鎮座地
玉村町大字下之宮字宮東524番地
主祭神
火雷命(ほのいかづちのみこと)
由緒
当社は、上州名物の一つになっている雷の神様である火雷神(ほのいかづちのかみ)をまつっている。今から1700年前の崇神天皇の元年、大和国葛木坐火雷(かつらぎにいますほのいかづち)神社が創建され、景行天皇の57年に東国鎮撫のために派遣された豊城入彦(とよきいりひこ)命の曾孫、上野国の統治者御諸別(みもろわけ)王によりこの地に祀られたのが起源とされる。
平安時代の延暦15年(796)8月官社となり、延長4年(926)の延喜式神名帳では小社に列した。天暦2年(948)5月、降雨祈願のため、村上天皇の命により官符が五畿七道の諸国に下され、当社にも幣帛が奉られた。上野十二社の八の宮として、上野国神明帳では従一位火雷大名神とされている。延久4年(1072)神殿が造営され、嘉応年間(1169-71)より当郡を領した那波廣純の尊崇甚だ厚く、大いに神殿が広げられた。那波氏は下野(現栃木県)守藤原秀郷の末裔で、当初は下野に住していたが、後に当地上野国那波郡に移り住み、名を那波太郎と称していた。元暦元年(1184)那波廣純は源義仲の党与(なかま)として義仲とともに近江粟津で滅亡し、子孫も絶え、一時当社の祭事は行われなくなった。
鎌倉時代のはじめ、建久2年(1191)大江廣元の子大江政廣は源頼朝の命により当地那波郡へ下向し、66余りの村を統治した。後に那波氏と号した。これ以来当社は那波氏によって代々崇敬され、年中四季の祭典(陰暦正月25日、3月25日、6月25日、8月25日)を興し、社地の寄進も行われた。天正年間(1573-92)那波氏の滅亡以降、当社は衰微の一途をたどった。那波氏の庇護を受けていたころはその社地4町余りに及び、社殿も広大を極め、大鳥居が四方に建てられていたという。南方は那波郡八町河原村(現埼玉県児玉郡上里町八町河原)にあり、その旧跡には雷電社(現在は同地稲荷神社の境内社)が祀られていた。西方は那波郡福島村中央(現玉村町福島)にあり、その旧跡に今は天満宮が祀られている。東方は芝村(現伊勢崎市)にあったというが、今はその旧跡はない。北方の鳥居の所在は不詳である。さらに四季の恒例の祭典を興し、これを後世に伝え、祭日には幣帛が奉られ豊作無窮国家安穏が祈られた。
延元元年(1336)8月、新田義貞が幣帛、鏑矢及び神田を奉り、武運復興を祈ったと伝えられる。康永2年(1343)社殿が再築され、貞治3年(1364)那波教元(のりもと)が社殿を修復したが、その後の詳細は伝えられていない。現在の建物は、慶長年間(1596-1610)以降の建造で、本殿は三間社流れ造りである。宝永8年(1711)、寛政4年(1792)、文政12年(1829)にそれぞれ修理が加えられた。明治5年7月郷社に列せられ、同7年に拝殿の、同10年に本殿の、さらに同25年に拝殿の修理が行われ、同40年に神楽殿が建築された。同41年7月13日村内字屋敷間に祀られていた蚕霊神社を合祀、同44年5月18日小泉村字飯玉の飯玉神社(小泉地内にも社殿が現存する)など数社を合祀した。昭和2年に社務所が落成し今日に至る。
また、伊勢崎市上之宮の倭文神社と相対し、その上之宮に対し下之宮といわれ、地名起源ともなっている。
参道
手水舎
麦蒔ゴジンジ(御神事・那波神事)
火雷神社に伝わる祭りで、貞観4年(863)より始まり、毎年五穀豊穣、災難除けの秘密の神事を行い今日まで伝え行っている。旧暦10月末午の日丑の刻(午前二時頃)に神官が礼拝をはじめると代表が神社の四面に注連縄を張り、神官が退出するときにちょうど張り終えるようにする。代表は一週間精進潔斎し、注連縄を張り巡らす時は声を出すことは厳禁とされ、11月初午の日丑の刻に祭りがあけるまでは鳴り物は禁止(馬がいたときは鈴もはずした)であり、注連縄を張るのを「ゴジンジに入る」という。祭典期間中は注連縄の内に入ることは禁じられ、賽銭箱も注連縄外の参道に据え置かれる。この禁を犯せばたちまち大風・雷鳴が起こるとされ、氏子の家々でも鳴り物を慎んで過ごす。13日目の夜明けに至り太鼓の合図と共に祭りがあけ、それまでの禁制が解かれる。深夜に行われるこの神事は古代の祭りの様式の面影を伝えているように思われる。
その由来は当社所蔵版木「那波神事の由来」によると、貞観4年(862)10月から11月にわたって天は暗く大雪が降り、空では怪鳥が叫び声をあげ、寒気は肌を刺すばかりであった。時に妖怪が現れ赤子を奪ったり、怪しい声で人々を驚かしたりして、郡内外は不穏な空気に満ち溢れた。そこで郡司は朝廷に妖怪鎮圧を申請し、朝廷の命によって当地に下った僧正と武将八郎は、当社で妖魔降伏の修法を行った。七日目の満願の夜になり、怪物が姿をあらわして神鏡を奪おうとした。それを見た勇士八郎は怪物を捕らえて首を斬り、折れた角を川へ投じた。後世そこが渕となって角渕村(現玉村町角渕)となり、斬った手を捨てた所が神の手村(現玉村町上之手)となった。人々が怪物の祟りを恐れてこれを祀ったのが都島(現埼玉県本庄市都島)の角折明神(角折神社)であり、その首を祀ったのが小島村の鬼頬(きつらき)明神(現本庄市小島の唐鈴神社)である。八郎は朝廷では勇士の功を賞せられ、那波郡を賜り治めることとなった。これが那波八郎で、その霊を祀ったのが八郎神社(伊勢崎市福島町鎮座)である。こうして世の中は平穏に帰し、五穀豊穣となったところから、土地の人々は麦蒔きのころの神事と称え語り伝えてきたという。

本殿
境内神社
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蚕霊神社(旧鎮座地 那波郡下之宮村字屋敷間)
祭神 保食命
由緒 弘化2年(1845)正月、村民の信仰により常陸国豊浦より勧請。
祭日 3月15日、12月15日(例祭)
