古谷利裕
『EUREKA』の特徴は217分という上映時間にある。この上映時間の長さは、物語の内容が要求する長さというのとは少し違う。あらゆるショット、あらゆるシーンが、水で薄められたように長く引き延ばされていて、そこに「何でもない時間」が顕わになっているのだ。例えば、4人の登場人物が「家」を出て「別のバス」に乗って出発した直後、斉藤陽一郎が、自分も過去に殺人現場に居合わせたことがあるということを告白するシーンがある。しかしこのシーンは、斉藤がその話をするためにあると言うよりは、風を受けて走るバスの窓ガラスが震えてピーピーと音をたてているシーンと言うべきで、ただ、この音をある一定の時間聞かせていたいがために、ドラマとしての必要以上に話が引き伸ばされている。バスが風を受けて走る。窓が震えてノイズを発する。それを登場人物と共にしばらくただ聞いている。このようにして人物と共に過ごす時間の集積こそが『EUREKA』なのだ。この映画はとても美しい。しかしこのあまりの美しさは、どこかウソくさいという感じを拭えない。
『EUREKA』の登場人物達を悩ませているのは、眼前にまで迫った死の恐怖ではない。彼らが見失ったのは生の必然性であり、生の意味なのだ。彼らはたまたまそのバスに乗ったことによって死の直前まで引きずり出され、たまたまそこから生きて戻ってしまった。彼らは危険を犯したから死に近づいたのでもないし、機転を利かせたから生き残ることが出来たわけでもない。死に近づいたのも生き残ったのも、ただの偶然でしかない。何故、死ぬのが自分ではなく他の乗客だったのか、何故、生き残ったのが他の乗客ではなくて自分だったのか、このことを説明する必然性はどこにもない。つまり死ぬも生きるも骰子の丁半と同じなのだ。だとしたら生も死も偶然という意味で全くの等価であり、生に特別の意味はないということになってしまう。本来ならば『EUREKA』のテーマはここにこそあった筈なのだ。つまり「他であり得たかもしれない」にも関わらず実際には「こうであった」という意味での偶発的な「この私」という存在を、「私」はどのようにして受け入れることができるのか、この過程を描くこと。「生も死も全くの等価」だから「生には何の意味もない」と考えるニヒリズムは、実は生の絶対の意味を求めている者のネガでしかない。だからこそ宮崎将は、「生には意味がある」ことを証明するために人を次々と殺さなければならないのだ。何故人を殺してはいけないのか、という言葉が意味するのは、人を殺すことによってしか生きることが出来ないということである。もし本当に「生も死も全くの等価」なのだとしたら、わざわざ人を殺す必要などないはずだ。「生も死も全くの等価」ならば、「確率的には半分は死んでいる」自分を受け入れば良いのだ。宮崎的な存在の悲劇は確率的な世界を受け入れられないところにある。そして役所公司はそれを理解していない。だから『EUREKA』という映画は、宮崎将を救おうとして、映画そのものが宮崎と同一化してしまう。
それは冒頭のバスジャックの一連のシーンから明らかだ。この事件で登場人物達は、誰が殺されていてもおかしくなく、全員死んでいてもおかしくない状況のなかで、たまたま生き残った者だ。しかし実は彼らは予定調和的に「生き残るべき存在」としてバスに乗っていたように見えてしまう。なぜなら、このバスジャックの一連のシーンでは、はじめから犯人と生き残る3人だけが問題にっているからだ。それ以外の殺された乗客については一切描かれていないし、まともに画面に写ってさえいない。犯人を含めた4人以外の人物はほとんど存在しないかのように扱われている。引き延ばされゆっくりとリズムを刻むこの映画のなかで、冒頭のバスジャック事件だけが、古典的なアメリカ映画のように正確な空間構成と的確な省略法によってリズミカルに進行する。それはこの4人以外の人物、実際に「殺されてしまった人物たち」をフレームの外に押し出し、排除してしまうための演出なのだ。しかし、生者に対して絶対的に非対称的な他者としての「たまたま殺されてしまった人たち」がいるからこそ、「たまたま生き残った人たち」の物語があり得るのではないだろうか。つまり『EUREKA』ははじめから死者を排除して、徹底的に生者の側だけで成り立っている映画である。たまたま死んでしまった者を排除するということは、「たまたま」生き残った者を、始めから生き残る「運命」であった者に変えてしまう。偶然を排除して運命だけが支配する世界では、当然ながら誰もが運命から逃れられない。それが『EUREKA』の世界だ。
運命が支配する世界では、人は運命が命じる役割を演じることができるだけだ。それがどんなに特殊で希少な役割であったとしても、それが役割である限り交換可能だ。つまり代わりはいくらでもいる。対して、固有のものはそれがどんなにありふれたものでも、それ以外に代わりがない。そして固有性というのは、他で有り得たかもしれないのに現にこうであったという、偶然が無数に織り重なった交点、無数の偶然が現にこのように織り重なってしまったという事実の一回性においてしか見い出されない。
『路地へ 中上健次の残したフィルム』は『EUREKA』の撮影に入る直前に撮影され、その完成後に編集され仕上げられた。つまり同時につくられたと言える。ここには、中上の故郷で、小説の主要な舞台である紀州の風景が映し出されているが、画面だけを見る限りそれはありふれた風景である。いかにも紀州らしいという特徴的な風景は周到に排除される。画面に写っているのは中上の小説の舞台としての紀州や路地ではなく、たんにカメラの行く手に偶然現れた風景なのだ。しかしこれらの風景は、予めテキストによって染めあげられてもいる。1つ1つの風景から、中上の小説のある部分が想起され、それとの比較で画面が見られる。小説も実際に朗読される。この映画が、ひたすらに移動という運動のなかにいる間じゅう、観客も、中上のあの小説のあの場面からまた別の小説の別の場面へと、次々と想起の場面を移動する。だが映像とテクストと想起との関係は、どれかが主でどれかが従ではない。互いに独立した流れを保ちつつ、重なったりズレたり相手に影響を与えたりする。
映画に挿入される中上によって撮られた風景、それは「路地」ではない。今はそこにあるが、もうすぐに無くなってしまう目の前の愛しく親しいものを、とにかく記録しておきたいという思いに駆られた映像は、映されている物が、建物が、人が、光が、かつて本当に存在していたのだということ以外の何も主張しない。それらは、中上と助手がカメラを担いで現れた先に偶然にいた人物であり光である。もし偶然カメラがその前を通り過ぎなければ決して定着されることのなかった映像。これらの映像が貴重なのは中上の「路地」だからではなく、そのありふれた偶然性=固有性による。しかしこの偶然性は、作品として纏められれば作品の文脈上の位置=役割を占めるものとして必然へと転化する。『路地へ』は、複数の文脈を同時に成立させ、そのどれもが主でも従でもない不安定な構造によって、かろうじてその断片性=偶然性=固有性を確保する。『路地へ』にあって『EUREKA』にないもの。それは複数の異なる固有なものたちが、運命を超えてざわめく決してフラットではない美しさだ。