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第83回懇話会

2017年5月21日(日)茅ヶ崎市勤労市民会館 14:00~18:00
私にとっての鶴見俊輔
講師:白石 征さん(劇作家・演出家・遊行舎主宰)

講演概要

 鶴見俊輔が逝って二年になる。彼の思想家としての偉大さが、ますますよく分かる。いや、やっと私も、彼の姿に真剣にむき合えるところまでに辿りつけたということなのだろうか。

まさに混迷した危機の今だからこそ、彼の生涯をつらぬいたその身体的思考と精神は、切実に共有され、読みと解かれなければならない問題なのだ。

 彼の行跡は、著作ばかりではなく社会参加という意味でも、「声なき声」の安保反対デモや「ベ平連」における脱走兵援助、公害問題への関心があり、「思想の科学」の発行編集や転向論研究、さらにサークル活動も数多い。著書もまた多岐にわたっている。

 やがて今後、然るべき鶴見俊輔論があらわされて、彼の真価を一望してくれるにちがいないが、今回は、一介の門外漢にすぎないものの、芸能分野ではある種の影響を受けつつ同時代を生きた者としての私なりの鶴見観を自由に語ってみたい。

 

 60年代、映画青年の間でも、花田清輝、吉本隆明、鶴見俊輔はオピニオン・リーダーだった。私は花田の『新編映画的思考』や『アヴァンギャルド芸術』から入ったが、鶴見の『誤解する権利』(59)は、それに続いてのものだった。鶴見からは映画の見方という観客参加についての示唆を受けた。『思想の科学』や『折衷主義の立場』(61)、『転向論』も読んだが、熾烈な吉本・花田論争に目を奪われて、鶴見のスタンスを十分に理解できなかった。

 鶴見がより身近に共感できるようになったのは、寺山修司や吉本隆明との対談からであった。そして決定的な感銘を受けたのは、彼がカナダの大学で行った講義をまとめた『戦時日本の精神史』(82)と『戦後日本の大衆文化史』(84)である。十五年戦争下及び戦後の日本民衆の精神史を深く鋭く分析、考察した両書は、鶴見理解へと私の目を鮮烈に覚醒させてくれた。

 『限界芸術論』(67)は、彼のもう一つの大きな軸である。芸術と生活のマージナル(辺境)な場に、創作の営みをみようとするこの主張も、残念ながら当時十分には理解できなかった。アマチュアリズムの変形のようにも感じられたし、取り上げられた柳田国男や柳宗悦、宮澤賢治のこともよく知らなかったせいもある。

 だがその後、寺山の活動に、限界芸術的な類縁性を感じるようになった。アンダーグランド演劇から市街劇、あるいは観客論の演劇化などである。しかも寺山の身体的読書論や語り言葉の文章化なども、鶴見の主張とひびき合うものがあったからである。寺山は、三島由紀夫の「楯の会」の活動を、当人にむかって、真摯なお芝居ではないか、と問うたこともあった。

 しかし、私が本当に腑に落ちたのは、加東大介の『南の島に雪が降る』を読んだ時のことだ。敗戦間近いニューギニアの残留部隊が、戦傷者や疲弊した兵士の慰みのために奔走努力して、ジャングルに「瞼の母」を現出させたという体験記である。

 プロもアマも、またさまざまな立場の人も動員され、その役割を果たしていく。しかもつくる者ばかりではない。観客もまた、男性が演じた母親に自分の母親を重ね、小道具の紙片に故国の雪をみたのである。芸能者の視点でもなく、アマチュアだけのレクリエ―ションでもない。各々が真剣に何ものかに向かって協力し合ってつくりだす喜びが描かれていて、かつての村々のお祭りが思い出されたのである。

 鶴見には、「限界芸術」を書き継ぐ構想があったが、完成には至らなかった。しかしその道筋は、その後の彼の伝記物の書物の中にみてとれるようだ。

 『高野長英』(75)は、長英の逃走を助けた人々の信義と侠気が、鶴見のベ平連当時の脱走兵援助の活動と重なっている。追われるもの、零落した者への同情と共感。そして追いつめてゆく権力機構への強い反撥は、鶴見が少年時代に国定忠治や相馬大作といった講談や映画で培った精神の原質に裏打ちされたものである。

 『柳宗悦』(76)も、鶴見が追い求めた日本大衆の知的伝承を示唆するかたちで柳自身の言葉がエピローグに掲げられている。つまるところ、今ある自分を生かしてくれるものへの恩義である。その「報恩行」という行為こそが、自分の創作の根拠だというのである。

 『アメノウズメ伝』(91)は、鶴見の女性にむける敬意と洞察にみちた可能性への讃歌である。白眉は、歌舞伎誕生にまつわる出雲の阿国に関するエピソードだ。

 夫からも、同志からも孤立した阿国は、雪の中で倒れて流産するのだが、その時つき従って介抱する小者の伝助に、鶴見はイエスを宿したマリアを支え庇護した養父ヨーゼフの忍耐強いやさしさを見るのだ。そして、さらにそれを切り返すように、大衆映画のヒーロー沓掛時次郎の献身への普遍化されているのである。

 まさしく無意識の愛とでもよべそうな、鶴見が見つめるこの一人の日本人の思想の源泉を、私はここに見たい。それに関連して彼が『再読』(87)で取り上げた『カラマーゾフの兄弟』の読解がある。長男ドミートリイが、末弟スメルジャコフの殺人のせいで、無実の罪をきせられて流刑地送りとなる場面だ。あえて罪を引き受けるのだが、彼はこう言っている。「不幸な子供に対してこの世の大人が負わなくてはならない責任」なのだと。

 「おれは、あの〈餓鬼〉のために行く。なぜなら、われわれはみな、すべての人のため、すべての〈餓鬼〉のために責任があるからだ」。これは合理主義では出てこない、いわば〈業〉のようなものだ。この業のなかに目醒める自発的な責任。これは自分を含めた共同体への一人の男の愛の身ぶりである。

 鶴見が生涯をかけ走り続けた活動もまた、彼の主張する限界芸術にほかならず、それを支えていたのが、一人の大衆としての彼自身に内在する愛の思想だったように思われてならない。(白石 征)

講師プロフィール

白石 征(しらいし せい)
 1939年、愛媛県今治市生まれ。青山学院大学卒業後、新書館に入社。編集者として寺山修司との交流は18年間にもおよび、寺山本を数多く手がける。寺山没後は、『寺山修司俳句全集』『寺山修司メルヘン全集』(全10巻)『寺山修司著作集』全5巻(山口昌男と共同監修)などを編集。

 出版社退社後は、演劇の世界に転身。遊行かぶきとして、「小栗判官と照手姫」、「一遍聖絵」、「中世悪党傳」三部作、「しんとく丸」「さんせう太夫」「きつね葛の葉」を作・演出。他に花田清輝「泥棒論語」「ものみな歌で終わる」、寺山修司「十三の砂山」、泉鏡花「爪の涙」、幸田露伴「五重塔」も舞台化している。

 今年夏、寺山修司作・泉鏡花原作『爪の涙』を舞台化し上演する。藤沢市民会館小ホール、2017年8月17日(木)~18日(金)。

 著書に『新雪之丞変化 暗殺のオペラ』(1990)『小栗判官と照手姫』(1997)『母恋い地獄めぐり』(2014)『望郷のソネット 寺山修司の原風景』(2015)がある。

日時/会場

日時:2017年5月21日(日)14:00~18:00
会場茅ヶ崎市勤労市民会館(〒253-0044 茅ヶ崎市新栄町13-32)
電話 0467-88-1331 FAX 0467-88-2922 http://www.chigasaki-kinro.jp/
参加費:1,000円
連絡先:猪野修治(湘南科学史懇話会代表)
〒242-0023 大和市渋谷3-4-1 TEL/FAX: 046-269-8210 email: shujiino@js6.so-net.ne.jp
湘南科学史懇話会 http://www008.upp.so-net.ne.jp/shonan/home.htm