1998年のWILD LIFE(1)

 「迷いも閃きも未知のもの/めぐりめぐる奇蹟・・・」
   (ザ・ブリリアント・グリーン「There Will Be Love There」)
 「わたしを探そうとするのは、もうやめた。わたしは世界に埋もれている。」
   (サミュエル・ペケット「マロウンは死ぬ」)

昼間はとても蒸し暑くて、夕方になってようやく風に涼しさが混じりはじめ、それでも時々ぼわっと湿った熱風が吹くし、蒸していることにかわりはないのだけど、やっぱり、それはそれで心地よく感じもする、梅雨の中休みで晴れた日の夕方、そろそろ日が暮れて薄暗くなりはじめ、肌の外側に皮膜のようにできた汗の層に閉じ込められてほてった体温が、歩いていてぶつかる空気の壁によって躰から奪われてゆく感じを心地よく思いながら、近所のレンタル・ビデオ店までビデオを返すためにぶらぶら歩いている時に感じる、何ともいえないざわざわした妙な「感じ」。(感じ、を4回も使ってしまった。)
ぼく自身がざわついている、というより、まわりを取り囲む空気全部がざわざわ揺れていて、それに飲み込まれているみたいな、そんな時には、この世界のなかで、自分が限定された一個の肉の塊として存在していて、この身体が、この空間のなかを、今、こうして移動しているのだ、という感じをとても生々しく感じてしまう。今そこですれ違ったあの人も、向こうで信号待ちしているあの人も、この同じ時間(梅雨の中休みの蒸した夕方)のなかにいて、ぼくとは少しズレた位置で、ぼくと異なった(断絶した)肉=躰をもって、生きて、動いているのだ、なんていうことがやたらとリアルで、空間の感覚がやけに遠くまですうっと拡がり、そのくせ、そのなかを動いているぼく自身の肉=躰が限定された些細なものとして、ここ、に縛りつけられている、と、こんなことを考えている間もぼくはずんずんと歩いて(動いて)いて、二つめの信号を渡り、踏み切りに遮られてしばらく留まり、また歩きだして、マンションの生け垣に沿った緩い坂道をのぼっている。
蒸し暑いせいか、しすも薄暗くなって人目につかないと思っているのか、そこらを歩いている人がとても無防備にしていて、子供を遊ばせている母親とか、コンビニの袋をさげて歩くお兄ちゃんだとか、いくら暑くてかったるいからといって、そんなんでいいのかと思うほど、その人の日常というか存在というか肉感というか、なにかそんなものを「モロに」さらけ出して動いていて、その「モロ」を見せつけられるのが少々鬱陶しく、近所とはいえ「外」南田からもう少し緊張しろ、といいたくもなるのだけど、ぼく自身もきっと、へろへろとだらけて、なにか押し付けがましいものを外へと漂わせながら、歩いているには違いはない。

当然、ぼくが生まれるずっと以前から世界は存在しているのだから、そこでもこんな夕方は、何度も何度も反復されていたのに違いないし(無数の個体がざわざわざわめいていただろう。)、さらにぼくの死後にも、ずっと反復されつづけるのだろうし、それどころか、生物なんてものが発生するずっと以前からこんな夕方は存在していたのだろうし、あらゆる生命が死滅したあとにも、夕方は平然と存在しつづけているだろう。なんていう突拍子もなく大袈裟で(地に足のついていない)、しかも、陳腐な考えが、まるで今、歩くために踏んづけている道路のアスファルトと同じくらい堅くてしっかりとしたリアルな感触で迫ってきて、不意に、くらくらっとする。

「存在と時間」(細谷貞雄・訳)第二十三節、世界=内=存在の空間性、より
「われわれが街路を行くとき、それは一歩一歩足にふれ、したがって、およそ存在するもののうちでもっとも近くもっとも実在的なものであるようにみえる。街路はいわば、特定の身体部分(足うら)にそって滑ってゆく。しかもそれは、かような歩行中に「通りで」二十歩の「距離」で出会う知人よりもなお隔たっているのであるる環境的に身近に存在しているものの近さ遠さについて決定をくだすのは、配視的配慮である。」
書き写していて思ったのだけれど、この翻訳は、少し分りやすくしようとしすぎているように思う。別の翻訳では、最後の文は次のように訳されている。「環境世界的にさしあたって道具的に存在しているものの近さと遠さに関して決定を下すのは、配視的な配慮的気遣いなのである。」(原佑、渡辺二郎・訳)ちなみに最初の文は「歩行しているさいに街路は、一歩ごとに触れられており、一見、総じて道具的に存在しているもののうちで最も近く最も実在的なものであるように思われ、足の裏といういわば特定の肉体部分にそってずれ動く。」とされる。まわりクドくて分りずらいけど、こっちの方が、断然、リアルだ。(なぜ、細谷訳では「道具的」や「気遣い」という語が抜けているのだろうか?)

ここで問題なのは勿論翻訳の良し悪しではなく、ぼくは、今、歩きながら「配視的な配慮的気遣い」が混乱してしまっているらしい、ということだ。配慮的気遣いの手前で足をとられて躓き、おもいっきりコケてしまっている。でも、配慮的気遣いを見失ってしまうことで、はじめてあらわれるリアリティーというものがある。というか、配慮的気遣いはけっこう簡単に壊れる。特に、現代に生きる人にとっては。(ぼくはそれをハイデカーみたいに、「現存在をその本来性において開示すること」だなんて決して思わないけど。まあ、そういう言い方に興味のある人は、「存在と時間」第四十節以降に「不安」という重要な概念とともに記述されているので、そっちにあたって下さい。)
街をあるいていて、すれ違って挨拶を交わした知人より、その時踏み締めていた地面の感触の方をずっと"近くに"感じる、なんてことは結構ありふれた感覚だと思うし、眼鏡越しに絵を見る時、すぐ目の前にある眼鏡のレンズが、離れた壁にかかる絵よりも"遠くに"退く、とハイデカーは書くけど、ぼくはいつも目の前のレンズが邪魔臭くて気になってしょうがない。ぼくはいつもそういうところで、引っかかる。つまり、道具を自然に身体の延長として感じることが出来なくて、どんなにそれに慣れても、道具が道具であることの違和感を消し去ってしまうことができない。それは単に、不器用だ、ということに過ぎないのかも知れない。でも、こういう引っかかりは結構重要なことなのではないか。
そんなこんなの「配視的な配慮的気遣い」の失調なしには、「現代芸術」は考えられないし(つまり、物質の抵抗感、とか、自律した物体、というのは、「配視的な配慮的気遣い」が失調したときにこそ、あらわれるのではないだろうか。)、それだけでなく、「配視的な配慮的気遣い」の失調があるからこそ、ハイデカーは、現象学という方法を必要としたのではないだろうか。

当然のことだけど、ぼくが、今、現にここにこうして生きて、歩いている、ということと、こうして生きていることについて考える(意識する)こととは、全く、別のことなのだ。だから、実際にぼくがしていることと、しているだろうと考えていること、あるいは、していることについて考えていること、とは、必ずズレているはずだ。しかし、実際に、生きていて、何かしていなければ、そのことについて考えることは出来ないし、また、何も考えずに、ただ、生きて死ぬ、なんてことは、少なくとも人間にとっては不可能であるだろうから、生きていることそれ自体と、それを(それについて)意識して(考えて)いることとは、ズレながらも分かち難くくっついてはいるのだ。
このズレながらもくっついている、ということが、ぼくにいつも無理な姿勢を強いて、ぼくの動きのなかに歪みや偏りをつくりだす。
だからぼくは、「今、この瞬間を精一杯生きる」だとか「私は私の生の輝きを、イキイキと感じていたい」だとかいう、一見、素朴でまっとうにもみえる考え方を、どうしても信用することが出来ない。

だが、この世界には、決してぼくと「実感」を共有しないだろう「ぼく以外の人」が、無数に存在しているのだった。

我々はこの社会のなかで、雑多で異質な他者たちが織りなす幾重にも重なった意味の網の目のなかで生きている。意味は、なにかひとつの超越的なもの(システム)によって支えられている訳ではないから、ある地平のもとで体系としてきちんと整理されていたりはせず、互いに対話することさえ可能でないような複数の異質な原理が、勝手に、バラバラに、作動し、交錯し、交錯し損なうことで、生まれ、生まれ変わるものだ。現に今生きている他者だけでなく、過去に存在した想像できないほど多くの他者たちの織った意味の蓄積も、歴史として我々のまわりを取り囲んでいる。だから、我々のまわりには、窒息しそうに濃く意味が重層的に折り畳まれていて、身動きも出来ないほどだ。紙の上に一本の線を引こうとするだけでも、あちこちから意味があらわれて手足を縛り、自由に線を引くことなど決して出来はしない。社会のなかで、あるいは、人間的な世界で、生きる、というのはそういうことで、どうしたってそこからは逃げられないのようにみえる。

しかし、そのような意味はときにあっさりと崩れることがある。というか、実は意味は、我々が思っているほど大したものではないのだ。言い換えるなら、それは単に「人間的な」世界における「人間的な」意味にすぎない。人間的な意味は、「もの」の前で、「自然」の前で、「時間」の前で、いとも簡単に、あっさりと崩れてしまうだろう。だから、我々はいつも恐ろしい無意味にさらされて生きているのだけれど、そうかといって意味から逃れられるわけではない。カントが崇高という時、それは有限な存在でしかない人間に、ふと侵入してきてしまう無限のことで、無限というのは、無意味のことだといっても良いと思う。たかだか有限でしかない人間に、無意味を耐えることなど出来はしないのだから、下らないと知りつつも、今ある意味のなかで生きるしかないだろう。それでも、意味のまわりには、無気味で荒涼とした無意味が拡がっていることに、かわりはないのだが・・・。

今、返しに行こうとしているビデオは、黒沢清の「修羅の狼・蜘蛛の瞳」。履き潰して、すっかり型が崩れ絵具も染み付いたスニーカーをバコバコさせてのぼっている緩い坂道をのぼりきったところにある、前が大きな駐車場で、一階が本屋になっている、郊外型の大型レンタル・ビデオ店に向かって歩いている。

「修羅の狼・蜘蛛の瞳」で哀川翔が演じる主人公は、人間的な世界が構成する意味の網の目からズレてしまっているような人物だ。それは彼が社会的にアウトローだからではない。彼は仕事をもっていて、毎日会社へ行っている様子だし、妻帯者で、夫婦の関係もうまくいっているらしい。何か文学的なセリフを口走ったり、形而上学的な悩みを抱えているわけでもない。彼は、だから、初期のヴェンダースの登場人物たちとは違う。
六年前に最愛の娘を殺されてしまい、その犯人への強い憎悪だけを唯一の現実世界との接点として生きて来たこの男は、しかし、映画が始まるとすぐに、あっという間に復讐を果たしてしまう。娘を殺した犯人を自らの手で殺害してしまうと、男とこの現実世界の意味とを結ぶものが、ぷつんと切れて、生きていてもなにもすることがなく、なにをする気もなくなっている。途方に暮れながらも、以前とかわらずに日常生活を淡々と続けるこの男は、ほとんど生きたまま幽霊になってしまったかのようだ。
死後の生を生きる幽霊になってしまったようにさまよう男のまわりの世界は、どこも空っぽでスカスカなものでしかない。このような場所では、もはやどんな物語も成立することが出来ない。
この映画は、なにもない空間、何も起こらない時間を、どうやって一本のフィルムとして成立させることが出来るかという一点に賭けられている。男はその後、昔の友人に誘われて殺し屋になる。その友人は、自分が殺し屋をしているということのストレスに悩まされ、どうしたら楽になれるかをいつも考えているのだが、男は、何の抵抗も、罪悪感も、喜びも、感じないまま淡々と殺しを続ける。殺しのシーンは、だから、少しの残酷さも、サスペンスも、カタルシスもなく、ただ、ピストルが乾いた音をたて、人が倒れる、だけで、男が会社で黙々と仕事をしているシーン(事務机の上にいくつものシャーレを並べて順に匂いをかいだりしていーるのだが、どんな仕事なのかはさっぱり分らない。)や、組織のトップである右翼の男と、ただっ広い造成地のような所場所で化石を探しているシーンや、殺しが終わった後に、組織の仲間たちが無為に公園で遊んでいるシーンや、家へ帰って奥さんと食事をするシーンなどと、なんの変わりもなく、淡々としている。ほとんど退屈と紙一重で流れるこのフィルムの時間の単調さは、そのあまりの大胆な単調さによって、刺激的なものとなる。
悲しさだとか、空しさだとか、絶望だとか、無気力だとかいう、人間的な感情を説明する言葉は、このフィルムの説明には役にたたない。ここに流れる時間は、人間に関わりのある、人間が関係し働きかけることのできる時間であることをやめ、ただ、純粋に流れ続ける時間、になってしまったかのようだ。友人を殺し、仲間を殺し、最後に妻まで殺したて、たった一人になった男は、それでも一人で生きてゆこうとするのだ。これは一体どういうことなのだろうか。
まるで、人類が絶滅した後の廃虚を、幽霊だけがただうろうろと歩きまわっている、ような感じだ。幽霊の存在感はきわめて薄く、ほとんど存在しないに等しいのだけれど、しかしそれでもなお、幽霊は存在しつづけているのだ。ほとんど無意味に等しい微かな意味、意味の薄さに耐えながら存在しつづける幽霊のような人物。

そこにしらじらと拡がる、起伏もなければ救いもない時間や空間は、確かに、今、ぼくがいるこの場所と直接繋がっているように思う。このうえなく平板でこのうえなく凡庸な、何処にあってもおかしくはない、規格化された風景のなかを、淡々とした足の速度で移動して行く、別に誰であってもかまわない、ありふれた、代りはいくらでもいる、しかも、他の誰からも断絶し孤立した一人の人間。それがぼくであり、あなたであり、誰でもあるのだ。
このような場所に住む人たち(ぼくたち)を、生き生きとした、暖かみのある、固有性のある、生きられた時空へと救い出そうとすることは、多分無理だし、間違っているように思う。しかし、そうではないやり方、こんな場所にいながら、この場所に耐えつつ、しかも、生きて存在しているということを、肯定する、ことが果たして可能なのだろうか。
そんなことは無理だから、我々は即刻、射切ることをやめるべきだ、という結論もアリとして、そのような問いを問いながら、そのような場所に耐えながら、生きること、ワイルド・ライフ! !

緩やかな坂をのぼりきって、ビデオ店前の駐車場を突っ切る。陽が照っている間にアスファルトに溜まった熱が足元からもわっと上がってきて、その空気の塊は、顔のあたりに吹くやや涼し気な風とは混じりあわずに、まだら模様をつくる。ぼくはなぜだか、駐車場のような、のっぺりと平べったくてニュアンスを欠いた空間が好きだ。駐車場の上の空は、やけにぺろんと広く、書き割りじみて現実感がない。そんな空間を靴の底を引きずってずるずる横切る。
AVの置いてない、いわゆるファミリー向けの店。ラフな格好の家族連れ(半袖や短パンから「肉」をむき出しにしている。見せるという意識を欠いた「モロ」な肉を)がかなりいて、すれ違うと、薄着のせいか、躰が触れたわけでもないのに、むっとする体温と蒸発してくる汗の湿り気を感じ、ヒトの動物性というか、肉性を強く感じてしまう。(子供が、ウーッ、とか、ワーッ、とかいってはしりまわる声が響く)
以前、テレビでみたのだけど、六月から七月のある暑い日に、多くのカブト虫のさなぎが一斉に羽化する一夜があるらしい。その変化は、様々な気象的な条件が揃った時、ふいに起こる。カブト虫の生体のシステムのなかに、そのような夜が、あらかじめセットしてあって、そんな夜が来ると、さなぎのなかになにかざわさわした感情(?)が生まれ、変態の為の決定的な一撃がくわえられる、のか? (繰り返し繰り返し反復する季節のなかのある一夜が、一個の個体のなかにも含まれている。)
生物としてのヒトの内部にも、そのように季節や気候に反応する何かがセットしてあって、ぼくが、今、こうして感じている、このざわざわした妙な感じも、気象てきなものに反応したに過ぎないのかも知れないのだけれど、この、ざわざわ、によって誘発された、様々な感じや、考えは、カブト虫の羽化とはかなりズレてしまっていることだろう。
自動ドアが開くと、冷房の効いた冷たい風がさあっと流れ出てきて、とても気持ちがいい。

今、ぼくのまわりにある、ものや環境、つまり「この世界」が、ぼくにとって、今見えているように見えるのは何故か。それはぼくが「そのように」世界を見ている(分節化している)、からなのだが、では、何故、ぼくは、世界を「そのように」見るのか、といえば、それは、「この世界」が、ぼくに、「そのように」見ろ、と、要求(強制)しているからだとしか考えられない。これは無意味なトートロジーだろうか。

(2)へつづく。(近日公開)   BACK