札幌追想
すでに戦後に生まれた世代が還暦を過ぎる時になった。私たちの世代が経験を伝えることが義務であるように思えるようになった。
私の郷里札幌には空襲がなかった。本州以南が散々な目にあっているのに本当に札幌には空襲がなかった。それがどうしてなのか分らない。私の体験だけでなく、友人知人から聞いた話を交えながら、戦争のはるか前の時代からの札幌の思い出を書く。
★ 雲上の大編隊
敗戦の年、昭和20年、1945年、私たち札幌一中三年生は勉強お預けで勤労動員に狩り出されていた。この年は五月から泊り込みで、岩見沢の北の「北村」という農村へ農作業に送られた。この年は気温が低い年で、五月でも水田には薄氷が張っている時があり、裸足で入るのはつらかった。そんなある日、六月だったか七月だったか、雲が低く垂れ込めた日のこと、水田で農作業をしていると、頭上を小型機の大編隊が低空で通過したことがある。雲上すれすれに機影が見えたが、かなりの低空で、しかも日本の飛行機ではないと思った。これだけの編隊を日本はもう飛ばせないと思ったのか、何かの直感かそう思った。
同年輩の友人に後から聞いたが、石狩が艦載機の襲撃を受けたそうだ。あんな小さい町をどうして襲ったのか。まるでカラスの大軍が獲物の上を乱舞するようだったとその人は言っていた。私の頭上を通過したのはその艦載機群ではなかったか、そんな気がする。太平洋側に接近したアメリカ空母から発進した艦載機が石狩を襲ったのだろう。しかも途中の札幌をわざと避けるよう素通りして。
札幌は無傷だったが、室蘭は艦砲射撃を受けた。製鉄所その他の重工業施設があったためだろう。この艦隊はやがて南下して、釜石、日立、浜松を砲撃した。アメリカだけでなくイギリスの軍艦も加わっていたそうで、このことは、戦後、戦記物で知った。室蘭にいた友人の話では、砲撃で死んだ人の累々たる死体を片づけている内にそれが人でなく物のように思えてきたそうだ。
★ 馬鉄、「バテツ」という乗物
これははるかな昔の話である。
馬鉄といっても想像できる人はいないだろう。「馬鉄」、「バテツ」と読む。正式には「馬車鉄道」。馬が車をひくことは珍しくないが、その車が鉄道の軌道敷の上を動くのである。つまり、機関車の代りに馬が軌道敷の上の車両をひく交通機関である。車両はもちろん一台、いまのバスのような構造のものである。はるかな昔、創世川の東側の石狩街道を走っていた。あそこにあった「製麻会社」(いまはもう無いだろう)の脇を通っていた。私にも明瞭な目撃記憶ではないのだが、姉たちに連れられて石狩街道に見にいった記憶がある。眼前を、何やら巨大な、騒々しい大音響を立てるものがおそろしい速さで、右から左へ通りすぎたことを覚えている。右から左へ、という移動方向だけは覚えている。どこから、どこまで走っていたのか分らない。これはもしかしたらアメリカ開拓時代の産物ではなかろうか。ケプロン以来、札幌はアメリカの影響を多く受けているから、開拓期にアメリカの産物を輸入したことはありえる。古い映像フィルムで、アメリカ大統領のパレードがバテツで移動する光景を見た。本格的な姿は、やや後で、本のイラストで見て知った。
★ 大演習と昭和天皇の行幸
さて、昭和10年代の始め頃、陸軍の大演習が北海道であり、昭和天皇が来道された。このことの副産物は、おかげで道路がよくなり、その他の公共施設もよくなったことである。いまでも、オリンピックなどがあると予算が貰えて、その機会に地元の公共設備、インフラの整備することがよくあるが、公共のオカネというのは昔からそういう使われ方をされたようである。
札幌は、はるかな昔、国鉄の線路以北、北大前のあたりは道路が舗装されていなかった。そして、北大の正門も貧弱なもので、大学の塀も木造のものだった。それが「行幸」を機会にいまの立派な正門になり、塀も現在のクリーム色の煉瓦作りになった。建物も立派になり、いまの農学部の高い塔の形の建物はこの時出来た。なにしろ天皇が、大本営、つまり総司令部として使うというのだから張り切ったのは無理はない。道路もこの時に舗装された。
演習そのものは、どこでやっていたのか私には記憶がない。それより、演習がすべて終って、軍隊も天皇も引き上げてから、天皇が使用した部屋を拝観させるというので、大勢押しかけた。いまの農学部の最上階の部屋である。私は小学生か、就学前だったか忘れたが、父に手をひかれて行った。私の父も随分物見高い人だったようである。なにしろ大変な人の波で、なかなか前へ進めない。随分時間をかけてその部屋に到達した。おごそかにして巨大な椅子が鎮座していた。背もたれの部分に大きな菊の紋章が付いていた。この時だったと思いるが、天皇は小樽から軍艦で引き上げた。それもまた見に行った。戦艦「比叡」がお召し艦、つまり天皇の搭乗艦になった。巨大な「比叡」が横腹を見せたまま少ずつ岸を離れて遠ざかって行った。大きな軍艦が横に動くわけはないので、これはタグボートが曳航していたのだろう。
★ 「キャラメル大将」の不思議
これもまた遠い昔の話である。
北大の正門前に中屋というお菓子屋さんがある。いまでもあると思う。ここは戦後、「クラークまんじゅう」を売り出して有名になったが、昔からあるお店で、なかなか意欲的な経営をする店だった。私の家は北大の正門前だったから、子供達には、おやつのために中屋はなくてはならぬ大事な店だった。
多分、私が小学校に入る前のこと。その中屋に、ある時、今日は「キャラメル大将」が来る、という評判が立った。そもそも「キャラメル大将」とは何か、何者か。よく分らない。しかし、要するに、中屋の宣伝、つまりコマーシャルで誰かが来るらしいということだけは推測できた。その日の午後だったか、押しかけた子供の数は大変なもので、中屋の前の電車道路が子供で埋まった。いまのように交通量が多くなかったから、あれですんだのだろう。子供だけでなく大人も混じっている。やがて、ざわめきがひときわ大きくなると、大きな乗用車が一台ゆっくりと、群集をかき分けるように入ってきた。そして、中から現れたのは、白い華麗な将軍服に大将のエボレットと軍帽を着けた巨大な人物。これが「キャラメル大将」。「大将」は、案内役らしい人に誘導されて、ゆっくりと車から降りると、子供たちに揉まれるようにして中屋の中に移動していった。どうも表情がない。動作が緩慢で一言も言わない。誰かがクラッカーみたいなものをはじかせると、その音におびえたような表情をする。「ピストルと間違えた」と誰かが言う。
あれはどういう人だったのか。もしかしたら白系ロシア人ではなかったか。どうも顔が東洋人ではなかったような気がする。言葉が分らないから、表情もなく、動作も緩慢だったのではないか。そうした宣伝マンを配給する広告配給会社みたいなものがあったのか、あるいは、中屋独自の企画だったか分らない。私の幼時の不思議な記憶である。
あの頃、札幌には亡命ロシア人がよく居た。桑園の方に一家で住んでいる人達もいた。この一家は、日本人でもよほど貧しい人が住むような長屋に住んで洋服屋を開業しており、屈強の息子が二人居た。ある時、この家に泥棒が入った。息子に見つかり、息子が力まかせに泥棒を張り倒したら、泥棒の耳の鼓膜が破れてしまったという話がある。駅前にあった洋菓子の西村はロシア・チョコレートを名物にしていたが、多分、ロシア人のチョコレート職人が居たのだろう。私は、1972年に旧ソ連に行ったが、あの、モノがない国で、チョコレートだけは贅沢なものだった。特にその包装紙は贅を尽くしたもので、資本主義国でもあれだけ豪華なものは珍しい。西村は廃業したようだ。インターネットで知った。感慨無量である。
★ 森永製菓の招待飛行
私には兄が二人いた。二人とも札幌一中の卒業だから、兄弟三人揃って六華同窓生である。その二番目の兄が、たしか一中在学時代のこと、私がまだ北九条小学校の生徒だった頃、お菓子のメーカー、森永製菓が、抽選で選ばれた人たちを何人か招待して、チャーターした飛行機に乗せ、札幌飛行場から離陸して小樽上空まで行って帰って来るという企画を立てた。
キャラメルなどの森永製品のお菓子を買うと抽選券が貰え、抽選券が一定枚数になると抽選を受けられるようになっていたものと思われる。その抽選に私の二番目の兄が当選した。これは驚きだった。相当な難関だったと思うが、よくもまあこんなものに当選したものだ。それと、当時の製菓会社が実に贅沢な企画を立てたことにも感心する。いまでも、ここまでやる企業は珍しいのではなかろうか。立派なカラー写真の大型ポスターまで出来て、双発のダグラス旅客機が小樽上空を旋回する派手なカラー写真が大きく全面に描かれていた。
当日、私の家族は全員揃って見物に行った。天候は上々、風もなく、絶好の好天。札幌飛行場は青々とした草が広がっていた。この飛行場には滑走路などはなかったように思う。草の上を滑走して離陸するというわけである。飛行機に乗る人たちとその家族で飛行場はお祭りのにぎわいだった。飛行機はたしかダグラスのDC2型か3型、双発の旅客機である。この機種は評判がよく、当時、世界中で使用されていたようである。あの飛行機に何人乗れたのかわからないが、小型の旅客機だから、そう多くは乗れなかったと思う。
搭乗する人たちが、ラッタルを登りながら見送りの人たちに手を振り、やがて兄も同様にして乗り込んだ。見送る中を飛行機はエンジンを全開して滑走を始め離陸。小樽方面に次第に小さくなって見えなくなった。それから、私たちは芝生に寝転んで帰還を待ったが、ほどなく、意外に早く、家族の一人が、「あ帰ってきた」と指さすので見ると、小樽方面のはるか彼方に小さな機影が見えてきた。小樽までの往復、どのくらいの時間がかかったのか。当時のプロペラ機でも短い時間だった。小樽港の上空でUターンして帰ってきたわけである。無事着陸。「帰還」後、兄からは体験談を聞かされたが、当時の旅客機は操縦室が客室と分離されていなかったようで、操縦席の様子、操縦桿の型、計器盤が並んだ様子など聞かされた。普通の人が飛行機に乗ることがなかった時代のことである。
ついでながら、この飛行機は、愛称「エンヴォイ」号と呼ばれるものだったと思う。エンヴォイとは「使節」という意味だが、これはよく札幌の上を飛んでいた。この頃、私たちが見たのは、軍用機も民間機も、大型でも双発機、つまりエンジンが左右に一つずつの型。四発機というエンジンが左右に二つずつ付いた大型機は戦後アメリカ軍のものではじめて見た。当時は大手新聞社が飛行機を持っていた時代で、朝日新聞社の「神風号」がロンドンまでの長距離飛行を達成したり、毎日新聞社の「ニッポン号」が世界一周に成功したり、日本の技術の優秀さを世界に誇示したものだった。
ここまで書いてきて、インターネットで「札幌飛行場」を検索したら次のような文が出てきた。以下そのまま記する。
<大正15年、旧北海タイムス社が報道用のために作った飛行場。かつて、道内ではただ一つ、東京への定期航空路を持っていた。昭和20年に閉鎖され、今では、札幌飛行場の正門の跡だけが残されている。そして、正門の奥の家には、羊が丘で有名なクラーク博士の像を作った(故)坂先生が住んでいた>。
当時のなつかしい写真も出ている。格納庫に大きく横書きで書かれた文字は、いまと違って右から左の書き方で、「日本航空輸送株式會社」と読める。
この兄は、一中第46期卒、戦時中、陸軍の獣医学校に入り途中で終戦、北大医学部に入り人間の医者にもなり、釧路の太平洋炭坑付属病院の院長をつとめたが、1987年ガンのため亡くなった。上の兄は、一中第44期卒、北大医学部を出て、拓殖銀行本店の医務室に退職までつとめ、2004年に亡くなった
★ 防空演習
昭和10年代前半の頃、太平洋戦争が始まる前だが、日中戦争はすでに泥沼化してきた。そんな状況からか、「防空演習」なるものがそろそろ始まった。とはいっても他愛ないもので、一軒ずつ、大工に頼んで屋根の上に木造の物干し台のようなものを作り、これを「監視台」と名付けた。「防空頭巾」、「火叩き」、「バケツ」、「天水桶」、など間の抜けた小道具を揃えたものである。当時は「隣組」というものがあり、札幌は碁盤の目型の街路構造だから、一辺が100米のブロックを一単位として「第×交区」と名付けられた。「交」という字だったか自信がないが、コウクという名前だった。私の家の交区長は写真館の主人のNさんだった。このNの小父さんが、ある時道路で大声で世間話をしているのが聞こえた。「わたしゃーネ、焼夷弾なんか、この交区に一発落ちれば珍しいと見てるんですよ」。これが、この小父さんだけでなく当時の日本人の戦争観である。ずいぶんと戦争を甘く見たものである。やがて、太平洋戦争が始まると自宅の庭に防空壕を掘る家が多くなった。それでも本州の事情から見れば現実感のない風潮だった。
★ 湊さん事件
太平洋戦争が始まる前のことだが、毎月一日に、中学校と女学校は、登校前に、指定された神社を参拝するよう定められた。私が一中に入ったのは後日のことだが、一中は中島公園の護国神社が指定されていたから地理的には便利で、登校の途中で寄ってくればよい。しかし、ほかの学校では甚だしく不便が所を指定された学校があった。庁立高女、現在の道立北高校は、今の北海道神宮、当時の札幌神社が指定された。登校前に円山まで行って、それから再び市内に戻ることになる。そんなあるとき、三越前から円山に向かう走行中の市電から庁立高女の生徒が転落する事件があった。頭を打ち、すぐに病院に運ばれたが、数日後死亡した。私の姉の同級生だったから生徒たちは大変な悲しみようだった。湊(みなと)さん、という女生徒で「湊さん事件」として随分と話題になった。当時の市電はすべて乗客がぶら下がりながら走っていたので、この電車ばかりではないのだが、この事故の補償などはどうなったのか分らない。いまほど人権に厳しくなかった時代のことである。「私がわるかったねぇ」と言って亡くなったとかで、姉たちの悲しみ方は一通りのものではかなかったが、このことは証人が居た事実なのかどうか不明である。この生徒は母子家庭のお嬢さんだったそうだ。お気の毒なことである。
★ 市電が坂を登れなかった話
札幌駅の近くのJR線が高架になって道路が下を通るようになったのはいつの頃のことか、比較的最近のことではないだろうか。以前はここに巨大な陸橋があり、市電がその上を渡っていたことを記憶している人はまだ多いと思う。以前は旧国鉄線の北を「鉄北」(てつほく)と呼んでいた。この橋を私たちは「岡橋(陸橋)」「おかばし」、と呼んでいた。この「おかばし」、南から北へ向かうより北から南へ向かう方が傾斜の距離が長く出来ていた。
太平洋戦争が長引き物が欠乏する時代がきた。電力も同様で、電圧が低下したのだろうか、市電がこの斜面を登るのが苦しげになった。北から南へ向かう時、途中で段々苦しくなり、ついに停止、やがて苦しげに少しずつ登る場合もあったが、時には停止後、少しずつずり落ちて来ることもあった。運転手が頭上のヒューズらしきものを手で押さえて無理矢理動かそうとしていたが、それでもだめなこともあった。自分が乗った電車がずり落ちた経験はないが、北大正門前の乗場で、先に行った電車のずり落ちを望見したことがあった。ずり落ちた後どうなったか忘れた。
★ 丘珠飛行場 永遠の未完成基地
丘珠空港は現在は道内便の発着空港として活躍しているようである。先日もインターネットでりっぱになった光景を見て感心した。
この空港は戦時中陸軍の空軍基地として建設された。委細についてはネットに記載されている。太平洋戦争たけなわになってから、この基地の建設に私たち一中生は連日のように動員された。私が一中に入学したのが昭和18年、戦争が終ったのが昭和20年だから、足掛け三年の間のことである。駅前に集合して軍のトラックで運ばれて行った。作業内容は砂利を運んだり、土を盛ったりというようなものだが、連日、何のために何をしているのか見当が付かない労働だった。最大の問題は、人間の管理が悪く、運び込まれる労働力と、それを受ける側の連絡が全く不在というズサンさである。あの戦争は生産力で負けたといわれていたが、私はそのほかにも色んな部分に敗因があったと思う。こうした、組織の管理運営の粗雑さ、能率の悪さ、それをチェックする機能の不在、こうした組織運営上の出来の悪さが致命的だったと思う。その上、生産力と物量で劣っていたのだから敗けるのは当然である。昨日運んだ砂利を次の日にはもとの場所に戻すような馬鹿げた作業の連続、そもそも足らない物資の、さらに使い方が下手なのだから救いがない。午後になると、兵隊さんのサービスで、いわゆる「くず湯」、カタクリ粉に砂糖と湯をいれた菓子状のものが支給され、糖分が不足していた時代のこと、みんな喜んでいたが、級友の中には、ひそかに「まずい」と言って顔をしかめていた者もいた。それが実相である。この丘珠基地は、ついに戦争が終るまで未完成だった。進駐してきたアメリカ軍が一週間くらいで完成したとやら。残っていた日本の飛行機は積み上げてガソリンをかけて焼いてしまったとネットに書いてある。
★ 朝鮮人大山さんのこと
始めに書いたように、昭和20年、この年、私たちは5月から岩見沢北の農村北村の農家に泊り込みで農作業をさせられていた。私が級友二人と住みこんだ農家に大山さんという朝鮮の人がいた。大山さんは、今でいう強制連行をされて、家族から無理やり引き離されて連れて来られた人である。50歳代の体格のがっしりした坊主頭の人だった。あの頃の北海道では、夕張などの炭坑労働のため、朝鮮の人を強制連行してきて働かせていたのである。この人たちは炭坑の仕事が余りにつらいので時々逃亡した。逃亡してきた人々をを近在の農家は連れてきて農作業をさせていた。農家の人たちは、「さて、今日は<半島>を一人徴発して来るか」、などと言っていた。<半島>とは朝鮮人のことである。大山さんもそうした一人だった。私たちは当時15才、まだ家族や親が恋しい時期である。そんな私たちに大山さんは父親のようにやさしくしてくれた。大山さんはどうして私たちにあのようにやさしかったのか。利害打算ではなく、大山さんは真から心のやさしい人だった。
大山さんはよく歌った。田圃の作業中に、また休みの時に畦に腰を降ろして朝鮮民謡をちいさな声で歌った。私たちは大山さんから朝鮮民謡を教えてもらった。発音がわるい所は大山さんが根気よく直してくれた。私は今でも「アリラン」や「トラジ」を原語で歌うことができる。大山さんが教えてくれたからである。大山さんは、私たちの中に自分の家族の幻影を見ていたのかもしれない。
やがて、8月15日、日本が降伏したその夜、農家の人たちが台所に集まっている中に大山さんの姿がなかった。農家の人にたずねると、「大山さんは朝鮮人の集会に行った」とのこと。そして声を低めて「大山さんを刺激するようなことを言うなよ」、と言った。やがて大山さんは自転車で帰って来た。そして、何事も無かったかのように、自転車を土間に片付けると、いつもと変らず挨拶をして自分の部屋に引き上げて行った。
私たちが札幌の家に引き上げてから二ケ月くらいたったある秋の日、農家の主人がふと札幌の私の家をたずねてきた。私が、「大山さんはどうしました?」と聞くと、「朝鮮に帰りました」との返事だった。大山さんは、二度と会うことが出来ないと思っていたであろう家族のもとに帰ることが出来た。どんなに嬉しかったことか。大山さんは私の中の忘れえぬ人である。
★ 戦争と市内の変容
さて、札幌は不思議と空襲を受けなかったが、それでも戦争は次第に街の様相と市民の生活に影響をあたえてきた。私の知る限りでは、北の住宅地区の一部で強制疎開ということで、空襲時の火災の拡大を防ぐために民家の組織的取壊しがおこなわれた。とはいっても、戦後米軍の大型工作機械を使った作業ぶりにくらべ、大工が手作業で釘を一本ずつ抜いていくという間伸びのしたものだった。食料も本州ほどではないにせよ、自給料確保のため空いている土地が次第に畑にされ、大通公園もじゃが芋か何かの畑になった。芝生がじゃが芋畑に変容したわけである。大通だけでなく、北大構内の芝生も畑に変った。戦争末期、大通駅前通りには巨大な戦意高揚の立て看板が設けられ、戦争の巨大な絵が画かれた。日本兵が刀をふりかざして米軍の陣地を襲撃している絵など。横幅が大通いっぱいだから、30メートルくらいということになるか。私の音楽の師匠、荒谷正雄先生は終戦直前ベルリンからソ連経由で札幌に帰国した人だったが、帰国して大通の画を見た時、まるでソ連にいるようだった、と語っていた。プラカードが林立している様子が似ていたのだろう。戦後、畑から再び芝生に戻る途中、アメリカ兵がここでキャッチボールをしていた。大通りの地面も頭上の変容の忙しさにさぞかし困惑したことだろう。
★ 進駐軍が来た
戦争に負けて、札幌にアメリカ軍が進駐して来たのは確か9月か10月だったように思う。いまと違って、戦争による鎖国状態の間、外国人を見ることも珍しかった上、アメリカ軍は鬼畜、鬼だ畜生だ、と宣伝されていたから、想像も出来ない、まるで宇宙人が来るように思われた。進駐当日、女性は外に出ないよう、男でも怖いので外に出ない人が多かった。北大の一部も接収された。私の家は北大正門前だったから、午後になると二階のカーテンの陰からこわごわ見ていると、米軍の大型六輪トラックが続々と正門から入っていく。トラックには、赤ら顔の兵士が、前半分立って後半分は座って乗っていた。
札幌に進駐した部隊は第77師団という部隊で、この部隊はフィリピン、沖縄の戦線で勇猛をはせた精鋭部隊で、師団長はブルース少将という人だった。例外はあるが、初期に進駐した部隊は概して紳士的だった。それには理由があるので、どこの国でも戦争中の兵士は応召兵で、入隊する前は社会的に地位が高い人、高学歴の人たちが召集されて兵隊になってきていたのである。やがて、77師団が去り、交代で入ってきたのが第11空挺師団。これは職業軍人の師団だった。77師団の人たちが「おれたちのあとに来るのはすごい部隊だよ。第11空挺と聞くと我々ですら身がすくむ」と言っていっておどかした。第11空挺は師団長がスィング少将。猛将で本音では日本人嫌いという話だった。PX、軍隊の売店で日本人女性職員の椅子を蹴っ飛ばしたとか、すごい噂が聞こえてきた。しかし、兵隊たちは、噂ほど野蛮なことはなく、77師団ほど愛想がいいわけではない程度だった。
恐ろしいこともあった。雪の夜に市内で、五人か六人の日本人の通行人が拳銃で連続射殺されたことがあった。北一条の市立図書館の裏の辺りである。犯人は上らない。早朝の豊平川堤防で人が鉄棒で撲殺される事件もあった。これは一回だけでなく何回か続いたが、犯人は上らない。ただ、13文半の大きな足跡があった、と新聞に書いてあった。北大正門前に「竹屋」というキャバレーみたいな店があった。そこで、酒に酔ったアメリカ兵が、日本人の酔客と喧嘩になり、日本人を拳銃で射殺する事件があった。私の家は、この竹屋と背中合わせの位置にあったので、この晩、私は拳銃の音を聞いた。爆竹がはじけるような乾いた音が数回したが、その時は何の音か分らなかった。拳銃の音であることは翌日知った。近所の人が話していたが、すぐにMPが来てその米兵を連行していったそうだ。
しかし、多くの兵士は紳士的だった。何年も経つと、あちらも動員解除で召集されていた兵士が少しずつ復員し、志願制の兵隊だけが入り代り、質も低下していったという次第である。
私の父の会社の隣が米軍の施設で、父が英語が出来るためもあって、アメリカ兵がよく父の事務所に遊びに来た。家庭に招待したことがあるが、たいへん紳士的な人たちだった。彼等は前線慰問のためのレコードを持っていて、帰国する時に置いていった。その中にはクラシックのものも多くあり、トスカニーニやハイフェッツの未知の演奏を聞いたものである。ラジオでも米軍向けの放送が始まり、いまはFENだが、当時は日本の中の地域によりコールサインが異なり、札幌はWLKD、東京はWVTRだった。クラシックの番組もあった。深夜12時のお休み番組は、ラヴェルの「亡き王女のためのパヴァーヌ」がハモンドオルガンの演奏で流れ、詩の朗読がある高尚なものだった。
札幌は街作りがアメリカの影響を受けた都市であるせいか、気候風土もアメリカ北部に似ているのか、アメリカ兵たちは、「札幌が好きだ」、「アメリカのどこかに居るみたいだ」、と言って郷愁を感じると言っていた。
鎖国と、外国への敵意を教えこまれた状態から、突然アメリカ文化と向い合ったあの時、少年の私たちが受けたカルチュア・ショックは大変なものである。ここでは書き切れない。
★ 私たちを援けてくれた米軍兵士たち
敗戦になって戦争は終ったが、私たち一中生はまだ勤労動員が続いた。もっとも当時の一中では、校長が気骨のある人で、敗戦以後の動員は拒否したのである。しかし校長が代り、これが最後ということで、10月、市内の鉄工場に配属された。ある日のこと、鉄材の搬送のために中学生5、6人がトラックで郊外の工場へ行くことになった
北海道の10月はもう初冬に近い季節である。当時の札幌郊外は少し行くと荒地だった。工場の50才代の運転手ともう一人の人と私たちである。
鉄材を積んでの帰り道、ある荒地の道で突然トラックが道路脇の泥にはまり動かなくなった。降りて見ると前輪がかなり深く泥の中に埋まっている。どうすることもできない。雪がちらつき始め日が暮れかけてきた。途方に暮れていると、前方から米軍の大型六輪トラックが地響き立ててやってきた。兵士が5、6人乗っている。トラツクは私たちの脇で急ブレーキをかけ止まった。指揮官らしい若い将校が降り立ち、どうしたのかと私たちに尋ねる。進駐直後の彼等はヘルメットの片側に紐を下げた、映画「コンバット」のような姿だった。私たちは、できるだけの英語で事情を説明した。すると若い将校は大声で「降りてこの車を援けろ」と叫んだ。当時の米軍車両は前のバンパーにワイアとウインチが付いていて、エンジンで駆動するようになっていた。そのウインチのワイヤーを私たちのトラックのバンパーに巻き付けるとエンジン全開で牽引し始めた。そして、米軍の将校と兵士たちは、全員が泥の中に足首まで入って私たちのトラツクを押し始めたのである。それまで私たちは近くの廃屋の倉庫の軒下で傍観していたのだが、傍観しているわけにいかなくなり、一緒に押し始めた。やがてトラックは無事這い出した。私たち学生も工場の人も何とお礼を言っていいか分らず「サンキュー、サンキュー」を繰り返した。指揮官は若い20歳代の少尉、私の思い出の中ではケビン・コスナーに似たすがすがしい青年だった。私たちのお礼に、少尉も兵士たちもさわやかな笑顔で答えると忙しげにトラツクに飛び乗り立ち去っった。この兵士たちも、私には忘れえぬ人々である。
★ 札幌の大火
札幌は、空襲がなかった上に、地震、台風、水害など自然災害も少なく、その上、火災のような人災も余りない街である。しかし、あれは確か昭和21年か22年の春先だったか、市の南と北でかなりの火災が同時に発生したことがあった。昼火事である。私は一中四年だったと記憶する。まず南の火事が始まったので、私は自転車で野次馬に駆けつけた。どの辺だったか忘れたが、薄野より南だったように思う。消火作業にもかかわらず火が拡大して行くのを見ていた。その時、誰かが「おい、あれを見ろ!」と叫んだので見ると、北の方で煙が高く上がっている。自分の家の近くかも知れず、自転車で北へ急いた。あれは、北10条辺りか、その西の方である。西一丁目から三丁目あたりの所。私の家は北九条西四丁目だから余り遠くないのだが、さいわい風向きが幸運して火はこちらには来なかっった。その内、延焼拡大を防ぐためにアメリカ軍のブルドーザが出動して民家の取壊しを始めた。これは盛大なもので、木造住宅を木っぱのごとくバリバリと踏みつぶしていく。この時、戦時中の強制疎開で、大工が釘を一本ずつ抜いていたのを思い出し、妙な所で工業力の違いを思い知らされた。この時の北の方の火災では小学校の学友の家がだいぶ類焼した。私は北九条小学校だったから当然のことである。その後、この南北同時火災のことは、なぜか余り語り草にもならず今に至っている。これもまた私には不思議に思われることである。
★ 大通公園の感動
戦後五、六年経って日本も落ち着いてきた。音楽会も、東京から演奏家が来るようになり、次第に充実して来た。その中でいまも忘れられぬ光景がある。
あれは、昭和25、6年のことだったか、N響が来た。当時はまだ「日響」、「日本交響楽団」の名だったように思う。一度目は余り水準の高いものではなかったが、二度目の時は、ピアノの園田高弘、ヴァイオリンの巌本真理を同伴しての豪華な顔ぶれだった。会場は、当時、薄野にあった松竹映画館。当然、券を買えない人たちが出ます。そこで、主催者と市当局は異例の配慮をして、大通公園にスピーカーを設置して、会場からのライヴ放送をすることにした。
私は、少し遅れて現場に着いた。聖恩碑の辺りである。そこで見た光景は今も忘れることが出来ない。夏の夜、すでに薄暗くなっている芝生を埋めたおびただしい、人、人、人、大群集といってよい大変な人。皆、頭を低く垂れ、スピーカーから流れる音楽を祈るようにして聴いている。その上を、巌本真理のひくベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲が祈りの歌のように流れていく。あれほどまでに、あの時、人々は音楽をもとめていた。人の心と音楽。まるでイスラム教の大群集の祈りのようなその光景が私には忘れられない。
いま、音楽会はもはや過剰。東京では、毎晩10以上の音楽会があり、入場券は買い手がなく、迷惑の対象ですらある。いったい世の中はどうなったのか。「窮乏」ということが無くなり「過剰」に変った。モノが足らないことがいいことであるはずはないが、今度は有り過ぎる弊害が出てきた。どうも有り過ぎると、どこか目に見えない所に不足状態が生まれるらしい。反比例するように人の心が貧困になり殺伐になった
★ 札幌の街の変容
札幌が私の幼年期の姿をとどめていたのは何時頃までか。これは、札幌に限らず、日本中どの街も同じだ、田中角栄首相の「列島改造」が始まるまでではないだろうか。東京もまたそうだった。この時から日本中が変貌し始めた。
最近ネットで知りたが、札幌の人口が180万を越えたそうだ。昔の札幌、私が小学生の頃、人口は20万か25万。市電は北18条まで。ここが終点。市街の町並みもここで終り。そこから北は広々として畑、農地だった。子供の私たちは、しばしば自転車で更に北へ向いた。はるか北にある札幌飛行場に遊びに行くためである。あそこは北何条になるのだろうか、いまはもちろん市街地で、前に書いたが「ここに札幌飛行場ありき」という碑が立っているそうだ。これも前に書いたように、市電の通りは舗装してあったが、18条で舗装も終りだった。私は、1964年か、65年かに札幌を訪れた折、小学校時代の旧友と再会し、昔遊んだ北九条の辺りへ二人で行ってみた。私たちが子供の時に遊んだ町角や路地がほとんどそのまま残っていた。
デパートは、三越と丸井と五番館の三つが主要であったことは周知のことである。丸井は地理的に中心部の三越より位置が不利だったが、一大改装して新しい建物になったのは私が小学生の頃だった。屋上にタワーが立った建物は当時は画期的なものだった。いよいよオープンが近づくと宣伝にも力が入り、紙で出来た模型がくばられ、組み立てるとミニチュアが出来るというわけである。私も夢中で模型を組立て、オープンの時は、その実物を見るというたいへんな興奮であった。中二階のパーラーというのも札幌市民には初めてのもので、オープン前の案内図に中二階が画いてあるのを見て、兄姉たちは、これはなんじゃ?と首を傾げていた。昭和10年台前半の頃だから、日本の経済力もこの頃まではまだ消費拡大の力が残っていたということになるのだろうか。戦争による経済の圧迫が表面化してくるのは、やはり太平洋戦争以後になるものと思われる。
グランド・ホテルもかなり前に建ったが、これも当時の豪華モダン建築である。建設が進むにつれて、北大前の私の家の二階の窓からも、屋上のタワーが見えるようになった。 ここには、来日した「ヒトラー・ユーゲント」、「ヒトラー少年団」が宿泊した。私も見に行ったが、色の白い少年たちが整列して、いまは記録映画に残る右手を高く上げるナチス式の敬礼をするのを見た。この人たちは、当時まだ飛行機による移動がない時代で、東京から鉄道で来たものである。駅に見物に行った人もいた。
東条首相が来たこともある。小学生だった私たちは歓迎のために動員された。駅前通りの五番館のあたりで待った。道の両側には多分動員されたであろう人たちが並んでいた。やがて、その中をオープンカーに乗った首相が軍服姿で敬礼しながら通りた。子供だった私たちの中には「カッコいい!」と小声で嘆声を発する者もいた。これは人から聞いた話だが、東条さんが、たしか北大の講堂で講演した時、前の方の学生らしい人が微笑したのを見て、「私の話をにこにこしながら聞くような人は退場して頂きたい」、と言ったとか。余裕とユーモアのない人で、私の家族は不快がっていた。やがて東京裁判での悄然とした姿を映像で見たが、落ちぶれる前から私はこの人に不信感を持っていたと言わざるをえない。
これに対し、海軍の報道官だった平出(ひらいで)大佐という人、この人も講演のため札幌を訪れたが、スマートで人気があった。純白の海軍服の胸のポケットにはピンク色のハンカチをのぞかせ、語り口も上品。女性に人気があり、私の姉たちも賞賛していた。この大佐、報道官だけあって、時に陽気な大風呂敷を広げた。「わが海軍はやがて、ニューヨーク沖で観艦式を挙行するでありましょう」。つまり、アメリカに勝って、ニューヨーク沖で海軍の大パレードを行なうというのである。今ならさしずめテレビのスター広報官というところである。
この大佐、やがて戦争に負けてから、札幌に部屋を探しに来たそうだ。。中島公園にあった音楽評論家の岡俊雄さんの屋敷に空き部屋はないか訪ねて来たと岡さんから聞いた。人を茶化すのはよくないが、「ニューヨーク沖の大観艦式」から部屋探しとでは大きな違いである。しかし、この大佐には何故か反感を持てない。人柄だろう。広報官という身分からか、戦犯にも挙げられなかった。岡さんはすでに亡くなったが、本名を岡田金十郎といい、一中38期卒、私たちの先輩である。私は岡さんに子供の頃から世話になり、音楽の知識も沢山さずかった。故淀川長治さんが編集長をつとめていた雑誌「映画の友」で、淀川さんの片腕として副編集長をつとめ、戦後は音楽オーデオ評論にも進出した高名な人である。岡さんの屋敷はいまのホテル・ライフォートの辺りにあった。この辺もいまは様子がすっかり変ったが、昔は、広い敷地に生け垣を回した大きな邸が並んでいたものである。開発の波が寄せたこと、相続税の問題、等々、住宅地から商業地区への変貌はやむをえなかったのだろう。
戦後の占領期で気の毒な目にあったのは三越デパートである。全館を進駐軍に接収された。そのため、三越は、北一条にあった市の公会堂を全館借りて移転した。しかしなにぶんにも、場所が不便で、面積でもデパート全館の売り場を置き換えることは出来なかったのではないかと思わる。丸井デパートが中心地からわずかずれた位置にあるため三越にくらべ不利だったわけだが、さらに不利に状況になった。なにしろ敗戦による占領軍の命令だから如何ともしがたい。しかし昭和24年頃にはもとの位置にあった記憶があるから、これはそう永い間のことではなかったと思う。
数年前、仕事で札幌を訪れた際、私は自分が生まれた家を訪ねてみた。北九条西三丁目である。その後、戦時中に西四丁目に引っ越したが、生まれたのは三丁目である。だいぶ前に家屋は取り壊されたことは知っていたが、高い立体駐車ビルになっていた。あたり一帯ももちろん変貌していた。そもそも駅に北口が出来たことが変化の原因で、このことにより、駅の北側、「テツホク」が住宅地区から商業地区に変り始めたようである。石川啄木が詠った、<しんとした はばひろき町の 秋の夜の>、の風情はいまはない。それでも、ほんの目立たぬ所に昔の痕跡が残っている。道に立って、ある方向を見た時に目に入るもの、わずかな生け垣の残り、今も例外的に残る民家の屋根の一部、などなど。やがてそれも無くなるのだろう。
私は昭和25年に上京、それ以後は年に一度か二度帰省したが、短い滞在期間では方々歩くことはできず、それ以後の札幌は若い世代の人たちの方がよく知っている。
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