「イレギュラーの神様」

(14)

 

 さすがに双児宮には泊まりきれず、アイザックと氷河は、カミュの預かる宝瓶宮に宿泊することになった。

 氷河はカミュに合わせて数週間いる予定だが、ポセイドンの使者として来たアイザックはアテナの返事が届き次第ポセイドンの元へ向かわねばならない。

 まずサガとの会見と言う大仕事を済ませ、それからやっと宮へ入ってざっと荷物を片づけたシベリア師弟の三人は、一息つけ、というミロに引きずられるようにして、カフェテリア双児宮にやってきた。

「お久しぶりです、アイザック様」

 相変わらずウェイトレスを勤めているナギは、氷河が星矢、紫龍と再会の挨拶を交わす横で、アイザックに頭を下げた。

「お前か」

 アイザックが、幾分懐かしそうに目を細める。カノンは、その光景に苦笑を洩らした。

「既に知っていたか。ソレントの奴だな」

「は。ナギもシードラゴン様を慕って聖域にいる、と」

「押しかけの家政婦でございます」

 明るく笑ったナギが、続いて、後ろで弟子たちが旧交を温めるのをミロの横で見ているカミュに挨拶を述べる。

「水瓶座アクエリアスのカミュ様。アイザック様と氷河の師であられる、氷雪の聖闘士でいらっしゃいますね。初めてお目にかかります」

「……ああ」

 カミュは、しげしげと少女の顔を眺めた。

「お前が……ナギか。氷河や星矢たちの腹違いの兄弟であり、海底神殿ではカノンの小間使いであったと言う」

「はい。アイザック様には、海底神殿で大変お世話になりました」

「そうか」

「……別に世話をした覚えはない。世話焼きはお前のほうだった」

 ぶっきらぼうに言うアイザックに、ナギがクスクスと笑う。

「遠路、お疲れ様でした。冷たい飲み物を用意いたしましょう」

 踝を返したナギに星矢が慌てて何か言おうとしたが、その時にはもうナギは宮の中へ引っ込んでしまっていた。

「……ちぇー。せっかく氷河が来たってのによ。仕事仕事って、融通のきかない奴になっちまってさ」

「支度を終えたら落ち着いて話せるだろう。少し待っていろ、氷河」

 星矢と紫龍の言葉に、氷河が

「……ああ」

と生返事を返して向き直る。

「アイザック。あいつは本当に聖闘士でないのか?海闘士でもないと言ったが、間違いはないか」

「何度も言ったろう。確実にない」

 アイザックが、幾分呆れ顔で答える。

「少なくとも、海闘士でないのは絶対だ。聖闘士かどうかについては、シードラゴン様の方が詳しいはずだが、俺もまずないと思う」

「そいつは保証つきだ」

 言葉を添えたカノンが、氷河の釈然としない顔を見やる。

「星矢と紫龍もそうであったが、お前もか。あれが戦士でないのがそれほど意外か」

「あったりまえだろー!」

 氷河に代わって、星矢が口を尖らせる。

「あんなに強かったのにさあ。カノンが訊くなって言うから何も聞いてないけど、まだ納得できないぜ。な、氷河」

「……いや……」

 氷河がまた生返事を返したとき、ナギが盆を捧げて戻ってきた。

「お待たせいたしました。どうぞ」

 他の者と違って、三人の分だけ冷たいグラスが並べられる。それを見て、アイザックの口元がかすかにほころぶ。

「すまない。カミュと氷河も、飲んでみてくれ。これの茶は、疲れが取れるのだ」

「そうか、では貰おう」

 カミュがグラスを取って口をつける横で、ミロには湯気の立つカップが差し出される。

「ミロ様は、カフェオレでよろしかったですか」

「ああ、悪いな」

 ミロが嬉しそうにコーヒーの香りを吸い込む。

「氷河。良かったら、君も」

 差し出されたグラスを、氷河は一瞬凝視した。

「……ああ」

 グラスを受け取った時、ほんの少し互いの指が触れた。ナギの手は燃えるように熱く、氷河は歪みかけた表情を、強いて抑えた。

“――――――――凪……”

 彼の知っている唯一の名を、心のうちで呼ぶ。

“生きて……いたのか……”

 ならばなぜ、この聖域にやってきた――――

 かつての凍てついた激情が嘘のように凪いだ瞳を見るのが何故か恐ろしく、氷河はグラスに口をつけながら背を向けた。

 目の前では、アイザックとカノンが懐かしげに海底の話に興じ、他の者が面白そうに耳を傾けていた。カミュも、ミロの横で優しい顔で微笑んで話に聞き入っている

 ―――――平和の匂いがする、と氷河は思った。

“続くのか。守られるのか、この平和は”

「な、氷河。お前も話しろよ。シベリアのこととかさあ」

 星矢が氷河を呼ぶ。

「……そうだな」

 破壊の足音に耳を塞ぐようにして、氷河は、話の輪の中に入っていった。

 

 夜。

 氷河たちが宝瓶宮へ去った後、双児宮の居間で、星矢は宿題のテキストを開いていた。

「凪―。枕草子の作者って、誰だぁ?」

「清少納言。平安時代に、天皇の后の一人、藤原の定子に仕えていた女官の一人」

 隅で繕い物をしているナギが、即答する。

「ほいじゃ、奥の細道は?」

「松尾芭蕉だよ」

「サンキュっと。ほい、国語はこんでオッケー。次、理科な」

「いいよ」

 星矢の質問に、片っ端からナギが答えていく。

 夕食をたかった後のムウ、ミロ、デスマスクなどは、茶を啜りながら感心してそれを眺めていた。

「……見事ですねえ」

「ああ。ちゃんと星矢のレベルに合わせて解るよーに噛み砕いてやってるあたりが、またすげえ」

「うむ。俺にも解るぞ」

「星矢と同レベルになってどうする……幾つなのだ、君は」

 突っ込むアフロディーテ。

「いっそお前も教えてもらったらどーだ?アイオリアと一緒によ」

「ん?何のためにだ。科学だの英語だの、知らなくとも俺は少しも困ってないぞ」

 胸を張って断言するミロ。ムウが肩を竦める。

「言っても無駄ですね……そういう人です、ミロは」

「この筋肉馬鹿が……おい姉ちゃん、水素原子内部に置けるある一点の電子の存在確率は?」

「……です」

 相変わらず、大学レベルの問題でも星矢の宿題でも一向に解答時間の変わらない様子に、デスマスクが一冊の本を投げる。

「物理学も十分いけそうだな。それ、訳しといてくれ」

 ドイツ語のタイトルがついた結構な分厚さの本だったが、ナギはすんなり受け取った。

「かしこまりました。イタリア語でよろしいですか?」

「ギリシャ語と両方やってくれると助かるな。他の奴にも見せるかもしんねえし」

「はい。いつ頃までに必要ですか?」

「早いほーがいいな。一週間でどーだ?」

「ええ。それなら」

 頷いてパラパラめくるのをちらりと見たミロが、ゲッと声を立てる。

「……文字より数式の方が多いように見えるんだが」

「おう。量子物理学の最新理論だ」

 デスマスクがニヤリと笑う。

「式だけ見てりゃ大体は解るが、ちっとはっきりしねえとこがあってよ。丁度良かったぜ。頼むな、姉ちゃん。解説までついてっとなおいいが、そこまでは期待しねえからよ」

「いえ。一週間あれば、図の解釈もお付けしますが」

「…………マジかい。じゃ、やっとけ」

「はい」

 本を傍らに置くナギを見ながら、ムウも考え込むような表情になる。

「翻訳は14ヶ国語やれると言いましたね……私も、英訳のない本が幾つか手元にあるんですが。ジャンルは地質天文学ですが、あなた、いけますか」

「どうぞお持ち下さい。私でよろしければ、やりましょう」

「しかし、ずいぶん時間がかかるでしょう。専門書を一冊訳すと言うのは」

「シャカ様に哲学書の翻訳を頼まれた折に、カノン様がパソコンの使用を許可して下さいました。さほど手間は掛かりません」

 笑顔のナギに、ミロがうーむと感心した声を立てる。

「なるほど……俺も一つ頼むか」

「……お前が何の本だよ、翻訳さしてまでよ?」

「うむ。この前、街で日本のマンガを買ったのだ。実に面白かったのだが、続きの英語版はまだ出ていないそうでな。瞬か誰かに頼んで送ってもらって、訳してもらおうかと」

 ムウとデスマスクが、2人揃って軽蔑の視線を注ぐ。

「……何だ?俺は何か変なことを言ったか」

「……何でもありません。実にあなたらしいと思っただけですが、一番後にして下さいね」

「て言うか、断わっていいぞ。そんなもん」

「いえいえ。コミックは手間も掛かりませんし、喜んでやらせていただきますよ。ミロ様」

 愛想のいい返事に嬉しそうな顔になったミロを、デスマスクが横目で見る。

「その暇があったら、お前、サガの秘書でもやってやれや」

「とんでもない。私などでは、とても」

「並みの秘書よか遥かに優秀だぞ。海底神殿じゃ、カノンも結構、仕事やらしてたらしいじゃねえか」

「只の計算機と辞書代わりです。お側で聞かれたことに答えるだけで、それほどのお役には立てませんでしたよ」

 笑って、ナギは終わった繕い物を抱えて立ち上がり、部屋を出ていった。

「……計算機と辞書ってのも普通は無理だぞ」

 閉まったドアに向かって、デスマスクが突っ込む。

「一体幾つなんでしょうね……彼女のIQ」

「俺らよか確実に上だけどな」

「450。確か」

 理科の教科書から顔を上げた星矢の声に、ムウとデスマスクは同時に振り向いた。

「……本当か?それ」

「うん。沙織さんちに来る前、施設で計ったんだってさ。俺は良く知らないけどさ、それって天才なんだってな」

「……超がつきますよ。IQ450ね……生まれつきですか」

「さー?でもさ、聞いてくれよ。酷いんだぜ」

 星矢が口を尖らせる。

「凪が言ってたんだけどさ。母さん死んでから、施設の連中みんなが気味悪がったんだって。力も強いし、化け物だとかって言われてさ」

「……ああ」

 ムウは、小さく呟いた。

 誰よりも、解る。

 聖闘士としての能力は修行で身に付けたが、彼の超能力は生まれつきだった。

 師であるシオンに引き取られるまえ、うんと幼いころに悪魔と呼ばれて石を投げられた記憶は、幾年経っても薄らぐことがない。

「怖がられてよく苛められてたから、殴られるのにも慣れてるんだって言うんだぜ?あんまりだろ。あいつ、あんなに優しい奴なのにさ」

「……星矢は怖くなかったんですか?彼女のことを」

「怖いわけないじゃん。あいつ、自分より弱い奴には何されたって我慢する奴なんだぜ。切れるのだって、いつも俺たちのこと庇うときだけで、それだって相手がガキなら殴ったりしないもんな」

 星矢が憤然として言い切る。

「俺が苛められてると、黙って抱え込むみたいにして守ってくれてさ。卵守る親鳥みたいな格好で」

 いいながら、星矢の脳裏にまた甦る思い出。

 凪が来て少ししたころ、紫龍と離れたときに、仲の悪かった子供たちに囲まれた。

 多勢に無勢で袋叩きになりかけた星矢を、駆けつけてきた凪が抱き込んだ。

 蹲った二人を囲んで、頭や背中を蹴りつけてくる子供たち。

『畜生っ、やめろよ!凪、離せよ……っ』

『いいから。……殺されるわけじゃない。すぐに終わるから。星矢』

 抵抗しない2人に、やがて子供たちが手を止めて行ってしまった後。痣だらけになり、あちこちの擦り傷から血を流した凪を前に、星矢は長いこと泣いていた。

『……何でやり返さなかったんだよ?凪、あんな連中よりずっと強いくせに!何で黙って殴られるんだよ!?』

『星矢。あの子達が、どうしてああしたか、解る?』

 そう言って、凪は視界の端にいる黒服を指差した。

『あ……』

 子供ごころに。朧げながらでも、星矢にも解った。

 反抗的で目をつけられている、星矢と凪。

 あの子供たちが実際にたきつけられたのか、それとも自発的に屋敷の人間の機嫌を取ろうとしたのかは、定かでないけれど――――――

『う……』

 情けなさと惨めさで、また悔し涙を流した星矢を、凪は抱き寄せて頭を撫でた。

『すまない。君たちを救う力はぼくにはない。だけど、せめて君を傷つけさせないくらいのことは、ぼくにも出来るから』

 あの子たちを、憎むな。同じ苦しみと惨めさを味わっている仲間を、ぼくのために憎まないでくれ――――――

『お願いだよ。星矢』

 その時の星矢には。凪が言いたいことは何となく解ったが、それはたまらなく理不尽なことに思えた。

 悪いのはあの子供たちじゃない、というのなら。一体、悪いのは何なのか。星矢は凪に守ってもらえるけど、じゃあ凪が殴られて血を流したことの仕返しは、誰にしてやればいいのか。星矢は誰に向かって怒ればいいのか。

 どうしても納得できなくて泣く星矢を、凪はいつまでも抱いていた――――――

「……星矢?」

 黙り込んでいた星矢は、ムウの声に我に返った。

「話はそれでおしまいでしたか。てっきり続きがあるのかと思って待っているんですけどね」

「……ん」

 星矢は、鼻をこすって続けた。

「そいでさ、凪が。大抵の場合、誰かが酷いことするのは、やな奴だからじゃなくて弱い奴だからなんだって。弱くてつい酷いことしちまう奴ってのは、やりながら自分も怖くて泣いてるもんだって」

「……」

 今度は、ムウの方が沈黙した。星矢がムウの表情には気づかずに続ける。

「凪、そういうの凄く可哀相だと思うって。凪は、少なくとも弱いせいで誰かを傷つけるようなことはほとんどないから自分を嫌いにならないで済むわけで、そっちの方がずっと幸せだよってさ」

“……!”

 ムウは、ギュッと目を瞑った。

 自分に石を投げた人々は、自分を捨てた両親は、それで幸せになったろうか?ワンワン泣く子供を捨てた自分を、幼い子供に石を投げつける自分を、好きで居られたろうか?

 親に嫌われて石をぶつけられた自分だって、それはもちろん、自分の力が恨めしかった。

 でも―――――少なくとも、ムウは。成長した今、その点については自分に恥じることは何もない、と胸を張れるのだ。

「だから俺にも強くなって欲しい、って言ってた。自分を嫌いになるようなことはしない俺でいろって。それがどんなに苦しくても、きっと後で自分を嫌いになることの方がもっと辛いからって。その時は、難しくて解んなかったけど。聖域で修行して聖闘士になって戦って、やっと解った気がするぜ」

「……ええ」

 ムウは、掠れた声で呟いた。

「解りますよ……それは。とても、とても正しい言葉です」

“あなたの言う通りです。私も、もう許してもいいのかもしれませんね”

 自分を捨てた両親を。

 だって今の彼は、とても幸せだから――――――

「……ありがとう」

 唐突に礼を言ったムウに、星矢がきょとんとした顔になる。

 ムウは、黙って静かに微笑んだまま、ゆっくりとその顔を見返した。

 

 日本。

 城戸邸の庭園の片隅で、グラード財団の総帥でありながら人の姿をした地上神でもあるもう一人の少女は、何故か隠れるようにして、手紙を広げていた。

「……解りました」

 顔を上げて使いのものを見やった沙織の視線の先には、かつて水底の神殿で見覚えのある戦士の顔。

 今は服装の違うその雑兵を見下ろす少女の顔は血の気が引き、手紙を持つ白い手はかすかに震えている。

「ポセイドンに、伝えなさい」

 それでも、声に迷いはなく、その響きは侵し難い高貴さを湛えていた。

「全て承知したと。このアテナが、万事うまく取り計らって見せます」

「はっ」

「連絡をくれたことには感謝しますが、彼が動く必要はありませんから。手を出さずに、見ているようにと、そのように告げなさい。いいですね」

「……承知いたしました」

 使いのものがすっと消える。

 沙織の傍らに立った守り役の男は、心配そうに主人の顔を覗き込んだ。

「お嬢様……ポセイドンの奴が、一体何を」

「辰巳。お前は、気にしなくとも良いのです」

 気丈な主の声に、男が黙る。

「……星矢たちは、今、聖域にいるのでしたね?」

「はあ。氷河もだそうですが」

「解りました。……辰巳。今すぐ支度をなさい」

「へ?」

「私も、聖域へ参ります。今すぐに」

 少女の声は、断固とした響きを持って庭園にこだました。

 

 

061214 up

 

 

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