東上沿線コラム&情報

第16号

No.24 北池袋界隈再訪〜昭和の面影の残る町(2002/11/18 記)

北池袋駅の石碑を見たついでに、駅の周辺をぶらついてみる気になりました。

前回訪れたのは確か一昨年(2000年)の晩秋でした。今回もまた、駅を降りると左手に進み、すぐにあの昭和の雰囲気を色濃く残す商店街にはいりました。前回とあまり変化はないようですが、閉店した店がいくつかあるようです。

しばらく行くと例のダンス教室のあったモルタル2階建ての建物。これは辛うじて健在ですが、お稲荷さんをはさんで建っていた、貸席北池会館は、第14号のNo.17に記したように取り壊されて空地になったまま。

さらに池袋方向に進んで行くと、東上線の北池袋から池袋に向かってすぐ車窓右側に見える、廃墟と化しつつある木造モルタル2階建てアパート(写真1)がありました。モルタル造というのも一世を風靡した外壁でしたが、手入れが行き届かないとこうまで煤けてしまうものかと思い知らされます。これはダンス教室のあった2階建ても同様ですが。こちらのアパート廃墟は、電車側から見ると、枇杷の木のようないわゆる陰木が建物を覆い隠すように茂っていてさらに陰惨な雰囲気を醸し出しています。

この北池袋界隈は、池袋という繁華街に接していながら、どうも置き去りにされたような沈滞感が漂っています。まあ、私としてはその雰囲気がたまらないのですが。人気のない道路端に立つ電柱には、「怪しい人物を見たら110番」などと書いてあります。私のように、平日の真っ昼間からデジタルカメラを片手にうろついている中年男などは、怪しい人物の代表みたいなものなので、110番されないように足早に町を通り抜けていきます。

廃墟アパートの先を左に曲がると、古びたコンクリートの階段(写真2)があらわれます。東上線・埼京線・池袋電車区をまたぐ歩行者用の跨線橋です。電車から毎日のように眺めていた跨線橋ですが、てっきり電車区かなにかの設備で、一般人が渡れるものとはこの時まで思ってもいませんでした。だいいち、人が歩いているのを見たことがありませんでしたし。

巾が2mくらいの橋ですが、長さは150mくらいはあるでしょうか。この跨線橋はものさびた実にいい雰囲気で、テレビドラマのロケなんかに使えそうですね。階段を登ると両側は金網で囲われています(写真3)。跨線橋から北を望むとJR板橋駅付近の高層マンションが遠くに、そして近くには北池袋駅のホームが望めます(写真4)、南側には首都高がかぶさるように走っている川越街道の富士見橋(写真5)、その向こうには豊島区清掃工場の高層煙突、左方向にはサンシャイン60がパノラマのように広がっています(写真6)。この跨線橋、昭和27年頃の空中写真にも写っていますので、もう50年以上は使用されているはずです。いったいいつごろ出来たのでしょうか?

東上線・埼京線をまたぐと、跨線橋は「く」の字型に曲がっていて池袋電車区を越えていきます。足下には山手線や成田エキスプレスの車輌が休んでいます。跨線橋を渡り終えるあたりは電車区の車庫の入口が左下に見えます。電車区の車庫と住宅地の間には細長い公園があります。これは以前は電車区の一部で、引き込み線路が走っていた跡でしょう。

昭和61年のことですが、電車区に進入してきた山手線の車輌が車止めを突き破って、車輌区の北に接するアパートに突っ込んだ事故がありました。テレビで事故を知って東上線の電車の中から一生懸命電車区の方をのぞき込みました。事故現場は車庫の向こう側になるので東上線からは見えなかったのですが。

跨線橋を渡り終えると、ふたたび木造住宅の密集する一帯が続きます。車一台がどうにか通れるような路地を右に左に曲がりながら行くと、小さな神社の境内に出ました。子易稲荷神社という名前のこの神社の境内には、私が通っていた渋谷区にある某私立大学の女子寮があったところです。私の所属するサークルの後輩にこの寮の住人がいて、部活が遅くなると送ってやったことがあります。(けっして私一人で送りに行ったのではなく、複数の人間で送っていったので、念のため)その寮があったとおぼしきところは、小さなマンションになっていました。

そこを通り抜けると明治通りです。子易稲荷への入口にはこれまたレトロなアーチ(写真7)が立っていました。まるで、昭和の時代へのタイムトンネルの入口のように。


写真1


写真2


写真3


写真4


写真5


写真6


写真7

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