東上沿線 車窓風景移り変わり

第18号

No.21「川越町駅碑々文」と六軒町駅について(2001.3.9記)

以前、「第4号 - No.7 幻の駅(1) 田面沢駅(2000.10.17 記)」におきまして、六軒町-田面沢間の路線についての話題を取り上げましたが、この時、気になったのが「六軒町」という駅名。この名前は東武鉄道側の資料には使われません。当時の地図にも使用されていません。「川越町」というのが開業当初の正式な駅名でした。

さて、川越市六軒町の六塚稲荷神社境内の片隅に石碑がぽつんと立っています。高さは2メートルほどはありますでしょうか。「川越町駅碑」と題されたこの石碑は、大正七年に地元、六軒町の住民によって建立されたものです。今回はこの石碑をもとに「川越町」または「六軒町」という駅名の謎について探ってみましょう。

まず、六軒町という地名ですが、これは現在でも川越市駅北側一帯の町名として使われています。旧川越城下町から現在の狭山市・入間市を経て飯能や青梅・八王子方面へとつながる街道の出入り口にあたります。かつての江戸でいえば、品川・新宿・板橋・千住といったいわゆる四宿に相当する地域だったわけです。現在でも、蔵造りの町並みには及びませんが、古い街並みの面影が所々に残っています。川越南西部の村落をお得意とする商業や入間・青梅方面への運送業の町として成り立っていたわけです。

明治28年(1895)、現在の西武新宿線の前身にあたる川越鉄道が国分寺-川越駅(現・本川越駅)間の営業を開始しました。川越鉄道の路線は、まさしく六軒町の住人がお得意としてきた川越南西郊外方面に通じています。この鉄道の開通により、川越南西に広がる地域の人や物は川越の入り口だった六軒町を素通りするような状況となったのでしょう。このことは「川越町駅碑々文」にもよくあらわれています。

こうした状況の中、明治末になり東上鉄道敷設が具体化してきました。六軒町の住民にとって、この話が失地回復のチャンスと映ったのはいうまでもありません。駅設置のための運動を猛烈に展開することとなりました。その具体的な誘致策決定版として、駅用地五千坪の寄附があげられます。いくら地価の安い当時とはいえ、市街化の進みつつあったこの地域に五千坪の土地をまとめて、これを寄附するということは並大抵のことではなかったはずです。当時、この運動の積極的推進者の中には、暴漢に殴り込まれたという人もあるくらいですから。

いずれにしても、この五千坪の土地に川越町駅がつくられたわけで、住民の願いはみごと達成されたわけです。

さて「六軒町」という駅名の件ですが、「六軒町」は当時、この地域を代表する地名であり、周辺の住民にとっても「川越町」駅というよりも、「六軒町」の停車場といったほうがわかりやすかったに違いありません。ひとつ手前の川越西町駅も、地元の人は「西町」の停車場と呼びならわしていたそうです。「川越町」「川越西町」などと言うのは地元の人にはなんとなくよそよそしい感じがしたのでしょう。当時の川越町民の通称として「六軒町」駅という名称があったというところでしょう。駅設置運動の先頭に立った六軒町の住民としては、駅の正式名称も「六軒町」としたかったのではないでしょうか。しかし、これでは川越以外の人にはピンとこないので、東上鉄道としては「川越町」を正式駅名としたものと思われます。(*注参照)

ということで「第4号■No.7」ページの文中駅名は正しくは「川越町」とすべき所ではありますが、六軒町住民の多大な駅誘致の労力に報いる意味で、そのまま「六軒町」駅の名称を残しておきましょう。読者の皆様のご理解をいただければ幸いです。


以下に、現在も六塚稲荷神社境内に立つ「川越町駅碑」の全文を掲げます。なおこの碑の裏面には土地寄附運動に参加した関係者150名前後の名前が刻まれていますが、これは省略させていただきました。また読みやすくするために、句読点を筆者の独断で加えてあります。その点ご承知を。文章は、現在も川越市駅北に位置する川越女子高校(当時は川越高等女学校)の先生だった逸見宮吉氏、同じく川越高女の先生勝呂一氏の筆にかかるものです。川越女子高にしても、この駅の設置によって生徒の通学の点で大いに利益を受けていたわけですから快く協力したのでしょう。また碑の上部にある題字は東上鉄道社長根津嘉一郎の筆になるものです。碑文最後の「ここに碑を建て永遠に公益のために、私資を投じたる所以をしるす」という一文に、駅建設に地域復興の夢をかけた当時の六軒町住民の熱い思いがよくあらわれています。地域と鉄道の結びつきを記した、文字通りの記念碑として後世に伝えたいものです。

川越町駅碑々文

東上鉄道株式会社々長勲三等根津嘉一郎篆額

六軒町は川越の咽喉なり。入間川、飯能、青梅等の道路を扼して、百貨の輻輳、人馬の往来、往昔城下の殷賑この口よりするもの最も多かりき。川越鉄道通じてより、この街、顧客日に疎く、車轍にわかに減じ、爾来多年凋落巷にあり。たまたま東上鉄道敷設の企あるを機とし、町内の有志躍然として起ち競うて醵金し五千坪の敷地を寄附し奔走経営。ここに川越町駅の開設を見たり。時に大正三年五月、列車軌道を馳せて東京への捷路ここに開け、川越の交通ますます便に、中武の産業いよいよ起こり、まさに近く西武上毛の物資をここに集散せんとす。まことによくこの利便を用い、協力奮励事にあたらば、この地の発展期してまつべく、有志斡旋の労、またもってむなしからず。ここに碑を建て永遠に公益のために、私資を投じたる所以をしるす。予、この地に寓するをもって、求められて、すなわち敢えて筆を取る。文の巧拙はただ町内人士後生の手中に待つのみ。

大正七年六月

埼玉県立川越高等女学校教諭 正七位 逸見宮吉 撰
教諭 勝呂 一 書

 *注:平成八年に刊行された「野田町の歴史」(発行者:八幡太郎山車協賛会)の記事には「…最初、六軒町停車場から、六軒町駅、川越町駅、川越市駅とかわり、…」とある。しかし当時の鉄道敷設届け出書類や陸地測量部の地形図では、開通当初から駅名は「川越町」と記載されている。やはり六軒町駅という名称は地元の「通称」と考えた方がよさそうであるが。

この記事をまとめるにあたって「六軒町駅設置50周年記念誌」(昭和40年5月5日、川越市六軒町連合町会発行、川越市立図書館所蔵)を参考にさせていただきました。

 

 

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