「イレギュラーの神様」

(1)

 

 ギリシアの郊外に、青空から太陽の光が降っていた。

 人里離れた荒地の中に見えるコロッセオ、そして小高い丘に立った神殿へ向かう階段とその途中に並ぶ12の宮。

 聖域、と書いてサンクチュアリと読む、戦いの女神アテナの治める地。

 女神に聖なる鎧たる聖衣を与えられ、その膝元に仕えてこの地上の平和と正義のために戦う戦士、聖闘士たちの守る場所だ。

 そして今。その聖域には、意外にも長閑な空気が漂っていた。

「ムウ。ちょっといいかー?」

「その言葉は、入り口で足を止めて言うものです、ミロ。念のために言っておくとね」

 砂色の髪をゆるく一つに結わえてチベット風の民族衣装を着た青年が、日本の平安時代のような丸い眉毛の下の色素の薄い落ち着いた目を涼やかに据え、宮の横ちょについている住居から出てきて客を迎える。

 黄道12星座の一つを守護星座に持ち、88人の聖闘士の最高位に立つ12人の1人にして、12宮の一番最初の宮たるこの白羊宮の主。

 かつてはジャミールに居を構えていた聖衣の修理屋さん、牡羊座アリエスのムウだ。

 彼の言葉どおり、言葉とほとんど変わらないタイミングでずかずか通ってきた客は、ムウと同じ年頃の青年。ちょっと癖のついた見事な金髪をやたらと長く伸ばし、なかなかの男前だが、直情型で裏表のない性格を顔全部に映し出したような開けっ放しな表情だ。

 同じく黄金聖闘士で、八番目の天蠍宮に居を構える、蠍座スコーピオンのミロである。

「そうか?すまん。時に、町へ出るが、何か必要なものはあるか」

 なるほど、戦闘時の聖衣フルアーマーは論外としても、普段に訓練場で修行するときとは一味違った普通の服装である。町へ出ても、人々から眉を顰められるようなことはなさそうだ。

「それはそれは。私は別にありませんよ、昨日貴鬼に行ってもらったばかりですしね」

「そうか。じゃ、通るぞ」

「はいはい、どうぞ。あ、何かあったらテレパシーでお願いするかもしれませんけど」

 ムウは、涼しい顔でミロの背中に声をかけた。

 いや、超能力など見慣れて珍しくもない聖域の中にいるムウはいいとして、ミロの方は街中でテレパシーに返事などしたら間違いなく危ない人間に見えるだろうが。

 生憎と、服は着替えても人並みの常識までは身についていないミロは、そこまでは思い当たらない様子で普通に返事を返した。

「ああ、解った。遠慮なく言ってくれ。他の連中にも色々頼まれてるしな」

「……つくづくいい人ですね、あなた」

 ムウは、苦笑交じりに、何枚ものメモをポケットに突っ込んだ同僚を見送った。

 幼い頃。聖闘士の候補生として聖域へ来る前は超能力など気配でも見せたら即座に化け物扱いだったものだが。ここでは、テレパシーだのテレポーテーションだの、見世物にもならない。

“まあ、そんなものは問題にならないような化け物の集団ですからね、ある意味では”

 何しろ。『拳は空を裂き、蹴りは大地を割る』と言うのが聖闘士の定義である。

 聖衣を授かっている聖闘士では最下級の青銅聖闘士でも、動きが音速を超えるのは最低条件。ムウのような黄金聖闘士では、パンチやキックは光速が基本なのだ。

 先ほどのミロとて、その辺はきっちり黄金聖闘士。

 超能力こそないものの、女神アテナにお仕えして悪魔だの何だのと戦うために特殊能力を持つ人間の集団である聖闘士の筆頭戦士の一人に相応しい力は持っている。

 ダイナマイト100本分くらいの破壊力は普通に当り前、それに加えて、爪も伸びてない素手の人差し指で金属製(しかもオルハリコン)の鎧を通して人体に穴をあけ、相手に転げ回るほどの激痛を味あわせると言う神業をやってのける男だ。

 ちなみに、彼らの間ではそれもまた、別段驚くべき技ではない。

 12宮最後の宮の双魚宮で日々趣味の園芸に精を出している色男、魚座ピスケスのアフロディーテは自慢のバラで人様の身体の血を一滴残らず吸い出すことが出来るし、そのすぐ下の宝瓶宮の主でミロの親友、今は弟子ともどもシベリア在住である水瓶座アクエリアスのカミュは、根性だけで真夏に雪だの氷だのを製造する雪女もどき。そのまた下の魔羯宮にいる山羊座カプリコーンのシュラは、聖剣エクスカリバーと称して、素手で岩でも鉄の塊でもスパッと真っ二つの人間包丁だ。

 他のも似たり寄ったりで、全能力を披露したら常識では人間だと判断されることはまずない連中の集まりなのだ。

“人のことが言えた義理でもないですけどね”

 ムウ自身、テレポーテーションの変形で敵を原子のレベルまで分解して消滅させるスターライトエクスティンクションだとか、テレキネシスの応用で敵の技を全て叩き返すクリスタルウォールだとか、人知を超えた技なら幾つも持っている。それでも、仲間たちとまともに戦って勝てると言う自信はあまりないのだ。

“その力も、今はただの便利屋ですが”

 ムウは、くすっと笑みを浮かべた。

 実のところ、実生活で彼が超能力を使うことは、あまりない。

 自分同様に人間外の精神力を持つ仲間にテレパシーで話し掛ける程度のことならいざ知らず、それ以上のことは、精神エネルギーの消費を考えると気楽に使うのは割に合わない。長年のトレーニングで驚異的な運動能力を身につけ、すっかりバカ力になった自分にしてみれば、大概のことは普通に生身の身体でやった方が早いのだ。だから、仲間たちも超能力関連のことは滅多にムウに頼みにはこない。超能力を使って精神的に思いっきり疲労したムウが、代償に何を吹っかけてくるか、解ったものではないからだ。

 ちなみに、一番解りやすいのは、献血である。

 代々牡羊座の聖闘士は、戦闘時の聖闘士たちの命綱とも言うべき聖衣の修復師の役目を担っており、ムウも例外ではないのだが、この聖衣の修復と言うのが曲者だ。

 そもそも、女神アテナの名のもとに作られて神話の時代から受け継がれてきたと言う触れ込みのこの鎧はオルハリコン製で、何だかんだと持ち主を選ぶ代わりに色々と神秘的な力が備わっている。

 わりに露出の多いデザインのくせして露出部分まできっちり守ってくれると言う奇怪な防御力に加えて、攻撃力までとことん高めてくれ、なおかつ多少の傷は勝手に治ってしまうというサービス振りだ。

 ただ、厄介なのは、勝手には治らないほど酷い破損の修復だ。

 神様の作成のわりには嫌なオプションで、そう言った破損を修復するには人血を必要とする。それも、100ccや200ccではすまない。一つ直すのに、大雑把に見て成人ひとりの4分の1近くは必要だ。

 それだけなら血液銀行から買ってもいいのだが、これがただの血ではダメだときている。一つの時代には天にも地にも88人しかいない聖闘士の血でなくてはならず、しかも献血者のレベルが直った聖衣の性能に反映されることになっているから、できるだけ高位の聖闘士の血が望ましい、と言うのは当然の展開だ。

 そんなわけで、まだ幾つか修復の済んでいない聖衣を抱えているムウとしては、黄金聖闘士の血が十分量手に入るなら、多少の超能力は喜んで提供する気はある。

 しかし、黄金聖闘士だって人間。自分の血を1リットルくれてやるなどと言うのは、気が進む訳がない。アテナの命令があり次第いつでも命がけで戦わねばならない状況にあれば、なおさらだ。だから、よほどの緊急事態でない限り、ムウに超能力使用の要請は来ないことになっているのである。

“その戦いも、一段落ですけどね。当分は、聖衣の修復に急かされることもなさそうです”

 ムウは、寛いだ気分で、アテナ神殿へ続く他の11の宮を見上げた。

 一月ほど前に今回の聖戦を終え、宮の佇まいまでが穏やかに緊張を解いているように見える。

“……何かとアクシデントが多かったですからね……まさか、こんな風にみな揃って戦後を迎えられるとは思っていませんでしたよ”

 思えば、長い一年だった、と思う。

 邪悪を払うために人間の身体を持って地上に降臨した女神は、今、御年14歳。

 今生の人間名は、城戸沙織と言う。

 本来ならば聖域でアテナとして育つはずであった彼女が、世界有数の財団であるグラード財団を束ねる城戸家の総帥として日本で暮らしているのは、12宮三番目の双児宮の守護者、双子座ジェミニのサガが、14年前に乱心して反逆を企てたことに端を発している。

 当時、サガは15歳。アテナは降臨したての赤子の姿で、サガは既に立派な黄金聖闘士だった。

 アテナの補佐役として聖闘士を統括する教皇の元、聖戦に向けて、子供ばかりの聖闘士たちの教育の傍ら付近の住民たちのためにボランティアに勤しみ、神様みたいな人だと誰からも囁かれていたサガは、突然切れた。

 こっそり教皇を殺害して入れ替わった上で、アテナまで殺して、自分が世界の支配者になろうとしたのである。

 夜中に金の短剣持参でアテナの揺りかごの所へ来たサガは、もう少しと言うところで、9番宮人馬宮の守護者でちょっと前までの同僚、射手座サジタリアスのアイオロスに見つかった。

 教皇のアテナ殺害、と言うとんでもない現場を目撃してしまったアイオロスは仰天して止めに入り、その結果、前聖戦の生き残りのジジイのはずの教皇が何時の間にか先だって失踪した仲間に代わってしまっているのまで知ってしまって、混乱の中で彼は自分の聖衣とアテナを抱え出した。

 その彼に、サガは教皇のふりをしたまま『アイオロスがアテナを殺そうとした!』と叫んで追手をかけて、アイオロスが余計なことを言わないうちに口封じをしようとしたのである。

 当時10歳であったシュラは幼いながらも黄金聖闘士の役目を果たそうとアイオロスを追い、その手にアテナが抱かれているのを見て愕然としたが、不幸なことに彼は日ごろからアイオロスよりもサガに懐いていた。

 アイオロスからサガが教皇を演じていると聞いた彼は、迷った挙句にサガを信じることに決めてアイオロスと戦ったのだ。

 子供らしく手加減を知らないシュラのエクスカリバーの前で、アテナを傷つけまいと戦いを避けたアイオロスは瀕死の重傷を負ってそれでも逃げ、そしてようやく逃げ切った先で力尽き、そこで出会った日本人の男にアテナと自分の聖衣とを託した。

 それが、沙織の養父である城戸光政である。

 超のつく大金持ちの上に少々色好みで世界中に愛人がいて子供も三桁に迫ろうと言う女好きの彼は、それでも決して人でなしではなかった。

 子供を沢山作ったのは、元はと言えば子供も大好きだからで、全員を不自由なく育てるくらいの財力はあるのだから、どの子にも、またその母親たちにも精一杯のことをしてやろう、などと考えていた彼の人生は、ここで大きく狂った。

 とりあえず赤子を預かった上で、目の前で死んだ少年の言葉について秘密裏に調べさせた彼は、ギリシアの聖域にあって地上を守るアテナとその聖闘士たちについて大体のところを知ったのだ。

 集めた情報から判断した結果、どうやら本当に世界の運命を守る女神が自分の手の中にいると知った彼は、死ぬほど悩んだ。

 そして、悩みに悩んだ彼の結論は。

 飛び込んできた運命を受け入れ、自分の子供たちに女神を守らせることだったのだ。

 それが世界を救うことである、と信じて。

 女神と射手座の聖衣を抱いて日本へ戻った彼は、二度と“父親”に戻らなかった。

 100人近い幼い子供たちのほぼ全員を物心つく前に孤児として施設に入れ、見込みのありそうな子供だけを引き取った。

 そうやって屋敷に集められた子供たちは、数年後、自分の役目と立場を叩き込まれた上で、世界各地に散らばる聖闘士の拠点へと送り込まれたのである。

 小宇宙と呼ばれる潜在能力を引き出すための修行は想像を超える厳しさで、6年の後に見事に聖闘士となったのは、わずか10人。他のものがどうなったのかは、光政も沙織も知らない。

 しかし、光政の意思だけは無事かなった。

 彼の死の折に己の宿命を知らされた沙織は、単なるワガママ娘から戦いの女神へと立派に変身してのけたのだ。

 グラード財団の力と手元にある射手座の聖衣と青銅聖闘士となった養父の息子たちとを武器に、フェスティバルの形を取って全世界にアテナの存在を叫び、正面から聖域のサガに宣戦布告した。

 その力強さを、ムウはジャミールから見つめていた。

 超能力者の故に教皇の交代を密かに感じ取り、しかし独力ではサガと争える自信もなく、10年以上も前に彼はひとり聖域を離れてジャミールに隠れていたのだ。

 いつサガの刺客に襲われるとも知れない状態で息を顰めてアテナの気配を探していた彼は、沙織に対する聖域の動きを見ていて、サガの召集に応えない黄金聖闘士がもう一人いるのを知った。

 やはり前聖戦の生き残りである、天秤座ライブラの童虎。中国五老峰に居を構え、今は老師と呼ばれる男であった。

 沙織の幼馴染みの一人である竜座ドラゴンの紫龍が老師のもとに弟子入りしていたことも解り、ムウは、テレパシーで密かに老師と連絡を取った。

 そして、老師がやはり事の真相に気づいているのを確認したムウは、二人で共同戦線を張って沙織と青銅聖闘士たちを支援することにした。

 沙織が真の女神であることを確認するため、あえて表立っては味方につかなかった二人がひっそり見守る中、青銅の少年たちとサガの刺客との幾つかの戦いを経て、ついに決戦の時は来た。

 沙織が、青銅の少年たちの反発を持ち前の負けん気で纏め上げ、全員を率いてこの聖域に乗り込んできたのである。

 沙織の幼馴染みである青銅の少年たちと、この12宮を守護する黄金聖闘士たちとの血で血を洗う戦いの凄惨さは、まだムウの記憶にも新しい。

 到着早々に黄金の矢で胸を貫かれてひっくり返った沙織を救うため、青銅の少年たちは、五人を沙織の守りに置いて残り五人でアテナ神殿内の教皇の間に向かった。

 白羊宮では、既にジャミールを出て待っていたムウの手で聖衣を徹底修復しただけだったが、その先はまさに苦難の道のりだった。

 最下級の青銅の身で、満身創痍になりながら、彼らはよく戦った。

 言葉の説得など意味をなさない戦場に立って己の生き様で正義を語り、そして幾人かの黄金聖闘士が彼らの真実に賭けようと決意してくれた。

 そしてついに、最後の一人が教皇の間に辿り付いてサガと対峙し、ようやく発覚した、サガが二重人格であったと言う哀しい事実。

 長い戦いの末に青銅の一人である天馬座ペガサスの星矢がアテナの盾を手にして、沙織の命は救われたのだ。

 死の昏睡から目覚めた沙織が見たものは、瀕死の幼馴染みたちと、半数に減った黄金聖闘士が聖域の全ての戦士を後ろにして目前に跪く光景だった。

 やっと正気に返った瞬間に、己の罪の重さに耐えかねたか、一言の詫びを残して自身の命を断ったサガを前に、沙織は泣いた。

 それは、本当に沙織が自身の人生を捨て、女神として生きることを決意した、その決断の瞬間だったのかもしれない、とムウは思う。

 その後、予定通りに訪れた冥王ハーデスと108人の冥闘士の復活を聖域は一丸となって迎え撃ち、攻め込んできた冥闘士たちを撃退した上で、聖闘士たちはアテナを先頭に立てて冥界に乗り込んだ。

 その時は、ムウも戦った。

 死界の王を敵に回しての戦いは想像を絶する辛さで、ムウも幾度か血の涙を流した。

 けれど、諦めはしなかった。

 若いアテナとその幼馴染みの少年たちのがむしゃらとも言えるエネルギーに引っ張られるようにして、戦い続けた。

 最後には、死んでいた黄金聖闘士たちまでもが聖衣を依り代に魂だけの姿で力を貸してくれ、彼らは何万年もの間繰り返された聖戦に終止符を打ったのだ。

 ハーデスの地上への野心はその肉体と共に滅び、冥界はもはや現世にまで影響を及ぼすことはない。

 天と、地上と、冥界と。

 その三つのバランスは、当分崩れはしないだろう。

 彼らは、勝ったのである。

“命と引き換えにして、という覚悟だったんですけどね”

 ムウは、長い回想を終えて一人ごちた。

 そう。本当なら死んだはずの自分たちが、あまつさえ結構前に死んでたはずのサガやシュラまでがきっちり生き返って、この12宮にいると言う事実。

 それは、一言で言うと、沙織が育ちの故に人間界ずれしていたおかげに他ならない。

 『火事場泥棒』という諺の意味を熟知していた彼女は、タイミングさえ合えばその利用も躊躇わない人間だった。

 ハーデスの身体がなくなってその力も一時的に弱まり、エリシオンが大半崩壊と言うゴタゴタの中で、沙織はちゃっかり黄金聖衣を回収していたのだ――――――そこに宿った、黄金聖闘士たちの魂ごと。

 本来なら幾ら何でも無茶だが、ありがたいことに、生身の冥闘士達のためにハーデスがこの世とあの世の境にあけた穴は、まだ閉じていなかった。

 まだ息のあった青銅の少年たちに黄金聖衣を担がせて地上に戻ってきた沙織は、地上に体があって戻れる聖闘士に次々と魂を放り込んで戻しては待機させていた財団の車で病院へ運び込んだ。

 もちろん青銅の少年たちも病院直行で、彼らもムウもミロも、意識を取り戻すには一ヶ月近くかかった。

“あの時は、驚きましたね……”

 何の心残りもなく死んだはずが、現世の病院で目覚めた彼らは、まだ昏睡状態のほかの仲間たちとすました顔の沙織を前に、初めかなり戸惑った。

『し……しかし、いいのでしょうか?こんなことをして』

『あら。何かまずいことが?』

『……』

『いいじゃありませんか。ハーデスがバカなことをしなけりゃ、死ななかった人たちなんですから』

『……サガとカミュとシュラ、デスマスクとアフロディーテは、それ以前に死んでいますが』

『ええ。でも、今回せっかくハーデスが復活させてくれたのですもの。ありがたく親切に甘えましょう』

『……アテナ……さっきのお言葉と矛盾しませんか』

『しません。何か文句でも』

 ばっちり人間の身勝手さを身に付けた、恐らく聖域始まって以来のがめついアテナは、まだ躊躇う聖闘士たちを前に、迫力のある顔で微笑んだ。

『では、なんですか?せっかく身体があって、魂が戻ってきて、もう息もしてて心臓も動いている彼らを、私は殺さなくてはならないわけですか』

『う……』

『絶対、嫌です。ハーデスがそれで文句があるなら、ここまで言いに来ればよいのです。できるものなら、ですけど』

 無理だ。

 全員の心の声が、一つになった。

 神話の時代から初めてくらいのビッグダメージを受けて、おまけに今は聖闘士たちが荒らしまくった冥界の修復に全エネルギーを使っているはずのハーデスが、地上になど出て来れる訳がない。

『まだ異議はありますか?ありませんね?はい決まり。皆さん、余計な心配はやめて、しっかり養生して下さいね』

 ほーほほほ、と勝ち誇った声で悪役くさく笑った沙織を前に、なおも言葉を重ねるものは誰もいなかった。

“……大した方に仕えているものです、私たちも”

 ムウは、くすっと笑った。

 みな。呆れた気持ちもあったが、本音は違った。

 沙織のツンとした笑顔の裏の、一緒に戦った人々をどんなことをしても助けたかった気持ち、女神としてより十三歳の少女としての必死さに、打たれていたのだ。

 そして、仲間たちは、一人、また一人と目覚め、最終的にほぼ全員がこうして聖域に帰って来たのである。

“わが師……ムウは、アテナに救われて無事、生きています”

 空を見上げて、ムウは心の中で呟いた。

 沙織のがめつさと抜け目のなさをもってしても戻ってこられなかった聖闘士は、わずかに二人。

 一人は、13年前に死んで身体の欠片もなかった、アイオロス。

 そしてもう一人は、もう十二分に生きたから、とアテナの言葉を退け、自ら肉体を散らして眠った、前教皇でありムウの師であるアリエスの聖闘士、シオンだった。

 わずかな復活の時に、正式にサガを教皇代理に指名し、引き止める沙織を静かに宥め、老師の手を握って、生きて働く道を選んだ親友に笑みをみせて再び永い眠りについた師の姿に、ムウは顔を上げることができなかった。

『ありがとうございます、アテナ。……わが師シオンは、私を育てて下さった、親代わりでもありました。死に目に会えなかった大恩ある師に……別れを告げることができました』

 その後、二人きりになった時にそう告げると、沙織は涙に濡れた幼い瞳をくっと上げてムウを見た。

『……余計なことをしたかもしれない、なんて思いませんよ。私は』

『はい』

『まだ。全てが終わったなんて、思っていません。天にはゼウスがいます。オリンポスの神々は、じっと地上を見ているのです。このアテナは、地上に生きている限り。全ての人々を守るために頑張ります。そして、その私には、あなたたちが必要なんです。必要……なんです……っ』

『ええ、アテナ。解っています。私も、他の黄金聖闘士たちも、青銅の少年たちも。みな、生きている限り、あなたを支えて戦いますよ』

 ムウは、ありったけの誠意を込めてそう言った。

 解っている。アテナが降臨したのは、冥王ハーデスとの戦いのためであったかもしれないけれど。ここまで経てきた戦いは、けっしてハーデスに関るものだけではなかった。

 アスガルドの神、オーディーンの地上代行者であるヒルダと、神闘士たち。

 太陽神アベルと、コロナの聖闘士たち。

 そして、海皇ポセイドンと、海闘士たち――――――

“何かが、変わってきている”

 それは、誰もが感じていたことだった。

 聖戦が、未だかつてない終わり方をした、この時代。

 あまりにも多くの神々が、一度にざわめき始めている。

 人間たちが二度の大戦を経て科学の進歩を早め、神への信仰を失うと共に核と言う大きな暴力を手に入れ、宇宙へまで踏み出そうとしている、現代。

 自然界では調和が崩れ、幾多の生物種が絶滅し、その反面で新種のウィルスが現れては新たな奇病を蔓延させている。

 大地が放射能に汚染され、大気には人工のガスが満ち、人々は貪欲に何かを求めて走り続けている。

 そのエネルギーは、神々をも刺激しているのかも、知れない。

 だとしたら。

 まだまだ、戦いは終わっていないのかもしれないのだ。

“……ならば、戦いますよ。私たちは”

 ムウは、しばし瞠目した。

“人々を守るために。アテナ、あなたの膝元で。この地上が、正義の行われる世界であるために、日本で頑張っているあなたを信じて”

 黄金聖闘士をこの聖域に残し、幼馴染みの青銅聖闘士たちを連れて日本へ戻って、グラード財団の総帥として働いているアテナに向かって、改めて忠誠を誓う。

“何があっても。私たちはアテナの聖闘士ですよ。たとえ、ゼウスが天から攻めて来ようとも”

「ムウ様――――――っ!!」

 家の中から、弟子の貴鬼が呼ぶ声が聞こえる。

「えっと、この本なんですけど!解らないとこがあって」

「おや。解りました、今行きますよ」

 束の間の休息かもしれない、平穏な日常。

 ムウは、穏やかな笑みを浮かべて、弟子の待つ家へと戻って行った。

 

 街へ見回りに出るものや買い物に行くものはいても、滅多に普通の人間の来ない聖域に、一人の客が訪れたのは、それから数日後のことだった。

『サガ。ちょっと、よろしいですか』

 ムウからテレパシーで呼びかけられたとき、教皇代理のサガは教皇の間にいた。

『ああ。何か?』

 サガは、書類を書く手を休めずに答えた。

『双児宮にお客です。通してもよろしいか』

『客?珍しいこともあるものだな。聖域外の聖闘士か?』

『いえ、違います。正確には、カノンになのですが』

 ムウが付け足す。

『海底神殿の関係者だと言っています。ポセイドンの海闘士の海将軍、海魔女セイレーンのソレントの書状を持っているそうで』

『……』

 今度は、サガも手を止めた。

『シードラゴン様に会わせて欲しい、と。見たところ、普通の人のようですよ。星矢たちと同じ年頃の少年です。どうします』

『……解った。すぐ下に行くから、そう伝えてくれ』

『ええ、解りました。ああ、カノンのふりをして話を聞きだすなら、白羊宮より双児宮の方がいいと思いますよ。三番目の宮の横がカノンの家だと言うのは、既に知っているようですから』

『そうか。では、双児宮に通してくれ。私が下りていくまで、お前もいてくれないか』

『もちろんです。では、後ほど』

 ムウがテレパシーを打ち切ったとき、サガはすでに人馬宮まで来ていた。

 途中で双魚宮のアフロディーテが付属のバラ園から顔を出したが、独り言を言いながら下りていくサガを見て、すぐにムウとテレパシーで喋っていると察したらしく、別段気にとめずに引っ込んだ。

 天蠍宮、天秤宮と下りていきながら、サガは突然の来客に考えを巡らせていた。

“海底神殿の関係者、だと?一体、今さら何だと言うのだ”

 ポセイドンの海底神殿。その言葉は、まだ記憶に新しい。

 現在、サガは教皇代理として双子座の聖闘士を兼ねているが、双子座の聖衣を纏う資格を持つ人間は、実はもう一人いる。

 それは、彼の双子の弟、カノンである。

 サガに生き写しのこの弟は、しかし、厄介なことに、双子座の聖闘士であると同時に、海皇ポセイドンの海闘士の筆頭、海龍シードラゴンの海将軍でもあった。

 その辺の事情は、これまたアテナが降臨したばかりの14年前に遡る。

 切れて二重人格が勃発する前、真面目に双子座の黄金聖闘士をやっていたサガに双子の兄弟がいることは、教皇だけが知る秘密であった。

 サガと顔がそっくりなだけでなく、非常に質の似た小宇宙の持ち主であったために一緒に引き取られたカノンは、しかし、自分が既に一人前の実力を持ちながら兄のスペア状態で日陰の生活を送っていることに対する鬱屈した思いもあって、15歳の年には立派な不良。サガのもう一つの人格である通称黒サガとよく似た、手のつけられない少年に育ち上がってしまっていた。

 何だかんだと悪さの末、終いにはアテナ殺害計画を練るに至った弟にサガは怒り、悩み、終いにスニオン岬の崖下にある岩牢にカノンを幽閉したのである。

 アテナが罪人の処罰に用いていたその岩牢は、海沿いにあり、満潮時には天井まで水に浸かることもある。

 そんなところへ弟を放り込んだのはサガも悩んでのことだったのだが、幾らかでも反省したら出してやろうと思って見守っているうちに、弟は忽然と姿を消してしまった。

 その後は、サガも黒サガ変化して教皇を殺したり、アイオロスがアテナを連れて逃げたりと色々あり、13年間は教皇のふりをするので手一杯。

 終いには、日本から成長したアテナが独自の青銅聖闘士軍団を作って押しかけてきて、ようやく黒サガから解放されたサガは居たたまれなくて自殺してしまったので後のことは知らないのだが、何と聖戦で復活して知ったところでは、あの時岩牢の壁を破壊して逃げようとしたカノンは、そこで海皇ポセイドンの詰め込まれた壷を見つけて封印をとき、海龍の鱗衣をもらってポセイドンの海闘士になって海底神殿を取り仕切っていたそうなのだ。

 その後、カノンは紆余曲折の末にアテナに帰順して忠誠を誓い、冥闘士が12宮に攻め込んできたときは双子座の聖闘士として双児宮を守って立派に兄の代わりを務めた。

 さらに、冥界では黄金聖闘士の切り込み隊長として見るも鮮やかな暴れっぷりを披露した上で、冥界三巨頭の一人と壮絶な討ち死にを遂げてみせた。

 もっとも、それは過去の話。

 今のカノンは、サガ同様、きっちり生き返って、双児宮横の双子座の聖闘士用の家で兄と一緒に暮らしている。

 もちろん、これもアテナのおかげだ。

 カノンはどたん場で双子座の聖衣を兄に返して空手で死んだために少々厄介だったようだが、沙織は諦めなかった。

 なんと、眠りかけていたポセイドンを叩き起こして力を借り、海龍の鱗衣を依り代にして、無理やり魂を呼び返したのだ。

 生き返ったカノンは自分の側に手放したはずの鱗衣があることに戸惑ったようだったが、ポセイドンの方は実は結構カノンを気に入っているらしく、とりあえずカノンが生きている限りは彼のものだから持っていろ、と言ってよこした。

 その後は、カノンも一度世界征服にチャレンジして気が済んだのか、自分の鱗衣があることで気持ちに余裕でも出たのか、サガのスペアであることに対して不満を言うでもなく、サガと二人暮して、教皇代理で忙しい兄の代わりに双児宮を守って、暇になれば気のあう聖闘士と酒を飲みに町へ出て、至極平和に過ごしていた。

 13年ぶりに叶った、兄弟二人の静かな生活。

 これについては、サガは、アテナにもポセイドンにもかなり感謝していた。

“それが……” 

 弟の昔の同僚である海将軍の書状を携えて、海底神殿からの客。

 サガは、どうにも穏やかでない気分だった。

“まさか、また何か陰謀でもあるまいが……”

 とにかく。

 カノンのふりをして話しかけ、うまいこと用件を聞き出して、もし妙な話だったらカノンには会わせずに叩きだしてやる。

 固く誓って、サガは足を早めた。

 目の前に、自宅のすぐ手前の宮である、巨蟹宮が見え始めていた。

 

 

061006 up

 

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