物語と徴候
(ジム・ジャームッシュ『ブロークン・フラワーズ』・アレクサンドル・ソクーロフ『ファザー、サン』)

古谷利裕

ジム・ジャームッシュの映画は、ひとつひとつの場面をそれだけ単独で取り出しても十分に魅力的なものとして成立している。しかし、場面はいくつか重ねられると、必然的に(好むと好まざるとに関わらず)一つの流れとして(あるいは「構造」として)の「物語」を形成してしまう。彼の映画において「物語」はいつも、観客に「でもあなた、そんな物語、本当は信用してないんでしょ」と思わせるような距離において語られる。それが彼の映画のクールなところであり、ポストモダンな風味のもとでもあろう。でもそれは同時に、「では何故(何によって)あなたは、(そんな信用していない、あなたにとって大して重要とは思えない「物語」を)わざわざ「語る」のか」という疑問がいつも一緒についてくる。この問題はジム・ジャームッシュの初期作品からずっと一貫してありつづけている、と一人の観客として思う。
ジム・ジャームッシュの出世作『ストレンジャー・ザン・パラダイス』の面白さは、それが、物語によってでも構造によってでもなく、それぞれの「場面」の力のみによって成り立っており、個々の場面がただ並列されているように配置されていたことにこそあったように思う。ここで言う「物語」とは、あらすじに要約出来るようないわゆる「物語」を意味するだけでなく、映画が、始まりから終わりまで「順番」に(リニアに)繋がっていることによって生じる流れや因果関係の展開のことだし、その持続が依って立つところの根拠のことだ。例えば、りんごのショットがあり、空のショットがそれに続き、次に木々のショットがあれば、その順番に従ってそれぞれが関係づけられ、赤→青→緑という展開=物語が生じる。それは青→緑→赤という展開=物語(空、木々、りんご、という順番)とは別の意味をもつ。このような展開=物語が読み取られる時、りんごのショットにおける「りんご」のイメージの感触は、どうしてもやや後退せざるを得ないだろう。それは例えば、あるひとつの「音」を聞かせようとしても、それがメロディを構成する要素として組み込まれている場合、どうしてもその音自身の響きが聞かれるよりも、メロディの方が聞かれてしまう傾向がある、ということと類比的であろう。連続して奏でられる複数の異なる音がメロディとして聞こえないようにするためには、音と音との間に十分な隙間が挿入される必要があるように、『ストレンジャー・ザン・パラダイス』では、ショットとショットとの間に、「真っ黒なショット」が差し挟まれていた。
物語と場面との違いは、とりあえずは時間と空間との違いという風に言い換えられるかもしれない。場面とはつまり、具体的な場所が与えられ、そこに特定の人物がいて、人や物がどのように動き、そこで何が起きるか、というようなことで、時間(順番)としてよりも空間として展開する。『ストレンジャー・ザン・パラダイス』において、それぞれの場面は、物語の一部分(一要素)であったり、それ自身が小さな物語(展開)であったりするよりも、たんに「場面」であり、その時、そこで、そうだった、ということのみが簡潔に示される。そのような複数の場面が、場面と場面の間に挟まれる「黒いショット」によって分離され、分離されつつも繋がれて、並べられる。もちろん、場面といえどもそこには時間があり、展開があり、つまり最小限の物語はあるのだが、このような場面は、ほかの場面との関係によって意味が生じるという度合いがきわめて低く、場面一つ一つの独立性が高い。ある場面の後に別の場面が繋げられていたとしても、その順番は、まったく自由に並べ替えられるわけではないとしても、並び替えにはある程度融通が利くし、その順番が映画(の示す物語)にとって決定的な意味をもつわけではない。個々の場面は、時間的(順番に)に繋げられるというよりも、黒い紙の上に写真が空間的に配置されるような感じで並べられ、時間(展開)が希薄になる。このことによって『ストレンジャー・ザン・パラダイス』は、物語という「全体」を想定することなく、次々に現れては消えてゆく個々の場面の輝きによって映画としての自らの強さを示すことができた。

『ストレンジャー・ザン・パラダイス』の素晴らしさは、ジャームッシュが、自らの、シーンを構成し、登場人物を(その関係を)描写する能力以外のなにものもを頼りに(前提に)せず、ただその一点のみによって一本の映画を完成させたところにあると思う。しかし彼は、その後も自らの資質(関心)にのみ忠実であるというわけにはいかなかった。つまり、シーンを重ねることで不可避的に出来上がってしまう「物語」の流れを、その外側から「先取り」して制御するための根拠を、別の(作品の外の)参照物に求めてゆくことになる。作品に、複雑な時制の構造を持ち込んだり、あるいは、ジャンルとしての西部劇を導入したりすることで、たんなるシーンの連続ではない、全体性=物語の根拠を先取り的に確保しようとする。しかしそのような物語はいつも、自らの外部に参照点を持つもので、ジャームッシュ自身に(内的なものであろうと、外的なのもであろうと)「作品をつくること」を促している力動そのもの(あるいは、作品がつくられつつあるその場で働いている多様な力)とは切り離されたものであろう 。思うに、彼の作品を動かしている力は、あくまで、そのシーンを支配している「その空間」への関心であり、そして、その場にいる「人物たち(の関係、あるいは関係のなさ)」への(愛着に満ちた)関心であるように感じられる。(彼が多くの場合、「友人」と一緒に仕事をすることには、重要な意味があると思う。)ジャームッシュの弱さは、自らの関心を中心に作品を組み立てる前に、そのバランス感覚によって、気の効いた、適度に面白い物語の枠組みを(先取りして)作ることの出来てしまう適度な頭の良さ(センスの良さ)にあるように思う。

『ブロークン・フラワーズ』は、まるでそれを意識したかのように、ヴェンダースの『アメリカ、家族のいる風景』との共通点が多い。主人公が、人がうらやむような成功した中年の男性であること(女性にもとてもモテること)。しかし当人としては、人生の深刻な行き詰まり(危機)に直面していること。そのような局面で、過去に関係した女性を訪ねることになること。ノスタルジックとも言えるその旅はしかし、実際には自分の過去というよりもむしろ「アメリカの現在」を浮かび上がらせてしまうこと。(男性の旅=移動によって、「アメリカの現在」の風景がたちあがること。)そしてその「旅」が、それまで主人公が全く意識したこともなかった、自らの「息子」の存在をめぐるものでもあること。こうしてみると、物語の大きな外枠は、ぴったりと重なっているとさえ言える。このそっくりな二作を比べてみると、ジャームッシュがいかに洗練された演出家であるか、逆に、ヴェンダースがいかに、演出家として野暮ったくて不器用であるかが浮き彫りになる。例えば、この両作は共に、主人公の移動によってたちあがる「風景」が作品を支えているといえる。(つまり主人公は、何かしら行為する者ではなく、移動する視線のようなものに近い。)この時、ジャームッシュは、ビル・マーレイという独自の雰囲気をもつ俳優を主人公に使って一定の存在感を示しつつも、彼を徹底して受動的な人物として設定することで(彼の旅は自らの意思でなされるのではなく、おせっかいな隣人に無理矢理に促されてなされる)、彼が見る「風景(女たちの現在)」の方を鮮やかに際立たせる。対してヴェンダースは、サム・シェパードに最初から悩みの深い実存や孤独感を強調させる。しかし『アメリカ、家族のいる風景』は初期のロードムービーとは異なり、捉えられた風景は主人公の孤独と重なるのではなく、あくまでも「女たち」の方に属するもので、主人公の悩みっぷりはそれによっては支えられず、薄っぺらく浮いてしまう。あるいは、「息子」との対面においてもそれは顕著に現れる。『アメリカ、家族のいる風景』の、主人公と息子の対面とその和解の描かれ方は、あまりに紋切り型で深みを欠き、シーンの演出としても成功しているとは思えない。対して『ブロークン・フラワーズ』では、息子との対面(互いに意識しつつ、しかし核心に直接は触れないまま会話がなされる)を見事に演出しつつ、さらにその後、それを足払いにかけるようにきれいにひっくりかえして、映画の幕を閉じる。しかしだからといって、『ブロークン・フラワーズ』の方が『アメリカ、家族のいる風景』よりも作品として優れている、ということに簡単にはならない。
『ブロークン・フラワーズ』で非常に見事に描かれるこの物語を、ジャームッシュはどこまで本気で信用しているのか、あるいは、どこまで本気でこの物語を必要としているのかが、あまり見えてはこないのだ。つまり、何故ジャームッシュが他のものではなく、わざわざ「この物語」を選んで映画をつくったのかがよく分からない。『ブロークン・フラワーズ』で主人公が訪ねる四人の女性をめぐる四つの風景は、典型的な「現代のアメリカ」(の病理)を示す見事な四つのサンプルではあっても、それ以上のものとは思えない。(例えば『アメリカ、家族のいる風景』のヴェンダースは、不器用なやり方ではあっても、彼にしか捉えられないような「風景」を、そこに住む人たちの生活と釣り合うだけの深みや重みとともに捉えることには成功しているように思う。)

『ブロークン・フラワーズ』はそれ自体気の効いた、良く出来た物語であるのだが、同時に、「物語」など信用するな、というメッセージも含まれている。この映画は誰が見ても分かりやすく「ピンク」に貫かれている。ピンクは、この映画の「謎」に迫る真実の徴候であるかのごとく(わざとらしく)示されている。しかしここにこそ人間の思考(物語)の陥りがちな罠がある。そのことを典型的に示すのが、主人公の隣に住む(とても善良な、良い奴ではある)ミステリ・マニアの存在だろう。彼は世界のあらゆる場面から「仕組まれた謎」を見つけ出さずにはいられないし、謎をとくための徴候を見いださずにはいられない。主人公の「息子」の存在を仄めかす手紙が、ピンクの封筒、ピンクの便せんによって届いたからと言って、それを出した女性の身の回りにピンクの物があるという保証はどこにもない。しかし彼は、まるでピンクこそが謎の解明へとつながる特権的な徴候であるかのごとく、主人公に「ピンクに注目せよ」と忠告する。だが、主人公が訪問した先の女性がピンクのバスローブを着ていたり、ピンクの名刺を使用していたりしても、そのこととピンクの手紙とが関係する保証はない。しかしそのような旅をつづけるうちに、主人公は(観客までも半ば)その徴候をいつしか信じるようになってしまい、あげく、若い男性旅行者のリュックにピンクのリボンが巻き付けられていたという理由で、それが「息子」である徴だと思い込む、罠にはまってしまう。人はしばしば、そのような徴候の短絡的な結びつきによって思考してしまうし、それに強い説得力(「運命」のようなもの)を感じてしまう。このような、ピンク=徴候の短絡的連鎖が、物語に「謎」を付与し、物語が物語として閉じることを可能にする。
ピンクが徴候であるように機能するのは、その色が比較的他から目立つ色だからであり、そして映画が視覚によって何かを提示するメディアであるという都合による。つまりそれはあくまで「物語(あるいは「映画」)」の都合であって「世界」の都合ではない。(封筒のピンクとリポンのピンクとは「同じ効果」を持つ物ではあっても、「同じ由来(出自)」を持つものとは限らない。)この映画でジャームッシュは、ピンクを意図的に疑似餌のようにバラ巻いているのであって、決して真実や運命の徴候として使用しているのではないところに、彼のクールさがある。ジャームッシュは、息子(かもしれない人物)との会話の後で、「ピンク」とは全く別種の「徴候」を見せつけることでピンクが疑似餌でしかないことを暴露して、映画を終わらせる。疑似餌が疑似餌でしかないことが暴露されることで、この旅(物語)の根拠が宙に吊られ、後に残るのはただ、あちこちへと引っ張り回され、それぞれの土地で寄る辺なく佇むビル・マーレイの何ともいえない佇まい、切迫と疲労の色を漂わせながらもひょうひょうとしたその表情のみであろう。(しかし、それはとてもすばらしいものだ。)

アレクサンドル・ソクーロフの『ファザー、サン』は、画面が徴候で満たされているような映画だが、その徴候は『ブロークン・フラワーズ』のピンク色とは異なり、物語のなかでの明確な配置はされていなくて、だから謎(「真実へ至る道筋」というイリュージョン)を構成しない。徴候とは何かの前触れであり、兆しであるはずなのだが、それが「何か」の兆しであり予感であるような気配が濃厚であるにも関わらず、具体的にどのような出来事の兆しなのかがわからない。兆しだけが濃厚にあって、それが出来事と結びつかない。だからそれは徴候というよりは予感と呼ばれるべきものかも知れない。しかしそれは、予感というにはあまりに濃く画面を満たしている。そして一方、出来事は兆しとは関係ないところから唐突にあらわれる。言い換えれば、徴候は何かしらの出来事の兆しなのではなく、決して出来事とはならない「何か」、徴候としてしか現れようのない「何か」の徴候としてあるように見える。(もしかするとそれは、未来へと関係する予感-徴候というよりも、既に過ぎ去った過去へと関係する、残留された余韻と言う方が良いのかもしれない。あるいは、徴候が余韻のように存在し、余韻が徴候のように存在する世界、と言うべきか。)
この映画では、多くのシーンにやわらかく加工された西日のような不思議な光が当たっている。全体としては、薄曇りの日のような、雲を通過した光が空全体から薄められて射してくるような、どんよりと光が偏在する(どこか分からない場所から、光が洩れ、滲みでてくるような)状態で、そこに不自然に西日のような黄ばんだ光が射す。光は極めて人工的にある一定の調子にコントロールされていて、例えば、光によって時間帯が特定されることはない。そして音も、特定の音源から発せられているというよりも、(ラジオが受信する音と同様に)どこか地の底のような場所から洩れて来る感じだ。(ある場面で、観客席の誰かがぼそぼそ喋っているのかと思ったら、その音は画面の方から聞こえていた、ということもあった。)つまりこの映画の舞台は、現実的な出来事が起こるような場所ではなく、現実的なもの(ジャームッシュが描き出す現代の風景のようなもの)から切り離された、徴候がざわめきたつ場所であって、通常の距離や因果関係は成り立たない。この映画はタイトル通りに父と息子の話で、父と息子の濃密な関係が描かれる。例えば、父親は終始やさしげで意味不明の笑顔を浮かべていてるのだが、この微笑みは「意味ありげ」ではあるが何の意味とも結びつかない。(しかし、たんに笑顔そのものとしてあるのではなく、意味ありげであることによって徴候的なのだ。)この父親がいきなり息子の学校を訪ねる時、その訪問の意図は示されない。ここでの父親の妙に遠慮したような態度はあきらかに何かしらの「含み」を感じさせるものだ。しかし、この映画ではその「含み」の気配のみを示し、その理由は示されない。この映画では、「何故そのような態度をとるのか」ということには意味がなく、そのような態度が浮き上がらせる「気配」の感触にこそ意味がある。『ブロークン・フラワーズ』のジャームッシュが、物語を組み立て、そこに疑似餌をばらまき、最後にそれをひっくり返す、という手の込んだやり方でようやく「ビル・マーレイの佇まい」そのものを鮮やかに浮かび上がらせてみせるのに対し、『ファザー・サン』のソクーロフは、ただそのような気配や佇まいばかりを、因果関係や仕掛けられた謎とは無関係に、そこここに立ち上げてみせる。

しかし、だからといって『ファザー・サン』が幻想的な、つかみ所のない映画というわけではない。むしろ鬱陶しいくらいに濃密に漂う気配と、徴候が純粋に徴候にとどまるために何の前触れも(前振りも)なく唐突に生起する出来事の新鮮な驚きや、切迫した生々しさに振り回される。徴候とは、たんなる「世界の微細な表情」ではなく、それを感知するものを切迫させ、余裕を奪う。それは、これから何かが起こりそうだという気配であるから、これから起こるであろう出来事に対する身構えを強いるのだ。だが、それはいったい何の兆しなのかが不明なままなので、その身構えが切迫したまま宙に浮くのだ。物語(出来事)へと展開しないまま溢れてゆく徴候たちが、ある時、それらとは切り離されて唐突に起こる別の出来事によって押し流されることもある。父の軍隊時代の友人の息子が訪ねて来るエピソードで、場面が唐突に、息子の部屋の窓と友人の部屋の窓(隣の建物)との間の中空へと渡された、今にも折れてしまいそうにギシギシいっている「板きれ」の上へと展開する時、この、きわめて唐突な高さの導入と空間の展開(そしてアクションの導入)に不意打ちされる。
(「映画芸術」415号)

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