「イレギュラーの神様」

(18)

 

 

 焼き尽くすような夕焼けの下に、凪の後姿が見えていた。

 氷河は数歩あゆみ寄り、そして立ち止まった。

 何を言っていいか解らない氷河に、振り向かないままで凪の声がかかった。

「――――――氷河か」

 意外に平静な声。氷河は、短く答えた。

「……ああ」

「そうか。……どうしたんだ?何か困ったことでもあったのか」

「……それはお前だろう」

 氷河は、低い声で言った。

 凪の声は平静だ。肩も震えていない。しかし、手元で握り潰された手紙はクシャクシャだった。氷河は、その紙切れを凝視した。

 凪にとって天にも地にもたった一人の身内であったはずの弟の、死を知らせた手紙。

 凪は一人になったのだ、という思いが、シベリアの海へ沈んでゆく母の姿を見送った時の自分と重なる。何もできることなどない、と解っていても、来ずにいられなかった。

「凪。……星矢がお前を心配してるぞ」

「そうか」

 凪が静かに答えてくる。その声には、全く表情がなかった。

「……星矢もお前の弟だ。同じように、半分だけ血を分けた」

 死んだ少年が母を同じくするならば、星矢は凪と父を同じくして。

 そして、同じくらい深く。お前を愛しているはずだ――――――

 そう言おうとした言葉は、何かの破れる音に遮られた。

 ビリビリと言う音。凪が、勢いよく手紙を引き裂いて撒き散らしている。ほどなく、木っ端微塵になった紙きれは、風に乗って消えた。

「……凪?」

「いないよ。弟なんて」

 吐き捨てるような声に、氷河は目を見張った。

「初めからいなかった。可哀相な病気の弟も、ぼくを守って逃げてくれた母親も。嘘ばっかりだ。そんなものは、ぼくにはいやしないんだ」

 続いて聞こえてきた音に、氷河は耳を疑った。

 凪は、笑っていた。低い声で、しかしはっきりと、笑い声を立てていた。

「……お前」

「氷河。……君たちは、みんな光政のじいさんの子だ。君もそれは知っていたな」

 凪が、ゆっくりと振り返る。その顔に浮かんだ表情に、氷河は息を呑んだ。

 一年と半年。出生の秘密を知るものは少なく、氷河と凪はずっと秘密を共有してきたことで、何もかもを知り尽くしているつもりだった。

 なのに今。氷河は、自分はひょっとしたら凪と言う人間のことをちっとも解っていなかったのではないか、と言う気になる。

「……お前だって、そうだろう」

「違う。……ぼくは、あのじじいの子供じゃない。母親の話も弟の話も、全部ここへ来る前に叩き込まれたものだ」

 凪の言ったことが頭にしみこむまでには、長い時間がかかった。

「凪……?」

「本当のぼくは、日本人ですらない。国を訪れた胡散くさい日本人に買い取られたのが、三年前。それまで、ぼくは、凪なんて名前を聞いたこともなかった」

 理解できない話が続くのを、氷河は目をいっぱいに開いて聞いていた。

「光政のじいさんは。子供たちを孤児院に入れたとき、口止め料と養育費を兼ねて大金をそこへ寄付してた。凪の担当だった調査員がターゲットを見つけたとき、彼女は母親と一緒に死体になっていて、生きてたのは金にならない病気の男の子ひとり。その調査員は、孤児院の院長とぐるになって身代わりをでっち上げたのさ。よく似た顔で同じ年頃の子供を、韓国で見つけてね」

 夕日に照らされた凪の笑顔は、破滅そのもののように恐ろしく美しかった。

「始まりは、下町のゴミ捨て場に、血と汚物にまみれて素っ裸で転がってた赤ん坊だったそうだ。場末の娼婦が、通りすがりに服と名前とを恵んでくれた。後は、野良猫に餌をやるように気まぐれに何かをくれる連中のお情けに縋って成長して、物心がついてからはスラムの底でゴミを漁って暮らしてきた」

「凪……何、言って……」

「使いっ走りをしたり観光客にたかったりして、夜は道端で眠った。ただ、その日の食事のことだけ考えていたぼくに、あるとき日本人の男が言った。言うことを聞くならもうひもじい思いをしないで済むようにしてやろう、と」

「……!」

「名前も国も、迷うことなく売り払った。誰からも悪魔呼ばわりされていたこの馬鹿力と回転の速い頭を、初めてありがたいと思ったよ。彼らが欲しがってたのは、まさにそういう子供だったから」

「じゃあ……」

「日本へ連れて来られて、凪という少女のバックグラウンドを叩き込まれた。弟のことも母親のことも覚えて、さりげなく話題に上らせてきた。ここへ引き取られるときには、院長は十分な金額を受け取ったはずだ。そしてぼくは、毎日食事のできる生活を手に入れた」

 一度言葉を切った凪に、氷河は、やっとのことで1つの質問を絞り出した。

「……本当に?」

「そうとも。証拠を見せようか?」

 そう言って凪は立ち上がり、くるりと足を振った。いつもの見事な回し蹴りが空を切る。

「こいつは空手なんかじゃない。身を守るためにハーレムで覚えたテコンドーさ。祖国の証は全て捨てたが、これだけはなくさなかった。ことあるごとに見せて来たのに、誰一人怪しみもしないんだからな」

 あはは、と笑った凪の目には、初めて荒んだ色が見えた。

「どうだい?氷河。ぼくは君の兄弟でも何でもない。もちろん、星矢にもね。ぼくは生まれたときから一人きりだ。家族なんかいないんだ」

「……んで」

「え?なあに?」

「何で……それを、今俺に言う?ずっと隠してきたくせに、なんで俺に」

 どうしていいか解らない気分で聞き返した氷河に、凪が振り返る。

「……必要がなくなったからさ。もう」

「必要?」

「そうだ。……なあ、氷河。あの手紙、何のために来てたと思う?しつこく弟の病状を知らせてきてた」

「何のって」

「それが取引だった。せめてもの償いに、と思って、光政のじじいから金をふんだくったら一部を凪の弟の治療費に回せ、と言ってやったんだ。定期的に報告しなけりゃ、屋敷の連中にばらしてやるってね」

「あ……」

「でも。それももう、今となっては……」

 おどけた仕草で手を広げた凪の顔が翳り、氷河はどきりとした。

 湧き起こりかけていたやり場のない怒りが、急速に消えていく。

 毎日食事ができる、と言ったって。この屋敷での凪の生活が楽でなかったことは、誰でも十分すぎるくらいに知っている。

 国を捨てて、名前を捨てて、そして行き着いた場所がここで。凪は、毎日どんな思いで芝居を続けていたのだろう。

「……何で……そんな取引き、した?」

 氷河は、掠れた声で尋ねた。

「お前が悪いんじゃないし、凪の弟の病気はお前のせいじゃない。そんな我慢……しないで、逃げることだって。お前なら」

「できたよ。いつだって、簡単に逃げられた。ぼく一人ならね」

 凪は、何時の間にか、普段と同じ優しい表情に返っていた。

 優しい――――――けれど、とても、とても淋しい顔だった。

「ただね。ぼくも、ちょっとその気になってた。ぼくは、日本人の凪で。手放したくないって連れて逃げてくれた母さんが居て。病院で、一緒に暮らせる日を待ってる弟が居て。ねえ、素敵じゃないか。……家族がいるってのはこんな気分かな、とか思ってたのさ」

 悪くない夢だったよ――――――

 凪の言葉に、氷河は泣きたくなった。

 弟だと言うことになっていた少年と、彼女は一体何度顔をあわせたことがあるのだろう。一度か。二度か。いや、全くないのかもしれない。

 けれど、凪には。たった一人の、生まれて初めての、家族だったのだ。

 弟がいる、という事実。たとえ言葉だけのものでも、全く実体を持たない虚構のストーリーであっても、それでも初めての暖かさを感じてしまうほどに。

 凪は、孤独だったのだ。

 生れ落ちたときから1人きり、ただ運が良かったから物心つくまで生き延びて。後は、ずっと1人で生きてきた。

 何を恨むでもなく、何を羨むでもなく、ただ自分はそういう存在だと理解して。ずっとただ1人で、生きて居るだけの存在だった。

 母の温もりを知っている自分には、決して、永遠に理解の出来ないであろう、その虚ろな孤独――――

「だけど、それももう終わった」

 凪は、大きく伸びをした。そのセリフに、氷河はハッと我に返った。

「……どうするつもりなんだ?これから」

「ああ。じいさんとお嬢さんに、全部ぶちまけてやるさ」

 凪はニヤッと笑った。

「あのじいさん、何の宗教にかぶれてんだか知らないけど。赤の他人の子供まで生贄に出すほど、肝は据わってないと見たね」

「じゃあ……」

「施設に突っ返されるか、追い出されるか。どっちでもいいさ。一人で生きて行くのは、ぼくには難しいことじゃない」

「星矢を捨てて行くのか!?」

 思わず語気を強めた氷河に、凪は哀しい笑みを浮かべた。

「ああ。……捨てていく」

「紫龍は?瞬は?他の皆もか?今、お前だけが頼りだと思ってる星矢を、本当に捨てて行くつもりか!?」

「うん。……だって。ここで大人しく飼われてたら、いつまでたっても皆を救えるようにはならないよ」

 思わず絶句した氷河を、凪は真剣な目で見た。

「ぼくは、強くなる。外へ行って早く力をつけて、皆が世界のどこへ送られても見つけるよ。聖闘士なんかになる前に。絶対、君たちを戦わせたり、しない」

 だから。それまで、待ってて―――――

 そう言って背を向けた凪に、氷河は後ろから声をかけた。

「あ……ええと」

「何?氷河」

「その、お前……本当の名前は、なんて言う?」

 その質問を聞いた瞬間。ほんの一瞬だったが、凪の目が泣きそうに切なく揺らいだ。

「ありがとう。でも、今はまだ、凪でいい。いつか、ぼくが約束を守れた時に」

 ぼくを。本当の名前で、呼んでくれ――――

 夕闇の中に消えていく、凪の背中。

 それが、半年に渡る失踪の前に氷河が最後に見た、凪の姿だった。

 

 氷河が語り終えたとき、皆は絶句して凪の蒼ざめた顔を見つめていた。

 沙織の顔も血の気が引いていたが、とりわけ青銅の少年三人の表情は、ショックで凍りつくようだった。

「……凪……?」

 星矢が、震える声で自分の知っているただ一つの名前を呼ぶ。

「うそ……だろ?母さんのことも、弟のことも、あんなに懐かしそうに話してくれたじゃないか」

「ぼくには。弟なんか居ない」

 凪が押し殺した声で切り捨てる。

「病院で死んだ子供も君達も。赤の他人だよ、初めから」

「……!」

 よろめいた星矢から視線をそらして、凪は真直ぐに沙織を見た。

「お聞きの通りだ、お嬢さん。光政のじいさんがどれだけ一生懸命やったか知らないが、人間のやることにはいつでも手落ちがあるもんだ。あの屋敷に、一人でも遺伝学の知識がある人間がいたら、ぼくがじいさんの子供でないことは一発で解ったと思うがね」

「……凪」

 沙織が、やっとのことで声を絞り出す。

「あなたは。それを話しに来たのですね、あの日。私とおじい様に、それを告げるために」

「そうだ。……ぼくの予定も、その通りには進まなかったってことなんだろうな。で、長年騙されてきたとわかってのご感想は?」

 吐き捨てられた声に、沙織はぐっと汗の滲んだ拳を握り直した。

「……ありません。事情がどうあろうと、あなたがあの日、私を救ってくれたのは事実です。自分から、身代わりになって」

「あんたが女神アテナだと解っていたら、それもしなかったよ」

 弾き返すように凪が言う。

「氷河、どうした。今さら迷うことはない。全部言うんだ。君が、なぜ師を動かしてまでここにいるのかを」

 逡巡した氷河に代わって、その後を受けるように、カミュの声が響いた。

「私が皆を集めたのは、この先を話すためだ。その娘が、屋敷に戻った後に真実を隠して訓練所へ自ら送られた理由について」

「え?」

「私と氷河は。聖闘士の候補生の立場にありながらアテナの殺害をもくろんだ角で、その娘を告発する!」

 カミュは、真っ向から凪を睨めつけた。氷河がぐっと唇をかんで進み出る。

「俺が証人になる。……凪は。アテナを殺すために、聖闘士の道を選んだのだ」

 言いながら、彼の脳裏には、半年たって戻ってきた凪の別人のような瞳が浮かんでいた。

 何があった、と幾ら訊いても答えてはくれず。ただ、本当の名前はもう捨てることにしたと凪は言った。

 何を犠牲にしてもいい、聖闘士になってみせる、とそう言った――――

『……人間ってのが、あれほどまでに罪深く創られたものなら。ぼくはもう、希望を持つのはやめる。……救えやしないんだ、誰も彼も』

 深い深い憎悪の燃える声だった。

『神様はいるんだ。人間をこんな風に作った奴が、必ずどこかにいる。責任は、そいつが取るべきだよな』

『凪、一体』

『氷河、君はシベリアに行けよ。行って自分の望みを叶えたらいい。ぼくは』

 聖闘士になって。神様なんてものが存在するなら、必ず殺してやる―――――

『……じじいが、ぼくらにアテナの聖闘士になれと言うのなら。まずは、そのアテナだ。ぼくは聖闘士になったら、真っ先にアテナをぶっ殺す。じじいに100人の子供を生贄に出させて、その一人が地獄に落ちるのを見殺しにさせた女だ。必ず後悔させてやる。たとえ、百年かかっても』

 八つ裂きにしてやる、と呟いた凪に、氷河は長いこと考えて、やっと一つ言える言葉を見つけた。

『……もし。俺も聖闘士になったら、お前は反逆者だ』

 アテナだとか、聖闘士だとか。本当にいるのかどうか、そんなことは氷河には解らなかったけれど。

 凪が何か恐ろしい道を歩み始めているように思われて、何とかしてブレーキをかけたかったのだ。

『俺も、お前を殺さなきゃいけなくなるんだぞ?』

 しかし凪は、動揺の色を見せなかった。

『ああ。殺しに来いよ。星矢でも瞬でも紫龍でも、誰でもぼくを殺しに来たらいい。誰が敵に回っても、ぼくは止めない』

 人間が、神の作り出したものであると言うのなら。どんな神様の存在も、ぼくは認めない―――

『神様ってのがどんな存在だろうと、ぼくは永遠に叛逆者だ。この宇宙に、神と名のつくものがある限りね』

『……罰が当たったら?地獄に落ちるぞ』

 自分でも陳腐で説得力のない言い草だと思ったが、凪は予想を越えた激しさで笑った。

『氷河。君は知らないんだ。地獄は、この地上にあるんだよ―――――ぼくたちの暮らす、この世界にね』

 氷河は、絶句した。

 行方不明の間に、何があったのか。ただ、彼に解るのは、一つだけだった。

 星矢が懐き、姉代わりに纏わりついていた凪は、もういないのだと言うこと――――

『なあ氷河、知ってるか?日本には、修羅と言うものがいるそうだぜ』

『……修羅?』

『ああ。……神でも悪魔でもない、戦いの化身だ。鬼と会っては鬼を斬り、仏と会っては仏を斬ると言う、戦うだけの存在だ。ピッタリだと思わないか?ぼくは修羅になったのさ。神に会って神を斬るためにね』

 もはや、言うべき言葉はなかった。

 凪は、やるだろう。聖闘士になり、そして叛逆者として天に牙を剥くのだ。

 憎悪を込めて天を見上げる凪から目をそらし、氷河はマーマの遺したロザリオを探って祈った。

 出来ることなど、他に何もなかった――――――

「……凪。お前は、三ヶ月聖闘士の訓練場にいたはずだな」

 氷河は、苦悩を湛えた目で凪を見た。

「その間。お前は、アテナを守るために修行していたのか?それとも――――」

 アテナを殺すために、修行を積んでいたのか―――――?

 緊張をはらんだ空気を破るように、ムウが

「子供の言ったことでは」

と言いかけたとき、凪の声がそれを遮った。

「殺すつもりだったよ。ここへ来た時もね」

「―――――凪!」

「女神アテナ。まだ解らないのか?私があんたを許せないのは、自分があなたの身代わりとなったためではない!どのようなことも、あなたが人であったら許せたんだ!」

 凪の声は、今や空気を震わせていた。

「あなたが女神であるのなら、なぜ城戸光政の子供たちを生贄に求めた?死んだ子供たちを救わなかった?神であるが故に人の犠牲を当然のこととして受け止めると言うのなら、私は神の存在など許しはしない!!」

「……それは」

「女神アテナ。聖闘士になることなく死んだ48人の子供たちの霊に、あなたは一度でも詫びたのか!」

「……48人?」

 沙織や青銅の少年たちが、ハッとした顔になる。凪は貫くように正面の沙織を見据えていた。

「あんたは、知ろうともしなかったんだな……子供たちのうち42人は、戦士になる運命を逃れて、それぞれの空の下で暮らしてる。それを、私が見届けてきたんだ」

 そう言って、凪は不意に左手の袖をまくった。

「……あんたなら、解るだろう?」

 肘の上あたりにぐるりと走る傷跡に、沙織の目が見開かれた。

「……え……」

 誘拐されて売られた時の傷跡だろう、と考えかけたのを、記憶の映像が打ち消した。

 沙織が、画面の中に切り刻まれる凪を見たとき。

 右腕と両足はバラバラだったが、左の手はついていた。

 警官が踏み込んできて、映像が途切れるまで―――――

「……嘘」

 沙織の唇が震えた。凪が凄みのある目で見返す。

「ぼくは。子供たちの人生を買い戻す金を得るために、もう一度、自分で望んで、見世物の舞台に乗ったんだ。金持ちの集まる高級売春宿で」

「……!!」

 沙織だけでなく、サガも立ちすくんだ。

 凪の言葉が、何を意味するか。それは、考えるまでもなく解っていた。

 辰巳の言葉が甦る。

『子供に薬を打って気絶しないようにした上で、手足を一本ずつ切り落としながら犯す、というショーがあったそうだ。滅多にやらない特別の人気ショーだったと』

「……まさか……」

「ご心配なく。ちゃんと調べて場所を選んで、終わった後にはしっかり縫い合わせてもらったよ。金が溜まるまでは、死ぬわけに行かなかったからな。いくら破格のギャラが出ると言っても、一度では、100人の子供たちの身代金には足りなかった」

 声すらも震えない凪の言葉に、サガは背筋が寒くなった。

 身体を切り刻まれながら、犯される。そして、その姿を見世物にされる。

 そんな地獄絵図の世界に、10を幾つも出ていない娘が、自分から身を投じたと言うのか。

「手足だけじゃすまなくて、歯を折った。骨を折った。内臓までぶちまけるようなショーを三回繰り返して、やっと要るだけの金ができた。……それまでに、48人が命を落としていた。助けられなかったのは、ぼくの責任でもある。だから死ぬまで背負っていく」

 凪の言葉が、沙織のショックに動きを止めた頭に遠く響く。

「初めから言ってる、ぼくは謝って欲しいとは思ってないと。あんたが本当に謝らなくてはならない相手は、光政のじじいと死んだ子供たちだ。それに比べたら、あの程度のことが何なんだ?ああ、一度やってみたらすぐ平気になったよ。遅れれば遅れるだけ子供たちが死ぬ、と思ったら、どんなことだって我慢できた!あんたは何も感じないのか?」

「……あ……あ……」

「あの屋敷で。あんたに憧れてた子もいた。邪武と一緒に一生懸命ご機嫌を取ろうとしてた子が、何人も死んだ。それでもあんたは神様か?そんなことは小さなことで、あっさり忘れてしまえるのか?人間ならいい、どうしようもないことだってある、でも、あんたは神様なんだろう!!だったら、死んだ子供たちの人生を、返してやってくれ!!」

 凪の絶叫と共に、沙織の身体が崩れるように力を失った。

「アテナ!」

 我に返ったサガが、駆け寄って支える。同時にシュラとカミュが凪を取り押さえた。凪は、抵抗せずになすがままになった。

 サガに抱えられて幾らか意識を取り戻した沙織を、炎のような目が見た。

「……アテナ。あんたが、あの子たちを捨てた。だからぼくが拾うことにしたんだ、この体を切り売りして。ただの人間だって、本当に死に物狂いになったらそのくらいはやれる。……あんたは。人間から生贄を取って、人間たちを戦わせて、一体何をしてくれるんだ?答えてくれ」

 凪の顔は乾いていたが、声はすすり泣きのようだった。

「ぼくを、この憎しみから解放することさえもできない、あんたが。人間のために、何をやれるんだ?」

 あんた、神様なんだろう――――――

 凪の言葉に、答えられるものはいなかった。

 

 沙織が。

 凪への処分を決めたのは、次の日のことだった。

 ―――――12宮を越えてアテナの間へ辿りついたなら、どんな望みでも叶える、と。

 それが、凪に下された判決だった。

『裁きは。聖闘士たちの手に委ねます。一人一人が、凪と話し合った上で結論を出して下さい。凪は死ぬべきだと判断したものが居たなら、それもやむを得ません。逆に』

 通してやろう、と結論を出したものに対しても。一切の処罰はないことを、約束します。

 悩みぬいた末の決断だ、と誰の目にも解った。

『明朝、7時。火時計に炎を灯します』

 その言葉を最後にアテナの間に閉じこもってしまった沙織を、聖闘士たちはしばし待ち、そして言葉すくなに散っていった。

 

 

070214 up

 

 

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