★ このサイトの構成について
このサイトでは、2004年9月に母校でひらかれた「校歌FORUM」に 関連する記事を最初の上段に記載してあります。校歌論の本論「札幌一中校歌の研究」はその下 に置かれていますのでよろしくお願いします。
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2004 校歌フォーラムから
★ 原典の復元、保存は学術的課題である
歌い方の問題ではない
2004.12.6.
今回の校歌復元フォーラムで、「現行型」「原典型」、それぞれの扱い方について論議があった。しかし、最重要の事実は、校歌の復元保存は歴史学の問題であるということである。どう歌うかということは最初から種類が異なる課題である。
近年、明治文化の研究が盛んであり、多くの研究者が明治を主題にして研究を進めている。音楽文化も当然その一部であり、西洋音楽の渡来以来、日本の音楽と音楽家がどういう推移経過をたどったかは日本近代史上の大きな課題である。学究者の中には、特定の地区、広島、博多、横浜、などに限定した詳細な研究を進めている人もいる。こうした研究においては、芸術音楽だけでなく大衆音楽も研究対象となり、軍歌、社歌、校歌、遊里の場での音楽、邦楽、洋楽をとわず、考察される。軍楽隊の演奏会の曲目も丹念に収集されている。これらの研究は音楽社会学の一部である。
「雲により出でて」が、原典ではどのような形態をとっていたか、この研究は小山作之助の作風解明の一部となる。有り体に言って、札幌中学という学校の研究ではなく、小山作之助という作曲家の研究に属することになろう。私が報告したように、当時の作曲家の意識が民族文化と西洋文化との衝突の中にあって、どのような反応と対応をしたかの貴重な軌跡がこの歌の原形には残っている。これは歴史学、文献学の課題であり、原形の、復元、確保、保存、は学術上の命題である。この歌の信頼すべき原形資料を、調査、復元、確保、提供できるのは私たちしかない。私たちの社会への義務である。校歌は私たちの所有物ではあっても私たちだけのものではない。日本文化に属するもので、社会全体に属するものである。社会への公的な責任と義務を自覚することこそ、教養の最も肝要な部分であろう。
「原典」尊重の周囲にあるもの
2004.11.17.
本年、2004年9月4日、札幌南高等学校でおこなわれた「一中校歌復元FORUM」で、大方の参加者は、当然のことながら、「原典」の尊重に賛同した。しかし一部の人は、そのことによって「現行型」の相対的な地位が低下するのではとの不安を覚えたようである。その限りでは無理ないことだが、そのため、某旧制高校で、「現行型」の楽譜を歌集の主要面に掲載し、「原典型」の楽譜を目立たない巻末に掲載している例をあげた。しかし、この事例は、実は軽視しがたい近代日本の文化の歪みを意味している。ここで指摘しておかなければならない。
明治18年、日本で最初の官立音楽学校「音楽取調所」が東京上野に開設された。明治32年に「東京音楽学校」となり、通称「上野」と呼ばれた。この専門学校は戦後、昭和24年から、戦後の学制改革により、東京美術学校と合併、新制の「東京芸術大学音楽学部」となり現在に至っている。
驚くべきことに、この学校には、明治の創設時「作曲科」が存在しなかった。器楽部、声楽部、師範科は存在したが、作曲科は設置されていなかった。山田耕筰はやむなく声楽科に入学したのである。「作曲科」が設置されたのは実に昭和11年のことである。このことが何を意味するか。
文化が、個人の創造の産物であることの認識の欠落、評価の欠落、創造者としての個人の才能、努力、人格への評価と感謝の不在、社会的貢献への価値認識の欠落、将来現われるべき人材の才能と能力への価値認識の不在、それ等を裏づける価値体系全部の欠落である。
日本の近代化が政治、産業など、物質部分のみの優先となり、背後の精神的思想的部分ではいちじるしい後進性が残留した。個人の覚醒の遅れである。そこからする集団への個の埋没。こうしたことが、現在といえども、いまだに日本の社会と日本人の意識の中には存在をやめない。かつての西洋の中世にも似た状況があったのだろう。しかし、西洋では、近世の始まりから、個人の価値と尊重が次第に形成されていった。西洋で近代芸術が芽生え始めたのはその頃からである。シェークスピア、ゲーテ、ベートーヴェン、哲学では、カント、デカルト、パスカル、モンテーニュ、などなど、彼等の芸術と思想の確立は個人の意識の覚醒の結果であった。芸術、哲学だけでく、自然科学、人文科学の分野でも同様である。明治以来、日本ではこの部分の近代化が遅れた。この結果が、やがて全体主義への道を開き、個人不在の社会を生み出していった。この欠陥はいまに至るも全的には解消していない。そのことが、価値を充分に評価されない才能と頭脳が海外へ流出する原因となっているのである。
先の旧制高校の例は、まさにこうした後進性が表面化した例である。この旧制高校が、かつての戦前日本の、政界、財界、軍部、学界、あらゆる分野での指導層を産出した所であることを考えれば、この事例はまことに遺憾である。個人の価値の認識だけではない。「ものの作り手」への尊敬と感謝、生産者への尊敬と感謝の欠落、そこには、階級的傲慢さすらうかがえるのである。こういう教育を受けた人たちがかつての日本を導いていたことには今更ながら慄然とする。
音楽学校に作曲科が存在しなかったことが意味するもの。音楽は誰かが作っという意識が不在だったのである。この点では文学よりもさらに音楽は遅れていたであろう。
ようやく第二次大戦後になって、作曲と作曲家、すなわち、音楽の作り手の重みが少しずつ日本でも受入れられる風潮になった。NHKでも文化庁でも、現在は少なくとも表面的には理解した様子を見るせるようになった。音楽出版社が発行する、年鑑、日記、手帳の専門別名簿にも、作曲家が最初に掲載されるようになった。
「雲より出でて」は、民謡のように作者不明で自然に発生したものではない。小山作之助が明治38年に作曲したのである。いかに「現行型」に存在価値があろうとも、「現行型」は「原典」があったからそこから生まれたのであり、それは親と子の関係である。
原曲は、原曲であるが故に保護され尊重される権利を持つ。風化変遷を重ねてきた「現行型」である、この先何が起こるは分らない。現に、「原典型」でもなく「現行型」でもない「混乱型」が出まわり、今回のFORUMではその一掃が提議された。人は迷った時には出発点に戻る。その際に常に指標になるのは出発点としての原曲である。「現行型」の存在はいささかも軽視する必要はないが、「原典」は常に尊敬すべきものとして存在を続けなければならない。母校に誇りを持つ同窓の人々であれば、私たちが誇るべきは、文化の価値を知ることであることを理解するはずである。
村山ケイ子氏からの最新情報
2004年10月13日
現在進められている「校歌復元運動」において、「原典型」として扱われている楽譜は村山ケイ子氏提供によるものである。その村山ケイ子氏と村山氏の一族、楽譜の所有者について新しい事実が得られた。2004年10月5日、「百年史」の編集者であった前南高教諭、中川紀一朗先生が村山ケイ子氏を訪問、面談の上、歴史的諸事実について以下の通り知らされた。
★ 村山ケイ子氏について:
1929年生まれ。住所・電話:064-0804札幌市南4条西14丁目1-21/
電話:011-551-0578
★ 村山ケイ子氏の祖父、村山栄氏について:
新潟出身。明治32年(1899年)来道。男子6。女子3。ほかに幼時死亡子2。
★ 村山栄氏の男子について:
1.重右衛門
2. 清(中14期、明治43年<1910年>卒業)
3. 浩(中16期、明治45年<1912年>卒業)▲楽譜所有者
4. 多助(中18期、大正03年<1914年>卒業)
5. 良治(中19期、大正04年<1915年>卒業)
6. 末雄(中30期、大正15年<1926年>卒業)
ほかに重右衛門の子が一中卒業である。ケイ子氏は浩氏の一人子。浩氏は1969年77歳で 死亡した。
「原典型」楽譜は村山浩氏の所有したものである。村山浩氏は、明治45年(1912年)卒業。在学期間を5年として、入学年、明治40年(1907年)から、卒業年、明治45年(1912年)まで5年間在学したことなる。校歌の制定は明治38年(1905年)であるから、村山浩氏は校歌制定から、わずか2年後に入学したことになる。浩氏の在学期間を5年とすれば、この楽譜は、校歌制定後2年から7年の間に浩氏の手に渡ったことになる。
以上の年代系列を分りやすく図示すれば以下のようになる。
時系列表
1892年(明治25年)
村山浩 生 (浩00歳)
1899年(明治32年)
父、村山栄 来道 (浩07歳)
1905年(明治38年) 校歌制定 (浩13歳)
1907年(明治40年) 浩入学 (浩15歳)
1912年(明治45年)
浩卒業
(浩20歳)
1969年(昭和69年) 浩死去 (浩77歳)
この事実により、村山版楽譜が原典本体であることは無限に事実に近いものと判断される。逆に、これを否定することは無限に困難である。したがって、文献保存の原理にしたがい、当該事象の発生に最も近接した時点で記述されたものと判断され、かつ、最も信頼性の高いと判断される資料に依拠することは科学的帰結である。
「校歌復元FORUM」について-2 2004年9月30日
今回のFORUMで、原曲と現行型の扱い方が問題の一部となった。今回は、資料の内容確認と、科学的保存の提議が焦点であったので、扱いについては次の論題になるが、あらかじめ、提起しておきたいことがある。
参加者から紹介があったが、歌集掲載の方法として、某旧制高校の寮歌が、現行型優先で、原典は巻末に人目につかない場所に掲載されているとのことであった。
しかし、このことはそのままでは問題がありすぎる。たとえば、日本の歌の場合、よくあることだが、原曲が長音階であったのに、いつのまにか短音階に変質してしまう。これは原曲の歪曲であり、いいこことはいえない。日本人の気質の反映でろうが、陽性の歌が勝手な悲壮感のあるものにすりかえられるのである。かつて、札幌駅で北大寮歌「都ぞ弥生」が短音階でオルゴール奏鳴されていたことがあった。原曲のおおらかな情感がすべて失なわれている。原曲の保存と尊重は、内容を勝手に変えることには許容制限があることの認識も含まれるのである。
原曲は、たとえ、いまその型で歌われなくても、現行の型がそこから生まれた源泉であり母体であることをよく認識しなければならない。道義的にも母体の創作に対する、尊敬がなければならないのである。それが文化の価値を知ることであり、原曲を目につかない巻末に置くことや、長音階を勝手に短音階にゆがめて平然としているような、某旧制高校の例などは、前例としてはいけない悪例であることを私たちは知らねばならない。
「校歌復元FORUM」について 2004年9月5日開催
札幌一中校歌の復元FORUMが九月五日、日曜、午後一時から母校の現北海道道立南高等学校で開かれた。
当日は、パネラーほか、OBたち、それに一般市民も傍聴参加して、多数の熱意ある討議の場となった。
明治時代の原典と判断される楽譜が発見されたことにより、その復元を目指したものだが、この趣旨にはすべてが賛同したが、楽譜から自然風化した実際に歌われていた「現行型」への郷愁を強く持つOBもあり、原典の復元が「現行型」の相対的地位低下に抵抗をおぼえる人もいたようである。これも無理ないことだが、原曲があっての現行型の形成となったのだから、すべての源となった「原典」へのしかるべき尊敬と作者への感謝は道義的にも当然であろう。
今回は、第一の段階で、価値論は排除して、存在するもの、存在したものをありのままに科学的に記録することが議題となる。「原典」「現行」の比較価値論、とりあつかいの方式については、次の段階の議題としてあつかわれるべきものである。
参加OBたちからの質疑も知的水準の高いもので、FORUMの意義を高いものにした。「原典」の資料としての信憑性が最も重大な案件であり、この点に議論が集中したが、状況証拠的資料の集約から、これが真正なものであることは疑う余地のないものと思われる。資料調査については、調査の経過内容とも詳細科学的に記述して、後続の研究に資することになった。
校歌の研究保存について、これだけ厳密詳細、科学的に労力をついやした前例はおそらく存在しないであろう。こういうことこそ、母校の威信を示すものにちがいない。これは第一歩であり、次回は、「原典」、「現行」の楽譜の扱い方、掲載の仕方などが議題となる論議の場が予定される。
歌を情緒的存在としてだけでなく、文化財として学術的にあつかう態度こそ、これまで日本ではとぼしかったことは争えない。ここで、先例を超えた文化的水準の高い努力が現われたことを、自分もまたOBの一人として誇りとしたい。

札幌第一中学校第53期卒業生
作曲家 助川敏弥
★はじめに
学校校歌は、それぞれの学校出身者にとって青少年時代のつよい懐旧の感情がこもるものである。自身が出身した校歌の研究が、母校への懐旧の情から発することは当然でまた自然なことである。社会が経済効率至上主義で、機能化、無機化する中で感情の豊かさをともめることは大切なことであり、また、そうした場を努力して守り作り出していかなければならない。
しかし、校歌の研究保存にはそのほかに学問的意義がある。筆者が呼びかけたいのはそのことである。
筆者は、1996年に母校を訪れた。その際、当時、<北海道札幌南高等学校「百年史」>の編纂にかかわっておられた中川紀一郎先生から旧制札幌一中校歌「雲より出でて」についての調査を依頼された。
東京へ帰ってから文献収集に奔走し、資料、写真を札幌へ送り、母校からも各種の参考資料が送られてきた。こうした交換の中で新しい事実と問題点が浮上してきた。送られてきた資料の中に、明治時代に印刷された、原典と判断される楽譜があった。その楽譜から、いまは消滅した六番の歌詞が存在したこと、そして、現在制式化されている楽譜が、原典楽譜を正確に復元したものではなく、不注意と混乱によるものであることが判明したのである。
近年、日本の近代化の見直しから明治の研究が盛んである。一般大学、音楽大学を出身した研究者が、研究テーマとして明治文化を対象にすることが多い。校歌「雲より出でて」の作曲者、小山作之助と、作詞者の大和田建樹は明治文化界の重要人物である。小山、大和田を歴史学の対象として、研究が行なわれることは当然であり、またすでに、進められているかもしれない。校歌は、その時代の大衆音楽、実用音楽の一分野として、社歌、軍歌、吹奏楽曲、大衆音楽、などとともに音楽社会学の研究対象として重要な分野である。研究者には信頼できる資料を提供しなければならない。音の位置、リズムの形態、記録されていれば演奏速度、表情指定なども、科学的検察の対象になるものであり、西洋古典音楽では音楽学の研究上当り前のことである。
校歌「雲より出でて」が、正確な復元により、資料化されるべきことをうったえたい。
■前論
★研究の趣旨と目的
★学校について
■校歌「雲より出でて」について
★歌詞
★作詞者・大和田建樹(おおわだ・たけき)について
★作曲者・小山作之助(こやま・さくのすけ)について
★作詞者・作曲者に関する文献
■本論
★風化による旋律音の変化と明治文化の伝承
★音の位置の変化、その歴史的背景の解明
★作曲者小山作之助作とその時代
■保存と扱い方についての課題
★「原典型」と「現行型」の両者保存
★楽譜が存在しない「現行型」 早急に必要な記譜化
★当面の課題「混乱型」の廃止
★誤判読の原因は数字符の見落とし
付記:六番の歌詞の消滅について
、
■ 前 論
★研究の経緯と目的
明治以後の日本の教育制度下において、学校校歌は、その歌唱される際の実際的機能と概念、また、音楽様式のあり方において、第二次大戦終末までのいわゆる「軍歌」とともに西洋音楽の種目に属するものである。この特質は、いわゆる「童謡」が、その一部に、伝統歌謡「わらべうた」の種類を含むことにより、伝統音楽に属する部分を含むことと比較対照される。本校歌は明治38年、制定されたもので、当時、西洋音楽に分類される音楽が、どのように解釈され取り扱われたかの事例の一つを見ることができる。この時代の事例に見られることは、日本人の意識構造の一部として、現在もまた継続存在しうるものであり、本事例はそれ故に現在の日本文化の一部特質への観察でもありうる。
★学校について
本校歌の所有者である学校は、創立以来現在まで、以下のように制度と名称の変遷を経験した。
札幌尋常中学校 :明治28.04.01.〜明治32.03.31.
札幌中学校 :明治32.04.01.〜明治34.06.14.
北海道廳立札幌中学校 :明治34.06.15.〜大正04.03.31. ◎校歌制定38.10.19.
北海道廳立札幌第一中学校 :大正04.04.01.〜昭和22.10.31.
北海道立札幌第一中学校 :昭和22.11.01.〜昭和23.03.31.
北海道立札幌第一高等学校 :昭和23.04.01.〜昭和25.03.31.
北海道立札幌南高等学校 :昭和25.04.01.〜
■校歌「雲より出でて」について
明治38年10月19日、本校創立第10周年記念式で発表制定され、学校の制度、名称の変化とともに次のように校歌の名称も推移した。
北海道廳立札幌中学校校歌
北海道廳立札幌第一中学校校歌
北海道立札幌第一中学校校歌
制定:明治38年10月19日
作詞:大和田健樹
作曲:小山作之助
★歌詞
初版と推定される木版印刷楽譜による歌詞
()=1997年度同窓会資料に掲載されたもので、初版部分と表記が異なる部分
1.雲より出でゝ一百里
富原ゆたか(豊か)に注ぎくる
石狩川の沿岸に
廣(広)げられたる大原野
2.原野の西の地を占めて
俯仰愧じざる学徳の
修養みずから任じたる
われらが札幌中学校(札幌第一中学校)
3.霞のひまに打ち(うち)望む
夕張札幌恵庭岳
まもる(守る)心のけだかさを
教えて立てり長え(とこしえ)に
4.調も(調べも)清く歌ひくる
豊平川の水の声
倦まぬ心の勤み(いそしみ)を
示して行けり夜昼に
5.堅忍不抜の精神は
年の半を降り埋む
雪の下にも春待ち(まち)し
百花と共に顕れん
※6.地の利を占むる北海の
前途はいやまし多望たり
いざもろ共に報国の
心一つに進取せん
★作詞者、大和田建樹(おおわだ・たけき)について
大和田建樹は、安政4年(1857年)4月4日、宇和島生まれ、明治43年(1910年)10月1日、午前11時20分に没した。本来は国語学者である。「鉄道唱歌」<汽笛一声新橋を>の作詞者で、当時この歌は大ヒットした。そのほか、小学唱歌「青葉の笛」、戦中派にはつよく記憶される歌、<天にかわりて不義を討つ>で始まる「日本陸軍」など、現在も残る歌の歌詞の作詞者である。大和田は鉄道唱歌北海道編の作詞のため現地取材として北海道を訪れており、「北海道唱歌」という著書(上下二巻)が、明治39年、札幌の富貴堂書店から発行された。本校校歌の作詞もこの時の現地体験にもとづくものと推測される。
★大和田建樹代表作
舟遊び (明治22年=奥好 義作曲)
鉄道唱歌(明治33年=多 梅雅作曲)
散歩唱歌(明治35年=多 梅雅作曲)
日本陸軍(明治37年=深沢豊代吉作曲)
青葉の笛(明治39年=田村虎蔵作曲)
妙義山 (明治39年=田村虎蔵作曲)
★作曲者、小山作之助(こやま・さくのすけ)について
小山作之助は、文久3年(1863年)新潟に生まれ、大正15年(1926年) 6月26日に没した。(東京芸術大学同声会名簿には昭和2年(1926年)6月27日没と記載)。東京音楽学校で学び、数々の有名曲の作曲者である。代表作には、「敵は幾万ありとても」、小学校唱歌の「夏は来ぬ」
(<卯の花のにおう垣根に>)等がある。
★小山作之助代表作
敵は幾万ありとても(明治22年=山田美妙作詞)
夏は来ぬ (明治29年=佐々木信綱作詞)
寄宿舎の古釣瓶 (明治34年=小池友七作詞)寮歌の始まり
校歌、「雲より出でて」は、明治38年10月19日、本校創立第10周年記念式で発表制定されたもので、第六代校長尾原亮太郎先生(明治34年12月7日から明治41年10月1日まで在職)が 10周年記念のため、作詞家、作曲家、の両氏に依頼したものという。
作詞、作曲とも当時のベストセラー作家の手になるものであり、両人に依頼した尾原校長のプロデューサーとしての見識が評価されるが、著作者への観念が現代のものとと同一かどうかについては考察が必要であろう。なお、歌詞、第二番の末尾<札幌第一中学校>は初版原作では<われらが札幌中学校>で、「札幌第二中学校」が開校され、「札幌第一中学校」と校名が改められた際、現行の歌詞にあらためられた。
「北海道南高等学校100年史」によれば、「大和田の原案に音楽教師、石森が彫琢を加えた、との記述がこれまで周知されているが、石森は校歌制定当時には教師として着任しておらず、したがって、この事実は再検討の要がある」という意味のことが間接的表現で記述されている。「百年史」の記述ははなはだ間接表現的であり、誤読されやすい。この経過については、あらためて研究の必要がある。本論は、音楽の部分を対象としたものであり、歌詞については、別途の研究が必要であるが、ここではこれだけを記述しておく。「百年史」によれば、「こうした経過に原作者の権利、著作物の権利への当時の観念が推測される。この点、当時の小原校長が語った言葉が注目される。
「100年史」によれば、作詞、作曲についての価値観のあり方、「固有名詞への関心の低さ」(「100年史」からそのまま引用)、そこからくる著作権思想の希薄さが推測される」とあるが、この部分もまた関連して再検討が必要であろう。
★作詞者、作曲者についての文献
1.「北海道唱歌」二冊 明治39年富貴堂書店刊
2.「小山作之助先生のおもかげ」村上市郎著 昭和16年道和会発行
3.「歌の旅行案内」中島幸三郎著 昭和32年4月5日初版
(財)日本交通文化協会 千代田区丸ノ内3−4 03-327-7834 8750
4.「なつかしの鉄道唱歌」特別付録「鉄道唱歌」復刻本 大悟法(ダイゴボウ)利雄著
昭和44年11月8日初版 講談社
■本 論
★風化による旋律音の変化
、筆者が南高等学校とFAXの交換をする間に、この歌の楽譜、歌詞の初版と推定されるものが送られてきた。消失した第六番の歌詞が記載されていること、楽譜の態様から、筆者は、これを初版か、初版と同一のものと判断する。この楽譜は、1997年に刊行された「北海道南高等学校 百年史」の冒頭グラビア頁の第4頁右上に写真で掲載されており、<村山ケイ子氏提供>と付記されている。楽譜は木版印刷のため甚だしく判読しにくく、五線と符頭の位置が不明瞭であるが、下段に、ハーモニカ等に使用される数字譜が併記されていたたため、確実に読みとることが出来た。ここから次の事が発見された。
この「初版」に記載される型は筆者の知る1940年代以降の歌われ方と、数カ所において異なっている。大衆的、実用的音楽において、長年月の経過により旋律型が変化することはめずらしいことではない。芸術音楽とは異なり、確実な文献にもとづいて専門家が演奏するのではなく、実用的な機能に従い、一般人が複数多数で歌うのであるから、歌いやすい型に変容するのは自然な現象である。有名なクリスマスの賛美歌「聖夜」<きよしこの夜>は、オーストリアの作曲家、フランツ・グルーバーの作曲によるものであるが、原曲にある細かい音のゆれは現在の賛美歌では消失している。
「雲より出でて」については、ここで、1940年代以降の歌われ方を「現行型」、初版と推定される型を「原典型」と呼ぶことにする。
★音の位置の変化、その歴史的背景の解明
「原典型」と「現行型」の音の位置の違いは四カ所である。そのうち、二カ所は、西洋音階の音がかなり強引にとり込まれた部分で、この現象については最も説明の必要があるので、楽譜引用なしで以下に詳述する。これら以外の二カ所は、音階構成とは無関係であり、リズムの前後関係から、より自然で歌いやすい音に移動したものと推定されるので特に説明の要はないと思われる。
第一点:冒頭の第一小節、歌詞、「雲より出でて」の「くも」の「も」の音である。この音は「原典型」ではF#音になっている。しかし、「現行型」では、この音は上に隣接するG音で歌われる。実際、この音をF#で歌うことは、かなり不自然で困難ですらあるといってよい。
第二点:第七小節、「そそぎくる」の部分。「そそぎ」の「ぎ」音もまた、「原典型」ではF#である。しかし、この音も「現行型」では、上に隣接するG音で歌われる。この音もまた原典のF#では歌いにくい。
この二カ所のF#音が意味するものは何か。ここに明治文化の持つ歴史的特質を読みとることができると推察するのである。以下に音楽理論からの解明を行なう。
この、二カ所のF#音は、音楽理論でいう「移動ド唱法」の音階第七音、シ音に相当する。西洋音階は、ド、レ、ミ、ファ、ソ、ラ、シ、の七音で構成され、これに対し、日本の伝統音階は、ド、レ、ミ、ソ、ラ、の五音で構成される。日本音階にはファ、と、シ、は存在しないのである。伝統音階には存在しない西洋の音を作曲者はなぜとり入れたか。しかも、かなり強引な方法で無理に押し込んだといえるし、これらの音のその後100余年の経過の中で、いずれも直近の日本音階の音に風化吸収され消滅しているのである。
★作曲者、小山作之助作とその時代
作曲者、小山作之助は文久3年(1863年)に生まれた。明治元年、1868年に5歳。当時の日本国情は、欧米列強に対抗する国力を急速に養成することに奔走していた。
以下に当時の国内の主要な歴史的事象と小山の年齢とを照合する。
1869年(小山 6歳):東京、横浜間、電信開通。
1871年(小山 8歳):日刊紙刊行
1872年(小山 9歳):新橋横浜間鉄道開通
1882年(小山19歳):国会開設・日本銀行創立
1883年(小山20歳):鹿鳴館時代開き欧化政策全盛となる。
1889年(小山26歳):東海道本線開通・帝国憲法制定
1893年(小山30歳):東北本線開通
1897年(小山34歳):金本位体制施行
1902年(小山39歳):日英同盟成立
こうして年代対応をみると、小山の教養形成の時期が日本の近代化、欧化の最も盛んだった時期のさなかにあったことが分る。当時の教養人が、西洋をとり入れることにいかに懸命であったかが容易に推測されるが、作曲家、小山にとっても同様であったろう。20歳という最も敏感な青年期に鹿鳴館時代を生きているのである。日本の音階にない二つの音をとり入れることにより西洋を自分の中にとり入れようとしたのであろうことが容易に推察できる。
そして、事後100余年の間にそれらの西洋の音は消滅した。隣接する直近の日本伝統音階の音に吸収され消滅したのである。外来文化と伝統文化、あるいは土着文化の闘争はあるゆる場面で展開されたが、ある場合は、外来文化が勝利し、土着の文物を圧倒して日本に根をおろした。そして、ある場合は、伝統文化が勝利し、外来物は上陸できずに退ぞけられたのである。小山がとり入れた西洋音階の音は、定着せず排出された。それが100年におよぶ歴史の場面での生存競争の結果である。急速にとり入れられようとした西洋文化と在来の日本文化が、化学的に衝突あるいは化合しようとした明治文化の二重性がたどった、ひとつの歴史的事例結果をここに見るのである。
小山の名作、「夏は来ぬ」は明治29年の作であり、西洋音階の音が無理なく自然にとり入れられているが、ほぼ9年後の作である「雲より出でて」では、輸入した西洋は吸収されることなく排出消滅された。
■保存と扱い方についての課題
★「原典型」と「現行型」の両者保存を
校歌「雲より出でて」は、このような文化財的価値を保有するものであるが故に、管理、保護に当っては、その特質と意義を熟知認証した上で管理保存されることをうったえたい。
ここで、保存に当って、「原典型」と「現行型」の二つの形態をどう扱うかが課題となる。単純に考えれば、「原典型」が唯一の正統な文献であるから、「原典型」だけを認証保存すればいいわけである。しかし、現に、現在のOBたちが現役時代に歌い、現在も歌っている「現行型」もまた、生きた歌として実在するのであるから、これを否定することも当を得たものでないと考える。「歌は歌われてこそ歌である」、という真理は否定できないからである。したがって、「原典型」と「現行型」の両方を、その由来を認識した上で両者共に保存するのが妥当ではなかろうか。
★楽譜が存在しない「現行型」
早急に必要な記譜化
「現行型」は「原典」が自然風化した結果の形態であり、聴覚的記憶のみで伝承されてきたものであるから楽譜に記録されていない。紙上に定着された記録がないということは、これがまた意図せずに不正確な型に否曲される可能性があることを意味する。「現行型」を知る世代は、旧制札幌一中に在学した世代だけである。新制南高等学校の在学生、卒業生はすでにの歌を知らない。また現南高等学校の職員もこの歌が歌われた時代を経験しない人はこれを知らない。記録がない故に、不確実な形態が誤って紹介されることがあってはならないのである。できるだけ早く「現行型」の記譜化がもとめられる次第である。
★当面の課題、頒布された「混乱型」の排除
混乱がすでに現実になっていることを指摘警告しなければならない。「原典型」と「現行型」が混在した奇妙な形態が存在し、しかも現在、この型がオーソライズされているかのように各種の楽譜録音に現われている。これは当面の大きな問題であり、早急に対応が必要である。なんらかの時期に、ならかの理由で、この楽譜が作られ、以後、これが制式版として頒布されているように見られる。
この型は:
1.第一小節のみが「原典型」であり、第二小節以後が「現行型」である。二つのものが繋ぎあわされている。
2.にもかかわらず、第五小節の歌詞<ふげん>の音符割りあてが「原典型」であり、 「現行型」ではない。
二つの型が無秩序に合成されたものは到底容認されるものではない。これを「混乱型」と呼ぶことにする。
この「混乱型」がいつ頃から現れたか。手元の資料を時系列にたどれば、次のようになる。
1.昭和60(1985)年10月19日「記念協賛会」と記入された「北海道札幌南高等学校創立90周年記念」と題されたカセットテープがある。ここに収録された校歌が上記の「混乱型」で歌われている。
2.次に、平成9年(1997年)3月31日付で刊行された膨大な「札幌南高等学校百年史」に掲載されている楽譜が 「混乱型」である。巻頭、グラビア第4頁に、「北海道庁立第一中学校旗・校歌」として掲載されている楽譜がそれであるが、この頁には、右上部に筆者が原典と判断した楽譜と同一の楽譜が写真で掲載されている。そしてそこには(村山ケイ子氏提供)と付記されている。これが原資料として扱われたとすれば、筆者と同一の楽譜を原資料としていたことになる。そして、その上で、音符の位置が誤読されたのである。
3.平成12年(2000年)に「六華同窓会会員名簿」が刊行されたが、この冒頭に掲載されている楽譜もこの「混乱型」である。
以上は、いずれも同一の型であるから、いつの時か、村山ケイ子氏提供と付記された 「原典」をもとにし、その誤判読による楽譜が作られ、制式版として流布されたと判断される。
★誤判読の原因は数字符の見落とし
それではなぜ、村山ケイ子氏提供の「原典譜」からこのような誤判読が生じたか。たしかに余りにも古い木版印刷であるため、譜面上の五線と符頭の位置関係がはなはだしく不明確であり、正確な判読が不可能と思われるほどである。しかし、筆者にとって決め手となったのは楽譜下段に併記された数字譜であった。数字譜は、音階の七つの構成音を1から7までの数字で表記する記譜法である。通常、ハーモニカ、アコーデオン等の大衆的楽器のために用いられる略式の記譜法であるが、この場合は、音位置の特定に決定的手がりとなった。数字により、原典の音位置がまちがいなく判読され、その結果が、前述の文化論にまで発展される特質を持つ原旋律の「復元」となったのである。
「札幌南高等学校百年史」に掲載されている楽譜(写真で掲載された原典譜ではない方)は、余り上質ではない印刷譜であるが、いわゆる手書きの楽譜ではなく版下による印刷譜である。1985年の90周年の際にカセット版に録音された型はこの楽譜によっているのだから、1985年以前の、いつかの時点で、なんらかのいきさつで、この楽譜が作られた。しかし、旧制札幌一中の時代には、かような「混乱型」は歌われなかったのであるから、新制南高等学校に移行した以後のことである。1950年前後から1985年までの、35年間のいずれかの時点でこの誤読による「混乱型」の楽譜が作られた。そして、この「混乱型」は、第二小節以降は「現行型」になっているのであるから、記譜した人は「現行型」を知っていたことになる。しかも、歌詞の音符割り当てが「原典型」の部分があるのだから、知ってはいたが、歌ったことがない人ということになる。
発生のいきさつがどうであれ、この「混乱型」が制式版として流布されている事実はまことに遺憾である。少しも早く撤回して、信頼性ある「原典型」と「現行型」に代えられなければならない。
◎付記:消失した歌詞第六番について
村山ケイ子氏提供と付記された「原典」には、歌詞が六番まで表記されている。しかし、この六番は、札幌一中時代歌われなかったし、印刷もされなかった。以下が六番である。
地の利を占むる北海の
前途はいやまし多望たり
いざもと共に報国の
心一つに進取せん
一見して国家意識高揚的内容のものだが、この歌の制定は明治38年10月19日のこと。日露戦争の終結となったポーツマス条約の締結が同年9月5日、歌の発表制定はそのわずか一月後ということになる。歌の作曲は当然それ以前に行なわれたわけで、作詞はさらにそれ以前のことだから、まさに戦争たけなわの頃のことであった。そうした時代背景がこういう歌詞に反映したものであろうが、この第六番の歌詞は何時まで歌われていたか、何時から歌われなくなったか、歌われなくなっただけでなく、印刷楽譜にも記載されなくなったのは何時のことからか、それは何故なのか。南高の中川紀一郎先生に調査して頂いた結果次のようなことが分った。以下の、アリ、ナシ、というのは、第六番の歌詞が掲載されているかどうかということ。
大正7年2月28日発行 学友会雑誌第36号 アリ
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大正9年10月19日発行 学友会雑誌第41号 ナシ
大正14年12月18日発行 学友会雑誌第51号 ナシ
昭和8年12月22日発行 札幌第一中学校会員名簿 ナシ
大正9年(1920)の第41号の学友会雑誌から六番が掲載されなくなったことが分る。大正7年(1918)の37号から大正9年(1920)の40号までの間の四つの号、大正8年の前後に何があったか。
★背後に時局の推移か
大正8年は西暦1919年、前年1918年、大正7年は第一次世界大戦が終った年でもある。その前年、1917年(大正6年)にはロシアで10月革命があった。帝政ロシアが倒れ、レーニン率いるソビエト政権が出来た。ロシアの体制が変化し、わが国の北の情勢も変化したわけである。帝政ロシアを交戦相手としたのが日露戦争だったが、その相手の体制が変ったのだから、当然日本側の対応姿勢も変化するのが自然である。もし、第六番の歌詞が日露戦争の背景から生まれたものであれば、背景情勢の変化はこの歌詞の現実性にも少なからず影響をおよぼすのは当然である。大正8年にこの歌詞が消滅した背景には、こうした時代の変化があったのではないか。日露戦争の交戦相手であった国家はすで存在しなくなり、この歌詞は発生と存立の根拠を失ったというわけである。
いま、あらためてこの歌詞を見ると、第五番で終るのがいかにも自然で、第六番はとって付けたような感じがしなくもない。この想像によれば、もともと第六番は「時局」の要請で付加されたもので、いわば、きわもの。時代の要請によって生まれ、時代の変化によって消滅したという推定が可能に思われる。