東上沿線コラム&情報

第11号

No.18 桜満開の白子宿 (2001/4/4記)

桜が咲き始めてから、冷え込む日が時々あるせいか、今年は満開状態が長持ちしているようですね。

東上線の車窓からも桜の花がながめられる所は多いようですが、私が昔から気に入っているのは、成増を出た下り電車が、都県境の白子川橋梁を渡ってまもなく見える、両側のお寺の桜です。白子川沿いの低地に面した台地の崖に沿って、緑の帯が続いていますが、このお寺はこうした崖の斜面につくられています。下り電車車窓左側は地福寺、右側は神護寺といいます。地福寺は中世から続く古刹、神護寺は明治以降の比較的新しいお寺のようです。東上線からは500mほど離れますが白子宿の鎮守・熊野神社も桜がきれいです。

さて、この白子川流域には川越街道の白子宿として賑わった古い町があります。下り電車車窓の左方向数百メートルの旧川越街道沿いに、古い家並みがわずかですが残っていて宿場の雰囲気を漂わせています。

かつての川越街道は、成増側の新田宿の坂を下りながら白子川を渡り、しばらく行って南西に折れ、宿はずれあたりで右に曲がりながら坂 -この坂を大坂という- を上るルートをたどっていました。(下右の地図参照)熊野神社の前あたりが白子宿のかつての中心街だったようです。

白子川沿いには、川越街道と新河岸川の芝宮河岸を結ぶ道が通っていました。東上線の白子川橋梁の下を川といっしょにくぐっているのがその道ですが、東上線開通以前はもう少し川越寄り、今の地福寺・神護寺の門前を通っていたようです。明治末から大正にかけて書かれた地福寺住職の日記が和光市から刊行されておりますが、その日記の明治45年7月4日の項に、「鉄道関係につき、役場へ行く、県道付け替えの件相談」とあります。おそらく、このときに付け替えられたのでしょう。地福寺は、ご存知の通り寺の敷地ぎりぎりに鉄道が走っており、この日記にも鉄道工事の記事が随所に出てきます。有楽町線乗り入れの際にも、さらに敷地を削られていますから、地福寺さんもたいへんだったでしょう。

さて、白子川ですが、現在はまっすぐに流れていますが、昔はもちろんもっと曲がりくねって流れていました。その様子は現在の都県境にあらわれております。下り電車が白子川を渡る直前の右下に細長い公園が見えますが、これがかつての川の名残です。この川の名残の小流はつい10数年前まで残っていましたが、暗渠化され現在の公園に姿を変えたわけです。


上:平成11年発行1/2.5万地形図より白子宿現状。右の明治末期の地図と比較するのも困難な変わり様である。川越街道などは2回にわたって付け替えられている。明治末期の川越街道は旧々川越街道になってしまっている。白子川沿いの低地もすっかり家並みに埋め尽くされてしまった。


上:明治44年発行1/2万地形図(80%縮小)より白子宿の部分。東上線も未開通、川越街道も江戸時代のままである。地福寺の日記によると、地福寺付近での工事開始は大正2年12月1日だが、測量は明治45年の夏頃から始まっている。この地図はその2年前に測量されたものである。

▲地福寺の鐘楼から桜の花越しに東上線を望む

地福寺門前のお地蔵様と後ろを走る有楽町線

山門から桜が満開の地福寺境内を望む。

▲旧川越街道白子宿の三差路(現在は交差点)から東上線を望む

左:熊野神社の一角にある滝水は、背後の台地からしみ出す地下水である。神滝不動はこの湧き水に由来する。

左:成増駅付近の春の花の美しい切り通しを行く東上線。

使用地形図:
平成11年7月1日国土地理院発行、2.5万分の1地形図「赤羽」:大正5年測量、昭和51年第2回改測、平成10年修正測量、平成9年5月撮影の空中写真使用、平成10年9月現地調査 (c)国土地理院〕
大日本帝国陸地測量部発行、2万分の1地形図「白子」:明治43年測図、明治44年7月25日印刷、7月30日発行 (c)国土地理院〕

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