東上沿線 車窓風景移り変わり

第17号

No.20 上福岡-無線塔の思い出と東上鉄道敷設功労者ゆかりの地

私が子どもの頃、年に1度か2度ですが東上線で池袋まで乗車する機会がありました。幼かったので窓外の景色をほとんど覚えていないのですが、印象に残っているのが上福岡駅の上り電車車窓左側に見える細長い針を何本も立てたような鉄塔です。

昭和2年、それまで畑が果てしなく広がっていたこの土地に、東京から日本無線電信株式会社(現・KDDI)が進出してきました。それまで片田舎であったこの地に、突如として出現した時代の先端を行く無線通信基地。当然、そこに働く日本無線電信の社員もおおぜい引っ越してきました。それまでは地元の人かせいぜい近郷・近在の人が集住するだけの東上線の沿線の町や村で、突如埼玉とは縁もゆかりもない人が移り住んできたわけです。地元の子どもたちは坊主頭に絣の着物姿で学校に通うのが普通でしたが、都会からやって来た子どもたちは、坊ちゃん刈りにランドセルを背負った洋服姿。都会の生活の香りを運んできたのではないでしょうか。

しかし、日本無線電信の進出は上福岡の変化の始まりの第一歩だったのです。関東大震災後、急激に都市化・過密化する東京市内に点在する軍事施設の郊外移転の一環として、昭和2年に帝国陸軍の火工廠移転が決まったのです。しかしこの話は地元農民の強硬な反対運動にあい、いったんは中止されます。しかし中国大陸での戦火拡大を背景に、結局は無線基地と県道(現在の市役所通り)をはさんだ反対側の広大な敷地に火工廠が建設され、弾丸や砲弾が製造されました。昭和12年のことです。火薬を扱うので土塁で囲まれた倉庫が何棟も建てられました。 こうして一面に畑の広がるこの地域も、昭和に入って急速に景色を変えていったのです。 なお火工廠のための鉄道の引き込み施設はなく、川越線の南古谷駅から火工廠に向かう直線道路が開通し、物資の運搬にあたったということです。 現在も当時の給水塔が残っていて、当時の面影を残しています。

敗戦という形で戦争が終結して、火工廠は廃止され、広大な敷地はほとんど民間に払い下げられ、現在は大日本印刷、新日本無線、市役所、学校、上野台団地などに利用されています。いかに広大な敷地だったかおわかりいただけると思います。

いっぽうの日本無線電信の通信基地は戦後も引き続き使用されます。会社名は国際電信電話株式会社と変わります。すなわち現在のKDDIです。しかし、技術の進歩はこうした無線塔を必要としなくなり、昭和43年に上福岡の無線基地も廃止され鉄塔は撤去されます。その後、敷地の一部はKDD研究所とKDDの運動場として利用されてきましたが、現在は研究所のみが残り、運動場の跡地にはイトーヨーカ堂が開店し、現在に至っています。こうして戦前から上福岡を象徴してきた火工廠、日本無線電信の無線塔はいずれも21世紀を待たずに姿を消しました。


火工廠の面影を伝える給水塔。コンクリート製で、高さは20m以上になるだろうか。現在はまだ使用されているのだろうか。とくに説明板などはないようである。戦時遺跡として保存が望まれる。


給水塔の北側、道路を挟んだ所にある駐車場周辺に、かつての信管製造工場を建物ごとに取り囲んでいた分厚いコンクリート壁が残っている。

さて、東上線の前身である東上鉄道が開通するにあたって、 上福岡の地から忘れることのできない人物が出ております。

東上線開通以前、旧城下町川越と東京を結ぶルートは、新河岸川の舟運と川越街道の二つがメインでした。鉄道の時代に入ってから、まず日本鉄道が旧中山道ルートに沿って開通し、川越は鉄道の恩恵にあずかれませんでした。明治28年に川越鉄道が開通し、現在の西武新宿線・国分寺線のルートで甲武鉄道(現在の中央線)国分寺に出る鉄道ルートが開通し、さらに明治39年には川越電気鉄道(昭和15年廃止)が川越と大宮の間に開通しました。

しかしいずれも四角形の辺をたどって東京に出るようなルートでした。対角線状に川越と東京を結ぶルートの開通が川越や川越街道沿いの人々の間に待望されるようになりました。また、明治中期にはさまざまな鉄道建設を目的とする会社が設立されては消えていきますが、その中で川越と池袋を結ぶ鉄道として計画された京越鉄道の発起人として、川越の豪商とともに名を連ねているのが、当時福岡村(現上福岡市)の福岡河岸の回漕問屋・福田屋の星野仙蔵です。京越鉄道は計画に終わってしまいましたが、星野仙蔵は鉄道開通への夢を捨てません。衆議院議員としても活躍していた仙蔵は、同期議員である東武鉄道社長根津嘉一郎から、東上鉄道建設計画の話を聞いて、地元有力者として惜しみない協力を申し出ます。星野仙蔵は明治44年の創立総会において、監査役として地元財界人としてはただ1人東上鉄道経営陣の一角に加わっています。

こうして大正3年5月1日、待望の東上鉄道開通の日を迎えました。仙蔵の地元である福岡村にも上福岡駅が開業しました。しかし開業の3年後、大正6年に仙蔵は47年の生涯を閉じました。今も上福岡駅には駅開設の由来を記した記念碑が残っており、仙蔵の偉業を讃えています。また仙蔵の祖先が代々経営してきた福田屋の屋敷は現在上福岡市によって福岡河岸記念館として整備保存されています。仙蔵が数多くの賓客を接待した三階楼をはじめ、かつての新河岸舟運の繁栄のあとをうかがうに足る記念館です。三階楼の最上階から眼下の新河岸川を望み、仙蔵の夢を偲ぶのも一興でしょう。

上福岡駅開業の記念碑。大正5年の上福岡駅開業に際して立てられた。もう1基あったはずだが、見あたらなかった。バスの折り返し回転台の奥にあり、一般の人は近づきがたい。この写真はフェンス越しに撮影したもの。

上福岡市立福岡河岸記念館。この福岡河岸は対岸の古市場河岸とともに、かつての江戸と川越を結ぶ新河岸川舟運で栄えた。当時の河岸における回漕問屋の経済力をうかがえる。星野仙蔵はこの回漕問屋福田屋の当主だったが、舟運の将来性に見切りをつけ、東上鉄道の開通に尽力した。
(写真提供:川越市の「イトーさん」)

大正13年発行 1/2.5万地形図。駅と旧福岡河岸(川崎と書いてある所の少し下、対岸の古市場に渡る橋のあるところが河岸場。左が福岡河岸、右が古市場河岸。河岸と上福岡駅の間は一面の畑(一部は桑畑)だったことがわかる。この広大な畑が、後の火工廠と無線通信基地に変身する。駅周辺は一面の畑。

昭和27年8月発行 1/2.5万地形図。戦後の地図だが、昭和22年撮影の航空写真を資料としているので、まだ火工廠の施設はほぼそのまま表現されている。火工廠の西側道路を挟んで無線塔の記号が見える。駅前にはようやく市街地らしきものができてきた。火工廠と南古谷駅とを結んだ新道が「川崎」の地名の左側に南北に伸びている。

昭和44年1月発行の 1/2.5万地形図。火工廠の跡地に上野台団地、日本無線、大日本ミクロといった工場が建設されている。また駅南西には霞ヶ丘団地が建設され、郊外型住宅都市としての上福岡が完成した。無線塔の分布範囲が前の地図よりも広がっていることに注意。人口増加の最も激しかった時期の上福岡である。霞ヶ丘団地は昭和34年入居開始、上野台団地は昭和35年入居開始している。

平成10年6月発行の 1/2.5万地形図。市役所が現在位置に移っている。上野台団地と駅前を結ぶ新道が開通した。無線塔はすでに無く、市街地化がいっそう進んだ。しかし、人口増加から減少に転じ、かつては若い家族であふれていた団地も、高齢者家族が目立つようになってきた。一駅池袋寄りのふじみ野駅開業や、国道254号線沿いの大規模ショッピングセンター開業などにより、駅周辺の店舗も安閑としていられなくなっている。

使用地形図:
大日本帝国陸地測量部発行、2.5万分の1地形図「与野」:大正13年測図、(c)国土地理院〕
昭和27年8月30日国土地理院発行、2.5万分の1地形図「与野」:明治39年測図の縮図及び大正13年測量、昭和24年修正測量、昭和22年11月米軍撮影の空中写真使用 (c)国土地理院〕
昭和44年1月30日国土地理院発行、2.5万分の1地形図「与野」:大正13年測量、昭和42年改測、昭和42年4月撮影の空中写真使用、昭和42年9月現地調査 (c)国土地理院〕
平成10年6月1日発行、2.5万分の1地形図「与野」:大正13年測量、昭和51年第2回改測、平成6年修正測量、平成5年10月撮影の空中写真使用、平成6年8月現地調査 (c)国土地理院〕

※このページに使用した地形図はすべて国土地理院が著作権を保有しています。

 

 

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