みぃはぁ版・平成伊達治家記録別館


天下人戦記伊達政宗の存命中の天下人?)


室町将軍


○足利義栄(1540〜1568、将軍在位1568.2〜1568.9)

室町幕府第14代将軍、足利義維(1509〜1573)嫡男、
傀儡の将軍
室町幕府後期に有りがちな傀儡政権の主。
実質的な権力者(幕府内での)は松永久秀(1510?〜1577)、三好義継(?〜1573)。
それに次ぐのが父
の“堺公方”足利義維。
幕府外での実力者は、毛利元就(1497〜1571)、北條氏康(1515〜1571)、
上杉謙信(1530〜1578)、武田信玄(1521〜1573)、織田信長(1534〜1582)など
戦国時代の将軍なんてなんの権力も無かった。と言うより、この人って入京すら出来なかった(;々;)
ちなみに歴代の伊達家当主は将軍より偏諱を受けているが、この人の偏諱をもらった人はいない。
と、言うよりか他の大名家でもいないんじゃないかな(^_^;


○足利義昭(1537〜1597、将軍在位1568.9〜1573.7)

一乗院覚慶、
足利義秋、室町幕府第15代将軍。
12代将軍足利義晴(1511〜1550)の子、13代将軍足利
義輝(1536〜1565)の弟。
室町幕府最後の将軍。
僧籍に入っていたが、兄の13代将軍足利義輝が打たれたため、自分も命を狙われた。
細川藤孝、和田惟政らに守られて六角家、朝倉家を転々としていたが、
織田信長に担がれて15代将軍に就任した。
傀儡政権のままでいれば一生将軍職にあったかも知れないが、権力欲の強さからか
権謀術数を繰り返し、信長包囲網を作ろうとしたが、反信長勢力実力者の死などにより
夢破れ、追放されてしまった。一生、寺にいたほうが幸福だったかも(笑)
前項で書いたように、伊達家では代々、将軍の名前の一文字を拝領して当主がつけているが
もしも、この人の将軍在位がもう少し長ければ、伊達政宗は伊達昭宗となっていたかも(-_-;)
ちなみに政宗の叔父石川昭光は“昭”一文字を拝領している。
子息は・・
足利義尋(1572〜1605?)は嫡男で還俗後高山と名乗りました。槙嶋落城のおりに織田信長の人質となったと伝わります。子には常尊義尊がいたと伝わります。
一色義喬(生没年不詳)は長男説もあり、一色藤長に養育され、後近江坂本に住し、子孫は会津保科氏に仕えたと伝わります。
永山義在(生没年不詳)は薩摩藩士になったと伝わります。久兵衛。高山の子義尊と同一人物との説も。
ただし、一色義喬、永山義在が足利義昭の子だと言うのは俗説とも。

足利氏関連系図

足利義澄┳足利義維┳足利義栄
    ┃    ┣足利義助━足利義種┳平嶋義次
    ┃    ┃         ┗足利義俊
    ┃    ┣足利義任
    ┃    ┗足利明岳
    ┣
足利義晴足利義輝━足利輝若丸
    ┃    ┣
足利義昭┳足利義尋┳足利常尊
    ┃    ┃    ┃    ┗永山義尊
    ┃    ┃    ┣一色義喬━一色義房
    ┃    ┃    ┗永山義在
    ┃    ┗足利周ロ
    ┗足利随風


実質的な天下人


織田信長1534〜1582) 

織田信秀嫡男、右大臣
第六天魔王
あえてこの人について語る事はないと思いますが・・・
天下人と言っても全国制覇を成し遂げたわけではない。
最大勢力時の版図は、上野、武蔵の一部、信濃、甲斐の2/3、越後の一部、越中の一部
飛騨の大部分、能登、加賀、美濃、尾張、越前、近江、伊賀、伊勢、志摩、大和、河内
和泉、摂津、山城、若狭、丹波、丹後、但馬、因幡、播磨、備前、備中の一部、伯耆の一部
淡路、紀伊の一部、讃岐の一部、阿波の一部。
これに事実上の配下であった徳川家康(1542〜1616)の三河、遠江、駿河、甲斐の1/3があるので
天下人と言っても過言ではないだろう。
この人の経歴は前半生までは、伊達政宗とよく似ている。
母に嫌われた。弟と権力争いの末、弟を斬った。理解者の父に早死にされている。
父の死の際に、理解者の家老に死なれている。権謀術数の名人である。野望が大きい。
親族との血で血を洗う戦の数々・・・・
信長は天下一の権力者となり、家臣に討たれたが、
政宗は天下人にはならなかったが天寿をまっとうできた。この差は時代の流れのせいなのか・・
子息は・・
織田信正(1554〜1647)は庶長子で古渡城主
織田信忠(1557〜1582)は嫡男で織田家を継承するが本能寺の変で討たれる。
織田(北畠)信雄(1558〜1630)は次男で北畠氏の養子となり北畠信雄を名乗っていた時期もある。この人の説明をすると長文になるのでやめておきます(笑)
織田(神戸)信孝(1558〜1583)は三男で神戸城主、岐阜城主。神戸城主時代は神戸信孝と名乗る。織田信雄と対立し賤ヶ岳の戦いで柴田勝家と連携するも勝家が敗れた後、自刃した。
羽柴秀勝(1568〜1585)は四男で羽柴秀吉の養子で丹波亀山城主。
織田(津田)勝長(????〜1582)は五男で犬山城主。本能寺の変で兄信忠と共に二条御所で討ち死に。
織田信秀(1571〜159?)は六男で羽柴三吉侍従と呼ばれた。文禄年間に没したと伝わる。
織田信高(1576?〜1602)は七男で羽柴姓を賜る。子孫は高家。
織田信吉(1573〜1615)は八男で悌髪して道卜と号し京都で没す。
織田信貞(1574〜1624)は九男で豊臣秀吉の馬廻衆。子孫は高家
織田信好(????〜1609)は十男で豊臣秀吉に仕えたと伝わる。
織田長次(????〜1600)は十一男で豊臣秀吉の馬廻衆となる。関ヶ原の合戦で西軍に属し討ち死に。

織田氏関連系図

織田信長┳織田信正┳織田信衡
    ┃    ┗織田的寿
    ┣織田信忠┳
織田秀信
    ┃    ┗織田秀則
    ┣織田信雄┳織田秀雄
    ┃    ┣織田信良┳織田信昌
    ┃    ┃    ┗織田猿千代
    ┃    ┣織田高長┳織田長頼
    ┃    ┃    ┣織田長政
    ┃    ┃    ┣織田勝広
    ┃    ┃    ┣織田信久
    ┃    ┃    ┗津田頼房
    ┃    ┣織田高雄
    ┃    ┣織田長雄
    ┃    ┣織田信為
    ┃    ┗織田良雄
    ┣織田信孝
    ┣羽柴秀勝
    ┣織田勝長━津田勝良
    ┣織田信秀┳織田重治
    ┃    ┗織田虎法師
    ┣織田信高━織田高重━織田一之
    ┣織田信吉━織田了甫
    ┣織田信貞┳織田信次━織田貞幹
    ┃    ┗織田貞置┳織田長迢
    ┃         ┣織田貞則
    ┃         ┣織田貞輝
    ┃         ┗織田宥純
    ┣織田信好
    ┗織田長次


○明智光秀(1528〜1582)

丹波亀山城主、惟任日向守。
三日天下と言われているが、本能寺の変より山崎で羽柴秀吉に敗れるまでの期間は12日間であった。
昔は主君を討った大逆臣というイメージで描かれていたが、
近年は横暴な上司と有能な同僚に苦労させられる中間管理職的に描かれる事が多い。
これだけ評価が変化した人は他には
三国志時代の魏王曹操孟徳(155〜220)、蜀皇帝劉備玄徳(161〜223)などがあげられる。
ちなみに伊達家中でも伊達騒動の原田甲斐(1619〜1671)の評価もかなり変化をみせている。
しかし、この人を天下人に入れて良いのだろうか??
子息は・・
明智光慶(1570?〜1582)は長男で山崎の戦い後、亀山城にて高山重友、中川清秀らの攻撃を受け討死。
明智(筒井)定頼(????〜1582)は次男で筒井順慶の養子となる。本能寺の変後安土城に入るが、山崎の戦い後、坂本城で殉死。
明智乙寿丸(荒深光頼?)(????〜1600?)は三男で山崎の合戦後美濃洞戸に戻る。荒深吉衛光頼と名乗り、関ヶ原の合戦に出陣するが増水した川で水死との伝説が残る。
ついでに
明智秀満(????〜1582)は女婿で後継者的な位置にいたようである。旧姓三宅氏。山崎の戦い後、坂本城で殉死。

明智家系図

明智光秀┳明智光慶
    ┣明智定頼
    ┗明智乙寿丸


○織田秀信(1580〜1605)

美濃岐阜城主。中納言。織田信忠の長男。織田信長の嫡孫。織田家当主。幼名は三法師。
明智光秀が倒れてから、羽柴秀吉が柴田勝家(1522〜1583)等の織田家中の反対派を討伐するまでの傀儡天下人?
天下人の空白期間を埋める為、なんとなく追加してみました(笑)
信長の次男、信雄(1558〜1630)の家系は馬鹿にされながらも江戸時代も大名家として存続しているが、
この人は関ヶ原の戦いにおいて西軍に付いた為、家名断絶している。


関白


豊臣秀吉(1536〜1598 関白在位1585〜1591) 

筑前守。近江長浜城主。関白太政大臣。
一庶民から天下人に成り上がった。血統に裏づけが無い日本初の天下人。
伊達政宗との絡みがある天下人はこの人から・・
政宗との絡みは、小田原評定、謀反の疑いと金の十字架、一揆扇動と鶺鴒の目、秀次謀反の時
朝鮮出兵などなど色々な逸話が残っているが、女性に関しての逸話も幾つか残っている。
そのうちの一つが賭け碁で政宗が下げ渡された香の前の話である。
香の前は後に亘理宗根を生んでいるのだが、この宗根に関しては謎が多い(
子供部屋参照)
子供と言えば、政宗の庶長子秀宗は秀吉の猶子となり偏諱を貰いうけている。
実子は
羽柴秀勝(1570〜1576)は側室南殿との間に設けた長男?で、幼名は石松丸。
豊臣鶴松(1589〜1591)は側室淀君との間に設けた長男。夭逝。
豊臣秀頼(1593〜1615)は次男で下記を参照。
(家督を継承する可能性があった)養子は
羽柴秀勝(1568〜1585)は織田信長の四男。
豊臣秀次(1568〜1595)は事項を参照。
豊臣秀勝(1569〜1592)は姉日秀の子で実父は三好吉房、豊臣秀次の実弟。文禄の役に出兵し戦死。
宇喜多秀家(1573〜1655)宇喜多直家の嫡子。豊臣秀吉の融子として育ち、秀吉の養女(前田利家の娘)の豪姫を正室とした。五大老として活躍後、関ヶ原の戦いでは西軍副将となり、八丈島に流された。
結城秀康(1574〜1607)徳川家康の次男で豊臣秀吉の養子の後に結城氏養子となった。30代のときに松平に復姓。
八条宮智仁親王(1579〜1629)陽光太上天皇(誠仁親王)第6王子。豊臣秀吉の養子となるが鶴松の誕生により縁組を解消、八条宮家をたてる。子孫は常盤井宮〜京極宮〜桂宮と続く
小早川秀秋(1582〜1602)秀吉の正室おね(高台院)の甥(木下家定の子)で豊臣秀吉の養子となり、羽柴秀俊、秀栓と名乗る。後、小早川氏養子となった。関ヶ原の戦いの裏切りが有名。
大河ドラマ、歴史ドラマなどで色々な役者が演じているがあまりはまり役の人がいなかった。
竹中直人(秀吉)、香川照之(利家とまつ)ははまり役かな?
大河ドラマ「独眼龍政宗」の時には勝新太郎が演じていたが、迫力はあったのだが
体形的に疑問が残った。

豊臣氏

       三好吉房┏豊臣秀次┳豊臣仙千代丸
         ‖ ┃    ┣豊臣百丸
         ‖ ┃    ┣豊臣十丸
         ‖ ┃    ┗豊臣土丸
木下弥右衛門   ‖━╋豊臣秀勝
 ‖━━━━┳(日秀)┗豊臣秀保
 ‖    ┗
豊臣秀吉┳羽柴秀勝
 ‖         ┣豊臣鶴松
 ‖         ┗
豊臣秀頼━豊臣国松
(大政所)
 ‖━━━━┳豊臣秀長
筑阿弥   ┗(朝日姫)


○豊臣秀次(1568〜1595 関白在位1591〜1595)

関白。三好吉房(?〜1600)の子、豊臣秀吉養嗣子、母は秀吉の姉日秀(1531〜1625)。
秀吉の長子、鶴松(1589〜1591)の死によって関白職を秀吉より譲り受け、
秀頼(1593〜1615)の誕生により関白職を追われた悲劇の人。
秀頼の誕生時より粗暴となり殺生関白とあだなされ、謀反の疑いをかけられ高野山に追放
自刃させられた。一族三十余人も京都三条河原で斬殺された。
斬殺された一族の中で一番かわいそうだったのは最上義光の娘(政宗のいとこ)駒姫(1578〜1595)で
側室として迎えられたがまだ一度も秀次に会っていなかったのに斬殺された。
器量的に謀反など起せるような人で無かったので、
秀吉側近にはめられたというのが一般の説になっている。
実弟の
豊臣秀勝(1569〜1592)は同じく豊臣秀吉の養子。文禄の役に出兵し戦死。
豊臣秀保(1579〜1595)は豊臣秀長(1540〜1591)の養子。秀俊とも。
子息は
豊臣仙千代丸(1591〜1595)は嫡男で母は尾張国日比野下野守の女。豊臣秀次事件に連座し処刑される。
豊臣百丸(????〜1595)の母は山口少雲の女。豊臣秀次事件に連座し処刑される。
豊臣十丸(????〜1595)の母は北野松梅院の女。豊臣秀次事件に連座し処刑される。
豊臣土丸(????〜1595)の母は江州義郷の家老浅井土佐守の女。豊臣秀次事件に連座し処刑される。
他に
豊臣甘丸(????〜????)、豊臣水丸(????〜????)などが居たとも伝わるが処刑された39名に入っておらず不詳である。
夭逝か?
また、女児では
某姫(1590〜1595)は処刑されているが、
真田信繁の側室・
隆清院(1584〜1640)と梅小路氏室(????〜????)は難を逃れている。
俗説ではあるが・・・寛永の三筆の一人
松花堂昭乗(1584〜1639)も豊臣秀次の遺児であったとの伝説が残る。
大河ドラマ「独眼竜政宗」では陣内孝則が演じていて、軽いような気がした(笑)


○豊臣秀頼(1593〜1615)

右大臣。摂津大阪城主。豊臣秀吉の次男。豊臣家当主。母は淀君(浅井氏茶々)(1567〜1615)。
関白ではありませんが、このカテゴリーに入れました。
秀吉薨去から関ヶ原の戦いで徳川家康の覇権が確定するまでの名目上の天下人。
実を言うと、淀君とどちらを入れようか迷った(笑)
織田秀信同様、空白期間を埋める為だけに追加しました。
大阪の陣で敗北し自刃・・が定説であるが、各地に落人伝説や墓所が残る。
子息
豊臣国松(1608〜1615)は大阪の陣後、大阪城から脱出するも捕らえられ京都で斬首。豊臣秀勝を名乗っていたとも。
大河ドラマ「独眼竜政宗」では山下規介が演じていた。ちなみに淀君役は樋口可南子。


江戸将軍


徳川家康(1542〜1616 将軍在位1603〜1605) 

江戸幕府初代将軍、内大臣
最終的に乱世を制した人。
伊達政宗の娘、五郎八姫の舅。(一応、ここのサイトの場合、伊達政宗を中心に書いているので・・・)
この人に関しても詳しい説明はいらないでしょう。
政宗との絡みは、百万石お墨付きの話などがあるが、やっぱり松平忠輝関係の話が一番目立つ。
性質的に、信長と政宗、秀吉と政宗にはそれぞれ似たような所があったが、
家康と政宗の場合、共通項が本当に少ない。
相反するものであるから、逆に政宗も反骨を納めたのかもしれない。

子息(ご落胤含む)は
岡崎信康(1559〜1580)は長男で武田家への内通の疑いをかけられ自害。
結城秀康(1574〜1607)は次男で豊臣秀吉の養子後、結城晴朝の養子となり結城家の家督を継ぐ。子孫は越前松平家。
永見貞愛(1574〜1604)は落胤で秀康の双子の弟にあたるが死産扱いとされ母の実家永見家の養子となる。(『柳営婦女伝系』の記述と墓石調査により落胤とされている)
徳川秀忠(1579〜1632)は三男で下記を参照の事。
松平忠吉(1580〜1607)は四男で東条松平氏の家督を継いだ。
松平民部(1582〜1616)は落胤で誕生が家康の前厄の年だった為、実子として認められず結城秀康の養子となり越前松平家に仕えた。(『幕府祚胤伝』に掲載)
武田信吉(1583〜1604)は五男で名門武田氏の名跡を継ぐが無嗣断絶した。
小笠原・ディエゴ・権之丞(1589〜1615)は落胤で旗本の小笠原広朝の養子となるが切支丹で、大阪の陣では豊臣方として戦い討死。(『幕府祚胤伝』に掲載)
松平忠輝(1592〜1683)は六男で長沢松平家の家督を継いだ。伊達政宗の婿殿参照の事。
松平松千代(1594〜1599)は七男で長沢松平家に養子となるも夭逝。
平岩仙千代(1595〜1601)は八男で平岩親吉の養子となるが夭逝した。
徳川義直(1600〜1650)は九男で御三家筆頭尾張徳川家を起こした。
徳川頼宣(1602〜1671)は十男で御三家紀伊徳川家を起こした。
徳川頼房(1603〜1661)は十一男で御三家水戸徳川家を起こした。

他にも御落胤の可能性があるものとして・・
鈴木一蔵(1556〜????)は庶長子という説がある人物。遠江国磐田見附の旅籠の娘との子だとされるが俗説と考えられている。
松平(松井)康重(1568〜1640)松井康親の子であるが、母松平重吉女が家康の侍女であった時お手がつき、家康公の子を身籠ったまま康親に嫁したと伝わる。「葵の紋」を拝領。
内藤政長(1568〜1634)陸奥国磐城平藩の初代藩主。父は内藤家長、母は松平忠長の女。家康の落胤ではないかとの説がある。(『朝日日本歴史人物事典』(株)朝日新聞出版)
土井利勝(1573〜1644)父は土井利昌であるが、家康の御落胤、又は家康の伯父水野信元の子とする説もある。母は葉佐田則勝女(『徳川実記』『幕府祚胤伝』にも家康の落胤だという風説が掲載されている)
井伊直孝(1590〜1659)、近江彦根藩第2代藩主。父は井伊直政、母は印具氏とされているが、家康の落胤ではないかとの噂が流布された事があると伝わる。
後藤広世(二代目後藤庄三郎)(1606〜1680)初代後藤庄三郎の子であるが、母青山氏(大橋局)は家康の寵愛を受け身籠ったまま庄三郎に嫁したと伝わる。金座頭人。(『後藤庄三郎由緒書』)
二代目大久保主水(????〜????)初代大久保主水の子であるが、母喜多見氏は家康公の愛妾であった事があり御落胤説が流布された。幕府御用御菓子司。
などの名が挙げられる。

大河ドラマ「独眼竜政宗」では津川雅彦が演じていた。秀吉同様ミスキャストのような気が・・
と思っていたら大河ドラマ「徳川三代」で再び津川雅彦が演じてた。今回は結構、はまってる。

徳川氏関連系図

徳川家康┳岡崎信康
    ┣結城秀康┳松平忠直┳松平光長
    ┃    ┃    ┣氷見長頼
    ┃    ┃    ┗氷見長良
    ┃    ┣松平忠昌┳松平光通
    ┃    ┃    ┣松平昌勝
    ┃    ┃    ┗松平昌親
    ┃    ┣松平直政┳松平綱隆
    ┃    ┃    ┣松平近榮
    ┃    ┃    ┣松平隆政
    ┃    ┃    ┗松平直丘
    ┃    ┣本多吉松
    ┃    ┣松平直基━松平直矩
    ┃    ┗松平直良━松平直明
    ┣永見貞愛
    ┣
徳川秀忠┳徳川長丸
    ┃    ┣
徳川家光徳川家綱
    ┃    ┃    ┣徳川亀松
    ┃    ┃    ┣徳川綱重
    ┃    ┃    ┣
徳川綱吉
    ┃    ┃    ┗徳川鶴松
    ┃    ┣徳川忠長
    ┃    ┗保科正之┳保科正経
    ┃         ┣保科正頼
    ┃         ┣保科正純
    ┃         ┗松平正容
    ┣松平忠吉━松平梅貞童子
    ┣松平民部
    ┣武田信吉
    ┣小笠原権之丞
    ┣松平忠輝━松平徳松
    ┣松平松千代
    ┣平岩仙千代
    ┣徳川義直━徳川光友┳徳川綱誠
    ┃         ┣松平義行
    ┃         ┣松平義昌
    ┃         ┣松平友著
    ┃         ┗松平康永
    ┣徳川頼宣┳徳川光貞┳徳川綱教
    ┃    ┃    ┣徳川頼職
    ┃    ┃    ┗
徳川吉宗
    ┃    ┣松平修理
    ┃    ┗松平頼純┳徳川宗直
    ┃         ┣松平頼安
    ┃         ┣松平頼廉
    ┃         ┣松平頼雄
    ┃         ┣松平頼安
    ┃         ┣松平恭綱
    ┃         ┗松平直峯
    ┗徳川頼房┳松平頼重┳徳川綱方
         ┃    ┣徳川綱條
         ┃    ┣松平頼剛
         ┃    ┣松平頼候
         ┃    ┗松平頼芳
         ┣徳川光圀┳松平頼常
         ┃    ┣松平頼元
         ┃    ┣松平頼隆
         ┃    ┗松平頼雄
         ┣松平頼利━松平頼道
         ┣松平頼元┳松平頼貞
         ┃    ┣松平忠国
         ┃    ┗松平頼愛
         ┣松平頼雄
         ┣松平頼隆┳松平頼方
         ┃    ┣松平頼寧
         ┃    ┗松平頼如
         ┣某
         ┣松平頼以
         ┣松平頼泰
         ┣松平房時
         ┗松平重義


○徳川秀忠(1579〜1631 将軍在位1605〜1623)

江戸幕府第2代将軍。徳川家康三男
婿殿の松平忠輝の項にも書いたが、隆慶一郎氏の小説を読むとこの人のイメージが変わるかも
特に「影武者・徳川家康」「捨て童子・松平忠輝」に出てくるこの人は今までの描かれ方とは180度違う。
この人の基本的なイメージは、律儀で真面目で戦が下手な2代目というイメージであるが、
隆氏が書くこの人は、残忍で計算高く、真面目の皮をかぶった腹黒い男である。
まあ、史実がどちらだったとしても、優秀に2代目を演じきった人だったのだろう。
ちなみに、伊達忠宗はこの人から偏諱を受けたものと推測されている。
子息は・・
徳川長丸(1600〜1602)は長男だが夭逝。
徳川家光(1604〜1651)は次男(嫡男)で三代将軍。以下事項を参照。
徳川忠長(1606〜1633)は三男で甲斐藩主後、駿河府中藩主。兄と対立し蟄居謹慎の後、自害。
保科正之(1611〜1672)は庶子で母は浄光院(お静の方)。崇源院(お江与の方)の嫉妬から逃れる為に養子に出された。会津藩主。

ちなみに養女の
振姫(1607〜1659/実父:池田輝政)は伊達忠宗室。
大河ドラマ「独眼竜政宗」では勝野洋が演じていた。

梓右近(1611〜????)は時代劇「江戸を斬る 梓右近捕物控」の登場人物(創作)であるが、保科正之の双子の弟との設定であった。


○徳川家光(1604〜1651 将軍在位1623〜1651)

江戸幕府第3代将軍。徳川秀忠嫡男。
生まれながらにして将軍であった人
この人が将軍になった頃には政宗は既に老年の粋に入っていたため、逸話は少ない。
伊達成実の武辺話を聞いたとかそういう話は残っているが・・・
ちなみに、伊達忠宗の嫡男光宗(忠宗より先に死んでいる為、当主にはなっていないが)は
この人の偏諱を受けている。
子息は
徳川家綱(1641〜1680)は長男で四代将軍
徳川亀松(1643〜1647)は次男で夭逝
徳川綱重(1644〜1678)は三男で甲斐甲府藩主。六代将軍徳川家宣の父。
徳川綱吉(1646〜1709)は四男で上野館林藩主の後、五代将軍。犬公方。
徳川鶴松(1647〜1648)は五男で夭逝
大河ドラマ「独眼竜政宗」では宅麻伸が演じていた。
ちなみに私は宅麻伸の嫁さんの従妹に振られた経験が・・(自爆)


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