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★ 以下、新しい日記を随時上段に書き加えていきます。

     
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2007.7.10. 火曜 小雨 町田

 第二次世界大戦は、日本、ドイツ、イタリアのファシズム国家群が、英、米、ソ連などの連合国群に敗れて終った。その結果、私たち日本国民は全体主義から解放され民主主義の傘下に入ったのだからよかったのだが、この時、連合国に勝利をもたらしたものは何だったろう。アメリカの膨大な生産力と戦力、ソ連の勇敢な戦い、などが普通あげられるが、実は、余り目立たぬが、それに劣らぬ第三の要因があった。
 それはイギリスの政治力である。本来は理念が全く相容れぬアメリカとソ連を結びつけたのはイギリスだった。この時、原理原則に固執していたら、この両国は連合できるわけがない。資本主義と社会主義、自由主義と独裁社会である。この両者が手を握った。それをもたらしたものはイギリスのチャーチル首相の判断と工策であった。チャーチルは「ヒトラーを倒すためなら地獄の悪魔とでも手を握る」と言い切った。

 政治というものはこういうものだろう。世界は生き物だ。「いま」何が第一か、常にこの判断のもとにハンドルを切っていくものではないか。原理原則は固定的なもの。しかし世界は流動的だ。
 いまの日本の野党の動向を見ていると、この哲学的命題がまったく理解されないことにいらだちを覚える。共産党と社民党、それに民主、てんでんばらばら、「いま何が」、という発想がない。その結果、一番とくをするのは政権党である。母星のまわりを幾つかの小さい衛星が回転しているかのような構図が現在の日本の政党情勢だ。徳川幕府を倒すために薩長が連合したような大連合を何故造らないのか。
 この大連合にやや近い型が実現したことが一度だけあった。1960年代、美濃部都知事を実現した時である。この時は共産党も自己主張を抑制して協力した。しかし、数年後、美濃部をささえた連合は解消。美濃部を責めたのは共産党である。戦後50年におよぶ保守党政治と50年体制を倒して実現した細川政権、これを倒したのも共産党だった。いつでも自分だけの我をはってぶちこわしをするのは日本共産党である。この政党は裏で自民党と同盟しているのではないかと本気で疑いたくなる。つねに自民党に利益をもたらす行動をするのだから。一般選挙の時も、共産党が野党票を分裂させるから野党の票は与党を倒すにいたらない。裏話の当否は別にして、自民党は共産党の「活動」に期待していることは間違いなかろう。この党が反自民勢力を攪乱している限り自民の安泰は約束されるのだから。

2007.7.9. 月曜 晴 町田

 昨日、立ち寄った店に東京新聞と朝日新聞が置いてあった。投書欄を読んだ。「こんな内閣にまだ32%の支持!」というのが載っていた。まったく同感。32%は少ないとか低下した、と新聞は書くが、反対にまだそんなに「支持」があるのかと逆の驚きをしてしまう。
 
 以前から気になっていたことだが、日本人は二つ以上の対象を視野に入れて物事を立体的に構成する気質と想像力がないのではなかろうか。だから、ソナタ形式のように、二つの主題が、対立しあい、相補したりして物を構成する想像能力が欠けているのではないだろうか。フランスの詩では、「あなたの瞳の中には海がある」、というような飛躍した二つのものを想像で結びつける表現をする。この発想は日本にはない。ないのか出来ないのか。日本では「岩にしみいる蝉の声」になってしまう。一点凝視である。すぐれた文化人にもその気質があるとすれば、これは教養の有無とは関係ない。民族的体質だろうか。

 自民党が戦後、ほとんど60年以上永久政権を続けるのを見るとこういう疑問が湧いてくる。AとBを両方視野に入れて、時に取り替える、交換する、という思考が出来ない。移動変動がなく固定観念しかない。これではまるで徳川幕府300年である。
 新聞と評論家もどうかしている。自民もだめだが、民主党もだめだ、式の言い方を盛んにいう。それでは永久に政権は交代しないではないか。やらせてみなければ成長成熟しない。演奏家と同じで、まずいからと、いつまでもステージに上げないとうまくなるわけがないのだ。自民党の傲慢な歌声をいつまでも聞かされるはめになるではないか。


2007.7.5. 木曜 晴 町田


 ようやく、梅雨空のひと休み、朝から陽光さす。

政治責任とは

 防衛大臣が原爆発言で辞任した。

 失言や疑惑で閣僚が辞任した時、こんどはその人を任命した総理大臣の任命責任が問われる。政治責任は政権を持つ側に問われることが多い。それは当然だが、しかし、政府権力側だけではなく、野党側、民間側であっても、政治的に、何かの行為を呼びかけたり、宣言したり、行動をあおった、団体、個人にも行為の政治責任は発生するのではないだろうか。反体制と称する側の責任である。こちらは何をやっても責任は発生しないのか。

 1960年代のこと、「(19)70年代の遅くない時期に民主連合政府を作る」、日本共産党はこう頻繁に宣言し宣伝した。そしてこれは実現しなかった。この宣言宣伝によってあおられた若い者も多くいた。その人たちは当てがはずれていい迷惑をしたではないか。信用した自分がわるいと思って自己責任とあきらめているのか。こういう政党の行為に政治責任はないのだろうか。あれは努力目標であり約束ではなかったから責任はないというのか。

 1960年の日米安全保障条約反対運動、俗にいう「60年安保騒動」。この時歌われた林光作曲の歌。「立ち上がる時はいま」の歌詞は、「憎しみの火が燃え上がらないうちに一足早く絶やしてしまうのだ」というものだった。戦争にならない内に早く火を消してしまえ、というのだろう。しかし、安保条約は国会を通過して成立してしまった。「憎しみの火が燃え上がる」はずだったのに、その後47年間、日本は戦争をしなかった。巻き込まれることもなかった。「憎しみの火が燃え上が」ることはなかったのである。呼びかけの歌詞は虚偽のおどしだったではないか。こういうことに責任はないのか。あの時「闘争」をあおった政党、団体、個人には責任がないのだろうか。あの予言はおどしだった。そうではない、というのなら、釈明弁明を何故しないのか。説明責任というものがある。しかし、彼と彼等は沈黙する。死者まで出た運動だった。このままでは死んだ人も浮かばれない。反省と過去の点検こそは未来への必須の手順と思われるのだが。あるいは、相手に弱みを見せないために密かに研究しているのか。

 ソクラテスは言う、人間にとって一番容易なことは他人を責めること。一番難しいのは自分を知ること。

2007.7.4. 水曜 小雨 町田

 6月30日以来、仕事場の町田に来なかった。だから、サイトの更新もできない。進行中の曲の構想が甚だしく難渋な場面にさしかかり停滞を余儀なくされている。こういう時は、たっぷり時間をかけて考えた方がいい。とれだけ長く深く考えたかによって結果の価値がきまる。

 「さくらまじ」や「夜の歌」など、曲集「白いつばさ」に収録したような世界にいれば、分りやすく、聴く人にも喜ばれる。当人にも嬉しいことだが、あの路線を継続しようとすると、どうしても飽き足らない抵抗があって進めない。これを無理して強行するとウソっぽいものになる。すでに、その気配があったから「SPICA」で無調の世界に入り、続く「Anna Flora」では更にその方向へ進んた。あの段階では、この無調路線をそのまま継続するかどうか未定だった。どちらかといえば、一時的なものでそれまでの様式に戻ることになろうと予測していた。しかし、どうもそうなりそうもない。
 ということで、いまの曲を始めたのだが、こんどは無調というだけでなく、美学の世界がいままでとは違うものに入ったように思う。「白いつばさ」の世界は、絵にたとえれば写実画である。「さくらまじ」は向井潤吉の描く民家の風景画みたいなものだろう。「SPICA」「Anna Flora」は写実ではないが、パウル・クレーくらいの抽象の世界であろう。  こんどはどうもそれとも違う。キリコの画く立体派絵画の世界のような奇態なものが出来つつある。自分の姿を鏡に写してみて、これはなんだ?!といぶかるのはかなり無気味だ。ラヴクラフトの怪奇小説ではあるまいし。在来の音楽的文脈のはこび方が肯定できない。文脈自体の否定革新であれば、根本の所で新規な語法の世界である。「SPICA」「Anna Flora」のあとに、自称遺作の曲がある。九ケ月をついやした。この辺が深い区切り点になったように思える。

 軽井沢公演へのバス・ツアーは交通事情のため中止のやむなきに至ったが、幹事役の友人は新幹線に切り替えて呼びかけに懸命になってくれている。感謝。というわけで、来たる六日金曜日、彼の車で現地調査に行くことになった。休憩の場所、レストランなど、実地検証が必要ということ。
 彼はカーマニアで、メルセデス社製の大型ジープに乗っている。ドイツ軍が採用している車種だそうだ。先日、小生宅にこの車で来訪した時、助手席に乗せてもらって一まわりしたが、車高が高くトラックに乗っているようだった。このジープで軽井沢まで高速を飛ばす。お天気が心配だが、交通渋滞とは違い致命的な障害にはならない。この日は、夜、広瀬美紀子さんのピアノ・リサイタルがある。帰路はこの時刻に間に合わせることになる。関越から環八を南下、荻窪で中央線に乗ることになろう。

2007.6.27. 水曜 晴 町田

戦争記述のあり方-2

 すでに書いたように、太平洋戦争当初、アメリカ政府はアメリカ西部在住の日本人を抑留した。しかし、この人たちの大部分はアメリカ国籍を取得していたのだから、日本人と書くのは正しくない。日系アメリカ人である。自国民をその出身によって差別したのだから、これは国際法より国内法違反である。この時、同じ敵国だったドイツ、イタリア系の人たちはなんの差別も迫害も受けなかった。二重の差別である。
 収容された日系人たちはアメリカへの忠誠を示すために若い男性は軍隊に志願し、442部隊という日系二世だけの部隊が編成され、欧州戦線で勇猛果敢な戦いをして、四分の三くらいが戦死した。この部隊は後で、トルーマン大統領から感状を授与され、大統領から「あなた方は、敵だけでなく、人種偏見とも戦い勝利した」と賛辞を受けた。日本民族の苦難の運命であり民族の悲劇である。
 旧ソ連は日本降伏の直前に中立条約を破って日本に侵攻した。旧満州、現在の中国東北部、サハリン、などでソ連軍がおかした残虐非道な行為、日本軍捕虜を国際条約、ポツダム宣言にも違反してシベリアへ連れ去り、強制労働のあげく、30万の内6万を死にいたらせた行為、そんなものも記述されなければならない。自国の非道ばかり書くことは自虐的であるだけでなく、歴史の記録として科学的でない。新生ロシアのエリチン大統領は来日した際、東京会館での歓迎会の席上、シベリア抑留に対して、深く頭を下げ謝罪した。
 戦争に限らず、歴史的事柄は全容が記述されなければならない。紙面に限度があるとしても、一頁に満たぬ範囲で事実の存在だけなら記述できることではないか。

2007.6.25. 月曜 雨のち曇 町田


 今日は、朝のうち雨が残ったが午後からは曇になった。今日は自転車が使える。自転車が弱いものは、雨と上り坂。

戦争記述のあり方

 黒羽氏の著書もそうだが、戦争の全容を記述する場合、日本についてだけでなく、交戦相手国についても記述すべきではなかろうか。相手国の事情の全部を書く必要はなかろうが、日本との交戦についての部分は書くべきであるとどうしても思われる。

 具体的には、戦争初期、アメリカ政府はハワイを含む北米西部海岸に居住する日本人をすべて収容所にに抑留した。アメリカ市民権を持つ人々もである。国際法違反である。アメリカ政府は近年になり、この行為の違法を認め正式に謝罪し賠償金も支払った。この事実は、NHKの大河ドラマでも描かれたことがある。
 また、いわゆる「大本営発表」なる言葉はでたらめ発表の代名詞として揶揄的に使われているが、実はアメリカも戦争初期にでたらめ発表をしていた。開戦劈頭、日本軍がフィリピンに侵攻した時、「日本の軍艦<ヒラヌマ>(平沼)、<榛名>を撃沈」、と発表した。平沼は政治家の名前だが、日本では人の名前を艦名にする習慣はない。これは存在しない軍艦である。また、戦艦「榛名」はこの時、マレー海域にいた。これもありえない。誰でも苦しい時はウソをつく。日本が虚偽の報道をし始めたのはミドウエイ海戦の時からである。そのほかにも、大小の残虐行為も日本だけの行為ではない。
 
 こういうことを記述をすることは、公平を期したり、日本が犯した否定的な行為を相対化したり、それによって行為の反道徳性を軽減することに目的があるのではない。
 一つには科学的であろうとするならば、全容を対象とすべきであるということ。また、さらに重大なことは、戦争による狂気が、どの国にも起こりうることを明示することである。そうしないと、戦争の持つ狂気性を記述するのではなく、日本という国と国民だけの特異性を記述することに意味が変ってしまうではないか。この二つの意義には天地の隔たりがある。戦争の狂気の普遍性を描き出してこそ、その記録は後世への、どの国のどの国民への警告にもなるのだから。

2007.6.24. 日曜 雨 町田

 昨日だけ好天の再来で、今日はまた小雨。

 太平洋戦争に特にこだわるのではないが、必要あって、また戦争記録を調べる。図書館ではじめて目にした文庫本「太平洋戦争の歴史」。講談社学術文庫。著者は黒羽清隆という人、1934年生まれで1987年に亡くなっている。
 すでに出揃っている戦争記録を視野に入れて、特に政治的意図を持ち込まず資料第一的に書いたと著者は書いている。はじめは引き込まれて読んだが、事実の誤りが次第に気になるようになった。

 広島で原爆投下機が目標としたものが「元安橋」と書いてある。「おわりのない朝」の取材のおかげで、この辺のことは少しは知るようになった。目標となった橋は、「元安橋」(もとやすばし)ではない。「相生橋」(あいおいばし)である。相生橋は、T字型の奇妙な型の橋で、目標にしやすかったのだろう。元安橋は相生橋から500メートルほど離れている。そして、原爆が爆発したのは、この元安橋に近い島病院の上空約500メートル余だった。爆心である。この著者は目標と爆心とを取り違えている。約一万メートル上空から投下して僅か500メートルの誤差だから投下技術はかなり精度が高かった。目標が相生橋であったことは、特に専門知識を持つ人でなくともよく知っている。広島の人たちならなおさら。これはかなりの失態である。「学術文庫」の中の記述なのだからいよいよ感心しない。

 そのほか、海軍の将官を「将軍」と呼んでいる箇所が一つ。海軍の将官は「提督」である。ほかの場所では「提督」と書いているのだから、これはうっかりミスだろう。こういうものは校正者編集者が見つけてなおすものではないのだろうか。
 戦艦大和が最後の出撃をした時、豊後水道を出たところでアメリカ潜水艦に発見された。夜が明けると飛行機も偵察にきた。グラマン戦闘機数機が通過、そのほかにとマーチン飛行艇が執拗に随伴偵察した。この著者はB29と書いている。吉田満の著書「戦艦大和の最期」にマーチンと機種が書いてある。著者は知らなかったのか、勘違いか、いい加減な気分で書いたのか。著者は1934年生まれだから、戦争を知らない戦後世代ではない。私と幾らも違わない生まれである。
 こういうものが「学術文庫」の中に入っているのだから首をかしげる。出版社に投書したいが、著者が亡くなっているのでは手応えがない。

 昨日は、Violinの中野恵さんが「そよかぜ」を初演してくれた。打上げの二次会は中野さんのレッスン室。いささか飲みすぎた。自重 !

2007.6.22. 金曜 雨 町田

 ひさしぶりに弱い雨。慈雨の感あり。

 歴史というものが、警察の調書みたいに、あるものを、あった、というように、記録を記すだけなら、そんなものを事実の全体と勘違いするだけ有害ではないだろうか。

 
 凶悪事件が続く。ことに未成年の凶悪残虐な事件が多い。関係者、報道機関は、命の尊さを子供に教えなければならない、と説く。校長が、教育委員が、果ては文科省の役人が大臣が。しかし、これは根本的な間違いを含んでいるのではなかろうか。この論法には肝心な核心が欠落していないか。
 尊さ、といえば、それは価値論になる。しかし、命という抽象的なものの価値を強調しても、殺すなかれ、傷つけるなかれ、不幸をもたらすなかれ、の教えにはなるまい。なぜなら、そこには、愛することが説かれていないから。自分が愛するものを誰が傷つけようか。母親すら殺す子供は、その母親を愛していたはずがない。母親すら愛することがない子供とはどんな生き方をしていたのだろう。愛することすら教えられなければ分らないとは、なんと奇怪な生き方ではないか。この辺に物事の核心がある。何かがおそろしくへんだ。人間の自然感情が欠落した生物が人として歩いている。グロテスクである。
 
 歴史が、警察の調書みたいなものでしかありえないのなら、文学の使命は重い。人の心を教え伝えるものは文学しかない。また、音楽、美術もその役割の一端を担うだろう。「平家物語」の琵琶語りを芳一の語りのように聞くことが歴史に欠けるものを知ることになる。


2007.6.21. 木曜 晴 町田

 歴史と歴史書を信用することが出来なくなった。

 人の喜びと悲しみを書かないからである。

 それは、あたかも高空から撮影した航空写真のように、地図のような表記は分るが、地上にある一つ々々の人や草木については何一つ書かない。古代のギリシャ・ペルシャ戦争も、応仁の乱も、ナポレオン戦争も、戦いの原因と推移とどちらが勝ったか負けたか、それしか書かれていない。ひとたび地上に降り立って見れば、人の悲しみが地に満ちていたに違いないのに。
 アナトール・フランスは「歴史とは所詮、著名な出来事の列記である」と言った。著名な出来事の列記であれば、著名でない出来事は書かれない。また、著名な出来事であっても、行間に漏れるものは航空写真には写らない。こういう抜き書き写真を原寸大の事実と勘違いすることは、何も知らないよりも害が大きいのではないだろうか。歴史とは何であるのか、何のためにあるのか、深い疑問を持たずにいられない。

 沖縄戦の教科書記述が修正されたそうだ。反戦主義者の惰性的言動には同意するものではないが、市民が軍の犠牲になっか、そうでないか、確かでないから書くことをやめるのだそうだ。誰の犠牲になったか、ならなかったか、どちらにせよ、あの時の市民たちの悲しみと苦しみはどこにいってしまうのだろう。悲しみや苦しみは事実には入らないのだろうか。こういうものを科学と呼ぶのか。

 古代ギリシャ・ペルシャ戦争の時、わずか5千のスパルタ軍は170万のペルシャ軍をテルモピレー峠で迎え撃ち、要害の地形をを利用して実に三日間戦い抜き、全員壮烈な戦死をとげた。ネットにある高校生が書き込んでいた。歴史の勉強ではじめて泣いた、と。太平洋戦争末期、硫黄島の戦いで、栗林忠道中将麾下の日本軍2万2千が、総兵力25万、地上兵力7万5千の米軍を迎え撃ち、アメリカ側が三日か四日と見ていた目算に対し、36日の抗戦の後、大部分が玉砕全滅した。太平洋戦争末期、戦艦「大和」の最期を三島由紀夫は、日本人のテルモピレーと書いた。
 ハーメルンという町がドイツにある。「ハーメルンの笛吹き」という有名な伝説がある。ネズミ退治をした笛吹き男に報酬を支払わなかったため、怒った笛吹き男が町中の子供を笛で誘って山の彼方へ連れ去った話である。この伝説の研究は現在まで数百年にわたって続けられ、様々な臆説が出されているが。まだ決定的なものはない。年と、月と、日と、連れ去られた子供の数と、経緯が明細に古い僧院のステンドグラスと古文書に残っている。何かがあったことは間違いない。いろいろな仮説が想定されるが、決定的なことは、この伝説に潜む言いがたい悲劇性である。何かひどく悲劇的なこと、悲しい出来事があったに違いない。それも市民にとって。市民たちの悲しみは、こういう民話の型で残ったし、残らずにはおかなかった。誰かが残そうとしたのではなかったけれども、人々の深い悲しみは時代を超えて自ずから残らずにはおかなかったのである。

 歴史は何を書くのだろう。交通事故で子を失った親の悲しみには一言もふれず、ただ、事故の記録だけを残す。それが歴史だろうか。

2007.6.20. 水曜 晴 町田


事件現場と花束

 私の町田の仕事部屋のマンションの隣がコンビニFamily Mart。さる四月二十日、拳銃殺人事件があった。その日、犯人はここの駐車場で仲間を射殺した。その後、犯人は近くの公営住宅に移動して立てこもった。あの日は、何も知らず非常線で止められ。警察官に事情を話して通してもらった。

 つまり、第一現場が隣のコンビニの駐車場である。
 その後、現場となったこの駐車場では一遇に沢山の花束がそなえられていた。先日行ったら、お花はまだ備えられていた。お花だけでなく、お供えまでそえられてある。はじめのうちは、お団子とか、お菓子とか、だったが、最近では賽銭というのか献金というのか、おカネがお皿のようなものの上にあまた備えられていた。
 誰が供えるのだろう。まさか、暴力団の仲間が献じているわけではなかろう。とすると、近所の市民の人たちが献じているのだろうか。こういう所に日本人の心が表われるのだろうか。死んだ人をいたわる心というか。死んでしまえば、人はホトケになり、すべては許される。アメリカでマフィアの撃ちあいで死者が出た場所に人々は献花や献金をするだろうか。靖国問題もこういう日本人の土着思想、というか生活信仰というか、そういう根強いものと切り放しては扱えないし、考えられないだろう。

 昨日行ったら現場の花束はだいぶ枯れてきた。もしかしたら、お店の人は怖くて撤去できないのか。すると、やはり、献花はお仲間たちの所業か。そうとしても、アメリカではありえない出来事のように思われるが。デリンジャー射殺の現場に誰か献花しただろうか。

2007.6.19. 火曜 晴 町田

  日本は西洋音楽をとりいれてから100年余り、本場から見れば後進国である。
 
 それゆえに、「本場では」という言い方がずいぶんと使われ、その格差について聞かされた。山田耕筰はかつて、ロシアで、道路工事の労務者がViolinをとってMozartの協奏曲を苦も無くひいてのけたと随筆に書いた。人々は感嘆し、日本との格差に詠嘆した。しかし、耕筰翁は後年、「あれはウソであった」と告白した。「日本の音楽人を奮起させるための作り話であった」、と。
 
 この種の話はずいぶんと多かった。その中には「ホラ男爵冒険談」が数多くあった。そのことは、戦後になり、渡航が容易になり、多くの人が気楽に欧米に行けるようになって実態を知るようになって分ってきた。
 Wiener Phil.が、弦の音の純粋性を保つためにvibratoをかけないなど、私も恩師から聞かされて感心したものである。しかし、来日したこのorchestraを観て聴くと、普通にvibratoをかけているではないか。考えてみれば、vibratoなしでひけば子供の合奏みたいになってしまう。Szigettyが来日した時、余りに音量が大きいため、会場の帝国劇場の外の電車道路まで音が聞こえたという話もあった。この話には、私が若い時のViolin専攻の学友が、「それはおかしい。こんな小さな物体から発信されるものがそんなに音量が大きいわけがない」、と言って首を傾げていた。この頃から、つまり、戦後になって、欧米神話に疑問を持つ世代が出てきたのである。
 
 戦後は外国からの演奏家が大量に来日するようになった。百聞は一見にしかずの反対で、実際に聴くと、巨匠、中匠、新人、と色々あり、中には日本人よりまずいのもいることが分った。神話の時代は終ったのである。
 
 西洋音楽はなかなか一筋縄でこなせるものではない。それは本場であろうと、後進国であろうと、変りはない。Salzburgに、Mozartの若い時の学習ノートが展示されている。対位法のノートである。なおしたり、消したり、目茶苦茶に書き込んである。いかな天才といえども、対位法を学習なしでこなせるものではない。天性の才能は抜群の着想を得るだろう。しかし、獲得したアイデアを操作することは次の段階の仕事である。いわば、やりくり算段の段階の仕事である。凡人も天才も同じ工程の作業を踏まなければならない。飛躍はできない。
 
 Budapestでジプシーの楽壇が演奏していた。ところが和音を間違えている。それも場末ではない、都心に「Bela Bartokホール」という立派なホールがある。東京でいえば、日比谷の昔の第一生命ホールのような所にある。その前のレストラン内での演奏である。歌曲形式の曲の終止部分の間違えだから、繰り返すごとに反復される。気持ちが悪くて聞けたものではない。ベトナム戦争の頃、「ベトナム歌舞団」というものが来た。アンコールに成田為三の「浜辺の歌」を合奏で演奏した。やはり、終止部の和音が間違っている。終止部だから定型になっている所である。とても気持ちがわるかった。定型を間違えていることから、この人たちは正規の勉強をしていないことが分った。
  
 2007.6.18. 月曜 晴 町田

音楽界の人系列-最終回

 学歴を問うことはけしからん、という人がいる。しかし、学歴ではなく、勉強歴は問われても仕方がなかろう。どこかの学校を出てもろくに勉強をしなかった人もいるし、学校に行かなくても立派な勉強をした人もいる。Schoenbergは音楽学校では学ばなかったが、Zemlinskyという当代きっての作曲家のもとで勉強した。どこで、どういう勉強をしてきたかは問われて仕方がないし、また問うことは当然の権利である。

 芸大出身でない作曲家が多いが、これには理由がある。戦前の日本では、男子は音楽など業とすべからず、という古い思想があった。旧家、名家ほどそれは強かった。それゆえ、音楽を学びたくても音楽学校へ進むことを許されず、やむをえず、一般大学に進んで、大学を出てから音楽に進むという道筋をとることが多かった。一般大学へ進んだ人では、東大、慶応が多い。この時代、音楽の道へ進むことが許されたのは経済的に余裕がある資産家の子弟か、特別な社会的地位を持つ家柄の子弟だった。どうしても音楽へ進みたくても家と親の許しが得られなかった人では、家出して苦学した人もいる。

 戦後は人の思想と習慣も変り、男子が音楽へ進むことも反対されることはなくなった。しかし、過去のある時期、それとは別に、経済的理由で音楽大学で勉強をすることが出来ない人が出てきた。こういう人はほかの職業につき、独学、または、身近な指導者について勉強するようになる。これもまた一種の苦学に似ているが苦学とは違う。苦学とは学習期の形態を意味するが、この人たちの場合は、この状態が学習期だけでなく継続的形態として続く。言葉が適切かどうか分らぬが、一種の「すきま」型である。「すきま」とは、生活の隙間に音楽をするからである。どこかに勤めて、それと同時に、作曲をする、演奏の勉強をする。もっとも学校を卒業して専門家として認知された人でも、音楽だけで生活できないことは珍しくないので、どこかに勤めて音楽の仕事をすることはある。しかし、この場合、音楽の専門家であることが、仕事とどこかで関連していることが多い。いま挙げた例ではそうでなく、まったく無関係な仕事につきながら音楽もするのである。「すきま」型の生まれた背景には別の事情もある。専門の勉強がいかに本格的で厳格なものであるかが周知徹底していなかったことである。戦前派のある著名な作曲家は弟子に「作曲に技術は要らない。心のままに作ればいい」と言った。この人がどういう文脈で言ったのかは分らないが、弟子の中には額面通り受けとって、作曲に技術は要らないと本気で信じた人がいた。言う方も、本気で受けとる方もどうかしているが、そういう時代があった。

 しかし、その後また変化が起った。いつの頃からか、こうした「すきま族」が次第に減ってきた。理由は日本全体の経済水準の向上であろうか。豊かな時代になってきたからか。プロの水準が「すきま」では太刀打ちできないほど高くなったこともある。音楽に進みたい人は普通はどこかの音楽大学に進むであろうし、自分の経済状態が不適である場合は、無理しても音楽に進まなくなったか。それと、苦労してまで何事かをなさん、という気風が、時代のせいか、人々特に若い人からなくなった。人生楽しむもの、音楽だって、やりたければ、やれる程度に楽しんでいればいい、無理にプロの仲間になる必要もない。それに、この頃は、ポピュラーの世界ではプロとアマの境界だってあいまいになっきた。そもそも、努力辛苦の果てに何かをなすなんて野暮な話、エレキでもシンセでも買って来て好きなだけ楽しめばいい、という意識の変化である。 
 その結果どういうことになるか。作曲でも演奏でも、専門の道に進みたい人は自分に相応の音楽大学に進学む。普通の大学に一度行ってから音楽に戻るなどという面倒なコースはとらない。専門の道に苦労してまで進もうとしない人は就職するか自由業で暮らして適度に音楽を楽しむ。こういう型になる。
 だから、これからの作曲界も演奏界も、音楽大学出の人たちが大部分の主流になるだろう。「まわり道派」も「すきま派」もなくなる。すでにそうなっている。背景のひとつには、本格的勉強が片手間で出来るようなものでないことが知られてきたこともある。
 専門の分化が進む。異端の出は無くなるか珍しくなるだろう。純粋血統型が主流となる。こういう現象が、好ましいか、そうでないか分らない。演奏も作曲も、学校へ進まず、個人の師匠について研修する、という型は珍しくなる。その結果は大きくいえば、千差万別から画一化の方向に向こうことになろう。原初的多様性から高水準の均質化へ。ものごとの発展の必然的法則で仕方がない。

2007.6.13. 水曜 晴 町田

音楽界の人系列再記

   芸大という言い方は慣習として東京芸術大学を意味するが、いまでは、愛知芸大、名古屋芸大、大阪芸大など、各地に芸術大学があるので、正確には、略称でも東京芸大といわなければならない。ただしここでは面倒なので芸大と表記する。前身の旧東京音楽学校も含む。

 音楽界での人系列について、少し前から気がついていることがある。閥、バツ、というような話とは別のことだが、演奏、作曲、評論、各分野でほぼ同一の現象があるように思われる。

  演奏界でも作曲界でも、トップクラスのスーパースター級の人たちは意外に芸大出身ではない人が多い。ピアノ界を例にとってみると、昔は、原智恵子、安川加寿子、井上園子、いずれも芸大出身ではない。現代でもしかりではないか。いままでこの分野で芸大出身者で重きをなした人は、井口基成と園田高弘くらいではないだろうか。弦楽はもともと芸大出身者が少ない分野である。世界的に弦楽奏者は官立校からは出ないといわれているそうだからこれは不思議ではない。芸大が有為な演奏者を輩
出しているのは、管楽、打楽器の分野だろう。
 作曲界を見ると、知名度が高いところで実名をあげれば、三善晃、武満徹、石井眞木、別宮貞雄、通称前衛派だが湯浅譲二、いずれも芸大出身ではない。前の世代では、池内友次郎、諸井三郎、尾高尚忠、平尾貴四男、いずれも芸大ではない。もっとも、芸大からも古くは、滝連太郎、山田耕筰、そして、矢代秋雄、黛敏郎、芥川也寸志、など、有為な人材も出ているが、非芸大出身者の数は少なくない。 しかし、トップクラスはこの通りとして、その少し下、相撲に例えれば、関脇クラスから以下になると、圧倒的に芸大出身者の厚い層が出来ている。

 私は、政界と官界の構造を想起する。歴代の総理大臣は意外と東大出身者でない人がいる。平成以後は、宮沢総理までが東大出で、その後は東大出身の総理は姿を消した。気がつくだけで、細川=上智、羽田=成城、海部=早稲田、小渕=早稲田、森=早稲田、小泉=慶応、安倍=成蹊。総理ではないが、党首小沢一郎は慶応。最近では早慶戦の趣がある。トップはこの通りだが、政界の下部で執行を受け持つ官界は東大出身者が全面的に独占体制を造っている。この構造と音楽界の人構造が似ているように思われてならない。これは、日本社会の体質的構造ではないのだろうか。ほかの分野でも似たものがあるのではなかろうか。

2007.6.11. 月曜 ときどきにわか雨 町田

音楽界の人系列

 亡くなった指揮者の岩城宏之が、だいぶ前のこと、音楽家の経済実態を調べた奇妙な調査結果を総合雑誌に書いたことがあった。学生時代、評論などとは縁が遠かった岩城が奇妙なことを始めたので昔を知る友人の私たちは奇異な感を持った。彼はこの中で、東京のオーケストラ団員の出身学校別の統計を出していたように記憶する。詳しいことは忘れた。 音楽家の仕事の契約の型は一般社会の会社就職のような永続的雇用関係ではなく、一時的、あるいは時限的契約が多い。永続的雇用といえば、音楽大学の職員、オーケストラの団員、文化会館的な施設の館長職を含めた職員であろうが、館長職は任期が定められているのが通常だから、永続的雇用とはいえない。

 時限的、一時的契約は持続しないのだから固定的勢力関係が成立しようがない。1959年のことだったか、N響がはじめての海外旅行に出かけた。この時、随行するソリストに選ばれたのは、ピアノの中村紘子とチェロの堤剛であった。二人とも桐朋学園の出身者、あるいは当時在学者である。中村は当時まだ15歳。NHKの立場からすれば、どこから選ぶことも出来たのである。当時、桐朋学園の英才教育が注目を集めた時期で、この人選もその成果の例として評論された。音楽学校として歴史が一番永く、一番多くの人材を楽壇に輩出していた東京芸術大学、旧東京音楽学校の出身者ではなく、新興勢力の桐朋学園から人材を登用したことは、いかにこの世界が学歴派閥とは無縁であるかの明白な実例である。

 実力が同等である場合はどうなるかということだが、実は、音楽の分野で、実力がまったく同等ということも珍しい。流派、個性、性格の相違という質の違いもある。これは質であり量でないから比較ができない。しかし、ある人が新しい人をなんらかの位置に登用推薦の権限がある場合、よく知っている人を選ぶことはありうる。ホルンのように学生時代から二人、三人、四人でアンサンブルを組んで練習することが常である部門では、先輩格の人が顔馴染みの後輩を取り立てるのは自然でありおおいにありうる。前述のN響のソリストのような、きわだった能力をもとめられる場合は実力だけでことは決まるが、実力が同等くらいという場合は、有力な先輩が多くいる方が優利であることは明らかである。これは人の世の中どこでも同じではないか。ただし、あくまで、それも当人の腕がよければの話で、幾ら、後輩同輩、顔馴染みであっても、まずい人材を登用するわけにはいかない。下手な選手を雇う球団はないのである。
 しかし、人生、永続雇用のような決定的な場面ばかりではない。ふとしたことで優利な人脈を持っていることで得をすることが多い。こういう場面の方が人生では多い。だから、有力な先輩を多く持つ学校を卒業した方が万事便利である。音楽学校では在学中から働く場合、あるいは卒業後に仕事をする場合、先輩の紹介があれば楽である。作曲の場合、録音の仕事の時に、演奏家たちが馴染みの同輩、先輩、後輩であれば甚だ仕事は楽だ。これなどは学歴ご利益の最たるものであろう。

 次に、人の世にはあいまいなものが介在するのもので、「信用」というものがある。この「信用」という推測的要素も評価判断の上で大きな要因となる。人を評価する時に学歴と経歴を見ることがけしからんという人がいるが、それではどうすればよいのか。たとえば会社が新入社員を採用する。学歴で差別はけしからんという。それをいうなら、学歴だけでなく、その他の実力以外の要素で判断することも同様にけしからんことになる。親の財産で差別することもあるかもしれない。これも学歴差別同様けしからん話である。だから、理想的には、入社志望者を一時全員仮採用して、半年か一年働かせてみて、その上で実力を採点することが公正だろう。しかしそんなことが可能だろうか。しかも、それでも実力は見破れないかもしれない。しからば何によって評価するか。面接もあるだろう。しかし、それよりも学歴で判断する方が、あいまいな中では一番手がかりに適しているのではないだろうか。そしてまた、実力だけが大事なのではない。人格的、性格的信用もある。こういう場合、推量の中では学歴を手がかりにすることは、ほかに手がかりがない以上やむをない。出身校により、まずはそういい加減な人物ではなかろう、という本当は確かではない根拠だが推量する。これもけしからんというならほかに方法がない。実力は技術試験があれば文句なしに分るが、一過性の仕事の場合、出身校が技術程度の判断基準になることもある。あの学校の出身者なら、まさかそうひどいことはなかろう、と人は推測する。
 就職のような永続的な雇用関係ではなく、一過的、時限的な仕事に選ばれる場合、紹介という手順を経る。先輩の紹介があれば優利であることはいうまでもない。この場合、学歴上優利な出身校を持っていれば得である。紹介する方も紹介しやすい。こうしてみると、学閥というほど固定的なものではないが、出身校による損得は存在するといってよかろう。

 以下は私自身の経験である。

 ある音響会社が、採用に当って学歴を無視する方針を宣言した。万事において革新的気風で知られたこの会社の大胆な宣言を世間は感嘆賛美した。それから少したってのこと、私はこの会社からある監修の仕事を請け負った。その時、担当者が私に語った。「ここでは、仕事の依頼はX大学出身者に限ることにしている」。現実はこんなもの。

 ただし、学歴がないため実力があるのに認められない、それはない。

2007.6.9. 土曜 晴ときどきにわか雨 町田

 音楽界に、学閥、派閥、系列の類いはあるのだろうか。有るという言う人もいるし、無いという人もいる。有ると聞けば一般の人の中はあると思う人もいるだろう。

  ガクバツとはまたおどろおどろしくしかも時代がかった言葉である。しかし、現実には、あの銀行はA大学系、あの病院はB大学系、あの会社はA大学とC大学系が競いあっていて、いまはAが優勢、などといわれる。こういうものが音楽の世界にもあるのだろうか。閥、バツとは、ある種の人たちが仲間だけ通じあって集まり、利益を分配し、仲間以外の人たちを排除する、そういうものが閥、バツである。排他的なものである。

 音楽の世界の特殊性を分りやすするために、実力が明白に現われる野球と相撲の世界に話を置き換えてみよう。
 いま仮に国立相撲大学というものがあったとする。このほかに私立の相撲大学A,B,C,があったとする。土俵に上での取組みの時、弱ければ負ける。強ければ勝つ。当り前のことだ。国立だろうが、私立だろうが、強い力士は勝つし弱い力士は負ける。出身学歴となんの関係もない。だからこそ最近問題になっているように、野球界ではすぐれた新人選手をもとめて高校が不正入学をさせたりする。いま週刊誌記事になっている八百長は別である。音楽で八百長は出来ない。
 明白な能力差の世界では実力以外の要因で差別のつけようがない。もっとも、歴史の古い国立相撲大学にいい力士志望者が集まることはある。しかしこれは人が集まるのであって、出身後学歴によって差別され、得をしたり損をしたりするわけではない。原因と結果が逆である。だから、新しい私立相撲大学Cが独特の英才訓練ですぐれた力士を排出するようになれば、たちまちC大学出身の実力力士の数が多くなる。昇進力士も多くなる。いい生徒はある特定の学校に集まる。だから、実力あるそこの出身者が専門界で多くなる。これは仕方がない。しかし、こういうのを閥、バツというだろうか。こういう現象を世間でいう学閥とを取り違えている人がいるのではないか。
 会社、官庁、病院、銀行、などの場合、仕事の実力のほどはスポーツの勝ち負けのように分り安いものではない。だから、系列仲間で群を作り、系列外の人を排除することができるし、またありうる。しかし、音楽やスポーツの場合そうはいかない。どこの出身者であろうが、弱い相撲取りや下手な野球選手は取り立てようがないのである。
  
 さて、ここまでは説明がしやすい。誰しも納得がいく話だ。しかし、世の中は複雑であるので、これだけではすまない。実力に歴然たる差がある場合は問題ないが、実力が同じくらいの複数の人がいて、それぞれ出身学校が違うときはどうなるだろうか。

2007.6.7. 木曜 晴 町田

「原智恵子
   伝説のピアニスト」を読んで(6B)

  本論ひとまず完の予定だったが、少し付記がある。このあとにappendixを書く。

 芸術家というものは、自分自身が心から尊敬する人に、認めてもらい評価してもらうことが最も嬉しい。反対に、自分に心当たりのないことを誉められても少しも嬉しくない。これは友人の演奏家たちがこぞって言うことである。作曲も同じ。とんちんかんな誉められ方をされても少しも嬉しくない。かつて、諸井誠が、雑誌で批評家に作品を誉められた。ところが、諸井自身から投稿がきた。誉められた点について、「自分には心当たりがない」。私自身の経験では、私のシンプルな様式の曲を「素朴な」と表現した批評が出た。書いた人は誉めたつもりらしい。しかし私は困惑した。私の曲は外見シンプルではあるが、いわば知能犯的な技巧の果てに外見を単純にしてあるので素朴というのとは違う。

 人には競争心もあるし、嫉妬心もある。煩悩であろうが、こういう煩悩もまた自然である。芸術はことに自分を人に伝える仕事であるから、ことのほかこういう心理は強い。普通こういうものは無い方がいいことになっているが、若い時はこういうものも少しはあった方がいい。頑張りの元になるから。しかし、年齢を重ねるに従って、こういうものは次第に薄くなっていく。自分で自分を知る度合いが進むし、社会もまた多少は実績を認めてくれるようになる。三番目に、喜劇的なことだが、批評家も同年輩の人は人生仲間的な意識を持つようになる。だから余り酷評しなくなる。

 これらは外界側の変化だが本人自身も変化してくる。外界のことより自分の内的な課題に関心が向くようになる。他人が何を言おうが、そんなことより、自分がかかえているものをどうするかの方が大事になる。これは成熟である。20歳台、30歳台は、競争心もあるし他人のことも気になる。しかし、40歳台、50歳台を過ぎると段々そんなものはどうでもよくなる。真に自分を理解してくれる人が、一人でも二人でも居てくれることが何よりも嬉しいし心強い。そういう人が現われることが本当に大事なことである。人間であるから、大新聞やテレビ雑誌で写真映像付きではやされることが嬉しくないことはない。これは批評というより評判である。深い理解と、世俗的評判と両方あれば何より結構だが、あとの方は無ければ無いでそれだけのこと。
 真の理解者が高度の専門家である場合もあるし、まったくのしろうとの場合もある。それぞれ有難い。専門家の場合は畏敬の限りで拝みたくなるし、しろうとで専門知識が無い人でも肝心なことを聞き分けてくれる人には感謝の限りである。

 原智恵子さんのことに戻るが、原さんは、こういう真の尊敬すべて理解者を得たのである。カサド自身がそうだし、ほかにもそういう人が居た。多かったかもしれない。何が不足することがあろうか。至上の人生である。
 遺憾なことがあるとすれば、日本人が彼女のすぐれた音楽を鑑賞する機会を充分持たなかったということであり、不幸なのは原さんではなく日本国内の人たちである。

 次から、関連事項として、音楽界における人の系列のことなど書く。一般の人に現実を告げた方がいいから。

2007.6.5. 火曜 晴 町田

「原智恵子 
  伝説のピアニスト」を読んで(6)

 ようやく原智恵子さんのCDを入手した。近所の区立図書館のコンピュータで探した。複数の区立図書館がすべてがオン・ラインでつながっているので便利。確かにこの人のCDはひどく少ない。借り出したのは「パリの原智恵子」というDENONのもの。リュリ、ラモー。クープランなどのフランス小曲、「謝肉祭」全曲、それに、カサドとの共演で、ベートーヴェン「魔笛変奏曲」とブラームスの第二チェロソナタが入っている。その他のCDは、近衛秀麿との共演など、音源はかなり古いものに思われる。借り出したものもモノラルで、ソロの部分はフランスの放送局のテープによる。解説に録音状態がわるいので了承を乞うと書いてある。この人の録音がひどく少ないというのも、日本での関心の少なさが反映しているのであろうか。残念なことである。録音は1953年,54年,カサドとの共演のものは1961年。原さん全盛期のものといえる。演奏はいずれも極上である。演奏の様式がいまでは少し時代めいた部分もあるが、それでも傑出したものである。この人のCDは外国でも少ないのだろうか。

 この人が日本で見合うだけの処遇を得なかったとすれば、その理由を私は次のように考える。

 第一は時代である。日本での西洋音楽の受容状態がまだまだ質量ともに貧弱で経験不足な時代であったこと。雑誌新聞などの報道機関も、理解の度合いだけでなく量的にも多種多様な情報をこなすだけの対応能力が不足していた時代であったこと。外国で名をなした人材にどう対応するか、経験もないし、見当もつきかねただろう。この点、現代はその反対で、情報過剰、真贋混濁したまま濁流のように流入してくるから、これまた情報の判別、評価、扱いに苦労する。ときにどうかと思う結果が現われる。原さんの時代はその上に世界大戦が始まる。どの国も音楽どころではなくなり、日本は国土荒廃のあげく敗北。人々は生きるだけで精一杯だった。これは欧州も同じであろう。この点では八歳後輩の安川さんがずっと有利な時代状況にあった。この時代の八年の差は大きい。

 第二は、推測だが、個人的に原さんという人自身が余り自己宣伝に関心を持つ人ではなかったのではないかということ。推測である。
 これは世俗に淡々として天衣無縫であったことを意味する。芸術家としては美徳である。だからこそ、宣伝もしないし、NHKの出演を拒否したり、世渡り損なことをする。計算がよく出来れば損なことをしない。こう考えれば録音が少ないことも理解できるし、日本だけでなく外国欧州でも録音が少ないとすればこれも理解できる。偏屈で世間と馴染まない人ではなかったろう。証言によれば、とても親切で世話好きで明るい人柄だったとどの人も伝えている。
 処世の上で参謀役に恵まれなかったといえようか。若くして老練なマネージャーが参謀役に付いた人は得である。シビリアン・コントロールという言葉が軍事にあるが、芸術家が本業と処世戦術の両方を兼ね備えることは至難である。最初の夫は売り出しに熱心であったそうだが如何せん音楽のしろうとである。なまじのしろうとの応援は逆効果になることがある。この本にもそう書いてある。間違えて、ショパン・コンクールの一位と宣伝して歩いたことが反感を買ったか、とこの本に書いてあるが、ありうることだ。

 外国にいても、絶えず日本の報道機関に情報をまめに送っていなければ注目してもらえない。現在でもそうである。現在は情報提供の過当競争状態だからさらにしかりである。原さんの当時は、国内の認識不足があるから別の理由でもっとその必要があったろう。人間関係の形成維持もそうである。こうなると、政治家、代議士に似てくるがそれがこの世界の実態である。
 しかし、原さんはそうい生き方をしたい人ではなかった。そして、自分の望む生き方をした。その結果、時に不本意な扱われ方もあっかもしれないが、売り込みや宣伝、処世に意識をさくことはしたくなかったし、しないで生涯をまっとうした。これが私の究極の推察である。

 この本に対する書評じみたものの主要部分はこれでひとまず終る。だが、この機会に音楽界の事情について書いておく。「付記」APPENDIXである。

2007.6.4. 月曜 晴 町田

「原智恵子 
  伝説のピアニスト」を読んで(5)

 この著書を読むことによって、この類い希な才能のピアニストの生涯について、はじめて多くを知ることができた。この本はだいぶ前から評判になっていたから、かなりの部数が出て、多くの人が読んだに違いない。しかしながら、書中での、一部の人の扱いにはいま少し慎重であった方がよかったのだろう。主役の池内友次郎、野村光一、両氏ともいまは故人である。釈明も弁明もできない。

 また、個人についてだけでなく、非人称である日本の音楽界ついて、この著書には、報道機関のあり方、音楽雑誌のあり方、評論のあり方、音楽界での学閥、派閥、系列の有無、等々について、認識不足か誤りとしかいえない事実観測、そこから発する誤った推測による叙述が少なくない。
 ただ、この本自体はいかにもおもしろい。極端な誤りは問題外として、文学、フィクション「小説・原智恵子」とすればよかったと思う。著者は、音楽界の人ではない。それだけこの世界の実情にはうといというほかない。専門家の数人から取材しているが、話が現代に近づいてくるに従って、証言者として私の知人友人も登場してくる。とはいえ、この本が出たために原智恵子という人に日本ではじめて大きな関心が呼び覚まされたのだから功績は大きい。

 いわば暴露的部分については、風聞的なものとしてさしたる痕跡も残さず消えるように私には思われるが、しかし個人の名誉がかかわる事象については、だれかが否定しておくべきかもしれない。すでに書いたように、書く方も推測で書いているが、それを否定する方も反対の推測で対するほかないので何ともやりにくい。この本が評判になりながら、批判的書評が出ないのは、こうしたいきさつが一つの原因かと思われる。片方を否定することによってもう片方を肯定的に浮上させようという手法は初歩的で原始的なものである。それだけに単純で効果的である。悪役を強調することによって、被害者側の悲劇性を強めるわけである。誰かを犠牲にすることによって誰かを浮上させようという手法は余り上等なものとはいえない。そんなことをしなくとも原智恵子さんの生涯は立派なものだったのだから。

 この著書の書き方で私が最も残念に思うのは、原智恵子さんが日本で受けた処遇について、特定の個人だけでなく、日本という国とその社会までが陰湿で暗いものであるかのような印象を読者に植えつけかねないことである。西洋音楽が遅れているだけでなく、それは仕方がないこととして、人の心までも意地悪で陰湿で、他人を祝福することを知らず、人の幸福に嫉妬する、そんな人がいる国と思われることがあるかもしれないことである。
 あらためてこの本を読み返してみて、日本人と日本の社会への不満の言葉を原さんが発した記録は一つも書かれてない。すべては著者が書いたことである。「−−のではないか」とか「−−かもしれない」といった語尾が何度も出てくる。日本は暗く陰湿で、西洋はその反対で、公明正大、文化を尊び、どの人にも明るく棲みよい社会という表現は俗耳には入り安いかもしれないが真実ではない。人が造る世の中、どの国でも、いい所とわるい所がある。どの国の人も鬼でも天使でもない。西洋を礼賛する人には、中島義道さんの著書「ウィーン愛憎」(中公新書)を読むことをすすめる。ウィーンという街の不愉快さが全編通じて書かれている。明治の昔から日本人の心には「山のあなたの空遠く、さいわい棲むと人の言う」という遠い国への憧れが根強い。外国への過剰憧憬である。

 肝心の原智恵子さんが日本での自らの処遇をどう思っていたかは分らないが、この本によれば原さん自身が日本への不満誹謗を口外したことは書かれていない。原さんは自分の生涯に満足していたのではないか。西洋では存分に評価されて、それに応じた扱いを受けていたし、演奏生活を心ゆくまで進めることが出来た。カサドとの祝福された結婚を通じて、音楽の更なる成長と向上も手に入れることが出来た。そして最後は祖国で安らかに生涯を閉じた。幸福な人生ではないか。日本での扱いについて、この著者は不当であるとの描写を盛んにしているが、他人が本人に代って残念がったり腹を立てたりすることもあるまい。残念といえば、これだけ優れた演奏家を母国の人たちがもっと聴く機会があったらと惜しまれる。この項はまだまだ書くことがあるので続ける。

2007.6.2. 土曜 晴 町田

「原智恵子 
  伝説のピアニスト」を読んで(4)

 こういう、憶測説、陰謀説、秘話説、は専門界の事情を知らない一般の人たちには信じられやすい。現に、ネットでこの著書の感想の中にそういう書き込みをしている人がある。「日本の音楽界の闇」、などと書いている人もいる。こういう話は、政界、財界、国際政治の世界などにしばしばあることで、「真相を語れば−−−」式の語り方で、秘密めいているだけ人の興味と好奇心を刺激する。低級なところでは週刊誌の暴露記事の水準のもので、最近では相撲の八百長記事などが例である。そういう意味では、余り信用しかねる話をひろめることはほめたことではない。
 背景に黒幕めいたいものが居る、すべてを牛耳る何者かが居るという話は、そう思って見ればそう見えるものだ。世界の財界を牛耳るものはユダヤ人の秘密結社だとか、さらに彼等は世界政治をもあやつっているというように。そして黒幕が実在するかのように説くことによって、逆の差別も生まれる。ナチはそういう操作で世論をあやつった。

 確かに、原智恵子さんが、不当に扱われている例がないわけではない。平凡社の音楽百科事典には本当に原智恵子さんの項目はない。安川先生については項目があり、かなりの字数書かれている。コンピュータ百科事典「エンカルタ」にも原さんの名前は出てはいるが、作曲家、一柳の項目で師事した師として出ているだけである。しかし、これ等の事例とても、編集委員たちのお歴々が額を集めて、この人はこの際ボイコットしようなどと相談合議した結果であろうか。なんのために、どこの指示でそんなことをするのか。しなければならないのか。
 ある人が、ある人物について、この人はとても有能な人だから、機会があったらぜひ登用してほしい、という肯定的な働きかけ推薦をすることはありうるかもしれない。しかしその反対に、この人物は、いわくがあるので、なるべくボイコットしてほしい。批評で誉めないでほしい、と言えるだろうか。この辺は常識で想像してみてほしい。人をネグレクトするような意向は口外しにくいものである。言われた方は、それは何故ですか、と聞きたくなる。こういう否定的陰謀的なことを要請すれば、要請する当人が人格的に疑われるではないか。

 私自身、この世界に半世紀以上生きてきて、心外な扱いを受けた経験がないわけではない。しかしそれを陰謀とは考えなかったし、いまも考えていない。

 大抵の場合、ことのなりゆきは以下のようなものである。

 ある人Aがばかに売れる。Bもしかり、しかし、Cはさっぱりである。実力実績ではCはABと少しも劣らない、社会もそれを認めている。この場合、AとBはある音楽事務所プロモーターに属している。ここは放送出版への売り込みにことのほか熱心である。NHKにAとBをなるべく出演するよう働きかける。作曲家ではクラシック番組の解説などで登場することも可能だ。演奏家の場合は録音放送してもらう。もっともこれには実力が問われるので、いかに売り込み熱心でもなかなか難しいが。これに対して、Cはそうした後押し売り出しをする後ろ楯を持たない。だから「とり残される」のである。「とり残される」ことは「ボイコットされる」ことではない。後押しのプラス力が作用していないだけで、排除の力が作用しているわけではないのである。

 原智恵子さんのような傑出した人の生き方に対して批評めいたことはとても出来ない。それに周辺的状況も知らないのだから、いよいよ不遜なことは言えない。だから、ここでは、「−−のような」という仮定で抽象化されたケースをとして論ずることにする。
 NHKは正月恒例のクラシック放送の一番手を原さんで続けてきたが、この本によれば、ある年、何故か安川さんに替った。原さんはそれを不満としてNHKへの出演を断った、と、この本には書いてある。直接の理由は指の不調だがこれは口実であったそうだ。この本にはそう書いてある。もしもその通りだとしたら、こういう対応の仕方は相手の心に今後の不安を植えつけることにならないだろうか。次の機会の時、この人はまた何かもめ事を起こすかもしれないから敬遠しておこう、という逃げの心理が生まれることはありうるし、それは自然なことである。敬遠されるのである。アーティストが孤立突出した実力者であれば、それでも依頼するだろう。しかし互角の人が居た場合、無難安全な方を選ぶことは仕方がない。同等なら安全な方をとりたいのは人情として当然である。安川さんが登場したことは、こういう状況が形成されたことを意味していた。NHKの当該部局の職員は尊大な権力者ではない。背後に権威を背負っていることは事実だが、銀行員のようなもので、彼自身は組織の一員であり、平たく言えばサラリーマンである。面倒を起こすことを避けたいのは当然である。
 この著書にも書いてあるが、安川加寿子さんという人にはキズがないという。人と衝突せず、頼まれたことはこころよく引き受け、そして自分をひけらかさない。これでは敵の生まれようがない。
 この本では、派閥、学閥から離れては評価されにくい日本の音楽界、という言い方がされているが、安川さんも日本の音楽大学の出身者ではない。原さんと同じパリ音楽院の出身である。原さん、安川さん、そして池内氏、三人そろってパリ音楽院出身である。三人の間に学歴の差はない

2007.6.1. 金曜 晴 町田

「原知恵子 
  伝説のピアニスト」を読んで(3)

 原知恵子さんに対して、日本の楽壇人が、悪意と敵意を持っていたと著者は語る。そして具体的な人名が実名で登場する。第一は池内友次郎、第二が野村光一、第三以下はあまた、新聞雑誌放送まである。当り前のことだが、これらの話には証拠証人があるわけではない。著者は、推測あるいは、推測から発する状況証拠的な根拠から語る。だから、主観的な前提から、次々とストーリーがつむぎ出されていく。しかし、ここが大事な所だが、だからといって、全てが荒唐無稽とは思えない。ありそうな話もおおいにある。反対に、これは違うだろう、と推測される話、その中間の段階と色々な種類がある。私にも証拠があるわけでないから推測に対する推測になる。しかし、この推測の判断は馬鹿にならない。人の判断はほとんどがこうした経験的判断の種類のものだからである。大岡昇平が「レイテ戦記」の冒頭で書いたように、自分が真実と判断したことを真実と判断するのが人間である。証拠はないが、経験から判断が下されるので、これはなまじな証拠より重みがあり信用できる。

 池内友次郎氏は私の恩師であるが、この件についてはこのことは私の判断に無関係である。それどころか、この件の発生のくだりはありそうなことに思える。若いパリ留学時代、原さんに恋慕したが、ふられて、その逆恨みを延々と持ち続け、ことあるごとに原さんに意趣返しをしたという。安川加寿子先生が芸大に招かれた時も、その前に原さんに打診があった。それを原さんは断った。理由は池内氏がいたからという話。同じ職場ではまた何をされるか分らないからと。この辺の話は少し誇張されているようにも思えるが、ないわけでもなかろうと思う。

 野村光一氏については分らない。ただ、この人の評論姿勢というものは永い評論生活の実績によりうかがい知ることが出来るし、また知られている。そこからすると、評論に個人的、政治的意図を混ぜるとはいささか信じがたいのである。私にはそう思われる。この人の批評は、ピアノ批評の専門家として、食通じみた経験主義者の判断のように信頼出来るものだった。むしろ理想主義的なくらい芸術至上的なものだった。戦前、人気あった指揮者ストコフスキーを娯楽路線の演奏者としてきびしく批判した。野村の見解では、ストコフスキーは録音技術を駆使して、おもしろおかしく音楽を演じてみせる指揮者で、正面から精神的にマジメに音楽に取り組む人ではない、この人の音楽を聴く人は、「読み古した大衆雑誌を読み返すように聞くのは何故か」、と著書「名曲に聴く」の中に書いた。そして、対極的な存在としてフルトヴェングラーを推奨していた。こういう人が政治的意図の評文を書くだろうか。野村光一氏も人だから絶対にないとは私には言い切れない。しかし信じがたいというのが私の感触である。原智恵子さんが再度渡仏する時、野村さんは羽田空港まで送りにきたとそうである。にもかかわらず、その後、原さんの演奏に否定的な評を書いたとし著者は裏切り行為のように書く。好意を持っていれば何があっても誉めなければならないことになる。この方がよほど情実的ではないか。

 池内氏については、意趣返しがあったかどうかについては、ありそうな話に私には思える。ただし、彼が楽壇の全ての領域でことを左右するだけの権力を持っていたとは思えない。池内氏に限らず、そのようなな一元的な支配力を持った人物は日本の楽壇には存在しないと私は思う。それは音楽界の構造に由来する。作曲、演奏、評論、オーケストラ、教育、新聞放送、それぞれ領域が違う。各分野にそれなりある程度のボス的な人はいるかもしれない。しかし、いたとしても、その影響力の有効範囲は限られている。作曲界にボスがいたとしても、その人が演奏界に影響力をおよぼすことはまず無理だろう。演奏界にしても、ピアノ、弦楽、管楽、指揮、声楽、それぞれ領域が違う。たとえば、声楽の領域でボス的な人がいたとしても、それは単数ではなく、A氏の門下、B氏の門下、というように、それぞれ複数の人が門閥を作っていることがあるかもしれない。仮に、もしそうだとしてもB氏の領域にA氏はどうして影響力をおよぼすことが出来るのだろう。作曲、教育、評論にしても同様である。その理由は、権力をおよぼすためには、相手の利益を左右するだけの力を持っていなければならないからである。演奏界各分野の人が自分が属する分野以外の人の利益をどうして左右することが出来ようか。

2007.5.30. 水曜 曇ときどき雨 町田

「原智恵子 
  伝説のピアニスト」(2)

 この本を読んで、原智恵子さんの人生について初めて多くのこと知ることが出来た。このすぐれた才能が、西洋音楽未熟時代の日本でいかに苦難の道を歩んだかを知った。著者の熱意が読む者に迫る。一部、事実記録の誤りもある。指揮者のシャルル・ミンシュが戦前来日して帝劇や帝国ホテルで演奏した、と書いてあるが(12P)、指揮者が一人で来るわけがないし戦前この人は来日していない。これは単純な誤りである。

 しかし、総体の高い評価はとは別に、ここでは別のことを感想として書くことにする。

 この著書は、事実の列記ではなく文学的であるため、全体に劇的なスキームが仕込まれている。原智恵子という類いまれな才能が、祖国日本で充分な理解と好意を以て受け入れられなかったこと、それだけではなく、日本ではこの人に対する意図的な敵意が潜んでいたこと、用意されていたこと。この構図の中に全体のストーリーが位置づけられる。その構図によって原さんの生涯の悲劇性が高められる。悪意と敵意の被害者であることは主人公の悲劇性を高めるために効果的である。

 この件については著者の書き方にはだいぶ推測推量によるものが含まれている。それは、ほとんど肯定したくなることだが、そうでない部分もある。それと、こうした仮説を立てること自体に語るべき複雑な見解も私にはある。この辺が私の感想記述の一番大事な部分になろう。

2007.5.29. 火曜 晴 町田

「原知恵子
  伝説のピアニスト」を読んで(1)

 自分のサイトに恩師安川加寿子先生のことを書いた。
 たまたまその日、経堂の図書館に寄った。少し時間があったので、ふだんは立ち寄らぬ音楽関係の図書の前に行った。目に入ったのがこの本である。この本については、前からしきりに反響を聞いていた。つい最近も聞いたばかり。随分と話題になる本である。しかし、自分はなぜか是非とも読みたいという気にはならなかった。それがこの日、こうしたなりゆきで本を手にとってみた。何かの縁か、運命のようにも思える。閲覧用の椅子にかけて少し読み始めた。ところが面白い、実に面白い。一頁読んだらやめられなくなった。ついに借り出して、持ち帰り、電車の中でも読んだ。

 読後感の第一としては、それ故に実に面白いということをまず言わねばならない。これには、著者の筆力もあるが、著者の熱意が人を魅きつけていることを第一に指摘しなければならない。これだけ人を魅きつける本はそうあるものではない。取材調査の努力は大変なものである。一人の人についてこれだけ調べることは並みの努力で出来るものではない。それだけでも特記に価いする。これは著者である石川康子という人の演奏を聴いているようなもの、人に訴えかけてる強烈な表現意図の連続である。そして、この人にこれだけの文章、演奏を、書かせ、演奏させる源泉とになった原知恵子という人の重みと魅力が尋常なものではなかったことを思わざるをえない。
 基本的な著者の視点の位置は、題材である原知恵子さんに好意的で、その味方としての視点に自からを置いて叙述判断をしている。これは伝記を書く以上当然かつ自然である。推量と推測による判断描写の部分もかなりあるが、これも入念な調査の結果を踏まえてのこと故に恣意的とは思わせない説得力がある。何よりも著者の感情が熱くこめられていることがこの本の得がたい特質である。その意味でこれは文学であり、歴史書、伝記書ではない。

 私は原知恵子さんを知らない。実は演奏も知らないのである。私の少年青年時代、この人は日本でも現役で、聴かなかった方が不思議なのだが、何故か聴く機会がなかった。井上園子、原知恵子、安川加寿子の三人が女性ピアニストの三女王といわれた時代、井上さんの演奏はすでに書いたようにN響との共演を一度だけだが聴いた。安川先生についてはいうまでもない。しかし何故か原さんは聴かなかった。だから、この人の生命である演奏を聴いていないので、その人柄生涯についても発言権があるとは言いがたい。かつて、Elisabeth Schwarzkopf がナチ党員だったこと、戦後イギリス人と結婚して、戦犯追求を逃れたこと、そんなことが問題視されたことがあった。その時、おりしも来日したこの人の演奏を聴いた人が、そんなことはどうでもよくなった、と、もらしたことがあった。余りに演奏がよかったからである。あれだけの演奏を守るためなら、戦犯を逃れるために何かしてもその方がいい、あの音楽は世界の人々の財産だから、とその人は言った。すぐれた芸術はそういうもの、人にそう言わせるものである。だから原さんについても、私には感想発言の資格があると言いがたい。CDが出ているそうだから聴いてみたい。そう思わせるように仕向けただけでもこの本の持つ威力は大きい。以下次回更新。

2007.5.28. 月曜 晴 町田

 四日ぶりに仕事場へ。26日土曜は芸大の同窓会、同声会の総会と懇親会。旧友先輩後輩が多く軽井沢公演をを応援してくれることが分り感激。白砂さんは録音録画も引き受けてくれるそうだ。夕方四時からの懇親会、どうしてもWein, Beerを飲みすぎる。でもこころよい集まりだった。なぜか、男性が圧倒的に多い。女性はほんの数人、隅の方に遠慮がちに目に入るだけだった。
 27日土曜は、門下の橘川君の作品を演奏するので、渋谷松涛のスタジオへ。せまいがintimateな会場。詩の朗読と音楽を組み合わせた趣向のものが多い。言葉と音楽の組み合わせに思うこと多事なり。

安川加寿子先生のこと

 私の生涯の恩師の中で、いまも心に残るのが安川加寿子先生である。

 ピアノの安川加寿子先生は芸大在学中、副科のピアノでご指導を頂いた。生涯の恩師といえば、現在の自分を育ててくださった少年期の先生、おとなになってからの専門科の先生が当然第一義としての恩人である。安川先生は、副科の、それも短期の指導を頂いた師であったが、それでいて忘れがたく尊敬を持ち続ける師である。

 国木田独歩の小説に「忘れ得ぬ人」というのがある。忘れ得ぬ人、とは、忘れてはならぬ人とは違う、恩師、恩人、などは忘れてはならぬ人である。それに対し、忘れ得ぬ人とは、忘れても自然なのに何故か忘れることが出来ない人、そういうことを独歩は書いている。安川先生は私にとって、無論、忘れてはならぬ恩師であるが、しかし、その上でなお、忘れ得ぬ人としていまも心に残っている。

 当時、安川先生は芸大で専任教授になられた時だった。専任の教授が副科の指導まで受け持つべきか、議論があったそうである。だが、結局、私たちは安川先生の教室に入門することになった。週一度のレッスンは、選曲は自分まかせだったが、先生は微に入り細に入りの指導をして下さった。いま思えば、先生の専門のフランス近代音楽を指導して頂けばよかった悔やまれる。若い頃のこと、気負いもあって、現代曲を持っていき、prokofievSONATAを見て頂いたことがあった。私の演奏の僅かなリズムのずれを先生は執拗に指摘され、自分ではなかなか気がつかない大きな欠陥を知らせてくださった。副科だからと手を抜いたり、軽く扱われるようなことはなかった。一度、Jean Fracaixの曲を見て頂いた。これはやはり一番通暁されている音楽で多くの啓蒙的忠言を頂いた。

 ある日のこと。それは冬の日のことだった。当時の芸大はまだ暖房は石炭ストーブであった。ストーブの脇に石炭をつめたバケツが置いてあ。時々、そこからストーブに石炭を補給する。私がレッスンの番を待っていると、ストーブの火勢が衰えてきた、当然、石炭を補給しなければならない。ところが、バケツの石炭は底をつきかけていた。バケツを用務員室に持参して石炭の補給をしてもらわなければならない。前の生徒の勉強が終った時、突然、安川先生がバケツを手に持たれた。私は慌てて飛んでいって先生からバケツを受け取り石炭を補充して帰ってきた。

 あの当時、三人の女性ピアニストが花形だった。安川先生のほかに、井上園子さん、原知恵子さん、だった。井上さんは不幸な病におかされたが、一時回復して、来日したJ.Rosenstock指揮のN響ととチャイコフスキーのピアノ協奏曲を演奏した。私はこれを聴いた。たしか、昭和26年頃だったか、日比谷公会堂だったように思う。原さんは、最近生涯を綴った本が出て話題になっている。波乱万丈の生涯だったようだ。井上さん、原さんとは面識がないままだったが、三人の中で、安川先生が、一番、体制内でステータスを堅実に固めていったように思う。その事がいいか、わるいかは色々評価があるだろう。体制に順応するには協調性が必要である。先生はこの特質を備えておられた希な人であったと思う。普通、芸術家は唯我独尊、自分の主張を譲らない性格の人と思われがちだし、事実そういう人が多かったのだろう。安川先生はそういう人ではなかった。バケツ体験から私はそんなことを知る思いがする。ささやかな出来事だが、体験というものは、多くの言葉より忘れ難い認識を人に植えつける。

  折しも、ここまで書いたところで、石川康子著「原智恵子 伝説のピアニスト」という本を読み始めた。
読後の感については、あとで記したい。

2007.5.25. 金曜 雨 町田

 ひとしぶりに朝から雨。今日一日は降るそう。晴ばかりでも具合がわるいだろう。均衡のためたまの雨天もいいだろう。

芸大同期会

 22日火曜は午後から芸大同期会だった。文京シビックの25階レストラン。眺めがいいことだけが取柄のような所。午後一時半から。こういう会合は夕方から夜会にしてほしいが、幹事によれば、皆高齢になったのでこの時間帯にしたそうだ。それでも当初は正午からの案だったが、幹事の一人Violinの女性Tさんが強硬に異をとなえ、せめてこの時刻になった。昼日中ではなんとも落着かないが、幹事の判断ではやむなし。思い返せば、99年は自分が幹事だった時、やはり夜ではなかったように思い出す。人のことは言えない。
 一年おきの奇数年に開いているが、97年はお茶の水聚楽ホテル、99年は青山プレシデント・ホテル、2001年は母校食堂、2003年は上野静養軒、2005年は幹事が忘れて2006年にずれこみ、神田学士会館、そして本年。今回の出席者は21人。年々歳々参加者が少しずつ減っていくのは仕方ない。
 いま思い返せば、2001年の時に山本直純が来て、これが彼が級友に顔を見せた最後になった。彼はこの時、妙にはしゃいで、そなえつきのピアノをひきまくっていた。ついこの前のことのように思い起こすが、すでに六年が経ってしまった。この二年後に彼は他界し、その翌年、一年もまたずに夫人も後を追った。夫人、雅美さんも同期の人だった。一期上だが、岩城宏之も昨年亡くなった。山本直純と岩城宏之は、私と三人、よき青春の友だった。彼等二人はともに指揮者志望だから、ライバルでありながら仲がよかった。あれだけ遠慮のないことを言い合える友情はいまでは珍しいのではなかろうか。批判というより悪口に近い。それでいて、けろりとしている。在学中の半ばから二人ともデビューし始めた。どんな新聞批評より、互いの悪口の方が役に立っただろう。あの頃はそういう時代だったのだろうか。学風がそういう所なのか分らない。学風としては、あの学校は旧制高校的な気質を持っていたように思う。ほかの音楽大学にくらべ、幾らか男子学生が多いことも気風の特質になっているのかもしれない。当時は女性が多い所と思っていたし、隣の美術にくらべて、そのため軟弱な気風に思えたが、それでも音楽大学としては男子が多い方なのかもしれない。Orchestraにいた人も、学校に勤務としいた人もすべてすでに定年の身分にいる。それでも各人のスピーチはおもしろかった。

2007.5.24. 木曜 晴 町田

無調と邦楽

 昨日は唯是震一さんの演奏会に行く。四谷区民ホール。

 唯是震一さんは、私と同郷札幌出身の先輩。箏の名手で作曲家でもある。
 札幌のお宅は私の家からも近く、私の二番目の兄と小学校時代の友達で仲がよかった。兄はよく、唯是のうちへ行ってくる、と言って出かけていた。
 唯是さんは芸大楽理科第一期生。当時、芸大に邦楽科がなかったため出来たばかりの楽理科に入った。日本人ではじめてアメリカのカーネギー・ホールで演奏したのはこの人である。震一という名は、関東大震災の年に生まれたための名だそうだ。
 唯是さんは、だいぶ前、自叙伝を書き、私の所にも送ってこられた。その中で、幼い時の私の兄との交友が詳しく書かれており、助川敏弥さんは、もしかしたら兄弟ではなかろうか、と書かれていた。私はすぐに手紙を書き、ぜひお会いしたいと告げ、その年の唯是さんの演奏会で先生と対面した。先生は、お兄さんに似ているね、と、とても喜んでくださり、ほかの出演者も一緒に京王プラザ・ホテルでご馳走してくださった。私は兄の住所をお知らせしておいた。そのまま時が経過し、その間に兄は他界してしまった。

 昨日の演奏は、多分、古典と新日本音楽風の曲だろうと予測していたが、そうではなかった。意外だった。無調の12音技法の曲が演奏された。尺八、箏、十七絃箏の三重奏曲。尺八のソロで始まる冒頭が、どの音階旋法にも従っていないので、解説を読むと、12音技法によると書いてある。その前の曲が古典邦楽の様式で、変化も起伏もない音が延々と続くもので、いささか辟易していた。その後に聞こえる無調音楽は自然でこころよい。こんな体験ははじめてである。かゆい所に手が触れている感じである。唯是さんの作曲は楽器に通暁しているだけあって、楽器に対して少しも不自然な所がなく、外来の異物を無理に持ち込んだ感がない。かつて、12音技法得意の作曲家が箏にこの技法を持ち込んだ作曲を出したが、木に竹を継いだようで、とても自然に受け入れられるものではなかった。楽器が音を受け付けない。しかし、こんどの結果を聞くと、こういう組み合わせも、これまでの判断ですべて通せないものかもしれない。
 いま自分自身、在来型の様式でいくか無調でいくか、逡巡のさなかにいるので、刺激を受けた。

2007.5.20. 日曜 晴 町田

浜尾夕美さんのリサイタル

 昨日は浜尾夕美さんのピアノ・リサイタルに行く。浜離宮。CMDの若い会員。会の人たちに多く会う。
 幻想曲を軸にした曲目。 前半は、Beethoven:SONATA No.13 Es-dur, Schumann:Fantasie。後半は、Rakhmaninov:Sonata No.2。

 前半はどうも音の弱さ、タッチの強度不足が気になった。音に芯がない感触だ。しかし、後半になると一変した。申し分なく弾き下ろされた指下で絃の確実な音が鳴り響き、一点の瑕瑾もなく、このおそろしく長い難曲を完全に弾き通した。見事。前半の欲求不満は解消した。
 ピアニストの演奏を個人の部屋で聞くとおそろしく大きな音で圧倒される、というより辟易に近いものすら感じる。しかし、大きなホールで聞くと、そう弾かないと軟弱に聞こえる。当り前の話だが場の条件で印象が変る。昔、Chopinの時代のサロンではどういう弾き方をしていたのだろう。女性ピアニストが、自分の幼い子供に子守歌を聞かせるために弾く時、ホール的な弾き方をするとは思えない。寝ていた子が起きてしまう。
 昨日は、後半の難曲に意識と精力が偏在集中していたのだろう。時々こういうことがある。総合点は立派な出来だった。アンコールに弾いたKreislerの「Liebesleide」は誰の編曲だろう。

 このとろこ、自分の作曲の方法について難渋が続く。風景画的な曲造りと、それでは満足できない精神的、構造的な曲を造りたいという志向が自分の中で執拗に拮抗する。後者の道を選ぶなら、音階、旋法、既存の秩序をすべて退けて、自分の秩序だけで音をまとめたい、すなわち無調、serie。一日の内ですら目指そうという方向がゆらぐ。

2007.5.18. 金曜 晴 町田

東条元首相と日本

 東条英機元首相のお孫さん由布子さんが参議院に立候補するそうだ。

 東条元首相は、太平洋戦争の後、戦犯として巣鴨に拘置された。この時、アメリカのトルーマン大統領の特使としてアメリカ陸軍のた中尉か大尉が東条氏を訪れた。目的は、この戦争について、東条氏がどう考えていたか、どういう構想のとに戦争を始めたのか、聞いてくることだった。アメリカというのもおもしろい国だ。
 特使が東条氏にこのことを告げると、東条氏は、「あなたのような若い尉官が」、と感心したそうだ。この会見の記事は、だいぶ前に、ある総合誌に掲載された。

 戦争の見通しについて、東条氏は自身の判断の誤りについて、幾つか、これまた明晰に語っていた。その中で一番記憶にあるのは次のことである。
 日本が石油資源に窮乏していたため、南方の石油資源を支配しようとした。いまのインドネシアの辺りだろうか。占領は初期段階で目的通りに実現したのだが、占領した現地の石油が即戦力になると考えていたことが最大の誤りだっという。石油地帯を占領しても、工業施設まで送らないと何の役にも立たない。シンガポール辺りに施設はあったようだが、日本の役に立てるためにはやはり日本本土まで送らなければならない。船が必要になる。輸送の途中の危険もある。このことを考えなかった。

 これは随分お粗末な話に聞こえる。悪名高い東条氏とはいえ、国が異常な事態の時、当事者の立場にあった人の誤りを、いま平静な時代に無関係な立場にある者が批評することは適切でないかもしれない。しかしそれにしても、この話はお粗末に聞こえる。輸送の問題は石油地帯占領の構想と同時に考えるのが当り前ではないだろうか。非常時でもプロはプロなのだから。
 東条氏はとても頭がよくて、気配りが細かい人だったそうだ。でも、少し余裕がない人だったように思う。札幌で講演した時、笑いながら聞く人は出てほしい、などと言った。ユーモア感覚がなくて融通がきかない人だったのだろう。だから、こうと決めたら、他人の話は聞かない、聞きたくない。
 東条氏は、戦争に至るまでの過程で、いわゆる主戦派だった。戦争をやろう、という側である。開戦か否かの段階で日本政府首脳の中でも随分と議論があったそうだ。しかし、こういう性格の人は自分の考えに固執する。ユーモアは物事を別な角度から見る余裕を意味する。やはり、小人物だったと思う。場所を得ていれば有能な人だったのだろう。あの時の日本はそれほど人材が枯渇していたか。いやそうではない、すぐれた人材、多様な人材を排除する体制になっていた。つくづくそう思う。

2007.5.15. 火曜 晴ときどき驟雨 町田

Anna Flora」について

 先日、手違いの満員札止め公演で初演した「Anna Flora」はすでに一昨年2005年末に出来ていた。2005年の新年会に完成譜を持参して友人に説明していたのだから、優に一年以上たってからの初演だった。この前に「SPICA」で無調に踏み切ったわけで、この曲はその路線を追認するものだったが、無調の世界に入るについては、ずいぶんと不安があった。無重力、情緒無しの世界、自分の一番いいものを捨てることにならないだろうか。そんな不安が心を圧迫し続けた。さいわい「SPICA」は好評だったし、こんどの「Anna Flora」もほめてくれる人が多かった。お世辞分を割引いても幾らかはホンネは残るだろう。無調、12音技法の創作というのは、やりながら余り楽しくないことがあるのが正直なところ。でも、自分を納得させるにはこれしかない、というので強行する。これを創作の主流としても、副流として調性の叙情的作品はいままで同様つくるからこちらも絶滅というわけではない。
 六月23日土曜、日暮里sunnyhall午後二時開演の音楽会ADECAでViolinの中野恵さんが初演してくれる「そよ風」はとても愛らしい小曲である。こういうものも健在であるので多くの人に聞いてもらいたい。要は、人の心はいろいろな面を同時に持っているということである。
 以下は「Anna Flora」初演の先日の音楽会のプログラムに掲載した曲の解説。当日、来場されなかった人のために紹介。
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 「Anna Flora」は2005年末に出来た。前作「SPICA」に続く作品である。だたし「SPICA」の方は、2006年に入ってから手直しをしたので、完成はこの曲より後ということになる。「SPICA」は、昨年、2006年七月の私の記念演奏会で深沢亮子さんによって初演された。

 「SPICA」に続いて、この曲でも私は無調の世界にいた。なぜ無調の世界に入ったか。創作は反復を嫌う。そうした感性の本能的要求に従えば、どの旋法も音階も、すべて通過ずみの鮮度の落ちた言葉に見えてきた。とすれば、残るは無調しかない。だから、消極的、消去法的過程でこの世界を選んだたことになる。ただし、無調音楽の無重力的な美学に魅力を感じていたことも事実である。それを、シェーンベルク流の世紀末的な息苦しいものではなく、モダン建築のような洗練された美学に仕立てたかった。

 全曲は演奏時間約10分程度。12音技法によっているが、この技法の厳密な適用からは本来は禁止排除される、音階型、反復型、移調に類するセクエンツ型などは排除せずにとりいれた。厳格主義により自らを貧しくすることはしなかった。

 この曲は現代音楽演奏の巨匠、アロイス・コンタルスキーの直弟子である松山元君の最も得意とする様式で造られている。名初演を期待している。

助川敏弥

2007.5.13. 日曜 曇 町田

 11日の演奏会は、券の売り過ぎという失態つきのものとなった。会場の席数を最初に誤認したことから始まったというのだからお粗末というほかない。とどのつまり、入場客は席に納まったかのように見えたが、30人ばかりの客はロビーのモニターで「鑑賞」するという珍景となった。そのほかにも、平身低頭の上、券代金を払い戻しして帰ってもらった客も幾らか居たそうだ。こういうことがあると、時間と労力をかけてわざわざ来場してくれた人たちにとんでもない礼を失した結果となる。こういうことがあると、これからは人も来なくなるかもしれない。幾重にも失態である。

 NHKの美術番組「日曜美術館」、名士を呼んで話を聞く趣向はいかがなものか、と批判したが、先日の山種美術館の話はよかった。「山種」というのは、山崎種二という人の略称だそう。このこともはじめて知った。種二は、小僧から身を起し、山種証券を創業した成功実業家。日本美術界にこういうパトロンが居たことは感嘆すべきことである。欧米の最良の範例なみである。音楽の方にもこういう人が出てほしい。やはり、美術の方は明治開国以前からの伝統芸術の地盤があったのだろう。芸大でも美術の方には重みがあった。費用対効果の原理からいえば、最少の目的なために最大の労力をかけなければならないのが芸術である。そもそも原理からして儲けが出るはずがないものだ。しかも人はそれを必要とする。そう考えれば、誰かが、どこかが、形而下的な応援をしなければ成り立つはずがない。また、援助してもらう側も、その認識の上に立って、感謝と責任を自覚すべきだろう。こうしたあり方もまた、これから勉強していくべきことと思う。

 このNHKの番組の中で知ったが、奥村土牛という画家は60歳過ぎてから傑作を次々生み出し始めた。かくいう自分は傑作を生み出しているとは思っていないが、歳をとってから創作が軌道に乗ってきた点は似ているように思う。同じような人がいるものだ。土牛はまだ開花する以前に山種に認められ、「自分は将来性ある人しか援助しない」、つまり、あなたは将来性がある、という意味のことを言われ、力づけられたそうだ。
 
2007.5.10. 木曜 晴 町田

天理? TENRI?

 だいぶ前に、アメリカ在住のピアニスト、ローデンさんから、三月に「龍舌蘭」を演奏したいので楽譜がほしいとのmailがきた。すでに劉薇さんの初演もすんでいるので喜んで送った。演奏場所は天理と書いてあった。律儀なローデンさんのこと、来日しているはずなのに三月過ぎても電話が来ないのでおかしいと思っていたらmailが来た。当日のプログラムを電送してきた。見ると、NY.TENRI Cultural Institute、と書いてある。なんと、天理ではなく、New YorkのTENRIだった!お笑いの一席。奈良県の天理市かと思っていた。

 ウィーンのCD会社VMMからCDが到着。私はこの会社の日本取次ぎ役になっているので、新譜が多数入っている。ここはいままでビニールカバーはかけなかったのだが、こんどはかかっている。こういう商品の装いと包装の仕方は国によって慣習が違う。日本にはこれを重視する商慣習がある。江戸時代以来の永い商業伝統からのことだろう。国によっては包装なし、本体むき出しで何とも思わない所もある。ビニールがかかっていると、新品の商品を試聴しにくい。一枚は試聴用でかまわないのだろうが、こういう気を使う副産物的わずらわしさも生まれる。
 VMMの社長、Nancyさんに安着のmailを送る。早速返信が来た。元気とのこと。社長だったご主人が亡くなり、代って、夫人のご本人が社長の座についた。よくがんばっている。がんばる、という言葉は好きでないので禁句にしているが、この場合はそういうほかない。私と同年生まれ。日本式に言えば昭和ヒトケタ世代。世代の連帯感がある。

 夜、CMDピアノ部会から電話、明日の音楽会、券を売りすぎたと。会場は立席を許さぬ方針だそうで困惑している。売れた数だけ全部の人が来るわけではなかろうが、来場した客に帰ってもらうわけにもいくまい。不手際というほかないが、なんでそんなに売れのだろう。作曲の会などではカンコ鳥が鳴きそうだし、先日の新人演奏会だって入りがいいとはいえなかった。作曲の会は演奏する曲がおもしろかったためしは無いのが普通だし、新人は、まだ券売相手を持っていないか。多分そんな所だろう。券を売らなければなりたたない日本の音楽家事情、こうなると、代議士みたいなもので、票田ならぬ券田としての支持者を周囲に維持していなければならない。これも浮き世の定め、こういう世の中、国にいる以上、そうするほかない。それにしても今度はその反対の誤算、いささか不安。

2007.5.9. 水曜 晴 町田

 昨日も今日も五月晴、今日はいささか暑い。ことしはじめて半袖。明後日、11日、松山元君に初演してもらうピアノ曲「Anna Flora」の校訂版、製本を新宿kinko'sに依頼、町田に来る前に出来上がりを受け取りに行く。定期券が使える部分とそうでない部分、以前は複雑だったが、passmoが出来てから何の面倒も無くなった。有難いが、交通費に無関心になる。便利ではあるが、無造作におカネを使うようになる。これも文明の必然か。

作曲と実務

 実務、計算、管理、行政、こういうことは芸術家には不得意だという通念、俗念がある。作曲に関する限り、これはまったくの間違いである。私の先輩たち、たとえば、間宮芳生さん、諸井誠さん、矢代秋雄さん、思い出すだけでこれだけの人たち、そのほかにもまだまだいる、この人たちは、こういう現実的な仕事でも抜群の能力の持ち主だった。政府事務官僚の高官でもつとまったことだろう。

 作曲とは、一部もすきのない理論的整合性を備えていなければならない仕事である。作曲家、伊福部昭氏はその名著「管弦楽法」の中で、大編成の管弦楽曲では、あいまいな計算による造り方は致命的な結果を招くと書いている。小人数の編成なら演奏者の個人的努力である程度誤算が補正されることもあるが、スコアで20段を越す大編成となるとそれはありえない。あたかも、各部の重量寸法を計算し尽くした上で組み立てられる複雑な建築のように綿密周到な工程を必要とする作業である。
 しかも、人の感情を扱う。政治家と同じである。すぐれた芸術家は、すぐれた政治家と同じ資質をもつといわれる。そして互いに、精神的、人間的にに理解しあえるといわれる。 また、ある面で、法律に似ているとも思う。かんじがらめの無数の制約をかい潜って自分の望むものを獲得する。弁護士の仕事である。また、語学の文法にも似ている。規則は厳密だが、例外もある。規則動詞と不規則動詞。規則では説明できない慣習的な構文。

 いずれにせよ、主観に溺れない厳しい計算により、自身の作業を管理統合統御していく。その修業をするのが作曲の勉強である。自分勝手な主観をすべて排除して、自分を超えた超越的秩序の制約の下におのれを置く。剣術でいうとろこの青眼の構えである。すべてはここから始まる。作曲家が実務に不適などというのは大うそである。

 数学者で作曲家だった人、ロシアのエディソン・デニソフ、日本の別宮貞雄、法学部出身者は、ロベルト・シューマン、ショーソン、ストラヴィンスキー、日本の戸田邦雄、ロシア五人組はすべて科学者か軍人だった。まだまだほかにこういう作曲家はいる。
 作曲家は一般職業では役立たずなどというのは、作曲家として役立たずの人の言い訳である。

2007.5.7. 月曜 晴 町田

   今日は快晴が回復。気温も上がり初夏の日が戻る。

 Violinの中野恵さんのhome-page、日記の頁を毎日読んでいる。

 先日、故伊福部昭先生のことが書いてあった。
 いまから半世紀以上前、伊福部先生の新作バレエ曲「プロメテの火」の初演でオーケストラ内のピアノをひいたのは私だった。あれは、1950年、昭和25年のこと。私は当時19歳。七月に二十歳になる歳の誕生日以前だったから19歳だった。私の「回想記」にこのことは書いたが、あとで思い出したこともある。

 忘れもしない、この年の二月19日、私は札幌から上京した。北区十条の親戚の家に下宿した。そして、私は旧制中学卒業だから、新制の大学に行くために一年足らないので、国立音大付属高校の三年目に編入学した。この時、学制改革のため、継ぎ足し入学する人が多く、同級生で芸大に行った人も多くいる。そして指揮者近衛秀麿先生の息子、秀健君と仲良くなり、彼の依頼でオーケストラ・ピアノをひくことになった。人材がいない時代である。誰もよかったのだ。
 「プロメテの火」の初演は帝劇、無論、改築する前の劇場。オーケストラは東響、当時は発足時の名称で「東宝交響楽団」、「宝響」(ほうきょう)と名乗っていた。指揮者は忘れたが、上田仁さんだったように思う。バレエは「江口・宮バレエ団」だった。
 初夏の頃だったように記憶する。気候がいい頃だった。六月頃だったように思う。練習が二回か三回か。同級の女子生徒が二人、慰問激励に来てくれた。ボックスの中にいる私にボックスの上から身を乗り出して声をかけてくれた。
 伊福部先生は一度だけ見えて、各種注文を控え目に幾つか告げられた。ピアノはもう少し聞こえるようにはっきりひいてほしいと言われた。音楽は覚えていないが、八分音符が連続していたことは覚えている。この譜面の視覚的風景だけは不思議と残像が残っている。
 伊福部バレエ曲は、ほかに「サロメ」をひいたように思う。思う、というのは、演奏旅行に随伴して各所巡演した時の曲目だったから。ピアノをひいかどう忘れた。ただ、ひかなくても、楽団には居たわけだから舞台は見ていた。ボックス内から見た印象が残っているから多分ひいたのだろう。バレエは貝谷八百子バレエ団。サロメ役は無論貝谷さんだった。この時のほかの曲目演目は、Debussy「小組曲」、Sibelius「悲しきワルツ」、J.Strauss「青きドナウ」だった。東北、北海道巡演で、宇都宮、秋田、弘前、青森、札幌、旭川、小樽、八戸、仙台、だったか。満員列車に詰め込まれて、ひどい旅興業だった。

 中野恵さんは六月に私の小曲を初演してくれる。六月23日、土曜、午後二時開演、「富士通アデカ・コンサート」。会場は日暮里synnyhall。曲は「そよ風」、短いさわやかな曲。

2007.5.6. 日曜 雨 町田

   ひさしぶりに雨の日。しばらく降らなかったから湿度を加えるために歓迎すべきだろう。

 昨日は、ピアニスト松山元君にお宅に行く。11日に演奏してもらう自作「Anna Flora」」の演奏を聞かせてもらうため。松山君は現代曲の専門家、安心してまかせた。大宮の先だが、コンピュータの「乗換案内」で電車の時間を調べて行ったので計画通りぴたりと着いた。便利なものだ。ただし、このやり方、電車が事故で10分くらい遅れたりすると総崩れになる。便利なものはすべて一転不便なものになる。昨日は、練習を終えてから、夫人も交えて歓談、とても楽しかったがいささかワインを飲み過ぎた。でも無事帰宅できてよかった。曲のtempo指示がまるで違っていることが分った。どうしてこうなるのだろう。今日はコンピュータの打込みなおし修正だ。 

人生夢談

 もし、も一度生まれたらどうしよう。何になろうか。これはどの人にも出来る問いかけだ。特に好きなものや特定の才能の自覚がない普通の人の場合はどうなのだろう。
 自分の場合は、多分、も一度音楽の道、それも作曲の道を選ぶだろう。しかし、何かの理由で二番目を選択しなければならなくなったらどうしようか。私はこの選択にはかねてから答えを持っている。
 まったくの夢。適性その他の条件が揃うわけがないから、実現しないことを承知の上の話。私は戦闘機のパイロットになりたい。それも最新式のジェット戦闘機。大空を切り裂いてマッハ2以上で飛びたい。これが私の夢。

 子供の時から乗物が好きだった。小学校に入ったばかりか、学歴以前だったか、父親にねだって、子供用自転車を買ってもらった。後輪の左右に転倒防止用に横車がついたもの。長ずるに従い、自転車か大きくなり、成人用の車輪になった。これで散々走りまわった。
大人になってからは車が好きだった。もっとも大人になると、だいぶ現実的になって、車は高価だし、スピードには興味がなかった。車で散歩したようなものだった。この感覚がピアノの勉強に通じていたのか。少年の頃、無我夢中、半狂乱的にピアノの勉強に打ち込んだ。ピアノの演奏もスポーツだったか。

 夢はあくまで夢だから現実的でなくてもいいい。戦闘機は国の威信をかけて採算を度外視して造ったものだ。だから乗りたい。宇宙飛行士は指示されるままに行動するから、危険ではあるが冒険性がない。どんなに器械が進んでも戦闘機乗りは一人の世界だ。別に撃墜王、坂井三郎さんの本を読んだからではない、もっと以前からのことである。ただし戦争はやりたくない。これもやはりスポーツ感覚なのか。採算度外視という所が芸術に通じるような気がする。自分自身の人間研究として興味がある。

2007.5.4. 金曜 晴 町田

   この数日、薫風かおる五月の日。すがすがしい。

 TVの美術番組で12CHの「美の巨人たち」がいいと書いた。もうひとつ、NHKの日曜美術館というのがある。こちらは一時間番組で時間に余裕があるが、しかし、いま放映中のシリーズはどうも感心しない。著名な人をつれてきて、人生で感銘を受けた美術についての話を聞かせる。先日は、ある政治学者が登場して、デュラーの絵について語った。しかし、観る方、視聴者は、どちらに関心を持てばいいのか分らい。絵の方か、語り手の人生談義の方か。
 もともと、芸術と鑑賞者との結びつきは鑑賞者の心の奥の出来事である。人が自分の心の奥で自分だけの作品との結びつきをするものだ。デュラーに感心した人が居ても、ほかの人はどう向き合うかは別である。それどころか、自分とデュラーとの間に余計な人が入ることで鑑賞は妨げられる。NHKはこういうことをどう考えているのだろう。

 この番組だけでない。美術番組全般に言えることだが、評論家や専門家が登場して語る場合、その人の顔を出さないでほしい。視聴者は絵がみたいのである。人の顔を見たいのではない。音楽の途中に人の声が入ってきたらどうなるか。そんな非常識なことは誰もしないではないか。専門家の話を入れるなら声だけにしてほしい。
 音楽は聴くもの、美術は見るもの。美術の中に作品と関係ない見るものが出てくることは、音楽の中で関係ない別な音が入るのと同じである。この組合わせを逆にして、美術の場合は映像を出さずに声だけ出す。音楽の場合は、声でなく文字だけ出す。音楽の方はすでにそうしている。音楽に重ねて声を出すことの非常識はよほど鈍い人でも分るからだ。

2007.5.3. 木曜 晴 町田

 昨日は古い門下の田中範康君と会食。近所なので駅前のイタリア料理店。しばらくぶりで愉快だった。

 余りにも当り前のことを人は忘れる。警察官は正義感を持つべきこと、料理人は美食者であること、運転者は車で好きでなければならない、等々。

 芸術には幾つもの分野がある。しかし、文学、音楽、美術、どの分野にしても、たずさわる人には当然もとめられる条件資質がある。憧れの心を持つ人であること、詩的な心の持主であること、早くいえば詩人の心を持っていること。
 これ等は余りにも当然のこと故、忘れられることがあるのではないか。まわりの人が忘れることは、自分のことではないからは仕方ないが、当人が初めから忘れて、というより、初めから考えたこともなく、美とか詩とかへの心、憧れが微塵もない人がこれらの仕事についていることがあるのではないか。そんな疑いが出てくることがある。余りにひどい作品に出会うと。

 原因は「真」と「美」との関わり方への誤認であろう。真であれば、それは醜であっても仕方がない、いやそれは真であるが故に独自の美を内包しているはずだ、未知の美であっても・・・。という信仰があるらしい。信仰か、盲信か、迷信か。
 分野によって違いもあろう。文学では、過酷なことでも真実を伝えることが使命の一部かもしれない。美術にもそれがあるかもしれない。人の心にはいろいろな部分があって、真実を知らせようとする正義感の部分もあろうし、非現実でも妙なる美しさを人に伝えたいというものもあろう。いまは亡き、さる作曲の大先輩が「心のままに書けばいい」と言ったそうで、私はずいぶんのんきな話だと思った。「心のまま」と言っても、人の心は単純ではない。貧乏な人は貧乏な暮らしをそのまま描けばいいのか。貧乏な人は貧乏でない豊かな暮らしを夢見ているかもしれない。それは「心のまま」の一部ではないのだろうか。「My fair Lady」の歌に、イライザが青果市場の労働者と歌う場面がある。自分の夢見る暮らしは・・・という歌。これは現実ではない夢を歌っている。「心のまま」という言葉は、現実のまま、ということ意味か、それとも夢も含むのか?
 文学、美術、音楽、の中で、音楽は夢を歌うものであると私は信じる。現実告発は文学絵画の領域ではないか。そこに違いがあると思う。

 村上華岳(かがく)という画家がいる。

 代表作は「裸婦」だが、この絵には、どことなく「モナ・リザ」の面影がある。華岳は、永遠の憧れである女性像を描いたと語った。華岳は人生の途中から世間を嫌うようになり、神戸の自宅に閉じ込もり画作に集中する。玄関には、期限つきの仕事はお断り、と書き、展覧会は嫌だとも意志表示をする。「制作は密室の祈り」と告白した。
 作曲もまた密室の祈りである。俗事から離れたくなる心境も同感する。およそ、芸術の原点には何物かへの憧れがある。それはやがて祈りになっていく。すべての芸術は分野を問わず詩から始まるし、芸術にたずさわる者は、まず何よりも詩人の心がなければならない。

2007.5.1. 火曜 晴 町田

 Der wunderschone Monat Mai!

  ようやく五月 !

   今日明日だけ平日、銀行、郵便局は込入っている。折しも今日は雨降り。
DVDのdisk、不調、読取り不可能になりました、とエラー信号が出る。盤面の汚れかと柔らかい布でていねいに拭いてみたがダメ。こうなると昔ながらのVHSの方が安全なような気がする。しかし、VHSの方も、古いのを再生していたら、画面が滑り流れだしてどうにもならぬ。器械の宿命か、いつかこわれるということか。アメリカ国務省のような所でも、disk記録はあくまで仮保存としか認めていないそうだ。

 芸大の学生だった頃、折しも、60年安保が近づきつつあった時代で、あの学校にも政治に関心を持つ者が少しずつ出てきた。
 マルクス主義の文献を研究しましょうというグループが出来て、購読会を開いた。毎回平均して7、8人くらい集まったか。スターリンの唯物論なんとか、という本を青木文庫で買って来て購読した。楽理科の角倉一郎だけがドイツ語の原書を開いていた。この本はドイツ語が原典ではなかろうが、そうしていた。

 この本の中で、「最大限利潤の追求」という言葉が出てきた。資本家というものは、どんな手段を使っても最大限の利潤を追求するものである、と書いてあった。つまり、手段犠牲をいとわず最大限のモウケを得ようとするものだ、ということだ。スターリンはこれを「法則」と規定していた。いま見ると、こんなことに「法則」などという自然現象みたいな名前をつけること自体、自然科学信仰全盛時代の産物でいかにも古くさくて馬鹿げている。
 なるほど、資本家は最大限のモウケを得ようとするだろう。それはウソではないだろう。しかし、それではどうか。政治家、権力者は、最大限の権力を得ようとするのではないのか。スターリン自身、自分の権力を拡大することに病的なまでに取り付かれ、その結果、どれだけの人を、苦しめ、投獄し、殺したか分らないではないか。これは「法則」ではないのか。

 「法則」というものがあるとすれば、それは人の欲望である。資本家ではそれが利潤の追求になり、政治家、権力者では権力の追求になる。追求は常に最大限を目指す。これも理の当然のことだ。どの地位、どの場所にいる人でも、人は相応に最大限の欲望達成を求めるものだ。あきらめて中断する人がいるだけである。あきらめる必要がない人は続ける。株式会社の定款には、最大限利益の追求が経営者には義務づけられている。ただ、資本家、いまでは経営者と呼ぶ方が適切なのだろうが、この人たちとて、法律に支配されている。裏でいろいろやるだろうが、第一義的には法に規制されていて、何でもやりたい放題というわけではない。これに対し、全体主義国の権力者は制限するものがない。この方がよほど現実性のある「法則」である。資本家の最大限利潤追求は法則である、などと告発めいた言い方ができる筋合いのものではない。北朝鮮の「将軍さま」を見るがよい。スターリン自身も分りやすい例だ。

 人の心を考察することがなく、ひたすら社会と政治ばかりを観察する。人の心は政治と社会の副産物としか見ない、人類史上、最も愚かで、野蛮で、非人間的で、有害な思想、それが唯物論だ。
 ロシアのエリチン元大統領が亡くなった。葬儀には共産党だけ参列しなかったそうだ。元大統領の政治的実績に否定的だからだそうだ。まだ、こんなことをしている。生死は人を超えたものはないか。すべてを政治と思想の下に置こうとする。この愚かさは、この思想に天性のもので死んでも治らないだろう。昭和天皇が危篤から亡くなるまでもそうだっ。ありとあらゆる罵詈讒謗を天皇に浴びせたのが日本共産党だった。唯物論は人間不在の思想である。

 「人の心は海よりも空よりも壮大だ」

 これはヴィクトール・ユゴーの言葉。エセ哲学の教理とくらべてみるとよい。

2007.4.30. 月曜祭日 晴 町田

 今日で四月も終り、ようやく初夏の陽気が戻ってきた。

 韓国のR君の著書を少し読み進んだが、前から読んでいた本、坂井三郎氏の「大空のサムライ」の方を急いで読了する。
 坂井氏は、太平洋戦争中、海軍のパイロットとして、零戦を駆って実に64機を撃墜した空の英雄。この本は、英語、フランス語、フィンランド語にも訳され、世界の多くの国で読まれた。西洋人には気心が知れない東洋のバイロットの人間的告白を知って、日本人の理解に多大な貢献をしたそうだ。
 
 この本には、余計な説明的なこと、寄り道的、文学的描写がまったくない。その時こうした、という事実だけが殺ぎ落とされたように書かれている。それがすさまじい迫力で戦争のリアリティを読む者に迫る。読んでいて怖くなるくらいだ。リアリズム文学とはこういうものではないだろうか。吉田満の「戦艦大和の最期」とも違う。悲壮感もない。なまの現実が眼前に突きつけられるだけだ。
 
 南太平洋で撃ち落した米機のパイロットは落下傘で降下したが、多分死んだだろうと坂井氏は思った。しかし、別の記録によるとこの米機のパイロットは生きていて、戦後来日、坂井氏と対面したそうだ。これはいい話だ。坂井氏はこの著書のために、アメリカでも英雄として歓迎され、25回も渡米した。2000年に米軍厚木基地の祝賀会に招待され、その帰路、体調が急変し、病院で亡くなった。この人は偉いところは、部下を一人も死なせなかったことといわれる。
   ガダルカナルに上陸作戦中の米軍の艦船が海を埋め尽くしているのを見て、「この戦争は負ける」と思ったそうだ。敵はグラマンではなく物量だと思った。これも現場に居た人の反射的といっていい実感だったろう。
 
2007.4.28. 土曜 晴 町田

 25日水曜は旧制中学のクラス会だった。

 常人幹事だったM君が亡くなったので、代行の自分が代行でなく本役になる。本役だった人が居なくなると言うに言われぬ負担感がのしかかる。ほとんど自分が代行役で実務を引き受けていたのだが、それでも心理的負担はいままでと違う。人の存在とは大きなものだ。
 今回は事前に予定のアンケートをとったので、出席がよかった。八人。毎回東京在住者以外は出席なしだが、新潟のY君だけはいつも愛想よく出てきてくれる。彼は大学医学部の医者だが、気遣いの繊細な人柄だ。二時間の新幹線で往復してくれる。

 この会は毎回夜の開催。今回は会場の都合で五時からだったが、それがなければ七時始まりだ。昼間の会合は願い下げたい。芸大の同期会の方はどういうわけか前回は昼間から。正午始まりなどとなると、午前中から出ることになる。日頃の生活になじまぬことをすると後遺症が残りあとあとまで困る。幹事の声楽S君に聞いたら、老齢だから夜は苦手の人が多いからという。自分は今回は幹事ではないが、軽井沢公演の応援の件があるからというのでS君から招かれて三月の幹事会に出た。Violinの女性Tさんが強硬に言い張って正午始まりはやめてもらった。それでも二時半か、これでは二次会に行くにも早すぎる。老齢といえば中学の方はさらに歳が上なのだがどういうことだろう。

 
その芸大同期の韓国のバス歌手R君から著書が送られてきた。豪快にして心のやさしい人だった。日本語で書かれている。卒業後、藤原オペラで活躍してから帰国、国立ソウル大学教授、いまは名誉教授、韓国芸術院賞、文化勲章を受け、あの国の音楽文化の重鎮になっている。文才ある人でもあり、詩も文も、やさしさと、なんともいえぬ心の悲しみのようなものが静かに伝わってくる。献辞に「大兄」と書いてあった。出来るだけ早く謝辞と感想を送りたい。この著書の中の日韓の歴史の部分は、悲痛で民族的悲憤慷慨に満ちている。親しい日本の友に読ませたい著書の中でも、これだけのことを語らねばいられぬ痛み、それは私たちのまだ認識の及びつくせぬ所というほかない。
  北朝鮮の拉致は天人ともに許せない行為だが、私たちの国がこれと同じ、というよりもっとひどいことをしていたことを知ることは鎮痛にして黙せざるをえないこと。

2007.4.27. 金曜 晴 町田

   昨日の午後、相模原警察署の刑事が来た。20日の拳銃事件の捜査が続いているので、その聞き込み。知る限りのことは話した。この辺はいかがわしい人たちが多い。二三年前のこと、こんど射殺事件のあったコンビニの駐車場で親分らしい人が子分らしい人を怒鳴りながら殴っていた。24時間ここにいるわけでないので知ることは限りがあるのは仕方がない。先日の容疑者は、死にはしないが、頭を撃っているので、回復したとしても、まともな会話が出来るかどうかということだそうだ。

 作曲とは?

 欝(うつ)病という病気がある。
 なんとも陰気な病気で、健康な者にとっはなかなか察しがつかないが、当事者にとっては苦しいもののようだ。

 聞くところによると、欝病の人は、昼間から暗い室内に一人で閉じ込もり、明るい光も避け、大きな音も嫌うそうだ。いい例えではないが、創作という行為も幾分これに似た性質を含むのかもしれない。根本的にこんな不健康なものではないが。この仕事にかかっている限り、地上の雑事からは放免される。雑事だけでなく、いまわしい事柄すべてから逃れていられる。もっとも、それでいて、私については、現実界の出来事には旺盛な関心がある。それは、均衡を得ようととする本能らである。政治、経済、国際関係、新技術、音楽以外の地上の事柄すべてについて、ただならぬ関心がある。

 私はもともと芸術理念としてのリアリズムに反対だった。反対というより嫌悪していた。いまも嫌悪している。何のために芸術の中で現実を蒸し返すのか。そんなに現実が好きなら芸術ではなく現実そのそものと関わればいいのに、そう思う。芸術界は地上の世界とは隔絶した別世界であらねばならない。夢の世界ということである。芸術は人に夢をあたえるもの、私はそう信じている。夢に現実は無用である。相容れない。レジスタンスの詩とか、社会の不正を暴いたり弾劾したりするものは大嫌いだ。
 もっとも現実音痴も困る。現実の世で、政治も経済も歴史的推移もまったく無関心、無知蒙昧、それで音楽だけやっいる、そんな人物とはおつきあいはしたくない。死ぬほど退屈だ。これもまた均衡を失なった状態だ。音楽馬鹿である。

 
ユーゴは「人の心は海よりも空よりも壮大だ」と言った。これは唯物論の否定である。死者への冥福を祈る心、天国で幸福でいてほしいと願う心、誰しもその心を持たない人はいない。人が人である限り。しかし、唯物論では天国も死後の幸福も認めない。こんなものが本当にリアリズムと言えるのか、現実とは何か深く考えれば、人の心の中の実在も現実の一部ではないのか。
 美しいものへの憧れ、すべての芸術の出発点と根底にあるものはそれである。最近そのことがが疑わしいものに出会う。何をよしとしてこういう音を置くのか分らない音楽。読んでから得もいえぬ不快感が湧いてくる小説。文学の原義を忘れたのではないか。

2007.4.26. 木曜 晴 町田

 「美の巨人たち」

 TV番組「美の巨人たち」はいい番組だ。毎週土曜日夜10時、12CHテレビ東京の放送。
 映像もいいが、背景の音楽がいい。藤島武志、横山操、シュザンヌ・バラドン、ユトリロ、などなど、みごとな映像といい音楽が流れる。映像と音楽に心を奪われる。作曲の世界のせまい汚濁した空気を吸っていると、音楽の見方が下らなくなる。こういう美術の世界に触れるのがいい。自分の仕事を見直すことができる。

 横山操の絶筆には言葉もなかった。この人は若い時は燃えるように激しい作風だった。51歳の時、脳卒中で右半身不随になる。以後、左手で絵を書く努力をした。以後の作品は激しさが消え、静かな黙想するような画風に変った。死の直前に描いた武蔵野の林の風景、その中の一本の立木を描いた六日後、53歳で画家は世を去った。夫人は語る、この絵の中の小道を通ってあの人は去って行ったと。ショパンの「夜想曲」のような絵だった。絃楽四重奏の背景音楽が心にしみる。

 ペルト・モリゾという19世紀フランスの女流画家の番組もよかった。自らが美貌の人で、マネのモデルにもなった人だが、当時、フランスでも女性の画家は認められず、美術学校にも美術家の団体にも入れなかったそうだ。日本でも、明治時代、女性画家の社会進出は認められず、美術学校と美術団体への、入学、加入が認められなかったそうだ。日本だけでなく本場でもそうだった。

 こういうものを見ると、そして聴くと、絵も、音楽も、魂の歌、心の歌、命の歌、との思いが胸にせまる。そして、くだらぬ作曲を聴かされることに腹が立つ。先日もひどいものを聞かされた。還暦に近いか、過ぎたかの、いいトシの人の作なのに、屁みたいな音楽。これが委嘱初演だそうだ。これを評判する同業者たちの声もどうかしている。アイデアがどうとか、技術がどうとか、そんなことは二十歳台か三十歳台初めくらいまでの人の話ではないか。プロなのだから、そんなものは持っているのが当り前である。そういう若い時代を過ぎて、自分の心の表現の道程が始まる。そのための年齢であり人生の道程である。自分を見出すことは難事業だ。四十歳台、五十歳台、を経て、少しずつ自分が音楽に型作られていく。役にも立たぬ音楽が世にある理由はそこにある。人の心にふれる場であるからだ。

 美術の世界では、作風についてとやかく言われることはない。写実だろうが、前衛だろうが、人それぞれ自分の道を行っている。「いまどきこんな」とは誰も言わない。評論家も言わないし、絵描きたちも言わない。こんな下らぬことにこだわっているのは作曲だけだ。このために、どれだけのすぐれた音楽が生まれる前に未然に殺されたことだろう。

 三岸節子の最後の作品、91歳の時の遺作となった「さくら」。堂々たる100号の大作、すでに歩けない節子は車椅子で書いた部分もある。幾重にも重なる桜の花が命の叫びを歌い上げる。この作品の三年後に節子は死んだ。私はこの絵に心を打たれて、自分のために遺作と信じられる作品を作ろうとした。節子の心の水準にどれだけ迫ることが出来たか、それは判らない。判らないが私の命のうたである。


2007.4.24. 火曜 曇 町田

町田の大捕物

 
私の仕事場は町田にある。20日は町田の捕物事件に巻き込まれた。

 午後二時頃、何も知らずに駅から歩いて行くと大変な人だかり。ヘリコプターが数機、低空で飛び交っている。群集をかきわけてコンテナーがゆっくり進んで行く。後ろに「日本テレビ」と大書してある。テレビ屋が出てきたのでは何か大事があったと思った。やがて非常線がはってあり警官に事情を聞いた。

 私の仕事場のマンションの隣にファミリー・マートがある。私はここで毎日のように買物をする。この店の駐車場で最初の射殺事件が起きた。警察官に、自分の部屋に行きたいと説明すると通してくれた。六階のベランダから展望する。辺り一帯は立ち入り禁止。容疑者はすでに別の場所に移動した。三時半頃、新聞記者が来る。この建物の中に極東組の事務所があると聞いたが心当たりないかと。この階には心当たりはないが、人の出入りが妙にはげしい階はある。事情は不明だがそのことだけ教えた。
 もともと、この辺は江戸時代から治安がわるかった。武蔵の国と相模の国の国境いで、国境を越えて犯罪者が逃亡してくる。アメリカとメキシコの国境みたいなもの。いまは東京都と神奈川県。境川からこちらは神奈川県になる。私のマンションの側は予備校や学習塾が並んでいるが、向かい側は、怪しげな建物が並び、夜となると路地にアジア系の女性たちが並ぶ。方向によっては近道になるが、なるべく夜は通らないようにしている。夜七時頃、帰る頃は規制は解除されていたが、隣のコンビニの敷地には入れないようになっていた。まだ現場検証が続いているようだった。籠城にならなくてよかった。

 出身母校である札幌一中同級のM君が亡くなった。横浜在住の人。令嬢からEML。私たちの級友で北海道外に在住している諸君で折々クラス会を開く。道外在住者クラス会である。M君はながらく幹事役をつとめていた。私は、彼が体調不良の時から代行役をつとめていた。これからは代行ではなく本役になる。M君は音楽が好きで、昨年の私の記念演奏会にも招待した。少しして令嬢から外出が難しい容体になったので行けないかもしれないと電話があった。聴いてもらいたかったが残念である。折しも25日はそのクラス会がある。訃報の報告会になる。
 私たちの母校、札幌第一中学校は当然旧制中学校である。戦後の学制改革で新制高校になり、北海道立、南(みなみ)高等学校となった。市内の高校は、東西南北に分けられた。だから、同窓会は、旧制一中卒業生と新制南高(みなみこう)卒業生の二種類からなる。その中でまた、東京同窓会というのがあって、これは札幌の本部と別の組織になっている。校章が雪の結晶を型どったものなので「六華同窓会」というが、東京の方は「東京六華同窓会」という名称。こちらの総会は六月にある。


2007.4.22. 日曜 晴 町田

 
今日は、区長と区議の選挙投票日。午前中に早々とすませる。区長はどうなるか、民主党支援の前助役を応援しているが、現職は強い。なんとも見当がつかない。

 昨日は、Music-Archの公演。ピアニストの渡辺文子さんが主催して、途上国の子供たちに楽器を送ろうという趣旨ですでに八年目になる。よく続いている。文子さんの努力、持続力に尊敬を持つ。昨日は、新進ピアニストの新納洋介君の出演でみごとな演奏を聴かせてくれた。最近の若い演奏家の水準の高さは目覚しい。二時半開演で四時から打上げのワイン・パーティ、それから二次会に流れ込み、いささかワインの飲みすぎとなった。しばらく自重する。文子さんが演奏したGriegの「トロルドハウゲンの結婚式」は、昔、学校出たての時、NHKで最初に手がけた編曲の仕事だった。当時は、東フィルがまるごと出演する贅沢な番組だった。現場の経験皆無の自分の仕事にorchestra内の級友たちが遠慮の無い苦言をあびるほどしてくれた。すべて本当のこと。あの頃の級友たちは友情に厚かった。

  新聞はすべてネットで読むが、産経新聞に中国のトウ・ショウヘイの語録が載っている。この人は、民主化と自由を西側の策略と断じていたそうだ。その手に乗ったのがソ連のゴルバチョフと判断している。

「社会主義以外にない」

 「彼は人民の名の下に、人道と民主の旗を振りかざし、人民の根本的利益を損ない、最後には人民の対立面に立った。彼は下野した後、自らの誤りを認めざるを得なかった。いや、それは『誤り』ではない。人民への『裏切り』だった」


  この人にとって、国は誰のものと考えているのだろう。自由と民主を陰謀と説く。こんな思想が人類史の中で成立すると本気が考えているのか。こういうものを敗北の思想と呼ぶ。イスラムのテロも同様。同じイスラム教徒を平気で殺す。彼等が西洋文化の先輩などと勝手に自称してもそんなものは通用しない。西洋キリスト教文化以外の価値観、などとはやしたてることはとんでもない誤りだ。敗北の文化である。

2007.4.20. 金曜 晴 町田

 数日、作曲から離れて休み、自分が求めているもの、これからの進路を熟考する。
 いまの自分は、抽象主義、理知主義に向かっている。

 若い時、構成主義、理知主義に徹していた。だから、デビュー作は「Passacaglia」だった。感情で音楽を作ることが嫌いだった。やがて、二十歳台末でそれが行きづまり、三十歳台に入る頃、感性的要求が押さえがたくなり、しばらく混迷期が続いた。やがて、落着いた果ては徹底的に心情的な作風だった。反対の極にたどりついたわけである。「十七絃の三つの叙景」の頃からしばらくの時期。それからまた40年、またまた知性主義の岸辺が見えてきた。大きく両側に進路を変えて流れつつ時が経過していった。もちろん、こんどの構成主義、知性主義は感性を忘れた一方的なものではない。

 つくづく人の心は得体の知れないものと思う。ビクトル・ユーゴーが書いたように、
 「人の心は海よりも空よりも壮大なり」。

 二十歳台の知性主義は、若さ、人生体験の浅さから感性が未熟だったのだ。Bartokのゴツゴツした音が好きだった。理念的、思想的にも憧れがあった。しかし、自分の感性が目覚めてくると、あの禁欲的な音はとても耐え難くなった。こんどは構成意識不在の軟体動物型音楽を作るようになった。
 知性と感性、その両方とも真実なのだろう。その二つが人生体験、創作体験の経過により、それぞれ、成熟、増量、成長、相対的に後退と進出をしつつ、両者の均衡を変化させながら、時の経過の中を進んできたのだろう。まことに創作は自分捜しの旅である。
 しかし、考えれば、一方からもう一方へ技術的な可能性を用意していたから変容推移できたので、それが出来なければ、一方で行き詰まった時、そこで万事窮すである。やはり若い時勉強しておいてよかった。自分の変容に耐えることが出来るための勉強だった。Beethoven、Brahmsなどの巨匠はすべてこうしたプロの腕を備えていた。だから、生涯、自らの要請に応じながら創作を続けることができた。

2007.4.19. 水曜 晴 町田

 町田の仕事場に四日ぶり。この数日、町田に来ないで、出来た曲の製本のため新宿まで往復した。しばらくは頭を休める。
 昨日は、川口のリリアホールへ。ロシアのオルガン奏者の演奏会。雨の中、電車四つ乗り継ぐ。新宿では埼京線すさまじい混雑。尻押しでも乗り切れぬ客があふれ、一電車待つ。こんな満員電車がいまだにあることを知らなかった。コンピュータの「乗換案内」は便利だが、こういう番狂わせがある。いつかも、事故のため予定より遅れて到着、乗り継ぎが予定通りできないことがあった。

 四月17日、とんでもない事件が起こる。はじめにアメリカで大学構内での銃乱射事件。そして、夜に入り、長崎市長狙撃事件。どちらも銃による。もっとも1960年の浅沼稲次郎当時の社会党委員長刺殺事件は刃物だったから、銃でなくてもテロは起こりうる。
 アメリカの事件は、早朝七時台に二人の射殺事件があり、二時間以上経過してから次の乱射事件になる。この間、なんの手も打たなかったことが非難されている。しかし、前例のない事件である。大学当局も想像できなかったのではなかろうか。電子メールで学生に警告したというが、手ぬるい感はある。しかし、一度に多数の相手に送信するにはメールしかないのではないか。一人ずつ電話していたらどれだけ時間がかかるか見当がつかぬ。大学の閉鎖にしても、東京ドーム20分の広さというから、大変な広さだ。学内には通り抜け用の一般道路もあるそうだ。昔の北海道大学がそうだった。中は市民公園のようになっていて子供たちは遊び場にしていたし、市民たちの通り抜け道もあった。それでも想像が働けば何らかの手は打てたかもしれないが、まさかこんなことになろうとは、誰も考え得なかったことではないか。そんな風に考えれば非難される大学当局も気の毒な気がする。
 これが、思想的動機によるものでなかったので、よかったのかどうか。いま問題のイスラムのテロだったりしたら、話はまた政治的になり、個人を置き去りにした濁流に飲み込まれてしまう。このことが未曾有の不幸な事件の中で、まだしもよかったことになるのかどうか、いまは見当もつかない。長崎の事件は、問題外の凶暴事件で反社会的暴力である。この犯人が、朝のアメリカの事件の報道に挑発されたのではないかとの想像もはたらく。だからどうというわけではないが、同じ日に、銃による暴力事件が同時に国を超えて発生したことに因果関係を推測したくなる。

 しかし、平時の殺人は犯罪になるが、戦場での殺人は犯罪にならない。そのこともあらためて考え直す。

 ようやく陽がさしてきた。月曜以来のこと。

2007.4.14. 土曜 晴 町田

 昨年八月から始めた曲がひとまず完結した。

 とはいっても、建築でいえば、これから、外側の足場はずし、内装、外装、細部の仕上げ、塗装、磨きあげ、等々の仕事がある。達成感より疲労感の方が強い。せっかく完成したのに、ここ数日楽譜を見たくないので放置した。今日から少しずつ仕上げの仕事にかかる。速度記号の整備。作りながらも書き込んだが、も一度調べて書き込みなおす。全体を通すとまた違ってくる。部分により書き直しもある。こういう時はコンピュータ印字は便利だ。好きなだけ修正が出来る。追加、削除、挿入も自由。
 放置している間はつまらぬものを作って捨て置いた心象だったが、仕上げの仕事にかかると巨大な怪物に逆襲される脅迫感が出てきた。

 前年の八月から九カ月かかった。記念演奏会のあとすぐからだった。いささか取りかかりが早すぎた感もある。いつものことながら、今度の曲も迷いの連続だった。一時、無調の世界に入ったが、それからは出たつもりだった。今度は不思議なことに四度の堆積にとりつかれた。四度を上またはし下に積み重ねていくと、これまた無調に至る。しかし、四度が本来内包している原初的調性感と、この、調性からの逸脱とをどう調合すればいいのか、自分はどちらの側に身を置いているのか、時にしばしば八方塞がりになる。一小節ごとに人知を超えた多元方程式に直面して途方に暮れるような過程だった。はじめに明確な目標があって強力に進める方がいいものが出来るとすれば、これは混迷と逡巡の結果で余りいいとはいえない。でも仕方がない。いまの自分にはこういう仕事しか出来ないのだから。
 この期間に起こった様々なこと、うれしいこと、悲しいこと、それらが心を横切る。源の義家、八幡太郎義家の和歌をそのまま曲の題にした。これは途中ですでに決めていたこと。和歌全体だから長い題になるが省略する気はない。

 何のために書くのか。詩人の壺井繁治はそう問われて、生きているから、と答えた。私はこういう答え方が嫌いだ。キザだから。もしそうなら普通の人は何故そうしないのか。この答えの裏には、自分は常人とは違うという奢り(おごり)があるではないか。鼻持ちならぬ。生きているから書く、それはいいが、見方を替えれば、アンデルセン童話の少女のように死ぬまで踊っていなければならないことになる。生きているから書く、ということは、そこになにがしかの喜びがあるからだろう。それも価値あるものを生み出しているということ、人々のために何か役に立つものを生み出しているということ、そこが大事だ。生きているから書くというような簡単なことではない。

 この曲は初演はしないで、自分の死後、そのこころざしある人に、その気があればひいてもらえばいいと思っている。誰もひかなればそれでもいい。

2007.4.13. 金曜 曇 町田

 思いもよらず風邪をひいた。のどをやられた。インフルエンザでないことを祈るのみ。 思えば、病気をせずに永い間過ごしてきた。ひたすら神に感謝。
 子供の頃は腺病質というのか、病気続きで学校を休んでばかりいた。それがいつの頃からか病気をしなくなった。朝寝坊で偏食、運動嫌いで手がつけられない我ままな子だった。こういうことは因果関係が真底わからない。偏食はいまでも治らない。栄養学的には目茶苦茶な食生活をしていると思う。しかし、人類は栄養学が成立する前はどうしていたのだろうか。偏食の人はその頃は一人もいなかったのだろうか。

 国会は、国民投票法案の委員会強行採決でもめている。このやり方がいいとは思わないが、反対する側の言い分も不可解である。そもそも、国民投票そのものをさせないことが狙いではないのか。投票そのものには賛成だが、やり方に異議あり、というのなら判る。しかし、改憲自体をいかなる型でも議論するな、というなら、明治憲法と同じになるではないか。「不磨の大典」である。「手を触れてはいけない大法」ということ。理性の沈黙と死の命令である。

 ピアノ科の同期生C子さんから電話。チェーホフの小説の映画「犬をつれた貴婦人」のVIDEO、自分はDVDに写したのでVIDEO Tapeの方を送った。彼女は学生時代からチェーホフが好きで、この小説にも通暁していた。世紀末のロシア、40歳台の妻子ある男と、若い人妻の悲恋、黒海の保養地でのこと、景色がいい。雲間から一条の陽光が湖面にさし、老いた羊飼いが天を仰いで祈りをささげる。C子さんはモネの絵「日傘をさした女」のイメージと似ているというが少し違うと思う。ロシアの方は少し暗い。この暗さがロシアの風土なのだろう。気質も文化芸術もこの暗さから生まれている。

2007.4.11. 水曜 曇 町田

 東京都知事選は石原現職候補の圧勝に終った。

 いまから30年以上前になるか、石原氏は、当時人気全盛だった現職の美濃部都知事に挑み、手ひどい惨敗をしたことがあった。こんどは所を替えて美濃部氏の立場に立った。

 次点、浅野史郎候補との票差は100万票を超える。現職は常に強いという公式以上の様々な要因があったろう。浅野氏は他人の批判を言い過ぎる。つまり石原批判を言い過ぎて、自分はどうするのか、の主張が少な過ぎる。これは、いつどこでも、言いうることで、他人、他者の批判悪口だけでは人望は得られない。仮に、その内容が真であっても。否定だけではだめである。自分を主張するなら、否定ではなく肯定の主張をしなければならない。街頭で、老婦人が浅野氏に、石原さんの悪口を余り言わないように、と忠言しているTVの場面があった。そのほか、出馬の段階で、出る出ないと決断が遅く、それが関心を高める効果をあげたかに見えたが、選挙戦が始まってみると、これは不決断と意欲の低さの印象をいつのまにか作ってしまった。
 石原という人に反感を持つ人は確かに多い。しかし、ここでも、嫌い、反感、否定、だけからは答えは出てこない。消極的動機で石原氏に投票した人の声を聞くと、ほかにいないから、というのが大部分である。好きでないけどほかにいない、という声もある。こういう人たちを消極的石原支持に走らせてしまったのは落選側としては、よくよく反省の要があろう。

 選挙後、評論家は、当選後の石原氏が、選挙期間中の反省謙虚をかなぐり捨てて、再び、タカに舞い戻ったと批判していた。しかし、これもどうかと思う。リーダーの持つべき資質は指導力である。指揮者の指揮棒はオーケストラよりほんの少し先をいっていなとだめだ。指揮者がオーケストラのテンポを気にしながら指揮すると、両者が互いに、「相手を尊重しあい」、「民主的で」、「理解ある」演奏の結果、テンポは次第に遅くなり、ついには音楽はだめになる。こういう評論家はそれか分っていない。だから、石原氏が勝ったのだ。

2007.4.7. 土曜 晴 町田

ショスタコーヴィッチの手紙

 ショスタコーヴィッチの手紙というものがある。

   ショスタコーヴィッチが、無名の青年に送った手紙である。この青年は作曲家志望で、当時トムスク市の物理大学の学生だった。この青年が、面識のない巨匠に、作曲家になりたいがどうしたらよいか、出来れば、モスクワ音楽院に入りたい、という手紙をいきなり送った。この、無名の、未知の青年から前触れもなく寄せられた手紙に対して、ショスタコーヴィッチは実に親切で懇切をきわめる返事を送った。文通は数度にわたっている。

 この手紙が、かつて、ドイツの音楽雑誌に掲載された。もちろんドイツ語に訳されて。私は、当時、この雑誌を購読していたのでこれを読んだ。数度の書簡が掲載されているのでかなり長い記事だった。その内容が実にいいので、これを邦訳して月刊「音楽の世界」に掲載しようと思った。当時私は「音楽の世界」の編集長だったから。邦訳は全部やりとげた。
 そこで、さて、と考えた。著作権の問題である。まず、掲載したドイツの雑誌社の著作権がある。何より先に許諾を得なくてはならない。それから、原文はロシア語だから、これをドイツ語に訳した人の権利がある。さらにさかのぼればショスタコーヴィッチ自身の著作権と許諾の問題がある。また、この書簡集をドイツの雑誌社に渡したのは、手紙を受け取った人本人だろうから、この人の許諾と権利もある。次々考えれば絶望的なほど煩瑣な作業が横たわっていることが分ってきた。著作権使用料を払うとすれば資金も要る。余裕のない団体機関誌には到底無理な話である。相手が外国の出版社だから、国際的な交渉という煩瑣な手順も要る。とても無理な話なので掲載はやめた。それから20年くらいたったろうか。しかし、いかにも貴重な、いい文である。ぜひ多くの人に読んでほしい願望が私の中で強い。どこかの出版社で手順を経て掲載してくれるところはないものか。心底から望んでいる。

 内容の一部にふれると、

 当時、物理大学に在学中の青年に対して、ショスタコーヴィッチは、まず、いま在学している大学を卒業しなさい、と言っている。音楽院へ行くのはそれから後でいい、と。ショスタコーヴィッチはレニングラード音楽院の教授だった。そして、日本ではことに関心持たれることだが、入学試験というものは人間がすることだから、間違い、番狂わせというものがある、いまは立派に大成している人が入試に落ちたことがある、と過去の実例をあげて懇々とさとしている。ある人の場合は、入試の結果と合格の可否について、同僚の教授と自分は大議論をしたものだ、とも語っている。だから、あなたは立派な才能を持っていると私は思うが、万一、入試に失敗したら、あなたは浪人になってしまうではないか、そうならないために、何はともあれいまの大学を卒業しなさい、と説いている。

 この青年の名前は、エディソン・デニソフ、1930年生まれ。数学が専攻だった。彼は、やはりモスクワ音楽院の入試に失敗したようだ。だが、やがて大成してロシアを代表する作曲家となった。数学を活かした作曲をしてロシアのピエール・ブーレーズと呼ばれたそうだ。数年前に亡くなった。NHK・FMでこの人の作品集を放送したことがあった。
 この書簡集の邦訳はすぐにmailで電送できるようになっている。個人的に送るのはどうなんだろう。著作権にかかわるのだろうか。誰か教えてほしい。このhome-pageに掲載することも今はためらっている。

2007.4.6. 金曜 晴 町田

 今日もどうやら好天に近い。相変わらず寒い。

 ワイルドの語録を再び読む。魅力的な言葉。こういうものもその人の思想の魅力が顕現するのだろう。やりすぎを礼讃することは毛沢東と同じ。教育者としては口外できないことだし、考えることもできない言葉だろう。

 OSCAR WILDE箴言集

★ 中庸とは致命的なものである。やりすぎてこそ成功する。

★ 危険ならざる思想などおよそ思想と呼ぶにあたいしない。

★ ひとが真に偏らない意見の出せるのは関心のない事柄だけである。

★ あらゆる「芸術」の流派を平等かつ不偏に賛美できるのは競買人だけである。

★ 作品はそれが客観的に見えるほど、実はますます主観的なのである。

★ あらゆる芸術作品は絶対的に主観的である。コローの眺めた風景そのものが、本人みずからい     ったとおり、彼自身の精神の一状態にほかならない。

★ 労働の分業はあってもよいが、精神の分業などあってはならない。

★ 科学は道徳の埓外にある。その目は真理に注がれているから。芸術もまた道徳の埓外にある。     その目は美しい不滅の絶えず変化しつつあるものに注がれているから。

★ モダンすぎるくらい危険なことはない。いきなり旧式になりやすいから。

★ この世には二つの悲劇があるだけだ。ひとつは欲するものが得られないこと、もうひとつはそれ      を得ることだ。後者の方がずっと悪い。真の悲劇だ。

★ よい民主主義のもとでは各人は貴族主義者たるべきである。

★ 宗教はそれが真実とわかったとき死ぬ。科学とは死んだ宗教の記録である。

★ 戦争が悪とみなされるかぎり、それは常にその魅力を失わないであろう。それが俗悪とみられる      とき、流行しなくなるであろう。

★ 金持ち以上に金のことを考えている階級が社会にひとつだけある。それは金のない連中である。     貧乏人は金よりほか考えることができない。それが貧乏人であることの惨めさなのだ。

★ もし貧しい者だけが綺麗な横顔をしていたら貧乏問題を解決するのに何の困難もないであろう。

★ 口説かれてちょっぴり嬉しがらないような女がいたらお目にかかりたい。それだからこそ女はどう      しようもなく可愛いいのだ。

2007.4.5. 木曜 晴 町田

 ようやく陽光さす。この数日ひどく寒い日が続いた。四月一日だけが好天で暖かく、その後は冬日の再来。昨日は雨から雪と雷まで登場。寒い方が桜は散りにくいのだそうだが。昨日は、同期で親友だったピアノ科のC子さんから電話をもらった。級友たちの近況の話。

ソロモンの地震

 南太平洋のソロモン群島で大地震のニュースが入った。マグニチュード8というから途方もないものだ。能登に地震があった直後だが、ソロモンの方はもっと大きい。容易な被害ではなかろう。こういう被害は、地震直後には分らず、時間の経過とともに情報が集まってくる。従って時間とともに被害が拡大する。

 このソロモン群島は、ニューギニアより更に南、ミュージカル「南太平洋」の舞台となった島より更に南。
 この群島は太平洋戦争の激戦地だった。私の年代のものはすぐにそのことが頭に浮かぶ。首都のホニアラはガダルカナル島にある。ガダルカナル島は日本では「餓島」とも書かれ、前線の兵士だけでなく、日本国民全体に忌まわしい記憶を思い出させる悲劇の島となった。首都ホラニアは、いまは人口三万というから、小なりといえば都会なのだろう。地震の情報はこのガダルカナル島の首都ホニアラから発信された。

 1941年、日本軍はオーストラリア進出のため、この群島のガダルカナル島に上陸、滑走路を建設した。アメリカ、オーストラリア連合軍は、それを阻止するため逆上陸。ここに惨劇が始まる。日本ははじめ相手を軽視して小部隊を増援するが、あっというまに全滅、さらなる増援部隊もまた全滅、容易でない事態が分ってきた頃は制空権も制海権も奪われ、食料の補給もままならず、日本軍約二万が死亡。それも戦死ではなく、餓死、病死という地獄図絵となった。とどのつまりは、連合軍の目をかすめるようにして残存部隊を島から救出した。太平洋戦争における陸戦の敗北の端緒である。ヨーロッパ戦線のスターリングラード戦に比せられる。当時、当局は、「退却」といわず「転進」といった。誰の目にも真相は明らかで、当時でも「転進」という言葉が冗談で使われた。流行語のように。この頃から、日本と、アメリカ主体の連合軍との戦力が逆転し始めたのである。
 かつて、中曽根首相がオーストラリア訪問の途中、この群島の上空にさしかかった時、飛行機を旋回させて、この戦場で散華した諸国の兵士の霊に祈りをささげた。戦後62年、その島からの地震報道を、私たちの世代は忘れ得ぬ過去と重ね会わせながら聞く。
 今朝のラジオで聞いたが、昔の日本軍の船や飛行機が海底に沈んでいるのでダイビングして追悼する、追悼ダイビングというのを日本人相手に観光事業化しているそうだ。その観光事業もこんどの地震で打撃を受けたそうだ。

 ガダルカナルという、奇妙で無気味な島名について最近知識を得ることができた。この名はアラビア語で、「Guad al canal」、「運河の川」という意味だそうだ。なるほど「canal」は英語でも運河。スペインはかつて長期にわたりアラビア人に支配されていたから、アラビア語の地名があるのだろう。1567年、西洋人として最初にこの島に来たスペイン人探検家オルテガが、郷里のセビリアにガダルカナルという地名があるのでそれにちなんだという話。

別記:

 手紙の封の糊付けを余りに隙なく貼られると受取人が開く時に困る。ペーパーナイフの先端を入れる隙間もないのがある。なるほど「完全とは不完全なり」という真理はこういうことかと感銘を受ける。手紙の封貼りに限らない話だこれは。

2007.4.3. 火曜 小雨のち曇 町田

似ている

 一昨日、陽春の一日、谷中の町の見物と散策はあとあとまで思い出に残る。

 「夕焼けだんだん」、谷中銀座の狭い路地と混雑、あの風情と人の気配、何時かどこかで出会ったような気がする。ようやく気がついた。
 ヨーロッパの古い街角に似ている。大きな街、ウィーンとかミュンヘン、パリのような大都会でも、ひとたび下町の一遇に入るとつつましやかで人の情けがしみついた路地に出会う。そんな場所と似ている。小さな町ならなおさら。最も日本的で歴史伝統ゆかりが深い下町が外国に似ているというのはおもしろい。ユトリロ描くところのパリの下町、石段があり、ネコが昼寝している、どこか寂しげな風景。

 まさかとは思うが、再開発なんてことにならないよう、心から念じる。人は経済効率のために別な価値を踏みにじる。その結果心の貧困と心の荒びが増していく。それに気がつかないか、気がついても金儲けの誘惑の方が強いか。
 「夕焼けだんだん」の上から見はるかすと、はるか彼方に高層ビル、マンションらしきものが立ち並ぶ。不忍通りらしい。昔は富士山が見えたそうだが、いまはどうだろう。夕焼けだけは見えるかもしれないが。学生時代、不忍池のほとりの上野桜木町は、いまに残る明治といわれた。明治文学当時のたたずまいが残っていた。しかし、二十年程前に再訪したら家屋は新装改築され、もう面影はなかった。
 近代文明の先進国には古いものが残り、後発の日本ではそういうものをどんどん壊していく。だから後進国なのか。追いつくことに精一杯で残す余裕がないか。なかったのか。

2007.4.2. 月曜 曇 町田

谷中銀座の新年度

 昨日は四月一日。新年度の始まり。April Foolの日。今年は記念すべき体験の一日で幕開けとなった。

 谷中、日暮里駅近くのお寺でワインのセミナーがある。Violinの中野恵さんが会場で演奏するというので招待された。午後四時からだが、少し早めに行って近所を散策。東京にこんな所があったかと驚異連続の見聞。大きな石段があり、それを下りて谷中銀座が始まる。石段は「夕焼けだんだん」という優雅な名前が付いている。すでにこれも名所。地元在住の作家で地域誌の編集者でもある森まゆみ さんの銘々だそう。なんと詩的でいい名前だろう。段々の周りにはどういうわけかネコが数多在住、平気で人混みの中を歩いたり、長くなって昼寝したり、人々に鑑賞させたり、平和である。

 谷中銀座は狭い路地の両側にお店がぎっしり。行き交う人もぎっしり。店の前に椅子をならべて昼からビールを飲んでいる人たちもあり。折から桜満開。晴天にして気候温暖、混雑の極みでありながら人心豊かなる風景。春日遅々として人ゆるやかに歩む。

 四時少し前に会場のお寺に行く。これも銘寺らしく、日曜のこともあり、域内は人が多く散策中。奥の寺舎の入口に、会場は二階と書いてある。ワインの会だが、大座敷に座る方式。当然ピアノはない。中野さんはすでに来て準備している。ピアノがないから無伴奏曲をひくものと思っていたが、なんとカラオケ方式、録音された伴奏に合わせてひく。フランス・ワインの会なので主催者から注文あり、フランス曲を三つ。畳の上に譜面台を立てて、カラオケ伴奏で、サン・サーンス、フォーレ、ドビッシー、これまた優雅。主催者の青年の説明付きで、少しずつワインがグラスにつがれるが、一度ずつは少量でも何度も何度も違う品目がつがれるので、とどのつまりはかなりの量を飲む結果となる。作曲勉強中の橘川君もきた。
 終るとすでに六時過ぎ。中野さんの案内で橘川君とも三人で、谷中の墓地の夜桜見物。お花見の人でおおにぎわい。地面にシートを広げて大宴会。それから、近くの店で歓談して帰る。

 以前、ドイツの音楽家たちが来日した時、ホテルから私の車で自宅へ案内したことがあった。車が自宅近くの私鉄駅の商店街にさしかかった時、彼等は「カメラ!カメラ!」と総立ちになった。狭い商店街に人と店がひしめている風景は彼等にはきわめつきの異国の風景に見えたようだ。しかし、昨日の谷中は、東京の住人にとっても「カメラ!カメラ!」と言いたくなる衝撃的風景だった。東京はひろい。半世紀住んでいてもまだ知らない所があるものだ。

2007.3.31. 土曜 曇 町田

 音楽之友社から「現代日本マリンバ曲集」2の増刷寄贈が来た。「パウル・クレーによせる五つの小品」が収録されている楽譜。これで12版目。三善晃君の曲と組み合わされているので、互いに得をしているのだろう。増刷のたびに寄贈されるので同じものが随分増えてしまった。

コナン・ドイル

 図書館から借りる本は、電車の中で読むので、文庫版か小型本に限ることにしている。文庫本でコナン・ドイル短編集を借りた。「ロスト・ワールド」、「シャーロック・ホームズ」シリーズなどなど大衆文学の巨匠。
 意外なことに期待したほどおもしろくない。どういうわけか。テンポが遅い。話の進行がのろい。怪奇談のネタが予想外とはいいかねる。無人の漂流船「マリー・セレスト号事件」など、幾らも想像を刺激する事件だが、黒人運動の不法侵入者による全員拉致など誰でも考える範囲内だ。

 それはともかく、話の進行速度が遅いとはどういうことだろう。これは音楽の方にも通じる話だ。概念でなく感覚だけで作る音楽の場合、時代の経過にともなう速度感の増大は大きな影響をおよぼす要因になる。社会には高速化という現象があるそうだ。放送アナウンサーが、一定の時間内に読む字数が時代とともに多くなっているとのこと。音楽ではどうだろう。戦後の一時期のことだが、アメリカの放送でオーケストラがばかに速く演奏している時代があった。もはや乱暴に近いもので、トスカニーニの即物主義の悪影響だったかもしれない。ところが、あの時代、ソ連の演奏も同様だった。体制の違う両国が同じ風潮に染まっていたわけで、いまも不可解である。しかし、この乱暴高速型演奏はいつのまにか姿を消した。何か時代と関係があったのだろうか。速くひいて、刺激の度合いを高めても、それはある所までいくと飽きがくる。個性もなく皆同じになる。遅目に演奏して細かい所を聞かせる方が新して風潮になった。演奏の場合の高速化現象は、音楽の場合、永続的なものではなかったようだ。ソロでも無闇に速くひく演奏はむしろ野暮ったいと思われるようになった。
 曲の作り方の方はどうだろう。一定時間内の音の数が時代とともに増えるか。これは、流通主導のポピュラー音楽の方が観察対象として適しているだろう。多分、音は増えていると思う。音色が刺激的になっいることもあるが、音の絶対数は多分増えているだろう。こうして考えると、いまに残る古典の名作の寿命は驚異的である。ベートーヴェンもショパンも、そのほかの曲も。こういう作品は、刺激とは違う何か別の特性が永遠の魅力の原因として潜んでいるのだろう。作品の魅力は、刺激と、そうでないものとから構成されているに違いない。刺激の方は時代に追いつかれるが、もう一つのものはそうではない。古いアクション映画、スペクタクル映画も、刺激の部分はいま見るとたいしたことない。それでも鑑賞に耐えるものは、そうでない何かがある。

2007.3.28. 水曜 晴 町田

 植木等さんが亡くなった。享年八十歳。

 この人には、親称、敬称のさん、をつけたくなる。この人を初めて知ったのは「クレージー」初期のTV番組「七時半だよクレージー」だった。「身の下相談」と称してナンセンスな応対をする相談相手役だった。1960年代の初期の頃。思えば、「安保騒動」が終り、池田内閣の「所得倍増」政策がスタートした頃である。政治の季節から経済と生活の季節へと日本全体が転換を始めた時期だった。

 その後「日本一の無責任男」シリーズは、公開に時にわざわざ劇場まで見に行った。「ドント節」だったか、「サラリーマンは気楽な稼業ときたもんだ」のリフレインはおおいに受けて、私たちは、当時、批評家を逆批判する集まりで、不勉強なくせに他人を批評する批評家の態度を、「批評家とは気楽な稼業ときたもんだ」、と茶化したことがあった。

 戦前のエノケン、ロッパとは違う、底抜けの明るさとエネルギーに戦後派の新しい喜劇人像があった。そして幾らふざけても不思議とわるふざけの感がない。この人の人柄が出るのだろう。どこかに誠実さが伝わる。人は不思議なもの。会ったこともない人の人柄が伝わる。晩年は品格ある老人役として出演していた。老練な刑事役もつとめた。この人は実人生ではおそろしく真面目な人だったそうだ。酒も煙草も飲まず、冗談も余り言わない、そんな人柄だったそうだ。虚像と実像の乖離を本人は生涯気にしていたとのこと。
 私は人が亡くなった時、惜しい、とか、冥福を祈る、とかの定番の言葉は使いたくない。いい人生だったと祝福してあげたい。植木さんにもこの思いを捧げたい。

 別件だが、シャンソン歌手のジュリエット・グレコが来日する。この人も1927年生まれ。植木さんと同年である。戦後18歳でデビューした。「詩人の魂」は確かこの人の歌でひろまった。渡辺はま子、という歌手について調べる機会があった。戦前からの人で、当時の歌謡曲が不謹慎だというので当局からの警告を受けたり、それでいて国民歌謡で大ヒットを飛ばしたり波乱万丈の生涯だった。「白蘭の歌」の主題歌「いとしあの星」、"馬車はゆくゆく夕風に、青い柳にささやいて"、は小学生の頃盛んに歌った。昭和15年頃のこと。少年の日の思い出の歌である。

2007.3.26. 月曜 快晴 町田

福沢一郎とシュール・レアリズム

 TV東京、12CHの「美の巨匠たち」はいい番組だ。美術について貴重な知識を映像を見ながら得ることができる。

 福沢一郎という画家のことを知った。

 群馬県富岡市の出身、1898年生まれ、1992年に亡くなった。この人は日本にはじめてシュール・レアリスムを導入した。パリに留学した時、あちらでは第一次大戦後の混乱と不安の中、キリコやダリの前衛絵画が台頭していた。これに刺激されて福沢は、帰国後、シュールの絵を日本ではじめて画き始める。やがて、日本はファシズムと戦争の時代に入り、この人は、特高警察に逮捕された。治安維持法違反の容疑である。シュールの絵は共産主義の思想を背後に持つものだろうと言われたそうだ。彼はそれを肯定せず、半年間投獄された。やがて敗戦。
 彼は自由になったが、自由になった彼は、「日本のシュール・レアリスムなんて子供のおもちゃみたいなものだ」と言ったそうだ。

 これが何を意味し、何故そう考えるようになったか。いま現在、この国で音楽活動する私たちにも無縁ではないどころか、身に沁みる言葉に聞こえる。
 第一義的には、古典と伝統がない所に前衛だけが出現するはずかなない。にもかかわらず、先端的な美学思想だけを持ち込むことの愚かさと幼稚さと滑稽さ。次に、警察の弾圧を受けて、現実の激しさと力を、望ましくない型で身にしみて思い知らされた経験があるのではないか。私にはそう思われる。

 1950年代に先端的作曲技法を持ち込み、喧伝した作曲界の動きを思い出す。それが全部無意味ではなかったろうが。日本ではじめて12音技法の曲を作った入野義郎さんが福沢一郎と酷似した存在に見える。古典があって、それに対決すべく前衛が生まれる。これが道理である。古典がないのに前衛だけ出てくるというのは、主食抜きで消化剤だけ飲むようなものである。しかし、なぜ、そんなことをするのか。海外文化への飢えと不安からである。自分は周りに遅れているのではないか、という不安に常時さいなまれる。そして、アンテナを張り巡らせて海外の新しいもの、一番新しいものを受信導入しようと全身で身構える。
 明治以来日本はそうして暮らしてきた。森鴎外」の「雁」の中で話題として出てくる柴田先生というのは柴田南雄さんの祖父だそうだ。柴田家は、海外の新しいものを日本に持ち込むことを家業としている家柄だそうだ。日本という国の地理的条件、歴史的位置、時代の経過、そんなものがこういう風潮を生むのだろうし、また、そういう尽力が必要な時代もあった。特に、太平洋戦争、第二次世界大戦間は海外の情報は途絶した。その間に世界ではどんなことが起こっていたのか、心配でならない。世界には似た条件のもとに置かれ、似た心理に置かれた国はほかにもあっただろうが、日本ほどその執心が高かった国は無かろう。それはこの国の持つ特殊な事情から来る運命だから仕方がないが、時移れば事情も変る。いまのように、情報過剰で、国際的にも通信交通が迅速かつ過剰な時代にあっては、周辺の事情を知ろうとするより自分の考えを深めることの方が大事ではないか。

 「子供のおもちゃみたいなもの」、それは、戦後の反体制運動と称するものも同じではなかろうか。一大運動のように喧伝された「60年安保反対」とてもしかり。ポーランドに行った時、第二次大戦中、ワルシャワ郊外の雑木林にドイツ軍に対するパルチザンがひそんだ、ということを現地の人に聞いた。武器を持って外国軍隊を襲撃する。そんなことが日本でいまだかつて一度でもあったか。「安保騒動」など、旗をかついで、歌を歌いながら国会の周りをねり歩くだけである。警官隊との衝突すら法律に守られながらのこと。「子供のおもちゃ」とはまさにこういうことをいうのではないか。戦争ごっこ、革命ごっこ、反体制ごっこ。だからこそ、安保が成立してしまうと、跡形もなく雲散してしまった。軍国主義が一夜にして自由と民主主義に入れ代わったのと同じである。

2007.3.23. 土曜 曇 町田

平田晋策
  「われらもし戦わば」


 平田晋策という小説家で軍事評論家がいた。昭和10年代のこと。私が小学生の頃。この人は少年向きの軍事評論と冒険小説を書いていた。軍事評論を少年向きに書くということは、かえって難しいのだはないかと思う。軍事冒険小説では、「戦艦高千穂」、「昭和遊撃隊」など。いずれも実在の出来事をたくみにとり入れたもので、当時の少年はこの人の、小説、評論を胸ときめかして読んだものだ。
 たとえば、本当にあった事だが、日本がフランスの造船所に製造を依頼した「畝傍」という巡洋艦があった。この「畝傍」が、明治19年、フランスから日本に回航されてくる途中、シンガポール出港後行方不明になった。痕跡が何一つ出てこない。現在にいたるも不明の怪事件である。小説では、未知の孤島で「畝傍」が発見されるとう結末になっていた。
 平田晋作は1904年生まれ、1936年、当時としては珍しい自動車事故で亡くなったと母から聞いた。姫路で、搭乗したタクシーがトラックと衝突した。31歳だった。1936年は昭和11年、私が小学校に入る前年である。

 この時代、少年向きの読物は雑誌「少年倶楽部」がその舞台だった。平田晋策の小説もこの雑誌に連載された。私の家には、兄たちが買ったこの人の単行本が何冊もあった。私もこれを読んだ。評論では、「われらもし戦わば」という本があった。ほかに「われらの陸海軍」というのもあったが、私は「われらもし戦わば」の方を熱心に読んだ。かなり分厚いハードカバー装丁の本であった。全体は二つに分れ、前半は太平洋戦線、対アメリカ戦を論じたもの。後半が、大陸戦線で対ソ連戦を論じたものだった。もし、これらの戦線で日本が戦うことになったら、という仮定で論じていた。私は、豊富な写真入りのこの本を夢中になって読んだ。大陸戦線の部分より、太平洋戦線の方が面白く魅力があった。

 感心するのは、のちに、太平洋戦争を現実に経験して、この人の論述に的を射た所があったことである。たとえば、アメリカ兵について。「負け出すととても弱いが、勝ち出すと急に強くなるのが彼等だ」、と書いてあった。本当にそうだった。真珠湾以来負け続けの時のアメリカ兵は実に弱かった。それがミドウエイで勝ってから急に強くなった。ガダルカナルでは、日本の戦艦二隻が夜陰に乗じて接近し、アメリカ軍の飛行場に砲弾の雨を降らせた。滑走路は火の海になり、当分は使用不能になったと思いきや、翌日の午前にはすでに修復が終り、飛行機の発着が始まった。日本軍の方が驚いた。負けていた時の弱さと、勝ち始めてからの強さが同じ軍隊と思えない。平田はこういうアメリカ人の国民性をどうして知っていたのだろう。
 次のような一節もあった。日本の軍艦は黒塗り、あたかも黒糸おどしの武士のようだ。それに対し、アメリカの軍艦は、白く、やさしく、きれいで、女のようだ。
 平田晋策が港で、友人のアメリカの海軍軍人に、「君の国の軍艦は白くて実にきれいだね。まるで女のようだね」、と言うと、相手は振り向いて、「女は男よりこわいぜ」と片目をつむった。これは文学的表現であったもしれない。男と女のたとえは十代の少年には分らなかった。

 ただ、平田晋策も、飛行機の時代の到来は予言できなかったようだ。海戦では、あくまで軍艦と軍艦の対戦を想定していた。日本海海戦が原形のようだった。山本五十六提督が、すでに飛行機時代を予想していたのはやはり非凡なことと思う。すぐれた軍事評論家でも思い及ばなかったことなのだから。
 それと、複雑な思いを持つことだが、次のような記述があった。「欧米人は戦争をいまわしいものと思っている。しかし、私たち日本人はそうではない。私たちは、戦争は悪をこらしめる神聖なものと思っている」、と。時代の制約であろう。戦後、日本人も欧米人と同じように、戦争をいまわしいもの、と思うようになった。思わせられるようになった。当時の日本人の戦争神聖化は勃興期にあった国民の高揚した意識の結果だろう。
 この人は、日米戦は日本の敗北に終ることを予測し、そのことを訴え続けていたそうだ。時の政治状況のもとで、稀有のことである。

2007.3.23. 金曜 曇ときどき晴 町田

こんな歌があった

 「アルヌー夫人」のことを書いていたら、いつのまにか、60年安保のことに関心が移ってきた。

 次のような歌詞の歌がある。

    立ち上がる時だ 立ち上がる時はいま
      こどもたちの 未来のために
       憎しみの火が 燃え上がらない内に
        一足早く 絶やしてしまうのだ
     立て 立て 立ち上がれ 立ち上がれ

 いま、この歌を知っている人はどれだけいるだろうか。

 これは、1960年「安保騒動」、「60年安保」、「日米安全保障条約締結反対運動」の時にデモ隊に広く歌われた歌である。作曲は林光。作詞は忘れた。国会周辺に最大時30万のデモ隊が集まった。この時、デモ隊が歌ったのがこの歌である。歌いやすく、音域もせまく、よく出来ていた。一世を風靡した、という言い方の通りである。こういう歌で運動に貢献した作曲家が林一人とは遺憾であると言った人もいた。

 あれから47年たった。これだけの運動にかかわらず、安保条約は国会で可決され成立してしまった。47年とは永い時間である。アメリカで国事にかかわる重要書類が解禁される期間は30年である。世代が交代するからだそうだ。47年といえば、それを上回ること17年。秘密が解禁される時期をはるかに超えた時間が経過した。あの運動はなんであったか。いまこそ検討すべき時ではないか。

 条約が成立したということを、この歌の歌詞と照らし合わせてみよう。

 憎しみの火が燃え上がらない内に、一足早く 絶やしてしまうのだ

 この歌詞が意味するところは、戦争が起こる前にその原因を絶やしてしまおう、ということであろう。つまり、「安保」か成立すると戦争に巻き込まれるということである。しかし、その「安保」は成立してしまった。そして47年がたった。この歌詞の予言と想定が誤りであったことは事実によって実証された。この47年、日本は戦争に巻き込まれたことはなかったからである。なるほど、ヴェトナム戦争の時も、湾岸戦争、イラク戦争の時も、米軍が日本を基地として使用したことはあっだろう。しかし、日本に戦禍が及んだことはなかった。在日米軍が事故により死傷者を出したことはあった。しかし、この歌が表現していることは事故ではあるまい。
 安保を推進した人たちの主張は、この条約により日本の安全を保障しようというものである。アメリカとの条約により、米軍の在日が約束された。反対派は、これを指して、軍事同盟だと言った。しかし、この条約ではアメリカが日本を守る義務はあるが、日本がアメリカを守る義務は書いてない。ために、アメリカ国内で、この条約は一方的で日本の方が得するだけだという反対論があるくらいである。
 47年、まもなく半世紀。あの反対運動の根拠が正当だったか誤りだったか、検証の時ではないか。一向にその気配がない。政党では、日本共産党、日本社会党、現在の社民党、これらの政党は平気で口を閉ざしている。あの歌の歌詞は間違いだったではないか。そうでないというなら、それなりの主張を再出すべきである。自分が間違っていたのに平然として、その話を避ける政党をどうして信用できようか。個人もそうだ。国会に突入した学生に死者まで出たのである。もし誤りがあったら、どこが、何故間違っていたのか、その原因と対応を存分に検討することこそ、次なる前進への貴重な資材経験ではないか。
 「憎しみの火が 燃え上がらない内に」、というが、憎しみの火を 燃え上がらせようとしたのはこの運動の方、あおった政党の方ではなかったのか。

2007.3.20. 火曜 曇ときどき晴 町田

 この小説の背景となる1848年の革命は失敗した。反動的帝政の復活となる。

 1848年といえば、ショパンがパリで死ぬ前年である。ロンドンではマルクスが「共産党宣言」を書いた。翌年には、カリフォルニアで金鉱が発見され、ゴールドラッシュが始まった。激動と躍動の時代。ショパンの音楽にはそんな背景が聞こえる。そして、モロー青年のように、そのさなかにあって全くのノン・ポリで傍観する若者もいた。政治に野心を持つ学友は「君は政治に関心がないのか」とモローに問うが、モローは「ああ、ないね」と平然と答える。彼にはアルヌー夫人のことしかない。
 大学以前から三人いた友人の中で、一人だけ、デモ隊を指揮して警官隊の暴行を受け死んだ青年がいた。三人の中で理想の大義に殉じたのはこの青年だけだった。この青年は大学へ行かない勤労青年だった。あとの一人は、転向して官僚になり、三人目のモローは人妻に夢中になって生涯を過ごす。三人の若者の、青春の夢と挫折。日本の幕末の若者たちも連想する。

 革命参加者は、ことごとく1789年の「大革命」を意識し、あやかりたい願望を持つ。人間、うまくいかない時は過去のいい例を思い出し、その幻影にしがみつくものだ。太平洋戦争末期、特攻隊、自殺攻撃隊が「神風」と名乗ったのもその例。13世紀に来襲したモンゴルの艦隊が、折りからの台風で全滅した奇跡の再来への願望である。

 私は、60年安保のあと、1970年、80年、と次第に衰弱していった反体制運動のことを思い出す。1968年頃から反体制運動が盛んになり、1969年一月の安田講堂事件に頂点に達した。しかし、総合的に社会全体の模様がなんといっても60年安保のように高揚しない。あれは一体なんであったのか。いまでも奇妙な疑問が残る。もっとも、60年安保自体が真の意味で国民全部あるいは大部分を巻き込んだ運動であったのか、そもそもそれも怪しい。この一連の挫折のあと、過激派は、ハイジャック、浅間山荘事件などへと暴走を始める。行き着く先は自滅である。ついでながら、この頃喧噪をきわめた自称「前衛」音楽も同じ道筋をたどった。

2007.3.20. 火曜 曇ときどき晴 町田

 相変わらず寒風吹く。 図書館でおもしろい本を借りる。

 この図書館は電車の中で読むものを借りるのにまことに都合がいい位置にある。町田から経堂まで帰宅の時間帯、この頃は上り線でも急行は混む。各駅停車は空いている。しかし、町田、経堂間約45分、急行のほとんど二倍。本を読んでいるとこの時間も退屈しない。だからつい本を借りる。

 フロベールの小説「感情教育」の解説本?とでもいうものか。特定の小説を解説して内容を論議しためずらしい本。この「感情教育」という小説は、だいぶ前にNHKラジオのフランス語講座の上級で教材としてとりあげ、フランス語による放送劇の形式で放送した。原作は岩波文庫で出ている。かなり厚い本だった。これも読んだ。NHKの放送では「マダム・アルヌー」と改題されていた。

 ソルボンヌ大学法学部を出た青年、フレデリック・モローはふとした機会に目にした人妻、アルヌー夫人の美しさに身も心も奪われ、生涯慕い続ける。その間に背景として1848年の二月革命、男女交際、社会風俗が克明に描かれていく。
 この解説本で初めて知ったが、フランスで婦人参政権が実現したのは1944年のことであるそう。驚きである。参政権とは選挙で投票する権利。女は投票する権利が認められていなかった。女は政治にかかわるなということ。
 1944年といえば、日本では昭和19年。翌年は日本の敗戦、占領軍による日本の民主化が始まる。婦人参政権もその時の実現した。ほとんどフランスと時期が違わないではないか。いや、フランスが日本とほとんど違わないということ。
 欧米社会は外見は女性尊重のように見えるが、内実はひどい男社会だということは折々聞く。女をちやほやしているようで実は実権は男が握っている。社会でも家庭でも。アメリカでも夫は家庭内暴力を振るうそうだ。映画とはだいぶ違う。
 アルヌー夫人の夫、ジャック・アルヌーは富裕な画商。日本式にいえば芸者屋みたいな所に入り浸り、惚れこんだ女将に入れ揚げて、家の家財までごまかして持参する。明治時代の日本の男みたい。明治文学を思わせるような光景が折々現われる。漱石の「三四郎」に似た所も無いわけではない。相手が人妻という所が決定的に違うが。
 このモロー青年、徹底的なノンポリである。二月革命の市街戦を野次馬として見物している。なんの政治的関心もない。60年安保の時の光景を思い出す。ただ、二月革命では実弾が飛び交い、死人が荷車で運ばれてくる。そこが「安保」と違う。モロー青年はそれにも無感動である。下宿で同室だった大学の学友は、二月革命に参加するが、革命が挫折すると、先輩を頼って大蔵省に入る。体制側のエリート官僚の道に入る。こんなことも、いつかどこかで見たり聞いたりした。

2007.3.18. 日曜 曇ときどき晴 町田

 この数日寒い。暖冬の申し訳にように今ごろ寒さがやってきた。

 日曜の朝のTVは報道議論の番組が多い。
 
北朝鮮問題、拉致問題について、浅井信雄という人が語っている。拉致問題にこだわっていると國際的流れに遅れるという要旨。
 旧ソ連が崩壊した時、西側が経済援助を意図した。日本だけは領土問題があるのでこの運動に乗らないと言っていたが、ソ連経済が崩壊すると日本も被害を受けるので、結局は同調した。この時との類似をあげていた。しかし、これは違うのではないか。領土問題と拉致とは違う。自国民が外国の公権力により人権生命が犯されているのだ。国民の生命財産を守ることは国家の第一の義務ではないか。無生物の領土と国民の生命財産人権とは根本が違う。こうした説を、したり顔で説く者がほかにもいる。小沢遼子という人もしかり。いつまで意地を張っていたって相手が折れるはずもなかろう、という意味のことを言っていた。
 
 これらの言説は単に間違えているだけではない、利敵行為である。北朝鮮の無理暴虐な行為に一歩も譲っていはいけない時に、国内のこういう言説をはくことは味方の切り崩し行為になるではないか。電波の上でこれを語れば、北朝鮮もこれを見る。日本が崩れ始めた、もう一息だ、と彼等は意を強くするだろう。どうしてこういう無神経な発言がするのか、そして、それを電波に乗せることも見逃せない反社会的行為である。
 
 ホリエモン氏が「サンデー・プロジェクト」に出ていた。この人の言うことを聞いていると、誰かに似ていると思う。オウム真理教の上裕である。この人の下の名前は忘れた。あやまる、ということをしない。オウムはあれだけの死者被害者を出したのに、平然として自分の都合ばかり語る。加害行為について触れようとしない。上九一色村の施設はテーマパークにしてもいい、などと、涼しい顔で口にしている。堀江には、粉飾決算でだまされた人たちへの謝罪はなし。弁護士の高井某も風変わりな人物である。法理論を綿々と説くが、普通の常識に照らして、どこをどうする、という話が一切ない。専門の世界にのめりこみ周りが見えなくなっている。

2007.3.17. 土曜 曇ときどき晴 町田

 日記風のサイトを書いている人の例を見ても、私のように、ほとんど毎日更新している例は少ないようだ。私はよほどおしゃべりらしい。めずらしく13日から三日間お休みした。ミュンヘン騒動記を書いていささか疲れた。これでしかし、書き残すべきことの一つは果たした。

 昨日、16日は、ホリエモンの一審判決があった。この人物には全面否定しにくい何かがあったが、欠点もあったのだから判決は仕方ない。むしろ、弁護人の某の態度の方が不快だった。元検事でたいへんな腕利きとの評判が伝えられた。「妖刀」、などという名称が弁護士仲間から呈されているとも評判が伝えられた。しかし、被告に不利な判決が出た以上、弁護士として上等とはいえまい。判決前に、TVでこの人は、検察の告訴状を嘲笑していた。その態度がひどく不遜に見えた。

 ホリエモンについては、社長でありながら、会社と社員の行為について、知らなかった、と言い張るのはいかがなものか、それはおかしい。トップにはすべての責任がある。知らなかったとすれば、知らなかったこと自体が責任を問われる。監督不行き届きという事である。ある部分の才能だけは抜群だが、ほかの部分に常人以下の非常識の部分がある。音楽の分野でもこういう才能の人物がいた。時代の変り目に現われる新種の生物なのだろうが、だめなことはだめなのだから、勘弁してもらうわけにいかない。

 昨日だったか、BSでMessiaenの「Turangulila」、ひさしぶりに聴く。チョン・ミュン・フンと東フィル東京公演だった。いま聴くと、いささか大時代的な表現の部分があるが、りっぱな音楽だ。戦後の自称前衛の自称傑作が消えたいま、この曲は生きて残っている。ウィーン大学のハーゼラウアー女史が説くように、情報量が100でも0でもなく、適正の数値にあるのだろう。

  歳をとると美しいものへの希求がはげしくなる。美は人を沈黙させる、とは小林秀雄の言葉。その通り、美は議論の対象ではない。問答無用のものだ。美への憧れ、希求がなくて芸術の評論などするのはお門違いである。視力障害者がバスの運転をするようなもの。こういう手合いは、美しい女性に出会ったことがないか、その美しさに魅せられたこともないのだろう。お気の毒としかいいようがない。美食の経験がないのに料理評論をしているようなもの。評論家だけでない。作曲家にも同類がいる。昨年秋、ある所で私の曲が演奏された。ある女性作曲家の曲も演奏された。楽屋で出会ったその女性作曲家の服装がきたないのに唖然とした。世間並みのおしゃれをしなくてもいい。常識にはずれてもいいのだ。しかし、どこから見ても、美への関心が壊滅的に存在しない、ただきたないだけである。この人は音楽を造る資格がない。議論の余地なく判断した。

2007.3.13. 火曜 晴 町田

ミュンヘン騒動記最終回

 電車が渋谷に着いて、宿舎のホテルまで歩く内に彼は幾らか落ち着きを取り戻したようだった。彼等は、国際キリスト教大学の演奏会が終ると宿舎をすぐに引き払い、NHK裏のビジネス・ホテルに移動した。
 私がしばし別れの挨拶をして退去しようとすると、彼はホテルの玄関まで送りに来て、「先程はいささか感情的になり、失礼を申した。こんごともよろしく」と言った。欧州では、ホテルの玄関まで送るのが儀礼になっている。やがて後日、札幌の係りの人たちがミュンヘンを訪れ、支払うべきものを手渡し旧交を温めたということを彼からの手紙で知った。あの事件はもはや過去の思い出話になり、楽しく歓談し、おおいに笑った、とも書いてあった。

 この事件を通して知ったこと。

 何事もない平常時においては、一定の教養ある人は、国を問わず、人種を問わず、礼節も常識も行動様式も違いないということ。そして次に、ひとたび何事か起こった時、態度、言動、考え方、に違いが現われてくるということである。その違いは、場合によっては、日本人が唖然とするものがある。同じことは先方からも言えるのかもしれない。

 こういう場合に現われる彼等西洋文化に属する人たちの言動態度について。

 自己主張すること。それは、不明瞭、あいまい、よりいいのかもしれない。ただし、何事もほどほどということがある。中島義道さんの本「ウィーン愛憎」にもそういうことが書いてあった。何事につけても自分本意、自己を主張しないと生きていけない社会。主張しないと無視される。こういう社会で暮らすことの気の張り方、疲れること。中島さんは、日本に帰国してからの印象を、すべての人が争いをあらかじめ避けながら生きている、と記している。
 日本の曖昧主義をいいと私も思わない。しかし、何事にも程度がある。いまの世界のように、人と人、国と国、が角突き合わせ、とげとげしながら生きている様を見ると、日本のような、優雅で曖昧な生き方も少しはとり入れてもいいのではないかと私には思われる。堀田善衛さんは、凸型の文化と凹型の文化という言い方をしている。インドから向こうが凸型なのだそうだ。ミャンマーから東が凹型だそうだ。自己主張第一の文化と、譲る文化。しかし、凹型と言っても、ヴェトナム、朝鮮などは随分自己主張が強い。この分類もいささかおおざっぱ過ぎるように思われる。死者を許す文化と許さない文化、という話も聞いた。中国も死者を許さないそうだ。墓を暴いて遺骨を蹴散らしたりする。日本人は決してそういうことはしない。死んだ人は仏になったとして生前のことを許すのである。これはいいことではないか。人を許さない社会で人は幸福になるとは思えない。

 何かあった時、自分の側のいたらなさをまず謙虚に反省しすること。相手にも落ち度があったもしれないが、自分の側にも失点があったかもしれない。いまはまだ判然としないが、その可能性も否定できない。そんな時、まず自己主張するより、一歩下がって自己点検する方が望ましいのではないだろうか。
 戦後の行き方について、ドイツは戦争を反省して、けじめを着けているが、どうも日本はいい加減だ、とよく言われる。私はそう思わない。彼等は簡単に謝らない。この辺のことについて日本人は少し幼稚ではないかと思われる。ドイツはヨーロッパの国である。あの辺の国々はなかなかしたたかで、腹の中と表の態度が違う。戦争反省は外向きの建て前外交用だと私は思う。

 ドイツの最高の教養人に属する人が私にそっと尋たことがある。

 「日本人は、いずれ原爆を作ってアメリカに落し返すのだろう」と。

 声を低くして、耳元でささやくような尋ね方だった。ホンネを聞かせてくれ、という尋ね方である。私は唖然として言葉もなかった。言葉を尽くして否定したが、彼と同伴の二人は疑い深そうに聞いていた。ドイツ人の戦争反省なんてそんなものだ。彼等は簡単に自己否定をしないのである。頑固で無反省かもしれぬが、しかし、日の丸、君が代だけでなく、日本に属する物すべてを否定しまくり、日本の国と日本人そのものを否定してしまうかのような、日本の現況を見ると、これもまた相当におかしいのではないかと私には思われる。そんなに自己を否定することが出来るのだろうか。否定するのではなく、過去を抱えながら生きていくのが本当ではないだろうか。簡単に過去を否定し、自己を否定する人は、信用ができないではないか。何か飛んでもないことをしでかして、その後で、それを自分で否定して勝手に懺悔する。こんな人物を信用できるか。
 それにしても、原爆を作って落し返す、というのはすごい発想だ。日本人は考えたこともない。やったらやり返す、それが彼等の生き方であり、行動哲学である。こういうことを知り、日本人は自分がどの辺に位置しているか知ることは必要で有益だ。
 ただ、私は、違いばかりを強調することを余りいいと思わないし、好きでもない。ヨーロッパと日本はここが違う。中国人と日本人はここが違う。西洋の社会と日本の社会とは決定的にここが違う、という風に。なぜなら違わない所もあるからだ。同じ人間同士である。違わない所を知ることも同じように大切だと思っている。

 作曲家Hは、この時41歳、10年後に彼の私宅を訪ねた時は51歳。品のよい温厚な紳士になっていた。高校生の息子がヒッピーになって困っていた。私はいまでもmailの交換をしているし、日本人の若い人がミュンヘンに留学する時、世話を頼んでいる。私の方も役に立てる時は役に立っている。永い間の親友である。

 話のついでだが、1976年、私たちがミュンヘンを訪れた時、フリッツ・ビュヒトガーという作曲家がいた。人格高潔な人でミュンヘンの音楽家の尊敬を集めていた。当時、すでに60歳台かそれ以上であった。戦前からの人である。79年、ミュンヘンからの使節が来日した年の始め、この人が交通事故で死んだという情報が伝えられた。車に同乗していての事故だそうだ。私は当然、高速道路、アウトバーンでの事故と思っていた。1989年、私が家内同伴でミュンヘンを訪れた時、家内が、魚類学者のハンス・フリッケ博士に会うことになっいた。フリッケ博士はミュンヘン近郊の「マックス・プランク研究所」にいることが分かり、Hが手配してくれて、Hが車で連れて行ってくれた。ミュンヘンから高速道路で走ることしばし、左手に湖が見えてきた。シュタルンベルガー湖、あの、ルートヴィッヒ二世が水死した湖である。そこで高速を降りて、右手の田舎道に入る。しばらく行った所、並木道のなんの変哲もないひなびた道路である。Hが、ここがビュヒトガーが事故で死んだ所だ、と教えてくれた。のどかな田舎道で、どうして死亡事故が起こったのか理解しにくい所だった。人の運命は分らない。「マックス・プランク研究所」は深い森の中の木造の建物で、まるで牧場のようであった。科学の研究所がこういう風情で出来ているところにドイツ人の森を好む気質が現われていた。ここにはノーベル賞を受けた人が何人もいるとのことだった。

「ミュンヘン騒動記」はこれで終る。

 文中の人物の実名を表記したおく。
 作曲家H→Robert M. Helmschrott
 ピアニスト→Gottfried Heffele
 声楽家→Edith Urbanczyk
 フルート奏者→Andras Adorian

2007.3.12. 月曜 晴 町田

ミュンヘン騒動記

 大仏から私たちは再び鎌倉に戻って、駅前のやや品の良い居酒屋に入った。彼等はこういう日本風の居酒屋が好きだった。

 この日、私は札幌から電話を受けていた。こんどの混乱のため、経理が目茶目茶になってしまった。経費の内、札幌側が負担する分もあるそうで、その分は彼等に渡すか、別途ミュンヘン市に送金することになっていたか、とずれにせよ札幌市が支払うことになっていたようである。多分、出演料などだろう。それが、混乱のため予定通り支払うことが出来なくなったということだった。この辺は、言葉の問題もあるが、そればかりでなく、同国人の間であっても誤解が発生しやすいことである。支払うことが出来ない、ということ、それは決定的に支払えないということか、あるいは、予定通りの時期に支払うことが出来ない、ということか。精算に時間がかかるので、当初の予定通りの時期に支払えないというだけなのか、この辺は、相手が外国人でなくても間違いが生じやすい。

 居酒屋に入って、再び混乱の話になった。私は、この札幌の電話のことを伝えた。彼は、支払いが不可能という意味にとったようである。私自身もこのことは正しくは判断できない。彼はいよいよ不機嫌になった。彼は言う、とにもかくにも演奏会は実施したではないか、何が悪いのだ、と。しかし、予定通りには出来なかった、と私。ついには彼は、「俺がまずいピアノをひかなかった方がよかったというのか」、などと妙なことまで言い始める。私は、そうではない。しかし、予告した通りの曲目は実施出来なかったではないか、曲目の予告は聴衆に対する約束だ、約束は守られなかったではないか、と言う。これには夫人も同調した。「その通り、約束は約束。約束が守れなかったことは事実」と。彼は幾分たじろいだ。

 ここまできて私には次第に分ってきた。彼は、市の使節としての実績に傷がつくことを怖れているのである。彼は、のちに学長にまでなっただけあって、教育官僚、文教官僚であった。官僚であれば、自分の経歴、つまりキャリアに傷がつくことは最大の恐怖である。
 だから、彼はこうも言う。「これからも、ミュンヘンと札幌の交流は続くだろう。しかし、これからの使節は俺たちではない。別の奴だ」。つまり、こんどの一件で、自分はクビになるというのである。振り返れば、札幌市の公演だけでなく、東京での、国際キリスト教大学での演奏、公共放送であるNHKへの出演は、彼にとってきわだった実績になる、と彼は自認していたのだ。欧州では放送出演の意義を日本より重くとらえている。NHKはBBCと同じ公共放送であり、国営に準ずるものと考えられる。これらの実績が想定外の事故でふいになり、それどころか消滅反転しかねない。国際使節としの不始末不業績である。本国に知られないですませようとしていたのだろうが、札幌市が経理のことを持ち出しては表面化しないわけにいかない。

 ここで問題の原点に戻る。

 ハワイでの盗難。悪いのは泥棒であって被害者ではない、という論法。詳しく調べないと判断できないが、ひとまずそれはそうと仮定する。しかし、その後派生した幾つかのこと、そのすべてが泥棒の責任だろうか。指定した便に乗らなかったこと、成田でアナウンスを聞かずに勝手にホテルに入ってしまったこと。これらは当人の不注意ではないのか。もし、指定の便に乗っていれば、羽田から札幌に直行して、きわどくはあったが、演奏会は予定通り実施できたのである。この辺にことについては彼等はさっぱり触れようとしない。都合がわるいからである。札幌市が受けた被害は、演奏会が正常でなかったことのほかに、市長の好意的尽力が無為に終ったこと、関係者に心身の損耗をあたえたこと、その他、ドイツ人仲間にも被害があった。これらをすべて、泥棒が悪い、だけですませようとする論理は成立しないと私は思う。

 帰りの横須賀線の中で、彼は不機嫌だった。露骨には言わないが、日本人は信用ならないみたいなことまでつぶやいていた。札幌市が支払いをやめた、と彼は解釈したようで、そのことを言っているのだろう。自分が約束を守らなかったのに、相手が約束違反だといって非難する。身勝手な話である。ただ、日本人独特の愛想のよさ、必要もない過剰接待、それが裏づけのない表面だけのものに見えるようだ。結果的に相手をあざむくものに見えるのだろう。私は、国民性の話に替えて、フランスと、ドイツ、イギリスなどの国の間では、こういう発想の行き違いはないのか、と問うた。ないだろうという。それでは、アメリカとソ連はどうだ、というと、少しあるだろうという。戦後進駐してきたアメリカ兵が、個人的に、Japanese smileは不可解だ、と言ったことがある。日本人独特の表情を彼等が理解できない。(続く)

2007.3.11. 日曜 雨のち曇 町田

ミュンヘン騒動記

 作曲家のHは1938年アウグスブルク生まれ。オルガン演奏者でもある。

    私は、この時も、その後来日した時もNHKに紹介して録音してもらった。この人は、その後ミュンヘン国立音楽大学の学長になった。定年後は音楽大学幾つかで講師を続けていたが、いまは自由な生活をしている。学長時代、公用でたびたび日本を訪れ、東京芸大や武蔵野音大を訪れていた。私の紹介で、何度かまたNHKでオルガンの録音放送をした。私はこの人と懇意になり、家族ぐるみの交際をいまでも続けている。夫人はイタリア人。陽気なローマ人である。Hはカトリック教徒で、ヴァチカンに勤務していたことがある。その時いまの夫人と知り合った。Hは当然イタリア語も達者で夫人とは時々イタリア語で話している。話はそれるが、夫人がおもしろいことを話していた。一人で日比谷公園のベンチで休んでいる時、背後のベンチで日本人の若い女性二人が話していた。それがイタリア語に聞こえたというのである。母音と子音を組み合わせる言葉の出来方がこの二つの言葉は同じで、そのためそう聞こえたのだろう。Hはドイツ人らしく森と自然と静寂を好むが、夫人は都会育ち、にぎやかな所が好きである。趣味が違うとHがこぼしていたことがある。この夫人は、15年くらい前に急逝した。ガンの発見が遅れたため、入院後治療の甲斐なく亡くなった。お気の毒なことである。

 東京での演奏会の後、Hはオルガン演奏のため台湾に行った。二、三日で戻ってきたが、その間私は夫人と相手をした。この時の話で、西洋人と日本人の違いを知った。この人はイタリア人であるからドイツ人ではない。したがって西洋の人一般の考え方にふれたことになると思っている。
 端的にいって、自分の非はなかな認めない。認めても最少限度にとどめようとする。今度のハワイの一件にしても、ひとことで言えば、悪いのは泥棒であり、被害を受けた方ではない、と一貫して主張する。悪くないのになんで謝る必要があるのか。こういう論法である。こうなると、日本的論理の方を再検討する必要があるような心境になる。こういう自分の利益を最大限に推し進め確保する論法の者同士が対決したらどういうことになるのだろう。私は、西洋の合理主義にも疑問を持つようになった。理性にしたがって主観をまじえず公理をもとめたのではなく、互いに自分の権利をつっぱりあう結果、力学的に分割点が出来てしまうのではないか。力比べの結果、綱引きの結果である。外交の上でも、こういう相手と渡り合うのはなかなか大変なことだろう。ただし反対に、彼等から見れば、日本的行動様式、思考方法は、御都合主義的で信用ならないものに見えるらしい。

 在日最後の日、NHKのオルガン録音が終ったあと、Hは鎌倉の大仏を見たいという。早速、横須賀線で、まず北鎌倉で降りて、円覚寺、建長寺などを見て歩いて鶴ヶ丘八幡宮まで行った。それから、江ノ島線で長谷まで行ったが、日が暮れてきた、閉園ぎりぎりに入ったが日は暮れて、大仏の前までいってもよく見えない。彼はご機嫌すこぶる悪くなった。奥さんがあちこち見たいと言って遅くなったといって、奥さんに不機嫌にあたっている。大仏の前の椅子に座して不機嫌でいる彼から夫人は少し離れて私と話していたが、彼は機嫌が悪い、と奥さんは苦笑している。鎌倉で江の島電車の到着が遅いといって、当たり散らしていた。在日最後の日に間に合わなかったということは機会が永遠に消滅したと思っていたのだろう。実際はこのあとも来日の機会はたびたびあったのだから、それほど深刻ではなかったのだが、この時点ではそれは分らなかった。(続く)

2007.3.10. 土曜 晴 町田

ミュンヘン騒動記

 ピアニストの出演は不可能と決まった。さすれば、誰かがピアノをひかねばならない。ソロは省略するとしても、歌とフルートの伴奏は不可欠である。とどのつまりは、作曲家のHがひくほかない。Hは頭を抱え、深刻な圧力を受けて沈痛きわまる状態となった。Hは覚悟を決めた。どこかピアノの練習をする場所がほしいという。楽屋に部屋があった。曲目も幾らか変えた。当然、ピアノ・ソロ曲はなくなった。伴奏が余りに難しい曲は比較的やさしいものに置き換えた。聴衆には主催者が事情を説明した。そうする以外に手はない。
 こうして、演奏会は無理やり過ごした。Hは大変な精神的重圧を受けた。隣のホテルでの打上げがあった。私が、東京は大丈夫か、と問うたのに対し、Hは苦笑しながら、「彼はすでに日本に来ているから大丈夫だ」と苦々しく答えた。

 さて、話は東京に移る。私たちは、彼等のために麻布の國際文化会館に宿舎をとった。ここは会員制なので、ある会員の好意で名義を借りた。私は一足先に帰京し、羽田で彼等を迎えた。私の車で歌のU女史を乗せてほか数人の日本の友人と麻布に向かった。作曲家のHは、国際キリスト教大学で数日後オルガンの演奏会があるので、大学の人の車で大学宿舎に向う。フルートのAは別行動。私たちは麻布の宿舎に着いて、地下の喫茶で話していると、ドイツ人らしい青年が入ってきた。私はこれがピアニストではないかと直感した。果たせるかな、ケビン・コスナーが眼鏡をかけたような涼しい感じの青年である。彼は私たちのテーブルに近づくとU夫人に挨拶し座に加わった。U夫人は、いきさつからか憮然としている。この二人は、これまでもそう親しくはなかったようだ。

 まず、ハワイでのいきさつを聞く。
 彼はレンタカーを借りた。ちなみに、この青年英語がべらぼうに上手い。彼は車で走っているうちにエンストした。電話を探していると少年が近づいてきた。「電話ならあそこにあるよ」と指さす。彼は電話でサービスカーを呼んだ。車に戻ると後部座席の荷物が消えていたという次第である。車上置きびきである。その少年が犯人だと彼は言う。

 こういう次第だが、この人、自分の不注意で皆さんにご迷惑をかけた、申し訳ないという態度がまったくない。この辺が注目にあたいするところで、考え方が日本人とまるで違う。指定された飛行機に乗らなかったこと、成田でアナウンスを聞かないでホテルに入ってしまい、その結果、札幌で大事故に至ったこと、全然、お詫びも言い訳もない。

 彼は一足先にこの宿舎に来て自己紹介してさっさとチェク・インしてしまったそうだ。皆さんに申し訳ないどころか、すでに六本木界隈を一人で彷徨して実地見聞をすませている。あそこの××はうまいとか、なんとかいう食べ物は珍品だとか、見聞記を披露している。こちらの方が毒気を抜かれた。この人は一人勝手に行動する性格があるらしい。これは国民性以外に個人的性格のようである。あとで、音楽家としてのプロのあり方についてドイツの人たち数人と話している時、またピアニストがいなくなった。フルートのAは「彼は職業的失踪者」と冗談を言っていた。どこか勝手に出歩いていたらしい。

 大迷惑を受けた被害者の筆頭は作曲家のHである。ピアニストにとって、団長であるし、音楽家の先輩でもあり、年長でもあるこの人に、ピアニストは詫びる気配はなかった。東京公演も終り、金銭の収支を整理する段になり、麻布のロビーで作曲家のHが電卓で苦心していた。この事故のために予定外の支出が出来て、おそろしく計算が難しくなった。Hは苦心惨憺、苦渋しながら計算していたが、頭を抱えて「ああ、難しい、分らなくなった」と言った。ところが、脇からピアニストは平然と「Ganz einfach!」−「簡単だよ」、と放言した。この辺のところは日本人には理解しにくい。これは、当人の個人的性格ではない。ほかのドイツの人たちもことさら異としないのだから。

  ところが、このピアニスト、演奏は実にいい。東京公演で、ベートーヴェンの「エロイカ変奏曲」をひいたが、これは抜群の出来だった。

2007.3.9. 金曜 晴 町田

ミュンヘン騒動記(一)

 この事件については、いずれ書く予定だったが忘れていた。これはぜひ記録したおきたい。国際的怪事件とでもいうべき珍事で、このためトラブル発生時の国民性の現われなど奇特な経験をした。

 1979年秋のこと、ドイツ、当時の西ドイツのミュンヘン市から音楽使節団が札幌市を訪問した。ミュンヘン市は札幌市とは姉妹都市協定をしているので文化交流のためである。当時、両都市の、文化交流、相互訪問が盛んであった。その後、日本もドイツも経済状態がきびしくなり、相互訪問は次第に少なくなっていった。

 1976年、札幌の邦楽団体「群」がミュンヘン市を訪れた。この時私ははじめて音楽監督という名義で同道した。私が札幌出身であり「群」としたしく仕事をしていたからである。私にとって最初の欧州訪問であった。
 その時の返礼ということもあって、1979年、先方からの文化使節の来日となった。メンバーは、作曲家のH夫妻、声楽のU女史、ピアノのH、それに日本でも知られているフルートのA、作曲家のHが団長である。H夫人も含めて一行五人。この時、日本音楽舞踊会議では東京でも共同演奏会を企画し実行した。札幌訪問が主目的であるが、どうせ東京を通過するのだから、その折に共演を企画したのである。ただし、いまから書く出来事は東京公演とは関係ない。

 予期せぬことが起こった。
 この一行はフルートのAを除いてアメリカ経由で来日した。Aは少し遅れて直接日本に来た。作曲家夫妻と声楽家とピアニストがアメリカ経由だった。そして、ピアニストを除いて三人がまず来日して広島と神戸に行き札幌に直行した。なぜか、ピアニストだけが一人別行動だった。ところが、ピアニストから急報が入った。ハワイで盗難にあい、所持品のほとんどと旅券を紛失したという。旅券がないと出国できない。神戸にいる作曲家Hは電報為替で一定額を送金し連絡しあった。ハワイと日本は時差があるから、いずれか一方が夜になり両方とも睡眠不足になった。問題はハワイからのピアニストの出国である。札幌での演奏会の日程はすでに決まっている。来日後さして日をおかず実施される。来日の遅滞は許されない。ピアニストはアメリカ当局に特別の措置で出国をもとめたが、アメリカ当局は、これは当人と当人の属する国との問題であり、アメリカ政府は関係ないという。もっともなことだが、ハワイから最も近い当時の西ドイツの領事館はサンフランシスコにある。とても行って帰る時間の余裕はない。

 とどのつまりは、札幌市長が身元引受人になり、アメリカ当局と交渉して特別出国することになった。私は、札幌での演奏会当日、札幌へ行った。夜、演奏会本番のこの日、ピアニストは当初、午後成田に到着する予定だった。ところが、成田から羽田に移動していては間に合わない。そのため、国際便でただ一つ羽田に着くチャイナ・エア・ラインに搭乗するようハワイに指示した。ところが、念のため出発後のチャイナ・エア・ラインに問い合わせると乗っていない。どうも成田着の別の便に乗ったようだ。推定して該当する便に問い合わせたら乗っていた。窮余の策で、成田から札幌に直行する日航便が一つだけある。着いたらただちに、その便に搭乗するほかない。成田空港に手配して搭乗券を用意した。そして、ハワイからの便が到着するとすぐに札幌行きの便に乗るよう、アナウンスしてもらうことにした。普通、場内アナウンスは一回に限られているのに、特別に二回放送してもらった。

 札幌の演奏会場の楽屋は息づまるような空気だった。すでに到着しているミュンヘンの人たちも、日本側主催者も。ピアニストが予定通り千歳空港に着いても、タクシーでかけつけてようやく本番に間に合うくらい切迫した時間である。警察に頼んでパトカーに先導してもらうことも試みたが、私用には使えないとのこと。
 さて数分がたった。当人から電話が来た。成田空港近くのホテルに入ってしまったと!万事おしまい!彼はアナウンスを聞いていなかった‥‥‥この電話、どこへ彼がかけたのか忘れた。いまのように携帯がない頃だから。多分、会場にかけたのだと思う。

 さてどうなるか。開演時刻は刻々とせまる。以後は次回。

2007.3.7. 水曜 晴 町田

ポエマ・タンゴ

 アルゼンチン・タンゴ「ポエマ・タンゴ」を放送で聞いた。

 「ポエマ・タンゴ」、昭和10年代の初め頃ヒットした曲である。レコードが発売され、私の家では三人の姉たちが買ってきて鳴らしていた。「ターキー」こと、水の江瀧子が訳詞で歌い、セリフの部分を独特の低い声でを読んでいたのを思い出す。私が小学校に入学の直後か入学直前のこと。当時、私の家には、のちに映画評論家、オーデオ評論家として名をなした岡俊雄さんが頻繁に遊びに来ていた。この人の実名は岡田金十郎。私の長兄が肋膜炎で市立病院に入院していた時、二人部屋で岡さんと相部屋だったことからご縁が出来た。岡さんは退院後もしばしば私の家を訪れるようになった。私が中学生頃から音楽の勉強を始めてから、岡さんは音楽の専門知識を存分に私に仕込んでくれた。音楽の専門家として兄のような人。

 「ポエマ・タンゴ」の頃、岡さんも若かった。この「ポエマ・タンゴ」を聞くと当時の空気がよみがえってくる。あの頃の家庭の空気が。「ポエマ・タンゴ」がお茶の間に流れ、私は「のらくろ」の漫画を読みふけり、岡さんはお茶を飲みながら雑誌を読んでる。そんな光景だった。

  花の影はゆれる
  こよいも ただ一人
  夢のかなたに 浮かぶは  
  君のおもかげ
  ああ 忘れられぬ君よ

 うろおぼえでも、こんな歌詞を記憶している。小学生なのによく覚えたもんだ。

「千の風ふたたび

 「千の風になって」という歌について、訳詞に異論ありと書いた。先日、NHKでまたこの歌の番組を放送していた。あらためて聞いたが、私の意見の正当性を確信した。

 「眠ってなんかいません」の「なんか」が下品であると私は指摘した。そして、この言葉は不要であるばかりか、ない方がずっと品格が高くなると説いた。歌を聞くと、果たせるかな、この「なんか」が作曲の邪魔になっている。「そこにいません」に対して「眠って(+なんか)いません」と続くのだが、言葉が増えたために、このフレーズは、こっけいな早口言葉風のリズムになっている。興趣を削ぐこと甚だしい。新井満さんは芥川賞受賞者でもあるそうで、文学者がなぜ、かような言葉のあつかいをするのか不可解である。いまからでもいい、「なんか」を取り除くことを進言する。歌がずってよくなる。

2007.3.3. 土曜 晴 町田

戦争と礼節

 1945年、太平洋戦争で日本が降伏した時の総理大臣は鈴木貫太郎であった。

 昭和20年のこの年、四月十二日、アメリカのルーズヴェルト大統領が死去した。この時、鈴木首相は大統領への丁重な弔電を送ったそうだ。このことは最近知った。アメリカに亡命していたドイツの作家、トーマス・マンはこのことを賞賛し、日本の武士道の健在をたたえた。
 戦う相手、敵といえど礼節を忘れないこと、人として最も大事なことではないだろうか。アメリカのケネディ大統領が暗殺された時、キューバのカストロ首相はやはり弔電を送った。カストロ首相は、「彼は敵であった。しかし、なじみの敵であった」、と語った。敵であったことと旧知であったことは別である、という意味だろう。

 人を大事にすること、このことを失ったら最も低劣な堕落におちいる。最近の北朝鮮の放送の論調の下劣さ。国家の品格の片鱗もないこの国の低劣さに哀れみさえ覚える。幾らおちぶれでもこうはなりたくないものだ。
 20年ほど前に同じようなことがあった。昭和天皇が、病い重く、危篤、やがて崩御した時の某政党の論評である。目をそむけるような罵詈讒謗をあびせかけた。続く選挙でこの政党は大敗北した。人の怒りとひんしゅくを買ったのであろう。人の死は人を超えたものである。人として避けることのできないことで、その運命の前には、立場を超えて人は皆同じである。無神論、唯物論を信奉するこの政党には、人を超えたものという観念も道徳心もないのだろう。人はどこまで堕落することができるか、そのおぞましい見本である。

 太平洋戦争のさ中、日本海軍の特殊潜航艇がオーストラリアのシドニイ軍港を襲撃した。潜航艇は撃沈され搭乗員は戦死した。オーストラリア海軍は潜航艇を引き上げ、搭乗員の遺体を収容、丁重に葬儀を行ない、中立国を介して遺骨を日本に返してきた。戦争の冒頭、日本空軍は、イギリスの新鋭戦艦プリンス・オブ・ウェールズをマレー半島沖で撃沈した。この時、沈みいくプリンス・オブ・ウェールズに護衛の駆逐艦が横付けになり乗員の救出を始めた。それを見た日本の攻撃隊は、人を殺すことが目的ではないと、救出が終るまで攻撃を中止した。イギリスはこのことを深く感謝して、さすがに東郷のネィヴィだと尊敬した。

2007.2.28. 水曜 晴 町田

 こんな本を読んだ

 工藤雪枝という人が書いた「特攻へのレクィエム」という本を読んだ。

 毎日、駅に向かう途中通り抜ける図書館の書棚でたまたま目に入ったので借りて読んだ。文庫本だが、再版を重ねているそうで、そのため単行本から文庫本になったそうである。著者は1965年生まれ、東京大学法学部出身の若手評論家ということらしい。もちろん女性である。私は今までこの人をまったく知らなかった。

 この著書、特攻への賛美で埋まっている。
 「特攻」、または「特攻隊」とは、「特別攻撃隊」の略称、太平洋戦争末期、爆弾もろとも敵艦に突撃した飛行機攻撃のこと。この攻撃法が個人的行為ではなく戦術として正式に採用された。志願制だったというが、内実は分らないと私は思う。本人の自由意志とはいうが、志願しないわけにはいかない状況が作られていたかもしれないから。その点がいまのイスラムの自爆テロとは違うと私は思う。もっとも、テロが誰彼かまわず罪なき市民を巻き添えにするのに対し「特攻」は戦闘中の敵の軍艦を目標にするのだから、この点は大きく違う。特攻戦術を賛美するわけにはいかないが、テロは特攻より卑劣であると私は思う。

 人により様々な価値観があるし、特攻についても世界観の違いにより、評価が幾つもあって少しもおかしくない。しかし、通読して私に疑問が残ったのは、著者の座標が一度も明示されていないことである。どのような価値観に基づくにしても、はじめに、自分はかくかくの座標に立つ、ということを明示し、出来れば説明を加えることは論述の上で不可欠な手順ではないだろうか。よしんばそれが主観的なものであっても、それはその人の自由である。こういう理由で自分はこの座標を選んだ、という前置きが必要である。大岡昇平は「レイテ戦記」の前書きで、「私はこれから、私が事実と判断したことを書く」と述べている。もはや有名になったといってよい一句である。

 工藤という著者は、特攻が実際にどれだけの戦果をあげたのか、という問題について、計数よりもその心意気こそが大事なので、その前には計数的なことは二次的てはないか、などという大意のことを書いている。精神と心意気が大事で計数はどうでもいい、というが、そうだろうか。こういう発想と心情が特攻を生んだのだろう。結果がどうもいいという、論理にならない根拠で人を死なせること。その発想が主観的意図とは別の副産物を生んだのである。
 私は、いま生きている者として、特攻に飛んで行った人については何も言いたくない。しかし、飛んで行かなかった人たちについては同じに扱えない。彼等は立場が違うのだから。この著者は、飛び立つ時の光景について、「飛び立つ人も見送る人も心は同じだ」、などと書いている。飛び立つ人と見送る人が同じ心だ、ということがどうして分るのだろう。人の心は容易に推察できるような簡単なものではあるまい。だからこそ文学もある。この判断は、紙芝居的、浪曲的、子供の作文水準的である。盲目的恋愛の心理に似ている。手順を省略して、主観的、恣意的に、自分の好む結語に短絡飛躍する。こういう書かれ方をされては死んだ英霊たちも当惑するのではないだろうか。「飛び立つ人も見送る人も心は同じ」の論理がまかり通ることは恐怖である。会社を解雇され去る人と、解雇した側の人とが「心が同じ」で結ぶと労働問題は消滅する。

 戦争体験世代の人たちは、この本に感激しているようだ。若い世代がこれだけ特攻に好意と肯定と倫理的価値を認めて賛美していることに得難い感奮をおぼえるようだ。確かに、戦争時の行為をすべて忌むべきものとして否定するだけの思想と価値観には賛成できない。さような単純なものではあるまい。そういう思想は、死んだ兵士たちへの鎮魂にならないし、不戦の誓いにもなるまい。人間の行為、集団と個人、その中での倫理のあり方は粗暴な方法で断ずることはできない。左翼的反戦思想のこういう面は非人間的である。しかし、同様に、根拠も提示せずに、ひたすら賛美の情を書き連ねることも同じことにならないだろうか。
 低俗なことに関心を持ちたくないが、聞くところによると、この著者は、雅子妃の学友を自称しているそうである。また、盗作に類することもあったそうだ。この著書の一部も別な人の著書と酷似する部分があると、そんなことも目に入った。

2007.2.25. 日曜 晴 町田

 Chopin前奏曲の全曲研究、23日に最終回を終えた。去年の六月に始まったから、夏休みをはさんで9ヶ月に及んだ。 自作の研究なら自然に語ればいいが、そうではないから準備が大変だった。こういう古典は調べれば調べるほど、次々と新しいものが見つかるから際限がない。

 最終回で話したが、Chopinが死んだのが1849年、いまから150年以上前のこと。しかも、私たちがいま棲むここは本人と全く関係がない東半球の異国である。にもかかわらず、この音楽を演奏する人が絶えることなく、聴く人の数はさらに多いのはどういうことか。そしてどの人も心うたれてる。戦後もてはやされた「前衛音楽」がすでに演奏もされず、聴く人もいなくなったに等しいことを考えれば実に奇跡的なことではないか。

 この音楽に作曲者がこめた深い想いが、時空を超えて、いまでも、異国の人にまでとどくということだ。講談でよく聞く怪談のセリフに、「魂魄(こんぱく)この世にとどまりて」、というのがある。「死んだのちも魂はこの世に残って」という意味だ。怪談の場合はそのあとに、「この恨みはらさずにおくものか」、と続くが、Chopinの場合は、「この想い伝えずにおくものか」、というところか。
 日頃当り前と思っていることでも、よく考えればただ事ではないことがある。音楽を、楽譜の型をした物体と思ってはいけない。死者からの手紙だ。よほどの想いをこめた手紙である。映画「硫黄島からの手紙」の最後、死んだ兵士たちの手紙がおびただしく地中から掘り出される場面があった。Chopinの音楽もそれと同じ。150年の時を超えて何かを訴え続ける死者からの手紙である。あだやおろそかに弾いたり聴いたりできない。
 
2007.2.19. 月曜 晴 町田

パスカル

 こういうドイツ人の論の進め方をみると、マックス・ウエバーがかつてドイツについて書いたことを思い出す。未成熟な国民、判断力のない政治家、その結果自動的に回転する官僚の独善、いまの日本にもそのまま該当する。ドイツは近代化が遅れた思想的後進国である。大衆の未成熟、これがナチスを生み、許しもした。日本も同様である。ただ、ドイツ人は論理の整合を好み追求もする。それが、こういう後進性と結びつくと理屈は通るがどこかおかしい結果になる。日本みたいな万事あやふや路線よりかえって危険である。

 思い起こすのはパスカルの言葉だ。

 「真実でないことが誤りなのではない。誤りとは、ほかの真実がある可能性を忘れることである」。

 独善と独断は、ほかの真実がある可能性を微塵も考慮しない意識から生まれる。それでも自分の論理だけは戦車みたいに進めるから結果は常識に反した奇怪なもの到達する。しかも、論理の帰結という信念があるから反省も妥協もない。ユダヤ人絶滅論もその結果だろう。私たちもパスカルの言葉は重々反省の材にすべきである。日常の些事にも心がけたい。

千の風になって

 「千の風になって」という歌がはやっている。前にも書いたが、この詩はとてもいい詩だ。しかし、いまはやっている訳詞と歌はどうしても気に入らない。他人の仕事にけちをつけたくないが、はやっていればこそ一言いいたい。
 「私は死んでなんかいません」の<なんか>が私はどうしても気に入らない。なぜこの言葉がここに存在するのか理解できない。耐えがたく下品である。<なんか>を取り除いて「私は死んでいません」でどうしていけないのだろう。言葉はすべて、表現を一段抑制した方が表現力が増す。これは作曲も同じだ。この訳詞と作曲の新井満さんは、この詩を大声で唱え、それから自室で瞑想したそうだ。こういう方法は私の好みではない。絶対的に私の方法でない。心を最も控え目にして、抑制して、それでもなおかつ詩から音が浮かんできたら、それが詩から生まれる歌であり音である。私はその方法をとる。

 詩によっては作曲できない詩もある。声に出して音読することすらためらわれる詩もある。声に出したらすでに詩の心が失われるから。それだけ繊細で傷つきやすい詩もある。
 詩の中にすでに音楽的韻律が充ちている詩もある。これも作曲できない。余計なものを付け加えることになるから。石川啄木の短歌がそうだ。詩の中にすでに音楽が充ちている。「ふるさとの山に向かいて」とか「東海の小島の磯の白砂に」も、これはすでに音楽だ。音楽の上にどうしてまた音楽を重ねることができようか。

 とはいうものの、次に書くようなことがあるから世の中むずかしい。

 作曲家のH君が歌と小編成器楽のための歌曲を書いた。広島の原爆にちなむ詩で沈痛な詩だった。作曲者は解説でこう書いた。「詩の末尾の部分は余りに痛々しいので自分は作曲できなかった。ここは休止符にするので、聞いている人たちは、どうか静かに詩を黙読してほしい」と。この心がけはとてもいい、私は気に入った。作曲家の心がけはこうあるべきと思った。さて、曲の演奏が始まって、いよいよその末尾の部分にきた。音がすべて途絶え静寂になった。ところが、ところが、イビキが聞こえてきた。それもかなりよく聞こえてきた。イビキの主は以前から寝ていたのだろう。まわりが静かになって聞こえてきた次第だ。なんともぶちこわしで、作曲者の意図は無惨に打ち砕かれた。

 先日、NHKのTVで「千の風になって」についての番組が放送された。この詩はイギリスでも作曲されている。少年合唱の「リベラ」が歌っていた。静かで、つつましく、日本の御詠歌のような旋律である。一つの音から余り動かず、唱えるように歌っている。この方が日本ではやっいる歌よりはるかに詩の心に沿っている。私には強くそう思われた。録画したその歌をいまもたびたび聞いている。

2007.2.18. 日曜 雨のち晴 町田

 「MIKROKOSMOS」研究書に戻る。

 この書の中に私たちにはどうしても疑問がとけない所説がある。これは、もしかしたら、西洋の人たちでも、ドイツ人だけの考え方で、ほかの国の人たちは同調できないのではなかろうか。

 西洋音楽で使う音は半音階の12の音である。ここから12音の技法も出てきた。

 この書の中で、この12の音を全部「聞き尽くす」、という言い方をしている。ドイツ語では
" aushoren"という言葉を使っている(ドイツ語であるから"o"にはUmlautがつく。ここではUmlautは省略する。当該母音のあとにeを足す書き方を私は好まないので)、この「聞き尽くす」ということは現実にありうるのだろうか。通常の音階の七つの音を聞き尽くすというなら、それはありうるかもしれない。しかし、まったく関連のない12の音を、これで全部聞き終えたという実感を人は持つのだろうか。ここが不可思議である。12の音を全部聞き尽くすことによって、そこに完結感が起こる、とこの著者は主張する。音階の七つの音ですら、音楽の秩序の中で起こるから「実感される"場合がある"」という程度で、民謡などで、三つか四つの音しか使わない歌があっても、あと幾つ残っていると人は思うまい。三つか四つだけを使って、その後で、残りの音を使いつくしたフレーズが現われた時、ある種の満足感、完結感を得ることはありうる。それとても、それがなければ不満足を感じるということではあるまい。
 12の音を聞き尽くすことによって完結感、満足感が生じるという説にはどうしても同調できない。そんなことはありえないと思うから。こういう所に、ひどく観念的で実感を離れた独断が私には感じられる。理屈が先にあって、だからこうなるはずだ式の結論判断を勝手に決めてしまう。なにやら、「平等社会が出来たら人は満足する"はずだ"」、式の社会理論と似ている。絶対音感を持つ人ですら、そんなことを考えながら音楽を聞いているわけではないと思う。ましてや、そんな音感を持たない人が12全部聞いたか、まだ残っているか、など聞きながら実感するわけがないではないか。

 存在、即、感覚の認知ではない。この二つが違うことから芸術が生まれるし、その味わいも生まれる。錯覚の上に発生するさまざまなことが芸術に陰影と魅力を与える。芸術は錯覚の上に成立するとすら言える。

 この本に出てくることではないが、バルトーク音楽の形式が黄金分割に一致するという説もあった。これもおかしい。音楽の時間は物理的時間ではない、心理的時間である。楽譜の上の時間は物理的時間である。5秒がひどく長く感じられる時と、ひどく短く感じられる時がある。楽譜の上では同じ小節数と音符の数であっても。黄金分割論は楽譜の長さから引き出した論である。心理的時間は測定のしようがなのだから。最近聞くところでは、実際には、バルトークの音楽は黄金分割論より少しずれているそうだ。やれやれ、それなら納得できる。だいたいの所が黄金分割と"似ている"、という程度のことならありえよう。そして、相対的に合理的形式で出来ている、ということも言いうるだろう。この辺の所、認識論の肝心の所で、あいまいに素通りすべきでない。西洋人も案外いい加減なものだ。


2007.2.16. 金曜 晴 町田

 「政権は銃身から生まれる」。

 これは毛沢東の言葉である。

 ずいぶん思い切った言い方である。事実、戦後、反共の気風が激しかった頃、国会でも保守派の議員が共産主義と共産党の危険を説くために引用したことがあった。しかし、こういう語録というものは、総合的な認識ではなく、その時点、状況が必要とすることを重点的に抽出し集約して表現するものである。この言葉の当時、革命の認識が不徹底であまい人たちがいたのだろう。そういう人たちをいましめるために、こういう表現をしたものと思う。
 こういう趣旨で私たち作曲の仕事を語るなら、「芸術は技術から生まれる」と言ってよい。いや、「芸術とは技術である」、とすら言っていい。事実、英語、フランス語の"art"は技術を意味する。ドイツ語でも"Kunst"は技術の意味である。日本語にも「技」(わざ)、「匠」(たくみ)、という言葉がある。日本でもこの頃はさすがに精神主義は見られなくなったが、それでも、ともすれば、技術なんかどうでもいい、心だ、式の世迷い言が時に聞かれないわけでもない。戦後、林光が「戦争が終った時、私たちの作曲界はゼロだった」と言ったのも、こうした迷信が残留する状況下のことである。芸術と技術のかかわりが把握できなくて、「こころざし」だけで音楽や絵がかけたりするかのような迷妄がまだ当時あった。いまは大丈夫か?

 毛沢東はまた、「武器は敵から奪え」、と言った。私たちの武器は作曲の技術である。武器が無ければいくさにならない。旧ソ連のフルシチョフ首相は、「民兵は肉の塊りにすぎない」、と語った。当時の中国式の人海戦術への批判である。近代兵器の前に人海戦術が無意味であることを、第二次大戦、独ソ戦を経験して首相の実感であったろう。ナチスドイツ軍がポーランドへ攻めこんだ時、ポーランドは伝統の騎兵部隊を繰り出したが、機械化されたドイツ軍の前に悲惨な結果だけが待っていた。

「外国は未来である」

 「外国は未来である」、と言われる。これは文芸評論分野での言葉である。ある作品が外国でどう受け取られ評価されるか。それは、自国での未来の評価を先取り暗示するという意味である。外国では作品と作者の周辺関係が存在しない。人脈のからみもない。作者への個人的人情もない。作品の周辺付随物がまったく存在しないのが外国である。「外国は未来である」、とは、未来での自国の作品評価状況と同じだということである。実際には、外国にはまたその国固有の事情があろうし、国により特有の国民的趣味、嗜好もあるだろうから、つねにその通りとはいえないかもしれない。しかし原則として暗示にはなる。
 日本戦前の「クラシックカー」的音楽が外国でどう受け取られ評価されるか参考として知ってみることもいい。時代が代り、世代が代れば、生前の作曲者を知る人もいなくなる。作曲者の個人的知己で、人情談義、回顧談義など語る人もなくなる。作品だけが残る。真空無重力の中に置かれた時、その音楽はどうなるか。

 こうして振り返ると、古典の重みがいまさらながらただごとではないことを思い知る。数百年前の外国の音楽がいまだに人に語りかけ、演奏する人、心で受けとめる人たちが絶えないとは。「ショパン研究講座」が来週最終回を迎える。その重みが実感される。

2007.2.15. 木曜 晴 町田

 あれはいつ頃のことだったか。私が学校を出たかその直前くらいの時だった。昭和30年の初め、つまり1950年代の後半くらいのことか。林光がどこかに書いた。多分「音楽芸術」誌ではなかったか。

 「戦争が終った時、私たちの作曲界はゼロだった」。

 多少、言葉は違うかもしれぬが、大体こんな言葉だった。これに対して戦前の作曲界を尊重する人たちから抗議の声があがった。「ゼロとなんだ。何事だ」というわけである。林もいまはこういう言い方をしないだろうが、当時としてはこう言いたくなる時代だった。「ゼロ」というのは過激な言い方だし、ゼロではなかったと思うが、こういう言い方で強調しなければならないほど、当時の私たちの状況が貧しいものだったことは争えない。日比谷公会堂の音楽会で箕作秋吉さんに会った時、箕作さんはこの発言について、「そうだなぁ、ああ言われても仕方がないかもしれないな。私たちも山田耕筰先生から先輩として何か学び継いだというわけでないしな」と言っていた。箕作さんは消極的に認めていたわけである。戦前派の中にも抗議派ではなく、こういう人もいた。

 戦後第一番に世界の作曲界を震撼させたのは、諸井誠の「無伴奏フルートのためのパルティータ」だった。これは何かの国際コンクールで一等か特別賞をとった。全曲12音技法で出来ている。それも飛び切り厳格で巧妙に音列操作によっていた。何より、無伴奏という型をとった着想が卓抜である。無伴奏だから垂直関係の煩雑な作業が一切要らない。外国の評論家は「驚嘆すべき着想」と書いたそうだ。これは入野義郎さんが語っていた。この思い着きはコロンブスの卵である。それに、12音技法という当時世界を揺るがせていた最新技法を操った。敗戦の廃虚から立ち上がった日本が、各方面で目覚ましい頭角を現わし始めていた時代の作曲界における顕現である。
 いま、この曲を聞いてどういう感銘を受けるかは分らない。しかし、大事なことは、この曲が持つ歴史的意義である。明治、大正、昭和、と営々として西洋音楽を自分のものにしようと努力を重ねてきた結果、ついに先進国に追いつき、追い越しすらする結果を生み出したことである。

 はじめの話のように、敗戦時、日本の作曲界はゼロであった、とまで言うのは行き過ぎであろう。先人の業績への評価、感謝、尊敬は忘れてはならないが、進歩に追われていた日本の作曲界にはその傾向があったのだろう。そのため、ある人たちは、昔の作曲と作曲家への再評価をとなえだしたものと思われる。その限りではもっともなことである。しかし、そのことと、先人の仕事の結果の現時点での評価とは別ではないか。自動車工業を例にとるなら、現在の日本の自動車工業の水準は世界を抜くものである。トヨタが世界最大のGMを抜く予測すら出てきた。しかし、これも、戦前、戦中、戦後、の先人たちの心血をそそいだ苦難の歴史がもたらした結果である。そのことは夢にも忘れてはならない。しかしそのことと、昔の自動車がどうだったかは別である。車高が高すぎてカーブで転倒する車、走行中にドアが開いてしまう車、衝撃でリア・ウインドゥが飛んでしまう車、こういう車をいまも尊敬して使えとはいえまい。ダンプカーというものがある。あれは日本には戦時中まで無かったので、進駐軍が持ち込んだものだそうだ。どこかで読んだが、日本でも同じ物を作ってみたが、荷物を積んでみたら文字通りつぶれたそうだ。それから色々苦心の改良を重ね、ついにアメリカ製に劣らぬ物を作れるようになったそうである。
 先人の業績への尊敬を復興することは大事である。だが、いま、当時の車を引き出してきて街頭を走らせたり、それだけでなく、いま現在実用に使え、ということは先人への尊敬になるだろうか。むしろ意図と反対のことになるのではないだろうか。先祖の遺品は、尊敬すればこそ、扱いを誤らないようにすることが先人への畏敬ではないだろうか。

2007.2.14. 水曜 晴 町田

副産物

 だいぶドイツの研究書への苦情を書いたが、副産物として、学ぶべきこともあった。この著書の意図とは別に、私たちが自分の立場として受けとめるべきことである。

 バルトークの技法様式が、いかに革新的で価値あるものかをこの著書は究明しようとしている。だが、バルトークは、他面、民族主義音楽の強力な推進者であったことも周知である。この著書はその面にはまったくふれない。というより、そういうことを度外視してバルトークを、純粋な作曲上の普遍的貢献者として評価し扱っている。つまり、バルトークは西洋音楽の成果をすべて吸収した上でそれをに乗り越え、付加を与える成果をあげようとしたし、成果をあげたということである。
 民族主義とはどういうもので、どうあるべきものか。これはバルトークだけではない。少し前の世代、スメタナ、ドヴォルザーク、チャイコフスキー、グリンカ、ファリア、グリーグもしかり、現代ではバルトークの同僚のコダーイも、民族主義者かどうか留保されるがストラヴィンスキーも、これらの人たちはすべて、それまでの西洋音楽の成果を余す所なく収得し取り入れ、自分のものとして消化した上で、みずからの民族主義を推し進めた。西洋に対して自分独自のものを提示し対峙しようとはしたが、西洋を排除することはしなかった。民族主義は偏狭な排他主義ではない。またそうあってはならない。排他主義からは相手を乗り越えるものが出てこないのだから。民族主義とは価値の付加である。誰かを追い出して自分がその場に座ることではない。

 第二次大戦中、日本では敵性語として英語を使うことを禁止した。ズボンは股下(こした)、ゲートルは(巻脚絆-まききゃはん)である。これに対し、アメリカは太平洋戦争勃発と同時に、日本語習得の必要性を認識し、軍隊内に、日本語を理解する「語学将校」の養成に力を入れ始めた。まったく反対の対応の仕方である。相手を排除否定すれば相手に勝つという奇妙な心理が日本人にはあるのだろうか。根底には相手に対する、ひけめ、ひがみ、劣等感、自信のなさがあるのだろう。情けない弱者の心理と対応ぶりである。
 近年イスラムの勃興が激しい。イスラムはかつて西洋キリスト教文化の先輩であった。しかし、過激なイスラム主義者でも西洋文化を否定はしない。最近の報道によると、赤十字マークの十字はキリスト教文化を表わすものだから、イスラムの象徴である半月のマークを入れよという要求があるそうだ。しかし、十字をやめろとは言っていない。付加せよと要求しているのである。日本の幕末に外国の軍艦が来寇し、開国か攘夷かで混乱した。水戸の殿様は、名前忘れが過激な排外主義者で、外国打ち払え派であった。しかし、軍事的的圧力をどうするか対応せねばならず、苦し紛れにパーソナル戦車?みたいなものを試作した。郵便ポストみたいなものに人が入り、足で歩く。銃眼が開いている。こんな馬鹿げたものが役に立つはずがない。
 和音も対位法もないリズムとオスティナートだけの音楽や、日本音階だけの音楽を作って民族主義を自称しても、それは音楽版パーソナル戦車である。日本の作曲が西洋を存分に取り込んで、その上で西洋に対して独自性を打ち出し始めたのは第二次大戦後である。西洋の近代兵器を自分のものにして、その兵器を使って反転攻勢に転じた。

2007.2.9. 金曜 晴 町田

 はじめから意味がない価値がないと思うものを苦労して読む阿呆はいない。

 私は当時、こうした情緒的ではない、理性的で実証的な音楽研究をもとめていた。だからこの本も取り寄せて読む気になった。
 この本の文章の難解さ、そして研究見方の固定偏狭といまでは思う点も、当時は勉強する価値あるものと思った。難解で硬い理論を理解しようと難儀することも、艱難汝を玉にす、とか、若い時の苦労は買ってでもしろ、とかいう格言の実践であったように記憶する。

 しかしいま見ると閉口する所が多い。

 音楽を構造的にとらえようとすることはいいが、すべてその角度からだけ見ようとすると、大事なものが抜け落ちてしまう。著者はさような憂いはまったく持たない。ブルドーザーのごとく前進する。

 ものを構造的にとらえるということは、二つ以上の要素の組み合わせ方を調べることである。しかし、二つ以上でなく、一つだけの要素で出来ているものはどうなるのだろう。単旋律などはこの見方によると手も足も出ない。このことは、日本音楽舞踊会議の作曲部会で研究購読会をした時、作曲家のM君が指摘していた。「ミクロコスモス」にも単旋律の部分が少ないけど存在する。日本の尺八や篠笛、能管の音楽などは構造的解明など出来ない。

 幾らか役に立ったのは、新しい要素に新しい名前をつけて概念化することくらいか。Geschlechtslosenakkord、おそろしく長い名前だが、英語でいえば、sexless chord。長三和と短三和音が混ざったもの。具体的には、C,E,G,が長三和音で、C,Es,G,が短三和音である。EとEsの違いだが、EとEsを同時に置く、両方が混ざった和音、コードのこと。無性和音、無性コード、とでもいう意味になる。「両性コード」の方が正しいと思うが。しかし、こんなコードはバルトークもそう頻々と使っているわけではないし、ほかの作曲家でもそうは使っていない。

 ドイツ人の理論の進め方には、自分の論点以外の見方の存在の可能性を考えもしない所がある。
 フーゴー・ライヒテントリットというえらい学者がいる。「音楽形式論」という立派な本があり、邦訳本も出ている。私は原書と訳本と両方読んだ。その中で、ソナタ形式は第一主題と第二主題が対比的に出来ていなければならない、と論じている。ベートーヴェンあたりが範例になっているのだろう。ただし、そうでないとダメだという言う風に進む。ショパンのピアノ協奏曲の一番も二番も、第一楽章の二つの主題が似ていて対比関係になっていない。だから出来がわるい、こういうことになる。余りに融通がきかないというのか、頑迷で一面的で、絶句する。

2007.2.8. 木曜 晴 町田

バルトーク研究の本のこと

 この本の正式の図書名は、

 Bela Bartoks MIKROKOSMOS
 Versuch einer Typologie neuer Musik

 これを訳すと、バルトーク「ミクロコスモス」、 新音楽類型学試論
 
 ということになる。neuer Musikは、英語では、new music、日本では「現代音楽」という方が普通だろうが、ドイツでは「現代音楽」という言い方は普通しない。「新音楽」という言い方を使う。これは英語でも同じで、「new music」、ということが多い。強いて「現代」という言い方をすれば、ドイツ語では、「zeitgenossische」、英語では、「contemporary」ということになるが、これは何かの理由で強調する時だけで、普通は、「新しい音楽」という言い方をする。この方が言葉として適正であると私には思われる。「現代」というと、なにかいまの時代特有のものがあるみたいに思われるし、いまどきこんな古い音楽、などという言いがかりも誘発する。

 この本の著者は、Hans Ulrich Engelmann、という人。本の装丁がまるで、医学か数学か物理学の本みたいである。日本で考える音楽図書という風情のものでない。私は情緒的な音楽の捉え方に飽き足りまいものを持っていた。だから、柴田南雄先生のバルトークのように冷徹な視点で音楽を解析する方法にもあこがれた。この本もまた、同じ性質のものである。だからこそわざわざ取り寄せた。 いまここで本の内容の紹介をする気はない。そうでなく、こういうドイツ人独特の音楽の見方というか、音楽の見方というか、それと、文の書き方についてふれておきたい。
 まず、ひどく難解である。何でもないことでもわざわざ難しく書いているとしか思えない部分もある。この本の購読会を開いたのは日本でも有数の国立大学の学生たちである。優秀な学生たちで、また頑張り精神も人一倍強い。だから続いたのだろうが、その一人が、この本をドイツ文学の先生に見せたそうだ。するとその先生は、目を通してから、「きみ、これはひどいよ。これはむしろ悪文だよ」、と言ったそうだ。

2007.2.7. 水曜 晴 町田

 ドイツ語は本格的に勉強した。無免許暴走運転のフランス語とは大違いである。

 兄が二人とも医者であったし、昔の日本では学問はドイツからというのが主流の風潮であった。兄の友人たちが尋ねてきても、学生同士の話の中にドイツ語が出てくる。それに戦前は、日本の国がドイツと同盟関係で政治的友好国であった。まわりにドイツ語が満ちていた。こういう幼少期の親密感があるかないかで学習のとりつきが随分と違ってくる。上の姉が昭和10年代の前半にどういうわけかフランス語を勉強し始め、「ふらんす」などという薄い月刊誌を購読していた。何かの折に、いまどきフランス語でもなかろう。時局に合ったドイツ語の勉強でもしたらどうだ、などど親から言われていたが、姉はやめなかった。今考えれば先見の明があった。私の家は北海道大学の正門前で、大学の先生たちも何かと出入りしていた。学問的な空気なんとなくただよっていたこともある。

 芸大に入ってから本格的に文法の基礎から徹底的に勉強した。二年目か三年目の時には専門書が読めるほどになった。夏休みで帰省している間に、バルトークの「ミクロコスモス」研究の本を通読訳した。ドイツの音楽雑誌に広告が載っていたのをアカデミア書房から取り寄せた。薄い本で、50頁くらいの冊子風のものだが、一日一頁の義務を自分に課して貫徹した。
 この「ミクロコスモス」の本は、その後、40歳台になり、ある国立大学の講師を短期つとめた時、やめてからも勉強を続けたいという学生たちが私の家に月一度集まり、これを購読した。これで二度目の対面である。それから、10年くらい前か、日本音楽舞踊会議の作曲部会の人たちが集まりこの本の購読会を続けた。三度目の対面である。

 こうして学生時代ドイツの文献にとりついたのは、ドイツの作曲から何かを学ぼうとしたからである。ところが、その後、どうもドイツの最近の作曲には余り上等なものがないことが分ってきた。私の中のドイツへの関心も急速に衰退した。しばらくはドイツ語はほぼ忘れた状態が続いた。
 ところが、1976年のこと。札幌の現代邦楽団体「群」に随行してミュンヘンに行くことになった。はじめてのヨーロッパである。あちらに着くと、周りは全部ドイツ語。店に入っても、タクシーに乗っても、ラジオ、TVからもドイツ語が聞こえてくる。当り前のことだが。そうなると、昔ドイツ語を勉強したことが思い出され、その成果が活用できないことがいかにも口惜しかった。端的に言えば、昔は「読む、書く」ための勉強、こんどは「話す、聞く」ことが目的の勉強。同じ勉強でも目的がすっかり入れ替った。あちらの同業の人たちと交流の機会が多いし、帰国後も文通が続く、手紙は「書く」ことだが、論文を書くのとは違い、やはり会話の筆記である。
リンガフォンを買った。毎日、懸命に,聞くことと、話ことに熱中した。なんといっても、昔、一通りの勉強をしてあるのだから成果はおおいに上がった。1979年、ミュンヘンの音楽家たちが来日した時には差し障りなく会話できるようになっていた。

 そうなってみて、つくづく気がつくのは、日本で勉強するドイツ語のテクストが非現実的であることだ。あちらに行けばいやでも目に入る言葉、公共の場での言葉などがまるで載っていない。たとえば、駅の線路の番号、何番線というもの、ドイツ語ではGleisという、一番線、二番線を、Glies 1. Gleis 2.というが、これがテクストで出て来たのを見たことがない。それから許可する、許可しない、という言葉、これは、gestatten、立入り禁止、などの時は、nicht gestattetと書いてある。これもテクストではお目にかかったことがない。
  これはドイツ語だけでない。最近はラジオ、TVで外国語の番組があり、こちらの方はそういうことはない。戦後、アメリカの進駐軍が来た時、見たことがない言葉が目についた。学校で教えてくれない言葉。off limits、なんてどこの教科書に書いてあったか ! ラジオ放送のことを、Radio network、という。これもしかり。 こういう外国語の教科書テクストを作る人たちが、どれだけ鈍くて、知ることの喜びに遠い意識の人たちということではないのか。

     さて、引き合いにだしたバルトーク「ミクロコスモス研究」、これについて一席弁じておかなければならない。たいへんなしろものである。

2007.2.6. 火曜 晴 町田

  英語の講座では、サマーセット・モームの「The Colonel's Lady」、中野好夫訳では「大佐の奥方」がおもしろかったし、後々まで訳本を買ってきて読むほど関心を持った。ただ、この小説、若い学生のための教材に適するかどうか甚だ疑問である。中年過ぎに夫婦の話で、これが判るのはかなりの年齢と人生経験を経てからのことではないかと思う。

 イギリスの陸軍大佐の家庭、子供がいない夫婦で、中年を過ぎた二人の中は冷えている。食事は広いダイニングの長いテーブルで、その両端に二人が座り、執事がはべる。壁には歴代の先祖の肖像が並ぶという生活。ところが、ある時、とんだベストセラーが評判になっていることを大佐は知る。中年過ぎの人妻が若い男と愛しあい、狂熱的な情事を続けるが、やがて男性の方が病にたおれ死ぬ。<Though Pyramids decay>、「ピラミッド崩れるとも」、という題。大佐がだいぶたってから友人に教えられて知った。その小説の作家は奥方であった。道理で、クラブで会う友人たちが自分をおかしな目で見たり、薄笑いを浮かべたりすると気がつく。慌てた大佐が友人の弁護士の所に相談にいくが、友人は、いまさら騒いでみてもどうなるものではないし、かえって世間の好奇心と評判を集めるだけだからそのままにしておくのがよい、と忠告する。その通りにするわけだが、最後の一句がモームらしくひどい。
 「あの女のどこがよかったのだろう」。
 これは若い学生には判るまい。なんでこんな小説を先生は教材にしたのだろうか、いまもって不思議である。

 英語は、初級、中級、上級、の区別はなかったように思うが忘れた。ゴールズウォーシーの「林檎の木」、<The apple tree>は一年の時の講座だったが、これが初級とも思えない。ゴールズウォーシーがモームより語学的にやさしいとも思えないし。ロンドンの大学生が田舎の娘に口約束をして忘れ、娘は思いつめて自殺するという話で、どこにでもある話である。

2007.2.5. 月曜 晴 町田

 
    専門学校の副科の講義というものは、露骨にいえば単位取得のためのもので居眠り半分に聞いている場合が多いのが正直なところだろう。しかし時に、居眠り半分でも聞いていてよかったというものがある。だから、あだやおろそかには出来ない。学校制度の有難味もそこにある。

 美学の講座があった。講師は加藤成之先生だった。加藤先生は当時音楽学部長でもあり、悠揚せまらず、先生ご自身も眠気を保ちながら講義しておられる風情であった。
 講座のはじめに、美学は哲学の一部門であることを話され、その上で哲学の分類の話をされた。哲学は大きく幾つかに分類されるという。分類の方法としては、ヴィンデルバント-Wilhelm Windelwand (1848-1945)-によるとのこと。近頃では実存主義などの新しい方法もあるが、ヴィンデルバントの方法は古典としてこれまで通用してきたので、ともかくこれに従うとのことだった。これも大切なことである。新しいことを知ることもいいが、その前にこれまで通用してきた古典的なものを踏まえることが大事だ。

 この分類によると、哲学は、本体論、認識論、価値論、に三つに分類されるそうだ。そして、美学はこの中の価値論に入るのだそうだ。これはとても大事なことに思えた。いい、わるい、という価値を論じることが美学の仕事だということだから。批評は美学の実践だろうが、やはり価値論の一部ということである。よしあしに触れない事なかれ主義のあいまい批評はだめだということだ。
 こういう基礎中の基礎に属する知識は自分で本を買ってきて獲得しようとしても、何の本に書いてあるか分らないし、本を見つけたとしても、それがいまどの程度の権威あるものか、それをまた別に勉強しなければならない。途方もない回り道をすることになる。この基礎知識は現在にいたるまで役に立っている。

 「ショパン前奏曲集・全曲の研究」、半年六回ににわたったが次回が最終回になった。二月23日金曜午後六時半から。
 広瀬美紀子さんが毎回ピアノの前に待機し教材演奏をしてくれた。至難な曲をよくひいてくれた。もっとも聞くところによると、七月にリサイタルを開き、そこでこの全曲をひくのだそうだ。その「前奏」でもあったということ、予行演習でもあったそうだ。前回の第19番、よくもこんなに難しく作ったものだ。広瀬さんはよくひいてくれたが、昔の人はピアノがうまかった。ショパンが誰かに頼んでひいてもらったとう話は聞いたことがない。楽器の機能はどうなのだろう。も少し鍵が軽かったということはないのだろうか。この作曲者の細部にわたる手の入れ方は大変なものだ。こういう所はドイツ系の人より日本人に似ている。伝統工芸の職人の美意識に似ている。少しやりすぎではないかとの感すらある。

2007.2.4. 日曜 晴 町田

スペインの薔薇」について

 この小説の出だしは現代で、若い詩人のファベック、Fabeckがしばらく別れることになる恋人と、最後の晩に、公園で別離の時に語り聞かせる自作の物語という型になっている。

 それは真夏の夜だった。"Es war in einem hohen Sommer."すでに暗くなった公園の中を二人は手をとりあい歩んでいく。聞こえるものは遠くの犬の声と、池の蛙の鳴き声だけ、積み上げられた干草の強いにおいが香ってくる。こんな描写で、ここがとても詩的だった。ドイツ人はこういう牧歌的な場面が好きだ。物語が緊張してくると彼女の手が震える描写もあった。別れを前にしてのことだから、昔の恋人たちの別離と信義の話をしたことになる。

 若者が姫に愛を告白する場面も映画のようであった。隣の領主を迎えた川面の漁の催しの時、姫を乗せた小船だけが川の無人の中州に着く。船頭を船に置いて姫は一人で静寂な中で瞑想する。うす雲の上から太陽が少し強めの陽光を送ってやや蒸し暑く、あたりは静寂に包まれ、何の音も聞こえない。すると、いつのまにか若者が脇に立っていた。彼はかねてからこの機会を待っていた。かたわらに坐った若者は姫の手をとり、愛していたことをつつましく告げる。姫は聞こえないくらいの声で、"Ich auch"、 「私も」、と答える。あの頃、イギリス映画で「ハムレット」が来た。ローレンス・オリヴィエ主演の映画である。その中でオフィリア役を演じたのが、ジーン・シモンズという女優さんだった。無垢にして気品ある乙女の香りをただよわせる人で、私は勉強中いつも、Oktavia、オクタヴィアと名乗るこの姫のイメージにジーン・シモンズの映像を重ね合わせていた。シモンズは1929年生まれ、この映画「ハムレット」は1948年のものだから、撮影当時シモンズは19歳だったことになる。

 こうした牧歌的で田園的で浪漫的なものを好むドイツ人の特性と、何度読んでも分らない抽象的で難解な文言、文章以前にそういう考え方、思考癖があるのだろうが、そうした抽象的でがちがちの鎧に閉じこもりたがる特性とはどう結びつくのだろう。つくづく不思議である。
 
2007.2.3. 土曜 晴 町田

 こういうテキストはいまでも頁を視覚的に覚えている。それと先生の声も、20歳前後というのは記憶力が最も敏感な時期であるのだろう。この時期に大事な勉強をしておくことはつくづく大切なことと思う。高校、大学の時期である。
 こうして無免許運転したフランス語は、50歳台になり、本を買ってきて自力で学習のやりなおしをしたが、いまだになかなか身につかない。

 ドイツ語の方は、兄が二人とも医者だったので、何かとつきあいがあった。こちらはまじめに過程を踏んで学習した。
 思い出が深かったのは、Werner Bergengrunn、ベルゲングリューンの「スペインの薔薇」−Der spanische Rosenstock。この作家は、かつての西ベルリンのカトリック系の作家。カトリックの作家は、日本の遠藤周作や曽野綾子のように、信仰とか信義というものを実人生での出来事に置いて提起する。

 中世末期、ドイツのさる領主国、姫に臣下の若者が恋する。二人は愛を誓いあうが、身分の違いがあり、いまのままでは結婚できない。若者は財産を作るべく遠い土地へ出かける。多分アメリカだ。アメリカがこういう型で登場する所も私にはおもしろかった。若者は、危険なことだから、自分が生きて帰られるかどうか分らない。と言って、一鉢のバラの鉢植えを置いていく。これを自分の分身と思ってほしい。このバラに何か異常が起こったら自分の身に何か起こったとを意味する。バラが枯れたら自分は死んだと思ってほしい。その時は、ためらわずに新しい人生を選んでほしいと言い残す。こうして彼は去るが、この姫君に横恋慕する性悪男が登場する。そしてバラの鉢植えの意味を推察する。あろうことか、鉢植えのバラを別なバラとすり替え、本物は庭園のすみに投げ捨てる。ニセ物には枯れ葉剤をふりかける。さて、姫はどうすべきか。小説では、悪い奴は正体を見破られ、宮廷から蓄電する。そして姫は、ある時、庭園の片隅に華麗なバラが咲き誇っているのを発見する。まもなく若者は財産を貯えて帰国し、二人は晴れて結ばれる。
 というわけだが、姫は、バラが枯れたのを知った時どうすべきだったか。恋人は、バラが枯れたことは自分の死を意味するのだから、その時は別な人生を選んでほしいと言った。だから、ニセ物にせよバラの鉢植えは枯れたのを知った姫が、別の男を選択しても罪にはならない・・と私には思えるのだが。作者の答えは難しくて今も全面的には分らない。

 このテキストも悪者が消える所くらいまでで学期が終りに近づいた。阿部六郎先生は残りを二回くらい独演で話してくれた。悪者が本物のバラを庭園の隅に投げ捨てた、という所で女子学生の間から「あー、かわいそう!」という声があがった。

 このテクストは何故か印象が強く、いまでも最初の一頁はドイツ語で暗証している。30歳台になった頃、本屋に対訳本があったので買った。つい最近もまた読み直した。おとぎ話風の部分はともかく、最後の部分、信義とは何か、という要約の部分になると、いま何度読み直しても分らない。ドイツ人の文章は分らない。余りに抽象的な言葉と表現が多く、つい最近も何度も、原語の部分も邦訳した部分も読み直したが分らない。

 2007.2.2. 金曜 晴 町田

 昨日の夜あたりから寒くなった。季節としてはこれが当り前。
 今朝、芸大同期ピアノ科の女性Cさんからの電話。夏の軽井沢公演について貴重な情報をもらう。持つべきものは良友、旧友。

「海の沈黙」その二

 この小説の舞台。

   独仏国境のフランスの森の中の一軒家にフランス人の中年男性「私」と姪の若い女性二人が住んでいる。そこへ不意にドイツ軍が進駐してくる。ドイツ軍の青年将校が部屋を借りる。この青年、おそろしく礼儀正しく、教養もある。二階を借りるのだが在宅時は常に私服で、二階の小型オルガンでバッハをひいたりする。時に降りて来て、二人のフランス人を相手に、文学、音楽、哲学の話をする。しかし、フランス人二人は一言も答えない。これがレジスタンス。フランス中が沈黙している。だから「海の沈黙」。

   だが、この青年はある時、パリのドイツ軍司令部に出張し、ナチスの正体を知る。幻滅と同時に独ソ戦線への転属を知る。生きて返れるわけがない。そして二人に「さようなら」を言う。フランス人二人はこの時はじめて「さようなら」と答える。原文では「さようなら」は「adieu」、これはただの別れではなく、二度と会わないであろう相手に言う言葉、日本語なら「さらば」とでもいう言い方だそうだ。英語なら「see again」や「goodbye」ではなく「farewell」に相当する。
 よく出来た話だ。あとで邦訳本を買ってきて読んだが、この講義を聞いていなければ素通りしたであろうことも、ありありと覚えている。自動車教習所の先生から聞いたが、耳から入ったものは本から知ったものより、はるかに深く意識に入るのだそうだ。

 ソ連戦線へ向かうことを「これから育つ麦が死体から生えるであろう土地」と表現した部分があった。何より、いまでもおもしろいのは、二階のオルガンでバッハをひいていた青年が階下に降りてきて、「自分は実はこの音楽は余り好きではない。なぜなら余りにも偉大だからだ」と言う所。そして、「自分は、ラモーとかリュリなどのフランス音楽の方が好きだ」、と言う。等身大の音楽だからだ、と。これは私も同じだ。「バッハは偉大過ぎて好きになれない」、こういう人が私以外にもいることをここで知った。
    このドイツの青年将校の名前は、Werner von Ebrenack、ヴェルナー・フォン・エブレナック。この名前を聞いて作中の「私」は、これはユグノー教徒の子孫だと分る。ユグノー教徒は、宗教改革の時、フランスにも新教に同調した人たちがいて、弾圧を避けるためドイツに逃げた。Ebrenack、エブレナックという名前はドイツ人のものではない。だから、ユグノーの子孫、つまり先祖はフランス人ということ。名前から家系まで分る、そんなことがあの辺ではあることも知った。
 
2007.2.1. 木曜 晴 町田

   とうとう一月が終り、ようやく二月になった。二月もすぐに終るだろう。時間が経つのが早い。

「海の沈黙」

 芸大在学中、外国語の時間に教材となったものは今になっても知ってよかったと思うものが多い。普通、こういう専門課外の時間は単位取得のための手段で、出席さえすればいいみたいなものである。しかし、何故かこれらの教材はすべて知ってよかったものだった。

 英語では、ゴールズウォーシーの「林檎の木」、サマーセット・モームの「大佐の奥方」、ドイツ語では、ベルゲングリューンの「スペインの薔薇」、ヘッセの「ラテン語学校生」、ゲーテの「新メルジーネ」、シユミットボンの「慈善舞踏会」、フランス語では、ヴェルコールの「海の沈黙」。

 フランス語だけ教材が一つだが、これには訳がある。どの課も、初級、中級、上級、の三段階があるが、フランス語は当然はじめてだから初級をとった。だが、先生が気に入らなかった。私の質問に対してひどく不親切な答えしかしてくれまかった。英語との類似を尋ねたのだが、英語を引き合いに出されること自体不快だったようだ。現在、自分がその時のこの先生よりはるかに年長になり、人生経験も積んだので、その時の先生の心情は理解できないものではない。しかし、やはり教育者としてはだめだ。私は至って礼儀正しい態度で質問した。それは今でも自信を持って言える。

 というわけで、やけくそ的に上級に飛び込んだ。無茶な話である。初級をまっとうしていないのに上級を受ける。その時は先生の話を聞くだけでいいと思った。もちろん試験は受けない。だから単位はとれない。文字通り話半分以下覚悟の聴講である。テクストがおもしろかった。レジスタンス小説である。ヴェルコールの「海の沈黙」。当時まだ戦後七年目、この時点でのレジスタンス小説は生々しかった

 なにしろ話半分か半分以下の聴講だが、覚えている部分がある。まず最初の書き出しの部分。「d'abord une torpedo」、「始めに来たのはトルペドだった」、トルペドとはドイツ軍の軍用小型車両、ジープのようなもの。フロントグリルにスペア・タイアを張り付けた奇妙な型の軍用車、記録映画で見かける。これをトルペドということはここではじめて知った。――続く

2007.1.31. 水曜 晴 町田

  のところ好天が続く、今日は気温17度、四月上旬並み。有難い。去年の厳冬にはまいった。北国の出でも寒いのはご免だ。ショパンの家を訪れた時の寒さは前代未聞ものだった。あの寒さがあの音楽にしみこんでいる。
 
  27日土曜日は、出身母校、札幌第一中学、いまの札幌南高の新年会。池袋のトヨタのビルの14階。午後四時からで、好天の夕方、富士山がみごとな影絵を見せた。私たちは旧制中学卒業者は僅か。仕方ない。しかし、私たちよりさらに先輩も何人か見えた。すでに90歳を超えた人も見えた。

 こうして札幌一中の先輩同輩後輩の中に身を置くと、私たち札幌一中の先輩に当る画家、三岸孝太郎のことが私には身にせまる。31歳で世を去ったすぐれた才能。その妻、三岸節子からも逃れ難い語りかけが私には聞こえる。孝太郎は、自分の生地を「石狩ルーラン海岸」と記した。現実には、彼は、札幌市内の薄野の生まれである。
「ルーラン海岸」、それは鳥も通わぬ荒涼たる断崖の地である。なぜか? しかし、私にはそれが心情的に共感できる気がする。だからこそ私は、電子音楽、「風のうた」の中に、荒涼たる風の吹きすさぶ場面を置いた。あの時、私はまだ孝太郎のことを知らなかったのに。それなのに何故?北の呼ぶ声か。北の風が呼ぶのか。北の土が呼ぶのだろうか。

 私が少年の頃、札幌の市内から少し行くと、すでに人跡を余り受けない土地がひろがっていた。人の手は入ってはいたが僅かである。野生の土地だった。そうした感覚が私の中には根強く生き続けている。幼い日、ある好天の日の朝、二階の窓から兄が外を見て、「今日は増毛の山がよく見える」、と言ったことをいまも覚える。その次兄もいまは亡ない。
 人は去り、時は去る。アポリネールの「ミラボー橋」のように。「月日は過去り、私は残る」。


2007.1.30. 火曜 晴 町田

 毎日、小田急線経堂駅から乗って町田駅で降りる。仕事場が町田だから。帰りはその逆。この往復の間、考えることに使うこともあるが、経堂に区の図書館が出来てから本を借りて読みながら過ごすことが多くなった。
   先日、ハヤカワのミステリー新書を借りた。アメリカのミステリーものは風土が馴染めないので余り読まないが、これは面白かった。ビル・バリンジャーの「美しき罠」。シドニー・シェルダンに似ている。二日間の往復で読了。今日は続いて、ノベルト・ジャツクの「ドクトル・マブゼ」、これは映画になって昭和10年代の前半に評判になった。小学生だった自分は見ていないが、兄姉たちが評判を熱心に語っていたことを覚えている。今日来る時に読み始めたがやはり面白そうだ。当分、こういう電車の使い方をするこさになりそう。
 
    「第九」の観察で、私は初歩的な間違いをおかしていた。
 「Freude」の主題は8小節×2=16小節かと思っていたが、後半を二度くりかえしているので、8×3=24である。主題は四回繰り返される。一回目は無伴奏の初登場だからいい、四回目も頂点だからこれもいい。問題は二回目と三回目だ。24小節×2だから48小節。遅めのtempoで48小節、悠揚たる主題だから、この間を弛緩しないように持続することは容易なことではない。作曲者は、この二回目と三回目の部分で技巧の限りをつくしている。四回目が明快な高揚の結果だから旋律対伴奏の明確な構造である。四回目に対する対比のため、この二回目、三回目は対位法の様式で一貫、貫徹している。主題に対して、からむ対位旋律が二回目では一本、都合二本の旋律のからみ。三回目は対位旋律が二本から三本、都合、三本、四本の旋律が狭い音域の中でからみにからんで、緊密な糸のように編み上げられている。こういうのを練達のプロの仕事というのであろう。
    「第九」のように周知の曲で馴染みつくしている曲は、いまさら見出すことはないように思うが、とんでもない。全曲の最後、Prestoに入ってからの低音の動きも、斬新な発見が今ごろ見出される。
     毎年、何度となく繰りかえされ、人が飽きないということは並大抵なことではない。

   今日は30日。明日で一月が終る。そろそろ八月の軽井沢公演の準備を始めよう。

2007.1.29. 月曜 晴 町田

アムール川

 1972年か73年当時、羽田発の飛行機がハバロフスクに向う。

 着く少し前、前方にすさまじい大湿原が見えてきた。人界を絶した広漠無限の大荒野である。その中に数多の細長い型の水溜りがある。水溜りが散乱した型になっている。雨の跡、舗装しない道の上に人の靴のあとが多く残り、そこに水が溜まっていることがある。そんな型がべらぼーに大きくなったものと思えばいい。スチュアデスにこれは何であるかと問うと「アムール川である」と答える。川というものは大小は問わず長い型をしているものと思うので、「この数多の水の溜まりは何であるか」とも一度聞くと「全部アムール川だ」と答える。よく見ると水溜りの一つの中を船が通っている。煙を吐いている。してみると、水溜りはどこかでつながりあっているらしい。従って散乱してはいるが、どこかでつながりあって川になっているらしい。そのつながりを辿りながら船は航行しているのだろう。

 この光景は、小松左京氏がどこかで同じような描写で書いていた。すると、この散乱した大河は洪水などではなく、これが常態らしい。ガンジス川について堀田善衛氏が似たようなことを書いていた。「人間の寸法を無視した自然」と書いていた。まさに人間の尺度を無視した自然である。地球上にはおそろしい場所があるものだ。日本では北海道東の根釧原野あたりが景色としてはそれに近いのだろうが、縮尺が途方もなく違う。しかしこれは逆に考えるべきで、人が住みやすい所、自分の間尺に合った所に人が住み着いたのだろう。そういう場所しか知らないと、地球上どこでも自然は人の寸法に合っていると思い込んでしまう。大陸とはそういうものではないということ。

 思い出すのは、ウィーンからスロヴァキアに鉄道で向かった時のこと。ウィーンから30分ばかり行った所で何かの理由で列車が止まった。広々漠々とした荒野原の中。湿原らしく小川が流れているが、川の岸は溢れていて岸と川の境がはっきりしない。大きな自然倒木が転がっている。ここがユーラシア大陸の一部であることを知った。ヨーロッパはユーラシア大陸の一半島だ。アムール河の大湿地帯とガンジスとここは地続き。人を無視した自然の地でここもある。だからこそ人を強く意識した文化がここで育ったのかもしれない。冬になりここに雪が積もったからどういうことになるか。シューベルトの「冬の旅」は自然の中の人の孤独と寂しさを詠ったのだろう。

2007.1.28. 日曜 晴 町田

イルクーツク

 イルクーツクは江戸時代、漂流した大黒屋光太夫一行がしばらく滞在した町である。それがエカテリーナ女帝の頃。ここは1600年代にコサックの建設した町で、人口は1995年で66万ということ。アンガラ河畔に公園があった。対岸にも住宅が密に建っている。案内してくれた中年の人は、第二次大戦前は川向うには人家は無かったと言っていた。こんな広い国でも人と住宅が増えている。

 イルクーツクはバイカル湖から流れ出る大河アンガラ川のほとりの町である。バイカル湖というのは不思議なことが多い湖で、多くの河がこの湖に流れ込むが、湖から流れ出る河はこのアンガラただ一つ。アンガラは北上してやがてエニセイだかオビだかに合流する。 バイカル湖は地図で見るように細長い型をしている。この長い方の長さはどのくらいかというと、ほぼ、東京岡山間、湖の概念を超えてまるで内陸の海である。嵐の時には大型の船が難破することもあるという。おそろしく深い湖で、湖畔の湖沼学研究所を見学したが、湖のプラスティック製の模型が置いてあった。長い方が約一メートルくらいの模型だが、深さがやはり一メートルくらいある。横と縦の長さが同じくらいである。淡水性のアザラシがいたり、ここだけの奇妙なものが沢山あるそうだ。

 イルクーツクは湖畔の町ではないが、バイカルまではバスで一時間もかからないから近い。ここから北の新興都市ブラーツクまでは東京大阪くらいの距離だが、鉄道がない。道路もない。交通は飛行機である。大型の四発ジェット旅客機がバスみたいに飛んでいる。飛行機もここでは電車バスみたいなものだから、いなかのお婆さんみたいな人まで気楽に使っている。もう一つはアンガラ河上を走る水上翼船。これは実用交通機関で時速60から80キロ出る。高速バスなみである。経済性を考えれば、空を飛ぶ飛行機か、水上を走る翼船の方が経済的である。道路建設費も鉄道建設費も要らないし、自然破壊も少なくてすむ。飛行機から見える地上は一面の大森林である。タイガと呼ぶ。東京大阪間が森林で埋まっているわけである。しかし、ところどろこに開発の跡が見える。ここも少しずつ人の手が入っていくのだろう。

 ブラーツクは人工都市。開発の最初は航空写真で土地を選び、工場と住宅を建てる。住民の生活のための店の類い、学校、劇場まで建てる。給料はモスクワなどの二倍以上だそうだが、それでも来る人は少なくて政府の悩みの種との話だった。僻地手当を存分に出しても、こんな辺ぴな所に来る人はいないのだろう。社会主義になっても人の心は変らない。ここはそれだけ高給とりが多いためか、モーターボートなどの高級レジャー用品も多く売っていた。社会主義もそれなり懸命の政治をやっていたのだろうが、うまくいかなかったのだろう。これが資本主義国だったらどうだったろう。

2007.1.24. 水 晴 町田

 今朝の新聞でシベリア、イルクーツクのことが出ていた。

 1973年、訪れたこの町のことを思い出した。イルクーツクは東シベリアの中心都市である。
 日本ではシベリアという地名をあいまいに使うが、正式には、ウラジオストーク、ナホトカ、カムチャツカはシベリアではない、あの辺の地域名は「極東」である。シベリアはさらに西と東に分れる。東シベリアの中心都市−首都みたいなものか−はイルクーツク、西シベリアの中心都市はノボ・シビリスク。ノボは新という意味、英語のnew、シビリスクはシベリアの町という意味、スクとは町という意味、ハバロフスクとはハバロフの町という意味。ハバロフという探検家が町の開祖となったことからきた名前だそう。だから、ノボ・シビリスクとは英語でいえば、new Siberian townということ。また、イルクーツクは、イルクートの町ということになる。イルクートとはこの辺に住む先住民族の名前。バイカル湖の北に、ブラーツクという新興工業都市がある。これはブリアート族の町という意味。
 あの時、案内してくれたのは、トーニャさんという女子大生だった。英語が達者な人で、当時22,3歳くらいだったから、多分、1950年くらいの生まれだろう。この世代は一番社会主義の教育を受けた世代だろう。純粋培養世代といっていいだろう。自分の国の体制を無心に信じていた。いま50歳台、いまの歴史の変動をどう受けとめているだろう。社会主義はやめた、資本主義にもどるぞ、こんなことが一夜で決まる不思議な国だ。もっとも太平洋戦争で降伏した日本が少しも反乱抵抗もなく、おとなしく占領を受け入れたのと似ているような気もするから他人ごとではない。アメリカ軍に抵抗を続けるイラクや、かつてのヴェトナムのような国もある。ブッシュ大統領も、イラクが日本のようにおとなしく従うと思っていたようだ。とんだ間違いだった。

2007.1.23.  火 晴 町田

 自分の作曲で一休みする時は「第九」のscoreに目を通す。週刊誌より面白い。英文学の友人が似たようなことを言っていた。仕事の合間にはShakespearやDickensを読むともなく広げていると。古典はほんとうに面白い。
 
  「第九」の第四楽章、「Freude」の主題が低音にいよいよ登場する。それからこの主題は次第に音を増やしながら都合四回繰り返される。名旋律ではあるが、偉大なるが故に単純な16小節のこの旋律、これを四回繰り返すことはかなりの工夫を要する。一回目は初登場だからいい、また、四回目は到達点の高らかな総奏だからこれもいい、問題は二回目と三回目だ。これを退屈させないよう、しかも、次第に盛り上がるようにするのは至難の業だ。対旋律を配してこれに充分すぎるくらいの情報量を仕込む。二回目は対旋律一本、しかし三回目は対旋律は二本、三本となり、糸が何本も絡み合うような複雑な構造となる。この16小節は間然なき緊張の持続で聞く者をひきつけてやまない。音楽の構造自体が次第に盛り上がるように出来ている部分は、人為的なcrescendoは不要だ、と言った名指揮者の言葉を思い起こす。
 いま新発見したことは、二回目の時、楽節の区切り目で完全終止を避けていること。主和音は第一転回の低音を置いて不完全終止形をとっている。ここであぐらをかかないようにしている。なんたる芸の細かさ!?
 
 札幌一中の道外クラス会の準備、またまた。今度は年三回にしようという目茶な案が通ってしまった。往復はがきに四月のカレンダーを書き込み、都合のいい日わるい日のアンケートを発送する。往復はがきのコピーというのは恐ろしくむずかしい。往信面、返信面を間違えないように刷らなければならない。「第九」の研究よりこの方が頭を使う。昨日から暖かい小春日和が続いてこころよい。
 
 
2007.1.20. 土 ときどき小雪 町田

 Chopinの研究をしていると、半音の緊張と三和音の解放感がたくみに組み合わされていることに感心する。半音と三和音、この二つは西洋近代音楽を作りあげた最大要素だろう。そして、この二つとも日本の伝統音楽にはなかった。日本だけでなく、西洋以外の地域の伝統音楽にはなかったのだはなかろうか。インド音楽は複雑だそうだから、あるいはあるのかもしれないが。
 日本の在来音楽は五音音階旋法で出来ている。五音音階、pentatonicは、倍音音列の基音から第四音までをとり、それを堆積したものである。もう一つ第五音までとれば三和音になった。どうしてそうしなかったのだろう。第五音までとったのが西洋の三和音。ここに文明な分岐点が出来たのか。四つ目までの文化と五つ目までの文化、思えば不思議なことである。両方とも、ともに自然の原理に発していることに違いはないのに。

 Max Weberは、なぜ西洋にだけ合理的な文化が生まれたのか、と自問している。その中に絵画の遠近法とか、倍音系列に発した合理的和音とかもあげている。ただし、注意すべきは、Weberはその論を価値論にしていないことである。だから西洋文化はすぐれていると言ってはいない。五音音階の美しさはすばらしい。日本の伝統音楽にそれを聞くことが出来る。箏曲の美はまさにここにある。西洋音楽でも、Debussy, Ravelは五音音階をすすんで取り入れた。しかし、それは西洋音楽の財産の中に組み入れたので、だから使い道も豊富になったのだ。日本の伝統音楽にはそれに相当する財産がないから、五音音階の使い方も限られてくる。自然の原理からの汲み取り方が民族と文化により異なること。ここに何か民族の体質感覚の大きな秘密があることは間違いない。
 文化は本来混血するものである。ルネサンス期の欧州も先行するイスラム文化を大々的にとりいれた。文化の純血を主唱しても無理だろう。文化の純潔主義は政治的動機から発するものであろうが、限界があろう。日本が西洋文化を受け入れたことも、なりゆきからして自然なことであった。明治以来一世紀を超え、西洋音楽もずいぶんと日本人の中に定着した。この頃は本場の西洋でも余りよくない演奏もあるし、日本人のすぐれた演奏は本場の人よりもすぐれて、あちらの音楽を演奏することもめずらしくない。ただ、倍音四番目の文化と五番目の文化の差異は決定的に消滅するのだろうか。するとすれば、どのくらいの時間がかかるのだろう。

2007.1.19. 金 晴ときどき曇 町田

 「千の風になって」について今朝の新聞に記事が出ていた。訳詞作曲の新井満さんは芥川賞作家でシンガー・ソングライターだそうだ。それなら、もう少し言葉の選び方に気を使ってほしかった。
 それはともかく、この詩が人の死があたえる喪失感へのなぐさめになっることはその通りだろう。死んでほしくない者もいつかは死ぬ。人はそうした無情の世界に生きることを運命づけられている。願望と現実との乖離、そうした世界に満たされぬ願いを持ちながら生きる者が人間である。願望が実現されるなら人は人でなくなる。

 この詩は人の心をなぐされめるが、私は、別に釈迦の話に救われたことがある。釈迦のもとに、ある母親がやってきた。子供を死で失った母親である。母親は釈迦に死んだ子をよみがえらせてほしいと嘆願した。釈迦は答えた。「あなたは死者は生者より劣った存在と思っている。それは違う。死者は生者の下にあるのではなく、生者は死者の上にあるのではない。あなたの子供は生きている時と少しも違わない、いまでもいるのだ」、と。死者は生者の下にあるのではなく、生者は死者の上にあるのではない。愛する者を失った者はこの言葉からどれだけの深いなぐさめを受けることか。聖賢は人の存在の非条理を知り抜いた人だった。
 カントはこうも語った。「もし人類がすべて緑色のサングラスをかけていたらどうなるか。世界は緑色であると人は信じ、疑うこともないだろう。しかし本当は分らない。サングラスをはずした時、世界はどう見えるか、それは誰にも永久に分らない。サングラスをはずすことは出来ないのだから」。人が限りある存在であることをカントは語った。人は全知でもないし全能でもない、人は神ではない。サングラス無しに見た世界がどうかは人は永久に分らない。自然科学が知りうる世界がどれだけ限りあるものか。所詮緑色の眼鏡に写った世界である。それでもさしつかえない限りの部分が知られているに過ぎない。正しくは、知った、と人が思い込んでいるだけだ。

2007.1.18. 木 晴ときどき曇 町田

 「千の風になって」という歌が評判になっている。「紅白」でもクラシックの歌手が歌いCDがヒットしているそうだ。アメリカの無名の女性が書いた詩を日本のフォーク系の人が邦訳して歌をつけた。大意は、死んだ人が「私は死んでいない、千の風になって空を吹き渡る」というようなもので、とてもいい詩である。

 その第一節。
  「私の墓の前で 泣かないでください
   そこに私はいません 眠ってなんかいません」

 私はこの「なんか」が気に入らない。品がない。これをなくした方がずっといい。
  「そこに私はいません 私はそこに眠っていません」−−−この方がずっといい。

 感情は抑制してこそよく表現される。私は、自作「ちいさな いのちの ために」を作曲した時、何度書き直したことか。つい感情が露骨に出てしまう。すると、自分が本当に表現したかったもの、人に伝えたかったものとはどうも違ったものになってしまう。苦吟のあげく到達したものは、イタリア古典にも似た様式のものだった。CorelliかTartiniのような。格調ただしく、様式を整えた、感情を様式に従属させた、悲哀を押さえたものだった。こうしてはじめて人の心深くにある悲しみを表現することが出来た。最近初演されたViolin曲「龍舌蘭」もしかり。この曲もほとんど終り近くまで出来かかっものを破棄して始めからやりなおした。そのため完成まで六年かかった。
 「千の風になって」の詩についてはNHKがTVで放送した。日本のほかに、アメリカでも、アイルランドでも作曲された。私はアイルランドの曲が一番気に入った。日本の作曲者が語っていたが、この詩を大声で朗唱し、それから自室で閉じ込もり瞑想したそうだ。私はそういう発想はしない。詩には黙読しかできないものがある。声を出したらすでに別のものになってしまう詩がある。そういう詩には私はそもそも作曲できない。音に出せないから。すでに詩が完結しているのに、その上に何が出来ようか。
 2003年、日唱が初演した私の混声合唱曲「虹の上にいるの」は、初演時は他人の作ということにしていたが、しかし、いま明かすが、実は私の詩である。詩と曲の両方を同時進行で作った。これはやりやすかった。音楽がもとめる詩を自分で作る。一節ごとにそうして進んだ。Wagnerもかえって他人の言葉より作曲しやすかったかもしれない。

 TV12CHの「美の巨人」はいい番組だ。時に得難い画家を教えてくれる。先日はアメリカのエドワード、ホッパーという画家。19世紀末に生まれ20世紀半ば過ぎに亡くなった人。この人の画中の人物はすべて描く者から視線を避け、おしなべて孤独の影がある。寂しさ、孤独、哀切、こうしたものは何故芸術に魅力を備えるのだろう。音楽でも、Schubert, Chopin, Faure,人の心にしみ入る音楽には何故か寂しさがある。私の曲もこの頃は悲しい曲が多くなった。というより、生活上の感情を曲に詠うことができるようになった、という方が真実である。それでこそ作者にとって必要なものではないだろうか。

2007.1.14. 日 晴ときどき曇 町田

  凶悪な事件が続く、一方では政治家のカネ疑惑が次々と出てくる。
 
 世の中どうなったのかという有様だ。しかし、これは、人の心の中には途方もない悪がひそむという恐ろしい秘密の現われである。中世の人たちが悪魔という型で表現したことの方が本当であるということだ。尻尾を持つ動物として悪魔がいるわけではないが、人の中には恐るべき悪が棲むという意味では、擬人化したり、動物の型にたとえる方が分りやすい。唯物論などという愚かな擬似哲学が現われたり、自然科学などという子供の知恵がここ200年ばかりで過大な評価を得たが、こんなもので人の内側がわかるものではない。ヴィクトル・ユーゴは、「人の心は海よりも空よりも壮大である」と書いた。資本主義のもとでは人が利潤追求にはしることが悪であると唯物論は説いたが、それを封殺すると事業意欲が低下し社会を豊さにすることもできなくなった。挙げ句の果てに社会主義はみずからの首をしめて崩壊した。
 人を殺したり、カネをごまかしたりすることは自他ともにに許してはいけないことではあるが、各人は自分の中に同じことをたくらむ悪魔が棲んでいることを知らねばならない。悪魔と天使、地獄と極楽、昔の考え方の方が人の内部について正しく理解していた。

2007.1.13. 土 晴ときどき曇 町田

 DVDでオペラ「カルメン」を見る。
 
 1978年ウィーン国立オペラ版。主役は、カルメンが、エレーナ・オブラスツォーヴァ、ホセが、ドミンゴ、二人とも全盛期で見事な歌唱演技である。演出、装置とも贅を尽くしたもの。ウィーン国立オペラもこの頃は贅沢な演出をしていたものだ。いつの頃からか装置は抽象化して経費節約を思わせるものになった。1992年に現地で見た「アイーダ」は廉価版でひどいものだった。凱旋行進も節約行進、これなら東京の初台の方がずっといい。
 
 「カルメン」は、メリメの原作の一部をNHKのフランス語講座の上級編のテクストにとりあげていたことがある。当時、テクストを買って読みながら聞いたものだ。死刑囚が語る物語として始るが、当然、それはホセの身の上話である。オペラでは分らない細かいことが沢山書いてある。煙草工場の女工たちは300人から400人という、大変な人数である。当時のことだから組合など無かったろうが、労働問題はどうなっていたのだろう。日本では「野麦峠」のような女工哀史があるが、メリメのこの物語には19世紀前半の物語にもかかわらず、そういう悲劇性と暗さはまったくない。
 ビゼーの音楽はすきがなく、たるむところが全くない。空前の傑作である。もっとも、喧嘩、犯罪、殺人を題材にしたこの話は当時のオペラでは前例のないもので、劇場上演はかなり問題化したそうだ。二人いた監督の一人は上演が問題化した場合を恐れて辞表を出して逃げてしまったそうだ。この曲もヴエリスモ派、現実派の路線のものだろうが、宮廷の話や、絵物語だけを題材にしていた時代にしては無理ないこと。
 それにしても、一人殺しただけで死刑とは当時は刑が重かったものだ。女の行状も原因なのだから情状酌量ありなのに。いまの日本なら、よほどのことでない限り死刑はになるまい。昨今のように殺してきざんだ場合はどうなるのか知らないが。
 ビゼーといえば、芸大時代、ビゼー出題の和声課題に散々苦労した。ビゼー、フランク、マスネ、ドリーブ、トーマ、こういう人たち出題の課題をやらされた。この人たちはパリ音楽院の教授として課題の出題もしていた。  


2007.1.12. 金 晴ときどき曇 町田

 Chopin、Prelude No.20, do mineur。
 
 ハ短調の悲劇的短章。わずか12小節、codaの1小節が付いて13小節。楽譜編集者コルトーの注釈によると、演奏時間は50秒か55秒程度。この短い断章ともいえる曲が含む悲劇的表現は抜群である。昔の映画の「別れの曲」ではワルシャワの戦禍の跡が映像に流れた。
 この、短い、リズムも簡素な曲が最初の四小節で、聴く者をこれだけゆするのはどういうわけか。美の秘密は解明できない。しかし、型作られたものの跡はたどることが出来る。作品研究の真髄はその中にある。すべては物質としての素材によって物的存在に置き換えられた結果の中にあるのだから。
 その一方法として、最初の四小節の中にある音をたどる。主体的リズムは四分音符だから、四小節の中に、4×4で16個の音が旋律としてある。実際は付点を含むから、19個の音でここまでの旋律線は出来ている。この中で使われている音は、12半音階の音のうち実に10ケ。しかも、もし和音を含む音すべてを数えるなら、12の音すべてがここまでで現われる。この場合は、第四小節目の第一拍で12番目の音が出揃う。三小節の中に四分音符が12個、そして四小節目のプラス1個、つまり四分音符13個の間に12の音すべてが使われている。
 
 12の音が使われていることが問題なのではない。この堂々たる葬送曲の中で、この短い間に、これだけの密度が仕込まれていることが注目すべき点ということである。一拍ごとに倦怠させることなく、新鮮な情報を送り込んでくること。ここにこの曲の圧倒的印象の源泉があり、作曲者の意図が型となって現われている。作曲者自身は12の音を仕込んでやろうと意図したわけはない。そんなことはどうでもいい。結果がそうなっているということである。

2007.1.11. 木 晴 町田

 今日も好天、有難い。

 「第九」の研究は調べている方がくたくたになる。よくここまで手が込んだものを造ったもの。計画の練成からし
て多大な作業であったろう。テノールの行進から最後の「歓喜の歌」の再現まで、もっと手抜きをしても繋がる。それをしないで、あえて一大労力のかかった部分をここに造成したことがすご
 
 Chopin、Prelude No.18. 最終部から五小節目の和音は不可解なり。この和音の構成と氏素性は分るが、垂直的配置が異様である。ただし、前後の文脈からは、なぜこれが、そこに、このような容態で存在するかは明瞭に読み取れる。すなわち、なんの不可解さもなく、自然に理解できる。この場所にこの和音が置かれることそれ自体は定石通りである。しかし、その転回位置が奇妙なのである。しかも、音楽の進行脈絡から、聴覚上に異変がないどころか的確な表現である。さよう判断した上で作曲者は決めたのだろう。
 ほかにもChopinは理論で説明できない、奇妙な、しかし、音楽的、聴覚的にごく自然で理にかなった音を置くことがある。知情、両方から勘案熟慮した結果の処置だろう。単なる思い付き程度のことでこんなことは出来ない。熟慮の結果自身の判断に自信があったからこう書いた。一種の冒険である。
 ここまでの露骨な冒険ではなくとも、また、Chopinほどの天才でなくとも、芸術芸能は飛躍があるから面白い。面白いどころか人が鑑賞するだけの理由と値打ちが出来る。飛躍がない作品は存在する根拠があるまい。足し算引き算だけならコンピュータの方が上等なものを作る。


2007.1.10. 水 晴 町田

「第九」の間奏部、テノールの行進の後の部分、少しずつ検分する。
 
 なにしろ、おそろしく手がこんでいる。これだけ複雑な部分を間奏に置くその努力と努力意志に敬服。昔、矢代秋雄さんが、急いで作曲するとその部分の音楽が水っぽくなる、と言ったが、その通り。その反対例がこの部分。二つの主題が二重になり、次々と転調をたどり、最後にH-durにたどり着く。それからH-moll、そしてD-dur、「歓喜」の主題が6/8の原調で壮大に歌われる。原型のまま出てくるのはここが最後。
 水っぽい仕上がりの反対で、これ以上手を加える余地を全く残さず、手を尽くしきり、音を埋めつくしている。ただ観察するだけで、とてもまだまだ日数がかかりそう。畏敬、敬服、畏服・・・・・・。
 
 Chopinの方にも感服。18番のf-moll、一種奇怪な和音が最後に近く出てくる。わずか二頁の短い曲だが、ここに尽くされた工夫と努力の跡は恐るべきものがある。歴史の残るものはこれだけの努力の結果なのだろう。天才の所業という出来合いの表現だけで片付けられるものではない。天才のひらめきと常人を超えた努力の成果がここにある。
 
今日もいい天気。でも、ぶらぶらしているより何かに努力する日々の方がいい。
 
 
2007.1.9. 火 晴 町田

昨日は「第九」のスコアを買う。
 
 いままで持っていたのは、中学生の頃入手したものでレコードの付録についてきたもの。昔のSP時代はスコアがおまけで付いてきた。今以上に贅沢だ。60年近い昔のものだから、紙はボロボロ、褐色になって本の綴じもばらばらになりかかっていた。捨てたか、弟子の誰かにあげたかで書庫に見当たらぬ。
 ということで、町田駅近くのスガナミ楽器に買いにいく。長い曲だから、さぞかし分厚くで値段も高いだろうと予想していたが、国内版で1300円だった。安すぎないかとすら思う。著作権もなく原価が安いのだろうが、長い曲だからもう少し高くてもよかろうにと思う。しかし、著作権もないことだから、売上が音楽界に貢献することもなかろう。それなら安い方がいいか。
 
 あらためて見ると気がつかなかった部分、知らなかった部分が続々出てくる。余りによく知っている、と自分では思っていたものだから注意していなかった。終楽章のテノールの行進が終ってからの長い間奏がどう出来ているか知りたかった。この部分は6/8の速いテンポで、おそろしく緊張が持続する。この解明は期待が持てて楽しい。今日から楽しみが一つ増えた。
 もう一つの研究は、連続している「ショパン前奏曲集全曲研究」の第五回、17.18.19.20.番、一月26日。構成音の徹底的追跡究明もしたいが、音楽のあり方について拡大した主題にもふれたい。二時間で四曲はそうなると時間が短い。関連問題について話たいが、プロの作曲家としては、どうしても曲の構成音一つ一つについて究明したい。警察の捜査でいう「現場は捜査の宝庫」ということがここでも言える。評論家ではないのだから、「現場究明」をやりたい。作曲家が作曲家を究明するのは「蛇の道は蛇」である。


2007.1.8. 月、祭 晴 町田

 六日の土曜日、予報では風雨強く荒天とのこと。しかし、風雨はさっぱり強くならず、夜空には星が出ていた。

 予報がはずれた時、気象庁は言訳しない。もっとも聞いたところで何の役にも立たないが。これだけ、衛星から気象状況が目に見えるのに天気とは予測しがたいものであるようだ。この宇宙で人間に分る部分は考えるほど広いものではないということだろう。

 昨日は、恒例七日に開かれる日本音楽舞踊会議の新年会、にぎやかで楽しかったが少々ワインを飲み過ぎた。二次会まで続くとどうしても度か過ぎる。それでも、この頃は酔って記憶にない部分があるほどのことはなくなった。なくなったというより自制している。新年会の二時間前、午後四時から新年初めての理事会、この頃は引退したつもりなので出ないことにしているが、年末、理事長と懇談した折、懇請されて今回だけ特に出席した。不謹慎だが途中で眠くなった。居眠り国会議員が理解できるようになった。やはり、定年とか引退ということも理があるのだろう。年齢のためだ。去年、「マッカーサー回顧録」を読んでいたら、この人が最後に勲章をもらったのは六十歳台の半ばだそうだが、なぜか、それまでのように嬉しい気分になれなかったそうだ。本人が書くところによると、やはり年齢の重圧がこの人にもようやく意識されるようになったことが一因であると書いてあった。

 いま進行中の曲は思考熟考がつきまとい、これまでに経験したことがないほど難航している。しかし、苦痛は覚えない。この難航ぶりが比例していい結果をもたらす自信があるから。自分は何故この音を選ぶのか、内心から一々そうした問いかけが起こる。これに全部答えられるものだけを書き込む。

2007.1.4. 木 晴 町田

 お正月はなんとなく三か日が過ぎた。爆弾が降りかかることもなく、仕事に追われることもなく、負債に追われることもなし。かくのごときを目出度いというのであるのか。今日はすでに四日、社会は仕事始め。デパートは二日から開いていた。ドイツ文学の小塩節さんが書いたように、お正月だけは日本人は日本人に戻る。「第九」は暮れには似合うがお正月には合わない。

 年賀状は、昔は、朝ポストに入っていたものだが、今年の元旦は朝九時頃来た。印刷文だけのもの、ひとこと、どうでもいいことだけ書いてあるもの、送ってくれた人には感謝するが、なんの通信にもならないような気がする。印刷文だけのものても、固有の内容を詳しく書いてあるものは伝えられることが多く、何かが伝わる。手書きでも定番の文句がひとこと書いてあるだけのものはどうも。印刷だけと同じで、なんにも言っていないのと同じではないだろうか。送ってくれた人には言いにくいが。
 だからというわけではないが、年賀状は今年も省略。ごめんなさい。

 進行中の曲はいよいよ難渋の局面に入る。ああでもない、こうでもないと逡巡の日々が過ぎる。しかし、この、時間資本の大量投下がいい結果を生む。締切りがない仕事はいいものだ。
 歳をとると情緒的なものに関心がなくなり、構造的なものだけが信頼できるようになる。バッハのような線的対位法の構造だけが信頼できるようになる。いまあらためてショパンに感心するのは、あれだけ情緒的な音楽でありながら、情緒に任せることなく、音の構造をバッハ並みに緻密に隙無く固めていることだ。ここにこの人の独自性があるのだろう。メンデルスゾーンの「無言歌」とくらべてみると違いが歴然とする。リストとも違う。こんな音楽はほかに類がない。

2007.1.2. 火 曇 町田

あけましておめでとうございます

  元旦はうちで迎えたので、今日、初出勤、HPの更新もようやく。本年もどうぞよろしく。

 
お正月 なにごともなく 過ぎていき

   昨日は恒例のWiener Philharmonikerの新年演奏会のTV放送。毎年、観て聴くが、そろそろ退屈してきた。ひさびさにズービン・メータの登場だったが、演目がどうしても毎年同じようなものになる。変化をつけようとして余り知らない曲も入れるが、知らない曲はどうしても余り面白くない。
 この公演は確かにいいものなのだろうが、いささかNHKはのめりこみ過ぎではないだろうか。世界中に中継放送されていると番組では言っていたが、制作局の名前を見ると、オーストリア放送協会、これは当然、次がドイツ第二テレビ、これもまあ隣の国だからよしとして、次がNHK、これでおしまい。三局だけ。最後に突然極東に飛んだ。
 日本人の銘柄趣向の反映ではないのか。ウィーンといえば音楽の都、これが固定観念になって思考停止。トラウマ。
 クラシック音楽に限っても、この国以外にも新年には何か独特の企画を毎年やっているのではないのか。この番組をアメリカでもロシアでも南米でも日本みたいに毎年放送を観て聴いているのかな。いささか信じがたいな。ロンドン、パリ、モスクワ、ニューヨーク、ベルリン、なんか別のものをやってるんではないのかな。NHKさんも少し気分を変えてみたらどうなんだろ。
 幕間がまたくどい。現地で飲んでいるのと同じというワインを持ち込んで、ゲスト一同で飲んで悦に入っている。ワインの解説にソムリエの某氏が登場して講釈する。もはや病いコウモウだね。

2006.12.30. 土 晴 町田

あと一日

 ことしも明日一日でおしまい。12月は末になって所用が増えた。25日は新曲初演の練習、27は本番、28日は町田会の忘年会、29日は会運営について現役の幹部と懇談、忘年会は所用とはいえないが、普段のんきに町田の仕事場通いをしている身には色々ある内に入る。とにかく、町田に来ないとコンピュータが操作できないのでHPの更新もできない。

 今年は自分にとっては七月の記念演奏会があって、多事な年だった。多くの人々の好意があって人は生きることが出来る。年々歳々、このことは身にしみる。吉村昭の「長英逃亡」に、人が人の力を借りなければ生きられない場面が怖しいほど描かれている。
 来年は、2007年8月10日金曜日、軽井沢大賀ホールでほぼ同様の曲目出演者で開催する。開演時刻は東京より早いことが慣習だそうで七時より早くなるかもしれない。キリスト教会の協力があるため、キリスト教にちなむ曲が望ましいとのこと。BACHの「ゲッセマネのイエス」をピアノ曲に編曲した。東京の時の「三つの小曲」の代りに冒頭武井さゆりさんにひいてもらう。

 ことしも、旧友岩城宏之が逝った。岩城は青春の友だった。指揮者になってから、権力主義者と悪評されることも多かった。事実そうだったのだろう。しかし、そうであったかもしれないが、私のとっては友情の厚い男であった。人には色々な面がある。政治家や実業家など、社会的に力のある地位、力が要る地位につくと、ある面を押し出していかないとやっていけない状況に置かれるのではないだろうか。色々な人の人物評を聞くと、権力、財力を持つ人には手厳しい評が多い。しかし、その人にもまた別な面があるかもしれない。そんなことも考える。私たち昔の芸大の学生は友情が厚かった。この友情の厚さは私たちの間ではいまも残っている。いうなれば善男善女である。これはやはり美風であろう。いまの後輩たちがどうなっているか知らないが美風は変らないでほしい。

 書庫を整理していたら、クシェネックの弦楽四重奏曲第五番のスコアが出てきた。23歳の頃魅きつけられたスコア。私は24歳の時音楽コンクールに応募した。その前年、帰省した雪の札幌の家でこのスコアを研究した記憶がある。音を聞かないでスコアの景色に魅かれたのだからおもしろい。いま見たらそれほどでもないが、やはり整然として、彫りが深いとでもいうか、魅力ある眺めである。こうなると、楽譜にも書道と同じで、音とは別に視覚的美学があるように思う。あの頃、音楽コンクールの応募作にこの曲の盗作疑惑作が出て、除外されたことがあった。審査員の誰かが審査後の後評で新聞に書いていた。あの頃、私だけでなくこの曲のスコアに魅きつけられた人があったということだ。いまもってこの曲の音は聞いていない。
 私にとって、作曲がおもしろくなってきたのは古希を過ぎてからのこと。この年齢で創作が旺盛なのはまれなことと誉めてくれる人がいるが、私の創作歴は時々休止が入る。模索、探索、迷いと試行の時期である。これが普通の人より多いと思う。だから、それを取り除いて合計すれば、普通の人の平均量とだいたい同じになるのだろう。26日には「compositions 2006」で、自作「Sylvie」・pan-fluteとElectoneのために、の初演があった。pan-fluteの研究が足らなかったので心配していたが、藤山明君の熱心な研究と演奏で満足できる成果になった。多謝。Electoneの西山淑子さんにも。

 まことに勝手だが、ことしも年賀状は省略させて頂く。そうでなくとも、2004年は兄と姉が相次いで他界し、昨2005年は義母が亡くなった。二年続いて喪中になった。ことしは最愛の孫娘同様のcatが九月に他界した。慣習では動物の逝去は喪中扱いにならないが心は喪中である。ことしは三年ぶりに慣習的喪中ではないのだが、年賀状の廃止は続ける。先輩作曲家Mさんは40歳台の時に年賀状を廃止した。もらっても返事を出さないのだそうだ。それでも翌年はまた幾らか来るが、年々歳々数が減って、ついには来なくなったそうだ。いまから30年以上前のことだから大胆なことである。頑固な人だから初志を変えなかった。年賀状も人の間の大事な交信であろうが、いまのように通信量が多く、通信技術の進歩で交信が容易になると、昔ほどの役割はなくなったようにも思う。キリスト教国ではクリスマスカードがこれに当るのだろう。義務化したクリスマスカード書きの嘆きを表現した文句を読んだことがある。

 このHPを読んでくださる皆様、年内有難うございました。来年もまたよろしくお願いします。よいお年をお迎えください。

2006.12.24. 日 晴 町田

ソフィア・グバイドリーナさんのこと

 SIKORSKYというドイツの楽譜出版社からの雑誌が定期的に届く。亡くなったベルリンの作曲家、Wolfgang Steffenさんの紹介から始まったように記憶する。この出版社は現代音楽専門のようで、毎号、ある作曲家の特集を組み、近作について、演奏予定なども含めて詳しく掲載している。こんどの号は、ロシアの女性作曲家、Sofia Gubaidulinaの特集だった。グバイドリーナさん。いまはすっかりスターになったが、ソ連時代、西側では無名だっった。旧ソ連時代、1980年頃だったと思うが、当時の西ドイツの音楽雑誌、NZがソ連作曲界の特集を出したことがあった。ソ連からの情報停電状態でさっぱり判らなかったあの国の作曲界の状況がはじめて紹介された。日本の音楽雑誌はまったくこういうことをしなかった。取材力がないのか、西欧のことしか目に入らなかったのか、おそらく後者だろうが、馬鹿者には手がつけられぬ。その雑誌で私はグバイドリーナさんのことを知った。

 記憶が薄れたが、作曲家の寺原伸夫君がソ連の作曲家協会の総会に行くとかいうので、私のピアノ曲「Tapestry」の楽譜を持参して本人に渡してもらった。あるいは住所を聞いてきてもらって、あとで楽譜を送ったか。しばらくして、彼女から切々たる手紙がきた。「ソ連では外国の事情がまったくわからない、外国の近作のことも同様。いま、あなたの曲をもらって風が入ってきたような気がする。毎日ピアノでひいている」と書いてあった。粗末な紙で気の毒にになるような手紙だった。まるで牢獄からの手紙みたいだった。それからソ連末期だったか崩壊後がったか、幾らか自由になって、日本にやってきた。カザルス・ホールの何かの音楽会の時にロビーの片隅に寂しく立っているこの人を見つけて、私は自己紹介した。私たちは欣喜して会話した。つつましい中年婦人だった。もっと話せばよかった。
 その後、準スター扱いされるようになり、再度来日して日本の音楽家と懇談の場があったが私は行かなかった。ある音楽事務所の系列の企画で、私はこの系列が大嫌いだったから。グバイドリーナさんは、なぜ私がいないのか、と席上何度もたずねていたそうだ。私も少しわがままだったかもしれない。日本ではじめて交流を持ったのは私だったのだから私情を超えて出るべきだったかもしれない。
 1993年、ポーランドでVMMのナンシイさんに会った時、グバイドリーナさんのことを尋ねた。いまドイツのハンブルクにいること、ご主人はドイツの建築家であること、女だから損してること、そんな話だった。女だから損している、というのはナンシイさんの持論で、そのためナンシイさんは国際女性作曲家連盟の初代委員長をつとめた。少し被害者意識過剰ではないかと私には見えるのだが、本当のところは分らない。

 こんどの雑誌によると、指揮者サイモン・ラトルは、かつて、グバイドリーナさんを「さまよえる移住者」と呼んだそうだ。ワーグナーの「さまよえるオランダ人」になぞらえた呼び方である。牢獄のような国に居て、いまようやく陽の光のもとに出てきたような人である。
 袖ふれあうのも何かの縁という。仏縁ということもある。も一度この人と交流してみたい気がするが、自分も高齢化していささか気が重いところでもある。

2006.12.22. 金 曇 町田

 映画「硫黄島からの手紙」を見た。二部作のもう一つ「父親たちの星条旗」は、いまひとつ気が進まずまだ見ていない。
 戦後61年、人々の心の中で、あの戦争がどういう質と型で残っているか、深く考える映画だった。いままでの娯楽型戦争映画のように、勝った方が、勝ちいくさを描くだけの作り方はもう通用しないだろう。「史上最大の作戦」にしても、ソ連映画「ベルリン陥落」にしてもその類いだった。

 戦争、あれはなんだったか。この果てしなく重い問いかけが私の中に残った。死地に追いやられた両軍の将兵たち。殺しあい。それが愚かなこととは誰しも思う。しかし、愚行というだけでは大事なものが残されてしまうのではないか。それは、美化しうる部分があることではない。愚行はその通りである。しかし、その背後にあるものは、人間とは何をするものか、という最も高度で深刻な命題の問いかけではないだろうか。私にはどうしてもそう思える。
 渡辺謙の演ずる栗林中将がよかった。部下にやさしく、最後の段階にあっても温厚にして静かな落着きを失わず、強い意志で行動する。日本兵が負傷した米兵を介抱し、米兵が投降した日本兵を射殺する。勝者を美化し英雄化することの反対の描き方であった。
 
 少し前に「マッカーサー回顧録」を読んだ。この人の印象から驕慢な内容が予期されたが、そうではなかった。「自分は軍人であるが故に戦争の悲惨さを誰よりも見てきた。人は何故このようなことをするのだろうか。人は文明と文化を生み出し、そのために精神的に大きく進歩したのに、国家間のことを、何故、未だにこのような手段でしか片づけることが出来ないのだろうか」、と深い嘆きの文を記されていた。

 映画は、最初が現代の調査団の描写で始まり、最後にまたその場面に戻る。日本軍の地下壕の土中深くに埋まっていた袋がある。掘り出して見ると、兵士たちが家族にあてた手紙がぎっしり入っていた。

 私はこの映画をもう一度見ようとは思わない。

2006.12.21. 木 曇 町田

 昨晩は芸大同期の女性音楽学者二人と忘年会。三人でワイン、フルボトル二本空ける。痛快。場所が経堂駅近くで便利。ニュースによると、山手線に飛び込みがあって全線不通とのこと。場所が近くでよかった。帰りは散歩ということで歩いて帰る。人身事故は当人は死にたいから勝手だが、無関係の多数の人に途方もない迷惑をかける。死にたければ勝手に一人で死んでほしい。このところ、忘年会がらみでお酒の機会が多い。翌日は飲まないことにする。

 いま進行中の曲、難儀苦渋のきわみ。自分で自分の心が分らない。しかし、自分がもとめているものがようやく見えてきた。予想もしなかった新しい曲想を自分の心がもとめているらしいことがようやく判ってきた。「龍舌蘭」を初演してもらい、CDも出来て、繰り返し聴きなおすことによって、心の中のあの曲の部分が精算されたらしい。こんどは、別の、むしろ反対側のごつごつした面が出てきたようだ。桜の幹の、たくましく荒々しい肌ざわりのような和音の塊りが。これを徹底的に進めていくとどういうことになるのだろう、どういう型の音楽が出来上がるのか。未知の世界への歩み入り。
 青島幸男さんと岸田今日子さん、相次いで亡くなる。いま進行中のの曲が遺作になることを、いつでも覚悟してかねばならない。早く出来すぎても間が持たないが、未完成になることはもっと困る。いまの曲は、画家、三岸節子、91歳の遺作「桜」に霊感された。だから、桜の幹の肌ざわり。

2006.12.19. 火 晴 町田

 モーツァルトのブームへの批判的見解を書いた。その一部にもなることだが、モーツァルトについての逸話がうるさい。

 この人の作曲が速かったという伝説がある。最後の三交響曲が短い間に作られたとか、なんとかは、かんとかの間に完成したとか。本当かどうか分らないことまでうるさい。こんなことがなんの意味があろうか。速く作ろうが、ゆっくり作ろうが、肝心なことは出来た曲がいいかどうかではないか。モーツァルトに限らず、常人離れした能力を伝える作り話はいたるところにある。剣豪伝説、ガンマン伝説。荒木又衛門の×人切り、ワイアット・アープのOK牧場の決闘、などなど。
 短い間に作曲したから誉められるものでもないし、ゆっくり時間をかけたから減点されるというものでもない。作曲が速かったか、遅かったか、そんなこと、音楽のどこにも書いてない。Jupiter Symphonyの終楽章のCodaは尋常ならざる複雑な構造で出来ている。こんなものが思いつきじみた瞬間的な発想で出来るわけがない。普段から頭の中で、計算と構想を常に考えていたから出来たのである。この人の若い時の対位法のノートがSalzburgの記念館に展示されている。直したり消したり、書き込みがぎっしりである。天才といえども、この技術は生まれたままで出来るものではない。馬鹿げた話は信じない方がいい。モーツァルトの音楽に関係ない。

 モーツァルトに限らないが、もう一つ似たようなことは、若いのにこれだけのものを作ったと感心する話。20歳の時にこれだけのものを・・・これも無意味である。出来た結果だけが存在する。

2006.12.17. 晴 町田

 昨日は宮谷理香さんのリサイタル。全Schubertのプログラム。この人は、情感の深い演奏をするようになった。成長。いずれ、批評を書くことにする。

   作曲だけでく、美術でも文学でも同じだろうが、創作の仕事に打ち込んでいる間は、世俗の些事雑事とはしばし決別である。そのこと以外は意識にない。登山家が絶壁にとりついでいる時も同じだろう。登山家が山に登るのはそのことが理由の一部かもしれない。本人それと自覚しないだろうが。これを現実逃避ということも出来ようが、そう言い切れるものでもない。逃避といえば意気地無しで卑怯なものに聞こえるが、そうばかりではないから。

 一大課題は麓までたどり着くこと。絶壁にとりつくまでが一大難関。あれこれ考え、思想的整理、技術の整理、目標の整理、手順の整理、曲の形式の計画立案、等々々、おびただしい準備段階の作業がある。これらをいい加減にして登山を始めると、途中で立往生、進めず、退けず、遭難ということになる。ある程度見通しが出来た段階で、とにかく始めようか、あとはやりながら考えるさ、という至って日本的なうやむや方式で始めようとする誘惑が生ずる。しかし、これが「遭難」のもと。曲りなりに出来上がってもろくなものにならない。本人の意識の中ですら整理されていないものが他人が聴いてまともなものになるわけがない。古今の名作は別にして、世間にはこういう作曲が多い。作曲だけではない。文学にもある。あきらかに構想不完成のままでのなし崩し開始、あとはなりゆきまかせの小説によく出会う。

 しかし、準備万端ののちに始めても計画通りにいかないことがある。人間には未来を完全に予知することは出来ない。計画通り作業を進めても、途中で予期せぬ堅い岩盤に出会ったり、水が湧いてきたり、ということがある。これは仕方がない。こういう時は、慌てず騒がず、対策を練りなおして、なるべく原案の骨子を曲げずに通す工夫をする。かのBeethovenの「第五」、運命と通称される曲も、原案では終楽章は短調だったらしい、それが勝ちどきの歌になった。途中まで書き進めてきたら構想が変ってしまった。人間、なんでもやってみないと分らない。

2006.12.15. 金 雨のち晴 町田

 「竜舌蘭」、Violinとpianoのための

 昨夜来の雨がやみ、初冬の晴となる。

 昨晩、郵便受けに劉薇さんからのCDが入っていた。劉薇さんは中国のViolinist。11月30日、浜離宮朝日ホールでの劉薇さんの在日20年記念のリサイタル、そこで初演された私の作品「竜舌蘭」の録音。この日の演奏はみごとなもので私の悲哀を読み取ってくれた。

 「竜舌蘭」、1996年の六月、私はある人の死を知った。私が17歳か18歳、その人は14歳くらいだった。50年の年月を経ると人は忘れる。しかし、その人が死んだと聞いたとき、ただならぬ衝撃を受けた。人の死がもたらす衝撃。明るい初夏の日、私の前に闇が落ちた。
 私は、自分に約束をした。この人のために追悼の曲を作ることを。それから六年がたった。一度、ほとんど出来たものが気に入らず、全面的に造りなおすこともした。造りながら劉薇さんの演奏を想定していた。劉薇さんに楽譜を渡したのは2003年のこと。なかなか機会がなく、ようやく今度の初演となった。この曲の主題にその人の名が音名として読み込まれている。
 曲の後半にWagnerの「TristanとIsolde」の和音が出て来る。その人との思い出の曲。その日、私たちは、北の町のデパートの六階の窓辺にいた。喫茶店に行く知恵もなかった。初冬の町はに冷たい雨が降っていた。私の中に「TristanとIsolde」が響いていた。
 その年、1996年の八月、私は所用でその町を訪れた。あの窓辺に行ってみた。しかし、デパートは新築され、いまの建て方には窓がない。やむなく屋上に登る。誰もいなかった。当時とは町の姿は変っていた。ビルが増えた。山の姿だけが同じだった。

 このCDを聴いて、自分の作風が余りにRomanticであることに反省が湧いた。しかし、これが心の真実であればそれでいい。現代音楽、という言葉を私は認めない。現代音楽という特別な音楽があるはずがない。音楽は古今を通じて一つである。人の望みと喜びと、そして心の痛みの慰めと。 

 演奏時間約9分30秒。
 なるべく多くの人に聴いてほしいので希望の方はmailでお伝え頂きたい。MDに写してすぐにお送りする。

 不思議なことに、書き直した時の前の楽譜が紛失した。書き直して使わないことにした版だから必要ないのだが、不思議だ。どこを探しても出てこない。私にこんなことはなかった。

2006.12.14. 木 曇 町田

 昨日は、昼間好天だったが、夕方から降りだした。予報が当る。意外なり。
 今日は12月14日、赤穂浪士の討ち入りの日。ただし、あれは旧暦のことで陽暦では二月のことだそう。なるほど二月の東京は雪が降りやすい。2.26事件もそうだった。

 硫黄島の海軍指揮官、市丸利之助少将は最後の突撃に当り、ルーズヴェルト、アメリカ大統領に当てた手紙を残した。「ルーズヴェルト君に与うる書」。太平洋戦争の原因の一部はアメリカ、イギリスにもあること、戦争に大勝しても、独裁国ソ連といかにして協調しうるのか。戦後のアメリカは世界最強の国になるだろうが、世界の平和のためにその重責を果たすことが責務として課せられる」、こんなことがしたためられた。少将はこれをアメリカ生まれの二世兵士に英訳させ、突撃の時身につけた。将校戦死者の所持品を米軍はかならず調べることを想定してのこと。果たせるかな、この書簡はアメリカでも新聞に掲載された。ただ、ルーズヴェト本人は四月に死去したので、これを読んだかどうかは不明とのこと。このこともまた秘話としていま初めて知った。歴史の奔流の中に表面に出ない出来事がある。

2006.12.13. 水 晴ときどき曇 町田


    九日の夜、フジTVで「硫黄島への手紙」という劇があった。「硫黄島からの手紙」にあやかった番組だろうが、時代考証がひどくお粗末で唖然とした。海軍少将が、「攻撃機」を「戦闘機」と言っている。以前、私の作品「終りのない朝」の新聞記事で、B29の爆音のことを「戦闘機の爆音」と書かれたことがあった。B29は爆撃機である。英語でも、爆撃機は「bomber」、戦闘機は「fighter」である。こんなことは常識かと思っていた。自動車だって、乗用車、貨物車、スポーツカー、など車種の違いがあるではないか。この人たちは、戦闘機が機種の名前であることを知らないのだろうか。軍用飛行機全部の総称を戦闘機と思っているのだろうか。いまでも、米軍基地の問題で、「××戦闘機」、とか、「××戦闘攻撃機」とか言っているではないか。この台本を書いた脚本家の無知はひどいものだし、それに気づかなかった演出者も同様だ。こういう題材を扱う以上、ただの人の立場ではあるまい。勉強不足である。依頼した放送局は脚本の原稿料を値引きしていい。

   映画「ラスト・サムライ」をTVで見る。なんとも珍妙不可思議な映画。いい加減な造り方をしているとは思わないが、時代考証が目茶苦茶だ。明治初期の設定だが、武士の一団が新政府軍と闘う。武士たちがヨロイ兜を着用している。幕末当時、すでに武士たちはヨロイ兜を着用することはなかった。あれは戦国時代の容装である。農村の光景もなんかおかしい。日本式の民家や人の衣装はいいのだが、なんとなく日本ではないように見える。農民の部落の中に武士の豪邸が平気で混っていたり、村に能舞台があって、武士も農民も一緒に打ち興じて鑑賞している。こんなことはあるはずがない。
    全体に、日本の戦国時代とアメリカの南北戦争が理由なく雑居しているような珍妙きてれつ奇々怪々な光景である。年号は1877年と、これだけは明瞭に表示されている。1868年の明治元年以後にこんなことがあったのか。戊申戦争で政府軍と幕府軍が闘ったが、それは維新以前のことである。維新以後といえば西南戦争か。1877年といえば西南戦争とぴたりと一致する。されば、渡辺謙が演ずる勝元という武士は西郷隆盛がモデルか? 渡辺謙の武士の統領が圧倒的戦力の政府軍に果敢な抵抗を続け、最後に総攻撃で全滅する。これは硫黄島の栗林将軍と同じではないか。渡辺謙はこうした役回りの人となってしまったのか。

2006.12.9. 土 雨 町田

 朝から雨。ここしばらく降らなかったから仕方がない。雨がわるいとばかりはいえない。天気予報の「お天気下り坂」という言い方もよくない。雨が降らないと農業は成り立たない。「下り坂」「くずれる」、聞いていて悪いものがやってくるようで不快である。

 高齢と小子の時代になった。子供の方はともかく、高齢者が増大することが問題化する。自分もその年代の仲間入りしているが、世間をあげて、若さを留めることに夢中になっている。高齢にかかわらず、登ったとか、泳いだとか、飛んだとか、走ったとか、新聞も放送もはやしたてる。しかし、これはそもそもおかしいのではないだろうか。歳をとることは自然のなりゆきで、幾ら抵抗しても逆らえるものではない。歳をとれば体力が衰えることも自然のなりゆきである。老齢者が若い者に負けずに高い山に登ったり、速く走ったりしても、それは年齢の生理に無理をしていることは争えない。
 自分はそういう考え方をしない。すべての年齢、年台にはそれにふさわしい美学があると思う。昔、ミュンヘンに行った時、日曜日のせいもあろうが、おりしも晩秋の日の午前、郊外の並木道を立派な老紳士が、ゆっくりと落ち葉を踏みながら散歩している姿をたびたび見た。いいものである。シュトルムかヘッセの小説の場面のようだった。若い者に負けずに、鉢巻して走ったり泳いだりするよりよほど美しいと私には思えた。歳をとれば体力は衰えるが、それに替って若い者にはないものが備わる。老人の品格である。日本でも川端康成の文学にはそういう美学があるのではないだろうか。
 子供を甘やかすことは後進国のいやしい特徴で、日本にはたっぷりとそれがある。親が貧しいため、自分には楽しみがなく、子供を育てることだけが楽しみという生き方を強いられてきた。老齢者に若いものの真似をさせて、はやしたてるのもこの貧しさの反映である。まだ若い者に負けないでこんなことがことが出来る、式の論理はすべてここから来る。歳とることは忌まわしいこと、若いことだけがいいこと、なんと貧しい思想ではないか

2006.12.7. 木 曇 町田

 毎朝、おびただしいイタズラmailに閉口。人間が発信しているのか器械が自動的にまき散らしているのか。中にまともなのが混じっていることがあるから、注意しないと一緒に消してしまう。先日も、送ったはずの送信が届いていないと相手から言われた。しばらくしたら、よく見たらあったと。やはりまぎれていたのだろう。

 師走となると何かと慌ただしい。明日八日は札幌一中のクラス会。常任幹事のM君が前回に続き体調不順のため自分が幹事代行をする。青山の日本料理店を予約したが、前回と同じ数の七人の予定が五人になった。出席回答六人のはずだったが、まぎわに風邪の理由に出席を取り消した人が一人。在京クラス会と称していたが、正しくは、道外在住者クラス会である。関西北陸の人もいるから。欠席者の返信を読むと、体調不調が多い。無理もない、来年は満で数えて喜寿になる。自分でなくても、奥さんが倒れて外出不能という人もいる。
 映画「戦場にかける橋」の中で、アレック・ギネスの扮するイギリス軍大佐が、月の夜、橋の上で、「私は自分の人生が終りに近づきつつあることを感じる」とつぶやく場面があった。事実、この人はその後の脱走事件で死ぬ。人は自分の死期をさとるのだろうか。
 少年時代、青春時代、壮年期、と永かったようで、いつのまにか通り過ぎてしまった。人間に限らず、生命とは、生きるとは何だろう、そんなことを考える。大宇宙で生命のある星は極端に少ないらしい。生命発生は偶発現象だったのかもしれない。本来は無いはずのものが発生してしまったのかもしれない。生まれた以上は死ぬまで苦労しても生きなければならない。この頃は自然破壊がすさまじく、人間自体が地球にとってガン細胞みたいなものに見えてきた。ガン細胞は愚かなことに自分の繁栄の結果母体まで殺してしまう。そのため自分も死ぬ。ガン細胞はやはり馬鹿で愚かである。人間が同じことをしたら話にならない。

 新百合ケ丘の映画館で、九日から、「硫黄島からの手紙」が始まる。あの戦争は私たちの年代には一つのトラウマである。敗戦時、私たちは15歳、兵隊は経験していない。それだけに、直接体験よりも、観念的、精神的、意識的な角度からの戦争への、あれはなんだっんだろう、的なものが強く残された。渡辺謙演ずる栗林忠道中将の姿に期待がある。

2006.12.6. 水 晴 町田

   三日以来、四日ぶりで町田の仕事場に来た。12月は自作の演奏が多い。そのほかにも諸事雑事が多い。町田に来ないとサイトの更新が出来ない。
    昨日5日はCMD主催の室内楽の夕べ、深沢亮子さんが「三つの小曲」を、先月25日に続いてまた演奏。孫の顔を続けて見るような心境。

モーツァルトブーム

 ことしはモーツァルト生誕250年とやらで、ブームの季節である。全曲モーツァルトでのリサイタルもある。50年刻みで生誕と没後を数えていけば、ずいぶんと頻繁に記念の年はやってくる。レコード会社や音楽産業の商戦の手段でもあるのだろうが、いささか、もう沢山の気分である。
 モーツァルトの音楽が上等であることに異論はない。しかし、私が不快を覚えるのは日本では、その背後に権威主義の気配があるからである。モーツァルトは文句なしの天才だ、これに異論があろうはずがない。この旗印におんぶして、人にものを押しつけようとする怠惰で図々しい手口が不快である。そしてまた、受け取る側も同様、絶対の天才を賞賛していれば、どこからも文句は出るはずがない、有難や、有難や、というわけで念仏と同じになる。かつての「反核運動」が同じやり方だった。モーツァルト・ブームは他愛がないものだろうが、いやな感じは同じである。

2006.12.3. 日 曇と晴 町田

歴史を考える→ほんとうに分らない

 日本人は考えることに怠惰である。そう推断せざるをえない。太平洋戦争は間違いであった。いま誰しもそう言う。それではどうすればよかったか。そのことを本気で論議したことがあったろうか。間違いなら間違わなければよかったのである。しかし、間違わない選択としてどういう別な道があったろう。


 「戦うも亡国かも知れぬ。だが、戦わずしての亡国は魂までも喪失する永久の亡国である。たとえ一旦の亡国になるとも最後の一兵まで戦いぬけば、われらの子孫はこの精神をうけついで再起三起するであろう」

 
これは1941年秋、戦争が始まる直前の永野修身(ながの・おさみ)軍令部総長の言葉である。

 「戦わずしての亡国は」とは、当時、アメリカ、イギリスの経済圧迫がいかにひどかったかを意味している。国内に資源を持たない日本は、石油、鉄、銅、錫、などを輸入できなければ、船も車も動かなくなる。居ながらにして自滅する。アメリカ、イギリスが何故圧迫してきたか。それは、日本の海外進出が彼らの既得利権をおびやかすからである。だから、この戦争を避け得た可能性を求めれば、海外進出、侵略を始る以前までさかのぼらなければならない。しかし、進出、侵略の大きな原因には1930年の世界大不況があった。これは日本が源泉ではない。ドイツ、イタリアのファシズム化もこの経済的要因が大きな原因である。しかしながら、その以前から日本の国家行為の要因はあった。日清、日露、の二つの戦争に勝利した日本は、政府もと国民も行け行けの気運にあった。明治維新で近代国家になった時、国民的エネルギーは火山のマグマが上昇するように高揚していたのである。その上に、世界的大不況が襲い、経済的に行詰りの挙げ句、海外進出、侵略という道筋になった。この過程のどこに選択の分岐点があったのだろうか。1930年の行詰りにあっても海外侵略をしないで苦境を乗り超えればよかったか、それは可能だったろうか。仮りにそれが可能だったとしても、日本の軍国体制はその後も継続したではないか。
広島の石碑には「過ちは繰り返しませんから」と書いてあるが、「あの時、こうすればよかった」という答えが見つからないのに安請け合いはできないではないか。

 この戦争は日本国民にとって、もともと根本的な逆説であった。負ける戦争を始めたことが無謀であったと言う。しかし、負けたからこそ、日本国民は軍国主義から解放され、自由と民主の国になった。もし負けなければ、日本国民はいまだに軍国主義と全体主義の圧制のもとに生きて居なければならない。とすれば負けてよかったことになる。戦争の惨禍はひどかった。この惨禍を受けないで軍国主義から解放される道があれば、それがベストであったろう。しかし、そのような道がありえたのだろうか?

2006.12.2. 土 曇 町田

間奏日記

 30日は中国のヴァイオリン奏者、劉薇さんの在日20周年記念リサイタル。浜離宮朝日ホール。私の作品「龍舌蘭」の初演だった。馬思聡の大曲、ピアノ五重奏曲を含み、長い演奏会だった。私の曲の悲哀をよく感じとってくれた。これは少年の日への鎮魂の曲。

 人の世に げにあるものは
   人の世の 悲しみのみと いまにして知る

   12月1日金曜、夜は、「Chopin前奏曲全曲研究講座」の四回目。講義の前準備がなかなかの仕事、前回終了から長期の研究になる。

日本の戦後文化は思春期だった

 狂信的進歩思想の源泉となったものは「歴史には必然の法則がある」という迷信である。この迷信が世界中でどれだけの人を殺し、迫害したか見当もつかない。

 いまの時代、人々はナチズムやオウム真理教を非難するが、この迷信を「国教」としていた国家群が少し前まであった。核兵器まで持って世界を脅した。ソルジェニーチンの書いたことが本当とすれば、小国の人口くらいの数の人が投獄されたか殺された。ナチス国家は12年で終ったが、こちらは70年以上続いた。算数的にこちらの方が多いのは当り前である。大戦後の世界混乱のさなか、この迷信は猛威をふるった。占いのようなものである。「×月×日、世界が滅びる」、という予言をばらまき騒ぎを起こすエセ宗教が今も時々あるが、「歴史の必然」を説いて回るこの迷信集団は混乱の中で人の動揺につけこみ勢力を延していった。「調性で作曲する者は無用である」、「いまどきこんな」、こんな恫喝も同類である。

 この迷信によって音楽もまた多大な被害を受けたが、戦後の時代を総括的にかえりみると、新時代の到来という認識、過去への反発、こういうものは私たちも同じ状況を共有していた。総括すれば、新時代への意気込み、という点ではこの段階では同一だった。 
 邦楽器のための新しい音楽の創出、西洋とは違ったものの発見と振興、こうした目標もその一部であった。このことは認めなければならない。「西洋とは違うものを」、西洋の原理とは違うもを」、こういうことを誰しもが口にした。プログラムの自作解説に至るところでこういう文が目についた。一種の民族主義の高揚期であったのだろう。

 日本文化は自分以外の文化との、出会い、競争、比較に馴れていなかった。経験したのは天平時代と明治時代くらいのものではなかろうか。明治になって初めて異文化と正面からの出会いを経験した。だから、明治人は懸命にとり入れにとり組み、大正人は、畏敬と平伏におちいった。そして、昭和の戦後は、「西洋何するものぞ」の時期となった。この経過は、一人の個人の幼年期から思春期へかけての成長経過そのままである。戦後思潮は思春期の自立心の覚醒と反抗期の始まりであったのだろう。

 「××ではなく」、「××とは違うものを」、「××には無かったものを」、どうしてこう否定型の発想をしたのだろう。自分も含めていまそう思う。排除と否定、否定することによって自分のアイデンティティを見い出し、浮上させようとする。世界の歴史の中で二つの文化の遭遇は一方を否定するのではなく、融合、とり入れ、混血、の型で混合するのが普通だった。近代ヨーロッパ文化は先行するイスラム文化からた多大なものを受けついだ。その当時、「イスラムではなく」、「イスラムとは違う」、「イスラムには無かった」式の発想があっただろうか。無論否である。イタリアの建築にはアラビア風のモザイク型のデザインがよく見られる。ローマ時代の帝国周辺の人たちは、押しつけられないのに進んでローマ式の家を建てたそうだ。便利でカッコいいからである。便利で、カッコよくて、経済的となれば、これを拒む人はいない。「××とは違う我ら独自のものを」と叫んでいるの者がいたとしても、それは一部の知識人だけであり、大勢を決めるのはこの種の人々ではない。一般の大部分の人たちは、便利で、カッコよく、経済的な方を遠慮なくとり入れる。否定することは無理である。

   私は、自分の音楽が目指す方向について、何を肯定し、何を否定するか、いままでよりも落着いて考えるようになった。

ピアノ曲集
 「ちいさな四季」(最終回)

 
この曲集についての文は今回で終る。最後にこの曲集の全曲一覧を記載しておく。ピアノ曲集の曲を列記にして、その中で別のversionに入っているものに記号をつける。

記号の説明
   ★=「組曲」に含まれるもの
   ●=「合唱曲」に含まれるもの
   ○=「三つのやさしい歌」に含まれるもの
   ☆=コンピュータ印字譜のみ

            <春>
 1.そこまで春が★●
 2.ぶらりと春がやってくる
 3.茶色い落葉のふとんきて★
 4.アクロバットのマツモムシ●

 
5.糸かけ 糸かけ 糸かがり
 6.好きな色はウスムラサキ☆

 7
.春だ春だ春だ★●○

             <夏>
 8.だれか呼んでる どこからなの
 9.森はよんでる★(組曲でもピアノのみ)
10.森の宴会★
11.のんびり のんびり かたつむり★●○
12.ちいさな泉
13.ユスリカのうた
14.ゆりかご ゆれる★●○

             <秋>
15.october(原曲はピアノ曲、歌詞なし)
16.とりいれのうた
17.サヤサヤなびくよ すすきのほ●
18.いそげ いそげ いまのうち★●
19.秋の谷川
20.もうすぐ冬だよ

             <冬>
21.冬の河原にあしのほゆれて★
22.森の泉はなぜかれた★
23.わたしはキタテハ
24.きょうはたのしいクリスマス★
25.ハサミムシの こもりうた☆
26.暮れる谷川石がなる★●

 ピアノ曲全26曲は誕生の由来からして性格と曲想に強いコントラストがあるものではない。この中から適正に数曲を選んで配列演奏することが賢明であろう。

自分を知ること

 この作品は私がこうした小曲の世界に入る端緒となった。こういう単純の美学とでもいうか、物事をエッセンスにまで還元しようとする心の動き、それはすべての分野において私の体質の一部を成すものである。そのことは自分でも段々に分ってきた。それがなんであるのか、単にこういう小曲の世界だけでなく、複雑、シリアスな作品の世界にもそれが現れる。自分のことは自分が一番知らないとソクラテスは言ったが、逆に自分だけが知ることもあるだろう。作曲とは自分を知る喜びの仕事でもあった。自分で自分を研究することも人生の最後にやりとげておきたい。「ちいさな四季」についてはこれで終る。お読み下さった方に厚くお礼申し上げる。このまま数日更新はお休みして、ここまでの分再読される方、新しくお読み頂く方にために停止しておく。次回からは私の最初の電子音楽「風のうた」の制作について書く。(「ちいさな四季」終り)。

2006.10.12. 木 晴 町田

   
昨晩は日没後、地面がぬれていたためカサを持った。しかしその後は降らなかった。今日も好天はいいが暑い、26度とのこと。まるで夏

ピアノ曲集
    「ちいさな四季」(五)
                  1976年の総合Concert


 1976年、こうして幾つかのversionに展開した「ちいさな四季」の総合演奏会とでもいうべきものを開いた。1976年1月20日火曜日7時開演。東京日比谷の第一生命ホール。
 企画・構成は助川敏弥。


 正式の演奏会名は:

                         助川敏弥作曲 古川千鶴子詩
                                  ちいさな四季
                  ピアノ曲・独唱曲・女声合唱曲−三つのかたちによるCONCERT


 曲目と出演者は次の通り:

              ●やさしいピアノ小曲集「ちいさな四季」より 春・夏から7曲
                                    ピアノ:深沢亮子
                  ●うたとピアノによる童話風組曲「ちいさな四季」
                                         ソプラノ:白石亘(のぶ)/ピアノ:田中謠子
                                      −− 休 憩 −−
                  ●やさしいピアノ小曲集「ちいさな四季」より 秋・冬から6曲
                                     ピアノ:深沢亮子
             ●女声合唱のための「ちいさな四季」第一組曲(初演)
                           合唱:コーロ・フローラ/ピアノ:長崎千恵子/指揮:松浦ゆかり

 
一月の末、一年で一番寒い頃だった。当時の第一生命ホールはもちろん日比谷にあったが、超満員の来場者を迎え大盛況の成果をあげた。
 私の中の「ちいさな四季」はこれで飽和点を迎えたといってよい。私はここからまた先へ進む段階に入ることが出来た。女声合唱団「コーロ・フローラ」は、いわゆるママさんコーラスである。プロの団体と違って、長期にわたる練習にとりくんだ。目黒大橋の練習場を何度もたずねた。指揮の松浦ゆかりさんは芸大の同期生、東京混声の団員だった人である。原曲の「ゆりかご ゆれる」の録音の時、松浦さんは、東京混声から派遣されて歌ってくれた人であった。すでに録音の日から10年以上経過していたので、当人は忘れていたが、古い日記帳を見て気がつき奇縁に感嘆していた。人のご縁は不思議なものである。
                                                                                    (次回でこの曲の項終り)


2006.10.11. 水 晴 町田

  
数日続いた好天だが、今日は午後から雨の予報。しかし、曇と予報が変った。

ピアノ曲集
  「ちいさな四季」(四)
      幾つものversionが・・・・・


 こうして世に出た曲集は、ピアノ曲集として好評重版を重ねたが、少しすると、別なversionを出すことになった。もともとが歌だから、自然な経緯として歌を復活するversionが生まれることになった。次に順に書く。

1.「三つのやさしい歌」

 これは、1972年か73年、全音から私の歌曲集が出る時に含むためにソプラノとピアノ用に編曲したもの。「ゆりかご ゆれる」、「のんびり のんびり かたつむり」、「春だ 春だ 春だ」の三曲。私が好んだ曲を選んだ。ここでいう、「やさしい」は容易という意味ではない、tender, softの意味である。これで古川千鶴子さんの歌詞が再びよみがえった。

2.「歌とピアノのための童話風組曲」

    1974年、ソプラノの磯貝静江さんのために編作した。一種のメドレイである。序曲風の前奏から始まり、幾つもの歌と、ピアノ・ソロも含み、かなり長大な曲である。通奏、約20分になる。初演は1974年5月、群馬県、富岡市の青少年センターという所で磯貝さんにより演奏された。私は自分の車で会場に向かったなつかしい思い出がある。その後、いろいろな人が取り上げてくれ、中でも、向山尚子さんが何度も歌ってくれた。この曲の楽譜は私が自分でコンピュータ印字した。注文があればコピーして有料で送っている。「プレリュード」を含めて、全13曲だが、繰返しを省いて短縮することもできる。

3.児童合唱または女声合唱のための第一組曲「小さな四季」

     これは1976年1月26日の「ちいさな四季」総合演奏会のために編曲した。ママさんコーラスの「コーロ・フローラ」、指揮、松浦ゆかり、の初演であった。第一と名付けたのはこの中には七曲しか含んでいないので、いずれ続編を作ることを想定しての命名であったが、まだ第二組曲は出来ていない。第一組曲に含まれる曲は、「そこまで春が」「アクロバットのマツモムシ」「ゆりかご ゆれる」「のんびり のんびり かたつむり」「いそげ いそげ いまのうち」「サヤサヤなびくよ すすきのほ」「暮れる谷川 石がなる」の七曲。この年の秋、名古屋女声合唱団が森正さんの指揮でみごとなプロの演奏をしてくれた。

4.その他小曲

 歌とピアノの曲として数曲を演奏会用に編曲した。「真珠のようにかがやいて」 「好きな色はウスムラサキ」の二曲。これも自家製コンピュータ印字譜で有料販売している。

深沢亮子さんの詩の朗読つきCD

 この楽譜の初版が出た1972年、深沢亮子さんの演奏で全曲のLPレコードが日本コロンビアから発売された。しかしCD時代になってからは入手できない。それとは別に、ごく最近、深沢亮子さんによる新しい録音のCDが発売された。これは、春夏秋冬、各二曲ずつだが、それぞれの曲の前に深沢さん自身が詩を朗読しているという珍しいものである。収録曲は、

              春:「そこまで春が」 「アクロバットのマツモムシ
                    夏:「だれか呼んでる どこからなの」 「ちいさな泉
                           秋:「秋の谷川冷たいぞ」「もうすぐ冬だよ
                                 冬:「きょうは楽しいクリスマス」 「暮れる谷川

 このCDは「モーツァルト キラキラ星変奏曲」というCD名で、このほかに、私の曲で、「ちいさき いのちの ために」、曲集「白い翼」から「桜まじ」と「夜のうた」、それに「ソナチネ」が含まれている。そのほかは、モーツァルト、シェーンベルク、ドビッシー。 発売は、「なみレコード」、CD番号は、WWWCC−7503。このCDは現行商品で店頭になければ直接注文で入手できる。
  直接注文用のFAXは、03−3440−5401なみレコード
 深沢さんの演奏は昔のLP時代より円熟した味い深いもので作曲者としてお薦めしたい。なお、全曲のピアノ曲集版は近く全音との契約を解除するので作曲者へ直接オーダーすればコピー入手できる。出版社は品切れでも再版しないので無意味である。

2006.10.10. 火 晴 町田

   三日間の後、今日から仕事始め。銀行も郵便局も道路も人と車があふれる。体育の日は10月10日に東京オリンピックが開かれたことを記念してこの日に定まった。年によりふらふら移動すると記念日の意味がなくなる。休日移動は愚劣である。

ピアノ曲集
     「ちいさな四季」(三)
      それぞれの曲の思い出


 放送からほとんど10年の歳月がたった。1970年代の始めのことである。全音の杉本伸夫君から、ピアノ曲集を出したいが何かいいのがないか、という申し出を受けた。その時、これらの曲をピアノの小曲にすることを思いついた。

 番組は、約八カ月続き、月に二度だから計16回、一度に四曲くらいあったから、合計60曲くらい曲があったわけだが、その中から26曲を選んだ。そして、春と夏が各七曲、秋と冬が各六曲、計、26曲を選び配分した。歌詞であった古川千鶴子さんの詩が詩情ある魅力的なものなので、ご当人の許諾を得て、これを楽譜の欄外に載せることにした。特筆したいのは、久里洋二さんの表紙と各曲のイラストだった。ことに表紙は、入念に紙を重ねたもので、図案といい色彩といい、入念の作であった。感謝に堪えない。

 曲として出来のいいもの、自分で愛着があるもの、ピアノ曲になりうるものを前提に、春夏秋冬の配分の均衡を考えて選んだ。それでも10月に始まり、5月に終った番組だからどうしても夏の曲が少ない。終り頃の五月あたりに夏らしい曲があったので、それをふり向けた。「のんびり のんびりかたつむり」は、もとは冬の曲であった。「冬の小春のかたつむり」という歌詞を「夏の日陰のかたつむり」に変えた。
 また、夏の部の「ユスリカのうた」には因縁がある。この映像は八丈島で収録した。しかし、あとでフィルムにキズがあることが分り放送中止になった。ところが音楽の方は出来てしまった。録音中止の知らせは録音当日に来た。この歌はこのままでは日の目を見ずに葬られてしまう。なんとも残念であるので曲集に入れて復活した。
 「春だ、春だ、春だ」についても語ることがある。この曲はもとは秋の曲だった。秋というより、初冬の季節である。この季節は昆虫が居なくなる。制作は困窮した。苦心の末、寒風の中で瀕死の蝶が、春を回想する場面を考えた。荒涼たる冬の風の中で春の幻想を夢見る。シューベルトの「冬の旅」の中の「春の夢」と同じである。のどかな春の曲として受けとってもらっているが、本来は死の幻想であり、シューベルト、マーラーの世界に通じる。単純に春の場面を想像してもらっていいが、こういう成り立ちを知った上で、ひいたり、聞いたりすると、また違って聞こえるのではないだろうか。
 「ゆりかご ゆれる」もなつかしい。これはたしか四月か五月の曲だった。新緑の中、庭で二匹の小猫が抱きあって気持ちよさそうに昼寝していた。詩そのままの、やさしい姿であった。幼虫を木の葉で作ったゆりかご状のものに乗せて、枝からつるし、お守りする虫がいる。この曲はその生態を謡っている。

   風のおもりで ゆりかごゆれる
               緑の葉っぱの ゆりかごゆれる

        ぼうや ねんねよ みどりのなかで
             きょうも うぐいす 谷間でなくよ

   風のおもりで ゆりかごゆれる
                五月のお山の ゆりかごゆれる

 夢のように幻想的な詩で、ふさわしい旋律が出来たと思っている。

 冬の部の「ハサミムシのこもりうた」は二月末の日の仕事だった。この日、東京には遅い春の雪が降った。しめった春の空気。そんな中で遠い山の中で春を待つ小さな生命のことを思った。「きょうは楽しいクリスマス」の原曲にはマンドリンが入っていた。伴奏の音型はそのためである。中間のコラール風の所はエレクトーンがオルガンで祈りの気分を出している。「糸かけ 糸かけ 糸かがり」は、ビーバのように川の水を小さなダムで塞き止める虫のこと。手際よくまとまった曲になった。深沢亮子さんがアンコールでよくひいてくれる。

 これらの曲集では幾つかの場所で作曲技術上でも定型を破る大胆な手法を使っている。無論、聞いている人には新奇には聞こえない。むしろ自然に聞こえる。自然に聞こえることを意図した。たとえば「森はよんでる」。ここでは最後の終止形が定型になっていない。完全終止形ではなく、低音の動きが不完全な型になっている。終止が堅く強くなりすぎないための工夫である。「秋の谷川」では、やはり終止形が定型ではない。X→Tではなく、V→Tになっている。そして「森の泉はなぜかれた」では、最後が主和音ではなく、Yの和音で終っている。無常感を出すためであった。

 ことほどさように、これらの曲は片手間仕事の結果ではない。ちいさい、愛らしい曲たちであるが、私は自分の作品として誠心誠意を尽くした。(続く)

2006.10.9. 月 晴 町田

 快晴、ようやく秋の好日となる。今日も「体育の日」で休日。銀行、郵便局、三日続きの休みで困る。金曜に発送した郵便物は今日も配達されない。近代社会の生活リズムは停止状態。

ピアノ曲集
「ちいさな四季」(二)
             歌作りの不思議
・・・・・・・

 台本は、はじめが、本田重光さん、途中から、古川先生の奥様である古川千鶴子さんに替った。いまの曲集の曲は古川千鶴子さんの歌詞によるものが全部である。

 
作曲の手際がわるいので苦しい思い出が多い。夜六時からの録音なのに、その日の午後になってもまだ出来ない。こういう仕事には写譜屋さんが必要である。ぎりぎりに仕上げて、写譜屋さんの所に届ける、来てもらうこともあった。時には、最後の部分は録音をやりながら、写譜屋さんがスタジオの隣の小部屋とか廊下で書いていることもあった。迷惑はかけたくないのだが、腕がわるいのは仕様がないもので、いまでも慚愧に堪えない。写譜屋さんは作曲家の仕事を受ける仕事で立場が弱い。立場の弱い人たちに迷惑をかけることは一番いけないことで良心が痛んだ。それに、私は元来、こういうどさくさ式の切羽詰ったやり方が嫌いな方である。自分の本性に背く不快さもあった。
 その後、この仕事の後、何年もの内に次第に熟練して腕が上がっていき、録音の前日に仕上がるようになった。普通の常識よりも早い仕事ぶりにまで腕が上がった。練達の職人になったわけである。すでに30歳台後半に入っていた。


 それでも、土壇場で苦し紛れに作曲した歌にいいのがある。こういうところが不思議である。「ゆりかごゆれる」とか「のんびり のんびり かたつむり」とか「ハサミムシの こもりうた」など、こうした苦衷の中て生まれた。人の脳は圧力を加えると、おそろしいほど直感力が増し発想力も高まるようである。自慢になる話ではないし、思い出したくもないが、これは事実である。歌を作る仕事は「作曲」とは違う。作曲は「composition」という通り、ものを組合せ構成していく作業である。それに対し「歌」は単旋律、西洋の概念ではこの二つは別物として区別される。歌造りは「compositon」ではなく、「song-writing」, 「song-writer」の仕事である。歴史に残る天才の伝説的な話も、「歌」について言えば凡人でもありうることでさして驚かない。複雑な曲を「compose」した話には感心するが、逆に「歌」の場合の話が誇張されて領域を越えて作り話になったのてばないかと疑いたくもなる。この番組は翌1962年の五月頃まで続いた。


 
こうして、約半年の間続いた仕事であるが、私は、この中の幾つかの歌と曲にひどく愛着を覚えた。こういう親しみやすい曲を自分として初めて書いたことがあったのかもしれない。そして、自分の中にこういう音楽を作りたいという望みが深い所にあったのだろうと思う。もともと私は動物が好きである。物心つかぬ前から私の家には複数のネコがいた。当然私より年上である。ネコを尊敬するようになった。犬、猫にかぎりず、虫でも魚でも好きである。人間の横暴のため傷つく彼等が哀れであった。開発と称して、自分の足下を切り崩す行為を続けた結果、ようやく分ってきたことは、人が、山、川、草、花、そして多くの生き物たちに援けられて生きてきたということだった。
   放送の音楽は終れば使い捨てである。私はこの楽譜を大事に保存した。
 

2006.10.8.日 晴 町田

 秋晴れ。ただし風が強い。おだやかな秋日和とまではいかない。それでも、六日の狂暴な悪天からは救われた感がある。低気圧は北へ移動し、陸と海で被害で出ているよう。

ピアノ曲集
 「ちいさな四季」(一)
          自分の作品の中で・・・

 ピアノ小曲集「ちいさな四季」は、多分、私の曲の中で一番ひろく知られているかもしれない。この曲は「25のやさしい小曲集」と副題されている。私の仕事の中で将来残るのは力作よりもこういう曲かもしれないとも思う。作品の運命も天の定めである。

 
楽譜の初版は、全音から、たしか1972年、現在は12版か13版目が出ている。思索的、難解、晦渋、深刻、というのが私の作品の主たるイメージであったし、自分自身でも分りにくい音楽はいけないとは思いながら、気楽で、大衆的で、可愛らしい音楽は中々ご縁がないものと思っていた。
 この曲が生まれた機会は意外なものだった。1961年秋、NHKの学校放送から教育TV番組の音楽を依頼された。番組は隔週で、一回15分か20分の短いもの。内容は理科系の番組で「新昆虫記」、昆虫の生態を観察紹介するもの。監修は、学芸大学の教授で昆虫学者として第一人者、古川晴男先生であった。
 番組の趣向が変っていた。昆虫紹介の理科番組であるが、これを劇化してミュージカル仕立てにするのである。劇化といっても必ずしもストーリーがあるわけではなく、蝶が蜜をもとめて花の間を飛び交う場面では、その場面にふさわして音楽と歌、母親虫が外敵から卵を守って巣に戻り、卵を抱くところでは「こもりうた」という趣向である。収録してきたものを、こうした構成に編集することはなかな手がかかったろうと思う。映像は当時のことだから、カラーではなく白黒である。一回の番組に三つか四つ歌があったと思う。
 当時、私は31歳、まだまだ駆け出しで手際がわるかった。こんな短い番組にひどく手を焼いた。力を入れるべき所と、比較的手軽くてもいい所の区別がつかない。どの部分も一様に満身の力を入れるから途方もない労力と時間がかかる。たった15分か20分の番組に、徹夜に近い取り組みをしたこともあった。一度録音が終ると次まで二週間あるわけだが、一週間くらい前には次回の台本が出来て打ち合わせに入る。離れていられるのは一週間である。この程度の密度はプロなら余裕ありすぎる進行だが、当時の私はそんな状態だった。

 
編成は、器楽が10人未満、それに歌がある。これが「合唱」と指定されているものがあった。「合唱」指定の数がかなり多かった。合唱といっても、多人数の合唱団を呼ぶわけにいかないので、パート一人の重唱である。東京混声合唱団から四人派遣してもらう。時に女声二人というのもあった。その時にはしかるべく派遣してもらう。器楽は新室内楽協会。この団体は、ラジオ、テレビ、映画など、実用音楽の分野で当時最も多く仕事をしていた団体で、実体は、既存のオーケストラの団員、あるいは個人、それぞれ登録された人たちで、一種の派遣業である。東京混声からも、ここを通して呼んでもらう。スタジオはまだ内幸町にあったNHK。NHKがいまの代々木に移転したのは東京オリンピックの頃、大きな組織だから一度には移転できず、少しずつ移った。その間は新旧両方にシャトルバスが運行していた。(続く)

2006.10.7.晴 町田

 
昨6日は高崎へ。自作の演奏のため。ひどい雨。往復の新幹線は快適で速いが、帰りの都内の電車の方が乗り心地がわるい。満員で、疲れた人たちばかり。23時15分に上野に着いたが、帰宅は0時20分、一時間後だった。雨の上に風まで加わり、狂気の天候。

歌曲「永遠のみどり」について(二)
  <Ein Ewiger Frieden> ドイツ語版に続いて英語版

 私はこの曲で、はじめて外国語に作曲する経験をした。ドイツ語はずいぶんと勉強はしたつもりだが、外国語が母国語なみに自分のものになるわけはない。その前提の上での経験談としていえば、ドイツ語による作曲はとてもやりやすかった。

 
これはどういうことだろうか。高低アクセントではないことが理由の一つであることは間違いない。音の移動をどうしようか、という時、言葉に拘束されない。上でも下でも移動できる。音楽の論理に従い自由に動けるのである。強弱アクセントであるから、アクセントのある母音は遠慮なく強調できる。長音にすることも出来る。
 
旋律の型は、一回目が日本語で、続けて二回目のドイツ語の部分に入るが、一回目を原形で、二回目、外国語の部分は、必要な場合は自然な変化をつけることにした。余り大きな変化なく、日本語の原形に近くドイツ語化することができた。

 初演は1988年7月9日、東京カザルスホールでの江川さんのリサイタル、ピアノは高橋従子。海外初演は1988年7月28日、オーストリア、インスブルックで同じく江川さんと、ピアノ、桑畑由美子。インスブルックでは大きな反響があり、幾つかの国の人から楽譜を所望され進呈した。楽譜は、江川さんが自費で音楽之友社から出版した。
 江川さんがインスブルックに発つ前に、毎日新聞の梅津時比古記者から取材を受けた。海外でこの歌を演奏することの意義について、写真入りで報道して頂いた。多謝。

 この曲には続きの話がある。私は1993年、ポーランドのシンポジゥムに出た時、カナダ、モントリオール大学教授のウォルフガンク・ボッテンバーグさんと親しくなった。この人は名前からも分るように、もともとはドイツ人である。フランクフルトで生まれ育った人で、ナチスを避けてカナダへ来たのかもしれない。この曲を進呈した所、たいへん感激してくれた。そして帰国してから、第二部を英語に訳して英語版の楽譜を送ってくれた。そして、同僚の声楽の教授でバリトンのエリック・オーランド氏が、1994年3月24日、同大学の演奏会で英語版を歌ってくれたテープを送ってくれた。もちろん 楽譜には、日本語の部分にローマ字が併記されている。外国の人はこの部分だけ日本語に取り組んでもらうことになる。あとは、英語、ドイツ語、どちらか母国語であれば問題ない。なお、ボッテンバーグさんからは英語を上手に楽譜の歌詞欄にはりつけた版が送られてきた。
 この曲は、基本的に古典的調性音楽であるから通常の記譜法によっているが、一部、特殊な書き方の部分がある。音を延ばす場合、符頭だけを書いて水平の線が引いてある。任意の長さ延ばせという意味である。伴奏が付随している所では、伴奏の適宜の部分で線が切れている。歌い手の見解では、この書き方は拘束感がなくて歌いやすいとの反響を受けた。器楽の場合も同様だが、定量音符で書くと、演奏者は厳密にその長さを守ろうとする。それが拘束となり、のびのびとした気分が出ない。また、定量音符には拍節が内包されている。テンポに従い拍節は秒針のようにきざまれる。テンポが速くなればキザミは連動して速くなる。これは作曲者の意図にまったく反することである。また、速度の問題と別に、キザミなしで延ばしてほしい所でも、このキザミが実感として表面に出てくることがある。こもは作曲者の意図に反することで、音楽の表情を破壊してしまう。私はこの曲以外の声楽曲でもこの記譜法を使用しているし、ピアノ曲「山水図」では、遅い部分はほとんどこの記譜法によっている。
 この曲は、合唱にも編曲されているようである。江川さんから私に編曲の許諾がもとめられたので知っているが、聞いたことはない。
 楽譜は私の手もとに14部残っている。これが売れて無くなれば、原版だけ残し、コピーすることになる。それからは英語訳歌詞も付いたものにする。頁数はわずか7頁。定価は800円と記入されているが、年代が経ったので1000円とする。

                                      「永遠の緑」の項終り

2006.10.5.木 雨 町田

 
雨しとどに降る。「おわりのない朝」についての記述が終ったので、更新も一休みした。
毎日、更新していると、せわしない。更新休みの間にゆっくり読んで頂きたかった。
 今日から、歌曲「永遠のみどり」について二回にわたり書く。


歌曲「永遠のみどり」について(一)
  <Ein Ewiger Frieden>日本語とドイツ語で

 歌曲「永遠のみどり」は詩人原民喜の詩による歌曲である。1988年の作品。メツォ・ソプラノの江川きぬさんの委嘱である。原民喜は、広島で被爆し、被爆の死をみつめる作品をえがき続けたが、1951年、鉄道自殺により46歳の生涯を閉じた。

  永遠のみどり

  ヒロシマのデルタに 若葉うずまけ
  死と焔の記憶に よき祈りよこもれ
  とはの みどりを
  とはの みどりを
  ヒロシマのデルタに 青葉したたれ

 私はこの詩にかねてから深く心を魅かれていた。恨み、呪い、弾劾、闘争、ではなく、静かな深い祈りの心が歌われているからである。「おわりのない朝」の仕事で広島に滞在した時、私は幾度となく元安川にかかる橋の上から、いまは平和公園になった、このデルタを眺めた。デルタはいまあふれるような緑に覆われていた。

 このデルタは、かつては住宅密集地であった。古い市街図を見ると、密集した住宅群の中にに映画館まであり、下町風の最も人と住宅が混み入った所であった。爆弾はその地域を目標に落とされた。惨状がいかばかりであったか言語に絶するものがある。いまは公園としてよみがえり、幾重にも重なった深い緑に覆われている。永遠の緑を、永遠の緑を、その願いは、どの人にも、心の底から湧き出てくるものに違いない。

 私は、この詩を江川さんに見せて賛同を得た。歌曲の委嘱を受けていたので、この詩を選びたいと申し出たのである。まず著作権継使用の許諾を得なければならない。著作権継承者である、詩人のご子息に電話で申し出こころよく承諾を頂いた。以前はどの詩にも勝手に作曲してよかったのだが、いつの頃からか許諾が必要になった。
 ついては、この歌を日本の人だけでなく、外国の人にも解るようにしたいということになった。そのためには外国語に訳す必要がある。江川さんは、ウィーンで勉強した人でドイツ語圏に交流がある。まず、ドイツ語に訳すことにした。日本語も必要なのは当然なので、一度目は原語の日本語で、二度目はドイツ語で歌う形式を構想した。一番と二番ではなく、一つの曲として続けて演奏する。歌によくある、一番、二番ではない。全体を続けられた一体である。はじてめの試みである。

 そして、日本語の勉強をしているベルリンのピアニスト、ヨハン・G・フォン・ヴロッヘムさんに訳してもらおうということになった。ヴロッヘムさんは、日本ファンで、1980年代に私たちの世話で来日し、数カ所でリサイタルを開き私の作品もひいて頂いた。1989年、私がベルリンの自宅を訪問した時、宮沢賢治、森鴎外などの日本語の本が机上に積んであった。この詩の翻訳を依頼されて、彼は即時応諾して意欲的に取り組んでくれた。
 以下がドイツ語訳。私の個人的趣味でドイツ語のUmlautを +eで表記することを好まないのでUmlautは略したままで書く。

  Ein ewiger Frieden
      - ubersezt von Johann G. von Wrochem

    In dem Delta von Hiroshima
     wirbelt junges Laub empor
       die Erinnerung an Tod und Feuer
      erfult ganz mein schlichtes Gebet

    dieses Grun in Ewigkeit
      dieses Grun in Ewigkeit

     ein ewiger Freiden mag
       im Delta von Hiroshima
         auf die jungen Blatter fallen

 日本語がかならずしも熟達とまではいえない人と思っていたが、この訳詩はみごとであった。                                                  (続く)

2006.10.2. 月 雨のち曇 町田

広島へ
 「おわりのない朝」−9
         APPENDIX

この曲の楽譜について

 この曲には楽譜はあるのか。第二部の通常の音楽の部分は当然としても、第一部、あるいは、以後の具体音の編集による部分はどうなっているのか、疑問に思う人もあるかもしれない。

  
楽譜は存在する。第二部だけでなく、全曲のスコアが存在する。第一部の具体音のドキュメンタリーの部分は図形で書かれている。それがなければ仕事は出来ない。楽譜はコンピュータ印字されていない。手書きである。そもそも再演が不可能で、再演がありえない曲だから、印字しても演奏に使うものではないからである。お求めの方には有料で貸出しする。自分でコピーして返却して頂く。紙の大きさはNHKが縮小してくれたのでA4版、片面印刷で42頁。コピー用に綴じずに一枚ずつになっている。値段3000円とする。

  skg@gb4.so-net.ne.jpまで。

 これで「おわりのない朝」にかかわる記述は終る。終るが、これを書きながら、作品について、それにまつわる事実を書き残すことは案外貴重なものかもしれないと思い始めた。普通、作者は作品について弁解せず、説明せず、作品そのものに語らせ、世人の評価にまかせることが道徳的であると考えられる。しかし、これもまた情報である。寡黙を尊ぶ個人的モラルとは別に、書いておくべきことは書いておいた方が世のためであると思うようになった。

 また、home-pageというのも便利なような、身勝手なような不可思議なものである。これは公開文なのか、私文なのか、いままで存在しなかったものだから、考え方も成立していない。有名日刊新聞に書けば、晴れがましいが寿命は一日である。夕刊もあるから事実上は半日である。月刊誌はひと月。しかし、home-pageは本人が望めば何時までも掲示しておける。読者数も少ないとはいえない。印刷物がよほどの発行部数のものなら別だが、home-pageを読む人の数馬鹿にならない。当然ながら掲示しておく期間が長い程増える。それに転送というものがある。ネズミ算式に増える。昨今の出版社のやり方は、著作者本人自身がかなりの部数買取る方式が多い。多数の書籍を自宅の一遇に堆積するよりHPで読んでもらう方がはるかに合理的である。

 私はHPに自作の楽譜の広告を出してから、ずいぶんと注文が来る。まるごと自分の収入になるから出版社の印税よりはるかに得である。演奏された場合の著作権使用料もまるごと自分のものになる。楽器屋書店の店頭にないことは確かに不利だが、近年の出版社は売切れでも再版しないことが多い。もちろんこの場合店頭には出ない。どこから考えてもネット直売の方がいい。

 次回からは、やはり広島の原爆にかかわる歌曲「永遠のみどり」について書く。
                                              (広島へ−「おわりのない朝」終り)


2006.10.1. 日 雨 町田

広島へ
 「おわりのない朝」−8
   完成してから(その二)

 アメリカの女性作曲家のナンシイさんは、ご主人のクライド・スミス氏と共同で現代音楽専門のCD会社、VMM(Vienna Modern Masters)レーベルを創設し、本社をウィーンに置いた。記憶が定かではないが、80年代の後半ではなかったかと思う。

 私は、1990年四月に、また「群」と同行してハンガリーへ行き、その帰路、ウィーンへ立ち寄った。ナンシイさん夫妻がホテルまで挨拶に来てくれた。この頃、ナンシイさんのピアノ・ソナタを「現音」日本現代音楽協会の音楽会で演奏するよう私が計らった礼の意味もあったようである。
 その後、私はナンシイさん個人とVMMのために多少の尽力をした。その返礼の意味があるのだろうが、「おわりのない朝」をCD化してVMMから発売したいとの申し出があった。その前からこの曲をテープで提供して聴いて頂いていた。この曲はどうも外国でもアメリカの人に強く訴えるようである。VMMは作曲家から自薦の場合、経費の一部を作曲家本人持ちの方式をとっている。自費出版とまではいかないが、一部本人負担である。しかし「おわりのない朝」の場合は全額会社負担で出してくれるということであった。

 さてそうなると音源が問題になる。私はそれまでにこの曲を自費でLPレコードにしていた。どれだけ刷ったかは忘れたが、その後間もなく世の中はCDの時代に入ってしまった。LPは自制した枚数しか刷らなかったので残りは僅かだったが、それでも幾らかは無用となって廃棄した。これは後日の話。

 さて、音源としてこのLPを使おうとしたが、どうしても針音が入る。NHKに元のテープをもらいに行ったが、私が貰い受けた以外に原テープはないという。私はLPの音源にしたテープはあったが、音が劣化していることを怖れたのである。電子音楽スタジオに立ちより事情を話すと、親切な人が、「奥の手」がある、といって、とんだ奇策を試みてくれた。LPレコードを再生器の回転盤の上に置いて、レコードの上に少量の水をかけた。そして回転するのである。これで針の摩擦音ははるかに減少した。しかし皆無とはならない。これもだめとなって、私が持参した原テープを試聴してみた。これは充分CD音源に耐えるということになった。とんだお騒がせであった。早速、原テープをウィーンに送ると、音質と技術を賞賛された。「well crafted」とFAXに書いてあった。日本の職人芸は水準が高い。かつて、テープ編集の国際コンテストがスイスであり、スイスと日本が決勝に残り、ハサミの使い方で日本が優勝した話を聞いた。

 解説文は私が英文で書いたものを送った。先方がそれを手際よくまとめてくれた。写真は、原爆ドームと被爆ピアノ、これは私が撮影したもの。
 それからしばらくして、CDが大量に届いた。以後、この曲の音源はすべてこのCDによっている。外国に提供してものも以後はCDである。このCDはいまも私に直接注文された方には有料で販売している。ただ、外国版だから解説が英文で字数も限られている。私は、購入してくれた人には詳しい日本文の解説、A4紙一枚のものを添付するようにしている。

 1993年、私はVMMの仕事でポーランドへ行った。仕事のあと、指揮者のカワラさんがショパンの家へ車で案内してくれた。ワルシャワ市内を走りながら、カー・ステレオでこの曲を再生し始めた。ナンシイさん夫妻も同乗していたし、カワラさんはVMMの仕事を専属的に引き受けていたので、私とナンシイ夫妻両方へのサービスのつもりだったろう。ワルシャワもまた第二次大戦の悲惨な歴史を込めた街である。その中を走りながらこの曲を聞くのはなんとも深刻であった。(次回でこの項終り)

2006.9.30. 土 晴 町田

広島へ
 「おわりのない朝」−7
   完成してから(その一)

 最後の完成は東京局である。広島から原さんが上京してきた。もっとも原さんは、この時の移動で東京局勤務に転出したから自然な成りゆきだった。全曲を聞き直して補正追加した部分もあった。 
   私が広島局の資料室で出会ったものの中に、中年婦人が被爆後の光景を語ったものがあった。淡々とした話し方の中に語られる内容は戦慄すべきものであった。

 
私は、この一部をオーケストラの部分のどこかに重ねることを考えていた。そのため、資料番号を広島の原さんに電話で告げて東京に持参してもらうことにした。しかし、番号の間違いのため持参されたものは別のものだった。だが私は、別の考えから、この構想を中止する方に傾いていたので、これでよかった。もし、これを実施したら、この作品は「ドキュメンタリー・ミュージック」ではなく「ドキュメンタリー」そのものになってしまう。言語の確かさは得るが、音だけで耳にうったえる力は、その分失なわれる。しかも、一部を抜きとっての導入は、制作者の恣意が入り説得性は衰弱する。手違いでよかった。

 全曲は、たしか、八月に初放送、その後、11月に芸術祭参加放送として再放送された。実は、放送前に原さんから、第一部のドキュメンタリー部分を省略して器楽が入る第二部から放送というわけにいかないか、という内密な相談を受けた。私は同意しなかった。何があったのかは分らない。原さん本人の意向ではないと推測した。具体音だけによる部分が政治的理由で歓迎されないということか、芸術祭のために保守的な審査員に受け入れられにくい、ということか、分らないし、私には興味も関心もない。

 この年、1983年9月、私は札幌の邦楽団体「群」に同道して、チェコスロバキアへ演奏旅行に出かけた。ブラチスハラバの公演を終えて、次のブルノ市へ移動し、公演の合間にオペラを見に行った。劇場で幕間にアメリカ人観光団の老人レオン・レフソン氏と親しくなった。カリフォルニアの人である。私は「おわりのない朝」の話をした。ぜひテープを送ってほしいと言われた。帰国後、その通りにするとすぐに返事が来た。ショッキングな音楽であり、出来るだけ多くの人に聞かせたい。地元の放送局に推薦していいかとのこと。私は日本での放送後に望むむね返事した。間もなく、放送局の人からレフソン氏に宛てた手紙がレフソン氏から転送されて来た。当時、反核運動が世界的に広まった時期で「The Day after」という映画が評判になった。核戦争の「その翌日」という意味で、核戦争の危険を警告した映画である。放送局の人からの手紙は、この音楽はこの映画よりはるかに衝撃的である。当地では、映画が放映されるので、その翌日にこの曲を放送したいとのことであった。まさに「The Day after」、「その翌日」であると書いてあった。
 1985年、カリフォルニア州のサクラメント市長から私宛に手紙が来た。非常な衝撃を受けたと書いてある。英語国民には英語の音声は迫真的である。忘れてはならないこの出来事を人々に知らせるために、文章だけでは不十分である。音楽、音による聴覚からの入力は言葉よりはるかに訴求力が強い。私が意図した人々へのメッセージは成功した。ただし、アメリカ東部ではだめだった。放送局に推薦してくれた人がいたが、内容が政治的であるという理由でどの局も敬遠した。東部はやはり保守的なのであろう。スミソニアン博物館が原爆資料展示を企画した時も退役軍人会が反対して規模をはるかに縮小するほかなかった。アメリカをひたすら加害者として扱うことに反対されたのである。
 その後、スロベニア共和国の国営放送から放送された。現地の私の友人作曲家の推薦である。その他、西ドイツでも放送されたように思うが正しくは忘れた。ここまで来るとこの曲の音源について語らねばならない。
 私はブラチスラバでアメリカの女流作曲家のナンシイ・ヴァン・デ・ヴェイトさんと知りあった。その後、頻繁に文通をしていたが、その内、ナンシイさんは、ご主人とVMMというレーベルの現代音楽専門のCDの会社を起こし、本社をウィーンに置いた。ナンシイさんとの交流から多くの出来事が生まれることになる。(続く)

2006.9.28. 木 晴 町田

広島へ
 「おわりのない朝」−6
   編集の仕事から仕上げまで

 広島の滞在は七日か八日の間だった。オーケストラの音楽は第一日に終ったから、それ以後の日は編集制作の仕事である。爆撃機の音に、録音した投下命令書の音声「ヒロシマ、コクラ・ニイガタ、ナガサキ」をコラージュする。それが次第に「ヒロシマ」だけに収斂されていく。これに、秒針の音、心臓の鼓動音が重なる。曲の始めからシンセサイザーの通奏音による低音が通底して響いている。これらの音の複合が次第にクレセンドして頂点に達した時、一瞬の沈黙がある。緊張の沈黙である。しかし、ここで予期せぬ障害が発生した。原因は器材である。

   NHKの再生器材は、ある一定の時間無音状態が続くと感知器が起動して停止する。これはどうにもならない。無音はほんの短い時間だが、感知器の起動範囲に入った。さてどうするか。この無音の後にオーケストラと被爆ピアノが突如入るはずである。これ無しでいきなり入るわけにいかない。代案に散々苦慮する。結局、合唱団の女性に来てもらって高音の音を母音で出してもらった。それを幾重にも変調させて、人の声とは解らぬものに変えた。その声−音を沈黙の場所に置いた。声を出してくれた人には申し訳ない。英語の音声による「ヒロシマ、コクラ・ニイガタ、ナガサキ」は効果的である。これはあとで外国での反響で判明した。

 
このあと、オーケストラとピアノによる部分の一部をコピーして、それをマルチ・トラッカーで始動時をずらして六声のカノンにする部分もあった。最後に、戦後第一回の平和祈念式の鐘の音を入れる。これはどうしても入れたかった。ここでピアノは通常のスタインウエイに換る。こういう方式だから、オーケストラとピアノも音の素材の一つとして考えられたといってもいい。
 私は仕事の合間に時に散歩に出た。原爆ドームの辺りに行くことが多かった。たいていそこには誰かが居た。ある時は西洋人の青年が座して黙考していた。ここは人を考えさせる所だ。最後の僅かな所は東京局で仕上げることになった。東京局の方が設備が揃っているからである。


 
最後の日、打上げがあった。繁華街の酒場でにぎやかな時を過ごした。やがて午前二時過ぎ、余り遅くなるし私は翌朝帰京するので一人だけ辞去した。道筋をおしえられ、ホテルまで歩く。しかし、私はホテルの前を通り過ぎた。平和公園に向かった。なぜそうしたか分らない。何かに引き寄せられるようだった。公園の中では永遠の火が燃えていた。深夜二時過ぎの公園に人影はなかった。私は座して瞑目した。かたわらで火が燃えている。向こうに原爆ドームが照明に浮かびあがっていた。
    私は死者の声を聞いたように思った。

 翌日は早朝、局に行ってあいさつ、それから新幹線に乗るのでNHKとホテル前の交差点でタクシーを拾った。


2006.9.26. 火 雨 町田

広島へ
 「おわりのない朝」−5
                 運動の欠陥

 この仕事を進める間、私は時折り深刻な懐疑に襲われた。この忌まわしい出来事を再構成することへの疑問である。米軍の投下命令書からは、人と組織の非情さ冷酷さ、そして人が憎しみあうことへの救いのない絶望感が寄せてくる。加害者は被害者の苦しみは永久に解るまい。私はしかし、加害した国と人を責めようとは思わない。立場が替れば自分と自分たちも同じことをしなかったと誰が言えようか。
 再構成する目的はただひたすら風化させないためである。忌まわしいことを忘れることは更にに忌まわしい。人はこの日の朝を永久に忘れてはならない。そして何が起こったかを少しでも詳しく、そしてより正確に知らなければならない。「××を返せ」「××許すまじ」ではない。あったことを知ること、それが全ての起点である。「おわりのない朝」である。

 
しかし、私が、この命令書について言いたいことは、この文書の中身のことではない。そうではなくて日本の平和反核運動のあり方である。

 この命令書は平和資料館の展示室の壁に展示されている。誰の目にも入る。私はそれを写真にとってきたか、あるいは、別に文書を入手したか忘れたが、ともかく、誰でも目に入る所に展示されている。しかるに、この文書をどのようにして入手したか、と私に尋ねる人がいる。それも平和反核の運動をしている人である。
 この命令書には原爆の目標候補地の都市が明記されている。広島、小倉、新潟、長崎の四つである。ところが、根拠なく、どこそこが目標候補地に入っていた風のことをいまだに言いふらす人がいる。札幌であったとか前橋であったとか。これも平和反核運動参加者である。私は、こういう所に、日本の平和運動、反核運動の根底的な脆弱性を見る。事実の究明を何より第一とし、その結果の上に主張を構成するという、主張を客観的基礎から構成する心構えが欠けていることである。以下の話もすべてこれに帰着する。

 原爆投下機の機長が良心のとがめから精神に異常をきたし、病院に収容されたという話。これも反核平和運動の人が吹聴するのを聞いた。これも間違いである。それに類する話の源泉は、投下機の機長ではなく、気象観測機の機長である。目標の気象を調べる気象観測機は、投下当日、投下機より約一時間早く発進した。機長は、クロード・イーザリーという人である。この観測機が小倉、長崎、広島の気象を観測し、広島が最適と信号を発したのである。これで広島の運命は決まったわけだが、この飛行機は投下機ではない。イーザリーという人はかねてから奇行が多く、しかも行状にいかがわしい所がある人だったと記録されている。この日も、気象観測の結果を報告したが、その帰路、投下機と空中ですれ違った。その時、「面白そうだから付いて行こうか」と、Uターンして投下機の後を付いて行こうとした。同僚の反対でやめたが、とかくさような行状の人である。

 投下機の搭乗員で良心のとがめで苦しんだ人は別にいる。副機長のロバート・ルイス、そして、直接爆弾を投下した爆撃手のファイアビーである。ファイアビー大佐は戦後核兵器反対の平和運動に共鳴し、トルーマン大統領に平和団体の進言を直訴する役を引き受けたが、現役軍人が上官である大統領に政治的進言をすることは妥当ないとの周囲の忠告から、本人ではなく妹さんがその役を果たしたと記録されている。
 ルイスの場合は、もっと良心的である。自分が投下機の搭乗員であったことを小学生の息子にも隠していた。しかし、ある日、息子が学友からそのことを告げられ、父親は告白することになる。テレビ出演で思わず落涙して国防省から注意されたが、みずかからの良心に属する行為であると謝罪しなかった。そして、被爆した女性たち、いわゆる「原爆乙女」たちがニューヨークに来た時、みずから出向き身分を明かして謝罪した。深い信仰を持つ人てなければできることではない。こういう話を日本の反核平和運動家たちは全く知らない。知りたくないなら勝手だが、根も葉もない機長異常説を持ち出すより、こちらの話の方が確かだし、原爆投下の反人道性を強調したいなら、事実の確かな話の方を語る方がいいではないか。

 個々の運動家たちが、一々根拠を調べることは無理かもしれない。しかし、運動を推進する幹部、指導的地位の人たちがいるはずである。彼等は科学的に事実の究明をする義務があるではないか。究明の結果を運動する人たちに伝えることが彼等の義務ではないか。心情だけでなく事実の究明によって、主張に骨格を与えていくことが説を主張する道筋ではないのか。次回から制作経過の報告に戻る。(続く)

2006.9.25. 月 晴 町田

広島へ
 「おわりのない朝」−4
         爆弾投下命令書

 サイレンの音に重ねて英語の肉声で導入されるのは、当時、アメリカ軍参謀本部が現地軍に対して発した、原子爆弾投下の命令書である。曲の中に引用したのは最初の部分、項目1の部分であるが、以下は全文の日本語訳である。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
発:国防省参謀本部
宛:合衆国陸軍戦略空軍司令カール・スパーツ大将
                                        1945年7月25日

1:第20空軍第509混成部隊は、およそ1945年8月3日以降、天候が目視爆撃を許し次第  、できるだけ早く、広島、小倉、新潟、長崎、の諸目標のひとつに最初の特殊爆弾を投下  せよ。爆弾の爆発効果を観測記録するため、国防省から派遣される軍人および民間人か  らなる科学技術者を搭載した観測機が爆弾搭載機に随伴する。観測機は爆発の衝撃点  から数マイル離れた地点に待機せよ。

2:後続する爆弾は、計画推進本部による準備が完了次第ただちに上記の目標に投下せよ。上記以外の目標については、あらためて指示を発する。

3:日本国に対するこの兵器の使用について、一部あるいは全部の情報の配布は国防長官および合衆国大統領により留保される。この件に関するいかなる文書または情報の公表も、当該部局の許可なしには指揮官からこれを行なってはならない。すべての報道文を特別検閲のため国防省に送ること。

4:これに続く指示は、国防長官および合衆国参謀本部の指示と許認のもとに貴官に発せられる。本命令書の複写を、一部をマッカーサー大将に、一部をニミッツ大将に、貴官から、個人的に、情報として手交されたい。

                                     参謀本部代理官
                                      C.S.C.大将
                                         THOG.T.ハンディ
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
★用語について説明する。

 当時、アメリカではまだ空軍が独立していなかった。そのために「陸軍戦略空軍」と呼んでいる。
 「国防省」と訳したが、原語は、「War Department」である。すなわち、直訳すれば「戦争省」である。長官は「Secretary of War」「戦争長官」となる。この用語は現在は使われない。現在は「国防省」「国防総省」は「the Department of Defense」である。現在では余りになじみのない言葉であるゆえ、現在の呼び方で訳した。
 「およそ1945年8月3日以降」の部分、「およそ」の原文は「about」。米軍では「about」は前後三日か四日か、どちらか忘れたが定義が定まっているそうである。
最後の4の部分に、「マッカーサー大将とニミッツ大将」という表現があるが、階級の呼称は原文では「General」と「Admiral」である。両方とも陸海軍の将官を呼ぶ「将軍」「提督」、が邦訳でいう通称的呼称であるが、これは専門文書であるから通称的呼称ではなく、両方とも、それぞれ、陸軍大将、海軍大将の意味と考えられる。問題は、この二人へのコピーの手交が「個人的に、情報として、手交されたい」となっいることである。
 原文は
「you personally deliver one copy of this directive to ・・・」である。

 これも広島局の資料だが、爆弾搭載機の機長、ポール・チベッツが対談で語っている中で、チベッツは、「General Mackarthur never knew・・・」と語っている。命令書のこの部分との関連はどうなるのだろうか。「貴官から、個人的に、彼等への情報として手交されたい」という言い方は、公式の伝達ではなく、「それとなく耳に入れる」という意味があるのか。「personally」は、親しく、直接、との意味もある。「内々に」という意味か。専門家の意見を聞きたい。チベッツは現地軍の一軍人にすぎないから、この最上級者に宛てた命令書は知らないと私は思う。

2006.9.24.日 晴 町田

広島へ
 「おわりのない朝」−3
          史実と表現

 具体音による第一部分の構成。被爆当日の市民生活を描写することから始める。広島局の資料室で色々な効果音を選び出して構成を考える。広島局には8トラックのオープン、マルチ・デッキがあった。当時はコンピュータがないから、マルチトラッカーでの多重録音である。まだアナログ時代である。ローランド制のシンセサイザーも使われた。いまからすれば旧式のアナログ式の楽器である。

 
この部分の構成の意図は、運命の日の朝の市民生活を描くことであった。朝八時の市内。遠くの子供の声。市電の音。繁華街のざわめき。当時多くの軍人軍属が広島市に駐屯していたことから軍人の号令の声。港湾での波を分けて進む小型船の音。これはすでに効果音として局にあるものを使う。ついでだが、この時、市民戸籍がない軍人軍属が市内に多数転入していたことは事実である。このことから正確な犠牲者数が割り出せない結果が生じた。市電の音、小型船の音、これらは、ステレオ効果を使い、一方から聞こえ中央を通過して反対側に遠ざかるものにした。雑踏の音は現代の地下街の録音である。ひろがりを聞かせるためのリバーブを広域型にして、エコー効果を加えた。やがて、空襲警報のサイレン。これは遠近感をもたせて複数カ所から発するようにした。その方が凄味が出る。

 このサイレンについて説明が必要である。

 
実際には当日は空襲警報は出なかった。サイレンは鳴らなかったのである。ラジオの報道が「敵小数機、西条上空を」とまで言った所で原子爆弾が爆発した。警報がなかったために被害が大きくなったことも事実である。従ってサイレンは事実に反する。しかし、私はあえて承知の上でこれを入れた。フィクションとファクト−事実との違いは何か。私の念頭にあったのはシェーンベルクの「ワルソウの生き残り」であった。この中で、ドイツ兵が叫ぶ部分がある。「もたもたしているとガス部屋に送り込むぞ!」と。しかし、ナチスの収容所でも、ガス部屋のことは囚人に秘密にされていた。パニックになるからである。この曲の台本はシェーンベルク自身が書いた。シェーンベルク自身はこのことを知っていたのかどうか、それはは分らない。しかし、この部分は即時的には事実には反するのである。私は演出上、最少のファクトの変更は許されると判断した。目的は、この日の朝の運命的な時刻をどう表現するかである。緊張の高まりが必要であった。「午前八時です」というラジオの時報アナウンスを入れることも試みた。戦後38年目だったから、まだ当時を知る年輩の職員が居て、アナウンスを実演してくれた。「ゴゼン、ハチジ、デス!」と、かなりの大声である。当時はマイクの性能がよくなかったので、こういう言い方だったそうで、かなりの絶叫調である。しかし、この方式も余りよくないと思われた。さてどうするか、苦心苦慮のあげくサイレン音の使用となった。出来うれば、事実を変えることなく仕上げたかったが、如何ともしがたい。目的は事実の列記ではなく、表現意図の達成であると判断したからである。
 この部分は、通常の音楽では不可能な、描写と再現の世界である。絵画、映像に近い世界であり、ドキュメンタリー・ミュージックと呼ばれる分野が存在成立する根拠が理解できる。聴覚を対象にした分野であるから、musicというのことも出来ないことはない。

 そして、サイレン音に続いて、当時、米軍参謀本部が現地軍に発した特殊爆弾投下命令書が英語の音声で導入される。これは岩国基地に駐留する米軍兵士の協力出演であった。彼らは三人ほど遊び気分でやってきたようだ。二十歳にもならないくらいの、まだ少年の面影がある兵隊たちである。さすがに、この文書には愕然としたらしい。先輩世代の行為であるから彼等には身に覚えがないことである。三人の一人がブースに入るが、残りは廊下を散策している。彼等も文書の内容を知って、少し年上らしい一人が「Coud not be the story changed?!」と苦い顔で紙を巻いたもので自分の首をたたいていた。読み終るのを引き継いで爆撃機B29の爆音が導入される。この音は実際のこの機種の音が記録されており、それをそのまま使った。

 この命令書の全文ではなく一部を取り入れたのだが、次回はその全文の日本語訳を紹介する。この文書をめぐっては、私見として言いたいことが多くある。作品の進行過程の話からは幾らか脱線するが、この機会に書いておく。ここ以外に書く場所がないから。
(続く)

2006.9.23.土 秋分の日 曇 町田

広島へ
  「おわりのない朝」−2
        難問をかかえて

 私は、この被爆ピアノを主題にした仕事において、当初から根本的な難問をかかえていた。

 
それは、私固有の音楽観であろうが、音楽とは、本来、楽天的なもので、過酷、残酷、深刻、悲惨という苦痛と否定に属するものの表現には適さないと考えるからである。そういう種類の題材は文学の受持ちであろう。説明ということができるから。それ故にこそ、文学はかような出来事について詳しく隠さずに記録する義務があろう。美術もまたしかり。ピカソの「ゲルニカ」のように、また丸木夫妻の「原爆の図」のように。しかし、音楽は本来、説明ということが出来ない。そして楽しい時に奏でるものである。悲しい表現もあるが、それは感情の表現でしかありえない。原爆の犠牲者への悲歌はできるだろうが、そこにこの兵器への抗議告発のような内容を込めようとしても、説明ができないのだから音楽にはできない。にもかかわらず、政治的内容と訴えの音楽、「××をかえせ」式の歌をしばしば聞かされて私はうんざりしていた。政治的な訴えへの意欲があふれたのだろうが、勢い余ってそれを音楽に持ち込み仕立て上げる無神経さと、その結果のぶざまさはとてもいやだった。

 
私は、そのためにこの曲を「ドキュメンタリー・ミュージック」の型で仕上げようと考えた。「ドキュメンタリー・ミュージック」とは、ベトナム戦争の頃、アメリカで盛んに作られた分野で、録音された具体音だけで構成された音楽である。在来の音楽からは音楽といってよいかどうか疑問だが、録音技術の発達が可能にした手法である。確かにこれを「ミュージック」と呼ぶことは大胆で、あるいは無理かもしれないが。
 そのため、資料室の音声資料を詳しく調べたのだが、時代のせいがあり、充分な資料は期待できないことがわかった。私見によれば、当時の技術のせいもあるが、そのほかに、対象を取材記録する、という報道の基本理念が現在のようには成立していなかったのではなかろうか。その思いは深い。報道というものの理念の問題である。そのほかに、というより、まず第一にというべきか。被爆ピアノは世界に一つしかない。だから、この楽器以外では再演できない。無限の場所での再演の可能性はじめからない。録音に定着するしか可能性はない。これが、この作品が録音記録型になったゆえんである。

 資料が充分でないことから、私は、第一部の導入的な部分だけ、具体音による「ドキュメンタリー・ミュージック」方式にすることにして、そのあとは通常の楽器群によることにした。一種の折衷かもしれぬがやむをえない。録音は八月。それまでに通常楽器による第二部を完成し、第一部は広島局で制作することにした。三月に仕事を始めて、八月に録音とは、長い曲の場合充分な期間とはいえない。かなりの強行軍である。スコアが出来上がり、オーケストラは広島交響楽団、ピアノ・ソロは村上弦一郎君に決まる。村上君は岩国在住なので地理的にも都合がいい。指揮は黒岩英臣君。八月、録音の日取りがきまり、黒岩君と会う。環状八号線沿いのレストラン「BUITONI」で会い、スコアを渡した。定量音符によらず、横に線をひいただけの図形的楽譜に黒岩君は平然としていた。おおいに頼もしい。
 こんどの広島滞在は七日間か八日間である。広響の録音は半日ですむ。そのあと、第一部の具体音による部分とオーケストラ部分の編集加工がある。楽器音の部分に具体音を重ねたり、テープをコピーして多重化する部分もあるので、オーケストラの録音を先にすませた。技術に、横山民夫さんという練達の人がいてくれたのでNHKでも最良の結果が期待できたことは幸運であった。録音前日には門外不出の被爆ピアノが資料館からスタジオに持ち込まれた。もっとも、平和資料館とNHKはほとんど隣であるので、移動は簡単だった。 そして、延々と、調律、というより修復の作業が始まった。どのくらいの時間をかけたか忘れたが、相当な時間をかけた入念な作業であった。この結果、この楽器の音は立派な音に戻ってしまった。(続く)


2006.9.21.木 晴 町田

広島へ
  「おわりのない朝」 - 1

 1983年2月のある日、私はNHKの前田直純さんから電話を受けた。広島局が今年の芸術祭の作品を企画している。原爆で被爆したピアノがあり、どうやら音が出せる状態である。この楽器を使って作曲をしてほしいとのこと。

  
広島局の担当は原武さんである。広島の原さんと電話で詳しく話しあう。出来るだけ早い時期に広島を訪れ、この楽器を見せてもらい、鳴らしてみる、ということで、三月の上旬広島行きとした。
 それからは、私の凝り性から、近所の区立図書館へ通い、広島の原爆についての本を片っ端から読んだ。広島に限らず、核兵器全般のついての図書まで読んだ。頭の中はそのことでいっぱいになった。

 三月のその日、羽田から午後の全日空便で広島へ向かう。頭はすでに知識でふくれあがっているから、関心の対象である実体に出会うことでおおきな興奮の中にあった。この日は好天で地上がよく見えた。この便は長野県の諏訪の上空を通過するコースをとる。諏訪湖が眼下に見えた。それから、次第に南に進路を変え、瀬戸内海の上を飛ぶ。天候がよい三月の夕方近く、瀬戸の海は陽光を反射してまぶしい限りである。高度は多分一万メートル近くだろう。私は、1945年8月6日、あの日の早朝、エノラ・ゲイ号が見た光景がこれとほとんど違わなかったであろうと思うのであった。広島空港に着いた時はすでに日が落ちていた。原さんは当直で出られぬと事前に知らせがあったので、タクシーで市内へ、NHKに直接着く。原さんと短時間食事し、その日はホテルに泊まる。ホテルはNHKの筋向かいの東急INNである。

 翌日、朝から原さんの案内で、爆心地周辺を歩く。平和資料館から平和公園の中に入り、相生橋まで行く。このT字型の橋が爆撃の目標になった。中之島側からドームを眺め、被爆当時、地獄図絵となった元安川を見つめる。そして、当日の爆心地点となった島病院まで歩く。爆弾はこの病院の上空約500メートルで爆発した。目標の相生橋とこの病院の距離は約500メートル、一万メートル上空から投下して僅かな誤差である。資料館に戻り、被爆ピアノを見る。外盤にガラスの破片が無数に突き刺さり凄惨な形状を見せている。さらに、弦がぼろぼろで、上の鍵盤の音が下の鍵盤の音より低かったり、その反対だったり、目茶目茶である。この音を、持参した小型の録音機に収録する。当然のことながら、私は、この時の被爆ピアノの状態を前提にして仕事を進めることにした。ここから小さな誤算が生まれた。八月の録音の時、現代日本楽器業界のすぐれた技術により、ピアノの機能はおおはばに修復されたのである。取材見聞した当時の状態では、とても楽器として機能することは期待できない。被爆ピアノという事実もある。これを楽音よりも効果音の類のものとして扱う方針を私は立てた。

 そ
れから、館長室で館長の高橋昭博さんに会う。高橋さんは、被爆して指に黒い爪が生えることで知られた人である。この時私はそのことを知らなかった。物静かな心の温かさが伝わってくる人だった。こんどの録音の趣旨を説明して、被爆ピアノの館外持出しの陳情する。こころよく承諾してくださって、館内見学のため一般者が入れない所も立入りが出来るようにしてくださった。私たちは、NHKの腕章を腕に巻いて、館内すみずみまで見ることが出来た。帰京後、高橋さんの著書を読んだ。敗戦後、高橋さんは知人の国会議員の紹介で平和資料館の職員に就職したが、宿直の時、深夜、展示室を見てまわることが恐ろしく、精神状態に自信が持てなくなり、紹介してくれた人に謝り、辞職したことが書いてあった。

 
それから局に戻り、資料室の保存資料の探索である。段ボール箱を次々開けて、出てくる音源資料を一つずつ試聴する。何ぶんにも戦後40年近くを経過している。なかなか注目に価いするものがない。それでも幾点かを取り分け、その幾つかを、とりあえず自分のマイクロ・カセットにコピーした。古い記録であるから、音声資料が少なく、また、あっても音質がよくない。戦後第一回の平和集会の鐘の音は貴重であったので作品にとりいれた。原爆投下直後のトルーマン大統領の声明があった。これはどういうわけか、同時通訳が着いている。NHKが編集したものか。投下機機長のポール・チベッツ大佐の取材記録もあった。NHKは大組織の通例で、これ以上の資料はむしろ東京局にあるのではないかということであった。

 私は、この日の夕刻の新幹線で帰京する予定であった。所用をすませた私は、タクシーを呼んでくれる局の手配を辞退して歩いて出かけた。広島の市内を歩いてみたかった。紙屋町は広島市の中心繁華街である。大きなデパートが並んでいる。私は市街を歩きながら、イアフォーンで、いま録音したばかりの資料を聞いていた。トルーマン大統領の声明、「これは宇宙の根源の力を応用したものである・・・・もし日本が降伏しないなら、われわれはさらに原爆を投下し続ける。その結果、日本と日本人は地上からいなくなってしまうであろう」。この日本語訳を聞きながら、いまは東京と変らぬ繁華街の紙屋町を歩くのは複雑奇態なものであった。被爆直後の紙屋町の写真も何度も見ている。途中でタクシーをひろい駅に向かった。

 
2006.9.18.月祭日 雨 町田

言葉について

 声楽曲の仕事の場合、何より注意することは、音読して理解される言葉であること。
  文体と表現では大岡昇平のものに私は多く感銘を受けた。「俘虜記」の一節をすでにこのサイトで紹介したが、書かれる対象が、戦場という、異常で、非情で、しかも反人間的で、酷薄な場であるにかかわらず、言葉と表現を選ぶ作者の入念な意識のはたらきが一語ずつ読む者に伝わる。そして、言葉以前にその内容において、自分を深く顧みて、主観と感情に流されることを極度に注意しながら、抑制のきいた文体の中で言葉を選んでいく態度に、ものを書くということはかくあるべきことか、との感銘が深い。

 「俘虜記」の中で最もよく知られ、尋常ならざる体験が語られる場面は、「私」がまだ俘虜になる前、「私」が草むらに倒れている前に、若いアメリカ兵がそれと気づかず眼前に現われ、それを撃とうとして撃たなかった所であろう。作者は原作で、文庫本の約十頁を費やして、この時の自分の心を分析している。無防備で自分の前に全身をさらした相手を自分はなぜ撃たなかったか。放送劇でもこの場面が取り入れられた。心理分析の叙述は簡略化されてはいたが、枢要な部分は取り入れられた。制作の竹内さんは私に、この部分に音楽を入れるよう要請した。悲しいかな音楽は「説明」ということが出来ない。複雑にして深遠な告白の部分にかかわらず、緊迫感の表現しか音楽はできなかった。高音弦のトリル、それもPPのトリルを配した音楽を私は置いた。それはそれで一般的な効果をあげたし、誰がやっても、これ以外の手はなかったろうと思っている。音楽と文学の領域の違いを思い知らされた経験であった。

 与謝野晶子は、文学を志望する少女に、「美しい」ということを表現するのに十くらいの言葉を知っていなければならい、と言ったそうだ。それは、言葉の使い分けに相当するだけの観念の多様性を持っていなければならないということだろう。言葉の多様性は、作曲では、音の選び方の多様性に相当するだろう。共通することだが、言葉は観念の表われであり、思想の表われである。作曲の技法も同じである。大岡昇平の文は、入念に音が選ばれた音楽を聞く思いがする。



2006.9.16.土 晴 町田

出張の仕事-続き

 仙台まで車で行った-続き。宇都宮バイパスを過ぎてから少しずつ車が動き始めた。午前中に家を出たのに、福島から宮城に入った頃は日が暮れていた。録音は翌日だから、遅く着いてもいいのだが、さすがに疲れた。早く着きたいために途中の食事も満足にとらない。焦りである。交通費はNHKが支給してくれるのだから、何も自分の車で行くことはない。あの頃は運転が好きだったから遊び心だったのだろう。いま考えると馬鹿げた話である。

 
その次か、少しあとの仙台行きの時か、全日空で行くつもりだったが、飛行機がストになってしまったので鉄道で行った。交通費を飛行機代で支給してもらおうとしたが、今日は飛行機は飛んでいないと経理に断られたそうである。担当の石森さんが苦笑していた。NHKの経理もなかなかしっかりしている。この時はなぜか、帰りがひどく疲れた。栃木県に入るとはるかの彼方に富士山が小さく見える。疲労した目に見えたことをよく覚えている。もちろん東北新幹線はまだない。

 ついでの話だが、札幌へ出張したことがある。これは放送劇の伴奏音楽の仕事ではなく、1971年、芸術祭作品の合唱曲「白い世界」の練習のため。当時の札幌中央放送局の須田潔さんの仕事。羽田空港の様子がなんとなくおかしい。搭乗すると、うしろの席で会社員風の男性二人が小声で話している。「どこかへ行って行方不明になっているらしい」、ひそひそ話である。何があったのかその段階では分らない。飛行機は離陸して、林立する積乱雲の間を縫うようにして札幌へ向かった。市内の日航ターミナルでバスを降りて徒歩でホテルへ向かう。途中人だかりがしている。号外が張り付けてある。「全日空機、自衛隊機と衝突、全員死亡」。私のホテルの下の一階が全日空事務所である。一歩入るとテレビ・カメラが砲列を敷いている。まだ人は居ない。これから記者会見が開かれるらしい。私は事故の直後に東京から逆コースを飛んだことになる。もっとも、上り、下りのコースは少し違うようだから事故の現場を飛んだわけではないが。局に着いてからもこの話でもちきりになった。これも人情でやむをえない。脱線するが、NHK広島局の委嘱作品の用で広島へ飛んだことも忘れ難い経験だった。この時のことについては別に書く。

 仙台局の録音は仙管の演奏である。先方の技術に合わせなければならない。こういう場合、演奏が至難でなく、しかも効果が上がる作曲の技術を使う。楽器法、オーケストレーションの技術である。運動的な音型を少なくして、和音がよく響くように厚く重ねる。そのほかにも色々な手法があるが、こうした楽器法の技術を私はすべてこうした現場で習得した。NHKの作曲料は確かに安かったが、最良の施設と技術の協力を得て、また、よほど希れな楽器、お寺の釣り鐘でもない限りどんな楽器も用意してもらえる。演奏者もまたしかり。楽器法による表現の技術、遠近、濃淡、陰影、あらゆる間接表現の手法、そのための楽器のあやつり方は、こういうものは現場で鍛えなければ取得できるものではない。直接表現は初歩の技術である。プロの技術は間接表現にある。このことは音楽以外でも同じではなかろうか。原色ではない中間色を自在に使いわけることである。
 こうした仕事では作曲者は主役ではないが、他者との協調の世界である。独立した作曲の仕事は自分で好きなことが出来るが、反面、独り善がりの世界でもある。
 仙台局の仕事は、全部は覚えていないが、「うぐいす」という題の劇をよく覚えているし、テープも残してある。一種の交番日記、東北地方のさる町の駅前交番、そこに屯するお巡りさんのもとに持ち込まれる様々な人間模様。劇団も仙台放送劇団。当然、地域感もあり、言葉も地元の本物で、東京の人が演技するような、ぎごちなさ、わざとらしさがない。こういうものは東京局では出来ない。そのほか、何回かの仙台での仕事があったが、これ以外は記憶がさだかでない。

 私のピアノ曲集「ちいさな四季」の原曲はNHK教育テレビの隔週番組「新昆虫記」であった。約半年の間、歌をまじえたミュージカル仕立てのものだった。この時の制作者である東(ひがし)さんが、また仙台に移動して来ていた。予期せぬ再会で旧交を祝った。


2006.9.15.金 曇 町田

出張の仕事

 ここまでの放送劇の仕事はNHK東京局の仕事であった。しかしその後、東京以外の局に出張することになった。NHK東京局におられた花輪一郎さんが仙台局に栄転になり、それから私を録音に呼んでくださるようになった。


 この時代のNHKの局の組織ついて説明した方がよい。

 いまでも骨格は変らないかもしれないが、当時は東京の本局以外に、全国に幾つかの中央放送局というものが配してあった。北から順にあげると、札幌、仙台、名古屋、大阪、広島、熊本、それぞれが中央放送局の名を冠していた。札幌中央放送局、仙台中央放送局、のように。そして、それぞれの中央放送局が自分のオーケストラを持っていて「放送管弦楽団」と称していた。札幌放送管弦楽団、仙台放送管弦楽団、というように。それらは通称「放管」と呼ばれ、「札管」、(さっかん)「仙管」(せんかん)と呼ばれた。そのほかに、優秀な合唱団を持っていた局もある。なかでも、大阪と名古屋は東京のプロ合唱団ををしのぐ水準のものだった。これらは放送合唱団と称した。大阪はJOBK、名古屋はJOCK、略して、BK、CK。BK合唱団は、混成合唱にすぐれ、林光の名作「原爆小景」もここのために作曲されたものである。CKは女性合唱がすぐれていた。中田喜直さんの名作は、本来ここの合唱団のために作られたものである。名古屋局の制作者であった女性スタッフの平手さんはこの仕事を担当した人で、新幹線がない時代、中田さんは何度も名古屋まて来られたと話していた。私の混成合唱曲「白い世界」は札幌放送合唱団のための曲である。また「小さな四季」の女性合唱版をCKの女声合唱団、あるいはそのOGだったか、名古屋の演奏会で名演奏をしてくれたことがあり、名古屋まで行ったことがあった。この時は森正さんの指揮だった。

 惜しいことに、NHKの合理化のためだろう、いつの頃からか、これらの放送管弦楽団と合唱団は暫時解散されていった。オーケストラの方は技術は余り高いものではなかったが、時に放送以外の演奏会も持ち、地元の人にオーケストラを聞く機会を与えた。放送管弦楽団の解散は各都市に独自の交響楽団が出来たせいでもあったかもしれない。東京局にも東京放送管弦楽団があった。これは「東管」(とうかん)と称して、私もテレビの仕事を東管で録音したことがある。さらに、地域局の合唱団は東京の合唱団より水準が高いくらいだから、これは無条件に惜しい。東京にも放送合唱団があった。東京放送合唱団である。略して東唱(とうしょう)。これはごく最近まで存在していたように思う。私の合唱曲「いま始まった物語」は東京局の芸術祭参加作品で東唱に演奏してもらった。1977年のことである。
 各中央局が独自の楽団と合唱団を持っていただけではなく、各局独自の制作番組も当然いまより多かった。地域独自の番組が出来たのである。これも合理化のための中央集権で次第に少なくなっていった。私の子供の頃は、札幌局から伊福部昭さんのテーマ音楽が頻々と聞こえていた。地域文化の振興になっていたのである。中央放送局という呼称も変り、「本部」というようになった。札幌は北海道本部、仙台は東北本部、というように。職員たちは、消防か自衛隊みたいだと話していた。こうしてみると経済成長と組織の拡大整備は何であるのか、深い疑問を持たざるをえない。文化を劣化させることになんの意義があるのだろう。ついでながら、これらの局は放送劇団も持っていた。札幌放送劇団というように。ここから全国的な名優たちも幾人も出ている。劇団の方はどうなったか私は知らない。

 このような地域局健在の時に仙台へ放送劇の音楽録音のため出張した。五回か六回か、もっとあったか、演奏はもちろん仙台放送管弦楽団である。音楽録音の話より、仙台までの往復に色々な経験があった。最初の時はいつだったか、おそろしく暑いさなかだった。多分八月ではなかったか。鉄道で行った帰り、常磐線で茨城県に入った当りから、列車の冷房が故障して作動しなくなった。窓を開け風を入れ、汗だくになって過ごした。車掌がたびたび現われて陳謝したが、謝られても何の足しにもならない。ユデダコ状態で上野に着いた。

 次の時は、何を思ったか自分の車で仙台へ向かった。東北自動車道がまだ無い時である。これは12月だった。年末のせいか、まず自分の家から環七に出る所から混んでいた。何回も信号待ちをしてやっと出た。次に埼玉の岩槻の当りで道を間違えた。間違えて一キロほど戻る愚をおかした。それからやっと四号線に出た。大変な交通量である。宇都宮のはるか手前で渋滞が始まり、延々、地平線の彼方まで並んで動かない。宇都宮の駐車場に車を置いて鉄道で行こうかとさえ考えた。なぜこの時のことを覚えているか、「三億円事件」が起こった日だったからである。渋滞した車の中のカーラジオで事件のニュースを聞いていた。ただし、この事件と渋滞とは関係がない。(この話続く)

2006.9.13.水 雨 町田

外国産の劇の経験・BBCの放送劇

 外国の劇の翻訳ものでは、ショーロホフの「他人の血」があった。

   これは、ドン・コサック族のロシア革命時の話だが、なんとなく、幕末の東北あたりの日本の話みたいに思えそうで余り違和感はなかった。西洋の上流階級の話になると日本にはない社会だし、生活水準の違いが出てくる。居心地がわるく、とってつけたように座り心地のよくない感触になる。しかし、外国でもこういう農民社会の話だとそれがないのだろうか。劇中でコサック族の男性合唱の場面が出てくるが、この時はそれらしい曲を作り男性合唱団に歌ってもらって録音した。これはNHK仙台局の仕事だったかもしれない。仙台への出張は度々あった。

 まとに以て珍奇な経験をしたのは英国BBC放送の放送劇を翻訳した劇を制作した時のことだ。

 外国の原作を翻訳して劇化するのではない。はじめから放送劇として作られたものを、こちらでセリフ、ト書きを逐語的に翻訳して台本を作り、同じものを作ろうというのである。
 この劇は社会風刺劇というのだろうか、詳しい筋書きと内容は忘れたが、テームス川にかかる大きな橋が枢要になる場面が何回か出てくる。このため、私は凝りに凝って仕事をして、この場面が循環して出てくるたびに印象が強くなるように工夫した。ところが、制作中にBBCから原作放送劇の録音がNHKにとどいた。たしかLPのディスクだったように思う。それをスタッフ一同で聞いた。なんとも拍子抜けである。肝心な橋の場面は、ブーという低めの正弦波音みたいな音が鳴っているだけ。日本のように、演出、効果、音楽、それぞれ全力投球で凝りに凝るというものでは、まったくない。私たちは顔を見合わせ苦笑するだけだった。なんによらず力いっぱいがんばるのは日本精神なのだろうか。
 この劇では、ラストシーンで、大群集が橋めがけて行進してくることになっている。それも「クワイ川マーチ」を歌いながら。こちらでは、立教大学のグリー・クラブに来てもらって録音した。あちらの原版では、これもまた、簡単というか象徴的というか大がかりな合唱は使っていなかったようだった。万事はぐらかされた。
 一方、私はこの頃、FEN、在日駐留米軍の放送を注意して聞いていた。ドラマを放送していることがある。こちらはまた、おそろしく歯切れがいい。セリフの末尾に間髪入れずコードが入る。間合いというものががなく畳み掛けるようである。私はこういう方式の音楽を次の仕事で試みた。内容は学校放送の外国ものだった。ローマ時代の話だったように思う。ところがこれがうまくない。制作の大井つや子さんから、どうしたものか、という疑問が出された。どうも、日本語と英語の違いがあるらしい。英語という言葉は日本語のような情緒がないらしい。日本語は言葉の後にほんの僅かだが、情緒の残響のようなものが残るらしいのである。これもまた誤算であった。同じことを語っても音韻がまるで違う。言葉の持つ性質は国民性の現われであろう。音楽録音はやり直すわけにいかないので、この時はその場で可能な方法で幾分の手直しをして間にあわせた。

 国民性の違い、その反映としての言語の違い。外国のやり方をそのまま輸入してもうまくいかない。これは万事に通じる話である。風土の違いであり、それが文化の違いでもあるのだろう。発見であった。


2006.9.12.火 雨 町田

 広島の慰霊碑には、「過ちは繰り返しません」、と書いてあるが、「あの時、こうすればよかった」、という答えが見つからないのに安請け合いはできない。

 この戦争は日本国民にとって、もともと根本的な逆説であった。負ける戦争を始めたことが無謀であったと言う。しかし、負けたからこそ、日本国民は軍国主義から解放され、自由と民主の国になった。もし負けなければ、日本国民はいまだに軍国主義と全体主義の圧制のもとに生きて居なければならない。とすれば負けてよかったことになる。戦争の惨禍はひどかった。この惨禍を受けないで軍国主義から解放される道があれば、それがベストであったろう。しかし、そのような道があったのだろうか?

2006.12.2. 土 晴 町田

間奏日記

 11月30日は中国のヴァイオリン奏者、劉薇さんの在日20周年記念リサイタル。浜離宮朝日ホール。私の作品「龍舌蘭」の初演だった。馬思聡の大曲、ピアノ五重奏曲を含み、長い演奏会だった。私の曲の悲哀をよく感じとってくれた。これは少年の日への鎮魂の曲。

 人の世に げにあるものは
   人の世の 悲しみのみと いまにして知る

日本の戦後文化は思春期

 狂信的進歩思想の源泉となったものは「歴史には必然の法則がある」という迷信である。この迷信が世界中でどれだけの人を殺し、迫害したか見当もつかない。

 いまの時代、人々はナチズムやオウム真理教を非難するが、この迷信を「国教」としていた国家群が少し前まであった。核兵器まで持って世界を脅した。ソルジェニーチンの書いたことが本当とすれば、小国の人口くらいの数の人が投獄されたか殺された。ナチス国家は12年で終ったが、こちらは70年以上続いた。算数的にこちらの方が多いのは当り前である。大戦後の世界混乱のさなか、この迷信は猛威をふるった。占いのようなものである。「×月×日、世界が滅びる」、という予言をばらまき騒ぎを起こすエセ宗教が今も時々あるが、「歴史の必然」を説いて回るこの迷信集団は混乱の中で人の動揺につけこみ勢力を延していった。「調性で作曲する者は無用である」、「いまどきこんな」、こんな恫喝も同類である。

 この迷信によって音楽もまた多大な被害を受けたが、戦後の時代を総括的にかえりみると、新時代の到来という認識、過去への反発、こういうものは私たちも同じ状況を共有していた。総括すれば、新時代への意気込み、という点ではこの段階では同一だった。 
 邦楽器のための新しい音楽の創出、西洋とは違ったものの発見と振興、こうした目標もその一部であった。このことは認めなければならない。「西洋とは違うものを」、西洋の原理とは違うもを」、こういうことを誰しもが口にした。プログラムの自作解説に至るところでこういう文が目についた。一種の民族主義の高揚期であったのだろう。

 日本文化は自分以外の文化との、出会い、競争、比較に馴れていなかった。経験したのは天平時代と明治時代くらいのものではなかろうか。明治になって初めて異文化と正面からの出会いを経験した。だから、明治人は懸命にとり入れにとり組み、大正人は、畏敬と平伏におちいった。そして、昭和の戦後は、「西洋何するものぞ」の時期となった。この経過は、一人の個人の幼年期から思春期へかけての成長経過そのままである。戦後思潮は思春期の自立心の覚醒と反抗期の始まりであったのだろう。

 「××ではなく」、「××とは違うものを」、「××には無かったものを」、どうしてこう否定型の発想をしたのだろう。自分も含めていまそう思う。排除と否定、否定することによって自分のアイデンティティを見い出し、浮上させようとする。世界の歴史の中で二つの文化の遭遇は一方を否定するのではなく、融合、とり入れ、混血、の型で混合するのが普通だった。近代ヨーロッパ文化は先行するイスラム文化からた多大なものを受けついだ。その当時、「イスラムではなく」、「イスラムとは違う」、「イスラムには無かった」式の発想があっただろうか。無論否である。イタリアの建築にはアラビア風のモザイク型のデザインがよく見られる。ローマ時代の帝国周辺の人たちは、押しつけられないのに進んでローマ式の家を建てたそうだ。便利でカッコいいからである。便利で、カッコよくて、経済的となれば、これを拒む人はいない。「××とは違う我ら独自のものを」と叫んでいるの者がいたとしても、それは一部の知識人だけであり、大勢を決めるのはこの種の人々ではない。一般の大部分の人たちは、便利で、カッコよく、経済的な方を遠慮なくとり入れる。否定することは無理である。

 私は、自分の音楽が目指す方向について、何を肯定し、何を否定するか、いままでよりも落着いて考えるようになった。

2006.11.29. 水 晴 町田

 間奏日記

四日ぶりの陽光。このところ、自作演奏が続く。旧作再演、新作初演、とり混ぜてだが、有難く、めでたいことだが、練習立会い、本番緊張、気が疲れる。作者として仕上げまで仕事が続いているのだから当然の労働。

11月25日 ベートーヴェン・サークル主催深沢亮子リサイタル
        三つのやさしい小曲、「風」、「MAY」、「夏の終り」、再演

11月27日 「日本のうた」CMD主催 
        「うた」(1982) 「ガラスの花束」 (1976)再演

11月30日 劉薇ヴァイオリン・リサイタル
        ヴァイオリンとピアノのための「竜舌蘭」 ― 遠い雨、(2003)初演

12月5日 室内楽の夕べ CMD主催 
        三つのやさしい小曲、「風」、「MAY」、「夏の終り」、再演
       深沢亮子ピアノ

12月27日 electoneとpan-fluteのための「Sylvie」(2006)初演
                      CMD主催  

 これに一つずつ練習立会いがつく。新作の場合は、手直し箇所がほとんど必ず現われる。コンピュータ印字の楽譜はこういう時便利だが、二転三転ということもある。旧稿もかならず保存しておく。

2006.11.26. 日 曇 町田

前衛思想のたかまりと自滅

 時代には「はずみ」というものがある。時代が過ぎた将来の時点から、過去の時代を批判することは誰にも出来る。しかし人は神ではない。その時代のさ中にいると、「はずみ」と「必然」との区別は出来なくなるものである。1950年代、新時代の到来は誰しも認知した。そこから、新しい時代へ向けての運動を始めようということには懐疑も反対も持ちにくい状況だった。

 こういう芸術思潮の変遷は、社会政治全般の思想動向と無縁なものではない。1950年代に入る直前から、いわゆる冷戦が始まった。社会主義のソ連と資本主義のアメリカ。社会主義こそ未来であり、アメリカは滅び行く資本主義の代表であるとあの頃誰しも思った。1950年朝鮮戦争が始まった。私がはじめて上京した年である。六月のある日、北区十条の親戚の下宿のラジオが「38線で南北両軍の軍事的衝突が起こっている模様」と、臨時ニュースを報じたことを今でもまざまざと覚えている。どっちが始めたのか、どう見ても準備万端整えた「北」が「南」へ攻めこんだとしか見えないが、善良な社会制度の「北」が、滅びゆく呪われた資本主義制度の「南」へ攻めこむはずがない、よくよく疑ってかかろう、という不可思議なマインドコントロールに私たちは陥っていた。この戦争はやがて1952年か、停戦が出来てひとまず終った。
 こんな状況がまだまだ続いた。やがて、1960の安保反対騒動を経て、ヴェトナム戦争が激化し、アメリカが直接介入する。この泥沼状態が最悪の時期の1960年代後半の頃、世界的に反体制運動が盛り上がり、フランスでも日本でも学生運動が高揚した。1969年の安田講堂事件で頂点に至る。この頃から、反体制でも、政党主導の体制左翼と、それに飽き足らない新左翼の二つの運動が出来た。学生運動で騒動の主役となったのは、すべて新左翼である。こうなると、新左翼ははずみがつく。やがて彼等は企業爆破事件などをお起こし、浅間山荘事件、「よど号」ハイジャック事件などまで至る。ここまで来ると、あきらかに暴走である。

 芸術思想の話に戻すとして、こちらもまた、この政治的思想と実は並行していた。シュトックハウゼン、ブーレーズ、ノーノの戦後前衛路線は、いつのまにか過激化の度合いを増していった。1960年代、反体制運動が高揚した頃、本当に、古い音楽は滅び、新しい、すべてにおいて新しい音楽が時代の要請に応じて現われるべきだし、現わさなければならない、という気運がみなぎったのである。ピアノやヴァイオリンなどの古典楽器は歴史的使命を終り、これからは電子楽器の時代だと思った。実際、碩学の柴田南雄先生は「西洋近代音楽の歴史は1968頃を以てその光栄ある歴史を閉じた」とどこかで書いた。ウェーベルンなどの無調主義に加えて、ジョン・ケージの思想が加わり、音楽は在来の論理と成立条件を無視反抗破壊する動きが勢力を増した。政治思想が、テロリズムの傾向を加え、世論大衆を無視した暴走の色彩を増したことと並行して、こちらもまた、音楽を聴く側、受けとる側を無視した独走暴走の気味を次第に増大させていった。

 政治思想と芸術思想、すなわち、いうところの現代音楽、前衛音楽の思想の共通点は、相手を無視する所である。自分の行為が、他人にどう受けとられるかを無視する。これを無視していいとなれば、行為は実に容易になる。何でも、やりたいだけやればいい訳だから。やらない者は臆病者か妥協する者、無用の保守主義者、保身主義者ということになる。ピエール・ブーレーズは「今日、調性で作曲する者は最早無用な存在である」と放言した。

 もともと、戦後前衛なるものが、初めから暴走の因子を内蔵していたのである。独善的観念主義とでもいうものの宿命である。「人は理想を前方に投影し、それに、にじり寄ろうとしながら行動する存在である」これはハイデカーの言だが、人の理念は怖ろしい狂人を産みだす。ナチズムやオウム真理教を他人ごとと言えない。
 芸術思想は、人を殺したり、物を壊したりしないから社会問題にならない。それ故制止するものがないだけ余計始末がわるい。この思想は、人は殺さなかったが芸術と音楽は存分に殺した。「調性で作曲するものは無用である」という放言は恫喝である。しかし、やがて、この思想にも落日が来る。(続く)

2006.11.24. 金 晴 町田

日本にとっての西洋

 明治になり、日本は西洋文化を受け入れた。しばらくはその流入に溺れるに近い状況であったろう。

   大きな理由は国防と産業の振興であった。自分を守らなければならないし、世界に伍していくためには産業力を高めなければならない。そうした物的な理由があったが、物だけでなく文化もまた入ってきた。それはいままで知らないものであったし、物質的に豊かで、近世、近代が先行していた欧米の文化は魅力あるものだった。こちらも、とり入れに懸命になった。それは大正世代まで続き、大正世代は明治世代よりも西洋に権威と畏怖を持ったのではないか。私たちは昭和の第一期生だから、大正世代のこうい西洋への権威主義的畏敬には疑問と反感を持ったものである。

 太平洋戦争の後、アメリカ文化が更に追い討ちするように流入してきた。奇妙なことに大正世代は、欧州文化には追随敬怖するくせに、あたかも、その分のお返しのようにアメリカ文化には反感と軽侮の対応感情を見せた。まるで自分が欧州の子分になり、親分の権威を共有しているかのごときこっけいな姿に私たち世代には見えたものだ。
 私たち世代とは、昭和ヒト桁世代の後半と定義してよい。戦争が終った時15歳、中学三年生である。おとなの社会人として戦争を経験しているわけではない。成人としての人生は戦争終了後に始まった世代である。

 世代的反動であろうか。先行世代の、それも明治世代ではなく大正世代の、西洋、欧州への盲目的畏敬追随への反感と反動とでもいうものが私たちの中にあった。西洋の繁栄も無限に続くはずがない。我々には彼等には無いものが有るはずだ。ひざまづくことをやめて、独自なもので対抗しよう、そんなふうな感情が頭をもたげていた。事実、西洋と西洋文化の権威もまた第二次大戦後は動揺していた。戦後の諸民族の高揚、独立運動、西洋支配への反抗、世界史は明らかに新しい時代へ入っていた。アメリカの台頭自体が欧州の権威の相対化をもたらす一部となっていた。
 西洋に無いもの、我ら独自のものを打出そう、そういう気概が私たち世代の中に湧き起こったのはそうした時代状況がもたらしたものだった。
 私も所属した作曲グループ「山羊の会」もそうした意識で集まったし、黛、芥川、團の「三人の会」にもそれがあった。私たちには、日本の民謡を発掘して新しい民族的主張をする、バルトークの精神的影響が強かったし、それにはバルトークの民族思想が芯にあった。黛敏郎さんの「涅槃交響曲」も、仏教文化に基づくもので西洋とは違うものを打ち出そうというものだった。先行する世代にも民族主義路線をとる先輩たちはいたが、彼等は、西洋の摂取より、民族的美学と技術をとり入れて独自性を出そうとした。しかし私たちの世代は西洋の技法を存分に自分のものにして、「奪った武器」で西洋に反撃に転じようとしたのである。ここが戦後世代と戦前世代との大違いの所である。
 折しも、西洋の中でも革新の動きがあり、シュトックハウゼン、ブーレーズ、ノーノ、の三人組が戦後前衛のスターとなった。新しい時代が来た、いまこそ、新時代の創造を、という気風が西洋と西洋以外を含め、世界中に高揚していた時代だった。古いものは終った、新しいものが始まる。これが第二次大戦という大戦争を終えたあとの世界の気象だった。1945年に戦争が終り、1950年台に入った頃のことである。

 人間のやることと世の中の動きは予想を超える不可思議な経路をたどるもので、この世界的新時代運動もその後、その当時は予想もしなかった経過をたどることになる(続く)。

2006.11.22. 水 晴ときどき曇 町田

あるもの、と、ないもの・・・

 定量音符ではなく、音の長さを自由にして演奏者にまかせる。また、合奏も厳密な整合によらず、およそのファジーな融合にとどめる。こういう方式の記譜法を採用試行した。その結果は定量記譜法では得られない表現結果が得られた。特に邦楽曲では楽器の本性に無理なく適合し、西洋楽器でも使い方により有効であった。こうした方法により価値ある結果が得られたことは目出度いことであった。しかし、これで終りというわけにはいかない。またまた次なる課題が浮上してきたことに次第に気がついてきた。


 それは、定量によらない不確定記譜によると、構築、建築、という大きなものを積み上げる曲造りが出来ないことである。積み上げるためには素材が要る。それは煉瓦や石のように相互に定量であるからこそ、組合わせの単位として堅固な材料になりうる。不定量の要素はそうした材料にはなりえない。
 これは比較文化論に至る、あるいはそこから発する相違であるように思われる。不確定法は、あるがままの自然の在り方に身をまかせることである。それに対し、定量型は人が意志の力で、要素を単位として積み上げる意志的行為に結び着く、あるいは、そのことを目指す思想から発する。
 ただ自然のままに「在る」あり方と、人が意志によって「行為」を行なうあり方との違い。ドイツ語で、「sein」と、「sollen」、の相違がよく言われる。「sein」は英語の「to be」、「ある」であり、「sollen」は、「そうあらねばならぬ」、「あらしめる」、という意志を意味する。英語で言えば「to be」と「shall be」に当るのだろうか。丁度、日本の古来の家屋のように、よしず、藁ぶき、紙と木で出来ている家、それは風が吹けば風を通し、夏も冬も、あるがままの自然に身をまかせる。気候環境がよければすがすがしい。西洋の石造りの家屋は堅牢で耐久力が強く、風にも雨にも耐える。その代わり、吹く風のすがすがしさは味わえない。どちらがいいか、それは簡単にも決められないが、基本的な違いがあることは確かである。価値判断はすぐにはに出来まい。それぞれが長所美点と短所欠点をそれぞれ持っているからであり、おのおのが、自らの美点をよしとして保持してきたのであろう。
 ところが、そう言いたいところだが、実際は少し違う。この二つの在り方は、相互に衝突比較されてきたわけではない。世界史の過程で、異なる文化が接触、衝突、比較されてきた事例は限られている。日本文化に話を限れば、西洋との出会いは明治になってからではないか。競争比較にさらされることは日本文化はまだ未経験である。悟りきった結語にはまだまだ至れない。(続く)

2006.11.21. 火 曇のち晴 町田

アナログとデジタル

 欧州の人たちは私たちに対して、「あなた方は西洋音楽も私たちに負けないように出来る上に、自分自身の伝統音楽も持っているではないか」と誉めそやす。そういう人もいる。善意の人たちである。しかし、こういう賛辞を受けて上機嫌になってだけいるわけにもいかない。記譜法と、その音楽について考える時、なかなか思考の仕事は終らない。
 不確定の原理について書いきたが、それが定量音符と、時間的同時性による西洋型の合奏原理とは違うもうひとつの音楽の在り方を引き出したことは確かである。しかし、その背後には別の問題が潜伏していた。

少し寄り道する

 私が電子音楽の製作を始めたのは1980年代であった。その頃はデジタル技術の時代はまだ始まっていなかった。すべてアナログ技術である。幾つかのパートをチャンネル別に重ねていくわけだが、そのために多重録音機を使う。4トラックのオープンリール型の録音機を購入した。途方もなく重いもので、配達してきた若い男たちが二人がかりでやっと搬入した。この器材に一トラックごとに録音していく。自分でリアルタイムで弾いてもいいし、シークエンサーに入力したものを録音してもいい。問題は、四つのトラックを互いに整合させる方法がないことである。前に録音したものに合わせて自分で演奏することは出来るが、これは人力の技で、どこまで整合できるかは、なま演奏の場合と同じである。シークエンサーにしても、そのチャンネル自体は機械だから正確に定量再生するが、ほかのチャンネルがなまの入力であると、それが機械的に正確ではないわけだから、かえって合わなくなる。これを逆用して、合わないことを生かした音楽作りをした。この時代は、この分野でも「不確定性」音楽を推進繁栄させることになった。

 ところが、まもなくデジタル時代が始まった。MIDIというものが登場した。
 MIDI、Musical Instrument Digital Interface、そのかしら文字をとってMIDIと表記する。これは国際的に決められた表記法で大文字四つで書く。楽器用デジタル整合方式とでもいう意味か。これが出来ると、一チャンネルごとに録音するのではなく、シンセサイザー音源器材から複数のパート、チャンネルが互いにぴたりと整合しながら同時に再生される。器材の中のクロックが全チャンネルを合わせるのである。その結果をテープに録音すればいい。チャンネル数も普通で16から32可能である。四つのチャンネルしかなかった多重録音機とは桁違いである。
 一チャンネルごとには、一つずつ丹念に作る。出来上がった結果を同時演奏してくれるのである。こうなると、逆に不確定、不整合を生かすことは出来なくなった。どんな複雑なリズムの組み合わせも超人的に整合してくれる。考え方が根本から変ったのである。そして、西洋の記譜法がこの技術にぴたりと合致するのである。こればかりは「山水図」方式の、演奏にまかせる不定量の長さの演奏は出来ない。西洋の思想は、あくまで技術の発展に並行同調して組み合わさるように出来ているのであろうか。文明論的なものも感知されるように思う。再生、演奏の音楽造りからリアルタイムの人間の作業が一掃された。

2006.11.20. 月 雨のち曇 町田

西洋との出会い

 札幌の邦楽団体「群」とのつきあいは、私もまた札幌出身であることから深くなった。何度も委嘱作品を頼まれ、初演のたびに郷里の街に呼ばれることは嬉しいことであった。記譜法と音楽の態様について語るについて外国体験も欠かせない。「群」は海外演奏旅行の機会が多い。


 1976年、西ドイツ=ミュンヘン、アウグスブルク、フランス=パリ、コンピエーニュ。1981年、西ドイツ=ミュンヘン、パッサウ、ケルン。1983年、チェコスロバキア=ブラチスラバ、ブルノ。1990年、ハンガリー=ブダペスト。1997年、スペイン=ログローニョほか近郊二都市、フランス=コンピエーニュ。

 私も同郷であることから、旅行に同行することが多かった。ここにあげた訪問国は私が同行した所だけで、「群」はこのほかにアメリカにも行っている。
 この同行経験のため、日本の伝統音楽が外国でどう受けとられるかについて多く見聞することができた。また、その過程で、外国に同業専門家の友人が多く出来た。ミュンヘン国立音楽大学の学長をつとめた作曲家のR.H君も親友である。知り合ったのは1976年のミュンヘン初訪問の時、私にとって最初のヨーロッパ訪問の時であった。彼は1938年生まれ、アウグスブルクの生まれである。いまは定年で学長を退任したが、知り合った時はまだ平教授であった。その後何度も来日したが、最初の来日は1979年であった。この時は色々珍事が発生したが、それはまた別の機会に書く。この珍事もまた書いておきたいことである。ミュンヘンと札幌は姉妹都市である。そのため、文化交流ということで相互に訪問交流する機会があった。1979年、あちらから四人の演奏者が札幌に来て、日本音楽舞踊会議の主催で東京でも演奏した。

 何度目かのドイツ訪問の時、たしか、1981年、パッサウの演奏会の時だった。H君は車で会場まで来て、会場練習を聞いていた。演奏していたのは「千鳥の曲」だったように思う。練習中、H君は私に小声でたずねた。「このアンサンブルの入りが合わないのは、合わないことが正しいのであるか、それとも、合うべきものが合っていないのか」。私は「合わないように出来ているのだ」と答えた。私も正確な知識は持ち合わせているわけではないが、西洋音楽の意味での合奏の整合性は、邦楽には、その観念自体が無いものと思うのでそう答えた。間違いではなかったと思う。練習の合間に会場の椅子に掛けながら話した。彼は言う「一般的に、西洋人は、同じ状態が延々と続くことが堪えられない」と。音楽の曲想が変化なく延々と続くことが堪えられないのだろう。この点はしかし、比較文化論的な問題でもあるし、文化の発展論的な問題でもあると思う。伝統邦楽が、近代以前の産物であることと、これは無縁と思えない。人の意識が活性化し始めた近世以降では音楽も段々変って来るのではないだろうか。宮城通雄の新日本音楽は西洋音楽を承知の上での改革だが、「春の海」は、西洋的な形式で出来ており、静かな部分と運動的な部分が対比するように作られ、見事に伝統と西洋形式が調和している。ただ一つ不思議なのは「六段」である。これも、ミュンヘンで、先代佐薙岡豊先生が見事な演奏をしたのを聞いたが、この曲は、西洋の変奏曲形式そのままといっていい形式で作られている。最後にはカデンツァめいたものすらあって全曲を終る。1600年代の音楽だろうが、鎖国以前に、スペインの音楽が一時日本に入っていたのではないだろうか、八橋検校はそれを聞いていたのではないか、という歴史空想小説風の想像さえしてしまう。

 1980年代になると、すでに邦楽団体がかなり多く訪欧しているようで、あちらの人たちも初めて聞くめずらしい音楽、という受けとり方ではなくなっていた。その上で美しい音楽であると本心から感心する人が多い。一般人でも専門家でもそうであった。しかし、専門家の場合は、西洋の音楽が行きづまり状態にかかっているので、なんらかの打開の方策と手がかりがあるのではないか、という彼らなりの特殊の関心で向きあう場合が多い。専門家には、余り共感しない人もいたかもしれないが、そういう人は何も言わないから存在自体が分らない。先のH君の話にあった、同じ状態が延々と続くもの、とか、グリサンド、ポルタメントなどの不確定効果、こういうものも、誉める人、興味を示す人と、なんとなく不快感を感ずる人があるように私は見た。そういう人がいる方が自然である。自分にないものに感心する人もいるが、そうでないものに嫌悪を持つこともまた自然である。誉められた話ばかりであるかのように思うことは不自然である。

2006.11.18. 土 晴 町田

記譜法の続き

 幾つかの音の群を出来るだけ速くひけ、という記譜も使った。

   符頭だけの音群を書き込み、線で囲み、文字で指示を記入する。あるいは、その音群をおよそ×秒以内でひけ、と指示を書く場合もある。音群内のそれぞれの音の長さは厳密に均等である必要はない、とも。これを古典的西洋記譜法で表記するならどういう型になるだろう。一種のカデンツァだろうが、音の長さが不均等でもよい、との表記は不可能である。これは部分的にチャンス・オペレーションの方法をとることになろう。矢代秋雄は、チャンス・オペレーションは作曲家の職場放棄だと言った。いい加減な乱用の場合のことを意味したのであろう。私もまたそう思う。しかし、チャンス・オペレーション全部をそうも言い切れない。古典的記譜でも、演奏者はコンピュータのようにひくわけではない。四分音符が四つ並んでいる場合、四つを物理的に完全に同一の長さでひくわけではない。長さも強さもその他のパラメータすべてにおいて少しずつ違えてひく。基本の構図を楽譜は表記しているだけである。その意味では、古典的表記はすでにチャンス・オペレーション的ファジーさ、融通性を含んでいるのである。これはコンピュータ打込みで音楽を作ってみるといやというほど分る。

 こうした新記譜法を西洋楽器でとりいれた私の作品は、ピアノ曲「山水図」である。この曲で私は、日本音楽の伝統的美学を革新的手法で表現しようとした。自由な水平音と不確定な速い音群。全体に五音音階旋法の美を出すことにつとめた。
 ただし、合奏の不確定さはソロ曲では出来ない。合奏の場合は邦楽器に使うことが始まりだったが、その後、イタリア賞作品の「こどもと ことば」で西洋楽器に大々的にとりいれた。ここでは器楽だけでなく、合唱でもとりいれた。普通の記譜法で書いてあるが、音符の左に垂直の波線をつける。ハープのアルペジオのような記号である。あるいは、故意に音符の位置をずらせて記譜する。荒谷俊治さん式のNHK児童合唱団だったが、なんの問題もなく消化して演奏した。器楽の部分は小人数の最上級の技術の演奏者たちだったからこれは更に問題なく演奏した。
 邦楽器の曲「独奏十七絃のための三章」もこの方法で記譜されているし、尺八独奏曲「風韻」の改定版もこの方法によっている。これらも独奏であるから、合奏の不確定性はありえないが、延長音はほとんどすべてこの方法によった。その他、幾つかの邦楽器曲も同様である。ただし、在来の定量記譜法と併用混用である。いままであるものを捨てることは無意味である
しかし、記譜法の問題は、まだまだこれで終らない。文化論的な問題が立ち現われてくる。

2006.11.17. 金 晴 町田

新しい記譜法の応用

 音楽にも、音楽の方法にも普遍性が必要であると私は考えている。音楽は万人のものであるから。

 途方もなく広い歌唱音域を持っている歌手の話を聞いた。その人のために、その特異な音域に合わせた曲を作った人の話も聞いた。私にはこの話は不可解である。その曲はその人しか歌えない。その人が何かの理由で歌わなくなったり、その人の死後はその歌はどうなるのだろう。私にはこういう仕事の意味が分らないのである。できるだけ多くの人が演奏できること、できるだけ多くの人に鑑賞してもらえること。それが、音楽を作り、演奏する者が常に心がけるべきことではないだろうか。
 岩波文庫の後書きにあるように、

 「真理は万人によって求められることを自ら欲し、
   芸術は万人によって愛されることを自ら望む」。

 特別の人しか関われない芸術は本筋からはずれていると私は思う。
   西洋音楽がここまで発展した理由には記譜法の発明がある。そして、その背後には、文化芸術は個人の所有物ではなく、社会全部のものであり、楽譜が読める人なら誰でも、作曲者を知らなくても作品を研究できるという思想があった。文化を共有財産と考える思想こそ繁栄と成果をもたらしたのである。これこそ私たちが範として取り入れるべきものである。「秘曲」とか、「持ち歌」、とかいって楽曲を独占専有することはよくない。こういう思想こそ私たちははっきり否定しなければならない。

 初演を成功させた「群」の演奏者たちの技能と協力には賞賛と感謝に堪えないが、私の試みた記譜法が、特定の人や、特に協力的な演奏者でなければ演奏できなかったり、受入れにくかったりということではこの方法は成功したとはいえない。私はそのことを最も憂慮した。しかし「形象」はほかの団体演奏者も相次いで演奏し、この記譜法はどの演奏者にも歓迎された。この記譜法が一般的に受入れられたと判断していい、とようやく考えるに至った。この記譜法の源泉となった合奏の原理は、邦楽だけでなく、西洋楽器にも応用できて、ここでも未知の可能性が予見されたのである。西洋楽器の場合については後で語る。

 合奏の方法だけなく、長い延ばし音の記譜法も同様であった。定量音符ではなく、符頭、音符の頭だけ書いて、そのあとは水平の線を引く。ほかのパートがない場合は、およその長さを秒数で表わす。あるいはそれも書かない。ほかのパートが定量音符による場合、パート間に垂線を書いておいて「およそ、この辺で」という意味の注釈をつけておく。これもうまくいった。
 この方式は西洋楽器の曲にも応用した。ことに歌の場合この方法は有効であった。最初に使用したのは歌曲「永遠の緑」。在来の定量音符と混用であった。延ばし音が定量化されないこの記譜法は、歌い手にとってとても歌いやすいそうである。「永遠の緑」では、主題の旋律型が、最初に出て、中間部の後にまた再帰する。最初の部分でこの方式により、再帰の時は通常の定量型にした。果たせるかな、定量化した所では、ピアノが拍を数えるのにつられて、というより、正しくはそれに合わせようとして歌が拍を数える。ピアノと歌が相互に連動しあって、少しずつテンポが早めになっていくという悪現象がしばしば見られた。
    1996年の作、歌曲集「白く光れり」でも随所にこの方法を用いた。一般にフレーズ末尾の延し音を定量化する必要があるだろうか。西洋古典ですら、この方式に置き換えた方がいいのではとすら思う。
 在来の西洋古典式記譜法であっても、演奏者は、楽譜を機械的に再生するのではなく、楽譜を手がかりにして、音楽化していくことが本来のあり方である。定量音符であっても、「数え」が表面に出たり、拍の数えが不本意なテンポの加速をもたらすなど、本来あってはならないことである。これは記譜法の不備というより、演奏者の心得不足、修錬不足が原因である。人が道具を使う以上、こういうことは、いつどこでも出てくることで、音楽に限ったことではない。新しい記譜法によってもこの課題はなくなるわけではない。新記譜法でも、それを消化して音楽として価値あるものに仕上げるには演奏者の才能と努力が要ることには変りはない。新記譜法は目的により適した道具の開発である(続く)。

2006.11.16. 木 晴 町田

「形象」の記譜法

 「形象」は、私にとって初めての邦楽器だけの合奏曲であった。「十七絃と弦楽器のための・・・」は、西洋楽器の弦楽器が入っていたから、西洋的な発想で問題意識は生まれなかった。「形象」は箏二面と十七絃箏一基の編成である。邦楽器だけの合奏のあり方について、原理的に考えることになった。


 私は、この曲で初めて独自の記譜法を使うことにした。小節線は取り除いた。楽器間相互の合奏はすべてファジーなものとした。垂直に「点線」を書いた。点線で指示された時点は「およそ」の時点を意味する。楽器の「入り」を示す時にもっぱらこの点線指示を書いた。西洋式にぴたりと合わなくてもいいのである。だから、奏者は合わせることに気をとられて演奏がいじけることがない。「およそ」という所で元気よく入ってくる。相互のテンポも同じということになっているし、演奏者はその趣旨で演奏しているが少しは違うかもしれない。しかし、その演奏結果はいかにも自然である。三つのパートが同時進行するわけであるが、一つずつが、過度に厳密に整合する義務を負わされていないので、自由ではつらつとしていた。三つが同一の旋法によっているので曲の統一感は問題なく保持される。ただし野放図のままにはできないので、ある時点で全員再集合の場を幾つか作っておいた。全休止とかフェルマータなどである。
 私は、この経験から、この方法が、この段階での肯定的結果を得たと判断した。

 「形象」は、札幌の佐薙岡豊さんの邦楽団体「群」の委嘱であった。1971年、私は合唱組曲「白い世界」の委嘱をNHK札幌局から受けた。その時のプロデューサーが須田潔さんであった。須田さんの奥さんが、箏演奏家で、十七絃箏の名手、佐薙のり子さんであった。佐薙のり子さんは「群」の代表者である故佐薙岡豊先生のお嬢さんであった。「白い世界」の録音が終った日、私は須田さんの招きで、佐薙先生母娘に紹介された。そして、この「形象」の委嘱となった。初演は翌年1972年6月2日、札幌共済ホール、「群」の定期公演であった。この団体「群」は、佐薙岡豊先生が結成指導していた団体で、厳格な指導と規律のもとにすぐれた演奏水準を持つ団体である。佐薙先生は、新しい世代の人ではないにかかわらず、進歩的なことに進んで取り組む革新的意識の人で、現代作品にも意欲的に取り組んでいた。「群」は、結成時から、演奏家だけでく、研究者、評論家、洋楽の演奏家も包含した総合的な組織であった。そういう団体だから新しい記譜法についても意欲的に取り組んでくれた。
 「形象」は、初演直後、七月にNHK札幌局から録音放送初演された。また、まもなく全音楽譜社から出版され、そのため再演が多くあり、別な団体「さわらび会」がとりあげ、フランスでLPレコードに録音して発売した。この曲は短い曲である。6分程度の演奏時間である。実験的な内容であることも短くなった原因の一つである。しかし、結果が順調であったので、もう少し長く書き足すことが望まれた。1974年、第二、第三の章を追加し同年「群」の定期公演で初演した。全体は16分程になった。「群」は海外演奏旅行も多く、この曲も多くの国で演奏された。現在、第一章は全音版で入手可能と思われるが、二章、三章、は作曲者のコンピュータ印字で作曲者自身がネット直売している。「楽譜の入手」のサイト参照。

 以上は曲の成り立ちと初演の経過であり記譜法の話とは別である。記譜法の話は初演の成功で一件落着とするほど単純ではない。以下次回。

2006.11.12. 日 晴 町田

  「自作を語る」にもどる

 しばらく別の話に脱線したので、「自作を語る」に戻る。

 
このhomepageというものもおかしなものである。誰が読んでくれてるのか分らない。誰も読んでくれていないのではないかと思うこともあるが、カウンターは確実に増えている。先日も、大阪の旧友から読んでるとのハガキもらった。もっとも、放送、新聞も似たようなもので、当然、読んだり、聞いたり、見たりしてくれると期待していた人がそうでなくて、思ってもいなかった青森や沖縄の人から見聞の頼りが来たりする。放送は、英語で、broadcastというが、まさに広く投げる、まき散らす、という意味でその通りである。その点は複数刊行される印刷物も同じである。ただ、放送出版は限られた時間しか存在しないが、homepageは無限に野ざらしになっているので、それだけ人の目に入る可能性はより高い。

邦楽曲と記譜法

 私が最初に邦楽器のために作曲したのは、「十七弦と絃楽器のための三つの叙景」、1969年の作である。菊地悌子さんの委嘱だった。
 次は「形象」。1972年の作。ここで私は邦楽と邦楽器と記譜法についてはじめて深刻に考えることになった。邦楽にとどまらず、記譜法すべてについて根元的な疑問を持つようになった。


 私たちが使っているのは西洋近代音楽の記譜法である。これが絶対なものだろうか。確かによく出来たものであるが、この方法から漏れてしまう音楽の実体があるのではないか。

 リズムについて考える。すべてを2の倍数で計量表記する。本当にリズムはそう出来ているのか。民謡には追分型というのがある。日本だけでなく、世界中の民族の民謡にこれがある。微妙で自由な節回しは2の倍数で出来ているわけではない。にもかかわらず、これを西洋式に表記しようとすると、××連音符のひどく複雑な表記になる。しかも、歌っている当人にはそんな意識はない。音楽を演じている当事者の意識に無いものが表記に現われる。その結果、表記されるものと、表記されたものとが、別物という分裂乖離が生まれる。伸ばす音がある。西洋式記譜法では、定量音符があてはめられる。×拍、×拍半、という長さが規定される。規定されれば当然これにこだわる。演奏者は拍の数を数える。その結果は自由な伸ばしが、本来の性質とは違う、「数えながら」の長さになる。これが演奏に現われることもある。
 簡単にいえば、西洋の記譜法は方眼紙に記入するわけである。だから、方眼紙のマスの一つ一つのコマが意識されて、演奏する方も聞く方もそれにとらわれることになる。フェルマータというものかあるが、これは「停止」であって「静止」ではない。

 さらに重要なのは合奏の原理である。これは西洋音楽の合奏原理と記譜法、両方にかかわる。この二つは当然親子の関係で、音楽に合った表記法が生まれた。

 まず、合奏の原理を考える。西洋音楽では、合奏は整合しなければならない。リズムはすべてタテの線が一致していなければならない。しかし、合奏の原理はこれだけだろうか。私が邦楽を聞かせてもらって深い疑問を持つようになったのはこの点である。どうも、邦楽はあまりにぴたりと一致すると、楽器は、そこから自然に生まれる音楽とは違う結果を強いられるように思われる。早く言えば、邦楽の音楽は「あまりぴたりと合わない」方が自然であるように思われる。
 西洋とは違うもの、そういうものがあって少しも不思議はないのではないか。西洋風の原理でぴたりと合った邦楽の合奏を聞くと、どうも本来の性質とは違った、不自然なものが私には感じられる。無理なものを演じているように聞こえるのである。例えはわるいが、「元禄花見踊り」とか、チャンバラ映画の伴奏みたいに聞こえる。「もう一つの別のもの」、「the another」、文化生態学と文化類型学からして、別の原理の存在の可能性を想定する方が自然ではないか。私にはどうしてもそう思われた。そして、そこからこそ、西洋には無かった別な価値の発掘が始まるのではないかと。(この項続く)

2006.11.10. 金 晴 町田

あの頃クルマ事情

 1960年代のはじめ、東京のクルマ事情がどうだったか、これもまた知る人はある年代以上だけになった。


 当時は信号が少なかった。私の家は世田谷の松原だが、渋谷まで、渋谷直前の上通り交差点まで信号がなかった。淡島交差点にも無かった。だから走り放題と思うだろうが、それがそうはいかない。あきれる程の悪路である。舗装が壊れて穴が空き放題である。淡島通りのような幹線道路がそうだった。穴だらけだから、穴のたびに徐行しないと下腹を打ち車をこわす。下手をするとマフラーをこわす。穴のたび、というが穴が連続しているようなものだから、常に徐行に近い走り方になる。だから、速度が出ないおんぼろ車でも逆に差し障りない。上等な車も速く走れないのだから同じだからである。こんな道路が何時頃よくなったか覚えていないが、多分、東京オリンピックの時だったと思う。こういうイベントがあると予算が降りて大規模工事が出来るのだろう。オリンピックで外国の人たちが大勢来るのにこんな醜状を見せるわけにはいくまい。もっとも、甲州街道とか第一京浜とかはそれほどひどくなかったから、国道ではなく、都道がひどかったのだろう。

 駐車もはるかに自由だった。車が少ないし、道は悪いときているから駐車する人も少ない。取り締まる必要性も意識も低かった。有楽町の表通りのあたりに平気で置いて買物や食事をすることもあった。有料駐車などという観念自体がなかった。自分の車を置くのにカネを払うなんて馬鹿げたことと思っていた。それでも一度だけ違反でつかまったことがある。赤坂の一つ木通りの近くで、うっかり消火栓の上に置いてしまった。気がつかなかった。舞踊の仕事の打合わせ中だった。おかげで錦糸町に一度だけ行った。

 車種も今と違いごく少なかった。小型車では、トヨタのコロナと日産のブルーバード、それに五十鈴のヒルマン。中型は、トヨタのクラウンに日産のセドリック。ヒルマンはずいぶん前からあったらしく、先輩の間宮芳生さんとか池野成さんなどが早くから乗っていた。マイカー時代の先輩格の人たちの愛用車である。
 この中で小型車では、コロナとブルーバードが競合していた。クラウンとセドリックは自家用というより公用車の方が多かったように思う。ブルーバードはフルシンクロというものを売り物にしていた。当時オートマチック車はない、すべて手動式である。手動変速は、三段変速の場合、一速、二速、三速、とあるが、この中で一速、つまりロウ・ギヤに入れる時、シンクロでないと、歯車が噛み合わず、ガリッと嫌な音がする。ブルーバードは、ロウからトップまでシンクロであることを売り物にしていた。コロナはそうでない。二速、三速はシンクロだが、一速、ロウはシンクロでないから、気をつけないとガリッとやる。嫌なものだった。この点でも、ブルーバードは一歩先をいっている感があり意気揚々としていた。

 いまはオートマチックが普通になり、手動式の方が骨董あつかいである。15年くらい前、奈良でレンタカーを借りようとしたら、係員が、「いま手動式のしか残ってないのですが」、と恐れ入っていた。そんな時代になった。しかし、40年以上前、教習所で練習していた時でも、クラッチ方式には正直疑問を持った。あまりに人力頼りのアナログ的仕組みで機械がこんなことでいいのかと思ったものだ。この点は現在のオートマチックは当然の結果であると思う。

2006.11.9. 木 晴 町田

くるま開国記
   − ああ惨憺たるコロナ


 1962年、私は運転免許を取得した。これれからのマイ・カー時代の到来を予感してのことである。教習所は世田谷自動車教習所、いまは世田谷自動車学校と名乗っている。ピアニストの宮谷理香さんは先日ここで免許証をとったので私の後輩になった。

 その年、猛烈な営業マンの売込みで、ダットサンの中古を買った。よくこれで走ると思うような代物であった。そもそも車全体が左に傾いている。走る音も凄い。恥ずかしくなるような貧弱な騒音を出しながら走る。それでもマイカーの恩恵は存分に味わった。録音が終っても電車で心を乱されることなく、自分の車に入れば静かな自室と同じである。疲れが一度に吹き飛んだ。これが車のいい所である。

 当時、ある大学のグリー・クラブ指揮者OBのP君が私の所へ作曲の勉強に来ていた。車の話をすると、大学同期生でトヨタ営業のQ君を紹介してくれた。Q君から中古のコロナを買った。ブルーバードの全盛時代だが、私は生来のつむじ曲りと判官びいきでトヨタにした。ところが、これがなかなか大変な代物だった。納車された車の灰皿は掃除していなくて吸殻がいっぱい。タイヤの空気圧は不均等。Q君はにがい顔で灰皿の中身を捨てて謝った。彼は自己嫌悪に満ちていることがうかがわれた。無論Q君のせいではない。しかるべき営業部所の責任である。客に商品を渡す心がけがなっていない。あの頃のトヨタは日産に押されていたが、そうなると会社全体で敗北感におかされて無気力になるのだろうか。これでは負けても仕方がないと思ってしまう。
 トヨタは技術の自力開発が社是というふれこみだが、消化できない技術もあるのか、ショック・アブソーバーがカンチレバー方式とかいうものだそうだが、なんだか知らぬが荷車に乗っているようにガタガタである。尻が痛くなる。整備の人に聞いたら、あんまり新しい技術を取り入れても消化できないんです、と情けないことを言う。その他、あちこち万病を背負いこんだ病人のように頻々と病院通いする。中古とはいえ、傾いたダットサンとは違い、ひとまず現役の車種を手に入れたささやかな満足感は傷ついた。

 まだある。その後、分割払いでコロナの新車を高い所から飛び降りるような気持ちで買った。ところが、これまた頻々と故障する。ある晩、家内と愛犬を乗せて近所を新車ドライブをしていたら動かなくなった。家内とワン公は歩いて帰った。自分は公衆電話でサービスを呼んだ。寒い晩だった。エンジンが止まっているから暖房もない。やがてサービスカーが来て直したが、ノズルにゴミがたまってガソリンの流動を止めていたのだそうだ。命がけで新車を買った夢は無惨についえた。
 いまだからこそ、トヨタの好調、外国依存の日産に対して自力開発のトヨタ、と賛辞を連ねるが、当時はこんなものだった。とても誉める気になれない。もっとも、営業のQ君の会社はトヨタ直系の東京トヨペットではなく子会社だった。小さな別の会社で経営不振のためトヨタに買い取られた直後である。そのため社員が無気力になっていたのか、「本社直参」との間に社員の志気に違いがあったのか。それは分らない。

 その後、それでもトヨタに愛想つかさず、1967年、コロナのハードトップを買った。この頃になると、前のように故障頻発ということは無くなった。徐々に製品の品質が安定してきた。この頃からトヨタは調子が出てきたのだろう。いま振返ればそう思う。それでも、カリーナという車種を買った時、ガソリンが点々と漏れていたことがあった。町工場の小父さんから「よくまぁご無事で」と皮肉を言われた。ガソリンに引火すれば大変なことになるから。1970年代中頃のことである。

 1992年、ウィーンでタクシーに乗ったら、日本人と見て運転手が話しかけてきた、「日本の車はいいぞ。トヨタは一年乗っても一度も故障しない。おれたちの同業でメルセデスに乗ってる奴は月に一度くらい病院通いだ。トヨタはナンバー・ワンだ!」と絶賛していた。アメリカにいる姉も同様のことを言ってくる。よくなったのだろう。70年代から20年かけて向上したのだろう。下積みの間、私たちのように見捨てずに支えてきたユーザーを忘れるなよ、世界一のトヨタさんよ。

2006.11.8. 水 晴 町田

トヨタの独走

 トヨタの利益が二兆円を超えたそうだ。日本の企業でははじめてとのこと。かくしてGMにせまり、世界一が現実性を帯びてきた。驚くべきことである。GMといえば世界最大の企業、昔の日本では雲の上の巨人で、国力の規模の相違を象徴する存在だった。


 1960年代のはじめ、マイカー時代幕開け頃、自動車業界は、トヨタと日産が双璧だったが文句なしに日産が優位だった。ブルーバードの好調がすごく、トヨタは圧倒されっぱなしだった。一車種月産一万台が当時の夢の目標だったが、当時、五千台におよぶ車種が無く、トヨタのコロナがようやく二千台程度、クラウンが三千台前後、ブルーバードですら五千に及ばなかった。それが、ある時、ブルーバードがついに五千を突破して目標が夢でなくなった。その好調が何時から、また何故崩壊したか。

 敗北の端緒は東京オリンピック直前のブルーバードのモデルチェンジだった。これが命とりになった。イタリアに委嘱したというデザインがまったく日本人の趣味に合わない。なんとも不恰好である。これに対し、直後に少し遅れてトヨタが新型コロナを発表、これが爆発的人気となった。発売数ヶ月、多分二ヶ月目だったと記憶するが、宿敵ブルーバードを追い越し、日本一の売れ行きとなった。その後は、両者の関係は逆転することなく、今日に至る。

 この商戦の推移は、商業に限らぬ課題を象徴するように私には思われる。原因は、日産の川又社長による独裁体制と外国追随主義、トヨタの民族主義である。独裁体制は、ある時期、力を集中するのに確かに有効だが、長期的にはいびつなものが溜まっていつか没落の原因をつくる。自社にデザイン部があるのに、わざわざ外国に依頼する。こんなことをしたら社内の志気にかかわるだろう。独裁社長の命令がもたらしたものである。日産はオースチンからダットサンを造った成り立ちから、骨の髄からの外国崇拝追随主義の会社である。すべて技術もこのやり方だった。トヨタは豊田佐吉の豊田織機から生まれた企業、自力開発主義が社是である。どんな回り道をしても自分の技術は自分で造る。コロナも散々嘲笑されながら営々と技術を磨き、日本人の趣味を研究し尽くした。運命の逆転劇はその結果の必然であった。

 勝手に飛躍したくなるが、音楽の勉強でも、主体性のない外国留学はなんの役にも立たないことに通じるのではないか。演奏はともかく、作曲に関してはではそんな気がする。

2006.11.6. 月 曇 町田


批評について

 歳をとったせいで批評がまったく気にならなくなった。若い時は怒心頭のため憤死しそうになったこともあるのに有難いことである。


 そもそも、この頃の批評は当り障りが無くなってきた。そのこと自体は必ずしも良いことは言えない。今の世の中、とかく事無かれ主義で若い世代に覇気がなくなっている。その現われでもある。
 しかし、「けなし批評」は姿を消したが「まぬけ批評」はいまでもある。これもまたどうかと思うのが多い。書く人が結局分っていないということである。
 これはまったくの冗談だが、批評に裁判のような控訴審制度を設けたらどうだろうか。ある所でひどく不本意な批評を書かれた。書かれた方は、これを不服として控訴する。上級審で再び審議し直して「判決」を出す。控訴棄却というのもある。もちろん、これは成立しないだろう。「上級審」へ持ち込んでも「一審」と違う判決を出す判断力と勇気ある「裁判官」がいるわけがないから。そんな人がいたら、はじめからこんなことは考えない。

 「けなし批評」ではないが、こんなことがあった。私の作品が幾つか演奏された。さる七月の記念演奏会ではない、別の時である。その中には作品としての重要度が軽いものと重いものがあった。批評が出たが、一番重要な作品には全く触れていない。小曲のことばかり書いている。高級な読み方をすれば、対象作についての否定的見解の間接表現とも解される。そういう表現法もあることは承知している。しかしどうもそうでもないらしい。となると、これは一体どういうことなのだろう。書評に例えると、対象になる著書は幾つかの章から成り立っている。執筆者の最重要な主張はその中のある章に当てられている。詳しい書評で、各章について触れていながら、その章についてだけ触れていない。故意に避けたような書き方をしている。そういう書評をされた時、著者はどういう思いをするか。

 私の曲の場合、真相は、どうもその曲が分らなかったらしい。批評を書くほどには分らなかったらしい。ひどいものである。もしそうなら、この人は批評の依頼を断るべきではなかったか。それをぬけぬけと書く所が凄い。「けなし批評」「まぬけ批評」と並んでこういうは何というのだろう。「無資格批評」か「無免許批評」か。

 活字は凶器になる。昔、友人の映画監督が言っていた。「カメラは権力だ」と。政治学者によると、自分の意志を他人に押しつけることが出来る力を権力というのだそうだ。映像にはそれが出来る。活字も同じ、権力を預かるものは、しかるべき資格が必要である。編集者も同様。

2006.11.4. 土 曇 町田

深沢亮子さんの対談シリーズ

 ピアニストの深沢亮子さんは若い時、ある雑誌で対談シリーズを受け持っていた。受け持っていたといっても深沢さんがゲストになるのではない。深沢さんの方が聞き役で、毎月ゲストを呼んで話しあうのである。

   インタビュアーというより対談であろうか。テレビの「徹子の部屋」みたいなものだった。多分、ヤマハのPR誌ではなかったかと記憶するが、月刊の冊子であった。毎月、別な人を迎えて話を聞く趣向で、音楽界の以外の分野の人たちを呼んでいた。二年か三年連載されたように思う。いまでも記憶にあるのは、美術評論の高階秀爾さんとか、映画監督の篠田正浩さんの話だった。

 座談会の司会者は論題に対して自分の意見を持っていなければならないそうだ。もちろん司会者であるから、自分の意見は出してはいけない。それでも自分の見解は持っていなければならないそうである。それだけ論題に強い関心を持っていなければ司会に熱が入らないということであろう。もっとも、これは政治討論会のような場合で、対談のようなものはそこまで立ち入らなくてもいいのだろうが、それでも、昔、歌手の淡谷のり子が、楽屋に取材にきた女性記者が余りに取材相手について不勉強なので叱りつけた話を書いていた。
 深沢さんはホステス役として、広い様々な分野の相手から上手に話を引き出していた。この人は若い時に著書を出している。母上が書いた「ピアノ日記」、後日、本人が書いた「ウィーン日記」、いまでもロングセラーである。この人はどんな種類の話もよく聞く。自分を中心において関心度の高低を選別することをしない。一種の自然体なのだろうが、これが、自然に逆らわない上手な生き方であることが永い間に私にも分ってきた。年齢とともに演奏も成熟してきて、大家の風格が出てきた。大抵の人は、もっと若くして演奏生活から離れるのに、この人はいよいよ活発な活動を展開している。それにはこうした自然体からくる無理のない強さと、そこから取り入れる力が活力の源泉になっているのだろう。

2006.11.2. 木 曇 町田

急展開

 北朝鮮が六カ国協議に出席する。中国の仲介と圧力が効果をあげたという話。このニュースが31日夜駆け回った。先ずはけっこうなことである、ことに「北」にとって。

 私が、小国の生きる知恵について、このサイトで書いた通りになった。意地を張るにも限界がある。冬の食料危機、国際的制裁の圧力、この辺が潮時と判断したか。膠着状態が続けば、アメリカおよび国際社会と「北」と、どちらの苦痛が大になるか、馬鹿でも分るではないか。両者の対立をチキンレースと表現した評論家がいた。チキンレースとは同等の力を持つ者の間で成り立つものだ。戦車と自転車の間にはチキンレースはありえない。この程度の知識で評論家を開業していられるのだから、いい世の中になったものだ。司馬遼太郎が書いている通り、もともと違うものを、根拠なく勝手に同一と仮定して推考を進める。旧日本軍人の性癖がそのまま残っている。何か民族的欠陥なのだろうか。医師に患者の容体を尋ねているのに、病人固有の条件、体力、年齢、経過、ほかの病気との関係など、一人ずつ違うのに、個別差を無視して抽象的な推測だけを語るのと同じである。思考の怠惰か、思考力の貧困か。無責任か。私はやはり面倒くさいのだと思う。日本人は勤勉ということになっているが、それは、与えられた仕事を動物的にこなすことだけであって、自ら考えて結果を出すという思考の作業と努力については怠惰なのだろうと思う。国の歴史、日本の歩んできたこれまでの足跡、戦争を含めて考えるべきことが全く考えられず放置されたままになっている。スペインから久しぶりに帰国した人が言っていた。日本人は無節操に働くと。情けない。

 アメリカと「北」の関係は、所詮、巨象とネズミの駆け引きである。巨象といえども、何の理由もなく白昼ネズミを踏み殺すわけにいかない。ネズミはそこに付け入り、象に色々な要求をする。しかし、本心では象が怖くて仕方がない。象の回りをちょろちょろしながら踏まれないように話を引き伸ばす。昔の日本は、象が向こうを向いている間に思いっきり象の足を噛んでしまった。恐ろしい結果になった。説明は不要である。
 しかし、このネズミはしたたかな悪知恵を貯えている。象は一度だまされた。象は強いが故に油断もある。しかし相手を二度だますことはできまい。この巨象はキツネの知恵もあわせ持っている。1941年、日米交渉の最終段階で、アメリカは日本の外交電報をすべて解読していながら、国務長官ハルは、日本の文書を、「永い外交官生活で、かような無礼な文書を見たことは今が初めてである」と、あたかもいま初めて見たかのような演技付きで慨嘆して見せた。

 北朝鮮問題でテレビに出てくる識者の中で、早稲田大学の重村智計さんの話が一番信用できる。安倍総理も、重村さんの話以外は聞かないことにしていると語っていた。重村さんは「北」に対して遠慮なくきびしい観測をする。「北」が六カ国協議に突然戻る可能性も重村さんはを予言していた。
 これに対するのが、静岡県立大学の伊豆見元という人。この人の話は私は聞かないことにしている。「北」のスポークスマンである。「北」に不利なことは一切語らず、「北」に有利な観測の話ばかり。NHKはどうしてか伊豆見さんばかり出していたが、最近になって、重村さんを出すようになった。伊豆見さんもまだ時々出ているから、現在は両方出ているが、投書でもあったか。
 伊豆見という人がどういう人かか分らないが、昔、外国研究の学者から呆れる話を聞いた。研究対象の外国から好意を持たれていないと仕事に差し支えるのだそうだ。たびたび、その国を訪問するし、好意的処遇を受けるし、また受ける必要がある。好意を受けられなくなると、それが全部だめになる。商売道具に見放されるというわけ。だから、その国で不正なクーデターがあっても、その人は沈黙する。「けんかを仕掛けては仕事にならないからね」、とその人は言っていた。
 六カ国協議に「北」が舞い戻ったことで悲観楽観様々だが、とどのつまり、力の差が決めるだろう。国際政治はそんなものである。幾ら技巧を弄しても世界は非情である。力の差が最後を決める。弱者に出来ることは強い相手を一時的にだますことだけである。 

2006.10.31. 火 晴 町田

「話し言葉」と「書き言葉」

 清水幾太郎は思想家としては甚だ無節操で評判がわるい人だったが、その著書「論文の書き方」は名著だった。いまから半世紀前の岩波新書である。この中で著者は、話し言葉と書き言葉の違いについて入念に説明していた。話し言葉は、その場の空気、表情、話しの合間に入る様々なもの、その他諸々の周辺的な要因が加わって意図の伝達をたすける。しかし、書き言葉はそうでない。文字だけの世界である。文字だけで自分の意図を間違いなく表現しなければならない。この違いを認識せよ、ということが出発点で強調されていた。

 テレビで誰かが話していると、画面の下に同時通訳的に話の内容が文字化されたテロップで表示されることがある。文字を見ると、話し言葉の中の副詞や助詞や不要と思われているものが省略されている。しかし、ラジオ、テレビはもとの音声が聞けるが、新聞雑誌など印刷物では文字化された結果しか読めない。たとえば政治家の談話で、「×××であれば、×××する」という語句の中で「×××であれば」という条件句が欠落すれば、意味が変り、当人は弁明に追われる。その点では、文字だけの新聞雑誌は過ちが起きやすい。編集責任者が原稿に目を通すにしても、もとの音声を聞いていないのだから、言葉の不適切は発見できるが、表現が変えられたり、欠落していることは知りようがない。こうなると、第一次的に音声を文字化する人の責任は重い。しかも報道原稿は時間に追われる。新聞雑誌の記事がもとで告訴沙汰があるのはこういう原因が多いのだろう。週刊誌などで、タレントやコメディアンの対談は話し言葉の妙を活かしながら文字化してあるらしく、面白おかしく読ませるように出来ている。ただし、出席した当人に不満がないかどうかは分らない。原稿を事前に当人に見せる手順を踏んだとしても、他愛がない場合は人気商売ゆえにそのままにしているのかもしれない。

 座談会、対談が活字化される時、話し言葉と書き言葉とのこの違いは要注意の大要因になる。
 私はかつて、「音楽芸術」誌の座談会につい、出席者の無礼な発言に怒り心頭に発したことをこのサイトに書いた。しかし、あれは発言した当人の責任よりも編集者の責任の方が大きい。座談会の原稿が文字化されて届けられてから、全体に目を通して、不適切な部分を修正したり削除したりするのは編集者の義務である。座談会は話し言葉の場である。その場の雰囲気で放言じみたものも出ようし、失言もあろう。しかし、活字になれば、その場の空気は伝わらない。文字だけが公表される。問題ありと判断した部分について、出席者に電話で連絡をとり、説明した上で、修正のすすめと、その許諾を得る作業ををするのが編集者の仕事である。もっとも、各出席者には文字になった原稿が送られ、修正の機会があたえられる。しかし、出席者が修正しなかった部分についても、編集者は自らの立場で適不適の判断を下さねばならない義務がある。なぜなら、活字化され公刊されるものには発言者だけではなく、発行者、出版社にも責任があるのだから。

 1970年代初めの頃、「出版は私企業だからどんな編集をしようが自由だ」、と言った人がいた。それも、普段、進歩的と自他共に認めていた音楽刊行物の編集発行者だっから私は驚いた。一般私企業にも社会的責任があることが認識されてきたのは1970年代に入ってからである。公害問題が大きく浮上してきたからである。それまでは、水俣病なども、局地的、特殊な出来事としか認識されていなかった。出版界にも社会的責任意識が欠けていた。社会を相手にする以上、社会的責任がともなわない行為はない。私企業といえど何をやってもいいことはないのである。編集者、出版界の意識の遅れがこの言葉に表われている。音楽出版界は出版界の中でも更に意識が遅れている。寡占体制のため競争と勉強の必要度が低いからである。

2006.10.29. 日 晴 町田

国の戦力とは

 北朝鮮に対するアメリカの対応が次第に硬化している。いつ軍事衝突が起こるかという状態になった。この状態に対して、アメリカはいま、イラク、イランに力をさいているから戦えないという人がいる。これも昔を知らぬ世代だ。知らないということは仕様がないことだが、専門の評論家であれば勉強くらいはしてほしい。

 第二次大戦を思い出してみるといい。アメリカは、ドイツ相手の欧州戦線と日本相手の太平洋戦線の二つの全面戦争を主役として受け持っていた。しかも、なおまだ余裕あったのである。まだどこかで半分くらい出来るといっていた。two and half wars、二つ半の戦争が可能といっていた。いまのアメリカの経済力軍事力は当時よりさらに強大になっている。いまのイラクなどは全面戦争ではない。余裕あって余りあるものだ。
 しかし、全面戦争と局地戦とは違う。ここが大事な所である。ああいう大きな国は、国運をかけての大戦争になると動員令というものが下る。そうなると総力戦になり国力の全部を出すことが出来るが、そうでないと、戦時体勢ではないから、出せる国力に限りがある。日露戦争の時のロシアがそうだった。あの時、ロシアが本気で全力を出したら日本は到底勝てなかった。当時のロシアは、国内に社会不安、政情不安が重なり、到底全力を出して戦えなかったのである。ヴェトナム戦争の時のアメリカも同様である。専門の評論家には、こういう所を詳しく解説してほしい。分ってるのか、いないのか、あいまいな説明を聞くと無免許運転の車を見るようで心もとない。 
 だから、小さい国は、相手の大国が全力を出せないように、相手国の内部が結束しないように工策するという高等戦術が必要なのである。ヴェトナム戦争の時、ホーチミンは捕虜の米兵を処刑することをしなかった。アメリカ世論を刺激するからである。それが小国の生きる知恵である。日本が真珠湾を攻撃したために、アメリカ世論は結束して全面戦争を認め、アメリカ議会も圧倒的多数でこれを支持することになってしまった。大失敗であった。
 いま北朝鮮が心がけるべきことは、アメリカ政府とアメリカ世論を刺激しないことである。その観点から、最近のこの国の動向をどう評価するか、それを論評してほしい。こんなことをしろうとに教えられるとは情けない。

2006.10.28. 土 晴 町田

賞というもの

 短編集を読んでいたら、その中でも、ひどく暗く、惨めで、本を読む目をそむけたくなるような一編があった。ところが、これが「川端賞」受賞作であるそうだ。どうしてこういうことになるのだろうか。不可解である。


 賞というものにまつわる様々な問題は、時に問題視されることもなくはないが、幾ら問題化しても、貰った方は勝てば官軍、貰わなかった方が言い出せば敗者のひがみに聞こえる。
 芸術祭というものが毎年秋にある、いやあった。昔は文部省主催、いまは文科省主催である。正式には、文部省芸術祭、文科省芸術祭と呼ばれる。個人、団体、放送局、レコード会社が参加する。審査の結果、昔は奨励賞、いまは優秀賞、その上に大賞というのが出る。私は、貰ったり貰わなかったりで、相撲でいえば、勝ち越しと負け越しの中間くらいだから、わりに公平に見ていられる。
 不可思議なのは、自作の中で、賞を受けた作品と受けなかった作品の結果について合点がいかないことである。コンクールの所で書いたが、人というのものは身勝手なもので、いささか合点がいかなくても貰った時はいい気分になる。貰えなかった時は悔しいが仕方がない。ただし、これは個人の場合で、そうはいっていられないのが、会社、団体が参加した場合である。放送局にせよ、レコード会社にせよ、担当制作者というものがいる。この人たちは社運をかけて一戦に向かうことになる。受賞すれば、会社への貢献大ということになるし、落ちればその反対である。営利会社ではないNHKや個人の場合はともかく、民間会社の場合は、多額の予算を注ぎ込むから、その成否は深刻である。

 受賞した作品と、しないない作品とでは、その後のたどる運命が違い過ぎる。受賞しなかった作品は存在そのものが無視されて消えてしまうといっていい。ことに合唱曲のような場合は、受賞すれば、出版、再演、と陽の当る道を行くが、受賞しないと、再演どころか、存在しなかったかのごとく消滅する。この違いが余りにひどい。そのせいかどうか、「芸術祭」は最近は昔と方式が変ったようである。以前のように大騒ぎしなくなった。けっこうなことである。そもそも、どれだけの見識を持った審査員がさばくのか。コンクールのように相手は無名の新人ではない。芸術祭に参加するのは社会的に地位も実績を持った人たちである。審査員よりも実績も見識も地位も高い人たちをどうしてさばくのだろうか。芸術祭に限らず、何が何だか分らぬドラマとか映画とか、二度と読みたくもない不愉快で面白くない小説とか、そんなものが××受賞作として売り出されているのに出会った経験は誰しも何度かはあるのではないだろうか。分りやすいものは賞を逸する。分りやすいと幼稚と思われるのである。そして同じ人があきれるように何度も賞をもらう。ここには日本人の主体的判断力の欠如がわるくかかわっている。前に受賞した人にあたえておけば無難だろう、という審査員の自信のなさ、そして、受賞したものならいいだろう、受賞しないものならたいしたものでないだろう、というあなたまかせの世間の側。

 芸術祭に限らず、あらゆる賞は人工的で不自然なものである。時代の流れの中で自然に決まる優劣を急いで人工的に決めようというのだから、はじめから無理な話なのである。それを承知で、芸術家の意欲を振興しようとの意図から設けられるものだろう。そのためには、審査員の顔ぶれを適宜な頻度で替えるとか、審査の結果への批判に注意するとか、審査を審査するくらいの手順をとるべきである。間違って受賞したものはいいが、受賞しなかったものが日陰に追いやられることは弊害である。芸術を殺すことになる。
 実話を一つ書いておく。ある年の文部省芸術祭の審査員宅に参加者から物品と金一封が送られてきた。間違いのない事実である。私はそれを目撃した。方式を変えたとすればいいことである。

2006.10.26. 木 秋晴 町田

短編集を読む

  さる芥川賞作家の短編集を読む。短編には独特の作り方がある。音楽でいえば小曲集。Mendelssohnの無言歌集などがそれに当るだろう。当然だろうが、出来のいいわるいがある。
Mendelssohnでも名が知られて愛好される曲は限られている。

   まず、テーマ、題材のよしあし。どうにもならない凡俗で面白くないものは仕方がない。そして、醜い話、惨めな話、不幸な話、汚い話、こういうものは読んで不快になるだけで、なんのために書いたのか作者の意図が分らない。音楽にも汚い不協和音が理由不明なまま際限なく並べているのがある。これを汚いとか不快とかいうと、何を以て汚いというか、などと言い返されることがある。こういう相手とは話が通じないのだから話をやめてしまうのが一番いい。しかし、それなら、E.A.Poeの「Willam Wilson」とか、Lovecraftの「Outsider」などはどういうことになるのだろう。申し分なく奇怪で醜い話だが、不快感より精神的緊張の方が伝わってくる。やはり、作者の心が伝わるのであろうか。いい加減な心構えで日常茶飯のつまらぬ出来事を意味ありげに仕立てあげたようなものは作者のたるんだ心が読む側にもいうにいわれぬ不快感をあたえるのだろう。俳句や短歌なら、生活の一瞬を際立たせることが出来るが、それを短編といえ、何頁にもわたって延々と展開されては救いがない。文章の上手下手もあるが、まず、テーマの見つけ方で価値がきまる。音楽でも同じこと。そして作者の精神的発信力が決め手になる。

2006.10.25. 水 秋晴 町田

時事寸評

 自作回顧が続いたのでひと休み。

 報道される最近の北朝鮮の有様を見ると、まるで昔の日本を見るようだ。これも若い世代が知らぬことである。

 「もし戦争になれば、アメリカを地球上から無くしてしまう」と息巻いているそうだ。 こんなのは正気の沙汰ではないが、昔日本でもこれと同じことが言われた。「米英を地球上から抹殺する」と本気で言った。これは新聞だけでなく、政府の宣伝機関が言い出したことと思う。私たち子供も「地上から抹殺する」という言い方を遊びに使ったものだ。小学校の授業で教師が本気でこの言葉を教えた。「米英撃滅なんて生易しいことではだめだ、地上から抹殺するのだ」と教えた。
 司馬遼太郎が書いている。戦争中、軍の将校が兵隊に訓辞する。「日本は神国だ。七生報告の戦いの結果、かならず勝利する」。こういうことを言う時、それはあたかも僧侶が自分でも信じていない地獄極楽の話をするのに似ていたと。こうして表現を段々高めていった結果、非現実的な度合いは段々高くなり、誰もが本気で信じない空疎な度合いも比例して高くなる。どこに行き着くのだろう。
 大変な数の集会で群集がアメリカ撃滅の気勢を上げている場面があった。こんなものも日本にも幾らもあった。こんな場面は本音とは関係ない空虚なものだ。幾らで人工的に造れるのである。昔を知らぬ評論家でこれを本気で受けとっている人がいた。

2006.10.23. 月 雨 町田

時事寸評

 北朝鮮の核問題が毎日にぎやかだ。金融制裁や国連決議による新たな制裁について、<抜け道があるから「北」は困らない>、ということを言う人が居る。居るというより、そういう人の説を報道機関が言い触らす。私は、50年前、1956年のエジプトによるスエズ運河国有化の時のことを思い出す。この出来事は欧米の植民地時代の終焉を意味する歴史的大事件だった。ところが、何の新聞だったか「××氏、国有化をわらう」という大見出しの記事が出た。なんでも、この人はどこかの国の大富豪で大船主だそうだ。「運河の国有化なんか何でもない、巨大輸送船を動員して輸送には影響させない」とうそぶいていた。ご当人の哄笑写真つきの4分の1頁くらいの大記事だった。しかしそうはならなかった。新聞社は何でも載せるのは勝手だが、記事の大小軽重の扱い方に情報への評価がおのずと表われる。

    「北」が困らないなら、なぜ「北」は「金融制裁解除」にしがみつくのか。 いまの膠着状態が続けば、「北」と国際社会とどちらの苦痛が大きくなるか。初歩的なことではないか。最近のテレビの論者は両者の差異を無視して、両者同一の仮定の上で論じている。司馬遼太郎が書いた昔の軍部と同じである。60年前と同じ、スポットライトの内側しか目に入らず外側のことは意識されない。これだけ時代が変って世代も交代しているのに同じ症状を見ると、日本人に遺伝的に伝わっている何かではないかという不安を覚える。自分にも伝わっているかもしれない。対象を総合的にとらえず、いま視野に入っているものしか見えない。

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電子音楽「風のうた」(六)
  アナログ時代最良の仕事


 曲の最終部分に出てくる波の音、これは意外に手がかかった。よせる波のドーッとい音と、波がひいた後のポチャポチャという水の音、これは別々の音源によらねばならなかった。二つの音源をmixerに仕込んで、フェーダーで交互に操作する。

 この曲は音による風景画という表現が適切であるのだろう。

 芸術を、おおまかに、音楽、文学、美術、の三つの分野に分けるとして、専門以外に、ほかの二つの分野の素養も併せ持つことが必要であろうと思われる。文学にたずさわる人は音楽と絵画の素養を、美術の人は音楽と文学、詩の素養を、というように。詩は言葉による音楽といわれ、音楽は言葉によらない詩といわれる。美術は固定された音楽と詩ともいえるだろう。文学には詩以外の散文小説も含まれるし、広義には評論も文学に含まれよう。詩人の心を持たない作曲や演奏はまことに聞き苦しい。時事寸評で書いたように観念の種類がが貧しい人の演奏作曲はやはり雑である。音楽の心を持たない文学はとても読めない。
 私は、時として、楽器や声による楽音や、楽譜の型で記録される類いの媒体では表現出来ない衝動を持つことがある。梢をわたる秋風の音、心の中を吹き抜ける蕭条たる悲しみの風、底知れぬ思いをこめた低い音。こういうものは楽音では表現できない。シンセサイザーが普及して入手できるようになり、私はこの手段でずいぶん作品を造った。かつての「風のうた」も種類としてはこの種に入る作品だが、いま回顧してみて思うことがある。

 この仕事は、磁気テープによるアナログ時代の最良の仕事であった。現在は発信された音をdigital信号としてMIDIに記録し、編集もまた、MIDI Mixerによりパラメーターごとに操作する。そして、テープではなくhard-diskに記録する。この方が便利だし、テープの宿命である定在音の処置に苦慮することもない。定在音とはテープが再生ヘッドをこする音で、無音状態でもこの音は出る。これをどれだけ少なくするかが果てしなき闘いであった。しかし、信号記録になりテープ・レコーダを使わなくなり、この宿命戦争も終った。 そして、技術者たちの協力による協同制作のよさが忘れられない。技術者は時として裏方的意識からくる扱いにくい職人根性を発揮することがあるが、このスタジオの人たにはそれがまったくなかった。品性のいい人たちだった。そして、こうした人たちと一緒にものを造っていくことの得難い経験。複数の人たちが力を合わせることから来る、信頼感と頼もしさ、自分が見逃す問題点も誰かがみつけてくれる、そうした安定感、それはむしろ演奏家との協力よりも快よいものだった。
 こうした状況のもとでのアナログ・テープによる作業は、いまとなっては、古き良き時代の物語りということになるのだろう。現代のデジタル時代の作業を器械によるCGとすれば、定規と鉛筆とハサミによる手仕事であった。上等の織物を扱う裁縫師の手作業にもたとえられるものだった。

 このあとさらに10年後、1989年、前田直角さんの委嘱で私は再び電子スタジオの仕事にかかった。「みどりなす はこべは もえず」という曲が出来た。そして、ついでというわけではないが、続いて前田さんの委嘱で「現代の音楽」のテーマ曲を造ることになった。現代音楽すなわち難解という固定観念を変えようとした。C-Dur、ハ長調の明解な音楽、それを電子音で奏する。新鮮でしかも分り易い。折しもこの年か直後か、ソ連と共産圏が崩壊、100年にわたり人を緊縛してきた「歴史の必然」という迷信は消滅した。難解でなければ現代音楽ではない、この迷信も滅びた。このテーマ曲は1990 4月から確か1994年3月まで供用された。(この曲の項終り)

2006.10.21. 土 曇 町田

時事寸評

     「ボキャヒン」という俗語があった。vocabulary貧困、言語貧困のことである。時の総理大臣を揶揄する言葉であった。言語の貧困は概念の貧困である。普通なら10くらいある概念の収納箱が五つか六つしかない。残りの五つ、四つは手元にある箱に入れるほかない。もともと手持ちの観念の種類が少ないのだから、そのことを貧困とも不合理とも思わない。人生を深く考え情趣豊に生きる人を「厭世的」と書いた文があった。政治論では、右と左、二つしか収納箱がない。芸術文化では、前衛か保守か。
     若い世代の言葉にこういうものを見ると、世を憂いたくなるが、その必要はなかろう。こういう手合いはどうせ社会の高い地位には登れない。そうでないまともな若者が高い評価を得て相応の地位につくだろう。劣者は劣者の場所に落着くことになる。時代は愚か者の味方になることはない。
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子音楽「風のうた」(五)
             風と波の音、三岸好太郎の世界と


 この曲は「風のうた」というの曲題だが、この題は曲が出来てからつけた。私は曲の題をあらかたは曲が出来てから後でつける。

    だから、表題音楽的な発想で造ったものではない。作曲はあくまで無前提の発想で行なわれる。「風のうた」では、たしかに、この題にふさわしい音の場面が聞かれる。しかし、それが表題から出たものでない。天国的な正弦波音の線、激しい風の音、吹き散らされるようなピアノ音の断片。曲の末尾の無人の浜に寄せるような波の音。

 この曲は、数学的構成をねらった意味での電子音楽ではない。音による風景画といったものである。ドキュメンタリー・ミュージックというものがあり、ヴェトナム戦争当時、アメリカで多く造られた。それは、具体音が、文字通り具体的に現実の一部を表現し、ある意図と主張を表現しようとするものだった。しかし、「風のうた」はそういうものでもない。人が人生の日々で経験した音を使い、それからは聞く人の想像にゆだねる、という意図のものである。ドイツで戦後すぐ始まった数学的構成を目的とした元祖的電子音楽とは種類が異なる。電子音楽の範囲がそこまで広くなったのだろう。
 ところで、この曲の中の音の風景が私の中の何を反映したものだろう。それはまた自分研究の課題になるが、いまあらためて聞くと自分がなぜこういう音風景を描いたか、不思議である。荒涼寂寞たる風景だが、自分が特に世を嘆いていたわけでもない。だから、この曲に暗いものはない。だから不思議である。

 三岸好太郎という画家人がいる。1936年、31歳で夭折した天才的画家である。この人は、札幌市の生まれであるのに、なぜか自分の出生地を「石狩ルーラン海岸16番地」と書いた。たわむれか、何かの暗示が分らない。三岸好太郎は私の郷里札幌の先輩である。中学も札幌一中、現在の道立南高、ここでも私の先輩にあたる。「石狩ルーラン海岸」の「16番地」という所は実在しない。しかし「ルーラン海岸」という所は実在する。人が住まない荒涼とした所、石狩の北、増毛の山塊が海に断崖絶壁となって落ちる所。ルーランとは先住民アイヌの言葉で神の通る道のことだそうである。冬は吹雪が荒れ狂い、海鳥も飛ばぬ地である。「風のうた」の中の波の音と風の音はこの光景さながらである。私はなぜあの場面を描いたのだろう。三岸の魂が乗り移ったか。北の国に生まれた者の心奥に、あの荒涼とした風景が心象のふるさととして宿っているのか。三岸を知る人びとは、三岸にとって「ルーラン海岸」は魂の原点であったという。私にとっても同じことがいえるように思う。吹雪の日、前も向けないほど激しい雪と風の中にあった幼い日の記憶。画家、横山操が遺作として描いた林の中の小路の風景、それは悲しみでも孤独でもない、暗くもない、画家の心の風景である。私にってもこの曲の風景はそういうものであったように思う。三岸好太郎の「ルーラン」のように。ただし私は、この曲を造った当時、三岸のことを知らなかった。そのことが肝心である。

 ピアノの断片的音型は自分でひいてスタジオ録音した。ゆっくりひいて、それを高速回転した。それも何種類も回転数を変えて種類を増やした。

 NHK電子スタジオの器材はこの時点てもすでに古いものが多かった。しかし、もとの品質は極上のものである。古くなっても上等のものはやはりいい。いまは、正弦波音も白色音も自分のシンセサイザーで造れるが、やりは電子スタジオで造ったものは音に奥行きがあり、品質が違う。正弦波音は、倍音をすべて削除して造るが、これが極上等の器材でないと出来ない。削除が不完全になり、垂直にすぱりと切れないで斜めに切り残しが出来る。ここの器材の音にはそういうことがない。電子スタジオの白色音の発信器は、人の背よりも高い寿司屋の冷蔵庫くらいの巨大なものが何基も並んでいる。机の上に乗る程度の大きさのシンセサイザーとは性能が違う。器材は小さくなるほど造り方が難しくなり無理をすることになる。大きいものほど余裕がある。しかし個人の家に寿司屋の冷蔵庫を持ち込むことは出来ない。業務用と民生用との違いである。(続く)

2006.10.20. 金 曇 町田

  今日も続いて本論の前に時事寸評。

   ソニーが電池不良で大失敗した。技術者集団のユニークな業界参入のこころざしは世代の交代で消失した。人の世はこういうものか。司馬遼太郎の「歴史と視点」を読む。昔の日本軍部の愚かしさをあまたつづっている。相手と自分との力の差を無視して作戦を考える不可思議。軍艦にも戦艦から駆逐艦てまで戦力の違いがあり、機能の違いがある。同じ「師団」といっても、外国の師団と日本の師団で戦力、装備に違いがある。これらの差異を無視して、彼我を同等同質と勝手に想定して戦略を考える、この愚かさはいま考えるとまともでない。しかし、このところの米朝関係の観測を見ると、これと同じ愚かさが見える。「北」とアメリカの国力の差を見よ。これをチキンレースと例えた評論家がいたが、チキンレースは同じくらいの力を持つ者の間で発生するものだ。米朝の国力の差を考えよ。自転車とダンプカーではないか。もっと大きいかもしれない。乳母車と戦車かもしれない。外交というものは、巧否はあっても結局は国力、ちからの差できまるのだ。戦後60年、専門家も阿呆になった。

電子音楽「風のうた」(四)
   天国的な音

 曲は正弦波音による単旋律で始まる。


 正弦波音とは倍音を含まぬ音である。

   この世の音はすべて空気の振動により発音する。空気の振動であるからには、基音の上に倍音というものが鳴る。それは人の耳には聞こえないが、隠し味のように音に彩りを与えている。その倍音を伴わない音が正弦波音である。つまり自然界には存在しない音である。このことがすでに私の非現実世界への憧れを満たしてくれる。そのままでは、ラジオが故障した時に鳴るピーという音であり、とても感興をともなう音とは思えないが、私は、この正弦波音にビブラートをかけた。すると、世にも典雅な音が生まれる。迦陵頻伽(かりょうびんが)、仏教でいう実在しない極楽の鳥の声である。私がもとめるこの世ならざる空想の世界を表現することができた。
 私のかねてからの考えだが、現代の音楽は音の組合せがひどく難しくなった。新しいものを造りたいという作者の願いはそれなり自然なものだが、組合せが難しくなると必然的に音楽は難解なものになる。しかし音色を新しくすれば、音の組合せはそのままで新鮮なものが出来るではないか。そうすれば、聞いてくれる一般の人々から遊離することなく、解りやすくて、しかも新鮮かものが出来る。ドミソの和音でも、聞いたことがない音色で聞けばいままで出会ったことがない新しいものになる。

 この部分は平明な音階の音を、むしろ童画風に歌っていく。伴奏もない、ただの一本の旋律である。幾つかの高さの音階順の正弦波音を造り、それらの音それぞれをテープに取り、それぞれをミキサーの各チャンネルに繋ぐ。そしてテープを同時再生しながらフェーダーを操作して音量を制御し「演奏」をする。音の造りは技師たちが操作してくれる。
 正弦波音はやがて白色音になる。白色音、光の世界であらゆる周波数が網羅されたものが白という色である。この理屈を音に転用して、あらゆる周波数の音が混った音を白色音、ホワイト・ノイズという。吹雪の時の風の音のような音である。寒気がしのびよるような音である。いまのようにサンプリングが出来ないから、白色音をまた細く切って音程をつける。白色音に音程をつけるというのは矛盾するようだが、帯域を細く切ればそれが出来る。これも正弦波音と同じようにフェーダーを操作して「演奏」をする。幾つかの音程の音を造るといっても、楽器の鍵盤のように多くは出来ない。テープ・レコーダーの数はせいぜい10以上幾つかくらいである。つまり、それだけの数の少ない、卓上ピアノのような鍵盤楽器を「演奏」するわけである。電子音楽というが、この段階は作曲家による「演奏」、自作自演である。コンピュータ・システムになった現在でも、crescendo, diminuendoは、どうしても数学的比例数の打込みではうまくいかない。音量の暫時増大と減少は数学的比率によらないようである。人間の感覚にバイアスがあり、数学的比例とは違う上昇率、下降率を求めるようである。だから、MIDI発信の現在でも、crescendo, diminuendoはMIDI Mixerにより「手動」で造る。
 こうして出来た旋律は単旋律だが、音色が特殊だから、単旋律でも充分に音楽的緊張持続は成り立つ。西洋近代音楽の構成原理も、ある環境と条件のもとで成立するものである。尺八は一本でも持続が成り立つ。(続く)

2006.10.19. 木 晴 町田

本論の前に最近の時事についてひと言。見るに見かねて。

 北朝鮮の核について議論沸騰だが、私のような高齢に属する世代から見るとどうかと思う論を語る人がいる。「北」がしたたかな計算の上で行動している、という類いの論である。したたかな計算で行動する国などありはしない。人は神ではない。これまでどれだけの国が判断を誤り、自滅と失敗の道を選んだか。昔の日本も、ドイツも、ソ連も、いや英米のような民主主義国でしかも外交と狡知に長けたアングロサクソンですら失敗している。イギリスのスエズ出兵、アメリカのベトナム、イラク。人間とはそんなものだ。独裁者は神秘的に見えるものだ。それは虚像で、実体は情けなくなるほどお粗末なものだ。だからこそ危険ともいえるのである。

電子音楽「風のうた」(三)
 CD化した音源


 手回しがよすぎるが、はじめにこの曲の音源についてのご案内。

 こういう記録を読んで頂くにも、曲を知ってから読んで頂きたいし、その方がずっと興味も増すのであるから。

 通常の音楽なら、楽譜が健在である限り存在が確保されるし、楽譜を複製して分散保存することが出来る。しかし、電子音楽はそうではない。電子音楽は、楽譜により演奏者が何度も再生演奏するというものではない。録音された音源の型で保存されているから、テープにせよ、diskにせよ、記録された音源物体が損壊消失すれば、それはすなわち音楽自体の消滅を意味する。テープには経年劣化ということがある。「おわりのない朝」がCDになる時、マスターテープの劣化を私が憂慮したことは前回に書いた。デジタルテープ、DATは信号で記録されているから、磁気面の劣化は関係ないとはいうものの、誰も経年後を聞いた人はまだいないのだから本当は分らない。現に、1990年頃DATに録音した音源をいま聞くと、気のせいかなんだか違って聞こえる。テープは薄い脆弱な物体である。DATにせよ、もし切れたらそれっきりである。大事な音楽が薄氷のような状態で存在しているとには背筋が寒くなる。CDにしておけば、物体としての破損のおそれは大幅に減る。また、CDからMDに何枚でもコピーできる。音源の消滅すなわち音楽の消滅という命が縮まるような危険は回避できる。それゆえ私は、自分の電子音楽を集めて一枚のCDにしたものを自費で出版した。1998年のことである。収録した曲は以下の通り。

  CD:toshiya SUKEGAWA music for electronic sound

  1.NHK「現代の音楽」テーマ音楽 (1989) 4'06"
  2.evening (1995) 15'10"
  3.afternoon (1995) 5'55"
  4.響像 (1978) 14'27"
  5.風のうた (1990) 21'05"


 1の「現代の音楽」のテーマ音楽は、1990年から1995年まで六年間供用された。これもNHK電子スタジオの仕事である。2と3は、環境音楽で自主制作したもの。環境音楽は注文により作曲制作するもので、当然買い手がある。著作権は作曲者にあるから、どう扱ってもいいのだが、買い手がどこかで使用しているものを著作権所有者とはいえ、勝手に別途再生することは商業道徳上いかがかと思うので、非売のものを自主的に造った。環境音楽としてのサンプル品ということになる。4の「響像」は先に書いたように1978年のNHK委嘱作品である。

 少し前のこと。NHK教育TVの美術番組でこの曲がBGMに使われているのを聞いた。どこから音源を入手したのか不思議である。マスター・テープは私が貰い下げたし、予備があるとは思えない。私の自家製のCDを使ったのだろうか。演奏用音楽や市販のCDが出ているわけでもないのに、この曲を発見着目したこと自体が不思議だ。作曲者としては自作が使用されたことはうれしいことであるが。

ご案内:

      *このCDは自費制作なので3000円で譲渡しています。「風のうた」については作品をぜひ聴いて頂きたいので直接mailでもFAX電話でも申し込みください。100枚制作したが、現在30枚ほど残っています。売り切れた場合はMDに移して譲渡します。その場合は1000円程度にします。いまでもMD希望の人にはそうします。

2006.10.18. 水 晴 町田

電子音楽「風のうた」(二)
            私にとっての電子音 − 夢幻の世界への誘い

 私は電子音が好きである。理由は幻想的で夢幻的だから。


 電子音というと、通称「前衛派」の、音楽ばなれしたものを想起する人がいるかもしれない。しかし、私の場合、電子音の作曲はヘンな音を出すことではない。ねらいは在来の楽器と同じである。ただ在来楽器の音色では表現できない幻想的世界を描こうとする。音楽に限らず、芸術は自分を表現し自分の感性に従うことである。前衛でも保守でもない。後日、私はシンセサイザーを大々的に使って環境音楽の制作にはげむようになるが、その思想的土台はすでにこの頃からあった。

 私は子供の頃、模型を作ることが好きだった。ボール紙で家屋の模型を作った。紙で出来た家の中を窓からのぞいていると、壁の陰からいまにも誰かが現われるような幻覚を持った。夢幻の世界に引き込まれるのである。
 また、私の家には小型オルガンがあった。母がひいていた。オルガンの音は何かしらピアノやヴァイオリンと違い電子音に似ているように思われた。これが、電子オルガン、シンシセサイザーにまでなると本物の電子音になるが、手動音源でもオルガンの音はどこか機械的だった。ピアノ、ヴァイオリンなどの楽器は人間的表現にはこの上なく適しているが、だからこそ非現実な世界は表現には適しない。電子音には非現実の世界への誘惑がある。また、私は「機械を嫌うこと」が嫌いである。これは少年時の戦時体験からくることで、このことについては別に書く。

 もう一つ、私が北海道の生まれであることと関りがあるかもしれない。伝統と歴史のない土地、人の痕跡がない土地。私の少年時代は自転車で札幌市内から少し出ると、人跡未踏とまではいかないが、本州の土地とはまったく違う、人の匂いがないか、人が棲みこむ以前の風景が拡がっていた。だいぶ以前、このことを演奏会のプログラムに書いたら、同業の松村禎三君から電話がきた。歴史がないというのは日本人にとってのことで、先住民族の人たちにとっては厚い歴史があるではないか。私(助川)の考えはあとから勝手に乗込んだ日本人の視点からのものだ。というものだった。そうかも知れぬ。もともと私自身は人より自然を好むのかもしれない。その方が誘因として先行しているかもしれない。 そうなると、環境より当人の気質や心理の方が決定要因として優先することになる。実際には、人の美感は、育った環境と、あらかじめ持っていた気質と、双方がかかわりあってが出来るのだろう。そう考えるのが自然である。ともかくも、私の中には非現実への憧れがある。それが、どこから、なぜ生まれたのかこういうことは本人でなければ分らない。こういう自分研究はあとで取り組みたい。

 電子音楽が演奏家を通さず、自分ですみずみまで完全に仕上げることは私の理想主義に合致した。ただ、何年もたってそのまた先の段階までいくと、演奏家がリアルタイムで危険をおかしながら音楽を生み出していく緊張感というものが、これまた得難い音楽の魅力を構成していることに次第に気が付いてきた。ここてまた三転して演奏音楽に回帰するのだが、この時点はこういう美学の時代だった。

 こんな時期に「風のうた」の仕事が始まった。(続く)

2006.10.17. 火 晴 町田


 しばらくお休みしましたが、更新を再開します。私の最初の電子音楽「風のうた」について。

子音楽「風のうた」(一)
          ある日ナミさんから


 1979年のある秋の日、私は、NHKの五階フロアで上浪渡さんとすれ違った。上浪渡、うえなみ・わたる、通称ナミさん。巨大漢で何でも屋、洋楽部の名物的存在、かつては招聘したイタリア・オペラ団の上演にも関わり、独断専行、楽壇政治的な動きもかいま見えて敵もあった。怪物である。この当時は現代音楽の近辺を縄張りにしていた。2003年、難病の末亡くなった。いまのNHKにこういう人材はなくなった、ドラマの和田勉さんなども同類の人であろうか。こういう人材がいなくなったというより、こういう人材が育たなくなったし、育てなくなった。
 当時、NHK電子音楽スタジオはナミさんの支配下にあった。すれ違って数歩行った所でナミさんが私に呼びかけた。「助さん!電子やらんか?」。電子音楽の仕事をやらないか、という意味である。

 ここで、NHKの電子音楽スタジオについて説明する要がある。NHKの電子音楽スタジオは世界で三番目に出来た。第二次大戦直後、ドイツ、フランス、に次いでのことである。新し好きの日本人の気質が出た。しかしやがて、熱が覚めると関心は急速に低下する。このスタジオの機材は新型と代替されることなく古いままになっていく。ことにコンピュータが登場してから、世界は電子音楽の機材も造り方もすべてコンピュータ制御になるが、ここはそうならない。来日したフランスの作曲家が物置きと間違えたという話もある。この機材を全てコンピュータ制御に替えるとなれば莫大な費用がかかる。もはやNHKにその気はない。
 NHKの五階はラジオ用スタジオのフロアである。廊下の両側にスタジオが並んでいる。右側に手前から、1.2.3.4.左側に、5.6.7.8.9.五階だから、501,502・・・(ご・まる・いち−−−−)と呼ばれる。509は大編成オーケストラが録音できる大型スタジオである。この左側の列の真中、507と508の中間に、500という不可思議な部屋がある。これが電子音楽スタジオである。場所がいい。NHKは報道部が強い。このスタジオは場所がいいから欲しがられる。私は、1990年以降のことは知らないので、いまはどうなっているかは知らないが、このスタジオはこうした経緯をたどってきた所である。

 しかし、ここは実に面白い所である。ここで仕事をする作曲家には期限というものがない。いつまでかかってもいいのである。出来上がり次第放送してくれる。技術者たちが協力して仕事をしてくれる。毎日、日参して一定時間仕事をする。休むのも自由。ただし日当が出るわけではないので、長引けば経済的には日時を消費するわけで損になる。とはいえ、期限がないということは実にいいものである。部屋にはコーヒー沸かしがあり、自前でコーヒーを入れて飲むことも出来る。奥の間?にはテレビもあって休み時間に見ることもできる。浮き世を離れた不思議な一角である。

 すべてが経済効率に支配され、それがますます人を駆り立てているいまの世の中、こういう場所はあってほしいと私は実感として切望する。官から民へ、が時代の流れになり、NHKにも採算制が取り入れられる気配があるが、経済に支配される世界は人が経済の奴隷となる世界である。その反対の場合の悪点も確かにあることは分る。資金の無駄遣い、予算消化のための不必要な事業。それはよく分るが、どちらの体制も利点と悪点はある。両方を上手に併用するのが賢明な社会運営ではないのだろうか。計画経済型と市場経済型を併用することを混合経済というのだそうだが、民営主導の流れに歯止めがかかるなくなると、混合経済をやめて市場経済への暴走になる。やりきれない社会を招くことにならないか。景気回復のための政府の昨今の施策には憂慮を持つのである。

 ナミさんに声をかけられたが、私は実はこの前年に電子スタジオの仕事をしている。雅楽の笙を使った曲「響像」に電子音を取り入れたからである。西洋音楽の背景を持たぬ雅楽の楽器は、歴史の連想を持たない電子音の方が適すると考えたからである。この時にこの部屋となじみになった。ナミさんもその経緯があったから声をかけたのだろう。人によっては、こうした機械造りの音楽を頭から嫌う人がいる。私がそうでないことがナミさんは分っていたからだろう。(続く)

2006.10.13. 金 晴 町田

本由紀子さんのこと
 
 平野愛子さんのことを書いたので、岡本由紀子さんのことも書いておく。
  岡本さんと仕事をさせて頂いたことは、確か一度だけだったが、「スペインの庭師」という題の劇だった。

 この当時、NHKのラジオ放送はラジオ・ドラマの定期番組を週二本持っていた。一つは「FM芸術劇場」、もう一つは、AM中波第一放送の「文芸劇場」だった。「FM芸術劇場」は45分番組、「文芸劇場」は一時間番組だった。私が放送劇の仕事を最も多く受けていたのは1960年代から1970年代にかけてである。その後、番組が次第にテレビに中心が移っていってラジオ放送劇の番組は暫時少なくなっていった。私はテレビの番組も引き続き幾つかは受けていたが、やはりラジオの方が性分にあっていたのだろう。「スペインの庭師」は「文芸劇場」だったように記憶する。
 
 「スペインの庭師」は英国の作家、クローニンの原作である。この音楽は後に私のピアノ曲に残ったので筋書きも説明しておきたい。スペインの小都市のアメリカ領事館の話、領事は、嫉妬深く、ひがみ深い、小心な男である。出世もできないでいる。そのくせ小説家を志し、売れない原稿を書き貯めている。奥さんにも逃げられた。小学生の男の子が一人いる。ある時、領事館に地元の庭師の青年が仕事にくる。気立てのいい青年で、男の子はすっかりこの若者になつく。ところがある時、無実の罪で青年が逮捕される。ある男の悪だくみにかかったのだが、男の子はショックのため家出して行方不明になる。警察の懸命の捜索の結果、深夜、豪雨の中、山の中の道を彷徨していた所を発見され保護される。一方、青年は、鉄道で護送される途中、走行中の列車から逃亡をくわだて死亡する。下男に来ていた男が実は脱獄囚で、捜査を混乱させるため金銭を隠し、罪を庭師の青年に負わせたのである。男の子は回復後はますます父親になつかず、領事は北欧のもっとよくない所に左遷される。こんな話である。
 岡本さんからテーマ音楽がはっきり指定された。スペインのローカル色を考え、ギターとブロックフレーテを使った。いま、私のピアノ曲で「三つのやさしい小品」の中の三番目の曲「夏のおわり」という曲は、このテーマを延長したものである。第一曲「風」、第二曲「MAY」はすでに存在していたが、全音からの出版の話の時、三曲あった方がいいということで、この音楽をピアノ曲に翻案した。
 
 岡本由紀子さんは、その後テレビに移動して、空前の視聴率を記録した「おしん」を制作した。そして、NHKではじめて女性で部長待遇となったそうで、このことは新聞の「時の人」的コラムの写真入りの記事で知った。明朗にして聡明、さわやかで、話をしていても快適な人だった。
 
2006.9.11.月 曇 町田

平野愛子さんのこと

 NHKにはすぐれた女性職員が多いが、平野愛子さんはラジオ放送劇の制作者として私が最も共感する所の多い人だった。幾つかの仕事をさせて頂いたが、その中で、たしか、幸田文の「笛」だったと記憶するが、日本文学の繊細な心の世界をきわめた作品で忘れ難いものだった。


 
中年の男性が二人、一人は妻に死なれ、老いた母親との二人暮らし、男性二人は美術の趣味を共有している。妻を亡くした方の男性が、いつしかもう一人の男性の妻に憧れを抱くようになる。しかしこれはあくまで控え目のままで終る。「湖の水が寄せるような寂しい話」、というようなセリフがあった。こういう場は音楽が最も乗りやすい。私はハープの静かな音型の上にヴィオラの控え目なソロを置いた。人妻役はたしか香川京子さんだった。私の音楽が最も唯美的になっていた時の仕事で、自分の美観と、もとめられる音楽の性質が一致していた時だった。このテープを借りたいので、あとで平野さんにたずねたところ、何かの手違いで見つからなくなったとのこと、つまり紛失ということだった。NHKは放送後のテープについて意外にずさんな所がある。まったくもって遺憾である。

 平野さんの仕事でもう一つ、自分の音楽も、それを含めた劇全体も満足できて、いい思い出に残っているのは、室生犀星原作の「蜜のあはれ」だった。犀星自身の分身である老作家と、作家が飼う金魚とが対話交友する幻想的な世界である。一色次郎さんの「秋扇愁魚」も金魚の話だったが、こちらはまるで様子が違う。遊びがあるというのか、妙にエロティックなところもあり、幻想の世界に遊ぶ話である。ほとんどが対話の形で進められ、金魚は女性の変身である。変身といえば、カフカを想起するが、カフカよりも幻想が豊かで華やかである。平野さんから原作の本を頂いたが、巻末で評論家が犀星文学で最も評価すべき作品と書いていた。
金魚役が加賀まりこさん、作家の役が下条正巳さんだった。加賀さんは最適役だった。このときばかりは映像があってほしいような気がした。加賀さんの小悪魔的な雰囲気が金魚役そのままだったからである。本読みリハーサルに出たが、余り適役なので笑いたくなった。

 これも音楽が付けやすかった。こういう、幻想的で遊びがある世界は音楽には最適である。ビブラフォーンとチェレスタ、ハープを主体に、この場合は弦を入れた。無調を主として様々な音色が断片的に、しかも官能的な音群を浮き沈みさせる、そんな音楽がおのずと湧いてくる。ヴァイオリンの官能的で無調の断片的なフレーズがビブラートを存分につけて浮いては消える。ウェーベルンの弦楽のバガテルの一節が金魚用に装ったような音楽をつけた。
 「君はこの間、木の枝の間を泳いでいたろう」、こういうセリフが出てくる。木の枝の間を金魚が泳ぐ、なんというシュールな発想であることか。作家の想像力に圧倒されてしまう。死者が訪れる場面もあるが、少しも暗くなく、それもまた幻想界を広げる場面となる。

 「笛」はテープ消滅だが、「蜜のあはれ」の方は自分が録音して保存している。MDでいつでも聞ける。こういう番組を使い捨てにすることはいかにも惜しい。学校放送の方は、教材として使用することがあるようで、著作権使用の許諾を求めてくるし、教材用のカセット版を送ってくることがある。

appendix:別件の話

 ネットでたまたま読んだが、八木美知依(やぎみちよ)さんという筝の演奏家の方、私の作品「十七弦のための三章」を聴いて触発されたことが書いてある。光栄でうれしいことだが、私、助川敏弥がすでに亡くなったと書いてある。私はまだ生きておりまする。八木さんという方、連絡の方法がないので、ここに書いておく。この方に連絡の方法をお持ちの方、ご一報をして頂けると有難い。

2006.9.9.土 曇 町田

「おそくとも十一月には」


 放送劇の音楽で特殊な楽器を使ったことは幾つかあるが、ミュージカル・ソウ、つまり「音楽ノコギリ」を使ったことがある。
劇は「おそくとも十一月には」という風変りな題のものだった。

 この原作は日本のものではない。かつての西ドイツのハインリヒ・ノサークという現代作家の小説である。この人は、死者のモノローグをよく用いる作風の人だそうだが、この作もそうだった。西ドイツ鉄工業界の支配的地位にある財界人の家庭で、夫に不信感を持った妻が若い詩人と駆け落ちする。俗にいえば不倫ものである。これも竹内さんの仕事だった。竹内さんは、「これはジャンヌ・モローだな」とつぶやいていた。こちらではジャンヌ・モローならぬ、舞台女優の伊藤幸子さんが演じた。

 
こういう話だから私は、フランシス・レイ風の音楽がよかろうと考えた。エレクトーン、ビブラフォン、マリンバ、ハープ、そしてフルートが二本、そのほかにも幾つか楽器を使ったような気がするが、その上にこの「音楽ノコギリ」を加えた。美しくも倦怠感を持った寂しさのある音楽、そんな音楽を意図したのだが、「音楽ノコギリ」は問題だった。演奏してくれた人に不満があるのではない、自分が楽器の特性をもう少し知っておくべきだった。なんとも音程が不安定である。当り前のことだが、音が移動する時、ポルタメント風になる。しかも、出発音も到達音も音程が不確かとなると、人玉が浮遊するような感じの結果になる。この楽器は、戦後まもなく、黛敏郎さんが「赤線地帯」という映画で使い、この楽器のせいばかりではなかろうが、この映画音楽について映画評論家のQさんと週刊誌で一大論争をしたことがあった。この楽器だけが問題になったのではなかろうが、一般鑑賞者の間でもこの楽器の人玉風の音が話題になっていたことは事実である。とかく使い方が難しい楽器である。これをうまく使うにはもっと研究が必要だった。いまならオンド・マルテノを使っただろう。

 駆け落ちした二人は車で走行中、橋桁に衝突して死ぬ。そして、物語は、すでに死者になった二人がモノローグで回想を語るという形式だった。家を出ようとする妻に、夫の父親が、すべてを理解して無言で告別するところがいい場面だった。父親は小学校しか出ないで財界の指導者にまで登った人で、いまは引退したが、辛酸を知りし尽くした苦労人である。この父親役は巌金四朗さん、当り役だった。


 あとで、文芸評論の本を読んだら、当時の西ドイツの経済的繁栄を背景にした人間模様と風俗を主題にした小説、と書いてあった。外国の物語を日本語に訳した場合、どうしても日本にはない、風俗、人の行動の仕方とか会話とかが気になる。これは致し方ないことであろうが、しばしば外国映画の場面を想像し想定することになった。「音楽ノコギリ」の使い方に幾分の問題はあったが、それはごく部分的なもので、全体的には、私が意図したクロード・ルルーシュ風の世界の造出はうまくいったと思っている。


2006.9.8.金 雨のち曇 町田

ラジオ放送劇の世界

 ラジオによる放送劇は特異な世界である。すべては耳、聴覚だけの世界、だから、音楽のあり方と役割も特別なものになる。映画、テレビには視覚による映像があるから、聴覚は自分の世界を独立して持つことができる。映像が高揚する場面で音楽も遠慮なく曲想も音量も高揚することができる。しかし、ラジオ放送劇ではそれはできない。すべてが聴覚の世界だから、音楽、セリフ、効果音、は同一の場を同席で占めている。だから音楽だけが遠慮なしに高揚することは出来ない。セリフと語りの邪魔をするのである。

 
音楽だけの部分は、あるとすれば、劇の区切り目の「ブリッジ」、もっと短いのは「コード」と呼ばれるもの、音か和音が一つ響くだけのもの、長くて15秒、短いのは5秒から10秒程度、音楽として独立したものではない。そのほかは常にセリフか語りのBG、バックグラウンドの位置にある。例外は最初のテーマ音楽だけである。
 だから、音量は制限されるし、細かい部分はまず聞こえない。音域も制限される。そもそもどういう器材で聞かれるかが問題である。普通の人が聞く場合を考えると、余り大きくないラジカセか、カーラジオか、携帯用ラジオのイアフォーンか、もっと小さい器材で聞かれることを想定しなければならない。映画は映画館が営業用の水準を維持した器材で再生してくれる。テレビも最近では大きなもので観る人が多い。もっともテレビの場合は個人鑑賞だからラジオの場合に似ているかもしれないが。音楽鑑賞のようなぜいたくな器材で聞かれることは余り期待できないのが宿命である。
 音域では低音域はまず聞こえない、聞かれないと思うべきである。だから中音域以上だけを使う。複雑な音楽構造はまず聞かれない。聞こえない。だからといって粗雑でいいわけではない。背景で控え目に聞こえる音楽でも、人の意識には入っている。ここが難しい。私の内面的、内向的な音楽が、この仕事のために、なお内向的になったかもしれない。あるいは、私の音楽の内向的な性質からから、この仕事を多く受けたのかもしれない。いまとなっては分らない。
 主たる表現は語りかセリフである。その背後で音楽が何がしかの役割を果たす。映画音楽の場合は、映像と音楽の対位法ということが言われるそうである。しかし、ラジオ放送にはそれはない。対位法が成立するだけの場所を音楽はあたえられていないからである。
 音楽はひたすら心理表現につとめる。逆に映画、テレビでは無視されるだろう微細な表現がここでは可能になるし義務づけられもする。音声と音楽の関係がすべてという意味では、歌曲の世界に近いかもしれない。音声といっても言葉の意味と音楽の関わりあいが肝心である。聞く人の想像力を誘発することが役割りである。

 編成は私の場合、10人前後のことが多かった。通常楽器は読売交響楽団の人たちが主体だった。顔ぶれが決まってくるから職場の仲間ということになる。
 黛敏郎さんは、映画では映像への音楽の対応が時間の余裕がない場合、音色が瞬時で表現できることを語っていた。ラジオの場合はまた少し違う。映像がないのだから、何かの表現には語りとセリフにもいくばくかの時間が必要になる。それでも、音色の効果が抜群であることに違いはない。私が使った特殊楽器は、オカリナ、能管、ミュージカル・ソウつまり「音楽のこぎり」、笙、鼓、ギター、マンドリンは特殊とはいえぬがこれも必要上使ったことがある。


2006.9.7.木 曇 町田

放送劇「俘虜記」のこと

 大岡昇平の「俘虜記」も竹内日出夫さんの制作演出の放送劇「FM芸術劇場」で、私が音楽を担当した。この作品も放送劇として秀作だったと思う。「俘虜記」は小説ではない、大岡さん自身がフィリピン戦線で俘虜になった経験の実録である。

 ラジオの放送劇はいうまでもなく映像がない。耳だけの世界である。声のせりふと効果音、それに音楽がすべてである。話し言葉と書き言葉が違うことは、清水幾太郎が名著「論文の書き方」で強く警告していたことだが、映画テレビには映像があり、これが「話し言葉」の環境を再現してくれる。しかし、ラジオは台本が「話し言葉」でありながら、聴覚以外の周辺要素がない。

 「俘虜記」の冒頭、捕虜たちが「野毛の山からのーえ」と合唱する声がやや遠景から聞こえる。戦争が終り、捕虜としての屈辱と良心のとがめが消える。戦争が終るまでは、戦友たちが命を捨てているのに、自分たちは米軍の保護を受け生き続けている後ろめたさがあった。しかし、戦争が終ると、<死んだ奴は運が悪い、俺達は運がよかった、それだけのことだ>と思うようになる。
 捕虜たちは、なかば、やけくそと自嘲から野放図な蛮声を張り上げてはしゃぐ。こんな場面、映像があったら、どうなっていたろう。よけいな表現が加わり、違った、余り望ましくないものになったのではなかろうか。この放送では、主役の小山田宗徳さんはじめ、出演者の名前は忘れたが、間抜けな分隊長役、みな名演だった。そして、竹内さんの演出がいかにも巧みだった。この作品は、作者の大岡さん自身の「私」が語る部分と、周辺の描写と二つの部分から出来ている。プレペアド・ピアノを使ったのは「私」の部分である。「私」は、敗残の兵として、自殺しようとしたが手榴弾が不発で失敗、飢えと疲労で倒れていたところを米兵に発見され、収容所に連行される。
 以下は台本の一部分。こんな語りの背景にどんな音楽がありうるだろうか。

 <私は初めて私が「助かった」こと、私の命がずっと不定の未来まで延ばされたことを感じる余裕を持った。と同時に、常に死を控えて生きて来たこれまでの生活が、いかに奇怪なものであったかを思い当った。>

 プレペアド・ピアノの音が必要だった。そしてこういう場合、旋律の表現も適さない。旋律を排した、音群または、特異な単独音による表現だけが可能である。予定調和の世界はなく、不連続の瞬間の点在だけがある。



2006.9.4.月 晴 町田

放送劇「龍舌蘭」のこと

 昨日からは好天でありながら湿度が低く、秋の気配を感じる日。秋は昔のことを思い出す。
 私がNHKのラジオ放送劇「FM劇場」で音楽を担当した文学の中で記憶に残るものが幾つかある。その一つが三浦哲郎の「龍舌蘭が咲く時」。原作があったのか、放送のための書き下ろしだったか忘れた。三浦さんの出版作品表にはないから多分放送のための作品だったろう。

 
龍舌蘭は九州の植物である。何年もかかって一度だけ花を咲かせる。そして、その後すぐに枯れてしまう。太平洋戦争末期の九州海軍基地、二十歳前後で特攻兵器人間魚雷の搭乗員だった主人公は、死ぬ前に自分の生命の痕跡として龍舌蘭を宿舎の漁師の家の庭に植える。しかし、間もなく日本は降伏し、彼は東北の郷里に復員する。それから20余年たったある日、漁師の家から手紙が来る。龍舌蘭が咲いたと。彼は40歳台の農協職員になっていた。多忙のなか無理して九州へ行く。終戦直前、生まれたばかりだった男の子がたくましい青年になり迎えに来る。そこで大きく花開いた龍舌蘭に出会う。この時、彼ははじめて自分の中で何かが終ったことを知る。こういう物語だった。たしか1968頃の仕事だったから、あれからまた40年が過ぎた。物語の主人公はすでに80歳台半ば、青年も還暦を過ぎた頃である。月日の経つのは早い。この放送劇は放送記者会賞を受賞した。こういう作品が活字にならないなら、録音保存の型でも残るようにされないものか。

 この制作と演出は竹内日出夫さんだった。竹内さんとは随分いい仕事をさせてもらった。大岡昇平の「俘虜記」も竹内さんだった。この時、私は、プレペアド・ピアノを使った。俘虜という異状な環境での心理を表現するのに並みの楽器ではだめだと思ったから。ピアノをひいてくれたのは樋口洋子さんだった。ピアノの絃に硬貨をはさむのだが、日本円の10円100円はなかなかうまくはさまらず、ドルやセントならうまくいくと樋口さんから教わった。なるほど、John Cageはアメリカ人だからアメリカのカネなら都合いいのか 、と、いささかいまいましい感じがした。消しゴムはうまくはさまった。それ以来、細かくきざんだ消しゴムは袋に入れて、いつでも使えるように保管した。この原作は甚だ興味あるものだっので、文庫本で買ってきて読んだ。長い原作を一時間のドラマにうまく縮めたものと逆に感心したものである。放送劇で、主役「私」を演じた小山田宗徳さんも今は亡い。竹内さんもNHKをやめてしまった。はるかなるあの時代である。


2006.9.2.土 晴 町田

ショパンの反則

 ショパンのprelude第八番の末尾に現われる連続五度。五度を形成する和音は四個。連続は二つの間に生ずる現象だから、したがって連続五度は三個である。これが両外声間に発生する。

 五度はもともと、響き自体は不快なものではない。八度と違ってどぎついわけではないし、中世の、また近代の曲ではしばしば使われる。それでは、連続五度はなぜ禁止されたか。ひとえに様式を整えるためである。声部の独立性を維持するために、二つの声部がタバにならない配慮が必要である。五度自体が不快な響きでなくとも、二つの声部が同時に太い線となるとことはまずい。だから、声部の分離がかならずしも必要ない場所では発生してもかまわない。ショパンの例では、高音域から密集して下降する和音群であるから、声部の分離は不要である。かえって、教条的に五度を避けると不必要な無器用な形態をとることになる。こうした高度の判断で作曲者はこうした。
 状況を総合的に判断して禁則を破った例はほかにもある。Richard Straussは「ツァラトストラ」の最初の有名なファンファーレで、堂々と、両外声の八度を造っている。壮大な和音の塊が巨石の列のように連続する場所だから、聴く人はまったく気にしない。

 もともと、中世には和音の並行移動という語法は聖歌の中で盛んに生きていた。近代になりDebussyなどが盛んに使っている。「沈める寺」の真ん中、聖歌が高揚する所。この場合は、フランス音楽の民族的復活という意識もあろう。和音の並行移動では線の動きはない。だから、近代西洋音楽のタテとヨコの構造も古今不易なものではない。いまのポピュラー音楽ではこれ等の手法が盛んに使われる。遠い昔の語法で、しばらく使われなかったから今は新鮮に聞こえる。


 
Debussyの場合は、意図的にこの手法を復活使用したが、Chopinの場合はいわば、結果的に否定の否定の論理で「許容」したものだろう。幾つかの角度からこの語法の復活が近づいていた。時代の歩みがその地点まで来ていた。

2006.9.1.金 雨 町田

軽井沢

 
30、31日と軽井沢へ行った。来年八月の記念公演の軽井沢追加公演の下調べのため。すべて引き受けてくださるK夫人の車で縦横無尽に走り回る。とはいっても、自分は助手席に座して案内されるだけ。 それにしても新幹線は速い。13時20分東京発で一時間で軽井沢に着いた。高崎からほとんど10分くらいで着く。昔、国道18号線を車で難渋しながら碓氷峠を登って行った記憶からは信じがたい。


 高峰山に車で登る。昔、コロナの旧型で登り、頂上の国民宿舎に泊まったことがあった。舗装なしの悪路をあえぎながら登り、帰りの下りで車の下腹をひどく打ちマフラーを壊した。大型オートバイのような轟音を出しながら下までたどり着いた。小諸のトヨタに修理を頼み、小諸の町をおかげて散策したことがあった。石だらけの凹凸道路だから下腹を打った。いまは上等の舗装道路、車はすいすいと登りまた下る。


 
頂上の展望店で妙な歌を鳴らしていた。歌謡曲みたいだが、幾らか上等な感じ、ラジオ歌謡風。チラシが置いてあった。永六輔詩、小林亜星曲、歌は由紀さおり。永さんと亜星さんは少年時代、小諸に疎開していたことがあるので、恩返しでこの歌を作詞作曲したのだそうだ。信濃小諸をたたえた詩。そのCDを売っているというわけ。作曲はさして上出来とは思わなかったが、普通こういう店では今はやりの騒々しい音楽を鳴らしているが、日本風の穏やかな歌は逆に新鮮だったことも事実。音楽のあたえる印象は実にさまざま、時と場合により計りがたい。
 もう軽井沢は30年くらい行っていない、その間に幾つもの新しい道路が出来て、本道だか、新道だか、バイパスだか、わけが分らぬ。縦横無尽である。来年の会場である大賀ホールを見る。折から、開催中の軽井沢音楽祭のリハーサル中なので中は見れなかったが、ロビーと周辺は見た。実にいいホールであり環境である。帰りは軽井沢から大宮まで止まらず高崎は通過。大宮から埼京線に乗り換えて帰る。高峰高原に屋外寒暖計が置いてあったが、気温は25度だった。

2006.8.27.日 曇 町田

格より出でたりショパン

 日本音楽舞踊会議の企画で、ショパン講座、prelude24曲の研究講師を引き受け、今度、9月29日金曜が二回目になる。この所、自分の創作は一休みということで、そちらに力を向ける。
回に四曲で六ケ月で24曲消化という計画だったが、やってみるとなかなか計画通りにいくことが難しい。何とか予定通りに強行したい。一回に四曲ずつといっても、四曲の中に話が長くなるのと、そうでないのと、ムラが出来る。今度の五番から八番までのうち、五番のD-Durと八番のfis-mollは途方もない情報量が仕込んであって、研究に長大な時間をとられる

 複雑な総体から骨格を読み出して、コンピュータに打ち込み構造図を描き出す。原曲の骸骨みたいなものが出来てくる。いかにも味気ない。美しい人を解剖するようで余程の理由がなければこんなことはしたくない。しかし望むところではないが、これをしないと構造が分らないから仕方がない。医学の勉強と同じである。

 五番は、この短い一頁だけの曲の中によくもこれだけの情報を仕込んだものと、あきれる。垂直的にも水平的にも。これだけの情報は、こうして一々構造図を見てはじめて認識することになるが、それでは、普通に聴いている人にとっては縁なきものか。縁なきものであるなら、相手かまわずの独善ということで、自称「前衛」と同じことになる。しかしそうではない。これらの情報は、一つ一つ聴く人の意識に間違いなく入力される。コルトーがいみじくも言ったように、このD-Durは木の間を漏れる初夏の陽のようにさわやかである。この印象を生み出すためにこれらの仕込みは、なくてはならぬ役割を果たしているのだから。
 八番もしかり。もっとすごい。こちらは長さも長い。転調の大胆自在さは、Tristanに比せられる。多くの点での定型外のあつかい。しかし、それをこの作曲者は入念な熟慮のもとに実施している。タテ軸とヨコ軸の二つの次元、和声と対位法、その両面を寸分のぬかりなく操作する巧みさには敬服する、それも教条的でなく。

 しかし、この第八番、終りに近く、両外声の間に露骨な連続五度が現われる。なぜこんな反則をしたのか。もっともいささかも不自然でも不快でもないが。私には分らない。

 「格に入らざれば乱れ、格に入り、格より出でざれば狭く、格に入り、格より出でてはじめて自在を得る」。

 これは塚原卜伝の剣術訓話である。格とは正当な様式とそのための戒律のこと。ショパンは格に入り格より出でた!

2006.8.25.金 暑い 町田

四谷会怪談

 鶴屋南北の「東海道四谷怪談」には暗喩に富む場面が多い。まるでシェークスピア劇のように。


 前妻お岩を毒殺して新妻をめとった民谷伊右衛門は、ある夜、寝室にお岩の亡霊を見る。彼の幻覚なのだが、恐怖にかられた彼は刀を抜き、亡霊に切りかかる。むろん切れない。切りかかると亡霊は移動する。狂乱した伊右衛門は刀を振り回し盲滅法に切りかかる。そして、ついには新妻を切り倒してしまう。
 この場面は、人が幻覚にかられる姿を描いている。伊右衛門の幻覚は、前妻への自らの行為からくる良心の仮借からのものである。しかしながら、自分で幻を生み出して、その虚像に切りかかることは人にはめずらしくない。現代社会でもふんだんにある。
 現代社会ではメディアがコントロールされている、などもその類いである。そう思えばそう見えるのである。亡霊に切りかかる伊右衛門と同じである。思うように事が運ばぬ場合、人は何かよからぬ外因があると思いたくなる。原因が自分にあるのではなく、外側に原因があると考えると自らの不備への反省も不要になるし、悪霊退治という新目標が生まれる。

 メディア・コントロールなどいまの社会でどうして出来るのか。メディアといえば、新聞、放送、出版、広告だろう。いまのこの国にどれだけの数のこれらの会社があるか。これらすべてに何かをやらせることがどうして出来るのか。社長たちを一堂に集めて、政府の高官か経団連の幹部が訓辞を垂れるか。聞かされた社長さんたちが、はいそうですか、と応じるか。それとも密使が飛ぶか。相手は何しろ大変な数である。途中で、もしどこかに漏れたらとんだトクダネ提供である。ニクソンはマスコミに殺されたようなものである。いまのマスコミは権力の手先にはなってくれるものではない。
 幻覚にはいろいろある。学歴差別、職種差別、××差別、あまたの差別。本当に差別がある場合もあるのだろうが、自ら思い込む側が幻影に追われていることもある。自分は差別されていると思い込むとすべてがそう見えてくる。ヒガミである。ヒガミほど有害なものはない。

 石川啄木の歌

  人並みの才に過ぎざるわが友の
        深き不平もあわれなるかな

 人はのびのびとしているとき、はじめて全力が出せる。 

たったいま、ネットで読んだ新聞で作曲家、高木東六さんの死去を知った

 103歳、たいしたものである。高木さんは、フランスで勉強して西洋音楽のよさを存分に知っている人だった。日本式歌謡曲の貧弱さ、暗さ、音楽としての貧しさ、こういうものを徹底的に嫌った。その主張は明快なもので、この年代でこれだけ土着的音楽にノーを宣言した人は珍しい。同じ美観を共有する者として痛快であった。大衆歌曲の審査の時に同席したことがあった。戦争のさなか、高木さん作曲の軍歌「空の神兵」はまるで宝塚歌劇の歌みたいに明るくしゃれていた。軍歌らしくない。そういう歌を意図したのだそうだ。音楽家としてこういう時代批評もあることを知らされた。今聞いてもいい歌だ。

2006.8.24.木 猛暑 町田

 
事情で数日町田の仕事場に来れなかった。器材はすべて町田に置いてあるので、その間、サイトの更新もできない。五日ぶりの更新である。

夜ごとの美女

 時代の先端をいっていると当人が自負している行為が、実は、古い時代の延長であった。こういうことは悲劇であり同時に喜劇である。いまはすっかり衰退したが、政治の世界の左翼過激派がその例である。既成左翼に対抗して過激な行動起こしたが、ハイジャックや内ゲバの連続で自滅した。彼等にとっては革命ロマンティシズムだったのか。

 ロマンティシズムとは何だったか。ロマンティシズムという表記は長いのでロマン主義と書く。人が夢を見た時代。19世紀西洋で発し、ロマン派の華麗な音楽群を生んだ。ショパンの講座で調べてみたことだが、この時代、社会改良、自由人権の運動が興隆した。マルクスの共産党宣言はショパンの死ぬ前年のものである。ところが、それと同時平行して、欧米の海外植民地収奪もまた活気を呈していた。いいこと、よくないことが、同時進行している。どちらにせよ、活気ある時代で夢多き時代だった。マルクスの共産主義もまた理想の夢だった。人にはなんでも出来るという夢想。こういう夢が持てるということは芸術にとって幸福な時代である。
 夢想の時代は20世紀前半で終った。第二次大戦後は、技術の暴走もまた飛んでもない反人間的なものになる現実が分ってきた。社会主義もうまくいかない。西洋が先頭をきっていた近代の青春期が終ったので
る。青春期が終れば實年期である。夢想から現実への転換である。
 ところが、この時代転換に気がつかず、いまだにロマン主義の中で夢見ている人たちがいる。通称「前衛音楽」と称される人たち。第二次大戦以後威勢よく旗上げしたこの流れ、シュトックハウゼン、ブーレーズ、ノノ、の三人組、日本でもこのエイジェントが出来て派手な活動をした。この人たちには、自分の発信が他人にどう受取られるかへの憂いがまったくない。発信したものは間違いなく受け取られると信じきっている。無邪気なること幼な子のごとくである。イエスは「なんじら幼な子のごとくならずば天国の門は入れず」と言った。この人たちは無事に天国の門に入ったのであろう。救われないのは聴かされた側である。

 ワーグナーは巨大オーケストラと長大な演奏時間の音楽で人に訴えた。しか
し、表現と受のこういう比例関係はどこまでも続くものではない。表現を限りなく激烈にすると、この幸福な比例は終る。こちらの発信量と相手が受け容れる受信量とが右肩上がりの直線ではなく、急速に下降し始め、ついにはゼロにいたる。選挙運動のうるさい連呼が逆効果になるのと同じである。何が何だか分らぬものを延々と続ける、あるいは、途切れ途切れに続ける。脈絡が分らぬ。あるいは、なにやら演奏家が、チャンス・オペレーションらしく狂気のように音を出しまくる。これも聞く側には意図がさっぱり分らない。人が人を理解することの難しさを、この人たちは考えないのだろうか。発信と受信の幸福な比例関係を信じきっているのか。ワーグナーの音楽は比例上昇の限界点以前の所にいたから成功した。この人たちは、それが無限に続くと考えているようだ。サルトルは「嘔吐」で、人と人の、人と世界の断絶を描いた。すでに半世紀以上前のことである。それなのに、この自称前衛たちはなんと楽天的な世界にいるのだろう。彼等こそいまに残る季節はずれのワグネリアンである。シュトックハウゼン、ブーレーズ、ノノ、日本のエイジェントたち、彼等は地質学的遺物である。音楽は社会の変動が一番遅れて到達する分野、と古来いわれるが、こういう光景を見るとなるほどど思わざるをえない。

 
現代作曲家という名称があるかないか知らぬが、あるとすれば、その定義は、誰も聴かない音楽を作る人たちであろう。××作曲賞という現代音楽の賞があって、公開審査するのだそうだ。なんともキテレツな光景である。誰も聴かないものに等級を付け、それを厳かに、しかも公開という型で審査をし、賞を授与する。昔、「夜ごとの美女」というフランスの喜劇映画があった。夢の光景をおかしく描くのだが、オーケストラが深刻なアダージョを演奏している。指揮者も団員もこの世の深刻さをきわめた表情で演奏している。しかし、よく見るとチェロの人は電気掃除機を前後に動かしている。指揮者が手にしているのは、自動車のクランク棒である。真面目くさっている所がおもしろい。

2006.8.19. 土 猛暑 短時間町田

脳のはたらき

 毎日利用する小田急線経堂駅に区立の図書館が出来た。往く時、借り出して電車の中で読むことを数日続けたが、どうもよくない。

 
電車の中では何もせず頭を休ませていた方がいいようだ。人の頭、脳というのは不思議なもので、本人が意識しなくても脳は活動しているらしい。何もせずぼーとしていても、脳はその間、何かの仕事をしているようだ。いままで入力された情報を選別消化し、栄養を吸収した上で、しかるべき所に収納する作業をしているようだ。ちょうど、胃が食べたものを選別処理して消化したものを腸へ送り込むように。頭を休ませている間その仕事をしているのだろう。そのさなかに、また次なるものを送り込まれては、消化中にまた食べるようなもので、胃と腸には過労となる。やめよう。電車内では少し退屈なこともあるが、この退屈もまた脳の健康のためにやむをえない。腹が減っても我慢。

一色次郎さんのこと

 一色次郎(いしき・じろう)さんは、第三回太宰治賞受賞作品「青幻記」(せいげんき)の作者である。「青幻記」はあとで映画にもなり、武満徹が音楽を担当した。

 かつてNHK・FMに「芸術劇場」という番組があった。FMがまだ「FM実験放送」と名乗っていた頃である。私はこの番組の伴奏音楽の仕事をずいぶんと受け持った。この番組ではNHKの名プロデューサーと言われた人たちが仕事をしていた。1960年代のことである。一色次郎さんの「青幻記」も1968年にラジオ・ドラマ化され、私が音楽を担当した。凄絶にも美しい物語で、私は戦慄をおぼえた。この音楽録音の時、原作者の一色さんがNHKのスタジオに来られた。大変気に入ってくださって、終了後、宇田川町の小料理屋へ行った。むろん、プロデューサーそのほか、仕事に関わった人たち多くが参加した。二階の小さい座敷で先生を中にして文学論に話がはずんだ。当時、車を使っていた私はいささか飲んだため車を局に置いて、翌日とりに行った。

 その後、一色さんと懇意になり、しばらくして練馬の関町のご自宅を訪問したことがあった。NHKの赤坂順之介プロデューサーと一緒だった。当時の関町は静かな所で、近所の静かな居酒屋で談論し、片隅の畳敷きの所で話した。話題は文学のことで、大岡昇平、レマルク、と話題ははずみ、当時「中央公論」誌上に連載が始まったばかりの大岡昇平の「レイテ戦記」に話が集中した。秋の夜の得難い思い出である。一色さんの説では戦記文学、戦争文学はレマルクの「凱旋門」に尽きるという。あとあとまで、一色さんは、あんなに酒がうまかったことはなかった、と言っておられた。静かな秋の夜の文学談義であった。この日私は赤坂さんの車に同乗して行った。私はお酒を飲まず、帰りは私が運転した。関町の空き地に車を置いた。駐車事情ものんびりしたものであった。

 その後少しして、一色さんの随筆「秋扇秋魚」(しゅうせん・しゅうぎょ)を朗読放送することになり、私が音楽を担当した。金魚を飼った作家が、その艶麗な姿に魅せられる話である。あとで、一色さんは、この物語の中で「美しい」という言葉は一度も使わなかったと言われた。なるほど、その通りである。文学に取り組む人の心構えを知った。私たち作曲家や演奏家は音が道具である。同様に、言葉を道具にする人は言葉が大事な道具である。普通の人とは対応の仕方が違うし、また違わねばならない。「秋扇秋魚」の音楽は私自身、いまも気に入っている。録音を大切に保存しているので、ほしい人にはMDで分譲できる。その後しばらくして、ハープの柳田裕子さん、マリンバの高橋美智子さんと三人で関町のお宅にうかがっこともあった。
 一色さんは飄々とした人で、その後、八王子の高尾山口に転居されたが、新聞の随筆で高尾山口から、夜、浜松町の貿易センタービルの灯りが見えるなどと風変りなことを書いておられた。1988年に惜しくも他界された。私がはじめてお会いしてからちょうど20年後であった。


2006.8.17. 木 曇ときどき驟雨 町田

重要前提あり

 西洋音楽の真髄が、情報量の豊富さにあると私は書いた。しかし、ここにはある前提が置かれている。西洋音楽では、素材の量と表現内容の量とが比例する楽天的な関係が成立していることである。和音、多声を豊富にすれば、音楽内容も豊富になる。原則としてかような関係が成立している。ところがここに、この関係が存在しない音楽がある。邦楽器の世界である。


   ここでは、音を多くすると、逆に内容が窒息し、音が薄くなると反対に表現内容が濃くなるという逆関係がしばしば起こる。常に反比例するとも限らないが、正比例でもない。この相互関係は法則化できないもので、一回ごとに美的判断に頼るほかない。たった一本の尺八の音は、無限に微細な付随要素を従えている。細密な中間音程、音色の変化、持続の自在、それらはすべて、等分割、等倍の定量的性質によるものではない。したがって、演奏のたびに自在に変化する。西洋音楽では存在しなかった情報量を多分に含んでいる。和音、多声とは異なる種類の多量の情報である。だからこそ、たった一本の旋律でありながら、西洋楽器の無伴奏とは違う独自にして多用な情報の発信者となる。
 西洋の楽器もかつては同じような特性を持っていたのだろう。近代化の過程で少しずつそれら非定量的な要素を削ぎ落としていった。その結果、楽器は等質化し、等質化したものは総合可能となる。累積が可能となり、大構造の音楽が出来た。オーケストラはその結果の産物である。
 邦楽器を複数総合させる編成では、ここが微妙な注意点になる。付随要素をふんだんに含んだ楽器同士を総合すると、付随要素相互の干渉がハウリングを起こすことがある。その結果、原音までもが損傷を受ける。尺八と箏、三弦などは、経験的に可能な編成なのであろう。ある人数までの箏を含む合奏も可能と思われる。問題は、西洋のオーケストラの大編成を楽天的に採用した場合である。編成が大きくなれば、楽器の特性も相互干渉で拡大される。付随要素は合奏の中で消去され、原音だけが裸で残る。これがこの楽器の美徳の喪失につながらないのか。

 分りやすく言えば、西洋楽器はコンマ以下を切り捨てた。邦楽器はコンマ以下の要素をふんだんに持っている。西洋楽器はコンマ以下を切り捨てたため、大編成が可能になったし、作曲の上でも可能性をあまた産みだした。壮大な建築的音楽を生み出した。しかし、原初の要素の表現は捨て去った。邦楽器はその反対である。積み重ねでは不可能な自然な味わいを生み出すことが出来る。しかし、その地点から進出はできない。両者の差し引き勘定はどうなるのだろう。これは私にも容易に判断できない。ただ、西洋楽器と邦楽器はそうした大前提の違いを持っていることは認識しておく必要があるだろう。合奏形態においてもこの課題は関わってくる。邦楽器のこれからを考える場合重い課題であるし、西洋音楽の論理の裏にあるものを知っておくべきことだろう。

2006.8.15. 火 曇ときどき驟雨 町田

 
こうして、分類はしてみたが、それぞれの人が自分の美感と思想にしたがって道を選んだ。そして、技術的分類にかかわらず、すぐれた仕事を果たした人がいるし、そうでない人もいる。分類が即価値論にはならないことはよく心得ておかねばならない。

 それを承知の上で、原則論として論じておきたいことがある。

「オスティナート」楽派

 西洋音楽の真髄は、多声構造にある。polyphony、ポリフォニー、幾つかの線が組み合わさり、同時進行の型で構成される。「二つ以上の旋律を計画的に組み合わせることは西洋音楽だけが達成した成果である」。これは、ルネ・ライボヴィッツの言葉である。ライボヴィッツによれば、西洋以外の民族音楽にもこれに似た現象はある。ただし、それは偶発的なもので計画的な組み合わせではないという。邦楽の尺八と箏、三弦の関連もその一例であろう。ヘテロフォニーである。
 これに対し、西洋近代音楽は、タテに見れば和音だが、ヨコを見ると線が複数同時に進行している。音楽は時間現象だから、ヨコの線の方が本来のものであり、ある時点で音楽の進行を止めて垂直に観察すると和音になっているということである。人は幾つかの複数の線を同時に聴くことになる。それぞれの線をすべて区別して認識するわけではないが、人の脳というものは不思議なもので、意識していなくても入力するものらしい。コラールのような和音本位の型の曲でも、横の線を結ぶ作業はぬかりなく仕上げてある。オーケストラの楽器誘導で、タテばかり考えて一つ一つの和音を完備させた型で連続配列しても、ヨコの線としての繋ぎが出来ていないとおかしく聞こえる。いま風にいえば情報である。垂直と水平の両次元にそれぞれ別な情報が仕込んである。聞く当人が意識しなくても情報は無意識の内に脳に入る。西洋音楽の説得力は、この多数情報の同時発信から生ずる。私たちがベートーヴェンやワーグナーを聴く時、激しい表現の中に整えられた線の動きが仕込んであるために一本調子の薄い音楽に聞こえないのである。
 人は、ある極端な限界に触れる時偉大なのではない。相対する二つの極端に同時に触れ、そのあいだを満たすとき偉大なのである。西洋音楽の名作には、激しさと優しさ、堅固なものと柔らかいもの、高貴なものと親しみやすいもの、そうした相対するものが同時に仕込まれている。だから名作でありグローバルに聴く者を納得させるのである。

 ここでオスティナートについて論評しなければならない。オスティナートそのものより、この語法を頻用、あるいは、これだけで曲を仕上げる作風が日本に一つの類別として存在するからである。
 オスティナートという語法、この語法が継続する間は和音に変化がなく、すなわち横の線は停滞状態になる。あるべき複数の線は線としての必要な起伏を失い、線としての自立性と存在感を失う。リズムだけが強調される代りに複数情報の同時発信という貴重な機能を失う。確かにストラヴィンスキーはオスティナートを頻用したが、その中に線の動きをぬかりなく仕込んでいるし、オスティナートを過剰仕用しないよう用心している。 オスティナートは部分的に使うと効果的であるが、度を超えて頻用することはいい結果を生まない。これは当然である。まして、度を更に超して、曲の大半か大部分をこの語法で形成することの結果は説明も要らない。
 和声の理論と操作を把握して、これを己れの思うままに駆使することは確かに至難である。ことに日本人にとって、異国の語法を新しく学習することは至難であり、手がかかり、時間もかかる。至難であるから、それはやめて、オスティナートという簡明素朴な方法に身をゆだねたくなる。しかし、オスティナート「しかない」様式は、救い難い貧困を露呈する結果を招く。「オスティナート」楽派、という言い方はおかしな言い方であるが、しかし、この言い方が何を意味するか、読む人には分るはずである。私が「オスティナート」楽派に同調しなかったのは、こうした次第で、この方法が西洋音楽の最も貴重な財産の輸入を放擲することを察知したからである。
 もどかしい西洋音楽の学習を放擲して、いきなり殴り込み的な方法で自己表現したくなる心理は理解できないものでもない。しかし、そんなヤケクソ型の方法がろくな成果を上げるわけがないことは自明である。
 この、手っ取り早い「輸入ヤメ。手近な所で我々自身が持っているもので気勢をあげよう」式の方法は案外と人気を呼んだ。音楽の受取り側にもこういう思想と美学を肯定、歓迎する風潮が存在するのである。排他的民族主義であり、深層には国粋主義へのかすかな誘惑があるだろう。三島由紀夫が書いたことがある。「日本人にとって西洋は鏡のようなものだった。鏡に写る自分の姿を見て、日本人は自分がどういう姿かたちか、どういう存在か、過去より良くなったか、悪くなったかを知る手がかりとした。ところが、この鏡をぶち破ろうとする思想が現れた」と。鏡をぶち破れば自分の姿を見なくてもいい。自分で自分の姿を見るという不快な行為はもう要らない。「オスティナート」楽派の道は鏡のぶち破りである。私は、この路線に、日本近代化の裏に取り残された暗い残留物を見る。音楽を造る側にも、またそれを歓迎する聴く側にも。


2006.8.14. 月 晴 町田

 
私のこの分類は、いうまでもなく、ごく限定された角度からだけのものである。たとえば、矢代秋雄とか三善晃というような人たちはどこに入るか、といえばすこぶる難しい。フランス流の技法と美学に反抗したわけではないが、さりとて、その中でひたすら順応していただけでもなかろう。技術と美学思想を自分のものにした上で大きな自己実現をしたということになるだろう。黛さんもしかりである。

 なんらかの形で西洋音楽の財産をとり入れなければ日本の近代音楽は出来なかったことは確かである。民族主義と精神主義では今まで無かったものを出来るものではない。古い日本歌曲に、旋律はいいが、伴奏の和声がなんともお粗末で聴いていても自分でひいていても不快で続けられなくなるものがある。ロシア国民楽派の人たちは、西欧とは違うロシアの独自性を打ち出そうとした。そこがチャイコフスキーなどのモスクワ楽派と違う所といわれる。しかし、そうはいっても、ロシアはなんといってもヨーロッパ文化圏の中の国である。西欧とは違うといっても相対的なものに過ぎない。ある国際音楽祭での話を聞いた。日本の作曲家の某君がアフリカ新興国の若い作曲家と友人になった。ホテルの彼の部屋に行くと、書きかけのsymphonyのスコアを見せられた。その時、日本の作曲家君は口まで出かけたことがあったがやめた。それは「こんな西洋風の音楽を作るより君の国には立派な民族音楽があるではないか」、ということだった。それを言えば、それはただちに自分たち日本人にはね返って来る。

 
明治の始めに伊沢修治がいきなり西洋音楽を取り入れて日本の伝統音楽を教育の場から排除したことは最近批判されているが、案外、それも勇断だったかもれない。ただし、伝統音楽を粗末にし過ぎたことは確かだ。近年その揺り返しで補修の段階に入っているのだろう。
 私は札幌の邦楽団体としばしば欧州に演奏旅行に行ったが、あちらの人から言われる。「あなた方は西洋音楽も私たちに負けないくらい出来るのに、そのほかに自分自身の伝統音楽も持っているではないか。二つの音楽を持っている」、と。確かにその通りである。私たちにとってはいかにも誇らしいことである。だた、ここまで来るには先輩世代には大変な苦難の道であったろう。この悪条件が解消したのは、ほんに数十年前、第二次大戦後である。交通通信が発達して、政治的にも自由になり、外国に行くことが難しくなくなった。また、海外の情報も速く大量に流れこんでくるようになった。外国で学んだ人に会うことも容易で、師事することも難しくない。この頃は、欧米に限らず、世界のどの国と地域に行くことも、若い人たちには何でもないことである。まるで、昔、北海道に行くくらいの感覚でアフリカや南米に行ってしまう。それに日本が経済的に豊かになったために音楽の勉強がしやすくもなった。これも大きな変化である。昔は男子は音楽の道へ進こと自体がなかなか許されない時代があった。


2006.8.13. 日 晴 町田

 さて、私たち当時の作曲学生はこのフランス式の学習をどう受けとめたのだろうか。

 私たちより少し先輩と同輩の年代の作曲学生は、その後の日本作曲界を代表する人材を多く含んでいる。先輩、同輩、を展望、概略して、当時の作曲学生たちがパリ式の勉強をどのように受けとめたか。幾つかの分類が出来ると思う。もっとも池内教室以外は別なシステムの勉強をしていたのだから、そちらは知らない。しかし、その後の歴史で池内門下が占める存在は甚だしく大きいのであるから、戦後日本の作曲界の動向と受け取ってもかまわないと思う。

 
自分のことから始めるが、私は当時バルトークに夢中であった。その後、柴田南雄先生の研究会にも出席してシェーンベルクの12音音楽にも関心を持った。若い者は新しいもの革新的なものに関心と魅力を持つものである。いつの時代でも同じである。だから、ラヴェルを至上とする師の美学には、そのままでは付いて行く気には到底なれなかった。しかし、そのこととは別に、作曲には技術が必要ということもよく分ったし、そのためには、いま目の前にある進行中の勉強を無用とも思えなかった。渋々というほどでもないが、仕様がないか、というくらいの心境だったろうか、あの方式の勉強を続けた。

 それから少し時を置いてのことだが、バルトークやシェーンベルクの音楽を研究していると、これらの音楽の中にも、この勉強で学んだものが、生きていることが段々分ってきた。音を組み合わせる法則、あるいはむしろマナーとでもいうもの、そんなものがどこにも浸透存在しているのである。いかに外見がラヴェルと縁遠く革新的で過激な音楽でも。こうなると、そのパリ派の技法には強大な説得力が出てくる。整理された理(ことわり)があり、それに従うことが何のためであり、その結果がどうしてよいものになるか、従わないとどうわるくなるか、そういうことが、実例と根拠をを以て説かれると納得せざるをえなくなる。これは西洋音楽数百年の積み重ねが造りだしたものであろう。音楽だけでない文化の重みともいえるものだろう。若い者の出来心くらいで否定できるものではない。文化とはこういうものか、といまも思う。井上靖の小説「蒼き狼」の中で、金国を征服しようとするジンギスカンに若い政治顧問の耶律楚材が警告する場面がある。「金国は文化水準の高い国である。カンの軍隊は金国に駐留する間に次第にその文化に染まって吸収されていくだろう」と。ストラヴィンスキーが西欧に住む間に次第に西欧化して、原初の活力が衰弱していったのもこういう経過だったのかもしれない。など、いま振り返って思う。

 私はどちらかと言えば、中間派だったのだろう。消極的追随派とでもいうことか。ほかに積極的信奉派がいた。この人たちは、師匠本人のラヴェル尊崇より少しは新しいか別なものを理想像にしていたかもしれないが、基本的には受け入れ派である。
 そして、第三は不満派である。抵抗とまではいかなくても、こんなものよりもっと別なものを求めたい、という人たちである。民族主義、というものか、そこまで理念化されたものでもないかもしれないが、オスィナートが好きな人たちと言った方が分かりやすいだろう。この三つを整理すれば、「同調派」「中間派」「不満派」ということになるか。

2006.8.11. 金 晴 町田

 日本の学校制度のためか、どの学校も似たようなものか、入学試験の準備の受験勉強の時に最も熱心に勉強して、入学すると気が抜けたようになる。私の場合も入学前の勉強は懸命だった。夢の中で対位法に取り組んでいたことがあった。歩いていても飯を喰っていても和声課題のあの部分をどうするか考えている。

 入学すると虚脱の状態になるが、それでも期末試験はある。芸大の池内先生の期末試験は、パリ式なのだろうか、おもしろいものだった。

 午前10時に教室に入る。試験問題が配られる。和声法の試験である。前半が低音課題、後半が旋律課題というものが出される。これもパリのやり方のようだ。さてそれで、問題用紙の配布が終ると試験官は居なくなる。退場するのである。あとは、午後四時に回答を回収するまで試験官は居ない。つまり監督官がいないのである。何をしてもとがめる人がいない。午後四時の提出時間までは何をしてもいいのである。食堂にいってコーヒーを飲んでもいいし、どこかへ出かけてもいい。うちに帰ってもいい。所定の時刻午後四時に回答を提出すればいいので、それまでは何の制約もない。六時間、文字通り自己責任の世界である。
 試験官が退場すると、すぐに問題に取り組む者はまず居ない。しばらくは一角に車座になって世間話に興ずるものがいる。ある時のことでは、和田則彦は、昨日私と見てきた映画「宇宙戦争」の話に夢中になっていた。真鍋理一郎は、机の間を歩きながら朋輩の答案を覗いていた。30分か一時間ほどすると、少しずつ問題に取り組み始める。隣の人のものをカンニングしてもいいが、同じであることはカンニングを告白するようなものだから、事実上カンニングは出来ない。私の隣の机の男は、おしゃべりもせず、さりとて、書いたり消したりもせず、黙然と腕を組んで課題をみつめていた。六時間そうしていたわけではなかろうが、彼がその間何をしていたか忘れた。この人は最後の段階になって書き始めた。あとで成績の説明講評が教室であったが、私は何故かその時教室にいなかった。この隣の男の回答が最良の一つに入っていたそうだ。その男は林光だった。

2006.8.10. 晴 町田


 昭和25年頃、私は、下宿で同室だった友人が池内先生の所に通い勉強している様子を見て、いままで知っている勉強の方式とは違うことをはじめて知った。友人は川崎祥悦である。

 当時、いまあるような芸大発行の赤い表紙の「和声学教科書」はもちろんまだ存在しない。池内先生自身の単行本も発行されていなかった。先生が教育出版社から発行した通信教育のテクストで私たちは勉強した。「和声法講義」という題で、三巻くらいあったように記憶する。「和声学」ではなく「和声法」である所が大事な所だと、先生自らか、先輩からか教わった。確かに、このフランス式の教育は、私が今まで知っていたドイツ式のものとは大分様子が違った。学問知識としてではなく、技術として和声を学ぶのである。段々分ってきたが、和声についての理論的知識を知ることではなく、その法則を知りながら、その上で音をあやつる技術を会得することが目的だった。知識があっても、それは音をあやつる能力を意味しない。能力にならなければ役に立たない。この教育システムの完備はパリ音楽院が世界で一番伝統があり、すぐれているそうだ。ドイツよりも完備している。一説によると、フランス人はこういう組織化が好きなのだそうだ。また、ドイツはフランスより音楽の先進国で、学生に理論を教えればあとは自分でものにするのだそうだ。これはどこまで確かか知らないが。そんなことも聞いた。ともかく技術教育であり、知識の学習ではなく技術の習練であった。
 ついでだが、いま芸大から出ている赤い表紙の和声の本は、専科用のものではない。副科用のものである。専門の学生の勉強はあんなものでは用をなさない。あの本は、医学でいえば家庭医療の本みたいなものである。

 
池内先生の通信教育の教本は、白い無地の表紙の、薄い冊子で簡素なものだった。しかし、その内容はいたって密度の濃いもので、一言半句もおろそかに出来ないものだった。このことは、勉強を進める内に分ってきた。何か注意されて読み直すと、必ずどこかにそのことが書いてある。最もおろそかに読み逃しそうな巻頭言に、いま考えても最も大事なことが書いてあった。「和声、和音は日本に存在しなかった。したがって、和声を学ばずに作曲された日本の音楽はいずれも救い難き和声的貧困を露呈する」。この下線の部分は私がいま強調した部分である。和音、和声は日本には無かった。無いものは外国から学びとるより仕方がない。意地を張ってもしようがない。外国のものをとり入れず日本独自のものを、といっても、それは幕末に外国の軍艦に刀を振り回したのと同じである。
 ここで大事なことは、和音和声は音が縦に重なっているだけではないということである。縦に見ればその通りだが、和音のそれぞれの音を横につなぐと、水平の線が形成される。縦からみれば和音、横から見れば何本かの線の同時進行、これが西洋音楽の構造の真髄である。パリ音楽院は世界最古の音楽学校である。初代院長はケルビーニ、ベートーヴェンの頃のことである。フランスでは作曲家の90パーセント以上がパリ音楽院を卒業している。

 ただ、当時、日本ではフランス派はあくまで少数派であった。芸大では明治以来のドイツ派が圧倒的に主流を占めていた。池内先生が安川加寿子先生とことあるごとに連携されていたのは、こうした事情からであったろう。周囲をことごとくドイツ派に囲まれて孤立状態の中で少しずつ橋頭堡の確保と拡大に努力されていた時期であったと思われる。
 フランス派の教育、ことに作曲の和声、対位法は日本ではそれまで認知度皆無ではなかったろうか。ドイツ派の先輩恩師に池内流パリ音楽院の学習の方法を説明しても、なんとなく、うさん臭そうな半信半疑な顔で聞かれることがあった。日本の西洋文化の取り入れ方もおかしな偏ったものだったわけである。音楽の留学といえば、ドイツ、オーストリアと決っていた。戦後になり、はじめて、アメリカのジュリアードやカーチスへ行く人が出てきた。このこと自体が日本の音楽界では明治以来はじめてのことで、敗戦も含めて、新時代をの到来を表わしていた。


2006.8.8. 小雨 町田

 
いまから半世紀以上昔、私たちが学生だった時のこと。
 日比谷にあった昔の第一生命ホールで、あるピアニストのリサイタルがあった。

 ラヴェルの「ソナチネ」か、ラザール・レヴィイの作品が演奏された。レヴィの曲もラヴェル風のものだった。休憩の時にロビィに作曲科の同級生たちが集まり、車座になり散々曲の悪口を言った。なんともチマチマした音楽だ、両手がくっつきそうな位置で作られている。そうだそうだと気勢が上がった時、それまで沈黙していたある男が物静かに言った、「こういうものを入念に創り上げること自体が立派で、すばらしいことではないのか」。一座は白けた。解散した。話に水をかける奴だ。皆そう思った。いまいましい。山本直純もあとで、いまいましそうにそう言っていた。わけ知りそうにそう言われると返す言葉がない。


 
人と人生には分らぬことがある。若い時、師匠である池内友次郎先生の教えに、われわれ若い学生は反抗的だったことが多々あった。そもそも対位法など、好きな人がいるわけがない。無味乾燥なものである。ザルツブルクでモーツァルトの若い時のノートを見た。対位法のノートであった。直したり消したり、悪戦苦闘の跡があった。あれだけの天才でもこの技法はすらすらとはいかない。しかし、この勉強をしておかないと、基礎体力がつかない。思考能力が鍛えられない。音楽に対して技術的に取り組む体力と姿勢が養われない。そんなことが若い時は気がつかなかった。
 われらが師匠、池内先生の美学は、ラヴェルを以て至上とするものだった。「マ・メール・ロワ」の最初の四小節に音楽はきわまる、とまで言われた。当時の私たちには何ともうなづきがたいものがあった。当時、ドイツ音楽の精神主義、あるいは、バルトークやストラヴィンスキーなど現代の先端的音楽とその構造に本能的ともいえる魅力と関心を持っていたのだから、こうした師匠の美学は、当惑と困惑であり、私たちの関心からはなんとも焦点がずれたものとしか思えなかった。
 しかし、それから半世紀、不思議なことに、師匠の教えが、いつのまにか自分の中で骨になり肉になっていることに気がつく。親の教えのようなものか。親の教えは冷酒のように後から効いて来る、とよく言われる。和声法や対位法で学んだ、音をていねいに理にかなって扱う態度、心がけ、とでもいうか、自分の情に溺れるのではなく、自分を超えた秩序に自分を従える克己心とでもいうものがそこにはある。「マ・メール・ロワ」の最初の四小節にもこの頃はひたすら畏れ入る。
 池内先生という人は俳人でもあった。高浜虚子の次男として若い頃から俳句を学び、一家をなしていた人である。当時「週刊朝日」の読者俳壇の選者でもあった。私たち池内教室は、四月に新入生が入ると親睦ということで、バスをチャーターして江の島へ遠足に行く慣例があった。途中、第一京浜のある場所に立寄ると、ビールが次々とバスに運びこまれた。朝日ビールだった。先生の関係で持ち込まれたものだろう。
 俳句に代表される日本文学の美学の真髄と、西洋音楽の美学の真髄に相通ずるものを先生は見い出されていたものと今は思う。最少の言葉ですべてを表わす。「マ・メール・ロワ」の最初の四小節も、これ以上音を減らすことが出来ない造りで出来ている。たった二つの声部で必要なことはすべて表わし尽くしている。芸術の目標は洗練である。洗練とは余計なものを含まないことである。別な美学思想もあるのかもしれないが、いまは説得される。
 第一生命ホールでわけ知りの弁を吐いた男は、卓抜な秀才だったが、二年で学校を中退してパリ音楽院に渡り、その後どういう風の吹き回しか、「自称前衛」音楽を作るようになった。世の中にはわけが分らぬことがあるものだ。


2006.8.6.日 晴 町田

 
毎日、自転車で経堂駅まで行く。暑いのにご苦労様だが、仕事場が町田なので仕方ない。経堂で小田急線の急行に乗る。有料の自転車置場を借りているが、置いた場所から駅まで50メートル程歩く。最近、駅の手前に区の図書館が出来た。場所がいい、行く時立ち寄り、借り出して電車の中で読み、読み終れば帰りに返せばいい。

 
奇妙な本を見つけた。「ノモンハン戦車戦」。マキシム・コロミーエフ著。小松徳仁訳、鈴木邦宏監修。大日本絵画刊。

 「ノモンハン事件」と呼ばれたこの戦争は今の世代はほとんど知らないだろう。昭和14年、1939年夏、今の中国東北部とモンゴルの境界で、現地に駐留していた日本軍と、同じくモンゴルに駐留していたソ連軍が軍事衝突したのである。茫々たる大草原で両軍が戦車と飛行機と歩兵で戦った。当時、九歳の小学生だった私は、少年雑誌と新聞で戦況を知り、緊張したものだ。日本の空軍はずいぶんと善戦したようだが、地上戦ではソ連軍の戦車隊に圧倒され蹴散らされて大損害を受けて敗退したと聞かされた。当時はそのことも報道されなかったが、形勢がまずいらしいことは気配で感じていた。
 司馬遼太郎が当時現地戦線に兵隊でいた。司馬さんは戦後、日本軍の精神主義の悪癖の例としてこの敗北を書いていた。ほかの人も、ノモンハンをよく反省していたら、近代戦を知る最初の経験として太平洋戦争に対しても違った対応をしていたろうと書いた。負けたことを反省しないというのである。悪名高い辻政信少佐か、中佐かも、この戦線にいた。何しろ負けたことを知らせないため、負傷者は病院に軟禁されたとも戦後は伝えられた。
 とろこが、この本によると事情は少し違う。この本の著者は、ロシアの戦史研究家で、旧ソ連時代公表されなかった戦史資料を探り、科学的な調査でこの戦争の推移と実態を新しく書き直している。それによると、かならずしもソ連軍は楽勝したわけではなく、また、日本軍が一方的に押しまくられたわけでもないようである。最終的には総攻撃をしかけてきたソ連軍に日本軍は負けたが、ソ連軍の損害も少なくなかった。日本軍が使った火炎瓶も、原始的な兵器として、いま自嘲的に語られるが、ソ連側はその効果をかなり評価している。火炎瓶を投げつけられると戦車は炎上し搭乗員は脱出することになる。戦車は破壊され、搭乗員は射殺される。これにより相当な数のソ連戦車が破壊され、ソ連軍は進撃の方法について苦慮したというのである。それから、ソ連軍は横の連絡がとれていなくて組織的行動が不得手で多くの欠陥があったとも書かれている。この戦線のソ連側総指揮官は、のちに国防大臣になり、位いをきわめた後て粛正されたジューコフ元帥である。

 
これを要するに、「ノモンハン」は、日本の精神主義が敗北したというより、精神主義でもかなりの所までいける、という逆自信を日本軍にあたえてしまった、ということのようである。後に辻政信がガダルカナルに来て、精神主義ではどうにもならぬ戦況を知り、「ノモンハンよりきびしい」と苦渋の告白をしたというのももっともである。
 ソ連は、これにより日本軍の精強さを知り、対ドイツ戦が始まっても、なおかなりの精鋭部隊を東方に配置していたという。これらの部隊が西に移動したのは、あのゾルゲによるスパイ、日本にソ連侵攻の意図なし、の報告をスターリンが受けたからである。もしこの部隊の移動がなければスターリングラード戦はどうなっていたか分らない。

 国も個人と同じで、いろいろな経験に遭遇しながら運命の道をたどっていくように思われる。もし、ノモンハンが真から日本陸軍を反省させるような結果であったなら、その後の歴史も幾らか変ったかもしれない。より少ない不幸の経験は、その後のより大きな不幸を回避するもとになる。北朝鮮の最大の不幸は建国以来負けたことがないことである。朝鮮戦争は引き分けであった。プライドはそのままである。だから駆け引きを知らない。これがあの国を滅ぼすだろう。中国の場合は違った。朝鮮戦争に参戦した中国軍は、はじめて近代戦を経験した。なかでも空軍の威力をはじめて知った。敵を包囲しても空中から無限に補給するから、いつまでたっても降伏しない。いままでの戦術が無効になった。この経験をした中国軍の膨徳懐将軍は、帰国して軍の近代化を説いたが容れられず、反対に左翼保守派に粛正されてしまった。しかしその後、左翼保守は失脚し、あの国は将軍の経験に従っている。


2006.8.5.
土 晴 町田

 マルクス主義は神を否定する。しかし、人にとって神とは完全と絶対を意味するもので、宗教上だけのものではない。神を否定すれば何者かが替りに神の座に着くことになる。人が神の替りになるならば、その場合、人は当然完全ではないし、不完全なものが完全な者の替りを果たすことになる。どえらいことになる。

 
神になったものは自分を絶対者にするから、過ちを認めない、謝りもしない、やりたい放題である。恐るべき結果が生ずる。
 もう一つの場合は、自分たちに都合のいい思想や理念を神の座に着けることがある。公平、公正、自由平等、と旗印だけはもっともだが、神を否定したあとでは、公平、公正、はいつの間にか嫉妬と憎悪にすり替る。憎悪と嫉妬が正当化された場合どのような社会ができるか。善悪も神に替って人が判断する。ヒトラー・ユーゲントはユダヤ人の住宅を襲撃した。党が正当化し奨励したからである。人の中にある、暴力、残虐、非道、の本能は自然法的な自制心によりふだんは抑制されている。それが合法化され、奨励されれば人は悪魔になる。これは右翼だけではない。階級闘争の価値観が正当化されれば、人は遠慮なく暴虐な行為に走る。人の中の悪魔を解き放つことになる。
 戦争は最大の暴力だという。左翼政党は熱心にそう説く。しかしここに論理の巧妙なトリックがある。最大値を設定すれば、それを防ぐためにあらゆることが正当化され合理化される。戦争を防ぐためという口実で、独裁政治も反対派の弾圧も、人殺しも合理化できる。20年ほど前喧噪をきわめた「反核運動」は、この論理のトリックを応用した申し分ない実例であった。核戦争の危機を防ぐという理由で、運動者はありとあらゆる傍若無人な行為をおこなった。昔、私が子供の頃、戦争に協力しない者は非国民、といわれた時代があった。「反核運動」は言葉を替えた同じことであった。当時私は、この暴風をまともに受ける場所にいたので忘れ難い貴重な体験をさせてもらった。「過去においても戦争に最も熱心に反対したのはわが党だ」と彼等は言う。しかし、彼等の戦争反対の真の目的は別な所にある。資本主義は必然的に戦争を必要とする、それをやめさせるためには社会主義にするしかない、これが言いたいのである。社会主義商会の商品セールスであり売り込みである。だから、ベトナムと中国が戦争を始めた時、彼等の狼狽ぶりはことのほか面白かった。この戦争、アメリカでは「スター・ウォー」と呼んでいたそうである。社会主義国の国旗には星が書いてあるからだ。星と星の戦争である。この後、同じくらい面白かったのはソ連圏の崩壊である。この時は、私の身辺には、有難いことにこの種の人たちはすでに居なかったので面白い場面を満喫することは出来なかった。
 戦争はなるほど最大の暴力である。しかし、正しくは最大の暴力の一つであるというのが本当である。戦争だけが最大の暴力ではなからだ。反戦平和を叫びながら、心に少しも平和を持たない人たちがあの当時横行闊歩していた。
 とはいえ、一般の人には常識的判断力があるのか、戦争最悪説のトリックにはなかなか乗らないようである。戦争の可能性が低い場合、このトリックは現実感がなく効果が余りないようだ。有難いことである。
 この種の政党員とシンパの人たちが開いている自由投稿のサイトがある。ひやかしで見ることがあるが、マルクスの何の本のどこにこう書いてあるとか、レーニンはこう言ってるとか、経典論争にはげんでいる。ご神託の解釈論争である。人を神にして祭るのだからカルト集団になるのは自然な流れだ。


2006.8.4.金 晴 町田

 
猛暑となる。

 
星の光が何年もかかっ届くように、巨大作「Passacaglia」の仕事の疲労感と重量感が今ごろになって、じんわりとのしかかってきた。労働の実感が初演を経て今ごろ到達したのか。おかしなことである。

 
環境音楽からの翻案編曲の小曲の仕事にかかる。一種のレクリエーション。こうした小曲の仕事は、さだめられた小さな範囲の中でそれなり洗練された感性のみがきが要求される。それがいまの状態にはちょうどいい。散歩で体調をととのえるようなもの。ヴァイオリンとピアノのための小曲がすでに三曲できた。続きにとりかかる。こんどは「breeze」、そよかぜ、という原題の曲。曲集は「睡蓮」と題した。その続きで第四曲になる。四曲すべて並べて演奏することはない。曲集から任意の曲を自由に選んで演奏することがのぞましいだろう。性質が同じおだやかな曲だから、すべて並べて演奏すると単調になるおそれがある。意外にむずかしいところがあるこの仕事が遊びになる。

2006.8.3.木 晴 町田

 
団体運営にかかわると、いろいろな体験をする。その時は気がつかなかったが、あとで振り返ると、出来事の意味が分ってくることもある。それが世界史的な大事件の予震であったというようなこともあった。歴史というものはこういう現れ方をするものか。


 私の意識も変化した。人をまとめる役の難しさを体験すると、体制は悪であり、人民は善である、というような通念を信じなくなった。反対に、下の方がいかにわがまま身勝手で、上のまとめ役が、どれだけ知られぬ苦労をしているか、という思いの方が強くなった。これを意識と思想の体制化、保守化という人もいるだろう。仕方がない。経験が教えたことである。会社は労働者が働いて支えている、社長と経営者は搾取しているだけ、こんなことをいまも大真面目に信じている人たちもいるのかもしれない。しかし、労働者の働きは尊重されるべきだが、社長も重役も働いている。この人たちの仕事がなければ労働者が幾ら働いても経営は成り立たない。昔よく言った。「××寺院は誰が建てたか」、「○○皇帝である」、そうではない、「大工建築労働者が建てたのだ」、と。これも正しくない。大工左官が幾ら集まっても、建築の価値、それを生み出すプロジェクトと想念、これはしかるべき素養、教養、品位、経験のある人でなければ持てない。それぞれの立場の人がそれぞれの持ち場で働いている。昔は、労働者の価値と権利が余りにも無視されていたので、このような考え方が現れたのだろうが、特殊な場合だけのことである。
 上は悪で下は善。国家は悪で人民は善。あるいはそういう場合もあったかもしれない。しかし、そうでない場合もあったかもしれない。決めてかかることはできない。誰かがまとめ役をしなければ世の中成り立たない。ばらばらでは人は生きていけない。政府も警察も無しにはすませない。国家は必要悪であるというのもそういう意味である。

 昨日二日は、渋谷のヤマハElectone Cityで、年末に初演するElectoneとPan-fluteのための新作の打合せ、作曲家でElectone奏者の西山淑子さんと会う。年末初演だが、すでに曲の方は今年の前半に出来てしまった。音色が自由になる楽器だけに、どの音色を使うかに研究思案を要する。Pan-fluteの藤山明君にはすでにスコアを送り、見解を聞いた。三本の持ち替えでなんとかなろうとのこと、あと微細な意見については、音を出してから検討することにしてある。なににせよ時間の余裕があることはいい。あわててはいいことがない。ほぼ自分が望む音色を作ってもらった。pianoの曲を続けたので、その反対の音が伸びる楽器のための作曲したかった。曲題は「Sylvie」。12月27日水曜、午後七時開演、会場は、渋谷ヤマハElectone−city。


2006.8.1.晴 町田

 「音楽芸術」という雑誌は存在しない方がよかった。ない方がよかったとは悲劇的である。出版社も同様。しかしこの雑誌にために葬られた作品、作曲家、またこの雑誌が存在しなかったら生まれたであろうすぐれた音楽を考えれば、いささかの同情も要しない。

 すべてのもとは公共への責任感の欠落である。私企業であるから何をやろうと自由でということはない。すべての企業には公共的責任がある。雑誌を特定の価値観で編集したいのなら、その立場を宣言し公正を期すべきである。新聞の音楽批評欄も似たようなことがあったが、しかし、こちらはそれぞれの執筆者が自分の価値観で書いていたので統一的な偏向があったわけではないと私は判断した。それでも責任を問いたい記事もあったが、もういい。日本の作曲界も当時よりは成長した。あの当時から30年近くたった。「音楽芸術」が存在できなくなったことの裏には、こうした作曲界の社会的人間的成長も陰の要因になっていたかもしれない。そうであるなら喜ばしいことである。

 月刊誌「音楽の世界」のこと。
 この雑誌は日本音楽舞踊会議という団体の機関誌で月刊誌である。第三種郵便の認可が1963年10月だから、43年、一度も休刊したことがない。出版資本によらず、芸術家が自力で発行した雑誌として歴史に残る業績である。この43年間、どれだけの雑誌が廃刊、休刊されていったか。総合雑誌から音楽雑誌まで、あまたの雑誌が栄枯盛衰を経験した。
 当時私は、余りに「音楽芸術」の所業が許せないので、自力でタブロイドでも出そうかとすら思った。しかし、ある時「音楽の世界」のことを思い出した。この団体には、以前一度入会して退会したことがある。団体の政治的偏向が、これはこれでつきあいかねたからである。しかし、自力でゼロから出発するより、気に入らない雑誌でも、既存のものに頼った方が効果的である。それに、私が目指すことは、この団体と雑誌にとっても趣旨と反することではないと考えた。私は1976年にこの団体に再入会、すぐに編集部に入れてもらえなかったが、まもなく請われて機関誌局長という位置についた。編集長よりも上位の管理とまとめの役である。着任とともに経営部を創設して編集、経営、それぞれが五人程度で定期的合同会議を開く体制をとった。これにより、編集部と編集長の権限は相対的に制約された。これは均衡と抑制という私の政治的配慮の結果である。

 当時、この雑誌の編集方針は、自称前衛のはびこりに対して民族派的な立場を推進しようとする傾向にあった。私はこの方針に反対した。そういうことをすれば、排他的なものがもう一つ増えるだけで、少しも状況の改善にならない。いま、この国の作曲界に必要なことは、傾向によって音楽を分類価値付けをすることをやめることである。個々の作品のよしあしで判断することである。傾向路線によって差別をすれば、観念的な分類だけが残り、自分以外のものを否定する。全面否定になる。互いに全面否定するものが一つから二つになれば殺しあいが盛んになるだけである。左翼過激派が「中核」「革マル」と内ゲバを繰り返し、人殺しまで続けるのと同じことである。自分を相対化することがでない幼児性であり価値観の未成熟である。だから私は、自称前衛のものでも、いいものは認めて紙上にとりあげることもした。日本の作曲界はその後、この方向に成長したように見える。好ましいことである。
 雑誌というものは、個人で勝手に出版するものでない限り、商業出版社のものでも、文化団体のものでも、多分、官公庁のものでも、発行母体の制約を受ける。自分で望むような紙面を作ろうとすることと、背後の母体から受ける拘束とが一致しないことがある。前面と背面と両方に配慮しなければならない。これは雑誌の編集だけでないかもしれないが、人の同意を得るという、手間のかかる仕事にとりくまねばならない。一人で作曲だけしている時とは大違いである。こういう段階の時は芸術家は一時おあずけである。組織人になり政治家にもなる。作曲だけしていたら到底知らずに過ぎてしまうことであった。妥協も駆け引きも談合も覚えさせてもらった。いい社会勉強であった。人も思想も、かたよることが嫌いで均衡を好む私にとっては望ましい勉学となった。世にいう芸術家という、社会人としてかたよった人間になりたくなかったから。

2006.7.30.曇 町田

 
て、それでは根本的な問題を考えてみよう。私的体験と私情ぬきで。

 このような評論雑誌、新聞、放送番組はあった方がよかったか、なかった方がよかったか。一般的に考えれば、たとえ一部に問題はあっても、やはりこれも文化活動の一部なのだから、ないよりあった方がいいと判断するだろう。一般的に考えればその通りである。しかし、ものごとには常に特殊な事情が付随する。どんなものにもそれぞれの事情がある。


 私は、ある時期からのこの雑誌はなかった方がよかったと思う。内容が偏向してから以後である。「音楽芸術」が消滅してからすでに日時がたった。若い世代ではすでに雑誌の存在すら知らない人がいるかもしれない。この数年、若い作曲家たちと話すと、昔にくらべて考え方がずっと明るく自由になっている。一頃とはまるで違う、独裁政治から解放された後の社会のようである。あの時代、この雑誌の評論家たちから見れば保守的と独断するであろう作風で作曲すると、「いまどきこんな」、「現代を忘れないでほしい」、「滅びゆくものへの郷愁だけがある」、こんなことを雑誌や新聞で書かれた。批評された者はどんな心境になるか。こういう評論が日本の作曲にどれだけの害をおよぼしたか計りしれない。音楽大学の学生が無理して無調音楽や不協和音を書くという喜劇的な事例さえ生じた。
 日本は作曲家の質と作品の技術的水準の高さからして世界の上位にいる。遺産に押しつぶされている欧州の人たちに比べて、身軽さと、独自の文化を持つ有利さから先進諸国よりはるかに優れた条件と人材を持っている。もし、こんな思想的圧力がなかったら、いまこの国はどれだけ豊かな音楽を持っていたか。
 私はつくづく思うが、美術の世界にはこういう悪風がない。それぞれの人がまったく自由に自らの作風で仕事している。生涯通して写実の世界に生きる人、童画風の世界の人、抽象絵画の人、アンフォルメルの人、また、実験的な世界を絶えず追っている人、それぞれが自由である。「古くさい」、とか、「いまどきこんな」、とか言う人はいない。評論家も言わないし、画家仲間も言わない。文学でもそうだろう。なぜ音楽だけ、こんなことになるのか。多分、余りに抽象的だから、どれもまとめて同一の座標の上に並べやすいのだろう。文学では、何より、雑誌の数が多い。五つ六つくらいある。そうなると、それぞれが特殊な価値観で編集していても、ほかに違うものがあるから相殺され均衡がとれる。それに批評される側も文筆の専門家である。同じ手段を持っているし、紙面の確保も容易である。

 もう一つの重大な事情。それは日本作曲界の思想的未熟さである。共通の価値観というものが形成されていない。歴史が浅い所へ、戦後急に外国の現代思想が流入したため、基本が出来る前に未熟児早産状態になった。自分が駄目だと判断したものは、根底から全面否定する。相手もまたしかり。これでは殺しあいである。そして力の強いものだけが生き残る。
 30年程前から私は外国の同業者と親密に交際するようになった。ドイツの人が多いが、外国の人との交際は、やはり相手国の母国語で話さないと相互に心を開きにくい。英語ではだめである。ミュンヘンの人、ベルリンの人、飲み友達になって話あうと、彼等の価値観がいかにもおとなであることが次第に分ってきた。前衛、保守、中道、それぞれあちらにもある。しかし、自分と違う相手を全面否定することはない。根底に、どんな作風であろうと出来のいいわるいがある。肝心なのはそのことであり、路線の問題ではない。そんなことは当り前のことのように思われるが、その当り前が通らなかったのが日本の作曲界であった。外国の友人たちの話から伝わることは、古典も保守も前衛も、それぞれ同じ血筋から生まれた血縁であること、彼等はその前提で行動していることである。古典音楽と現代音楽も親と子のようなものである。子が親に背くこともあろうし、兄弟対決の場もあろうが、所詮は家族内のことである。他人とは違う。
 党派性という言葉がある。「公平公正を期していては現状は何も打破できない、ある立場の主張で突破した方がいい」、という考えである。これは、社会が成熟の極に達している場合にだけ通用することである。フランスでは、新聞はそれぞれの政治的立場を明確にしているそうである。保守系、革新系、中道系、そのまた中間各派、読む方ははじめからそれを承知で読むからそれでいいという。それには、各立場を代表するだけの数が揃っていなければならない。そして読む方もそのことを充分心得ていることが必要である。これには永い歴史が要るだろう。

 こうした、背後にある思想の推移は、音楽評論、芸術評論の分野のことだけではなかった。政治社会の一般思想と連動していたのである。次回はこのことについて書く。

 

2006.7.28.曇 町田

 「音楽芸術」という雑誌は六、七年前に廃刊になった。つぶれたのである。目出度いことだ。戦後日本作曲界の歴史に特筆すべき慶賀事である。死滅することによって社会に貢献し人を喜ばせるのだから凶悪犯罪者なみである。事実この雑誌の行為は犯罪といっていい。戦争犯罪人という言葉があるのだから文化犯罪人という概念があってもいい。

 ただし、「音楽芸術」は以前からこういう雑誌だっわけではない。この雑誌は古くからあった。終戦直後、まだ私が中学生だった頃すでにあった。当時から専門的で難しいことが書いてあったが。「音楽芸術」は、ある時期までは、色々な立場、流派、考え方の人たちに公平に機会を与え、有意義な文や論争をおこし、付録には注目される日本の新作の楽譜をつけるという編集をしていた。この時代のこの雑誌は多大な貢献をしていたのである。このことは認めておかなければならない。

 紙面が変化したのは、通称「自称前衛」派で凝り固まるようになってからである。1960年代ではなかったか。当時の風潮で旧体制が崩壊して新しいものが始まるという世相が反映したのかもしれないが、何があったのか分らない。それからというもの、「自称前衛」の溜まり場となった。作曲というものは孤独な行為である。他人の言動に作用されるな、といってもそこは人間である。誰も頼りにならない孤独な場では他人の風評はどうしても気になる。かのドビッシーですら、新聞の批評を気にして作品を一部改竄したそうだ。アンセルメが来日した時そんな話をしていた。
 「自称前衛」が何をやろうと、彼らにも活動の自由があるのだからかまわない。しかし、排他的で自分以外のものを排撃否定するようになると有害になる。そして、評価、判断を下す活字出版物と結びつくと、とんでもない公共的加害者となり破壊者となる。その出版物も同様、犯罪者的存在となる。
 現代、世界的規模で「現代音楽マフィア」という言葉が使われている。このことを知らないのは世界のいなかで、お人よしの日本人だけである。特定の流派、「自称前衛」派が、雑誌、放送、事業、を乗っ取り、排他的で独占的な体制を作り上げるのである。欧州各国にあるしアメリカにもある。アメリカは比較的自由である。欧州ではイギリスが一番ひどいという話を欧州の人から聞いた。海外から伝えられてくる情報もマフィアの発信だから、作品、作曲家とも、マフィア仲間たちのことばかりである。事情を知らない日本人は、それがそのままその国の事情とは受けとるが、とんでもない、マフィアでない人や作品は存在しないかのごとく無視される。ある時期から日本にもこのマフィアが結成された。国際マフィア日本支部である。「音楽芸術」は「国際マフィア日本支部」機関誌になった。しかし、この天を怖れぬ所業にはやがて神罰が下ることになる。読者の関心を無視して自分たちの好都合なことだけで紙面を形成していればどういうことになるか。読者の減少、すなわち業績の悪化である。神罰は下った。彼らは自分で自分の首を締めたのである。

 しかし、一時なりとも「自称前衛」はなぜ通用し繁栄の様子さえあったのか。このことも説明しておかねばならない。一般の人にはここの所をよく知ってほしい。

 訳の分らぬものを価値あるものと称して売りつける商売は昔からあった。安物の壺をだまして高い値で売りつける、新興宗教がからめば、こういう売り口はもっと増える。正体が分らないから何とでも値段がつけられる。「いまは理解されにくいが、未来は必ず価値を認める、すぐれた芸術はそういうものだ」、式の売り込みをする。この手口は、よく考えてほしい、買い手が業者仲間に限られる。コンピュータ用語でいえば、B→B、BtoB、「業者から業者へ」のパターンである。すなわち、放送、出版、新聞、雑誌、それに音楽会などの企画のスポンサー筋に買わせる。ここにC、すなわちコンシューマー、消費者がいないことに注目されたい。B→C、BtoCではないのである。業者仲間は景気がわるくなれば売れぬものは買わない。消費者であれば、不景気でも本当に欲しいものは買い続ける。消費者そっちのけの「業者間取引」を続けた結果がこの自殺行為となった。
 何年前になるか、サントリー・ホールでの現代音楽の公演で、フィンランドだかの作曲家、サーリアッホとかいう人の作品が演奏された。プログラムによると将来を期待されている世界的逸材だそうだ。しかし、曲の方は、無調と不協和音の連続で、何がなんだか分らぬものだった。こういうものに未来の価値あると売り込むのだから、使い物にならぬ原野山林を将来値が出ると売りつける不動産原野商法と同じである。なんでこんなものが人前に出て来るのか。業者間取引の結果である。取引には仲介業者が要る。それが評論家である。取引が成立すれば成功報酬が出る。次なる原稿依頼である。
 こういう行為の弊害は、作曲家たちがおかしな風潮におかされることだけではない。一般の音楽愛好者に現代音楽について好ましくない観念を植えつけてしまったことである。人々は、「現代音楽」と聞くと「また、あの音か」、とはじめから嫌悪敬遠してしまう。このことが作曲界の発展成長のためにどれだけ有害なものを残したか計り知れない。文化犯罪というのはこうした結果への責任を問うからである。
 話は別だが、「音楽芸術」という雑誌にはほかにもおかしなことがあった。ドイツ、昔の西ドイツに「MELOS」(めろす)という雑誌があった。これが「自称前衛」の推進雑誌だった。ハンス・メルスマンという人が途中まで編集していた。このほかに「Neue Zeitshcrift fur Musik」という雑誌がいまでもある。これは、Robert Schumannが創刊した雑誌である。「Melos」が確か廃刊になってNZに吸収されたか、そんなことがあった。この雑誌NZも前衛趣味だったが、がある時からクラシックの記事評論も載せ出した。ロベルト・シューマンとかムソルグスキーなどである。微妙な路線転換である。それと期を一にして「音楽芸術」も同じような路線の微調整転換が起こった。私は事情を知らない。この二つの雑誌の裏に誰かフィクサーが居たのだろうか。「MELOS」から「NZ」までドイツの雑誌をを定期購読していた人は日本ではそう多くないと思う。読んだ人の推理にまかせる。この話、まだまだ続く。

2006.7.27.
曇 町田

 自作の評価が、自分自身の評価より他人の評価の方がいい、つまり、自分でよくないと思っているものを他人が誉めてくれる。この場合の評価の「ズレ」、これは誉めてもらうのだからメデタイ方の話で「プラスのズレ」である。こういう時、人間は身勝手なもので、誉めてくれるのだからよかったのだろう、と有難い評価の方を頂戴してしまう。しかし、反対に、自分がいいと思っているものが、誉められない、それどころかけなされる、これはマイナスのズレ、「逆ズレ」である。

 私の場合、けなされた場合は少なかったが、もっと誉められてもいいのに、と思ったことはあった。しかしこれはもともと身勝手な話で、もっと誉めろ、というわけだから、そう好都合にはいなかいのは仕方がない。ただ、許し難いことがあった。このことを書いておく。

 私の中期のピアノ曲に「Tapestry」というのがある。四十歳台のはじめの曲で五年くらいかかったそれまでの集大成である。20分くらいの大曲である。深沢亮子さんによって国内国外でよく演奏された。全音から出版されたので、ほかの人もひいてくれた。外国の人もひいてくれた。出来については、いまも欲は出るが、あの曲はあれで一つのまとめだから、あれ以外の出来は不可能と思っている。美学が違えば評価に多少の違いは出るのは仕方がないが、しかし、とにもかくにも、全身全霊をかけた大作である。
 「音楽芸術」という雑誌が年間の作曲の総評のための座談会を組んだ。その中で、この曲を揶揄した者がいた。からかったのである。幾つか、からかいの言を吐いて、「古くさい」、「ショパンのような」と言った。そのあとに(笑)と書いてあった。この(笑)は出席者全員の笑いとして紙面は出来ていた。この発言者は秋山邦晴という男である。すでに亡くなったが、この人物によって日本の作曲界はどれだけ損害を受けたかわからない。この男がいなければ、日本は見違えるような優れたいい音楽を持っていたのである。美学の基準が違うとはいえ、いい加減な態度で作った曲ではないことは誰にも分るはずである。秋山もそれは分っていたと思う。この座談会が載った号が出る少し前に、同じ「音楽芸術」紙上で、私はある人と論争をした。その相手とのからみ、それも直接ではなく間接の間接のかかわりで秋山は私に私情私怨を持ったのたのであろう。事情を知っているものにはすぐ分った。しかし、知らぬ読者はそうは思わない。その通りに受け取る。問題はこんな人物と発言と文を平然と掲載する雑誌である。
 まだある。秋山だけではない。この座にいて、「(笑)」に加わった評論家の一人が、その後、この曲がある場所で演奏された時、プログラムに解説を書いた。その文でこの曲を誉めた。これはどういうことか。この人物の文筆家としてのモラルはどうなっているのか。名前を出してもいいが、それほどの価値もない男なので書かない。こんな者にかかわるとこちらの品位まで下がる。日本の作曲界はこんな道徳欠落の言論機関によって、ほしいままに蹂躙されていたのである。
 私が「音楽の世界」という雑誌にかかわるようになったのは、このすぐ後である。こんな状態を許してはならないと思った。文字と活字、これは武器である。音楽家の方はこの二つの武器を持たない。武器を持つ方が持たない側を面白半分に攻撃する。やりたい放題に攻撃する。自分も、自分たちも武器を持たねばならない。活字は権力である。時に暴力にもなる。そして公共性を持つ。権力を行使する者は当然自制しなければならない。私は「音楽の世界」で10年以上編集長をつとめた。まず第一に心がけたのは、下らぬ評論家に反撃することではなく、批評の公共性を確保した格調ある紙面を作ることであった。このことを何より優先した。この「音楽芸術」の「座談会」の場合も、もし私が編集長であったら、原稿が上がってきた段階で、出席者一人一人に電話して説明し、この部分の削除か書き直しを提議した。事実、そのような場合が「音楽の世界」の編集でもあった。私はそうした。余りに、不謹慎、非礼、誹謗、に類する言動は当然掲載を留保するものである。それが編集者としての義務であり道徳である。
 ある時、「音楽の世界」紙上で二人による論争があった。二人は次第に激してきた。その内、一方から送られてきた原稿が余りに過激で個人攻撃に類するものだった。私は執筆者に長文の手紙を出した。この文を掲載すれば二人の間に修復不可能な不和が生ずるだろう。反面得るものは期待できない。返事が来た。了承した、自分も激していたのでその通りと思う、とのことだった。これが編集者の仕事である。

 あんまり長くなったので、この先は次にする。まだまだ書くことがある。

2006.7.25.火 雨のち曇 町田

 
コンクールの時のことをもっと書いておこう。アホウな話だが、書いておかないと、こんなことも誰も知らないまま消えてしまう。青春のひとこま、こんなこともあるか、という話である。

 1954年、昭和29年の10月か11月か、日比谷公会堂で本選会が開かれた。私は24歳である。前に書いたように、自分には恐ろしく悪い出来に思えた。身も世もあらぬ思いで公会堂から飛び出すと、なぜか虎ノ門方面に向かって走った。気がつくと国会議事堂前にいた。それからとぼとぼと歩いて、気がつくと四ツ谷にいた。上智大学の前にベンチがあったので、そこに座った。10分か15分くらいそこに居たろうか。自分の音楽への道は終ったと思った。これからの人生をどうしようと思った。親に見せる顔がない。明日友人たちになんと言うか。本気でそんなことを考えた。多分、当時はまだ地下鉄丸の内線がなかったと思うから、中央線で新宿まで行き目白に帰ったのだろう。地を這うように下宿に入り、天上裏の部屋に滑り込み寝転んだ。これが多分、9時か9時半頃だったろう。当時は、夜10時のラジオニュースでコンクール審査の結果を放送したものである。10時になった。死刑宣告の時である。通常のニュースの項目が終り、「NHKと毎日新聞社共同主催の第××回音楽コンクール作曲部門の本選会が今日日比谷公会堂で開かれました。審査の結果次のようにきまりました。第一位、助川敏弥作曲・・・・」耳を疑うなどというものではない。死刑の宣告が中止になり、反対に表彰された。それからのことは覚えていない。誰か入って来たようにも思う。もし来たとすれば、多分、山本直純か岩城宏之だったろう。翌日は、お目出とうの連続で、交番のお巡りさんまで敬礼して祝いに来てくれた。

 人間というのは都合のいいもので、自分は悪いと思っても他人や世の中がほめてくれれば、そんなものかと有難く戴いてしまうものである。しかし、自分の評価と世間の評価がここまで食い違うとはどういうことだろう。その時は有難い方を戴いてしまうが、心底ここの所は今もなかなか分らないのである。自分にきびしいのはいいことだが、ものには程度がある。ここまでずれると自分の評価の仕方というか、自分を知る知り方に少しおかしな所があるのではないか。作曲をしている時、自分とは違った価値観の人間に変容しているのではないか。そんなことも考えてしまう。結局は自分を把握していないことになる。
 卒業作品の「弦楽四重奏曲」は海野義雄君の四重奏団が卒業後もとりあげてくれて、彼らの定期公演で何度も演奏してくれた。日比谷の第一生命のホールでの演奏の時だった。またまた自作を嫌悪するようになった。バルトークのあやかりが余りに目立つのである。作曲している最中は夢中だから気がつかないが、覚めてくると酒から覚めるようなもので、そのことが気になり出した。会場に高橋悠治が居た。「自作がいやだ」と言うと、高橋は、はじめは普通に聞いていたが、その内に「そこまでいやというのはおかしいぞ」と言う。確かにそうである。てれるは当り前だが、度を越すと価値観に一貫性がない異状なことになる。自分で自分が分らないことになる。これは誉めた話ではない。また大変自分で困ることである。しかしこのことは、経験を重ねるにつれて解消していくようになった。作曲中から、あとで振り返って自分がどう思うか、充分に考えながら進めるようになったのである。さてところが。

 こまでは、自分が悪いと思ったものが誉められるという目出度いプラスの話だが、これが逆転することがある。自分がいいと自信を持っているものが余りほめられない、マイナスの「逆ズレ」である。これは熟練するに従って発生するようになった。次にそれを書く。



2006.7.24.
月 雨のち曇 町田

 
今日も朝から降っている。ひどい天気。九州の方ではずいぶんと被害が出ている。こんなことはめったにない。天災である。

 「Passacaglia」について昔を思い出す。原曲は24歳の時のコンクール応募作である。生まれてはじめてのorchestra曲、しかも大曲。無謀というか無茶というか、初心者がはじめて未経験の高いけわしい山に登るようなもの。遭難しないで帰れただけ目出度いようなものである。まさか入賞するとは思ってもいなかった。山田一雄先生の指揮ではじめて音にしてもらった時も、大型飛行機が設計ミスで離陸できずに滑走路を這いまわっているように聞えた。これが受賞できたのは、いいものを見出してださった審査員の先生たちのおかげである。しかし酷評もあった。「芸術新潮」では、「今年のコンクール作曲部門は内容豊かな作品がなかった。ことにorchestra曲でその感が深い」、と書いた批評も出た。自分でもそんなものだろうと思ったので別に不快も感じなかった。
 それから、五、六年たって、NHKの國際放送で放送のため録音しなおすことになった。1960年のことである。現在残っている録音はこの時のものである。この時も指揮は山田先生で、orchestraはN響から東フィルに替わった。この時は音楽の印象がずいぶんよくなった。山田先生も、「おれも、もっとどうしようもない曲だと思っていたが、よくなったな」と言われた。orchestraが現代曲になれたのだろう。この数年でずいぶん世の中も変ったのだろうと思う。昔のNHKの第一スタジオだったが、調整卓の前の技術の人が二人、「たった八小節のテーマだけで15分もたせるんだから、たいしたもんだな」、と語りあっていたのが聞えた。別に喜ぶような心境ではなかったが、なるほど、そういう評価がりあうるのか、と他人事のように聞いた。確かに、情緒的なものはゼロに等しい。しかし、理詰めで音楽を大きく仕上げてやろう、という意気込みだけはあったから、評価してくださった審査員の先生たちはその点を見抜いてくださったものと思う。有難いことである。なかなか自分で自分の評価はしにくい。

  
 亡くなった入野義郎先生も若い時から構成的な作風の人だった。若い作品に対して、師匠の諸井三郎先生が語ったそうである。「入野君の作品は骨ばかりのように見える。しかし、それでいいのだ。若い時は骨を丈夫に育てることだ。骨が丈夫なら肉はあとからついてくる」、と。肉とは情緒的なもののことである。いま、弟子を指導しながら自分も同じ考えで教えている。

2006.7.23. 日 曇 町田

 
七月に入り、日照時間が極端に少ない。異常気象。今日もかろうじて降らずの感。

 
音楽事務所から記念公演のCDを送ってきた。いい音質で入っている。ライヴそのままだから、曲の間がそのまま長く入っている。出演者が登場してから音を出すまでもかなりの間合いとなる。自分でMDに移して間合いの短縮編集をする。時間がかかる作業。CDを複製してもらうのだが、もとのDATには自動入力で曲間コードが沢山入っているそうだからこれを削除しなければならない。手がかかる手順。出演者にはとりあえずCDからそのまま移したMDを送った。「Passacaglia」は、長いので区分のコードを入れた。そのために、演奏後はじめて楽譜と照合しながら聴く。モンスターじみた曲だ。 

2006.7.19. 
水 雨 町田

 昨日も今朝も、雨しとどに降り続く。ここまで降ると陰欝。毎年、梅雨の終りの定型だろうが、いいかげんにしてほしい。

 ショパンの講座の準備に専念。作曲者の生きた時代の背景を調べる。この時代、19世紀の前半は欧州諸国は激しい活動期にあったことが見えてくる。海外への帝国主義、植民地拡大、そして、それと相反する、国内での自由民権運動の興隆。アヘン戦争もこの時期だ。そして、アメリカでの奴隷廃止運動、ロシアでの農奴制廃止の動き、イギリス、ドイツでの少年労働の規制、いまの労働基準法の始まりみたいなものか、こんな相矛盾するような動きが同時進行している。こうして見ると、人間の活力の興隆は、方向如何よりも自然エネルギーのように盛り上がるものらしい。道徳は事後にその方向づけをしていくもののように思える。この時期、音楽の方も、ショパン、シューマン、ワーグナー、ロマン派の全盛期である。これは何を意味するか。人間活動の興隆期、つまり夢多き時代ということ。人は夢を見る生物である。現実には存在しえない、あるいは、まだ存在しないものへの憧れ、期待、実現への意欲、そんなものがあふれ出るのだろう。マルクスが「共産党宣言」を発表したのは、ショパンがパリで息をひきとる前の年であった。この年、カリフォルニアでは金鉱が発見されゴールドラッシュが始まった。「1849の人たち」、「フォーティナイナー」と呼ばれる人たちが幌馬車を連ね西部へ殺到した。その馬車のわだちの跡がいまも残っているそうだ。ショパンがパリ市内ヴァンドーム広場に面した一室で最後の時を迎えようとしていた頃、アメリカ西部の渓谷では争いの拳銃音が鳴り響いていた。そして、その僅か四年後、日本浦賀の沖にペリー提督のひきいるアメリカ艦隊が姿を現わした。黒船である。
 西洋だけかもしれぬが、歴史は青春期だったのだろうか。その見方をすれば、いまの新興諸国はまさに青春期かその前夜であるだろう。しかし、興隆期といえども、文化の蓄積がなければ活動の始めようがないのかもしれない。


2006.7.17. 月 朝から雨混じり 町田

 
悪天だが、ここ数日の炎暑はいくらかまし。ここ数日、冷房のきいた屋内から一歩外へ出るとボイラー室に入ったようだった。
今朝、郵便局へ行こうとしたが、ふと気がつくと今日は休日。「海の日」とは何を意味するものか。三連休とあり、郵便物が届かないし送れない。明日を待つほかなし。

 自分の「年譜」を見ていて思うことが多い。団体の運営に30年かかわり、これは貴重な体験だった
あの当時は内紛が多い団体でその中で相応の責任ある地位をまかされ、社会勉強をした。一番貴重な認識は、妥協ということの大切さということだった。普通、妥協はよくないことのように思われるが、実は、この世のことは妥協がなければ何事も進まない。そして、妥協となれば、何が大切で、何が比較的妥協してもいいことか、そんなことを確認することにもなる。自分が主張することがどういう内容と構造を持っているかを自分で知ることになる。自分を知る、という作業でもあった。自分の主張も重要度においてグレードがあるのだ。

 音楽に限らず、芸術にかかわる者は一人天下の世界にいる。こういう経験をしなければ他者の存在を前提に自分を知ることはなかったろう。相手にも言い分はある。自分だけで社会が出来ているわけではない。ゆずることがあってはじめて何かが実現する。有用な人物とは妥協が出来る人であることである。相手が妥協できない人物の場合は、話がまったく通じない。

   忘れていたが、今年はD.ショスタコービッチの生誕100年の年である。生前はかならずしも評価が一定していなかったこの作曲家は、いまになってみると、稀有の天才であったとの感が深い。ことに、独裁政治との闘いの中で、いかに悲痛な想いに堪えながらの生涯であったか、胸が痛くなる。自分の作品はすべて墓標であると語ったというこの人。今年はモーツァルトの記念の年であるそうだが、もっと身近な時代にこれだけの悲劇の天才がいたことに、私たちはもっと関心を持つべきではないか。

 
2006.7.13. 木 曇ときどき陽光 ひどく蒸し暑い 町田

 
こんどはさすがに疲れた。本番数日前から心臓が苦しくなった。自分自身か何も演奏するわけではないのだから、疲れたり緊張したりする理由はないのだから、おかしな話だが。しばらくは楽譜を見ることもしたくなかった。それだけ関心がある一点に集中していたのだろう。

  ようやく、昨日あたりから楽譜の手入れを始める。初演曲ははじめて演奏してもらうことによって、速度指示や表情指示を修正する部分が出来てくる。コンピュータ上の楽譜に修正部分を打込み直す作業をする。{白いつばさ」、「SPICA」、「Passacaglia」、それぞれに修正がある。区別するため、表紙に・・・・version、という書込みが必要だろう。
 今回は楽譜がよく売れた。「白いつばさ」、「山水図」、「KOMORIUTA」、それに「助川敏弥ピアノ曲集」、それぞれ五冊ずつ展示したが、「ピアノ曲集」一冊を残して全部売れた。「ピアノ曲集」は当日演奏の曲が入っていないから無理はない。CDもよく売れた。「おわりのない朝」、「「山水図」を含む日本ピアノ曲集、松下佳代子さんがドイツから出したCD、それに自家製の「助川敏弥・電子音楽集」、これらも、それぞれ五枚ずつ展示して二枚を残して売れた。

 今日は橘川君が来るが、本番以来はじめて。残念ながら、彼の都合で早めにひきあげるそうだ。

2006.7.11. 火 曇ときどき陽光

 
昨日も今日も同じような天候。降らないだけは一般人には有難いが。雨をもとめる人たちもあろうから、そうとしか言えない。天気予報が余計な感情移入の説明をすることはよくない。

 三岸孝太郎、節子、夫妻とは不思議なつながりを覚える。孝太郎は、自分の生地を、石狩ルーラン海岸、と書いている。実際には彼は札幌市内薄野の生まれである。何を思ってかような表現をしたのか。ルーラン海岸は実在し、絶壁が海に落ちる荒涼たる海岸である。そして、私の作品「風のうた」にも、こういう光景を想起する波の音と風の音を描いた場面がある。何故かこういう地と光景に憧憬があるのだ。同郷の先輩であり、中学の先輩でもある孝太郎と共有する何かがあるのだろうか。節子の最後の作品「桜」に不思議な共感を持つのも同様。節子は北海道の人ではないが。

 
こういう発想の上に立つと、このところ自分をなやませていた無調への衝動は何故か消えていく。「桜まじ」のような感性と叙情にそのまま従った楽想が自然に浮かび上がってくる。創る者は生きている間、前へ進むほかない。

 「記念演奏会」には、期待した人が来てくれなかったこともあるが、反対に予想もしていなかった人が来場してくれた。札幌からわざわざ訪れてくれた新妻博先生、そして、別に建築家の梶田清尚さん、こういう人たちには感謝のほかない。それから、札幌一中時代の級友、M君、これはまったく意外であった。彼は、いまは定年で引退したが、室蘭に本社がある大手総合商社の社長だった。友情に厚い、そして義理堅い人柄に感じいった。お互い、わんぱくだった中学生時代から半世紀以上を経て、人生の終盤にいたり、人生経験の厚みが出てくるのであろうか。

2006.7.10. 月 曇
ときどき陽光

 
数日かけて礼状の印刷投函する。

 ようやく、放心の中で平常に少しずつ回復する。
 若い時、政治や実業にくらべて芸術なんて実在性のないめめしい仕事だと考えたことがあった。しかし、今はそう考えない。人は何のために生きるのか、いや存在するのか、どこから来てどこへ行くのか、そう根源的な問いを考えると、すべて同じではないか。物質界をあやつる政治や実業に何の意味があるか。ならば、魂の仕事をすることに何を卑屈になることがあろうか。
 喜寿の記念公演を終えて、残された日々、何をすべきか。天才画家三岸孝太郎は私の旧制中学の先輩である。孝太郎は31歳で夭折した。夫人節子は94歳まで生きた。節子91歳の時の最後の作品「桜」、100号の巨大な画布に描かれた爛漫たる桜、妖気するただよう絵である。自分もまた、節子にならって「桜」のような作品をこれからの時をかけて取り組もうかと思う。公演が終って疲労と放心の中でそんなことを構想する。

2006.7.8.
土 曇

 
ようやく三日過ぎて平常の心理と活動力が幾らか回復してきた。

 演奏会本番の五日は早朝、北朝鮮のミサイルの祝砲で明けた。有難き幸せである。こういうとき、秘密主義の独裁者が奇妙に有能な人に見えるもので、そういう論調を語る人が何人かいる。アメリカ、日本などの反発は織り込みずみだとか、それを見越してその先を計算意図したものだ、とか。愚かな見方である。人は神ではない。結果を織り込むなど人に出来ることではない。歴史を見よ。織り込んだはずとは違った結果になり、それが戦争になったり国を滅ぼしてきたではないか。日本が真珠湾を攻撃した時、日本が織り込んだはずの予測は的中したか。北朝鮮が朝鮮戦争で韓国に攻め込んだとき、米軍の仁川逆上陸を織り込んだか。ヒトラーがソ連に攻め込んだとき、スターリングラードの結果を織り込んだか、近々のことでも、アメリカがイラクに攻め込んだとき、現在の泥沼テロ状態を織り込んだか。それが人間のちからの限界なのだ。つまらぬ過大評価ほど愚かなことはない。独裁者というものは超俗的な能力の人のように見えるのだ。アドルフ・ヒトラーも、ヨシフ・スターリンもそうだった。、金正日も。
 日本では、これで安陪官房長官の次期総理総裁は決まりとなった。アジア外交強硬派だからだ。「柔軟派」の福田氏はこれでつぶれた。「北」は、一番歓迎しかねる人を応援してしまった。馬鹿者のやることはいつでもこういうものである。

 「北」に制裁しても余り効果がない、としきりに言う人たちがいる。これも間違いである。
制裁は戦争ではない。相手をぶっ潰すことが目的ではない。「困らせる」ことが目的である。日本が物を売らなくても中国経由で入るという。しかし、そうすれば中間マージンが必要だから、値段が高くなるではないか。時間をおくから品質もどうなるかわからない。近くのスーパーから買えなくなったが、一駅先に別な店があると言ってもいちいち買いに行くのは不便である。この不便さを強いるのが制裁である。國際政治の自称専門家がこんなことも分らないのか。

2006.7.7.金 曇

 
終った。あれから二日、ようやく気持ちが少し落着いた。三人のピアニストはすばらしい演奏をしてくれた。来場したお客さんたちもとても喜んでくれた。人生の最良の時の経験であった。心臓にだいぶ圧迫を感じていたが、すべては、よき日までの過程である。最後の「パッサカリア」、怪物じみた巨大作も宮谷理香さんの渾身の熱演で生命をあたえられ、会場は最後まで緊張感が持続した。

 作曲した当人にとっては、何故こんな怪物じみた曲を自分が作ったのか、自分は何者で、どこから来て、どこへ行こうとしているか、そんな、自身の存在についての根源的な思いも胸の中に湧いてくる。ジンギスカンは地の果てまで征服をやめなかった。何が彼の中でそれをつき動かしていたのか、他人ごとみたいな言い方だけど、自分の中で何がそれをさせたのか、神秘的な想いにとらわれる。これはいつわらざる現在の心境である。これは、人生の終局の想いと結びついている。「戦場にかける橋」という映画で、アレックス・ギネスが扮するイギリス軍の将校が、「自分は、自分の人生が終りに近づきつつあることをこの頃感じる」、と告白する場面がある。実際、その後間もなく彼は死ぬのだが、私はこの曲に何者かによって駆り立てられている間、そんな実感がどこかにあった。人を超えた、何か、大きなものの意志に自分は命じられていたような気がしていた。

 この演奏会が実現したのは多くの人々の善意の協力応援があってのことである。自分は身の程を超えた幸せ者であると思う。
 天に感謝。地に感謝。人に感謝。これが私の思いである。このサイトを読んでくださる人たちにこの想いを伝えたい。


2006.7.4.火 曇ときどき陽光

 
いよいよ一日前となった。諸事万端用意はできた。最後の時間になって幾らか度胸が出来てきた感あり。自分より出演者の方がはるかに負担感が重いはず。ここで自分が圧力を感じるなどと言う資格はない。

 
どうも政治に関心が向く。社民党の土井たか子元党首は、北朝鮮の拉致が露見した時、記者団に問い詰められて、「ちからが足らなかった」と言った。卑劣なごまかしである。ちからが足らなかったのではない。社民党かその前の社会党か、北朝鮮による拉致はありえないと言っていたのだ。「それは反共的意図からする宣伝だ」、と言っていた。「ちからが足らなかった」のではなく、反対のことをしていたのである。足らないとは量の不足である。しかし、量の不足ではなく、目指していた方角が違っていたのである。方向が違っていたことを量の問題とすりかえた。それも、記者会見の中では答えず、逃走しようとして、記者団から追われて問い詰められた結果の答えである。社会正義を声高にとなえる日頃の道徳はこういう時どうなるのか。ソクラテスは言った。「人間にとって最もたやすいことは他人を責めることだ」、と。辻元清美氏が鈴木宗男氏を問い詰めて、「あなたは疑惑の総合商社だ」、と断じた。その後まもなく、自分が疑惑を持たれ、証人喚問されることになった。最もたやすいのは他人を責めること、「最も難しいことは自分を知ること」、これもソクラテスの言葉の続きである。

 「われこそは正義の味方」、と大きな声でとなえる人を信用しないことにしている。自称「民主勢力」、「不正をただす」派の人たちは信用できない。

2006.7.2.日 曇のち小雨

 
昨日も今日も、天気予報はおおはずれ。曇ではあるが降らないと言ったのに、その30分あとから降りだした。

 
歴史の道順の過程では別の選択が出来たか。これは重大な問題だ。敗戦までの日本がたどった道をいいとはいえないことは当然である。しかし、それでは、どこで、どうすればよかったか。そこまで研究して探らなければ無意味より有害である。反戦平和を叫ぶ人たちは、ことあるごとに「過ちを繰り返すな」と言うが、繰り返さないためには、過去のどの地点に、どのような選択の可能性があったか調べなければ、ことは進まない。それをしないから、戦前のものは全部否定になる、道徳教育も反対、反社会的行為の取締まりも反対、という結果になる。

 日本は明治で民族的高揚期に入った。日清、日露の勝利もその結果である。こういう時の国民的高揚はすさまじい力を持っているもので、誰も押しとどめることは出来ない。そう私は思う。これは近世スペインの歴史から知った。そして、その高揚期の最中に1930年の大不況である。日本だけでなく、ドイツ、イタリア、スペインが相次いでファシズムの道に入り、やがて世界は第二次大戦へと走った。まずい折に、まずい事が起こったのである。ドイツ、イタリアもまた19世紀後半に国家統一をなしとげて、国民的高揚期に入った。日本の明治維新とほぼ同期である。盛り上がったところに不況という行詰りの障壁が立った。当然、そのエネルギーはどこかへ暴走する。こういう力学的経緯が歴史を造ったのである。歴史の点検は、こうした構造的内部まで至らねば有用ではない。

 それではどうすればよかったか。大不況は日本が造ったものではない。外から来た災いである。1930年代の後半、日本はどうすればよかったのか。この問いが解明されなければ、敗戦までの歴史の否定は無意味である。政治的な色がつかない専門家による真摯な研究を知りたい。結果は仮説でしかないが、それでも必要である。

 いま、北朝鮮は愚かとしかいえないやせ我慢を通している。この国の最大の不幸は負けたことがないことである。こういう愚かさは負けなければ直らない。馬鹿は死ななきゃ直らないのである。不可避であったとはいえ、不幸な道筋をたどった他国の先例を知ることによって、こういう国も幾らかでも賢い選択が出来ればいいのだが、無理だろうな。人はそこまで賢くない。北朝鮮に限らず。


2006.7.1.土 曇のち小雨

 
昨日は、五日当日の打合せで新宿で道下さんと会う。

 当日の開演前の対談。これもまた考えるとなかなか難しい。限られた時間に何を話すか。それも開演前の気分に沿った話でなければならない。あくまで演奏会全体の構成要素の一つとしての役割を適切に演ずるものでなければならない。
 雑誌「音楽の世界」は私の特集をしてくれた。まことにかたじけない。出る前は気恥ずかしかったが、出来てみるとよくまとまっている。後輩に感謝。多くの人の好意によって現在の自分があることをしみじみと思う。

 この話とは関係ないが、人は神ではない、このことを全ての前提に置くことでその後の考え方がずいぶんと変ってくるのではなかろうか。神ではないから完全ではありえない。他人の不完全を責めるにも、寛容になるというわけではないが、対応の仕方が少し違ってくるのではないだろうか。社会正義を推進することは立派なことだが、人を神と間違えると、不完全さが見つかるごとに怒ることになる。怒ることは必要なことでもあるのだが、完全ではないことがけしからんとなると、どこかに、その原因を造っている「犯人」がいることになる。そこから「犯人」捜しが始まり、真犯人かどうかまだ定かでない相手まで犯人として告発攻撃することになる。神ならぬ人の世が完全であることは永久にない。ないから、「犯人」捜しは永久に続く。続くし、真犯人かどうか定かでないものにまで攻撃を仕掛けることが永久に続く。完全な円形が出来ないにかかわらず、円が完全でない理由を捜し、「こいつが悪いのだ」と誰かの襟首を掴まえて摘発告発する。どんなに犯人捜しをしても、また、それが仮に真犯人であるとしても、円は完全にはならないだろう。
 こうした誤りをもたらした遠因は唯物論である。唯物論は神を否定した。神を否定すれば人が神の座に着くことになる。そこから全ての誤りが生まれる。こういう思想の人たちは革命後かならず内部抗争を起して内ゲバになる。革命後といわず、運動中でも内輪抗争が起こる。神でない人の不完全さが許せない。もっとわるくは、無意識か意識してか、気に入らぬ相手を抹消するために、この不満の原理を使う。


 
TVで「戦国自衛隊」を見た。20年前のもののリメーク版。やや、話が複雑になっている。映画の出来とは別に、歴史をやりなおす、という課題には興味を持った。近代の日本がたどった道、日清、日露から太平洋戦争の敗北まで、帝国主義と侵略と断罪される道のりがほめられたものではないことには異論はない。左翼よりの人たちは声高にそのことを叫ぶ。しかし、それでは、歴史のどの段階、どの時点で別な選択肢を選びうる可能性があったか。これもまた、人は神ではなく、どうすることも出来ない運命をたどるほかない存在であることの示唆である。その可能性を指摘できるなら、反省は有益だろう。出来ないなら、無意味な自己否定ではないか。

2006.6.30.金曜 晴 町田

 
晴とはいいながら、ひどく蒸し暑い。それでもじめじめ降るりはマシか。

 
今日で六月も終り。演奏会まであと五日となる。
 当日は含まぬとすれば、あと四日。今日になって、手紙に現金を入れて券を買ってくれる人がいる。こちらが遠慮して売り込まなかった人。かたじけない。

 昨日は、北朝鮮から横田めぐみさんの夫といわれる人の記者会見があった。「北」からのニュースは耳に入るだけで不愉快だ。ウソで塗り固められたシナリオを練習の通り読みあげる。それが丸出しで分る。こんなことまでしなければならないあの国の権力はみじめだ。人の感情までもてあそび、政略の道具にするこの国。この国の罪業は、もしかしたら、ナチス・ドイツ、軍国日本、スターリンのソ連、のどれよりも深いのではないか。彼等犯罪集団である。こんなものは政府でもなければ国家でもない。半島北部を支配する稀代の犯罪集団だ。

2006.6.24.土曜から6.29.木曜まで

 昨日は曇りから次第に陽が差した。何日ぶりか。ただし蒸し暑い。六月下旬で夏至も過ぎたのだから仕方ない。
 都合で24日土曜から28日水曜まで、五日間、町田に来られなかった。そのため、このHPの更新も停止のまま。カウンターを見ると、かなりの人が読んでくれているらしい。有難いことである。なるべく頻繁に更新したい。

 
記念公演まであと一週間になった。この五月、六月、妙に些細な所用が続き、めまぐるしく、日が経つのが速かった。しかし、この24日頃から、雑事がぴたりと止まり、空白の期間となった。有難い。自分が出演するわけではないが、なんということなしに緊張が高まり心理的圧力が次第に増大する。この期間、無風状態となり心を休めることが出来るのは有難い。これも天の配剤と感謝する。永い音楽界生活であったが、こういう企画と経験は前例がない。未経験というものは緊張と疲労をもたらす。

 一昨日は渋谷での、女子大生誘拐未遂事件の報道で埋まる。なんともお粗末な事件である。もっとも、こんな犯罪はお粗末な方がいいので、人質の無事救出は何よりである。関西での大学生生き埋め事件といい、秋田の児童殺害事件といい、なんでこんな寒々とした事件が続くのだろう。これでも戦争よりましなのだろうか、と思うが、インドの故ネルー首相は、最悪の平和でも最良の戦争よりいい、と言ったから、そんなものか。それにしても、TVはどうして、こうも各局同じ内容の報道をするのだろう。どこのチャンネルを回しても同じである。そして、次なる取材対象が出来ると、たちまち今までの事件は捨て去る。だから、報道してほしくない立場の人にとっては、次なる事件が起こることをひたすら願うだろう。今までの報道が消えるのだから。日銀の福井総裁など、いまそう祈っているだろうなぁ。

 北朝鮮のテポドンはニュースに入らなくなった。間抜けな話である。「コレアン・レポート」誌の編集長、名前は忘れたが、この人は韓国人らしく、同胞意識があるのか、何かと北朝鮮に甘い論評を語る。テポドンの脅威でアメリカは二国対話に応ずるだろうと語った。そして、旧ソ連以外にアメリカに軍事的おどしをかけて国はなかった、とも語った。しかし、こういう脅迫的手段はアメリカが一番反発する手法である。こんなことでアメリカが後退するはずがない。北朝鮮の作戦ミスであり思惑外れである。「北」とすれば、緊張が高まれば、国際世論が、アメリカに二カ国対話をうながすよう流れが出来ると推測したのだろう。間違いだった。国際世論は、反対に「北」の発射を自重するよう迫る流れとなった。ただ、こうなると、このミサイルどうするつもりなのか。振り上げたこぶしの下げ所というわけである。燃料をいつまでもつめたまま置いておけば傷むそうだし、また燃料抜きとるのだろうか。貧弱な国力で途方もない相手と張り合い、みじめな有様である。一番気の毒なのはこの国の国民である。

 イラクから自衛隊が撤収。これは小泉首相のブッシュへのお義理政策だったのだろう。それはともかく、自衛隊が出動する時、左翼政党の自由投稿サイトで、「どうせ、白い箱に入って帰って来るのだろう」、という投稿が載った。実際は一人の死者も出なかった。どうしてこういう想像力の貧しい考え方しか出来ないのだろうか。教育基本法といえば、すぐに戦前の国家主義教育の再来ということしか想像できない。
 「九条の会」というのがあるらしい。呼びかけ文みたいなものが郵送されてきた。この人たちに聞きたい。戦争放棄を定めた憲法の第九条を守ろうという主旨なのだろうが、そのことと、米軍が日本に駐留していたこととは関係をどう考えるのか。太平洋戦争後60間年平和を守ってきた、というが、それは米軍が駐留していたからではないのか。「そうではない、あんなものは、勝手に居座っているので、かえって日本がアメリカの戦争に巻き込まれるもとになる」、とこの人たちは言うだろう。しかし、この言い分は論理的に判断不可能である。落語に、けちな主人が、病気が直ったのち、「どうせ直るなら薬も医者も要らなかった」、という笑話があるが、それと同じである。米軍がいなかったら戦後の日本はどうなっていたか、仮定の推測しか出来ないのだから判断不可能である。判断できないことに国民の運命を道連れにすることは間違いであり、迷惑きわまる。
 それから、今後のことだが、そんなに米軍が迷惑なら、この人たちの言い分を聞いてもし米軍が出て行ったとする、そのあとどうするのだろう。国防をどうするのだろう。朝のラジオを寝ながら聞いていたら、「外国に攻められたらどうする、という設問の前に、攻められないような国にする」、と言った人がいた。攻められない国とは強大な軍備を備えることかと思ったら、そうではないらしい。非武装でいいという。外交で平和を目指していたらいい、ということらしい。火の用心に努力していれば消火器は要らないというわけである。こんな無茶苦茶な論法に賛成する人は、よほどおかしな人でなければいないだろう。国民多数が賛成するわけない。もし、そういう不可思議な国造りをしたいなら、自分たち仲間だけで、どこかに土地を買って好きな国造りをすればいい。他人を巻き込むことはない。

 この話とは関係ないが、最近、めずらしい情報をサイトで知った。1939年頃だったか、かつての満州、現在の中国東北部に駐留する日本軍とモンゴルに駐留するソ連軍が軍事衝突したことがある。「ノモンハン事件」である。私たちの年代は小学生だったがよく知っている。
 結果は、戦車、飛行機を主体とするソ連軍の近代戦術の前に、機械力を持たない日本軍が完膚なき敗北を喫したと聞いていた。しかし、最近知った情報によれば、ソ連軍もまたかなりの損害を出していたということである。しかも、ソ連崩壊後、つまり近年になり、ソ連軍の損害は、当時伝えられていたより更にはるかに多いことが分ったという。これまで、ソ連軍の死傷者一万人台と報じられていたが、実はその倍の二万人台だったということである。ノモンハン事件は日本軍の精神主義が近代戦の前に敗北した最初の経験として知られていたが、それでも後日の太平洋戦争よりも過酷さが少なかったということになるのか。ノモンハンでは、辻政信少佐が介在し、辻はその精神主義を太平洋戦線のガダルカナル戦でも発揮させようとしたが、到底役に立たなかったと言われる。彼自身「これはノモンハンよりきびしい」と告白したと伝えられる。もし、ノモンハンについての最新の報道が正当とすれば、ガダルカナルはノモンハンより過酷であったことになる。ノモンハンでは、日本製の戦車はソ連戦車の砲撃に耐えられず、陸軍は戦車を撤退させてしまい、日本軍はソ連の戦車に対して戦車なしの戦いを強いられたそうである。それでもガダルカナルよりひどくなかったということになる。

 この数日の無風の日々、作曲も休む。創作意欲旺盛はいいが、余りにのめりこむようになると、視野が狭くなり、出来るものも底と広がりが浅いものになる。ただ、作曲に集中していると、現実の不快なことを忘れることは確かだ。とすると、これもまた一種の現実逃避か。逃避もまたよいか。避暑や旅行もまた、逃避といえば逃避だから、健全な逃避というものもあるのかもしれない。


2006.6.23.金曜 曇 町田

 
昨日と今日はかろうじて降らないという空模様。

 
午前中は近所の整形外科に定期診断に。ひざの具合が悪いので、二週に一度、診断して注射する。さいわいにしてこのところ具合がいい。今日は、区のはからいで高齢者用の総合診断もした。朝九時に始る病院だが、評判がいいらしく、ひどく混むので開院早々に行くことにしている。山本直純、岩城宏之、青春時代の学友があいついで他界して、Old, black Joe、の心境にせまってきた。I hear their gentle voices calling の心境である。でも、少しも悲劇的ではない。老年がこういうものであることをはじめて知った。
 記念演奏会がいよいよ近づく。懸命に券を多数売ってくれた人たち、お弟子たち、中には、非力のため多く売れなかったと、申し訳ながって手紙してくる昔の弟子もいた。少しも気にすることはない。当初の目論見よりずっと売れたと返事してやった。

 ところで、北朝鮮。ペリー元米国防長官がミサイルで限定破壊せよとの意見を発表したという報道を読む。この人は、クリントン政権の国防長官である。幕末に浦賀に来たペリー提督の子孫だそうだ。クリントン政権は北朝鮮に妥協的で、散々相手に利用された。いまの共和党政権の方がなぜか北朝鮮には手荒な手段はとらない政策のように見える。何を考えているのか分らないが、外交に関しては、よくもわるくも共和党の方がくろうとじみている。イラクに攻め込んだのは無謀だったが、北には攻め込んでも余り得るものがないという算段なのだろう。アメリカもうさん臭いが、北もどうかしている。こんなミサイルの脅しでアメリカが後退するわけがない。もっとも、早稲田大学の重村さんによると、いまや、北には打つ手かこれ以外にないそうだ。アメリカの金融制裁はよほど効果をあげているようだ。銀行決済がすべて出来なくなり、現金で物を買うほかないそうである。
 ただ、太平洋戦争前夜の日本のように、追い詰められると自爆的軍事行動に出るほかなくなるかもしれない。アメリカはそこまで計算しているかもしれない。虚虚実実だが、北の体制はどこから見てもほめたものではない。哀れなのは国民である。戦争してもいいから、早くいまの体制を倒してほしいと人は本心で願っているそうだ。


2006.6.21.水曜 雨のち曇 町田

 昨日は甥と会って彼は私の宅に泊まる。

 彼は大手総合商社に務めていたが、50歳台のおわりに思うところあり、日本語学校の教師をこころざし、商社を退職し、文科省の嘱託になり、ケニアに数年滞在、現在はインドにいる。息子の結婚式のため一時帰国した。印度のカースト制の話を聞く。人が差別されることを不満に思わない人たち、こういう人たちに人権を説いてもなかなか話が通じないだろう。西洋の人権思想が人類普遍の価値とは思うが、まだなかなか地球上には想像を超えるものがあるものだ。

 北朝鮮はミサイルの発射をどうするつもりか。こんな水鉄砲まがいなものでアメリカを脅そうとしても無理だろう。やせ犬が巨人に吠え付いているようで哀れだ。この国にとって最大の不幸は建国以来負けたことがないということだ。朝鮮戦争は引き分けだった。プライドというものは本人の行動を拘束し、みすみす不幸な道へ自らを追いこんで
いく。

2006.6.18.日曜 雨のち曇 町田

 
今朝は朝から降る。記念公演まであと20日を切った。まだ、券の追加注文してくれる友人がいる。必要な時の友は真の友。この格言が身に沁みる。

 プログラムの校正。芸術家はスポーツ選手と似たところがある。すべてを試合に賭けたい。多弁をいさぎよしとしない。土俵に上がる際の力士、ボックスに入る直前の野球選手にマイクを向けることは、さすがのマスコミもしない。勝負が終ってからはありうる。この頃は、取り組みを終った力士に感想を言わせる場面がある。終ってからは別である。ファンへのサービス、個人的にも親しみを持ってもらいたいとは思う。しかしそれは、勝負の直前は不可である。勝負はすべてを賭けて取り組むものであり、それがファンへの最大の奉仕であるのだから。
 今度の場合のプログラムはその点いかにも微妙である。第三者が書くのなら話はいささか別だろうが、本人が自分で書くとなるとタブーにふれることになる。レイアウトとか、表記の仕方などでも受け取られ方が違ってくる。

 ことしの前半をかけてようやく出来た曲に根本的な疑念が湧いてきた。数日深刻に考えた末、破棄することにした。無調の世界に迷い込んだことは間違いだった。相手に理解してもらうためには、共有する言語で語らねばならない。こんな当り前のことが今ごろようやく分った。半年を無駄にしたようだが、高い授業料をはらって貴重な勉強をしたと思うことにする。あとの半年をかけて新しくやり直すことにする。


2006.6.16.金曜 雨のち晴 町田

岩城宏之追悼
    されど、われらの輝ける青春の日々よ

 あの暑い八月の日々、私のコンクール作品の清書のために、黙々と働いてくれた友よ。流れ出る汗をタオルで拭きながら。目白の下宿の二階の天井裏の廊下に机を出して話もやめてスコアを書き続けてくれた友よ。それは岩城だけでなかったが、直純もそのほかの何人かの友も。私が卒業して働かなければならなくなった時、私をNHKに連れて行って、スタッフに片っ端から紹介してくれたのも岩城だった。私の下宿へ勝手に上がりこみ、好き勝手な談論にふけった友よ。すべては貸し借りなしの青春の日々だった。ありとあらゆる意見を勝手に吐きあい、互いの作曲や演奏に批判どころか悪口に近い言い分をぶつけあった日々よ。
 そんなある日の夕方、私が階下のスタジオでピアノを練習していると、岩城が入ってきた。何も言わずに二階へ登っていく彼を追って二階の私の部屋に行くと、彼は沈黙したまま、涙も出ない様子で、沈痛に沈んでいた。彼は、悲しい体験をしたのだ。
 嬉しいとき、いいことがあった時は、互いにカネも忘れて祝杯をあげた。貸し借りなし。
 
 サントリーホールで、岩城の盛大な追悼の儀式があるそうだ。でも、違う。私が知っている彼は、盛大な祭壇の上の彼とは違う。喜びも悲しみも共にしたそれらの日々の彼とはそれは別な岩城だ。恐ろしく出世主義的で野心家で彼はあったが、同時に、途方もなく親切で友情に厚い奴だった。恋愛について議論した時、おそろしく真剣な眼差しで、男は純粋でなければならぬ、と殺気すらこめて叫ぶように主張したことがあった。こんな時の彼は、理想主義に燃えた純粋漢だった。
 それらの青春の日々よ。われらの日々は永遠なり !



2006.6.13.火曜 曇 町田

 
四日ぶりに町田、やっと更新が出来た。
 国会の行方が気になる。

 教育基本法の改正案はどうなるのだろう。今期国会はもう終る。民主党の対応が小沢流の老獪な戦略に変じたため、自民も対応に困惑しているそうだ。

 この改正案で、問題になっているのは「愛国心教育」である。反対する人たちは、愛国心は、自然に芽生えるもので、権力が無理に義務化するものではない、と主張する。一見、それも道理ある言い分ように聞える。しかし、この考え方は基本の所で大きな過ちを犯している。それは、教育が、何のために、誰のためにあるか、大きな前提を忘れているからだ。
 なるほど、成人した人物に、この国を愛せよ、と説教するのは余計なお世話であろう。そんなことは自分で決めることと言われるに違いない。その通りである。しかし、教育は未成熟な子供を相手にするものである。世の中の何がどういうものであるか、本来はどうあるべきものか、その基本的な前提をまだ何も知らない児童に教えるものである。これを教えなければ、最近よくあるように、人を殺して何故わるい?という種類の人間が出来てしまう。

 日本でも多くの人がファンになった、往年のアメリカ映画、「シェーン」のラスト・シーン近く、悪者を倒してその地を去ろうとするしェーンが、彼を慕う少年に語り聞かせる場面がある。

「両親を大切にしなさい。正しいことが好きな強い男になるんだよ」、と。

 これが教育ではある。そして、そう教えられた子供が成人して、自身様々な経験を積み、その段階で、この国に対して、どういう思いを抱くようになるか、それは当人の自由である。自分の国を愛すべきであることはよくし承知しているが、自分はどうしてもこの国を愛すことが出来ない、そういう人が出来るかもしれない。それはそれで仕方がない。他人や政府が愛国を押し付けることではないし、また、そんなことは出るものではない。
 人は生まれながらに倫理道徳を心得ているものではない。性善説は成り立たないのである。倫理道徳を教え、そして、社会に無条件の自由はないこと、人は何がしかの制約を我慢しながら生きるもであること、そんなことを幼い時期に教えるのが教育ではないか。それを否定することは教育そのものを否定するににいたる。


 ここまで書いたところで、岩城宏之の訃報入る。なんということ。体調がよくないことは知っていたが、いつものことと受け止めていた。言葉なし。若い時、ケンカもしたが、親切にもしてくれた。若き日の悪童仲間。しばらくは、落着いた感想も書けない。


2006.6.7.水曜 晴 町田

今朝の日本TVのワイドニュース番組に和田義彦の絵画盗作問題がとりあげられた。

 番組では、和田にこの番組への出演を要請し、和田は昨日承諾したそうだ。ところが、今朝になって出席できないと回答して来た。そのため、電話での対話になった。なぜ出席を中止したのか、との質問に、体調がよくないから、とのこと。どこがわるいのか、との再質問に、「頭が悪いです」、と。はぐらかす。出席しても弁明は不可能だし、醜態をさらすだけの結果になることを見込んだのだろう。

 数人の出席者から幾つもの質問が向けられたが、答えはことごとく詭弁である。名古屋芸大での不詳事件についても、自分が組合に入っていないからの迫害だとか、画壇の派閥関係からの差別迫害だとか、こどもの屁理屈並みの言い訳である。
 イタリアのスーギ氏のもとへ謝罪に行ったことについて問われても、騒ぎを起こしたことを謝ったので、盗作を謝ったのではない、など、この期に及んで、まだ屁理屈の弁明である。
かような人物を番組に登場させる必要はあるか、との疑問も出るが、当人が話せば話すほど、この人物への不信感が増幅する。いかなる立場の者にも発言の機会を与えよ、というのは道理あることだから、不愉快ではあるが、当人に発言の場を与えるのは理にかなうことだ。そして、その結果が当人の首をしめる結果になるのならこれもまた事物の自然推移の結果である。
 出席者の中で弁護士の某氏が、「著作権の問題だ。スーギ氏の許諾を得たのか」、との質問だけがまともだった。これに対して和田は、話しをすりかえたり、論点をずらしたりする。この質問だけが、するどく要点を衝いたものだった。
 この番組自体が社会制裁だったようにも思われる。ご当人としては、破廉恥と言われようが、屁理屈と言われようが、いまは、この態度をとり続けるしかないだろう。ご苦労なことだし、悪いことは出来ない。

2006.6.5.月曜 晴 町田

 
土日、と町田に来られなくて、三日ぶりの仕事。町田の器材にHPの編集ソフトが仕込んであるので、サイトの更新もここに来ないと出来ない。

 
この数日で大きな出来事が重なって発生した。秋田の児童殺人事件の容疑者逮捕。村上ファンドの村上氏の取調べ、当人の業界撤退宣言、続いて逮捕。そして、例の和田画伯の賞の取り消し。どうしてこんなに大事件が重なるのか。互いに相殺しあって注意が分散する。いずれもあまりいい事件ではないので相殺は野次馬にとって残念なだけだが。

 自分たちにとって一番身近なのは盗作事件。画伯は昨日、受賞辞退、賞の返上を申し出た。取り消されるより名誉が幾分なりとも守れるからだ。しかし、文化庁は今日午前、それにもかかわらず賞の取り消しを決定した。前代未聞の珍事である。

 われわれのような仕事をしている者にとって一番責任を問いたいのは、文化庁の選考委員たちだ。なんと不勉強な。スーギ氏はイタリアではかなり知られた存在だそうではないか。この委員たちは、どういういわれで地位に任じられたのか分らぬが、音楽畑から想像するに、仲間内で選任しあい、独占していたのではないか。現代音楽の分野では、マフィアという言葉がある。国際的に使われる言葉だ。一連の評論家、作曲家、マスコミが連携を作り、排他的な寡占体制を作る。この連中だけが作曲家で評論家であるかのごとき、とんでもない状況を作り出す。日本でも、三人の作曲家の名前だけがどこを見ても目に入る時期があった。まるで日本にはこの三人しか作曲家がいないかのごとく。この内二人が死んだので、一人ではさすがに独占するに不自然すぎるのでこの頃は状況は変った。こんどの事件も、政治的側面は別にしても、研究者としてなんと不勉強な。知名度の高い人だけでなく画壇を専門家として研究しているべきではないか。知名度の測定はマスコミまかせとはお粗末至極なり。


2006.6.2.金曜 曇ときどき晴 町田

 
六月に入った。記念公演までひと月以下になった。早くから起動していたので、はるか先のことのように思えてきたが、現実はあとわずかである。まだ、接近した実感がない。これだけ自分をさらけ出すことは永いことなかった。これが終っても来年の軽井沢がある。

 明日は、午前に甥の息子の結婚式、夕方から札幌一中、いまの札幌南高の東京同窓会の総会が虎ノ門パストラールで。ここでも、記念公演のチラシ配布を頼んだので、出席しなければならない。昨日、幹事の後輩女性から会場で会員の著書CDを展示するのでサンプルを持参してほしいとのmailがあった。こういう場で売れることは余りなかろうが、これも自己紹介のステップである。午前、午後とハシゴは忙しいが、公演準備の一部。
 翌、四日日曜は生徒の橘琢琢君のハープの曲が演奏されるので、日暮里サニーホールにこちらも出席。来週は八日に一中クラス会。七人出席。会場の予約は自分が申し込んだので、五日月曜には出席者数の最終報告を会場のお店に電話する。
 町田の仕事場に来なければ作曲の仕事が出来ないので、来られない日は休業である。これも仕方ないし、この間に構想の形成熟成を期することにする。

 catのマミが一昨日から帰らないので暗澹としていたが、昨日の夜10時過ぎ、いつもの入り口に平然と姿を現わした。人間の子供なら叱りつけるところだが、catでは仕方ない。ただただ、帰館を喜ぶほかない。27時間、どこでどう過ごしていたのか。話が出来たらあきれるような報告が聞けるだろう。今朝は、寝室に忍び込んできて、並んで、熟睡していた。この子には降参!


2006.5.31.
水曜 晴 町田


 五月晴れ。
 和田某画伯の盗作はもう弁解不能であることが分ってきた。

 しかし、
先日、五月七日に聴いた日本人先輩作曲家、故A氏の曲もこうなるとどうしても黙していられなくなる。
 
旧ソ連の作曲家、S.P.の曲に余りに似ている、というより、なぞりが見え見えである。知らずに似てしまったというのとは違う。あの当時、日本の作曲界はまだ未熟であったため、先進国の作品に似たものは珍しくなかった。自分たちも、そっくりさんのフレーズを作ってしまったものだ。しかし、似ていることが恥ずかしく、その後の部分は出来るだけ違うように工夫したものだ。これは当り前だろう。しかし、先日のA作品はそうではない。特定の曲の特定の部分の酷似で始まり、その後も延々と酷似のまま続くのである。途中で気がつけば、という対応の跡がまったくない。つまり、承知の上で続けている。
 冒頭、8分音符のリズムに乗ってクラリネットが風変わりな旋律を奏でる出だしがそのまま。自分なら、せめて、楽器を替えるとかしていささかなりともごまかそうとしたろうに。むしろ、そうしないことが「犯意」がなかった証しになるのだろうか。そうとも思えない。まだ、この曲が日本でよく知られていないことを前提として、ぬけぬけと、そのまま、をやったとしか思えない。S.P.の第五Symphonyの第二楽章である。そして、曲の最後は、同一原曲の第四楽章の末尾、つまり、全曲の末尾の八小節前後から借りた。ここまで、「原典」が分ると喜劇的ですらあるが、何かしら悲惨な感があった。情けない例だが、北朝鮮がアメリカ製煙草の贋物を作って財源にしているとの同じみじめさである。あの当時は、そういう時代だったでは弁護しきれるものではない。
 和田某画伯の事件について、盗まれたイタリアの画家は自分の「原作」と和田作を並べて展示することを文化庁に要求するそうだが、A作品の場合も、S.P.作品を並べて演奏してはどうだろう。判断は聴いた人にまかせればいい。
 昔、コンクール作品で盗作の疑いがあり、途中で選考対象から除外された例があった。クシェネックの弦楽四重奏曲に似ていたのである。どう似ていたか、柴田南雄さんが新聞か雑誌に具体的に書いていた。ヴィオラの上昇音階を第一ヴァイオリンが受けて、という具合に説明していた。この曲は有名作ではないが、実に見事な書法で書かれていて、それこそ「模写」したいほどの誘惑を覚えたものだ。勉強のためである。もちろん、そんなものは自作と詐称することは出来ないし、当時もそんなことはしようとは思わなかった。昔、日本の作曲界は似たものを作ることが珍しくなかった、というが、当時といえども限度があったのだ。昭和20年代の末期のことである。

2006.5.30 晴  町田

 五日ぶりに町田の仕事場。

 
このところ、毎日出る用があり、連続外出は疲れた。26日は、深沢亮子さん宅で記念公演出演者スタッフ一同の顔合わせ。27日は午後からヴァイオリンの劉薇さんのリサイタル。28日はCMDの研究会、ヤマハ横浜の大石社長の営業思想と実績についての講演会、目白の金原さん邸。昨日は、溜まった仕事のため在宅。なんといっても外出は疲れる。やはり年齢相応の体力問題だ。劉薇さんは演奏がよくなった。一部しか聴けなかったが、FrankのSONATA、注意深く、きめの細かい密度の高い演奏だった。11月の私の作品、「竜舌蘭」の初演が楽しみ。

 今日は快晴、宵にはにわか雨との予報、なんとかケチがつくのが最近の陽気、いやになる。

 和田なにがし、という画家の作品が盗作の疑惑で騒がれている。イタリアの画家の作品と余りに似ている。そのほかにも疑惑の作が幾つかあるようだ。これは弁明の余地があるまい。相手の画家は怒っているそうだ。先方が怒るのでは話にならない。どういう心理でこういうことをするのか。多分、万引き犯と同じだろう。盗癖である。「盗作かそうでないかの判断は微妙だ」、などと榎戸とやらいう評論家が愚論を放送していた。間抜けなことを言うな。時と場合がある。この場合は弁明も弁護も余地がない。おかしな一般論を持ち出すことは評論の邪道である。事例に即して論じろ。
 和田という人がとるべき道は、いさぎよく賞を返上して謝罪することだ。そうすることによって、彼の最低の社会的名誉は最小限の規模で残存を許されるだろう。


2006.5.25.木曜 晴  町田

 昨日は予報をあなどっていたらひどい雨になった。

 自
転車は駐輪場に置いて豪徳寺駅からカサさして歩く。もっとも、豪徳寺駅から世田谷線に一駅さらに乗った。出来るだけ歩く部分の距離を短くすることが至上目的となる。こういう時は有料駐輪場は便利。自分の場所が契約して確保してあるので、置きっぱなしに出来る。予報あなどるべからず、ということか。
 今日はまた久しぶりの正真正銘の五月晴れ。あまり悪天にしいたげられると、この天気も信用できないヒガミに襲われる。

 町田駅前のスズキ楽器で月刊誌「ショパン」を買う。七月の記念音楽会の記事が出ている。「音楽現代」には道下さんとの対談が二頁写真入りで載った。両方とも道下さんの尽力によるもの。多謝。「ショパン」の方は来月
号にも記事が出るらしい。有難いこと。こうした「くわだて」というものは、やはり世間に対する強い発言になるのだろう。何もしないで自然認知だけ待ち受けていてもおぼつかないことだろうから、こういうことも有効であることを痛感する。

2006.5.24.水曜 晴 夕刻一時雷雨 町田

このところ気候不順はげしい。日本列島どうにかなったのではないかという気がする。
 記念演奏会まで、ひと月と少しになった。券売は一段落、中休みというところ、演奏の人たちは当日が実戦、その緊張の増大はたいへんなものだろう。感謝のきわみ。招待状、自分個人からのもの少しずつ発送。公的な発送相手の中で来てくれる人は僅かだろう。個人的発送対象者の方は確度が高い人が多い。
 
札幌一中、クラス会を6月8日、青山「梅の花」でひらくことにした。常任幹事のM君が体調まだ万全でないが役割を引き受け、自分は手伝いをする。会場を予約し、M君に地図を送る手順だが、地図送りが遅れた。今朝発送。

 
自分は何者であり、何故ここにいるのか、根源的疑問がいや増してくる。人は何故ここにいるのか。カントもベルグソンも、諸行無常の東洋哲学に近いことを説く。秋田、嵯峨、そしてこんどは仙台と子供が災禍に逢う。これはいったい何か。秋田の事件には考えたくない疑惑が湧く。

2006.5.24.水曜 晴 夕刻一時雷雨 町田

 予報では夕方一時にわか雨激しいとのこと。ここ神奈川では降るには降ったがたいしたことはなかった。

 こ
のところ気候不順はげしい。日本列島どうにかなったのではないかという気がする。
 記念演奏会まで、ひと月と少しになった。券売は一段落、中休みというところ、演奏の人たちは当日が実戦、その緊張の増大はたいへんなものだろう。感謝のきわみ。招待状、自分個人からのもの少しずつ発送。公的な発送相手の中で来てくれる人は僅かだろう。個人的発送対象者の方は確度が高い人が多い。
 札幌一中、クラス会を6月8日、青山「梅の花」でひらくことにした。常任幹事のM君が体調まだ万全でないが役割を引き受け、自分は手伝いをする。会場を予約し、M君に地図を送る手順だが、地図送りが遅れた。今朝発送。

 自分は何者であり、何故ここにいるのか、根源的疑問がいや増してくる。人は何故ここにいるのか。カントもベルグソンも、諸行無常の東洋哲学に近いことを説く。秋田、嵯峨、そしてこんどは仙台と子供が災禍に逢う。これはいったい何か。秋田の事件には考えたくない疑惑が湧く。

2006.5.23.火曜 曇のち小雨 町田

 昨日は、全国バラ・ガーデン・コンテストへ。

 狭山丘陵の西武球場ドームへ。高幡不動から多摩モノレールで会場へ。広大な球場ドームの中がバラの花で充たされる。知人の出品が優秀賞を得た。木材を美術的に組み合わせた小空間の中にみごとなバラが、バラ以外の花々もちりばめてある。大変な労作。これだけの仕事を花の美しさに魅せられてなしとげる情熱に敬意。大賞ではなかったが、慶賀のいたりである。人の数もすごい。交通便利とはいいかねる会場にこれだけの人が押しかけるとは、花と美に惹かれる人がそれだけいるということ。そのことにも感銘。はじめての体験だった。行き帰りの乗り物から見る多摩地域の光景も異なるものあり。多摩平原が人家で埋め尽くされている。企業と学校が多いが、個人住宅もおびただしい。

 午後、電話、以前、仕事をしていた鹿島建設の重役さんから。環境音楽初期のスタッフで集まって歓談の誘い。まったく予想もしなかった。懐かしい顔ぶれ。六月のある日に賛成。その折の音楽を集めてCDにしたものを配りたい。あの企画も歴史に残るもの。バブルの一時期の出来事にはしたくない。音楽を生活の場へ、というのが当時の思想だった。自分はその後、通常の演奏用音楽の場に戻ったが、この考え方はいまでも有効と信じる。その日が楽しみだ。

2006.5.20.土曜
 晴、風強し 町田

  
雨の予報が陽光さす好天。それでも、北陸の雨域が東進してくるし、大気が不安定になるから大雨と雷になるおそれあり、と予報は言っている。信用していいのかどうか。天気がよくなると予報しておいて悪くなるより、その反対の方が恨まれ方が少ないとの理由があるのかもしれないが午後二時現在の青空と日差しからはどうも信じられない。

 
町田のディスカウント店で録画用のDVDを安売りしていた。一枚100円!! まともに買えば有名大手の量販店でも500円くらいする。どういう次第で値段が決まるのかわからないが、使ってみて支障がなければ安い方がいいに決まっている。

 電車の中で、マキャベリの「君主論」文庫本で読む。昔読んだが再読のつまみ喰い読み。実に面白い。「君主たるもの日頃の行状を立派にして人民側近の尊敬をえなければならないが、あまり立派なことをし過ぎてもまずい場合がある。悪いことをして甘い汁を吸っている連中から恨まれるから」、だそうだ。30年前、ロッキード事件の時、政治悪の追求に意欲を燃やした三木首相が、「はしゃぎ過ぎ」と言われてひきずり降ろされたことを思い出す。15世紀と20世紀、政治の力学と原理は少しも変っていない。それをはじめて見破ったマキャベリはたいしたもんだ。


2006.5.19.金曜
 曇のち雨 町田

 
予報に反し、午後は降らず曇りだが、あとはまたあやしい。自転車で外出を強行した。帰りに雨がひどくなったら、駐輪場に置いて帰る。近所のOXの駐輪場に置いていたが、有料になり、べらぼうに高くなったので有料駐輪場を借りた。置いておけるのでその点は便利。
 いつの頃からか車、自動車がわずらわしくなりやめた。免許をとったのは1962年のこと。教習所は世田谷自動車学校、ピアノの宮谷理香さんが最近免許をとった所。ほとんど40年乗り続けた。はじめは面白くて、札幌まで行ったこともあった。しかし、最近の駐車難と渋滞は辟易もの。それにお酒が飲めないから人づきあいがわるくなる。駐車が困難ということは致命的だ。とまれない車というのは走らない車より始末がわるい。その点、自転車は便利。道路交通法の規制を受けないから、右折左折は自由自在、一方通行も関係なし、なにより、どこにでも置けるから狭い商店街の買い物も出来る。それでも最近は長時間置くとうるさくなり、だんだん車に似てきたが、それでもまだまだ楽だ。通常型に二年乗り、その後電動式の中古を買った。坂道は楽だ。ただ、自転車の弱点は雨と坂道、こればかりは如何ともし難い。自動車への関心はまったく消滅した。

2006.5.18.木曜 雨 町田

 
またまた雨。連休のあとはまるで梅雨のよう。午後はやむの予報に反し、午後も陰気に降り続く。駅まで自転車で往復しているので、雨は困る。自転車は雨と上り坂によわい。

 しかし、徒歩で駅まで歩くと、歩くということもなかなかいいものと思う。ものを考えながら移動できる。自転車は車よりのんびりはしているが、それでも、ある機能を持つので、前進すること移動することに意識が専有される。自然な行為とは離れた人工的行為の中に置かれる。

 このところ、七月の演奏会のプログラム原稿に取り組む。あいさつ文から曲目解説まで手がかかる。既存の曲はすでに解説が存在しているが、演奏会の性質により書き変えなければならない。来てくれそうな客筋によって語りかけの内容を変えるのは当然のこと。音楽は語りかけだから。

 お昼少し前、ヴァイオリンの劉薇さんから電話、招待状が届いたとのこと、当日は自分の本番の前日だがかならず来場するとのことだった。この人にはヴァイオリンとピアノの曲「竜舌蘭」の楽譜を進呈していたが、なかなか演奏の機会がなく、ようやく、この11月に浜離宮朝日ホールでの演奏会で演奏するそう。もちろん初演。自分の作品としては演奏者の手に渡ってながく待たされた方。10年前に亡くなった人の思い出をこめた曲なので演奏されることは嬉しい。自分が18歳か19歳のことだった。曲の中に「トリスタンとイゾルデ」の和音が出てくる。これも深い思い出と結びついている。はじめ「竜舌蘭」と命名したが、その後「遠い雨」と改題した。劉さんに楽譜を渡した時は旧題だったこともあり、劉さんは改題以前の「竜舌蘭」にしてほしいとのこと。申し出でに従い、「遠い雨」は副題とする。

 もう一つ、短いピアノの小品「夢逢い」が出来た。これは評論の道下さんのために。以前、この人の希望で小曲書いたが、どうも速い前奏曲風のものになってしまった。「トロイメライ」風の短くて初見でもひけそうな遅い曲を目指したのだが、その時はどうしてもアイデアが浮かばず性質が違うものになった。こんどの曲ではじめの目標通りのものが出来た。題は万葉集の歌から。余りに魅力的な歌なので触発された。まるで、フォーレかドビッシイが作曲しそうなフランス近代詩のような歌だ。

2006.5.15.月曜 晴 町田

 CD-ROM
で長編小説を読む。

 文字は紙の上で読むべきもの、本の頁をめくりながら読むことにこそ読書の楽しみ、その味わい方がある、そういう人が多い。しかし、かような情緒的な話は信用しないことにしている。なぜなら、情緒は時代とともに変るからである。その昔、鉄道がはじめて敷設された時代、人々は鉄道を忌み嫌った。煤煙がきたない、うるさい、町と沿道の静けさを乱す。松川事件があった福島県の地方は、町や村と鉄道の駅が離れている。バッハが生まれた
アイゼナッハの町も駅鉄道と町が離れている。同じ理由かもしれない。しかし、こんにちのSLブームはどうしたことか。電化されて消えていくSLにおおいなる郷愁をそそられ、情緒の極をかきたてているではないか。CD-ROMよりさらに新しい技術が訪れたとき、CD-ROMへの郷愁を歌い上げる声が高まらないとどうしていえようか。CDに対してLPレコードへの郷愁をうったえる人たちがいる。しかし、昔のSPからLPへ替わった時は、さらに大きな変革があったのだ。数枚に及ぶSPに収録された交響曲、その重さそのものがこの音楽の重さであるかのように感じられたものだ。それがたった一枚になってしまったときの困惑と違和感。しかしいまは、そのLPをなつかしがっている。人の情緒はそんなものである。なんでも古いものはなつかしい。消え行くものへは郷愁が湧く、そんなものである。
 目を曇らせずに新時代と仲良くする方を自分は選ぶ。

2006.5.14.日曜 晴 町田

 
この所、この頁の更新が出来なかった。七月の記念公演が近づき何かと用が増えた。
いまは、プログラム掲載の文の用意に忙しい。まだ先のことと思っていたが、いつのまにか二ケ月を切った。実行委員の道下さん橘川君等、若い人たちの尽力には感謝の限りである。

 昨日はそんな中、午後から狛江フィルハーモニーの定期公演、そして夕刻六時半から千駄ヶ谷で日本音楽舞踊会議主催の「ショパン前奏曲集 全24曲・作曲学的研究」の第一回、講師役。二カ所にハシゴである。狛江の方は、当日会場でプログラムと一緒に記念公演のチラシを配布して頂いたので出席。この公演は夜ににぎやかな打ち上げがあり、それが楽しいのだが、今回は出席できない。
 研究会の方は、今回は広報が不徹底で知らずに参加できなかった人もあると思われるので、七月記念公演がすんでから、あらためて第一回から出直す案を出した。そうなるだろう。一回に四曲ずつで六回で完了という計画。こういう企画は講師と例奏するピアニストは準備にかなりの力を使うのだから、広報の不徹底は努力が報われぬことになる。主催者には注意してほしい。

 ショパンの音楽は実におもしろい。歳をとると、印象的なものより実体である曲の構造の方に関心が向いていく。結局実体としてはそれしかないのだから。一見情緒的なショパンの音楽が実は微細をきわめた工夫と隆々の苦心の構造作りの結果が裏にあることが見えてくる。レントゲン写真を見るようだ。西洋の芸術は皆しかりである。情緒もあるが、半面必ずアタマを使っている。そういう半面が目にはいらず耳に入らぬ人は鑑賞者失格である。普通の人は案外感性でそれを知っているが、評論家のデクの坊に時々そういうのが居る。モーツァルトの音楽が天から降ってきたとか、泉のように湧き出てきた、とか世迷いごと書いている大文芸評論家が居た。専門分野が違うものに口を出さぬ方がいい。シロウトの浅ましさ丸出しになる。
 それにしてもショパンの音楽は知れば知るほど不可思議でおもしろい。楽節、フレージングの構造がすでに並みではない。省略の美学とでもいうか。不要な楽節は省略する。省略というより、本来不要なものを在来の慣習に従って書くことをしないだけである。短歌の五、七、五、七、七、に対する、俳句の五、七、五、みたいである。技術屋として、この独自の超高級な品質の品物の構造解明は戦慄的におもしろい。普通の意味で頭もいい人だ。そんなことが見えてくる。

2006.5.5.金曜 晴 町田

 昨日は憲法の日。ソバ屋で見た朝日新聞に記事が出ていた。「9条の会」と称する「護憲運動」の代表者が、「日本人は戦争体験の継承に失敗したのではないか」、と心配の言を語っているそうだ。

 その通りである。戦争体験の継承より、軍国主義、国家主義、精神主義の方を継承してしまった人たちがいる。それこそ、反戦、平和、民主、人権、護憲、を日夜叫んでいる人たちである。この人たちは現実を見ようとしない。自分たちの幻想の中に閉じこもり、存在しない成果を成果として祝賀し、自分たちが孤立していることを見ようとせず、ただただ、カケ声だけを声を嗄らして叫んでいる。戦時中の指導者とまったく同じである。あきれはてた空疎な精神主義。かつて、政治論の中で、「われわれ民主勢力が強大になり、敵を圧倒するようになった時」、と書いた人がいた。これはいったいなんの話だ!? 敵だの、強大だの、圧倒する、だの、戦争ごっこでもしているのか。反戦などと叫んでいるが、本心では戦争が好きなのではないか。
 国民投票の実現に向って制度の整備が計画されている。護憲派の人たちは、この施策自体に反対している。改憲を目指すものだからだそうだ。なんという不可思議な論法だろう。議論すること自体許さないというのである。自分たちの主張が国民多数の賛同を得る自信がないことを自ら認めていることではないか。
 昨晩は、NHKラジオで討論会を放送していたが、護憲派の雄、小田実は相手がまだ話している途中に割りこむ話し方を何度もしていた。行儀のわるい人だ。


2006.5.2.火曜 晴 町田

 昨日は一日、メイデイ。夏のような気温だった。今日は一転して雨もよい。

 山岸正巳画伯の訃報を知る。果てしなき痛恨の思い。

 芸大の二年生くらいの時のことだったろうか。当時は飛行機が使える時代ではなかった。確か夏休みで帰省した札幌からの帰路、国鉄で北海道を函館まで南下中、ある駅から乗ってきた人がいた。胸に美術学校のバッジを付けている。隣の席に付いたその人に、「美校の方ですか」と訪ねた。当時は「芸術大学」という新名称がまだ馴染めず、美術学部を「美校」、音楽学部を「音校」と読んでいた。自分は音楽学部の者と名乗った。これが山岸さんとの最初の出会いであった。以来、東京に着いてからも、隣の学部だから、山岸さんは頻々と音楽学部の食堂「キャッスル」に遊びに来た。級友たちとも仲良くなり山本直純も仲間だった。山岸さんは鶯谷のアパートに居たので、ピアノ科の女性たちも一緒に遊びに行ったこともあった。朴訥で、それていて都会的で明るい明朗な人だった。
 山岸さんは生涯通じて写実の画風を貫いた。安井曽太郎の高弟でありながら、中央画壇にまったく関心がないらしく、卒業以来、郷里の北海道岩内市で生涯を過ごした。
 山岸さんは画を描くために生まれてきたような人だった。山岸さんの中には、評論家的な時代論など微塵もなかった。ただ、描く、ひたすら描く、それは、鳥が飛ぶように、魚が泳ぐように自然で本能的な行為だった。芸術家本来の姿はどういうものかを私は山岸さんから知らされた。札幌の佐薙のり子さんの門下に岩内の人がいた。その人が山岸さんを知っていて、たびたび消息を知らせてくれ、よろしく、と伝えてくれた。それでいて自分は山岸さんとは卒業以来ついに会わなかった。こんどの私の記念演奏会のことを山岸さんに伝えようと思い、インターネットで検索したところ「追悼展覧会」の広報を読み、はじめて他界したことを知った。卒業以来50年。会っていればよかった。
 こんなに永い間会わなければ記憶と印象も薄くなるものだが、山岸さんの訃報は衝撃的に心にひびいた。人柄であろう。素朴と明朗闊達、やさしさ。そんな人柄が、あの絵画の世界を造ったことがいまになってうなづける。

2006.4.30.日曜
 晴 町田

 
さわやかな四月晴。その四月も今日が最後。四月は過ぎるのが速かった。遅い、速い、はどうして感じるのだろう。することが多くあった期間は長く遅く感じるのだろうか、「日本の一番長い日」というように。

 「楡家の人々」を読んでいたら、戦争末期の新聞見出しが引用されていた。ものの言い方には随分とあるものと感心する。自分に不利な報道をいかに言い替えるかの表現の苦心作である。

 例えば、「ドイツ軍、スターリングラードで戦闘停止」。これは要するに降伏したということである。戦闘停止とはまたなんと苦心作の凝った表現だろうか。包囲されて逃げ場がなくなったドイツ軍、日一日と犠牲者が増えて、どうにもならない。降伏するほかなかったのだが、「戦闘停止」とはまた考えた。負けたとか、降伏したとか、言いたくない苦心作である。

 ガダルカナル島の日本軍が米軍に追いつめられて、夜陰に乗じてやっと逃げ出した時。
 「わが軍は優勢な敵を島の一角に追いつめ、甚大な損害を与えてきたが、所定の目的を達したので、別方面に転ずるため転進した」。

 店がつぶれた時、「優勢な大手企業を相手にすぐれた営業成績をあげてきたが、所定の成果をあげたので、他地域への進出のため転進した」、とこうなる。A君がB子さんにふられた。「A君はここしばらくB子さんと交際を続けてきたが、このたび、学業に専念するため交際を停止した」、と表現する。
 こういうとき、ウラの読み方があるのだろう。いまのマスコミ馴れした社会では、すぐにウラ読みされるだろうが、戦争当時は国民は純情でそれができなかった。だから、だまされたのだが、それでも、私の母は、ガダルカナルの時、ばかに言い訳するので変だ、と言っていた。「転進」という言葉がはやり、退却を転進と言い換えることがはやった。それを見ると、この辺から国民もうすうす見破ったいたようだ。

2006.4.25.火曜 驟雨のち晴 町田

  
昼頃、にわかに空が曇り、夜のように暗くなった。雷鳴とともに激しい雨。しかし、小半時も過ぎると陽光。気まぐれの荒天。

 書棚を整理していたら、1997年、フランスの小都市、コンピエーニュで買ったみやげが出て来た。「あなたが生まれた年の新聞」、というもの。その年の主な報道を新聞体にまとめた摸擬新聞。自分の年のものを買った。きれいな表紙にはさまっている。
 トップ記事は、「ドイツ総選挙、ナチス党が仰天の大躍進、議席、18から107へ!」、と書いてある。そういう年だったのか。一方、「アメリカの不況深刻化」、「ソ連、土地の国有化推進」、「南フランスで大洪水」、「リヨンの近郊で地下水の噴流で丘が崩壊、土石流で死者40、被害甚大」。芸能欄では、「モーリス・シュバリエ、ハリウッドで六本の映画撮影を終り、パリへ帰る」、とか、
ヒットチャートで「愛の言葉」、映画人気作は「パリの屋根の下」、などが報じられている。こういうものを誕生祝いに贈る、おもしろい習慣だし、おもしろい国だ。

2006.4.24.月曜 晴 町田

昨日は、千葉の補選の投開票日。民主党の候補が僅差ではあるが、当選した。

   小沢党首の門出の祝砲である。自民の候補は他県の人であるほかに、通称エリート族、こういう人種が歓迎されなくなった風潮もあるかもしれない。例の永田議員も含めて。

 北杜夫の長編「楡家の人々」を読み終えた。大変な力作である。ところが、巻末の「解説」を読んで憮然とした。辻邦生が書いている。辻は三島由紀夫の言葉を引用している。「この小説は日本ではじめての市民小説である」、と。市民小説とは、あるがままに生きる人を描いた、という意味だそうである。それまでは、「いかに生きるべきか」、「どうあるべきか」という命題の下に生きる人を描いていた、という。辻もまたこれに同意している。しかし、私はこの説には到底同意できない。それも間違いではないかも知れない。しかし、この小説に描かれていること、もっと大事なことは、歴史の大きな流れの中で、あるいはその下で、一人一人の普通の人がどう生きたか、が描かれていることではないのか。
 「歴史とは所詮、著名な事実の羅列である」、とは、アナトール・フランスの有名な言葉である。その通りだ。著名ではない事実は歴史には書かれないのである。それを描くのが小説家の仕事ではないだろうか。私が、畏友、山本直純の死去の際に書いた「回想録」もそのことが目的だった。日本の樂壇史はいずれ誰かの手によって詳しく書かれる。しかし、一人一人がその時、どう振舞ったか、誰が誰に何を言ったか、言われたか、帰り道でつまづいたか、転んだか、そんな事柄を誰が書くだろう。歴史は人の心は書かないのである。

 歴史とは所詮、飛行機で高い所から地上を見下ろしているようなものである。高い所から見えないものは見えないのである。応仁の乱も、源平の戦いも、ナポレオン戦争も、地上に降りてみれば、一人一人の人の深い悲しみだけが地上を覆っていたのではないか。それは高空からは見えない。
 辻も三島も高名な文学者であろう。しかし、自分の専門の世界を見ても、外部の人からは、えらい評論家、作曲家と見られている人たちが、話しにならない愚説や、自分でも偏向に気づかぬ暴論を説いていることがしばしばである。だから、辻の話も三島の説も遠慮なく異論をとなえさせてもらう。この二人は、人の世の悲しみを知らないのではないか。

2006.4.22.土曜 晴 町田

 竹島の測量のことで日韓がもめている。 少し前、自分は日本外交の事なかれ主義への疑問を書いた。

   中学の級友で外交官だった三宅和助の著書について、外交は戦争と違うから相手も立てなければならない、という論旨に対しての疑問である。それは一見もっともだが、どこかにゆずれぬ一線を設けておかないと、際限なく譲歩する結果になるのではないかというこである。私のHPでこれを読んで感想を送ってくれたのが、一月に亡くなった、これも外務省にいた中学同窓後輩の熊谷直博君であった。自身、外務省にいた身で、私の論旨につよく賛同してくれた。戦後の日本外交は、ひたすら事を起こさぬようにとの、ただそれだけで過ごしているように見える。そうなると、強く出る相手には尻込みし、弱い相手には強く出る、というはなはだ感心しかねる去就の持ち主ということになる。こういうクニの姿勢が青少年のためのよからぬ教育効果をあたえることにもなろう。韓国から際限なく強腰の圧力を受けたらどうするのだろう。最後にはくずくず言いながら引き下がるのではないか。安陪官房長官は「粛々とことを進める」などと言っているが、粛々などという表現、外国には通用しない。

2006.4.21.金曜 晴 町田

 
晴とはいえ、やや不安定、気温も妙に低い。

 
きのうあたりから、作曲の方法が少し低迷から回復してきた。serieによらずして、無調の音を選び出せばいい。作曲という仕事は、経験を幾ら積んでも、初期的疑問が新しく浮上してくる。それは、いつまでも新鮮ないとなみであることの現われなのだろうが、気骨が折れる。

 
1945年、占領軍本隊の進駐は秋もだいぶ深くなってからだったように思う。その前に先遣部隊が来た。先遣部隊というより、進駐打合せ要員だったのだろう。街路に数人のアメリカ兵を見かけるようになった。なにしろ、鬼畜米英、と教えられていた時代である。アメリカ兵は鬼だ畜生だ、人間ではない、と教え込まれていた。観念の中で無気味な恐ろしいものに思えたのは仕方がない。教育とは恐ろしいものである。いまの北朝鮮も同じ状態なのだろう。

 そんなある日、中学からの帰り道、繁華街を歩いていると、向こうから一人のアメリカ兵が歩いて来た。やや年配の長身の人だった。ヘルメット姿ではなく、三角の略帽をかむった略装で、いそがしそうな用ありげな歩き方だった。するとその前に、四歳か五歳くらいの男の子がふらふらと出てきた。するとアメリカ兵は、通りがかりに、少し身をかがめて、にこにこ微笑しながら坊やの頭をやさしく撫でて行った。この瞬間、私の中の「鬼畜米英」は消滅した。替って私の中によみがえったのは、キリスト教会の外人牧師さんのイメージであった。西洋人の小父さんのやさしいイメージがよみがえったのである。

 人のイメージ、観念、先入観、というものは実体とかけはなれたものが形成される。作曲でも、西洋に対して、われら独自のものを、と突っ張っていたのが若い時だったが、ヨーロッパに何度も行き、あちらに同業の友人が出来て、作曲の議論をしていると、いつのまにか、対立の意識は消えて、そんなことより、自然体でいいものを創ろう、という意識と感情に変ってきた。

2006.4.20.木曜 驟雨のち晴 町田

 朝から昼のかけて激しい雨と風。午後からすっきり晴れて陽光さす。

 ジープとは、GP、ジェネラル・パポーズ・カー、万用車、なんにでも使える車の略称だそうだ。アメリカが第二次大戦中生み出した車の傑作は、このジープと六輪トラックだそうだ。トラックの方はともかく、ジープはたしかにアメリカの実用主義が生み出した類のない車である。亡くなった作家の一色次郎さんは、この車は戦場の匂いがするから嫌いだ、とどこかで書いていたが、いまや、ジープは軍事用だけでなく、土木工事、調査観測など、あらゆる所で使われている。冷戦時代には共産圏の軍隊も使っていた。オフロードでの必要に応じる画期的な発明品である。この車、小さな体に4000ccのエンジンを使っている。トラック並みである。ただし速度の方は80キロしか出ない。速さを必要とする目的に使うものでないからだろう。力があればいいのだ。もちろん、四輪駆動である。
 終戦時、札幌に進駐してきた部隊は南方から来たので屋根も幌もついていなかった。やがて雪が降り出すと、急いで幌をつけた。暖房の方はどうなっていたのか知らない。兵隊たちは厚い外套を着ていたから暖房はなかったのかもしれない。

2006.4.19.水曜 曇ときどき晴 町田

 
この頃、少年の頃を思い出す。

 
私たちの世代にとって、なんといっても、戦争、敗戦、そして、はじめてのアメリカ占領軍との出会い、これはいまでは考えられぬ衝撃的な異文化との出会いであった。ほとんど宇宙人との遭遇のようなものだった。
 その年の九月か10月か、中学の帰り、札幌グランド・ホテルの前を通りかかった。そこに実に奇妙な型の自動車が止まっていた。人はいない。およそ、それまでの自動車の観念と全く符合しない妙なものだった。洗濯板のようなものに車輪が付いただけ。屋根もない。動けばいいという機能だけがむき出しになった形である。ジープだった。占領軍の本隊の進駐に先立って先遣部隊が来ていたらしい。ここで私は、いや私たちは、アメリカのプラグマチズム、実用主義というものにはじめて出会ったのである。アメリカは贅沢の国と思っていた。映画と、豪華なレストラン、ショウビジネス、豪華な乗用車、キャデラック、それがまったく反対のものであった。やがて、本隊が来てからは、巨大な六輪トラックに圧倒された。これも量産型で、直線と平面の組み合わせで出来ていた。しかし、おそろしく丈夫そうで力が強そうである。日本陸軍のニッサン製のトラックの方が、これにくらべればいかにも弱弱しいし、無駄な曲線、曲面が多い。文明とは贅沢奢侈と思っていたが、文明とは合理的でもあることか。これは驚くべき発見であり体検であった。
 
    いまは世界がせくまなった。アメリカも欧州も大阪か九州に行くようなものである。私たちのような衝撃はなかなか得られないだろう。だから、書き残しておきたい。まだまだある。


2006.4.16.日曜 曇 町田

   朝の小雨はやがてやみ、ただし陽光は余りさす間もなく曇天の一日となる。昨日の夜からひどく気温が下った。

 朝、聴くともなくBartokの弦楽四重奏曲を再生した。頑固を通り越して鉄のごとき意志が音の頑丈な鉄骨のごとく聳え立つ。どうしてこういう鋼鉄のごとき意志が持てるのか。かつて訪れたブダペストでの光景が浮かんだ。夕方の町外れ、石造りの二階建てか三階建ての集合住宅。それは200メートルくらいの長さで延々と壁のように威容で立っていた。老朽化した石の建物は、それにまつわる人のしがらみを石の中ににじみこませていた。一個ずつの部屋が並んでいる。その一個で、下着姿の中年の女が、灯されたはだか電球の下で、疲れた顔でベッドに腰をおろしたまま、放心して街路を眺めていた。その視線は見るべき対象もなく、女はただそこに居座っていた。建物は怪物のごとく、表情もなく、人を内側に包みこんだまま、人の寿命よりはるかに長くいままでそこに立ち、これからも、その女の命よりもまたさらに長く立ち続ける意志を示しながら立っていた。たとえようもなく暗い風景。それは、木造と紙の日本の家並にはない暗さだった。東欧のこの暗さはなんだろう。ギオルギュの「24時」の世界でそれはあった。Bartokの音からその暗さが浮かんでくる。石の世界の生み出すものでそれはあるのか。日本人にはとうてい共有しがたいものとしか思えない。

2006.4.11.火曜、雨 町田

朝から雨。明日にかけて強くなるらしい。

    北杜夫の長編小説「楡家の人々}を読む。飛行機少年のことが書かれている部分がある。

私が小学校に入る前の頃だった。フランスのジャピーというバイロットが操縦する単座機が日本に飛来した。当時は欧州と日本を飛ぶことがまだ大変な冒険だった時代である。ところが、このジャピー機が帰路遭難した。鳥取あたりの山中に墜落
しているのが発見された。無論ジャピーは死んだ。札幌の三越デパートで飛行機にちなむ展覧会があった。私は、父に手をひかれて見に行った。その会場に墜落したジャピー機の残骸の一部が展示されていた。主翼のあたりらしいが、赤く塗装された、金属か当時のことだから布製の翼の一部が無残に引きちぎられて置いてあった。私はむしょうに怖かった。人が死んだ器材の一部だからだろうか。家に帰っても怖かった。夜になり、トイレに行くのも怖かった。無残に破壊された翼の残像が浮かびあがるのである。そこには人の死にまつわる現場の影があった。人の死をこれほど身近に感じたことはなかった。ただし、そのことから飛行機が怖くなったわけではない。そのおびえが観念的なものでなかったから、飛行機が怖いという観念連合が出来なかったのだろう。それだけに実感的で不気味な思い出である。

2006.4.9.日曜、晴 町田

   東京都が景観保護のため規制ほ定めた。保護すべき建物の背後に、そのシルエットを消すような高い建物の建築を禁ずる。

   国会議事堂、明治絵画館、迎賓館、この三つだったか。いいことだ。ようやくこれが決まった。ひどいことをするものだと思うことがあった。ひとつは、広島の原爆ドーム。背後に高い建物が出来たためドームのスカイラインが見えなくなった。もう一つは、札幌の北海道道庁の赤レンガの建物。これも背後により高い建物が出来てアウトラインが見えなくなった。なんということをするのだろう。歴史的景観を守ろうとしない、守ることが出来ない、そんな国と人たちであるのか、この日本という国は。美のために破られない法則はない、というのはベートーヴェンの言葉だが、経済利益のため破られない法則はない、これが現在の日本の原則か。なんという国と人と社会だろう。浅ましく情けない。

    ネパールの政情が不安定だ。かつて、ラフカデオ・ハーンは、明治初期の日本の静けさとつつしみに生きる人々を見て、西洋に失われた美徳に出会い感動した。このことについて、ある人が、ネパールを訪れて、ハーンが経験したことと同じ素朴とつつしみの社会に出会ったと書いていた。そんなに昔のことではない。しかし、最近のネパールの騒然たる報道を見聞きすると、とんでもないことのようである。
    どの国も時代とともに変る。天国的な平安は続かない。ユートピア探しはやめた方がいい。そして、明治の日本にせよ、少し前のネパールにせよ、平穏とつつしみの社会の中で、差別と抑圧を強いられていた人たちがいたかもしれない。それを以って美徳とする風習のもとにしつけられて。


2006.4.7.金曜、曇 町田

 民主党の党首選挙。小沢一郎氏が選出された。

 よかった。歓迎したい。小沢さんは政治のプロだから。ただ、まじめ、善良、善なる者の代表、正しいものの代表だけで政治はできない。人の中には善も悪もある。権謀術数が政治には必要だ。与党が固定され、野党は批判するだけでは政権交替はありえない。極端にいえば、自民党とまったく同じ党がもう一つ出来るのが一番いいのだ。自民党が一番おそれるのはそのことだ。簡単な理屈で、店は一軒ではなく二軒あった方がいいのだ。同じものを売っているのでいい。一軒だと独占企業になる。複数政党制の目的はそこにある。野党らしさ、などは必要ないだけでなく与党を安心させるだけだ。店が二軒あって、客は両方に行くようになれば、そのうちに一軒がもう一つと違ったものを売るようになることもあろう。政策の違いはそれから少しずつ出せばいい。野党らしさを出せ、というのは自民党永久政権を目指す声だ。

2006.4.2.日曜、晴 町田


  午後からあめもよい。しばらく晴が続いたから自然なこと。

  七月の作品演奏会、チラシと券の印刷が出来た。いよいよ秒読みである。すべて早めに取り組んできたので万事無理ない展開となつた。友人知人に呼びかけて券を買ってくれる人には感謝のほかない。欧米先進国では音楽家が自分で券を売ることがないとのこと。おカミか公共機関が引き受けてくれるのは有難いことだが、それにしても、経済的に応援してくれることは分るが来てくれる人をどうやって集めるのだろう、それが不思議だ。
人気のあるひとも、ない人もあるだろうに。いくらおカミでも、その気がない人を連れてくることは出来ないと思うのだが。音楽会が余り多くなく、需給の均衡がとれているということか。それなら分るが。しかしそうなると、音楽会を開きたくても供給過剰の理由で規制されることになるのだろうか。その辺のことを知りたい。外国の情報も過剰なほど紹介されるのに、そういう肝心な事情について報道してくれる記事がない。評論家、新聞など、情報機関に考えてほしい。

2006.4.1.土曜、晴 町田

  きょうから四月、エイプリル・フールというわけ。昨日までの花冷えもおさまり、ハーフコートが汗ばむような暖かさ。

  民主党の指導部が総退陣した。にせメール事件の後始末のため。馬鹿げたことをしたものだ。あの時の永田議員の「追及ぶり」は、大声を出し、はしたないものだった。人を責めることは容易なこと。昔、ソクラテスは言った。一番たやすいことは何か、と聞かれて、「それは他人を責めるこ」と。一番難しいことは何かとの問いに、「自分を知ること」、と答えた。他人を責めることは簡単だ。前に辻元清美議員が鈴木宗男を追及した時もそうだった。すでに摘発されて抵抗力を失った相手にここぞとばかりバリザンボウを浴びせていた。相手のスキャンダルを暴いて手柄にしようなどと考える間は政権党になれない、とは渡辺浩三議員の言葉である。
    もっとも、このことは、民主党だけのことではない。また、個人道徳の水準だけのことではない。社会革新、革命をとなえる思想の人、その政党は原理的にこの論理の上に立っているではないか。社会のどこかにワルイもの、ワルイ人、ケシカランもの、人がいる、それを倒せば、取り除けば世の中がよくなる、こういう論理の上に立つ思想、人、政党がある。戦争に反対をはでに叫んでいるが、階級闘争はおおいにけっこう、こんなおかしなことがあるか。人を憎むことでは同じではないか。憎しみからいい世の中が生まれる道理があるはずがない。共産圏が滅びたのはそのせいである。

2006.3.25.土曜、晴 町田

 好天、気温もおだやか。


 
宮沢賢治は、死ぬ時に、自分の原稿をあずける人に、「すべては自分の迷いの跡です」、と言ったそうだ。ものを造る者としていたく共感する。「断固とした自己主張」、などというものとはほど遠い。もしかしたら、BartokやSchonbergもそうだったのかもしれない。彼らの音楽からは不動の信念が聞えてくるようだが、当人たちは迷いとの戦いの中にいたのかもしれない。
    真剣に自分を探る仕事は迷いである。迷いの連続である。どの自分が真実か、それ自体が迷いである。音楽には様々な様式がある。自分の中に、それぞれの様式で作曲し表現すべきするものがある。その中のどれが真実か。穏健な様式でひとつの作品が出来たあと、同じ様式で表現しようとすると、もうウソになる。前の曲の世界で表出することがすでに尽きて、いまの時点と段階ではすでに心は別のものをもとめているから。ベルグソンの言う、現在だけが確かな真実だ、ということばが手痛くせまってくる。頼まれ仕事、商売仕事の作曲ではこの迷いはない。注文通りのものを造ればいいのだから。プロの技術を持ち、いろいろな言葉づかいで創作できればこそこの迷いが生まれる。技術のないしろうとにはこれはない。ないがしかし、その場合、ある様式で自分が出尽くしてしまったあと、手詰まり行き止まりになる。BeethovenやBrahmsのような練達のプロは、だから、途中で様式を変えながら、創作の仕事をいつまでも続けた。Beethovenは晩年に、「大フーガ」のような曲をなぜ書いたか。それは、その時点での自分を満たすものがそこにあったし、それしか真実でなかったし、そして、それが技術として可能だったからだ。
 「stella」のあと、迷い、逡巡のひとめぐりのあと、原案にたどりつき戻った。ほんの少しの手直しで不満は解消し、これだけがいまの自分の真実であると断定できる地点にたどりついた。気がついたらもとの地点から数メートルも離れていない所にいる自分を発見した。

2006.3.23.木曜、晴 町田

 
きのう夕方から降りだした雨は昼頃までにやみ、日が差してきた。

   今日は好天、冬の外套では少し暑いくらい。昔は寒がりだったが、いつの頃からか暑い方が嫌いで寒いことは余り気にしなくなった。大分以前のこと、ドイツの作曲家の友人が来日した。季節が九月初旬だったが、鎌倉を案内しているうちに暑くて悲鳴をあげたら、彼が、「貴殿はここの住人ではないか」、と怪訝そうにした。私は、「小生は北日本、ノルト・ヤーパンの出である」、と答えた。

 仏教に、顔だか頭だかがたくさんある仏が出てくる。八面六臂だか千手観音だか、こういうのは人の中に複数の人格が宿ることを現わしているのではないだろうか。自分が一人ではなく、幾人もいるというのは怪談じみてるがそれが実相であるように思われる。ただ、自分の中の、真実の自分と、いつわりの自分が区別がつかなくなるのは困る。昔、音楽を担当した村山知義の劇作、「忍びの者」の中のせりふに、「あんまりウソをついていると、自分の中のウソと真実の区別が出来なくなる」、というのがあった。芸術家にとって、これは一番恐怖すべきことである。外からの注文に応じる仕事をやりすぎるとこういうが起こる。

 
昨日、中野恵さんに「stella」の楽譜を発送した。expackという小包である。今朝mailが来て、きのうの内に届いたそう。これは驚き。その日の内に届くとは。明治時代にはその日のうちに郵便がとどいたそうだが、いまどき珍しい。民営化へ向い、サービス向上で宅急便に負けないようにしているのか。それならけっこうなことだ。

   
相撲では、白鵬が朝青龍をたおした。強い者もいつかは追われる身となる。しかし、この二人、ともにモンゴル人である。このほか、ブルガリアの琴欧州、ロシアの人たち、土俵が外国人に占領されたみたいになったが、しかし、そうではなく、日本の相撲が世界のものになったのだろう。音楽でも、日本人の演奏家、作曲家が世界に進出しているのと同じ。西洋音楽が世界音楽になったのだ。

2006.3.21.火曜、祭日 晴 町田

 
おだやかなお彼岸の日、自転車で近所の区立図書館へ。家族づれの散歩が多い。平和な風景。

 午後から町田の仕事場。「Stella」が出来て、pan fluteの曲をも一度見直す。無調の世界とそうでない世界と、どちらが自分の本当なのか。段段に分らないことが増えてくる。作曲に限らず、美術も、文学も同じだろうが、自分で自分を探すということは容易でない。どちらも自分であるように思われる。しかし、どちらがよりホンネか、これがまた考えると際限のない淵へ引き込まれていく。自分を納得させるために制限を排して難解複雑な音を連ねる。そのかたわらで、これでは人々の共感から遠ざかる、それでいいのか、という声が執拗に自分を責めたてる。自分を納得させるということがそもそもどういうことで、何を意味するのか、そもそも{自分」とは何か、という一大難題が出て来る。人は、完全に「自分」になりきることが出来るのだろうか。自分の中にはつねに「他者」がいるのではないか。それが社会に住む人間としての「自分」の真の姿ではないのか。その地点までさかのぼらないとこの難題にめどはつかない。

2006.3.20.月曜 晴 町田

 新しいViolinとPianoの曲が出来た。

 「afternoon 」「Vanessa」に続く同じタイプの曲。これで三部作となる。曲集全体の名前を考えねばならない。こんどの曲名は「Stella」、お星様の意味。もともとは環境音楽で、その点は「afternoon」、「Vanessa」と同じ。「afternoon」と「Vanessa」はまったくの自主制作だったが、 「Stella」は違う。これはいわば売れ残り。曲のせいで売れ残ったのではない。某大手建設会社本社ビルの館内音楽の作曲制作を10年以上続けてきた。毎年新作の委嘱が来る。2003年のこと、ことしもまた来るから先に作っておいた。ところが不況のため今年から中止とあいなった。そのため売れ残りになったのが「Stella」。電子音楽だったのをViolinとPianoに作り直した。この手の編作によるとこれまでの電子音環境音楽でViolin、piano用になる曲がずいぶんある。それでも、どこかで使用中の「販売ずみ」の音楽は気がひける。自分の作品にするのだから二重販売ではないが、いかがなものか。そうではなく、むしろ、売った相手の宣伝になるとも思えるが。
   この「Stella」で思い出した。、作曲制作したのが2003年丁度イラク戦争が始った頃だった。案外とバクダッドが簡単に陥落してしまったのが意外だった。しかしあれから三年、そうはいかなかった。やはり他国の領土に武力に侵入することはうまくいかないものだ。

 「Stella」で平静な調性の音楽を扱っていると、やはりserie音楽よりこちらの方が自分の世界であることを、つくづく、しみじみ感じ入った。またその世界に戻れそうだ。「Stella」のおかげ。この楽譜は中野恵さんに送る。中野さんは先月埼玉で「Vanessaを初演してくれた。

2006.3.18.土曜 晴 町田

このところ、気温高く、にわかに春めいてきた。有難や。

   15日は芸大の同期会、奇数年に一年おきに開いているから本来は昨年のはずだったが、幹事の都合でことしに繰り越した。正午学士会館。20人が出席。例年より出席者は少ないが、青春時代の学友とのえがたい再会の場であった。正午始まりだが、当然ながらビール、ワインが登場、昼日中から酒宴となる。席上、藤田晴子さんの著書「シューベルト、人と作品」が配られた。この著書の出版にかかわった人からの寄贈であった。
   昨晩は、アメリカの若手ヴァイオリニスト、アンドリュー・コージ・テイラーのリサイタル。トッパンホール。みごとな演奏。ひさしぶりにクレームの出しようがない演奏に出会った。プログラムがユニークである。ヤナーチェック、グリーグ、モーツァルト、プロコフィエフ、いずれもソナタ。近現代の中にモーツァルトを一曲配した心憎いばかりの洗練された趣向。ヤナーチェックのソナタははじめて聴く。ドイツ・オーストリア系の音楽とは違う別の音楽世界に出会う。しかも、旋律が芳醇、和音リズムも正調でありながら非俗。アンコールがまたこっていた。メシアンの「世の終りのための四重奏曲」からヴァイオリン・ソロの一章。夭折した日本人ヴァイオリニスト、渡辺茂夫の小曲、渡辺は作曲もしていた。三番目がグノーの「アヴェ・マリア」。聞き飽きた曲を並べるよくある型のアンコールとは違う。強く感得したことは、メシアンも渡辺作品も、そして、本プロのヤナーチェク、、プロコフィエフも、聴衆にはいささかも違和感も抵抗感もなく、それどころか聞き飽きた通俗古典よりはるかに心にひびいて伝わったことである。会場にいると、会場の自分以外の人たちが音楽をどう受けとめたか不思議と分るものだ。
    終演後、ヴァイオリンの中野恵さんと飯田橋でワイン。帰りが遅くなった。

2006.3.12.日曜 晴 町田

 暖かいが風強し。春風。

 近所の区立図書館から、澤地久枝の「蒼海(うみ)よ眠れ」を借り出して読む。全六巻の大著。副題は「ミッドウェー海戦の生と死」。この海戦で戦死した日米両方の兵士の生前の記録と、残された遺族を尋ねた手記。これを読むと戦争の反人間性とその悲惨さ、兵士だけでなくその家族まで恐ろしい不幸に落とし込む有様に息を飲む。先頭に立って突撃して死んだアメリカ雷撃隊の隊長の妻のもとに、戦死のあと呪いの手紙が複数来たという。「自分の家族を殺したのはお前の夫だ」ということが書いてあった。その妻本人はすでに亡く、澤地が会ったのはその娘だが、彼女は、「敵だった日本人とこうして心をかよいあわせることが出来るのに、同胞からなんというひどいことを言われたことか」と。まだ幼かった彼女と妹は夜が来るのが怖かった。母の部屋から泣き声が聞えるから。
 国のために、という観念は18世紀末頃に出来たものだそうだ。それまでは、皇帝のために、とか、部族のために、という観念はあったが、「国のため」という考え方はなかったそうである。この観念も絶対のものではない。観念が一人歩きをすることをさせてはなるまい。全六巻の内、三巻目まで読み進む。

 今晩は、作曲の北条直彦君に会う。CMD運営についての協議。

2006.3.9.木曜 晴 町田

  K君、対位法の勉強、体調のため来週に延期を乞うてくる。今日は自分の時間が使える。

  昨日に比して8度くらい気温が低い。三寒四温の時期だ。
 昨日の晩は、NHKTV、「その時歴史は動いた」でゼロ戦の悲劇を見た。パイロットと技術者の苦情に耳をかたむけようとしなかった海軍首脳部。精神主義ばかりとなえる軍人たち。その中に源田実もいた。

 故あって、「La Bohem」を聴く。この曲は永遠の青春の賛歌だ。少し前、環境音楽の仕事で、ある大企業の幹部たちと会食した。談論風発の中、ある部長さんが語る。「私はね、安保闘争の時、早稲田の学生で国会裏門から突入したんですよ」。その年代の人たちがいま大企業の幹部になっている。それでいい。青春のひと時、それは永遠のロマンだ。

 「Tristan und Isolde」の「愛の死」。18歳か19歳の時、ViolinのKさんと、この曲を取り入れた映画を見た。Kさんはその時中学生だった。映画のあと、デパートの何階かから札幌の街を見下ろしながら一時間ちかく時間を過ごした。喫茶店にいく知恵も無かった、その当時は。すでに11月、札幌の街には冷たい初冬の雨が降っていた。私の頭の中では「Tristan」の旋律がうねっていた。
 Kさんは10年前に亡くなった。Kさんのご主人からそのことを告げられた。

2006.3.8.水曜 晴 町田

小林秀雄そのまた続き

 小林秀雄は常々「批評とは他人をダシにして己れを語ることである」、と言っていた。私はこれを善意に解釈していた。確かに、自分の意見が全くないような批評がある。自身の見解はどうなのだ、と言いたくなる。音楽批評でもしかり。しかし、他人の作品をダシにして、と言っても、そもそも、ダシにするほど対象にふれてもいないのでは話にならない。ふれないのだからダシも出ない。

 小林は、かつて戦争中、中国戦線におもむいたことがある。この時に戦争の過酷な実相に触れたはずなのに何も語らなかった。戦後の冷戦時代にはソ連に行き見聞を書いた。この当時、竹山道雄が、東ドイツから西ドイツへ逃亡する人について執拗に論じていた。小林はこれを揶揄するような言い方をした。ソ連旅行については、「いまこの国は忙しいのだ」、とか、「文士に分るような国家秘密は秘密ではない」、などと書いた。分っているように自身でも思いこみ、体験よりもその自信を上に置く。オトナぶる、とでもいうか。それがこの人の基本である。戦場で戦争の現実に触れて思想を検証しなおしたり、ソ連に行って社会主義の実態を体験し、何か新しいものを抱懐したり、そういうことがこの人にはない。ダシにして己れを語る、ということは、はじめから対象に触れる気がないということである。本人不在の批評も困るが、対象不在で自分のことだけ語るリサイクル批評も困る。この人を大批評家として祭り上げていたということは、日本の評論界がそれほど貧しかったということか。

 少し古くなったが、スケートの荒川選手の「Turandot」はよかった。あの歌の歌詞は「誰も眠ってはならぬ。星は沈み朝が来る。そして私は勝つ」、というもの。その通りになった。歌の意味まで知ってあの曲を選んだのならたいしたものだが、開会式でPavarottiが歌ったのを聞いてあの曲にしたそうだ。歌詞まで心得た上でのことかどうか分らないが、ともかく演技によくあった見事な選曲だった。

2006.3.3.金曜 曇 町田

 小林秀雄の「モーツァルト」を50年ぶりで再読。

 若い頃たいへんに尊敬した文であるが、いま読むと、こんなものだったかと思う。Mozartの音楽の実体に一切ふれることなく、ということは音にふれることなく、ということだが、自分の思い込みを勝手につづっているだけ。ゲーテが何言ったとか、誰それが何した時、誰それが何を言ったとか、伝聞噂文にもとづいて自分の勝手な思い込みを並べている。こんなもので音楽を論じたことになるか。Mozartの手紙を引用して、「私は楽想が次々浮かんできて、それを保存しておくだけです」、と書いていることに感心しているが、こんなことは、モーツァルトほどの天才でなくとも、凡人の作曲家でも、プロなら誰にでもあること。有名なゲーテの言葉、「Mozartの音楽は悪魔が人間をからかうために作った音楽だ。マネをしようとしても出来そうで出来ない」。これも別にMozartの音楽でなくとも、どの作曲家の音楽だって同じではないか。
 そんなに自然に流れ出た音楽というなら、あの精巧複雑をきわめた対位法をどう考えるのか。あれも自然に湧き出てきたものか。馬鹿げた話だ。西洋音楽の作曲はそういうものではない。
 ただ一つ、この文の中で、というより、文中に引用された文言でいまの読後感をびたりと表現しするものがある。ゲーテの言葉で「人は歳をとると若い時とは違うようにものを考えるようになる」、これは本当だ。再読してそう痛感した。小林秀雄の「モーツァルト」は評判だおれの阿呆な文だ。若い時はわからなかった。

2006.3.2.木曜 曇 町田

 昨日は宮谷理香さんのリサイタル。浜離宮朝日ホール。

 Chopinシリーズのひとつで、今回は作品10のEtudeと、Hummel、ScriabinなどのめずらしいEtudeを前半に並べた。前半は演奏者のトークつき。昔は、演奏家は言葉で語ることをいさぎよしとしない風潮が精神主義としてあったが、いまの若い人は平気である。TVの影響もあるのだろう。しかし語りが余りに長いと、落語の間にpianoが入ってくるようで、寄席にいるような気分がしてくる。主客転倒の感が出てこなくもない。なんでも勇敢にやってみることはいいことだろうから、今回は一つの実践例として有効だったろう。

 NHK、FMでSchonbergの弦楽四重奏曲二番を放送、録音してscoreを見ながら聴く。ひさしぶり。数十年ぶりにこの曲を聴く。この前のBartok同様、こういうものを作るに至った心境は理解できるようになったが、しかし、やはり、こういうものを作りたいとは思わない。Bartokよりもさらに思わない。響きが自分の体質と合わないこともあるが、あまりに音楽の自然なあり方から離れているように思える。作曲者の思想、時代と場所の背景、などなどが反映しているのだろう。それが、いま東京で聴く者に共鳴しかねる質をはらんでいるのだろう。

 今晩は、深沢亮子さんの室内楽リサイタル、外国の弦楽四重奏団とMozartの夕べ。このところめまぐるしい。

2006.2.28.火曜 雨 町田

 今日で二月はおしまい。

 曇天で薄ら寒い。

  銀行はATM使用の列が長蛇。建物の外まではみ出している。一昨日26日は気がつけば、2.26.事件の日である。昭和11年か、青年将校が決起して重臣たちを襲い、10人以上の人たちが殺害された。陸軍は彼らを軍規違反で処罰したが、気持ちは分る式の対応があり、処罰はしたが断罪はしなかった。その流れが軍独裁と戦争への暴走を招いた。昭和11年、私はまだ小学校に入っていなかった。札幌は遠隔の地だが、後日、母が、ラジオが聞えなくなったのでおかしいと思ったと言っていた。
 ロシアにもデガブリストの乱というのがあり、やはり若い軍人たちが反乱を起こしたが、彼らは貧しい民衆を救おうという大儀が目的だった。国体の本義護持を目的とした2.26.とは大きな違いがある。

  昔、12音の研究会を続けていた頃、シェーンベルクの言葉について柴田南雄先生に質問したことがある。先生は、作曲家は思った通りのものが出来ないといけないわけでしょう、と笑いまじりで言われた。その時は、そんなものかと鎧袖一触された感であったが、いま思う。やはりそれはおかしいのではないかと。創作という仕事は、思ったとおり、というわけにいかないものだ。またそこに秘密があるのではないかと。
Beethovenですら、当初の計画通りにいかなかったことがあるではないか。創作とは自己の内なる声を聞きながらの仕事である。途中でその声が何を言い出すか分らない。生きることと等意義で、人間には未来のことはわからないのだ。

2006.2.26.日曜 雨 町田

 朝から盛大な雨降り。カサさして豪徳寺駅利用。明日、BさんにMD playerゆずる約束なので、今日は自転車ではなく抱えて帰宅せねばならない。運がるいか、天気の意地悪か知らぬが、仕方ないことは仕方ない。

 昨晩は、NHKの連続TV劇「氷壁」が最終回だった。なんともかんともひどいもの。原作は完膚無きばかりに蹂躙され、似ても似つかぬものになった。それでも新しい何か見るべきものが出来たのならそれもよいが、酷評を一々書くのもきりがないほどひどい出来だ。一つ二つだけあげるなら、石坂浩二がミスキャスト、この人は大会社の社長に見えない。実業家のタイプではない。夫人、美奈子も不適役。この役は絶対的美人でなければならぬ。何を表現したかったのかそれが分らない。NHKは評判わるい昨今、これで挽回どころか上塗りをしてしまった。NHKの制作体制はどうなっているのか。話はそういうところにいくのではないか。

 ひさしぶりに、Bartokの弦楽四重奏曲三番を聴く。若い頃観念的に傾倒し、30台に入ってからは自分との体質の違いに次第に気がつき離れていったこの作曲家とこの曲。いま数十年ぶりに聴くと、またなにかしら共感するものあり。自分を納得させるためにいかなる不協和も怖れることなく前進する姿に範とするものが強く伝わる。作曲という仕事はこういうものであったか、Bartokが死んだ年齢より10歳上になってはじめて分ってきた。

  ここまで書いたところで、Bさんからmail、明日のMD引渡し、来週に延期してほしいと。これで無理して持参する必要はなくなった。

2006.2.22.金曜 小雨 町田

 予報どおり、午後から降り出す。気温低く、冬に返ったような冷雨。

 国会のmail騒動は、民主の永田議員がニセmailの責任をとって辞職したいと言い出すお粗末。お粗末にもほどがある。永田という人はケンカした経験がないのだろうか。マヌケというかお人よしというか、政治家にとってマヌケやお人よしば全く美点にならぬ。役立たずの意味でしかない。これを許した民主党の野田国対委員長も同罪だ。これを出す以上、相手側も命がけの反撃をするのは当り前である。よくよく調べるのは当り前だ。永田議員は東大法学部から大蔵省に入ったエリートだそうだ。そういう経歴と、常識があるかないかは別なのか。ホリエモン同様東大出の間抜けおそろいである。
 それより肝心なことは、mailの真贋よりも、カネの動きそのものである。そういうカネの動きは本当になかったのか。政治評論家たちは何故か揃ってそれを言う。もしかしたらクロウト筋にはしかるべき情報が出回っているのではないか。武部幹事長の妙に控えめな反発ぶりと自民の消極的反応に不自然なものを感じる。もう一場面ドンデン返しがあるのではないか。あまりにお粗末な終幕にそんなことを期待したくもなる。

2006.2.22.木曜 晴 町田

 昨日に引き続き暖かい。有難い。
  町田の仕事場の六階のベンダを開けると春風といっていいさわやかな風が吹き込む。この戸を開けなくなって何月ぶりか。

 ことしはモーツァルトの生誕250周年だそうだ。あやかりだか、ホンネだが、色々な話題企画が出ている。15年前、1991年は没後200年だが、この年の三月にWienで録音があり、録音元の在WienのアメリカのCD会社に、ことしはモーツァルト没後200年でさぞかしホテルも混むだろうから早めにホテルを予約してほしいと話たところ、「それなんのことですか? こちらは何も騒いでいませんよ」と言ってきた。日本だけが騒いでいるかのような口ぶりだった。もっとも、その前年、1990年にWienとBudapestに行った時は、Budapestの繁華街で、モーツァルトの当時の衣装を着けた若い青年男女が何かのビラやチラシを配っていた。いかにも楽しそうにいたずらっ気いっぱいで配っていた。アルバイトだろうが、オペラから抜け出してきたようで可愛らしく楽しげだった。これは200周年と関係あったものと推察される。いったいに、日本は、因縁、あやかりが好きだ。そのこと自体は、国民性で自然なことで、いいわるいを言っても仕方がないのだが、これが権威主義と盲目崇拝を助長することもある。そういう気配を感じる時は不愉快である。年末の「第九」にしても然り。ご神体、ご本尊に触れるかのような風潮で、まるで昔のお伊勢参りだ。そして、モーツァルトといえば、音楽の化身、だれも文句は言えまい、という怠惰で押しつけがましい下心が見え隠れして不愉快だ。反核運動が、「誰も文句は言えまい」の下心で人に迷惑をかけまわったのと同じでものを感じる。モーツァルトが嫌い、という人がいるそうである。こういう意見も聞いてみたい。

2006.2.22.水曜 晴 町田

  19日の研究部会例会参加の皆様へ

    大事なことをひとつつけ加えたいと思います。

   西洋の機能和声音楽は昨日説明したように、緻密な法則によって編みこまれ配列されていますが、大事なことは、タテに見れば和音の塊りがヨコに並んでいるわけですが、一つ一つの和音を構成する音がヨコに見ると、この一つ一つの音がヨコのつながりの線として体裁が整えられているということです。つまり、何本かの線が、同時に進行しているのです。音楽は時間現象ですから、このヨコの流れが大事で、タテ糸とヨコ糸が織物のように編まれているわけです。聞く限りでは和音が連なっているように聞えますが、実は、その中に、何本もの整えられた線が聞えているのです。今風に言えば、これが情報として人の耳に入って来るわけです。基本的には三本、またはそれ以上の数の線が同時進行しているわけで、これだけの情報量が同時に人の意識に入ることになります。
   西洋近代音楽が人にあたえる説得力はこの有り余るほどの情報量から来るということです。しかも、それらの線が、洗練の限りをつくして整備ととのえられているので、激しい和音の表現の中に、優美にととのえられた線の動きが隠されているということです。BeethovenからWagnerまで、雄渾で豪壮な表現の中に、優美優雅な線がしこまれていることで、豪壮と優美という端から端までの両極が満たされているところに西洋近代音楽の表現力の豊富さがあるということが大事なことです。これだけの豊富な情報量を持った音楽はほかの民族音楽には存在しません。昨日最後に聞いたブーレーズの音楽はこの特質を温存しています。私たちが、日本独自の音楽を創造するにしても、この世界史的な遺産を相続してはじめて相続者としての資格を得るということでしょう。

例会講師: 助川 敏弥

2006.2.21.火曜 曇 町田

 ようやく雨はやむ。

 冬の雨はみじめでかなわぬ。自転車が使えぬことから様々な不自由が発生、電車の利用駅まで変更するはめになる。夕方から薄日がさしてきた。有難や。
 
 国会では堀江メール問題が大問題。ぜひ追求してほしいが、攻める方も、それなりの動かぬ証拠を示して攻めないと名誉毀損で返り討ちにあう。ここまで来ると双方とも引くに引けないだろう。明日の党首討論でどういうことになるか。こういう問題を下らぬと言う人がいるが、自分はそうは思わない。現実は、小さな断片の集合である。こうした個々の事象が集まって大きな重い現実が構成される。小さな事の奥に大きな事、重い事、普遍的な事象が姿を現わすのだから。

 チラシの校正は今日で最終、印刷に入る。七月までまだ五ヶ月あるが時の経つのは早い。宣伝広報を始めるには早過ぎるとはいえない。ようやく自分にも現実感が出てきた。

2006.2.20.月曜 小雨 町田

 昨日は、金原礼子さん宅で、研究部会の例会。
 「西洋近代音楽におけるドミナンテの拡大」、というテーマ。講師役をつとめる。

 参加申込が少なく、二三人かと覚悟していたが、当日参加の人が次々と訪れ、九人となった。こういう私宅をお借りしての研究会は、信頼のおける人だけが参加する所がいい。昔、柴田南雄先生宅での「十二音音楽研究会」もそうだった。少し古いかもしれぬがブルジョア的サロンである。かつての、パリの「マラルメのサロン」もそうだったろう。終ってから、家主の金原さんがワインを振舞ってくださり、楽しいパーテイになった。BGMは、ピエール・ブーレーズの「ル・マルトー・サン・メートル」、これがまたワインによく似合う。どうなってるんだろう !?そういえば、この音楽は怪奇映画には合わない。明るい。バルトーク、リゲッティ、ペンデレツキとは違う。これはどういうことか。現代音楽が怪奇映画に合うのは問題ではないか、と書いたが、そうでないものもあった。

 チラシ校正の件、ようやく今日月曜午前、橘川君が新演奏家協会と電話連絡がつき、なんとか修正可能の模様。世の中こんなもの。ぎりぎりで落着する。人は未来を予知することが出来ない。未来については不安な見通しを持つことしかできない。ベルグソンの言う通りだ。哲学は一見日常と縁の遠いことのようだが、どうしてどうして、常日頃のことにその哲学が姿を現わす。

 今日は、朝から小雨。ただし気温は低くない。三寒四温の季節だろう。春は確実に近づいている。

2006.2.18.土曜 晴 町田

 昨日は、夕方から寒く、出かけると顔に冷たいものが、雪だった。北海道生まれだが、東京の寒さの方が寒く感じる。

 昨日は、日本音楽舞踊会議の新理事会、体制が一新、新理事長に戸引小夜子さんが選出された。はじめての「女性天皇」。進歩的とか民主的とか自称している団体だが、理事長、旧称事務局長はなぜか男性でなければならないような固定観念があった。人間の意識など身勝手で旧態たるものだ。進歩的、民主的が聞いてあきれる。ようやく社会に追いついた感あり。 終って数人で近所で飲む。こういう会合は楽しいが、この頃はやはりあとで疲れる。年齢はあらそえない。その時は楽しいが、対人会話が興奮とともに疲労を招くようだ。
 盛岡の次姉と電話、姉は若い時伊福部先生と交際していた。伊福部さんに兄上があって、お兄さんの方が作曲をしていた話をはじめて聞いた。お兄さんは若くして亡くなり弟さんの昭さんの方が作曲で有名になったそうである。姉もことし86歳。青春の日の遠い夢の記憶であろう。

 チラシのデザイン、21日最終校正ということで、出演者にも郵送したが、急変、校正は無理なよう。橘川君から緊急mail。少し心残りの部分があるが仕方ない。会議の席で協賛にすることをすすめられたが、これで不可能。そうでなくとも、公私の混同に思われそうでためらいがあった。本番のプログラムにはそうされてもらう。チラシは宣伝用だから、宣伝に利用したように見られたくなかった。この仕事では橘川君はよく働いてくれた。感謝。

2006.2.16.木曜 小雨 町田

 昨夜から小雨、ひさしぶり。

 昨日までの数日気温が高く、四月並といわれた。そのせいか、今日は気温が下がっても余り感じない。熱がどこかに残っているせいか。少しばかりの雨は恵みのうるおいを思わせここちよい。

 19日、日曜は、午後三時から目白の金原礼子さん宅で研究部会の例会がある。自分が講師で「西洋音楽とドミナンテの拡大」という発表をする。VivaldiからWagnerまでの曲例をMDにまとめて使用する予定だったが、数日前になって金原さん宅にMD再生器がないことがわかる。大狼狽。結局、高島さんに頼んでCDにしてもらうことにする。ちいさなMDだから「宅急便メール」という送り方をすると80円で行くはずだが、宅急便受付の店のおかみさんは憮然として通常の料金をとった。80円の方法はあとで知ったのであとの祭り。おかみさんがボッたのか、こちらが指定方式を言わなかったことが原因か分らない。分らぬが、知識なきことは損につながることを再認識。

 Pan fluteとElectoneの曲を作り始める。作曲が段段むずかしくなってきた。どういうわけか、いままでのように楽天的になれない。。

2006.2.13.月曜 晴 暖かい 町田

 映画「八月の鯨」をDVDで見る。

 1987年のアメリカ映画。老いた姉妹二人がメイン州の海辺の別荘で過ごす二日間の間の何事も起こらぬ物語。以前、劇団のスタジオ公演でみたが、美しい風景が大きな役割を果たしている物語だから、やはり映画でないと無理。八月のなると鯨が沖に来る。幼い日に二人の姉妹はそれを見に手をとりあって岬まで走った。その場面から始る。いまは、二人とも80歳を越す。
 このほかに、亡命ロシア貴族の老人と、老いた大工。出演者すべて70歳以上。老いの美しさをここまで描いた物語と映像は希である。
 姉役をベティ・デイビス。、妹をリリアン・ギッシュ、妹役のギッシュがことのほか見事。この人はこの時92歳だったそう。小津映画と似ているが違う所がある。姉は目がわるいこともあり、性格がひねくれている。その姉をよく辛抱しながら妹が面倒みる。小津映画のように善人ばかり出てくるわけではない。だから、現実感が出る。人間らしさが出て来る。こういう、何事も起こらぬ物語を描くことは文学としても最も難しいだろう。音楽にたとえれば、強い部分もなく、きわだった音色の変化もなく、淡々と、Preludeのように過ぎて終る。そして聴いたあとにつつましくも深いものが残る、そんな曲であろうか。そういう作曲をしたいものだ。

2006.2.12.日曜 晴 町田

 10日、七月の記念演奏会のチラシのデザイン印刷の打合せで京橋の新演奏家協会に行く。

 弟子の橘川君同伴。橘川君はコンピュータ・デザインを心得ていて、こんどのチラシは昨年から取り組んでくれた。諸事打合せ、来週早々にも完成DATAを入稿することになる。三月一日に宮谷理香さんのリサイタルが浜離宮朝日ホールであり、翌二日には深沢亮子さんのリサイタルが紀尾井である。両方とも当日のプログラムにチラシをはさみたいということで期限目標が出来た。いよいよ広報開始。帰路、橘川君と銀座ライオンによる。BGMを鳴らさない店で、人でにぎわっても話しの邪魔にならない。1911年創業の店は品格がある。天井が高いせいか。現代の建築は天井が低い。空間の節約だろうが、そういう所をケチルとどこかに貧乏くさい結果が出てくる。
 11日祭日は、日本音楽舞踊会議の定例総会。委員という役員名称を廃止して理事会制にする。反論なく通過。どこの文化団体も同じだが、委員とか、委員長とか、書記長とか、労働組合的な呼び方がカッコよかった時代があった。当時の風潮でそう名づけたが、いまは改称する所が多い。時代の流れである。昔この団体は左翼系の人が多く、委員会も総会も喧騒をきわめたものだが、いまはそれもない。粛々たる、といいたいところだが、いささか平和ボケの気味がある。左翼がけたたましかった頃は心底彼らを嫌悪したが、いまのように無風状態になるとこれいかがなものか。少しは騒ぐ人もいた方がいいのかという心境になる。だらしがなくなることが一番困るのだ。
 トリノ五輪が始った。またもや金太郎飴報道。どのchannelを回しても五輪騒動。同じものを同時並行で放送しても仕方がないと思うが、安全第一でこういう番組を編成するのだろうか。
 
 イスラム教徒によるデンマーク新聞のモハメッド戯画化への抗議がおさまらない。私はイスラム教徒の行為を肯定できないし、好意も同調感も持てない。ヨーロッパ近代の社会がイスラム文化から多くを学んだことは確かだ。イスラムはヨーロッパ文化の先輩だったはずだ。なのに、近代以降のヨーロッパ主導はおもしろくない。こういう感情が根にあると聞く。しかし、しかしそれなら印度や中国はどうなるのか。彼らはヨーロッパに先立つ立派な文化を持っていた。イスラムよりはるかにもっと先立つ文化を持っていた。なのに、自分たちを先輩として表敬しないのはけしからん、などと、印度や中国の人々は全く主張しないではないか。自分の主張ばかり騒ぎ立てるイスラム教徒か文化には、はしたないものを見るのだ。ヨーロッパ、キリスト教社会とイスラム社会の対立のようだが、この際、仏教社会やヒンズー社会の意見も聞いてみたらどうか。
 それともうひとつ、誰も語らぬが、今度の騒動で分ったこと。マルクスの唯物論なるものがいかに間違ったものであることかということ。意識は存在の反映などどどこの阿呆の言うことか。マルクスに対してマックス・ウェバーは宗教が人間社会に占めるものを重点的に要視していた。いまだにマルクスの経典の解釈に夢中になっている馬鹿者たちよ、目を覚ます機会だぞ。

 2006.2.9.木曜 晴 町田

 相変わらず寒いが一頃よりは幾らかましのよう。

 伊福部昭先生の訃報が届いた。同郷の北海道出身の先輩だが、生涯通じて交わりはなかった。いまどきの現代作曲家でこの人ほど人気のあった人はいないだろう。心酔する人の心酔の度合いが並外れている。話を聞くだけだが当惑するほどである。どこからこれだけの人気が出るのか。源泉がその音楽なのか人柄なのか、それもわからない。
 伊福部さんの音楽は西洋音楽の技法をきわめたものではない。土俗風というか、自分独自のostinato様式で貫いた。それがいいという人が人気をささえているのだろうが、それでいいのだろうか、との思いが去らなかった。ただ、最近になって思う。この人も、また早坂文夫も本当はもっと西洋音楽の技術をきわめたかったのではなかろうか。しかし、あの人たちの時代、勉強しようにも出来なかった。教えてくれる人もいないし場所もない。平尾貴四男や池内友次郎、諸井三郎の時代は少し以前で留学が出来た。しかし、早坂、伊福部の時代はすでに日本の国際情勢はそれを不可能にした。とすれば、時代がわるかった。気の毒である。めぐまれた時代に育った私たちが批判めいたことを言うことは個人道徳的には許されない。伊福部さんの「管弦楽法」の著書は世界的名著である。あれだけ、音楽技術を、物理、工学の角度から徹底的に解明した本は世界のどこにもない。これだけの人がもし西洋の技術をものにしていたらどうなっていただろうか。私はその方を想像してしまう。なにはともあれ大先輩の業績に敬意を捧げたい。

  2006.2.8.水曜 晴 町田

 昨日は気温が上がるとの予報がはずれ、真冬なみの寒さとなった。

   気象庁には抗議が殺到したそうだ。はずれるのは仕方ないとして、外套は要らないとか、セータは薄くでいいとか、天候以外のことを言うな、余計なことを言うなという抗議が多かったそうだ。この頃の予報はなんのつもりか、こういう妙なおしゃべりがうるさい。これも、親しみを与えようという、いまはやりのポビュリズムか。馬鹿げた風潮ははいい加減にしてほしい。

 秋篠の宮夫人が懐妊とのこと。めでたい話だが、折りしも皇室典範改定が問題になっている時に、面倒なことが出てきたものだ。女性天皇、女系天皇に反対する声がかまびすしい。伝統を守れとか、永い歴史の経過を簡単に変えていいか、とか言うが、そんなことを言ったら何ひとつ変えられないではないか。要は、女性の進出が面白くないのだろう。何がなんだか分らない話が多いが、要すればそうしうことではないのか。そうとしか思えない。憲法は男女同権を宣言している。皇室典範の方が憲法に合っていないのだ。矛盾しないように変えることが何が面倒なのか。秋篠の宮の新しい子の性別は六週間くらいで分るそうだ。これが男の子だったら反対派は万歳ものだろうが、女の子だったらどんでん返しで、話は元の木阿弥、同じ地点に逆戻りだ。それまでは、宝くじの結果待ちのはらはらものということか。妙なことが大問題になるものだ。
  それにしても、報道機関の右へならいの画一化は今度も相変わらず。TVのどのchannelをまわしても同じこの報道。どこか別のニュースを報じている所はないかと探す。馬鹿ではあるまいか。イスラム教祖を戯画化したことが怪しからんというのでイスラム教徒が大暴れしている。報道のあり方はこの際東西ともに一大課題として考えるべきだ。言論の自由というが、何をやってもいい自由などあるはずがない。この世に予定調和などそもそもない。自由も人間が人為的に生み出そうとした結果である。

  2006.2.3.金曜 晴 町田

 朝から快晴、気温も上がりしのぎやすい日になった。でも、夕方からはまた寒くなるそう。この冬には参る。

 Mozart はつくづく不思議な作曲家である。ザルツブルクの保存資料に若い時の対位法の学習ノートがある。あちこち、消したり直したり大変な苦心の学習の跡がうかがえる。この技法は、いかに生来の大天才であろうと生まれながらに使えるものではない。この人にしてこれだけの勉学の跡である。流れるような音楽の人というが、それは単純に考えるべきものではない。そして、晩年のJupiter Symphonyの終楽章のあの大Fuga、codaで、四つの主題が同時に重なる部分、その造り方にはほとほと驚嘆する。そして、これは直感型、天から降って来る楽想という種類のものとは、とんでもなく違うものだ。言い方はよくないが、知能犯型、計画犯罪型の極である。三つのSymphonyがおそろしく短期間の間に書かれたものであるらしいが、その中でこの人は図面を何度もひき直し書き直したことだろう。それが速かったのである。codaのこの部分で一箇所、ごまかしに近い所がある。実にうまく切り抜けているのである。凡才の後輩が見て思わずにやりとする。こういう才能というのは、単に音楽の部分だけでなく、計算も速い、着想も速い、判断も速い、というものなのであろう。高性能のコンピュータ的な機能もすぐれていたのである。この人の能力は。 
 感心とは少し違うが、はてな、と思うのは、39番、Es-dur交響曲の第三楽章Menuetto。この曲にはAuftaktがない。AuftaktがないMenuettoは実は珍しくない。珍しくはないのだが、この曲の場合は、曲の性格からして特異なものを感知する。この曲はほんとうにMenuettoだろうか。これはむしろ、ドイツ舞曲の方に近いのではないか。そして、終楽章の全曲の終り方、これが見事だ。冒頭の動機ですぱりと終る。連綿とした往生際のわるい終り方の対極だ。見事である。

  2006.2.1.水曜 雨 町田

  二月になった。今日も雨。昨日は小雨だったが今日は本格的に降っている。

  しばらく雨がなかったのだから仕方ない。だいたい雨がわるいという理由もない。天気予報の「あいにく雨」とか「お天気下り坂」という言い方も一方的である。農業には雨がめぐみの場合もあるのだから。

  Mozartについて文を書く人が多い。ほかの作曲家でこんなに文筆の対象になる人はいるだろうか。かの劇的なBeethovenについてだって、こんなに人は文を書かない。かの有名な小林秀雄の文は若い時読んで、なるほどえらいもんだと感心したが、いまはそうでもない。音楽は所詮音である。音以外の何物も書かれていないし残されてもいない。それに文学的意味を見出すのか付加するのは書いている当人であり、当該の作曲家でもなれければその音楽でもない。
  音楽を論ずるということでは、作曲家、林光の文が絶妙におもしろい。この人は自分が同業だから、文学ではなく音を相手にして語る。だからおもしろい。

 2006.1.31.火曜 小雨 町田

 今日で一月も終わり、二月になると日がたつのか早い。ひさしぶりに小雨。

 小雨のため自転車使えず、徒歩で駅まで。自転車は雨と上り坂が不得手である。しかし、歩いてみると意外にいい心持になる。自転車は自動車に似て、走るという機能に意識が集中して、ぼんやり、あれこれ考えをめぐらすということがない。ひたすら目的地まで到達することだけ心がける。TVで前にどこかの研究所が公表していたが、自動車で、しかも速度が増すことに比例して左右を見ない度合いが増すということである。こんな所にこんなものがあったか的な体験は乗り物が速いほど得られない。人間の行動の宿命であろう。便利ということは何かを切り捨てて得られるのである。差し引きして、それでもいいから便利をとるのであろうが。時に切り捨てたものを取り戻すこともわるくない。

 評論の道下京子さんが二日からアメリカへ行く。短期の旅行だそうだが、シンシナチに寄り、チェンバロの橋本英二君を訪問するそうだ。橋本君は芸大の先輩、昨年、東京でリサイタルを開いた。彼が監修したスカルラッティの全集が出版されるのでそのおひろめのためらしい。道下さんの取材訪問にこころよく歓迎のmailをよこしてくれた。善良な人である。学生の頃、ことごとに議論し、当時アカイ思想に染まっていた自分が彼にたてついたことがあった。遠い昔のことである。

 2006.1.30.月曜 晴 町田

 昨29日、日曜日午後、七月の私の「記念演奏会」、喜寿記念公演のチラシの点検と仕上げのため、若い評論家の道下京子さんと、コンピュータ・デザインの橘川君が町田で作業した。

 若い人たちのこころざしは有難い。当人である私がかかわると照れが出てうまくいかない。当事者ではない人たちの作業が貴重である。感謝 !

  ホリエモンと自民党の選挙時のかかわりが攻撃されている。「その時は見抜けなかった」、という自民、総理の言訳は根本的に間違っている。うそである。はじめから見抜こうとしなかったのだ。あの時の自民は相手の正体などそっちのけにして、どうでもいいから、なりふりかまわず票がとれそうな人物を探し出していた。ただ政敵をたおすためだけのために刺客として送り込まれたいかがわしい人物たち、財務省の女性職員、わけのわからぬ自称経済アナリストの女性、料理教師のなにやら、すべてそうではないか。人物吟味などどこにあったか。恥を知れ !

 大阪で公園内のホームレスの「住居」が強制撤去された。昔はこういう場合、反体制的感情の方が出てきたが、いまは、行政側に同調したい心境になる。変れば変るものだ。自称反体制の人たちの横暴ぶりに心底ひどい目にあった。30年におよぶ文化団体運営の経験である。まとめていく、という仕事がどんなに苦労が多いか思い知った。誰かがまとめなければ世の中成り立たない。「私反対する人、あなたまとめる人」では世の中成り立たない。民主主義とは主権在民のことである。反対だけしていい立場の人はこの世にいない。誰もが、反対はしてもいいが、まとめることにも責任を持たなければならない。

 2006.1.28.土曜  

 昨日は札幌一中同窓会の新年会、熊谷君の訃報

 札幌一中同窓会、正式には東京六華同窓会。雪の結晶を型どった校章で、雪の結晶は六角形なので六華と称する。

    飯田橋のホテルだったが衝撃的なことを知らされた。後輩の熊谷直博さんが一月三日に急逝されたとのこと。熊谷さんは外務省に入り、ケニア大使、スエーデン大使をつとめ、赤坂の迎賓館の館長を四年間つとめた。昨年の暮れ、私とmailの交換が始り、学生時代の東京生活が同時期だったため、なつかしい思い出話を頻繁に通信しあった。一度もお会いすることなく別れることになった。新年会で会えるかと楽しみにしていたのに。昨年暮れのあの頻繁なmail交換はなんだったのだろう。神の手による人生最後の友情交流だったのか。彼は新制高校、南校の一期生だった。私たちの三期くらい下になろうか。やはり外務省出身で他界した級友、三宅和助に役所でも後輩として世話になったと書いていた。
 こういう場合、冥福を祈るという言葉があるが、そんな定番の言葉では心中を語ることはできない。霹靂のような知らせであった。毎朝ネットで五大紙に目を通しているが死亡記事を見落とした。鎮魂と痛恨の思いを抱くほかない。そして、人の出会いの運命的なことを噛みしめるほかない。

  2006.1.26.木曜  町田

 堀江前社長と自民党との関係が

 自民党が昨年の選挙でライブドアの堀江前社長を候補者に仕立てたことが追求されている。小泉首相も、はじめは「別問題」と言っていたが「不明といわれればやむをえない」、と語調を変えた。今朝のテレビ番組で誰かが、「こんな過去のことを追求しても仕方がない」と言っていたが、それは違う。過去のことではない。ここに現われた小泉自民党の政治姿勢と思想は、あの時から現在まで一貫して続いている。いや、あの事件以前から背後に生きていた。

 堀江は、「金儲けのためなら何をやってもいい」、「金で買えないものはない」、「人の心も金で買える」、と言ったそうだ。昨年の選挙の時の自民党のやり方、考え方はこれと同じではないか。「勝つためなら何をやってもいい」、「権力で買えないものはない」、「人の心も権力で買える」、というものだった。政治に何の関心もない人間を比例区に担ぎ出して、選挙区で票が不足でも比例区というトリックで当選できるからと、立候補をそそのかした。人の中身はどうでもいい、刺客として役に立てばいいのである。金さえ儲かれば、株主はどうでもいい、商品の中身も本当の値段もどうでもいい。そそのかされた候補者も、与党政府という権力の保障に安心して自らを売った。その結果が現在の醜く肥大した自民の議席である。
 目的のためには手段を選ばず、目的が、金儲けと、議席の拡大、と違うだけで思想と手口は両者同一である。タレント的人気に踊る国民の方も反省の機会である。悪政は国民の愚かな点に忍びこんで来るのだから。
 首相のとなえる「改革」にしても、何をどう改革するのか、という問いもなければ答えもない。改革ではなく改悪かもしれない。「民で出来るものは民へ」、というが、それは逆に言えば、「民に出来ないものは民にさせてはいけない」とうことではないか。建築の検査まで民におろした結果が今度の偽装見逃しである。民におろせば金儲け主義が入ってくる。株式会社は「全力で金儲けします」と定款で株主に約束しているのである。その部門が民営の資質に合うか合わぬか、一つずつ吟味するのが国会の仕事である。そういう話が一向に聞こえてこない。

2006.1.24.火曜  町田

 いよいよ堀江社長が逮捕された。

 昨晩、10時のNHKラジオで知った。検察の手は聴取に続いて矢継ぎ早に進んだ。検察側はよほどの材料と自信があったのだろう。町の声は、法に触れた以上当然というものと、若いので期待していたのに残念、という二つに分かれた。法に触れたから当然というのは当然で、議論の余地がない。期待したというのもいささか軽薄である。しかし、このホリエモン現象はまだ様々な課題を潜めているので、最終判断でこれでおしまいということには出来ない。法に触れなくても抜け道を見つけて進むという方法か悪いという説もあるが、田原聡一郎のように、法律に書いてないことは実行してもいいのだ、それをしも道徳論で禁止するのはファッショだというという見解もある。この辺のことが今後も残る問題だろうが、一番、眼前に現われるのは、ある部分の才能能力だけが突出して、総合的判断力が未成熟な人間のおちいる失墜である。他人の感情への推測力、社会全般がどう思うか、という想像力の欠如、他人の反感から来る反撃への用意、そんなものがこの人には見事に欠けている。こんな人間像をほめるわけにはいかないが、これらの防衛策を万全に備えて、なおかつ自己の利益獲得を着々と進める人種の方が悪辣であるともいえる。罵声をあびせるだけなのも、「期待型」の受け止め方も、両方とも軽薄である。
 一番どうかと思うのは、選挙に担ぎ出した自民党小泉政権である。いかに弁明しようが、失態はまぬがれぬ。選挙のためなら、なりふりかまわず担ぎ出して議席の粉飾拡大を計ったあの時の恥知らずな戦術はひんしゅくと弾劾をまぬがれぬ。

2006.1.23.月曜  町田

  晴だが相変わらず寒い。
  北国生まれの経験を生かして、自転車で駅まで。

 いまから50年ほど前、私が学校を出た頃、当時、共産党の機関誌「赤旗」を購読していた。1950年代の後半である。ある日、「ソ連で週休二日制実施」、という記事が出た。それが社会主義の合理性と優位性の現われであるかのような書き方だった。おとなのサラリーマンに話すと、「へー、「赤旗」っておもしろい新聞だね」、と詭計な話としか受け取らなかった。同じ頃だったと思うが、やはり「赤旗」が、「ソ連が原子力発電を開始」、と出た。赤旗投書欄には党員らしい人の投書が載って、「それ見ろ」、と書いてあった。社会主義の優位性を無邪気に信じていた人である。あの頃は、人口衛星スプートニクの打上げなどソ連の全盛期で、アメリカをことごとに出し抜いていた時期であった。フルシチョフの時代だったか。アメリカは続いてヴェトナムに深入りし、いよいよ不調になった。1960年代である。
 この頃、音楽の方では、通称「前衛音楽」が全盛期を迎えていた。時代背景を考えると、古いもの、在来のものが崩壊し、新しいものが登場する時が来た、という空気が世界に満ち満ちていた。68年頃、学生運動が世界中で盛り上がり、日本では全共闘が現われ、「安田講堂事件」で頂点に達した。しかし、やがてヴェトナム戦争が終り、「浅間山荘事件」「よど号事件」などが続き、反体制新左翼の運動も調子がおかしくなってきた。
 通称「前衛音楽」はこういう時代の空気から生まれた申し子である。時代が推移し、体制の入れ替わりがそう簡単に実現するものではないことが次第に分ってくると、いつのまにか、音楽の潮流も変ってきた。
無調でなければ時代遅れである、というような単純急進主義は、そちらの方が先に時代遅れになってきた。やがて、90年代に入ると共産圏の崩壊という昔は予想もしなかった大事件が起こる。世界思想史上の一大事である。マルクス主義だけでなく、進歩とは何か、という思考の方法、思想のあり方の根本がゆらいできたのである。
 いまだに、よど号の残党よろしく新しい音楽というようなスローガンをとなえている人もいないわけでもないが、今度は無節操に妥協的に路線をとる人も出てきた。特に若い世代に見られる。マルクスに振り回された一世紀だったが、その崩壊という世界史的大事件に臨席経験するという稀有の生き方が出来たのだから、正真正銘のアドヴェンチャ精神で乗り切りたいものである。

2006.1.22.日曜 晴ときどき曇 町田

 やっと雪が止んだ。朝から陽光。

 気温は低いそうだが暖かく体感するのは陽光のせいか。北海道出身者にはこの程度の雪は問題でないが、東京の人は大騒ぎする。関連した怪我人も少なからず出ているよう。北海道では雪による怪我人、死人の話は聞いたことがない、どういうわけか。東京の人と生活が雪に対応していなくて不慣れなせいだろうか。しかし、ロシアでも大変な寒波で、モスクワでは路上生活者の凍死が出ているそう。そうなると、雪と寒さに慣れないせいともいえなくなる。世界的な寒波寒冷現象であるとすると地球温暖化の話はどこへいったのだろう。
 昨晩は、NHKの土曜ドラマ「氷壁」の第二夜を見る。登山の場面が大分を占め、少しメリハリがついてきた。それでも、原作の妙味が思い出されて仕方ない。こういう原作の「翻案」は難しい。音楽の分野の編曲に似ている。編曲の大原則は主題、主旋律を変えてはいけないことである。どこかに一線を引いておかなければ結果が思わしくないものになるのではないだろうか。
 芸大同期会の案内が来た。本来は昨年中の予定だったが、幹事の都合で越年したそう。それにしても、正午からというのは閉口する。午前中から出かけなければならない。昼からアルコールを飲むわけにもいくまい。オトナの時間というわけにはいかないのか。

2006.1.20.金曜 晴寒い 町田


 「ライブ・ドア」に強制捜査が入った。

 堀江奉文、ホリエモンという人物について私は判断を保留していた。嫌悪する人と英雄扱いする人と、両方とも判断を急ぎすぎるように思われた。
 音楽の分野でも、戦後の世代が現われた頃、音感がばかにすぐれ早期教育を受けた少年たちが登場した。堀江は私はにそういう現象に見えた。しかし、音楽少年たちが音楽家として均衡ある成長と充実とを遂げたかどうかは分らない。ある一部の才能機能だけが突出してすぐれても全体の均衡を欠けばいずれいいことにはならない。石川達三の小説「青春の蹉跌」にもそういう青年が登場する。こんどの手入れが、日本のビジネスの既存勢力の反撃とする見方もあるようだ。それもいまは分らない。しばらくは進展の経過を見るほかない。

2006.1.19.木曜 晴寒い 町田

 身を切るようにな寒風吹く。

 昨日18日は、東京音大で、四日市のピアニスト、野田憲太郎君が「Anna Flora」を練習でひくのを検分した。まったくの12音の曲を快刀乱麻にひくのはたいしたもの。こういう世代が現われるようになった。願わくば、繊細さ、喜怒哀楽を音にこめることが望ましい。これは人生経験も必要であろう。こんどの会合を世話してくれた、評論の西耕一君に感謝する。

  ところで、12音serieで作ることは苦しいが、自分の行為が理論的裏づけあることからくる安心感がある。しかし、これはもしかすると、Erich Frommの言う「自由からの逃走」ではないだろうか。人は自由になると孤独と不安を覚える。そのため、より完全な自由に自己責任において進出するか、何かの規制の下にみずから属そうと希求する。規制の下に自分を置くことにより安心する、まさにその安心ではないかとも思われる。そうであるとすれば、どうも余り喜ばしいことともいえない。みずからの感性に忠実であるほかないし、この技法を選んだことはその結果であるから、それでいいのだが、逃走ということになると、余りほめたこととはいえない。動物園の檻から出た動物が再び自分で檻に戻るようなことならめでたくはない。
 まだまだ逡巡すること多しである。

2006.1.16.月曜 曇 やや温かい 町田

 昨日は雨が去ったはずなのに、町田の仕事場からの帰り少し降りだした。

 予報は何を予知しているのか。気象解説だけで予報は各自が自分で考えた方がいいような気がする。

 新年のWiener Philharmonikerの演奏会、DVDで再鑑賞。J.Straussの「春の声」がいい。この曲は北国、雪国に訪れる春のよろこびを例えようもなく見事に表わしている。郷里の札幌の地で味わった春の日の喜び、厚い雪が溶け出し、陽光のもと水となって道路を流れる。それはやがて露出した路面をぬかるみにするが、それも春への道程である。そのうちに乾いた路面が少しずつ姿を現わす。半歳ぶりに乾いた地面に足が触れるよろこび、それをなんと表現したらいいか。これは北国の人でなければ分らないよろこびである。西洋でも、アルプスから北の地は同じ、Schubertの音楽には雪の暗さと春の喜びがある。近衛秀麿先生が、ToscaniniのSchubertはだめだ、と言われたことがある。あの人は雪を見たこともないだろうと。
 東京の春も札幌の春ほどにはこのよろこびは劇的ではない。GreegやSyndingが描く春のよろこび、札幌の人にはそれが切ないほど分る。

2006.1.15.日曜 晴 町田

 昨日から明け方にかけてよく降った。

 しばらくぶりの雨だから万物にうるおいになった。乾燥のため戸がきしんでいたのがなおった。一日降りこめられていたマミ-CAT、が早朝五時頃いそいそと飛び出して行った。自然界には色々な復元作用がはたらいている。

 昨日の夜はNHKの土曜番組「氷壁」の第一夜を見た。ずいぶんとちからを入れたようで、予告宣伝も大掛かりだった。
 感想はといえば、やはり原作を知る者としてどうしても違和感がある。昭和31年の作であるから、現代に移せばおおきく変えなければならないことは分る。それはそれていいとして、そういうこと以外に得心がいかないことが残る。人の動作、表情などの不自然さが気になる。
 井上靖の美学でおおきな要因をなすものに「対照の美学」とでもいうべものがある。田園調布に住む社会的地位の高い人物と年齢の離れた美しい妻。そして、登山家の野性的な青年、都会の美しい人妻と荒々しい氷壁、すべて、対照的なものを並べることにより生ずる対照の美である。これは、天衣無縫なモーツァルトの音楽とハプスブルクの黒い権力の霧の対比にも通じる。これもまた対照の美学である。こうした要因への配慮が欠けているように思われた。まだ、全六回の第一回であるから総合評価は早いが、あとを期待したい。ただ、山の映像は見事だった。これは国内の山ではつとまらない。いまの時代に海外の高峰をとりいれたのは正解である。
 
2006.1.12.木曜 晴 町田

 映画、「シャイニング」再見。

 スタンレイ・キューブリック監督、ジャック・ニコルソン主演の映画「シャイニング」をDVDで見る。まだ半分。以前TVで見たが今回はカットなし。

 恐怖映画の傑作と思うが、音楽にバルトークか出てくるのに考えてしまう。「弦楽とチェレスタ」の第三楽章、チェレスタのひそやかで細かい音形の上に弦の無調的旋が静かに流れる。不気味な映像にびたりである。音楽が恐怖映画、怪奇映画によく合うということはどういうことだろう。以前、ウェーベルンのオーケストラのための小品を聴いた時も、これは恐怖映画の音楽ではないかと思ったことがあった。この映画には、このほかにも、リゲティとかペンデレツキイも出て来る。これらの音楽が人の不気味感と不吉感、恐怖感に結びついていることは否定できないどころか申し分ない効果を持っている。音楽のあり方としてこれはどういうことなのだろう。バルトークのこの曲は「ほかの惑星の空気を感じさせる」と昔から言われたものだが。

 これらの音楽が傑作であることは確かとして、音楽本来の役割を再省すれば、現代音楽の美学とその思想的基盤にいま一度考えなおすべき未解明の課題がひそむように思えるのだが。

2006.1.11.水曜 晴 町田

 今年のお正月はTVをよく見た。

 「古畑仁三郎」新作三夜連続は面白かった。第二夜の野球のイチローの演技に感心した。一芸にすぐれた人は何をしても秀でているのか、瞬間的判断力をせまられ常に瞬発力を鍛えているのだろうから勘がいいのだろう。第一夜は横溝正史ものに少し似ていた。第三夜の松嶋菜菜子の二役ものは少し無理があった。妹が姉を射殺する場面はどう解釈すれじよいのか。すぐれた推理小説でも無理な部分があることは珍しくない。松本清張の初期の傑作「点と線」でも、無理が指摘される。東京駅頭で、ある場面を故意に人に見せるのだが、そんなに都合よくその場面が現われてくれるものか。アガサ・クリステイものにも同様の無理があるそうだ。それでも、こんどのシリーズは上出来だろう。
   「コロンボ」シリーズは、好評のため続けたが、水準を落とさぬため、作者の苦労はたいへんなもので、そのため段段間が遠くなり、ついには消滅してしまったそうである。その「コロンボ」ものの再放送が正月深夜放送にあった。作曲家が盗作の末殺人を犯すものだが、専門家が見るとやはりおかしい。指揮の仕方が不自然で見るに堪えない。それに、音楽家が仕事以外の時間に面白半分に音楽を鳴らすわけがない。専門家にとって音楽は仕事である。よほど理由がなければありえないことである。アメリカ映画でもこの程度である。「アマデウス」というモーツァルト映画で口述筆記で作曲する場面があったが、これはひどい。こんなことがあるわけない。

 2006.1.8.日曜 晴 町田

  昨日は音楽舞踊会議の新年会。

  ことしは、会事務所のある高田馬場駅前のロシア料理店ではなく、少し移動してピッツァの店だった。いままでの店は土曜の夜のため貸切価格が高いためということ。
会場が少し狭く、着席形式だから移動していろんな人と社交することが出来なかった。この点が残念。

  「Bach」はようやく終りまでたどりついた。途中からStokowsky版とは別れて自分独自の編曲になった。もともと楽譜が無いので、CDからの聞き取りである。頼んでおいた道下京子さんから、数日前、携帯のmailに速報が来た。東京文化会館の資料室で楽譜が見つかったそう。郵便で送るとのことだが、近い内に会うのでその時手渡しでいいと言ったか、もう封緘して切手も貼ったとのこと。明日あたり着くだろう。多謝。原曲の楽譜は、歌と通奏低音だけのひどく簡単なものだそう。どんな形になっているのか。Stokowskyがすでに原曲を幾分変えているのかもしれないから原譜を見るのにたじろぎを覚える。それにしてもこの編曲は骨が折れた。Piano版を作るのだからPianoの技巧を全開したものを造ることも考えたが、LisztのSchubert編曲みたいに絢爛技巧型にすると、もうBachの世界ではなくなってしまう。あくまで原曲を尊重して編曲者はつつましく陰の存在でありたい。かといって、CDの音をただPianoに引き写すだけのことはしたくない。そこが難しい。

 2006.1.6.金曜 曇 町田

 豪雪が続く。

 テレビを見ていると、13年前のポーランド旅行を思い出した。

 ポーランド北東部、コシャーリンという街。バルト海に近い街である。
 1993年12月初旬の街は雪におおわれていた。録音が終り、ワルシャワまで帰る。夜行列車である。ワルシャワまでの列車は一日一本しかない。日本では考えられない。首都に向う列車が日一本とは・・・それも夜の11時過ぎ発である。
 駅のホームは高くて吹きさらし。折りしも小雪が降ってきた。そして暗い。電力がとぼしいためかホームは真っ暗。やがて徐行で列車が入ってきた。アメリカのレコード会社の社長のクライド氏と奥さんで作曲家のナンシイさんが一緒である。こちらは、ピアニストの平島牧子さんと自分。合計四人。私とクライド氏、それにナンシイさんと平島さんが寝台の個室をとった。二段寝台の上段に自分、下にクライド氏。発車したが寒い。うとうとしている内に列車が止った。無人の雪の原の中である。外で人の話し声が聞こえ、やがて除雪の音が聞える。乗務員が除雪しているらしい。しばらくしてやがて走り出す。少し行くとまた止まる。同じことが起こる。何度までこういうことが続いたか。困るのは列車が止まると暖房も止まってしまうらしいことである。停車中に寒さがひしひしと迫ってくる。寒くなるとトイレに行きたくなる。西洋では一歩室外は街路と同じといわれるから一々ズボンをはいてシャツを着てトイレに行く。三度目くらいになる面倒くさくなる。ついにステテコのまま強行した。通路で人に会ったようだが、相手を気にしている場合でない。さぞかし驚いたであろう。知るもんか。
 翌朝七時にワルシャワ着の予定だったが、だいぶ遅れた。前の日にこの列車で帰った人の話をあとで聞いたが、ワルシャワに着く少し前に起こしてくれるよう車掌に頼んだが、車掌が忘れたためにだいぶ先まで行って一時間近くかけてワルシャワまで戻ったそうである。車掌が忘れた理由は余りにヒマだったからとのこと。

 2006.1.3.火曜 曇のち晴 町田

 今日はようやく陽光がさした。新年になってはじめてである。相変わらず寒い。

 ラジオの音楽番組の解説のこと。

 長くしつこい解説は迷惑至極であると昨日書いた。
 思いつきだが、解説を音楽の後にしたらどうだろう。そうすれば、聞きたくない人は聞かなければいい。音楽の前にあると、いつ解説が終り音楽が始まるか分らないから聞いていなければならない、それが迷惑なのである。NHKのFMで、これから聴く音楽や演奏会について、縁のあった演奏家、作曲家に語らせるf番組があった。演奏家がゲストの場合は、苦労話から始まって最後は自慢話で終るというのが定型である。他人の自慢話など聞きたくもない。日曜か土曜の夜か、NHK教育TVで、森田美由紀が誰かに話を聞く形式の番組があるが、アナウンサーがかしこまって専門家の話を拝聴している型なので、少しも面白くない。政党討論会は活気があるのだから、ああいう形式の議論は出来ないものか。

 私が若かった頃、NHKの第二放送で、月に一度、前月の音楽界の活動について評論家が座談会形式で語りあう番組があった。山根銀二、吉田秀和、中島健蔵、遠山一行、などの顔ぶれであった。活字と違ってリアルタイムの会話では無責任なことは言いにくいらしく失礼な放言めいたこともなかった。中島健蔵氏がイタリア未来派の非難めいたことを、いささか不用意に語ったのに対して、黛さんが即座に猛然と噛みついたのが面白かった。独演評論とは違って座談会では即時に反論出来るし、聞いている方にとっても一方通行でない活気と緊張がある。こういう番組がなくなった。評論すらなくなった。評論がなくて解説だけがある。供給側と受給側の固定化か。供給側内部での議論もない。無気力である。時代をおおう気風か。共産圏の崩壊は思想史的に、通称「前衛」芸術の自信喪失と崩壊を招いた。他人を誹謗し身勝手きわまる振舞いをつくした唯我独尊者が消滅した。暴走族の消滅である。そのヶ結果がこの無気力か。

 2006.1.2.月曜 午後から小雨 町田

 元旦、喪中の知らせのためか賀状は少なかった。

 喪中でなくとも、不精で身勝手な話だが数年前から賀状は出さないことにしている。まだ若い時分、先輩の作曲家Mさんが、賀状を廃止した話をしていた。無礼承知で返事を出さないようにしていると、年々歳々賀状が減ってくるそうである。滅多に消息を聞かない知人友人との賀状交換は有意義だが、いつも会っている人からは無用に思われて仕方ない。また、定番のあいさつだけ、時には印刷だけで直筆皆無、こういうものはどうしたものか。自慢話めいたことを満載しているものあり。
 西洋ではクリスマスカードがこれに代るものだろうが、良風と迷惑の両面があることは同じであろう。アービング・バーリンの名曲「ホワイト・クリスマス」の "every Christmas card I wrote" のセリフから言外にそんな感も伝わるが、こんな聞き方をしてはいけないか。

 夜は恒例の「ウィーン・フィル新年演奏会」を観て聴く。

ことしはヤンソンスの指揮。この演奏会は、当然ながら曲目が定番化して毎年同じようなものばかりである。指揮者が代ることだけが楽しみ。ヤンソンスは日本によく来て東響を指揮していたヤンソンスの息子であろう。外貌は余りよくないが指揮と音楽はなかなかよかった。ひきしまったダナミックな音楽である。最後の「ラデツキー行進曲」は番組表の時間をはみ出した。なま中継だから仕方がない。DVDに録画したので、これから演奏の間の部分と、解説対談の部分を削除編集する。diskはこれが出来るから有難い。最近の「解説」のはびこり方は迷惑千万である。音楽を聴きたいのに人の話しを延々と聞かされる。注文と別のものを聞かされるこの迷惑は如何せん。評論家の稼ぎ場だろうが、こんなものを誰が聞いているのか。NHK衛星の深夜映画は一切解説なし。そのものだけ。これが気に入っている人が多い。
 ところで天候はよくない。陰々滅々である。寒い上に曇天では気が滅入る。午後から雨が降り出した。「Bach」の編曲は最期の土壇場で停滞。思案の場。終りがむずかしい。Stokowskyの弦楽版をそのままピアノには置き換えられない。楽器の性質が違う、減衰音のピアノは弦楽の持続音の模倣は出来ない。これはStokowskyの版とは別のものになる。著作権上からもその方がいい。有難いのは時間が無限にあること。来年の八月が演奏だから。欲しいだけの時間を存分に贅沢にかける仕事の仕方が最良である。締め切りが何よりの励み、などというのは若造の生意気である。まじめな仕事は気持ちがいい。

12.30.金曜 晴 町田

 今日は12月30日、あと一日でことしも終りである。

 日の経つのが早い。一年はすぐに終る。来年の記念演奏会もすぐ来る。そのあとの軽井沢の演奏会は、すでに会場がいっぱいで来年は不可能、再来年2007年に延期実施となった。
 2007年8月10日金曜日、軽井沢の大賀ホールである。七月が私の誕生日で七月と考えたが、現地に詳しい応援者の意見では、避暑の人たちが一番多くなるのは八月とのことで8月10日金曜日に決まった。すでにこの頃も予約が多く、前後数日しか空いていなかった。このホールは大変な人気である。このホールはソニーの大賀さんが私費で建てた。大賀さんは芸大の先輩で私も同時に在学していた。お話しはしたことがないが上級生としてお見かけした。
 2007年となれば私の記念の年齢と一致する。軽井沢演奏会のために「Bach」の編曲をしているが、軽井沢初演となると、それまでは曲が出来ても演奏できない。曲集「白いつばさ」も、来年七月までは演奏出来ない。皮肉な話であるが仕方がない。

 二つの演奏会は以下の通りとなる。

 ★2006年7月 5日水曜日19時開演:浜離宮朝日ホール/ 東京公演
 ★2007年8月10日金曜日19時開演:軽井沢の大賀ホール/ 軽井沢公演

 私は義母他界のため、ことしも喪中である。昨年は実兄と実姉が相次いで亡くなり喪中が二年続いた。来年の話をすると鬼が笑うというから、再来年の話では鬼も笑いすぎるだろうが、ベルグソンの言う通り、人は生きてある間は見通しとしての未来を信じて生きるほかない。人にとって実在するものは現在だけである。
 昨日は出身の旧制札幌一中、現在の南高校同窓会の会報が来た。1959年当時の札幌市中心部の写真が載っている。いま見ると呆れる程のわびしい光景である。こんなに裏さびれた街だったか。1959年といえば、現、平成天皇が皇太子時代、美智子妃殿下との結婚式典があった年である。この頃まで日本はまだ貧しかった。写真で見ると東京の街並みも貧相で電線が蜘蛛の巣のように空をおおっている。私がNHK広島局で原爆に関する仕事をした時、局の資料室でで被爆当時の街の写真を多く見た。やはりわびしい町並であった。1960年に安保騒動があり、その後、池田内閣の所得倍増計画の時代、政治から経済の時代に入る。1964年の東京オリンピック以後日本には外貨が溜まり出した。すでに40年前の話である。

12.26.月曜 晴 町田

 DVDで「世界遺産」を買ったが、昨日は安い名作映画盤版で「第三の男」を買った。

 この映画で見る戦後占領時代のウィーンはまさに廃虚の魔都である。英米仏ソ、四カ国に四つの地区に分けられ分割占領。スパイ、闇商人、その他、わけのわからぬ者たちが横行する。分割占領されなかった日本はよほどましだった。

 この映画を見て、あらためて、Anton Webernの死について考えた。

 Webernは1945年、戦争終了後、Mittelsilという山奥の山荘で、なぜかアメリカ憲兵の誤射により射殺された。享年63歳 。最近、この死について少し詳しいことが分った。

 彼の娘婿はナチの親衛隊だった。これも当時のことで、いま考えるような事情ではなかったと思う。あの時代は誰しも国のためと思った時代である。戦争が終り、婿は復員する。そして闇屋になった。なんでも米軍物資の横流しをしていたといわれる。この時、MPは事前に山荘前に張り込んでいた。そして、Webernが出て来て煙草に火をつけたのを闇屋同士の合図と間違えて誤射したという話である。いきなり撃つことはなかろうから、私の推測であるが、何か声をかけられて、英語が出来ないため誤解されたのではなかろうか。取り締まる方は殺すより捕まえた方が情報が得られるのだから、いきなり撃つことはないと思う。実際、その山荘は闇屋の連絡所とアジトであったのだろう。事前に張り込むからには何か理由があるはずである。復員兵士が闇屋になったり担ぎ屋になったりしたのは日本も同じであった。敗戦国の戦後である。この事故はとんでもない結果を引き起こしたが、占領軍の行為は明るみに出ることなく、事のいきさつも、その後の経緯も闇に消えた。その後、アメリカの学者が事件をよりよく調べるために現地を訪れた記事が1959年頃のN響機関誌「フィルハーモニー」に出たことがあった。詳しくは覚えていないが、かなりの山奥で、途中濃霧が出て、車の運転に難儀したことが書いてあった。よほどの山奥だったようである。
 Webernは指揮者としても大分活躍していたようで、BBCのオーケストラを指揮するためロンドンまで行ったこともあると記録されている。彼が指揮活動を出来なくなったのはナチの迫害だった。Webernが親ナチだったという人がいるが、自分が迫害を受けていてシンパになるわけがない。婿のことがあるからかもしれぬが、すでに書いたように、戦時とはそういう時代である。私の中学の同級生でも軍の少年兵にに志願した者がいた。彼が特別に国家主義者や軍国主義者であったわけではない。

 ウィーンの人は「第三の男」という映画を好きでないそうである。一番思い出したくない時代の話だからだろう。この映画は1949年製作の英国映画である。劇中の時代よりは少し後だろうが、まだ同じ時代の続きの頃の制作である。映画では爆撃の瓦礫の山がいたる所にある。現在も、国立オペラの裏の広場には地面にプレートが敷かれ、「ここで多くの人が防空壕の中で爆弾の直撃を受け死んだ」と書いてある。

12.24.土曜 晴 町田

 昨日はDVD「世界遺産」のドイツ編を買った。

 どうもよくない。NHKの制作だろうが、音楽がうるさい。解説を聞こうとすると音楽の音量も上がり不愉快である。この頃のNHKの制作はこういうのが多い。音に対して無神経になっているのだろうか。

 映像もたいしたことないが、「ノイ・シュヴァンシュタイン城」は懐かしかった。いまから16年前、家内同伴でミュンヘンの友人と訪れた時のことを思い出した。友人はドイツ人作曲家、H君。彼とは1976年以来の旧友である。1938年生まれで、ミュンヘン国立音楽院の学長をつとめ、いまは定年退職で自適している。この時は、北ドイツから来たドイツ人のオルガン奏者夫妻も一緒にH君の運転する車でバイエルン山中へドライブに行った。小型のランチアに五人だから窮屈だったがいい経験をした。祭日のため、ノイ・シュヴァンシュタイン城は観光客が押しかけ、私たちは山を登り城の入り口までいったが入らずに引き返した。下のバスターミナルもごった返している。
 そこは早々に退散したが、そのあと、深い山ひだの角をまわると、眼前に巨大な僧院が姿を現わした。こんな山中にと思う大きなものである。礼拝堂の入り口に解説の冊子が置いてある。由来を読むと、15世紀の頃、時のバイエルン国王が戴冠式のためローマへ向かう途中、この山中で道に迷った。馬がもみの木につまづき足をくじき途方にくれていると、どこからともなく白髪の聖者が現われ、ここに寺院を建立することを約すれば道を教えると言う。言葉に従うことを約束すると、聖者は道を教え、抱いていた聖母像を渡して立ち去った。王は帰りにその地に立ち寄り、寺院の建立を命じた。いま、寺院の入り口に安置されているのはその聖母像であるとのこと。馬がつまづいたというもみの木もあった。日本の昔話のような話である。帰りに僧院のかたわらを通ると若いお坊さんが洗濯をしていた。ラジカセをかたわらに置いていたが、ロックを聞きながら洗濯をしていた。
  さらに、山中の小村に立ち寄る。祭日で結婚式もあるようで、小さなレストランには男たちがビールを飲んでいる。巨大な男たちが民族衣装にチロル風の帽子に羽をつけたのをかむり、酔っているため大声でわめくように話あっている。まるで赤鬼たちのようであった。奥の部屋では結婚式が始った。男も女も民族衣装で大勢輪になって踊っている。H君に聞くと、この辺とチロルとでは風俗の違いはほとんどないそうである。

 DVDは近頃、往年の名作映画が500円で買える。著作権が切れているためだろうが、「世界遺産」の2100円は高く感じられる。DVDはVHSのTapeにくらべて場所をとらない。日本は住宅事情がわるいから小さくて場所をとらないものが歓迎される。

12.23.金曜祭日 晴 町田

 故あってBachの編曲を始めた。

 来年七月五日の私の記念演奏会を、そのままの曲目で八月に軽井沢でも、という話があって調整を進めたのだが、最期の段階で会場がとれず一年見送りになった。実施は2007年夏になる。

 その際、キリスト教会の協力があるので、キリスト教にちなむ曲がほしいということ。それがきっかけである。聖歌「ゲッセマネのイエス」をとりあげた。深い悲しみをたたえた曲。楽譜がなく、Stokowskyの弦楽版のCDがあるので、CDからの聞き取り採譜である。昔NHKの花輪さんの仕事以来の聞き取り採譜だが、昔とったなんとかで経験は有難いものである。
 
 「Anna Flora」で無調の荒野をさ迷ったあと、Bachに出会うと無人の荒野の果てで慈父に抱かれるような思いがある。限りなく深い慈愛、そして音楽の豊かさがあふれ出ている。しかも、すべてが凡俗ではない。旋律の線、低音の動き、定番にまかせている部分がない。あらゆる部分に工夫と固有の表現がこめられている。    StokowskyのCDは編曲だけでなく、演奏もおそろしく表情が深いもので、フレーズの終りのritardandoは、これ以上遅くなると音楽の脈絡が不明になるくらい引き伸ばされる。これをピアノ曲にするわけだが、Bachにならい、原曲を恣意的に変形することなく、惰性や定番で過ごす部分がないようにしたい。
 イエスはユダが裏切ることを知っていた。最期の晩餐のあと、一人、ゲッセマネの園におもむき岩に座して夜を通して神に祈り続けた。どれだけの深い悲しみがあったことか。イエスが祈り続けた岩というのが今もあるという。

12.22.木曜 晴 町田

 ここに二つの言葉がある。

 第一:
 「核兵器は人が造ったもの、人が造ったものを人が廃絶できないはずはない」。
 第二:
 「私たちは原子爆弾を造った。原子爆弾は善か悪か、それは決めるのは人間である」。

 この二つの言葉は似たような趣旨を含んでいる。しかし、この二つの言葉はまったく対極的な位置から発された発言である。第一の方は、核廃絶に最も熱心であると自から称している日本のある政党のスローガンである。第二の方は、初めての核兵器開発プロジェクト「マンハッタン計画」に成功した最高責任者、アメリカ陸軍のレスリー・グローブス少将の著書のとびらに記されているの言葉である。

 この二つの言葉は、ともに、根本において同一の誤りを含んでいる。皮肉なことである。誤りとは何か。それは人の能力を過信していることである。第一の方がより軽薄である。人が発明して人が廃絶出来ないことはないとは何事か。実例は幾らもある、というよりむしろ、人が生み出したものすべてが実例である。人が造ったもので人が廃絶できたものがどれだけあるか。そのものによって利益を得る者がいることが原因であることもあるが、有害と知りながら便利であるため、大衆的水準でも廃絶できないものが無数にある。現代社会はそういうもので埋まっているではないか。小説「フランケンシュタインの怪物」は、自分が制御できないものを造り出してしまうことの恐怖、この小説はそれを予言した。シェリー夫人が19世紀の初頭に書いた。ベートーヴェンがまだ存命の頃である。グローブス少将の言葉は、開発者には責任はない、という弁明である。これも今時よくある論理で、有害なら廃棄すればよい、という根拠のない楽観論を前提にしている。人には開発物への対処力があるという勝手な前提に立っている。最近では医療技術についてこういう言分を往々見る。
 グローブスの方が、いささか言い訳がましい。しかし、政党スローガンの方はより偽善的である。このスローガンを売り物にして党勢拡大をねらう性根がうかがえる。かつて、「反核運動」なるものが吹き荒れ、どれだけ多くの人が迷惑したか見当もつかない。私は当時、あの「運動」は腑に落ちぬと言い張った。果たして、後日、旧ソ連の陰謀であることが判明したのである。この辺のことは、ソ連が消滅したせいもあるだろうが、もっと確かに報道されるべきである。
 こうした基本的な論理の整合不整合について理論的、哲学的に本気でとり組む人はいないのだろうか。
12.19.月曜 晴 町田

 映画「男たちの大和」を見た。

 どうしても初日に見たかった。入場を待つ人たちが多いのに驚く。それも女性たちが多い。
 よく出来ている。感動し、感心した。
 まず時代考証にぬかりがない。太平洋戦当時、私は中学生だったが、当時は中学生も模擬的に軍隊的風習を実行させられていたから、そうしたものを幾分以上知っている。最近のTV劇ではこうした考証がいい加減で見ていて馬鹿らしくなるものが多い。しかし、この映画にはそういうものがなかった。
 次に特撮がいい。CGの技術がずいぶんと進歩したのであろうし、また資金も豊富に使ったのであろう。従来は、大きな船が進む場面で模型を使うと、波が水槽の小さな波であることが分り、本物でないことが見えて失望したものである。どうしても量感が出せないのである。しかしこの映画にはそれがない。あとで知ったが、実際にかなり大き目な船を動かして撮影し、船の部分だけ大和の映像ととりかえたそうである。たいした技術である。
 「大和」という言葉の持つ不思議な響きと人をひきつけるものはなんだろう。日本人だけが受けるものと思っていたが、外国人にも何がしかの魅力を発するようである。「戦艦大和の最期」を書いた吉田満がアメリカへ行った時、「大和」という言葉が持つ不思議な力にアメリカ人もとらわれていると書いている。空前の巨艦、悲劇的な最期、こうしたものが劇的なものを訴えるのであろうか。
 この映画は敗戦国しか造れない映画であることを痛く感じた。戦勝国では戦中のどんな悲劇も後に勝利の栄光にとりこまれる。しかし敗戦国にはそれがない。救いもないのである。、それが真の悲壮美ではなかろうか。悲劇とは後日の甘美な美化があってはならないのである。Spielbergの「プライヴェート・ライアン」が戦争の無惨で酷い実相をはじめて描いたと言われたが、この映画はそんなものではない。戦勝国のSpielbergには戦争の真の悲劇性は描けない。負けた国だからこそ、戦争の真実が描けるのである。そのことは大事な発見であると思われた。

 普通、映画は本編が終ってキャスト、スタッフの名が延々とスクロールで出てくると、立つ観客が多いが、今回は一人も立たなかった。それどころか、全部終って明るくなってもしばらくは立たない人がいた。

12.16.金曜 晴 町田

 ラジオで西洋史の講座を聞く。

 16世紀、フランスのフランソワ一世はハプスブルクとの戦いで捕虜になった。捕虜の身で、ある条約に調印させられた。しかし、やがて釈放されてフランスに戻ると彼は、強制された状況下の条約は無功であると宣言して条約を破棄した。

 この話を聞いて東京裁判を思い出した。あの裁判がどれだけ正当だったか疑問が多い。勝った者が負けた者を裁くというのは身勝手である。インドのパール判事は、この裁判の成立根拠がどこにあるか、終始異論を唱え続けた。また、最近の靖国参拝問題にしても、日本はサンフランシスコ講和条約で東京裁判の判決を承諾したのだから、それに従うべきだと言う参拝反対論者がいる。しかし、フランソワ一世の例のように、国際条約といえども絶対的ではない。約束を破っていいというのではない。強制され反対を許されない状況下で承諾させられたものには正当性がないということである。この点は東京裁判もサンフランシスコ講和条約もしかりである。
 ただし、東京裁判がすべてが無意味であると私は考えない。裁判の過程で多くの歴史的部分が解明されたことは確かである。また、日本の指導者たちの行為についての判決がすべて間違いとも思えない。人の行為は、すべてが誤りであったり、すべてが正しいということはまずない。両方が混ざりあっていることが普通である。しかも、正しい、間違い、にも程度と段階の差があり、白に近い黒、黒に近い白、と無限の段階がある。こういうことが分ってくるには人生経験が必要である。若い時は、正か邪かどちらかに決めつけようとする。
 第二次大戦とそこに至る一連の国家行為については、日本だけでなく、関連する世界の動き、他国の行為もあわせて個々の事象を緻密に検討すべきであろう。その結果、ある場合は日本に非があり、あるものは日本ではなく別の国に責任がある。ある場合は責任の所在が多岐にわたる、と様々な判断が注意深く下されるだろう。東京裁判の判決、講和条約の条文にしても、承諾できない部分があっても少しもおかしくない。それが自然である。承諾できない事項については、おだやかに否定していいのではないか。おだやかに、紳士的に説明しながら否定すればよい。それがおとなの行為である。あるいは無言の内に行為で否定する。靖国もこの部類かもしれない。
 約束は守れ式の少年道徳の水準で国家の行動を議することは成人のすることではない。評論家、学者にこういう人が多い。北朝鮮から拉致された人たちが第一次帰国した時、次の進展のために北朝鮮との約束通り彼らをも一度平壌に戻すべきだと語った人がいる。大新聞の主筆か編集局長の地位にいる人である。もしそうしていたら日本は世界の笑いものになっていただろう。こんな見識の人が大新聞の枢要の地位にいる。日本のジャーナリズムは少年新聞なみである。

12.14.水曜 町田

 民主党の前原代表の見解が評判になっている。

 与党よりであるとのことで党内から批判が出ている。また、報道評論筋からも野党の存在意義について疑問を出す人がいる。
 日本では、55年体制以来、野党は与党となるべく正面対決することこそその本分である、という見方が根強い。しかし、ここまで高度複雑化した社会を急転回することは出来るのか。結局、この言い分は永久に政権につけない万年野党を生み出す結果になったのではないか。万年野党に対して与党はなんの恐怖も脅威もおぼえない。当り前である。確かな野党、などのスローガンを掲げている政党もあるが、政権党に対して無害であることの自己表明である。
 与党、もっと早く言えば自民党と同じ政策を掲げてもいいのである。一つより二つの方がいいのだから。スーパーが1軒より二軒あった方がいいのである。同じ商品を売っていてもいいのである。むしろ、馴染みのない風変わりな商品を扱うより、同じ商品を売る方が消費者にとっては都合いい。二軒あるということ、二つあるということこそ肝心なのである。
 かつて、レーニンは、共産党政権が出来た時には、共産党を二つに分け、第一共産党と第二共産党で政権交替させることを考えていたそうである。独裁は腐敗を招くからである。競争こそ健全維持の条件である。同じものを売るたとえにしても、もう一つの他店にまさるため、よりよい商品を売るように必ず努力するようになるだろう。民主党が自民に接近することこそ、自民にとって迫る恐怖となる。共産主義者のレーニンですら発案した競争の原理こそ、日本の野党も評論会も意識をあらためて取り入れるべきではないだろうか。

12.13.火曜 町田

 このところ作曲の仕事はしばし休止、頭の中を休めて整理している。

 あまり懸命に仕事を続けていると、考えるべきことが置き去りになる。自分の語法の整理も必要あり。線の秩序、垂直和音、合音の秩序あり方、自分独自のものは何か、独自、ということの意味もあり。既存のものを自分のものとして取り入れたものを「独自」の中に含むのか、あるいは、絶対的な自分だけのものだけにするか。簡単なようで、よくよく思慮を必要とする難題である。
 日本には、辞世の句、というものがある。自分も辞世の曲、といえるものをそろそろ作りたい。そうなると、あだやおろそかにはとりかかれない。自分は多人数大編成の音楽を好まない。それは天性である。大編成の場合、演奏者個人とのふれあいがなくなるから。ただ、いままでピアノ曲に集中してきたが、そろそろ、そうでないものを作りたい欲もないではない。しかし再演の可能性を考えると、ピアノもそうだが、演奏者の調達が困難でないものの方が有利である。プロであればさような現実的なことも考える。

 ベルグソンの哲学に関心あり。時間の連続性について。「失われし時をもとめて」プルースト。過去の追憶を音楽化した場合、自分がいまいる現在の時点と、その過去の時点はどういうかかわりになるのか。過去は追憶の中にしかない。すでに失われている。また、未来への関心を抹消してしまった場合、不思議と意欲も消滅するようにも思う。

 まだまだ難題は続く。余裕を以って思考の仕事を続ける。

12.12.月曜 町田

 コンピュータの接続機能が故障した。

 本体機能は別状ないが、接続が出来ないのでメールとネットが使えない。何度やっても「接続エラーが発生しました」と出る。いままでも、器材の機嫌がわるい時があった。しかし、しばらくすると自然に直るのが通例だった。今度は何時間たっても直らない。プロバイダーに電話で相談した。女性社員が出た。この人の指示が実に手際いい。まず、私の所の固定電話は器材と離れた所にあるので、携帯の方がいいと言うと、「それでは、こちらからかけなおします。携帯の番号をどうぞ」。電話代を負担させないためである。それからの指示は快刀乱麻適切明解、そして、しろうとに分りやすい。幾つかの原因候補を点検したあと、ADSLのモデムの電源を抜くように言われた。そしてまた繋ぐ。「メールを接続してください」。直った!モデムのちょっとした接触だったらしい。分ってみれば他愛ない。この程度の故障は初歩的なものか。その場所に行かないで患者を直す医者みたいなものに思えた。どの分野にもしろうとから見れば感嘆すべき技能の世界があるが、つくづく感心した。

 このところ、団体内のmailによる審議交信が多い。しかし、mailを所有しない人もいる。こういう人たちはどうなっているのだろうか。幾らmailが普及しても、持たない人が一人でもいれば、その人を無視したり差別したりすることは許されない。聖書にあるように、一匹の迷える羊のために99匹の羊を捜索のために待たせなければならない。上に立つ者は、ことのほかさような心がけを求められる。便利だからと少数者を切捨て忘却するような者には指導者の資格はない。

12.11.日曜 町田

 ようやく寒くなった。ことしは予報に反して温かい12月になったように思えたが、季節は争えないものか冬らしくなった。
 京都でまた女児殺人事件が起こった。こともあろうに、予備校教師の教え子殺人である。こうなると何が起こるか見当もつかぬ。栃木の事件がその分影が薄くなった。これでは困る。
 戦争さえなければこの世の悪はなくなるかのような反戦主義者の人間観が誤まりであることを以前から痛感していた。人の中の悪とはもっと根が深いものである。ナチスのユダヤ人迫害は戦争だからのことではない。平時からのことだったのである。
 命の尊さを教える、という声があるが、それでは価値比較の問題になるではないか。そうではなくて、人を愛すること、何かを愛すること、そのことを覚えさせることが決め手ではないだろうか。いとしいものへの愛、人への愛、それを経験すれば、いとしいもの、愛するものものを傷つけることは出来なくなると思うが。

12.10.土曜 町田

 偽造マンション騒動がけたたましい。業者ももちろんわるいが、検査をいい加減にしてきた国の責任がそもそも発端ではないのか。国がなすべき検査まで民間におろす。民間は商業行為のための会社だから、そこに損得勘定が入るのは当り前である。民で出来るものは民へ、というのが政府の方針だそうだが、反対に言えば、民で出来ないものは民にやらせてはいけない、ということではないか。
 社会主義が崩壊した。失敗ということになった。しかし、国営のいい所もある。民営と国営のいい所を上手に混合することこそ賢い社会経営ではないのだろうか。
 おりしもNHKの評判がわるい。そのため、NHKまで一部民営化の案が出ているそうである。もしそうなれば、私たちの仕事のような芸術ものはもう電波とは無縁になるだろう。営利を離れていたから、クラシック音楽も出来たのである。演奏も作曲もNHKは実によく協力してくれた。オペラや室内楽やピアノ・ソナタなど民営放送とは無縁ではないか。
 貨幣価値だけが価値ではない。人間の世界に価値基準は幾つもあるのだ。資本主義社会ではその中の貨幣価値、商品価値だけが主役になり関心の対象になる。商品価値はすべて数字化された価値である。そして自分で決められない。売れた時だけ価値が定まる。買い手が出来てきまる。こんなものだけが価値になったら、自分を大切にする観念などは絶滅していくだろう。社会主義の失敗からこんどは資本主義のわる乗りが始るとすればこの世は絶望的である。

12.8.木曜 町田

 きのう七日は、旧制札幌一中のクラス会だった。クラス会といっても、北海道以外の地に在住している者だけの会である。会場は北青山の日本料理店「梅の花」、いつも幹事をつとめてきたM君が体調回復途上のため今回は自分が代行した。
 時間少しj前に行くと、すでに何人かが受付前の椅子に待機していた。案内状発送先が15人で出席は7人。12人の座敷を借りたので出席者が少ないことをおそれていたが、7人目が参加してくれてなんとか格好がついた。一人、10月に死亡との返信が夫人からあり、札幌のクラス会から霊前を贈ったことも報告した。ミドルティーン時代の級友がいまはこの年齢、いまは定年引退の身だが、皆、地位ある仕事についていた友で、豪快な話は愉快である。中学時代の途方もない冒険奇談など聞いて呆れもした。のちに日本の経済界のリーダー的地位につくはずだった秀才君も登場するのでなおさら。この秀才の友人も事故で亡くなった。人の世は先がわからない。いままで生き延びてきたこと自体神の恵みであろう。
 午後九時頃解散、渋谷までタクシー分乗で帰る。
 身内だけの会合だが、幹事役はいささか疲れた。案内状の制作発送から、出欠の返信整理、出席者数の確認、店への予約、当日の支払いまで、気を使う。常任幹事のM君のご苦労に敬意と感謝をささげる。
 しかし、こういう管理運営の役割を私は嫌いでない。30年近く文化団体の運営にかかわってきた。嫌いで出来る仕事ではない。こういう役割の時は、事務管理者、ときに政治家になることがもとめられる。その間は芸術家は一時中止である。自分の中に官僚的資質があるのかとも思う。国立の学校で勉強するとこういう素質を教え込まれるのか、もともとそういう資質の人間か集まるのか、推測はできないが、規律、法律の勉強と作曲の勉強はどこか似ている。先輩作曲家にもさぞかし優秀な官僚になれたであろう人たちがいる。法学部出身の作曲家も意外に多い。シューマン、ストラヴィンスキイ、ショーソン、戸田邦雄、規則、禁則でがんじがらめにされながら、それらをくぐりぬけて自分の意図を実現する、そんなところが作曲と似ている。

12.3.土曜 町田

 昨日はCMDの会公演、「Opera Concert」を聴いた。

 オペラは非日常の世界という人もいるが、私はそうは思わない。全く正反対である。オペラは歌謡曲と同じ、どこにでもある話を歌い上げているものと思う。だから面白いし、泣けることも笑うこともある。
 リゴレットは、殿様の権力を背後にして人を侮辱することを職業にしている。私はマスメディアの評論家たちにリゴレットに似たものをしばしば感じる。新聞雑誌の音楽批評欄でもミスター・リゴレットにしばしば出会う。私自身は対象にされたことはあまりないが、ひどい目にあっている人がいる。活字は権力、電波も権力。こういうリゴレット氏にもいずれジルダの悲劇が起こるか、起こってほしいものである。もうすでに起こっているという話も聞いた。
 NHKのテレビドラマで、オペラ好きの青年実業家が、インサイダー取引で全国に指名手配される、しかし彼は逃げようとしない、警察が逮捕に来るのを会社で一人で待っている。そして「トスカ」の「星は光りぬ」を聞く場面があった。華やかだった過去と現実の悲劇・・・・・
 「魔笛」のパパゲノは、自殺しようするが、内心、誰かが引留めてくれることを期待している。これもよくあること。落語の夫婦喧嘩で、出ていく出ていく、と言いながら、引き止められるのを待っている。
 「蝶々夫人」の悲劇はピンカートンに裏切られたことより、自分に裏切られたことの方が大きいのではないか。彼は必ず帰ってくると信じて再婚をすすめる人たちに言い張っていた。軍艦が帰って来て彼女は勝利宣言をする。その後の暗転。つらい話である・・・・・
 誰にもある若き日の思い出、はじめてその人に出逢ったあの時、その時誰しもがロドルフォであり、ミミであった。安保闘争の学生デモの映像に「ボエーム」の音楽が流れる場面を見た。社会正義にひたむきになっていた美しき青春の日々。「ラ・ボエーム」は青春の賛歌である。

11.30.水曜 町田

 同窓会の取材で後輩の女性たちとの話がはずんだ。

 思い起こせば、自分は、いわゆる下積み的な経験と苦労はほとんどしなかった。在学中に受賞し、卒業したての若造にすぎないのに、どこでも大事にしてもらえた。
  受賞の時も隣近所で祝ってくれた。向かいの喫茶店のママはそれまでのツケを取り消してくれたし、駅前の交番おまわりさんまで新聞を読んでお祝いに来てくれた。そのあとも友人たちの厚い友情にめぐまれた。若い時の苦労は頼んででも経験するものだ、といわれるが、私はそういう経験をしなかったし、それでよかったと思う。自分が上からの圧力を受けなかったから、後輩、目下にもさようなことをしようと思わない。自分がいじめられたことがないから、他人をいじめようとも思わないのである。
 苦労がなかったわけではないが、それは難しい仕事を短時間ですますことを義務づけられたり、おカネが無くて困ったことなどである。人間関係から来るものではない。ひがみ、ねたみ、愚痴、劣等感ほど人間にとってわるいものはない。こういう心理で見ると、あらゆるものがゆがんで見えてくる。そういう人に出会うことがあるが、心底気の毒に思う。

 いま私の心は、神の恵みへの感謝で満ちている。

11.28.月曜 町田

 うす曇りだが温暖な日。

 今日の午後、出身の旧制中学、札幌一中、現在の札幌南高校の会報編集の諸君が取材に来る。「先輩訪問」の欄のため。
 同級生で在京者のクラス会が来月ある。常任幹事のM君が体調回復途上のため自分が幹事代行となった。15人のうち、出席は7人。体調不良を訴える人、死亡した人もあり。10年前の記を見ると17人の出席。10人が出席できなくなった次第。元気な者は相変わらず元気だが、そういう人でも不調になることかある。いたし方がないことである。
 書棚の整理のため、CMDの会報に「ゆずりたし」の掲示を出した。二回目である。CD、DVD、図書、すこしずつ貰い手がついていった。

11.27.日曜 町田

 カントの哲学についての要約書を読む。

 不思議なことに、若い時読んだより解りやすい。やはり人生経験を重ねたせいだろうか。意味する所がどこにあるかが思い当たるのである。

   カントは理性による認識の前に感性による経験認識が先行することを力を入れて説く。理性だけで認識可能とする形而上学に反論したのである。このことは、毛沢東の思想にもつながる。毛は「実践論」で感性認識の先行、それも行動による認識を鋭く説く。彼は革命家であったから政治的実践を年頭に置いているのだろう。しかしこの理論はカントを引き継いでいる。哲学に打ち込んでいた毛はカントを勉強していたと私は推測する。

 カントの思想哲学は現代でも有効な問いかけを持つ。世界を理解しようとする人間は、自分の側で設けた法則性を自然界に当てはめているだけである。"あらゆる事物は空間と時間の中で起こる"とか、"原因のない結果はない"など。しかし、人は自分の眼鏡を通して世界を見ているので、本当の世界の姿を人は永久に知り得ない。人がすべて緑色のサングラスをかけていたとすれば、世界は緑であると人は認識するだろう。しかし、本当は分らない。人はサングラスをはずすことが出来ないのだから。
 "すべての事物は空間と時間の中で起きる"ということもなんの保証もない。この前提が信ずるに足らないとすれば、因果関係の分らない出来事、俗にいう「運命の力」とか「天罰が下った」とか、あるいは、時空の中にはないものとしての、幽霊の存在なども否定できないことになる。カントの論は不可知論を含み、東洋の神秘思想に通じるものがある。

 新曲「Anna Flora」の仕上げに入る。コンピュータに打込みテンポを決める。楽譜の細部まで整える。すべて楽譜はソフト印字である。2000年12月に楽譜印字用ソフト「FINALE」を購入。以後、楽譜はすべてソフトで打つ。この方法が手書きよりいい所は手直しが簡単に出来ること。挿入削除はもとより、かなり長い部分を全面的に書き直すことも出来る。手書きであるなら、欄外に書き込み矢印で挿入を表わすほかない。長い部分の全面手直しは新しい用紙をそこに挿入するほかない。何より、手がかかるため修正をあきらめる心理がはたらくことが多い。これが作品をよりよくすることを妨げる大きな要因になることが多い。コンピュータ印字にはそれがない。もちろん手抜きにも使える。しかし、すべての道具は人の心がけ次第で善用も悪用も出来る。それは人間の側に属することである。こうしてDISKに保存しておけば原稿紛失ということは最早起こらない。これは歴史的な出来事である。DISKを複数造って複数の人や場所に預けておけばいい。

 それにしても、今年はよく作曲の仕事をした。一月から二月まで、管とピアノTrioのための「Vanessa」の編作 、三月から五月まで、弦楽四重奏曲「Requiem」(仮題)、六月半ばまでピアノ小曲「花の舞」、その後六月から七月まで、無調様式に近づいたピアノ曲「SPICA」、八月から十一月まで、より無調化した最新ピアノ曲「Anna Flora」。
 この辺で少し頭を休めたい。考えるべきものを置き去りにした感もあり。創作活動旺盛はいいが、度が過ぎると前のめりになった感がある。

11.23.水曜 祭日 秋晴 町田

 今日は祭日、秋も深い。10年以上前。大きな仕事を受けて、若いスタッフたちと打合せで集まったことを思い出す。いつのまにか10年以上が過ぎてしまった。

 海野十三の少年小説を図書館から借り出した。むろん昔の復刻版である。

 海野十三は戦後亡くなったが、戦時中、少年向きの科学小説を書き続けた。私たちの年代の者は夢中で読んだ。「浮かぶ飛行島」、「亞細亞の曙」、「太平洋魔城」、「火星兵団」、等々。すべて少年時代の思い出である。
 「浮かぶ飛行島」は、東シナ海辺りに、英国が巨大な飛行島を建造する。表向きは民間用の発着場だが、真の狙いは日本侵略の基地である。潜入した日本海軍の特殊部隊の二人がこれを爆破する。途方もない大きさの飛行島だが、30ノットで走行する。装備砲は20インチ。しかし、最近のアメリカの巨大空母を見ると、この「飛行島」そのままではないか。

 「亞細亞の曙」は、これも、西洋の某国が日本侵略のための秘密の工場都市を南洋のある未知の島に造る。そこでは、拉致されたアジア人たちが奴隷労働をさせられている。しかし彼らの待遇は高級ホテル並みである。清潔で立派な施設であり、図書館までもある。至れり尽くせりだが自由だけはない。この辺はチャプリンの「モダン・タイムス」も連想させ、資本主義労働を風刺しているようにも読める。ここに乗り込むのが日本のジェイムス・ボンド、本郷義昭、日本陸軍特殊部隊少佐。知能抜群、武芸万端に秀で、世界十か国以上の言語を自由にあやつる。中国人に化けて潜入するが日本人と見破られる。しかし、知力をかけての取り引きで相手を翻弄、ついに奴隷アジア人たちに反乱を起させ解放する。
 「太平洋魔城」は、ソ連が北太平洋の海底に秘密の海底要塞を造る話。しかし、現在出ている版には現在の新しい解説が載っており、当時のソ連にそんな経済力はなかった、と書いてある。「火星兵団」は、よくある火星人の地球侵略ものである。この話は同年代の人たちがよほど読んだらしく、何かの折にそのことが分る。火星人の話声、「ヒューヒュー、プクプク」の擬声音を互いに知ってることが分り、大笑いになることがある。
 これ等に通じるのは、日本が侵略されるというテーマである。当時はそういう思想状況たった。被害者意識を高めて国防軍事を強化する。自衛的軍事進出するという段取りである。ただし、英米が日本を侵略するなら、秘密工場都市とか浮かぶ飛行島とか、こんな手が込んだ手段は必要としないだろう。現実のようにやられた。
 この海野十三も、原子爆弾の完成には驚いた。彼の戦中日記というのがある。ヒロシマの爆弾が原子爆弾と知った時の驚愕か大きい。「おそれいりました」、と書いてある。これは私たち少年も同じだった。原子爆弾の原理は子供も知っていた。ただし、数世紀未来の宇宙旅行のたようなものと考えていた。

11.22.火曜 町田

 三岸好太郎。

 画家、1934年わずか31歳で没。生前、やはり高名な画家だった妻節子は長生きして自分の絵を成熟させると語り、夫好太郎は、自分は、なすべきことが終れば死ぬと語っていた。二人ともその通りになった。節子は1998年、94歳まで生きた。

  好太郎の画業はわずか10年くらい、その絵にははげしい霊感がみなぎる。好太郎は札幌市出身で私と同郷である。中学も旧制札幌一中(現在の北海道道立南高校)で私の先輩にあたる。

 好太郎には不思議な行為があった。札幌市内の薄野で生まれたのに、出生地を「石狩ルーラン海岸六丁目」と記した。もちろん事実ではない。しかし、石狩のルーラン海岸という地名は実在する。それは、けわしい断崖が海に落ちる無人の地である。冬は海が荒れ、はげしい吹雪が吹きすさぶ。ルーランとはアイヌ語で「神の通る道」を意味するという。彼のこういう行為は何から発したのだろう。

 私の電子音楽に「風のうた」という曲がある。1979年、NHK電子音楽スタジオでの制作だった。私が49歳の時である。この曲の中にも人界を絶した異境の地に吹きすさぶ荒涼たる風の音が鳴っている。私がなぜこのような音をもとめたのか、自分でも説明ができない。ただ、私の心の中にこの風が鳴っていたというほかない。好太郎のルーラン海岸、現実に画面で見たその風景と、私の心の中のあの風の音とは予定されていたかのように一致した。それは、デジャ・ヴュ、すでに見たことがある風景であった。
 「風のうた」の中には、風だけではなく、無人の海岸に打ち寄せる激しい波の音も聞こえる場面がある。これはルーラン海岸の風景そのままである。私が生まれた四年後に死んだ好太郎と、私と、その心に同じ何ものかが生きているのだろうか。北国に生まれ育った者が共有する何かだろうか。

11月20日、日曜、晴 町田

 どうも主題の展開が不得手である。

 昨年、尺八の曲を演奏した時、同門の先輩、眞鍋理一郎から感想を言われた。テーマをもっとエラボレートしろと。しかし、私にはどうもそれが出来ない。エラボレートとは、主題を展開したり、装飾したり、つまりは、趣旨徹底するということである。ベートーヴェン得意の主題の展開などその代表的なものである。技術の問題ではない。感性の抵抗があって出来ない。一度発言したものをさらに言いかえし、趣旨の徹底するという行為に抵抗がある。一度言ったことを繰り返すことがクドイのである。一度発言したら、再びくり返したくない。家族からも言われたことがある。私の曲は、いま少し踏み込んでほしいところでそうしない。
 自分勝手の都合がいい解釈だが、日本人の感性が作用しているのではないかという気がする。クドクない。淡白である。平家物語という文学は特異な構造を持っている。平家の最盛期から始まり、それが凋落して、ついに壇ノ浦での滅亡にいたる。頂点が最初にあって、あとは減衰するという形、頂点が最初にある三角形の形をしている。こういう文学は欧米にはないそうだ。これが日本人の美感かとも思う。まるで、筝の音のようである。筝、お琴の美しさは、音が減衰していく美である。
 ただ、ベートーヴェン式のやり方の方が趣旨徹底という意味で有利である。それはよく分るのだが、出来ないことは出来ない。ソナタ形式は、再現部という部分があって、提示部をまた繰り返す。多少の変化はあっても再現である。一度話したことを、またもや蒸し返す。とてもクドクで出来ない。

 ともあれ、進行中の曲は出来た。7分くらいの曲。極地放浪の結果の曲である。これは、ピアニストにも演奏を依頼しにくい。頼まれた方はさぞかし当惑するのではないか。遺作として弟子に預けておきたい。表現したいものが終ったと判断したところで、すぱりと終りにした。やはり、こういう完成の仕方が正しいと思う。形式を整えようとする理由から、だらだら書き足すことはいい結果になるまい。
 曲名は「Anna Bellina」だったが、「Anna Flora」と変えた。両方とも西洋の女性の名だが、Bellina は、余り若くない人を連想する。普通の意味できれいな部分も多いので、Flora とした。この方が、ふわりとした美しい人を思い起こす。それに、Flora は植物相の意味もある。さまざまな花が咲きにおうようで好ましい。実際、私にとっては未知の高峰の高山植物をたずねて放浪するような想いであった。

11月17日、木曜、晴 町田

 新作が難しい。
 私はなぜこんな世界に踏み込んだのだろう。

ほとんどの部分が12音技法のの音列作法による無調音楽である。ここに踏み込むについては、随分とためらいがあった。自分中のの最もよい部分を捨てようとしているのではないか?進んで不毛の世界に歩み入ろうとしているのではないか‥‥‥?。
 しかし、どうしてもこれまでの世界には飽き足らなくなった。松平頼暁君がどこかで書いていたが、作曲家には二つの種類がある。一つは、城を築く型、もう一つは果てしない旅を続ける型、と。私は城を築いたと信じていた。来年の記念演奏会のあいさつにも、「自分の音楽を感じとるようになったのは60歳を過ぎていら」などと書いた。それなのに、なぜさらなる放浪の旅で出なければならないのだろう。60歳を過ぎてようやく自分の家を建てたのに、また、そこをあとにして旅に出るとは。しかしまたフォークナーの言葉が思い起される。「失敗を怖れるものは芸術家として駄目だ。勇気が無い者は駄目だ」、と。

 いままでの様式と語法では何を発案してもつまらない。新鮮な意欲を感じない。いままでのどれとも違うものが欲しい、そんな衝動が自分の中で頭をもたげてきた。いままでの世界は、多くの人々と共感を共有しながら、大勢の人の群れと仲良く温かい空気の中で暮らすような世界であった。しかし、いまは違う。どちらを見ても人影もない、空漠広漠たる無人の野がひろがっているだけである。これでいいのか。こんな所に来てしまっていいのか。真暗な洞穴の中を手探りで壁伝いに少しずつ足を踏み出して行くよう。
 ようやく20頁くらいまで出来て、ひとまず外容が見えてきた。

11月13日、日曜、晴 町田

 書棚からおかしなものが出てきた。
 少年時代の日記である。15歳から21歳頃まで、1945年から1951年頃までである。

 これを読んで気がついた。子供というものは案外とウソをつくものだということ。ウソと言ってはいい過ぎすもしれないが、自分の中の他人に、強がりを言ったり、言訳をしたり、タテマエを演じたりしている。誰しも、自分の中には他人がいる。子供は自分の中の他人との付き合い方がヘタだから、それが露骨になる。言い換えれば、オトナは付き合いが巧みだから、うまくごまかしながら暮らしているのだろう。
 高校生の殺人事件があった。犯人の子は自分の中の他人とどう向きあっていたのだろう。おそらく、自分の中の他人を喪失したのだろう。それだけ、自己の中の他人が脆弱だったのである。
 ひるがえって、創作も自分の中の他人を相手にする行為である。アマチュアは、その内なる他人が自分と分離せずに馴れ合いになっている状態にあり、プロは自分の中に確たる他人を持っている。そうなるための修行がプロのきびしい勉強である。他人を自身の中に持たない作曲はプロとはいえない。本物の外部の他人に通じないものが出来る。

11月10日、木曜、晴 町田

 このところ、ようやく秋晴が続く。町田の家並をにやわらかな晩秋の陽が包む。

 昨日のNHK TV、「その時、歴史が動いた」でジョン・万次郎を取り上げた。幕末に漁船が難破し、アメリカの捕鯨船に助けられ、アメリカへ行って教育を受けた人である。帰国後、外国を見たというので、幽閉されたが、黒船の来寇で彼の出番がまわって来た。この人はもともと頭のいい秀才だったそうだ。アメリカで小学校へ通ったが成績一番だったそうである。
 私が学生時代下宿した目白の中浜さんの家は、この万次郎の子孫であった。万次郎のひ孫に当るご主人から万次郎の話をよく聞かされた。見知らぬ国の少年を温かく迎え、家族の一員として遇してくれた船長とその家族の人類愛は高潔である。差別をしなかった町の人々も同様。この町では、いまでも「万次郎祭」というのを祝い、彼を讃えているそうである。アメリカは差別の国でもあるといわれ、それもまた事実であろう。その反面、こういう美徳の国でもある。ものごとには両面がある。どちらも真実であろう。単純に一面だけをとりあげては間違いである。
 1972年、私はソ連に行った。ブレジネフ時代のソ連全盛期である。当時、ソ連はがちがちの官僚主義の国と言われた。イルクーツクの町で、私は、何かの書類が必要になり、役所へ行った。英語を話す女性職員はすぐに作ってくれたが、最後に「パスポート?」と聞かれた。しまった。パスポートはホテルに置いて来た。私は、とりに行くと言って腰を上げかけた。すると、女性職員は、にこやかに微笑しがら、「Ok, Ok, I believe you」と言って、書類を作って渡してくれた。日本の役所でもない親切な対応ではないか。西欧の最良の社会でも珍しい。つくづく、風評、通念でことを決めてはいけないことを知った。

11月9日、水曜、晴 町田

今日もよく晴れた.有難い。

   小泉チルドレンとやらの女性たち、猪口さんだけは以前から真面目な学者の活動をしてきたことを知っているから例外だが、ほかの人たちには、なんとも、いかなる好意も持てない。反対に不快千万である。
自民党のこの人たちの売出し方を見ると、芸能プロダクションのえげつないやり方そのままである。あらゆる手段と機会を利用して、ひたすら露出度を高める。あらゆる手段で世人の関心を集める。それを人気にすり替える。すり替えようとする。よくここまで恥知らずになれるものだ。比例制という、選挙民を愚弄した手段により、この人たちは議員になった。有権者はこの人たちを指名していない。まるで正当に選ばれたかのような得意顔は見るも不快である。なんとかいう料理教師が、早速、国会を休んでどこかで何かやっていたそうだが、当然である。もともと政治に何の関心もなかった人物である。相手候補者を落選させるための道具だったのだから。
    ただ、ここまで恥知らずな手段を動員して、しかも目的を達する、ということは、自民党か、現総理か、よほど、いまの日本の大衆心理を心得ているわけである。野党たるもの、相手がただならぬものであること再認識しなければならない。ここまでデマゴーグが巧みということは台頭期のナチスを思わせる。
  <政治とは愚民をあやつることである>、
 ゲッペルスの喝采と誉め言葉が聞える。

    それにしても、野田聖子議員の去就には失望した。この人は政治的に自殺した。信念と節操こそは政治家の生命である。この人はそれをみずから捨てた! Alas!

2005.11.7.月曜

 昨晩は雨、憂鬱だったが、雨雲は東に去り、今朝はさわやかに晴れた。

 昨日6日、日曜の午後、NHK教育TVで「私の中のコルベ神父」を見た。

 コルベ神父は、アウシュビッツ収容所に入れられ、脱走を試みて失敗した人の身代りになり殺された人である。神父は戦後ローマ教皇庁から聖人に列せられた。コルベ神父については、曽野綾子さんの著書があり、日本でもよく知られている。神父は昭和10年代の初め、日本にも来て長崎の修道院に勤めていたことがある。

 コルベ神父の名をはじめて知ったのは1993年、ポーランドへ行った時だった。ポーランドの北西部にコシャーリンという街がある。バルト海に近い小さな街だが、すぐれたオーケストラがあり、特に現代曲が得意である。VMMのナンシイさんの曲の録音のため、ピアニストの平島牧子さんとここを訪れた。滞在中にオーケストラの創立記念パーティがあり、しかるべき会館の大部屋にオーケストラの人たちと来賓が参列した。この時は、私たち日本人二人のほかに、ナンシイさんはじめ、何人かのアメリカ人が参列していた。長テーブルに着席して宴席たけなわの頃、全員にだったか、外国来賓にだけだったか忘れたが、ハガキ程の大きさの額縁入りの肖像写真が配られた。それがコルベ神父の肖像だった。恥ずかしながら、私はそれまで神父を知らなかった。日本に帰ってから友人知人たちの失笑を買った。

 数日後、ポーランド人指揮者の案内で、ワルシャワ近郊の、神父の最初の修道院も訪れた。あの国の人にとっては、外国の人にぜひ見てもらいたいのだろう。木造丸太建ての質素な建物で、いまは神父の記念館になっている。身も凍るような寒気が足下から這い上がって来る。こんなに寒いのに、神父が使った寝台は粗末な木製で、暖房もまったくなかったそうである。日本コーナーがあり、長崎滞在中の資料、当時の日本の雑誌、それに昭和天皇からの感謝状もあった。

 ナチはこの人を餓死室に入れた。そして、なかなか死なないので毒を注射した。その場面を描いた絵もあった。地獄の鬼の所業ある。身代わりになってもらった人は90歳以上生きて、最近亡くなったという記事を新聞で見た。鬼の所業のナチと、人の身代わりになるという神父の行為、これ、どちらも人間のなせる行為であるのだから反省すべきことは深い。番組に出た、早乙女勝元氏はとてもいいことを語っていたが、最後に、収容所も戦争のもたらしたものと言ってた。それは違う。ナチのユダヤ人絶滅政策は戦争のせいではない。平時からの行為である。何でも戦争のせいにすると、戦争さえし無ければ悪いことは無くなるという理屈になるではないか。そうではないのだ。戦争をしなくても、人間の悪業は無くならないのだ。いまの反戦運動がはおちいっている一番大きな誤りである。

 大岡昇平の小説「野火」は、フィリピン戦線で敗残兵が山野をさ迷う凄惨な記録だが、吉田健一はこの小説について、「これは戦時のことだけではない。大岡はこの小説に続いて、<武蔵野夫人>という恋愛小説を書いている。この中でも人間への問いかけは続いている」、と書いている。戦記物は戦場のことだけ書いているのではない。平時にもあること、起こることを極限状況の中で凝縮して表わしているのである。戦記物が好戦的な気運を誘発する、などの意見があるが、とんでもない誤りである。

 正午頃、ビクターの人が来てDVDデッキの修理をしてくれた。部品交換ですぐ直った。しかも、料金はとらなかった。まあ、旧ソ連など共産圏から見たら極楽である。エリチンが「社会主義は負けた」と言ったのは当然だ。

2005.11.5.土曜 秋晴

 さわやかな秋晴、まことに喜ばしい。
 DVDデッキがこわれた。

 購入後、はじめて電源を入れた時、「LOADING」の表示が出て点滅する。いまその時と同じ現象き起こり、幾ら待ってもそのままである。
 早速、mailでビクターに伝えたら返信が来た。修理部に電話するようにとのこと。電話はすぐ通じ、7日に修理に来てくれることになった。故障は困るがすぐなおしに来てくれるのは有難い。どういうことになるか分らないが、こういう便利な所は自由経済社会の有難い所だ。
 DVDは、VHSにくらべて場所をとらないからいい。それだけが取り柄でもいい。なにしろ、日本は住宅事情がわるい。場所をとらないものが歓迎される。音の再生手段も、SPからLPへ。そしてCDへ。MDはカセットと同じで正式の再生手段としては認知されていないが、いずれ、カード並のものが出るのではないだろうか。I-Potというものも出ているがオトがわるいらしい。ラジオで評論家が「音がいい」と言っていたが、聞いた人は反対にひどくわるいと言っていた。評論家の話はアテにならない。メーカーに嫌われるを怖れているのかもしれない。こうなると、何事もそのまま鵜呑みはに出来ない。自分で判断して自己防衛するしかない。便利な社会だが自己責任も付いてまわる。

2005.11.3.祭日 木曜 曇ときどき晴

 今日は祭日、文化の日、昔の明治節。気象上は特異日で晴が多い日である。今日は曇天だが、薄日がさすおだやかな晩秋の日になった。
 Violin奏者の中野恵さんからmailを頂いた。FrankViolin-Sonataを近日ひくそうである。この曲は情緒が過剰で好きでないという人もいる。それは分るが私は好きである。遠い昔の日の思い出につながる。

 あれは、二十歳台の前半の頃だった。私には何かとても悲しいことがあった。何であったか忘れたが秋深い頃だった。目白の下宿から近くに「エコー」という名の名曲喫茶があった。私たちの仲間が集まる店でお店の人たちとも馴染みの店であった。その晩「エコー」に行った。この曲がかかっていた。外には冷たい秋の雨が降っていた。かすかな雨の音の上にFrankが鳴っていた。私は作曲者も何かとても悲しいことがあってこの曲を作ったのではないかと思えた。しばらくして店を出た、雨はわずかに、かすかに降っていた。私の心にはVerlaineの一節が浮かんだ。

   秋の日の ヴィオロンの ため息の 身にしみて ひたぶるに うら悲し

 心やさしい恵さんに、いかにもふさわしい曲である。

 この詩を思い浮かべた曲がもうひとつある。VitaliChaconne。戦後はじめての大物来日演奏家の、ViolinMenuhinが日比谷公会堂でひいた。これも晩秋のことだった。私が二十歳の時である。この時のMenuhinの演奏は続けて聴いたが、技術が完全なのに余り心に伝わるものがなかった。しかし、Vitaliだけは、こちらにさような想いがあったせいか、ひたすらにVerlaineの世界にひきいれられた。

      待つ人も 待たるる人も 限りなき 想いしのばん この秋風に
                                                                                                                  伊藤左千夫

2005.11.2.水曜 快晴
 
 昨日からようやくさわやかな秋晴れとなる。今日もすがすがしい空。有難や。

 昨日、一日は、橋本英二君のチェンバロ,リサイタル。東京文化会館小ホール。橋本君は芸大の学友。私たちの学友の間では通称「英ちゃん」、彼はすでに永くアメリカに在住。シンシナティ大学の名誉教授になっている。一昨年、mailで連絡がとれ、昨年、一時帰国の時に、50年ぶりくらいで再会した。アメリカ人のルース夫人も同伴だった。まさに,友あり、遠方より来るだった。
 彼は、Scarlattiの研究で権威者になっていた。今度は彼の監修になるScarlattiの曲集が出版されたのでその披露もかねた帰国リサイタルである。チェンバロは優雅な楽器である。音量も小さく、典雅で、日本のお琴を思わせる。ほかに芸大時代の学友も姿を見せ、なつかしいひとときだった。
 この古い楽器のねいろを聞いていると、数百年前の時代がしのばれる。暗く静かなその頃の夜を思う。明りも暗く、ろうそくの芯がじりじりと焦げる匂いがただようようである。岡本綺堂の「半七捕り物長」を歌舞伎系の人が朗読する時、文の間を大きく空ける人がいた。このマの間に昔の江戸の夜の暗さが伝わると言われたものである。チェンバロの音楽にもそれを感じた。
 帰路は芸大の学友の車に送られた。芸大の正門の前を通ると九時過ぎなのに入っていく数人の学生の姿があった。今ごろ何しに入っていくのか。学内の様子もすっかり往時と変っているが、青春時代の思い出がよみがえった。

2005.10.31.月曜 曇のち晴

 昨日30日は指揮者村方千之さんの演奏会に行った。

 村方さんは芸大の先輩。私たちは二年の時、日本アルプスに行くことになった。昭和27年、1952年のことである。山本直純、のちの直純夫人の岡本正美さん、あとで前衛作曲家になった篠原真、女性数人に私という、いま思えば奇妙な顔ぶれが揃った。その時、リーダーになってもらったのが村方さんである。村方さんは二年先輩で楽理科の一期生だった。燕岳から槍ヶ岳まで縦走する最も通俗的なコースだった。青春の一頁である。

 村方さんとはその後数十年を経て再会した。村方さんは指揮教室を開いて多くの才能を育てた。自身でも年一度か二度の演奏会を開く。会場はいつも目白の自由学園の明日館である。ここは、帝国ホテルを設計したライトの設計による建物で文化財である。

 村方さんは、去年、病にたおれ、その後再起して今度が最初の演奏会である。この10月で80歳を迎えた。

 ワーグナーの「ジーグフリード牧歌」。オーケストラ伴奏の歌曲、日本の新作。ベートーヴェンの一番交響曲という曲目。演奏はどれもなかなかよかったが、歌曲で演奏された日本の「初恋」という歌曲は残念ながら私はどうしても好きになれない。和音の進行がでたらめである。いいかげんな和音をその場次第で情緒的にひろって並べている。論理を無視して情緒に溺れる、日本人心理の最悪の例である。こんなものが横行する間は日本は駄目だ。骨格が腐蝕した不健全な代物である。

 原詩の解釈にも同意しがたい。「砂山の砂に腹這い、初恋の痛みを遠く思いずる日」。この歌は甘っちょろい初恋回想の歌ではない。生活苦のため妻との愛情も失われそうになった啄木が、甘かった昔の日と現実との落差の痛みを歌ったのである。ついでながら、平井康三郎の「ふるさとの」という歌も私は解釈に同意出来ない。「ふるさとの、山に向かいて言うことなし、ふるさとの山は有難きかな」。これはどういうことか。父の不詳事のため、啄木一家は故郷にいられなくなった。「追われるごとく」そこを去ったのである。「石をもて、追わるるごとく、ふるさとを、出でし悲しみ消えることなし」と歌っているではないか。。東京の生活がまた破綻し故郷に帰るが、温かく迎える人はない。ただ、山だけが自分を迎えてくれる。詩人はそう歌ったのである。

 芸術は成立の由縁にかかわらず勝手に解釈していいともいうから、けしからんと言うことは出来ないかもしれないが、原詩の真実を知るものにはやはり同意しがたい。勝手な解釈ですばらしいものが出来たのならそれもいいが、平井作品もまた、くにゃくにゃした安手の感傷である。とても感心できない。
 こういう歌が横行する日本歌曲の世界という所は、音楽界でも特殊な閉鎖領域で、ここだけで自給自足している奇妙な世界である。女声合唱の世界も似たような性質がある。こういうものと、Schubert ,Schumann, Wolf などを比べると、日本と日本人はまだまだ駄目だ。西洋に追いついたような気がしていたがだめだ。
 ついでながら、新作がとてもよかった。入念に書かれていた。池上敏という作曲家である。

 今日は午後から陽光がさしてきた。有難や。と思いきや、五時頃からまた降り始めた。もうやめてくれ。私は雨が嫌いだ。

2005.10.29.土曜 曇のち小雨

 今日も曇天から雨になる。秋晴れは昨日だけのよう。

 ここは、東京町田市のマンションである。正確には町田市からほんの少し神奈川県相模原市に入ったばかりの所。境川という小さな川が流れていて、この川を越えると神奈川になる。昔は武蔵の国と相模の国の国境い、アメリカとメキシコの国境のように、武蔵で悪いことをした人が追手を避けて相模に潜入することしばしばだったそうだ。そのためか、いまでも柄の悪い一角があって警察がいつも警戒している。

 1990年の11月にここに仕事場と事務所を設けた。環境音楽の仕事が多くなり、自宅では器材の置場も狭くなり、来訪する用談者のためにも自宅以外の場所が必要になった。また、二人の若いスタッフたちのためもあった。二人は、それぞれ国分寺と藤沢の人だったから、三人の等距離の地点でここにした。

 15年前はJR町田駅からここまでの間に建物はなかった。駅を降りると、名古屋城のようにこの建物がそびえていた。しかし、いまは駅前にヨドバシカメラが出来た。この店はチェーンの中で売場面積日本最大といわれた。つい最近、秋葉原店が出来てそちらの方が大きそうだから、日本一ではなくなったかもしれない。そのまた隣にライオンズ・マンションが出来た。いまでは六階の私の部屋のベランダから駅方面は見渡せなくなった。

 人が増え、家が増えるのは日本だけではない。ミュンヘンの大通りで都心からしばらく行った所に小型の凱旋門がある。地元の人によると、100年前はここで町並が終っていたそうだ。森鴎外が留学した頃はそうだったのだろう。ウィーンの郊外、ベートーヴェンが住んだハイリゲンシュタットもいまは地下鉄が開通して便利になった。ベートーヴェンが散歩したという小川の道も対岸には小型の一戸建ち住宅が並び、一軒ごとに小型の乗用車が入っている。日本の風景と同じである。ベートーヴェン当時はこんな家並はなかったろうに。これでは自然を讃える楽想も湧きにくい。
 1972年、シベリアのイルクーツクに行った。この町はシベリアのパリといわれる西洋風の古都である。昔、漂流してロシアに来た大黒屋光太夫たちもここでしばらく暮らした。アンガラ川というバイカル湖から流れ出る大きな川の沿岸の町である。川岸の公園から見ると、対岸にも家がぎっしり建っている。案内の女子学生が英語で話してくれた。第二次大戦前は川の対岸には家がなかったそうである。こんな広大な国土の国でもしかりである。少し前、20年ぶりに訪れたフランスのいなか町も人と車が増えた。世界中で人と車が増えているのか。人が増えれば家が増えるには当り前である。便利にはなるが、のどかな部分はなくなる。これも戦争や災害のないおかげである。平穏の代価なのだろう。

  Mozart, "Jupiter Symphony"の終楽章、四つの主題が幾何学的に組み合わされて出現する場面を再見する。なんという驚くべき数学的労作か。流れるように音楽が湧き出た音楽と通常いわれるこの人の音楽がその裏にこれだけの計算が潜んでいるとは。通俗的な見方は音楽の半分しか見ていない。西洋文化の厚みに畏怖を覚える。

2005.10.28.金曜 晴

 今日はようやく陽光がさす。 
 書店で昔の名作映画「カサブランカ」のDVDを買った。

 なんと500円である。ほかに、「哀愁」とか、「第三の男」とか、ジョン・ウエイン主演の西部劇ものとか、歴史的名作が全部500円で積み上げてある。著作権その他の権利が切れたのだろう。買う時は、499円で一円おつりをくれた。普通は消費税込みで少し高くなるのに反対である。

 早速観る。なかなかいい。まず、画面がきれいだ。VHSよりきれいではないか。録音もいい。これは大当たりの買物だった。

 さて、映画の内容、これもいい。始めから終りまで息もつかせない。バーグマン、ボガート、ヘンリイド、と名優揃いのせいもある。ボガートがなかなかである。しかし、実はそれだけではない。最近の映画とくらべて脚本がいい。セリフが文学的に磨かれている。だから、演劇的でもある。これは往年の映画すべてに言えることではないか。1930年代のアメリカ映画のコメディ、ゲイリー・クーパー、コルベールなどが出たものは、すべてセリフに粋を凝らしてある。だから演劇的である。日本の古典落語や講談の世界に通じるものがある。最近の映像本位主義はセリフを相対的に軽視する傾向を生んだ。これが、軽薄、刺激、非人間的、の傾向を坂を転がるように増幅させていった。物を壊す場面、爆発する場面、人を殺す場面、車が吹き飛ぶ場面、セリフで伝えるものを排除して目に見える映像だけでものを見せようとすれば必然的にこうなる。なんとも殺伐たるものである。

 ある芸術を構成する要素の内、一つだけを偏重すれば、他の要素が相対的に軽視される。結果はいびつなものになる。音楽でも、旋律、リズム、和音、この三要素のどれか一つをを偏重すればゆがんだ音楽しか出来ない。Stravinsky, Bartok, Orff, などはリズムを重視したが、これは全体に配慮した上で、慎重に作られている。野放図にリズムだけを重視すれば刺激だけが伝わり、聞く方が疲れるだけの音楽になる。そういえば、最近のロックは、ビートだけで旋律も和音も無きにひとしい。刺激だけだ。こんな所にも映画と並行現象が進んでいる。

 映画のついでに思い出したが、この頃の外国映画の題はカタカナが多い。原題を翻訳しない。どうしたことだろう。明治の人たちは、西洋を取り入れるために懸命に翻訳した。「哲学」、「幾何」、「鉄道」、「法律」、すべて翻訳である。いま、翻訳せずに、カタカナだけですます世相を見ると、明治期のこころざしが消滅したことが知れる。もはや必要ないということか。それより、ものを考えない傾向の結果ではないだろうか。分る必要もないということか。分ってもらう必要もないか。
 映画の題で、「thin red line」というのがあった。「薄く赤い線」、という意味だが、これを「シン・レツドライン」と表記した。こんなのは元の英語の推察の仕様がない。はたして、「新レッドライン」と間違えた人が多かったそうである。
 昔の題は、「ペペルモコ」を「望郷」、「セプテンバー・アフェア」を「旅愁」、「ウォータールー橋」を「哀愁」、少しやりすぎの感もなくはないが、人をひきつけようとする熱意あっての翻訳である。いまは題で客をひきつける必要もないか。他人は他人、自分は自分か。これでよく商売が成り立つのだ。それでいていまどきの若い者は、孤独とか不安とか、引きこもりとか、勝手な悩みにしか見えないのである。

 朝八時台、寝ながら小さなラジオを聞く。今週から某民放ラジオで、女性評論家とキャスターがドイツ、チェコを訪問している。現地から対話の形で放送する。なかなかいい見聞も聞けるのだが、リフレインのように、「日本では・・・」が出て、「それにくらべて日本はダメだ」で結ぶ。そんなにアチラはよくて日本はダメなのだろうか。自分をダメダメと念を押して、それでどこか安心する。これ、心理学だか、精神病理学だか、何かの症状ではないのか。こういうのをマゾヒズムというのではないのか。この人たちはドイツ人と交際したことが余りないようだ。そういうのとちょっと違うんだよ、あの国の人は。

2005.10.26.水曜 

 二日間更新しなかった。サイト編集用の器材が仕事場に置いてある。だから、仕事場に来れない時は編集が出来ない。自宅にも器材はあるが、編集は出来ない。

 24日、日本音楽舞踊会議のピアノ部会の演奏会を聴いた。各部会は年に少なくとも一度の公演を開くことになっている。墨田トリフォニーだった。

 今回は、珍しい日本の作品を聴いた。尾高尚忠の「ソナチネ」はめずらしくないが、中村太郎のソナチネをはじめて聴いた。この人は、1911年生まれ、尾高尚忠、平尾貴四男、池内友次郎、諸井三郎などの年代である。日本音階など民族的な語法の部分も少しはあるが、根本は西洋音楽の表現と技術を学びとろうとする路線の人である。そのことが分った。この時代、こういう路線と、もうひとつ、西洋学習を途中でやめるか、あるいは、やめないまでも、どこまでも追うことをやめて、自分がすでに持っている−と本人が信じた−語法で音楽作りを始める道を選んだ人たちとがあった。自分で信じる語法とは、日本的な音階とか、日本の五音音階から割り出した和音とか、西洋の和音進行とは異なるオスティナートであったりだった。しかし、戦後60年、いまになれば、やはり、西洋学習派の方が本道だったのではないかとの思いが強い。日本にはそもそも和音はなかった。私の師匠、池内友次郎先生は、その教科書の前文で、「日本の作曲は和音の面で救い難い貧困を露呈する」と書かれた。文化は混じり合い融合し、他者をとりいれながら継続していくものである。排他的な行き方からは何ものも生まれない、と自分には思えるのだが・・・・
  ただ、そうはいっても、時代が時代だから、もっと西洋音楽を学習したくてもできなかった人もいたかもしれない。それは気の毒なことである。これらの人たちを「攘夷派」と一概にはえないのだろう。苦難の時代があって日本の現在がある。これは音楽には限らない。

 女性天皇を認めることになったそうだ。いま時当り前のことだろうが。それでも、反対意見や慎重意見の人もいたそうだから人には色々あるもんだ。女性の君主は欧米では珍しくない。イギリスの、エリザベス、メリー、ビクトリア、ロシアのエカテリーナ、スペインのイザベラ、日本でも天照大神、卑弥呼、神宮皇后がいた。女性天皇が出来るとなんとなくロマン的ではないか。

 この数日秋晴れが続いたのに、今日はまた曇天、夜には小雨もとの予報。今年の秋は天気がわいるのだろうか。

2005.10.23.日曜 

 ようやく晴れた。気温も下り、晩秋らしくなった。もう10月下旬である。映画の主題曲「ローマの秋」を思い出す。昔、NHKの花輪さんの仕事で編曲した。映画「終着駅」の主題曲である。短いピアノ・ソロは星野すみれさんがひいた。

 昨日、舞踊家の花柳照奈(てるな)さんの訃報を知った。照奈さんは、日本舞踊の人だが、それだけではなく現代舞踊の領域まで意欲的に進出していた。この人の仕事をしたのは1957年のことだった。私が芸大を卒業した年の夏である。作品は二つあり、一つの作曲が私で、もう一つは湯浅譲二君だった。当時は、スタジオを借りるカネがなかったのか、スタジオならざる所で夜陰に乗じて録音することが多かった。松村禎三君が芙二三枝子先生の作曲を録音したのも目白の喫茶店での録音で、その時に彼と知り合った。照奈さんの仕事も彼女の稽古場で録音した。いまの駒場エミナースの近く自宅の一部である。スタッフから注文が出たり、演奏家が不馴れでうまくいかなかったり、湯浅君の作品のピアノも私がひくことになったり、てんやわんやになった。スタッフには詩人の谷川俊太郎さんや、寺澤正さんもいた。みんな若かった。録音は照奈さん宅だけでなく、男性合唱があるので上野の末廣町の教会を借りて夜陰録音をした。NHKの東京放送合唱団、通称「東唱」の人たちに来てもらった。いまは高名なバリトンの岡村喬生さんも来られたように記憶する。岡村さんは当時東唱に居られたからありる得ることと思う。間違っていたらご免なさい。
 当時私は、卒業直後、母と姉が上京して一緒に住むことになり、板橋の今の環七の沿線に引っ越した。いま小茂根といっている所である。まだ環七は予定地の状態で砂利が敷いてあるだけ、一面の麦畑だった。江古田からバスが出ているが夜になるとなくなる。そうなると江古田から歩く。武蔵野音大の脇を通りすぎて更に行く。便利な目白駅前にいたから不便さがこたえた。幾ら若くても不便は不便である。おまけに当時はクーラーなんかない。照奈さんの稽古場も冷房はない。戸は開けっ放し。もちろん録音の時には戸をしめたが、それでも夜陰録音ができたということは、当時はいまのように街路がうるさくなかったからだろう。車も人も少なかったし通行人も少なかったのだろう。遠い昔のことである。半世紀近くが過ぎた。はるかなる地平の彼方に去った日々。

 山本周五郎作「晩秋」より・・・

 <花を咲かせた草も、実をむすんだ木々も枯れて、一年のいとなみを終えて幹や枝は裸になり、ひっそりと永い冬の眠りに入ろうとしている。自然の移り変りの中でも、晩秋という季節の静かな美しさは格別だ。>

 照奈さんへの弔意をこめて。合掌。

2005.10.22.土曜

 またもや曇天雨。
 
 ウィーンのナンシイさん、 Nancy van de Vateさんから新しい自作収録のCDが届いた。

 ナンシイさんは、アメリカ人の女性作曲家、私と同い年である。現代音楽専門のCD会社、VMMレーベルの社長でもある。ご主人とCD会社VMM, Vienna Modern Masters、を興しウィーンに事務所を置いた。ご主人が社長、自身は専務の役割をしていた。五年前にご主人が亡くなり自らが社長の座についた。日本人の作品もずいぶん出しているので、ご主人が亡くなった時はCDに作品が収録された日本の作曲家たちが、まとめてお見舞いのお花を送ったものである。
 ナンシイさんとはじめて出逢ったのは1983年秋、チェコのブルノの音楽祭だった。札幌の邦楽団体「群」が音楽祭に参加したので私も同道した。ブルノはヤナーチェックが生まれた町である。だから、この町のオペラ劇場は「ヤナーチェック劇場」と呼ばれる。この町の音楽祭では、一日の上演が終ると、地元の新聞社に、その日の出演関係者が集まり、新聞社の人の司会で座談会が開かれる。「群」の出演のあった夜も開かれ、私たちも当然参加した。言葉は、英語、ドイツ語、チェコ語、ロシア語、多士済々である。誰かがそれぞれ通訳して話が進む。アメリカ人の音楽評論家も参加した。ナンシイさんはその一行に加わっていたようだ。この日は、「ヤナーチェック劇場」でソ連のオペラ団が「オネーギン」を上演した。指揮はイギリス人のジュリアス・ピンカスだった。この「オネーギン」の演出家が発言し出すととどまることを知らず、いつ果てるともなく喋り続けている。いささか辟易もので、ほかの人たちも同感だったようで、司会者が上手に終らせた。それに対し、アメリカ人評論家は実に紳士的であった。自分の発言がほかの人にどう受け取られるか、常に気配りをしながら控え目に話す。この場面だけに限れば、アメリカ人には都会的さ洗練さがあり、ロシアの人には田舎者的印象があった。私たちの音楽についは、邦楽の構造、和声はどうなっているのか、ヘテロフォニーと対位法の違い、そんな専門的なことが主題になり盛り上がった。
 その後、彼女と文通が続き、あちらから自作の楽譜CDなど送ってきた。1991年に私は「現音」、日本現代音楽協会の「春の音楽展」で一夜のプロデューサーに選出され、「女性作曲家の夕べ」を企画し、ナンシイさんのピアノ・ソナタを取り上げた。このことを彼女はとても喜んで、音楽展の前に、私が、やはり「群」とウィーンに立寄った時、私のホテルまでご主人同道で挨拶に見えた。ピアニストの平島牧子さんが演奏したが、録音で聞いたその演奏がたいへん気に入り、CDに収録したいというので、録音のため、1992年と翌93年、私は平島さんと共にヨーロッパへ行った。
 そうしたご縁だが、私は、日本でのVMMのエージェント役も引受け、CDの注文を受けている。昨年、ナンシイさんから、日本の作曲家と演奏家の作品演奏を収録したCDを日本の公的な機関にまとめて寄贈したいとmailで言ってきた。結局、国立(くにたち)音楽大学の図書館を推薦し、贈呈が実現した。
 ナンシイさんは女性権利運動の実践者でもある。国際女性作曲家連盟の初代委員長もつとめた。日本では日本女性作曲家連盟が出来、森潤子さんや小西奈雅子さんたちが主導した。私たちには欧米は女性尊重の社会に見えるが、ナンシイさんによれば、あちらでも女性差別があるとのことである。VMMの商談でも自分が相手になると女だから甘く見られることがある、そういう時はご主人に出てもらうのだそうだ。ロシアの女性作曲家、ソフィア・グバイドリーナがやはり女であるため損しているとも言っていた。欧米は外見は女をちやほやしているようで、実は男性社会なのかもしれない。
 CD会社を興した動機について、現代音楽は人が来ない、時に50人くらいしか来ない時もある。しかし、CDにしておけば、幾ら売れなくても50枚ということはないと言っていた。CD製作は、作曲者も一部負担する方式であるが、録音技術と音楽自体の常識的吟味はするが、傾向については一切干渉しない。価値判断は世界にまかせるという思想で進めている。
 今度のCDの音楽は落着いた情感に充ちている。この人も年齢相応に悟りの音楽の域に入ったことがうかがわれた。

2005.10.21.金曜

 二日続けての晴れである。あまりに雨が続いたので救われる。

 来年、2006年7月5日の私の記念演奏会の曲はすでにほとんどが出来た。深沢亮子さんに初演していただく「SPICA」は、2006年完成予定としているが、ほとんど出来ている。しかし、この曲のあたりから私の作風に無調の気配が出てきた。これはいったいどういうことだろう。自分がなしている行為がどういうことたろう、というのもおかしな話だが、心の声に従えば、当人にも理由が分らぬことが起こる。いままでのどの曲とも違うものを作りたいという意識があったことは確かだが、それだけでは消極的で、いわば否定的動機ということになる。どうもそれだけではない。一種の無常感とでもいうものが静かに水面に登ってきたように思う。
 それにしても、serieで作曲することは難しい。serieを使っているのか、serieに使われているのか分らなくなることがある。いままでは、ただひたすら、自身の内なる声に従ってきた。無調でもそれはそうなのだが、ただそれだけではなく、自分の声でありながら、もうひとつ自分を超えた世界の秩序にも同時に従う、という二つの命令を同時に受けているような気がする。
 「SPICA」の次の曲をすでに始めている。こちらはさらに無調的である。曲名は「Anna Bellina」、なぜか西洋の女性の名が浮かんだ。生きている間は創作を続けねばならない。まるで、アンデルセンの「赤い靴」の少女のようである。生きている間は踊り続けねばならず、踊りをやめると死ぬ。不吉なことではないのだが、生きている間の義務ということでは似たように運命を負うようである。


2005.10.20.木曜

 昨日は雨こそやんだが、曇り空で陽光はほとんどささなかった。今日、十日ぶりか、まぶしい陽の光がさした。有難い。

 本の堆積のことを書いたが、新聞の堆積もすごい。私の家では早くから新聞を購読を中止した。すべてinternetで読む。毎朝、全国紙五紙、地方紙の主なものを読む。netでは紙面の全部が出るわけではない。主な部分だけが出る。だから都合がいい。厚い印刷版を丹念に読んでいたら時間がかかってたかなわぬ。ただし、私の家で購読をやめたのはだいぶ前のことである。たしか1992年のことであった。internetが出来る前である。TV、ラジオのニュースを聞いていると充分だし、しかも新聞より早い。新聞は不要ではないかと考えた。とはいえ、購読の中止にはやはりある程度の勇気が要った。ひと月、ふた月、様子をみて何の差し障りもないことが分った。
 昔は、新聞の利点は、報道に論説解説が付くことだと言われた。しかし、この頃ではTVラジオでも懇切な論評が付けられる。その上、最近の諸事件のように新聞の報道解説そのものが信用できぬ傾向も出てきた。これでは全く取り柄がない。ただ、新聞講読中止で困るのは古新聞紙が無くなることである。そのため、紙は丁寧に保存する。資源の節約と有効活用にも貢献できるからいいことだらけである。

 小泉首相の靖国参拝で内外にぎやかである。この問題については、根本的なことが語られず、政治的な次元の意見だけが喧騒をきわめているように見える。肝心なことは、根底にあるのは民族文化の生死観の違いではないだいろうか。

 山折哲雄氏は、死者を許す思想と許さぬ思想を語ったことがある。日本では死者を許す。「猛き(たけき)人もついには滅ぶ(平家物語)」のである。死者を許す思想を私たちは古来守ってきた。中国や韓国はそうでない。韓国は知らぬが、山折氏によれば、中国では死者の墓を暴いて遺骨を踏み散らし蹴散らすそうである。日本人はそういうことはしない。戦犯といわれた人たちの生前の所業を許すのではない。確かに彼らは許されない行為の責任者であったかもしれぬ。しかし、そのことと、最早、死者に入った彼らを踏みにじることは一緒ではない。生と死、それは人を超えるものではないのか。どんな暴君も、犯罪者も、生と死という人を超えた定めから逃れることは出来ない。いわばどんな人も人の子である。死者はもはや語ることも、何事かをなすことも出来ない。偉人も犯罪者も同じである。そういう意味では、アドルフ・ヒトラーも、ヨセフ・スターリンも、暴君ネロも、いまは地下に眠る人である。人は神ではないのである。神に代って成敗を下すことは人には許されないことである。

 こうした死者を許す思想が地上にあることは、それはそれで大事な人類の財産ではないだろうか。どこまでも許さない思想で何か゛得られるのだろうか。イスラエルとパレスチナ、ユダヤ人とナチズム、イスラムと反イスラム、憎しみあい殺し合い、テロにはテロで応酬し、際限のない憎悪と殺戮の連鎖が何になるのだろうか。こんなことから何時かめでたい答えが出るのだろうか。
 確かに前大戦での日本の所業がよかったわけではない。しかし、とがめられて、ひたすら、相手の「理解を得る」ことだけに汲々とし、自分を相手に合わせることだけを考えることが果たして善行といえるのだろうか。すみません、すみません、と、ひたすら謝る、それは、裏を返せば、謝ればそれで帳消しになるという心根が根底にあるのではないか。一見すなおに見えるこの姿勢は裏を返せば途方も無い無責任意識の表われではないか。

 この地上に、死者を許す思想がある、ということを世界に知ってもらうことは大切な世界への貢献ではないだろうか。前大戦については日本が行為の当事者であるから言いにくいことではあるが、それこそが世界への貢献ではないのだろうか。ずくには分ってもらえないかもしれぬが、そういう思想があることを知ることは、いま抗議しているアジア諸国にとっても、世界全体にとっても大きな得るものであると思うのだが。

2005.10.19.水曜 曇

 雨はようやくやんだ。台風は東へ去ったらしい。

 少し前から書棚の整理をしている。

 
とかく書物は質量が大きい。量も然りだが重さもすごい。少し前、関西の方で本の重みで二階の床が抜けたニュースがあった。こういう書物の存在の仕方は永久不変であろうか。最近、CD-ROMで、「新潮文庫100冊」、というものを手に入れた。なんと、100冊の文庫がたった一枚のCDに入っている。100冊の文庫本は並べてどれくらいの幅になるか、書店で検分してみた。両手を大きくひろげたくらいあった。100冊の中には、「嵐が丘」とか、「楡家の人々」のような長編も入っている。日本文学が60編、外国のが30編くらいある。一編で二冊以上のものもあるから、編数は100冊より少ない。人によっては、「本は紙で読むものだ」、と言い張る人がいる。おおむね、こういう形での本の変容には否定的な人が多い。しかし、私は、古いものへの郷愁尊重の気持ちはまったくない人間である。新しいものへの拒否感覚もゼロである。目が疲れるという人がいるが、デスクトップの字は大きく、一頁の字数も控えめにしてあるから少しも疲れない。小さい活字を紙の上で追う方がよほど目が疲れるように思う。少なくとも、年鑑のようなものはCDの方がいい。これには反対の人は少ないはずである。人や場所や会社について知るのに、巨大重量級のものがなんで必要だろうか。何より、電源を切ると消えてしまう所でいい。不要になった段階でものは消えてほしい。

 不要な図書は資源ゴミで出すが、捨てるには惜しいものもある。そういうものは誰かに譲りたい。私が属する会、日本音楽舞踊会議の会報に広告を出してもらった。ソプラノ歌手、東敦子さんの自伝的回想記である。東さんは、1999年に闘病の末亡くなった世界的オペラ歌手である。会報が届いた朝、一番の申出があった。午後に二番目、翌日、三番目。当然先着順である。誰かに読んでもらえることはうれしい。
 東さんは、私が芸大三年か四年の時に入学して来られた。まだ高校の制服姿であった。前に金ボタンが着いた紺色のブレザーを着た高校生のままの少女だった。音楽学部の学生自治会は「学友会」という名で、学友会室という部屋がある。いつも何人かがたむろしていた。部屋にガリ版謄写器があった。東さんは入学早々学級委員に選ばれ、謄写版を刷りによく現れた。いつも寡黙でにこにこしている少女であった。先輩から、ついでの仕事を頼まれても、いつも機嫌よく「はい」と返事して引き受けていた。
 この本、「ふり向けば恵みの奇跡」には、幼い頃のことから、死を予感する頃までのことが綴ってある。この人は少女の時のまま、いつもやさしく、それでいて強く生きた。東さんはカトリック教徒であった。自らの栄光もすべて神の恵みと受けとめ、つねに感謝を忘れなかった。世界的に仕事をひろげれば苦しいこともつらいことも当然押しかけて来るが、この人はどんな時も人を敵視することなく、神への感謝を心に抱いて生きて来た。
 私が知るのは、高校制服姿の東さんだけである。世界的歌手になってからのことは知らない。この人は、私より遅く来て、はるかな高みへ登り、私より早く天に帰って行った。


2005.10.18.火曜日 雨

 今日もまた雨、これで四日降り続いている。
 雨は人を内向きにする。川もまたそうかも知れない。水は人の心に不思議な作用をする。
 
昨日、「方丈記」の書き出し、「ゆく川の流れは絶えずして・・・・」を引用したら、なぜか、アポリネールの詩、「ミラボー橋」を思い出した。
  
   ミラボー橋の下、セーヌは流れる  月日き過ぎ去り 私は残る ・・・・

 「私は残る」、という所は自我の強い西洋風の発想であろうが、私には、方丈記と同じようなものが詩人の心にあったことがしのばれる。違いをあげることには興味はない。それより、どこの国のいつの時代の人であろうが、人として同じことを考え感じとるであろうことに心がひかれる。十二世紀、京、鴨川の流れをみつめた長明と、二十世紀のある日、ミラボー橋からセーヌの流れを見下ろしたパリの詩人の、この二人の心の中に、時代と処を変えても同じような思いが過ぎても少しも不思議はないのだから。この時、アポリネールの心にも無常感があった。人は、無常、無情の世界に投げ出され、それでもあきらめずに自身の存在の確かさをもとめようとする。それは永久に不可能でありながら、また不可能と知りながら。無益無用と知りながら努力をやめないところに人間の価値がある、、カミユが、「シジフォスの神話」で説いたこともまさにそのことであろう。


2005.10.17.月曜日 雨

 日記体を選んだ理由のひとつは、最近開設された、評論家、道下京子さんのsiteの日記欄がとてもいいからである。
日頃、硬い雑誌の評論だけで知っているこの人の文とはおおいに違った躍動的な文章がたいへん魅力的である。若い女性らしいほんねが出ているからである。人は、自己表現の場の状況条件によってこんなにも表わし方が違うものかと、感じ入った。道下さんは、来年の私の「記念演奏会」でも企画と構成の片腕を受け持っていただいている。この演奏会に登場してくれる若いPianist、宮谷理香さんと級友であり、私たち三人は時々会食してよもやまの話をする。若い人たちとのふれ合いは楽しい。
 最近、宮谷さんと、やや哲学じみた話をmailでかわした。真、善、美、の三元が実はなんら予定調和が約束されたものでなく、人間は条理のない世界に投げ出された存在であること。このことは、現代の実存主義哲学では「不条理」という言葉で表わされる。しかし、古来から人はこのことに気づいていた。ギリシャの人は、「万物流転」と呼んだし、日本では、「諸行無常」と言った。近代では、ニーチェが、ドストエフスキーが、ボードレールが、さらに、ショーペンハウアーがそのことを少しづつ語りはじめている。人を取り囲む世界は人間に合わせて出来ているわけではない。この不条理の中の存在に、哲学者でなくとも、すぐれた芸術家は気づいていたのだろう。Bachも、Beethovenも、Chopinも・・・。虚空の中にありながら、しかも、人は自らの中に機軸を立てる努力をしてきたに違いない。fascismMarxismが崩壊した現代、人は更にこの現実に目を覚まされることになった。よるべなき虚空の中で、しかも、絶望せず、虚の中での実をもとめ
努力することが人の生き方なのであろうと、そんなことを考える。理香さんとそんなことをmailで語りあった。若い世代の強靭な生き方を信じる。

 
家、横山操のことをTV番組「美の巨人」で知った。53歳で半身不随となり、右手が使えなくなり、左手で苦しみの中で描いた絵のなんと美しいことか。それまでの激しい画風はいまは去り、限りなく静かな風景の世界に画家は歩み入っていった。遺作となった風景の中の一本の立木を描いた六日後、画家は世を去った。命の一筆であった。画中の林の中の一本の小道、画家はその小道を去り、消えていった、と夫人は語っていた。ChopinNocturneか、Beethovenの晩年の弦楽四重奏曲の一節が私には聞えた。 私もまたこうした命の音をつづりたい。命の音を。

10月17日、秋の雨の日・・・

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新方丈記