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2月29日 水曜日

東京の雪ををかしく観て篭る  山形龍生

「陸奥新報」の福士光生の解説について、東京人の清水哲男が反論している。
光生氏の解説を引用する。
「映像は、雪に襲われた都民の醜態・不様。
「観て」を――対岸の火事を囃す群衆のように――と解せば「をかし」は不様に向け たものだが、
それでは雪国に住む者の狭量。
雪に対して用心深い津軽人の作者には、不様の原因である無防備が不思議でならないのだ。」
それに対して、哲男氏は、このように反論している。
「この句は「無防備が不思議」などとおためごかしを言っているのではなくて、
わずかの雪に滑ったり転んだりとあわてふためく都民の姿が、
単純に可笑しいと笑っているのである。
この笑いには皮肉も風刺も、そしてなんらの敵意も含まれてはいない。
素直で素朴な笑いなのだ。」
反論の仕方が、揚げ足をとったりするのではなく、ポイントを押さえてなされており、
それこそ、素直で素朴に異議を唱えて完結明瞭である。
林檎が落ちるのを観て、どのような感慨をいだくのか、ひとそれぞれである。
それと同じように、東京の雪をどのように観るのか、各人それぞれ興味深いものがある。
このパズルを解く鍵として、作者は雪国の人であるということを押さえなくてはならない。
ここには、3人プラス1人(読み手)の解釈が複雑に絡まりあって初めはこんがらがってしまう。
わかりやすくするため、作者である龍生を@、光生氏をA、哲男氏をB、読み手をCとする。
まず、単純に句を自分の感覚で読みとって(C)から、AからBへとすすむ。
その過程で、わたしはこんがらがってきた。
どうしてこんがらがってきたのかもわからない。
なんども繰り返し読んでいると、まずわかってきたのは、AとBの相違である。
「をかし」の対象は、東京人の混乱ぶりであって、その混乱をAは、雪に対する無防備に
原因があるとして、東京人ともあろうものが不思議だよなあという感慨をいだくに至った。
そのもの言いにいささか冷めた口調を感じとったのが、Bで、もっと素直にみたらどうかという。
立場がものをいわせるように、雪国育ちが雪の東京(の人)をみた場合と、
東京人が雪の東京(人)をみた場合とは、知らないうちに差異を生ずる。
私はというと、雪国育ちでなく、そして東京育ちでもない、第三の立場である。
というわけで、私は、かなり冷静になって、AとBを公平にジャッジできる。
雪に対する感慨は、雪国とめったにふらない地域との差は歴然とあり、
雪をみたときの反応から、リトマス試験紙のように酸性かアルカリ性かわかってしまう。
赤色メガネでみる世界と、青色メガネでみる世界は違ってくる。しようがない。
そこで、私は、最終的にどちらの解釈を採用するかというと、人間性からみたBである。
次に、わかってきたのは、私の解釈(C)と、AとBの違いである。
どうして混乱してきたかというと、東京の人の雪と東京の雪の違いからくる。
Aの立場であれば、雪に対する感慨はあまりないので、東京の人の振る舞いに視点が移る。
Bの立場であれば、東京とくれば、イコール自分を対象(つまり人)とされているように思う。
東京に住み、東京をこよなく愛している哲男氏であれば、看過できないAの視点となる。
そこで、私との違いが明瞭になってくる。私の解釈はこうである。
雪国でみた雪景色とは違って、東京にふる雪は違ってみえてくる。
その光景には感慨深いものがある。
雪が深くふりつもり真っ白になる田舎の光景とは違い、立ち並ぶ黒々としたビル群に雪がふり、
久々の天からの贈り物に喜びながらも困惑している東京の雪景色である。
外に出て、雪に触れてみようという気にはなれないで、
暖房のきいた部屋に篭り、故郷を思いだしている。
つまり、東京の人に焦点をあてないで、東京というもっと大きな視野からとらえている。
Bの視点は、俳句の領域の中でも人事に関心のある人であるから、
そちらに傾きがちになるのもやむをえない。
私は、人事よりも自然のほうが好きである。嗜好の違い。
こうして分析してみると、混乱がとけて、見通しが明るくなってくる。
さて、Cについて考察すれば、雪国育ちの龍生は何を訴えたかったのか。
東京に何のために来たのかは定かではないが、東京に違和感をいだいていた作者が、
雪を媒介として、東京に親近感をいだきはじめているのではないかと考える。
雪国育ちであれば、雪に対してあまりいい思いはしていない。
しかし、東京の雪をみて、これまでと違って面白可笑しく感じられるようになってきた。
篭るという言葉から、これからしばらく東京にいそうなあたたかい気配がする。
落ちる林檎をみて去来する思いがそれぞれ違う。
それぞれの思いを想像するのは楽しく、時間を忘れる。

















2月28日 火曜日

尾の切れし凧のごとくに二月終ふ  有賀充惠

尾が強い風に当たって切れ、くるくるまわって、そのうち落ちてくる。
そういう句なんだけれど、尾を糸と勘違いして、そのまま遠くへ消えていくように思われた。
例によって、早とちりをするには日常における伏線があり、そのように思ってしまうのである。
一生懸命考えた原稿がふとした調子に闇の彼方へ消えてしまう。
慎重に上書き保存しながら書き連ねていけばいいものを、
つい熱中してどんどん書き進めているときに限ってそのような事態に遭遇する。
ひえ〜っと思っても、後の祭り。ショックで立ち直れない。
もういちど書き直す気力はよっぽどのことがない限り、とても湧いてこないものである。
人の文章にも、書き方はいろいろであろう。
最後の結論が決まってから書きはじめるのが一般的のようであるが、
私の場合、書きはじめてからいろいろアイデアが現われてくるタイプで、
書いている最中はどのような結論になるのか自分でもまったく分からない状態で、
最後までいってはじめてへえ〜、そうなりましたかと自分でも驚く結末を迎える。
その点において、自分でいうのも何であるが、面白い。
なにもわかっっちゃあいないのに書きはじめるというこの面白さは、書いて初めてわかる。
これはかなり無謀なことで、必ず何か貴重な結論を導かなければならないというプレッシャーが
かかるとできない。貴重な結論を得られなくともいいから、まとにかく書いてみましょうか、
という軽いスタンスで書いているから、おや、こんな面白い視点がみつかったじゃありませんか
という拾いものをして、もうかったぁ〜という天からの賜りものを受けとることができる。
はじめっから、まるで無欲であるから、何かが生まれる。
こうしてみると、書くということは、生産であり、無から有を生みだせる。
というわけで、せっかく書いた文章も、消えてしまうともうほとんど思いだせない。
それでもさっきまでの文章をもういちど書くということはできない代わりに、
さっきまでとは違った文章を書くということだったらできるので、
エネルギーをためてまた新たに書きはじめることになる。
しかし、消えてしまった文章に対する未練なのか、悔しさなのか、ショックなのか、
同じ嗜好で書くということはもはやできなくなる。
次々に浮かぶアイデアというのは、脳のメカニズムのうちでかなりデリケートな部分で、
ちょっとした精神的な負荷がかかると、阻害要因として働き、円滑に生まれてこなくなる。
ふわふわした感覚で、平衡感覚がかろうじて保たれているような状況で書いている。
何の束縛も感じないで、万能感につつまれながら、うふうふと書く。
そこで、ときには、いっちゃっている状態になるんだよね。
もっともっと書きたいことはあるのだけれど、いい加減に終わらないといけない。
そうしたときには、どうやって地上に軟着陸しようか困ってしまう。
それでも、まここらで終わりましょ、と強引に結末にもっていこうとすると、
まるで尾の切れた凧のように、みていて危なっかしい降りかたになる。
とりあえずここでお仕舞いにするけれど、また明日があるからいいじゃない。
明日から3月。気分を入れ替えて3月を迎えましょう。
(今年は、もう1日ある。もうけたね)














2月27日 月曜日

さからへる手に春水のひびきくる  橋本多佳子

伊丹三樹彦による季語「春の水」『新日本大歳時記』の解説を読む。
「雪解け水の激しい季節のあとには、川や湖で、水は春の声を奏でる。
春の光を水面に乗せる。春は水の表情からやってくる。『水温む』の季語と対照すれば、
より広大な水辺風景が展開する。人の暮らしに欠かせぬ水の季感だ。」
余興に奏でられた小曲を聞くようで、うっとりする。小学校の音楽の自主勉強を思いだす。
音楽の教科書に載っている歌を、@歌う、Aドレミで歌う、Bハーモニカで吹く、
Cオルガンで弾く。そのたびごとに合格印が押され、そのハンコウを集めるのが嬉しくて
たまらなかった。4つのハンコウが押されると合格の花丸がもらえた。
花丸に大小があり、その丸の流れや線と線との間のとりかたに芸術的な職人技があった。
ハンコウが4つ押されて最終的に花丸をもらった楽譜は、
先生と児童によって作られた世界で唯一の作品となった。
当時は、そういう意味などわからなかったが、
花丸のうまさと爽快感を求めて、せっせと歌をうたい、ドレミを読み、奏でた。
それは、一歩一歩土を踏みしめながら山を登るがごとく、
山頂の征服感と爽快感をめざして、日本の名山を踏破するのに似ている。
山があるから登りたくなるのは、山が好きであるからなのか、
登れるかどうか試したくなるからなのか、きっと両方であろう、いつのまにか挑戦している。
先生の手のひらに乗せられて、嬉しそうに踊っていた幼い自分を発見する。
いまになって思い返すと、歌うことが楽しく音が正しく寄り添えられるのは、
あのころの原体験があったからである。
掃除や給食にクラシックをかける放送や、器楽部活動が加わり、ソプラノへとつながる。
小学校時代というものは、その後の人生の芽ばえの時期として重要である。
このときの成功体験が、根拠のある自信となって、あらゆることにおいても挑戦する
ときに必要ななんとなくできそうな感じがする根拠のない自信の源になるのである。
幼いころの体験が生々しくよみがえってくる。
春風に誘われて外で遊びたくなり、河原に行くと、川の水がおいでおいでと語りかけてくる。
そばに近づきみていると、さわってごらんと声をかけてくる。
手を水にひたすと、川の流れを感じる。生きている水の感触にふるえる。
川の水が身体にしみとおり、身体にある7割の水分が共鳴する。
春の水と身体の水が一体化して、手から入った川の水が身体中を流れ、
ぐるぐる身体をかけめぐり、また手から川へと流れでる。
水のイオンが薄い細胞膜を透過して、侵入する。身体は快く受け入れ、吸収して排出する。
水という概念に固くとらわれていると、多佳子の句は観賞できない。
水の音としての振動(ひびき)を受けとっているからである。
振動は、物体をゆるがせ、全身くまなく透過する。
















2月26日 日曜日

残雪に黒き仔牛に黒き母  矢島渚男

色彩からいって、明暗のくっきりした、しかも厳しい寒さから脱しようとする
ほのかなやさしさが漂ってくる。ちょうど今の季節をあらわしている。
三寒四温で、暖かいと思ったらすぐ寒くなり、油断はできないが、
おだやかな日ざしは確実に春へと傾いてきている。
モノクロの世界は、これだけ色彩が豊かになってくると、かなり尖がってくる。
刺々しくなってくるはずなのに、そうならないで救われているのは、
仔牛と母牛の交流と生き物のもつ暖かさからくる。
まだまだ厳しい寒さにみまわれているだろうけれど、
放牧に耐えられる暖かさにはなってきたことをあらわしている。
それから、黒のもつ質感である。
赤といえば、太陽や血の色を連想し、情熱やエネルギーを象徴する。
それに比べると黒は、土や夜や宇宙を思い浮かべ、混沌とした偶有の生成を象徴している。
それにつなげて考えると、春先の黒い牛の親子は、これからはじまる混沌とした世界に映る。
だから、少しものんびりとした牧歌的風景ではなく、
緊張感のある風景として訴えかけてくるから、俳句として、凛々しく屹立してくる。
依然として寒さが厳しいが、底を離れた寒さであり、光りは春を告げている。
親子の暖かさにほのぼのとするが、決して予断の許さない未来である。
相反する要素が、複雑に絡まりあいながら、拮抗している。
まさしく生きている現場がそうであり、昔も今も、厳しさにおいては同じである。
戦争にいのちを奪われる危険がなくなったと思ったら、
新たに放射能の危険に晒されることとなった。
牛には牛の愁いがあり、未来は混沌としている。
真っ暗闇にいるとわからないから不安になる。そこに光りがみいだせれば救われる。
そこに至るまでの瞬間を描くとしたら、幸せで明るい兆しがほのみえている。
575の焦点にあわせてから少し画面を引いてみると、青空や山や森がみえてくる。
これまで、冬眠していた動物たちや木々が目を覚ます。
みんなそれぞれにがむしゃらに生きるのである。くよくよ悩んでばかりはいられない。
いよいよはじまるスタートに少しずつ心の準備をしていく。
くねくねと遠回りしながら納得の行く筋道を探しながら、はじめる。
急がなくていい。ゆっくり反芻しながら、生きてゆく。

















2月25日 土曜日

根分して菊に拙き木札かな  小林一茶

毎週金曜の午前中、野菜作りの仲間が集まって、野菜作りの講習を受けている。
そのあと、同好の有志だけで喫茶店でコーヒーを飲みながら、雑談をする。
これが実に楽しい。ここで失業中の憂さ晴らしをしている。
誰かを相手に話をしていないと口が淋しい。
いつものように、12時までやっているモーニングサービスを注文し、
野菜作りの話に花が咲く。仲間の中には、講師にしてもいいような専門家がいる。
それはそれは楽しそうに今は何を作っているか教えてくれる。
好きなことをやるということはこんなにも楽しいのかということを肌に感じる。
種をまいたら芽がでかかってきたという。育てるということは楽しみであり、
生きるということをまじかにみて、共感するのである。
凝っているので胡瓜でも、3種類の種をまく。
ふつうの人たちは、5月になってから種苗店に出回るポット苗を買う。
彼は、その苗を今から2か月かけて作ろうとしているのである。
いつもいつも感心しながらほうほうと聞き入っている。
話をしているときはほんとうに嬉しそうである。
畑が恋人というように、毎日畑に行って、野菜の顔をみにいっているそうだ。
みれば野菜の機嫌がわかり、肥料の効きぐあいがわかるという。
小1時間ほどして、解散。また来週、といったら、畑に誘われた。
ぞろぞろ軽トラックを連ね、くねくねとした路地を曲がって、住宅地に止まった。
みると、網で囲まれた野菜畑があり、一角にビニルハウスが建てられていた。
20坪くらいだろうか、所狭しといくつもの畝に野菜がぎっしり植えられていた。
借りている土地で狭い。それでいてたくさん作りたいから、こうなる。
子だくさんの家をみるような賑やかな畑である。
エンドウが3種類植えられ、初めてみる白菜があり、中国野菜と混じってしまったという。
ずっと自分で採った種を使っているから、交雑して困ると嘆いていたが、
確かに、同じ畝に植えられている丸い葉の中にぎざぎざの葉が混じっている。
育苗ハウスを覗いてみると、名札のついたトレイに新聞紙がかぶせられていた。
そーっとめくると、白い根がくりんと下へきれいに伸びている。
明後日には、双葉がでてきそうだ。
小さなストーブがあり、そのそばに座ってピンセットでつまみ種をまく。
ポットに植え替えるための培養土や肥料や道具が棚に積んである。
採取した種が入っている缶があり、その表面に入っている種のメモが貼られている。
そして、大きめの作業日誌には、種まきの日付や種の数が細かく記入されている。
誠実で几帳面な人柄を表している。さっきまで話していたとおりを実際にみた。
愛情をかけて育て、それに応えてくれる野菜が可愛くてたまらず、
その成長ぶりを話したくなる気持ちがよくわかる。そりゃ、伝えたくなるでしょう。
帰ろうとすると、ハーブのチャービルとフェンネルのポット苗を持っていけという。
ただでもらうからいうわけではないが、いい人だなあとほのぼのとする。
たいへんな勉強家で薬効や調理法にも詳しい。フェンネルは、
整腸作用がありダイエットにいい。魚の臭みをとり、葉はサラダに、茎はレタスのように使い
スープにもよい。クッキーにも彩りや香りつけになる。
野菜と対話しながら育て、恵みとして収穫する。
喜びとともに野菜作りを飽きもしないでつづけられるヒントがここにある。
















2月24日 金曜日

ごうごうと鳴る産み月のかざぐるま  鎌倉佐弓

妊婦特有の勢いのある句である。
受胎後10月10日(とつきとおか)に及ぶ長きにわたって育ててきた我が子が、
ようやく産まれでてくる予定の月を迎えた。
ここまでくれば、現代医学ではよほどのことがない限り無事に産まれてくるものである。
妊娠した喜びに不安がないわけではないように、出産に際しても、
不安がないわけではないが、案ずるよりも産むが安しとはよくいったものである。
お腹の中で元気にしていることがわかるので、日に日に大きく育ち、
腹を蹴る回数が増えてくるにしたがって、だんだん期待が高まってくる。
腹囲は以前の2倍になり、立ち居振る舞いが鈍くなり、しゃがんだりすると転がりそうになる。
いつ産まれてきてもいいように心の準備をしながらに待つ。
初産のときは、どんなに陣痛が痛いだろうかと気に病むけれど、
どんなに痛くても、無事に赤ちゃんが産まれたときにはすっかり忘れてしまう。
人間って、そういう点ではほんとうにいい加減にできている。
どんなに辛くて苦しくても、それが報いられれば、帳消しになる。
レールを走る電車のようにここまできたら産まれてくるまでノンストップである。
かざぐるまが勢いよく回りごうごうと鳴る。
ごうごうには、力強さがあり、風を巻き込んで新たな風を作りだしているエネルギーがある。
風に遊ばれていたかざぐるまが、勢いづいて、自らの力で回りだすような。
お腹の赤ん坊も、これまで母親の胎内にいて守られていたが、
少しずつ、自らの意思で動き、食べ、呼吸したくなってくる。
外に産まれでて、自分の力だけで生きたくなってくるのである。
母親の身体がそれを本能的に察知して、母親のほうでも胎児を排出しようとする。
外にでようとする胎児を母親は全身の力をふりしぼって援助しなければならない。
そういったことは、だれに教えられるということもなく母親として自然に体得するものである。
受胎したら自然に出産までのレールが敷かれ、母親としての身体のシステムが自動で働く。
受精した瞬間に作動する卵子に組み込まれた遺伝子の装置なのである。
10月10日(とつきとおか)の間、妊婦は女に組み込まれた神の声を聞いている。
神の声にしたがって、動いているから、身ごもっていないときより、
人類存続の使命を担い、感性(五感プラス第六勘)が鋭くなっている。
胎児を守るためにより敏感になっている。だからこうして、
からから回っているかざぐるまが、ごうごうと聞こえてくるのである。
ふだんよりより健康に気を使い、より安全であるように、生きる感性が鋭敏になる。
これはやっぱり、子どもを宿した喜びにより、みるもの聞くものすべてに、
感じやすくなっている。なんといってもふたり分になっているからである。















2月23日 木曜日

春愁の中なる思ひ出し笑ひ  能村登四郎

春の愁いと秋の憂いとどう違うのか。
冬から春への移り変わりと、秋から冬への移り変わりが大きく影響を与える。
夏と冬にはないがどうしてなのだろうか。
私見であるが、春の愁いは、寒い冬から暖かくなっていくときというのは、木の芽がふくらむ。
暗いトンネルから抜けでて、森羅万象まわりのものがみな期待に夢がふくらむ。
これが順調でなおかつ健康的な反応である。
ところが、それに乗れないとき、まわりとの違和感を感じ、乗り遅れてしまう。
そこで、ひとり置いてきぼりをくったような淋しさに襲われる。
まわりのものたちがエネルギッシュになっていこうとしているのに、
自分だけはそれについていけない。嗚呼、やるせない。
エネルギーが湧いてこなくてなんだかもやもやとしした気持ちが愁いである。
それに比べると秋の憂いは、まわりのものたちが冬に向かって着々と準備をして、
厳しい寒さにエネルギッシュに立ち向かっていこうとしているのに対して、
いやだいやだと駄々をこねている子どものように季節の変化に対応していない。
季節の変化を受け入れられないでいる。
受け入れるためには大きなエネルギーが必要になる。
要するに、春も秋も、変化を受け入れるだけのエネルぎーが足りない。
春は、上昇気流に乗れないのに対し、秋は、下降気流に乗れない。
冬や夏にウレイがないのはなぜかというと、
ウレイを感じるエネルギーさえもなくなるからである。
つまり、切羽つまってくると、そんな贅沢はいっていられなくなる。
これからわかるように、ウレイは心の贅沢である。
よくいえば、文化人の遊び心のなせる業で、季節に対する摩擦を感じるセンサーでもある。
季節の移り変わりと自分とは、たえず擦れ違いを生じている。
なぜならば、人間は、文明の利器のおかげで季節感が薄れ、恒常であろうとする。
変化に対応するのを拒むようになってきている。
しかし、季節は待ってくれない。そこで、嫌々ながらあとからついていく格好になる。
この嫌々感が憂愁のもとである。繊細な人ほど感じやすい。
能四郎の句の発見は、憂愁の中の笑いの異様さをみのがさなかった。
人間は、どんなに深い悲しみにあっても笑いを失わないものである。
笑いは救いの光りである。救いを求めようとして笑いを探すのかもしれない。



















2月22日 水曜日

トンネルを出るたびに渓春浅し  八木林之助

実際の経験を詠んでいるのだろうけれど、
この経験は、今の私の胸中に去来する経験とかなり似ている。
どんな経験かというと、ただ今失業中につき、ハローワークにいって職探しをしている。
検索機にかけて、求人募集をみて、自分にできるかどうか問いかけながらアタックする。
初めのうちは、どの職業にもつけそうでわくわくしながら検索していたが、
そのうちに、だんだん意欲が失われてきて、給付義務としての2回の検索を遂行していた。
だらだらと検索を行っていたら、職業相談の窓口に行くと、給付が延長されるということがわかり、
そこで、さっそく相談に行くと、求人に応募しなければいけないと促され、
後ろから背を押して、もう一歩前にでてチャレンジしてみてくださいという策略のようだった。
ただで給付を受けつづけていては、雇用促進にはならないので、敵もさるもの奥の手をだしてくる。
そうなると、給付されている額より下がるくらいなら、失業していたほうがましなので、
かなり贅沢な選択を強いられる。それは一方で、はっきいえば、ないに等しい。
講師は、頭打ちの制度があり正規の教員の半分しか給料がもらえない。(悔しい)
現在、その当時の講師の約半分の失業保険の給付(つまり正規の約4分の1)を受けているが、
いざ、職にありつこうとすれば、その半分の半分でさえ新しい職の給料に比べるとまだ多いのだ。
だから、給料のことをいっていると、検索のふるいにまったく残らないので、
給料には目をつぶって、やってみたいなあと好奇心の湧いてくる職種にアタックすることになる。
そこで、チャレンジしてみたのが、テレビの宣伝企画だったり、教授の秘書だったり、
大学の事務だったり、コンサルタントの補助だったりした。結局みんなボツになった。
その経過が、トンネルをでるたびに、渓(たに)がみえ、まだ春が浅いって感じがするってわけ。

トンネルの中は真っ暗闇で、夜空のほうが星がみえる分だけ癒しがあるというもので、
不安だらけのプレッシャーがかかり、いつまでつづくのか際限もなく恐ろしい。
それでも限りがあり、いつかは出口がみえてくる。
でると、窓には、深い渓谷がみえ、覗けば寒が明けたばかりの冷たい水が流れている。
おおいかぶさるように落葉樹林の枝が茂り、木の芽が風にゆれている。
うまく手と手をつなげない淋しさに心がふるえてくるけれど、またチャンスは巡ってくる。
幾つもつづくトンネルに次ぐトンネルに、希望を捨てたわけではないことを暗示する。
今年は例年になく厳しい寒さがつづき、身も心も氷りつきそうだけれど、
必ず春はやってくる。未曾有が起こりうる昨今でも、桜の咲かない春は聞いたことがない。
早くサクラサク春を迎えたいものである。

















2月21日 火曜日

白梅に昔むかしの月夜かな  森 澄雄

あるときなんの脈絡もなく、宇宙の真理に触れることがある。
今のこのときが、永遠につながる。その永遠に触れたような錯覚に陥る。
つまり、それは、具体的には、1000年昔の平安の人と同じように、
こうした想いをいだきながら月夜に佇んでいるに違いないと思えるのである。
そのときの私は、1000年昔の平安時代に立ち戻っているのである。
今ほど発達した文明をもっていないけれども、
自然を愛でる気持ちとしては神秘的であり、月にロマンをいだいていたという点からいえば、
1000年昔のほうが情緒豊かな夜を感受していたかもしれないと思う。
神秘な光りにつつまれて、この世にはわからないことが多いから、
自然に畏敬の念が湧いてくるし、自然に寄り添う自分も尊い存在として受け入れられる。
名もなき民だからといって、名もなき草のように虐げられていたわけではない。
草に名が与えられていなくとも、それぞれに神が宿り、慈しみ愛でられていた。
それと同じように、名もなき民は等しく個を認め親しみを感じていたのではなかろうか。
今ほど暖房が効いていない昔は、この時期どんなに寒かったことか。
早く暖かくなってほしいと心の底から願ったであろう。
春の訪れとして白梅をことのほか待ち望んでいたはずで、
現代の人々よりその思いはいっそう強いものがあったろう。
季節に関する感性は、昔の人々のほうが環境から考えても鋭くなる。
快適な暮らしをするために失ったものもある。
自然に備わっている野性が、感じられにくくなってきているし、
まだまだ解明されていない神秘に対する畏怖を忘れてしまっているようにも思われる。
平安時代から1000年経った現代の私たちは、何もかもわかった進化した人間の
つもりになっているが、1000年経った西暦3000年の人々からすれば、
昔むかしのお伽の世界に懐かしむ存在であるということなのである。
何年経とうとも、私が、昔を想い悠久間をいだくように、3000年に生きている人々も、
白梅をみて、日本人の感性に思いを馳せるであろうことを信じたい。
母語としての日本語が使われているとしたら、
1000年後、俳句は生き延びていることを信じたい。
1000年昔の古語は、現代っ子には英語より難しい。
私たちが今しゃべっている言葉が、1000年後どうなっているだろうか。
まだ私たちは、平安時代の月夜を想像することができるが、
3000年の未来人は、平安の月夜を想像することができるだろうか。
言葉が失われたとしても、月夜の心は永遠に脈打っているように思いたい。(願望)





















2月20日 月曜日

初心にも高慢のあり初雲雀  原子公平

政治・経済に限らず、すべてにおいて、牽引者となるものが、他を引っ張っている。
頭角をあらわすひとりに、誰かが賛同して二人目となり、
それにぞろぞろ参加して大きなうねりとなり、それが社会の流れを作る。
傑出したひとりが、政治・経済を動かし、この世界を操ることになる。
そのひとりを強く支えるのが、狂信的な賛同者となるわけであるが、
なんだかわからないが乗ってみようという好奇心の強さから乗ることになる。
この好奇心を刺激する何かは、そのときの時代の流れというものが影響を与える。
閉塞感に行き詰まりがみられるようになると、それを打破するように逆の流れが湧き起こる。
世の中には白か黒かのどちらかに分けたがる単純思考がもてはやされる。
というのは、わかりやすいからである。ものごとを明快に理解したい。
ところがどっこい、現実は単純ではない。
いろいろな要素から原因が構成され、結果としても、複雑な様相をみせる。
何がいいたいかというと、初心に高慢があったことを咎めている点について。
高慢には、マイナスのイメージがある。高慢がなぜいけないんですかね。
高慢ということについても、時代の影響を受け、昔はそれほど良くないけれど、
今や自信を失っている者にとっては、高慢こそ必要といいたいくらいになっている。
謙虚であることが推奨されている。
これに対して、常々思っていることを申しあげたい。
身のうちをへりくだって、豚児とか、小生とかいう。これって、みぐるしいしききぐるしい。
ましてや愚妻というは、いかなる神経か。
雲雀が高く天に上るに掛けて、初心も大きく掲げたことはいいが、
その類想として高慢という言葉が上ってきたのだろうけれど、
言葉遊びのように軽々しく持ちだしてきたわけではないだろうから、
高慢であることを肯定しているのだろうか。それとも否定しているのだろうか。
初心忘るべからず、少年よ大志を抱け、野望を抱け。
大きな夢をもって、それに向かって邁進する。
そのときに、自分に対して、自分の才能を過信するということはあっても良いだろう。
それにみあった努力をつづける原動力にもなる。
謙虚であるより、高慢であるほうを、私は採用したい。
自分自身を小さくして、相手の嫉妬心を掻きたてないという戦略はもう時代遅れである。
正々堂々と等身大で闘えばよい。いやそれよりも、大きくみせようと努力するほうがよい。
そのたゆまぬ努力によって、いつのまにか大きい自分に辿り着ける。
セルフイメージは大きいほうがいいに決まっている。そうは思わないかね。














2月19日 日曜日

ひた急ぐ犬に会ひけり木の芽道  中村草田男

毎日俳句を読んできているが、だんだんどんな俳句がよいかわかってきた。
一読して、なんだかぴんっときてはっとするのがよい句だ。
情景がぱっと浮かんで、そのときに、発見がある。それがきっと作者の思いだろう。
人にはそれぞれ好みがあるから、これがいいといっても、受け付けない人もいるだろう。
同じ好みのタイプでも、それほどいいとは限らないということもあってよい。
俳句のよさはどこにあるのだろう。
人との出会いには、言葉遣いや身なり、言葉の調子、声の調べ、容姿といったものが影響する。
ところが、俳句というのは、言葉、それもたった575の17音でしかない。
それがものをいうわけである。
言葉が相手にどんな印象を与えるか熟知して、その中から世の中にさしだされている。
何のために俳句を詠むのか、人それぞれに目的があろう。
その目的に触れるということが、ぴんっとくるということになる。
この世の中の仕組みを解明して、安心できる自分なりの世界を模索する。
そのときに、できるだけ居心地のよい世界を造り、豊かに過ごせるようにしたい。
その嗜好傾向が、俳句詠みの人たちと似ているのかもしれない。
身なりや容姿や声の調子などは、真似をしようとしてもなかなかそうはいかないけれど、
言葉は比較的簡単に真似ができる。
言葉というのは、エイリアンのように、人にとり憑いて、人を操ることができる。
この言葉の威力を評価して、もっと活用して、生きる世界を生きいきとしたいものである。
この句でいえば、犬と草田男の関係が、転じて草田男と読み手の関係になる。
俳句を趣味で読んでいるわけではないから、詠み手の情熱に敏感になる。
つまり、詠み手の生き方に触れられるようなところに感じいる。
客観写生であるが、それを通して自分が何を得たのかということがいわずもがなに伝わってくる。
多くを語らないので、わかる人にはわかる。わからなければそれでもかまわない。
それを冷たいとみるか、おせっかいにならないので丁度よいとみるか、別れるところだ。
句は、そっけないので、実は味わい深いのに、わからない人にはわからないままになる。
そういった意味では絵画や音楽と同じように芸術である。
音の組み合わせや色の組み合わせのように、言葉の組み合わせが芸術を生みだす。
はあ〜っとため息をつきうっとりさせるのが、芸術である。
感性に訴え、いいなあと思わせられる。いいものはいい。
いい音楽を言葉を尽くして説明してもなかなか伝わらない。
いい絵画も同じ。いい俳句もそういうものなのだ。
それなのに、だらだらと説明しようとしているのが、この私の観賞である。おせっかいだね。
おせっかいとは知りつつ。いい句だから、私の感性を刺激しておしゃべりしたくなる。
何かにとり憑かれたように、わきめもふらず急いでいる。
こういう姿にはっと惹かれる。惹かれるということは、今は自分になく、反省させられた。
それは、憧れる姿でもある。
ひた急いでいたのは犬であったが、犬であるから、よけいに急がせている何かが生々しい。
人は、目的に辿り着くまで、自分で自分を抑制する。
ところが、動物は、社会の仕組みの制約を受けないので、そのまま欲望のままに突き進める。
それが羨ましい。
木の芽が動きだすころに、何を急いでいるのか知らないが、その姿に刺激を受けた草田男である。
こういう句を読むと、草田男が句に残しておいてくれたおかげで、
まるで草田男が出会ったときのような臨場感で、私たちも追体験し感じることができる。
生きいきと生きるということは、こういうことなのではないか、と犬から学ぶ。
ぐずぐずためらっているうちにいち日が過ぎてゆく。
そういう日々に疑問を投げかけるように、犬が目の前に現われ、啓示を賜る。
木の芽どきというのは、人間の心もふわふわとして何かを掴みたげになっている。
何かを掴もうと季節が促してくれる時期だ。木の芽がふくらむように、人間の心もふくらむ。




















2月18日 土曜日

美しく木の芽の如くつつましく  京極杞陽

美しく、そしてつつましい、ということしかいっていない。当時の女の人の理想像である。
悔しいけれど、私は、美しくもないしつつましくもない。
どちらかといえばがんがん飛ばすレースクイーン系で、インプレッサのWRX(白)に乗っている。
街中を走るタイプじゃないというけれど、私にいわせれば、街中だからいいのだ。
高速を走らせたら、ロケット噴射してスピードオーバーでキップを切られるのがオチである。
なにしろスピードの針が右に振れるにしたがって地を這うように滑り、走行性が安定する。
どこを走っても安定している車に乗っていると、この醍醐味は味わえない。
100kmを越えると、それまで秘めていた才能を猛然と発揮する。
エンジンが、ぺろぺろ美味そうにガソリンを舐め、だんだん元気になってくる。
アフリカを舞台に駆けまわる黒い豹になった気分になる。(白いけど)
それまで縛っていた鉄の鎧をバリバリ剥がし、その鎧の下から筋肉隆々の別の肉体が現れる。
アクセルを踏むと、敏感に私の期待にこたえてどんどんスピードをあげてくれる。
追い越し車線をびゅんびゅん飛ばしても、街中を走っているときよりも軽い。
後ろのウィングが効いて、まるで空を飛ぶが如し。気分爽快になる。
街中を走っているとそうはいかない。
ぶるるんとエンジンがかかると、早くスピードをあげたくて一丸となってマシンが結束する。
まあまあ落ち着いて落ち着いてとなだめながら、タコメーターが暴れないようにギアチェンジする。
車体の重さが結構あり、象のような重いずうたいを引きづっているような感覚である。
高速を走れば黒い豹が、街中ではのったりして時間がとまる象になってしまう。
この感覚のズレが楽しい。さすがの黒豹も街中では象のようにおとなしくなる。
車からおりるのを初めてみる人は決まって尋ねる「だれのくるま?」 「わ・た・し」
みんな目を丸くする。車好きな男の子は、乗せてもらいたがる。もちろん、運転席に。
世は歌につれ、歌は世につれ、求める理想象も変わってくる。
思うに、昔は、男のいいように作られた女性像に、女が合わせてきた。
没個性的であった昔に比べて現代は、それぞれがそれぞれの個性を発揮してきている。
個性が立ってくれば、その好みも千差万別に枝分かれするのではないかと思われる。
男の理想に合わせるのなんてつまらない。そんなのはしなを作って相手に媚びている。
個性の発揮とつつましさとは両立しない。
さすがに今どきつつましい女がいいなんていう男はいないでしょうね。じろり。
つつましいのが理想なんていう男には興味がないから別にいいけど。
















2月17日 金曜日

弟は漫画が好きで春の風邪  田野岡清子

だれにも父や母がいるけれど、だれにも兄弟姉妹がいるとは限らない。
私がひとりっ子でなくて良かった。
だって、ひとりっ子にはこういう句の意味(良さ)が、わからないだろう。
弟の風邪が快方に向かってきて、姉の気分も良くなってきている。
弟がうんうんうなって咳き込んでいたら、姉まで憂鬱になってしまう。
それが、治ってきているようなので、姉は一足早く上機嫌になっている。
母親の心配と姉の心配とは、心配の質が違う。
母親は大人であるから、風邪の程度を判断してそれに見合った心配をする。
ところが、子どもである姉は、弟の病気を追体験しているのだ。
私にもふたつ違いの弟がいて、姉弟の仲が非常に良くて、
私には(泣く理由がないから)泣いたという記憶がないけれど、
弟がなんの理由かわからないけれど泣いていると、以心伝心で泣けてきた。
一卵性双生児が、離れていても以心伝心で同じような思いをいだくことがあるように、
同じ親から生まれた兄弟姉妹は、感情移入がしやすい。
こういうことは、どの兄弟姉妹にも起こりうる当たり前のことであると思っていたら、
どうやらそうでもないということがあとになってわかってきて、びっくり不思議だった。
本を読んでいると、いつの間にか主人公の一人称が自分のことであると錯覚する。
映画の主人公に対しても同じ。
瞬間に弟に成り代わって、同じような感情をいだいて涙を流してしまうのだ。
相手に乗り移り感情移入しやすい性質が、観賞に役立っている。
文は人なりで、17音を読むと、とりまく環境や作者の人物像がくっきり浮かんでくる。
弟が風邪で寝ているところばかりでなく、弟を気遣っている姉さんとしての清子の姿も。
風邪で寝ている弟のことが心配なんだけれど、漫画を読む元気があるからほっとしている。
熱で弱って食欲もないと、姉の食欲もなくなってくるが、
漫画を読んで元気でいると、お姉ちゃんも安心して漫画を読めるようになる。
漫画が好きなのは弟だけではない。お姉ちゃんも好きなのである。
男の子だからとか、女の子だから、という区別はいつからだったのだろう。
週刊漫画誌が男の子用と女の子用と早くから分けられていた。
これは、漫画出版業界の購買層を確保するための陰謀ではないかしら。
両方読めるから楽しみが倍になってよかったけれど。

















2月16日 木曜日

独活食へば胃の透きとほるものらしく  日置海太郎

食べるという行為は、直接的で欲望の遂行であるから、奥ゆかしい俳句にはそぐわない。
と思っているからかえって、おやおやこんなところにいいのがあると殊更注目してしまう。
はじめっから、だいぶ強い色眼鏡で見ているから、勢い評価が辛くなる。
それなのに、なかなかいい線いっていると思わせるのは、相当センスが光っているからである。
「独活の大木」と形容されるように独活のなんともいえないのほほんさ加減がまず先立つという
不幸にも邪魔をする先入観があって、どんな味なんだろうと訝しげにひと口味わってみれば、
あ〜ら不思議、思いもよらなかった革命的な美味さに病みつきになる。こりゃあ、うめえ。
こしあぶらやこごめなど、山菜っていうのは、どうしてこんなに美味いのだろう。
天ぷらにすると、また格別な味にグレードアップして、一度食べたら忘れられない。
この美味さをどう表現したらよいかと、俳人だったら、これまた虜になるだろう。
俳句とは、感動を詠むものであるから、魚を掴まえるように独活の味をものにしたいと思うものである。
うっとりするように甘くそして癖のある苦味、といって他にふたつとない天然独自の味であり、
市場にはなかなか出回っていないので、知らない人に説明するのは困難を極める。
雌雄異花の多年草で、 春に若芽が伸び出し、10cmから30cmに伸びたところを収穫する。
あまりも美味しいので、それを畑で栽培して軟化独活や緑化独活として売られているが、
やはり、山野に自生する天然ものと栽培ものとは、味が違う。自然薯と長芋ほどにも味が違う。
天然ものには、本来の味ともいうべきそのもののもつ独特の味がある。
その気候風土に合って長年育てられてきたもので、味が際立ってきている。
ところが、栽培ものになると、見映えと、商品としての出荷規格が決まってくるので、
やむなく土壌改良剤や農薬使用、そして促成栽培のための過剰肥料のため、味が損なわれてくる。
大量に出荷されるスーパーの野菜と堆肥を熟成させて手間隙かけて作られる家庭菜園の野菜は、
味が全く違う。スーパーの野菜に食べ慣れているとこの違いはなかなかわからない。
食べ比べをしてみればわかるだろうけれど、そういう機会に恵まれない。
味覚が鈍くなってきているのかもしれない。
嗜好も変わってきているということもあるだろう。
渋みや苦みや酸っぱさ、甘みとは違う旨み。こうした味わいが大人の味といえる。
ファーストフードの単純な味に慣れていると、大人の味がわからなくなってくる。
一流といわれる料亭ではなく、街の小料理屋の定食料理が美味かったりするのは、
食材が違うのである。見映えに少々難ありでも、味は天下の一級品である。
こうして食べ物のことを書いていると、美味い山菜を食べたくなってくる。
毎年5月のゴールデンウィークあたりに野鳥の会の合宿があり、
そのときの宿の食事が山菜尽くしの食事となる。早く5月にならないかなあ。
帰りには、宿の女将さんから山菜のお土産をいっぱいもらってくる。
家に帰ってからも、家族といっしょに舌鼓をぽんぽんうちならしながら山菜を食す。












2月15日 水曜日

熊の子も一つ年とり穴を出づ  三橋敏雄

当たり前のことをいっているのにすぎないが、底深く味わいがある。
どうして、他のこういった類いの句と一線を画すのだろうか。
読み手としては、一読していいねえとほのぼのとした発見を味わう。
眠っていて目覚めたらひとつ年をとり、大きくなったという充実感がなんともいえない
ほのぼのとした幸せな息吹として滋味深い味を醸しだしている。
目覚めとは、本来こういう意味を持つのである。
熟睡したあとの目覚めは、昨日とは違った今日を迎え、
昨日という1日がすぎたことを確認できるのは、新しい朝を迎えたときなのである。
そのまま永遠の眠りについてしまうとしたら、本人にはその自覚がない。
新しく目覚めることによって、昨日が終わったということ、すなわち新しい今朝がはじまる。
こうした発見とともに、これが熊だけに限らず、私たちにも及ぶ。
人の誕生日を祝うのは、一つ年をとった本人に対する祝福が主であることはもちろんだが、
祝福は本人だけにはとどまらないのである。
祝福されるものと等しく祝福するものにも、祝福があたたかく優しく光臨する。
だから、祝い事にはすすんで参加したくなるものである。
1回しか生きられないはかない「いのち」に何回の祝福が与えられるのだろう。
数は多いほうがいい。自分に限りがあるならば、多くの人を祝いたい。
多くを祝福するものに、多くの祝福がかえってくる。
森羅万象の八百万のものたちへの祝福があるから、こうして敏雄は句を授かった。
常日頃の思いが、こうしてふっとつぶやきのような優しい言葉となって洩れる。
熊の子が、ぱちりと黒い目をあけて、穴倉の中でもぞもぞと動きだしている。
だんだんに鼻息が荒くなり、なんとも手足が窮屈で、伸ばす手足がもっと動きたがっている。
土の匂いに草木の匂いが混じり、美味そうな臭いに腹がすく。
ああ、近くに水の流れる音が聞こえる。喉が渇いてきたぞ。
みんなはどうしているかなあ。お父さんや母さんは。お兄ちゃんや妹は元気かなあ。
そうこう思いを巡らせているうちに、自然に穴から身を乗りだしているのである。
新しい春に期待して、生まれたてのほやほやの顔をして、のっしのっしと歩きだす。
ハラヘッタ〜。ノドガカワイタ。イイテンキダ。オーイミンナゲンキカ。
絵本から抜けだしてきたような熊の子の濡れた鼻から生あたたかい息が吹きかかる。
春の山は、冬眠から目覚めた熊の子が目覚まし時計の役割を果たす。
オーイ、ミンナオキロ。ハルダゾ。メデタイナア。オレモオマエモオメデトウ。

















2月14日 火曜日(バレンタインの日)

罪のなき嘘の煌めきバレンタイン  高見悠々

今日は記念すべき日である。気が小さくてなかなかいえない
愛の告白をおおっぴらにしてもいいというからありがたい。がんばれ女の子。
このごろ、気が小さいという女の子がだんだん少なくなってきているようだけど、
これだけ賑わっているところをみると、まだまだ母集団の数は圧倒的に多いようだ。
ときどき女の子の文章を読んでいて、まったく頭の中に入ってこなくてうろたえることがある。
合気道の習いたての頃によく似た戸惑いである。手や足の動きがさっぱりわからない。
相手の動きにどう動けばいいのか、最初の第1手、第1足がわからなくて呆然とする。
これは初めての衝撃で、身体の言語(ボディランゲージ)が異なるので当然なのだ。
今になって思うとそういうこととして冷静に認識できるが、
当時は、そういうことがわかっていないから、なぜ動けないのかわからなかった。
日本語しか話せないのに、いきなりパリに放りだされたらどうしていいかわからない。
それとまったく同じ状況だったのである。普段の動きと全く違う。まったく!
だから虚を突いて相手を倒すことができる。はじめのうちは、そんなことありえんでしょ
と全身で疑ってかかっていたけれど、やってみれば納得する。技あれば大を倒す。
それと同じように、男の子と女の子は操る言語や思考回路が違い、
まるっきり女の子の文章を読むと、どうしていいのやら混乱してしまう。
もののいい方や転がし方に化粧品の匂いがする。私は、女の子の文章に慣れていない。
私は、女の子の気持ちがわからない男の子として女の子の文章を読む。
どうして私は、ふつうの女の子と違って男の子の側にまわっちゃうんだろう。
ここで思い当たるのが、著者や作者の陰謀だと思う。
本を書く人っていうのはほとんどが男の子で、素晴らしい自分の考えを広めようとしているから、
活字中毒の人は、自然に作者や著者に同化して男の子化してしまう。
考え方や行動がいつのまにか男の子化しているのに、本人は気づかないことが多い。
容姿は全くの女の子で、しかも男の子が大好きなので、
まさか、ものの見方の男の子化なんて思いもよらないのである。
だけど、男の子といっしょにいてもちっとも気にならない。
それよりも女の子の中にいるときのほうが話題に困り、緊張してしまうのはそのせいである。
だから、日ごろいえないからこの日の勢いを借りて告白しちゃおうというのも、
私にはまったく馴染めないものである。
というのは、ものをいいたいのに黙っているということがなかなかできない性分であるから、
必然的に私は、365日がバレンタインの日であって、なにもこの日にこだわらない。
ここにまた世の女の子たちと大きなギャップが生まれる。
女の子なんだけど、思考や言動においては男の子化している私は、
ことさらバレンタインの日を必要としないのだけれど、男の子のほうでは
そういうことがわからないので期待するであろうから、社会的な世の習いによって、
バレンタイン祭りに便乗して、ならばチョコっと喜ばせてあげましょうという気になるのである。
ちょっとふつうの女の子とは違う複雑なノリでチョコを贈ることになる。
それから、今日は愛の告白の日なので、これを機会にカミングアウトしようっと。
これまで、私は嘘をつくということが嫌いであった。
嘘をついていたら本当の自分がわからなくなるのではないかと恐れていたからである。
しかし、ここにきて、自分という人間がしっかりと把握できたので、だいじゅぶという確信がもてた。
そこで、人間の幅を広げるために、嘘を平気でつけるようにするという誓いをたてることにする。
さて、できるのでありましょうか。人を喜ばせるための嘘だったら罪にはならない。
愛するために嘘をつく。映画にもでてきそうなテーマだ。
あなたといっしょに旅行する日を決めたわよ。ワンピース着て遊びに行くわよ。
こりゃまるっきり反実仮想だ。だけど、嘘だっていってるからいいようなものの
真顔でいわれたらうろたえるだろうな、うふうふ。













2月13日 月曜日

地下街の日暮混み合ふ青目刺  神崎 忠

一瞬、まごついてしまった。下五の青目刺にうん?っとなってしまったのだ。
そこで考えた。混み合っている人の流れを鰯の群れと比喩したのかと。
しかし、それは青鰯であって、青目刺ではない。
地下街にある小料理屋で酒の肴に目刺を頼んでほっとしたところかな。
それでもどうもしっくりこない。・・・へえ〜、そうか、食品売り場の青目刺か!
地下街っていうと、洋服・雑貨やファーストフードといったお洒落用品が浮かんできて、
おばさん臭い生活臭のする食料品は盲点となってピンとこなかった。
食料品といっても、コンビニに並べてあるような清潔な食品という感じがして、
(それもなんだかちょっと違うような)、それがまたいいのかもしれない。
ところ変われば、いろいろあるんだなあきっと。
同じ食料品売り場でも、なんとなく品揃えが違っている。店にも個性がある。
考えてみれば、お店にも他とは違う特色をもたせないと客がきてくれない。
どうして、あれっと思ったかというと、作者が男性であるということである。
男性が食料品売り場をうろつくという絵が浮かんでこなかった。
だから、なかなか辿り着けなかったのだけれど、このごろはスーパーに男性も
みかけるようになってきたので、これは一種の偏見だった。
そういえば、地下街を歩くときは、ショーウィンドーや商品ばかりをみていて、
歩く人々をみていない。つくづくみたいものしかみえていないということを実感する。
だから、地下街の目刺も目に入らないのだ。
そういった意味で、この忠の句は、成功している。
一読して、すんなり流れて消えてしまわない。
一瞬、あれっと思わせて、しばらく考えると思いつく。なあ〜んだ。
その間に、地下街のいろいろな風景を思いださせている。
服や靴やアクセサリー、喫茶店や洋菓子和菓子やさんなど、
賑わっている人の群れの一人ひとりになって動き回ってしまうのだ。
作者の意図するところだったのか(はわからないが)、なかなかの手練手管の技とみた。
これは面白いので、私も俳句の技法のひとつとして使わせてもらおうと思う。
この組み合わせってありえんだろうと思わせておきながら、実はある。
どちらかというと、こういう組み合わせが面白いし納得がいく。
奇をてらった思想性のない組み合わせかとフェイントをかけながら、
実は真っ当な客観写生句って、ぞくっとくるじゃあありませんか。
遠回りする正攻法だねえ。わくわくどきどきしてくる。














2月12日 日曜日

東京は我が敗北の市街地図  斎藤冬海

生きるということは、辛いものである。現実は厳しい。
どうにもならないことには目をつむり、
やりすごすということがうまい人とへたな人がいる。
この世の中は、どうにもならない多くの枠組み(制約)の中で生きざるをえない。
それを窮屈に思いだしたら、閉所恐怖症に息苦しくて身悶えしてしまう。
ニューヨークやパリやロンドンの街を歩いてみたいよ、と思ってもそうはいかない。
それほど強く願ったことでもないから、別にかまわないんだけど。
冬海の句を読んで、「我が敗北」に痛く突き刺さった。
いったい私の敗北は何なのだろう。
こちらの目論見が受けいれられなくて、運悪くはじかれてしまう。
それはいろいろな要因があるだろうけれど、反省なんかしないから結局違う道を選ぶ。
それで、そのうちに現状に慣れ親しんでいるうちに、また違った目標がみつかる。
ストレートにたどり着かない。前と違ったゴールとなる。
そうやってぐねぐねと進んできた結果、昔に夢みたゴールとは全く違う現在地になっている。
昔は、男の人と同じ給料をもらえる職業についてトップになることだったが、
今はというと失業中で、昔の夢とは全く違う地点にいる。
それを敗北とするのかというと、人によってはおおきく頷くところだろうけれど、
私は、敗北っていう感覚にはならない。何でだろう。
折れ曲がった分だけ敗北があり、昔の夢が天だとすれば、今は地を這っている。
そういう見方をすれば、まさしく敗北かもしれないが、違うんだよねえ。
今、ひらめいたことは、何もわかっちゃいなかったから夢がみられたけれど、
何もかも(というわけではないけど)わかってしまった時点では、夢なんて抱けなくなって、
もっと違う新たな夢を描くようになっているから、ということなのかもしれない。
受け入れられずにいるなら敗北かもしれないけれど、
こっちから見限って違う道を選んでいるとしたら、敗北にはならない。
別れた男に全く未練がないのと同じ。
過去をふり返らない女には敗北っていう言葉がないということなのだ。
だからうじうじと市街地図なんてながめていない。新しい何かをみつけようとしてみる。
といっても敗北感にうちひしがれるということがないわけではない。
しかし、雪に倒れそうになりながら強く跳ね返す竹のしなやかさがあるのだろう。 
そうそう。新たに物語をつむぎだすのがうまいということもある。
自分を肯定するためのこれまでと違ったあらすじを考えだすのがうまいのだ。
いつまでも敗北にこだわっている冬海(の句)には、魅力を感じない。













2月11日 土曜日(建国記念の日)

まひる梅の咲くさえ朧愛人あり  末永有紀

言葉がその人間の人生を決定すると思っている。
だから、どのような言葉を使い、どのような対話をするのか、かなり神経を尖らせている。
呪いの言葉を他人に投げかけているつもりでも、それは自分にもかえってきている。
だから、そのような言葉は、極力使わないようにしている。
昔から、赤い線を引きながら文を読んでいた。
気に入った言葉は、抽象的な言葉や自然現象、心にしみいる表現であった。
赤い線を引くような言葉の世界をふくらませていくうちにいつのまにか今がある。
かき回して、混合物で濁っているビーカーを放置しておくと澄んでくる。
その上澄み液をそっと掬いとって、てのひらにのせて長い間あたためている。
そうすると、うっとりしてきて、きらきら輝きだしてふっと消える。
上済み液が生気をもち、生霊となって心の中に入りこみ、魂の泉となるのである。
俳句という17音に何をこめるのか。
どうしても、いわずにいられないほとばしり(エネルギー)がある
それを凝縮したのが17音の言霊である。
わかってくれないかもしれないけれど、ダイヤのような結晶にしたい。
その作品を読む読み手としては、その輝きをひと目みて、衝撃的に察知する。
目を刺すような光りは、一瞬にして心臓にぐさりと届く。
なんだか叫びたくなるような疼きとなって刺激する。
言葉に破壊力があるというのはこういうことである。言葉が人を動かす。
それに比べると散文は、力強さにおいて欠けるところがある。
どうしても伝えたいという点においては同じだが、勢いが分散する。
そういった意味では、相手を意識する優しさが介在する。
優しさの持続がないと、つづかない。
想定する相手にわかるようにかみくだいてわかりやすく話す。
完成された折鶴を、いったんほどいて、また同じ折り目で順番に折りたたみながら、
どのような祈りをこめて折られていくのか、作者の代わりになって解説をする。
鶴の折り方を知らないとできないし、作者の身になれる柔軟さがないとできない。
そして、その労力を厭わぬ動機や意欲が、使命感によるものであろうか、
背後に流れる静かな旋律となってひびいてくる。
文は人なり。
文を読めば、優しいのかつめたいのか、あったかいのか、皮肉屋なのか、わかってしまう。

















2月10日 金曜日

目覚めけり青き何かを握りしめ  沼尻巳津子

夢の中の出来事であるから、青き何かという漠然としたいいかたに違和感がない。
現実の描写であったら、ちょっとかっこつけているいいかたになり、好き嫌いがでてくる。
好き嫌いがでてくるから、面白いといってあえて挑戦することもある。
人生における冒険と同じで、波乱があったほうが陰翳のある彩りを添える。
そういった意味で、句は人生の選択の勘所を教えてくれる。
なにげなくみすごしてしまうところを注意深くポイントを押さえてくれる。
夢を覚えていることはほとんどない。
熟睡していたときの目覚めは爽やかであり、夢よりも現実に興味が湧く。
ところが、うつらうつらの夢心地で目覚めると、今までみていた夢はどんな夢だったか、
しきりに夢を思いだそうとする。夢の尻尾を捕まえたくてしかたがなくなる。
なにか思いだすヒントになるものはないかと必死でたぐりよせようと試みる。
そのときに、身体的な反応として残っている手足の状態さえ貴重な手がかりとなる。
消えかかっている夢の残り香を握りしめる行為からにわかに全貌が明らかになる。
感情移入の強い行為に、何を強く願ったのか、という結末からはじまりへと
逆行しながらたどっていくことになる。
現実の世界では、時間はたえず前にしか進まないが、
夢をさかのぼっていくとかなり奇妙な感覚になる。
過去にさかのぼりながら新しい夢をみることになる。
つまり、A→B→Cの順にみた夢が、C→B→Aの順にみる。
全貌を思いだすとすっかり安心して、現実の生活に戻ることができる。
どうして執拗に夢を追い求めるのか。
夢とは知りつつ、自分の身に起こったことは知っておきたいという当然の好奇心である。
すっかり忘れていたらこうはならない。
夢の片鱗を握っているときは、解明したいという思いで追うことになる。
夢が深い無意識の世界で起こり、別世界であるという感覚(深い眠り)とは違い、
浅い眠りで目が冷めるときには、より現実に近い感覚になり、
ほんとうの現実よりも、夢の中の自分を身近に感じ、その行動をどうしても確かめたくなる。
それで、全貌が明らかになればほっとするが、わからなくてもやもやのままだと、
かなり強い不快感が残ることになる。健忘症に自信を失くすときのように
自分の実体が心もとなくなるような喪失感を伴う。
現実でもそうであるように、夢の中でも必死に生きている自分がいとおしいから、
夢までもしっかり認識しておきたいと思うのである。














2月9日 木曜日

そばへ寄れば急に大きく猫柳  加倉井秋を

簡単に考えてもそばに寄れば大きく感じられるものである。
それをことさら声を大にしていいたいのは、そばへ寄るに従って
寄れば寄るほどぐんぐん大きく感じられ、その幾何級数的に拡大してのめりこんでいく
魅力を詠みたいのである。数学的に考えるといっそうわかりやすい。
遠くからみていて1mの高さ(1×1×1=1)ほどしか感じられなかったのが、
近づいてみれば3m(3×3×3=27 27倍)もあり、
もっと近づいてみれば実際5m(5×5×5=125 125倍)もあって、びっくり。
数学的にそのトリックを明かしてしまえば、身も蓋もない。
というより、こういう心理的に感じられることがひとつひとつなぜかなあと解明していくのが
数学で、まずは心理的な疑問が先にあったということになる。
先に哲学や文学が存在し、次に数学が医学や科学が発展したという進化の過程が理解できる。
だから、逆に考えれば、数学や医学や科学を深めようと思えば、哲学や文学の素養が必要になってくる。
「博士の愛した数式」が美しい詩の世界に繋がっているのは当然の結果なのである。
大学でたての数学の先生と話をしていたら、大学院では哲学や文学の本ばかり読んでいたという。
高校に入ってから急にわからなくなりもっとも遠い存在であった数学が、
この先生と出会い、朝や帰りに話すたび、ぐんぐん数学が近づいてきたのを思いだす。
そうそう、そのときの校長先生も数学の先生で、通勤のときに逢うと必ずお話をうかがった。
一番印象深いお話は、つい先日モロッコに行ってきたばかりという土産話。
発端は、家庭科の先生の豪華な家族旅行を聞きつけた私が、
校長先生もきっと、豪華なホテルに泊まられるんでしょうね、とふったら意外や意外、
リュックひとつでふらりと一人旅、モロッコに行ってきたばかりとおっしゃるのでひええ。
嘘でしょ、とても信じられない。貧乏旅行でユースを使う私に合わせているんでしょう、
と突っこみをいれたら、翌日ほんとうに行ってきたという証拠写真をみせてくださった。
そこには、小さな、ほんとうに小さなリュックだけを肩に担いだ旅行者が写っていた。
現地の人といっしょにテントの中で粗末な食事をしている写真もあった。
普段着のような飾らない服装をして、ひょうひょうとした笑顔がこちらをみている。
話をするたびにぐんぐん近づいてくる。
どんどん近づいて、どっぷりその世界に入りこんで自由に遊べる。
名古屋から学校までの行きと帰りの通勤時間が毎日楽しくてしようがない。
今日は誰に逢えるかわくわくどきどき。先生が魅力的だからきっと授業も楽しい。
通勤時間がもっと長ければいいのに、といつも思った。すぐに着いてしまう。
もういちど、あのときの先生方にお逢いしたい。
















2月8日 水曜日

春暁の我が吐くものの光り澄む  石橋秀野


人の一生はかけがえのないものであり、人のうかがい知れぬ深遠がある。
自分にとってはどうでもよいことが、本人にしてみればぬきさしならぬことだったりして、
悩みは人それぞれに哀調を帯び、あっけらかんとはいかないものである。
それでも、昨日はいつの間にか今日になり、春は確実にやってくる。
最低気温が5℃を越えると、春の兆しを感じて、春へと動きだす。
寒さはおおきなストレスであり、このストレスだけでもとりのぞかれると身が軽くなる。

悲しみにくれ張り裂けそうになりながら息をひそめていても、ほの明るい息がこぼれでる。
倒れそうになりながらも踏みとどまって必死に生きている姿がしばしの休息に安らいでいる。
体内を通過して吐きだされたものは、落ち葉を通過した浄水のように清浄なものである。
白く清らかに浄化され、あたたかくいとおしいものとして吐きだされる。
ふわりとしたかたまりとなり、軽くてやわらかで、震えているようでせつない。
汗や涙と同じ成分で、それがもっとも美しい姿になってこの世にあらわれる。
辛くて苦しい重みから開放されて光り輝き、やがては消えてみえなくなってしまう。
春はすぐそこにきているけれど、まだ寒さが残り、吐く息は穢れを知らず真っ白い。
そして、夜が明けるにつれてうすらあかりに吐く息もさらにはかなく頼りなくなる。
だれにとっても朝は忙しく、そんなときに自らの吐く息をしばしぼんやりみつめている。
かけがえのない生きているしるしとしての白い生霊に感じ入る。

つかのま自らの分身が、これほどまでに光りに澄んでいることに心を打たれる。
澄んでいるということは、自分の身から吐かれたものが澄んでいるということであり、
吐く前に内蔵していたこの身が澄んでいるということである。
自分のことは自分が一番よく知っている。
澄んでいると素直にいいきることができるのは、ほかでもないこの自分しかいない。
このよりどころとなる自分の生き方に自信があるから、こういいきれる。
相手を傷つけず、じっと耐えるしかないもののしかし粘り強さが生きる力となる。
にぎりつぶされそうなかよわい息が、のびのびと春の息吹の中に吸いこまれていく。
生きるということは、春暁に吐きだされる白い息のようなものであり、
ふっと吐きだすものが、自分の分身となってつかのま慰めてくれ、励ましてくれる。
自分の選んだ道が険しく寒々としていようが、気高く澄んでいれば、
自分自身だけは最期までみすてるということなくよりそってくれるものなのだ。
もっともっとあたたかくなり、吐く息がみえなくなったとしても、
やわらかくやさしくあたたかく、いつでも光りを集め澄んでいるのである。



















2月7日 火曜日

木々のみな気高き春の林かな  塩谷康子

つくづく、言葉は慎まなくてはと思う。
相手に何かを問うとき、自分の器の大きさでしか問いは生まれないし、
ましてや答えもみいだせないから、結果、自らの器の狭量をはからずも晒してしまう。
理路と情動の統合されて感性があり、情動だけでは説得力に欠けるし、
理路だけでは砂を噛むようで身につかないし味気ない。
植物を育てるとき、堆肥としての腐植成分はマイナスイオンとなり、
窒素、リン、カリのプラスイオンをくっつけ、植物にとりこむときに有用となる。
それと全くよく似た構造になる。情動に理路がくっつく豊かな土壌は、
思いやりの深い大人の心を育て、人間としての成長を促す糧となる。
光りと空気と水分が行き来しやすいように、団粒構造が望ましい。
ぎっしり詰まっていると、融通が利かなくて窮屈になり息苦しくなる。
気高さとか、美しさ、愛というのは、情動に関わってくる。
気高さについて。
身近にそのような振る舞いをする人をもたないとわかりにくい。
気高さとは、気位が高いということであり、気品がある。
気品があるのと気品がないのとにふたつに別れ、
気品がある人と気品がない人とは相成れない性質を持つ。
底意地の悪い人は、気品があるとは到底いえない。
気高いかどうかに関心のない人にとっても、気品があるとはいえない。
気品とは、リリシズムによって培われており、高みがあるからである。
上昇志向によってたえず上をめざしているような険しい修練が要求される。
つい情動に動かされて口が滑ってしまうようではすぐに奈落に落ちる。
どんなに厳しく辛い状況にあっても泣き言をいわずに耐え忍び、
その中をくぐりぬけてこそ、気高いと認定されるのである。
だから、掲句のように、厳寒を過ぎた春に気高さを感じ共感を呼ぶ。
さて、私はというと、気高さはしっていても、すとんと落ちては這いあがり、
また落ちるの真っ只中にあり、底なしの未熟であり修練中にある。
ゆえに、気高いとはいえないが、気高くないともいえない第三に分類される。
孫悟空がときどき金斗雲から落っこちたり、金剛輪による頭痛がするのに
状況としては似ている。情動に動かされてついハメをはずしてしまう。
すると、それまで威力を発揮していた魔力が失われ、
それでも暴走しつづけると、三蔵法師様のお叱りを受ける。ううっ。
黙ってみすごし、よきにはからえ、とはとてもいえない。どきどき。
だってけしかけるんだもん。ええっ、心臓がばくばく。
私ではありません。し〜らないっと。


















2月6日 月曜日

倖かひとり鳥貝の寿司食ふは 小池一覚

倖は「しあわせ」。
興味のある文章を読んでいると、その文章が立ちあがってきて、
にわかに生身の人間となってあらわれ、私に向かって語りかけてくるようになる。
だから、私個人にこうしろああしろと洗脳されているようになり
元来素直な私は、ははそうですか、ではそういたしましょうと指図どおりに身体が動いてしまう。
結果として、これにはよいことも、困ったことも、残念なことも、悲しいことも付随してくる。
あとになって、なわけないじゃん、ということがわかってくるけれど、
これって、構造的な文章の機能であって、何も私の思い込みによるものではない。
私の場合、文字による反応が極端に優れている(偉そうに)からであって、
言葉はそういう力を持っている。
これと同じように、人間は、社会の中でもそのように構造的な言動を強いられており、
ゆえに、相手次第によって、饒舌になったり、無口になったりするのは、
社会の要請に敏感に反応しているからにほかならない。
普通の人には感じられないかもしれないけれども、
こういってほしいだろうなと期待される役割を演じているにすぎない。
自由に振舞っているようにみえても、実は強制的にこうしなければならない立場に
追いつめられての行為なの。あたかも自由意思で選びとったように思っているだけ。
失業中につき、自由にやりたいことができるといっても、かなり限られた
小さな自由しか与えられていない。もしもなにひとつ束縛のない自由が与えられていたら、
不老不死の楽園で、楽しい仲間と夕日をみながら食事をしたい。
今こうして意識的に束縛をはずしてみたら、こんな突拍子もない極楽の境地を夢みる。
しかし、普段は夢みる前に、しらずにねっとり縛られた現実から
手足の自由および思考の自由もがばりと奪われている。
自分ひとりでは生きられない。相手があり、社会があるから、それによりがんじがらめに
縛られており、人間として生まれたからには自由はないものと覚悟したほうがよい。
幸せは、なにをもって幸せと感じるのか、人それぞれである。
一覚の句にひっかかるのは、「倖か」という「か」の疑問である。
つまり、幸せであると断定し感嘆しているわけではない。
自分の反駁を読み手にゆだね、あんたはどう思うと問いかけている。
これは複雑な心境である。
ひとりで鳥貝を食っているやつは淋しいよね、と客観的に自分をみている人を意識して、
幸せといえない状況を察知している。ここが俳人の屈折した心境で、
主観と客観が同居しているので、断定しがたくなってくる。
鳥貝をひとりで食っていちゃ、商売にならないから。
家族にしてみれば、お父さんだけいいメしてずるい。
と社会における構造的な要請もある。だから、「か」がくっついてくる。
自分ひとりの自由を満喫するはいっときの幸せであって、
抑圧された中での自分をみると、そうもいっていられない。
自分ひとりだけの幸福を追求できない世の中になってきたのである。
表裏をあわせもつ複雑な人間であることを認識したとき、
どちらか一方の顔をするとき、どちらか一方を捨てなければならない。
両立させようとするとき、「か」をくっつけて、複雑なんだよね〜と逃げるしかない。
これでよいのだろう「か」。




















2月5日 日曜日

受験期の母てふ友はみな疎し  山田みづえ

同じ年代で集まると、受験期ともなれば、どこの学校に入ったとかの話題になる。
母親にしてみれば、それが一大関心事であるからやむをえないとはいえ、
子どもの出来で自分までもが序列化されてしまうようでいたたまれなくなる。
友と話す内容が味気ないとまた今度逢うという気がしなくなるから、
私は友がいないのかもしれない。たいていの同僚とは話題に困る。
話す相手によって、自然に構え、相手の話す内容に合わせようとする。
私にとってはどうでもいいようなことや、どちらかといえば避けたいことを、
話題にすることが多く、それでだんだん無口になってくる。
逆に、私が話したいことや面白いと思っていることが相手にとってはそうでもなく、
それで、相手の顔ばかりじっとみることになってしまう。
同姓でみつめあっていてもしようがないので、視線を逸らして白けている。
そこで趣味の一致というのが救世主となる。
野鳥の話をしていると、延々話がつづいて、いつの間にか夕暮れになる。
野菜作りの話をしていると、つい閉店まで話しこんでしまう。
どうして同僚の話はつまらないのだろうか。
子どもを通した自慢話になってしまうからではないだろうか。
親としては自分の子どもの出来、教育者としては教え子の出来が結果論になる。
相手が自分より偉いと、こちらが惨めになってくるし、ねたましくもなってくる。
しかも、そうだからといって手柄話は、自分を向上させる刺激とはならない。
お互いに高めあえる時間を共有したいものである。
今さら、子どものことを聞いてもどうにもならない。とき既に遅し。
対象となる話に距離感があるとそうでもなく、冷静になって受けとめられる。
冷静になれる距離(時と場所)を置くと、それはもうどうでもよくなってしまう。
つまり、受験期の動向は非常に微妙な話題なので、できたら触れたくない。
そういう微妙な話だからかえって話したくなるというものなのかもしれない。
点々とする職業柄、感受性の強い成熟した大人である私は、話をするとき、
少し話せば、相手のことがほぼわかってしまうのでほんとうに困ってしまう。
相手の話す語彙から、おおよその見当がついてしまい、そこで適当に見切ってしまう。
この人からどんな新しいことが発見できるか、できないか、
わくわくすることがあるか、ないか。話をしていて楽しいか、そうでないか。
まるで、本の初めの数ページを期待して読むようにして話す。
面白くなければ次の本に手を伸ばす。相手をひきつけることは難しい。
仕事以外で接点がみつけられないので、職場を離れたらそれで終わってしまう。














2月4日 土曜日(立春)

春立つと古き言葉の韻よし  後藤夜半

韻はひびきと読ませる。
「春(が)立つ」という言葉そして、それはひびきにも及び、感心している。
春という季節を擬人化している。
春になって春がすぐそばにやってきてすぐそこに立っている。いいねえ。
この具体的な発想。そして、口にだして言ってみると、ひびきもいいじゃないか、
というわけである。それは、抽象的でありつつしかも血の通った具体性を帯びている。
気に入っているってことは、そのすべてがいいって惚れこんでいるわけで、
そのなかでも、ひびきがいいじゃないかっていうことになる。
嫌いななかでも、ひびきだけはいいねえということではない。
「春立つ」の発想は、俳句のよいところを代表としてぽんっとひとつとりだしているという
ことにも繋がる。俳句に身を投じるような人はそれだけ惚れこんでいるということで、
俳句そのものが好きで好きでしようがない。
何から何まで好きなんで、みんなが気づくようなところはもちろんいわでもがな。
気づかないところまでも好き。その隠れたひびきをとりだされて読み手がどう感じるか。
私は、そうかそうか音楽的にも気に入っているということに気づかされた。
これまで、客観写生ということにこだわって、見た目を重視してきた。
しかし、それに一矢を報いる。それがぐさっと胸を射る。
ものごとには、深みや厚み、手触り、態度、応答があり、いわば全身全霊でそれを受けとめている。
ものいわぬ植物や動物といった生き物に限らず、まわりのものすべてから感受している。
目にみえない脅威である放射能も例外ではなく、受け入れたくなくても感受している。
放射能よりも身近に存在している言葉に対してももちろん敏感に感応している。
夜半はそれに目をつけているわけで、「春立つ」という言葉から触発されるもろもろを
感受して、感応して、感嘆している。その結果、読み手にもそれが響いてくる。
人にはそれぞれ好みがあり、見た目にとらわれがちであるけれど、
それ以上に声のひびきにとらわれているということは、案外知られていない。
ひびきのよい言葉を話すということは、耳に心地よい。
それは、発音が明瞭であるであるばかりでなく、声の質も関わってくる。
そして、その話す言葉の質や価値、その内容にももちろん及ぶことはいうまでもない。
聞いていて不愉快になるような言葉は、たとえ綺麗な発声でも少しも響かない。
「春は名のみの風の寒さよ」という言質には、きまっていつも違和感を感じる。
きっと夜半も感じていたにちがいない。
春という声を聞けば、心が震え、ほのかに心浮き立つ。
だから、いくら風が冷たくても、それはこれまでとはちがって感じられるのである。
春がすぐそこに立っているという可視的な言葉がいざなうように、
こうしちゃいられない。ここではないどこかから私を呼んでいる声がする。
















2月3日 金曜日(節分)

豆をうつ声のうちなる笑ひかな  宝井其角

スーパーばかりでなく、コンビニでも節分行事に便乗して、
節分の豆に鬼の面をセットにした商品や恵方に向かって食べる巻き寿司が、
早々と店先に並べられたり、数種類の恵方巻きの予約注文を受け付けていた。
バレンタインのチョコやクリスマスのケーキ並に節分の巻き寿司がメジャーになりつつある。
巻き寿司の中身がいろいろ開発されて、みているだけで楽しくなってくる。
もっともポピュラーなのが卵にきゅうり、かんぴょう、しいたけ、でんぷといったもので、
それに少しずつ変化をもたせ、海鮮巻きは蟹かまぼこや海老が入っていたり、
回転寿司の人気メニューのサラダ巻きのように、蟹かまぼこをマヨネーズ和えしてサラダ菜で
巻いているものもある。鉄火の太巻きやねぎとろ巻き、天むすのようにした海老天巻きもある。
カツサンドからの発想からか豚カツ巻きも登場して、何でもありの恵方巻きになっている。
手当たり次第思いついたものを、ものは試しにやってみましょかといった感じで、
奇をてらって客に媚びている風でもあり、思想もなにもあったもんじゃない。
これはもうお祭りで、バレンタインやクリスマスのノリである。爛熟というものかもしれない。
しかし、バレンタインやクリスマスが外来種であるのに対して、節分の恵方巻きは、
純国産であるゆえにこちらとしては判官贔屓してもっと盛りあげてやりたい気になる。
今夜あたりはどの家庭も北北西に向かって願い事をしながら黙々と巻き寿司を食べていよう。
個人的には、チョコやケーキよりもずっと日本の風土にあっている寿司がいい。
節分の日には学校でも給食に寿司がでる。まだ恵方巻きというわけにはいかない。
その代わり、給食のおばさんの手間を省いた、各自が自分で作る手巻き寿司がでる。
そして、必ず豆がでる。そのため、先生たちの頭を悩ますことになる。
当然のように生徒たちは豆まきをしたがるのである。
そこで食べ物を粗末にしないようにと事前に話をしておかなければならない。
けれども示し合わせて豆まきをする。結局あとでお説教を食らうことになる。
こちらとしては、栄養士さんに豆をださないように懇願したいくらいである。
家庭でやる場合は拾って食べられるからいいけれど、教室の豆は衛生上そうもいかない。
豆をまきたくなるのもわからないではない。勝手にまいて、ゴミ箱に捨てて、それで構わないのか。
事態はそれより深刻で、
いけないとはわかっていながら、というより、いけないからなおさら面白がって、
教師の目を盗み、誰が投げたかわからないよう仲間内でグルになり豆まきをする。
こういうスリルを味わいたい年齢でもあるから、知能犯でかつ愉快犯になる。
悠長に豆をまくというより、小賢しく豆をうつといったほうがより緊迫感があり、
その行いに、内なる邪悪な鬼がひひと笑い声をたてている。
少年少女たちが純粋であるというのは幻想で、待ったなしの悲惨な状況にある。
ひょうきんな先生がいると、鬼に扮して自分の学級のみならず各学級をまわって
楽しませてくれる。しかしながら、ほほえましいと暢気に笑ってばかりはいられない。















2月2日 木曜日

何といふ淋しきところ宇治の冬  星野立子

つまるところ、何に心を動かされるのか、ということをそれぞれ個性的に
いかに自分らしさを表現するかに尽きるだろう。
今でいうならば、何これ、に相当する俳句も、当時にしてみれば革新的だった。
というのは、嬉しいとか悲しいとか淋しいといった感情表現は控えるどころか禁忌ですら
あったであろうのに、大胆に、なんの捻りも加えないで散文的に表現している。
ちょっとお〜、これでいいのお?、と口を尖がらせて抗議したくなる代物である。
それがすんなり通るっていうのは、肉親的な情に溺れ、冷静な判断が及ばなかったことに重ねて、
当時男ばかりの俳壇に女を台所俳句と称して蔑んでいた風潮からであると察するならば
ふう〜んそおなの、と納得できる。何も立子を馬鹿にしているというわけではない。
何事も、下から積み上げていかねば高みにのぼれない。
しかも、考えつかないような切り口からしか新しい高みに登るルートがみつからぬものである。
つまり、女であるから許されて、それゆえに男にとっては硬い壁に阻まれていた難所を
するりと難なく通り抜けられる突破口を切り開いている。
平たくいえば、頑固な親父限定をやさしいお母さんも参加オッケーにした。この功績は大きい。
額に青筋たてて深刻ぶっているのが息づまってきた。
もっと、気楽におだやかにいきましょう、ということである。
こんな程度だったら私にも作れるわ、と一気に俳句人口がひろがった。
易しいことをわざわざ難しく表現していた哲学者きどりの俳句は魅力がなくなった。
それとは逆に、難しいことをわかりやすく表現するところに新しい魅力が生まれた。
俳句は文芸であるから、フランス料理もいいけれど蕎麦やうどんもいいでしょという
路線変更が時代の要請によってやむなく押しだされてきたということであろう。
一生に1回きりの生き方に、できるだけ豊かな彩りを添えたいと誰もが思う。
柔硬兼ね備えていたほうが魅力的であるように、人間の欲望は限りない。
そう考えるならば、立子という特別な立場によってしか詠めない記念碑ともなる句である。
さて、人はどのようなところに淋しさを感じるであろうか、という点に関心が及ぶ。
おおまかにいえば淋しさは、自然か、それとも人間関係かにわかれる。
それが、立子の場合、自然であり、当然の成り行きともいえる。
それが、時代の流れにより、自然から人間へ、そして群衆の中の人間に移り変わってゆく。
遠くにあるものからだんだん身近なものへと移り、さらに内面へと掘りさげられる。
通りすがりの景色に感じる淋しさと、身近な景色に感じる淋しさとは質が違う。
前者は、みしらぬ景色であるがゆえに関係を結べない淋しさであり、
後者は、いつまでたっても余所者である疎外感からくる淋しさである。
特に宇治という歴史のあるところでは、親子三代住まねば受け入れてもらえない。
繊細で敏感なものほど、人懐こいものほど、ここではないどこかを感じてしまう。
根源的な問いへの入り口から奥へ深入りして、現代の淋しさは深刻である。
人と繋がろうとして蜘蛛の糸のような危うく脆いネットコミュニケーションに頼るのは、
人間関係の淋しさから逃れようとする現われであり、ネットの利用者が増えれば増えるほど、
人々の淋しさの総数を数値化しているように思われてならない。















2月1日 水曜日

暮色もて人とつながる坂二月  野沢節子

常々思い込みが激しいと思っている私にはそれが悩みであった。
しかし、その悩みを氷解してくれる文に出会ったので以下に長々と引用する。
「価値あるもの」がまずあったのでもないし、「誰かにこれを贈与しよう」という愛他的な
意図がまずあったのでもない。たまたま手にしたものを「私宛ての贈り物」だとみなし、
それに対する返礼義務を感じた人間が出現することによって贈与のサイクルは起動した。
人間的制度の起源にあるのは「これは私宛ての贈り物だ」という一方的な宣言なのです。
おそらく、その宣言をなしうる能力が人間的諸制度のすべてを基礎づけている。ですから、
端的に言えば、何かを見たとき、根拠もなしに「これは私宛ての贈り物だ」と宣言できる
能力のことを「人間性」と呼んでもいいと僕は思います。
『街場のメディア論』 内田 樹 光文社文庫p180
まさしく、この「私宛ての贈り物」と感じてしまうことに悩まされていたのである。
何の根拠もないゆえに、そのように感じてしまうことが不安でもあった。
それなのに、確かに贈り物と思われるので、必然的に返礼の気持ちが湧いてくる。
受けとりっぱなしにはできない。このような態度こそが、人間性と説かれ深く納得した。
ぽんと投げ出された石であるからこそ、どのようにされても文句は言われない。
しかし、この石は自分にとっては価値あるものとして存在するから魅入ってしまう。
どうしても私から離れようとしないもの、私を離そうとしないもの、
それらが価値あるものであろうがなかろうが関係なく曳きとめるもの。
それらが離れようとしないのは、離そうとしないからであって、
言葉では因果関係を科学的に証明することはできないけれども、
確かに曳きよせられる力が存在する。それが思い込みであるかもしれない。
しかし、樹の理路にしてみれば、これこそが人間の感知できるものということになる。
たとえば、石は、何かの役に立つかもしれないと、あるいはなんとなくでもよい。
手に取った時点で、贈与のはじまりになるかもしれない。
私の場合、役に立つというのが、お金になるという意味や機能するという意味ではなく、
表現に使えるということになる。
つまり、私のまわりに起こる自然や出来事は、貴重な贈り物に思えるから、
記録しておかなくてはと思える。この記録というのが、私なりの返礼になるというわけだ。
自然や自然に近いものからの贈り物に対して、せっせと返礼をしているわけで、
だから、毎日長つづきしているわけである。
贈り物が偉大であり、それに対する返礼としてふさわしいかどうかは心もとないが、
できるだけのことはしておきたいと、力の限り応えているのである。
だから、もっと立派であればいうことはないであろうが、そうでなくとも構わない。
真心であり、無償の行いであることだけが正しいからである。
今こうして自由な環境にいられるのも、ありがたい話で、この目に見えない恩恵の中で、
最大限に返礼をしなくてはと思われてくるのである。
その返礼の仕方は、人によってさまざまに許されており、私はこうして書くということになる。
私にだけに託された贈り物(=思い込み)に自信をもち、返礼していくことの意義をみいだし、
なんだか気持ちが大きくなり、今までのように突き進んでいけばいいと思えた。
毎日のひとつひとつの出来事が、必然であり、かけがえのないものであることを認識する。
この寒さの底では私は何を感じ、どのように行動したのか、それはひとつの石である。
人によってはそれはつまらない石かもしれないが、
人によってはダイヤモンドのように貴重な光となるのである。
この返礼がまた新しい贈り物になるかもしれない。