メンデルはなぜ「エンドウの実験」を行ったか
── 科学的な見方・考え方 ──

竹本信雄
2006年11月13日

 凄すぎる!メンデルの実験

 高校の生物の教科書に,こう書いてあります。
「メンデルは,エンドウのいろいろな遺伝形質の中から7組の対立形質を選 び,それらの間 でかけ合わせ(交雑)を行い,遺伝についての重要な法則を発見した(1865年)。」
 メンデルは1854年から1855年にかけて,34品種のエンドウを修道院の裏庭に作った畑で栽培し,純粋な品種(純系)22種 を選び出しま した。そして,1856年から62年まで,交配実験を行いました。8年以上にわたって,数万株のエンドウを栽培しました。研究の様子は次のようなもの だったそうです。
 

 
そして次のような結果を得ました。

形質 種子の形 子葉の色 種皮の色 さやの形 さやの色 花 のつき方 草丈
P の形質
(7つの対立形質)
優性 丸形 黄色 有色 ふくらみ 緑色 葉 の付け根 高い
劣性 しわ型 緑色 無色 くびれ 黄色 茎の頂 低い
Fで の分
離個体数
優性 5474 6022 705 882 428 651 787
劣性 1850 2001 224 299 152 207 277
F2の 分離比(優:劣) 2.96:1 3.01:1 3.15:1 2.95:1 2.82:1 3.14:1 2.84:1

 このような実験を通してメンデルは世界で初めて遺伝の法則を明らかにしました。
 ところが,教科書には,次のようなことが書かれています。

「メンデルが明らかにした遺伝の法則は,当時,ほとんど認められなかった。 遺伝の法則 は,彼の死後,1900年に,ド フリース,コレンス,チェルマクの3人によって独自に再発見され,メンデルの法則と呼ばれる3つの法則にまとめられた。」

 メンデルは1865年,研究結果を自然科学学会で2度にわたって発表しても,論文を著名な科学者に送っても,認められませんでし た。反論され たり,批判されたわけではありません。全く反応がなかったのです。なぜでしょう。
 
ほ ぼ同じ時期に発表された論文にダーウィンの「種の起源」(1859年)があります。生物の進化に関する論文です。こちらは発売と同時に売り切れるほど話題 になりました。多くの人から絶賛される一方,キリスト教の教義に反すると,強烈に批判されたりしました。その批判は現在でもあり,アメリカでは「学校で進 化論を教えるべきでない」などと大まじめで主張する人が少なからずいるそうです。
 
 メンデルは,1884年1月6日に「今に私の時代が来る」と言い残し,61歳で亡くなりました。メンデルの研究は,発表してから 35年,メン デルが亡くなってから16年も経った1900年,ようやく認められました。 



【質問】
 メンデルは,8年以上にわたって何万株もの「エンドウ」の交雑実験を行い,その結果生じる形質の違いを丹念に,根気強く調べまし た。もしあな たがメンデルだったら,メンデルと同じように実験をしますか。
 
ア するだろう。自分はメンデルと同じようにできるだろ う。
イ しないだろう。自分はメンデルのようにはできないだ ろう。
ウ その他

 メンデルの生い立ち−メンデルは修道士に−

 メンデルは1822年7月22日,当時オーストリア領(現在チェコ共和国内)だった小さな村の果樹栽培農家の長男に生まれました。子供の頃か らすごく頭が良くて,学校ではいつもトップの成績でした。家は貧乏でしたが,校長先生たちが父親を説得してくれたので,中学・高校へと進むことができまし た。そして1840年(18歳),オロモウツ大学の哲学科コースに入学しました。そこでメンデルは哲学だけではなく,物理学や数学などたくさん勉強しまし た。1843年(21歳),2年の課程を終えましたが,学費が続かずそれ以上大学に残ることはできませんでした。そしてメンデルは,ケーニギン修道院に入 り修道士になりました。当時の修道院は,単なる宗教施設ではありませんでした。教育や文化や産業など様々な分野で指導的役割を果たす施設でもありました。 そこでメンデルは,生活と勉強のため,修道院にはいることにしたのです。
   修道士…修道誓願を行い,禁欲的な修道生活を送る人々 のこと。男性 は「ブラザー」女性は「シスター」と呼ばれる。
 
 メンデルとブドウの木−メンデルは怠け者?−

 東京の小石川植物園には「ニュートンのリンゴの木」と並んで「メンデルのブドウの木」が植えられています。「エンドウ」なら分かるのですがな ぜ,「ブドウの木」なのでしょう。
 当時は,良質のワインを求める地元の人たちの要望に応えて,ワインのもと になるブドウ の品種改良を試みるのも修道士の役割の一つでした。実際メンデルは1844年(22歳)のとき,修道院長のナップさんにブドウの品種改良の研究を命じられ て,いくつかの品種を収集し実験庭園に栽培していました。そのブドウの木が日本でも育てられているのです。
 しかし,メンデルはブドウの品種改良には,あまり熱心に取り組まなかったといいます。どうしてでしょう。
 「行き当たりばったりの交雑などを行っても良い品種などできっこない。交 雑 の結果には何 か法則性があるはずだ。その法則を見つけ,それに従って改良すれば,よいワインの取れる新品種の育成ができるはずだ。」

 
すでに物理学を学び科学的な考え方を身につけていたメンデ ルは,ただ試 行錯誤を繰り返すだけの実験には熱心になれなかったのです。法則を見つけるための実験に,実がなるまでに長い年月がかかるブドウを使うのは,よい方法では ありません。「法則を知るためには,もっとも有利な材料で実験をすればよい」とメン デルは考えました。
 ブドウの品種改良の研究を全くおこなおうとしないメンデルは,まわりの人から,怠け者だと思われたかも知れません。

  第2次世界大戦の前までは,メンデルの植えたブドウの品種がいくつか,修道院の庭に残っていましたが,その後全部失われてしまいました。しかし,1913 (大正2)年,東京大学の三好学教授が枝分けされたメンデルのブドウの木を譲り受け,東京大学理学部附属植物園(小石川植物園)に植えていました。それを 知ったブルノの人たちの求めに応じて,1989年,この木が枝分けされてブルノに送られ,メンデルのブドウはお里帰りをはたすことになりました。

 メンデルは神父失格?教師失格?

 1年後,修道士として見習を終えたメンデルは神学校に入学し,優秀な成績で修了して司祭(神父)になりました(1848年・26歳)。そして 病院付きの神父に任命されました。しかしメンデルは,病院付き神父としては失格でした。患者の苦痛 を見ることに耐えきれず,ノイローゼになってしまったのです。



 そこでナップ修道院長のはからいで,高校で代用教員としてギリシャ語・ラテン語・数学を教えることになりました。ナップ院長はメンデルに正教員になることを勧めまし た。正教員になるためには大学卒業後に国家試験に合格しなければなりません。メンデルは経済的な理由で大学に2年しか通えませんでしたが,これもまたナッ プ院長の特別のはからいで,正教員になるための試験を受けさせてもらえることになりました。でも,メンデルは教員試験に落ちてしました。日程通知が遅れ, 遅刻し たためだといわれています。
 しかし何が幸いするか分かりません。試験委員長のバウムガルトナー教授はメンデルの才能を見抜き,ウィーン大学へ入学することを 薦めまし た。教員試験に落ちたおかげでメンデルは,あこがれのウィーン大学へ入学することになったのです。メンデルは,物理学コースに所属しました。そのときの指 導 教官はなんと,ドップラー効果で有名なC・ドップラー教授でした。メンデルは物理学 ばかりでなく,数学・化学・動物学・植物学・古生物学などあらゆる学問を修めました。卒業後,ふたたび高校の代用教員となり,物理学自然史学を教え ました。そして1856年,ウィーン大学で,再度教員試験を受けることになりました。しかし結果はまたもや不合格でした。原因はメンデルが試験官のフェン ツル教授と論争してしまったためです。「植物の胚は花粉管から形成される」というフェンツル教授に対してメンデルは「いや,雌雄が合体して作られる」と主 張して譲らなかったのです。その論争は,実はメンデルの方が正しかったのです。ウィーン大学の教授より代用教員のメンデルの方がずっと優秀だったために,不合格になってしまったのでした。

 メンデルは,教員試験は合格しませんでしたが,生徒から大変慕われる良い先生だったそうです。また病院付きの神父には向 いていませんでしたが,ナップ院長の後を継いで修道院長になり,その職責を全うしました。メンデルは優れた教師であり,司祭でした。
 
 メンデルは怠け者でない!

 ウィーン大学でいろんな勉強をしている間も,メンデルはブドウの品種改良のことを忘れたことはありませんでした。遺伝の法則のことをずっと考 え続けていたのです。
 この時代,品種改良の研究が大変盛になり,多くの人が遺伝の研究をしていました。しかしその結果分かったことは,「遺伝は複雑で何が何だか分からない」ということでした。

 雑種第1代では,@「両親の中間の形質を持つ場合」もあれば,A「中間よりはどちらか一方の親に近い形質を持つ場合」もあればB 「片方の親の 形質を持つ場合」もあるといった具合です。
 雑種第2代では@「両親のそれぞれの形質に分かれる場合」もあれば,A「その2つと中間の形質との3つに分かれる場合」やB「そ れ以上の形質 に分かれる場合」など様々です。
 そこで当時は,遺伝の現象を説明する明確な法則などは存在せず,親の卵と 精子に存在す る「何らかの液状のモノ」が混ざりあって,両親の特徴を子に引き継ぐと考えられていました。この説を融合説(または混合説) といいます。
 
 メンデルはウィーン大学で物理学のほか,数学の組み合わせ理論や化学の原子論など幅広く学びました。遺伝についても深く学びまし た。ケールロ イターの著作やゲルトナーの論文など多くの遺伝研究の書物を読みました。
 ケールロイターは1760年代に,多くの種類の植物について雑種を作り,その性質を調べています。そして多くの場合,雑種は両親 の中間の性質 を示しますが,ときには一方の親とまったく同じ性質を示すこともあることや,雑種が不妊になるケースがあること,雑種強勢がみられることなど,多くの発見 をしていました。
 ゲルトナーは1840年代に,雑種第一代Fがどちらかの親と同じ性質のものであっても,それらを自家受 精した第二代 Fには交雑に用いた両方の親の性質が現れることを明らかにしていました。
 メンデルは特にゲルトナーが述べていることに注目しました。
 「F全部が一方の親と同じ性質を示した場合,片方の親からだけ遺伝物質を受け継いだはずだ。それならそ の子であるFに は,もう一方の親の性質は現れないはずだ。ところが実際には受け継がなかったはずのもう一方の親の性質を持った子が2割〜3割も誕生する。不思議だ。これ は,融合説では説明できない。ではいったいどんな仕組みで遺伝は起こるのだろう。」
 その他多くの科学者の研究を調べた結果,メンデルはそれまでだれも考えたことのないある仮説を思いつきました。それは次のような ものでした。
 
メンデルの仮説
@ 親から子へ形質を伝える粒子的な何かがある。(→「粒子的な何か」は後に遺伝子と呼ばれ る)
A 各個体は,1つの形質について,1対(2個)の遺伝子を持っていて,配偶子にはこの2個のうちどちらか1 個が入る。(→後に「分離の法則」と呼ばれる)
B 遺伝子には優性遺伝子と劣性遺伝子があり,優性遺伝子と劣性遺伝子が対になって1個体に入っている場合 は,優性の形質のみが現れる。(→のちに「優性の法則」と呼ばれる)
 
 さらにメンデルは,優性遺伝子をA,劣性遺伝子をaというように表す表記法を編み出しました。こうすると優性形質を持つ純系は AA,劣性形質 を持つ純系はaaと表されます。そしてそれらを親として生まれる雑種第1代はすべてAaとなり同じ形質を示すはずです。
 次に,それを親として生まれる雑種第2代は,数学の展開公式を使って
    (A+a) = AA + 2Aa + aa
となります。つまり,雑種第2代ではAAとAaは優性形質を示すので,優性形質を持つものと劣性形質を持つものが3:1で現れるは ずだというこ とになります。
 
 メンデルはなぜ「エンドウの実験」をしたか

 こう考えると,メンデルはこの仮説が正しいか,実験で確かめずにはいられなくなりました。実際に雑種第2代で3:1になることが確かめられれ ば,メンデルの仮説が正しいことになります。それまでだれも明らかにできなかった「遺伝の法則」を,世界で初めてメンデルが発見したことになるのです。
 その時メンデルは観賞用植物で新しい色の変種をつくる実験をしていました。その植物では,メンデルの仮説が成り立っているように 見えました。 そこでメンデルはますます自信を深めました。
 しかし,だれもが納得するためには,これでは不十分です。結果が明瞭に現れるような,最も実験に適した植物を探さなければなりま せん。また, 雑種が混ざったような材料で実験したのでは正しい結果を得ることはできません。
 メンデルは,いろいろ予備実験を行なった結果,この実験にはエンドウがもっとも適していると考えました。そして34品種のエンド ウを手に入 れ,2年の歳月をかけて22種類の純系を選び出しました。そうしてはじめて,交雑実験に取り組んだのです。
 交雑実験は最初の漫画にあった通り,非常に面倒なものです。だれもが納得する結果を得るためにはたくさんの数を長い年月,慎重に 栽培しなけれ ばなりません。その数は数万株(ある人の推定では28347株)におよびました。メンデルはそんな面倒な 作業を,8年間も続けました。
 
【質問】
 もう一度お聞きします。メンデルは,8年以上にわたって何万株もの「エンドウ」の交雑実験を行い,その結果生じる形質の違いを丹 念に,根気強 く調べました。もしあなたがメンデルだったら,メンデルと同じように実験をしますか。
 
ア するだろう。自分はメンデルと同じようにできるだろ う。
イ しないだろう。自分はメンデルのようにはできないだ ろう。
ウ その他
 
 「そんな根気のいる仕事,私にはできない。やはりメンデルは天才だからできたのだろう」
そう思いますか。いいえ,そんなことはありません。あなたがもしメンデルだったら,きっと同じことを行ったはずです。
 メンデルは面倒で退屈そうに見えるこの実験を,わくわくしながら行いました。なぜなら,それまでだれも明らかにできなかった遺伝 の法則性を発 見し,世界で初めてそれを証明しようとしているのです。わくわくしないはずはありません。
 
 人は目的意識的に〈予想をもって問いかけ〉ない限り,新しいことを発見したり,正しいことを認識したりすることはできません。ま た,目的意識 のない実験,仮説のない実験など,やろうとも思わないのがふつうです。メンデルは「ブドウの品種改良」の実験に熱心になれなかったのはそのためです。
 しかし,ひとたび目的意識的に〈予想をもって問いかけ〉ようとすると,結果が楽しみで,わくわくしながら寝るのも忘れて取り組み ます。人はだ れでもそうなのです。あなただってそうなのです。科学者達はそうして,小さすぎて見えないような原子・分子のことや,大きすぎてわからない宇宙のことや, だれも見たことのない進化の道筋などを正しく知ることができたのでした。
 
 メンデルはこうして発見した遺伝の法則を「雑種植物の研究」と いう論文 にまとめました。しかしその論文は1900年に3人の生物学者に再発見されるまで,35年も世間から評価されることなく埋もれてしまったのでした。
 
 メンデルはなぜ認められなかったのか

 メンデルはだれも明らかにすることができなかった遺伝の法則を発見したというのに,なぜ認められなかったのでしょう。
 
 メンデルが行った「統計学的な手法」は,当時の生物学者に はなじみのな いものでした。また,「原子論的な説明」も,遺伝という複雑な生物現象の説明として は単純すぎると思われました。しかもメンデルはそういう生物学者の感情を逆なでするかのように,「数 式による説明」まで行っていました。
 メンデル自身,遺伝現象の複雑さはよくわかっていました。遺伝現象が複雑で不規則に見えるのは優性と劣性の差がない遺伝子があっ たり,1つの 形質を決めるのに2つ以上の遺伝子が関係していたりするためなのです。メンデルが言いたかったことは,「遺伝現象はどんなに複雑に見えても,原理的には単 純な法則で説明できるのだ」ということでした。しかし,それを強調しすぎたために,他の生物学者には理解されなかったようです。
 
 おわりに

 枯れ葉や羽毛が舞い落ちる様子は複雑ですが,空気の抵抗がなければ,「重いものも軽いものも同じに落ちる」という単純な法則が成り立っている ことをガリレオは明らかにしました。それと同じように,遺伝現象は複雑ですが,理想的な「エンドウの実験」を行うことによって,メンデルは遺伝を司る要素 (遺伝子)が存在すること,遺伝現象が単純な法則で説明できることを明らかにしたのです。
 「遺伝の法則」を発見した後も,メンデルは自分のことを「実験物理学の教 師」と 呼んでいます。メンデルには遺伝現象を,実験物理学的=自然科学的に解明したという自負があったのでしょう。メンデルを「生物学を博物学から自然科学に高 めた人」という人もいます。
 現在はバイオテクノロジーの時代といわれます。メンデルによって自然科学に高められた生物学が,自然科学の最先端を進む学問とし て,この21 世紀に大きく花開いているのです。

引用文献:メンデル著 岩槻邦男・須原準平訳   『雑種植物の研究』 岩波文庫
     山ア正勝・木元忠昭監修指導 佐々木ケン漫画 『漫画人物科学の歴史〔世界編〕ダーウィン・パスツール』 ほるぷ出版