「イレギュラーの神様」

(17)

 

 

 沙織が聖域に来て、数日が過ぎた。

「参ったことになったな……おい」

「全くですね……」

 双児宮の居間。

 主のカノンと居候の星矢と紫龍、瞬の他、ムウとデスマスクがやってきている。

「あの姉ちゃんは、また呼び出しか。その内ブッスリやるんじゃねえか?」

「サガが身体検査をした上、アテナの側で控えている。その心配はいらん」

 カノンがムスッと答える。

「もっとも、そのうちあれの物言いに腹が据えかねたサガが、アテナの命を待たずに首を飛ばすかもしれんがな」

 星矢と紫龍、瞬が顔を引きつらせ、ムウがため息をつく。

 事態は、膠着状態を迎えていた。

 凪は、双児宮内に半幽閉状態である。

 毎日沙織からお呼びがかかって、サガかカノンに連れられてアテナの間に行き、長いこと沙織と話をする。

 しかしその内容はと言うと、沙織が必死で詫びようとするのを凪が吐き捨てるような啖呵で断ち切って沙織が泣き出す、と言うのがパターンになりつつあった。

 沙織は夜も良く眠れないらしく、幾らかやつれてきて、サガも他の黄金聖闘士たちもひどく心配していた。

「……何で無理に引き止めるかな、あのお嬢は……出て行くっつってんだから、行かせてやりゃいいんだよ」

「その方が良い、と言うのが大半のものの意見なんですがね……瞬。アテナはなぜ、凪を引き止めるのでしょうね?」

「……ごめんなさい。わかりません」

「そーかよ。やれやれ、このままじゃ、お嬢が寝込む前にあの姉ちゃん殺そうって奴が出てくるぞ。シュラとかシャカとか、そーゆー雰囲気じゃねえか?」

「あの2人は忠誠心が厚いですからね……凪の暴言にも、大分腹を立てているようですし」

 その辺は解っているだけに聞きたくないと見えて、黙ってドアを叩きつけてカノンが出ていく。

 揺れるドアを見ながら、ちっ、とデスマスクは舌打ちをした。

「あの姉ちゃんも要領の悪い奴だな。死んだ弟が帰ってくるわけじゃあるまいし、お嬢は滅多にこっち来ねえんだから、ハイハイ許しますよって言ってあしらっときゃいいんだよ。そしたら後はカノンの側でのんびりできんだからよ」

「それができるものなら、苦労はしませんよ。深い憎悪と言うのは自分でコントロールできるものではありませんから、彼女も持て余しているのでしょう」

「面倒くせえなあ……直に殺されたわけじゃあるまいし、お袋と弟が死んだくれえ何だ。んなこと言ったら、まともに家族いる奴なんざ、聖域にはほとんどいねえぞ」

「情の深い子ですからね……恨みも深いと言うことなんじゃないんですか」

 額に指を当てたムウが、星矢を見た。

「星矢。何とかして彼女を説得できませんか。差し当たり、少しでもアテナへの態度が和らげばそれでいいんです」

「……無理だよ」

 星矢が、力なく首を振る。

「なぜです。あなたと凪は本当の姉弟のように仲が良かったのでしょう。そして今は実際に異母兄弟であると知っている間柄ではないですか」

 ムウは、柔らかく説得にかかった。

「あの子は優しい子だと、あなたも言っていたでしょう。弱さの故に過ちを犯した人を憎んではいけない、とあなたに教えた人ではありませんか。言ってみて下さい、星矢。あなたのためにも、もうアテナを憎むのはやめてくれ、と。憎しみを捨てることは、きっと彼女にとっても幸せになる道のはずです」

「そーだな。星矢、行け。泣き落とせ」

 デスマスクが、わざわざソフトかつ丁寧に表現したムウの説得を、解りやすく要約してまとめた。

「ベソベソ泣いて、あの女が意地はってるせいで俺らに苛められてんだって言え。キャラ的に、カノンよかお前が適役だ。お前は年上の女に受けがいいしな。しつこく行けば必ずオチる」

「……出来るもんなら、俺だってやってるよ!」

 星矢は、バッと顔を上げて言い返した。

「俺が何言ってもダメなんだ、今の凪には」

 星矢は、浮かない顔の瞬に振り返った。

「……瞬。ひょっとしてさ、あの時のことじゃないのか?凪と沙織さんが話してんのって」

「……やっぱりそう思う?」

 瞬がなにやら曰くありげなセリフを返し、黄金の2人は、ん?と言う顔になった。

「おい。何だ、その気になる会話は」

「まだ何かネタがあるんですか?恨みのもとになるような」

「……俺たちにも、解らない点が多いのだがな」

 ややこしい話になるらしく、紫龍が解説を引き受けた。

「しかし、凪と沙織さんの二人しか知らない話に心当たりはある。俺たちが出発する直前のころの凪は人が変わってしまっていた、という話は、既にしたな」

「おう。弟が死んだからだろ」

「俺たちはそう思っていたのだがな。ただ、その辺りにはまた別の事件の記憶もあるのだ」

「聞かせてもらいましょう」

 聞く体勢に入ったムウとデスマスクに向かって、紫龍はまた先日の話の続きを語り始めた。

「……弟が死んだ夜。一晩中外に座っていた凪を朝飯に呼びに行った時には、凪はもう普段とあまり変わらない顔で笑っていた。心配をかけてすまない、と落ち着いた顔で言われて、俺たちも幾らか安心した。それが、その日の昼頃になって、屋敷のどこにも姿が見えないのに気づいたのだ。後で解ったところでは、お嬢さんと城戸光政の乗っていた車のトランクに隠れて外に出たらしくてな」

「ほお?脱走か」

「知らん。その一日に何が起こったのかも俺たちにはさっぱり解らないんだが、それから少しして、お嬢さんが行方不明になったと屋敷の連中が騒ぎ出してな。おかげで凪の捜索は一時打ち切りになって、屋敷の黒服は総出でお嬢さんを探していた。お嬢さんは、夜になって見つかった。屋敷から少し離れた資材置き場の小屋の中で眠っていたのだ。上着がなくなっていたが後は怪我もなく、すぐに屋敷に連れ戻されたんだが、凪の方は行方が解らなかったらしい」

「ん?聖闘士の候補生としてどっか送られたんじゃなかったのか、あの姉ちゃんも」

「ああ。それから半年ほどして凪も戻ってきたからな。しかしその時の凪は別人のようだった、と言うのは先に話した通りだ。俺たちは、弟の死んだのが原因だと思っていたがな。居なくなっていた半年の間に何かがあったのかもしれん」

「……だとしたら、ますますアテナのお嬢には関係なさげなんだが」

 デスマスクが突っ込む。と、瞬が首を振った。

「そうじゃないんだ。紫龍、そこまでしか知らないんだね」

「瞬。お前は何か知ってるのか」

「うん。辰巳さんに聞いたんだ。凪ね、誘拐されたんだよ。沙織さんの上着着てたせいで、沙織さんと間違えられて」

「……本当か?」

「屋敷に脅迫電話もあったんだって。でも、攫われたのが沙織さんじゃないって解って、城戸の家は電話を無視したんだよ」

 ひどいよね、と瞬は呟いた。

「犯人と一緒に凪も行方が解らなくなって、しばらくして見つかったんだって。辰巳さんは、凪がお嬢さんに仕返ししようとしてつけて来て、偶然犯人と出くわして間違えられたんだろうって言ってた。ぼくも、多分そうだと思うよ」

「まさか!凪が、そんな」

「おかしくないよ。凪、本当に沙織さんのこと恨んでたんだよ。殺してやりたいくらい」

「瞬」

「きっとあの日、何かあったんだ。お嬢さんと凪の間に。凪が帰ってきてから、お嬢さんはずっと凪の顔見るたびに怯えてたよ。前みたいにケンカすることもなくなって、凪が見えると凄い勢いで逃げちゃってたもの。……ひょっとしたら、凪は本気でお嬢さんのこと殺そうとしたんじゃないかって。そう思う」

 そして。皮肉にも、隠れた沙織を凪から救ったのは、沙織を狙う誘拐犯が凪を間違えて連れて行ったことだったのだ――――

「星矢。説得するんなら、お嬢さんの方がまだ楽だと思う。凪をどこかへやった方がいいよ。できるだけ、早く」

 瞬が星矢を見る。

「でないと。きっといつか」

 ぼくたちは、凪を殺さないといけなくなるよ―――――――

 瞬の声には、何か不気味な確信がこもっていた。

 その目の奥に潜むものを感じたような気がして、ムウはどきりとした。

 瞬の予言は、決して馬鹿にしたものではない。

 何しろ、瞬は冥王ハーデスの依り代として生を受けて、聖戦の折りには実際にその身に冥界の神を下ろした人間なのだ。

“今なら間に合います。早く憎しみを捨てなさい。凪”

 ムウは祈った。

“かつての因縁がどうあろうと。今の女神の慈悲ぶかき姿をしっかりと見て、憎しみから解放されなさい”

 カノンや星矢に。身近なものを殺す痛みを、味あわせないためだけでも――――

「解るはずです。あなたなら」

 ムウは、そっと呟いた。

 

 凪を双児宮の一室に閉じ込めたサガは、アテナの間にとって返した。

 辰巳を下がらせた沙織は、寝台に腰かけて一人泣いていた。

 今にも消えてしまいそうなその姿に、サガの胸が痛む。

 同時に、今日の凪が沙織に投げつけた数々の言葉が浮かんだ。

『どこまで馬鹿なんだ、あんたは。あんたに光政のじいさんを弁護する権利があると思ってるのか?あんたが一番酷い目にあわせた相手があのじいさんだろうが』

 祖父と自分のしたことを詫びたい、と言った沙織に、凪は切り裂くような言葉を投げつけた。

『あのじいさんが誰のために自分の子供を半分死なせたと思ってる。まさか、それでじいさんが幸せだったんだと思ってるんじゃないだろうな』

 それを聞いた時の沙織の土気色の顔は、見ていても気の毒なほどだった。

『そんな……』

『あの収容所で、じいさんがどんな顔して子供たちを見てたか。あんたはちゃんと見てたのか?あんたに会わなきゃ惚れた女と子供の幸せ祈る子煩悩なじじいで済んだはずの男に、誰が子殺しをさせた。あんたがありがたい女神様だって言うんなら、まずそこから考えてみろ。あのじいさんは、あんたがここに来る踏み台になるために、良心まで売ったんだぞ』

『やめて!やめなさい、凪!』

 沙織が顔を覆う。

『他人の人生を食い物にして好き勝手やって、何が女神だ、この賽銭泥棒。反吐が出る』

 吐き捨てた凪を耐えかねてアテナの間から引きずり出したサガの背後で、沙織がすすり泣く声が聞こえた。

「……アテナ」

 サガは、沙織の前に膝をついて顔を覗き込んだ。

「アテナ。……もう、おやめになって下さい」

「サガ……」

「あの娘は、出ていくと言っているのです。これ以上、あなたのお側にあの娘がいることには賛成できません。心労のもとになるだけではありませんか……あなたは随分とおやつれになっています」

「……できません。私は……凪に謝らなくてはならないのです。許してくれるまで」

 頑なに首を振る沙織を、サガは手を焼く思いで眺めた。

「なぜです。……あの娘が、あなたの身代わりになって売られたからですか」

 沙織の動きが止まった。

「辰巳から聞きました。……弟が死んだ後、あの娘はアテナと間違えられて誘拐されたが、光政翁は要求を呑まなかったと」

『……お嬢様の前で話題に出さないでくれよ』

 そう言いながら、辰巳がぼそぼそと話してくれたこと。

 その一件の後半部分は、瞬にも言えなかったのだと辰巳は言った。

 ――――凪は。身代金の交渉を跳ねつけられた犯人たちの腹いせと、せめて幾ばくかの金を得るために。幼女趣味のある男たちの地下クラブに、売り払われたのだ。

 師匠に売られたとき既にその意味するところを知っていたと言った言葉は真実だったか、と内心で呟いたサガに、辰巳はさらに恐ろしいことを告げた。

 一ヶ月ほどして凪が発見され、身元確認の電話が警察から城戸邸に入ったとき、光政は話を聞いて愕然としたと言う。

 その地下クラブは、極めつけの変質的趣味の金持ちばかりの集まる場所だったのだ。

『パーティーの真っ最中に手入れが入ったんだ。もちろん、その連中は捕まって、子供は保護されたわけだが……』

 10数人の生きている子供の他に、五人分の死体。酒をかけられて火をつけられたものもあれば、体中に針の刺さったものもあった。男たちの体液と血にまみれた幼い体を見て、突入した警官が何人も吐いたそうだった。

『あいつも――――――凪も、瀕死の状態で』

 虫の息で病院に担ぎ込まれた凪の身体は。

 ―――――少なくとも、四つの塊に切り分けられていた、という――――

『その……クラブの会員の一人が警察で言ったところだとな。子供に薬を打って気絶しないようにした上で、手足を一本ずつ切り落としながら犯す、というショーがあった、と』

 滅多にやらない特別の人気ショーだったとか言うが、信じられない。さすがのサガも、想像したくない光景だった。そんなものを楽しめる人間がこの世に存在したとしたら、今すぐ自分が抹殺に行きたいほどだ。

『普通なら、死んでて当然の状態だったそうだ。しかし、あいつは生きのびたんだ。病院で縫い合わされて、半年近くリハビリして、ほとんど後遺症もないような状態で戻ってきた』

 話はやがて洩れ伝わり、屋敷のものはみな帰って来た凪を恐れていたのだと辰巳は言った。

 誰からも見捨てられて生き地獄へ落ち、それを強い精神力で耐え抜いて戻ってきた凪。その暗い激しい憎悪の念が自分たちに向けられているのかもしれない、と思うことの、理屈抜きの恐怖。

 笑顔を失い、代わりに凍てついた表情と憎悪の炎を宿した瞳を持ったまま、凪はバングラディシュへ送られていった。

 6年経って、帰ってくる少年たちの中に凪の名がないことを確認した辰巳たちは、心の底から安堵したと言う。

『……旦那様は……凪を見殺しにしたことを気にしておられてな。どんな目にあったのかをご自身の目で見たい、と仰って、警察から証拠の品を取り寄せたんだ。それが、パーティーの最中に撮影されたビデオテープでな……』

 言いながら、辰巳は吐きそうな顔になった。

『……俺も一緒に見た……それで、後悔した。人間の見るものじゃ、なかった……』

 寝台に括りつけられた幼い少女の、恐怖に歪んだ顔。ゆっくりと腕に食い込んで行く鋭利な刃。人のものとは思えない、凄まじい悲鳴。ぱっくり開いた傷口と、転げ落ちる腕。血飛沫の中で少女に圧し掛かって犯す男の、快楽に悦に入った醜悪な顔。囃し立てる周囲の観客も、すでに人の顔はしていなかった。まさに阿鼻叫喚の地獄絵図だった、と辰巳は、もう一度吐きそうな顔で語った。

『……凪が、本当にあんな目にあって、それでも生きてたと言うんなら。きっと、俺たちを殺すためだろう、と思ってたからな……今でも、俺はあいつがお嬢様の側にいると思うだけで気が狂いそうだ』

 泣きそうな顔をした辰巳を、サガは笑う気にはならなかった。

 自分が考えても。このままでは、いつか凪は女神を殺そうとするのではないか、という気がする。自分でもそれが解っているからこそ、出て行かせてくれ、と言っているのだ。

「……アテナ。私とて、あの娘を哀れと思わぬわけではありません。しかし、アテナの責任ではないではありませんか。全ては巡り合わせだったのです。あなたが罪悪感に捕われる必要は」

「違います!」

 沙織は、激しい声で遮った。

「そうではないのです。辰巳は……凪が、私を殺そうとして誘拐犯に間違えられたのだと言いませんでしたか」

「ええ。……違うのですか」

「違います。あの日……私は、車の中で待っているように、とおじい様に言われて、運転手が荷物を持っておじい様と共にビルに入っていくのを見ていました」

 そして。誘拐犯は、まさにその瞬間を狙っていたのだ。

 

 ドアを開けて幼い沙織を引きずり出した誘拐犯は、ろくろく顔を見もしないで沙織を近くの資材置き場へ連れ込んだ。

 手を縛られたまま隙を見て逃げ出した沙織は、必死で資材置き場を走った。

『おい、逃げたぞ!』

 男たちの声がする。

『入り口を見張れ!』

 沙織にはとても超えられない高い塀に囲まれた資材置き場で、外へ出ることもできなくて。沙織は、ただ必死に隠れて逃げ回った。

『来い』

 突然腕を引っ張られて、隅の小屋に引きずり込まれた。

『きゃ……』

『馬鹿!静かにしろ』

 ガッと口を抑えた小さな手の持ち主を見て、沙織は目を見張った。

 凪だった。

『……どうして……あなた、脱走して』

『この状況でよくそんな失礼な口が聞けるな。自分のこれからを心配したらどうだ?誘拐犯か、あいつら』

『……そうよ。凪、何とかしなさい。どうしたらいいの』

『黙ってろと言っただろう。見つかりたいのか?』

 ぱくん、と沙織は口を閉じた。

『小さな声で、質問に答えろ。あんた、連中の顔は見たのか』

『ええ。見たわ。ちゃんと覚えているわ。絶対捕まるんだから、あいつら』

 勢い込んで言った沙織に、凪は舌打ちした。

『金を取った後であんたが死ねば、その心配はなくなるよ』

『え……』

『仕方ない。上着を脱げ』

『……何て言ったの?』

『上着を脱いでこっちによこせ、と言ったんだ。今日のあんたはズボンを履いてる。運がよければ騙せる』

『……』

 沙織は、絶句して凪の幾らか蒼い顔を見つめた。凪が、じれたように手を伸ばして沙織から上着を剥ぎ取って羽織る。

『あんたはここで大人しくしてろ。ここはじいさんの車からそう離れてない。きっと誰かが探しに来る。大事なお嬢様だからな』

『……凪』

 ありがとう、と言いかけた沙織を、凪の一睨みが黙らせた。

『妙な勘違いをするなよ。あんたみたいな奴でも人間だから、仕方なく助けるんだ。それだけだ』

 言いかけた礼の言葉が、口の中で消えた。

『いいか。誰か他の人間がいたら、間違いなく、ぼくはあんたを一番後にしてる。この世で一番、生きる価値の少ない人間だからな。あんたは』

 冷ややかな目に、本気だ、と解った。

 沙織は、きゅっと唇をかんだ。

 そして。上着に袖を通して出ていこうとする凪に向かって、その先何年も後悔し続けることになる言葉を投げつけた。

『……私が、見つかった時にあなたのことを黙ってたら、誰も助けに行かないわね』

 ただ、悔しかったのだ。

 こんな時でさえ、沙織を心底嫌いなのだと思い知らせてくる凪に、何か一言慌てるようなことを言ってやりたかったのだ。

 しかし、振り返った凪の目には、今までで一番の。完全な軽蔑が込められていた。

『好きにしたらいい。あんたに情けを乞うつもりなんか、ない』

 ぱたん、と戸が閉まった。

『居たぞ!このガキ、手間かけさせやがって!』

 男の怒声と、殴りつけるような物音。

 小屋の中で、沙織は小さく身を丸めて、必死で耳を塞いだ。

 車の音が、遠ざかっていった―――――――

「……そのまま私は眠り込んでしまったようで、気がつくと辰巳に抱えられていました。外はもう夜でした――――」

 沙織は、俯いたまま語り続けていた。

「あの時。犯人たちが行ってしまってすぐ、私が助けを呼びに出ていたら、凪は助かったかもしれません」

「……あなたは子供だったのです」

「そうかもしれません。……けれど、けれど私は……」

 沙織は顔を覆った。

「言わなかったのです。凪が代わりに連れて行かれたと。屋敷に戻ると何も考えずに眠ってしまい、凪が誘拐されたのだと解ったのは、次の日の夜、犯人から連絡が入ってからでした。そして、お祖父様は――――――事件が公になれば屋敷に集めた孤児たちのことに注意が集まる、と考えて、犯人の要求を無視したのです。凪が殺されることも覚悟して」

 誰からも、見捨てられて。その後、凪のたどった運命は―――――――

「……何もかも私のせいなのです、サガ。凪は私のために生きたまま地獄へ落ちました。そして今、この世で一番私を憎み、軽蔑しています。どうしても、私はそれを忘れることができないのです……っ」

 その罪の記憶を抱えたままで、私は。どうして自分が女神だなどと言っていられたのでしょうか―――――

 絞り出すような沙織の声に、サガは彼女が凪を引き止めるわけをようやく理解していた。

 聖闘士たちを統べて地上のために戦う、という自身のアイデンティティを、沙織は失い始めているのだ。

 凪の姿に罪の記憶を掘り起こされ、罪悪感のために自分を信じられなくなっているのだ。

 その罪から逃げまいとしてあがく彼女の姿に、ほとんど反射的にサガはかつての自分を重ねていた。

“彼女は、人間・城戸沙織なのだ……アテナであるだけでなく”

 14歳の少女の肩に、罪の意識はどれだけ重く圧し掛かっていることだろう。自分が己の罪に耐え切れず、一度は自害したことが思い出される。

 後悔。自己嫌悪。罰を乞う思い。

 己の生した深い罪業への狂おしいまでの苦しみが、まざまざと甦った。

「……アテナ……」

 サガは、泣き崩れる沙織を抱きしめて呟いた。

 

 アテナの気分が優れないため、一度話を保留して海皇の元へ戻る、と告げてアイザックは聖域を辞した。

 街まで送って宮へ戻ったカミュは、もう一人の愛弟子である氷河が居間で深く俯いているのを見た。

「……氷河」

 カミュは、歩み寄って少年の肩に手をかけた。

「カミュ」

 氷河の目が師を見上げる。その苦悩に満ちた色に、カミュは痛ましい思いが胸を刺すのを感じた。

 カノンに海底で仕えていたと言う少女。氷河にとっては仲の良かった幼馴染みであり、腹違いの兄弟でもあると言う。

 アイザックからも、海底で海闘士たちに尽くしてくれた暖かい少女の話は十分に聞いた。

 カノンと凪が、傍目にも心の通い合った主従であったと言うことも。

“……ならば……なぜ、愛する弟たちの、忠誠を誓った主のためだけにでも、憎しみを捨てることができないのだ?あの娘は。ひとこと、アテナに許すと言いさえすれば、アテナも氷河もカノンも、みな救われるものを”

 些か腹立たしい思いで、カミュは氷河の蒼ざめた顔を見下ろした。

「……氷河。あの娘のことならば、悩むな。お前のせいではあるまい。主のカノンですら、あの娘の強情には手を焼いているのだ」

 慰めのつもりで口に出した言葉は、ことのほか強い反応を引き出した。

「……違う!!違うのです、我が師カミュ」

 激しく頭を振った氷河に、カミュは目を見張った。

「氷河」

「……カミュ。俺は……凪に。俺だけしか、知らないことがあるのです。星矢も紫龍も、恐らくお嬢さんでさえ」

「……!?」

 カミュは、戸惑った思いで愛弟子の必死の眼差しを見やった。

「お前しか、知らないことだと?……それは、一体」

「カミュ。……俺の兄弟たちにも、沙織さんにも……告げないほうがよいのか、それとも告げるべきであったのか。俺は……ずっと考えてきました。聖域に凪がいる、と聞いた日から」

 幾ら考えても。答えが、出ないのです――――――

 絞り出すような声。カミュは、弟子の肩を抱き寄せた。

「……氷河。お前しか知らないこと、と言うのは、一体何なのだ……?」

 氷河の震える唇が開く。そこから堰を切ったように迸る話に、カミュは意識を集中した。

 

 カミュが、黄金聖闘士全員と青銅の少年たちの立会いのもとでアテナの御前に凪を呼び出したのは、それから二日後のことだった。

 シャカやシュラの冷ややかな視線と青銅の少年たちの戸惑いの目を浴びながら、昂然と顔を上げて凪は口を開いた。

「――――今日のお呼びは水瓶座アクエリアスのカミュ様と伺いました」

「そうだ。……私と氷河から、皆に知らしめたいことがあるのだ。お前にも聞かせた上でな」

 カミュが冷静な声で答える。その横では、氷河が蒼いながらも既に腹を括った顔で凪を見すえている。

 氷河から、という言葉に、凪の表情にかすかな動揺が走る。

「よかろう。カミュ、始めるが良い」

 サガの声に促されたカミュが、一息おいて言った。

「ナギと言ったな。まず、7年前、お前は氷河に向かって、自分は城戸光政の子ではない、と語ったというが、それは真実か?」

 静まり返った場に、驚きの色が走った。

「……え?」

 星矢の呟きが響き渡り、沙織の目が大きく見開かれる。

「ま……待って下さい、カミュ。そのようなことがあるはずは、ありません。祖父は十分な調査を行いました。凪の母親についても」

「アテナ、それは疑っておりません。光政翁には確かに凪という名の娘がいたのでしょう。ですが」

 カミュの目が、凪の血の気の失せた顔を真直ぐ睨み据えた。

「そこにいる娘は、凪と言う名ではありません。……真実の名は、氷河も知らぬそうですが」

「……!!」

 今度こそ、仰天して口もきけない一同の前で、氷河と凪の視線がかち合って火花を散らすのが見えた。

 

 

070201 up

 

 

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