「イレギュラーの神様」

(2)

 

 

 サガとカノンの暮らす双児宮で、ムウはサガを待ちながらじっと客を観察していた。

“何なんでしょうね……どう見ても、戦士には見えませんが”

 目の前には、ひどく華奢な、一人の少年。

 年の頃は、沙織より少し上、15、6と言うところだろう。日本か中国の出身だろうか、東洋系の顔立ちはそこそこ整っている。黒い目はやたらと静かで穏やかで、少しの戦意も攻撃性もない。

 いや、一見無害そうというだけなら自分だって人並み以上に大人しげに見えるらしいし、沙織の幼馴染みである青銅の一人、アンドロメダの瞬だってひどく優しい顔をして、その実中々の爆弾であるのは知っている。

 しかし、性格はともかく。この少年には、まず何よりも小宇宙がない。これでは、仮に戦おうとしたところで、何もできはしないだろう。

“セイレーンの書状を持っている、と言っていましたが。ひょっとすると、単なる使いっ走りかもしれませんねえ。この分では”

 まあ、たとえそうであっても、書状の内容が問題なのに変わりはない。

 海皇ポセイドンの復活と、それに伴う世界中での大洪水は、まだ記憶に新しい。

 覚醒して本格的に海底神殿に居を移したポセイドンはアテナにもコナをかけてきて、その辺りからは聖域も巻き込まれた。

 ポセイドンの依り代であるジュリアン・ソロに、

『汚れきった人間たちを滅ぼして一緒に世界を支配しませんか』

と勧誘されて蹴飛ばした沙織は、生来の鉄砲玉気質を発揮して単身で海底神殿に乗り込み、神殿中央の柱の中に閉じ込められて、人身御供として世界中に降る分の雨を一身に受ける羽目になった。

 その時、聖域は、ちょうどサガの乱が終わって冥王ハーデスを警戒し始めた頃。

 よって聖域を動けない黄金聖闘士に代わってまたまた青銅の少年たちが出動することになり、彼らはまだ傷の治っていない身体を引きずって、死に物狂いで戦いまくった。

 聖域の守りを固めるムウにできたのは、先だっての戦いでぶっ壊れた聖衣を治してやることと老師から借りた武器を届けてやることくらいで、このときばかりは黄金聖闘士たちも進んで献血してくれた。

 その甲斐あって、沙織の閉じ込められたメイン・ブレドウィナを囲む7本の柱は次々と破壊され、沙織は救い出されてポセイドンは再び封印されたのだが、その際、カノンがポセイドンを利用して世界征服を企んだことも、明るみに出た。

 兄貴は内部から聖域のっとり、弟は海から地上のっとりと、つくづく傍迷惑な兄弟だと思わずにはいられなかったが、サガは人格が元に戻ると罪を悔いて自害、カノンは海底でアテナを庇ってその身に矛を受けた上に聖戦の際は聖域にやってきて罪滅ぼしに丸腰でミロのスカーレットニードルをもらったことは、聖闘士全員が知っている。

 その後は、彼らがいなければハーデスとの聖戦は勝てなかったろうと言うくらいに二人とも身を粉にして戦ってくれ、戦後は他の皆と同じく甦って、今はもう二人を疑うものは聖域には誰もいない。

 まあ、元から互いにちょっと歪んだ愛情表現の兄弟であると見えてときどき双児宮では互いに必殺技を炸裂させているらしい爆音が聞こえているが、それも彼らに限ったことでもない。シュラとアフロディーテとか、乙女座バルゴのシャカと獅子座レオのアイオリアとか、つまらない理由でひっきりなしに千日戦争を起こしかけている黄金聖闘士なら他にもいるから、みな、自分が巻き込まれない限りは無視するのが常だった。

“久しぶりに、ちょっと大事ですね。まあ、セイレーンのソレントと言うと、瞬の話では最後には柱を砕くのに協力してくれた海闘士だそうですから、そう不穏な話ではないかもしれませんが”

 戦いにならないといいが、と祈ったムウは、ふと宮の外にサガの気配を感じて、立ち上がった。

「おや。カノンが来たようですよ」

「そうですか!」

 少年も顔を上げた。

「ええ。気配で解らないんですか?」

 ムウの言葉に、少年が困ったような笑みを見せる。

「海闘士の方々なら、解るのかもしれませんね。ソレント様とか……ぼくは、そういった感覚を持ってないんです」

「そうですか。ちょっと待っていて下さい、すぐに呼んで来ますよ」

 そう言って、ムウは外へ出た。

「ムウ」

 サガが、冷静な目で声をひそめる。

「どうなのだ?客の様子は」

「さあ……本当に、全く普通の少年のように見えますが。ただ、届けものを頼まれただけなのではないですかね」

「そうか。お前にそう見えるなら、そうなのかもしれんな。これがミロ辺りだと、信用も出来んのだが」

「疑うことを知らない男ですからね、あれは。そこが扱いやすいとも言えるんですが」

 しゃらっと酷いことを言い、ムウは苦笑した。

「時に、本物のカノンはどうしたんです」

「ああ。町に使いにやった。まだしばらくは戻らんだろう」

「……仮にも黄金聖闘士が、使いっ走りですか……その点、海闘士の方がきちんとしてるような気もしますね」

「どうでもよかろう。あれは、町に出る機会を喜んでいるぞ」

「はいはい。では、私はここで見張りをしていますよ」

「ああ。頼んだぞ」

 そう言って、サガはムウを残して中へ入った。

 客の待たされている部屋へ入ると、一人の少年がサッと立ち上がるのが見えた。

 もちろん見覚えはないが、サガは至極普通の調子で声をかけた。

「遠いところをご苦労。待たせてすまなかったな」

 さて、ここからが正念場だ。大方、この少年はカノンの顔見知りなのだろう。ばれないようにカノンのふりをして、巧く話を聞き出さなければならない。

 難しい話だが、自信はあった。サガとカノンは、顔、声、体格から小宇宙の質に至るまでのそっくり兄弟だ。後は態度と言葉づかいだが、それだってカノンのものなら熟知している。

「で、用件は何なのだ?ソレントからだそうだな。何かあったのか?」

 無造作に言ったサガを、少年はしばしじっと見つめた。

「どうした。あいつから書状を預かってきてるんだろう。出してくれ」

「……あの。失礼ですが、どなたでいらっしゃいますか」

 少年がようやく言った言葉に、サガは思わず眉を寄せた。

“……まさか”

 見分けがついたとでも言うのだろうか。そんなはずはない。

 今だって、サガとカノンがわざと互いのふりをしている時に100%見分けられる人間など、聖域にもほとんどいないのだ。その気になれば、生みの親でも前教皇でも誤魔化せる自信はある。

 サガは、演技を続けることに決めて、ことさらに怪訝そうな顔をして見せた。

「おい、ふざけるのはやめろ。俺の顔を忘れたとでも言うのか?わざわざ訪ねてきておきながら」

「……いえ。あの……ぼくが訪ねてきたのは、シードラゴン様なのですが……」

 少年は、困ったような口調で、しかし一片の疑念もない様子で言い切って、ふと何かを思い出したような顔になった。

「……ああ。そう言えば、似ていらっしゃるかも……ひょっとして、あなたはジェミニのサガ様ですか?シードラゴン様の兄上様の。ソレント様からお聞きしています」

 慌てて、頭を下げてくる。

「失礼しました!双児宮に用があると申し上げたので、アリエス様がジェミニの聖闘士の方をお呼び下さったんですね。あ、ぼくはナギと言います。海将軍筆頭、シードラゴンのカノン様に、海底神殿でお仕えしていたものですが」

「……だから、それは俺だろう。ついでにお前の名前も、今さら聞かんでも知ってるが」

 サガは、頭痛を堪えるような顔を少年に見せた。

「確かに、双子の兄貴はいるがな。よりによって海底神殿のころの知り合いに、そこまでしつこく間違われると嬉しくないわ。いい加減にして、本題に入れ」

 苛立ちを込めて言ってやると、少年は、一瞬口をつぐんだ。

 そして、軽くため息をついた。

「……失礼いたしました。カノン様」

「全くな。お前、兄貴に会ったこともないくせに何考えてるんだ。そんなに変わったか、俺は」

「いえ。別に、何もお変わりはありません。ぼくの思い違いでした。申し訳ありませんでした」

 素直に詫びた少年に、サガは内心でホッと息をついた。

 どうやら、幾分の違和感を感じていたものらしい。しかし、海底とは環境が変わったのだから、雰囲気が違ってもおかしくない、と思い直したのだろう。一時はちょっとやばいかと思ったが、予定通りにいけそうだ。

「で。納得したなら、書状とやらを出せ」

「はい。こちらです」

 小さな手荷物から、ナギと言う少年は、ごそごそと手紙を出した

 受け取って、サガはちょっと眉根を寄せた。

 封筒の表に書かれた文字は、『紹介状』と読めた。

「海底神殿にアテナの聖闘士が来た後の崩壊の折りのことは、ご存知の通りですが。ぼくも運良く浜辺に打ち上げられまして、死ななかったのはいいんですが、身よりもないし、行くところもありませんし……」

 ナギと言う少年が、何やら身の上話に入る。

「とりあえず、その日暮らしをしながら旅をしていて、海皇ポセイドン、今はジュリアン・ソロ様ですが、セイレーンのソレント様と一緒に旅行中のところにお会いしたんです」

「ほう」

「それで、海底神殿と同じように下働きとして使って頂けないか、と申し上げたところ、ソレント様はひどくお困りで」

 ナギが幾分沈んだ顔になるのを、サガはフンフンと聞いていた。

「ソレント様の言うには、ジュリアン様はもう海皇ポセイドンの記憶は全くないのだから、海底神殿のころの使用人がいるのはありがたくない、と仰るのです」

「ふむ。確かにそうかもしれんなあ」

「ジュリアン様は何も知らないものですから、いてもいいとは言って下さったのですが、居座ったらソレント様にご迷惑をかけそうで。仕方なくご挨拶だけでお別れしたのですが、ソレント様が追いかけて来て下さいまして。シードラゴン様がギリシャ聖域のアテナ神殿にいるから訪ねてみろ、と」

「ああ。なるほどな」

「ぼくは元々、シードラゴン様付きの召使です。もう一度使って頂けるなら、それ以上のことはありません。こう言うのもなんですが、シードラゴン様のことなら、食べ物の好みも身の回りのことも十分に飲み込んでいると思います。そう申し上げたら、ソレント様が紹介状を書いて下さいました」

「なるほど」

 サガは、チラッと手元の封筒に目を落とした。

 何の用かと思ったら、どうやら本気で紹介状か。しかし、どうしたものか……カノンの昔の召使とは。

 考え込んだサガに、ナギが縋るような目を向ける。

「もちろん、シードラゴン様も今はアテナの聖闘士。無理は承知の上ですが、せめて一目お会いするだけでも、と思って、こうしてやって参りました次第です。いかがでしょうか、少しの間だけでも、置いて下さるわけには行きませんでしょうか」

「ん……気持ちはありがたいが。俺は今、ここで兄貴と暮らしてる身だからな……特に身の回りのことに不自由がある訳でもないし」

 途端に、ナギが必死の顔になる。

「2、3日でも、いいんです。ええと、お兄様でいらっしゃると言うサガ様にもぜひ、一度お目にかかれないかと」

「兄貴にか?何のためにだ。さっきもだが、ナギ、お前、一体なんでそんなに兄貴に拘るんだ?」

 サガは、目を細めた。

「兄貴は今、教皇代理だ。まさかお前、ソレントの奴から何か兄貴に内緒の話でも言いつかってるんじゃないだろうな」

「と、とんでもない。ええと……つまりその……」

 ヘドモドしたナギが口ごもったとき、外から、ことさらにわざとらしく、ムウの声が聞こえた。

「あ、サガ!」

 どうやらカノンが帰って来たと見える。既にテレパシーで事情を説明したらしいムウは、口ではあくまでも芝居を続けた。

「中は今、カノンの客が来てますよ。海底神殿のころの知り合いだと言うから、邪魔するのも気の毒でしょう。私はもう帰るところですから、白羊宮でお茶でもどうです」

「そうか。ならば、頼むとしよう」

 カノンも承知したらしく、サガっぽい静かな口調で答えている。

 それを確認したサガが向き直って更に問い詰めようとしたとき、ナギが立ち上がった。

「シードラゴン様!!」

 ナギは、そのまま、だっと戸口を飛び出した。一瞬、不意をつかれて動きを止めたサガは、慌てて後を追った。

 自分も宮へ出たサガは、驚きに振り返った二人の前で、ナギが膝をついているのを見た。

「お久しぶりです、シードラゴン様!!」

 嬉しそうに弾んだ声で言ったナギを、カノンとムウが眺めている。

「……あの。失礼ですけどね、カノンはあなたの後ろです」

 ムウが、呆れ声で突っ込む。

「今まで話してたんじゃないんですか?これは、カノンの双子の兄の、サガですよ」

 笑顔で人を騙せる男、ムウの会心の演技。ミロ辺りなら一発だ。いや、悪知恵では人に譲らない蟹座キャンサーのデスマスクあたりでも騙せたろう、とサガが思ったとき。

 ナギが、初めて力のこもった目になって、真っすぐにカノンを見つめた。

「いいえ。あなたがシードラゴン様です」

 沈黙が下りた。

「……これはまた……誰か知らんが、偉く強情なことだな。カノンの客か?」

「ああ」

 サガが、少年の後ろから、苛ついた調子で会話に加わる。

「兄貴、何とか言ってやってくれ。どうしても俺が俺に見えんらしいのだ、こいつは」

「そうか。おい、そろそろ間違いを認めてやらんと、後ろの男が気の毒だぞ」

 カノンが、これも見事になり切ったまま、演技を続ける。

「弟は、私と間違われるのが好きではないのだ。私も弟の機嫌を損ねて後で気まずくなるのは困るぞ。そら、今もひどくうんざりした顔をしているではないか」

 穏やかさの中に苦笑を込めた表情は、まさにサガそのもの。ムウでさえ、一瞬、自分の横にいるのは本当はサガなのではないかと思った。

 だが。小宇宙の欠片もない華奢な少年は、ニッコリと満面の笑みを浮かべた。

「では。ぼくは今、随分とあなたに喜んで頂いているのでしょうね?シードラゴン様」

「……」

 何と言っていいか解らない黄金聖闘士たちと、尻尾を振っているような様子でカノンを見上げるナギ。

「シードラゴン様。突然お訪ねしたご無礼はお詫びします。どうか、ご挨拶をさせていただけませんか」

 ややあって。

 真っ先に演技を放棄したのは、やはりカノンだった。

「……もういい、俺の負けだ。確かに久しぶりだな、ナギ。元気だったか」

「はい!シードラゴン様も、お元気そうで何よりです」

 ナギが、本物の主に向かって、力いっぱい頷く。

「元気は元気だ。しかしお前、兄貴と俺の見分けがつくのか?聖闘士でも海闘士でもないくせして、相変わらず妙なことにだけ鋭い奴だ」

「カノン……もう少し粘ってもよかったんじゃないですかね」

 ムウが顔をしかめたが、サガは軽くため息をついて、割って入った。

「いや。初めからバレていた。……ナギとやら、お前、本当は間違えはしなかったのだな。一度も」

 後ろから掛かった声の口調に、ナギがちょっと振り返る。

「はあ、その」

「私がしつこいのに根負けして、騙されたふりをしてくれたというわけか。親切なことだな」

「いえ、ただ……冗談にしては言い張られるな、と思ったものですから。海底神殿と聖域はかつての敵同士、疑われても仕方ありませんし」

 結構いい性格らしく、悪びれずに言って、ナギは頭を掻いた。

「シードラゴン様がこちらで暮らしておられるならどっちみちサガ様のお許しは頂かねばならないのだから、先にお話をさせていだだいてもいいだろう、と。ただ、シードラゴン様にお会いする前に追い返されるのだけは嫌だったもので」

「度胸がいいのも変わらんな。ま、とりあえず、歓迎してやるか。よく来たな」

 カノンが、ふと苦笑を浮かべた。

 その寛いだ表情に、サガはハッとした。

「兄貴、俺が海底神殿で使ってた小間使いだ」

 笑顔のまま、カノンがサガのほうを見る。

「雑用専門で海闘士じゃないし、敵でないのは保証する。改めて中で話を聞いてやりたいんだが、いいか?」

「……ああ、仕方あるまい」

「よし。あ、もちろん兄貴とムウも一緒で構わんぞ。茶でも飲みながら、話すとしよう」

 珍しいセリフにムウが驚く間もなく、カノンはナギに向かって続けた。

「と言うわけで、淹れてこい。厨房はそっちだ」

「って……いきなり使うんですか。客でしょう、仮にも」

「おい、カノン」

「いいのだ。用件はともかく、ソレントがこれをよこしたと言うんなら、使わなきゃ返って悪いくらいのもんだ。ほれ、行け」

「はい!あ、これ、ソレント様からです」

 ナギが、いそいそと小さな包みを取り出す。

「マツリカ茶です。シードラゴン様のお好きなブレンドで」

「お、気が利くな。よし、早く淹れてこい。四人分だぞ」

「かしこまりました!」

 厨房へダッシュしていくナギと満面の笑みで見送るカノンを、サガとムウはしばし無言で眺めていた。

 

 10分後。サガとカノン、ムウの三人は、双児宮の中で茶を啜っていた。

「どうだ?美味いだろう。こいつの淹れた茶は疲れが取れるんだ」

 自慢げに言うカノンの横で、ナギは立ったまま、給仕のスタイルに入っている。

「確かにいけますね……どうやって淹れてるんです、これ」

 湯飲みを手に、ムウは素直に感心した声を出した。

 自分も家事は人並み以上だが、とてもこんな味は出ない。

「特別な葉なんですか」

「ええ。これは、お湯の温度が難しいんです。甘味の成分が、非常に限られた温度域でないと溶けないので」

 ナギがニコニコと解説するのに、カノンが上機嫌で頷く。

「海底では、会議のお茶汲み係はいつもお前だったからな。終いには、バイアンなんか、自室にまで出前させてただろう」

「はい。スキュラのイオ様も、クリュサオルのクリシュナ様も気楽に頼んで下さいました」

 嬉しそうに語るナギの顔を、サガとムウは幾分複雑な思いで眺めた。

 カノンの説明も、結局回し読みした紹介状の内容も、先にサガの聞いた通りだった。

 曰く。

 このナギと言う少年は、海闘士でも戦士でもなく、ただ海底神殿で下働きをしていたのだと言う。

 海底神殿に集まってきた海闘士の一人が召使として連れて来て、それからカノン付きの雑用係になり、お茶汲みから始まって、掃除洗濯、食事の用意にマッサージと何でもやって働いて二年あまり。

 ポセイドンの覚醒に続いてギリシャのアテナ神殿との戦いが勃発し、戦いの時は神殿の奥で震えていたが、ポセイドンが封印されて神殿が崩れる時に波に飲まれ、辛うじて生きて陸地に打ち上げられて、それからは、ソレントとジュリアン・ソロに再会するまでフラフラと放浪生活をしていたそうなのだ。

「……故郷はどこなのだ?身内はいないのか」

「おりません。一応、一番長く暮らしたのは、日本ですが」

 ナギが、サガの問いに静かに答える。

「孤児だったので、親を知らないのです。日本の施設で育って、7つの時にアジアの小国に送り出されたのですが。色々とありまして、その後は人の手から手へと売られる生活でした。12の時に買われた相手が海闘士で、その方と一緒に海底神殿に来たんです」

「……」

 何とも幸薄い生い立ちだ。

 ムウとサガはちょっと黙ったが、本人はさほどの悲壮感もない顔でつけ加えた。

「で。海底神殿へ来たときシードラゴン様が専属の召使にすると仰って買い上げて下さいました。ですから、現在の所有権はシードラゴン様にあるわけですが」

「……」

 サガが無言で弟を睨みつけ、カノンが鬱陶しそうに視線をそらす。

「あー。所有権とか言う話はやめておけ。うちの兄貴は堅物でな」

「……そういう問題ではないわ!」

 サガが一喝する。

「やるに事欠いて、人身売買とは何事だ、馬鹿者!!全く、海底で何をしていたかと思えば……!!」

 怒りに震えるサガを、ムウが宥める。

「まあまあまあ。こうして慕って訪ねて来るくらいですし、扱いが悪かったわけではなかったのでしょう」

「はい。大変ご親切にして下さいました。人にお仕えするのがあれほど楽しかったのは、後にも先にもあの二年だけで」

 ナギが即座に頷き、カノンが「う」と照れ臭そうなばつの悪い顔になって、またそっぽを向く。

「意外にいい人ですよね……あなた。で、問題は、これからどうするか、ですよ」

「だから。ここにおいとけばいいだろう、役に立つぞ」

 しらっと言ったカノンに、サガの額の青筋が増す。

「冗談ではない!」

「どうしてだ?聖域にも、聖闘士でない下働きがいないわけじゃあるまい。双児宮にいたって不思議じゃないだろう。サガ、お前、俺が家事をやらんと言ってこぼしてたじゃないか。ちょうどいい、これで解決だ。俺の分はこれがやる」

 ぴっ、とナギを指差したカノンに、無言でサガがゲンコツを一発いれる。

「いたっ!何するんだ!!」

「何ではないわ!貴様、どこまで怠け者なのだ!」

 そっくりな顔で怒鳴りあう二人を微笑ましそうに眺めるナギから視線を外し、ムウは、もう一度ソレントの紹介状に目を通していった。

「……なるほどねえ……」

 考えながら呟いたムウを遮るように、ひときわ高く、サガの声が上がった。

「とにかく!私は許さんからな。宮の中に下働きを入れている黄金聖闘士なぞ、他に居らんわ!」

「とは言っても、追い返すわけにもいかないでしょう」

 ムウは、カノンが言い返す前に、巧いタイミングで突っ込んだ。

「サガ。あなた、この書状をよく見ましたか?ポセイドンの連名ですよ」

「……何だと?」

 さすがに幾分トーンを下げて、サガはムウの手の中の書状を覗きこんだ。

 確かに。

 ソレントの名前の横ちょに、きっちりポセイドンのサインが入っている。

 サガは、思わず確認した。

 ジュリアン・ソロのではない。

 ポセイドンの、署名だ。

 横から見たカノンまでが妙な顔になり、双子はそっくりな顔を見合わせた。

「ポセイドンが……?」

「……なぜ、たかが下働きの紹介状に海皇自ら……」

「それも中に書いてあります。カノンは有能ですが、身の回り関係は非常にズボラなので、世話の仕方を飲み込んでる家政婦が必要だと思う、と。聖域でゴミの山に埋もれてカップ麺か何か食べて暮らしてるんじゃないか、と言ってソレントが頼んだら、海将軍の筆頭がそんな生活をしているのは海皇として忍びないと、ポセイドンもOKしてくれたんだそうです」

「……!!」

 双児宮、一体どういうイメージで見られているのか。

 て言うか、聖闘士は一体何だと思われているのか。

 多分、海皇のよく知っている聖闘士はカノン一人なのだろう。

 そう考えると、相当イメージが悪いのは間違いない。少なくとも、家事については無能力者だと思われているのは明らかだ。

 恥ずかしさと怒りで震えるサガの横で、カノンが感心したような声を出す。

「うーむ、さすが海皇。部下を良く解ってるな」

「戦闘関係はまるきりですが、いい家政婦だそうですよ。この子は」

「それは俺が保証するぞ」

「ええ。女中を何人つけても鬱陶しがってダメだったカノンが、彼女を側に置いてからはピタリと寛いだ雰囲気になったそうですから」

 そう言って、ムウは書状を置いた。

「……ま。いいんじゃないですか、いても。サガが教皇代理でカノンがその補佐で、二人してかなり忙しいのはみんな知ってます。個人的に下働きを一人宮に入れたくらい、誰もとやかく言わないでしょう」

「しかし、そんなズボラな……!……って、ちょっと待て」

 サガは、ふと言葉を切った。

 ムウの言葉の中に、何か非常に引っかかるものがあった気がする。

「……ムウ。お前今、何と言った」

「だから。彼女が双児宮の家政婦として住み込んだところで、何も問題はないだろう、と」

「彼女だと!?女なのか、これは!?」

「……結構失礼なんじゃないですかね、それ……いや、私も書状を読み返して、初めて気がついたんですが」

「あー。そうか。言われると、お前、素のままで女には見えんな」

 暢気な同僚と弟の言葉に、サガはダンッと机を叩いた。

「冗談ではないぞ!若い娘を住み込ませるのか?男所帯のこの双児宮に!!」

「何も一緒の部屋で暮らすと言ってるわけじゃないぞ。部屋なら余ってるだろう」

「そういう問題か!!ナギとやら、お前もお前だ!少しは働く場所を選べ!嫁入り前の娘ならば、もう少し慎みを持ったらどうなのだ!!」

「はあ……」

 ぽりぽり、と頬をかいたナギが、ちょっと変な顔でサガを見た。

「慎み、と言いましても。元々の商売が商売ですから……やはり、お気に障りますか」

「……商売?」

 家政婦じゃないのか、と眉を寄せたサガの両脇で、ムウとカノンが揃って嫌な顔になった。

「……カノン。まさかと思いますが……彼女をあなたが買った、と言うのは、ひょっとして……」

「待て。頼むから妙な誤解はするな」

 大急ぎで遮ったカノンが、召使のほうに向き直る。

「おいこらナギ、今すぐ俺の潔白を証言しろ。でないと、マジで兄貴に殺されてしまうわ」

「あ、失礼いたしました。はい、シードラゴン様の相手をさせていただいたことはございません。海底神殿では、他に客を取るのも許さん、と仰って下さいましたし」

「……」

 ナギの言葉の意味がサガの頭にしみ込むまでは、かなり時間がかかった。

 そして理解した瞬間、サガは完全に頭に血を上らせて、真っ赤になった。

「〜〜〜っ!?」

 口をパクパクさせて、ようやく声が出るようになる。

「お前……まさか……」

 短い黒髪や化粧けのない顔、飾り気のない粗末な服に包んだ凹凸のない身体を凝視する。

“……商売女だと!?”

 この格好で、この娘が、まさか。

「冗談ではない!!何歳なのだ、お前は!!」

 サガは、思わず力いっぱい怒鳴った。

「アテナと幾つも変わらんだろうが!!その歳で売春婦か!?」

「は。アテナのお歳は存じませんが、ぼくは15歳です」

 けろりと言ったナギの悪びれない顔を前に、サガはくらりとよろめいた。

「お前……よくもそう、平然と」

「お耳汚しでなんですが、それも今さらなので。8歳の頃から客を取って暮らしてました。とにかく食べる分だけは稼がなくてはなりませんでしたから」

「そうですか……」

 ムウが、やや痛ましげに少女の幼さの残る顔を見やる。

「……大変でしたね、それは」

 サガも、汚らわしい、と言いかけたのを飲み込んだ。

 堅物の自分だって、わかる。彼女が悪いのでは、ない。8歳の少女が身体を売るなどと言うのが、自身の意思であるわけもないからだ。悪いのは彼女を売って金儲けをした人間であり、下劣な欲情を持って幼い子供を弄ぶ買い手だ。大方、カノンがこの少女を買ったと言うのも、保護者もなく、身体を売って日々の糧を得るのが当然と思っている姿が見るに耐えなかったからだろう。

「海底神殿に伴われたのも、元は海闘士の方々をお慰めするように、とのことだったのですが。シードラゴン様が自分付きの小間使いにして下さって、それからは普通に家政婦をしていました」

 何とも、居たたまれない話だ。

 カノンに救われ、ようやく身体を売らずに済むようになったのも束の間で、海底神殿は崩壊。辛うじて生きのびた彼女がカノンを頼って来たのは、確かに頷ける話だった。

 そこはかとなく空気が重くなり、しばしの沈黙の後、カノンが躊躇いながら口を開いた。

「……なあ、兄貴」

「……何だ」

「双児宮に居候させるのがまずけりゃ、どっか女聖闘士のところに預けてもいいだろう。とにかく、聖域に置いてやってもらえんだろうか?」

「む……」

 難しい顔になったサガの考えが纏まるより先に、ふとナギが肩を竦めた。

「いえ、結構です」

「え……」

「……何?」

「考えてみれば、海底神殿の下働きが聖域に置いてくれ、と言うのも無茶な話でしょう。実のところ、本当に置いてもらえると思っていた訳でもありませんし。シードラゴン様のお顔を拝見できただけで、十分です」

 カチャカチャ、とお茶の片づけに入ったナギの冷静な表情を、ムウとサガは何とも言えない気分で眺めた。

「しかし……あなた、どうするんです。これから」

「どうと言っても。今まで通り、旅をして暮らします」

「身体を売りながら、ですか?」

「はい。他にできることもありませんし、幸い、もう普通の娼館で働いてもおかしくない年齢ですから。食べていくのに困るようなことはないでしょう」

 そう言ってから、ナギは、サガとムウの表情に気づいたようで、くすっと笑みを浮かべた。

「別に嫌じゃないんです。性にあってるようですし、慣れてもいますから。疲れた人や淋しい人を慰める仕事だと思ってます」

 別段、悲壮感はない口調だったが、その軽さが返って聞くものを居たたまれなくさせた。

「どうかご心配はなさらないようお願いします。これを片付けたらお暇しますから」

「おい、そう急ぐな。せめて今夜の宿くらい、俺が何とか」

「いえ、本当にお構いなく。……あ、そうそう、シードラゴン様」

「ん?何だ」

「お茶の他にも、シードラゴン様のお好きなものを幾つか持ってきたんです。良かったら召し上がって下さいね。サガ様とご一緒に」

 ゴソゴソ、と荷物の中からコーヒー豆だの何だのを出して並べるナギの横で、カノンがいちいち反応を返している。それを見つめていたサガは、ふとムウが自分をじーっと見ているのに気づいた。

「……」

「……」

 言いたいことがあるなら、テレパシーで言えばいいものを。あえて目で語るムウとサガの睨みあいは、数秒続いた。

「では――――」

「……待て」

 ついにサガが、口を開いた。

「ナギと言ったな」

「はい。何でしょう?ついでのご用でもあれば、承ります」

「いや。弟が世話になったようでもあるし、何より、海皇ポセイドンの親書を持参されて、取り合わずに追い返すわけにはいかんだろう」

 苦虫を噛み潰したような顔で、サガは告げた。

「ここに住まわせることはできんが。とりあえず、今夜は、双児宮の空き部屋に泊まるがいい」

「泊めていただけるのですか!」

「ほう!珍しく話せるではないか、兄貴」

 ナギとカノンの顔が、目に見えてパッと明るくなる。

「さしあたっての話だ!住み込みの家政婦なぞいらん。カノンがますます怠け者になるのが目に見えているからな」

 間髪入れずに釘をさして、サガはため息混じりに語気を和らげた。

「できるだけ早く、よそにまともな働き口を探してやろう。聖域の外になるか中になるかは解らんが、身体を売るなどと言うことはしなくてすむようにな」

「はあ、お気づかい頂きましてすみません」

 その辺はあまりありがたくなさそうに、それでも丁寧に頭を下げたナギがカノンのほうを向く。

「では、今日の夕食の準備は任せていただけるのでしょうか?」

「もちろんいいぞ」

 カノンが、全く躊躇せずに嬉しそうに頷く。

「冷蔵庫の中身を好きに使え。足りないものがあったら、街で買って来ていいぞ」

 カノンが、財布から金を出して渡す。

「ムウ、お前もよばれていけ。こいつの飯は本当に美味いんだ。賭けてもいいが、お前でも敵わん。そうそう、貴鬼も呼んでやったらいいだろう」

「はあ……いいですけど、カノン、あなた全然遠慮なしですね。遠路はるばる来たばかりの客に」

「構わん構わん。せっかくだから、ミロの奴も呼ぶか。何なら、12宮にいる奴全員集めてもいいくらいだ。ナギ、期待してるぞ」

「はい!お任せ下さい」

「台所を使うなら、鍋と食器も洗ってもらえるな。ここ数日、放りっ放しなんだ、サガが忙しいもんで」

「もう大半は片づけました、先ほどお茶の支度をさせていただいた時に。出すぎた真似かとも思いましたが」

「いや、構わん。気がきくな、ついでに洗濯も頼んでおくか」

「かしこまりました。お部屋に取りに行ってよろしいですか?」

「ああ。廊下の左側に俺の部屋があって、三日分くらい溜まってるから。洗い場は、宮の向かいだ」

 何だか急に生き生きしてきたナギと、ゆったり寛いだ表情に当然の口調で命令しまくるカノン。

「それじゃ、後はゴミだな。二週間分はあるだろう。まとめて出しといてくれ。仕分けの仕方はサガに聞け」

「あ、大丈夫です。解ります。来る途中に、ゴミ捨て場を見ましたから。夜までに出しておきます」

 なるほど、腕のいい家政婦だと言うのは嘘ではなさそうだ。

 しかし……

「……海底神殿でカノンがどう過ごしてたかが、伺われる光景ですね……」

 ため息をついたムウの横から、二人にやりとりにプルプル震えていたサガが、弟の頭に雷を落とす。

 怒鳴りあう声を背に、ナギは台所へ向かって歩き出した。

 

 

061009 up

 

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