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(上)昭和28年に撮影された啓志線沿線。川越街道を渡り練馬駐屯地を経て田柄川付近まで。川越街道付近はまだ一面の畑だ。 |

地図A
川越街道を渡った啓志線は西南西の方向に進み、しばらく行くと右にカーブを切ってまもなく富士街道(現在の環8通り)を突っ切って陸上自衛隊の練馬駐屯地の構内に入ります。この駐屯地がすなわち戦時中の陸軍第一造兵廠倉庫で、上板橋からここまでは戦時中に貨物専用線として開通していました。ただし戦時中のことですので、こうした軍事専用線の新設線路は戦時中の地形図には反映されていません。
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上左の写真は昭和28年撮影の航空写真の川越街道から練馬駐屯地にいたる路線のアップです。川越街道を斜めに横切った啓志線は切り通しで勾配を上ったようです。上りきったあたりに、旧線路の敷地を利用したと思われる細長いアパートが建っています〔写真1〕。ここを過ぎて線路は西に向けてカーブを切ります。そのカーブの中間地点に今も畑が残っています。当時はこの畑の中をカーブを切って走っていたのですが、現在はなんの痕跡も残っていません。しかし、この畑の付近で昭和30年頃撮影された貴重な啓志線沿線の写真が残されています。(写真2-イ)「ねりま50年の移り変わり」という練馬区で刊行した写真集にも掲載されたこの写真は、地図2の地点から矢印の方向に向けて撮影されたものです。この写真の撮影された現場は現在でも容易に特定できますので、新旧双方の写真を下に並べて見ました。およそ50年という年月の移り変わりを味わって下さい。このあたりが、当時はまったくの農村風景だったことがおわかりいただけると思います。 カーブを曲り終えた啓志線は富士街道(環8通り)を渡ります。当時の富士街道は現在のような広い道ではありませんでしたが、のちに環状8号線として利用されるにあたり片側2車線に拡幅されました。近いうちに富士街道が環状8号線として全通すると、いっそう自動車の通行量も増えることでしょう。この先、自衛隊駐屯地の中は一般人は入れませんので、現在の様子はよくわかりません。 | |
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写真2-イ 昭和30年撮影の錦町踏切 昭和30年に撮影された錦町踏切。写真左奥の森に囲まれた民家は下の写真の左半分に写っているあたりにあった。線路はあまりよく見えないが、踏切を示すクロス標識が線路の手前左と、線路の向こう側右に立っている。踏切のずっと遠方には煙突が見えるが、当時、東上線の北側にあった東洋防水木工の工場と思われる。電柱の所に写っている幼児も今や50なかばの年令に至っているであろう。(写真・練馬区提供) |
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写真2-ロ 錦町踏切跡現状 上の写真とほぼ同位置から撮影した錦町踏切跡。画面中央付近のカーブミラーの手前あたりが踏切の位置。線路は今も残る畑を突っ切って富士街道へと進んでいった。 |
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(2)練馬駐屯地を経て田柄川緑道先まで(地図B)

地図B
練馬駐屯地を通り抜けた啓志線はゆるやかに左カーブを切りながら田柄川を渡り、その先はほぼ1直線でグラントハイツへと向かいました。
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啓志線は練馬駐屯地の中央部を東西に縦貫して西に抜けます。自衛隊の駐屯地を抜けたあたりの現状は写真4にあるとおりです。このあたりだけ駐車場として空間が残っています。駐車場の西側から練馬駐屯地方向を撮ったのが写真5です。駐車場の西側で田柄川に向かって左にカーブを切る手前あたり、民家の敷地のほんの数メートルの境界が、かつての線路敷地のラインと思われる箇所がありました。密集した民家の中で、ちょっとレンズを向けるのも気が引けたのと、絵になってしまうとほとんどわからないのとで写真はありません。 | |
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謝辞:このページを作るにあたっては、読者の方からの有益な情報のご提供や励ましをいただいております。ここに深く感謝申し上げます。
■使用地形図:
〔昭和34年3月30日地理調査所発行、1万分の1地形図「練馬」:明治42年測量、昭和32年第2回修正測量、昭和31年番地調査 (c)国土地理院〕
■参考資料:
練馬区史・現勢編(昭和56年・練馬区編)
板橋区史 通史編
東武鉄道100年史(平成10年・東武鉄道編)
東京航空写真地図・第2集 (昭和29年、創元社刊)
「ねりま50年の移り変わり50年」(平成9年、練馬区編)
■写真提供:
練馬区
その他、戦前・戦後の各種地図や航空写真を参考にしました
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