って)誇張された描写はなく、実際に人がそうするように、殴ったり殴られたりする。つまりアクションという次元では、あくまでリアリズムが貫かれる。この点が外されてしまうと、この世界はまったくの作り事になってしまう。人が、逃げたり追いかけたりし、殴ったり殴られたりするということの単純なリアルさ。そこでの恐怖や興奮のテンション。チョーパン合戦ではじまるこの映画は、殴り殴られる身体を捉えるということにおいてはケレンを排してリアルなのだ。この一点によって、この映画の強引なまでの勢いが支えられていると思う。
あえて文句をつけるとすれば、最後の喧嘩のシーンでの不良たちの人数がいかにも貧弱だということだろう。これは予算的にどうしようもないのかも知れないのだけど。どう考えても学校には見えない場所に「卒業式」という看板が掲げられていて(この場所が凄い)、そこに「錦組」の六人(この六人の描き分けが素晴らしい)が集まり、喧嘩に向けて歩き出すシーンは、うわーっ、きたきた、という感じですごく興奮するのだけど、それを待ち構える、立川じゅうの不良がかき集められたはずの群衆の人数が、あまりに貧弱なのでちょっとずっこける。あと、山田(新垣結衣)が、あまりに強くて立派な女の子過ぎてしまうので、この女の子の「揺れ」みたいなのがちらっとでも捉えられたら良かったのに、とも思ってしまう。(ヤッコ役の俳優はとても良い。この人は「顔」だけですべてを納得させる。こんなにパンチパーマのきまる人もいまどき珍しいと思う。あと、戸田恵子はちょっと微妙だと思うけど、仲村トオルやピエール瀧などの脇役もとてもいい。仲村トオルという俳優の不思議な「平板さ」がとても上手く生かされていると思う。)
最後の喧嘩のシーンが、凄い場所で行われるのだけど、この場所の凄さが生かされているとは言い難いのも惜しい感じだ。せっかくこんな凄い場所なのだから、この空間をもっと利用して欲しいと観ていて思ってしまった。予算の規模とかも違うのかもしれないけど、「ビー・バップ・ハイスクール」だったら、こういう空間は絶対もっとちゃんと見せたのに、と思うのだった。でもラストでは泣いた。

07/10/01(月)
●神保町の文房堂ギャラリーで、井上実・天本健一展(「散歩と部屋」)を観た。渋いけどとても良い展覧館だと思った。
井上実の作品はずっと観ているけど、今回の展示されている作品は、最近の展覧会のなかでは一番充実していると思う。最近井上くんはけっこうひっぱりだこで(うらやましい)、展覧会がつづいていて、本来の自分のペースを超えた数の作品をつくっている感じで、おそらくそのため、作品の質にちょっとばらつきがあったり、精度がちょっと甘くなっていたりする感じを、チラチラと感じていたりしたのだけど、短い期間に集中して描かれたらしい今回の作品はどれも充実していて、しかも、その充実の勢いで今までは届かなかった地点まで突き抜けている作品が何点かあるように思う。(「かなむぐら」とか)
井上くんの作品はかなり危険な場所で成り立っている。一方で、ステンドグラスやモザイク画のような装飾的なうつくしさに充足してしまうような危険があり、もう一方に、刺繍のような趣味的な心地良さに充足してしまうような危険もある。それらの危険にほとんど薄皮一枚で接している。勿論それは魅力でもあって、モザイク的なうつくしさや刺繍のような心地良さは、サイズのささやかさも含めて、作品の魅力の大きい部分ではあるのだけど、そこだけに着地しない微妙さというか、まさに「絵画」としか言いようのない割り切れなさ(見ることの解決のつかなさ)が、決して大袈裟にではなく、ささやかに仕掛けられていて、それこそが面白いのだ。それは、「これだ」と指し示すことの出来るような何かではなく、いくら観てもそこに解決のつけきれない割り切れなさが残るように描かれている、としか言いようがないものだ。(そしてその割り切れなさこそが、絵画において「空間」をたちあげる。)だから「勢い」と言ったけど、決して勢いや根性で描ける絵ではなく、高い緊張を持続しつつも淡々と、集中しつつも、脇見をする余裕を失わない、というような時間の持続のなかからしか生まれないと思う。今回の作品からは、そのような制作の時間の感触が感じられた。
天本健一の作品ははじめて観た。こちらの作品もささやかで趣味の良い感じ。一見すると、日本の近代絵画のなかにある「ある種の趣味」を、上手いこと拾い上げて現代っぽく仕立てたような絵に見えてしまうかもしれない。しかしこのささやかさのなかには、何か不穏なものが込められている。いや、不穏という言い方だと大袈裟になってしまうし、正確ではなくなってしまうかもしれない。
例えば、抑制された背景の色面に、果実を思わせる何個かの円状の形態が描かれているというだけの画面でも、それを見る者に、何かを「見る」ということの様々な異なる側面を次々と起動させる。その時、人は一体何を見ているのか。背景の前にある数個の果実という対象を見ている。しかし視線は、いつの間にか背景の色彩の広がりのなか彷徨い出てゆきそれを味わう。そして、その色面のひろがりに穿たれた円形という「落差」として、再度果実を認識する。その「落差」という感じは、背景と果実との間にある絵の具の塗りの感触の違いを意識させるだろう。あるいは次に、画面上に配置された数個の円形の微妙なバランスを味わい、そのリズムのユーモアを感じるかもしれない。「見る」ことは、そのどの地点にも落ち着かず、つまり解決せず、見る者は、その絵自身が発する様々な感触を味わいつつ、その感触に導かれて別の感触へと注意を移動させ(注意がずれ込んでゆき)、その別の感触を味わいつつも、その時の「興味の移動の感覚」そのものをも感じ、それを味わう。このように、「見る」ことが豊かに刺激されること(あるいは「着地できない」軽いもやもや感が起動されること)は、たんに「趣味の良さ」に落ち着いている作品では起こらない。ここでも、絵画における「空間」は、「見る」ことの興味の次元(「見る」ということの様々なあり様)が「動いて(ずれ込んで)ゆくこと」によって生まれるのでないだろうか。(モチーフの、静物と建築物との奇妙な同居は、このことと関係あるのかもしれない。この点についてはもうちょっと考えてみたい。)天本健一の作品は、見ることによって触れるような感触、画面の「目触り」を丁寧に組織することで、その見ることの「動き」を、その動きによってうまれる「広がり」を、作動させようとしているように思われた。
●絵ってほんとに写真図版なんかでは全然分らないもので、例えば井上実の作品では、点描のように絵の具が盛り上がったタッチ、薄く溶かれた絵の具のタッチ、かすれるようなタッチ、そして、キャンバスの白い地、の、それぞれの質感の落差が、どのようにぶつかり、どのように重なり、どのようなズレをみせるのか、ということの緊密な絡み合いが、その作品の質を決定すると思うのだけど、それは写真ではほとんど分らない。



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