みぃはぁ版・平成伊達治家記録別館
父子相克
伊達尚宗vs伊達稙宗
| 1494 伊達稙宗(屋代城)が竹森丹波(竹森館主)に命じ伊達尚宗を襲わせる 伊達尚宗は逃亡し松川に布陣したが敗れ、蘆名盛高(会津猪苗代)のもとに落ち延びる 1496 伊達尚宗、蘆名盛高の援軍を得て伊達稙宗(屋代城)を攻める 伊達稙宗は敗れ伊達梁川城に退く。伊達出羽守(尚宗の弟)は敗走し近江に落ち延びる。 1514 伊達尚宗卒す。伊達稙宗が家督を継承。 |
伊達成宗と伊達尚宗の間での争いであったとの異説もありますが、年代的には尚宗と稙宗の争いであると思われます。
伊達稙宗vs伊達晴宗
| 1542 伊達晴宗(桑折西山城)、父伊達稙宗(米沢城)を捕らえて西山城内に幽閉。(天文の大乱の始まり。) 相馬顕胤(小高城)、二階堂輝行(須賀川城)、芦名盛氏(黒川城)、石川晴光等(石川城)、伊達晴宗の非道を責めて兵を集める。 大崎氏なども内部分裂。 小梁川宗朝、伊達稙宗を救出。 奥羽諸氏が伊達稙宗方、伊達晴宗方にわかれて各地で戦闘状態となる。 伊達晴宗、岩城重隆(大館城)と共に懸田義宗(掛田城)を攻撃。 相馬顕胤(小高城)、懸田義宗を救援、岩城勢と戦闘、伊達晴宗、相馬軍を警戒し大森城に入城。 葛西高信(寺池城、後の葛西晴胤)、江刺重見(岩谷堂城)を攻める。 蘆名盛氏、山内舜通(横川城)を破る(横田崩れ) 1543 大崎義宣(小野御所)・葛西晴清(石巻城)が伊達稙宗に同じ、伊達晴宗これを攻む 伊達晴宗・佐竹義篤、相馬顕胤と阿武隈川にて戦闘、伊達晴宗勢壊滅。 伊達稙宗、陸奥刈田・柴田郡を攻略す 蘆名盛舜・盛氏父子が会津の山内氏の横田中丸城を攻撃するが、退却する(横田崩れ) 1544 伊達郡穂原掛田の役、亘理綱宗(亘理城、伊達稙宗子、亘理宗隆養子)戦死。 伊達稙宗、伊達晴宗と糠野目河原で戦い晴宗軍を破る。 1546 伊達晴宗が白石城へ逃れ、伊達稙宗が桑折西山城を奪還 1547 芦名盛氏が田村隆顕(三春城)・二階堂輝行と対立。晴宗方につく。 石橋尚義(小浜城)、稙宗方より晴宗方に寝返る。 伊達晴宗方が優勢になる。 1548 田村隆顕、将軍・足利義藤(のち義輝)に伊達父子の和睦の要請 足利義藤、伊達父子に和睦を命ずる。芦名盛舜に調停を命ずる。 伊達晴宗、本拠を桑折西山城より出羽米沢城に移す 伊達稙宗は桑折西山城に隠居する。(天文の大乱の終息) 1549 伊達晴宗、相馬盛胤と戦う。以後、伊達家と相馬家は戦いに明け暮れる事になる。 1550 大崎義宣(小野御所)、葛西領に逃亡をはかるが大崎義直(名生城)勢に討ち取られる。 蘆名盛氏、安積郡中地で田村清顕と戦う 1553 伊達晴宗、懸田俊宗を破り、これを滅ぼす 1565 伊達稙宗卒す。 |
稙宗は養子縁組・婚姻で勢力を大きくしていきましたが、三男の実元を越後上杉家に入嗣に晴宗が反発し、
稙宗を幽閉したことより、奥羽全土を巻き込む形で天文の大乱が勃発した。
親戚にあたる他家は稙宗についたが、伊達家中は殆どが晴宗についた。
この事が後に輝宗・政宗の時代の他家との紛争の火種となっている。
また「洞(うつろ)」という形態の限界を示したような事柄である。
伊達晴宗vs伊達輝宗
| 1565 伊達輝宗、伊達晴宗を丸森城に隠居させ家督を継承。 1570 伊達輝宗、謀叛の疑いのあった宿老中野宗時・牧野久仲父子に先制攻撃をかけ鎮定(元亀の変) 1577 伊達晴宗卒す。 |
天文の大乱において晴宗側についていた中野宗時に専横が目立つようになり、晴宗と輝宗の関係が悪化し対立した。
元亀の変により中野・牧野を追放に追い込むが、その後も晴宗と輝宗の関係は良好では無かったようである。
伊達輝宗vs伊達政宗
| 1584 伊達輝宗、舘山城に隠居、伊達政宗に家督を譲る。 1585 畠山義継(二本松城)、伊達輝宗(舘山城)を誘拐。伊達勢は畠山義継を追跡し鉄砲隊が畠山義継に射撃。 阿武隈川にて義継は輝宗を殺害し、伊達勢に切り込み斬殺される。(粟之巣の変事) |
歴代の父子相克により国力が低下した事、輝宗室義姫が輝宗次男の小次郎を可愛がり、
家中が政宗派と小次郎派に分裂しそうになっていた事などの理由により、輝宗は政宗に早めに家督を譲った。
父子間での対立は後世に伝わっていないが、粟之巣の変事は政宗による謀略であったとの説もある。
もっとも、この時代は父子相克というよりかは、義姫vs政宗の母子相克のイメージの方が強いのだが・・・(苦笑)
伊達政宗vs伊達秀宗(宇和島)
| 1614 伊達秀宗、伊予宇和郡十万石に封ぜれれる。 伊達秀宗、伊達政宗より六万両を借用、返済のために、政宗隠居料と称して三万石分を割り引く。 1620 宇和島藩家老山家清兵衛公頼櫻田玄蕃一派により殺される(和霊騒動) 伊達政宗、伊達秀宗に謹慎を命じ、勘当する。 1621 伊達政宗、内藤正重・柳生宗矩を通じ宇和島藩の改易を老中土井利勝に申し出る。 伊達秀宗、伊達政宗及び幕府に釈明、井伊直政が仲介し改易を免れる。 伊達政宗・伊達秀宗、和解。 1632 櫻田玄蕃大風で落ちた寺の本堂の梁の下敷きになって圧死。 1635 借用金の返済が終わる。 1636 伊達政宗卒す。 1638 伊達秀宗、中風を患う。 1653 伊達秀宗、山家清兵衛公頼を祭る和霊神社を創建。 1658 伊達秀宗卒す。 |
息子はいつまで経っても子供って考えてる政宗と、独立した立場と考えている秀宗の対立。
年月不肖であるが、山家清兵衛が生きている頃に政宗が秀宗の浪費を戒める書状も残っている。
金銭面以外でも、政宗は秀宗に対して色々と口を挟んでいたようである。
付家老的な存在であった山家清兵衛が政宗の意を汲んだ政策を取った事に対して、秀宗及び櫻田玄蕃が反発していたと考えられる。
そして、櫻田玄蕃一派により山家清兵衛が殺害されるという和霊騒動へと発展した。