東上沿線 車窓風景移り変わり

第19号

No.22 幻の支線・啓志線物語-第1回(2001/4/15 記)

啓志線という名前の支線が、戦後の一時期、現在の上板橋からグラントハイツ(Grant Heights, 現在の光が丘ニュータウン)までの6.3kmを走っていたことをご存じの方も多いと思います。今回から2〜3回に分けて、この啓志線の歴史や、その経路を訪ねてみたいと思います。今回は第1回ということで、全体的な歴史をご紹介しましょう。

グラントハイツの前身-成増飛行場

グラントハイツの前身は、昭和18年にこの地に造成された陸軍成増飛行場にさかのぼります。

この年の6月に一帯の土地を取得した陸軍は、突貫作業で10月には完成にこぎつけ、完成と同時に陸軍飛行第47戦隊(通称かわせみ部隊)が配属され、しだいに激しさを増してくる米軍機の首都空襲に対する迎撃基地となりました。第47戦隊は昭和20年5月には沖縄方面での戦闘に備え西日本に移駐しました。終戦時にどのような部隊が配置されていたかは不明です。なお成増飛行場は、地元では高松飛行場とも呼ばれていました。米軍の爆撃用空中写真にはTKAMATSUCHO A/Fと記載されていました。

グラントハイツの建設と啓志線の敷設

成増飛行場の終戦直後の様子ははっきりわかりませんが、米軍側の資料では主戦直後には既に連合軍による接収が決まっていたようです。(「練馬区史・現勢編」、p126)地元では昭和21年に農地として飛行場跡地で耕作が開始されようですが(「練馬区史・現勢編」、p124)、その一方で米軍による住宅建設の準備も開始されました。この米軍住宅を中心とする施設がグラントハイツとなるわけで、その資材運搬のために建設されたのが啓志線です。開通の時期は「東武鉄道100年史」や「練馬区史」「板橋区史」によれば昭和21年3月25日とされています。

ただし、啓志線と呼ばれた引き込み線の内、上板橋から現在の自衛隊練馬駐屯地までの区間は戦時中にすでに開通していました。練馬駐屯地の前身は、昭和15年に建設された陸軍第一造兵廠倉庫で、この造兵廠倉庫への側線として昭和18年に敷設されたそうです。(「東武鉄道100年史」)戦後の啓志線はこの側線を延長したのです。

昭和21年3月に啓志線が全線開通すると住宅建設も本格化し、横浜の米軍物資輸送本部から山手線外回り経由の直通貨車が30分おきに運行されたということです。(「練馬区史・現勢編」、p125)この宿舎が完成したのは昭和23年6月で、このときにグラントハイツと命名(「練馬区史・現勢編」、p124)されたとされますが、「板橋区史」などでは、その前年の3月3日にグラントハイツと命名されたとされており、このあたり諸説があるようです。


上の地図について:地図上赤い点線が啓志線。右上方の東上線上板橋構内から発車し、上板橋のサンライトマンションあたりで分岐。川越街道を横切り、陸上自衛隊練馬駐屯地(旧・陸軍第1造兵廠)敷地を経由。ここまでは戦時中に開通していた。ここから田柄川(現在は暗渠化して緑道となっている)の北側に沿って走り、グラントハイツに至る区間が戦後敷設されたもの。

啓志線の旅客営業

啓志線が旅客営業をしたのは、昭和22年12月6日から昭和23年2月26日までとされ(「東武鉄道100年史」)わずか2ヶ月と20日間の営業でした。国鉄から借り入れたガソリンカー10両を使って行われたとのことです。グラントハイツ完成は昭和23年6月ということですから、啓志線の旅客営業はハイツ完成前だったということになります。進駐軍の家族の使用というよりも、建設要員の輸送が主だったのでしょうか。ただし、「東武鉄道100年史」ではハイツ居住者の輸送用としています。また昭和22年5月発行戦災復興院発行の1万分の1地形図「石神井」によると、すでにハイツの北側を中心に住宅地の建設が進んでいるようですので、おそらく正式完成を待たずに随時入居が進んでいたのでしょう。啓志線の旅客輸送が正式完成前に中止されたのは、あまり居住者の需要がなかったのか、建設作業要員が利用者の主体で、工事完了が近づくに伴い利用者が減少したために営業が中止になったとも考えられます。

啓志線の廃止

その後の啓志線は細々と貨物輸送を続けたようですが、昭和32年8月に“全面廃止”されたとされます。(「東武鉄道100年史」)「練馬区史」では昭和34年4月に“完全廃止”としています。もっとも「練馬区史」は別のページで昭和26年6月に“閉鎖”されているとも書かれており、実際にいつごろまでこの線路に貨車が運行していたのかははっきりしません。

ところで東武鉄道100年史によりますと、東武鉄道は昭和34年7月22日に啓志線を買収し、その運転営業免許を申請したということです。その結果については何も書いていませんが、新線開通に至らなかったことは現状を見ればおわかりの通りです。昭和40年代前後から啓志線沿線も急速に宅地化が進みます。その結果、現在ではほとんど路線の跡を追跡するのが不可能なほど宅地化が進んでおります。昭和50年代の半ば頃までグラントハイツ跡に残っていた駅のプラットホーム跡も、光が丘ニュータウンの開発で痕跡さえも留めておりません。

グラントハイツと啓志線の名前の由来

グラントハイツのグラントとは合衆国第18代大統領のグラント(1822-1885)から名付けられています。この人はアメリカ歴代大統領の中でもっとも無能な大統領という、あまりありがたくない評判をいただいています。敗戦国日本の施設名にはこの程度が適当という考えだったのかというと、そういうわけではないようです。グラントは大統領としてより、それ以前の、南北戦争において北軍を勝利に導いた英雄的な将軍として有名です。陸軍の施設名として用いられたのは将軍グラントの功績に因んだものでしょう。また、明治時代には来日していますし、明治初期の有名な岩倉使節団一行もグラント大統領に会見しており、そういった面で日本との関わりもあったわけですから、日本における米軍施設にその名を用いるのは至極もっともだったのです。

啓志線という名前は、グラントハイツの建設責任者だった米軍人ケーシー(Casey)中尉にちなんでいます。このケーシー中尉なる人物については調べがつきませんでした。

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謝辞:このページを作るにあたっては、読者の方からの有益な情報のご提供や励ましをいただいております。ここに深く感謝申し上げます。

■参考資料:
練馬区史・現勢編(昭和56年・練馬区編)
板橋区史 通史編
東武鉄道100年史(平成10年・東武鉄道編)
その他、戦前・戦後の各種地図や航空写真を参考にしました

 

 

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