東上沿線 車窓風景移り変わり

第9号

No.12 和光市の本田技研工場脇にあった戦時遺跡(2000/11/29 記)

下り電車で和光市駅を発車すると間もなく左車窓に本田技研工業埼玉製作所が見えてきます。

かつてはこの本田の工場と東上線の間に、延々とコンクリート製の列車用掩体壕(えんたいごう)が草に埋もれて残っていました。側面から見ると、鋸の刃のような形をしていましたが、これは採光のための仕組みで、工場などではよく使われていたスタイルです。この戦時遺跡は営団地下鉄の乗り入れ工事に先立って、20年以上前に消滅してしまいました。私が子供の頃、人気テレビ活劇「少年ジェット」(昭和30年代中期の民放制作テレビ劇映画)で、ここをロケで使用していたのを覚えています。

本田技研(以後ホンダと略記)が今の和光市(当時は大和町)に工場を開設したのは昭和27年のことです。ただしこの年に開設したのは東上線の線路脇に見える工場ではなく、成増に寄った国道254号線の向こう側、都県境の白子川沿いにある工場です。現在もホンダテクニカルセンターがあります。線路沿いの工場はその翌年昭和28年にホンダ新倉工場として作られたものです。この白子と新倉の二つの工場から、ソニーと並び戦後日本企業の神話的存在であるホンダの名を、世界にとどろかせた二輪車が製造されていったのです。

さて、なぜこの和光の地にホンダが工場を移転させてきたのでしょうか。それには和光の戦前からの変転を語る必要があります。昭和9年、大和町(当時は白子村と新倉村、昭和18年に合併して大和町となる)地域を通過していた東上線に、駅が設置されました。それが新倉駅すなわち現在の和光市駅です。当時の新倉駅は島式のホーム1面で、構内踏切を渡ると駅舎がありました。この駅舎は有楽町線乗り入れにともなう和光市駅の大改造工事直前まで現役で使われていました。開設当時、この一帯はまったくの農村地帯で、とくに牛蒡については「新倉牛蒡」の名で東京に大量に出荷されていました。

昭和12年、大陸では蘆溝橋事件をきっかけに戦線が拡大し、戦時色を強めていた時代ですが、新倉の一角で陸軍による土地買収が始まりました。市ヶ谷にあった陸軍予科士官学校を朝霞から新倉にまたがる一帯に移転する計画が開始されたのです。4年後の太平洋戦争直前の昭和16年9月には、陸軍予科士官学校が完成し移転も完了。その前の年の昭和15年には大倉財閥系の兵器製造会社である中央工業が白子村・新倉村に移転して来たのを皮切りに、翌昭和16年には中外火工品、日興航空工業、逸見製作所、芝浦工作機械というように続々とこの町に移転してきました。いずれも軍需産業です。 逸見製作所は有名なヘンミ計算尺の製造元ですがこの工場での製品はほとんどが軍に納品されていました。

この中で、工場移転の先駆けとなった中央工業(工場規模も他の工場に比べ圧倒的に大きかった)の敷地が、のちにホンダに買収され同社の新倉工場となるのです。ということは、昭和30年代に少年ジェットのロケ地に使われた、コンクリート製の列車用掩体壕の廃墟は、かつての中央工業に付属する施設であったということになるでしょう。

太平洋戦争開戦前後から急速に軍施設と軍需産業の町に変身した大和町ですが、終戦とともにこうした施設は変身を余儀なくされます。まず軍施設は進駐してきた米軍に接収されました。軍需産業は民需産業に変身しますが、かならずしも転身は成功しません。当時移転してきて今も健在なのは、もともとが民需品である計算尺を主力とする逸見製作所のみです。工場の変遷は別表にあるとおりです。

現在の和光市を地図で見ますと、東上線の北と南で土地利用の形態が違うことに気づきます。大規模開発を中心とする都市計画によって発展している南部と、小規模開発による無秩序開発でスプロール化している北部に二分されます。これはおわかりのように、基地や工場といった広い敷地が戦後次第に開放・転用されることになり、それを都市開発に活用したためです。伊藤忠が開発した和光シーア・ハイツは戦前は中央工業の工場の一部、戦後は米軍の新倉倉庫として利用されていた土地です。中外火工品の工場は戦後白子精機と名を変えて存続していましたが、有楽町線の延伸に伴う和光市駅南口再開発により移転し、その跡地にはイトーヨーカ堂があります。再開発前までは、東上線の車窓から、畑の向こうに「白子精機」と白いペンキで書かれたコンクリートの塀が見えたのは記憶に新しいところです。

こうして、戦前からの開発の跡地を再利用しながら都市基盤を整えた駅南側に比べ、駅北側は、旧来の農地と集落がそのまま都市化に飲み込まれた形で、無計画に小規模開発が農地を蚕食しており、このままなし崩しに開発が進むと、都市としては憂慮すべき状態に立ち至るのは必至でしょう。そのことは和光市のホームから北口と南口を眺めて比較すれば一目瞭然です。戦前、半ば強制的に農地を買い上げられた南側と、そうした苦労にあわず昔からの農村環境を保ち続けた北側が、現在こうした状況になっていることは皮肉というほかありません。

地図

戦時中

戦  後

現  在

A

中央工業

本田技研新倉工場

本田技研埼玉製作所

米軍新倉倉庫

和光シーアハイツ

B

中外火工品

白子精機

イトーヨーカドー

C

日興航空工業

本田技研白子工場

ホンダテクニカルセンター

D

逸見製作所

ヘンミ計算尺白子工場

ヘンミ計算尺白子工場

E

芝浦工作機械

日米金属

本田技研サービスセンター

緑色

陸軍予科士官学校

陸上自衛隊官舎、和光市役所、市民文化センター、理化学研究所、税務大学校、和光国際高校ほか


▲採光窓が垂直部分に開けられている。斜面部分はもちろん屋根である。(2001年2月12日追加掲載)

◆参考文献
東武鉄道株式会社刊 「東武鉄道100年史」
和光市史
東京航空写真地図第2集 創元社刊 昭和29年発行

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