みぃはぁ版・平成伊達治家記録別館
藩主・藩知事列伝(その1)
仙臺藩と仙臺支藩
仙臺藩、伊達宗泰領、一関藩(伊達)、岩沼藩→一関藩(田村)、伊達村和領
陸奥國仙臺領(仙台藩)
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| 仙臺笹 |
62万石(表高62万石/実高約100万石)
14代宗基の代に28万石に削封。
外様 大広間(政宗公は大廊下下の間か?注) 国主
松平陸奥守家(伊達宗家)
| 政 宗 ━━ 忠 宗 ━┳ 綱 宗 ━┳ 綱 村 ┃ ┗ 宗 贄 ━━ 村 年 ━━ 村 候 ━━ 直 清 ━━ 直 勝 ━━ 宗 城 ━━ 宗 敦 ━━ 宗 経 ━━ 宗 直 ━━ 宗 博 ┃ (宇和島) (宇和島) (宇和島) (山口氏) (山口氏) (宇和島) (分家男爵) ┗ 宗 房 ━━ 吉 村 ━┳ 宗 村 ━━ 重 村 ━━ 齊 村 ━┳ 周 宗 (宮床伊達) ┃ ┗ 齊 宗 ┗ 村 良 ━┳ 村 資 ━━ 齊 義 ━━ 慶 邦 ━┳ 宗 基 (登米伊達)┃(田村氏) ┗ 邦 宗 ━━ 興 宗 ━━ 貞 宗 ━━ 泰 宗 ┗ 宗 充 ━━ 齊 邦 (登米伊達) |
注:江戸城内詰めの間(伺候席)による家格について・・
定説では松平陸奥守家(仙臺伊達家)は大広間詰めとなっています。
大廊下下の間詰めは加賀前田家、越前松平、薩摩島津(一時期)、美作越前松平(一時期)の4家であるが
寛永10年の年頭御礼順は政宗公の方が加賀中納言前田利常、薩摩中納言島津家久より先である。
よって、政宗公は大廊下下の間に詰めていたものと考えられる。
また、忠宗公も將軍家光公葬儀の際、大名代表として挨拶しており、忠宗公も大廊下下の間に詰めていた可能性もあり。
もしかすると寛文事件の頃から大広間詰めに格下げ?
○伊達政宗 (仙臺藩祖) 1567〜1636(在任:1584〜1636)
やっと登場!と思いきや・・・あえて紹介文は書きません(笑)
眼帯からビームはでません。眼帯の奥に目玉オヤジ(輝宗公?)もいません。(爆)
法名は瑞巌寺殿貞山禅利大居士で墓所は仙台市青葉区霊屋下の瑞鳳殿(ずいほうでん)
神号は武振彦命(たけるひこのみこと)で青葉神社に祭られる。
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| 政宗とその子供達(男子) 伊達政宗┳━伊達秀宗1591〜1658伊豫宇和島藩藩祖、豊臣秀吉猶子 |
○伊達忠宗 (仙臺藩第2代藩主)1599〜1658(在任:1636〜1658)
伊達宗家第18世当主、仙臺藩第2代藩主。母は田村氏愛姫。従四位下 右近衛権少將 陸奥守
詳細は子供部屋を参照の事。正室は徳川氏振姫(池田輝雅女、徳川秀忠養女)。
| 忠宗とその子供達(男子) 伊達忠宗┳━伊達虎千代丸1624〜1630 |
○伊達綱宗 (仙臺藩第3代藩主)1640〜1711(在任:1658〜1660)
| 伊達宗家第19世当主、仙臺藩第3代藩主。母は櫛笥氏貝姫。2代藩主忠宗の六男。 従四位下 左近衛権少將 陸奥守。美作守。 幼名は巳之介(己之助丸?)。母の貝姫の姉は逢春門院(後西天皇の母)で綱宗と後西天皇は従兄弟の関係 父の死後19歳で家督を継ぎ藩主となるが叔父である一関藩主伊達兵部宗勝による干渉や家臣の対立により藩政がままならず次第に酒色に溺れるようになって21歳で隠居させられた。 これが後の伊達騒動(寛文事件)の發端となった。 |
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ところで・・新吉原の三浦屋の遊女に11代(7代説、14代説もあり)続いた名跡に「高尾大夫」があります。 その2代目高尾大夫は別名、仙臺高尾と呼ばれております。 仙臺高尾は1659年12月、隅田川三又において綱宗により遊船中にて吊し斬りにあったと伝わっております。 これには異説もあり、仙臺候(綱宗もしくは綱村)が請出して56歳で天寿を全うしたとの説もあります。 どちらにしても綱宗が高尾大夫若しくは別の遊女に入れ込んでいたのは間違いなさそうですが・・・実はこの時代、三浦屋には高尾は居なかったとの説もあります。 仮に仙臺高尾が存在したとしても、吊し斬りについては「伊達騒動」を芝居や読み物にした時の風聞をもとにした脚色である可能性が高いようです。 また、隠居後は品川屋敷に住み、酒を断ち和歌、書画、彫刻、能楽、作刀などに打ち込みそれぞれの分野で優れた作品を残したそうです。 さて・・この人は本当に藩主として不適格者だったのであろうか? むしろ、北の巨大勢力伊達家と天皇家の繋がりを怪うんだ幕閣による陰謀ではないだろうか? これに幕閣と近かった伊達兵部あたりの陰謀が一枚噛んで、スケープゴートにされたとする見方もできるのではないだろうか? その証拠に従兄の後西天皇は即位後、わずかにして次代の霊元天皇(即位時10歳)に譲位させられている。 |
| 綱宗とその子供達(男子) 伊達綱宗┳━伊達綱村1659〜1719伊達宗家二十世、陸奥仙臺藩四代藩主 |
○伊達綱村 (仙臺藩第4代藩主)1659〜1719(在任:1660〜1703)
伊達宗家第20世当主、仙臺藩第4代藩主。母は三澤氏初子。3代藩主綱宗の嫡男。
従四位上 左近衛権中將 陸奥守。大正13年に従三位追賜。
小字は亀千代丸、総次郎。幼名は綱基。父の蟄居に伴い2歳で家督を継ぎ藩主となる。
後見役には大叔父の一関藩主伊達兵部宗勝、叔父の岩沼藩主田村右京亮宗良がつく。が・・
宗勝などの専横、家臣団の対立が続き寛文事件が起きる。1666年には毒殺されかかる(亀千代置毒事件)。
それだけこの時代の仙臺藩中はごたごたしていたという事でしょうか?
寛文事件の裁定により、問題のあった家臣達は処罰され、綱村(当時は綱基)自身は幼年であった為お構いなし。
よって藩政に打ち込める環境になり、防風林(松林)を設けたり運河を諸所に開くなどの治績をあげた。
かつ、儒学を学び多数の学者を招聘し藩史編纂等に尽力した。
また、仏教に帰依してからは寺院の建立、神社の造営等を行い、華やかな時代を創出し、
仙臺中興の主として仰がれた。
しかし、その事が災いし藩財政を逼迫させ、1683年の藩札発行が物価の高騰を招き、
1703年一門の強要により隠居をした。
母の三澤氏初子は加羅先代萩「政岡」のモデルと言われてます。
が・・・よくよく考えてみると加羅先代萩「政岡」は設定が乳母なんですよね・・
そうすると綱村の乳母且つ白川義實の室且つ白川宗廣の母である蘆名氏こそが政岡のモデルなのではないでしょうか??
| 綱村とその子供達(男子) 伊達綱村┳=伊達吉村1680〜1751伊達宗家二十一世、陸奥仙臺藩五代藩主、宮床伊達宗房長男 |
○伊達吉村 (仙臺藩第5代藩主)1680〜1751(在任:1703〜1743)
伊達宗家第21世当主、仙臺藩第5代藩主。一門伊達肥前宗房第一男。母は片倉小十郎景長女。
4代藩主綱村の養嗣子。実父の宗房は伊達忠宗の第8男で宮床伊達家当主。
従四位上 左近衛権中將 陸奥守。昭和3年に従三位追賜。
綱村の長子、扇千代丸夭逝の為、宗家の家督を継ぐ。
この人の代より夫人の墓所が並設されるようになっている。
1719年農民たちの生活を制限した「百姓条目」を出し、農政改革の着手した。
逼迫した藩財政を立て直す為に内政の改革を図り、1727年には幕府の許可を得て「寛永通宝」を石巻で鋳銭し、
領内で流通させ利潤を得たり、買米仕法を再編強化し農民から余剰米を強制的に供出させ、
江戸に廻漕して利益を増大させ、藩財政を潤わせた。
この頃の江戸市中に出回っている米の殆どが仙臺産であったとの話も伝わる。
学問所を開いて学芸を奨励。書、画、和歌それぞれに優れ芸術化肌であったと伝わる。
後世、中興の英主と言われる。
政宗公以来の湯治場として伝わる青根温泉にはこの人以降の入浴日記が残されている。
(青根温泉、湯元不亡閣の館内に展示。)
主な絵画の作品としては、「自画像」「聖徳太子孝養像」「竹梅図」「六所玉河和歌御手鑑」「源氏八景御手鑑」「四季巻物」などがある。
| 吉村とその子供達(男子) 伊達吉村┳━伊達村匡 |
○伊達宗村 (仙臺藩第6代藩主)1718〜1756(在任:1743〜1756)
伊達宗家第22世当主、仙臺藩第6代藩主。伊達吉村第四男。母は久我氏冬姫。
従四位上 左近衛権中將 陸奥守。父と同じく芸術化肌で多くの書を残している。
また、馬術、槍術、剣術、軍術、砲術にも精通していた。
1世とも2世とも言われる伊達宗村と同名であるが、一応、八代將軍コ川吉宗から偏諱を受けた事になっているので偶然の一致か?(笑)
| 伊達家の受けた偏諱(俗説含む) |
| ●鎌倉時代
初代將軍源頼朝→1世伊達朝宗(頼宗) ●室町時代 鎌倉公方足利氏満→10世伊達氏宗 4代將軍足利義持→11世伊達持宗 8代將軍足利義政(義成)→12世伊達成宗 9代將軍足利義尚→13世伊達尚宗 10代將軍足利義稙→14世伊達稙宗 12代將軍足利義晴→15世伊達晴宗 13代將軍足利義輝→16世伊達輝宗 ●安土桃山 太閤豊臣秀吉→宇和島藩主伊達秀宗 ●江戸時代 2代將軍コ川秀忠→18世伊達忠宗 3代將軍コ川家光→伊達光宗(忠宗の嫡子、夭逝により廃嫡) 4代將軍コ川家綱→19世伊達綱宗 5代將軍コ川綱吉→20世伊達綱村 5代將軍コ川綱吉→21世伊達吉村 8代將軍コ川吉宗→22世伊達宗村 9代將軍コ川家重→23世伊達重村 11代將軍コ川家齊→24世伊達齊村 11代將軍コ川家齊→26世伊達齊宗 11代將軍コ川家齊→27世伊達齊義 11代將軍コ川家齊→28世伊達齊邦 12代將軍コ川家慶→29世伊達慶邦 14代將軍コ川家茂→伊達茂村(慶邦の養飼子) 基本は「偏諱の文字」+通字の「宗」である。 |
1747年江戸城本丸大広間に於いて、熊本藩主細川越中守宗孝が、旗本板倉修理勝該に背後から斬りつけられ殺害された。
上野安中藩主板倉佐渡守勝清と間違えられたのが原因であるが、江戸城での刃傷沙汰は例え間違えであってもお家断絶となります。(本丸松の大廊下刃傷〜赤穂浪士吉良邸打入=忠臣蔵の影響で法令化)
そのとき、その場に居合わせた伊達宗村は気転を利かせ、
「まだ、息がある。早く屋敷に運んで手当てせよ」と細川家臣に命じた。
細川家臣たちは細川宗孝の遺体をまだ生きているものとして細川藩邸に運び、
細川家では急いで跡継ぎを幕府に届け、藩主は介抱のかいなく死去したことにして事なきをえた。
細川家は感謝し、文禄・慶長の役の際に伊達政宗と細川忠興が取り合い半々に分けて持ち帰った「王義之の書」の残り半分を伊達家に送ったそうです。
また、時代は下って戊辰戦争の時に仙臺伊達家が官軍に降伏する際に中に入ったのも細川家だったそうです。
| ちなみに・・板倉家の替紋は「九曜巴紋」、細川家の家紋は「九曜紋」で、 遠目にみると非常に良く似ている。 実は伊達家も替紋として九曜紋を使用しているのだが・・(汗) |
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九曜巴紋 |
九曜紋 |
板倉家(替紋) |
細川家(家紋) |
1752年の大凶作の折に、亘理領の農民北原金平に年貢を軽くして欲しいとの直訴(籠訴)を受ける。
参勤交代の帰途での直訴であったため、北原金平は宅地・田畑没収の上、磔刑となりました。
| 宗村とその子供達(男子) 伊達宗村┳━伊達久米之丞 |
○伊達重村 (仙臺藩第7代藩主)1742〜1796(在任:1756〜1790)
伊達宗家第23世当主、仙臺藩第7代藩主。伊達宗村第二男。母は坂正三郎信之女阿与世。
従四位上 左近衛権中將 陸奥守 左兵衛督。
初め國村、のち重村。幼名、儀八郎。通称、藤次郎。号、徹山
学を好み和歌を能くし、また武勇を愛したと伝わる。
この人が藩主の時代に、東鳴子温泉に御殿湯が設けられたと伝わる。
「伊達重村朝臣小伝」の中に福島県相馬郡新地町の名産品「釣師鰈(イシガレイ)」についてのこんな逸話がある。
江戸に滞在中の伊達重村が某藩から宴に招かれた。
「焼き鰈」がメニューに入っていたのだが、重村は腹の部分を食した後、背中の部分に箸をつけた。
その時、宴主である某藩主から、「大名たるもの黒い背の部分は食べないものだ」と指摘された。
重村は「当家領内の鰈は腹も背も白い」と言ってしまい、某藩主から「そのような鰈が居るなら食べてみたい」と言われてしまった。
重村は家臣に領内の漁村、浜に背の白い鰈を捕らせるように命じたところ、釣師浜で背の白い鰈が一匹捕れたので、塩漬けし江戸屋敷に届けた。
重村は某藩主を呼んで、「これが当家領の鰈だ」と振る舞い、某藩主から「さすが大藩」と誉められ、面目を保った。
以後、釣師鰈(イシガレイ)は仙臺藩の名産品となったと伝わる。
また、「仙臺七夕まつり」が旧暦7月6日に行われるようになったのは重村の娘(りゅう姫)が7日に無くなったからだと推察されている。
| 伊達慶邦公の随筆「やくたい草」(楽山公御遺稿4巻)より抜粋 |
| 仙臺にては六日の晩にこのまつりをして、七日の暁には評定橋等より笹を流す風習也。 この事をたつぬれは 徹山公の御時より御さハりありて、七日節句のおいわひなし。 依てはばかりて六日に二星をまつるとそ、遠きむかしとなりぬれは、 今の世にははかる事にもあらねとも、其の仕形とおもはる。 |
| 重村とその子供達(男子) 伊達重村┳━伊達総三郎 |
○伊達齊村 (仙臺藩第8代藩主)1774〜1796(在任:1790〜1796)
伊達宗家第24世当主、仙臺藩第8代藩主。伊達重村第二男。母は喜多山氏郷子。
従四位下 左近衛権少將 陸奥守。祝村。幼名、式三郎。通称、総次郎。号、桂山。
詩文を好んだと伝わる。
1796年、岩松壽隆(喜惣治)が深山幽谷の中に埋もれている作並の湯(現:作並温泉・岩松旅館)を開き、世の多くの人々を助けたいと願い出、それを許可したとの逸話が残ります。
同年、江戸より帰國の途中で病となり帰國後に没した。
| 齊村とその子供達(男子) 伊達齊村┳━伊達周宗1796〜1809(1812)伊達宗家二十五世陸奥仙臺藩九代藩主 |
○伊達周宗 (仙臺藩第9代藩主)1796〜1809(1812)(在任:1796〜1812)
伊達宗家第25世当主、仙臺藩第9代藩主。伊達齊村第一男。母は鷹司氏誠子
幼名、政千代。父の死により堀田正敦(6代藩主宗村の八男、近江堅田藩主→下野佐野藩主)の補佐の元に襲封。
実際の没年は1809年で14歳だったが・・・17歳未満の場合、世子を立てる事が出来なかったので、
本来は御家断絶・領地没収となるところであった。
國老中村日向義貞の機知により死を幕府に隠匿し4年後に世子を立てた後に
卒去した事にして無嗣改易のピンチを切り抜けた。
仙臺伊達家は寛文事件以来の2度目のピンチも切り抜けてるんですよね。
まあ62万石の太守ですから幕府も不用意に手出し出来ずに見て見ぬふりをしていたのかも知れませんが・・
更に付け加えるならば、この頃の將軍は11代家齊であり、名老中であった松平定信もすでに失脚しており、
田沼派の老中、水野忠成が権勢を専らしていて、賄賂の盛行は田沼時代をも凌いでいたので、
賄賂をもって何とかした可能性も・・・。
それ以前に幕府の監督能力の低下により本当にばれていなかった可能性も高いが・・・・
1797年には領内最大の百姓一揆が發生している。
前年に若年で齊村が卒去しており周宗は幼年で家臣団により藩の運営されていた時期なので領民の統率が効いていなかったのではないだろうか・・
○伊達齊宗 (仙臺藩第10代藩主)1796〜1819(在任:1812〜1819)
伊達宗家第26世当主、仙臺藩第10代藩主。伊達齊村第二男。母は喜多山氏信子。
従四位下 左近衛権少將 陸奥守。コ純、宗純のち齊宗。幼名、コ三郎、総次郎。号、英山。
兄の周宗死後、4年たった後に世子とされ家督を継ぐ。
詩歌、剣術、槍術を好んだと伝わる。
1812年、内ケ崎家(現:内ケ崎酒造)より献酒があり、翌年「初霜」と「初霞」の銘を贈ったとの逸話が残ります。
| 齊宗とその子供達(男子) 伊達齊宗┳=伊達齊義1798〜1827伊達宗家二十七世陸奥仙臺藩十一代藩主、田村村資三男 |
○伊達齊義 (仙臺藩第11代藩主)1798〜1827(在任:1819〜1827)
伊達宗家第27世当主、仙臺藩第11代藩主。一関藩主田村左京大夫村資第3男(4男?)。母は脇坂氏琴子。
従四位下 左近衛権少將 陸奥守。伊達齊宗養嗣子。
実父の田村村資は登米伊達村良の子で、実祖父の伊達村良は仙臺藩第5代藩主伊達吉村の第8男。
つまり5代吉村の曾孫にあたり、8代齊村のハトコにあたる人なんです。
実祖父の伊達村良は登米伊達家中興の祖と言われている名当主で家政刷新を図ったり、
葛西川島事件を解決するなどの実績をあげている。
ちなみに登米伊達家は白石宗実の養嗣子宗直(植宗の8男、宗清の子)が伊達を賜り一門に列し起こした家で、
一関田村左京大夫家は仙臺支藩で宗良(忠宗3男)が名門田村家を再興した家である。
・・・・って本人のこと書いてないじゃん(^^;;
| 齊宗とその子供達(男子) 伊達齊義┳=伊達齊邦1817〜1841伊達宗家二十八世陸奥仙臺藩十二代藩主、一門登米伊達家十二代、伊達宗充長男 |
○伊達齊邦 (仙臺藩第12代藩主)1817〜1841(在任:1827〜1841)
伊達宗家第28世当主、仙臺藩第12代藩主。登米伊達長門宗充第1男。母は片倉氏常子。
従四位上 左近衛権中將 陸奥守。伊達齊義養嗣子。
初め宗礼、のち齊邦。幼名、幸五郎、藤三郎、総次郎。号、竜山。
実父の伊達宗充は登米伊達村良の孫・・と文献に書いてあるのですが、実際には・・
登米伊達家の系図等をよく見てみると・・
| 血統では 吉 村 ━┳ 村 勝 (仙臺) ┃(田村村隆) ┗ 村 良 ━┳ 村 資 ━━ 齊 義 ┃(田村) (仙臺) ┣ 村 幸 ┗ 宗 充 ━┳ 齊 邦 ┃(仙臺) ┗ 邦 寧 登米伊達家系図では 白石氏、仙臺藩一門登米伊達家 宗實=宗直━宗貞=(五郎吉)=宗倫=村直=村永=村倫=村勝=村良━村幸=宗充━齊邦=邦寧 |
宗充は実兄村幸の養子となっていて実際には村良の子であることがわかります。
すなわち11代齊義から見れば従兄弟にあたります。
先代の齊義が30歳で亡くなり齊義の長男は夭逝、次男慶邦も若年の為、家督を継いだ。
この人自身も若くして亡くなってるため、事跡らしきものが・・・見当たらん。
せいぜいが学芸を好み、大槻清準に謡曲の新曲を作らせた事くらいか?
○伊達慶邦 (仙臺藩第13代藩主)1825〜1874(在任:1841〜1868)
| 伊達宗家第29世当主、仙臺藩第13代藩主。11代齊義第二男。母は山本氏恒子。 従四位下 権中將 陸奥守。 実質的な最後の藩主。奥羽列藩同盟の盟主。 幕末、「奥州の眠れる獅子」と期待が集まり、 幕府側として奥羽各藩を取りまとめ奥羽列藩同盟の盟主となるが、 優柔不断な態度が災いし、同盟の結束は弱く九条道孝率いる薩長軍に大敗を喫し謹慎を申し渡される。 「竹に雀を袋に入れて後でおいらのものにする」と嘲笑される。 優柔不断な態度はこの人の性格だったのかもしれないが、 政宗公以来、62万石を守る為にいつ謀反を起こすかわからない武門の家と見られるよりも 文芸を愛し將軍家への従順さを示してきた事と、 歴代藩主が比較的若くして卒去している事が武門の家として弱体化してしまった原因であると考察できる。 また、將軍家とは親戚付き合いのように接した親將軍家であったことと、 幕藩体制になる以前より親皇室の家であったことによる板ばさみもあったのではないだろうか・・ 子宝祈願の為、東鳴子温泉に後室コ川氏孝子と共に湯治に訪れたらしい。 |
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| 慶邦とその子供達(男子) 伊達慶邦┳━伊達禎丸 早世 |
○伊達宗基 (仙臺藩第14代藩主/仙臺藩知事)1866〜1917(在任:1868〜1870)
伊達宗家第30世当主、仙臺伊達第14代。慶邦第四男。母は松岡氏道子。
正四位 仙臺藩知事 伯爵。 明治44年 正三位。大正6年 従二位。
この人の時に62万石から28万石に削封のち版籍奉還。
世子となるはずであった伊達宗敦が奥羽列藩同盟結成の責任を問われ、
朝廷から謹慎を命ぜられ、世子となることが出来なかった為、数え3歳で家を継ぎました。
しかし、難局を乗り切る為に謹慎を解かれた宗敦に藩知事の座を譲り退任しました。
○伊達宗敦 (仙臺藩知事)1852〜1907(在任:1870〜1871廃藩置県)
仙臺伊達家養子。宇和島伊達宗城第五男。
正四位、仙臺藩知事、男爵、貴族院議員。
藩主・藩知事列伝と銘打ってあるのでこの方を入れました。
13代藩主慶邦の養子となり30世当主14代藩主になる予定でしたが、
慶邦と同時に謹慎を申し付けられ世子となることを許されず廃嫡されました。
結局、幼い宗基が30世14代藩主となりましたが、
幼少の為、減封、版籍奉還と続いた新政府下での藩知事の任に当たる事が出来ないので、
改めて藩知事に任命されました。1871年廃藩置県、仙臺藩知事の座を退きました。
廃藩置県後はイギリスに遊学しました。1884年に新たに家を興し、1888年男爵となりました。
1890年以降は貴族院議員として活躍しました。
1919年には谷干城らと共に山県有朋を糾弾するという気骨を見せています。
同年、六男の順之助らが山県有朋の暗殺計画を立てますが、流石にそれに対しては止めに入っています。
中継ぎピッチャー?(笑)
鎌倉時代に得宗専制となった時代にも得宗家以外の執権が存在しており、
これと同様に考えればよいのではなかろうか?
ちなみにこの人の六男は「夕日と拳銃」や「闘神」のモデルとなった伊達順之助。
| 宗敦とその子供達(男子) 伊達宗敦┳━伊達宗經1870〜1936男爵 |
廃藩置県後の伊達宗家歴代当主
○伊達邦宗 (31世15代)1870〜1923
伊達宗家第31世当主、仙臺伊達第15代。慶邦第六男。伊達宗基養嗣子。
正四位、伯爵。兄宗基に男子が無く、当主の座を世襲。
ケンブリッジ大学に留学。(この辺に海外に夢をはせた政宗公の血がでてるな)
帰國後に養種園(現:若林区役所のあたり)を開設し農業の発展に尽力をつくす。
「伊達家史叢談」を編纂。(読みてぇ〜!)これが伊達氏の公式史となっているようである。
「伊達家史叢談」・・現当主泰宗氏の監修で復刻されたので買っちゃいました。
| 邦宗とその子供達(男子) 伊達邦宗┳━伊達興宗1906〜1947伊達宗家三十二世仙臺伊達家十六代当主、伯爵 |
○伊達興宗 (32世16代)1906〜1947
伊達宗家第32世当主、仙臺伊達第16代。邦宗第一男。正五位 伯爵。
1927年、陸奥薯伊達家汐留上屋敷表門模型を東京大学建築学科に寄贈。
この模型は1940年の紀元二千六百年記念日本文化史展覧会に出品された。
しかし、展覧会における藤島亥治郎の解説や、「要筐弁志年中行事」の記述、発掘調査の成果から、この表門は実在しなかったと考えられている。
1935年、第10回全國菓子大博覧会が仙臺市商工奨励館で開催。その時、名誉総裁を務めました。
死後、夫人が所有する山林等を勝手に売却したことから親族間で争いがおこり、新伊達騒動として世間を騒がせました。
○伊達貞宗 (33世17代)1937〜1981
伊達宗家第33世当主、仙臺伊達第17代。興宗第一男。仙臺博物館名誉館長。
○伊達泰宗 (34世18代)1959〜
伊達宗家第34世当主、仙臺伊達第18代。貞宗第一男。
現当主、瑞鳳殿資料館長、仙臺商工会議所顧問。
伊達泰山文庫主宰。
伊達宗泰領(陸奥岩出山藩?)

(仮に本家の家紋を掲載。実際には葉数が内九枚)
5万石(もしくは3万石)
分知新封。
外様 不詳(格から言えば柳間か?) 陣屋?(岩出山要害)
伊達弾正家(岩出山伊達家)
| 政 宗 ━━ 宗 泰 ━━ 宗 敏 ━━ 敏 親(宗親) (仙臺) (諸侯) (岩出山) (岩出山) |
| 仙臺藩一門岩出山伊達家 宗泰━宗敏━敏親=村泰━村緝━村通━村則━宗秩━義監━邦直━篤三郎━英=寧永━宗夫 |
○伊達宗泰 (岩出山館主)1601〜1638(在任:1625〜16??仕免により返納)
岩出山伊達家初代当主、諸侯。仙臺藩一門。玉造郡岩出山要害館主。母は塙氏。
幼名は愛松丸。従五位下、三河守。
詳細は子供部屋を参照の事。
資料が少ないので大名家として入れてよいものかどうかは迷ったが、諸侯に列せられと言う下りを
そのまま受け止めれば大名格(内分大名)の扱いであったものと推察できます。
ただ5万石の出所等は不明であるが仙臺藩からの分知3万石(岩出山)及び
江戸御蔵米からの支給2万石であったのではないかと思われます。
ただ単に3万石説もあり。もしかすると表高3万石実高5万石か?
1万石以上の石高で將軍家直参家臣を大名と定義するならば大名であることは確かではあるが、
各種参考文献では「内分大名」「諸侯」との記載は見られるが、「藩主」との記載は見られない。
また、藩史や藩主等を扱っている事典などでも「伊達宗泰領」「岩出山藩」などの記載は無い。
宗泰が諸侯に列していた時期は短期間であり、
尚且つ仙臺藩主の政宗公が存命中で仙臺では独裁に近い状態だったので、
仙臺藩の力が強く、単なる藩内の一門領主としての体制は整っていても、
支藩としての体制は整っていなかったと考えるのが妥当な線か・・
別の文献では將軍から5万石で直参にならないかと誘われたのを蹴った・・と書いてあるものもあります。
「断家譜」にも掲載されていないので大名として扱うのには無理があるのかな・・??
子孫は代々玉造岩出山を本拠に一門・伊達弾正家として約一万四千石を領した。
| 宗泰とその子供達(男子) 伊達宗泰┳━伊達宗敏1625〜1678一門岩出山伊達家二代当主 |
陸奥國一関領(伊達)

(仮に本家の家紋を掲載。実際の葉数は内外四十八枚か?)
3万8000石
仙臺藩より分知新封。
外様 柳間 城主格
伊達兵部家(一関伊達家)
| 政 宗 ━━ 宗 勝 ━━ 宗 興 (仙臺) |
○伊達宗勝 (一関藩藩祖)1621〜1679(在任:1660〜1671騒動により断絶)
| 一関伊達家初代当主、仙臺藩一門、一関藩初代藩主。磐井郡一関要害館主。母は勝姫(多田氏)。 従五位下 兵部大輔 詳細は子供部屋を参照の事。 |
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| 宗勝とその子供達(男子) 伊達宗勝┳━伊達宗興1645〜1701世子、御家断絶後、小倉藩預 |
陸奥國岩沼領、陸奥國一関領(田村)
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| 田村茗荷 |
3万石(維新時に2万7千石)
仙臺藩より分知新封。
外様 柳間 城主格 (岩沼藩で一時閉門前は 陣屋)
田村家
| 顯 当 ━━ 誠 顯 (旗本田村) ‖ 晴 宗 ━┳ 輝 宗 ━━ 政 宗 ━━ 忠 宗 ━┳ 宗 良 ━━ 建 顯 ━━ 女 (仙臺) ┃ (仙臺) (仙臺) (仙臺) ┃ (岩沼) (岩沼→一関) ┃ ┣ 綱 宗 ━━ 宗 贄 ━━ 村 顯 ┃ ┃(仙臺) (宇和島) ┃ ┗ 宗 房 ━━ 吉 村 ━┳ 宗 村 ━━ 正 敦 ━━ 宗 顯 ━┳ 邦 顯 ┃ (宮床伊達) (仙臺) ┃ (仙臺) (堀田氏) ┗ 邦 行 ━━ 通 顯 ┃ ┣ 村 隆 ┃ ┗ 村 良 ━━ 村 資 ┃ (登米伊達) ┗ 昭 光 ━━ 義 宗 ━━ 宗 敬 ━━ 宗 弘 ━━ 村 弘 ━━ 村 満 ━━ 村 俊 ━━ 村 文 ━━ 宗 光 ━━ 義 光 ━┳ 邦 榮 (角田石川) (角田石川) (角田石川) (角田石川) (角田石川) (角田石川) (角田石川) (角田石川) (角田石川) (角田石川)┗ 崇 顯 |
○田村宗良 (岩沼藩祖)1637〜1678(在任:1660〜1678)
田村家(再興)初代当主。仙臺藩一門、岩沼藩主。従五位下右京亮、隠岐守。仙臺藩二代藩主伊達忠宗の三男。
系図的には、田村宗顯の養嗣子という事になるようである・・
田村宗顯は田村清顯(愛姫の父)の養嗣子で実父の氏顯は清顯の弟である。
すなわち宗顯から見ると宗良は従姉の孫にあたる。
系図等に関する知識はあまり無いので詳しい事は書けませんが、言ってみれば、
田村宗顯が坂上氏田村家の最後の党首で、田村宗良が伊達氏田村家の最初の当主であると見る方が
すっきりすると思われる。
1671年、寛文事件(伊達騒動)の責任を問われ閉門となるが、のち許されて復帰している。
| 宗良とその子供達(男子) 田村宗良┳━田村松之助 早世 |
○田村建顯 (岩沼藩二代、一関藩祖)1656〜1708(在任:1678〜1682〜1708)
田村家2代当主。従五位下右京大夫、因幡守。田村宗良の二男。
岩沼藩時代の名前は宗永。先代の宗良を岩沼藩祖と書きましたが、
実際に岩沼に居所を構えたのはこの人の時。1682年に一関に移封され岩沼藩は廃藩となりました。
忠臣蔵の浅野内匠頭長矩が預けられ切腹したのは、この田村建顯の江戸藩邸である。
| 建顯とその子供達(男子) 田村建顯┳=田村誠顯1670〜1727田村家三代当主、陸奥一関藩二代藩主、田村顯当五男 |
○田村誠顯 (一関藩二代)1670〜1727(在任:1708〜1727)
田村家3代当主。従五位下下総守。旗本田村顯当(坂上姓)の五男。
修理、初名長信。室は田村建顯の女、継室は竹内惟庸の女。
田村建顯の子(経千代、春千代)が早世したので田村建顯の婿養子として田村家を継承した。
誠顯も男子に恵まれず、娘を建顯の甥の泰顯(田村顯普長男)の室とし婿養子としたが先立たれ、
その娘を村顯に改めて配し婿養子とした。
芝新橋の普請を請け負った。
| 誠顯とその子供達(男子) 田村誠顯┳━田村春千代 早世 |
○田村村顯 (一関藩三代)1707〜1755(在任:1727〜1755)
田村家4代当主。従五位下左京大夫、隠岐守。伊予宇和島藩主伊達宗贇の二男。典顯。室は田村誠顯の女。
伊達宗贇は田村宗良の兄の仙臺藩三代藩主伊達綱宗の子であり、村顯は田村宗良の甥の子である。
田村誠顯からみると義理のハトコにあたります。
一関市博物館に田村村顯所用の紺色威胴丸具足が展示されています。
| 村顯とその子供達(男子) 田村村顯==田村村隆1737〜1782田村家五代当主陸奥一関藩四代藩主、仙台伊達吉村の五男 |
○田村村隆 (一関藩四代)1737〜1782(在任:1755〜1782)
田村家5代当主。従五位下右京大夫、下総守。仙臺藩主伊達吉村の五男。
四代村顯から見れば従兄弟の子にあたる。母は高橋氏、室は伊達安房村実の女。
はじめ、伊達近江村倫の嗣となり、後に田村村顯の嗣となった。
仙臺藩第7代藩主伊達重村を補佐し、仙臺藩の財政建て直しを行い、無能な人材を処罰するなどした。
| 村隆とその子供達(男子) 田村村隆==田村村資1763〜1809田村家六代当主陸奥一関藩五代藩主、登米伊達村良の長男 |
○田村村資 (一関藩五代)1763〜1809(在任:1782〜1798)
田村家6代当主。従五位下左京大夫。仙臺藩一門登米伊達村良の長男。
伊達村良は仙臺藩主伊達吉村の八男で先代田村村隆の実弟。母は加藤氏、室は脇坂安親の女阿琴。
仙臺藩第11代藩主伊達齊義の父。
| 村資とその子供達(男子) 田村村資┳=田村宗顯1784〜1827田村家七代当主陸奥一関藩六代藩主、 |
○田村宗顯 (一関藩六代)1784〜1827(在任:1798〜1827)
田村家7代当主。従五位下右京大夫。近江堅田藩主堀田摂津守正敦の二男。紀三郎、敬顯
堀田正敦は仙臺藩七代藩主伊達宗村の子であり、宗顯は先代村資の従兄弟の子。
母は木村氏、室は田村村資の女かね(宣壽院)。
千葉胤秀を数術抜群の故をもって士籍に取り立て算術師範役とした。
(史料によっては次代の邦顯の時に取り立てられたとの記述もあり。)
| 宗顯とその子供達(男子) 田村宗顯┳━田村某 |
○田村邦顯 (一関藩七代)1816〜1840(在任:1827〜1840)
田村家8代当主。従五位下左京大夫。田村宗顯の二男。深美、コ顯
田村邦顯は自ら問題を作り算術師範役千葉胤秀に解かせていたりする。
母宣壽院の還暦祝いの時の絵画資料「宣壽院六十賀図」が一関市博物館に残る。
| 邦顯とその子供達(男子) 田村邦顯==田村邦行1820〜1857田村家九代当主陸奥一関藩八代藩主 |
○田村邦行 (一関藩八代)1820〜1857(在任:1840〜1857)
田村家9代当主。従五位下右京大夫。田村宗顯の四男。行顯
弘化年間(1830〜1848年)に勅使接待役を仰せ付かる。
嘗て、浅野内匠頭長矩を預かった事がある田村家としては、
絶対に浅野内匠頭長矩の失敗を繰り返さないようにと必要以上に神経を尖らせて臨んだとの話が残る。
| 邦顯とその子供達(男子) 田村邦行━━田村通顯1850〜1867田村家十代当主陸奥一関藩九代藩主 |
○田村通顯 (一関藩九代)1850〜1867(在任:1857〜1863)
田村家10代当主。従四位下美作守、侍従。田村邦行の長子。磐二郎、伊達茂村。
仙臺藩主伊達慶邦の養子となるが早世。長生きしていれば仙臺藩知事の任が下った可能性がある人。
| 通顯とその子供達(男子) 田村通顯==田村邦榮1852〜1887一関藩十代藩主田村家十一代十三代当主、石川義光次男 |
○田村邦榮 (一関藩十代)1852〜1887(在任:1863〜1868)
田村家11代、13代当主。従五位下。子爵。仙臺藩一門角田石川義光の二男。行顯
戊辰戦争の時、奥羽越列藩同盟に加わり新政府側の秋田藩領に侵攻したが、
仙臺藩・米澤藩の降伏により帰藩し祥雲寺に謹慎。
3000石を没収のうえ隠居を命ぜられ弟崇顯に家督を譲ったが、
後に許され新政府に仕え家督を再承した。
| 邦榮とその子供達(男子) 田村邦榮┳=田村崇顯1858〜1922一関藩十一代藩主一関藩知事田村家十二代当主、石川義光四男 |
○田村崇顯 (一関藩十一代。一関藩知事)1858〜1922(在任:1869〜1871廃藩置県)
田村家12代当主。従五位下 子爵。仙臺藩一門角田石川義光の四男。鎮丸、榮顯。
実兄邦榮が戊辰戦争の処分により隠居した為、田村家の家督を継承。
版籍奉還によって領地領民を政府に返還し、新たに知藩事に任命されて一関藩知事となった。
| 崇顯とその子供達(男子) 田村崇顯┳=田村邦榮1852〜1887一関藩十代藩主田村家十一代十三代当主、石川義光次男 |
廃藩置県後の田村家歴代当主
○田村邦榮 (13代/再承)1852〜1887
1882年、家督を再承。
○田村丕顯 (田村家14代)1875〜1945
田村家14代当主。子爵、海軍少將横須賀防備隊司令。岩手県立六原青年道場長。田村邦榮の子。
海兵27期で、アナポリス海軍兵学校に留学した。
外孫に岡村昭彦がいる。親類は海軍関係者が多かったようである。
| 丕顯とその子供達(男子) 田村丕顯┳━田村良顯1909〜1979田村家十五代当主 |
○田村良顯 (田村家15代)1909〜1979
田村家15代当主。田村丕顯の子
○田村護顯 (田村家16代)1941〜
田村家16代当主。現当主。田村良顯の子
○田村任顯 1982〜
田村護顯の長男
伊達村和領(通称:陸奥水澤藩、陸奥中津山藩)

(仮に本家の家紋を掲載。実際には葉数が内九枚)
3万石
仙臺藩より分知新封。
外様 柳間 陣屋
伊達將監家(子孫は伊達織部家)
| 綱 村 ━━ 村 和 ━━ 村 詮 (仙臺) (水澤) (川崎) |
| 仙臺藩一門川崎伊達家 村和━村詮=村敏━村煕━村賢=宗和=邦和━邦賢 |
○伊達村和 (水澤藩祖)1661〜1722(在任:1695〜1699騒動で断絶)
川崎伊達家初代当主、水澤藩初代藩主。桃生郡中津山邑主。伊達綱村二男。母は三澤氏初子。
水澤伊達將監宗景養嗣子。通称:將監、上野、左京。
従五位下 美作守 兵部大輔 左京大夫。
水澤の伊達將監家は留守氏の血統。
実際の所領は水澤ではなく、中津山、三迫で一万五千石、江戸御蔵米で一万五千石を支給された為、
中津山藩と称される事もある。
1699年、江戸で家臣が幕府従者岡孝常と騒動に及んだ為、根白石に幽居させられ、領地は宗家に返納した。
1719年、許され、世子村詮は柴田川崎に二千石を賜り一門に列した。
一時継いだ一門・伊達將監家はその後も膽澤水澤で約一万六千石を領し、
子孫の一門・伊達織部家は柴田川崎で二千石を領した。
| 村和とその子供達(男子) 伊達村和┳━伊達村詮1698〜1744一門川崎伊達家二代当主 |