玉村町の地形は台地上に立地し、かつ湿潤状態にあったため、古代の遺跡は主に古墳時代からになります。昭和10年調査の『上毛古墳綜覧』によると玉村町内には53基の円墳・前方後円墳が数えられていますが、実数は150基を超えるものと見られています。その代表的なものが次にご紹介する軍配山古墳・梨ノ木山古墳です。
当古墳は昭和5年2月に発掘されました。出土品は墳丘上の碑文に記されていますが、中国渡来の白銅製内行花紋鏡2面をはじめ、勾玉管玉鉄鏃その他鉄器類など豊富にあります。それらは現在は東京上野の国立博物館に保存されています。中国渡来の内行花紋鏡の出土は、当古墳の被葬者が、かなりの豪族であったことを推定させます。附近の烏川段丘上には相当数の古墳が存在していましたが、それからの出土品には、本墳のようなすぐれたものがないことからすると、本墳の被葬者が、この付近一帯の有力な支配的存在であったと推定できます。古墳の形式は大規模な円墳です。
後藤守一氏は築造年代を碑文に示されていますが、いずれにしても古墳時代初期(4世紀後半)に属するものでありましょう。もとは、「御幣山古墳」と称されており、「軍配山古墳」の名は、天正10年(1582)神流川合戦の折、滝川一益が本古墳を本陣として軍配をふるって全軍を指揮したために名付けられたものと伝えられています。

当古墳は二段構造の円墳として残存していますが、これはもと前方後円墳の後円部であったものと推測されます。築造年代は5〜6世紀と推定され、昭和41年の発掘調査では二重の堀をめぐらせた広大な墓であることがわかり、滑石製模造品・円筒埴輪破片等が出土しました。上記の軍配山古墳と並んで地方の支配者の墓であったものと思われます。

古代の遺跡からは住居跡だけでなく集落や畔を伴った水田遺構の発見も著しく、奈良時代の条里制に先行するものとして注目されています。この条里制地割は現在の東西、南北に直行する道路としても窺うことができます。また、砂町遺跡からは古代道が発掘され、これは東山道と推定されています。天仁元年(1108)の浅間山の噴火によって火山灰が堆積し、このため保存された古代水田が、町内各地で発掘されており、畔や溝、人間の足跡などが検出されています。
二基の五輪塔は、室町時代に建立されたもの。夫が文安5年(1448)、妻が文安6年(1449)の夫婦の墓として仲良く寄り添うように建てられていますが、妻の塔は逆修とあるので妻の生前、亡き夫の塔と一緒に建てたものと推定されています。火輪に反りがあり軒端は斜めに切って内に入っていますが、水輪は横に広く地輪は横長で、玉村町では最も古く、県内でも珍しいものです。
斎藤宜義(のぶよし)は、関流(八代目)の和算の大家です。和算とは江戸時代に関孝和により創始された日本独自の数学のこと。文化13年(1816)斎藤宜長の次男として板井に生まれた宜義は、父とともに天下に上毛の算者といわれ、特に「円理」と呼ばれた現在の微積分の研究に優れた業績を残しました。その代表的な著書として、『算法円理起源表』や『円理新々』などがあります。また、玉村八幡宮や高崎市石原清水観音堂に奉納した算額も現在に伝えられています。
宜義は、明治22年に74歳でこの世を去りましたが、多くの弟子達の中には、和算の最後の大家として知られる萩原禎助や、日本三老農のひとり船津伝次平がいたことが知られており、これら弟子達の活躍は和算に限らず、郷土文化発展の歴史の上でそれぞれ大きな足跡を残しています。その墓は板井の宝蔵寺墓地にあり、「数学院乾坤自白宜義居士」という戒名がつけられました。
文安銘五輪塔
斎藤宜義の墓
伊勢崎藩政時代の郷校で、文化6年(1809)開校し、明治4年(1871)まで農閑期を利用して郷党の子弟に漢学が教授されました。校名は「儀に嚮(むか)う」の意で、樋越の浦野神村をはじめ藩儒が交代で出講しました。屋根瓦に「學」の文字が刻まれており、庭内には「堂記石標の定」が残されています。
称念寺の本堂前に家鴨塚があります。これは家鴨の供養塔で、国定忠治を捕縛したといわれている柳沢佐十郎が忠治の中風に同情し、その治療のため家鴨の血を飲ませたと伝えられています。
嚮義堂
称念寺家鴨塚