東上沿線 車窓風景移り変わり

第16号

No.19 幻の常盤台飛行場

東上線唯一の高級住宅地といわれる常盤台にかつて飛行場があった、などということはにわかには信じかねることではありますが、ほんとうにあった話です。

もちろん、常盤台の宅地開発の始まる前、ときわ台駅のできる前の昭和6年から8年にかけてのことで、すでに東武が現在の常盤台一帯の畑を宅地開発のために買収し終わったころのことです。飛行場といっても恒久的なものではなく、おそらく用地買収が済んで、宅地開発に着手するまでの期間を利用しての臨時施設だったと想像しています。飛行場の使用目的は遊覧飛行であったといいますから、当時としてはずいぶんモダンな発想だったのではないでしょうか。

このアイデアを実行したのは帝国陸軍飛行兵出身で退役准尉の遠藤辰五郎という人で、複葉飛行機2機を駆って、東京市内や荒川方面への有料の遊覧飛行を実施したとのことです。当時としては飛行機に乗るというのは、庶民にとっては夢のようなことでしたでしょうし、料金もかなりかかったので、あまり繁盛もせず昭和8年には廃業してしまったとのことです。昭和10年には武蔵常盤(今のときわ台)駅が開業、宅地開発も駅開業前後に始まり、翌昭和11年には分譲が開始されています。

さて、この飛行場、当時は前野飛行場、あるいは遠藤飛行場と呼ばれていたそうで、前野飛行場前というバス停もあったそうです。滑走路は現在の常盤台小学校から北西に向けて飯沼病院のあたりまで伸びていたそうです。

飛行機など縁遠い生活をしていた、当時のあのあたりの住民も、間近に見る飛行機に度肝を抜かれたのではないでしょうか。いずれにしても今となっては夢のような話であります。

遊覧飛行といえば、現代では桶川の荒川河川敷にあるホンダ・エアポートが有名です。私も見物には何度も訪れたことがありますが、まだセスナ機に乗ったことはありません。ホンダ・エアポートの遊覧飛行は、休日などけっこうなお客さんを集めているようです。昭和初期の常盤台飛行場での遊覧飛行は、いかにも時期尚早であったということでしょうか。

滑走路の土ぼこりを舞上げて飛び立つ複葉機を想像するだけで、なんとなくわくわくしてしまいます。車窓からながめる東上線の乗客もさぞや驚いたことでしょう。

 

常盤台駅付近の新旧地形図
(左)大正6年発行の1万分の1地形図 飛行場の建設からさらに15年程前の様子であるが、昭和7年発行の2.5万分の1地形図と比べても、環境はほとんど変わっていない。滑走路が設けられ、のちに常盤台の住宅地となるあたりの地形は、石神井川へと続く浅い谷にだったことがわかる。(等高線は1.25m間隔)おそらく住宅地建設にあたってこの谷を埋めたのではないだろうか。その結果、広大で平坦な空き地が出現し、住宅地開発開始までの間、その空間を飛行場として利用したのでは。
(右)平成11年発行の1万分の1地形図 常盤台の住宅地が開発されてから60年以上を経過した。畑がつぶされて飛行場ができ、駅が開設され、さらに飛行場がつぶされて住宅地ができる。こうした変転を経て今の常盤台に至るわけだ。

(上)大正6年発行の1万分の1地形図に飛行場の想像図を重ねたもの。 現在の常盤台小学校から飯沼病院にかけて滑走路があったという証言から想像したもの。滑走路は原地形に見える深さおよそ2.5mほどの谷というか窪地を横切ることになる。この谷は住宅開発に先立ち埋められたのであろう。


今回の話題は以下の2つの著作を参考にさせていただきました。
*いたばし区史研究第5号所収「私と板橋(古老に聞く)」より河原末吉氏談話
*いたばし区史研究第2号所収「前野飛行場のこと」木村博氏著

使用地形図:
大正6年12月15日大日本帝国陸地測量部発行、1万分の1地形図「下練馬」:明治42年測図、大正5年第1回修正測図 (c)国土地理院〕
平成11年8月1日発行、1万分の1地形図「赤羽」:昭和58年編集、平成10年修正、平成9年5月撮影の空中写真を使用、平成10年10月現地調査、(c)国土地理院〕

※このページに使用した地形図はすべて国土地理院が著作権を保有しています。

 

 

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