みぃはぁ版・平成伊達治家記録別館


叔父伯父戦記伊達政宗の叔父、伯父達)


輝宗の兄弟たち


岩城親隆(15??〜1594)

岩城家当主、岩城四郡の領主、伊達晴宗長男、政宗の伯父
伊達稙宗の子(晴宗の弟)と言う系図(「永禄伊達系図写(原本永禄3年)」/仙台市博物館蔵)もある。
輝宗とは、兄弟、政宗とは伯父と甥という関係にありながら、
所領が佐竹氏に隣接していたため、佐竹、蘆名連合軍に従属する。
対相馬家という立場では、同盟関係にあったりもしたが、
人取り橋の合戦では嫡子、
常隆(1567〜1590)と共に、反伊達連合軍として政宗に敵対。
この後、何度か戦闘に及ぶが、天正17年(1589年)、政宗の傘下に入る。
すでに跡目を相続していた常隆が1590年に鎌倉で客死した為、
常隆の養嗣子、
貞隆(能化丸、佐竹義重3男)が岩城家を相続する。
また、常隆の次男、
政隆(1590〜1615) は慶長12年(1607年)政宗に仕え、のち伊達姓を許され一門となる。
更に政隆の跡は忠宗の七子、
宗規が継ぎ江刺郡岩谷堂邑にうつり世々五千余石を領した。
岩城氏は秋田藩(佐竹氏)の支藩的要素が強かった亀田藩藩主を歴任する。
三代藩主までは佐竹氏の血統。四代〜十一代までが伊達氏の血統である。
あ〜硬い文章になってしまった・・有名じゃない人、書くときは説明が長くなる(^^;
もっとも無名ならばお笑いに走るしかないが・・・

岩城氏、仙台藩一門岩谷堂伊達家

晴 宗 ━┳ 親 隆 ━━ 常 隆 ━━ 政 隆 ━━ 国 隆
(伊達) ┃(岩城氏)  (岩城氏)  (岩谷堂)  (岩谷堂)
     ┗ 輝 宗 ━━ 政 宗 ━━ 忠 宗 ━┳ 
宗 規 ━━ 村 隆
      (伊達宗家) (伊達宗家) (伊達宗家)┃(岩谷堂)  (岩谷堂)
                          ┗ 宗 房 ━━ 村 興 ━━ 
隆 詔
                           (宮床)   (宮床)   (岩城氏)  


重隆親隆常隆貞隆吉隆宣隆重隆景隆秀隆隆詔隆恭隆恕隆喜隆永隆信隆政隆邦隆彰
        ┗
政隆国隆宗規村隆村望村富村将宗隆宗高義隆

赤:岩谷堂伊達家、青:岩城氏


留守政景(1549〜1607)

留守氏18代当主、高森城主、黄海館主、伊達晴宗三男、政宗の叔父、留守顕宗養嗣子
六郎、上野、従五位下上野守、雪斎、一門
輝宗の兄弟の中では常に伊達側にあったため、有名?な人
某ゲームでは能力値がそこそこしかなく、
紹介文としてお約束的に「後方の留守を任せる人」となっている。・・・おやじギャグのうえ、悲惨
大河ドラマ「独眼竜政宗」では長塚京三が演じ渋かったのに(笑)
實際には、伊達家の軍団の中心勢力となり参陣活躍した。
しかし、伊達三傑や他の個性派の家臣団に隠れて影が薄い。
嫡男、
宗利(1590〜1638)は伊達姓を許された。
次男、
重頼は天童頼澄の嗣子となり準一家に列した。

留守氏、仙台藩一門水沢伊達家

持宗━┳成宗━━尚宗━┳稙宗━━晴宗━┳輝宗━━政宗━━忠宗━━綱宗━━村任(村和)  
   ┃       ┃       ┗
政景━━宗利━━宗直━━宗景
   ┃       ┗
景宗━━顕宗
   ┗
郡宗━━藤王丸


持家郡宗藤王丸景宗顕宗政景宗利宗直宗景村任━村詮(川崎伊達家へ)
                           =
村景村利村儀村福村衛邦命邦寧
青:留守氏、赤:水沢伊達家


石川昭光(1550〜1622)

石川氏当主、須賀川城主、松山城主、松山館主、伊達晴宗四男、政宗の叔父、石川晴光養嗣子
次郎、従五位下大和守
はじめ、兄の岩城親隆同様に伊達氏と敵対するが、天正17年(1589年)、政宗の傘下に入る。
翌年、関白殿下によって領地を没収され、慶長3年(1598年)、伊達家に仕え一門の上座となった。
嫡嗣、
義宗(1576〜1610)に家督を譲り隠居するが、先立たれ、
嫡孫
宗矩(1607〜1668)が後を告ぐが幼少であったため再び政務を執った。
また、
宗矩は政宗の次女牟宇(1608〜1683)を娶っている。
昭光は大阪の陣では老骨に鞭を打ち、首級五を得ている。
こう考えると結構、伊達一族って優秀なはずなんですけど、何故か某ゲームには未だ登場せず。
最近では某ゲームも真田十勇士や石川五右衛門まで登場してるというのに・・・
と書いたら2001年2月発売の某ゲームには国人衆として登場。
伊達家で登用すると親族扱いになるけど、実親武将の名前が無いぞ!!しかも、生没年が全然違う。扱い悪すぎ。
2002年発売の某ゲームではまた落選(苦笑)
2003年発売の某ゲームでもまた落選(苦笑)
NHK大河ドラマ「独眼竜政宗」では睦五朗が演じた。

石川氏、仙台藩一門角田石川家

晴 宗 ━┳ 輝 宗
(伊達) ┃(伊達宗家)
     ┗ 
昭 光 ━━ 義 宗 ━━ 宗 矩 ━━ 宗 弘
      (石川)


晴光昭光義宗宗敬宗弘宗贇宗恒村弘村満村俊村文村任光尚宗光義光


○国分盛重(1553〜1615)

伊達晴宗五男(十男説もあり)、第17代国分氏当主、政重、一門、政宗の叔父
千代城、小泉城、松森城を居城とする。
もっと、陰の薄い人がいた・・・大河ドラマ「独眼竜政宗」ではいい味出してたはずなのに
イッセー尾形が演じ、八名信夫演じる村田宗殖(伊達稙宗の九男)と悪巧みばかりしていた
主にマークしていた相手が弱小大崎氏且つ国分家内すらまとめられなかった人だからか・・
学研や世界文化社が出してる政宗本でも扱いが小さい・・というよりか単体では扱われていない
学研の新装本や新人物往来社の政宗本では一応、単体で扱われている。
兄、石川昭光の帰参がなければ、同じく兄の留守政景とともに一門の重鎮となっていたはずである。
慶長4年、病と称し岩出山城に人見しなかったため、謀反の嫌疑をかけられ出奔、佐竹氏に従事。
兄、石川昭光と逆パターン。こんなに目立つことしてるのにほとんど小説などには現れない可愛そうな人。
ま、弟よりかはましだけど(笑)
2002年発売の某ゲームで兄石川昭光を落選させて初当選!・・能力低い・・(苦笑)
2003年発売の某ゲームでも当選!・・能力低すぎ・・(苦笑)
長男は不詳だが出家して僧になったと伝わる。
次男の
実永(1587〜1655)は持惠澤山龍寶寺住持で、玄性坊と称した。
三男の
重広(1589〜1658)は着座古内家の養嗣子。
庶子の
重吉は開墾に勤しんだ。子孫は国分姓を憚り、馬場若しくは桂島を称した。
秋田伊達家を継承したのは養子の伊達左門宣宗(佐竹義久の子)。
また、1718年の仙台天一坊事件の主役、川村玄碩は国分盛重の子孫を称した。

国分氏

盛 氏 ━┳ 盛 顕
     ┣ 盛 政
     ┃(仙台藩虎間番士森田家)
     ┗(駿 河)
      (仙台藩虎間番士横沢家)

晴 宗 ━┳ 輝 宗
(伊達) ┃(伊達宗家)
     ┗ 
盛 重 ━┳ 某
      (国分氏) ┃(僧侶)
            ┣ 
実 永
            ┃(持惠澤山龍寶寺住持)
            ┣ 重 広
            ┃(仙台藩着座古内家)
            ┗ 重 吉
             (馬場若しくは桂島を称す)

義 久 ━━ 
宣 宗 ━━ 隆 宗 ━━ 處 時
(佐竹)  (秋田伊達)


奥州国分→秋田伊達

盛氏
盛顕盛重=宣宗━隆宗━處時=處宗


仙台天一坊事件で川村玄碩(国分盛春)が主張した系図赤字は女性)


晴 宗 ━┳ 輝 宗 ━━ 政 宗
     ┃         ‖  ━━ 
萬 鶴
     ┃        
松 尾   (政宗落胤)
     ┃                ‖  ━━ 盛 春
     ┗ 盛 重 ━━ 盛 秀 ━━ 盛 信   (川村玄碩)
      (国分氏)  (川村氏)  (川村氏)


○杉目直宗(15??〜1584)

伊達晴宗六男、信夫郡杉目城主、政宗の叔父
輝宗の兄弟の中でもっとも影が薄い人
晴宗は輝宗に家督を譲った後に杉目城に入り、天正五年に晴宗死去後は直宗が杉目城に入り杉目氏を称す。
もう、この人にいたっては系図や台詞の中でしか見かけることが出来ない(;;)
伊達姓を名乗っているのだから、ずっと伊達家に仕えていたのだろう・・・
この先のカテゴリーに控えてる人の中に超大物が二人もいるで、ここでも目立たないかも・・・・

杉目氏

晴 宗 ━┳ 輝 宗
(伊達) ┃(伊達宗家)
     ┗ 
直 宗
      (杉目氏)


直宗に子が無く無嗣断絶)


輝宗の義兄弟たち


○二階堂盛義(15??〜1581)

信濃守。遠江守。奥州二階堂氏第18代当主。岩瀬郡須賀川城主。
二階堂輝行の嫡男。蘆名盛隆の父。寶壽院?大乗院(阿南姫/伊達晴宗の娘)の旦那。
元々は蘆名氏と抗争を繰り広げていたが、降伏し嫡男盛隆を人質にして和睦。
後に盛隆が蘆名氏を継いだため、勢力を盛り返した。棚ぼた(笑)
負けた相手の家督を息子が継承してしまったという幸せもの。
ところがこの人の死から7年後の1588年には政宗によって二階堂氏は滅亡している・・・

二階堂・蘆名・伊達関係図

二階堂輝行━二階堂盛義
       ‖  ‖━━━蘆名盛隆
伊達晴宗━┳阿南姫 ‖     ‖
     ┃    ‖     ‖━┳蘆名亀王丸
     ┃┏━━━女     ‖ ┗女  
     ┃┗蘆名盛氏━蘆名盛興‖  ‖
     ┃         ‖‖  ‖
     ┣━━━━━━━━━彦姫  ‖
     ┃             ‖
     ┗━女           ‖
       ‖━━━━━━━━━━━蘆名義広
       佐竹義重


伊達實元(1527〜1587)

兵部大輔。陸奥国信夫群大森城主。伊達稙宗の三男。室は伊達晴宗の娘。
伊達成實の父。伊達家の重鎮。
越後守護上杉氏への入嗣が決まっていたが、兄晴宗の反対により不成立。
天文の大乱へと発展する。父稙宗側の指揮官となり奮戦するが後には輝宗に仕えている。
政宗から見ると大叔父であり、おじであるという生粋の伊達一門衆。
ようするに姪と結婚したんですねこの人って。まあこの時代の特に奥羽では良くあるパターンですが・・・
「独眼竜政宗」では實元を竜雷太が成實を三浦
友和が演じている。パワフルな親子だ・・

仙台藩一門亘理伊達家

稙宗━┳晴宗━━輝宗━━政宗━┳秀宗
   ┃           ┣忠宗
   ┃           ┣宗泰━━宗敏━━
實氏━━村成━━村實━┳村純
   ┃           ┃                   ┗
村好
   ┃           ┗
宗實━━基實
   ┗
實元━━成實━━某


實元成實宗實宗成基實實氏村成村實村純村好村氏宗賀宗恒邦實邦成


小梁川盛宗(1523〜1595)

伊達一家の小梁川氏当主。伊達家家臣。室は伊達晴宗の娘。中務。泥蟠斎。
小梁川氏祖の中務少輔盛宗(伊達持宗の三男)と同名であるが、別人である。
伊達政宗同様に、先祖の名前を受け継いだものである。
最上勢との対戦で活躍。晩年は剃髪し政宗のブレーンのうちの一人となった。
大なり小なりの大名家の面々が居並ぶこの中では目立たない存在だが、
某ゲームには登場したことがあるだけ
石川昭光や国分盛重よりかはましな扱いを受けている。
もっとも生年が早いからという理由だけだと思うが・・・・
嫡男
宗重(1545〜1602)が一家小梁川氏を継承。一家小梁川氏は維新後伊達氏に復姓している。


○蘆名盛興(1547〜1575)

奥州蘆名氏第17代当主。会津黒川城主。蘆名盛氏の嫡男。後室は伊達晴宗の娘(彦姫/輝宗の養女)。
父である盛氏よりも早死にしているため、実績らしい実績は残っていない。
死因は酒毒による病死説と佐竹氏との抗争の中での討ち死に説がある。
嗣子がいなかった為、隠居していた父盛氏が世継ぎを決定した。
しかし、書くこと無いぞ〜。ん?一応この人が三浦氏からの嫡流の蘆名氏の最後の当主か・・・
それにしても蘆名氏は伊達氏との縁が深い。13代盛高の室は伊達持宗の娘。
13代盛高の娘は伊達稙宗の室。16代盛氏の室は伊達稙宗の娘。・・・・
血統的に言ったら、事項で書いている20代当主の座を巡る争いは、
伊達派が勝つべきだったような気がする。


○蘆名盛隆(1561〜1584)

三浦介、左京亮。奥州蘆名氏第18代当主。会津黒川城主。二階堂盛義の子。蘆名盛興養子。
室は
伊達晴宗の娘(彦姫/輝宗の養女、蘆名盛興の後室)
三浦氏嫡流のシンボル?の三浦介を織田信長から任じられたのがこの人の絶頂期だった。
人質から当主となった為、家臣団が反発し、黒川城内で寵臣大庭三左衛門により暗殺された。
この事により、嫡子亀王丸が19代当主となるが、これも夭折。
家中は伊達政宗の弟竺丸を擁立しようとする伊達派と
佐竹義重の次男義広(盛重)を擁立しようとする佐竹派に別れ争う事になる。
結局、佐竹派が勝利した為、義広(盛重)が20代当主となるのだが、これが滅亡を早めた原因かも?
もしも伊達派が勝利していたら、蘆名氏の滅亡は無く、竺丸が兄政宗に斬殺されることも無かっただろう
と、書いてみたが・・政宗に押さえられ小田原参陣がなく領地没収されていたかな・・


佐竹義重1547〜1612)

常陸介。佐竹氏当主。常陸の大名。常陸太田城主。佐竹義昭の嫡男。室は伊達晴宗の娘(茜姫?)。母は岩城重隆の娘。
鬼義重、坂東太郎、関東の鬼
生涯にわたる主な敵対勢力は南の小田原北条氏と北の陸奥伊達氏であった。
戦歴もさる事ながら、婚姻政策や他家の乗っ取り(養嗣子を送りこむ)でも活躍している。
街道七家の反伊達連合軍の総帥でもある。
関東から東北の覇権を目論んでいたのはこの人くらいじゃないかな。
対蘆名氏では抗争を繰り広げた後、蘆名氏の当主が次々と死去した事に付けこみ
まんまと乗っ取りに成功しているが、結局は伊達政宗にしてやられている。
対北條氏では抗争を繰り広げたがもつれた結果が秀吉の小田原攻めを呼んでいる。
対伊達氏では連合軍総帥として指揮を取り優位に戦を進めるが裏から北條氏に攻められ惜敗。
家督を継いだ義宣が石田三成と仲が良かったため、関ヶ原の戦いの時も痛い目にあっている。
ある意味でこの人も時代に泣かされた人のようである。
佐竹義宣(1570〜1633)は長男で出羽久保田藩主。関が原の合戦で西軍に付いた為、減転された。母は伊達晴宗の娘。
蘆名
義広(盛重)(1575〜1631)は次男ではじめ白河結城義親の養子になったが、のち蘆名亀王丸の死去により蘆名氏の養嗣子となった。摺上原の戦いで伊達氏に敗れ、常陸の父の元に逃げ帰り事実上蘆名は滅亡となる。が、翌年秀吉より常陸江戸崎に4万5千石を得る。関が原の戦い不参加により改易。
岩城貞隆
(1583〜1620)は三男で、祖母の実家岩城氏の養子。嗣子が生まれる前に死去した岩城常隆(1567〜1590)の跡を継ぐ。信濃川中島藩主。


義姫の兄弟たち


最上義光1546〜1614) 

最上義守嫡男、出羽国山形城主、右京大夫、出羽守、左近衛大将、侍従、政宗の伯父
出羽の驍将、出羽の驍勇、出羽の姦雄
義光はその生涯において騙まし討ち、裏切り、中傷など権謀の限りを尽くした。
父、義守は、傲慢不遜な義光を嫌い、弟、義時を跡目につけようとして、義光を幽閉するが
逆に、義光は父を強制的に隠居させ、義時を攻め自殺に追い込み、強引に家督を相続した。
こう書いてると、かなり嫌なやつに見えるが戦国武将としては当たり前のことをしていただけ
ただ、その能力が秀でていたため余計、残忍な感じに思えるだけである。
とりあえず、友達にはなりたくないタイプだが敵に回すのはもっと嫌なタイプである。
伊達家とは表面上は同盟関係を保ちながらも小競り合いや、権謀術中合戦は行われていた。
まー伊達家、最上家どちらから見てもお互い、嫌なお隣さんであっただろう。
晩年から、死後にかけては最上家はいいとこなしで、
娘・駒姫は豊臣秀次謀反に連座し処刑され
息子達は・・・・・
最上義康(1574〜1603) は高野山に追放、父に庄内で鉄砲で襲撃され討ち取られる。
最上家親(1582〜1617) は最上家を相続するも36歳の若さで急死。叔父の楯岡光直に毒殺されたという説もある。
清水義親(1582〜1614) は謀反の疑いで攻められ、自害。
山野辺義忠(1588〜1664) は改易後、水戸藩に仕える。
上山義直(?〜1626?) は改易後、黒田家にお預けの身となり後、自害
大山光隆(?〜?)は改易後、酒井家にお預けの身となる。
結局、御家は取り潰しの憂き目に遭っている・・・これも又、運命(さだめ)か・・
大河ドラマ「独眼竜政宗」では原田芳雄が演じていた。渋い・・・
義姫役の岩下志麻とともに味が出ていた。


○中野義時(15??〜1574)

出羽国中野城主。最上義守次男、政宗の叔父。長瀞義保と同人説有り。中野氏養嗣子。
中野氏は最上氏一族の家臣で、父最上義守の生家でもある。
政宗が弟の小次郎を斬ったのと同様に、義光も弟の義時を攻め滅ぼしている。
その、攻め滅ぼされたのが(正確には自殺に追い込まれた)この人である。
この、義時も伊達小次郎、織田信行、徳川忠長などと同じく大人受けする
一見、真面目なタイプだったのだろう。
その性格が災いしたのかあるいは兄が最上義光だったのが悪かったのか・・・
どちらにしても悲運の人。しかも、小次郎、信行、忠長ほど有名ではないし(;;)
兄弟が有名過ぎるんだよな〜出羽の驍将と猛女義姫だからな・・・
近年発見された「最上義守の書状」や「奥羽永慶軍記」「最上記」「会津四家合考」などにも名前は出てこない。
「伊達輝宗日記」には最上家の家督争いのところで「中野」という人物が出てきてはいるが
最近の研究によるとこの中野なる人物は最上義守の事を指しているのでは?との説も出てきている。
近年では中野義時の存在自体を疑問視するような説も多数あり。
根拠となる有力史料がたった一つの系図だけなんですよ。必ず系図に現れる長瀞義保と同人と見られても仕方ないのですが・・


○長瀞義保(15??〜????)

出羽国長瀞城主?。最上義守三男?四男?、政宗の叔父。新八郎。新左衛門尉。
中野義時と同人説あり。早世したと伝わる。松根光廣の父。
天童氏が滅んだ後、郡代として長瀞城に在城したと伝わるが、
長瀞城側の史料には義保が城主として在城したと言う記録は残っていない。
中野義時と同一人物とされていた事が原因なのか殆ど実績が見えてこない。
ただし、系図に掲載されているのは中野義時よりむしろ長瀞義保の方が多い。
長瀞義保の子息と伝わる
松根光廣(?〜?)は白岩城主。最上家親の死は楯岡光直の毒殺だと幕府に密告するも立証できず。立花家にお預けの身となる


○楯岡光直(15??〜1???/生没年不詳)

最上家家臣。甲斐守。最上義守の三男、楯岡氏養子。義久、義直ともいう。
前項の中野義時よりも更に影の薄い人がいた(笑)
系図をあらためて見るまで気がつかなかった(^^;
楯岡氏も最上氏の一族で中野氏同様3代満直の子の代で分家している。
1600年、甥の清水義親とともに長谷堂城を救援し、上杉軍と戦った。
1618年楯岡城主となり1万6千石を領した
1622年松根光広が最上家親の急死は光直による毒殺だと幕府に訴えたが証拠不十分
最上家改易に伴い酒井雅楽頭預けとなる。
楯岡氏では1595年の湯沢城攻めの大将を勤めた満茂の方が有名(と言ってもこちらもマイナーだが)
偉大な長兄、勇猛な姉、家督争いを演じた次兄に囲まれているため、ただでさえ目立たないのに
たいした実績もないから超マニアックな武将となってしまっている。
まあ毒殺を疑われるなど最上の血はちゃんとでてるね。


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