「イレギュラーの神様」

(11)

 

 食休みの後、星矢と紫龍はシュラとアイオリアに連れられて夜の稽古をした。

 帰って来た四人に凪が夜食を出し、結局、凪と星矢、紫龍が水入らずで話せたのは、二人の泊まる部屋だった。

「……で、さ!一輝がフェニックスで、氷河がキグナス。瞬は、アンドロメダなんだぜ」

 一生懸命に喋る星矢の横で、凪がいちいち懐かしそうに頷く。

「そっか。一輝も瞬も、聖闘士になったんだなあ」

「ああ。後は、邪武に蛮、那智と市と、それに檄だな」

「なるほどなあ。……ええと、氷河はキグナスだって?それ、シベリアで修行したんだよな」

「そうだぜ。宝瓶宮の、水瓶座アクエリアスのカミュのとこに弟子入りしてさ」

「うん。シベリアにおられるとかで、まだお会いしたことはないけど。弟子ととても仲の良い方だと伺ってる。それ、氷河のことなのか?」

「間違いないな。本当に仲の良い師弟だぞ、あそこは」

「そうか……じゃあ、ひょっとして。海将軍の一人、クラーケンのアイザック様をご存じないかな」

 凪の言葉に、星矢も紫龍も「あ」と短く声を上げた。

  ポセイドンの海闘士の一人で、北氷洋の柱を守る海将軍、クラーケンのアイザック。

 氷河と同じくカミュの弟子で、死んだと思っていた彼に海底で再会した氷河は、哀しい戦いを乗り越えて柱を砕いたのだ。

「……そうか!お前、海底神殿にいたと」

「アイザックのことも知ってるのかよ?」

「うん。不器用だけど、親切な方だったよ。内緒にしておられたけど、シベリアで聖闘士の候補生だったことがあるって聞いたことがあって、ひょっとしたら、と」

「ああ、そうだ。氷河の同門で、だからあの戦いの時は辛かったと言っていた。かつての友を自らの手で葬ったのだからな」

「……そう、か」

 ちょっと迷った凪が、宙を見る。

「頑張ってきたんだね。皆」

「……まあな。特に、日本に戻ってからは、息をつく暇もないほどだったな」

 紫龍が椅子にかけたまま口の端を上げ、ソファにもたれた星矢が嘆息する。

「考えると、つくづく忙しかったよなあ。今みたいに、家族と普通に暮らしてるのって、何か不思議な気がするくらいだぜ」

「……え?」

 凪が振り向く。

「家族って……」

「……あ……」

 星矢は、はっとした。

“やべ……”

 何てことだろう。そうだ、それを言うのを忘れていた。しかし……何と言えばいい?

『……頑張ろうね、星矢』

 別離の哀しみに泣く星矢を、夜も昼も慰めて力づけてくれた、凪に。

『きっと会えるよ。ぼくも、そう思ってるんだ。必ずまた会えるように、強くなろうよ。ね……』

 同じ辛さを背負っている、と思うことが、あの頃の星矢には支えだった。

 凪は解ってくれるのだ、というその実感が、いつも星矢に生きる力をくれた――――

「……あの、さ。俺……姉さん、見つかったんだ」

 星矢は、俯きながらボソボソと話し始めた。

「しばらく行方不明になっててさ。けど、聖戦の時に魔鈴さんが見つけてくれて……ギリシャに来てたんだ。そいで、今、日本で一緒に暮らしてるんだよ」

 一息に言って、星矢はそろそろと顔を上げた。

 凪は、満面の笑みを浮かべていた。

「良かったじゃないか!凄いな、星矢!おめでとう!」

 少しも取り繕ったところなどない祝福の声とともに、凪は星矢を抱きしめた。

「一緒に暮らしてるって?良かった、ずっと気になってたんだ。本当に、良かった」

 まるで自分のことのように嬉しそうな声を上げる凪の、温かい腕の中で。星矢は目を伏せていた。

「あの……何か、ごめんな。俺だけ……」

「え?」

「凪は……弟のこと。……凪、ずっと俺のこと励ましてくれてたのに。俺、一人で……悪くって……」

「……バカを言うな」

 凪が、あきれた顔になってコツンと星矢の頭を小突く。

「悪いわけ、ないだろ?謝るなよ」

「……だってさ」

「大事な、大事な、お姉さんじゃないか。これから、星矢がお姉さんを守って行くんだろ?幸せだよね?」

「……うん」

 子供のように頷いた星矢の頭を、凪の暖かい手が包むように抱き寄せた。

「星矢の幸せを、ぼくが喜んじゃいけないのか?バカなことを言っちゃ、ダメだ」

「……ありがと」

 ぐす、と啜り上げた星矢と優しい表情の凪。その空気を読んだようなタイミングで、紫龍が、ゆっくりと口を開いた。

「……お前も、兄弟だろう。凪」

 星矢が、思い出したように顔を上げる。

「そうだ!……ええと、あのな、凪。俺らの父親、光政のじいさんなんだって!」

 星矢は、大急ぎで、自分たち100人の父親が、実は城戸光政であったことを語った。

「だからさ。お前もそうなんだよ」

「……そっか」

 凪が、穏やかに微笑を浮かべる。その目に驚きの色はなく、星矢はやや意外な思いで次の言葉を聞いていた。

「知ったのか。あの孤児たち、実は全部彼の子だったって話」

「……お前も知っていたのか?氷河は母親から聞いたと言っていたが」

「まあね。施設の人から、聞いてたよ」

 凪は、天井を見上げた。

「弟が引き取られないで施設に残ったのは、身体が悪かったせいだけじゃなかった。あのじいさんの子供じゃなかったからさ。母さんは、じいさんと別れた後に結婚してたからね」

「……」

 星矢も紫龍も、軽くため息をついた。

「えーと。あのさ、あのじいさんのこと、嫌な奴だと思ってるだろうけどさ。色々考えてたみたいだし……その、あんまり悪く思わないでやってくれてもいいかな、とか」

 しどろもどろで、あまり説得力のない言葉を並べる星矢に、紫龍が言葉を添える。

「……彼は。地上の正義のために子供を捧げるつもりだったのだ、と聞かされた。俺も、まあ父親として愛情を抱く、と言うのは無理だが、恨むつもりはもうないんだ」

「ああ、ぼくだって、今さらあのじいさんにどうこう、という気はないさ」

 凪が苦笑する。

「少なくとも、君たちの父親だ。何より、可愛い星矢のね。そう思うことにしてるよ」

「……そっか」

 星矢は、明らかにホッとした顔になった。

「でもさ。俺、お前と本当の兄弟だってのは、ちょっと嬉しいんだぜ。だって、お前も、俺の本当の姉貴なんだからさ」

「……」

 凪の目が、不意に切なく揺れた。

「……ありがとう、星矢。そうだね……君が、ぼくの弟だったんだ。ずっと、そう思ってた」

「瞬もだし、氷河だって紫龍だってそうだ。ほいで、一輝はお前の兄貴なんだぜ」

 星矢が、一生懸命に続ける。

 その肩に顔を埋める凪と、何も言わずに見つめる紫龍。

 窓の外では、哀しい兄弟たちの語らいを、星々が見下ろしていた。

 

 一方。

 サガの手配した徹底調査の結果は、とりあえず第一報が三日で出た。

「……」

 恐ろしく不愉快そうな顔をしているサガの前には、黄金聖闘士全員が揃っている。

 もちろん、カノンもである。

「さて、結果はどうだったのかね?サガ」

「その顔見ると、大体想像もつくけどな」

 シャカに続いてしゃらっと言ったデスマスクの声に、サガは重い口を開いた。

「……ああ。あの娘がいたのは、バングラディシュの駐在所だ。白銀聖闘士の一人が担当していたが、現在は引退して、聖衣を預かるものは未定の状態だ」

「それで?」

「この報告書によると、あの娘は非常に有望な候補生だったそうだ。8歳当時で、既に岩が砕けるほどのな。精神的な面も、少なくとも他の者より先に逃げ出すほどの落ち零れであったとは言えん」

「……それがなぜ、娼館で働くことに?」

「それも、娼館に当たったらすぐ解った。……指導に当たっていた白銀聖闘士が、あの娘を売ったのだ。幼い子供ばかりを売り物にしている娼館から、金を受けとってな」

「……」

 場の全員が、忌々しそうな顔で嫌な気分を噛み締める。

 まさか、と思いたかったが、本当にそれか。いやしくも、正義を守るアテナの聖闘士がそんな所業に及んでいようとは。

「汚らわしい。さっさと処分したまえ」

 シャカが冷たい声音で宣告し、シュラが強く頷く。

「そのような下衆な輩を許しておくべきではない。仮にもアテナの聖闘士が、何とおぞましい真似をするのだ。信じられん」

「確かに。現在は引退の身であっても、許せることではないな」

「……まあ、待て」

 カノンが、みなの罵る声を遮った。

「カノン!君はなぜ平気でいるのだ?あの娘の主なのだろう!」

「だから、少し待てと言ってるだろう。……サガ。その報告書にはまだ続きがあるだろうが」

 弟の視線を受けたサガが、無表情に見返す。

「続きと言うと?」

「惚けるな。その聖闘士は、なぜそこまでして金が必要だったんだ?」

 カノンの声に、皆がサガを見た。サガは、苦い顔で再び報告書を手に取った。

「……報告によると。その聖闘士には、内縁の妻と子がいた。そして子供は凪と同い年だが、凪の来る一年前に病にかかっている。腎臓の不全から来る重度の病だ。医師が再三移植手術を勧めたが、母親は経済的な理由のために辞退していた。しかし凪が訓練場から姿を消した数日後、子供は手術を受けている」

「…………」

 その場の全員が、今度はやりきれないような顔で黙り込んだ。

 子供の病気。聖闘士の妻帯は禁じられていないが、アテナが聖域にある、つまり聖戦を控えた状態での妻帯者は少なく、その白銀聖闘士は周りを憚ったのだろう。そして、子供の病気で聖域に金をせびるのなど、普通でも困難だが、内縁の状態ではほとんど不可能だ。

「……腎臓の病気は日常的に様々な制約を強いるものだが、その子供は特に重く、移植を行わなければ命も危ないというところだったそうだ。しかも、大きな病院で名医を頼まなければならないし、手術そのものに金がかかるだけでなく、移植後も通院と高価な投薬を必要とするそうでな。その聖闘士は、その全額を耳をそろえて都合している」

 サガは、報告書を机の上に放り出した。

「カノン。お前は、知っていたのか?」

「……ああ。俺も、そこまでは調べた。海底にいた頃にな」

 カノンが、複雑な表情で兄の視線を受け止める。

「ついでに言わせてもらう。そいつの弁護をするつもりはないが、あれも知ってたんだぞ。何のために自分が連れて行かれるのかも、どうして師匠がそうするのかも、全部な」

「……子供だろう。8歳の」

「本当に賢い子供だったんだ、あれは」

 カノンが言い返す。

「子供の病気は、訓練場でも話題になっていたそうだ。師匠が金が都合できなくて困っていることもな。その時、女の候補生は一人だけで、師匠があれの身体に傷がつかないよう注意し始めたときから予想はしていたと、そう言っていた」

 

 海底の神殿。海龍シードラゴンの居室で、今のサガのように、報告書を片手にカノンが問い詰めたとき、凪は疲れたようにため息をついていた。

『……子供は、どうなったのでしょう?シードラゴン様』

『子供?ああ、元気になったようだ。通院しながら、つつがなく暮らしているそうだぞ。親子三人でな』

『そうですか。安心しました』

 意外な言葉に、カノンはまじまじと召使いの冷め切った顔を見た。

『……腹は立たないのか?お前をそのような目に合わせて、同じ歳の子供がのうのうと二親の元で暮らしているのだぞ』

『腹が立つと言っても……ぼくも、承知の上でしたから』

 凪は苦笑した。

『自分の身体が金になることは、その時点で既に知っておりました。助かって欲しい、と思って値を吊り上げてやったつもりでしたが。足りたようですね』

『……その子供と親交があったのか?』

『いいえ。見たことはありませんが。ただ、そこで一人の子供を見捨てられる自分なら、生きていても仕方があるまい、と』

 冗談の気配もなく言った凪を、カノンは理解を超えるものを見る思いで眺めた。

『……何者のつもりなのだ、お前は』

『と、申しますと』

『神ではないのだぞ、お前は。取るに足らぬ、ただの小娘であろうが。なぜお前が、その子供を救わねばならんのだ?』

 カノンの質問に、凪は笑った。

『神であったら見捨てていますよ、シードラゴン様。神とは人を救わぬものであるから、人が人を救うのではありませんか?』

 笑い続ける凪の目は、以前に。造物主に会いたいと言った、そのときと同じ色をしていた。

『……神ですら見捨てたものならば、人はなおさらではないかと俺は思うがな。少なくとも、俺は神に捨てられたものを拾おうなどとは思わん』

 言ってしまってから、カノンは自分が神にも親にも捨てられたこの少女を拾ったのだと言うことに気づいたが、少女はそれを持ち出しはしなかった。

『そうかもしれませんね。では、神が捨てたものを拾うのは、鬼か魔か……その辺りで、どうでしょう』

 少女の言葉に、カノンは肩を竦めた。

『お前が鬼か?アホらしい。己の身を生贄にして赤の他人の子供を救う鬼など居るか』

 呆れ顔で言ったカノンに、凪は、心から嬉しそうに笑い返した。

『どちらでも、構いません。先生の子は、助かったのですね?ならば、それで良いのです』

 その幸せそうな笑顔に、カノンは何故か、にじみ出るような哀れさを感じた。

 彼女を買い取ったときと、同じ哀れさを――――――

『……もうよい。下がれ』

『はい』

 出ていく凪の後姿を見ながら、カノンは調査書を丸めて火をつけた。

 そして、二度とこの件はほじくり返すまい、と心に決めて、次の仕事に移った。

 

「……どこまでめでたいんだ、と些か呆れたがな、あの時は。承知の上だった、と言うのは嘘ではないと、俺は思っている」

 カノンが話を締めくくり、また場に微妙な空気が漂う。

「……どこまでも、優しい子なのですね。紫龍と星矢の話を聞いたときも思いましたが」

 ムウが嘆息する。

「だからと言って、俺たちまでが気にしないわけにも行くまい」

 アイオリアが渋い顔で突っ込み、ミロが頷く。

「ああ。そのようなことが起きるのは、聖域の管理が行き届いていないからだ。俺たちにも責任はある」

「全くな。だからカノンは黙ってたわけだ。あの姉ちゃんが昔は聖闘士の卵だって話もよ」

 デスマスクの言葉に、何人かがはっとした顔になってサガを見た。

 そうだ。7年前ならば、サガが偽教皇として聖域に君臨していた頃の話だ。

 サガ自身も、それは初めから自覚していたことらしく、渋い顔で弟を見ている。カノンは、そっぽを向きながら言い返した。

「……あれも今は売春婦ではないのだ。今さらそんな話を持ち出して兄貴を落ち込ませても、俺が鬱陶しいだけだろう」

「……私への気づかいだったのか?それで、あの娘にまで口止めをしたか」

「そういう訳じゃないけどな。あれも、聖域に世話になってる身分で昔の不祥事を蒸し返したくない、と言って賛成してくれた。兄貴に後ろめたい思いなんぞして欲しくない、と言うのもな。『もちろんサガ様の責任でなどありませんが、きっと気になさるでしょう』と言ってくれたから、ありがたくもらっておいた」

「……それで」

「ただ、青銅の中に昔の知り合いがいるかもしれん、というのもその時に聞いてな。会った時は『脱走した』で通そうと話し合った。まさか星矢たちの兄弟だとは思ってなかったから、あの時は本当に驚いたんだぞ」

「……初め、知らん振りをしたのもそのためですか。いやはや」

 ムウは首を振った。

「不幸を背負う星のもとに生まれてきたような子ですね。他人の代わりに」

「……己の保身のために一人の子供を見捨てられる自分なら、生きていても仕方ないと。そう言ったか」

 アイオリアが残念そうな顔で言う。

「立派な聖闘士になったであろうにな。その心がけは褒めてやりたいものだ」

「……しかし、私への心遣いまでは無用だったと思うがな」

 サガは、弟を睨みながら言った。

「そのためにお前や、ましてあの娘に負担をかけるほど、私は弱くはないぞ。カノン」

「……それは悪かったな」

「責任から逃げるつもりはない。あの娘への償いからも、だ」

「ふん。言っておくが、どう責任を取る気だ?また己の胸をついて死のうなどと思われては、それこそ迷惑だぞ」

 ちろっと睨み上げたカノンの目を見返して、サガは微笑を浮かべた。

「安心するがよい。そのような気はない。死は何の償いにもならぬ、と言うのは一度やってよく解ったからな。もっとも、あの娘が望むのであれば、話は別だが」

 サガの天使のような微笑に、カノンがバカバカしそうに舌打ちをする。

「思ってもいないくせに、よく言うわ。あれの望みなら、せいぜい老衰で死ぬまで双児宮の召使いを勤めさせろ、と言うくらいのものだろうよ」

「で、あろうな」

 サガがけろりと言い放つ。

「そのくらいの望みは叶えてやらずばなるまい。以後は、私もイビるのを控えるとしよう。大分よく躾けられて来たようでもあるしな」

「……一度死んで、大分神経太くなったな、お前……」

「て言うか、いびってると言う自覚はあったのか」

 方々から入るツッコミを軽く無視して、サガは纏めに入った。

「では、この件の処分については、いま少し調査を行わせてもらいたい。当時の状況について、あの娘からも事情聴取を行った上で決定したいと思うのでな」

「……ずいぶん甘いな、お前さんにしちゃ」

 デスマスクがコメントをつけ、珍しくシャカから応援の声が上がる。

「以前ならば、直ちに処刑のものを出していたはずだが?」

 しかし、サガは首を振った。

「……厳しく裁くばかりが法ではなかろう。仮に被害を受けたものが許すと言うのならば、その点は加味してやってもよいのではないか、と私は思うのだ。その確認のため、今少し、猶予を与えてもらいたい」

 場に幾分のざわめきが走る。

 己にも他者にも常に厳しく曇りない正義を要求したかつてのサガでは、思いも寄らなかった言葉だ。

「……解りました。任せましょう」

 ムウの言葉が、場の浮いた空気を纏めていく。

「慈悲の心をもって、彼が公正な裁きを受けるために」

 会議が終り、三々五々に散っていく仲間たちの後ろで、サガはかすかな笑みを浮かべた。

 そう。長い戦いの末に、彼が手に入れたものは。

 弱き心を持つ弱き人間に対する、慈悲の心だったのかもしれない―――――

 

 その夜、カノンはデスマスク、シュラ、アフロディーテの三人と町へ繰り出したため、夕食を宮で取らなかった。

 星矢、紫龍と共に食事を終えたサガは、青銅の2人が寝静まった後に凪を居間へ呼んだ。

 訓練場から消えた経緯を調べた、とサガが告げると、凪は心配そうな顔で彼を見て、まずこう言った。

「……サガ様。彼は、罪に問われるのですか」

「当然だろう。聖闘士の候補生を、娼館に売り飛ばしたのだぞ。そのような無法を許しておけるわけがあるまい」

 サガのそっけない言葉に、凪はさらに困った顔になった。

「……命まではとらないで頂きたいのですが」

「お前は被害者なのだ。なぜ、その男の弁護をする?」

「被害者ではありません、共犯でした」

 真面目にカノンの言った通りのことを言う凪に、サガは顔をしかめた。

「庇わなくとも良い。お前は8歳の子供だったのだぞ。分別も身を守る術も持たぬ、幼い子供だ。同じではない」

「いいえ」

 凪が、きっとした表情になる。

「意味するところは、解っていました。自分が何を金に変えようとしているのかも」

「10に満たぬ歳で、身体を売ることの意味を知っていたと?」

「はい」

 凪がはっきりと頷く。

「世の中には幼い少女しか性愛の対象とできない人間が存在することも、そのような人間に対して子供が高く売れることも、全て。彼が娼館からの誘いに乗らなければ、私が自分で声をかけていたでしょう」

 命まで取られるわけではないものを、どうして身を惜しんで一人の子供を死なせることが出来ますか――――――

 かつて海底で語ったのと同じ言葉を繰り返す少女の瞳は、強く激しく澄んでいた。

「サガ様。無罪と言うわけに行かなくとも、命はお助け下さい。彼は、十分に罰を受けているはずです」

「……そう思うのか」

「はい。……私は、彼が不憫でした」

「不憫?」

 眉を寄せたサガの目に、凪の瞳がかすかに歪むのが映った。

「真面目な人だったのです。優しい人ではなくとも、法を重んじて、清く正しくありたいと願う人でした。なのに、その人が、いつか私の前で顔を上げられなくなっていました。おそらくは、自分の心を決めた頃から」

「……それはそうであろう。己の子を救うためとはいえ、同じ年齢の子供を売春宿などに売って平気でいたら、人ではない」

「そうです。人であったから、苦しみました。己の罪に恐れおののいて、けれど自分の子供を死なせる道も選べずに、悩んで苦しんで。最後に連れてゆかれる私を見ていた彼は、すでに地獄にいる亡者のような目をしていました。きっと今も苦しんでいるのではないか、とそう思うのです」

 何もかも解っているから気にしないで欲しい、と。何度もそう言ったのですが――――

 絞り出すようにそう言った少女の声は、哀しみに満ちていた。

「サガ様。確かに彼は罪を犯したのでしょう。けれど、どうか命までは」

 懇願するように凪が繰り返すのを、サガは沈黙したまま聞いていた。

“優しいのだろう……この娘は。心底、他者を愛しているのだろう。だが”

 ―――――恐ろしい、と何故か、彼は思った。

 感動するより、美しいと思うより、まず先に。何か、よく解らない恐怖に似た思いが、彼の中に湧いていた。

“……人なのか?これは。このように全ての罪を許し得る人間が、ありうるものなのだろうか”

 人間が。それほどまでに、他者を許せるものであろうか―――――

“しかし。人でなければ、何だ?”

 神ではない。神は正しきもの、そして正しきものは裁くものだ。

 で、あればこそ、自分はかつて神のようだと言われていたのだ。

 神に近いと言われるシャカもまた、その容赦のなさ故にその称号を得ているのだと言っていい。

“では、許すことしか知らぬこの娘は。何であろうか?”

 答えの出ない問いを繰り返したサガの脳裏に、今度は星矢と紫龍の語ったかつての凪の姿が甦る。

 子供たちが傷つけられることを、凪は許さなかったと言っていた。

 その頃の彼女は、守るもののために怒り戦う存在だったのだろう。

 そして、その『守るべき特別な存在』を失った彼女は、もはや何かのために怒ることがなくなってしまった―――――

“……そういうことなのだろうか”

 サガは、何とも言えない気分で目の前で懸命に頼む少女を見つめた。

 思えば、自分は彼女と会ってこのかた、笑うのと困るのと以外の感情を見たことがない。 

 怒りだとか。哀しみだとか。そういうものは、一体、どこへ失われてしまったのだろうか。

 途中までは同じ境遇で育った、星矢や紫龍ですら、喜怒哀楽はあるものを―――――

「……サガ様?」

 心配そうな声に、サガは我に返った。

「……ああ」

 彼は、ため息を洩らした。

「……実を言うと、当時の聖域の責任者として、私もお前には詫びた上で気の済むようにしてやるつもりでいたのだが」

「それは」

「解っている。お前が望むのは、その男の助命なのだな。……本当に、それでいいのか?」

「はい」

「了解した。……処罰はせねばならんが、命だけは何とかしてやろう」

「ありがとうございます!」

 パッと明るい顔になって礼を述べる凪に、サガは居たたまれなくなって背を向けた。

「サガ様」

「……お前の言う通りかもしれんな。たとえ、誰が責めなくとも。私はまた一つ、自分を許せないと思う理由が増えたわ」

 あなたのせいでは、と言う声を聞きたくなくて、サガは足を早めて宮を出ていった。

 

 

061109 up

 

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