1996年の10月から11月にかけて、しばしばカメラを持って外へ出かけた。ちょっと近くへ買い物に出るとき、ふらっと散歩するとき、バイトへ出かけるとき、どれもぼくの部屋からそう遠くはないところへの、ほんの2、30分からせいぜい1、2時間といった短い外出なのだけど、その間に、150から200回くらいはシャッターをきっていた。どんなに多くシャッターをきったところで、見たものすべてを写すことなど当然出来ないのだが、その写真を後から見て思うのは、この世界にはなんて多くの"もの"があり、"表情"があるのか、ということだった。
もう、厭になるほど何度も通った道を歩いていても、その都度、今まで知らなかったものを発見し(というか、何度も見ているはずのものの新しい表情をみつけて)、その度に驚いて、うろたえてしまう。(ぼくは人の顔を憶えるのも苦手で、よく知っている筈の人の顔も、会う度に違う顔に見えてしまったりするのだが・・・)
コンクリートの隙間から生えている雑草の形状、無造作に停められている自動車の並び方、犬の立ち姿、家の裏側に捨てられたように置かれている何だかよくわからない物、土手に上がってゆく坂道に並ぶ鉢植え、すれ違う老人の顔、短い時間に劇的に変化する光の状態、唐突に転調する猫の動き、建物の壁、土の湿りや水たまりの形・・・いくら挙げてもきりがないくらいに溢れている"もの"の状態。それらのひとつひとつが目に入るたび、驚き、すこしの間立ち止っては、すぐに忘れてしまう。(写真はそれを記録する。)アリストテレス以来の西洋哲学において、「個物」は、概念の対象としてはならないということになっていた、らしい。(なんて・・・ぼくが西洋哲学について一体何を知ってるというのだ、偉そうに・・)哲学が扱うのは(科学でも同じだろうけど)、一般的な、あるいは普遍的なもの、と、それから、特殊なものとであって、個別のものではない。それは、個物が、数として無限に存在するので、無限にあるもののひとつひとつを、概念としてフォローするのは不可能だから。つまり、とりあえずは言葉によって思考を記述するしかない哲学には(哲学に限らず、人間は言葉以外に思考を記述する術をしらないのだが)、言葉によって捉えきることのできない「個物」を(いま、ここにあるコップは、コップという一般名詞でも、去年のクリスマスに貰った、くまのプーさんのイラストのついた、すこし縁が欠けてしまったコップ、という説明や描写によっても、完全に捕らえることが出来ない)、思考の対象とすることは不可能だ、ということだろう。
(でも、近代の芸術は、それをやろうとした節がなくはない。リアリズムって多分そういうものなんじゃないだろうか。しかし、それに、成功はしてはいないと思う。)おそらく絵画は、決して個物を描くことが出来ないのではないだろうか。今ここにある、このリンゴを描こうとしても、それをある程度、一般的な「リンゴ」として描かなければ、誰もそれをリンゴだと理解することが出来ないだろう。というより、画家はリンゴを描こうとするかぎり、このリンゴではなく「リンゴ」を描いてしまうのだ。目の前にある、赤くて、丸くて、よい匂いのするものを「純粋に造形的に(?)」あるいは「存在論的に(?)」描こうとしても、それをリンゴだと知っていると「リンゴ」になってしまう。
たとえ誰もそれをリンゴだとは判らないように描いたとしても、それは既に幾分かは一般的な「リンゴ」になってしまっている。つまり"描く"というのはそういうことなのだ。
(一枚の絵画が、個物、を描けないとしても、その「一枚の絵画」そのものは、個物として、この世界のなかに存在しているのだが・・・)
しかし、写真でそれを撮ろうとする場合、カメラが写し出そうとするのは、単にその場の光の状態であって、「リンゴ」ではない。それを「リンゴ」として撮影しようと、構図を工夫したり、光を調整したりするのは、あくまでカメラマンであってカメラではない。カメラは時折、カメラマンの意図をすり抜けて、「個物」そのものという状態に近いなにものかを写し出してしまう。「我々は個物をより多く認識するに従ってそれだけ多く神を認識する。<あるいは、それだけ多くの理解を神について有する。>」 (スピノザ「エチカ」五・ニ五)
神という言葉はちょっと誤解をうけやすいけれど、スピノザにとって神とは、超越的なものとして外部からこの世界を操作したり、造り出したりしているもののことというよりも、ほとんど"この世界そのもの"というのと同じような意味であるだろう。(この世界は「神」の現在の無限の表出<表現>として存在する。)
スピノザが神という言葉を使うのは、この世界はひとつ(つまり「唯一の神」)であり、そこには外部というものは存在しない、ということを言いたかったのだろうと思う。この世界に外はないのだけど、この世界のなかには、神の属性をそれぞれの仕方で表現する、異なる質(個物)が"無限"に共存している。もし、このようなスピノザの言い方に従うなら、どんなに取るに足らない些細な個物でも、それは、そのまま神の(世界の)本質の一部を表現していることになる。
目の前の石ころや、風に吹かれる洗濯物、郵便受けの上にいるカマキリ、電車のなかで揺れる中吊り広告、などを見ること(認識すること)がそのまま神(世界)を知ることになる、という単純に即物的で、肯定的な態度。無によって、空虚によって、否定によって、思考することへの、力強い拒否。しかし、ここにあるコップが「コップ」という概念と無関係にそのまま裸であることはできなくて、個物としてのコップはいつも概念としての「コップ」に包み隠されている。
おそらく我々は、二重のフィルターを通してしか世界を見る(認識する)ことができない。二重の文節によって世界を切り取り、解釈しているように思う。
まず、有限な存在としての身体、にとっての有用性によっての文節。我々は、生物として、個体として、自らの生命を維持し、自らが存在できる場所を世界のなかに確保しようとする。そのために世界からの情報を、自分の生命を維持させるためにどの程度重要であるかによって識別し、加工する。このときコップは、自分の身体に必要な水分を得るための道具としてしか認識されない。
次に、身体にとっては本質的に"異なるもの"である、言語の構造によっても世界を分節化する。このことで、自分の身に差し迫ったことがらではない事についても思考することが出来るようになるし(自分から隔たった場所や遠い過去や未来について、あるいは世界についてなど)、他者とのコミニュケーションも可能となるだろう。
言葉は明らかに<私>のものではなく、他者の(外側にある)ものなのだから、<私>は言葉の使い方を学習しなければならない。それは<私>の身の丈に合わない、強制されたものであるだろう。しかし、<私>は言葉を使うことで、あまりに<私 >の身体にぴったりと密着しすぎていた<私>の経験や思考を少し先まで、少し遠くまで、少し大きなものへと、変化させることができる。言葉によって初めて<私>は他者を発見できる。
でも、言葉はあくまで言葉でしかなく、この世界の現実そのものではないので、あまりに強く、言語的文節にひっぱられすぎると、<私>は<私>という個体の置かれている状況を取り逃がし、現実に対応できずに(身体の有限性から逸脱しすぎて)、生命の危機までへと至ってしまうだろう。
あまりにも自己中心的な<私>の身体に対して、言語は否応無しに他者を押し付けてくる。言語は<私>の内部まで入り込んできて、暴力的に身体を強制しようとする。しかし、身体はそれに全面的に降伏するわけではなく、局所的に闘いを、反乱を、起こすだろう・・・、まあ、ざっとこんなストーリーが描けるわけだけど、しかしこれは、あくまでも人間的な領域で起こる、人間的な出来事でしかない。
人間的なものとは、この世界のなかのごくごく小さな一部分でしかない、ということを忘れないようにしよう。この世界、この宇宙は、非-人間的なもの、人間とは無関係なものたちで溢れかえっているのだ。例えば「赤」というのは色そのもののことではなく、色のある領域を示す言葉でしかない。それは"赤くない"色との差異によってしか自らの位置を得ることのできないひとつの概念でしかない。でも、この世界に存在する「赤いもの」の赤は、実際にはそれぞれに違った色(赤)をもっているし、それが「赤い」ことの本質的な意味も、それぞれに異なっているだろう。
本来、異なるはずのものを、一纏めに「赤」と名付けることで、<赤>という概念で思考を組み立てることができるようになるし、それを他人に伝えることも可能になる。でも、逆にそれに騙されることも多いが・・・。
赤いものを「赤い」という言葉で表現するのは、あくまで人間の側の都合でしかなくて、我々がそれを赤と呼ぼうが何と呼ぼうが、赤いものはそんなこととは無関係に、そのようなものとして、そこにあるのだ。そして、「我々とは無関係に赤いもの」の赤さが、不意に、無関係であるはずの我々の方へと迫ってくる瞬間があって、そんなときこそ、そのものとしての赤、個物としての赤が、現れるのだ、といえるのではないだろうか。「でも映画を作るのは本当に簡単なんだ。ただ撮ればそこに写ったものは本当に何でも正しいんだ。」 (アンディー・ウォーホル)
唐突だが、個物が個物としてたち現れる場を、とりあえず「風景」といってみることができるのではないか。風景は、ある関係性や全体の流れからふと外れてしまったような時に、姿をみせる。世界が、我々の何らかの行動によって変化するものではなくなり、我々の行動や働きかけから、切り離されてしまったものとなるとき、それを風景と呼んでみる。
突然、前方から車が突っ込んできたので、とっさに身をかわす、というように、世界の現れと自分の行動とに直接的な関係があるのではなく、その関係が切れてしまって(直接的な利害関係の喪失)、世界が、ただ目の前に拡がる純粋に視覚的な像や音響や肌触りなどへと解体してしまうとき、そこに風景が出現する。(このような風景を、何か空虚な内面を写す鏡のようなものとしてみるのは間違いだろう。それは内面とは関係のない、世界の表情の現れなのだと思う。)
例えば初期のヴェンダースの映画で、登場人物が社会的な他者との関係をほとんど持たずに孤独な彷徨をつづけるとき、風景は無気味にせりあがってきて、登場人物たちはその風景と無防備に接することを強いられる。これは物語や作品の構造をできるだけルーズなものにしておいて、実際の撮影現場で様々な出来事やノイズを積極的にフィルムに取り入れ定着させようという製作態度によって可能になったのだけれど、その代償として、作品が単なるだらだらした風景の連なりになってしまって、作品としては崩壊してしまうという危険と、ぎりぎり隣り合わせのものになる。
あるいは小津の映画で、ショットの繋がりの流れから妙にはずれた、おさまりの悪いショットが挿入されるとき、その風景や静物はずうずうしいまでに異様な存在感を際立たせる。それは綿密に構築された小津のショットの繋ぎにヒビを入れ、作品そのものを台無しにしてしまう危険を持つショットでもある。
(しかし、そのような危険との緊張した関係がなければ、作品のリアリティーというのはあり得ないだろう。)
個物が個物としてじかにたち現れるような風景というのは、だから、いつも作品なり人格なりというひとつの秩序だった纏まりが、崩壊の危機にあるようなときにしか、姿をみせないのかもしれない。(カメラという、人称や人格、自我といったものを持たない視線が、このような風景を顕在化させるのには、有効なのだろう。)漁師や船乗りにとって、海の色、波の高さ、空や雲の様子、風向きなどは、彼らが自身の位置を確認したり、彼らに危機を知らせ、行動の指針となる標しとして現れるもので、それらは解読されるべき言葉のように意味をもった連なりであるのだろうが、あるときふとそれを、意味の無い風景として見てしまい、ついそれに見愡れてしまったりするとき、彼らは死の危険を冒している、ということになる。
大学を出ても定職につかずにふらふらしていて、平日の昼間から散歩なんかしてたり、ほとんど誰にも見られないような絵を描いたりして暮らしていたりするということは、つまり、社会的な意味の関連からずれた場所で生きているということは、風景と、とても親しい場所で生きているということなのだ。(社会的に-或いは人格的に?-破綻まであと一歩というところで暮らしてるということなのだが・・・まあ、完全に破綻してしまえば、風景も破綻してしまうだろうけど。)
エリック・ロメールの長篇第一策である「獅子座」で、金持ちの友人たちにたかって暮らしている自称音楽家の中年男が、巨額の遺産を相続するあてが外れて、住むところもなくし、一文無しになり、友人に金を借りようにも、そう多くはない友人たちは皆、ヴァカンスに出かけてしまっているか、長期の海外出張に出てしまっていて、誰も頼れる人がないまま、真夏のパリの日射しのなかをただトボトボと歩くしかない、その寄る辺ない足取りや、彼の前に現れる風景の生々しさは、直視するのが辛い程、ナマでありジカである。彼は仕事を紹介してもらうことも出来ず、ただ歩き廻り、疲れて木陰に座り込み、夜はペンチで眠る。そういう存在にしか見ることの出来ない「風景」があり、「もの」があるのだ。
映画の後半、彼は一人のホームレスと知り合い、ホームレスとなるのだが、ホームレスとして安定してしまうと、もうあの生々しい風景に出会うことは出来なくなる。「ホームレスに定住してしまうば、もはやそれをホームレスとは呼べない」。勿論、どんな人であっても、社会からズレつづけたままで生きてゆくことは出来ない。しかし、そのような時間を僅かでも持つことは可能なはずだ。社会的な場から引っ込み、一人籠ってしまような時間。それは、公的な時間に対する私的な時間、というのではなく(プライヴェートというのは社会的な概念だ)、ただ、ぼうっとした、タガが外れてしまったような時間を持つということだろう。平日の昼間、一人、ぼんやりと座っているボケた老人のような時間を過ごすこと。
そんな時に、世界のなかの無数の物の一つでしかない、有限な生をもつ<私>と、永遠の持続としてあるこの世界とが、その一部(断片)としての個物のきらめきを通して、ほんの一瞬、微笑みを交わすことが出来るのではないか、というのは単にトボケた夢でしかないのだろうか。「キリスト教徒であれ、無神論者であれ、我々の住む分裂病的な世界のなかで、我々はこの世界そのものを信ずる理由を求めているのだ。(・・・)我々は一つのエティック、一つの信仰を求めている、こう言えば馬鹿どもは大いに笑うだろう。しかしこの欲求は、この世ならざるものへの信仰ではなく、まさに今ここにあるこの世界を信ずること、馬鹿どももその一部としてあるこの世界を信ずることへの欲求なのである。」
(ジル・ドゥルーズ「シネマ2」丹生谷貴志氏の引用による)