みぃはぁ版・平成伊達治家記録別館


伊達政宗の門閥


正室


田村氏愛姫 (1568〜1653)

陽徳院。伊達政宗の正室。三春城主田村清顕の女。母は相馬氏。
1579年、政宗に嫁し、五郎八姫(松平忠輝室)、嫡男忠宗(仙台藩主)、五男宗綱(岩ヶ崎要害館主、早世)
八男竹松丸(夭逝)を生んでいる。
本人の事は色々な所で書かれていると思うのであえて別の切り口で・・・
NHK大河ドラマ「独眼竜政宗」では少女期を後藤久美子(アレジの嫁)、成人後を桜田淳子が演じ、
世の男性を
がっかりびっくりさせた。(桜田淳子さん及び関係者の皆さん、ファンの皆様申し訳ない)
いや・・放映当時はゴクミブーム(美少女ブームの走り)の頃で、
(今でこそ後藤と言えばゴマキですが当時はゴクミだったんですよ〜>若い人)
華奢で色黒のゴクミが白塗りした事により、絶世の美女(美少女)に見えたのです。
なにせ、ゴクミ嫌いの友人でさえ、あの美少女は誰だ!?って騒いでいたくらいですから(笑)
それに比べると、桜田淳子さんは演技派であってもどちらかというと美人系ではなく
若い頃は可愛い系のアイドルだったので、ギャップが激しかった訳で・・

注:桜田淳子は山口百恵、森昌子と共に中三トリオ、高一トリオとして1970年代後半のアイドルとして一世風靡した。
山口百恵はクールビューティー、桜田淳子は可愛い系の正統派、森昌子は歌唱力に定評があるボケ担当って役割でした。


側室


飯坂氏 (1569?〜1634)

飯坂の局、松森の局、吉岡の局、(猫御前)。伊達政宗の側室。飯坂城主飯坂宗康の次女。母は桑折宗茂の女。
比較的早くからの側室で、庶長子秀宗(宇和島藩祖)三男宗清(飯坂氏を継承)を生んでいる。(『寛政重修諸家譜』)
小説やドラマの中では最初の側室で秀宗の母であることから、かなり活躍の場面が出てくるが、
史実としての足跡を辿ろうとするとなかなか実像が見えてこない。

NHK大河ドラマ「独眼竜政宗」では秋吉久美子が演じ奔放さと艶っぽさが光っていた。


六郷氏 (生年不詳〜1603?1612?)

新造の方。新庄城主六郷伊賀守の女。
『飯坂盛衰記』『竜華山史』などで庶長子秀宗(宇和島藩祖)三男宗清(飯坂氏を継承)の母とされる人物。
年代的には最も早く側室となったと思われる人物である。


塙氏 (生年不詳〜1657)

伊達政宗の側室。豊臣秀吉の家臣塙団衛門(塙団右衛門との記載も)の女。
四男宗泰(岩出山伊達家祖)を生んでいる。
父の塙団衛門(はなわだんえもん)が加藤嘉明の家臣から関ヶ原後浪人し、
大阪の陣で大阪城にあり「夜討の大将」と名を馳せた塙直之(ばんなおゆき)
通称:団右衛門(だんえもん)と同一人物であるかは不明。
同一人物ではなくても豊臣家臣とあるのでその縁戚者であろう。
伊達家内には何気に敗北した西側の関係者を匿っていたり縁戚者がいたりするので、
同一人物である可能性も捨て切れない。
って・・また本人の事書いてないよ(苦笑)


柴田氏 (生年不詳〜1666)

伊達政宗の側室。阿山の方?、於山の方。伊達家臣柴田宗義(柴田城主)の女。
六男宗信(岩ケ崎要害館主、早世)、七男宗高(村田要害館主)、
次女牟宇姫(一門石川宗敬室)を生んだと伝わる。ただし宗信は多田氏の子とする説もある。
七男宗高は村田では名君と伝わっており(
子供部屋参照)従五位に序せられていることから、
長生きしていれば内分大名もしくは支藩藩主となった可能性もあります。


芝多氏弘子 (生没年不詳)

伊達政宗の側室。伊達家臣芝多豊後常弘の女。
九男宗實(亘理伊達成實養嗣子)を生んでいる。


多田氏勝女 (生年不詳〜1669)

伊達政宗の側室。伊達家臣多田伊賀吉広の女。
多田吉広の長男が伊賀勝吉(只野作十郎)で永代着坐班に列し只野に改姓している為、しばし只野氏との記述も見られる。
其の為、古い文献等では多田氏と只野氏を別人とする説が時折見られていたが、
近年の研究により完全に同一人物であると言うことが判明している。
三女岑姫(涌谷伊達宗實室)、十男宗勝(一関藩主、兵部)を生んだと伝わる。
六男宗信(岩ケ崎要害館主、早世)も多田氏の子と言う説も古い文献等で見て取れるが、
宗信は柴田氏の子であると見るべきであろう。
弟の只野伊賀勝吉(只野作十郎)は政宗(貞山公)に寵愛を受けており、
政宗から作十郎宛のラブレターが現存する。“姉弟どんぶり”(苦笑)
は!!!側室「只野氏」とは作十郎の事か!?(爆)・・・冗談です。
この人も寛文事件のキーパーソン。娘は伊達安芸宗重の兄の嫁で、息子が伊達兵部宗勝という、
両陣営に関係のある人。ただし寛文事件の幕切れを見る前に卒しっている。


村田氏妙伴 (生年不詳〜1665)

伊達政宗の側室。妙伴。幕臣村上内膳正重の女。
四女千菊姫(京極高國室)を生んでいる。
千菊姫は政宗60歳の時の子であるから、最後の側室?であったのではないだろうか・・


愛妾等


高田氏於種(香の前) (生年不詳〜1640)

伊達政宗の愛妾。於種の方、香の前。京都伏見浪人高田治郎右衛門の女。
豊臣秀吉側室を経て茂庭延元側室。
津多女(原田宗資室、慶月院)と落胤亘理宗根(茂庭又次郎)を生んでいます。
津多女は茂庭延元の子とする説と、政宗落胤とする説があります。
この人についてもいろいろな人が書いているのであえて書く必要もないでしょう。


砂金氏(生没年不詳)

伊達政宗の愛妾?。砂金貞常の女。
砂金貞常嫡男の砂金常房(????〜1628)は、この人と政宗の間にできた子だとする説もある。
ただし、伊達家の史料にも砂金家の系図にも掲載されておらず、俗説である可能性も高い。


松尾(生没年不詳)

伊達政宗の御手付?。国分盛重夫人の侍女おための娘。仙台天一坊事件・川村玄碩の祖母
1635年政宗が鷹狩に赴いた際に御手付きになり、翌年に萬鶴(川村玄碩の母)を出産したと川村玄碩が主張した。
川村玄碩が主張が嘘か真かは定かではないが、このように御手付になった女性は居たんだろうなと想像できる。
もし川村玄碩が主張が真実だとするならば政宗卒去の前年の話であり、
老いて尚お盛んだったんだな・・なんて思ってしまう(苦笑)


マリア (架空の人物)

伊達政宗の側室?愛妾?(笑)。南樹の方。南蛮人。
山岡荘八氏の小説における創作人物。
無論、実在の人物ではないが、政宗自身が国際派でルイス・ソテロ、大久保長安などとの接点を考えると
政宗公の御手付になった外国人女性がいても不思議ではないので、一応、取り上げました。
ちなみに同じく山岡荘八原作の大河ドラマ「徳川家康」にもイスパニアの女(伊達政宗の側室)として登場してます。


幾つかの混同と定説について・・

  1. 六男宗信の母について・・文献によって、姓不祥、柴田氏、多田氏の三説がある。時代が新しい文献では柴田氏としている事が多く公式文書では柴田氏とされているので柴田氏説が有力。
  2. 多田氏と只野氏について・・父は多田姓で、兄若しくは弟の代で只野姓に改姓している為、古い文献では多田氏、只野氏の両方の記述があり、別人扱いされることもしばしばあったが、現在では伊達家公式文書では全て多田氏に統一されている。
  3. 柴田氏と芝多氏について・・これは研究がすすみ、ほぼ別人と断定してもよいのであろう。古い文献の中には同一人物説を掲げている人もいることだけ付け加えておきます。
  4. 香の前の子について・・亘理宗根(茂庭又次郎)は政宗落胤として認知されているが、慶月院については政宗落胤説と茂庭延元の実子説とがあり、まだ結論づけられていない。まあ宗根も系図上は茂庭延元の実子なのですが・・
  5. 外国人の妾について・・山岡荘八氏の小説で創作されたマリア(南樹の方)というキャラクターによって、もしかしたら政宗公ならば、御手付の外国人がいたのでは??と推測を生んだ。実際にはあり得たのか謎である。
  6. 御手付きについて・・仙台天一坊事件で川村玄碩の主張は兎も角として鷹狩に赴いた際に・・のようなケースはあったと思われる。

伊達政宗の兄弟

って・・・小次郎以外書くことねえ〜よ!!!(自爆)


伊達政道 (1578?〜1590)生年不詳

伊達輝宗の二男。母は最上氏義姫(保春院)。竺丸、小次郎。政通?、政道?
生年には1568年説と1578年説があり、政道と言う名も後世につけられたと言う説もある。
宮城県津山町に墓地があるが、そこの観光案内などではどこのパンフレットや、ホームページを見ても
1578年生まれ説を採っており、13歳で手討ちにされた悲運の貴公子と紹介されてます。
逆に後世の創作(小説など)では大抵が1568年生まれ説を採っており、
本人も関与した謀反との感を持たせているような気がいたします。
蘆名(葦名)の名跡を継ぐ可能性があった人。
蘆名氏19代亀王丸夭逝に伴い、蘆名家中では、伊達政宗の弟竺丸を擁立しようとする伊達派と
佐竹義重の次男義広(盛重)を擁立しようとする佐竹派に別れ争う・・ってどっかで書いたな・・
叔父伯父戦記、芦名盛隆参照の事。)
悲劇の弟その・・・いくつでもいいや・・
(悲劇の弟:源頼朝の弟義経、織田信長の弟信行、最上義光の弟中野義時、徳川家光の弟忠長)
織田信行(謀反)や徳川忠長(乱心)の場合は、弟の方に非があるし、
中野義時の場合は兄最上義光が一方的に攻めたとは言え、これは既に別家なので領土争いの範疇。
【輝宗の兄弟の争いと一緒。岩城・石川(佐竹・蘆名側)VS留守・国分(伊達側)】
源義経については皆さんもご存知の通りでしょう。
この小次郎の場合は、本人の意思ではなく、母義姫の陰謀のスケープゴートにされた感がある。
1578年生まれ説をとると元服するかしないかの状態で本人の意思が働くはずもない。
1568年生まれ説の場合でも、豊臣秀頼と同様のマザコン陰謀巻き込まれ型であったのではないだろうか?
義姫が政宗毒殺を試みた時期が違う時期であったら、鬼籍ではなく僧籍に入るだけで済んだかもしれない。
豊臣秀吉という政宗にとっての巨大な障害が現れ、しかも家を取り潰されかねない大事な時期であったから
斬殺という手段で謀反の根を絶つしか無かったのであろう。
更に、七代にわたる勘当を言い渡されたと伝えられている。
1793年、勘当を解かれ法要が行われたらしい。
尚、小次郎手討ちに際して、小次郎の守役小原縫殿之助定綱が殉死しており、
横山右年山の中腹に墓所があり、位置的に小次郎の墓所を見守るかのように建っています。
と・・書いてからふと思ったのだが、本当に義姫は政宗を毒殺しようとしたのであろうか?
小次郎派の家臣による陰謀との可能性も捨てきれない。
そうでなければ、最上家と伊達家が争った時に真中に陣取り両家の争いを止めようとしたであろうか?
個人的には政宗も小次郎も義姫も巻き込まれたって考えたいな〜
人取橋輝宗見殺し事件が尾をひいていたのであれば、母による毒殺も・・あるのかな・・
話は飛ぶが「花の慶次」(原作:一夢庵風流記/隆慶一郎、漫画:原哲夫)の原作から飛び出したストーリーで、義姫・小次郎謀反の場面が出てくるのですが、漫画の中では小次郎は表向きは打ち首、実際は僧籍に入ると言う結末を見せている。
史実でもこうであってくれていればな〜と思わせてしまうエピソードでした。(日本人的判官贔屓)
このエピソードは原哲夫が考えたのか隆慶一郎の構想の中にあったのかよくわからないが、もしかすると次項の秀雄の事跡が元になり小次郎=秀雄って考えて作ったエピソードなのでしょうか???
ところで・・この人を伊達政道で検索かけてもHITする事は殆ど無いに等しい。
で伊達小次郎で検索をかけると・・・陸奥宗光(1844〜1897)に関する事項の方が多くHITしてしまう。
陸奥宗光は幕末〜明治にかけて伊達牛麿、伊達小次郎(小二郎)、伊達陽之助、陸奥陽之助、錦戸広樹と
変名を繰り返しており、その中の「伊達小次郎」がHITしてしまうようです。
ちなみにNHK大河ドラマ「独眼竜政宗」では岡本健一(最近見かけない)が演じていた。


○秀雄(生年不詳〜1642)

伊達輝宗の三男(庶子?)。鶴若。真言宗豊山派の僧。
大悲願寺15世住職。江戸中野宝仙寺14世法印。
一部系図に名前を拝む事ができる。異母兄弟との説もある。
一般的には輝宗の子は2男2女とされているのでこの人っていったい・・
「秀雄」は「しゅうゆう」と読む。「ひでお」でも「ひでかつ」でもない。
大悲願寺13世海譽上人の元で弟子として在山していた秀雄のもとを政宗が訪れ、白萩を気に入り、海誉上人宛てに白萩を所望する旨を書いた書簡が現存しています。

追って曽掛に候へ共、折節に任せ、小袖壱重ね進め候。以上。
態飛脚を以って申し入れ候。
先度は参り、会面を遂げ本望に候。仍無心の申す事候へども、
御庭の白萩一段見事に候き、所望致し候。
先日は申し兼ね候て罷り過ぎ候。預候はば恭かるべく候。
猶後音を期し候。

恐惶謹言

    松平陸奥守

八月廿一日 花押

彼岸寺御同宿中

また現在でも大悲願寺(東京都あきる野市横沢)の白萩は見事で、9月中旬〜9月下旬頃見頃です。
この逸話のイメージイラストを花咲マイコ様より頂きました。(
頂き物参照)
この故事に倣い平成13年中曽根元首相が箱根東光庵再建時に同じ様に所望書をしたため東光庵に株分して貰ったそうです。
また、光徳院の千手観世音菩薩(中野区有形文化財)を一時預かり、像が光徳院に転住になるさい一宇を建立し安置したと伝わる。
これだけ立派な事跡が残っている僧なのだから、出自を偽るという事は考えにくい・・よね??


○伊達千子姫(生没年不詳)

伊達輝宗の長女。夭逝。


○某姫(生没年不詳)

伊達輝宗の二女。夭逝。


なんでこんなに兄弟に関しての資料が乏しいの??
伯父、叔父、大叔父、子、婿、孫、先祖、先祖から派生した家系、実績がある子孫などはかなりの資料が存在するのに、
兄弟の事となると不思議なくらいに資料が乏しい。


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子供部屋  叔父伯父戦記
藩主列伝その1 婿殿
藩主列伝その2 鬼庭家の人々
藩主列伝その3 俳優記
門閥と兄弟 伊達家外伝
家紋 伊達家一門
伊達戦史 大叔父白書