「イレギュラーの神様」

(9)

 

 ギリシャ郊外を歩く、何やら重そうな箱を背負った二人の少年。

 やんちゃそうに表情のくるくる変わる短髪の少年の横で、長い黒髪を流した盲目の少年がチャイナボタンの服に身を包んで微笑を浮かべている。

「あんたたち、どこ行くんだい?そっちは観るもんなんかないけどねえ」

 すれ違ったオバさんの声に、いずれも東洋人と思しき二人は、笑って振り向いた。

「あ、いーのいーの。あんがとねー」

「道に迷ったわけではないから、お気づかいなく」

 そうかい、と人のよさそうな顔で言って遠ざかっていくオバさんから前に向き直り、少年たちは足取りも軽く歩き続けた。

「へっへー。アイオリア、元気かなあ?アルデバランもさあ」

「フッ。殺そうとしても死なんようなものばかりさ、聖域は」

「まーなー。全員、一度死んで復活した連中だしな」

「俺たちも似たようなものだろう、星矢」

「そーいやそうかもな」

 短髪の少年は、わはは、と笑った。

 天馬座ペガサスの星矢と、龍座ドラゴンの紫龍。

 アテナの幼馴染みであり、日本出身の青銅聖闘士である二人は、現在、星矢の夏休みを利用して聖域での修行バカンスに向かう最中である。

「行ったら絶対、まずアイオリアと手合わせだ」

「俺はシュラに、エクスカリバーについて教えを乞おうと思っている」

 二人ともローティーンだが、幾つもの大戦を超えて表情は既に戦士のものだ。

 海底神殿に攻め込んだ際に失明してしまった紫龍の足取りには、遅れも乱れもない。

「黄金聖闘士、みんないるって沙織さんが言ってたし。いきなり俺たちが行ったら、驚くだろうなあ」

「アイオロスと老師は不在だがな。カミュもシベリアで氷河と暮らしていて留守だが、後はみな居るそうだ」

「そっか。魔鈴さんに会ったら、何て言おう。シャイナさんに会うのも久しぶりだしなあ」

「カノンも双児宮で暮らしていると聞いている。俺はカノンには冥界で大分世話になったから、一度きっちり礼を言わねばならんと思っていた」

 幾多の戦いで、あるいは敵として、あるいは味方として、ともに戦場を駆け抜けた間柄である、黄金聖闘士、白銀聖闘士。

 久しぶりに顔を見て語り合えると思うと、2人とも心が浮き立つのを感じた。

「……あ!見えてきたぞ、紫龍!」

「そうか」

 紫龍の口元もほころぶ。

「他にはどうだ?矢座サジッタのトレミーは居ないか?」

 珍しく冗談を飛ばした紫龍に、星矢が吹き出す。

「残念だけど、いないぜ。火時計もついてねえや、ちょっとつまんないかもな」

「贅沢を言うな。戦わなくて済むのなら、それに越したことはない」

「って言うか、遊びに来て戦いでもねえけどな。行こうぜ!」

 二人は、足を早めた。

 聖域の入り口には、一応、番をして居る雑兵の姿。

 しかし、星矢たちの背の聖衣入りパンドラボックスを見ると、即座に道を開けて挨拶してくれる。

「うわー。マジで物足りないかも。普通俺たちがどっか入るのって、大抵力ずくだろ?」

「言えてるな。全く邪魔されずに通れるのは、どうにも拍子抜けだ」

 14歳と15歳の少年としてはどこか間違った感覚を共有しつつ、2人は第一の宮である白羊宮に上がっていった。

「お―――――い!貴鬼――――――!!」

 星矢が手をメガホンにして叫ぶと、ムウの愛弟子であるアッペンデックスの貴鬼が宮の中から顔を出し、その目がすぐにまん丸になった。

「……星矢!!紫龍!!」

「久しぶりだな、貴鬼。ムウは在宅か?」

「驚かしてやろーと思ってさ!」

 笑顔で上がってきた星矢と紫龍に、貴鬼がピョンピョンと跳ね回る。

「何だよー!ホントに驚いちまったじゃん、星矢!!うっわ――――、ホントに紫龍だ!」

 興奮した面持ちで、夢中になって飛び回る貴鬼の声を聞きつけてか、中からムウが出てきた。

「おやおや。これはまた、珍しいことですね。子供たちの里帰りですか」

「ちぇっ、あんたも少しは驚いてくれよ。誰が子供だ」

「突然の来訪ですまない、ムウ」

 挨拶する二人の表情から、緊急事態と言った類の話でないと読み取ったムウの笑顔が、寛ぎを増す。

「いえいえ。歓迎しますよ。シュラが紫龍に会いたがっていますし、星矢には6年間を過ごした場所ですからね。みな、さぞかし喜ぶでしょう。――――――貴鬼!」

「はい、ムウ様!」

「先に双児宮に行ってきて下さい。この時間なら、カノンとアフロディーテ、それにシャカは確実に居るでしょうからね」

「はい!紫龍、星矢、美味しいお菓子、用意してもらっとくからさ!」

 貴鬼がだだっと駆け出す。

「さて、君たちはまず、パンドラボックスを下ろしなさい。メンテナンスのために預かりますからね。それからゆっくり上がっていけば、ちょうどいいでしょう」

「ああ」

 パンドラボックスを白羊宮に残した2人は、ムウと一緒に12宮を上がっていった。

「しばらく滞在していくんでしょう?星矢は学校に通って居るそうですが」

「夏休みだぜ、一ヶ月は暇だ。宿題は持って来たしさ、手伝ってもらおうと思って」

「……ちゃっかりしてますね。聖域に中学生の家庭教師が出来るようなのが居るとは思えませんが……ちなみに私は、量子力学が少々と古代史くらいしかできません」

「いや、日本の教育を受けたことのない俺でも、それはカリキュラムに入ってないと解るが。星矢、やはり無理だと思うぞ」

「えー。アイオリアにでも聞こうと思ってたのに、俺」

「絶対無理です。やめておきなさい、悪いことは言いませんから」

「……何げにひどくないか、ムウ」

「そうそう、君たちの今夜の宿舎も決めなくてはなりませんね。どうします?私のお勧めは双児宮ですが」

「え?ああ……俺は獅子宮か魔鈴さんのとこに泊めてもらうつもりだったけど」

「シュラに頼もうと思っていたが」

 星矢と紫龍が顔を見合わせる。

「なぜ双児宮なんだ?そう言えば、今も双児宮に向かっているようだが」

「一番もてなしがいいからです。部屋も綺麗だし食事もいいですし、アテネの一流ホテルにも負けない心づくしのサービスを受けられますよ。どこに泊まっても出前は取れますしベッドメイクも頼めますが、日中は双児宮の喫茶店まで来ることになりますから」

「………????」

 ますます解らなくなって、2人は眉を寄せた。

「……いつの間に双児宮がそんなふうに……」

「て言うか、なぜカノンとサガが喫茶店を開いた上に出前までするのだ……?服役か?」

「あの2人がそんなことするわけないでしょう。行けば解りますよ」

 ニコニコ笑顔のムウとクエスチョンマークを乱舞させた青銅2人が双児宮に着いたとき、住居の中庭では、カノンとシャカ、アフロディーテ、ミロがのほほんと茶を飲んで居るところだった。

『……星矢に紫龍!!』

 全員の声がハモった。

「どうしたのだお前たち!敵か?アテナに何かあったのか?」

「落ち着けミロ。2人ともパンドラボックスを背負っていないだろう。今は日本は夏だし、大方休みを利用して遊びに来たのではないか?」

「あ、ああ。その通りだけどさ」

「貴鬼が知らせてくれたのではないのか」

「貴鬼?さっき上がってきて、真直ぐ厨房へ入っていった。ムウが食事の出前でも頼みに来たのかと思ったんだがな」

「……なるほど。菓子の準備を優先したわけですね。星矢たちのことをカノンに知らせてこい、と言うべきでしたか。全くあの子は」

 軽く額を抑えたムウから視線を移して、ミロが屈託なく笑った。

「そうか、大事でないならいい。よく来たな、星矢、紫龍!会えて嬉しいぞ」

「2人だけか?アンドロメダは一緒でないのだな」

「あー、瞬は日本に残ってる。お嬢さんの周りがあんまり手薄になるのもまずいしな」

「そうか……」

 アフロディーテが幾分ガッカリしたような顔になる。

「今度、お嬢さんがくる時に一緒に来るってさ。それより、何だよ、これ」

 星矢は、庭園に置かれたテーブルを見た。

 クロスはかかっていないが綺麗に拭かれて、その上にはさほど上等ではないが全く汚れのついていない食器が並んでいる。

「ああ、それは俺も思った。いつから双児宮はカフェテリアになったのだ」

 紫龍が、シャカの手のティーカップから漂う、紅茶専門店のような香りに首を傾げる。

「ちょっと来ない間に、ずいぶんと空気が変わったものだが。聖戦の前はこうではなかったぞ」

「カノンが来てからってことか?つまり。へえ!」

 星矢がカノンに尊敬のまなざしを向ける。

「あんたがそんな家庭的って、何かすげー意外な気がするぜ」

「……本気でそう思うか?ペガサスはつくづく素直なのだな」

 アフロディーテが、半ば吹きだしながら言った。

 シャカが、閉じた目でもカノンの仏頂面が見えて居るように口の端を上げる。

「どうしたのだ?カノン。否定したまえ。後輩に説明するのは恥ずかしい経緯なのは解るが、他者の功を横取りするより良かろう」

「やかましいわ。言われなくとも、俺がやってるとは言いはせん。家庭的などと言う評価をされるよりは、ズボラだと言われる方がマシだ」

「へ……?」

「むしろ、家事が出来なかったからこそ、こうなってるんですけどね」

「???」

 星矢はまだ良く解らなかったようだが、紫龍はピンと来た顔になった。

「つまり。家事が苦手で腕のいい家政婦を雇ったと言うことか」

「ドラゴンは察しがいいな」

「へー……紫龍、よく解ったな」

「同類だからな。五老峰では俺も老師も家事を一切やらん。家のことは春麗が全てやってくれているが、無理に俺がやるより遥かに効率がいいように思う」

「そうか!見ろ、これが正しい男の姿だ」

「……老師は261歳の老人で、紫龍は15歳の少年ですけどね。カノン、あなたは29歳の心身ともに健康な成人男性だと言うことをお忘れなく」

「ふん。そんなことを言ったら、あれも15歳だろうが。老師はともかくな」

 カノンが鼻を鳴らし、その子供っぽさに星矢と紫龍は小さく吹き出した。

「それが、大笑いなのだぞ。聞くがいい」

「ああ。その家政婦と言うのがな、お前らも知ってる、海魔女セイレーンのソレントから派遣された娘なんだが」

 アフロディーテとミロが、あからさまに笑いまくりながら説明してくれる。

「聞くと、カノンがあまりにズボラなのでポセイドンが心配しているというではないか。聖域でゴミに埋まらないで済むように、と海底に居た時分の小間使いに紹介状を持たせてよこしたそうなのだ」

「へ、へ……あんた、そんなズボラなのかよ?」

 遠慮も何もなく、腹を抱えて笑う星矢。さすがに我慢して、たしなめる紫龍。

「失礼だぞ、星矢」

「……無理に我慢せずに笑われた方がいいんだがな、紫龍。口元が緩んでいるぞ」

 むすっと言い捨てるカノンの、頬が幾分赤いのはご愛嬌か。

「それでその娘が来たら、宮は綺麗になったが、サガが嫉妬を焼いてすっかりおかんむりでな」

「重箱の隅をつつくようにして毎日いびってるんだぞ。まるで嫁と姑のような光景で」

「おまけに旦那は何もしてくれないしな」

「黙れ。置いてやっているのだ。それだけでありがたいと本人が言うのだから、何も問題はない」

 鼻を鳴らして、カノンは宮の中へ向かって叫んだ。

「おい!準備はまだか?もう客は来てしまって居るぞ!」

「はい、すみません。今、参ります」

 宮の中から、返事が返って来る。

「お、それがその家政婦さんか。……紫龍、どうした?」

「いや……別に」

 どこか聞き覚えのある声のような気がしたが、恐らく気のせいだろう。

 若い娘はアテナと春麗くらいしか知らないのだ。似て聞こえることもあるだろう。

「座ってお茶とお菓子を食べている間に、部屋を片づけてもらいましょう。カノン、この2人には双児宮に泊まるように勧めていたところなんですが」

「ああ、それがいいだろう。他の宮に泊めても、どうせ、あれが出張で働かされることになるからな。サガも星矢と紫龍ならば否やはあるまい」

「ほう、人並みに気を使うではないか。あの娘がサガに苛められる姿を平気で見ている君にも、そのくらいの情はあると見える」

「黙れ。緑茶一杯を処女宮の奥の間まで出前させ、毎日ここへ来ているくせして茶碗まで取りにこさせるお前にそれを言われる筋合いはないわ」

「私はまだ良いほうだ。ミロなど、宮の庭園の草刈りまでさせているぞ」

「全く、少しは遠慮しろ。あれは俺の召使いなんだぞ。用がある時に外にいたのでは困るだろうが」

 一体どこまでこき使われているのか、と星矢と紫龍がまだ見ぬ家政婦をやや気の毒に思い始めたとき、話題の家政婦が盆を手にしてやってきた。

「お待たせしました」

 現れた家政婦は、なるほどまだ若く、一見したところでは少年のような出で立ちをした少女だった。

「失礼します。ただいま、お支度を」

 目を伏せて膝をつき、茶の支度をする。一緒に置かれた皿には、美味しそうなケーキやクッキー。サンドイッチまである。

 立ち上るいい香りに、星矢も紫龍も急に腹が鳴るのを感じた。

「……美味そうだな……これは」

「なあ、食っていいのかよ?」

「はい。どうぞ」

 内気なのか、顔を伏せ気味にしたまま、口数少なく答える少女。

 さっそくサンドイッチを取った星矢と紫龍に苦笑したカノンが、自分も手を出しながら、家政婦のほうを見た。

「ナギ、お前にも紹介しておこう。日本にアテナと共に暮らす青銅の聖闘士、ペガサスとドラゴンだ」

 ふと、星矢の手が止まった。

“……え……?”

 記憶の底から掘り起こされる、何か。

『……凪……』

 幼い紫龍の声とともに、甦る思い出。

『凪……星矢が、また……』

『……お嬢さんか……?待ってろ、今すぐに……』

 やはり幼いが、力のこもった張りのある声……

「しばらく双児宮に泊めるから、また世話を頼むぞ。部屋は一緒で構わないのか?星矢、紫龍」

「あ…ああ……」

 紫龍が、何かに気をとられているように、上の空で答える。

「?では、広いほうの客間に二人分の支度をしておけ。いいな」

「はい。かしこまりました。今すぐに」

 ――――カチリ、と音を立てて止め金が嵌るように。

 何かが、合わさった。

「―――――――ナギ……?」

 星矢の口から洩れた言葉に、カノンが振り向き、少女が顔を上げる。

 その顔は、きっと自分たちのそれのように大分大人びて、しかし確かに、思い出の人の面影を宿していた。

「お前……」

 星矢の手から、ポロリとサンドイッチが落ちた。

「凪……?まさか、本当に……?」

 少女が、ひどくばつの悪い顔で、やっと真直ぐに星矢を見る。

「……星矢」

 観念した、とでも言いたげに、凪がほんの少し笑う。

「紫龍。……聖闘士に、なったんだね」

「凪……城戸邸に居た?お前、生きて……」

 星矢の視界の端に映る紫龍の顔は、見えない目を一杯に見開いて、凪を凝視していて。きっと今自分も、そんな顔をしてるんだろうと思う。

「2人とも、変わっていないね。……私はそうでもないから、誤魔化せるかと思ったよ」

 脳裏に刻み付けられているのと同じ暖かい響き。けれど、随分と穏やかになったと思う。

 昔は、その名前が滑稽なほどに、激しい子供だったのに――――

「星矢」

「……っ!!」

 星矢は、タックルをかけるような勢いで、凪に飛びついた。

「うわっ!」

 凪が、幾分よろめいて、それでも辛うじて星矢を受け止めて踏みとどまる。

「どうしたの。星矢、怒ってるの?……星矢?」

「凪……凪……っ、俺、死んだと思ってた。お前、帰ってこなかったから、死んだと思ってた……っ」

 生きててくれて、良かった――――――

 絞り出すような声に、凪が困ったような顔で紫龍を見る。紫龍は、歩み寄って凪の片手を掴んだ。

「生きててくれたんだな。ありがとう、兄弟」

「……紫龍」

 左手を紫龍に預け、右手で泣きじゃくる星矢を抱えた凪は、横で唖然として事の成り行きを見守っている黄金聖闘士たちに顔を向けた。

 とりわけ、カノンに対するその表情は―――――何故か、ひどく哀しそうであるように感じられた、と。

 見えない目で見たかのように、紫龍は後でそう言った。

 

 ――――――七年前。

 孤児院にいた姉と引き離され、城戸邸に引き取られてきた星矢は、同室で友人になった紫龍と2人して、門を入ってくる車を見ていた。

「また新しいのが来たのかよ?紫龍」

「だろうな」

「ちぇー。何人集める気なんだよ?また邪武みたいなのが来たらやだなー、俺」

「どうだろうな。もう50人越してると思うが」

 2人の目の前で、バスを降りる少年たちを、屋敷の使用人が乱暴に小突いて追い立てている。

「瞬、荷物貸せ」

「あ……ごめんなさい、兄さん」

 珍しく兄弟で連れて来られたのだろうか、やや大柄な少年が、横のひ弱そうな子供の荷物を持ってやっている姿も見える。

「……何だよ、兄弟で一緒に来たのも居るのかよ?」

 いいな、いいな、と呟く星矢に、紫龍はフッと笑った。

「丁度いいんだろ。あの下のほう、そうでもないと、修行に出されるまで生きてないかもしれないぞ」

「ホントだな。もう泣きそうな顔してら。男?女?」

「男じゃないか。ここ、女はほとんど居ないし……あ!」

 紫龍が、短く声を上げた。

 ここで子供たちの見張りに雇われている黒服の男たちの中でも、特に乱暴で何かと子供を殴る男が、バスから下りかけてつまずいた一人の少年を蹴飛ばしたのだ。

「あいつ……」

 星矢も嫌な顔になったが、次の瞬間、2人の耳に別の声が聞こえた。

「やめろ。蹴られるようなことは何もしてないだろ」

 後ろから出てきた別の少年が、男を睨みつけている。

「気まぐれで傷つけられてたまるか。蹴りたきゃ、そこの木でも蹴ってろ」

 星矢たちと歳の変わらないであろう、幼い声。しかし、こもった力は揺るぎない。

「……あぁ?生意気なガキだな、おい」

 男が顔をしかめ、今度はその少年に向かって拳を振り上げる。しかし、少年は驚くほどの身の軽さで一歩下がって避けた。

「この……」

「そんなに殴りたいのか、デクのぼうが」

 少年の声が、大きくなった。

「殴ってみろよ。まだ、門が開いてるんだぞ。運転手だって、ここの専属って訳じゃないんだろ。大声で喚きまくってやる。この家は孤児を集めて虐待してますって、話が広がるくらいの声で泣いてやる。家の力で話は潰せても、あんたはクビだ。賭けてもいいぞ」

「……」

 男の顔が真っ赤になり、少年と睨みあう。

 しかし、この場は明らかに男の負けだった。

 何しろ、バスの中には城戸家と関係のない人間が居るのだ。

「……おい。後で嫌ってほど可愛がってやるからな」

「やってみな。弱いもの苛めのクズ野郎」

 少年は、ふん、と鼻を鳴らして、再び歩き出した。

 先ほど助けられた少年の方は恐れをなしたのか、もう先に行ってしまっていたが、見ていた星矢と紫龍は感心してしまった。

「……凄いな!あいつ」

「ああ……まだ良く解ってないんだろ。後で酷い目にあうぞ」

 紫龍の言葉に星矢はちょっと顔を歪め、すぐに元に戻った。

「なあ!俺、あいつと友達になりたい。紫龍だって、カッコいいと思ったろ?」

「……それは確かだ」

「じゃ、そうしようぜ!な!」

 星矢は、久しぶりに満面の笑みを浮かべて、そう言った。

 そして2人は、新入りが部屋に案内された後で屋敷から出てくるのを待って、件の少年を捕まえた。

「なあなあ、お前、今日来たんだろ?俺、星矢!5歳になったとこ!」

 唐突に声をかけられ、一瞬戸惑った少年に、星矢はさらに言葉を重ねた。

「バス降りるとこ、見てたんだぜ。お前、かっこいいなあ!」

「……ああ」

 少年が肩を竦める。

「ムカついたから。真似はしないほうがいいかもしれないよ」

「言われなくてもしないさ。そんな度胸、ない」

 横から紫龍が答える。

「紫龍だ。歳は6歳。星矢が、お前と友達になりたいって言ってる」

「……そうか。星矢に、紫龍」

 少年が、ふわっと笑った。今までの鋭い冷たい印象に突然柔らかさが加わって、星矢はどきりとした。

「よろしくね、名前は凪だ」

「……凪?」

「うん。歳は6歳で、趣味は勉強と空手。それに、生意気な口を叩くこと」

 冗談めかして言った凪の表情に、紫龍が「あれ?」と言う顔になった。

「……凪……お前、もしかして」

「あ。解った?」

 クスクス、と凪が笑う。

「そう。染色体は、XX」

「……?」

 よく解らないことを言われて首をかしげた星矢に、凪が顔を寄せて声をひそめる。

「女だ、ってこと」

「……っ!!??」

 仰天して口をパクパクさせる星矢を、可愛くてたまらない、という風に見て。

 凪は、短い髪をかきあげながら、今度は声を立てて笑った。

 

 

061027 up

 

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