『復讐・消えない傷跡』と『蜘蛛の瞳』の間には
黒沢清『降霊』をビデオで見直した
黒沢清『蜘蛛の瞳』をDVDで久々に観た
清水崇/黒沢清/保坂和志(空間と幽霊)
黒沢清+箱崎誠の『恐怖の映画史』
御園生涼子『郵便的エロス』について
「幽霊」とはある種のイメージのようなものだ/清水・鶴田・黒沢ホラー
藤井謙二郎『曖昧な未来、黒沢清』
『アカルイミライ』、二回め
黒沢清『アカルイミライ』
ウイリアム・ピーター・ブラッディ『エクソシスト3』と黒沢清『CURE』
「学校の怪談〜物の怪スペシャル」から、黒沢清監督の『花子さん』
黒沢清著の『映画はおそろしい』について、気になったこと。
黒沢清と「悪魔」
黒沢清の『回路』を巡ってのの3つ文章
ひとつめ。
ふたつめ。
みっつめ。
改めて、テレビで観た『CURE』
ビデオが出たので、黒沢清の『大いなる幻影』を観直してみた
「黒沢清映画講座」
黒沢清『降霊』
『カリスマ』について
黒沢清『カリスマ』
『復讐・消えない傷跡』と『蜘蛛の瞳』の間には
03/09/01(月)
●黒沢清『復讐・消えない傷跡』をビデオで見直す。今までのぼくの印象では、この映画は『蜘蛛の瞳』ととても似ていると思っていたのだが、しかし似ているからこそ、この2本の間には大きな隔たりがあることに気づいた。(『アカルイミライ』までを観ることが出来ている減殺の地点から振り返るならば、この2本の間にある隔たりの意味はとても大きいように思える。)
●『復讐・消えない傷跡』(97)と『蜘蛛の瞳』(98)は、間に『CURE』(97)を挟んではいるが、とても近い時期に製作されていて、極めて似通った物語をもつ。共に哀川翔が主役に起用され、主人公は復讐のみを生の目的としている。しかし、その復讐の意味は無化され、主人公は方向を見失ったままで停滞した(どんずまりの)時間のなかで、虚無的な生を強いられる。まるで主人公に幽霊のように寄り添う不思議な友情で結ばれた人物が登場し、主人公が虚無に侵されながらもそれを淡々と耐えるような強さを示すのに対し、友人は虚無に浸された疲労や倦怠、あせりや不安といったものを色濃く漂わせている。そして終盤には、主人公とその友人とと、決定的な別離が描かれるこになる。このようにみてくると、『蜘蛛の瞳』は、たてつづけにつくられた『復讐・消えない傷跡』のリメイクのようにさえみえてくる。
●しかし、まず、作品から感じられる肌触りのようなものが大きく異なる。一言で言えば、『復讐・消えない傷跡』はジャンル映画としい成立するようにきちんとつくられている。冒頭にアクションシーンが置かれ、主人公のワケありの過去はきちんと説明され、アウトローな主人公に対して若くて正義感溢れる若手刑事が配されているし、ドラマのアクセントのように若い女との関係も描かれる。復讐の原因には闇資金のルートという社会的(あるいはジャンル的)にそれらしい背景もあるし、警察組織の事情や大きな権力を巡る闇の部分も匂わされている。つまり、それらしいジャンル的配慮、あるいは現実(の厚み)に対する一定の配慮が払われている。そして、主人公やその友人の、寄る辺無く漂う停滞した時間は、そのようなある程度きっちりした枠組みのなかで際だち、そこから「でろり」とこぼれ落ちる。対して『蜘蛛の瞳』には、その映画を外側から規定している、あらかじめある枠組みの存在がきわめて希薄であり、『消えない傷跡』の端正さに比べ、ある投げやりなそっけなさのようなものが感じられる。つまり、作品の形式そのものが不安定なものとなっている。作品かがどこへ向かうのか、どのように決着が見られるのか定かでないまま、ただ次々にあらわれる一つ一つのショットやシーンを、不安のなかで(不安であるからこそ「開かれている」という感覚のなかで)丁寧に追いかけてゆくしかない。物語的にみても、主人公に復讐をさせる事件そのものの詳細や、主人公が復讐の相手を見つける過程などはバッサリと省略されているし、主人公の現在の職業や過去の経歴などもほとんど分からない。(彼はただ、画面のなかに見えているということにしか、存在の根拠をもたない。)復讐が完了してしまった後、古い友人から誘われてはじめる「殺し屋」という仕事やその組織にしても、そこに社会的、あるいはジャンル的な「それらしさ」に対する配慮はなく、いわゆるリアリティというもの、現実的な厚みというものによる裏打ちがなく、ただ表面的で具体的な行為のみが示されている。この殺し屋たちは、どうも国家主義者たちの団体と繋がりがあるらしいのだが、その団体にしたって、妙な人物が二人いるだけで、その背景の厚みはないし、何かしらの思想が示されるわけでもない。『蜘蛛の瞳』では、人を納得させ、物語に厚みと拡がりをもたせるための社会的、ジャンル的なパースペクティブが成立してなくて、観客はただ、目の前で起こる不条理で不透明な出来事を(着地点のない描写として)、とりあえずは「そのまま」それとして受け入れるしかない。このことで作品は、ほとんど「薄っぺら」と紙一重のシンプルさを獲得し、唐突でぶっきらぼうで不安定な肌触りをもつようになる。
●『復讐・消えない傷跡』にあるのは、行き先(目的)を失って停滞する時間=生であり、このような生=時間の絶望の深さでありその強度であろう。そして『蜘蛛の瞳』がそれと決定的に異なっているのは、その絶望を突き抜けた「新たな生」が垣間見られるという点にある。『消えない傷跡』においては(朝比奈温泉への道のりがそうであるように)、行き先がある時にはそこへ至る道が分からず、道順が分かった時には既に行き先(目的)は意味を失ってしまっている。菅田俊が、もしかしたら自分たちの窮地を救ってくれるかもしれなかった若者を殺してまうことで、自ら、行き詰まりのどんずまりへと追い込まれてゆくのと歩調を合わせるかのように、哀川翔は、もはや意味のなくなった復讐を、それでも決行しようとする。つまり彼らは、徹底した行き詰まりという強度のなかを、それを全うして生きるのだ。対して、『蜘蛛の瞳』の哀川は、友人であるダンカンを殺してまで、つまり「裏切り」を働いてまで(まあ、ダンカンの方が先に裏切ったわけだが)「新たな生」のなかへ飛び込もうとする。(だが、この選択もギリギリのところでなされたものであり、あらかじめ「新たな生」の方向性が定められているわけではない。「俺を殺しにきたのか」というダンカンに、哀川は「まだ決めてない」と答える。そしてほんのつかの間、停滞の果ての場所=湖で演じられる、とても美しい遊技的時間があらわれる。)徹底した行き詰まりの時間を生きるのか、それとも裏切ってまでも「新たな生」へと飛び込んでゆくのか。『復讐・消えない傷跡』と『蜘蛛の瞳』の間には、このような大きな亀裂が生じている。そして『蜘蛛の瞳』以降、『アカルイミライ』に至るまで、黒沢氏は一貫して後者を、あるいは裏切りさえも厭わない「新たなものへの変質」のみを望んでいるかのような大胆な歩みをみせているようにみえる。
(つけ加えて言えば、ぼくはジャンルに関する配慮や、社会的なパースペクティブによって得られる「厚み」を決して軽くみているわけではない。『蜘蛛の瞳』の方が『復讐・消えない傷跡』よりも「上」だと行っているのでもない。確かに『蜘蛛の瞳』は絶望の果てを突き抜けてしまった感じがするし、それは驚嘆に値する。だが勿論、それによって失われてしまったものが多々あることも事実だろう。)
●ところで、停滞だとか虚無的だとか絶望的だとかいう言葉をぼくはここで安っぽいくらい頻繁に使っているのだけど、考えてみれば哀川翔という俳優ほどそのような言葉と似つかわしくない人も珍しいのではないか。事実、『復讐・消えない傷跡』に行き先を失った深い絶望を刻みつけているのは菅田俊だったし、『蜘蛛の瞳』に倦怠や不安や疲労を濃厚に漂わせているのはダンカンであった。(図式的に読めば、彼らは哀川の分身であり、生き霊であり、ドッペルゲンガーなのだろうけど。)哀川はどんな場面でも、ただ淡々とそこに居ただけではなかったか。だとすると、哀川翔という人こそ、黒沢清がどうしたということと関係なく、いつ、どんな時でも、大いなる健康のなかで「生き残る奴」なのかもしれないとも思える。黒沢清『降霊』をビデオで見直した
●黒沢清『降霊』をビデオで見直した。役所公司が幽霊を棒で殴ると、ボコボコッと鈍い音がする。つまりここでは幽霊は「物」と同じように存在する。それにこの幽霊=女の子は、死んで幽霊になるわけではなく、生きているうちから既に幽霊である。知らないうちに鞄のなかに入り込んでしまった瞬間から、幽霊となったのだ。黒沢映画において幽霊とは決して霊的な存在(特別な存在)などではなく、ありふれた存在が、ある状況のなかで(ある関係の網の目のなかで)、幽霊と化すというわけだ。だから、幽霊は実体を持つし、逆に、幽霊とはその実体についての概念ではない。役所公司と風吹ジュンの夫婦にとって、知らないうちに、偶然に幽霊を連れてきてしまったことで「運命」がかわる。しかし実は幽霊は何もしたわけではなく、ただ紛れ込んでしまっただけなのだ。ここで運命は、たんに幽霊によってもたらされたのではなく、幽霊は、風吹ジュンの潜在的な欲望を露呈する媒介となったに過ぎないとも言えるから、運命は、潜在的なものと、それを開放する媒介との出会いによってもたらされるのだった。黒沢清『蜘蛛の瞳』をDVDで久々に観た
03/08/27(水)
●黒沢清『蜘蛛の瞳』をDVDで久々に観た。寝る前に観たのだけど、あまりに面白くて興奮して眠れなくなった。
●「時間が流れている」ことを感じられるのは、何かが変化したことを知覚することによってだろう。しかしそれは、時間そのものについての感覚ではなく、何かを夢中で追っているうちに、あるいはぼーっとしていていつの間にか、ふと気づいたらある変化が起こっていて、その結果、ああ時間が流れたのだなあ、と事後的に感じるということだ。つまり、そこに「何か(変化)が起きる」ことによって、時間の経過が知れる。では、特にこれと言って何も起こらず、ただ「流れる時間そのもの」を感覚として捉えるにはどうすれば良いか。黒沢清が『蜘蛛の瞳』で追求しているのは、映画がどのように「時間が流れること」そのものを捉えることが出来るのかということだろう。あるいは、ただそこに「時間がある」という感じと言えば良いだろうか。
●「ただ流れる時間」を捉えるための捕獲装置が、『蜘蛛の瞳』には様々に仕掛けられている。映画で、「ちょっとした時間の経過」を示すのに使われるごく一般的な手法と言えば、何も起こっていない静止した情況を、微妙にアングルを変えて幾つかのショットに分割するというやり方だろう。これは、対象には何も変化が起きていないので、その代わりにショットを区切り、フレームを変化させることによって時間の経過を示すものだ。『蜘蛛の瞳』でも、哀川翔が仲間達を車のなかで待っているシーンに、これが使われている。しかしこの時、哀川にも観客にも、仲間達が何をしに出掛けたのか、何故ここで待っているのか、この行為にどのような意味や目的があるのか、知らされていない。だからここで哀川は、ただ純粋に「待つ」以外のことは出来ない。この「純粋な待機」という姿勢が、ある「時間」を塊のように露呈させる。あるいは、どのような意味や目的があるのか分からない仕草や、物語的な次元では限りなく情報がゼロに近いような日常的な仕草を、延々と反復させてみせる、ということもしている。哀川は、ダンカンの事務所で延々とハンコを押しつづけ、その脇では、若い社員がローラースケートの練習を繰り返す。哀川の以前の職場では、シャーレに入ったよく分からない物質を調べることが淡々と反復されていた。家では、妻と二人での、食事の支度と片づけの仕草が繰り返される。確かに、家での場面は、哀川と妻との生活や関係の描写になっていると言えるだろうが、ハンコは、ただ「ハンコを押しているシーン」という以外の物語的な意味はないし、ローラースケートも、ただ「部屋の中でローラースケートしているシーン」という以外の物語的意味はない。つまり、これは「無為な時間が経過していること」を物語として示すための描写という範疇を超えて、ただ、ハンコを押し、ローラースケートをしている実際の「この時間」を示しているのみなのだ。(このようなシーンでは、背景に、輪転機が廻るような音、コピー機が紙を送り出す音、といった反復する機械音や、物売りの単調な繰り返しの声などが被っている。)他にも、(黒沢清がよくやる)長回しのシーンで人をやたらと移動させたりするとか、大ロングショットで、追いかけっこを延々と捉えていたり、殺しの仕事のあと、公園でただ遊ぶ仲間達を必要以上に長く見せていたりするのも、「ただ流れる時間」そのもの、あるいは「時間の流れ」という感覚を把捉するための仕掛けだと言えるだろう。これは言い換えれば、ほとんど退屈のギリギリ一歩手前で漲るような緊張感によってはじめて実現される感覚なのだ。
●「ただ流れる時間」とか「時間の流れ」そのものとか言うと、すぐにソクーロフという名前が出てくるけど、『蜘蛛の瞳』はソクーロフとは全く異質な映画だ。『蜘蛛の瞳』を特徴づける「時間」のあり方は、おそらく「反復」ということに関わっている。だから「ただ流れる時間」という言い方は正確ではないかもしれない。そこには、出来事が無く、ただ反復だけがある、あるいは、(内容は二の次の)反復の「リズム」だけが、一定のリズムの持続だけがある、と言い換えるべきかもしれない。『蜘蛛の瞳』には、あからさまに様々な映画の影響が見て取れる。ここはキアロスタミの『そして人生はつづく』で、ここはゴダールの『ヌーヴェルヴァーグ』で、ここはベルトリッチの『暗殺の森』で、などと、具体的に作品名を上げて指摘することは容易だ。しかしそんなことをしてもこの映画にとって何の意味もない。ただ、この映画が全体として何かに似ているとすれば、それは小津の映画だろう。『蜘蛛の瞳』には、いわゆる小津的なショットなどひとつもないが、これは黒沢清が最も小津に近づいたフィルムだと思う。そこに共通するものなど何もないにも関わらず、しかし、流れる時間、反復の時間についての形式的な姿勢が似ているように思う。(小津は「崩壊しつつある家族」を繰り返し描いたのだが、ここで重要なのは「家族」の方ではなく「崩壊しつつある」または「しつつある」という事の方なのだ。小津は、崩壊「しつつある」宙づりの中間的な時間を反復させることで引き延ばし、その反復のリズムのなかで「しつつある」時間を永続させようとしているかのようなのだ。だが実は、黒沢清はその反復の時間、そのリズムを、断ち切ろうとしているという違いがあるのだけど。)
●『蜘蛛の瞳』には、いわば「終わりの後の生」とも言うべき物語内容を持っている。娘を殺害され、その犯人への復讐だけを生の目的として主人公の、復讐の後の「生」が描かれる。そこには化石好きの国家主義者が登場し、全てが終わった後の生について語ったりするし、「虚無は決して絶望ではない」というセリフまでがあったりする。このような、目的も意欲も失った後の寄る辺無く漂う生という物語内容が、「ただ流れる時間」そのものを捉えようとする形式的な追求と重なり合う。これがあまりに見事に重なり合ってしまうので、多くの人(ぼくも含めて)は、その終わりの後の生の苛烈さにシビれ、共感し、あるいは突き放されるように感じて、没入してしまいがちだけど、それはもしかするとこの作品を観る時の、危険な罠であるかもしれない。むしろ「終わりの後の生」と言うような(文学的、感傷的な)物語内容は、たんに「ただ流れる時間」「内容を欠いた反復そのもの」を捉えたいという形式的な側面から要請されたに過ぎないかもしれないし、あるいは絶望した孤独な主人公というジャンルものの映画の定番の変奏にしか過ぎないのかもしれない。『蜘蛛の瞳』という映画の物語的な主題は、実はそれとは別のところにこそあるのではないだろうかとも思う。
(つづく)
03/08/28(水)
(昨日のつづき。)
●『蜘蛛の瞳』では、黒沢清の映画では珍しく、「不在であることの磁力」(=幽霊)が強く働いているようにもみえる。哀川夫婦の生活のかりそめの安定を(脅かしつつ)支えているのは、他ならぬ娘の幽霊(不在の部屋)が及ぼす磁力であるし、哀川の「殺し屋」としての社会生活をかろうじて支えているのは、復讐して殺した男の幽霊(川原の棒杭にかぶせられた布)の磁力であろう。つまり哀川は、未だ、不在のもの(幽霊)の磁力のもとで生活しているのだから、「終わり」の後を生きているとは言えない。不在のものとしての「幽霊」は、「終わり」を決して終わらせないで繋ぎ止める装置であろう。不在のものの効果によって、終わりは終わりきる事が出来ず、「終わりつつある」状態のままフリーズされているのだ。だから、(小津的とも言える)「ただ流れる時間」とは、終わりの「完結」が引き延ばされている、その「引き延ばし」のなかでだけ可能なのだ。哀川はまるで死後の生をでも生きているかのように見えるのだが、しかし実は「死につつある者」なのであって、死に切ることが出来ていない。だから、哀川が決定的に変化するのは、復讐の終わった後ではない。不在のものによる磁力をはねのけ、不在なものはたんに不在なのだと知る(娘の部屋には誰もいないし、布の下には棒杭があるだけだと知る)のは、化石好きの国家主義者の男から、植物の化石を受け取った後なのである。ここで黒沢清が描いている「物語」は、ある孤独な者から別の孤独な者へと、人里離れた廃屋のような場所で、人知れず「何か」が継承されてゆくという事態なのだ。勿論それは「王位」や「カリスマ」などというような、権威や力とは何の関係もない。この「何か」を、黒沢氏なら「運命」と言うかもしれないし、蓮實氏なら「映画の魂」とか言うかもしれないが、それはほとんど何も言っていないに等しいだろう。この「何か」は、『CURE』で言えば「邪教の教え」であり、『アカルイミライ』で言えば「君たち全てを許す」という言葉であるような「何か」であろう。ラカン風に言うとすればそれは「死」であり、それを与えられることによって全く異なる存在への変質を強いられるような「何か」なのだ。それを受け取ってしまったことによって、哀川は、それまで「虚無的」にしろ維持することが出来ていた生活、ダンカンとの友情、妻との生活をつづけることさえ出来なくなる。しかしそれは決して破滅への道ではない。妻を殺し、ダンカンを殺すという行為はつまり、娘の死や復讐に縛られていた生、終わりの後だと思っていたが実は「終わりの持続」であって終わり切れていなかった生を断ち切って終わらせるということであろう。ここで初めて哀川は、「終わりの後」の生ではなく、たんに「新しい生」をはじめることになる。勿論それは、華々しいものではないが、決して絶望的なものでもない。新しい生を迎えたからこそ、不在のものの磁力としての幽霊(棒杭を被う布)ではなく、実際に生きている「あの男」に遭遇することが出来たのだ。だから『蜘蛛の瞳』は未来に向かう映画であり、明るい未来についての映画で、つまり『アカルイミライ』と全く同じような物語であったということが分かる。
●余談だが、同じく黒沢清の『大いなる幻影』について、ちょっと。「ユリイカ」7月号の黒沢清特集で御園生涼子は、この映画を「性とアナーキズムを接続させること。そこから導き出される仮説と展開を」めぐる思考実験として捉えている(『郵便的エロス』)が、それはどの程度適当なのだろうか。ぼくにはむしろ、樫村愛子が指摘している「(外傷を補償する)純愛」というものの方が適当な気がする。樫村氏は『グローバリゼーションとアイデンティティ・クライシス』で、高度な資本主義の展開によって自然な生活世界が破壊され、それによって危機的な状況(解体に瀕する状況)におかれたアイデンティティーが対処する方法(文化的傾向)として、現在3つの方向性がみられるとし、それを、ニューエイジ、精神分析的文化、(外傷を補償する)純愛、として挙げる。この二つ目の「純愛」的傾向とは、《これまでのような規範や社会等に頼れなくなった個人がすべてを個人的外傷として抱えながら、そのような個々の人間の関係がまったくない状況で、外傷を介して関係を構成しようとする》ような傾向で、それは《フェミニズムが批判するロマンチック・ラヴ・イデオロギーの装いを一見まとっているようだが、中身は異なるものである。彼らは性愛が優位する関係との対抗で純愛をうたっているわけではない。彼らがまず抱えているのは心の傷だからである。》しかし《共依存的かといえばそうではない。なぜならそれぞれは互いの弱さを隠蔽するのではなく、互いが弱さ(精神分析でいう去勢)を受け入れるために支えようとするからである》とする。(このような傾向は、ガン患者たちのセルフヘルプグループや、ゲイ・アクティヴィズムと結合したエイズ患者たちの運動などと同質のものとみられる。)このような恋愛においては、モラルや規範は希薄であり(頼りには出来ず)、浮気も裏切りも、あくまで個人的な問題に過ぎず、倫理的・普遍的なテーマとはならない。故に、どんなに大きな苦しみや悲しみも個人的に処理されるしかなく「あなたには関係がない」ことにしかならない。だからこそ《本来は関係ないはずの他者の外傷を自身のものとする過程に恋愛の今日的な意義がある》と。その上で、《三つ目の現象(純愛)は、恋愛や愛という幻想が幻想性を解体し二つ目の現象(精神分析的文化)と連動する動きを見せている点で興味深い。純愛はもともと近代の発明であり、大いなる幻想であった。しかしいまや純愛は絶対的幻想というより能動的に自身を賭けてみる選択肢の一つとして存在している。それはすでに担保として存在している幻想ではなく、リスクを伴う「個人」的行為なのである。それゆえそれは分析的過程となる》と言うのだ。これは、ぼくが『大いなる幻影』から感じるものとはちょっと違うけど、『大いなる幻影』という作品は、確かにこのように観ることも出来るのではないかとも思える。(別に、『グローバリゼーションとアイデンティティ・クライシス』という論文は、『大いなる幻影』に触れているわけでは全然ないのだけど。)清水崇/黒沢清/保坂和志(空間と幽霊)
03/08/15(金)
●『呪怨』をとりあえずの頂点とする、最近のジャパニーズ・ホラーが生み出した「闇」は、例えば谷崎が『陰翳礼賛』で書いたような、日本家屋のじめじめした薄暗い闇とはまったく別物だろう。それは人間の視覚や意識のちょっとした死角になるような場所、目の端にうつってはいるのだけど、見てはいないような場所としての「闇」だろう。だから、昼間の均等に光りの当たった見晴らしの良い場所でも、人間のいる場所ならどこにでも「闇」は出現し、そこには幽霊(恐ろしいもの)が潜んでいる。目の端で何かがチラッと動いたような気がするのだが、そちらを向いて確認するとそこには何もいない。だが、安心してそこから視線を外すと、外したとたんに、そこに「恐ろしげなもの」は現れる。人が何かを見る時、何かを意識する時、そのフレームの内部には必ずどこか一点の死角が生じる。だから死角(=闇)はどこにでもある。このような闇(幽霊)の偏在性こそが、新たなホラーの恐怖のリアリティょ支えている。(それは、多くの人々が集まり、監視カメラなども設置されているショッピング・モールのような場所に、ふと生じてしまう死角で、実際に恐ろしい事件が発生してしまうことがあるという現実上の恐怖と通底しているだろう。)あらゆる場所が光(意識、あるいは視線)で満たされているからこそ、あらゆる場所に死角(闇)が生じるのだ。明るい部屋の隅、レストランのテーブルの下、ごく薄い壁のみで仕切られたトイレの隣の個室、風呂場で洗髪している時の背後、等々。(注目すべきなのは、黒沢清のホラーにおいては、幽霊はこのような闇=死角を必要としていないということだ。黒沢ホラーにおける幽霊や怪物は、たんにわれわれとは異なる原理で、あるいは異なる次元で存在しているものなのだから、我々がそれを見ようが見まいが関係なく、ただそこにいるのみだ。この、幽霊の存在の仕方の差異は、決定的に重要なもののように思われる。)
偏在する光のなかに生じる偏在する死角としての「闇」には、確かに一定のリアリティがある。しかし一方、例えば『呪怨』のあらゆる呪いの原因としてある伽耶子の幽霊のいる闇、建て売り住宅風の安っぽい家の二階の部屋の押入の上にある天井裏という「闇」は、『陰翳礼賛』的な闇が現代風に薄まったような闇でしかなく、もはや他の偏在する「闇」と比べて特権的な地位を保てるような質を持ってはいない。確かに、レストランのテーブルの下や、洗髪している時の背後などに現れる闇は、偏在する光のなかでふと現れ、ちょっとした人物の仕草やアクションなどによってすぐに消えてしまうようなものであるのに対し、建築物は、光と闇の濃淡(つまり空間的配置)をある程度固定させる装置として働く。だから、ある固有の「呪い」を残留させ保存する装置として「家」は不可欠のものであるのだろう。しかし、あらゆる偏在する闇を通じて伝播してゆく「呪い」の無差別な伝播力の恐ろしさに比べ、安っぽい建て売り住宅風の家は、そこまで強くて濃い「呪い」の記憶媒体としては、あまりにも弱く不安定なものであるように思えてしまう。とは言っても、これが古い洋館のような場所で起こった惨劇になってしまうと、それはもはやお伽噺の領域に入ってしまい、すくなくとも現代の都市部や郊外に住む我々のリアルな感触からは離れてしまう。(実際、ビデオ版の『呪怨2』で、芦川誠の親両親が住む田舎の家の空間を、清水監督は全くまともに造形できていない。)
●ぼくにとって、『呪怨』のようなホラー映画について考えることは、例えば保坂和志の『カンバセイション・ピース』のような表現が、「古くて大きな家」という装置なしで、どのように成立することが可能なのかを考えることでもある。ぼくは保坂氏の小説で一番好きなのは『東京画』なのだけど、この小説は、そのための可能性を示してくれてもいる。『東京画』では、『カンバセイション・ピース』のような「古い大きな家」や「野球場」という限定された空間ではなく、一つの町内が、しかもバブル期で常に風景が移り変わっているような「動きつつある姿」が、まるで猫のような俊敏な嗅覚で描写されているのだ。(これは余談だけど、保坂氏の小説を初期のものと最近のものを読み比べると、「猫」というものの重要性があらためて感じられる。『プレーン・ソング』や『東京画』において、主人公と猫との接触は、「野良猫」や「通い猫」のような「外」のものだったのに対し、『季節の記憶』では猫=子供は家族の一員となり、『カンバセイション・ピース』では「猫」は遂に外へは一歩も出してもらえなくなる。それと平行して、保坂氏の小説の興味も、外側の空間(開放的な空間)から内側の空間(限定された空間)へと移行してゆくように感じられる。そこでは、ある思索的な深みと引き替えにして、ある種の運動感がうしなわれているようにも思う。)黒沢清+箱崎誠の『恐怖の映画史』
03/07/28(月)
●黒沢清+箱崎誠の『恐怖の映画史』をパラパラと眺めながら思ったこと。「機械仕掛けの世界」と「人間ドラマ」について。人間ドラマと言っても、心理を身振りによって説明的に示そうとするアクターズスタジオ系の演技をする俳優が火花を散らすような心理ドラマのことではない。おそらく黒沢氏が人間ドラマと呼んでいるのは時間的な「遅延」と関係がある。言うまでもなく映画は機械仕掛けの反復装置である。映画には一回性はあり得ない。一度撮影された俳優の身振りは、上映されるたびに(あやつり人形のように決まった動きで)何度も反復される。スクリーンの俳優はセリフをとちらないし、物語が予定外の方向に行くこともない。全ては決定され、完成してから上映される。だからこそ、映画は何度も反復される「世界の規則」を描くのだ、という認識が恐らく黒沢氏にはある。(黒沢氏の著書『映像のカリスマ』には、映画は「映画の規則」と「世界の規則」との闘争によって生成されるというシャープな言葉がある。)このような方向性を最も端的に示しているのが、ハリウッドの古典的なB級映画(ジャンル映画)だろう。そこではジャンルごとにほとんど同じような話が、ちょっとした細部の差異や異なる俳優で、ほぼ同一の上映時間(80〜90分)で量産される。それは機械仕掛けのように正確に作動し、恐怖や悲しみや憎しみ(という感情)が描かれることはあっても「人間」は描かれない。何をしでかすが分からない、不確定な未来へと開かれているような「人間」など、90分の上映時間には納まらない。それに、映画の物語は上映される時には既に決定しているのだから、映画には基本的に「何をしでかすか分からない」人物の揺れなど存在出来ない。人物は定められた運命に向けてただ一直線に進むのみだ。(だからこそジャンル映画は、ある純粋で抽象的なフォルムに到達することが出来る。)しかし、その純粋な(機械仕掛けのように作動する)フォルムが乱れ、淀み、たゆたって、間延びした時間が入り込むと、そこに機械仕掛けの世界の規則からこぼれ落ちた不透明さや曖昧さが生じてしまう。そしてこの曖昧さや不透明さの「効果」として、「人間的なもの」が産出される。古典的フィルムのきっぱりとした完璧さを基準とすると、これはあきらかに失敗であろう。しかしこの不透明さ、曖昧さ、弱さが、本来映画にはあり得ない「何をしでかすか分からない」人間の逡巡を感じさせるのだと言えよう。(だからこそ古典的で純粋なフォルムを信奉する映画マニアにとって、「人間ドラマ」は、ジャンル物のもつ清々しさを汚す不純で弱いものとして避けられる。)例えばスピルバーグは、自分の映画にこのような遅延が入り込むのを恐れて、(あまり出来の良いとはいえないものまで含め)無数のアイディアを投入し、それをひたすら滑らかに繋ごうとする。(しかし結果的には、そこに不思議な遅延が生じてしまうのだけど。)
●黒沢氏も、人間ドラマを生む「遅延」を基本的にあまり好ましく思っていないという点で、マニアックな価値観を共有しているように見える。黒沢氏はこのような「遅延」に極めて敏感で、かつ厳しく、例えば青山真治のデビュー作『Helpless』について、バイクが走っているショットというのは、「バイクが走っている」という以外の何も示さないから、そこで映画が淀んでしまう、青山なんてそんなこと充分承知しているはずなのに、あえてそれをやっていて大胆だと思った、などと、微妙な発言をしたりする。(記憶による引用だから違ってるかもしれない。)しかし黒沢氏は、遅延による「人間ドラマ」を一概に否定しているわけではない。それどころか、一方でそれに非常に魅了されているとさえ言える。例えば黒沢氏が『悪魔のいけにえ』を賞賛する時、たんにその恐怖の生々しいリアルのみを褒め称えるのではなく、レザーフェイスが人を殺した後ビクッとしたり、うろたえているとしか思えない動きをしたり、時には物思いにふけっているような描写さえあったりすることの驚きを挙げている。これは決してレザーフェイスの「心理」が描かれているわけではない。レザーフェイスに内面などあるはずがない。しかし、にも関わらず彼は何故か逡巡したり戸惑ったりするのだ。ここにあるのは人間の心理ではなく、何をしでかすのか自分にも分からないという人間の不透明さであろう。「殺人者は殺人する」という同語反復的なジャンル映画の絶対的な規則が、ここで微かに震えているのだ。そして何よりも、この不確定さ、不透明さこそが、何よりも怖いのだ。本来ならば、人を殺すという運命に対して何の疑問ももたずに突き進むはずの「怪物」が、何故か不確定性の前で震えてしまうことが、この怪物の不透明さに不思議なニュアンスをつけ加える。古典的なジャンル映画が、決定的な運命と、その運命のなかにいるしかない人物の「感情」とを描いているとすると、『悪魔のいけにえ』は、決定的な運命が、もしかしたら決定的ではなかったという可能性もあり得たのではないか、という不純な「揺れ」がそこに加わっていると言える。この揺れを導入するのが「遅延」する時間であり、その揺れ(の効果)によって生じるのが、何をしでかすのか分からない、未来に対して不透明な存在である「人間」なののだ。だから黒沢氏は、世界のシステムの完璧な作動(機械仕掛けの世界)、回路が開かれてしまえば、あとは世界が自動的に進行してゆくしかないという「運命論的」なものに強く魅了されていると同時に、もしかしたらそれ以上に、遅延した時間による不純さにもひかれているのではないか。
●もう一つ、典型的な人間ドラマを挙げるとしたら、ドン・シーゲルの『ダーティー・ハリー』だろう。この、いかにも70年代的なフィルムは、もし、同じドン・シーゲルが、同じような題材で、5、60年代に、そしてイーストウッド以外の俳優で撮っていたとしたら、恐らく90分前後の映画になっていただろう。そこに「遅延」が入り込み、120分以上の映画になってしまうところに、70年代という時代の刻印があると同時に、イーストウッドという俳優の特徴がある。イーストウッドとは、遅延するアクションスターであり、(内面とは無関係の)極めて「人間ドラマ」的な映画俳優であるのだ。そして勿論、黒沢氏は、『ダーティー・ハリー』にもイーストウッドにも、強くひかれているはずだ。
●一方で、古典的な「映画の原理主義者」として、装置が完璧に滑らかに作動する機械仕掛けの世界(「回路」が一度開かれてしまえば、世界はもう後戻り出来なく、勝手に進行してしまうような)を強く志向するのだが(映画には細部などなく、システムと全体しかない、などと言ったりする)、しかしもう一方で、その装置の完璧な作動からこぼれ落ちてしまう、遅延する時間が生む不透明さ、不純さ、曖昧さ(何をしでかすか分からない、あるいは、運命は実は「運命」ではなかった可能性があったかもしれない、という「幽霊」に憑かれる「人間」)にも魅了されてしまっているという点が、黒沢氏の映画作家としての決して分かりやすいとは言えない魅力になっているように思う。『復讐・運命の訪問者』や『回路』、『アカルイミライ』のような、不必要な細部や「淀み」は出来るだけ排除して、シンプルに単線的に物語が進行してゆく映画がある一方、『復讐・消えない傷跡』や『蜘蛛の瞳』、『大いなる幻影』のように、ひたすら、装置からこぼれ落ちた遅延する時間のみによって出来ているような映画もある。『勝手にしやがれ』シリーズでは、基本的には装置の滑らかな作動が目指されていたのだが、シリーズ最後の作品でいきなりそれが「でろっ」と崩れたりもするし、『ニンゲン合格』のような、どっちつかずの傑作もある。一見、ごくシンプルにつくられているようにみえる時でも、常に複雑な思考が絡み合っている黒沢氏の映画同様、一見、マニアックな話に終始しているようにもみえる『恐怖の映画史』からも、黒沢氏の複雑で刺激的な、一筋縄ではいかない思考の動きは充分に感じられる。御園生涼子『郵便的エロス』について
03/07/01(火)
●「ユリイカ」7月号、黒沢清特集より、御園生涼子『郵便的エロス』について。『大いなる幻影』を、「性とアナーキズムを接続させること。そこから導き出される仮設と展開を」めぐる思考実験として捉えること。そしてそれに『郵便的エロス』というタイトルがついていること、について興味を持った。しかしそのタイトルとは裏腹に、この論考はもっぱらラカンに沿って展開されている。たしかに『大いなる幻影』を、ラカンの欲望の理論から「滑り落ちる」ものだとしてはいるが、ラカンから滑り落ちたものを、再びラカンによって解釈することで、結局ラカン的な理論の圏内で『大いなる幻影』を解釈するという段階に留まっているように読める。ぼくはラカンについて詳しくはないが、斎藤環によるとラカンは「メディアは存在しない」と言っているそうだ。メディアが存在しないという精神分析的な場に、メディア的通路を接続して押し広げるということこそ「郵便的」ということの意味なのではないだろうか。例えば、この論考は一応の結論として、「対象を知覚するために一種の障壁を設け、その障壁により全体の知覚が可能になる」ことで「眼差しの主体」を成立させる「スクリーン」という視覚的装置に対して、そのスクリーンを破るように他者に向けて手をのばし、そこにいる他者に手で触れることで、「あなたは決して私があなたを見るところに私を視ない」という欠如を介することでしか欲望できない(視覚的な)関係を突き抜け、「届かない相手に届くかもしれない」という可能性が生じる、ということになっている。でもこれって、単純に言えば視覚に対して触覚の優位性をもってくるというだけのことじゃないのだろうか。確かに、映画という視聴覚的なメディアにおいては、そのような形で「表現」するしかないかもしれないし(例えばゴダールの『JLG/自画像』とか)、実際『大いなる幻影』のラストは、まさにそのような事柄を見事に「図示」してもいる。でもそれはあくまで表象体系内部で発生する意味という次元でしかなく(つまりそのような意味を図示しているだけで)、『大いなる幻影』という映画の面白さはそのような分かりやすい図示にあるのではないと思う。以下、疑問に感じた点をいくつか挙げる。
●まず、過剰に浮遊する「花粉」が、手紙のメッセージが必ず宛先に届くこと(受粉という「目的」へと至ること)、という王(父)による「法」をなしくずしにしてしまうというアナーキズムの比喩として示されているのは、本当に適当なのだろうかという疑問。つまり、あまりに過剰な花粉は、受粉すべき受容体を見つけられず(「目的」へ届かず)、本来関係のない人間に付着して花粉症という効果をもたらしたりする、と。それはつまり、健全な次世代の再生産という国家的な要請に対するテロリズムでもある、と。(宛先=目的に届かない手紙である、と。)しかしちょっと考えてみれば分かるのだが、花粉とはもともと過剰なものなのではないか。全ての花粉が受粉する必要など全くないし、誰もそれを期待もしていない。確かに大部分の花粉は受粉するという「目的」に届かず、地面に落ちたり、花粉症の原因になったりする。しかし全体の何万分の一か何十万分の一の花粉が受粉しさえすれば、それは「目的」に届いたと同じなのだ。つまり過剰な花粉のアナーキズムなど、あらかじめ構造によって許容された範囲内のものでしかい。『大いなる幻影』において、花粉の過剰性は、ハルとミチとが「セクシャルな欲望」からも「家庭という制度」からも自身を(自らの意志によって)切断するという行為とは対応していない。(この最初の比喩の設定の間違いが、この論考の方向を迷わせているようにも思う。)むしろこの映画において蔓延する花粉(花粉症)とは、人が常に「セクシャルな欲望」を強いられている、常に発情させられているという現状を表しているとみる方が自然ではないだろうか。常に性欲を昂進されられつづけるということが、精神分析的に(あるいは生物学的に)規定されている人間というハードの基本的組成なのか、それとも、そのエネルギーを使用して駆動しようとする資本主義によって強いられているものなのかということはとりあえず置いておくが、とにかくそのような状況であるということの比喩だと思う。「二人が愛し合うという物語」から「セクシャルな欲望」と「家庭という制度」とを差し引くということは、資本主義とも国家とも(お望みならば「精神分析」をつけ加えてもよいが)関係のない場所で「愛し合う」ということが可能であるのかを問うということであるだろう。この点で、いつもながらの粗雑で乱暴な口調で「DINNS」という言葉を口にする青山真治は鋭く本質をついているように思う。「つまり共働きで子供を作らず、ふたりで楽しく暮らそう、とする夫婦またはカップルを指す言葉だ。やがて富国強兵を目指す政府の方針で抹殺を余儀なくされたが、当時の若者たちにとってはひとつの理想像だった。この映画を見て私は真先にこの言葉を思い出し、胸を熱くしたのだった。これこそが80年代のイデオロギーを最も体現する言葉だったのかもしれない。当時は若者の消極性・自己中心性の現れくらいにしか思われなかったこの言葉こそ、実は我々を取り囲み、個を蝕む社会のシステムに抗う極めて有効な手段だった。」(『大いなる幻影』パンフレットより)まあ、この映画のハルとミチには「DINNS」という言葉が思い起こさせるバブリーでお気楽な雰囲気は全くないのだけど。勿論、ここでの青山氏の言葉はあまりに単純すぎるので、ちゃんと精神分析的な主体の問題も押さえておこうというのは分かるけど。
●次に、果たして「対象a」というような欠如を示す記号によって黒沢氏の映画を説明することが適当なのだろうか、という疑問。例えば、黒沢映画における「幽霊」とは、御園生氏の言うように「いそうでいない、いないようでいる」という雰囲気がもたらす効果とはまるで関係がないと思う。端的に言って、黒沢的な幽霊は(見えているかぎり)そこに「存在する」のだ。いるのかいないのか分からないことにょって生じる効果が、黒沢ホラーに使用されている例はおそらくほとんどないはずだ。『廃校綺談』の友人のように、物語上、いると思っていた人物が実は存在しなかったということはあるが、それにしても、画面に映っている時には友人ははっきりと存在していて、主人公としっかり言葉を交わす。(実は存在していなかったというのは物語上の問題=オチでしかなく、映画的な問題ではない。映画においては、スクリーンに映っていればそこに「存在する」のだ。)黒沢映画にとって幽霊は、はっきりと存在しているからこそ怖いのであって、いるかいないか分からないことよって怖いのではない。ハルとミチは、確かに存在が危うく、ハルは実際に消えてしまいさえする。しかしそれは社会的(象徴的な秩序の内部)に存在しないということだ。(資本とも国家とも関係ない者は存在しないに等しい。)逆に言えば、社会的(対他者的には)存在しないに等しい者でも、スクリーンに映っているかぎり存在することが出来る。
(つづく)
03/07/02(水)
(昨日のつづき、『郵便的エロス』と『大いなる幻影』について)
●確かに御園生氏の書く通り、この映画では至る所に膜が張られている。それは境界線であり、ミチはいつもその向こう側へと突き抜けたいと思っている。しかし、自らその向こうへと旅立とうとする試みはいつも失敗する。ここまでは良いとしよう。だがこの膜は、決してミチを包み込み、閉じこめているものではない。ミチ自身がその膜の向こう側へ行くことは出来ないにしろ、膜の外側から「こちら側」へ、様々なものが唐突に入り込んでくる。ミチの職場である郵便局の窓口がその代表的な例で、ミチはスクリーンによって隔てられた窓口の向こうへ出て行くことはないのだが、そこから様々な郵便物がこちら側へと侵入してくる。(ミチはそれを盗む。)あるいは、ドアの向こう側から、外国人のカップルが唐突に部屋に侵入してくる。海岸線という境界の外からは、兵士の死体が流れ着く。この映画を「郵便的」と捉えるならば、このような「唐突に入り込んでくるもの」の生々しさをこそ、指摘されるべきではないだろうか。御園生氏は、海岸のシーンで、ミチはスクリーンを突き抜けたのだが(確かにこの長回しのシーンでは、ミチの視線の先にミチ自身が入り込んでゆくように見える)、その先にあったのは「死」でしかなかったと書く。そのことがミチを絶望させ、「このまま終わっちゃう」というようなセリフを言わせる、と。確かに、切り返しのショットとショットの間にある断絶=境界が、180度に近いパンの運動性によって超えられたかのようにも見える。しかしここでは、境界を超えたにも関わらずそこには「死」しかなかったというのではなく、やはり海の向こう側から(海という媒介を通じて)死のなまなましさが「ここ」へと接続された、とみる方が「郵便的」であろう。このシーンのすぐ後、ハルとミチは黄色い紙が貼られたガラス戸によって隔てられる。この時、ミチは自らの手で戸をあけるのだが、その先には既にハルはいなくなってしまっている。この映画では、ミチが自ら「手をのばす」とき、それは必ず失敗する。その後、郵便局の窓口にいるミチのもとに、そのスクリーンの向こう側から唐突にハルが入り込んでくることによって、二人は再び「出会い直す」ことになる。ここでハルとミチとが再び出会い直すことが可能になったのは、スクリーンの視覚性に対する、手をのばし、手で触れることの運動性、触覚性の優位によるのではなく、それが境界線(つまりメディア的=郵便的空間)の向こうから唐突に訪れたものだったからではないだろうか。(境界=スクリーンとは媒介であり、切り離すのだけでなく結びつける。)少なくともぼくにとってこの映画が重要なのは、(精神分析的な分析にきれいにあてはまる)見事な海岸の長回しのシーンによってではなく、例えば二人並んで座っているラストショットの不安定な寄る辺無さや(唐突に挿入され唐突に終わってしまう短さ)、公園での風船のシーンの、何ともとらえどころのない時間(退屈な長さ)、ふいに挿入されるバランスを欠くほどの武田真治のクローズアップの生々しさ、あるいは様々なアイディアが、きちっと結びつき構築される一歩手前で、バラバラなまま放置されているような、つまり見直すたびに(思い出すたびに)違った細部の結びつきが観客へと「届く」ようなあり方によってである。
●この映画において主人公の二人は、ハルとミチというきわめて頼りない固有名しか与えられていないし、明確な人格的、キャラクター的な特徴も与えられていない。極端なことを言えば、彼らが映画のはじまりから終わりまで同一人物であるということさえが疑わしいとさえ言える。ひとつひとつのシーンの結びつき方も明確ではなくバラバラな感じで、人物の同一性=統一性もあやうい。そのようなあやうげで頼りない人物の存在は、彼らが実際にスクリーンに映っているという事実によってのみ、辛うじて保証されている。つまり、あやうげで頼りなく、同一性さえ怪しいハルとミチが、それでも確かに存在しているのは、御園生氏が書くように、「わたしがあなたを見つめている、そしてあなたもわたしを見つめている」ということによるのではなく、もっと単純にスクリーンに武田真治と唯野未歩子が映っているからなのだ。つまりそれは、ハルがミチを見て、ミチがハルを見ていることで、互いの存在が確認されるのではなく、映画の観客が二人を見ているから二人が存在しているということだ。切り返しの(画面=逆画面の)一方のショットは、そこに現れていない(不在の)もう一方の人物の眼差しによって保証されている(視線が複雑に入れ子になっている)のではなくて、ただ観客の眼差しによって保証されているのだ。おそらく黒沢清のあっけらかんとした即物性とはこの点にこそあるのではないか。黒沢氏は、作品内部に複雑な関係の絡み合いをきっちり構築する一歩手前で、それを観客へと投げだし、預けてしまう。だから切り返しとは、入れ子状の視線の絡み合いなどではなく、たんに二つの顔が交互に示されるということでしかない。二つの顔が魅力的であればそれでよい。それを、向き合って見つめ合っていると観客が見るかどうかは知ったことではない。「郵便的エロス」とはこのようなことを言うのではないか。まさしく、手紙は分割されるかもしれず、宛先へ届かないこともあり得る。むしろそこで起きる出会い損ないこそが、(観客にとっての)面白い映画を生むかもしれない。「幽霊」とはある種のイメージのようなものだ/清水・鶴田・黒沢ホラー
03/06/23(月)
●吉増剛造の「不揃いな世界」という講演の筆記に記されていた、次のような蕪村の俳句を読んではっとさせられ、俳句というのはコンパクトに凝縮された高度なイメージの発生装置なのだと改めて思った。
《凧(いかのぼり)きのうの空のありどころ》(蕪村)
03/06/24(火)
●「幽霊」とはある種のイメージのようなものだ。例えば、画布になすりつけられた絵具の状態である絵画を観て「光」を感じたり、あるいは、「凧(いかのぼり)きのうの空のありどころ」という俳句を読んで、「凧」とも「空」とも違う、しかしある明快なイメージを感じたりする時、それはほとんど幽霊を見ているのとかわらない。が、しかし、絵具や画布は実在する物質であり、それによって組み立てられた絵画から感じられる「ある感覚」がイリュージョン=幽霊だと言う時に、その区別はどこまで厳密に成り立つのだろうか。例えば、どんな植物でも、花が満開になっている時の状態を見た時に感じられる、ほとんど現実ばなれした(現実から浮き上がってしまっているような)感覚と、物質としての「花」とを、どこまで厳密に区別出来るだろうか。「花」という言葉を使ったとたんに、そこにはもう「幽霊」が入り込んでいるのではないだろうか。
●清水崇『呪怨2』と「学校の怪談・物の怪スペシャル」から鶴田法男『なにかが憑いている』、黒沢清『花子さん』をビデオで観た。『呪怨2』の清水崇にとってホラーというジャンルは既成のものとして存在し、「幽霊」とはホラーというジャンルのガジェットとして、人を怖がらせるための道具として予め与えられたものであって、そこには人がどのように「幽霊」を感じるのかという考察、幽霊のリアリティを生むものに対する考察は存在しない。『呪怨2』を構成している数々の細部は、切り離してみるとほとんどコントにしかならない、笑ってしまうようなものなのだが、それを恐怖の方へと傾かせているのは、全体を支配する「怖いぞ、怖いぞ」という雰囲気であり、その雰囲気は過去の幾多のホラー映画(や怪談話)の記憶に依存している。つまり、ここのスイッチを押せば人は自動的に怖がるというツボを押しているだけなのだ。このような方向を押し進めて行くと、おそらくサブリミナル効果のようなものにしか行き着かないと思う。鶴田法男の『なにかが憑いている』において幽霊を成立させているものは、抑圧されたひとつの感情である。だから鶴田法男のホラーは、繊細な感情表現が腕の見せ所となる。ここでその感情とは「うしろめたさ」である。幼い頃にとても親しかった友人と、成長の過程でいつしか疎遠になってしまい、たまに会ってもむしろ疎ましくさえ感じられてしまうという体験は誰にでもあるだろうし、その疎ましく思ってしまうことへの「うしろめたさ」を感じないで済ませることも出来ない。日々、新しく成長する思春期においては、昔の友人とはつまり今とは異なる、否定したい昔の自分の存在の名残のようなものであるから、その疎ましさ(と、それに対するうしろめたさ)は一層強くなるだろう。だが、目の前に次々と起こる「新しいこと」に対処することで精一杯な人物にとっては、いちいち「うしろめたさ」を感じている余裕などなく、その感情は抑圧される。このような経験をもつあらゆる人物に対して、『なにかが憑いている』は強く感情を揺さぶる力を持っている。ここでの幽霊とは、抑圧された「うしろめたさ」が回帰したものだからだ。(だからこそ鶴田法男の幽霊には一定のリアリティがある。)鶴田法男のホラーは、「情」に対して直接的に作用するように作られている。だから、なにものかに取り憑かれてしまっている昔の友人が、共通する幸福な想い出の象徴である「ぬいぐるみ」を示された時、そのほんの一瞬だけ、以前の友人の姿に戻るという場面には、ありきたりでみえみえだと分かっていながらも、感情が直接揺さぶられてしまうのだ。黒沢清の『花子さん』においても、幽霊は「うしろめたさ」によって根拠づけられている。しかし、『なにかが憑いている』においては主人公と昔の友人との一対一の関係とその記憶が問題だったのに対し、『花子さん』においては、複数の人物によって共有される「うしろめたさ」が問題となる。ここでは「うしろめたさ」を共有する三人の人物はそれぞれが過去の記憶に対する態度が異なる。それに、非世界的な側(幽霊)にも、三つの異なる次元が存在するように設定されている。だから『花子さん』においては「感情」が問題なのではなく、複数の異なるものの関係というのか、むしろ関係しない重なり合いが示す世界の「図柄」のようなものが問題となる。「うしろめたさ」に対する態度が異なる3人の古い友人たちは、だから決して記憶を共有することが出来ず、久しぶりに共通する記憶の場である「学校」に集まっても、バラバラなままでいるしかない。(だから3人+1人の登場人物それぞれにとっての「学校」という空間の現れ方が違っている。)登場人物たちの記憶の外在化である「幽霊」にも三つの異なる次元がある。一つは、学校に関する一般的な記憶の塊であるような、ただ現れては、ざわざわとざわめいているだけ幽霊たち。もうひとつは、登場人物たちの「うしろめたさ」そのものである、いじめられたすえに自殺した少女の幽霊。そしてもうひとつ、登場人物たちの過去の出来事=うしろめたさに対する態度の違いなどとは全く無関係に、全ての人物たちに等しく作用する「世界の原理」のような幽霊「花子さん」である。『花子さん』の世界では、それぞれの人物、それぞれの幽霊たちが、全く別個の原理によって動いている。黒沢清の凄いところは、複数の別個の原理がひとつの場で作動しているというよりも、むしろ複数の別個の原理の作動によってひとつの場が結果的に「生み出されてしまう」という姿を、その極めて複雑な演出によってつくりだしている点にあると思う。このような世界は決して「感情」によっては捉えられない。藤井謙二郎『曖昧な未来、黒沢清』
03/03/07(金)
●藤井謙二郎『曖昧な未来、黒沢清』について。まず、黒沢清についての映画のタイトルに「曖昧」という言葉が使われることに違和感をおぼえる。確かに、インタビューのなかで黒沢氏自身が、現代の東京を舞台に映画をつくる以上、登場人物は曖昧で多義的たらざるを得ないと口にしてはいる。しかし、実際は黒沢的な人物はいつも決定的な現在を生きており、曖昧さや多義性が入り込む余地はあまりないように思える。例えば『アカルイミライ』において、オダギリジョーは浅野忠信に先回りされることで、たまたま人を殺さずに済んだのだが、ここでは「たまたま殺さなかった」という事実は決定的なものであり、取り替えがきかない。たまたまだろうが何だろうが、他にどのような可能性が考えられようとも、それが起こってしまった(または起こらなかった)ことは既に絶対的であって、曖昧なところがない。(何故、とか、もしも、が入り込む余地がない。)
●では、この映画は、曖昧さの入り込む余地のない映画をつくる黒沢清が、しかしその撮影の現場で、ふと覗かせてしまうかもしれない、曖昧さや揺れ動きを捉えようとしているのだろうか。例えば黒沢氏は、あるシーンの段取りを俳優につけている時、テーブルを回り込んでその向こうのものを取るという動作で、テーブルをまわるのは「右からでも左からでも、どちらでも良いです」と口にする。さらに(驚くべきことに)別のシーンでは、何種類も撮り方を考えても、どれが一番良いか分からないときは、ぼくは平気で人に任せます、とか言って、助監督に演出を任せてしまう黒沢氏の姿が映しだされもする。このような場面に、撮影現場での黒沢氏の不安定で曖昧な揺れ動きが見てとれるのだろうか。しかしこれもまた、曖昧さとは正反対の事柄であろう。右だろうが左だろうが、その時に俳優が選んだ方が「決定的」なのであり、どのような演出だろうが、その演出を任された助監督がおこなった演出が「決定的」なのであって、そこには曖昧さはない。サイコロをふって、ある目が出たという時、その時にその目が出てしまったという事実こそが決定的で取り替えのきかないものであり、それを受け入れるのだ、ということであろう。それは、複数のテイクを撮っておいて、選択の余地を編集の段階まで延期しようというような、曖昧さとは対極にある。
●「フィクションとドキュメンタリーに本質的な違いはなく、ドキュメンタリーだって多少のやらせはあるだろうし、フィクションだって偶然を全て排除することは出来ないのだから、そこにあるのは程度の差にすぎない」というような内容の黒沢氏の同一のセリフを、この映画は2度、繰り返して使用している。この反復によって、この言葉が『アカルイミライ』について語る黒沢氏の言葉であると同時に、「『アカルイミライ』について語る黒沢氏」を撮る藤井氏の態度と重なってくるのだ。つまり、『曖昧な未来』は(当然のことだが)、たんに「『アカルイミライ』を撮る黒沢清」についての映画というだけでなく、映画作家、藤井謙二郎のつくる、『アカルイミライ』と何ら本質的な違いのない一本の映画であるのだ、という(控えめな)宣言でもある。ここで藤井氏は、黒沢氏の言葉を2度反復させることで、自分の作品の方へと折り返し、反転させて重ね合わせようとしているように思う。だからこの映画のタイトルに含まれる「曖昧な」という言葉は、黒沢氏を説明したり描写したりする言葉ではなく、黒沢氏を撮る藤井氏の態度についての言葉であるように思える。
●「『アカルイミライ』の撮影現場」を撮影する藤井氏の視線は、撮影対象に肉迫するという感じでもなく、一歩下がって全体を眺めるという感じでもない。黒沢監督の傍らに、どこからともなくふらふらっとやって来て、いつのまにかカメラを回しているという感じだろう。それは、この場で、今起こっている「決定的な出来事」を記録しようというよりも、その場に漂う、これから何が起こるのだろうかというような、予感めいた、茫洋とした曖昧な空気のようなもの、大勢の人々が動きながら、それぞれの人がそれぞれの場でばらばらに何かをやっている雑然とした空気のようなものこそを、やわらかく受け止め、捉えようとしているように感じられる。例えば、浅野忠信の部屋での長いシーンでの、オダギリジョーの芝居の段取りを説明している黒沢氏を捉えた場面で、黒沢監督の傍らにいて、これから自分が行う芝居の段取りを聞く、不安げで探るようなオダギリ氏の佇まいに、「決定的な現在」とは異なる、「曖昧な未来」へ向かうの宙づりの感覚がみてとれないだろうか。あるいは映画の冒頭で、スタッフの大人たちにかこまれた少女の、居心地の悪そうなぽつんとした佇まいのようなものこそを、この作品は積極的に捉え、可視化しようとしているのではないか。この不安定な感じは、『アカルイミライ』の撮影現場に、スタッフではないが全くの部外者というわけでもないという、とても曖昧な立ち位置で立っている藤井氏の姿とも重なるのだろう。決して画面に現れることのない、そのような藤井氏の佇まいを何より雄弁に示しているのは、黒沢氏へとインタビューする藤井氏の、渋くて低い、しかしぼそぼそっとした喋り声の調子だろう。自分が写っている映像を見るのは苦痛だ、とりわけ自分の声は耐えがたいと口にする黒沢氏に対して、じゃあこの映像も苦痛ですね、と言い、「すいません」と思わず口にしてしまうその声によって、相手に鋭く切り込むようなインタビュアーではなく、相手の存在に気遣い、はにかみつつ傍らに立っているような人物の姿が浮かび上がってくるだろう。「曖昧な未来」とは、画面上では不在のまま、黒沢清の傍らに佇む人物が、黒沢的な「決定的な現代」に対してささやかに対置する、ある批評的な身振りのことなのではないだろうか。『アカルイミライ』、二回め
03/02/12(水)
●渋谷のシネアミューズで『アカルイミライ』二回め。平日の午後1時50分からの上映にも関わらずほぼ満席で、しかも観客の大半が女の子で10代だろうと思われるというのは、渋谷という土地がらや、ごく小さな規模の映画館ということを考えに入れても、黒沢清の映画としては異例のことなのではないだろうか。しかも上映終了後の「空気」がとても肯定的なもので、あちこちから、凄く面白かったとか、感動したとかいう声が聞こえてくるのだった。『蛇の道』や『蜘蛛の瞳』などが上映された中野武蔵野ホールは、はじめからマニアックな観客ばかりが集まっているのだろうから別として、『ニンゲン合格』や『回路』の悲惨なまでのガラガラぶりや、『大いなる幻影』の上映後の、「なんだかよく分からない」という反応で満ちた空気こそが黒沢映画の上映される環境だと思いこんでしまっている者としては、決して黒沢清目当てとは思えないように見える観客たちのこの反応を目の当たりにして戸惑いを感じるとともに、『アカルイミライ』という映画には今までの黒沢作品とは違った何かが、確かに写り込んでいるのかもしれないと感じさせるものがあるのだった。
●『アカルイミライ』のリアリティを支えているものの一つに、この映画が徹底して「貧乏」な環境についての映画であるという点があると思う。それは、デジタルビデオによって(部分的には家庭用のビデオカメラによる映像も混じっているらしい)ほとんど照明を使う必要なく全てロケーションによって撮影され、画面の多くの部分が塗りつぶされたような闇で占められ、場所によってはあからさまに粒子の荒れた、ピントの甘い映像すら紛れ込んでいる画像というかたちで直接的に示されてもいるだろう。
●更新を休んでいる8日から10日間、ぼくは祖父の十三回忌のために実家に帰っていた。祖母の方は、今年90歳になるのだが元気だ。祖父が亡くなって13年もたつのだが、祖母は今でもほぼ毎日墓参りを欠かさないし、仏壇に手を合わせることも忘れない。食事の前には自分の茶碗を一度仏壇にあげて手を合わせてから食べるし、何かというと「お父さんも喜んでられるでしょうよ」とか「お父さんにも報告してあげましょう」とか言う。病院から祖父の遺体が返され、祖父がずっと使っていた布団に横たえられたその遺体の脇で一晩じゅういろいろと語りかけていた死の時から今まで、祖母はずっと死者と共に生きていると言える。ぼくはこのような生活を過度に美化するつもりはない(実際に一緒にいると苛つくことさえある)が、やはりそれでもその事実に感動を覚えはする。しかしこのような生活もある程度の経済的な余裕によって成り立っているのも確かだ。国鉄職員だった祖父には退職後もずっと「恩給」というのが支払われていて、何と本人の死後も少額ながらその妻である祖母に支払われつづけている。(旧国鉄があれだけ膨大な借金を抱えているにの関わらずだ。)ぼくの両親と同居している祖母には、(年金+恩給があるので)普通に生活するのに経済的に困ることはまずないだろう。ぼくの父親は物心ついた頃に終戦を迎え、高度経済成長の初期に就職し、サラリーマンとして最も収入の多い年代がバブル景気と重なり、バブルが崩壊する頃には退職を迎えていた。つまり、たんに「経済的」な側面だけから見れば、最もおいしい世代であると言えよう。父は特に出世したというわけではない一介のサラリーマンで、ぼくがその遺産をあてにできる程の財産などありはしないが、しかしそれでも両親が自分たちの老後を不自由なく暮らせる程度の蓄えはあるはずだ。このような話が『アカルイミライ』とどう繋がるのかと言えば、今後の日本において、祖父母や両親が当然の前提のようにして生きていた「右肩上がりの経済成長」に基盤を置いたそのような社会的なシステムが作動し得なくなっているという事実がある、ということだ。ぼくの子供時代は、祖父母や両親の子供時代に比べれば比較にならないくらい経済的に「豊か」な生活を送っていたはずだが、しかし今後は、彼らが大人や老人として生きてきた生活に比べて、ずっと「貧しい」時代を生きるしかないのだと思う。一部の特権的な金持ちを除いて、社会全体が「貧乏」であるような時代に本格的に突入してゆくだろうという感覚が、日に日に強くなってゆく。「貧乏」であるということはつまり、収入も生活も「安定」しないということだろう。つまり、特別な能力があるわけでもない人物が、ただ勤勉に仕事をこなすことを続けるだけで、ある程度の財産を築くことが可能であるようなシステムは崩れたのだ。(一方で、資本主義は際限なく欲望を刺激しつづける。)このような社会のなかで「生」を生き、年齢を重ねてゆくのはとても過酷で困難な事であろう。しかし逆に考えれば、「貧しく」あることによって、共同体や資本主義と「より少なく」関係するだけで生きてゆける、あるいは、関係を全く別種のものとして構築し直す、という可能性が浮上してくるだろう。このような「貧しい」世界においては、「家族」との関係も「労働」との関わりも、以前とは異なったものとならざるを得ないからだ。『アカルイミライ』という作品が賭けられている「貧乏」さとは、このような意味のものだろう。
●『アカルイミライ』において最も輝かしい位置を与えられているのは、未だ何物でもなく、社会との接点すらもっていない高校生たちである。彼らの犯す「犯罪」は、世界との無媒介的な接触であり、官能的な歓びそのものであろう。彼らは警察に捕まっても、それは大した傷にはならない。しかしオダギリジョーにとってはそうではない。多少なりとも社会との接点をもつ彼にとって、犯罪は純粋な歓びとはならない。彼はすでに社会的な責任を背負わされているからだ。だが、そのオダギリも、未だ自分の「現実」を構築してはいないから、「ここからでは世界が見えない」とかなんとか言って藤竜也のもとから離れてゆく自由を有しているだろう。藤竜也にとっては、目の前の「現実」が動かすことも逃れることも出来ないものとしてある。彼に出来ることは、自分が存在するために、自分の責任において、自分のみすぼらしい現実を引き受けることだけだ。クラゲに「夢」を託そうとする藤は、クラゲに拒否され、刺されるだけだ。クラゲはクラゲであり、藤は藤でしかないからだ。個は個として、自らの貧しい現実を引き受けることしか出来ない。しかし、それでも個は個として、ほんの一瞬であっても他者と関係することが可能だし、その、個としての関係のなかで「他者の存在」を許すこと(肯定すること)が可能である。「お前」を許し「お前ら全て」を許す藤は、例えば高校生たちに殺されることがあっても、それを受け入れるだろう。未来は常に「明るい」が、それは「私」のためにではないからだ。しかしなんという過酷な世界であろうか。例え、藤の傍らに息子の亡霊がそっと寄り添っているとしても。
03/02/13(木)
(『アカルイミライ』について、ちょっと補足)
●ラストシーンで表参道を歩いている高校生たちは、川を下り海へと向かうクラゲたちと重ね合わせられているのだが、それだけではなくて、両親を殺され、たった一人でトンネルのような道を歩いている少女の姿とも重ね合わせられていることを忘れてはならないと思う。両親を失うことで、居場所も、保護してくれる人も失い、行く先のあてもなく街をさまよう少女。このショットは、悲しみというより、強いショックと不安の感覚を観客に与えるだろう。(世界は、浅野とオダギリと笹野との関係だけで出来ているのではない。)勿論この少女は、両親の死によって孤独になったのではない。社長の家を出た浅野忠信が振り返った後の、少女が一人で階段を登ってゆくショットが何よりも明確に示しているように、もともと一人だったのだ。ものすごく極端な言い方をしてしまえば、両親の死によって「あんな家庭」からようやく「解放された」とさえ言えるかもしれないのだ。しかしだとしても、その解放はあまりにも過酷であろう。たった一人で、どのような保護もなく世界と対峙してゆくには、彼女はまだあまりにも若すぎて、ただ寄る辺ない視線を宙にはわせて歩いているしかないのだ。ラストの高校生たちもまた、彼女と同等の寄る辺なさのなかを歩いているのだ。彼らは群れてはいるが、結局は一人一人でしかないし、前に向かって進んではいるが、どこか向かうべき方向が定まっているわけでもない。(おそらく、ここで行く当てもなく不安定に彷徨う少女や高校生たちは、相米が執拗に追い続けた少年、少女の姿と直接繋がっている。)親を殺されて、あてもなく彷徨う少女のショットと、ラストの高校生たちの歩くショットは、常にワンセットとして想起されなければならない。そうでなければ、少女はただひたすら悲惨であり、一方、ラストは、ただ「若者」たちに未来を託して終わりということになってしまう。『アカルイミライ』において、未来に対して開かれているということは、そのまま、現在の時点では、行く当てもなく寄る辺もないということと同じなのだ。(つまり、少女にとっても未来は「明るい」のだ。)
●一方に、まだ何物でもなく行く先のあてもない若者たちがいて、他方に、自分が迷い込んでしまった「現実」に対して、自己の責任において留まるしかない中年の男がいる。そして、未だ何物でもない者から、何かしら自身の「現実」を構築しはじめようと移行しつつある者がいる。藤竜也にとって揺るがしがたい現実として存在するリサイクル工場は、移行のただ中にいるオダギリジョーにとっては、体勢を立て直すために一時留まる(時間を宙づりにする)ための、川の流れの脇にある淀みのようなもの、一種のアジールとして機能する。『ニンゲン合格』のあの家(牧場)のように、『ユリイカ』のバスのように、オダギリにとってリサイクル工場は、移行の途中にほんの一瞬だけ浮かび上がる幻影のようなものであろう。『アカルイミライ』の藤-オダギリの関係は、『ユリイカ』の役所-宮崎将、あおいの関係と、さらにその発展形としての『月の砂漠』の家族の関係とに対応するだろう。しかしここで、黒沢清と青山真治との決定的な違いは、黒沢(的登場人物)においては、その場所における「関係」を、ある一定以上の期間「持続」させようという意志がないということだろうと思う。例えば『月の砂漠』には、林檎を買ってきて食べるという一人で出来る行為を、「父が林檎を買い、母がその皮をむき、子供が皆にそれを食べさせる」といった「約束」が必要で、それが家族という関係を支えているのだというセリフがあった。しかし『ニンゲン合格』に顕著にみられるように、黒沢にとっては(アジール的な場における)「関係」はほんの一瞬だけまぼろしのように成立し、すぐに消えて再び人々はバラバラに散ってゆくことになる。(『アカルイミライ』においては、藤が養子縁組を考えたのと同時に、オダギリは「ここを出て行く」ことを決意する。)黒沢にとって「関係」は偶発的なもの(あるいは「世界の規則」)であって「約束」(あるいは「「人間の規則」)によるものではない。(黒沢の映画は「世界の規則」を描くもので、「人間」を描くものではない。)黒沢がその作品の風土から、恋愛や性愛という要素をなるたけ排除しようとするのは、そのような「関係」に対するプラトニズムからくるのだろう。対して、青山は、人は恋愛や性愛を欲望するし、ある関係を持続させようと望み、そのために「物語」を必然的に必要とするのだ、と応じるだろう。(『ユリイカ』において、役所-あおいの関係は、あきらかに性的な吸引力によるものだし、役所-将の関係にも、同性愛的なニュアンスが色濃く漂っていた。斎藤陽一朗がラスト近くにバスから排除されるのは、役所-あおいが「二人きり」になりたかったからだとも言える。)そのとき、ある「関係」をより良いモノ(よりマシなモノ)にするために、既にある関係を「約束」によってあたらに作り直す必要があるし、物語をも、新たなモノとして語り直す必要があるのだ、と。
03/02/14(金)
●「群像」に載っていた、笠井潔と三浦雅士の対談『現代文学の最前線』をパラパラ眺めて、暗澹たる気持ちになりため息が出る。つまり「群像」としては、佐藤友哉や舞城王太郎などを「講談社ノベルス」の作家としてではなく、「群像」の作家として押しだしたいと考えていて、そのために、笠井氏にこれらの作家の登場してきた背景を語ってもらい、三浦氏によって「お墨付き」を得たい、ということなのだろうが、しかしこれではあんまりではないか。
《みんな、世界の不気味さ、私というものの不気味さをストレートに描くための手段として推理小説、探偵小説という形式を採用している。彼らが書こうとしているのは現代日本版『ライ麦畑でつかまえて』のようなものですが、そうするためには犯罪を主題にするほかなかった。心に傷を負った少年少女の、その傷が犯罪なり事件なりとして提示されるわけで、読者を惹きつけるのは犯罪や事件そのものよりも、心の傷のほうなんですね。あるいは犯罪や事件が心の傷の表象としてどれだけ鮮烈なものになっているかということ。/僕は、笠井さんが『海辺のカフカ』を表して、トラウマ少年がカルト的なものから逃れていかに自立してゆくかを描いた物語だと言ったのに感心したのですが、そういえば舞城王太郎も佐藤友哉も西尾維新も乙一も、みんなそうなんですね。》(三浦雅士の発言)
こんな言葉が、実際に舞城王太郎や佐藤友哉や西尾維新をちゃんと読んだ人の口から出てくるなんて信じられない。彼らの描く小説のどこが「トラウマ少年がカルト的なものから逃れていかに自立してゆくかを描いた物語」だというのだろうか。彼らの小説にもし本当に面白いところがあるとすれば、決してこんなに簡単に「把握」することなど出来ないという部分にこそあるはずではないのか。三浦氏は「西尾維新の登場人物の饒舌の背後にはものすごい悲哀を感じます。(略)ある意味では三島由紀夫が感じさせる悲哀に近い。饒舌が仮面の代わりになっているというか。」とも発言する。これは最も安易で表面的で詰まらない西尾作品の把握の仕方だと思うが、それはともかく、(既に歴史的な固有名として登録されている)三島と並べてしまったとたんに西尾維新の作品のもつ新しさと言うか、固有性というか、面白いところが見失われてしまい、たんなる「文学的な饒舌体」として把握されてしまうということが分からないのだろうか。
●『アカルイミライ』の話を無理矢理ひっぱるわけではないが、この笠井・三浦対談を読んで、ぼくは『アカルイミライ』で笹野高史が演じた「おしぼり工場の社長」を思い出した。彼は、「若者」である浅野忠信やオダギリジョーを「取り込む」ため、娘の机を運んでほしいとか何とか口実をつくって自宅へ食事に来させ、妻の手料理で迎え、お気に入りのCDを半ば強引に借り、さらにそれを粗雑に扱い、「君たちのことを少しは把握できた」などと口にし、あげく彼らの下宿にまで押し掛け、上がり込んで自分の若い頃の話を押しつけようとする。勿論彼のこのような行為は、たんに彼が「嫌な奴」だという人格的なことだけに帰着するような事柄ではなく、ある社会的なシステムの必然が彼にこのような行為を「強いて」いるわけだ。フリーターである彼らを正社員に採用して、さらに特別ボーナスまで出すというのだから、むしろ良心的な人物とさえ言えるのだろうが。黒沢清『アカルイミライ』
03/01/20(月)
●渋谷シネ・アミューズで、黒沢清『アカルイミライ』。そこに何か未知の驚くべきものが見えているわけではない。スクリーンの上に映し出されているものは、むしろ見慣れたものばかりだ。黒沢清は、新しいものを求めて常に移動してゆくような作家ではない。逆に、ほとんど同じ様なことばかりを、いつもいつも繰り返しているとさえ言えるだろう。しかし、その「同じ様なこと」が、その都度その都度、とまどうしかないような新鮮なものとして立ち上がってくる。この映画は、良いとか悪いとか、面白いとかつまらないとか言えない、とまどい、動揺するしかないような映画だ。だが、とまどい、動揺するのはあくまでそれを観ている観客であって、映画それ自身ではない。映画は、これ以外の形はありえないというほど、きっぱりと確信に満ちた様子で存在しているようにみえる。『アカルイミライ』を観ていると、黒沢清という人は、ほとんど「物語」を必要としていない人なのではないかとすら感じる。ここ数十年の間に世界中で次々と生産されてきた様々な物語の、その全ての息の根を止めてしまおうという、強靱な殺意のようなものが感じられる。
動揺を静めるために、黒沢清の最近の作品は二つの系列に分けてことが出ると、とりあえず言ってみることが可能だろう。一方に『CURE』や『カリスマ』、『降霊』、『回路』という系列。もう一方は『ニンゲン合格』や『大いなる幻影』のような系列。前者の系列を、いまさらジャンル映画の解体や脱構築などといっても意味はないが、しかしそれでも、いかに解体され尽くし、破綻していようと、これらの作品が、ジャンル映画の記憶や、あるいはジャンル映画を成立させていたシステムから、多くのものを得ていることには違いない。対して後者は、ジャンルという外枠はなく、明快な物語のラインも、人物の特徴もないまま、個々のシーン、個々のショットが、かろうじて繋げられているような作品であろう。(あえて言えば、それらの作品は、「現在」や「映画」を直接的に主題化している、と言える。)だがそれらのシーンやショットは、曖昧な気分やら予感やら感性やらで繋げられているのではなく、ひとつひとつが決定的な出来事として、我々の前にあらわれる。だから、はじめから物語を追い、そこに入り込むことを禁じられている観客は、その決定的な出来事を、ただじっと眺めていることが出来るだけだ。(感情移入という想像的な「介入」さえ許されない。その時観客は、物語内部に入って感情移入できない分、作家黒沢清に過剰に感情移入してしまいがちだという危険もあるのだが。)そして、『アカルイミライ』は後者の系列に属すると言えるだろう。だが、これらの二つの系列はたんに便宜上分けられるだけで、本質的な違いはない。黒沢作品は、どの作品のどの瞬間もそれぞれ似通ってはいるが、同時にそれぞれ決定的に違ってもいる。基本的に「同じ様なこと」を何度も反復する作家である黒沢清には、「代表作」という概念があてはまらない。あらゆる瞬間がそれぞれに決定的であり、だからこそ、どの特定の作品も特権的ではあり得ない。(ぼくの感じでは、最近の作品はだんだんと、初期の8?時代の作品、とくに『SCHOOL DAYS』の感触に近づいているように感じられる。)
『アカルイミライ』が、後者の系列のほかの2作品と大きく異なっている点は、「ユーモラスな感じ」や「余裕」が欠如しているということだろう。そしてその代わりに、ひとつひとつのショットが直接肌に擦れるような、あるいは振動が衝撃として伝わってくるような感じを観客に与える。これは主にデジタル・ビデオの画質と、その意識的な使用によるところが大きいと思われる。簡単に言えばDVの画像には「空間」が映らないように見える。かなりの「引き」のロングショットであっても、そこには広さや距離感、空気感といったものが映らずに、ただスクリーンの表面に色彩と形態がべっとりと染みついているような画面なのだ。このような画面を選択するということは、黒沢清の特長とも言える、空間的な演出をほぼ放棄するということでもある。ショットとショットのモンタージュは、空間の構成ではなく、イメージの明滅や切り替えの構成ということになる。そのような演出では客観的、即物的な「距離」が見えなくなってしまい、距離はまるで「夢」のなかのように蓋しかで、まさに盲目的に「手探り」で探られるしかないようなものになってしまうだろう。そしてこのことは、この映画の登場人物たちの関係(=距離)のあり方と当然重なってくる。このことが、彼らから、そしてこの映画から「ユーモア」や「余裕」を奪ってしまい、手探りの盲目性や、肌に直接打撃を与えるような暴力性を強調するのだ。黒沢清はあくまで黒沢清であり、ほとんど同じ様なことを反復するのだが、DVという現代的な映像の支持体が、黒沢清からある側面を強く引き出すということだろう。
(追記。空間の演出が全く放棄されているわけでは、当然ない。例えば、浅野忠信とオダギリジョーが社長の家に食事に呼ばれた帰り、社長の家からやや離れた場所で二人が振り返ると、ガラス戸越しに社長の家のダイニングの様子が見え、浅野がポツリと「嵐がおきるかもな」とか何とか言うシーンでは、見事な空間が演出されている。しかし、全体的にみると、黒沢的な空間の演出は、フィルムで撮られる作品とはあきらかに変質が生じている。そしてそれがそのまま、登場人物同士の関係にも影響しているようにみえる。)
『アカルイミライ』を観るという体験は、胸のあたりに低く重たい衝撃波をずんずんと感じ、その衝撃がじわじわと身体全体にひろがってゆくような体験だった。この映画を観ながら、ぼくは何度もあるフレーズを思いだしていた。それは「批評的世界」というHPの杉田さんが日記で引用している、次のようなベンヤミンの言葉だ。《事実カフカの語るように、無限の多くの希望があるのだが、ただ、ぼくたちのためにはない。この命題にはほんとうにカフカの希望が内在している。彼の輝くばかりの晴れやかさは、この命題から湧き出している。》(ベンヤミン「カフカについての手紙」)この世界には無限の「アカルイミライ」がある(あり得る)のだが、でもそれは決してぼくのためのものではない。世界には希望があるが、それはぼくのためにあるものではない。ぼくのためにあるわけではない希望が、しかし世界には無数に可能性として存在している。そしてそれだけがぼくの希望であり得る。『アカルイミライ』が指し示しているのは、そのような世界を生きる個人の「生」のかたちなのだと思う。ウイリアム・ピーター・ブラッディ『エクソシスト3』と黒沢清『CURE』
03/01/07(火)
●ウイリアム・ピーター・ブラッディの『エクソシスト3』をビデオで観直していた。
●映画では、一回性の、あるいはオリジナルの出来事など一切起こらない。それは初めから反復である。映画のカメラが、予想もしなかった出来事を偶然に撮影してしまうことはあるだろう。しかしそれが上映される時は、すでに事が終わった後であるし、偶然の出来事も、すでに編集によって意識的に操作され、流れのなかのしかるべき場所に置かれている。ホラー映画においては、壁に落ちる影ひとつさえ、恐怖をつくりだすために周到に操作され演出されているだろう。それでも、まるである取り返しのつかない事件が起こってしまった場所に偶然居合わせたかのような効果を観客に与えるにはどうしたらよいのか。一般にサプライズと呼ばれる効果によってそれはなされるのだろうが、しかしこれは安易に使われるとたんにふいをついて人を驚かすだけと変わらないものになってしまう。以上のような問題の、最も高度な、あるいは行き止まりとも言える解答を示しているのが、この映画の有名な、看護婦が殺害される前の長い時間、病院の廊下を延々と映し出すシーンであると言えるだろう。例えば黒沢清は、『CURE』のラストシーンにおいて、明らかにこのシーンを模倣している。
●『エクソシスト3』を観直して、この映画と『CURE』との関係の深さをあらためて思った。よく、「批判的に読み替える」というような言い方をするけど、『CURE』はまさに『エクソシスト3』を批判的に読み替えたような映画と言える。あまりにも装飾過多で重ったるく、成功しているとは言い難いとはいえ、大胆で刺激的な細部をいくつも持つ重要な作品である『エクソシスト3』の細部を、ごっそりと頂いた上でもっと面白くしてやろうという野心が、『CURE』を構想している時の黒沢清にはあったのではないだろうか。(公式的にはフライシャーを意識したことになっているし、それは嘘ではないだろうけど。)
●具体的なシーンで言えば、『CURE』の、病院の個室で役所公司と萩原聖人が対面するシーンの演出の基調になっているは、明らかに『エクソシスト3』の隔離病棟での刑事と犯人=悪魔の対面のシーンであると思う。(例えば、画面上での「水」の使われ方などはとても似ているのだが、その意味が違っている。『エクソシスト3』で悪魔を払うために使用される水=聖水が、『CURE』では逆に催眠を誘発する物質として使われていたりする。)しかし、キリスト教的な文化の厚みやその枠組みに多くを依存している『エクソシスト3』(なにしろ聖書のテクスト的解釈まで問題になっている)に対し、『CURE』には物語の構築上で頼るべき強固な参照元が存在しない。『エクソシスト3』において牧師が果たすような役割を、『CURE』では科学者=心理学者が受け持ってはいるが、『エクソシスト3』が最終的に宗教=キリスト=善の勝利によって終わるのに対し、『CURE』では科学=心理学は決して勝利できないばかりか、物語を支える枠組みにも成り得ない。つまり『CURE』は徹底して散文的、世俗的な空間のなかで起こる物語として構想されている。(そこには語りを安定させ、物語を収束させる「前提」が成立しない。)『エクソシスト3』の犯人=悪魔は、主に重度の精神障害者を操作することで犯行を行う。そして同時にこの映画では精神障害者は一種の聖性を帯びた存在としても描かれている。聖的で私欲が少なく「空っぽ」だからこそ操作しやすいというわけだ。(彼らはラジオ=電波によって受け取った命令に従って行動を起こす。)しかし『CURE』ではむしろありふれた人物こそが、「空っぽ」に成りきれない人物こそが催眠にかかってしまう。『エクソシスト3』では、悪魔によって操作される肉体に対して、その肉体の持ち主である精神が反抗し、そこにある種の葛藤が生まれるのだが(そしてその「葛藤」こそが悪魔を倒す)『CURE』では催眠にかかった人物の欲望が解放されて犯行へと至る。つまり抑制が解除されるのであって葛藤はない。『エクソシスト3』の物語を制御しているのは、神/悪魔、善/悪、霊/肉といったような2項のダイナミックな対立である。殺された肉体が切り刻まれたり、血をきれいに抜かれたり、内臓が取り去られたりするのは、霊に対するものとしての肉へのこだわりからだろうし、正義=掟に対する悪=侵犯ということでもあろう。それに、悪魔に乗っ取られたダミアンが、様々な声で話す(ダミアンの意識=霊が戻った時にはダミアンの声になる)というのも、肉体は容れ物であるが声には「霊」が宿っているという風な「音声中心主義」を思わせて興味深い。『CURE』の殺人者は殺してしまった肉体に対する興味はむしろ薄くそっけなくて(そもそも、霊/肉という2元論はなく、侵犯すべき掟もない)、殺し方の残虐性ではなく、いきなり「生命を絶ってしまう」という行為の暴力性の方が重要であるようにみえる。『CURE』において殺人を指示するのは「悪魔」のような強力な存在ではなく、たんに「殺すことで解放される」というちんけな「おしえ」でしかない。それは悪というより無機質なプログラムのようなもので、『A.I』において「愛する」ということがたんなるプログラムであったことと変わらない。(萩原聖人は悪魔の化身ではなく、たんに「おしえ」を媒介し伝導する者=空っぽな容器でしかない。つまり他人を操作して「殺人」を行わせようとする「主体」ではない。そういう意味では役所公司の刑事も、『エクソシスト3』の刑事ように悪への怒りによってではなく、たんに刑事という役割によって捜査しているだけのようにみえる。)だからこそ「おしえ」は、一旦作動しはじめるとどこまでも暴走する。「学校の怪談〜物の怪スペシャル」から、黒沢清監督の『花子さん』
01/8/20(月)
●ビテオで、「学校の怪談〜物の怪スペシャル」から、黒沢清監督の『花子さん』。(注意、ネタバレしまくり。)あらゆるショット、あらゆる人物の行動や言葉などが、ただそれとして投げ出されるようにしてあって、それらが特定の「意味」へと収束してゆくことないままで放置してあるような感じがとても面白い。(それぞれのシーンや人物の言動が、物語を構成するための要素としてあるのではなく、ただそれとしてある。それでもそれらがいくつか重ねられると物語は発動する。しかし、それぞれのシーンや人物の言動が物語のなかでどのような位置をしめるのかは、依然として不確定なままであるのだ。)
例えば、登場する4人の人物が何故、わざわざあの廃校になった中学まで出掛けて行ったのか、と言う物語の前提からして、充分に説明されているとは言えない。一応、中学時代に犯して、それ以降ずっと引っ掻っている行いに対する罪の意識を解消するために、「花子さん」を実施する、という目的は分るのだが、その目的は冒頭部分でさっさと済まされてしまっている。まるでそれは何かの始まりでしかなく、これから本格的に事を起こすのだ、とでもいうように、人物たちは大きめの教室に陣取り、パソコンをセットして何かを打ち込んだり、沢山のコンビニのビニール袋のような物を机の上に並べたりしていて、何かが始まりそうな気配ばかりが漂うのだが、彼らは一向に事を起こそうとはしないのだ。何かを共同して行うためにやって来たはずの彼らは、すぐにバラけて、1人1人が思い思いにフラフラしはじめてしまう。
人物同士の関係も不思議だ。一応恋人同士であるとされる男女は、しかし、まるで互いの存在に気付かないかのように行動し、一言も言葉を交わさない。(ケンカしているという訳でもなさそうだ。)中学時代の新聞部の仲間だという2人の女の子(AとB)がいて、Aの年下のカレシであるCがいる。この3人で物語は始まるのだが、3人一緒にいても、言葉を交わすのはいつも、AとBか、BとCであって、AとCという組合わせがないのだ。Cという人物はいわば部外者であって、Aとの関係があるからこそこの場にいるはずなのに、AとCとはまるで両立し得ない異なる次元の存在であって、Bという媒介によって辛うじて同じ場所にいるように見えているだけだ、とでもいう感じなのだ。
そこへ、一番最後にやってきて、一番最初に消えてしまうDという男(同級生)があらわれる。4人は一応、一つの集団を形成しているはずなのだが、この作品では一度も、4人が一同に会することがない。後から来たDは、一対一でしか人と対面しない。と言うか、この作品は4人の人物による集団劇にみえるのだが、実は登場人物たちはそれぞれ一対一でしか人と対応していないのだ。4人のうち、少なくともA、B、D、の3人は「過去」を共有しているはずで、その共有している「過去」によって、この場に集まっているはずなのだが、3人の過去に対する言葉は一致することがなく、だから共通のパースペクティブを持った「過去」が、観ている側に対して明確に示されることはない。AとB、AとD、BとC、BとD、CとD、(AとC、という組合わせはないのだ)という、それぞれの組合わせで語られる過去に関する断片的な言葉は、その都度異なった部分で重なり、異なった部分でズレをみせるので、過去についての「一つの物語」を語り得る地平を形づくる事ができない。彼らを結びつけているのは、どうやら「中学時代にいじめていた女の子の死」という出来事のようなのだが、それについて語られる言葉は一向に焦点を結ぶことがなく、まるで小津の、「あれはどうだった」「ああ、あれはよかったんだ」「そうか、よかったのか」のようなセリフのみたいに、ただ言葉が言葉として行き交うだけで、過去そのものへは全く届かない。加えて、この作品は20分足らずの短さにもかかわらず、何故こんなシーンがこの作品(この物語)に必要なのかよく分らないようなシーンがいくつかあって(たとえば、屋上でDがCに、結婚式の祝儀袋に名前を書いてもらうシーンとか)、そんなこんなで乱反射が激しく、ホラーというより不条理劇に近い様相さえみせている。
しかし、この作品は全てを曖昧に済ませてしまっいる訳でない。物語の不在の中心であり、消失点でもあるはずの、「中学時代にいじめていて自殺した女の子」の「顔」を、学生時代の写真として、具体的にきちんと見せているのだ。見せるべきものは、きっちりと見せる、と言うのが黒沢氏の演出であるとしたら、この作品で、最も「見せるべき」ものだとされているのは、この女の子の「顔」なのではないのだろうか。この「顔」の顕示が、ぼくにはこの作品中最もショッキングなものに思えた。「あいつ、どんな顔してたっけ」とか何とか言って、男がアルバムのページをめくり始めた時、えっ、顔を見せるのか、ここでヘタな顔を見せたら台無しになってしまうぞ、とドキドキしたのだが、しっかりと予想を上回る「顔」を見せてくれるのだ。この「顔」を選択するには相当気を使ったのではないだろうか。ここで「顔」をしっかりと見せることで、人物たちの噛み合わない会話や不可解な行動が上滑りにならずに成立するのだろう。(それを見た者全てを消してしまう、と言う花子さんの顔を示すことは、原理的に不可能である訳だからなおさらだ。)しかしもっと突っ込んで考えると、この「顔」が本当にその女の子の顔である、という保障は、実は何処にもないのだ。過去とも、過去に関する言説とも無関係に、ただ、この「顔」だけがある、のかも。
過去についての登場人物たちの言葉は、「過去」そのものについては全く焦点を結ばないのだが、「過去に対する態度」の違いは明確にさせる。Cは、「花子さん」という儀式によって、過去をすっきりと忘れてしまおうとしているのに対して、Aは、逆に儀式によって「いろいろと嫌な事」を思い出した、これらを都合良く忘れることなど許されない、と言う。そしてDはと言えば、どうやら自分に都合の良いように過去の記憶を書き換えてしまっている気配なのだ。(全く、「歴史」に対する態度というのは、どこでもこのようなものなのだ。)しかし、主体による「過去への態度」がどのようなものであっても、そんなこととは無関係に、「過去」は等しく彼らに回帰してくるのだった。
この作品でまた面白いのは、非世界的存在=幽霊が、複数存在する、ということだ。ここで登場する「花子さん」と「女の子の幽霊」は、全く別のものであって、けっして共同して人間をやっつけた(復讐した)訳ではない、という点を忘れてはならない。(加えてもう一つ、人間には全く無関心な、ただ廃校でウロウロと走り廻っているだけの学生服姿の幽霊もいる。)花子さんと幽霊は、丁度、AとCとが、同じ場所に居ながらも決して「関係する」ことがないのと同じように、たまたま同じ時空に現れた次元の異なる存在であると言える。(AとCと同時に関係し、花子さんと幽霊とを同時に見ているのは、ただBという媒介的な人物だけなのだ。)花子さんは、あくまで花子さんの原理に従って呼び出され、自分の原理に従って作動しているだけだし、幽霊もまた、自身の原理によって出現し作動しているだけなのだ。しかし、これらの2つの非世界的な存在の異質な原理が偶然に重なり、たまたま同時に作動してしまったことによって、人はそこから逃れる術を失ってしまったのだった。つまり、黒沢清氏の言う「運命」とは、世界の原理と偶然とが重なり合う場所に出現するもののことなのだ。黒沢清著の『映画はおそろしい』について、気になったこと。
01/3/3(土)
●黒沢清著の『映画はおそろしい』をパラパラと眺めていて思うのは、このようにして1冊の本としてまとめてしまうと、それぞれの文章が様々な媒体に発表された、初出のときに持っていた決して一様ではない粒立った輝きの多くは、どうしても失われてしまうのだなあ、ということだ。黒沢氏の文章は、どこまでが本気でどこまでがハッタリでどこまでが冗談なのか、それらの境界がおそらく御本人にさえ明確ではないような形で融合していて、それが独特のユーモアの感覚を醸し出しているのと同時に、書かれている内容以上に、こちらの情動を刺激し、働きかけてくるものになっていると思うのだが、その内容以上に働きかけてくる部分は、様々な媒体に散発的に発表されたときにこそ、その本領を発揮するものなのだ。
例えば、『映画と政治』と題された『ファンキー・モンキー・ティーチャー4』を巡って書かれた文章は、93年の『ルプレザンタシオン』に掲載されていたのだが、1冊の雑誌のなかで、いかにもそこだけ異質なもののように浮いていたこの文章を読んだときの衝撃というか、恥ずかしい言葉だけど「感動」のようなものをぼくは忘れることが出来ないのだ。単行本としてまとめられた本の1部分として読んでも、この文章は充分に刺激的なものなのだが、どこか「狙って」いて、いかにも「面白く」書いた文章であるかのようにもみえてしまう。しかし、この文章が書かれたのが93年だという事実を考えにいれると、その見え方が大きく変わるだろうと思う。
黒沢氏のフィルモグラフィーを見れば分るのだが、89年の『スウィート・ホーム』から94年の『893タクシー』までの間は、関西テレビ制作のテレビドラマを除くと、91年の『地獄の警備員』の1本しか映画を撮れていないのだ。これは多作で仕事が速いことを自認する黒沢氏にとっては異様な沈黙で、端的に言って「業界」からホされていた訳だ。つまり『映画と政治』という文章は、この黒沢氏の不遇時代の真只中に書かれた、という事実をまず押さえておかなければならないと思う。おそらく黒沢氏も、そしてクロサワ・マニアであったぼく自身もそうなのだが、映画監督としての黒沢清が今後どうなってしまうのか、映画を撮りつつけることができるのか、新作の登場が果たしていつになるのか、それは一体どんなものになるのか、全く先が見えずに暗中模索であった、まさにその時に、この文章は、このような文章が掲載される媒体としては異質なものと言えるだろう『ル・プレザンタシオン』の片隅に、いきなりという感じで載っていたのだった。
『ファンキー・モンキー・ティーチャー4』のような映画が、さも当たり前のように平然とつくられてしまう現場での、どう考えても異様な(しかも誰もそれを異様だとは思っていない)事態の進行を、驚きとともに記述した後、《我々に白か黒かの選択を迫り、同時に白を黒と言いくるめもするある作用》を「政治」だとして、《経済には見捨てられ、文化からもとり残された映画は、最後にこの作用だけをふりかざして生き延びてゆくのかもしれない。もしそうなら、私は大いなる感動と恐怖をもってこの"政治"を受け入れよう。》という、颯爽としていて、かつ悲壮感漂う宣言で結ばれるこの文章が、どれだけ感動的で、我々に(ぼくに)、これまたひどく恥ずかしい言葉になってしまうが、どれだけ「勇気」のようなものを与えたのか、ということは、本としてまとめられた後では全くみえなくなっしまうのだ。そしてこの「宣言」は、たんなる宣言に終わらず、その後のVシネマ多作時代によって、全くその通りに実践(実戦)されるのだった。ぼく個人としても、レンタル・ビデオ店に『勝手にしやがれ』シリーズの新作が並んでいるのを見る度に、この文章のことを思い出し、ああ、クロサワはやっているのだ、と思い、訳もなく興奮したのだった。
これは全くの余談で、個人的なつまらない事なのだが、93年という年は、ぼくが大学を追い出され(一応ちゃんと卒業ということになっているのだが、もっと長く居るつもりだったし、当然そうさせてもらえるものだと思っていたのだった)、個人的にも色々な出来事が重なり、(これは今でもそうなのだが)先行きの見通しも全然たたずに、ぼくのパッとしない人生のなかでも最も暗く落ち込んだ日々を送っていた年でもあり、個人的にこの『政治と映画』という文章にどれだけ「励まされた(刺激された)」(またしてもスゲー恥ずかしい言葉だ)かは、計り知れないのだった。
何かつまらない思い出話のようなものになってしまったのだが、ぼくが言いたかったのは、それぞれの文脈で、それぞれ別個の意味や輝きを持っているものたちの微妙な「差異」が、事後的に同一平面上に並べられてしまうと、すっかりと覆い隠されてみえなくなってしまうのだ、と言う事で、しかし実は、文章そのもののリテラルな内容よりも、少なくとも黒沢氏の文章に関しては、見えなくなってしまった「意味」の方がずっと重要なのではないか、と言う事なのだ。確か黒沢氏も、前著『映像のカリスマ』で、ひとつひとつのショットとして観ると、そこに驚くべき出来事が写っているように思えたショットが、編集してしまうと、いとも簡単に「普通の映画(普通の場面)」になってしまうのだ、と言うようなことを書いていたと記憶している。そして、単純に1冊の「本」として読んだとき、前著『映像のカリスマ』の方が、新著『映画はおそろしい』よりもずっと、多くの「微妙な差異」の痕跡を濃厚にと留めてるように思えるのだが、その違いは、編集によるものなのか、それとも黒沢氏の文章そのものに、初期のもの程の「切れ」がなくなっているのか、について判断は、もっときちんと検討されなければならないかもしれない。黒沢清と「悪魔」
01/3/1(木)
●ぼくが思い付く限りで、黒沢清が映画作品について「悪魔」という言葉を書き付けたことが2度ある。1つは、「カイエ・デュ・シネマ」の最新号で青山真治の『ユリイカ』について書いた文章で、もう1つは自身の著作『映画はおそろしい』に収録されたアンゲロプロスの『ユリシーズの瞳』についの文章。意識的にか無意識にか知らないが、黒沢氏はこの2本の映画を共に同じ「悪魔」という言葉で表している。
「カイエ」での『ユリイカ』評では、『ユリイカ』は他の映画と全く違うもので、アンゲロプロスとも違うとはっきり書いているのだが、ここで言う「アンゲロプロス」とはおそらく、アンゲロプロスの映画全体の構造というか、最初から最後まで通して観た時に体験する時間の質のことを言っているであって、一方、『映画はおそろしい』でのアンゲロプロス評では、彼の映画における「串」の時間について言っていて、前者と後者では同じ「アンゲロプロス」でも多少違っていて、後者の「悪魔」と名付けられたアンゲロプロスと『ユリイカ』の間に、黒沢氏は何かしらの共通したものを観ているように思う。
アンゲロプロスのおそろしく長いショットでは、1つのショットのなかに、複数の場所、複数の時間における複数の出来事が詰め込まれ、それが「串刺し」にされているのだが、その長いショットで魅惑的なのは、ある出来事からもう1つの出来事へと移行する間の、宙ぶらりんとも言える、いわば「串刺し」の「串」にあたる時間だと、黒沢氏は言う。多くの場合、登場人物が歩いて移動するのをカメラが追い掛けるという形をとるこの「串」の時間において、人物は登場人物であることをふとやめてしまい、かといって地の俳優自身に戻る訳でもない、何とも言えない中途半端な状態になるのだと、黒沢氏は述べる。このような、時間がどろりと流れだすような「串」の時間を露出させてしまうようなアンゲロプロスのことを《まったく悪魔の成せるわざだ》とする。
《この串こそがつまり映画なのだ、と言うことを禁じようと思う。もしこれが映画の正体であるならば、いったい百年かけて築き上げてきた我々のよく知っているアレは何だと言うのだ?》
こういうどろどろで未分化な時間のカタマリのようなものを、我々はただ「体験」することしか出来ない。例えば作品の構造や演出の意図・狙いのようなものなら、それを明確に分析・記述して検討することが出来るし、1つ1つの細部としてなら、それらを繊細に描写して対象化し、味わい直すことも出来るだろうが、未分化で不定形のどろりとした「串」の時間は、ただそれを浴びることができるだけで、そのことについて語るどころか、その存在を意識し、対象化することさえ困難であるようなもの、しかし確実に体験されるもの、としてある。
だが実際には、アンゲロプロスにしたところで、このような時間、映画にとってヤバい「悪魔」の時間が出現するのは、一本の作品のなかで何度かあるに過ぎず、そのような時間を出現させる(内包する)ためにも、映画はとても厳密に知的(言語的)に構築されているのだった。
にもかかわらず、『ユリイカ』という映画は何なのだ。ほとんど何も起こらない「串」の時間のようなものばかりで出来ているではないか。いや、我々は「串」の時間ばかりで出来ているような映画を他に知らない訳ではない。例えばソクーロフ。しかし彼はあくまで「芸術」という衣をまとっていて、特権的な時間を体験させるために、我々に平然と苛酷なまでの退屈を強いてくるのだが、『ユリイカ』は、面白いのかどうかは知らないが、3時間半以上の時間を全く飽きさせないままで観せてしまうではないか。これは一体どういうことか。人々(私)は、何故このようなものを退屈せずにすんなりと受け入れてしまうのか。もし多くの人が、このような時間をすんなりと受け入れるようになってしまったら、我々の知っているアレ、あの「映画」というものは、ほとんど意味がなくなってしまうではないのか。と、おそらくこれが黒沢氏による『ユリイカ』の評価だろうと思う。
《私という個人にとっては・・・多分悪魔だ》と黒沢氏は書くのだが、黒沢氏自身も、実はこのような「悪魔」の時間に少なからず侵されてしまっているのは『復讐・消えない傷痕』や『蜘蛛の瞳』、『大いなる幻影』といった作品を観てみれば明らかだろうと思う。部分的には、悪魔の時間を作品の内部に招き入れるのに充分に成功してしまっているように思える。しかしこれらの作品は皆、80〜90分程度の長さにきちんと納まっていて、つまりは上映時間という「外枠」によって「映画」であることが守られている。『大いなる幻影』には、ハルとミチが公園で遊んでいる(遊んでいる?)とんでもなく大胆なシーンがあるのだが、しかし結局このシーンは、作品のなかで「ひどく変なシーン」という位置に留まっていて、このシーンのとんでもなさが作品全体にまで波及するというところまでは至らなかった。(そんなことなっていたら、とんでもなく恐ろしい「失敗作」になってしまっただろうが。)『大いなる幻影』についてのインタビューに確か「好きなように撮って、好きなように繋いだら、90分になってしまった」という発言があったように記憶しているのだが、黒沢氏は自らのこのような体質を、自分の特徴であるとともに、限界だとも感じているのではないか。『ユリイカ』に対する大げさな(勿論、意図的に大げさに、揶揄をも込めて書いているのだろうが)評価には、このような自意識も絡んでいるのだろう。
『ユリイカ』に対する黒沢氏の評価が的確であるかは、ここでは問わない。重要なのは、『ユリイカ』による刺激を黒沢氏がどのように捉え、どう変化したのかというところにあるだろう。そして『回路』という作品にそれをみることができる。黒沢氏は、青山氏とは別の方向へとシフトする。『回路』においては、『復讐』シリーズの辺りから持続的になされていた「悪魔の時間」に関する探究が前面から退いて、別の要素、複数のシステムが同時に、しかもバラバラに機能して、それらが不意に、ショートしたり、ズレたり、出会いそこなったり、機能不全を起こしたりする、というようなもの、いわば、仕掛けを沢山仕掛けるのだが、それらのそれぞれの機能については制御しない、構成的だけど構築的ではない、というようなものへと変化しているように思う。それは、ネオ・リアリズモ以来のリアリズム映画の時間の延長、映画の内部に現実の時間が入り込んでしまい(「悪魔」とは、このような事態の徹底化であるだろう)、それによってフォルムに崩れが生じる、という今までの黒沢氏の基本線からの逸脱(あるいは決別?跳躍?)を感じさせるものとなっている。勿論、このような要素は、『キュア』、『ニンゲン合格』、『カリスマ』などにもみられるのだが(両者のふしぎなバランスが魅力でもあった)、それがより徹底され、密度・濃度(そして混乱さえ)が増しているように思える。そしてそれがより過激な「崩れ」を呼び込んでもいるだろう。『回路』には、今までの黒沢氏が少なからず執着していた「悪魔」的なだらしなさ(過激なリアリズム)の追求とは別の方向へ歩みだしたのではないか、という予感を抱かせるものがある。ぼくは個人的に、「悪魔」的なだらしなさにずるずると惹かれてしまうような体質であるので、正直言うと、今後も黒沢氏に付いてゆくことができるのだろうか、という不安が、『回路』を観ている間じゅう消える事がなかったのだが。黒沢清の『回路』を巡ってのの3つ文章
ひとつめ。
01/2/13(火)
●新宿オスカー劇場で、黒沢清の『回路』を観た。正直、物凄く混乱してしまったのだった。上手く言葉にできる程、頭が整理されていないのだけど、いろんな意味でヤバい映画だなあ、という印象。これを「一度開かれた回路は、嫌でも作動しつづけてしまう(うろ憶え)」みたいなセリフから、「運命」のような黒沢的主題に絡めてみると、とても分り易い話ではあるのだが、そんな簡単なことでこの作品が割り切れるとは到底思えない。もう、黒沢は、映画なんてどうでもいい、と思っているのではないだろうか、というヤバさが、全編に漲っている、という感じ。ひとつひとつのショット、ひとつひとつのシーンが、驚くべき丁寧さと繊細さとで作り上げられているにも関わらず、全体としては恐ろしく荒んでいて投げやりで、何がどうなろうと知ったことじゃない、こうなってしまったことの責任を俺がとる必要なんかないでしょ、という感じに染め上げられている。いや、こんな言い方は、作家=黒沢に勝手に感情移入し過ぎてしまっているだけであまり意味かない。言い方をかえると、作品という1つの統一された組織が、外部からジワジワ侵入してくる様々なノイズに対しての「免疫」を放棄してしまって、しかしそれが死=解体というひとつの出来事に向かって収斂されるのではなく、身体のある部分は膨れあがり、ある部分溶けてなくなり、ある部分はぐずぐすに腐り、ある部分はカラカラに乾燥して、しかしそれでも平然と生き続ける、という風に、どうしようもなく異様な姿に変容してゆくのを、抵抗することなく受け入れてしまったような、そんなヤバさに思える。
黒沢はこの映画において、あきらかに(今までの作家=黒沢清をつくりあげてきた)何かしらの「抑制」を解いてしまったようにみえる。これはある意味で確かに凄いことなのだが、一方で、本当にこれでいいのかという疑問、というより不安、が強く残ってしまう。ふたつめ。
01/2/14(水)
●自然で素直な言葉というのは、気持ちが悪い。なぜなら、それは自分がすんなりと相手に受け入れられるのが当然だという顔つきをしているからだ。自然と口から溢れた素直な言葉が通じないとしたら、それは相手の心が歪んでいるからだ、とでも言うように。しかし、言葉というものが本来自然なものではない以上、それがもしも、するっと自然に通じてしまうとしたら、そこには何かとてつもなくヤバいシステムが働いているせいだ、と考えるべきではないだろうか。他人の言葉を聞いたり読んだりすることは、とても負荷のかかるかったるいことであるはずなのだ。「素直に心に響く言葉」なんてものがあったら、まずそれこそが疑われなければならないだろう。
●矢部史郎と山の手緑による『無産大衆神髄』(河出書房新社)では、言葉の「速度」というものが問題になっていた。例えば、東京都が行った大規模な防災訓練「ビッグレスキュー東京2000」について。《東京都が何を言うかと言えば、「災害に備える」とか「防災」とか言うんです。その言葉の速度を問題にしたい。「防災」はすごく速い。速いということは、非常に優れた踏破能力を持っていて、瞬時に誰もが理解して、同意してしまう。こういう言葉に反対したい。》《「ビッグレスキュー東京2000」は、自衛隊の演習だったというだけでなく、「防災」という言葉が、どれだけ都民の同意を取りつけるかとう演習だったと思うんです。それは同意を取り付けるというより捕獲する...》《監視行動に対する石原のコメントというのがあって、「反対派は都民の冷笑を買っていた、見ていて愉快だった。」というわけです。ここで強調されているのは、「冷笑」とか「愉快」という言葉の速度です。》
ここで速度が重要なのは、人に、立ち止って考える時間を与えない、というところだ。速度が、考える時間を「奪う」というか。うだうだと何かを考えるという面倒な作業を省略して、ぱっと、愉快とか不愉快とかいう生理的な反応に繋げてしまうこと。速度のある言葉は、イエスかノーかの答えを即座に出すことを要求してくる。しかし、その速度に負けて、即答してしまったら、それがイエスだろうがノーだろうが、もう既に罠にはまっている。うだうだと、あーでもない、こーでもないと言って、時間を稼がなければならないだろう。例えば「理屈抜きに感動してしまった」とか言うとき、もしその「感動」に何かしらの意味がると思うのならば、無理矢理にでもその理屈を「考え」なければいけないと思う。
●以前の日記(01/1/29)に書いたけど、『BT』(2月号)に載っていた吉本ばななの文章が「気持ち悪」かったのは、それが完璧なまでに他者に対する緊張を欠いていた、ということだけでなく、上記の石原発言と同質の、人がそれについて考えようとするのを拒否して、強引に、即座に生理的な反応としての答えを出すように仕組まれていたからだ、ということに気付いた。だからこの文章に対する解答は、即座に、イエスかノーかの形で出されなければならず、イエスとノー以外の答えは用意されていない。「そうだよ、ばななの言う通りだよ、いいこと言うなあ、ぼくもそう思ってたよ」と共感的な反応をするか、そうでない人は、おそらく2、3行読んでそれ以上は読むのをやめてしまい、そんな文章のことなどすぐに忘れてしまうだろう。しかし本当は、イエスかノーかで答えてしまってはいけないのだ。即答することは、その言葉の速度に負けてしまったことになる。「批評」という行為にもし意味があるとしたら、即答することを避けてうだうだと文句を並べることで、そこに強引に「時間」を捩じ込むというところにあるのではないか。だから多分、その「内容」よりも、「うだうだ」そのものに意味があるのだ。
では何故、速い言葉やイエス、ノーによる即答が駄目なのか。速い言葉は素早く流通する。とても効率が良いのではないか。しかし、ある言葉が効率よく流通するには「共通の地盤」が必要だろう。と言うか、ある言葉が素早く流通することで、そこにあたかも「共通の地盤」が存在するかのように思い込んでしまうのだ。速い言葉は、本来デコボコや断層のある土地を平坦に均してしまう。いままで存在したデコボコや断層がなくなるという訳ではなくて、平坦に均す、と言うのはつまり、デコボコや断層を「黙殺」する、ということだ。速い言葉は、実際にそこにある筈の、様々な含み、様々な関係の縺れ合い、様々な揺れや波だち、マイナーな衝突や波瀾や破綻、等を、存在に値しないのとして沈黙へと沈めてしまう。速いことばは差異を殺す。だから、速い言葉に抵抗してうだうだと考えるということは、そこに、様々な小さな差異が存在するためのスペースを何とか確保するための行為でもあるのだ。
●ぼくは、この文章を黒沢清の『回路』に繋げようと思って書き出したのだが、上手く繋がるだろうか。『回路』の幽霊たちは、いわば黙殺されてしまった微少な差異が、大挙して回帰してきたようなものだろう。彼らの送ってくる「助けて」というメッセージには「内容」は何もない。彼らは、人間が彼らを助けることなど出来ないことをよく知っている筈ではないか。だから「助けて」という言葉は、ただ、私はここにいる、私は「実在」するのだ、と言っているだけなのだ。(この幽霊たちは、『CURE』の役所広司の妻と直接繋がっている。彼女は、行き着けの病院への道に迷ったり、ある本を知っていると言ったり、知らないと言ったりするし、空の洗濯機を回し、マナの肉を食卓に出すのだが、それらの行為は何も意味しないし、奥深い秘密がある訳でもない。彼女はただシステムが円滑に作動するところに違和を挿し挟んでいるだけだ。そのようなシステムのズレこそが彼女の「存在」そのものであるのだ。実在する差異というか。)幽霊たちは、自分たちは存在するのだと主張する以外には、人間に対して何の危害も加えることがない。にも関わらず、人間は、彼らが存在してしまうことに何故か耐えられないのだった。『回路』の物語は、誰がみたって破綻している。人間たちは、死んだ後も孤独なままで永遠に存在し続けなければならないことを知り、絶望して次々と自殺をする。死が、何の解決にも逃げ場にもならないことを知っているのに、何故か人々はそこへと雪崩込んでゆくのだ。つまり次々と人々が死んでゆく「理由」はまったくの不条理でしかないのだ。このような物語上の根本的な、致命的な破綻を、黒沢は隠そうともしないで、むしろ堂々と映画の中心に据えている。物語上のことだけではない。この映画では至るところに破綻が顔を覗かせている。破綻こそが、『回路』の主役であり、主題でもあると言ってよいのかもしれない。システムは作動している。しかしそれとは全く別の次元で破綻は無数に「存在」している。それがこの映画であり、この世界である。みっつめ。
01/2/16(金)
●ぼくは、2/13の日記で、黒沢清の『回路』において、黒沢がいままで持っていた、何かしらの「抑制」を解いてしまったようにみえる、と書いたのたが、その「抑制」について、少しばかり具体的に考えてみたい。とりあえず2つのことについて。
一つは、誰がみても明らかな「デジタル技術」の大胆な導入、ということが挙げられるのではないか。以前の黒沢は、その独自のリアリズムの考えから、実写映画においては、現実に存在する物が写り込む、ということの説得力=リアリティを、例えばアニメーションなどと比較して、強調していたように思う。『スウィートホーム』のようなウェルメイドのホラーはとりあえず別にして、過去の黒沢作品においては、CGやデジタル合成なとが作品の本質的な部分に関わる事はほとんどなかったように記憶している。『カリスマ』のCCは、、あまりにチャチだったために御愛嬌という感じだし、『カリスマ』においては、CGは本質的な部分とはあまり関わりがなく、画面の彩りという感じが強くて、CGがなくても作品は充分成り立つのだが、『回路』では、もしデジタルな技術が導入されなかったとしたら、少なくとも現在のような形では決して成り立たないだろうというくらい、作品の構造の深い部分にまで関わっている。このような、ポストプロダクションの重視は、黒沢が以前から強調している、映画とは出来事の繋がりであり、編集で見せるなどということは、枝葉末節なことに過ぎない、という風な考え方が、大きく揺らいでしまうということになるのだ。そして、ここでさらに興味深いのは、デジタル的なハイテクが、身体的なハイテクとかなり密接に結びついた形で提出されている、ということだろう。あの驚くべき幽霊の動きが、デジタル技術と、舞踊家による身体運動の超絶技巧との結びつきによって実現された、ということや、あの落下のシーンが、デジタル技術とスタントによるアクションの組合わせによって可能になったことなどは注目に値するだろう。しかし、舞踊家によるアクロバティックなアクションのような、特権的な身体の露呈、という事態も、いままでの黒沢作品が慎重に回避していたものなのではなかっただろうか。
もう1つは、人間の身体と身体とが関係するときに放つ、ある濃厚な気配、要するに官能的な気配のようなものが、この作品からは強く感じられるということだ。正直言って、ぼくが『回路』を観て一番始めに驚いたのはこのことだった。いままでの黒沢作品では、これはもう例外なく、登場人物たちは、ポツンポツンとバラバラに存在していた。ある人物とある人物が近づき、密接に関わるようになったとしても、その人物たちのまわり濃厚な空気が漂うようなことは決してなかったのだ。ある肉体が、別の肉体を吸引したり拒絶したりするような、肉を持った身体による関係によってはじめて生じるような生々しい空気を発生させてしまうことを、黒沢は周到に避けていたのだ。それはおそらく、この気配というものが、ややもするとすぐに「心理」のほうへと雪崩込んでしまいがちだということと、そのテの気配をチラつかせると、観客はもう「人間」(によるドラマ)だけしか見なくなってはまうということから、それを禁じていたのだろう。まあ、何よりも、黒沢という人が実際にそのような「気配」が苦手ということもあるのかもしれないのだが。このことが黒沢の映画に、いつも禁欲的な張り詰めた空気を感じさせていた要因なのだろう。(黒沢の映画においては、ある身体が別の身体へ働きかけようとするときは、いきなり「殴る」という形式をとるのだった。黒沢にとっては、愛撫すること=殴ることだったのだ。)
しかし『回路』においては、例えば加藤晴彦と小雪が初めて出会うシーンから、もうはっきりと、お互いが身体的に引かれ合いながらも、遠慮とか躊躇とかいうものの介在によって距離を容易には縮めることが出来ず、その距離感が緊張をはらんで微妙に震えている、というような、つまりあの「恋愛」というものに至る直前の男女の間に発生する、独自な空気が流れているし、これは女性同士なのだが、有坂来瞳が手を伸ばして求め、それに応じて麻生久実子が有坂を「ぎゅっ」と抱き締めるなんていうシーンでは、ある人物が別の人物の存在をどうしても求めてしまわざるを得ないという時の「切実さ」のようなものが、画面からありありと伝わってくるのだが、まさかそんなものを黒沢の映画で見ることになるとは夢にも思わなかったので、ひどくビビッてしまう。いままでの黒沢作品では、カップルは最初からカップルであったのだが、『回路』では、加藤と小雪の関係が微妙に近くなったり離れたりする様が、まるで良質の恋愛映画のように生々しく演出されているではないか。勿論、だからといってこの映画が、ホラーにもかかわらず人間のドラマを中心に据えたものだ、ということでは少しもない。むしろ事態は逆なのであって、人間同士のドラマ(関係が生み出す生々しさ)は常に無機的な「幽霊」の(即物的な)侵入によって寸断されて無化され、砕けて散ってしまうのだ。つまりこの映画においては、人間同士の関係や、感情の生々しさが強烈に表に出てきたとしても、誰もそれを人間によるドラマとして読み取ることなど不可能であるくらいに、荒れ果てた地平が拡がっているのだった。
一方では、確実に生身の俳優による人間的な身体をめぐるシステムが働いているのだが、もう一方では、それを全く無意味なものにしてしまうような、非人間的というよりも、人間などとは無関係のシステムが同時に進行しているのだった。人間的なシステムを、生身の俳優が担っているとしたら、無-人間的なシステムは、デジタル的な技術によって顕在化されていて、その本質的に次元の異なるものたちが互いに重なり合ってしまう時に出現するのが、舞踊家による超絶的な身体=幽霊である、というのは、あまりに単純すぎる図式化ではあるのだが、『回路』という作品が、ある複数のシステムの衝突と、それらを制御する上位のシステムの不在とによる錯綜と破綻を、「描く=図示する」のではなく、作品の成立条件そのものとしてそれを引き受け、その直中を生きているような作品であることは間違いがないと思う。黒沢の映画は、増々凄いことになっている。この作品が成功しているとか、失敗しているとか、星いくつだとか、そんなことを言っても何の意味もないのは明らかだ。これはもう「映画」ですらない何かなのだ。黒沢は、なんて大胆でクレイジーな人なのだろうか。改めて、テレビで観た『CURE』
01/2/6(火)
●昨日の深夜というか、今日の早朝というか、テレビで黒沢清の『CURE』をやっていた。途中からなのだが、久しぶりに観て思ったのは、前に観た時の印象よりも、かなり観客を誘導するような、トリッキーなショット、トリッキーな組み立てが目についた、ということ。あ、ここで罠を仕掛けているな、とか、こっちでこうフって、こっちでこうオトすのか、とか、いわゆる黒沢的なリアリズム、出来事と出来事がぶっきらぼうにただ繋がっている、という感じとは違って、とても「親切」に作られているという感じだった。しかし、この親切さはやはり見せ掛けで、この映画の特徴は、外側はしっかりカチッとつくられているのに、内側はスカスカで捉えどころがない、という、まるで映画で語られる物語の内容を、映画の作られ方がそのままなぞっているいるような感じにあると思う。例えば、俳優の立ち位置や動き、ここまで歩いて行ってからセリフを喋って、次にテーブルのコップを取って水を飲み、振り返って少し間をおいてから次のセリフ、とか、そういうことはとても厳密に決まっているのに、その演技の内容、つまり俳優がその動きをどのように演じるのか、については、もしかしたら監督には何のイメージもなかったのではないか、とさえ思ってしまう。黒沢の映画には、どれも少なからずそういう感じはあるのだけど、この作品に関しては、外枠がしっかりと親切に組み立てられている分、外味と中味のズレというか、監督の要求する「動き=段取り」と、俳優の考えている「動き=演技」の不思議なすれ違いというか不一致感(それぞれが勝手に「別のこと」をやっている感じ)が、登場人物たちに、うつろで、何とも言えない不安定なアブナイ感じを醸し出させていて、それが物語の内容と、気味の悪いくらい重なっているのだ。役所広司が、妻が首吊りをしている幻影を見てしまった後に、クローズアップになるのだが、この時の役所広司の顔、顔を手で掻きむしりながら、何とも妙な顔つきをするのだが、一体監督の黒沢は本当にこんな演技を望んでいたのだろうか。ああ、なんだかとんでもない顔しちゃったよ、何考えてんだこの人は、とか思いながらも、黒沢は涼しい顔して、平然とOKを出してしまったりしているのではないだろうか。(例えば役所広司の演技は、決して空回りしている訳ではなく、むしろその演技によって、この刑事にあるしっかりした実在感が与えられているのだが、にも関わらずどこか「段取り」とは噛み合っていなくて、その噛み合っていないところが、しかし映画の内容とは見事に噛み合ってしまっている。)この映画の撮影には、そういう何かとんでもなく複雑で意地の悪いシステムが働いていたのではないだろうか。勿論、現場を見ていた訳でも、黒沢の考えを読める訳でもないのだから、勝手な想像に過ぎないのだけど、しかし『CURE』という映画に出ている俳優たちの、それこそ「世界のシステム」と、個人の感情=内実とが、バラバラに分裂してしまっているような感じをみると、どうしてもそんなことを考えたくなってしまうのだ。ビデオが出たので、黒沢清の『大いなる幻影』を観直してみた
00/10/24(火)
●ビデオが出たので、黒沢清の『大いなる幻影』を観直してみた。
確か、ベンヤミンが「小説とは、孤独のなかにいる個人によって書かれ、孤独のなにいる個人によって読まれる」という意味のことを書いていた。つまりそれは、社会的にスムースに流通している言葉や概念や感情などとは、ズレた場所が書かれ、読まれる、ということだろう。これは、小説というものがどんなものなのかをイメージするには、とても的確な言葉だろうと思うけど、実際には、小説は「文壇」に登録された人物によって書かれ、「文壇」によって価値が保障されたものとして配信される、社会的な機能(文学的というイメージを支える)をもったものなのだった。単純に、孤独な個人と、また別の孤独な個人とを繋ぐためには、具体的な流通機構が必要な訳だし。でも、そのような社会的な流通機構がうまく機能している時は、あたかも、個人によって書かれたものが、直接、別の個人に送り届けられたかのように錯覚することが可能なのだった。(逆に現在のように、小説の持つ社会的機能が危うくなっている時には、作家も読者も、その「社会的機能」に自覚的であることを強いられてとまう。)
では、「恋愛」において人は、孤独な個人と、また別の孤独な個人が、直接的に出会うということを体験するのではないか。しかし、実はそこでも、あらかじめ社会的に機能している「恋愛という形式」に沿った形でしか、2人は出会うことは出来ないのだ。(小説の価値が、文壇を通した「社会」によって保障されているように、異性の価値も「社会」によって保障される。勿論、個々の好みとかは、また別の話だけど。)だいたいが「孤独な個人」というものからして、ある時代ある社会に固有の形式であり形象である訳だし。
ある個人と、また別の個人とは、決して無媒介に直接出会うことは出来ない。しかし、無媒介で起こる直接的な邂逅という夢(幻影)を信じられないとしたら、小説が書かれる意味もないし、恋愛がなされる意味もない、ということになってしまう。(しかし実際は、そのような夢が信じられるかどうかを自身に問うたりする前に、作家はただ「書きたい」から小説を書いてしまうのだろうし、人はただ「したい」から恋愛をしてしまうのだろうけど。)
『大いなる幻影』は、とても理念的な映画だと言えるのではないか。ここでのハルとミチは、社会的な関係性から出来る限り遠い場所で存在している。例えば、『勝手にしやがれ』の哀川翔は、前田耕陽や洞口依子や大杉漣などとの関係によって「ユウさん」というキャラであるし、『蜘蛛の瞳』でさえ「復讐(の後)」によって特徴づけられる人物として設定されている。『地獄の警備員』のあの警備員だって、社会のなかで否応なく「怪物」として際立ってしまう人物である。しかしハルは、ただハルであるという以外に何の特徴も持たず、他者との関係によってキャラとしても立つことなく、ただただハルとして存在するのみだ。社会的な他者との関係によって自らの存在を主張しようとはせず、ただ存在する人物。つまりそれだと、ほとんど存在しないに等しいということになってしまう。ミチも同様に、社会的な他者との関係によって自らの存在を主張しようとはしない人物なのだが、自分の居る場所に埋没してゆき、消えてしまったりもするハルとは違って、いつも「ここではない何処か」を指向している。彼女は外国からの郵便物を盗んだり、外国人のカップルのゴタゴタに巻き込まれたり、サッカーのサポーターに着いていったりするのだが、それらは彼女の前を通り過ぎる風景のようなものに過ぎず、彼女は結局それらと出会うことは出来なくて、「ここ」に縛り付けられたままだ。(武田真治や唯野未歩子が黒沢映画としては例外的に生々しく迫ってくるのは、彼らが何の「役」も与えられていなくて、ほとんど手がかりもなくカメラの前に放り出されただけ、という感じだったからなのではないだろうか。)
ジャンル映画においては、刑事はあくまで刑事であるし、殺人者はあくまで殺人者であるだろう。もし刑事が、自らが刑事であることに疑問を持ち、悩み始めたとしても、それは彼にあらかじめ「刑事」という役が与えられているからこそ悩むのであって、何の役も与えられていなければ、悩むことさえ出来ない。何の「役」も与えられていない、ただ存在するだけの人物同士が、カップルとしての関係を結ぶこと。ここでは社会的な機構としての「恋愛」はその機能をぐずぐずに崩されてしまうだろう。にもかかわらず2人の関係が可能なのだとしたら、「孤独な個人」同士の邂逅に限りなく近い事態が出来するのではないのか。言い換えれば、超越的な第3項(役割を与え保障する「社会性」)抜きでの、たんに2つの存在の関係としての「恋愛」の可能性を探るための思考実験のようなものとして、この映画はあるのではないか。
いや、そんなことよりも、ただたんに2人の人物が存在する、ということの方が重要なのかもしれない。ただたんに存在するだけの人物、社会的にみればほとんど幽霊のようにしか存在しない人物を、どのようにしてカメラは捕らえることが出来るのか、物語は語ることができるのか、それこそが重要なのかもしれない。(実は、カメラは本当はそのようなものしか写すことは出来ないのだが。例えば「メジャーな芸能人で、スターという役割も立派にこなせる武田真治」ではなく、フィルムに写るのは、ただの「武田真治」でしかない。)だいたい、2人が関係した、だなんて言えるのだろうか。2人はただ一緒にいて、すれ違いを繰り返していただけではなかったか。とても素晴らしいラスト・ショット、2人が並んで腰を掛けているショットにしても、2人の視線は定かではなく、小津の『麦秋』で、年老いた夫婦が並んで腰を降ろして揃って風船を眺めるシーンとは違って、2人はバラバラの方向を向いていたのだったし。
10/25(水)
(ひきつづき、黒沢清の『大いなる幻影』について)
●『文藝』なんて雑誌は買っても読むところが全然ないし、間違ってチラッと読んだりするとあまりに馬鹿馬鹿しくて腹が立つだけなのだが、それでも丹生谷貴志の文芸時評が読みたいためだけに、ついつい買ってしまう。で、その『文藝』に青山真治と佐々木敦の対談が載っていて、対談の締めに佐々木敦が「黒沢清はたぶん世界が滅んでもいと思っているけど、青山真治は、世界は滅亡しちゃいけない、それは防がなければならないと思っている、ということが決定的な違いだ」みたいなことを言っていた。しかし、たかだか映画作家に世界の滅亡を救うことなんか出来るのたろうか。というより先に、何かを考える時に一々「世界の滅亡」をひきあいに出してくるのはどうかと思ってしまう。まあ、それが世紀末の昨今の流行りなのだろうが、しかし、『大いなる幻影』の舞台が2005年に設定されているのは、何よりもそのような思考法への批判であると思う。(せめて「青山には社会を少しでも良くしようという意志がある」とか、そのくらいにしとくべきではないか。)
何かあるとすぐに「世界の終わり」を口にするのは、何かあるとすぐに「死」を口にするのと同じくらいロマンチックでみっともない。例えば、ぼくが丹生谷貴志氏の文章にひかれるのは、彼が「死」を巡るロマンチックなおとぎ話とは無縁の思考を展開するからだ。
《崩壊の過程としての生を肯定すること。生と死との弁証法とは別の場所に出るために、或いは生とその「外部」とを巡る悲劇的なメロドラマと手を切るために、自らの「崩壊」と「老い」を内在的なゲームの規則として承認すること。「生の過程は、言うまでもなく、崩壊の過程である」。この、「言うまでもなく」という簡潔な断言を自らの舌の上にのせてみること。》(『死体は窓から投げ捨てよ、』)
ここにあるのは、崩壊の過程としての「生」と、その先にあるであろう機能停止であって、「死」とか「滅亡」とか言った「観念」ではない。おそらく黒沢は、「世界が滅びてもいいと思っている」のではなくて、「世界の滅亡については思考する必要がない」と考えているのだと思う。確か黒沢は、どこかのインタビューか何かで、自分の作品がフランスなどで、大友克洋みたいな終末論的なアニメーションに近いものとみられてしまうことへの強い違和感を表明してしたと記憶している。
●佐々木敦は「世界が終わってしまっても知ったこっちゃないよ、と彼は思っている」と発言している。まあ、確かに、黒沢清の作品には、いつも「知ったこっちゃないよ」という表現が適切であるような、投げやりさ、のようなものはあると思う。この「投げやりさ」は黒沢の映画から受ける感触を決定づける重要な要素で、青山真治は「黒沢さんは、映画の内部で完結させる」と言っているけど、むしろぼくの受ける感じでは、黒沢清の方が青山真治より「完結させていない」と思う。
ごく初期(8?)の頃から、黒沢のフィルムには、どちらかというと、乱暴で結果任せの無責任さとも言えるような、自分の撮ったものに対する、不思議に乾いた距離感のようなものがあって、それこそが独自の黒沢的感触をつくっているという感じがする。(だからシネフィルの監督であるにも関わらず、「フェティシズム」にも「ナルシズム」にも陥らないのではないか。)全てをコントロールしてしまわない、というか、自分では仕掛けだけを作っておいて、最後の最後がどうなるのかは「知ったこっちゃない」というか。キャストは選ばないとか、キャメラのフレームは覗かないとか、演技指導は段取りだけとか、そういうことも皆、投げやりさ、に関係しているのではないか。
黒沢の思考はいつも(撮影というレベルでも、説話的なレベルでも)、ギャップを生み出すような「不透明な層」(偶然とか他者とか怪物とか幽霊とか技術とかメディアとか)の存在を前提としているように思う。いくら黒沢が完璧なことを考えたとしても、カメラが撮るのは、その「考えたこと」ではなくて、実在する俳優やものや場所な訳だし、それを撮影するのは、どこまで意志を共有できているか不確かなカメラマンな訳で、そこには、どうしたってギャップがある。でも、ギャップに幻滅したり失望したり、それを適当に調整したりするのではなくて、むしろ積極的にそのギャップを利用すること、ギャップの存在を作品の原理とすること、ギャップを動力として作品を動かすこと、を基本的な「方法」としているようにみえる。つまり、自分の「考え」や「欲望」と、実際に出来上がる「フィルム」との間に、出来るだけ、距離というか隙間を開けておいて、そこから別の何かが侵入してくるのを期待している、のではないだろうか。「黒沢清映画講座」
00/9/17(日)
●上映された映画は『打鐘(ジャン)・2 男たちの激情』という競輪もののVシネマ作品。以前、恐らくビデオが発売(レンタル)された時期に1度だけ観ていたのだが、その時の印象は「なんか無理してるなあ」という感じで、あまり面白いとは思わなかったけど(むしろ観ていて辛い感じがあって、だから1度しか観ていないのだったが)、今回の上映で観て、思いのほか面白かった。ぼくの知っている限りでは、黒沢清がここまで自分をすっぱり捨て切って撮ったものは他にないのではないか、というほど気持ちよく自分を捨てて「型通りの物語をきちんと語る」ことに徹していて、「自分を捨てる」という行為そのものを楽しんでいる、という感じさえ漂っている。スローモーションはあるは、スクリーン・プロセスは使うは、音楽ガンガンで盛り上げるは、説明的なセリフや切り返しは多用されるは、なにより主人公の人物造形が黒沢の映画とは思えないものだったり。『893タクシー』では、まだ至る所に「黒沢」という署名が刻印されていると思えるのだが、ここでは徹底して雇われ仕事を職人として(半分含み笑いを浮かべつつも)こなすことに喜びを感じているようにみえた。黒沢はこの仕事で何かひと皮むけたというか、開き直ることが出来たのではないか。
しかし、ちょっと余裕ありげに職人仕事を楽しくこなした、ように見えるのは、あくまで現在までの黒沢の仕事の積み重ねを知っていて、そこから振り返ってみるからそうみえるのであって、当時の黒沢としては、監督として生きるか死ぬかの瀬戸際の必死のジャンプのようなものだったのかもしれないけど。
●質疑応答で興味深かったのは、「映画のリズムは、どんな出来事が、どのような順序で起きるのか、ということによって決定されるのであって、編集などでつくられるリズムは枝葉末節なものに過ぎない」という発言と、「映画をつくっていて、これで本当に良いのか、と不安になることはないのか」という質問に対する答えで「映画を撮っていて、このショットで本当に良いのか、という不安は、例えば誰でもが生きていてふと感じる、自分の人生は本当にこれで良いのか、という不安となんら変わりのないもので、つまりそんな不安は誰でもがもつありふれたもので、つまりは映画をつくる上での不安など何も特別なものではなく、だから大したことではない」というもの。
この2つの答えは、ぼくが黒沢に対して持っている信頼感をより一層確かなものとしてくれた。いや本当に立派な方だなあ。ちょっとでも気を緩めると、尊師として崇めたくなってしまうではないか。黒沢清『降霊』
00/7/9(日)
黒沢清『降霊』と那須博之『ビーバップ・ハイスクール/高校与太郎行進曲』をビデオで。
『降霊』はテレビで観て以来。放送時に観たときは、黒沢のホラー・テク満載ではあるものの、やや散漫な印象で、いまいち納得できない部分もあったのだけど、今回観て、それはぼくが黒沢にホラーとか犯罪物を期待していたせいだ、と分かった。黒沢本人がどう考えていようとも、黒沢清という人は、ジャンルに納まる人ではないし、物語を語る人でもないのだった。ホラーだったらもっと上手い人はいくらでもいるのだし。Vシネマ量産を経た後の、確かにヘンではあるものの、それなりに観客を納得させてしまう術を獲得した作品ばかりを観ていると忘れがちではあるけど、黒沢の映画は基本的に、恐怖とかサスペンスを盛り上げるとか、面白いお話を語るとかとは、無縁のものなのだった。
たんに幾つかのショットがあり、それを時間に沿って並べること。つまり映画とはそういうもので、それだけで映画は成り立ってしまうのだ、ということを大胆にというか、暴力的なほどぶっきらぼうに示しているのが黒沢の映画なのだった。この程度のことをやっておけば、あなたがたは、まあ、納得するのでしょう、という以上にお話を面白くしたり、恐怖を煽り立てたりはしない。重要なのはそこに一つのショットがあるということで、そのショットを存在させるための口実として、あるシステムやら、何やらが召喚されるのだと思う。(例えばその最も顕著な例として『大いなる幻影』がある。この映画は本当に、ただ幾つかのショットがあり、それが並べられている、というだけの単純な大胆さで、それ以外は何もないと言ってもいいのではないか。「空っぽさ」なんていう分りやすい概念すら、この映画には存在しないのではないか。)
勿論、聡明な黒沢なのだから『降霊』には幾つもの仕掛けが複雑に仕組まれてはいるし、それを分析するだけでも十分に面白いのだけど、そんなことよりも、風で乱れる木々のなかでベンチに座る夫婦のショットがあったり、地面に落ちている洗濯物を俯瞰で捕らえるショットがあったり、ラストの妙に確信に満ちた役所広司のクローズ・アップがあったり、えっ、と間抜けに反応する哀川翔のショットがあったり、台所であっちへ行ったりこっちへ来りする夫婦をカメラが追う長いショットがあったりすることの方がずっと重要で、何もそれらのショットが特別に美しいとか凄いとかいうことはないのにもかかわらず、しかしそれらは何故か確実に面白いもので、そういう1つ1つのショットがそれぞれに物理的な時間と限定されたフレームとを持っていて、つぎからつぎへと現れては消えてゆくのを、ただ淡々と眺めていることが、途方もなくスリリングなことなのだった。この感じはぼくに、形式は全く異なるのだけど、小津を思い出せるのだ。(そういえば小津っぽい切り返しが一箇所あった。)『カリスマ』について
『カリスマ』にとって重要なのは、何といっても「カリスマ」とよばれる木が2本登場することで、1本目のカリスマは、正当な出自の物語を持っているのに対して、2本目(これはナポレオン3世とは何の関係もない)はカリスマたる「根拠」を何ももたず、ただ役所広司によって勝手にカリスマと名付けられたにすぎないものだ。
1本目のカリスマを巡る物語は、「怪物的なもの」に対する様々な立場(怪物を高貴なものとして信仰する立場、怪物は全体を滅ぼすから排除するという立場。怪物の特異性を貨幣=交換価値へと還元しようとする立場)の争いとして描かれる。これは超越的なオブジェクトに対する従属としてサブジェクトがあらわれるという、典型的に近代的な、主体=従属というシステムである。役所は空っぽな主体として、それぞれの立場の間を循環する。しかし正当な怪物であるべきカリスマは、あっけなく焼失してしまい、それとともに対立も主体(立場)も消失する。(ここまでは典型的な「シャンル映画」の文法に忠実だ。)
超越的なオブジェクトの消失によって、あらゆる行為が無意味になってしまった時に、役所は初めて主体的な行動に出る。そこらにあるただの老木を「カリスマ」と名付けるのだ。それは何の意味も根拠もないままになされるナンセンスな「身ぶり」であり、(役所という主体からみれば)一種の、実存主義的な、不条理なジャンプ(決死の跳躍?)であるとも言える。これは、外側からみれば、全く意味も内容も欠いた空虚な行為に過ぎないはずで、当然当初は誰にも理解されないのだが、いつの間にかその空虚に、意味=交換価値が充填されてしまう。2本目のカリスマには、「中国の奥地から運ばれて来た貴重な種」という出自も、「自分が生きるために周囲の木を枯らしてしまう」という怪物性もない。にもかかわらず、1本目と同等の貨幣価値が生まれてしまう。(2本目をカリスマとする根拠は、ただ役所の身ぶりだけなのだ。)ここでは、ジジェクの言うような《いかなる<自然>あるいは<伝統>》も《確固たる基礎を私たちに与えてくれるいかなる実体的な象徴的「秩序」》も存在しない場所に、それらとは全く無関係に価値をつくりだしてしまう、《冷酷無比な「抽象的」で妖怪(幽霊)的》な資本主義のシステムの発動そのものが描かれている、と言えないだろうか。(ここでは「隠喩」が問題なのではなく「システム」が、1本の木を「固有名化」するシステムそのものが問題とされているのだ。)役所の実存を賭けた跳躍は、資本主義の妖怪的なシステムにあっさり飲み込まれてしまう。(役所は、自分の行ったナンセンスな跳躍が交換価値へと還元されてしまうのに抵抗するために、2本目のカリスマを爆破するのだが、そんなことでは何の抵抗にもならず、老木の下には新しい芽が生えているし、「あなた自身がカリスマだ」などと言われてしまいもする。一度生み出された無根拠にカリスマを生産するシステムは、オブジェクトが破壊されても無傷なまま作動する。)
映画の終盤は、このような抽象的で妖怪的なシステムが作動する場所での、メタ・レヴェルを失った人々の演じる、ドタバタ・コメディのような混乱が、意味も対立もない場所で起こる、卑小で最悪のテロの頻発へと至ってしまうところまで一気に突き進む。(映画は、最悪の結末へと向かうのだから、全てを包み込んでしまうシステムを、たんに肯定している訳ではないのは明らかだ。)『カリスマ』に弱い点があるとすれば、2本目のカリスマの前でする役所の「すべて、あるがままだ」という演説が、資本主義へのなしくずしの肯定(諦め、あるいは悟り)と読めてしまいかねない、という点(この点では、黒沢はいつも「際どい/危うい」位置をキープしている)と、ここでは、正に「あるがまま」の資本主義の妖怪的なシステムが描かれているだけで、それに抵抗する有効な「批評原理」は示されていなくて、いかにも「今日的」な、終末論的な感性に従うような結末を迎えてしまうのが、やや安易なのではいのか、という点にあると思われる。しかし、『カリスマ』に対する批評として、徹底して散文的な『大いなる幻影』があるのだ、と読むこともできる。
黒沢清『カリスマ』
00/3/14(火)
テアトル新宿で、黒沢清『カリスマ』。ようやく観ることができた。
たしか90年頃のことだと記憶しているけど、黒沢はゴダールの『ヌーヴェル・ヴァーグ』という映画について、『「 ヌーヴェル・ヴァーグ 」に細部はない、あるのは全体とシステムだけだ』という内容の文章を書いていた。当時ぼくには、黒沢が言おうとしてることを、イマイチ理解することが出来なかったのだけど、97年に製作された彼の出世作ともいえる『キュア』を観て、その意味がなんとなく理解出来たように思った。全体、という言葉がここで適当なのかどうか分らないが、『キュア』は明らかにシステムの映画なのだった。確かに『キュア』には魅力的な細部が沢山つまっているのだが、その細部の魅力にいちいち引っ掛かってしまうと、このとてつもなく恐ろしい映画の重要な部分を見逃してしまう。『キュア』以降の黒沢の映画が刺激的なのは、それが人に思考する事を強いるような記号の集合体(システム)としてあるからで、素直に面白がったり、映画的な官能性を味わったりするだけではすまされない。
ことに『カリスマ』は抽象的で図式的であることを隠そうとしない映画だ。あからさまに堂々と図式的な映画だ。(ぼくはゴダールの『カラビニエ』をちょっと思いだした。)この映画は、味わうことを拒絶し、考えろ、と、命令してくるような感じすらある。考えろ、と命令するといっても、何かしらのハッキリとした問題を提起し、それについて考えることを促す、というものではない。一応、共存や共生というテーマが描かれた、ということになってはいるのだけど、ことはそう簡単であるはずがない。根から強い毒素を分泌することで他の木を枯らして自分だけ生き残ろうとするカリスマの木は、森を守ろうとする女植物学者とその妹の策略によってあっさりと燃やされてしまうのだが、その後も、森の木はバタバタと倒れつづけるのだし、森全体を救おうとしているらしい植物学者自身からして、森の水源である井戸に、何やら毒物らしいものを投げ込んでいたりもする。主人公である元刑事は、何でもないただの枯れ木を第2のカリスマとして世話をしはじめる。周囲の人間は彼の行動を理解できない。にもかかわらず、いつの間にかその第2の木にまで2千万もの値がついてしまうし、植物学者は何の害もないはずのその木を、爆破しようと必死になる。最初のカリスマの木は、それが特別なもの(怪物)であることによって価値(意味)があり、また害(悪)でもあったのだけど、第2の木は、それ自体としては何ものでもないにもかかわらず、そこに何故か価値や悪が人によって見い出されて付与されてしまう。
この映画は、何か明確な問題を設定しようとするものではなく、何かが、問題としてフレーム化されようとしたとたんに、そのフレームを破壊してしまうような出来事が起こり、問題が問題として成立しなくなってしまう。この映画には、全体を超越的に把握しているような視点が存在せず、だからいつも足元から土台がさらさらと崩れていくように進行してゆく。我々はそんなものを安心して楽しんだり味わったりなど出来ない。目の前で起こっていることは一体何なのだ。これは一体どうなっているのだ。我々は常に画面上に起きていることに気をくばり、それについて思考をフル稼動させざるを得なくなる。『カリスマ』というどこまでも抽象的で図式的な映画がこんなにもリアルに感じられるのは、そのためだろう。つまりそれがシステムということであり、仕掛けというものなのだろう。
まあ、たんに黒沢清というのは変な人なのだ、といって片付けることも出来るかもしれないのだが、しかし、世の中に変な人というのは沢山いて、変な人のつくった変な映画というもの随分とあるのだけど、ここまでのものは、そうそうある訳ではない。今後、黒沢はいったい何処へ行ってしまうのか。(しかし、この映画の洞口依子の赤ずきんちゃん風の衣装って一体・・・しかも、それがぴったりと似合ってしまう洞口依子って・・・。)
3/15(水)
『カリスマ』という映画が今までの黒沢作品のなかで特に抽象的だと感じさせるのは、『森』という場所の抽象性にあると思う。実際には富士山麓の森で撮影されたそうだけど、それが実在する特定の何処かにある森ではなくて、何処でもなく、何処であってもよい『森』として描かれている。これは黒沢としては特異なことで、これまでの映画の舞台は大抵、何処という特定はされていないものの、それが現代の東京近郊の何処かであることは明らかであって、黒沢本人も『自分は東京の映画作家だから、自分の映画には混濁した東京の風景が映っているはずである』という主旨の発言をしている。
『カリスマ』における森という場所の抽象性は、考えてみれば、ハリウッドで製作される映画が、スタジオに組まれた壮大なセットと、デジタル処理によって獲得するような、場所の抽象性に近いのかもしれない。設定そのものも、ある抗争で混乱している地域に、外部から主人公がふらっとやってくる訳だから、これはもうあからさまにB級アクション物のそれだと言ってよい。『カリスマ』は黒沢の最もハリウッド的なフィルムだと言えるのだろうか。
確かに主役以外の登場人物は皆、謎めいてはいるものの、彼らはただ忠実に自分に与えられた役割を果たそうとするだけだ。植林業者やプラントハンターは、自分の利益に忠実に行動するだけだし、植物学者は、森全体を救うという使命に燃えている。狂信的な青年はひたすらカリスマの木を守ろうとするし、おまけにお決まりの謎の美女まで登場する。だとすると、『カリスマ』は、たんにハリウッドのジャンル物の黒沢流の換骨奪胎でしかないというのだろうか。(それはそれで好きなのだけど)
ある程度は、そうだと言えるだろう。『カリスマ』は、かなり面白いものではあっても、ある所までは、ジャンル物に対する彼の独自に屈折した(しかし、あまりにも屈折し過ぎ)距離感でつくられた、あえて言えばポストモダン風の建築物でしかないだろう。しかし『カリスマ』はそのまますんなりと終わってはくれない。事態は、2本目のカリスマの木の出現とともに混乱の度合いを増す。
主人公の元刑事は、カリスマの木があっさりと焼かれてしまった後、何でもないただの枯れ木を、カリスマとして世話しはじめる。それと同時に、『カリスマ』の世界はジャンル物の映画としての拠り所を一気に失ってしまう。それぞれの登場人物たちは、自らの役割を見失ってどんどん迷走しはじめる。これ以降『カリスマ』の世界には、ジャンルの規則も映画の規則も通用しない、ただ複数の人々が勝手に動き出すことで起こる、いくつもの力の流れがあるだけだ、という空間になってしまう。ここで黒沢的な暴力が画面を走り抜け、役割から解放され自由になった人物たちが、一体どうしたらよいのか分らず、混乱して右往左往する、リアルで、真に政治的な空間が出現するのだ。そしてこの、どうもこうもない拠り所のない空間が、次回作である『大いなる幻影』へと直接繋がっている、と思う。
(黒沢清はとても暴力的な作家だと思う。例えばタランティーノの映画で、どんなに人が銃で撃たれようが、血しぶきが舞い上がろうが、誰も驚きはしないだろうけど、黒沢の映画では、人が棒のようもので殴られるだけで、心臓が縮みあがってしまうほどの暴力性を感じてしまうのだ。というか、黒沢の映画では、風が吹くだけで、何やらすさんだ暴力的な気配が、一面にただよってしまう。)
カリスマの木を焼き払った後、植物学者とその妹が部屋でくつろぐ、俯瞰のフィックスで撮られたシーンがやけに印象に残っている。黒沢の名人芸ともいえる、フィックスのフレームを人物が出たり入ったりすることで構築される、独自の長廻しのシーン。1本目の木から、2本目の木へと、移行するまでのほんの小休止のようなゆったりとした場面。しかし、今後の混乱と暴力を預言するかのように、少しだけ開けられた窓からの風で、カーテンが無気味に大きくはためいているのだった。
3/18(土)
横浜までの電車のなかで、黒沢清『カリスマ』の第2稿シナリオを読む。『カリスマ』は10年ちかく前からの企画で、92年に出版された黒沢の『映像のカリスマ』という本に、もう既に『カリスマ』の企画について書かれている。この『カリスマ』第2稿というのはおそらく92年に、サンダンス・インスティテュート・スカラシップを受けた時のものだと思われる。完成された映画とは、大きく異なっている。やはりこれは92年当時の黒沢のもので、『地獄の警備員』の延長線上にあるようなものとなっている。
現在の黒沢に比べると、かなり楽天的なジャンル物のシナリオで、ほとんど『用心棒』みたいな話。完成された映画と最も大きく違っている点は、2本目のカリスマの木が登場しないことと、ラストが希望に満ちたものになっていること。カリスマを守っている男が、ファゴットを吹いてカリスマに聴かせているシーンがあったり、車椅子の黒幕のような老人が登場したりで、初期黒沢の匂いのする細部が残っていたりもする。
99年に完成された映画『カリスマ』の複雑な難解さ(微妙さ)は、現在の黒沢と、92年当時の黒沢とが、妙な工合で入り混じっている、というところにも原因があるのかもしれない。
3/23(木)
テアトル新宿で黒沢清『カリスマ』(2度目)と、そのまま続けてレイトショーの『発狂する唇』を観る。
『カリスマ』はやはり驚くべき作品だということを、改めて感じた。
これは明らかに、8?時代から現在までのクロサワの集大成であり、同時にそれ以上でもあるようなものだ。正直言うと、ぼくはこの作品には、どうしても納得いかない(批判的にならざるを得ない)部分が幾つかあるのだけど、それも含めて、この作品の大きさと雑多さ、懐の深さには驚嘆するしかない。『カリスマ』という企画が、すぐに実現されず、1999年まで持ち越されたことは、結果としてとても幸福なことだったのだ。
凄い作品というのは、客観的な作品の出来、不出来とか、作家性とかとは関係なく、その作品が、今、出現してしまったということが事件である、というような作品なのだと思う。『カリスマ』とはおそらくそういう作品なので、映画が好きだとか嫌いだとか、クロサワが好きだとか嫌いだとかとは関係なく、観ておかなくてはらない、観ておくべき、作品なのだとさえ、言ってしまいたくなる。(黒沢清本人としては、『カリスマ』が別に特別な作品だとは思っていないかもしれないし、ぼく自身も、クロサワファンとしての好みからすれば、『蜘蛛の瞳』や『ニンゲン合格』の方が「 好き 」だったりはする。でも、そういうことを一旦置いておいて、『カリスマ』という作品の発する複雑で不可解な記号を、そのヤバさまで含めて、しっかりと全身で受け止めなければいけないとも、強く感じる。)
『カリスマ』では、洞口依子が素晴らしいと言う人が多いけど、ぼくは、風吹ジュンの良さを特に指摘しておきたい。(洞口依子の良さは、明らかにアンナ・カリーナをレファランスとしている)2本目のカリスマの木が、役所広司の手によって爆破されたときにみせる、もうどうしたらよいか分らないという、よるべない表情の素晴らしさは、特筆されるべきだろう。この映画の後半、状況は錯綜し、本当にどうしたらよいか分らない状態になるのだけど、登場人物たちのなかで、このどうもこうもない状況を真正面から見ているのは、主役の役所広司以外では、この瞬間の風吹ジュンだけなのだ。厳しい状況が目の前にあるからといって、誰でもがその『厳しさ』を見ることができるという訳ではない。多くの人は、なるべくそれを見ないように努力さえする。そんななかで目の前のものをきちんと見るためには、優れた資質と強い意志が必要だろう。
『カリスマ』という凄い作品があるからといって、全ての人がその凄さを見ることができるとは限らない。ぼくにはその能力が十分にあるだろうか。