東上沿線 車窓風景移り変わり

第6号

No.9 唐子飛行場の建設と線路の移動 (2000/11/3 記)

太平洋戦争の敗戦色が濃厚になった時期、首都防空のために関東平野各地に陸軍の航空基地が建設されています。東上沿線にも若葉駅、森林公園駅周辺の2カ所に建設されています。昭和19年(1944)11月、現在の森林公園駅の南方で建設の始まった唐子飛行場の建設により東上線の線路が大きく北へ迂回する形で移動させられたことは、すでにご存じかと思います。今回はこの唐子飛行場の話題に触れてみましょう。

唐子飛行場については県立玉川工業高校のホームページに掲載されていましたが、最近閉鎖されたようで見ることができません。同校郷土研究部の「幻の飛行場」というテーマで、詳細な研究と貴重な資料が掲載されていたのですが残念です。あらためて今昔物語のほうで別項を立てて解説したいと思います。ここでは例によって新旧の地形図を並べることによって、地域の変遷を眺めてみたいと思います。なお玉川工業高校のホームページでは正式名称であったと思われる「松山飛行場」を使用していますが、ここでは筆者が子供の頃、唐子の飛行場と呼んでいたのをそのまま援用して「唐子飛行場」と記しています。

まず昭和7年発行(明治40年測図、昭和4年修正測図)の陸地測量部地図です。東松山(当時は武州松山)を出た東上線は左にカーブしながら西に向かいますが、1.5kmほど走ったところで直線になります。そのままほぼ4km近くの直線距離を走り、武蔵嵐山(当時は菅谷)手前約1kmのところで右にややカーブして駅に向かいました。このほぼ4kmの直線区間が後の唐子の飛行場建設によって大きく北に線路移動させられる区間となるのです。しかし驚くべきはこの4kmの区間、左右とも延々と森林が続くことです。このように農地として開発もされていない、手つかずの平地林であったことが飛行場建設の好条件となったのでしょう。

続く2番目の地図は上記の地図に昭和34年の修正を加えて昭和37年に発行したものですが、まだ森林公園の駅も関越高速も工業団地もできる前のものです。この地図には飛行場の敷地の後がはっきりとわかりますが、すでに戦後の開拓者の入殖が一段落し、新郷と名付けられ農地としての開拓が進んだ状況をあらわしています。旧東上線線路跡の道路、が飛行場跡地の東と西に見えます。東松山と嵐山を結ぶ現在の国道254号線にあたる道路が、戦前のルートと戦後のルートで変化がないというのが面白いですね。飛行場建設によって分断されたにもかかわらず、戦後再び飛行場跡地を突っ切る形で、以前とまったく同じルートで再開されたわけです。私の高校時代もほぼこうした状況でした。中学時代(昭和41年頃)、自転車で東松山へ行くとき、よくこの道を走りましたが、未舗装で車も少なく、今昔の感があります。254号が舗装されたのは埼玉国体(昭和42年)の直前でした。それ以前は市街地や国道17号のような幹線国道を除いては舗装道路というのはほとんどありませんでした。

最後の地図は平成7年発行のものです。開拓者の入殖した新郷は工業団地となり、森林公園駅の開業、関越自動車道、熊谷東松山有料道路の開通など、開発の波がかつての広大な平地林を一変させてしまいました。旧線路の跡も地図上ではたどりにくくなってきました。それでも東上沿線は部分的に比較的古い農村の景色を残していますが、新駅の設置、複線化の動きが現実のものとなり、これも大きく変貌を遂げようとしています。この地図もまもなく「昔を語る地図」になってしまうのでしょう。


▲昭和7年発行地形図「熊谷」より東上線の武州松山〜菅谷間の部分。飛行場建設以前の東上線昭和7年8月30日 大日本帝国陸地測量部発行 5万分の1地形図「熊谷」(明治40年測図、昭和4年修正測図)】


▲昭和37年発行地形図「熊谷」より東上線の東松山〜武蔵嵐山間の部分。新郷と書いてある部分の区画整理された一角が唐子飛行場の跡地。その東西に旧線の跡が小径となっている。昭和37年6月30日 国土地理院発行 5万分の1地形図「熊谷」(明治40年測量、昭和4年修正測量、昭和34年部分修正測量)】


▲平成7年発行地形図「熊谷」の同じ部分。森林公園駅の開業、関越自動車道の開通、新郷の開拓農地の工業団地への転換など、この一帯の変容は目を見張るばかり。一帯を覆っていた平地林は大幅に縮小した。平成7年12月1日 国土地理院発行 5万分の1地形図「熊谷」(明治40年測量、昭和54年編集、平成5年修正測量2.5万分の1地形図を資料に平成6年修正)】

使用地形図はすべて(c)国土地理院

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