音楽時評 「現代音楽は存在しなかった」
社会の匂い   

 ものの感触を「匂い」という言葉で表現することを余り好ましいと思わない。通俗的な表現だし、文学的にも趣味がいいとは思わない。しかし、こうした表現をするほかない場合がある。

 1980年4月、私は、当時の西ドイツ、ハンブルクからベルリンへ鉄道で向った。当時ベルリンは政治的に陸の孤島であり、市自体も東と西に分割されていたし、西ベルリンへ行くにも、一度、東ドイツの領土に入り、西ベルリンへ入る、という方法をとるほかなかった。

 
国境を通過して東ドイツ領に入り、やがて東ドイツ領を通り抜けて西ベルリン域に入るその直前、列車はある無人の所で止まった。まだ東ドイツ内である。信号待ちだったのかもしれない。荒涼たる原野のただ中である。列車の乗客は男が二、三人、余りにぎやかとはいえない。ただし天侯はよかった。私の座席の窓の外に給水塔のようなものが立っていた。5メートルくらいの高さの煉瓦作りの荒廃した塔である。かなり古いものらしく、煉瓦が崩れ荒れている。その塔を見た途端、何か戦慄のようなものを覚えた。何かを反射的に連想したのである。アウシュヴィッツ!アウシュヴィッツの写真の中にもこうした荒涼とした煉瓦の建造物があった。暗く荒れて、死の匂いが漂う煉瓦の堆積物。写真や文章などでしか知らなかった本物に出会ったその「匂い」。そうしたものが私の体を走った。そして何故か、そこには社会主義国東ドイツの空気があった。
 もう一つ。当時ベルリンは東西二つに分割されていたが、「西」から来る国電は「東」の駅に乗り入れては折り返していた。「東」の駅に「西」の電車がホームに入って来る。ホームから下は「東」というわけである。入ってきた「西」の電車がしばらく発車まで停車していた。そのとき、一匹の大型の犬が線路の上を歩いてきて停車中の「西」の電車の下へ入って行った。私は、間抜けにも、警備の「東」の兵士に、「犬が列車の下に入った、危ない」と警告した。兵士は、一瞬おもしろいことを言う奴、という表情で見返し、片目をつむってウインクで答えた。後でやっと気がついたが、あの犬は警察犬であった。「西」から入って来た列車の下に何かあやしいものが無いか調べていたのであった。それはともかく、その時、ホームの上に「東」の兵隊がどやどやと大勢入ってきた。その時匂ったもの。「匂い」、それはナチの匂いであった。多分、あの兵士たちの軍服の型から来たものであったかもしれない。裾の長い外套、そのデザインだったろうか。暗い、陰惨な、あの時代を思い出させるものだった。すべては「匂い」としか言い表わせない。
 一番気になることは、当時、東ドイツは西ドイツに比べて、ナチスに対する反省がはるかに深く、徹底的であるといわれたことである。その東ドイツに当のナチスの匂いがあったのである。これは議論の問題ではない、「匂い」であった。理屈以前である。


追記:
 この経験の時、東ドイツは健在だったが、その約10年後この国は崩壊した。崩壊のあとで次々と暴かれた事実は、この国がファシズム以上の陰惨凶暴な全体主義国家であったことである。この国だけではない。ソ連を首領とした自称社会主義国家はすべてそうであった。人民民主主義などと自称した国の実体が実は飛んでもないものであった。右翼と反対対極のものであるはずなのに、右翼とウリ二つか、それを上回るグロテスクな怪物であった。球形の地球を西へ西へと進むと、ついには東側から出てくるようなものであろうか。 このことは共産国の話だけではない。国内の左翼政党と左翼人の言動はかつての軍国主義時代の指導部そっくりで滑稽ですらある。敗北しているのに現実を見ようとせず、掛声だけを繰り返す。彼等の世界象は唯物主義どころか、これ以上はありえぬ観念主義である。妄想しか眼に見えず、それを現実と勘違いしてか、勘違いしたいのか。私が東ドイツでチスの匂いを感じたのは今から思えば理由があった
欧州の音楽家たちと戦争
                                                                                            



                                                                                  「音楽の世界」1998年12月号掲載
                                                  
 
ベルリン作曲界の長老S教授は68歳。永らくベルリン芸術大学の教授をつとめたが、健康が思わしくなく数年前に退職された。縁の太い眼鏡の奥からじっと見つめながら大きな声で一語ずつはっきりと区切りながら語る口調に往年の剛健なドイツ文化人の典型を見る思いがした。
 
年令からして日本と同じ戦中派である。「私はこの街に50年生きてきた。実に色々なものを見てきた」と語るとき、半世紀余りの歴史のなかでこの街を通過したであろう、あの事、この事が聞く方にも迫ってくるのであった。
 健康が思わしくないことの本当の理由は、この地の別な音楽家から聞いてはじめて知った。S教授は、戦争末期、年少ながら徴兵され、ギリシャで終戦となり、捕虜となって送還された。その折り、ギリシャから故国ドイツまで徒歩で行軍させられたという。このことが健康を害するもととなった。温厚な教授が、映画で見るナチス・ドイツ陸軍の軍服をまとった姿はなかなか想像しにくいが、確かにそういう現実があったのである。
 氏は子供の頃、音楽を志す前、星が好きで天文学者になろうと思っていたという。こうした少年の前に時代の暗い壁か立ちはだかった。穏やかで、美しいものを愛するドイツ少年に軍服が着せられた。
 日本でもそうだが、この年代の人は何故か戦争体験について余り語りたがらない。本人からではなく知ったのだが、S教授は、戦争末期、軍法会議にかけられ処罰を受けた。理由は、上官の反人道的な命令を拒否したことであったという。抗命罪であった。捕虜虐待か射殺の命令だったのだろうか。当時の状況からしてあり得ることである。ナチスの軍隊にもこういう人がいた。
 ギリシャからの行軍の途次、バルカンの貧しい村々を敗残の捕虜として通過しながら、その土地の民謡を聞いた。後日教授はそれらの歌を合唱曲に編作曲した。物悲しい心にしみる歌である。日本でも日本合唱協会が初演し再演もした。

 戦争で害した健康から氏は痛々しいほどの日々を近ごろ送っておられた。ベルリンは空気が悪いのでハルツの山荘に転地して時々ベルリンに帰る生活をしておられた。
 戦時抑留で健康を害した日本の音楽家のことを考えあわせ、少しでも永く元気な日々を過ごされるよう祈ったが、1992年ついに亡くなられた。

 ドイツのピアニストW氏はこの年52才であった。ドレスデンで少年期を過ごしたが、戦争が激しくなるにつれ、日本と同じく食料がとぼしくなり、お母さんが自転車で農家を回り買い出しをするようになった。やがてドレスデン近くの村に疎開した。あの歴史に残るドレスデン大空襲の夜、少年は農家の庭から街の空が真っ赤に焼けるのを見ていたそうである。
 W氏の父は反戦主義者であった。あらゆる手段で徴兵を避けてきたが、どうしても逃げられなくなった時、衛生兵を志願した。人を殺すのではなく救ける方にまわった。
 やがて終戦となり、ドレスデンは、はじめ米軍の占領地区だったのに、取り引きの結果ソ連に渡されることになった。役所につとめていた氏の父は、ナチスであろうが共産党であろうが、理にあわないことは断固として拒絶する人だった。ある日、役所の公金が粉失した疑いで共産党政府は彼を逮捕した。投獄後も身に覚えのない疑いを彼は断固として認めなかった。やがて紛失した金は別な所から出てきた、と言うが、実際はでっち上げに屈しない彼に共産党があきらめたのであろう。古武士のごとき父君はもう亡いが反骨の気概は彼の中に脈打っている。
 私が、「共産主義の妖怪がヨーロッパを徘徊している」というマルクス共産党宣言の一節を語ると「そんなものはもう死んだ!」と彼は天を仰いで大笑した。

                         
 神話と暗示に呪縛された20世紀    
                                  日本にもあったジュダーノフ批判
                                                                              助川 敏弥

 
ひとつの妖怪かヨーロッパを徘徊している、共産主義という妖怪が。これは、1850年、カール・マルクスが著わした共産党宣言の書き出しである。

 あれから150年、その共産主義は世界の人々が見る前で大音響を立てて崩壊消滅した。かつて私は、友人のドイツ人ピアニストとベルリンで会食した折り、私がこの一句をドイツ語で口ずさむと、彼は、「ション・トート!」(もう死んだ!)と吐き拾てるように言った。それは1989年5月のことである。ベルリンの壁崩壊の直前であるから、現地に住む彼にはすでにその死臭が届いていたのであろう。あの時、ベルリンに入るため、西ドイツから鉄道で通過した東ドイツの光景は鬼気迫るとしかいいようがないものだった。それは社会主義最後の姿であったろうが、その荒廃ぶりは敗戦直後の日本よりも更にすさまじいものに思われた。


 
20世紀は神話の世紀であった。ナチスの哲学者ローゼンベルクは、著書「20世紀の神活」でナチズムのイデオロキーを理論化した。マルクスが夢見た共産主義もまた神話であった。地上に天国を創るというバベルの塔は、旧約聖書の物語り通り無惨に崩壊消滅した。レーニンは「宗教は阿片である」と豪語したが、ブダペストでは怒れる民衆がその像を引き倒し土足で踏みにじっていた。

 
ところでマルクスとは別の妖怪が音楽の分野にも出現した。「現代音楽」という妖怪である。この妖怪が本格的に音楽界を徘徊し出したのは第二次大戦後である。もっともこの方は、妖怪のあたえる脅威のあり方は複雑であった。まず、聴き手、聴衆はこの妖怪の影がさすと一目散に逃けだした。それは恐怖よりも嫌悪心からであった。誰しも醜悪なものは見たくないし聴きたくもない。次に演奏家。演奏家の中には勇敢に妖怪の飼育にあたった人たちもいたが、しかし多くの場合、嫌悪心と忌避を示す場合が多かった。妖怪の飼育に不熱心であることはけしからんと評論家から非難されたが、どうみても飼育など出来そもない姿かたちに対しては逃げ出すのは無理からぬことであった。
 
この妖怪の影に一番おびえたのは作曲家たちであった。妖怪の気に入られなければ命がないと本気でおびえた人たちが大部分だったのである。評論家たちもまたその恐怖心をあおった。ただ作曲するだけでは無意味である。妖怪の気に入られることこそが命を救うという脅迫を新聞や雑誌に書きまくった。恐慌した作曲家たちは当然のことなから、妖怪の方を向いて仕事をするわけで、その結果、背後にまわされた聴衆は全く無視されることになった。
 新しい音に馴れるには時間がかかる、時間がたって音に馴れれば理解されるようになる、これは、いまから50年くらい前、妖怪飼育すなわち現代音楽を推進する作曲家、演奏家、評論家たちが揃って口にした言葉である。しかし、すでにあれから50年がたった。半世紀がたったのである。シュトックハウゼンの「コントラプンクト一番」やブーレーズの「ル・マルトー・サン・メートル」が、あの当時より人々に聴かれるようになったか。好んで聴く人が当時より増えたか。時間がたって人々は音には慣れたのにである。それとも、これらの音楽は、新しい音を開発提供するだけが役割で、役割を終えたら消滅していいものなのか。それならそれで社会の役に立たないものでもないが、もしそうなら実験段階の生産物に過ぎないのだから「現代音楽」などと大仰で尊大なあつかいをされるべきではない。

 20世紀は神話の世紀であった。人々を翻弄した神話の主役は「歴史主義」である。時代は必然の理由あって進行するのであり、その進行に遅れたものは無価値である、という恐るべき脅しである。この暗示によると古いものはすなわち無価値ということになる。これはど人を狼狽させる強迫観念はない。ブーレーズは、「こんにち、調性で作曲する作曲家には、もはや価値がない」と言い切った。
 しかし、いったい誰が新しい音楽を作ってくれと頼んだのだろう。新しい音楽はかくあるべきだと、誰が何の根拠で決めたのか。憑き物というのは醒めてから考えると、説明がつかない不可思議な呪縛によって縛られていたことが分るものである。誰も頼まず、求めもしないものを、作らねばならぬと信じ込み、勝手な使命感に捉われて周りに迷惑をかけ、自分以外を否定しながら暴走する。政治の左翼過激派と双生児である。自分勝手な革命の幻影に酔い痴れて社会から相手にされないのに、憑かれたように否定と破壊をくり返す。「第三帝国」「共産主義」「現代音楽」、いずれも神話であった。もっとも前の二つにくらベ三番目はいじましいほど貧弱なものだが。


 
マルチン・ハイデガーは、人は思念を前方に投影し、それににじりよろうとして生きていく存在であるという。こうした人間の想像力がすぐれた学問、芸術を生み出したのでもあろうが、一歩誤れば邪々しい結果をも生み出す。そのことは、ハイデガー自身が実例を演じて見せてくれた。オウム真理教などは神話が消滅した跡の空白を埋めるべく登場した代替物であろう。しかしオウムを笑ってはいられない。言うところのマインドコントロールはオウムの信者だけではなく、日本の、いや世界の作曲界をも席捲していたのである。信者だけが集まって、もとの上九一色村みたいな世界を形成していれば、その中では正気では考えられぬ狂気の行為が大真面目に正当化される。人は集団を組むことによって暗示の相互呪縛をかけあうのだから。
 
旧ソ連にジュダーノフ批判というものがあった。あの国の作曲家たちは批判におびえて作風を左右してきたことは日本でもよく知られている。しかし、日本でも実情は同じだったのである。新聞や雑誌に「好ましからざる作風」と烙印を押されればその曲も作曲者も評価を得られなかった。そして、若い作曲家たちは「批判」におびえ、心情を裏切ってまで和製ジュダーノフの気に入る作風に従おうとした。こんな権力的で一方的な裁断がどれだけのすぐれた新作を葬り、たぐいまれな才能を病気にし、もっと豊かでありえたはずの日本の作曲界を荒廃させたことか。「現代を忘れないでほしい」とか「滅びゆくものへの郷愁だけが感じられる」、こんな言葉が音楽雑誌や新聞紙上に踊り、すぐれた同時代音楽を葬っていったのである。

 
「現代音楽」などもともと存在しなかったのである。当り前の音楽とは別種の「現代」音楽などは存在しえないし、存在しなかった。存在しえないものを作ろうとしても不可能である。無理に作ったものは音楽とは違っ別なヘンなものであった。終始一貫存在しえたのは「音楽」だけだった。「<現代>音楽」という言葉は実体を持たぬ死語であるのだからもはや廃語にすべきである。新しい作品は「新作」でいい。そうすれぱ呪縛を解かれた作曲家たちは,うって変って色とりどりのいい音楽を作り出すことだろう。醜悪な妖怪はすでに死んだのである。ション・トート!  化物はもう死んだ! 

  「音楽の世界」1999年10月号

カール・マルクスと
              アルノルト・シェーンベルク


                              20世紀を吹き抜けた二つの思想

                                                                   助川 敏弥

 一般に、音楽は社会的変動が,最も遅れて到達する分野であると言われる。これまでの歴史的経過を見てもそれは確かに否定することができない。音楽は論理的思索から,最も遠い営みであり、人間の情堵の表現であるから、地殻の変助が,最も遅れて到達する部分であることはやむをえないことでもあるのだろう。
 しかし、ここに現代史の上で見逃せない出来事がある。この出来事を見る限り、音楽が最も遅れた分野であるという定説はくつがえり、むしろ、一般社会の変動を一歩先取りしているとすら言える。しかも、その変動はたったいま現在もなお余震を伝えているものであり、むしろ、一歩先を行った音楽の推移を見ることにより社会事象のこれからの変転も逆に推測出来るとすら言えるのである。

        実証主義ならざる見方にも価値あり

 19世紀フランスの歴史家、ジュールミ・シュレはロマン主義の歴史家であり、その記述は現代の実証的学問からすれば学問として容認できるものではないだろう。しかし、この壮大な想像力をひろげた学者は、実証主義が描きようがない視野をひろげて見せ、その中には学問としても無視できないものも描き出した。実証主義がその方法の厳密さのために自縄自縛に陥り、自分をせまい領域に閉じこめ、手ぜまな範囲のことしか語れないのに対してミシュレは自在に視野をひろげた。せまい実証主義は想像力貧困な学者を生み出したが、彼らにミシュレのような視野と想像力を期待することはとても出来ない。
 そのミシュレの著書に次のような記述があ る。古代末期、地中海でキリスト教支配が碓立した頃、ある不思議な声がエーゲ海の周りを駆けめぐったという。「グラン・パン・エ・モルト」、"偉大な牧神は死んだ!"と。古代のギリシャ文化がキリスト教文化によって支配され滅びた、ということである。そこからしてミシュレは、中世ヨーロッパでは抑圧された非キリス教的なものが底辺に生き残り、機会あるごとに異形な意識となって表面に表われる、中世末期の魔女狩りもその一つであると説く。現代のナチズムもまたその表われと考えることが出来よう。
 いまここで、ミシュレについて書くことが目的ではない。実証的な方法だけが有用なわけではないことを前以て断っておきたいのである。筆者がこれから記述しようとする二人の人物の思想についての論も、学問的な立場からの推論ではない。しかし、学問にならなくても知るに値することはあるし、考えるべきことは山ほどあるのだから。

         マルクスとシェーンベルク
                二人の思想が現実化した時期を見よ


 カール・マルクスは1818年に生まれ1883年に没した。アルノルト・シェーンベルクは1874年生まれ1951年没の人である。自然年令からすれば、マルクスの方が約半世紀生まれが早いが、マルクスの思想を現実化した最初の社会主義国家ソビエト連邦が誕生したのは1922年、そしソ連が国際社会で強大な影響をおよぼし始めたのは第二次世界大戦以後のことである。マルクス自身は19世紀の人であったが、その思想が現実に最も強い力を持ち始めたのは20世紀後半ということである。
 一方、シェーンベルクの無調的指向性とその技法は次第に12音音列の技法に整備形成され、はじめて全面的12音音列技法によった作品は、作品25の「ピアノ組曲」で、1921年から1923年にかけての作品であった。
 レーニンの革命によるソ連の誕生が1912年であるから、マルクスとシェーンベルクの思想が現実化した時期は奇妙なほど一致するのである。シェーンベルクのこの技法、というより思想は、なぜか第二次大戦以後、不可思議な旗印となり現代音楽に強大な力をおよばし始めた。「ウェーンベルンから出発せよ!」というスローガンは誰が言い始めたか知らぬが、1950年代以後しばらく作曲界を席巻した。
 この二人の思想が、当人達自身の生まれの時期とは別に、今世紀ほぼ同時期に現実化の道をたどり、後半に至って共に主役として舞台の前面に現われたのは注目にあたいすることではないか。

          二人の思想に見る「歴史主義」

 彼等の思想をなにより特徴づけるものは、その歴史主義である。人間の歴史にはある法則があり、歴史はある方向へ向かって進んでいく、マルクスにあっては、生産関係が上部構造を造り人間の意識を形成する、その底にある原動力は生産力の暫増であるという。
 一方、シェーンベルクでは、音楽の歴史は次第に増大するクロマティズムの歴史であるという。階級闘争の歴史がやがてプロレタリアによる無階級社会に到達するように、増大するクロマティズムはやがて全面的クロマティズムに到達し、調性は消滅し十二の音が平等にあつかわれる組織に達する。これはシェーンベルク自身ではなく、その熱心な伝導者ルネ・レイボヴィッツの言葉である。マルクスもやがてレーニンに引き継がれ「マルクス・レーニン主義」と呼ばれるようになった如く、シェーンベルクの思想も本人自身よりも伝導士である使徒たちによって鼓舞伝導されて行った。「シェーンベルク・レイボヴィッツ主義」とでも言った方がよいかもしれない。

 1910年代から20年代頃まで、第一次大戦を通過して生じたヨーロッパ旧体制の崩落、あらゆる価値の流動と変動と未来への不安、こうした社会状況のもとで、歴史主義の力は最も効果的に作用する。人は誰しも未来を予測できない。それも在来の状況が消滅して、いよいよ未来の予測が出来かねる時、歴史はこう進むという教説は人の心をつよく捕らえる。この思想が政冶を捉え、音楽と作曲家たちを捉えたのである。20世紀を特徴づけるものは歴史主義であるのだろう。それは、在来のものが崩壊した緒果、未来への手がかりが失われ、その結果、その間隙に成長の場を得たのである。
 その勢いは第二次大戦後に本格的になった。旧いものは倒れ、新しいものが生まれる。この魅力あるスローガンは人の心の弱点をみごとに突いた。「ウェーベルンから出発せよ」のスローガンもまたこの心理に食い込んだのである。大戦は終り、大きな変動が生まれつつある。誰しもがあの頃そう思った。米ソの対立が始まった。アメリカは資本主義の総本山。すなわち滅びゆくものの代表である。そして資本主義が滅亡した後に登場するのが社会主義、やがては共産主義へ進む。その体現者がソ連という構図である。
 マルクスが説いた歴史の必然ということも思えば随分都合のよい話である。歴史の必然が自分が望む方にはたらくというのだから。もし、反対に歴史の必然が自分が望まない方にはたらくという研究結果が出たらどうしたのだろうか。
 マックス・ウェバーが言うように、マルクス主義はすでに実証された科学ではなく、ひとつの仮説として扱えば役に立つこともある、という程度のものだったのである。あなたの未来はこうなる、と言われれば誰しも気になる。すなわち科学と学問の形をとった占いのようなものである。
 1950年代、12音技法の研究会が東京の某所で開かれた。将来を心配する作曲家が多く集まった。本気で、将釆、浪曲も子守歌も12音になると信じたのである。社会主義が間近いと本気で思い込んだ人たちとなんと似ていることか。12音音楽全盛の時代、ダラピッコラのように若干の修正をまじえながらこの技法を使った作曲家もいた。こうした方法に対して、あたかも政治における「修正主義」のように批判した「正統派」もあった。いまから考えればこっけいな話である。柴田南雄氏は「西洋古典音楽は1968年頃を最後にその光栄ある歴史を閉じた」と公言した。ミシュレにならえば「グランド・ミュジク・エ・モルト」−偉大な音楽は死んだ!という声が世界を駆けめぐった、と言いたい所であろう。

       歴史は彼等の予言通りには進まなかった

 しかし歴史は彼等の説く通りには進まなかった。ソ連の社会主義はその抱える矛盾を次第に露呈させていき、やがて崩壊への道をたどることになる。「シェーンベルク・レイボヴィッツ主義」の音列技法もまたしかり。ジョン・ケイジの登場で、音の各要素の組織化というただ一本の道筋が根底からくつがえされ、まったく別の世界が提示された。組織化の反対の偶然性の登場である。それまで、ただ一つの線の上を音楽史は進むとしか考えなかったのが、全く別の世界の存在が提示された。こうなると話はすべて変ってくる。進歩的、後退的、反動的、という系列化の論拠がなくなってしまった。やがて調性を復活させる作曲家たちが現われた。「ウェーベルンから出発せよ」のスローガンは、無調と音列だけでなく、凝縮した素材で表現する抽象主義の路線でもあったのに、大々的に音を重ね、にぎやかに交響的場面をくりひろげる新ロマン主義とでもいうべき表現が復活した。「ウェーベルンから出発せよ」はどこかへ行ってしまったのである。この辺の総括がまったくなされないまま、世界の作曲界はまことにずるずると現在まで至っている。「こんにち調性の音楽を作曲する者はもはや不要である」と大見得を切ったピェール・ブーレーズは指揮者に転向した。転向は彼の勝手だが、往時の主張を彼はいまどう総括するのだろうか。
 時代を追うとともに次第に増大する半音関係、それは間違いではなかったろう。しかし、その局面だけだけ注目して他の要因要素を無視するなら、結果は誤ったものになる。半音がなんのためのもので、どういう役割を果たしてきたかということが問いかけられていないのである。「偉大なる音楽は死んだ」という声ではなく「12音音楽は死んだ」という声が世界を駆けめぐったというのが現実であった。実際、アメリカを訪問した新生ロシアのエリチン大統領は議会での演説の第一声で「共産主義は死んだ」と宣言したのである。

        もうひとつの特性
               物の捉え方における相対主義

 もう一つ、この二人の思想の基底にある共通するものは一種の相対主義とでもいうものである。それは対象の捉え方と見方であり、物事の捉え方の角度とでもいおうか、対象を「存在」してでなく「関係」として捉える。事物を、「存在」としてより、他者との、相関、関係、距離、の角度から見る。マルクスとシェーンベルクは、共通して、対象を「関係」の角度から見るのである。歴史を階級と階級の間の矛盾、闘争に関心を置いてその角度から見る。すなわち二つ以上の物の相関として対象を見る。音楽を構成する音を、音と音の距離、音程、二つ以上の音の間の関係で捉える。「存在」ではなく「関係」である。絶対的存在としての音ではなく、二つ以上の音の相互関係に関心を持って見るのである。
 こういう相対主義的見方をすれば必然的にその物特有の「存在」に対しては関心がなくなるか関心を持つにしても第二義的になる。この思考傾向が人間を対象とするならば、個々の人間への関心より全体の関連の中での「要素」としての人間しか見なくなる。崩壊した共産圏諸国がおしなべて全体主表の実態を持っていたことの理由をここに見出だすことができる。旧ソ連をはじめとする旧共産圏はマルクス主義の正統な体現者でないという人々がいるかもしれないが筆者はそうは思わない。
 音楽は音と音で出来ていることは違いないが、その相互の相関だけが枢要なことではない。一つ一つの音が持つ「存在」としての特性、生命、持続は他者との相関だけではなく、それ自体固有の価値を持つものである。一つ一つの特性によって、全体の相関もまた変ってくるではないか。

         それでも大きな影響を残し
                  歴史に消しがたい軌跡をあたえた

 しかし、二人の思想が辿った経過にはまだ注目すべきものがある。現実は彼等の予言通りには進まなかったが、それがすべてではない。マルクスもシェーンベルクも、周囲に多くの影響をあたえ、その跡に大きな影響を残したのである。このことにも注目しなければならない。
 マルクス主義は、社会的平等、労働者の権利の確保、社会福祉など、現在の社会に多くのものを残した。資本主義社会の方がそれをとり入れたのである。シェーンベルクの音楽も全面的無調とクロマティズムの音楽だけの時代はついに来なかったが、無調的表現は現在の音楽に大きな表現手段をあたえた。なんらかの形でその語法をまったくとり人れていない作曲家はほとんどいないだろう。そして、音列作法もまた、様々な形を変えて現代の音楽にとり入れられ表現の役に立っている。シヨスタコーヴィッチは、旧ソ連時代はなにかと「批判」され、体制的語法で語っていたが、晩年のヴィオラ・ソナタでは、ほとんど音列を思わせる無調的主題を奏で、アルバン・ベルクを思わせる部分すらある。

 筆者が始めに、音楽の軌跡を見ることにより政治的社会的ゆきさきを逆に推察することが出来ると書いたのはこのことである。シェーンベルクの音楽が辿った道筋を見ることによってマルクス主義のこれからも推測することができるだろう。崩壊破産し、歴史の表舞台からは退場したが、なにがしかの貴重なものを残していったということである。全面的クロマティズムが到来しなかったように、マルクスの予言したプロレタリアによる無階級社会はついに到来しなかったが、遺産は残した。そのなかには貴重なものも含まれ、人間の歴史に貢献したことは確かである。音楽はそのものが人の生き死にをもたらすものではないから、なりゆきの総括をあいまいにしても直接被害が出るわけではない。しかし政治の方はそうはいかない。それだけに立場や既得権や面子にとらわれて本気の総括反省がしにくいのであろう。また、滅びたものへの郷愁もあるに違いない。この辺の事情については個人的にはおおいに同情に値するものがある。人は敗北をなかなか認めることが出来ないものである。第二次大戦が終った後もブラジル移民の日本人の中には、日本が負けたことがどうしても承知できず、反対に日本は勝ったと言い張った人たちが居た。いわゆる「勝ち組」と言われた人たちである。しかしこれも時間と現実が冷酷に処分する。「勝ち組」もその内消えるのである。

         作曲界は社会党なみのご都合転向

 しかしマルクスの方はともかく、いくら披害が無いとはいえ、音楽の方でも作者の節操ということはある。それは、音楽はいかにあるべきか、という大きな基本課題にもつながるのだから、これまでの経過をうやむやにしていいわけはないのである。
 「ウェーベルンから出発せよ」のスローガンはどうなったのだろうか。一時期の点描法と抽象主義の美学はどうなったのか。「そうあらねぱならぬ」と作者が信じたから点描法の立場をとったのであろう。その思想はその後どうなったのだろうか。いつのまにか、点描法は次第に音の数を増やして再び大にぎやかな交響的表現が舞台を占めるようになった。これもまたうやむやのままである。これは日本だけでなく世界中がそうであるように見える。あたかも、社会党がいつのまにか「安保」「自衛隊」の肯定者に変身したように。そのことについて、社会党から国民と自分自身に対してなんの説明もない。いまや「ウェーベルン」は陰をひそめ、大交響楽の時代である。点描、音列、全盛時代に、そうでない音楽を作って時代遅れと一言われた作曲家もいたろうに。それを罵倒した枇評家もいたろうに。時代変れぱ事変るか。いい加減なのは政冶家だけではない。作曲家はスローガンや批評家のアジテーシヨンにまどわされず自身の声に忠実に作曲すべきである。

        これからどうなる

 20世紀が間もなく終ろうとしている。多事多難な時代であった。1912年のタイタニックの悲劇が予鈴であるかのように、第一時大戦が始まり、やがて、前世紀までのヨーロッパが蓄積して来たものが驚くべき崩壊の予兆を見せていることに人々が気づく。ロシア革命、人々は、公平で合理的な新しい社会が可能であるという幻想を持った。やがてファシズムの嵐が吹き荒れて、間もなく第二次大戦に突人。こんどは第一次大戦の時よりももっと結果は大きかった。諸民族が解放されて価値の多様化が始まり、これまで単純に信じられてきた価値基準が容易には通用しなくなった。ヨーロッパの価値と言っても、そのヨーロッパがこれまで世界でやって来たことの中に余り聞こえのよくないことが沢山あったことが白日の下に明らかになってきた。その一方で技術の爆発的な進展がある。これは「進歩」という言葉を目出度く使う気になれないほどの乱暴な進展であった。自然破壌、産業廃葉物、資源枯渇、クローン技術のように人道の根幹にかかわるものまで、暴走というに等しい勢いで実現されていった。この先に何があるのか。未来は人が法則的に予測できるようなものではないことだけは一世紀かけてようやく判った。「未来はこうなる」式の説は相当にハタ迷惑である。そして、マルクスにせよシェーンベルクにせよ、余りにも完璧な埋論は融通がきかない。彼等が19世紀のユダヤ系ドイツ人であったことに由来するのかどうか知らぬが、徹底的な理論化は皮肉なことに自縄自縛を招いたのである。そこへいくと日本人は万事いい加減であるから理論化など頼まれてもしない。だから理論的にゆきづまることはない。しかし、自身の原理原則を持たないことは、これまたいい事ばかりではないのである。いまのように経済政治が逆風になると、一定の進行方向と意志を持たないから、ただ風に吹かれて右往左往するだけである。今まではお天気がよかっただけである。これからは自然体と称して先を考えずに生きることは出来ない時代に入った。
 フランスの思想家、アンリ・ルフェーブルは1950年代に、「世界を統一的に解釈できる思想は三つしかない。カトリシズム、実存主義、マルクス主義である」と言った。これは、フランス人の、それも当時の考え方である。カトリシズムなどは非キリスト教国には無縁なものだし、宗教を持ち出すなら、仏教もあればイスラムもある。特にイスラムは最近大きな力を持ちつつある。こういう挑発的な言い方はこれからは通用しない。オウム真理教事件はそのことを教えた醜い例である。
                                             「音楽の世界」1999年1月号掲載

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