プロセスを示す「時間」の不在
(ピーター・リム・デ・クローン『オランダの光』)

古谷利裕

「光」とは、光そのものである以上に言葉であろう。通常「光」には、理性とか真理とかいう意味が色濃く染み込んでいて、人はしばしばそれを光そのもの(光の知覚)と混同する。『オランダの光』という映画のはじまりには、まず「オランダの光」という言葉があり、そして、その言葉についてのヨーゼフ・ボイスの言葉がある。ボイスによる「ザイデル海の干拓によってオランダの光が失われた」という発言が、どのような場面で発せられたものなのかをこの映画は明らかにしていないが、ボイスというアーティストの特徴から考えると、恐らくそれは光の状態の描写であるよりも、政治的な色彩の濃い発言であるのだろうと思われる。それはともかく、「オランダの光」という言葉があり、その光が「水面の減少によって変化してしまった」という言葉がある。この二つの言葉が『オランダの光』という映画のはじまりの時点に置かれる。


「オランダの光」という言葉は、それだけで既に多様な意味を含む。それはたんに、地球上のある特定の地域の、地理的、気象的条件によってあらわれる「光の状態」のことを指すだけではない。美術作品や文学作品などを通して発見され、歴史的に登録された一つの概念としてある。だから「オランダの光」は、台湾の光やアルメニアの光という言葉と同値なもの(代替可能なもの)ではない。それは、その場所へ実際に行ったことのない者でもフェルメールやファン・ホイエンの絵画などを通してイメージすることの出来るものであり、また、実際にその場所で光の状態を見ているとしても、それらの絵画との関係抜きには考えられないないような、固有名に近いものだろう。「オランダの光」をテーマにして映画がつくられ、それが多くの人の関心を集めるだろうと前もって予想出来るという事実が、その言葉が光の状態の指示である以上の意味を持つことを示している。だからこの映画は必然的に、光の状態を探ること(独自の光の知覚を生む客観的な根拠を探ること)だけでなく、それについての表象(言説、絵画、文学)との絡みが主題化されることになる。


このような映画のはじまりに、ボイスの言葉をもってくることは有効であろう。「オランダの光」は、その国土の多くを水面が占めていることで生じる。水面からの反射光、そして大気に満ちる水蒸気による光の屈折と拡散が、独自の光のニュアンスを生む。偉大なオランダ絵画はそのような光によって生まれた。だからその水面を埋めてしまうことは、たんに光に影響するだけでなく、オランダの視覚文化の伝統をも埋めてしまうことになり、つまりオランダはその「瞳」を失うのだ。ボイスの発言はだいたい以上のような意味であろう。この発言ではまず、オランダの光が水面による効果であるという客観的な事実(と仮定されるもの)が指摘され、それが美術史上の特定の作品や様式(歴史的なもの)と結びつけられ、さらにそれが一地方の視覚的文化というだけでなく「オランダ」という国のアイデンティティーのようなものに結びつけられた上で、それが「失われた」とすることで一定の政治的な効果が期待されている。つまりボイスの発言では、光の状態とその地域の表象文化の歴史が結びつけられ、さらにそこに政治が絡んでいる。


「オランダの光」とは、たんにオランダという一地方の光の状態を指すだけでなく、そこから生まれた一群の作品やその様式、感性などを含み、さらにその地域の集団的なアイデンティティー、伝統や魂のような意味までをも表象するような、そんな「言葉」であるだろう。だからこの映画が、光の状態の定点観測や、他の地域の光との比較、あるいは科学的な実験といったものだけでなく、アーティストや学者や美術史家などにインタビューを行い、その言説を交錯させようとする意図は理解出来る。しかしそれが十分なものと言えるかどうかは疑問であろう。
この映画からはどうしても「お手軽なドキュメンタリー」という印象を受けてしまう。最初に置かれたボイスの発言から、一歩でも先へ、少しでも深いところへ、進んでいるとは思えないのだ。適当にピックアップした人物のインタビューと、(撮影するのはそれなりに大変だっただろうとは思うものの)水辺の美しい風景とを適当に繋いで、はい一丁上がり、という風に見えてしまう。十八ヶ月もかけて丹念に制作されたというこの作品が、何故「お手軽」なものに見えてしまうのだろうか。それは、この映画の製作者たちの、プロセスを提示することへの軽視と、表象についての考えの浅さが原因だろう。


映画は上映時間という時間だけでなく、それが撮影され仕上げられるのに必要な製作の時間をも、その内部に含み持つ。特にドキュメンタリーは、撮影されつつある時間の中身、その中で起こる出来事や変化が重要であるように思う。それは撮影される対象の時間であるとともに、それを撮影し、その後に作品として組み立てようとする側に流れる時間でもある。ある対象を何かしらの目的や狙いを持って撮影しようと決めた時点と、様々な問題をクリアしながら撮影を行い、それが終了した時点と、その撮影した素材を試行錯誤しながらつなぎ合わせる時間を経て仕上げた時点との間には、そこに挟まれる時間の厚みのなかで、様々な出来事があり、対象の変化だけでなく、それを製作する側にも狙いや目的の揺れや変化があり、変化する過程というものがあるはずだと思う。つまりそれが製作のプロセスとか段取りとかいうものだと思うのだが、この映画ではそれが見えてこない。


確かに、一年以上にわたり定点観測された水辺の風景は、雨が上がったばかりの大気に水気をたっぷり含んだ状態も、晴れ渡った状態も、雪の風景も波立つ荒れた水面も示される。それは美しい風景ではあるが、何枚も横に並べられた絵はがきのようで時間を感じることが出来ない。その原因はこの映画の構成にある。この映画の時間的な構成は、あくまで上映時間のなかでの観客への効果を狙ったものでしかなく、撮影された時間が尊重されていない。例えば、複数の人物へのインタビューが、どのような順番で行われたのかは、映画を見ているだけでは分からない。はじめから計画していた人たちに次々とインタビューしていったのか、誰かの話の内容から別の誰かの話も聞いてみたいと思ったという形で繋がっていったのかも分からない(内容も不十分だ)。あるいは、カメラはアメリカやメキシコに行ったりするが、それは当初から計画されていたことなのか、撮影のある段階で思いついたことなのか、途中で思いついたとしたら、それはどこまで撮影が行われた時なのか、また、どのような経緯でなのか、宇宙物理学者による水槽の実験は、撮影中のどの段階で計画され、どの段階で実行されたのか、それらも分からない。つまり、出来上がった作品の構成が、製作のプロセス(それは思考=探求のプロセスでもあるはずだ)を考慮してなく、ただ上映時の効果のみを狙ってなされているため、出来合いの素材で、ちゃちゃっと纏めたかような平板なものになってしまっている。(プロセスが軽視されているからこそ、ボイスの発言を「実証する」はずの水槽の実験が唐突なものに思えてしまうし、また、あの程度の不十分な実験で良しとしてしまうことになるのだと思う。)


これはたんに、構成が悪いというだけでなく、実際の撮影の時間(探求)そのものが豊かではないことをも示している。この映画には、国境を超えて横断する長距離トラックの運転手たちに、地域による光の変化についてインタビューをするという、それだけで面白い映画が出来そうな魅力的なアイディアが含まれている。だがこの部分は、何人かのドライバーへのインタビューが短く挟まれるだけで、「流す」ようにさっさと終わってしまう。ここで製作者は明らかに映画の主題を掴み損なっているように思う。わざわざアメリカに行ってジェームス・タレルの話を聞くよりも、トラックと共に大陸を移動し、その光の変化をカメラに納める方が、この映画にとってずっと重要なことなのではないだろうか。
この映画の製作者は、ボイスによる興味深い発言を出発点こにしながらも、それを十分に検討し、検証し、その過程でぶつかる様々な人物の言葉を採集することを怠り、その変わりに、様々な立場(ボイスに賛成する人、反対する人、微妙な人、等)の人物を適当に選んでインタビューすることで「済ませて」しまっている。勿論そこには耳を傾けるべき興味深い発言も多々含まれてはいるし、様々な場所で採集される「オランダの光」は、やはり見るに値する美しいものだとは思うのだが、映画としてのつくりは、きわめて安直なものだと言わざるを得ない。それはこの映画の製作者たちが、現実(撮影)の時間と表象(上映)の時間、あるいは、現実の光(身体が直接知覚する光)と絵画や映画などの表象としてあらわれる光との複雑で微妙な関係について、十分に考えていないことを示している。

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