「イレギュラーの神様」

(21)

 

 

 宝瓶宮でアテナ神殿の爆発を見ていたカミュは、少し迷って石段を駆け上がっていった。

 ここまでの黄金聖闘士がことごとくやられたところを見ると、真っ向から戦ってナギ当人を止めるのは、命を賭しても難しい――――ならば、せめて。

 アテナの元でフリージングコフィンを張って、自らも共に盾となる以外にない。

 ただ上へ向かって走ると、途中の宮にいるシュラやアフロディーテも同じように考えたと見えて、魔羯宮も双魚宮も無人だった。

“アテナ。どうかご無事で”

 息を切らせて、半壊した教皇の間へ飛び込む。

「アテナ!」

「カミュ」

 半ば廃墟と化した建物の中に、アフロディーテとシュラ、カノンに囲まれて、沙織は毅然と立っていた。

 蒼ざめた顔を真直ぐに据えて、じっと十二宮の方を見つめている。

「ご苦労でした。こちらへ」

「はっ!」

 カミュは早足に沙織の側へ駆け寄った。アフロディーテが、黒バラを手に、引きつった笑みでそれを迎える。

「……どうやら、ペガサスの泣き落としは効かなかったようだな」

「知っている。……氷河の小宇宙も、消えたのだ」

 無表情に答えたカミュの横では、カミュの愛弟子と共に天秤宮で気配を断った紫龍を思ってか、シュラがぎりりと歯噛みをするのが聞こえた。

「……カノン。何なのだ、あの娘は?」

「知らん」

 双児宮で消えたサガの分身であるもう一人のジェミニは、短く返した。

「俺が知っているのは、あれに引導を渡すのは俺の役目だと言うことだけだ」

「……ほう。君、出来るつもりか?サガもやられたのだぞ」

「無駄口を叩くな。……来たぞ」

 カノンの視線を追うまでもなく、荒い足音を立ててやってきた襲撃者の小宇宙は、誰の目にも明らかだった。

「おいこらっ!凪っ!!止せっつってんだろっ!?」

 喚き散らす星矢を小脇に抱えて、その人影は教皇の間の入り口に立った。

「――――――アテナ」

 地底から湧きあがるような声だった。抑えようのない激怒が、目にも声にも漲っている。

「地獄行きの覚悟はできたか。――――貴様だけは許さん。八つ裂きにしてコキュートスへ叩き込んでやる。今度こそ」

 射殺してしまいそうな視線を、沙織が全身の力を込めて見返す。

「ついに、ここまで辿りつきましたね。……凪」

 沙織に呼ばれると、凪は低く笑った。

「まだ、その名を呼ぶか。まさか、しらばっくれるつもりでもないだろう?」

「ええ、今さら知らぬふりなどしません。私も、知っています……ただ。人間の城戸沙織として、何も知らずに、私はあなたに救われた。その皮肉を思うだけ」

「そうか。……ぼくが思うのは、それが何かの意味を持つのだとしたら、今ここで地獄を見せてやるためだったろう、ということだ。幾星相の月日を恨み抜いて過ごした日々の、結末として」

 凪が傍らに星矢を下ろして手をかざした。凝集する小宇宙に、黄金聖闘士たちがサッと沙織の前に出る。

「下がれ!アテナには、指一本触れさせん」

 一喝したシュラに、凪が張り付いたような微笑を向ける。

「変わらないな。いつの時も、ぼくが前に立つたびに、その女は人間を盾にした」

 凪の手が下がった。

「そしていつも、ぼくは人間を傷つけることが出来ずに後に退かされた。……天界の大神ジュピターの娘であるのをカサに来て、手前勝手に人々を道具として使う。貴様なんかのために、一人の人間の血も流される必要はないものを」

 下りた凪の手が、すうっと左右に広げられた。

「!!危ない、シュラ!!!避けろ!!」

 アフロディーテが叫んだが、遅かった。凪の手から放たれたエネルギーの塊はシュラに向かって飛び、彼にぶつかると同時に弾けて、シュラの身体を包み込んだ。

「う……っ!?」

 カミュは、目を見張った。

 ――――――――泡のような。シャボン玉のような。透明な球体の中に、シュラは浮かんでいた。

 姿は見えるが、小宇宙は全く感じ取れない。

「これ……は……?」

 アフロディーテは、手を伸ばして球体に触れた。

 弾力のある不思議な手触り。柔らかいが、決して破壊することの敵わないような強靭さだ。中ではシュラが内壁を叩いているが、しなやかな壁はただ、それを受け止めて跳ね返すばかりだった。

 シュラ、と繰り返した時、カミュが叫ぶのが聞こえた。

「わあっ!?」

「しまったっ……」

 続けざまに第二弾、三弾が放たれて、同じような球体がカミュとアフロディーテをそれぞれ包み込む。

 ぽっかりと宙に浮いた三人に、凪は今度は穏やかな声で言った。

「危険はありません。本来、それは傷ついた戦士の身体を癒すための技ですから。……誰から盗んだのでもない、ぼくのオリジナルの、たった一つの技です」

 ただ、どうやっても。ぼくが死ぬか解くかしなければ、出ることは出来ませんが―――

 静かに告げた凪を、ただ一人残ったカノンが見すえた。

「……そうか」

 彼の脳裏に、冥界から来たミューの言葉が甦る。

『泡であった、ような』

 朦朧とした意識の底で、仲間たちが泡に包まれて浮くのを見たと。そう言った――――

「お前だったのだな。冥闘士を一人も余すところなく救い、そしておそらくは海闘士たちの命も」

「はい。……アテナとポセイドンの戦いの折りに海底にあったように、聖戦の時にはハーデス城で。ぼくは、戦いが始まって終わるのを見ていました」

「戦士たちの命を守るためにか」

「そうです。……ポセイドンであろうと、ハーデスであろうと。神々の戦いなどに人々が巻き込まれて死んでよいわけがない。自分勝手に覇権を争う神のために地上に生きる人間たちの血が流される必要など、何もないのです。カノン様」

 凪の瞳は、哀しいほどに透明だった。

「ずっと、そう思って参りました。なぜ、人は神に裁かれねばならないのです?人間を、争うように創ったのはオリンポスの神々です。ぼくは、神の手から人を救うことはできても人々が互いに殺しあうのを止める力はない。生身で血を流し臓腑を裂いてもまだ、この手から人々の命は零れていく。ゼウスから地上を預かったと言うアテナが、なぜ、それを座して見ていることが出来るのか!!ぼくには、それが解らない」

「……知らん」

 カノンは、少女の姿をした目の前の不可解な存在を眺めつつ、言った。

 海底で共に過ごした時から、随分と多くのものが変わった。しかし、それでもなお、彼の目に映る凪は、身震いするほどに哀れで哀しい一人の寄る辺なき孤児に見えた。

「かつて神とは正しきものか、とお前は尋ねた。その時と同じように、俺には何も答えることができない。ただ俺は、アテナの命をお前に渡すわけにはいかんのだ」

 凪の瞳が哀しげに揺れ、右手が動いた。

 その瞬間。間髪入れずに、カノンはダッシュをかけていた。

「!?」

 驚きで、凪の反応が一瞬遅れた。体を包んでいく透明な壁を絡みつかせたまま、カノンが凪にタックルする。

「!しまっ……」

 球体の完成直前で、凪は壁を強引に破って振り払った。形のないエネルギーに返った破片が四散する。

「……これで、その技は使えまい。小宇宙を遮断する壁の中に、自ら篭るわけにはいかんだろうからな」

「……カノン様」

「そして。お前が俺を傷つけるのをよしとしない以上、接近戦ではお前に勝ち目はないと言うことだ。星矢との手合わせでお前が手傷を負ったことが、それを証明している」

 カノンは、凪の胸倉を掴んで持ち上げた。

「!!」

 凪が必死で防ごうとするが、機先を制されたのがまずかった。宙に釣り上げられて、足が浮いた。

 振りほどくこともできずに、彼女はもがいた。

「海底神殿で。お前は常に石の床に眠り、何と勧めても決して寝台に上がろうとしなかった。海底を歩くことには何の恐怖も見せなかったが、水中に泳ぐのをひどく嫌っていた」

 カノンが、確信を込めて言う。

「それこそが、お前が海底には下りても冥界へ行けなかった理由……なぜかは知らんが、お前の力の源は大地なのだ。地に身体をつけていなければ、その力は発揮できまい」

「……うう……っ」

 凪は、苦しげな息を吐き出した。

「案ずるな。俺も共に行ってやろう。お前の身体を破壊するためには、俺も命を使わねばならんだろうからな。たとえコキュートスの底へ落ちようとも、もう一人ではない」

 ふと。凪が、笑った。

「……あなたは。コキュートスの氷の冷たさを、ご存じないのです。カノン様」

 哀しみを通り越し、無表情になった声だった。

「千年を凍てつく氷の地獄に過ごして。それでも、ぼくは平気でした。……弟がいたからです。二人で励ましあい、慰めあい、全身を貫く痛みを耐え抜いて来ました。その弟も、今は、全ての記憶を失った残骸になってアテナのために戦わされています」

 凪の右手が、空をかく。

「……全てを忘れて、共にコキュートスへ落ちたいと思うのです。地上の地獄に比べれば、冥界の底も遥かにマシだった。あなた様と二人、また静かに苦しみに耐えてゆく日々ならば、決して不幸ではないでしょう」

 カノンが無言で小宇宙を燃焼させていく。

 壁際で尻もちをついたまま、星矢はそれを見ていた。……地面に足のつかないところで戦え、と瞬は言った。

 そしてカノンもまた、凪の力の源は大地だと。

 目の前で宙吊りになった凪が、何の力も出せずに無駄に手を動かしている。

「……凪」

 呟いたとき。何故だろう?何か……そう。自分もまた、大地に踏みしめた足から、不思議な力を吸収しているような気がした。

『……ウス!プロ……』

 大地。広大に広がる、母なる大地。豊かに命を育むエネルギーの中から、自分たちきょうだいは生まれた。

 人々の間で、限りなき大地の慈愛を分け与えるために――――

「……だめだ」

 星矢は、ふらりと立った。

「殺すなよ。……俺の、きょうだいだぜ」

 横から腕を掴まれて、カノンは振り返った。

「星矢!?」

 何を血迷っている、と叱りかけた声が途中で消えた。

 何かにとりつかれたような、星矢の表情。大きく見開かれた瞳は、透き通って輝いていた。

「カノン。……殺すな。あんたと一緒に死んでも、凪はコキュートスへは行けないぜ。ただずっと、ずっと一人で地上を歩き回るんだ。何度でも生まれ変わって、ただ人間に苦しめられるためだけに」

「星矢!」

 凪が、苦しい息の底から鋭く叫ぶ。

「やめるんだ!もう君は、ぼくの弟じゃない。眠ると、決めたんだろう!?目覚めるな!その必要は、ない!!」

「俺……一人で、逃げたんだよな。辛さに負けて、ゼウスの目論見通りになっちまった。お前が一人になるって、解ってて。一人ぼっちで俺の分まで苦しむんだって知ってて、残して眠った」

 つうっと涙が星矢の頬を伝った。腕を掴む力の強さに、カノンが思わず声を上げる。

「く……っ!星矢、どうしたと言うのだ!?何を言っている」

「やめろ、星矢!!正気に返れ!!」

 凪が叫ぶのを、星矢がぼんやりした目で見た。

「ごめんな……」

 呟いた少年の身体は、今や、凪と同じ異質の小宇宙に包まれていた。荒々しいエネルギーに、凪の身体がシンクロして行くのが解る。

 大きなうねりの中で、カノンは必死に押し流されまいと抗った。

「う……?」

 視界が、ぐらりと斜めに傾いていく。空間が歪んでいるのだ。

 仲間たちの姿も、目を一杯に開いて凝視している沙織も、遠のいていくようだ。

“……ダメだ……支え……きれ……な……”

 カノンが意識を手放しかけたとき。辛うじて爪先を地面に触れた凪が、力を込めて星矢の小宇宙を撥ね退けた。

「間違えるな、星矢!!君は人間なんだ―――――――!!」

 ばん、と何かが弾けた。膨張し続けていた星矢の小宇宙が、凪のそれに押されて、急速に押し戻されていく。

 凪は、ガッと星矢の肩を掴んで引き寄せた。

「意識の残滓に飲み込まれるな。日本にいる姉さんを思い出せ。一緒に生きてきた、瞬や紫龍のことを考えろ。君の兄弟は、彼らだ!!君の生きてきた14年の人生が、君の全てのはずだ!!」

 正気に返れ、星矢――――――

 絞り出すような凪の声が終わるのと同時に、ふっと星矢の身体が力を失い、凪の腕に倒れこんだ。

「星矢」

 少年を凪が抱きしめるのを目の前に見ながら、カノンは、自分もまた、張り詰めたものが崩れるように脱力し、体が傾くのを感じた。

「カノン!」

 不意に自分のそれとそっくりな声がして、カノンの身体が後ろから支えられた。

「……サガ!!」

 カノンは目を見張った。

 間違いない。鏡を見ているかのような、生き写しの瞳。双児宮で気配を絶ったはずの、サガだ。

「無事か?」

「あ、ああ……」

 まだ球体内部に閉じ込められたままの、アフロディーテやシュラの声もする。

「デスマスク!ミロにアイオリア、ムウたちまでか!?」

「氷河、紫龍。瞬も無事か」

「ええ。この通り、全員無傷です」

 普段通りの微笑みを浮かべて、ムウは言った。

「来る道すがらに、起こして拾って来ましたよ。デスマスクたちも、積尸気に三人揃うのを待って、自力で出てきていましたしね」

「何だ!初めから無事だったのか?なら、早くそうと言ってくれればよいのだ!!」

 アフロディーテが大喜びで球体の内壁を叩く。

「ええ。……彼女の真実の姿が解ってみれば、不思議でもありませんが」

 ムウは、一歩あゆみを進めて、星矢を抱きかかえて座り込んだままの凪を見下ろした。

「どこまでも哀しいことに。あなたは、自身が私たちに傷一つつけることも許したくなかったのですね。忘れられた神、滅びた一族の最後の王よ」

 カノンは、思わず振り返った。カミュとシュラ、アフロディーテも目を見張る。

「ムウ!何か知っているのか?その娘は、一体何なのだ!」

「はい。……シャカの見たものを聞き、瞬がハーデスの言葉を伝えたことで、全てが解りました」

 ムウが静かに目を閉じ、替わってシャカが前へ進み出た。

「処女宮での戦いの際、目覚める瞬間を私は見た。そこに居るのは、大地の女神ガイアの子たるティーターン神族の生き残りだ」

「……!!」

 カノンたちは、驚愕で目を見開いた。

「ティーターン……神族……だと?」

「そうです」

 今度は、瞬が痛ましげに目を伏せながら、後を引き取る。

「ゼウスが父クロノスを追った時に滅ぼされた、旧い神々……その中で、ゼウスに膝を屈して、人間のために生きる道を選んだ神がいたんです」

 カノンは、ごくりと唾を飲んだ。

 これでも聖闘士の端くれだ。神代の時代から語り継がれる伝説の大半は、暗記している。

 ――――――ゼウスに従って滅びを免れたティーターン。

 人々を愛しいとおしみ、時に天に背いてまでも人類を導こうとして、その故に過酷な刑に処されたという。その伝説は伝わっていながら、なぜか神殿ひとつ地上のどこにも存在しない異質の神。

「……プロメ……テウス、か……?」

「はい。――――人々を愛するがゆえに現世に残り、人々に尽くしすぎたかどで罪に問われた、ティーターン一族最後の王。プロメテウス、です」

 ムウは、厳かにそれを肯定した。

「……神話では、プロメテウスはヘラクレスによって処刑の鎖から解き放たれた、とありますが、後のことは何ひとつ語られてはいない。……地上にいたのですね。オリンポスの神々を憎みながら」

 長い長い間をおいて、俯いたまま、凪はかすかに頷いた。

「……ずっと、では、なかった」

 掠れた呟きが、沈黙の中にこぼれた。

「……ヘラクレスに解放されても、ゼウスは……ぼくと弟を、許しはしなかった。大地から力を得て人々に与えるぼくたちを、世界の秩序を乱す存在として追い、捕らえさせた。奴は……わざと地上を戦いの場に選んだんだ。ぼくたちが抵抗して争いが起これば人々が巻き込まれると、ゼウスは言った」

 声が震えた。

「ぼくも弟も、死人を出すよりはと、コキュートスへ落ちる道を選んだ。……5千年以上も、冷たい氷の中に閉じ込められてた。その間に、残っていた仲間たちも全てオリンポス神族の手に落ちた。……母ガイアが意思なき大地の摂理となったように、全員が身体を殺されて、意識を解体された。水や風、火山や嵐……意思を分解されて、力だけがオリンポスの神々の意のままに動く単なるシステムとして、世界の秩序の中に組み込まれたんだ。……ぼくたちだけが、後に残った」

 凪の瞳に、涙が滲んで零れた。

「……氷漬けのまま、数千年が過ぎたころになって。コキュートスのぼくたちに、アテナから使者が来た。真実、人間を愛していると言うのなら。地上で人間たちに混じって転生を繰り返して生きてみろ、と言う命令だった……ぼくたちは、喜んで受け入れた。それが、ぼくたちを屈服させるための罠だったんだ!」

 星矢を抱きしめている腕に、激情で力がこもるのが解った。

「ゼウスは、ハーデスと相談の上で、ぼくたちを一人ずつ別々に転生させて、人間たちの業を一身に負う役目を課したんだ。……世界中を彷徨いながら、ありとあらゆる苦痛を味わい、ありとあらゆる罪を見るように、と」

 声に絶望が滲み、空気を重く震わせた。

「売られて。犯されて。焼かれて。生きたまま獣の餌にされて、死んでまた血みどろの戦場に生まれ変わって。人間がどれほど残酷になれるか、どれほど邪悪になれるか、繰り返し見せつけられた。……エピメテウスは、千年もたなかったよ。愛したはずの、慈しんだはずの人間たちに拷問されて殺される、その苦しみに。……優しい子だったから、耐えられなかった」

 凪は、片手で顔を覆った。

「地上へ転生して数百年の後、ローマの奴隷市場で、ぼくたちは再会した。……酷い折檻を受けたために血まみれで、全身を火傷と鞭の痕だらけにして、彼は、ぼくに縋りついてきた。それで……殺してくれ、と言ったんだ……コキュートスの底で何千年を過ごして、一言の弱音も吐かなかった彼が。もう楽になりたい、死なせてくれと言われて、ぼくは拒むことができなかった」

「……」 

 何かを言えるものは、誰もいなかった。聖闘士たちはただ、息を詰めて、神ならぬ神の語る太古の物語を聞いていた。

「この手で彼の身体を壊し、魂を粉々に砕いて散らした。……ぼくは、ティーターン最後の一人になった。一人で人間の身体で地上を彷徨い歩いて、また何千年もの時間が過ぎた。何度生まれても、苦しみ抜いた末に非業の死を遂げる運命と一緒に転生を続けて、いつか、自分の素性も思い出せなくなってた。……今生も、アテナに会いさえしなければ。何も知らずに死んでいけたはずだったんだ」

 凪の悲痛な瞳が腕の中で眠る星矢を見下ろし、細い手が頬に触れた。

「エピメテウスが。こんな姿になってまで、自分を追い詰めて死なせた仇のために血みどろで戦ってる、なんてことも。知らずに、すんだ」

「え……」

 ざわ、と皆の間に動揺が走る。

「……では、星矢が!?」

「ティーターンの転生だと言うのか!」

「そうです。……全部じゃ、ないけど」

 瞬が小さく頷く。

「凪がバラバラにした彼の魂は、ほんの少しずつ、世界中の人間に吸収されて同化した。……その中の一番大きなかけらが、星矢の中にあるんだ。それで、星矢が全力で小宇宙を燃やした時には、その欠片が力を貸してくれた。だから、これまでの戦いでいつも星矢は奇跡を呼ぶことができたんだよ」

 言った瞬の瞳にも、涙が浮かんでいた。

「でも、それだって、記憶も意識もないくらいの小さな破片でしかない……星矢は、凪の弟じゃない。エピメテウスじゃ、ないんだ。……凪は、一人ぼっちの神さまだったんだよね……」

 ぽと、と床に雫が落ちる。

 凪は、瞬に背を向けて、苦悩に満ちた表情で沙織を見た。

「……“沙織お嬢さま”、ぼくが城戸邸の庭で、あんたに言ったことを覚えてるか?」

「ええ。……戦いがしたいのなら、他人を使わずに己の手だけで、と」

 沙織が頷く。

「幾度も幾度も、会うたびに。あなたは、私にそれを言ってきたのですね。何千年もの間」

 彼女は強いて顔を上げ、ともすれば俯きたくなる衝動に耐えて、真直ぐに凪を見つめた。

 思えば。あの小さな庭は、神代の昔に繰り広げられた葛藤の構図を、そのまま凝縮していたようなものだった。

 地上に降臨したアテナの化身である沙織。プロメテウスの転生の、凪。その弟である、エピメテウスの一片を宿した少年までも、そこにいた。

「……これが。私たちの運命であるとでも、言うのでしょうか」

 ―――――今生で初めて、彼女たちは共に育てられ。

 そして、何も知らぬ二人の少女として向かい合ってなお、2人の存在と関係は変わらなかったのだ。

「このアテナが、アテナである限り」

 過ち多き人々の中、血にまみれて戦う戦場の女神と。

「……そして、ぼくがぼく自身である限り」

 全ての人々を愛し慈しみ、己が地獄に落ちても平和を、と願った神ならぬ神と。

「決して、相容れない。ポセイドンともハーデスとも、他のいかなる神々とも。ぼくは」

 ゆっくりと顔をあげた凪の顔は、悲痛な諦めに満ちていた。

「……カノン様、どうか。彼は既に人間であり、アテナの聖闘士です」

 星矢の身体が、かつての主に差し出される。カノンが受け取るのを確認して、凪は聖闘士たちから数歩離れた。

「さあ、女神アテナ。今生も、あなたの勝ちだ」

 手を下ろして、無防備に立つ。

「聖闘士たちに命じるといい。この身体を切り刻め、と。……そんなことに何も意味などないし、恐ろしいとも思わない。ぼくはまた生まれ変わる。人間たちに弄られて死ぬために……それでも」

 凪の唇の端に、歪んだ微笑が浮かんだ。

「ぼくは。自ら消滅を望みはしないし、人間たちに愛想をつかすこともない。それだけが、ぼくの意地であり、一族全てを滅びに追いやった無力なティターンの王の最後の誇りだ」

「……凪」

 しばしの間をおいて答えた沙織の声は、やっとのことで絞り出したと解るほどに掠れていた。

「できません。……私が、何のためにあなたを目覚めさせたか。それには、まだ気づいていませんか」

「?」

 凪の眉が、片方上がる。

「さあ?……ぼくは、人に愛されることを禁じられた存在だと。それを思い出させるためだとでも言えばいいのかな」

「そんなことではありません。……ポセイドンから、連絡を受けたのです。行方知れずであったプロメテウスが海底を経て聖域にいる、と」

 凪が、ふーんと気のない声を立てる。

「気づいてたのか?あの寝ぼすけの小僧が」

「悟ったのは神殿崩壊の折りだとのことでした。彼の力及ばず、気を失って海水に飲まれた海闘士たちが何ものかの異質な小宇宙に守られて上へ向かうのを、封印の隙から垣間見たと。戦いを控えて、一人の死者も出さぬよう、あなたはじっと身を潜めて見張っていたのですね」

「洪水が起きた辺りで、嫌な予感はしてたからな。野郎の本拠地から見張るのが一番効率がいいと思って。ま、その辺は、戦争を始めた当事者の片割れに何を言われるのもごめんだ。タコ壷で隠居中のポセイドンがあんたに何をさせたくて、今さらそんな連絡を入れてきたのか。それを聞かせてくれないか」

 耳をほじりながら言い返した凪の前で、沙織は、一呼吸入れて大きく息を吸い込んだ。

「大地母神、ガイアの意思が。動き出したことを、知らせるためです」

 凪の動きが止まった。

「……ガイアの意思だって?冗談だろう。彼女は、貴様らオリンポスの神々に葬られて、すでにない。残された力は、大地の摂理として機械的に回っているだけだ」

「そうです。ある意味では彼女であり、ある意味では既に彼女ではない……星矢が名残を留めようとも、エピメテウスではないように」

「……残留思念、か……解体された後の破片が時を経て融合し、大地を動かすほどの意思を持ったと?」

「ええ。……そして、形を成した“彼女”の望みは。……滅ぼすこと、です。眠り続けていた数千年の間に、大地を削り砕き、汚水を流して冒涜した人間たちを」

「……割合としては1パーセントに満たないだろうな。貴様らがあれほど念入りに砕いたんだ。どんな偶然が重なったとしても、ガイアと呼ぶに相応しいほどの復元が起きるとは思えない」

 凪が、表情を消して沙織を見返す。

「だが、それだけに。ただ大地のエネルギーの迸りになったら、明確な意思に制御されることのない単純な力の塊は暴走するだけだ。……1パーセントでも、大陸ひとつの形を変えて釣りが来るくらいにはなるだろう。異常気象の余波は世界中に及び、結果、数千万の人間が死ぬことになる」

 淡々と抑えた声で言った凪の言葉に、聖闘士たちは息を飲んだ。沙織が痛ましげに瞠目する。

「その通りです。……私にもポセイドンにも、オリンポスに属するいかなる神にも、それを阻む力はありません。ガイアは、この大地そのものなのですから……けれど。彼女の子であり同属であり、今もなお大地から力をうるティターン、なら」

「彼女とシンクロして鎮め、再び眠らせることができるかも、と。なるほどな、現存する生粋のティターンは確実にぼく一人だからな。星矢には戦闘時の破壊力として爆発させることはできても、意識して器用に操るまでは難しいだろうし」

 凪がバッと動き、沙織の胸倉を掴んだ。

「それで貴様は。部下の聖闘士たちの命を呼び水にして、ぼくを叩き起こそうと考えたんだな。半覚醒のぼくが暴れたら、彼らが残らず討ち死にする可能性も承知の上で!相も変わらずの外道ぶりだな、この腐れ小娘!!」

「凪っ!」

 瞬が、しがみつくように引き戻す。

「よして。……お願いだから」

 踏みとどまって瞬を見た凪の視線が、他の聖闘士たちを一人ずつ眺め渡していく。サガもムウもシャカも、誰もがしっかりとそれを受け止めた。

「……プロメテウスよ。人々への慈愛と永きの尽力には、感謝する……しかし、我々は」

 サガの重みと深みを含んだ声が、ゆっくりと響く。

「アテナに利用されたのでも運命にただ翻弄された被害者でもないつもりだ。少なくとも、この度の戦いは。12宮の黄金聖闘士から青銅の少年たちまで、ここにいる全員が、自らの意思で選び、参加したのだ」

 答えない凪に、サガは更に重ねた。

「そして今、やはり自らの意思で言おう。我らアテナの聖闘士は、地上を守るために存在する。ガイアを鎮めて頂きたい。アテナのお命は差し上げられんが、他の願いはいかなるものでも叶えよう」

「……他に欲しいものなどありませんよ、サガ様」

 ややあって、沙織の服から手を離した凪は、気だるげに髪をかき上げた。

「だが」

「それに。ガイアの件は、こちらがアテナに借りを作ったと思う話です。ここで死んでいたら、転生までには数十日かかる……その間に死人が出ていたら、また自分を許せないと思う理由が増えていました」

 サガは、目を見張った。

「では」

「いったん聖域の外へ出て瞑想に入ります。ここではアテナの小宇宙に阻まれて、ガイアとシンクロできない。中心地が解ったら、そこへ行って何とかしましょう。人々のために」

 くるっと背を向けた凪を、沙織が慌てて引き止める。

「凪。戦いの後で、しかも目覚めたばかりなのですよ?せめて数時間の休養を」

「結構。……あんたのそう言うところが、ぼくは嫌いなんだ。一時間遅れれば、一時間分、傷つく人が増える。それを考えずに口をきくなら、ぼくの居ないところでやってくれ。またあんたを殺したくなるからな」

 凪は、振り向かずに12宮を下り始めた。

「アテナ」

 カノンが沙織の前に膝をつく。

「あれの見張りにつくことをお命じ頂けませんか」

「……許しましょう」

 沙織が言葉を与える。カノンはもう一度深く頭を下げて、小間使いの後を追って走り出した。

 

 

070521 up

 

 

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