「イレギュラーの神様」

(6)

 

 三日後、サガがアテナと連絡の上で提示した一次協定案を携えて、ラダマンティスは冥界へと戻って行った。

 一方、冥界へ発った上司を見送ったミューは、その日の夜、急に心細い気分になりながら、あてがわれた部屋でため息をついていた。

“……情けないものだな……”

 別段、何か問題があるわけではない。

 聖域の聖闘士たちは、かつて拳を交えた冥闘士に戦士としての敬意を払ってくれているらしく、みなそれなりの礼を持って接してくれる。

 ラダマンティスとカノンなどは、ついたその日からもうすっかり友人のノリで、牡牛座タウラスのアルデバランや獅子座レオのアイオリアと言った武術一本槍の聖闘士たちを相手に、二人して冥界での戦闘の凄まじかったことを互いに披露しあっていた。

 ミューが少々気になっていたムウは、口は意地悪いもののそこはかとなく防波堤になってくれる感じで、本気で無礼な態度を取るものがいないように気を使ってくれている印象さえ受ける。

“それでも”

 なお。ミューにとって、この聖域は正直、居心地が悪いのだ。

 思えば、彼はそもそも覚醒以前から人見知りなたちだった。冥闘士になって普通の社会から去り、冥界で死界の蝶フェアリーとの生活が始まった時はホッとしたくらいだ。

 仲間の冥闘士と打ち解けるにも、かなりの時間がかかった。今さら、かつては本気で殺しあう敵同士であったアテナの聖闘士と、気安く語り合う気になど、とてもならない。

“いっそ、はっきり人質として扱ってもらえた方が、気が楽だ……”

 自分たちの役目が和平交渉だと解ってからすっかり緊張を解き、当り前のように訓練の誘いなどをかけてくるミロやアイオリアの、何の蟠りもない顔が思い出されて気が滅入る。

 かと言って、ここで自分が無礼な真似をして、冥闘士に対する悪感情を聖域に広めるわけにはいかない。何と言っても、現在バリバリ元気なアテナと消滅寸前まで行ったハーデスでは、どちらが有利かは明らかだ。敗戦国の立場が弱いのは、地上の戦争と変わりない。

 早くラダマンティスが戻ってほしい、と切に祈ったとき、部屋がノックされた。

「パピヨン様。失礼をいたします。よろしいですか?」

「……ああ……」

 この双児宮の召使だ。確か、ナギとかいった。客人の世話を頼む、とカノンに言いつけられて、何かと身の回りの世話を焼いてくれている。

「いいぞ」

「では、お邪魔します」

 ドアが開いて、ナギが入って来て、床に膝をつく。

「お夜食をお持ちしました」

 なるほど、盆にはサンドイッチのようなものと飲み物の仕度が乗っている。

 頼んだ覚えはない、と言いかけたとき、ナギが続けた。

「余計なお世話かとも思いましたが、夕食の時にはあまり食欲がなくていらっしゃるようでしたので」

 その通りだ。出てきた料理は美味かったが、ラダマンティスが去った後、カノンとサガの話すのを聞きながらでは、どうも箸が進まなかった。

 しかし、こうして美味そうな匂いをかぐと、急に腹が減ってきた気もする。

「食事を抜かれては、お身体に障りますよ。どうでしょう。ひとくち召し上がりませんか?」

「……そうだな……」

 ミューは、頷いて手を伸ばした。

 食べ始めると勢いもつき、結局パクパクとサンドイッチを平らげるミューに、ナギがミネラルウォーターを注いでくれる。

「慣れない場所に滞在しておられるのですし、気候や生活のリズムが合わないこともあるでしょう。配慮が足りなくて、申し訳ありません。食事はお好きな時にお申し付け下さい。部屋に運ばせて頂きます」

「いや……そこまでしてもらうのは」

「あなたは冥界と地上の和平のためにいらした大切なお客様です。不都合は、どのようなことでも承るよう言いつかっております。見れば今日も疲れたご様子、もてなしに失礼があるのではないか、とカノン様にお叱りを頂いてしまいましたよ」

 にこ、とナギは微笑んだ。

「パピヨン様。この双児宮の主は、お二人とも、冥界との和平を心から望んでおります。その誠意を信じていただけるよう、心を込めてお世話させて頂くつもりです」

「……」

「ですから、どうか遠慮はなさらないようにお願いします。この役目を言い付かったことを、私は大変な光栄と思っているのです」

「……ありがとう」

 顔をそむけて、ミューは呟いた。

「あなたのせいではないのだ……本当に」

 彼は、幾分の自嘲を込めて笑った。

「私の弱さなのだ……聖域の人々は、誰も私を責めてはいない、と解っているのだが……何故か、気後れを感じてしまう」

 いつになく心弱い気分で愚痴ったミューを、ナギはじっと見つめた。

「はい。……人は、誰も同じです。きっと、私もまた」

「何?」

「パピヨン様。私が初めてカノン様にお仕えしたのは、二年前のことでした」

「?それが、なにか」

 言いかけた言葉は、途中で消えた。 

 二年前。双子座ジェミニのカノンが、つい先日まで海皇ポセイドンの神殿にあって海将軍の筆頭であったことは、冥界でも知られている事実だった。

「……まさか……海底神殿に、いたとでも?」

 ナギが、静かに微笑む。

「私の主は、シードラゴン様おひとりです。海の底でも地上の聖域でも、何も変わりなくお仕えして参りました」

 どうぞ、と差し出されたカップから、ミューは、ナギの静かな頬笑みを浮かべた顔に視線を移した。

「……海闘士か?」

「いえ。現在と同じ、下働きです。何をする力もない分だけ、できることをしてきたつもりではいるのですが」

「……」

「戦いの後、聖域を訪ねて、こちらに置いて頂きました。私のようなものにさえ、聖域の方々は暖かく接して下さいます。己の信ずる道のため戦ったあなたを、憎んだりするはずがあるでしょうか。それは、信じていただきたいのです」

 しばしの沈黙の後、ミューは大きく息をはいた。

「……そうだな」

 ミロ。アイオリア。アルデバラン。デスマスク。アフロディーテ。

 当り前のような顔で自分に声をかけてくる、彼らの含みのない顔。

「彼らは……私たちを信じ、アテナを信じ、地上の未来を信じているのだ。そうでなければ、あのような笑顔ではいられないだろう」

「はい」

 ナギが頷く。その従順なまなざしに、ミューは思わず愚痴をこぼした。

「私とて……真実、全ての人類が死に絶えてしまえばいい、などと思ったのではなかった。ただ私は……居場所が、欲しかったのだ。己の存在を認めてくれる場所が」

 持って生まれた超能力の故に親にすら疎まれた、己の過去。それらが、今全て、甦る。

 そうだ。冥界は、その自分を受け入れてくれた、初めての場所だった。

 自分が化け物ではなく人であれる、たった一つの地であったのだ――――

「ナギ……あなたは、私を恐ろしいと思うか?」

 ミューは、ナギの平静な目を見た。

「私は死界から来たもので、この通りの力の持ち主だ。冥闘士になる前は、誰もが私を化け物と呼んだ。家族すらも私を受け入れようとはしなかったのだ」 

 ミューのテレキネシスで、周りのものがふわりと浮く。空中で静止した花瓶や椅子に囲まれて、ミューはじっとナギの目を見た。

「あなたは普通の人間なのだろう。見ていれば解る。どうだろう?怯えているか?」

 かすかでも拒否の色があれば即座に感じ取って見せる、と思ってのことだったが、彼の驚いたことには、ナギはくすりと、ごく自然に笑った。

「いいえ、残念ですが」

「本当に?」

「もちろんです。ここで恐ろしいとお答えするようでは、ムウ様に叱られます」

「……」

 幾分間抜けな表情になって、ミューは顔を赤らめた。

 考えてみれば、つまらないことを尋ねたものだ。

 戦士でなくとも、かつて海底神殿にあって現在は聖域で暮らしている人間がこの程度の力に怯えていては、やっていられまい。

「見慣れてるか。見世物にもならないという顔だ」

 力を解くのも面倒で、ものを浮かせたままミューは苦笑した。

「いえ、そのようなこともありませんが。大変に便利そうですね」

 涼しい顔で冷めた茶を入れ替えながら、ナギがしげしげと宙に浮いたものを見やる。

「実を言うと、あまり便利でもない。コントロールは疲れるんだ」

 白状して、ミューは浮かせたものを一つずつ元の位置に戻した。

「いったん動かして固定しておくのはいいんだが、操ろうとすると面倒で」

「ああ、ムウ様もこぼしていらっしゃいました」

 相槌を打って、ナギがふと声をひそめた。

「あの方のほうが、よほど恐ろしいですよ。こう申し上げてはなんですが」

「え?」

「ご機嫌を損ねると、笑顔で何日でも嫌味を仰るんです。それはもう、見事な切れ味で」

「……それは私も少し怖いと思うな」

 既に体験済みのミューが顔を引きつらせると、ナギは笑い声を立てた。

 その声に、ミューはまた緊張がほぐれていくのを感じた。

「はい、どうぞ」

「ああ。ありがとう」

 差し出されたカップを受け取って、ミューは照れくさい気分で自分も笑った。

「美味いな……あなたはお茶を淹れるのが上手だ」

「ありがとうございます。そう言っていただけると」

「本当だ。ラダマンティス様も褒めていられた。それは信用していいぞ、あの方の出身は英国だから。ご自分でも、とても上手に紅茶を淹れるのだ」

「英国の方ですか。それはまた……次の時には緑茶を差し上げることにしたくなりましたね。さぞお目も厳しいでしょう」

「大丈夫だ。私が保証する。これだけの腕前なら十分だ」

 すっかり寛いだ気分で笑ったミューは、何気なく時計を見て軽く目を見開いた。

 もう、夜半を過ぎている。いや、自分は夜更かししても構うこともないが、ナギの方は早朝から仕事に出るサガの朝食の仕度があるはずだ。

「こんな時間か!若い娘を遅くまで引き止めて、悪かったな。もう帰っていいから」

「……」

 ナギは、驚いたように目を見張った。

「……申し上げないうちから女だと見抜かれたのは、初めてです。海底神殿にさえ、外見で判断できた方は一人もいませんでした」

「人も蝶も変わらないからな。私は向かい合ったものの性別を間違えた試しはない。それだけは、自信があるぞ」

「まあ」

 ナギは、ぷっと小さく吹き出した。

「光栄でございます、パピヨン様。どうにも女には見えないと常々言われておりますから。喜んでいいのでしょうね、私は」

「ああ。ただ……」

「はい、何でしょう」

「いや……パピヨンは、冥衣の名なんだ。私の名は、ミューと言う」

「はい、ミュー様」

 ナギは静かに微笑み、食器を片づけて、出ていった。

 

 一週間ほどして、聖域の提案に対する冥界の意見を纏めて戻ってきたラダマンティスは、部下が妙に悩ましい顔をしているのを見て、眉を寄せた。

「……どうした?ミュー。何か、不都合でもあったのか」

「は……いえ、ラダマンティス様」

 ミューが、ぷるぷると首を振る。

「何も、問題などは。周りはみな良くしてくれて、非常に快適な日々を過ごしていましたし」

「……そうか?」

 ラダマンティスは、さらに首をかしげて部下のきまりの悪そうな顔を見やった。

 上司としてはそれなりに長い付き合いだ。この男が結構な人見知りなのは、すでに承知している。

 それをあえて聖域に同伴したのは、甦りの際の状況をかすかにでも記憶しているのがミュー1人だったからだ。

 行きがかりで人質として聖域に残すことになり、別に危害を加えられる心配はしていなかったが、さぞかし居心地の悪い思いをしているだろう、と気にはなって急いで戻ってきた。

 それが、どうも無理をしているのではなく、それなりに落ち着いていたようだ。

「ならよいのだが……お前も、仲のいい友人でもできたのか」

 何気なく言った途端に、ピキキとミューの顔が引きつった。

「ええと、その……そうであるような、ないような」

「……???」

 頭にクエスチョンマークを乱舞させながらも、とにかく任務を優先してサガとの会見を済ませた後で、彼はミューの妙な態度の理由を知らされることになった。

「……ラダマンティス様」

 部屋で二人だけになった時に、ミューが、思い詰めたような顔で訴えてきたのだ。

「このパピヨンのミュー。ラダマンティス様に、折り入ってご相談申し上げたいことがあるのです」

「……何だ」

 やはり何かあったか、と思いつつ、先を促す。

「言ってみろ。俺で出来ることなら、何とかしてやる」

「実は……」

 重い口を開いたミューが泣きそうな顔でつっかえつっかえ語るのを聞いたラダマンティスの口が、パカンと開いた。ミューが必死な顔で見上げる。

「……愚かしいと、お思いになるかもしれません。笑って下さって結構です」

「いや……そんなことはしないが、しかし」

「ラダマンティス様!」

「う……」

 ぐぐっと身を乗り出したミューの形相に、ラダマンティスが小さく呻く。

「無理なことかもしれない、とは思います。けれど、私は真剣なのです」

 困りきった顔になったラダマンティスに、ミューが切々と訴え続ける声だけが、部屋に響いた。

 

 協定案の検討は、数日で済んだ。

 概ねの点で合意に達したことを確認しあったサガとラダマンティスは、教皇の間で一息ついていた。

「ご苦労だったな、ラダマンティス。これで大方のところは済んだ」

「ああ。そちらの譲歩にも感謝する」

「お互いにな。後は、アテナにご確認いただくため、日本にまた連絡を取らねばならん。また二、三日かかるが、その間は聖域で待機していてもらえるな」

「もちろんだ」

 頷いて、ラダマンティスはふと思い出したような顔になった。

「双児宮のもてなしは偉く行き届いてるな。茶も非常に美味い。色々と気を使ってもらってすまんな」

「いや、気にするな。どれ、気に入ったなら、また運ばせよう」

 サガが、双児宮のナギに連絡して、茶の準備を言いつける。

 ほどなく茶を捧げて入って来た侍女の姿に、ラダマンティスは目をやった。

「……ナギか」

「はい、ラダマンティス様」

「俺のいない間、ミューのことで世話をかけた。丁寧な仕事ぶりで快適だったと言っていたぞ。お前にも礼を言わねばならん」

「滅相もございません。大切なお客様のお世話を任せていただいたものを、失礼などしては主の面目にも関りますから」

 にこ、と微笑んだナギの、よく言えば穏やかで落ち着いている、悪く言えば仮面のようで表情の読めない顔を、ラダマンティスはしげしげと眺めた。

「わりによくやっていたようだな。私からも褒めてやろう」

 サガが満足げに言葉をかけてやる。

「彼らはあと数日滞在することになった。よろしく頼んだぞ、手落ちのないようにな」

「はい、十分に」

「下がっていいぞ。まだカノンから言いつけられた仕事もあるのだろう。勤勉なのはよいが、身体を壊されては返って困ると言うものだ。健康管理をきちんとな」

「ありがとうございます。では、失礼します」

 ナギが茶を残して下がると、ラダマンティスはサガのほうに向き直った。

「……聖闘士ではないのだったな、あの娘は」

「うむ?ああ、そうだが。よく娘と解ったな」

「ミューが言っていたのだ。あれは、動物は種を問わずに即座に性別が解る性質でな」

「ほう……面白い目の持ち主だな。ま、蝶の性別が解るほどなら、人は言わずもがなかもしれんが」

「まあな。で、あの娘には、家族などはいないのか」

 ラダマンティスの質問に、サガは不思議そうな顔になった。

「?ああ、いないと聞いている。孤児だと当人が言ったからな」

「海皇ポセイドンの海底神殿にいたと言うのは本当か?」

「そんなことまで伝わっているのか」

 サガが軽く顔をしかめる。

「本当だ。しかし断わっておくが、海闘士ではなかった。カノンが小間使いに使っていたので、海底神殿の崩壊後に聖域に頼って来たのだ。弟はズボラで身の回りのことをせんし、私も忙しくて家事に手が回らんので、こうして置いている」

「なるほど。では、別段、親元から預かっていると言うわけではないのだな」

「ああ。巫女でも女官でもないのだから、ゆくゆくは身のふり方を決めてやらねばならんがな」

 つけ加えてから、サガは怪訝そうに眉を寄せた。

「あれがどうかしたか?何か不手際でもあったのなら、遠慮せずとも良い、言ってくれ。私からよく叱っておこう」

「いや、そうではない。係累がないなら、ちょうど良いかもしれんと思ってな。親があるのならば、お前に取り次いでもらおうかと思ったのだが」

「……?何をだ」

「うむ。実はな」

 ラダマンティスは、ふう、と一息おいて続けた。

「ミューがあの娘に惚れたそうだ。どうだろう、引き取らせてくれんか」

「………」

 サガは、たっぷり30秒硬直した。

「……今、何と」

「だからだな、ミューがあの娘を冥界に連れて帰りたいと言っているのだ」

「何を言っているのだ。冗談ではないぞ」

 今度はサガも間をおかずに返した。

「お前と言う男を見損なったわ。協定の締結祝いの引き出物ならば、もっとマシなものを選ぶがいい。確かに行き場のない娘だとは言ったが、人ひとり、欲しいからくれ、いらぬからやる、と気軽にやりとりできるか。馬鹿を言うな」

 不愉快そうな顔に、ラダマンティスが困った顔になる。

「いや……俺の言い方がまずかったのだな。このような問題は、慣れておらん」

「どのような問題だ」

「色恋沙汰、と言うことだ。もの扱いする気も奴隷扱いするつもりもない。ミューはあの娘と結婚したいと思っているのだ」

「……」

 サガは、再び絶句した。まさか、こんな話が持ち上がろうとは。

 唖然とした彼の目の前で、ラダマンティスはせっせと部下のPRをしている。

「俺が言うのもなんだが、ミューは悪い男ではないぞ。気性は優しいし、神経の細やかないい男だ。聖戦の済んだ今、これから先は戦うこともない。生涯の妻として大切にすると誓わせよう」

「……冥界で結婚生活でもさせようと言うのか?どうも、真っすぐには受け取りづらい話のように聞こえるが」

「冥闘士とて生身の人間、妻帯も禁じられてはおらん。俺たちが冥界で暮らしているのだ、その妻がいて悪いこともなかろう」

「それは……そうかもしれんが。あの娘はまだ15歳だぞ」

「婚儀は今すぐでなくともよい。ただ、婚約が整ったら、早く冥界に馴染ませるために、俺の手元に預からせて欲しいのだ。ミューは何年でも待つと言っていたが、16・7歳で嫁ぐ娘は国によってはそう珍しくないぞ。見たところ、年齢以上に落ち着いているようでもあるし、家事も十分以上にできるようだ。二、三年もしたら立派な妻としてやっていけるだろう」

「その辺は……まあ、その通りだが」

「頼む。ミューは苦楽を共にした部下だ、俺としても幸福になってもらいたい。それに、これがよい意味での前例になってくれればとの思いもある」

「何のためにだ?」

「俺は、冥界人として死界の秩序のために生涯を捧げようと決意してくれたものたちに、人としての幸せや安らぎの全てを放棄させたくはない。家庭を築くことを望むなら、場合によっては叶うのだ、と。そう考えさせてやりたいのだ」

「……うむ……」

 その気持ちは、サガも解らないではない。

 聖闘士とても生身の人間、女性の聖闘士もいるし、長い歴史の中で聖戦を越えた聖闘士の中には妻帯の前例もあり、家族もちもいる。

 現に、五老峰の老師が引き取って手元で育てたという少女は聖闘士になる予定など全くない普通の娘だし、老師の弟子のドラゴン紫龍とそこはかとなく将来を誓い合っていると言う噂もある。

 聖域でも、アイオリアと女聖闘士鷲座イーグルの魔鈴が淡い思いを寄せ合っているという話もあって、それについてはサガも微笑ましく見守っているくらいなのだ。

「冥界で暮らさせるのは不憫だと言うのなら、地上のハーデス城の付近で家を用意してもよい。それなら、子を産んで育てることもできるだろう。普通の生活とは幾らか違うかもしれんが、海底神殿にいたのならば馴染むのは難しくないのではないか」

 ラダマンティスは、真面目な顔でサガの顔を真っすぐに見た。

「どうだ。承知してくれんか」

「……」

 言う言葉に詰まったサガは、しばらく迷ってやっと口を開いた。

「今ここで返事はできん。あれは、カノンの小間使いだからな」

「そうか。では、カノンに直接申し込もう」

 その方が自分も楽だ、と言う顔で頷いたラダマンティスを、サガは咄嗟に止めた。

「待て」

 カノンの返事など、即座にノーだと知れている。

 ズボラのくせして使用人に好みのうるさいカノンがナギを非常に便利に思っているのはよく解っているし、何よりカノンにとってナギは、現状で海底を忍ぶことのできるただ一つのよすがだ。手放したくないのは引き取った際の経緯からしても明らかだ。

 しかし、カノンもそれは大っぴらに口には出来まいし、建前の理由として己のズボラを言い立てたらラダマンティスは納得できないと粘るだろう。

 気の短い二人のことでもあるし、ケンカした挙句にギャラクシアン・エクスプロージョンとグレイテスト・コーションの打ち合いにでもなられたら、かなわない。

 黄金聖闘士と冥闘士三巨頭の私闘で双児宮が全壊、などと言うことはとてもアテナに報告できないし、したくもない。

「カノンの小間使いとは言え、聖域に仕える侍女だ。しかも、あれをカノンに送ってよこしたのは、ポセイドンの海将軍の一人、海魔女セイレーンのソレントだ。それを冥界に嫁に出すか否か、という話では、私も聖域の責任者として知らぬではすまん。よく検討して返事をするから、少し時間をくれ」

「そうか」

 ラダマンティスが、あっさり頷く。

「では、ミューには今少し待つように伝えておこう。よろしく頼んだぞ。承知してもらえさえすれば、決して不幸にするようなことはないと俺が請け合う」

 力強く断言すると、ラダマンティスは肩の荷が下りたような顔で場を辞した。

 後に残ったサガは、相手の重荷を丸ごと己の背に移されたような気分で、密かに頭を抱えた。

 

 

061020 up

 

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