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当地は往古上長村(かみながむら)と称しておりました。
現在の地名である帯刀(たてわき)のいわれについては諸説ありますが、
そのうちの一説によりますと、
平安時代末期の武将で、六条判官と称された源為義(ためよし)の子、
源義賢(よしかた)に由来すると言われております。

義賢は保延5年(1139)、皇太子の護衛にあたる武官の帯刀先生(たちはきせんじょう)となりました。
帯刀とは春宮坊(とうぐうぼう)の役人のうち武術に優れた者が任じられ、
特に刀を腰にさすこと、つまり帯刀が許された武官のことで、
帯刀先生はその筆頭者です。

義賢は仁平3年(1153)、上野国多胡郡へ下向し、
武蔵国北部にまで勢力を伸ばすようになりましたが、
鎌倉を根拠地として南関東の武士団の組織を進めていた兄の義朝(よしとも)の勢力と衝突し、
久寿2年(1155)8月16日に武蔵国比企郡の大蔵館(現比企郡嵐山町大蔵)で
義朝の長男義平との合戦に及ぶのですが討ち取られ、大蔵の地に葬られました。

この合戦時に幼少であったこの義仲は木曾に逃れ、その後京都で実権を握ったのは有名ですが、
当地に伝わる伝説によりますと、
義賢も大蔵からさらに逃げのび、当上長村へたどり着き、亡くなったとされています。
村人たちはその尊骸を敬い、村内の萱野の中に手厚く葬り、塚を築き墓塔を建てました。
これがきっかけとなり、村名を帯刀村と改称することになったということです。

帯刀には東西900メートル、南北1000メートルにも及ぶ
広範な区域に広がる帯刀古墳群があり、当地の歴史の長さが忍ばれます。
田や梨畑の中に32基を超える古墳が点在しています。
横穴式石室からは装身具のガラス玉、土玉、銅釧(どうくしろ、腕輪)などが出土し、
墳丘からは、円塔埴輪、馬形埴輪などが発掘されています。
造営時期は、古墳時代後期の6世紀半ば〜7世紀にかけてと考えられています。

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