This is their truth 〜マニック・ストリート・プリーチャーズについて〜


左よりJames, Nicky, Sean。後ろに見えるのはどうもRicheyのようです・・・
マニック・ストリート・プリーチャーズ(以下マニックス)は厭世的でペシミスティックな歌詞に攻撃的な中にもキャッチーで明朗かつ叙情的なサウンドというアンビバレントな個性を持ったウェールズ出身の3人組である。メンバーは、
ジェームズ・ディーン・ブラッドフィールド(vo&g)
ニッキー・ワイア(b)
ショーン・ムーア(ds)

ちなみに全員血液型がO型らしい。だからなんだよという話もあるが。デビュー当時はこの3人に加え、リズム・ギターを担当していたリッチー・ジェームズ(・エドワーズ)が在籍していた。このリッチーの存在がいかに初期のマニックスにとって重要であったかはおいおい述べるとして、マニックスのこれまでの経緯を簡単に紹介しよう。

1988年 南ウェールズのGwent州Blackwoodにて結成。もともと4人は長年の幼なじみ(ジェームズとショーンはいとこ同士)であった。
1989年 最古の音源である「Suicide Alley」が録音されている。
1990年 Damaged Goodsより「New Art Riot EP」リリース。この辺の彼らはただのバカパンク。ジェームズのヴォーカルもドヘタであった(笑)。この時期はセックス・ピストルズやクラッシュなどの初期パンクの影響が強く、Tシャツやブラウスに反体制的スローガンをスプレーペイントした服を着ていた。
1991年 Heavenlyより「Motown Junk」リリース。この時期に「解散宣言」「4REAL事件」等「過激なマニックス」というイメージを決定づける事件が相次いで起こっている。同年5月「You Love Us」リリース。この頃よりリッチーとニッキーはグラム・ロックに影響されたと思われる派手なメイクをはじめる。
同年7月メジャーのColumbiaより「Stay Beautiful」リリース。この頃よりガンズ&ローゼズをはじめとするアメリカのHR/HMに影響されたハードな音楽性を追求しはじめる。
1992年 デビュー・アルバム「GENERATION TERRORISTS」リリース。5月に初来日(クラブチッタ川崎)。まともに演奏できるのは実はジェームズ1人だけだったことが暴露されてしまう(笑)。
1993年 2枚目のアルバム「GOLD AGAINST THE SOUL」リリース。この頃のマニックスは革ジャンなど着たりしてまんまメタルバンドのようであった(特にショーンは長髪だった)。9月にはボン・ジョヴィのサポートをして一部のファンの間で顰蹙を買う。10月に再来日。(余談だがこの来日の直前にニッキーは長年のガール・フレンドであったレイチェルさんと結婚。デビュー時よりニッキー命だった管理人は当時大いにショックを受けたのでした…)
1994年 8月に3枚目のアルバム「THE HOLY BIBLE」リリース。その強迫神経症的な内容がたたってかリッチーはその後まもなく精神的変調をきたし、しばらく病院に入院する羽目になるが、数ヶ月後に回復、年末にはステージで元気な姿を披露した。
1995年 2月にアメリカツアー直前にリッチーが失踪。バンドは一時期活動休止状態に。「解散か?」という声もあったが残された3人は結局マニックスとしての活動再開を決意、この年の暮れにはストーン・ローゼズのサポートとして公の前に3人組として初めて姿をあらわす。
1996年 5月に4枚目のアルバム「EVERTHING MUST GO」リリース。これまでの中で最高の大ヒットとなる。
1997年 ブリット・アウォードでベスト・アルバム部門(「EVERYTHING MUST GO」)とベスト・グループ部門を制覇する。
1998年 5枚目のアルバム「THIS IS MY TRUTH TELL ME YOURS」リリース。全英チャート初登場1位。
1999年 NME、メロディー・メイカーの人気投票でベスト・グループに選ばれる。2月に5年4ヶ月ぶりの来日公演を無事成功させる。ブリット・アウォードで97年に引き続きベスト・アルバム部門(「THIS IS MY TRUTH TELL ME YOURS」)とベスト・グループ部門の2部門受賞。12月末にカーディフのミレニアム・スタジアムにて大々的なミレニアム・ライブを行なう。
2000年 初回限定のみのシングル「The Masses Against the Classes」全英チャート初登場1位。ショーン、7月に長年のガールフレンド、Rhianさん(なんて読むの?)と結婚。
2001年 2月にキューバにて西側のバンドとしては初めてのライブを行なう。3月に6枚目のアルバム「KNOW YOUR ENEMY」リリース。7月に4度目の来日(フジロック・フェスティバルに参加)。
2002年 10月に初のベストアルバム「FOREVER DELAYED」リリース。11月から翌年1月までロンドンでミッチ池田氏によるマニックス写真展開催。12月に英国内でグレイテスト・ヒッツ・ツアーを行う。ちなみにこの年、ショーン夫妻とニッキー夫妻にそれぞれ娘(マチルダ、クララ)が誕生しています。
2003年 1月に1年半ぶり(単独公演としては4年ぶり)の来日公演を行う。

さて現在のマニックスを語るときにも必ず触れられるリッチー・ジェームズ(あるいはリッチー・エドワーズ)ですが、彼は一体何者?という人は次をお読み下さい。

リッチーとは何者?


リッチーの本名はRichard James Edwardsといい、マニックスでは一応リズム・ギター担当ということになっていたが、それ以上に作詞者、バンドのイメージメーカーとしてバンドに多大なる貢献をしていた。他のマニックスのメンバーと同様南ウェールズのBlackwood出身で彼らとは4、5歳の頃からの幼なじみであった。ちなみ に血液型は不明である(笑)。リッチーはマニックスに参加した最後のメンバーで 、楽器こそ全然弾けなかったが、類い希なる知性・美意識・美的センスを対メディアや作品の中にあまねく発揮し、現在もなおメディア、ファン双方から傑出したロック・アーティストとして敬慕される存在である。


マニックスを語る上で絶対欠かせないRichey Edwards。
彼がバンドにもたらしたものは多々あるが、中でも強烈だったのは今もなおマニックスと聞いて一部の人間が想起する過激かつ華麗なイメージであろう。デビュー当時に大流行していたマッドチェスター〜ハッピー・ヴァレーのシーンから出てきた幾多のバンドに典型的な享楽主義的アティテュードに反発し、あくまで覚醒的かつ知的であろうとするためにリッチーは多くのアイデアを提供している。レコードジャケットにおける格言や本からの引用やシンボリックで難解な歌詞、メディアに対する挑発といったものがそれらの代表的なものといえよう。特にリッチーは破壊的・反抗的・自虐的といったネガティブな観念を美しいイメージで表現することを得意としていたが、この辺は例えばグロテスクなイメージをストレートに押し出す同時代のオルタナティブ・バンド達とは対極に位置する美意識といえる。こうして彼の主導で作られたマニックスの過激なイメージに魅せられたファン達は「4REAL事件」でずたずたに切り裂かれた腕を誇示する華麗なメイクのリッチーの写真にさえ奇妙な美しさを覚えたのである。

こうしてマニックスは、リッチーのアイデア(視覚的イメージ戦略、発言、歌詞等)によって、またリッチーのスタンス(作詞だけをするメンバーという立場)そのものによって他の幾多のバンドと一線を画す存在になり得たといえよう。おそらくマニックスについて賛否が分かれるポイントは彼に集中していたのではないかと思われる。彼を全面的に支持するか、全く反発するかによってその人が日頃ロックに対して何を一番に求めているかが浮き彫りにされるであろう。いわばリッチーはリスナーに対する苦いリトマス紙だったのである。

ただ、完璧な理想を求めずにはいられないリッチーの性格がバンド活動という過酷な現実の中で徐々に彼自身を精神的に追い込んでいったことは想像に難くない。94年にリリースされた「The Holy Bible」はマニックスのアルバムの中で最もリッチーのアイデアが反映されている作品であるが、このアルバムの完成後間もなくして彼が精神的変調をきたして入院してしまったのも、彼がこの作品の中にあまりにも自己を投入しすぎたからに他ならない。かの名バレリーナ、アンナ・パブロワの言葉に「美は中途半端な取り組みに耐えられない。美に奉仕するというのは、美に自己のすべてをあまさず捧げることである」というものがあるが、リッチーがまさにこの言葉どおりに生きようとして、結局は失踪という形で己の理想と現実との戦いに決着をつけざるを得なかった事実と残された「The Holy Bible」の放つ一種異様な美的世界とを突き合わせると心寒からしめるものがある。

95年のリッチー失踪後、残された3人がまずはじめに考えたのは当然「リッチーがいなくてもできること」であっただろう。確かにリッチーの不在は公私共に多方面にわたってバンドにとってかなりの損失となったが、幸い(?)バンドの生命線である音楽だけはリッチーの不在の影響が最も少ないものであった。「Everything Must Go」以降、彼らが純粋に楽曲面・サウンド面のクオリティー向上に重点を移していったのはしごく当然の流れだったといえよう。


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