小瀬一揆物語
 
竹  本  信  雄
茨城県立小瀬高等学校
2004年3月14日

 はじめに

 明治6年(1873年)7月,地租改正条例が公布され,8年の歳月をかけて大きな改革が実施されました。近代的土地制度と政府の財政基盤を確立すること を目的とするものでした。
 改正の要点は,
 ・地租は金納とする。
 ・税率は地価の3パーセントとして統一する。
 ・納税者は耕作者ではなく土地所有者とする。
というものです。
 茨城県の地租改正事業は関東地方ではもっとも早く,明治6年8月に着手されました。地価の決定方法が翌7年6月布達されましたが,実際に算定するのは難 問でした。当時,土地の売買はほとんど行われていません。そこで明治8年,収穫の査定によって地価を決定することになりました。いくつかの村を集合して組 合村が作られ,その中から模範村が指定されて,これを基準に地位等級が決定されたのです(実地丈量,地価算定)。明治9年になると地価算定の事業は急速に 進められました。
 しかし当時の小作地率が19パーセントと,全国平均の33パーセントに比べて極めて低く,零細本業農家が多い茨城県では,地価の概念がなかなか理解され ませんでした。
 改正事業は明治9年にもっとも進展しました。この年は「関東地方の改正事業が終了するように」と,中央政府からの指示があったからです。
 改正事業が進められる一方,地租金納化は,貢租米の米価への換算によって行われていました。茨城県では明治8年から,前年の米価基準・石代相場によって 納められることになっていました。ところが同9年の石代相場は維新以来の最低で,真壁郡下では明治8年の1円につき1斗8升の米価が,9年には1円につき 3斗1升と,大暴落しました。地租改正前であればお米で納めればよかったのがお金に換算して納めることになったので,地租(税金)が2倍近くに跳ね上がっ たのです。
 このような状況の中で明治9年の11月末から12月はじめにかけて,茨城の農民一揆が真壁郡と那珂郡に起こりました。

 小瀬一揆の背景

 明治5年(1872年),上小瀬村を含むこの一帯を大洪水が襲いま した。翌明治6年(1873年)には大暴風,明治7・8年(1874・5年)は冷害 と,災害が度重なり,農民たちは毎日の食料さえ事欠くありさまでした。この災害のさなかに,地租改正令が発表されたのです。

 県令に嘆願書を提出

 明治9年(1876年)4月,小舟村本橋次郎左衛門長田村の寺子屋師匠鈴 木教喜はこの窮状を見かね, 高部村に視察に訪れた 県令(今の県知事)・中山信安に訴え,税軽減を求める嘆願書を提出し ました。しかし中山は,「天下一般のことにして,わが茨城県のみにあらず。いかように 建白するも採用相成りがたし。」と,その場で却下してしまいました。
 鈴木教喜は嘆願を あきらめましたが,本橋次郎左衛 門は「毎日の食料にも事欠く人々を救うためには人数を集めて県庁へ強訴し,採用されない場合は東京へ押 し出し政府に願い出るしかない」と決意しました。そして大町甚左衛門岡ア新八小森太郎左衛門などを仲間に加 えて強訴の準備をすすめ,実行に移す機会を 待ちました。

 真壁一揆の勃発

 それから半年を過ぎた11月27日,真壁郡下で,吉間村(明野町)に約300名の農民が集結し,副区長への強訴を企てることが起きました。30日には飯 塚村(真壁町)で蜂起した農民たちは,石代金納の撤廃と地租現物納の要求をはじめ,学校賦課金と民費の廃止,地租改正費の官費肩代りなどを要求しました。
 一揆の輪は近隣の村々へ広がり,27ヶ村から多数の農民が参加してきました。彼らは戸長らの説得にも応ぜず,また鎮圧に向った警官を殴打して追い返しま した。改租事業督励に出張中の県令中山信安も,農民説諭を試みましたが無駄でした。県令は宇都宮鎮台(軍隊)に出兵を要請しましたが,幸いにも軍隊の出動 をみる前に,農民側の内部崩壊もあって,一揆は警官・旧下館藩士族らの手によって鎮圧されました。この一揆で捕縛された者164名,受刑者30名で最高は 懲役刑80日でした。

 小瀬一揆のはじまり

 真壁郡の一揆が終わってまもなく,より大規模な一揆の動きが那珂郡に起こりました。小 舟・上小瀬村がその中心で,小舟村本橋次郎左衛門 上小瀬村大町甚左衛門が中心的な指導者 でした。

 本橋次郎左衛門,水戸へ

 12月6日,本橋次郎左衛門は 茨城郡増井村(常北町)の農民たちが,地租軽減を求めて県庁へ向った との噂を聞いて,水戸へ偵察に向いました。

 氷之沢村から上小瀬村へ嘆願書提出について相談

 その日の夕方氷之沢村から上小瀬村へ,租税延納の嘆願書提出についての相談がもたらされました。一行は話 の出所を調べるため氷之沢村に向かいます。しか しその話は氷之沢村から出たものではありません。出所を求めて村々を 歩くうち,多くの農民が合流することになりました。

 小舟村・近隣村々の農民が結集

 小舟村の農民と近隣村々の農民たちは小祝村に集まり,翌7日にはその数約800人に達しました。そこで太田の警察が察知するところとなり,出張してき た警官の説諭にあって解散させられました。

 上小瀬村の農民,嘆願書を作成

 12月8日,上小瀬村の農民たち約180名が集まって相談し,指導 者本橋次郎左衛門を 欠いた中,地租軽減の嘆願書の作成を始めました。そのとき「昨日の小 祝村の集会に参加した者は捕縛される」という噂が流れてきました。

 2人の警官を殺害

 上小瀬村に帰った農民たちの一部は高館山に隠れて善後策を相談していました。一方野口村在勤の渡辺,岩間両巡査は各村とも不穏の動きがあるので巡回のた め上小瀬村に入りました。そして上小瀬村宿の旅籠・鹿島屋に休息していた農民た ちを見つけ,解散させました。
 その農民たちは高館山へ駆け込み「巡査2名がきて小祝村に集まった者を逮捕しようとしている」と伝えました。そこにいた農民たち は「まだ願い事も申し立 てないうちに空しく逮捕されるよりは,あくまで捕吏(ほり)に抵抗し願意をとげよう」と決意し,山を下りて刀,鉄砲,竹槍を持って武装し,渡辺,岩間2人 の巡査を小舟村村扱い所(村役場)があった大武重信宅へ追い詰めて殺害しま した。こうなると一揆は急速に尖鋭化していきました。

 上小瀬・小舟村の農民,決起を呼びかけ水戸へ

 上小瀬・小舟村の農民たちは近隣の各村に決起を呼びかけました。 「徳川御用」の名で檄文が廻され,12月9日の朝,武器を持った農民たちは二手に分かれ 水戸へ向けて出発しました。

 本橋次郎 左衛門と合流

 急を聞いて,水戸に行っていた本 橋次郎左衛門は帰途につき,那珂川を渡ってやってきた農氏たちと阿波 山村(桂村)で合流しました。このときの農民の数は千数百名に も達していました。そこへ恒吉警部と山田巡査が探索に来ましたが,農民たちによって殺害されてしまいます。

 警官隊に急襲され潰走,本橋次郎左衛門・重傷

 10日朝,彼らは石塚村(常北町)に至り,朝食をとって十万原(水戸市)へ向おうとしているところへ,県の警官・士族隊が押し寄せてき ました。
 農民たちは,数は多いものの戦いに慣れていないため, 多数の死傷者を出して阿波山村まで逃げ帰りました。その戦いで本橋次郎左衛門は 重傷を負ってしまいました。10日午後,農民たちは大町甚左衛門岡ア新八小林彦右衛門らを中心に 陣営の建て直しをはかりました。


本橋次郎左衛門の碑

本橋政國(俗名・次郎左衛門)の碑
 本橋次郎左衛門正國は,明治9年,小瀬一 揆の名指導者として農民を動員,県庁に向かったが,目的を果たせず首謀者として処刑された。明治33年,義民と称され,有志者により建てられた顕彰碑であ る。


 中山県令・囚人6名を放って大町甚左衛門を暗殺

 中山県令はこの事態を一挙に解決するため,重罪人6人をひそかに放ち,一揆の指導者を暗殺させようと企てました。一時釈放された重罪人6名は,「獄を 破って逃げてきた」と嘘をつき,一揆に参加したいと申し出ました。農民たちはその申し出をうけて彼らを味方に引き入れました。この夜,重罪人6名はすきを みて一揆の指導者を襲い,大町甚左 衛門を殺害しました。不意をつかれた岡ア新八小林彦右衛門をはじめ農 民たちは,散り散りになって自分の村へ逃げ帰りました。こう して小瀬一揆は終わりました。

 一揆参加者逮捕

 一揆勢が潰滅すると警官隊による一揆参加者の逮捕が行われました。14日早朝からの探索はたいへん厳しいものでした。岡ア新八小林彦右衛門たちは遠く 福島・宮城方 面 に逃れましたが,翌年2月までにすべて捕えられてしまいました。一揆の犠牲者・処罰者は死亡7名,死刑3名,懲役刑24名,罰金1064名の計1098名 に達し,その他,自殺2名,獄死1名も出ました。参加村数も2郡32ヶ村に及ぶ大きなものでした。

 中山県令・罷免される

 一方,一揆を鎮圧しようと囚人を釈放して一揆の指導者を暗殺させた中山県令は,その責任を問われ罷免されました。

 小瀬一揆・全国に影響を与え,政府を動かす

 小瀬一揆の影響は直ちに愛知・三重・岐阜・堺などの地方に飛火していきました。
 「竹槍でちょいと突き出す2分5厘」とうたわれたように,政府は規定したばかりの地租を,地価の3パーセントから2.5パーセントに減額せざるを得ませ んでした。

 小瀬一揆・その後

 小瀬一揆などの地租改正反対運動は,やがて国会開設を求めた自由民権運動へと発展していきます。
 自由民権運動の勢いに押されて,明治23年に「国会を開設すべき」との詔勅が出され,この運動の中から自由党(総理・板垣退助)が誕生しました。
 その後長い間小瀬一揆の指導者並びに参加者たちは,「天皇に楯突く重罪人」との汚名が着せられました。しかし現在では,その歴史的意義が高く評価されて います。
 昭和33年,小瀬一揆の犠牲者並びに殉職警官4名を含めた17名と,後日亡くなられた幹部の37名を祀る慰霊堂として「義民堂」が建てられました。


顕彰堂

義民堂
 小瀬一揆の犠牲者並びに殉職警官4名を含 め,17名と後日亡くなられた幹部の37名を祀る慰霊堂で昭和33年に建てられた。


 小瀬一揆と小瀬高校

 小瀬一揆から20年ほど後の明治32年(1899年),小瀬高校の前身・村立小瀬農業補習学校が誕生します。
 小瀬高校の誕生と小瀬一揆との関連を指摘する人は少なくありません。
 全国的な影響を与え,政府をも動かした小瀬一揆でしたが,強大な権力に力で立ち向かうことの限界を思い知らされることともなりました。
 農民の窮状を訴えても聞き入れられず,やむなく及んだ行為によって犯罪者の汚名を着せられた上小瀬村をはじめとするこの地域の人々は,さぞ悔しい思いを したことでしょう。そして小瀬一揆の経験から「本当に必要なものは,力ではなく教育だ」と感じ,本校の設立に立ち上がったのではないでしょうか。

 おわりに

 本校には,本橋・岡ア・大町・小林・小森などの姓を持つ生徒が少なからずいます。彼ら・彼女らの多くはきっと小瀬一揆の指導者たちの子孫なのでしょう。
 生徒たちの先祖は,結果として時代を大きく推し進める働きをしました。そう思うと,私は目の前の生徒たちに敬愛の念を抱いてしまいます。
 生徒たちにも,自分たちやこの地域が,そして小瀬高校が全国に誇れる存在であることを知ってほしいと思います。

引用文献:佐久間好雄ほか『図説茨城の歴史』河出書房新社(1995年11月6日)
      菊池重作『茨城農民運動史』筑波書林(1980年4月15日)
      高井良水『小瀬一揆録』コムロ印刷(1975年12月21日)