「昏き夢の底に」

 

 森を右手に、草原を。軽やかな足取りで、綺麗な娘が歩いてゆく。

 ――――――戻れェエエエ!ルシエラァ――――――!!!

 親に捨てられ拾われた組織の中で、ただ2人。身を寄せ合って生きてきた、その妹の絶叫を背にして、自分は自由になった道を歩いてきた。

「……どこに、行こう」

 謳うように呟く声が、唇から零れ出る。

“――――南の地が、綺麗だったわ”

 任務で訪ねたことのある、暖かな豊かな国。肥沃な土壌と温暖な気候は、たくさんの人々を養っていた。

「――――――そうね。きっと、美味しいわ」

 さっき食べた内臓は、何だか味気なかった。岩の多いこの土地に似ているような、がりがりに痩せた中年の女と子供。

 もっともっと、美味しい食事のできる場所で暮らしたい。

 もう彼女は、自由なのだから。

 組織など今は怖くない、誰が追ってきても構わない。自分を縛れるものなど、あるものか。

「……あ、そうね」

 残してきた妹がまた意識の隅に浮かんで、ルシエラは呟いた。

「あの子が追ってくるかしら?」

 ああ、それならそれが、一番いい。

 最初は大剣で切りかかってくるかもしれないけれど、どうせ覚醒してしまえば解ることだ。何が一番いい道か。

「2人で楽しく暮らせるわね、そうしたら」

 大好きなラファエラ。最後に見たときは沢山の血を流していたけれど、自分と同じように目覚めればいいことだ。

 傷ついた身体も治るだろう、抉れた左眼も元通りになるだろう。何もかもが楽しくうまくいく。

 ラファエラと2人でならば、それこそ怖いものなど何もない。

「うふふ……」

 豊穣な南の地で妹と2人の生活を思い描いて笑ったルシエラは、ふっと足を止めた。

 ゆっくりと振り向いた森の中から。

 逞しい鈍重そうな男の肩に腰掛けた、幼い可愛らしい少女の無邪気な瞳が彼女を見ていた。

「こんにちは、ルシエラ」

 黒髪の少女のかげりのない声を聞きながら、ルシエラはしげしげと2人の姿を眺めた。

 つい半年前にも会っている2人。倒し損ねて、何とか致命傷を負わずに逃げおおせた。

 その時にはおぞましかった、厭わしかった。そして少しだが、怖かった。

 今となっては、この2人のどこにその形容し難い不思議な闇を感じたのかも解らない。

 男は自分に比べれば小さな力しか持たぬ生き物で、少女はそれを従えて我侭な姫様のように悦にいっているだけだ。

 せめてもう少し男前の覚醒者はいなかったのかしら、と失礼なことは口に出さずに、ルシエラは軽く答えた。

「――――――久しぶりね、リフル」

 ごく普通に挨拶したルシエラに、リフルは呆れたような顔をして、それからきゃっきゃと笑った。

「覚醒しちゃったのねえ?へえ、あたしと同じくらいだわ。あーあ、また一人増えちゃった」

「ああ」

 覚醒しても記憶や知識が消えるわけではない。何が増えたと言われたのかは、すぐに解った。

 歴代のNo.1が覚醒者となるのは自分で3人目だ。

 1人は、組織の創世記に試行錯誤の中でまとめて覚醒してしまった男達の中で最も優れた剣士だったという戦士イースレイ。

 二人目が、大剣を携える戦士は全て女と定まったばかりの頃に乳離れして間もないような幼さでNo.1になり、感情のままにあっさり一線を越えて覚醒者となった目の前の天才少女、リフルだった。

 自分がこうなったきっかけ――――――ルシエラとラファエラとが供された実験は、思えばその二人を始末するための試みだった。

「考えてみれば馬鹿なものね。あなたたちを倒すための最強の戦士を作ろうとして、藪蛇っていうのかしら」

「組織も抜けてんのよね、結局。深淵の者が増えただけってわけじゃない」

 けらけらと笑ったリフルの妖気だけが、ルシエラを値踏みするように蠢いている。

 鬱陶しいと感じて、ルシエラは己の妖気を解放した。

 ぶわり、と広がった妖気に空気が揺れる。

「――――あら」

 リフルの声が笑みを残したままで攻撃的な気配を帯びる。ルシエラの美しい顔とリフルの愛らしい顔がしばし見詰め合った。

「――――――ねえ。どこへ行くつもり?ルシエラ」

「そうね。南へ行ってみようと思っているわ」

「ふうん」

 リフルは軽く瞬きをした。

「ちょっと残念」

「何かしら?」

「あたしはね、西の地が気に入ってるの。だから、あなたがそっちを獲りにくるなら戦わなくちゃ、と思ってたんだけど」

「あら、そう」

 ルシエラは肩を竦めた。

 西の地は、夏は暑くて冬は寒い、四季の激しい土地だ。正直、自分の好みではない。欲しいとも思わなかった。

「でなきゃ、北であの男と戦うのを見てても面白いかなって思ってたしね」

「……北に行って?」

 今度こそ、ルシエラは顔をしかめた。

 イースレイの住んで居る地といったら、吹雪と氷に閉ざされた極寒の地アルフォンスだ。

 冗談じゃない、真っ平だ。人間の内臓までが腹を割いて引きずり出した途端に凍るような国に、何の用があるものか。

「いやよ。寒いもの。内臓があったかいままで食べられないようなところになんて」

「あ、そう」

 今度はリフルが肩を竦めた。

「ま、いいわ。あたしは、一年中春真っ盛りみたいな景色の変化に乏しいところに興味はないし。結局、戦う理由もないってことみたいね」

 なるほど、そうきたか。

 組織では、リフルとイースレイは互いに争いを避けて北と西を選んで居を構えたと見なしていた。

 しかしルシエラは今、ひょんなことで正しい答えを知った。

 一年中春なのが変化に乏しいと言うのでは、365日そこいら中が雪景色で真っ白なだけの地がリフルのお気に召すわけがない。

 イースレイが北の地に落ち着いている理由は知らないが、まあ物好きはいるものだ。寒いのが好きなのか白い色が好きなのか、どっちかだろう。

「南に行って、どうするの?」

 無邪気に問いかけてくるリフルに、ルシエラはくすりと笑顔を見せた。

「さあ。どうしようかしら……?」

 こんな鈍重な男とよろしくやっている、小さな我侭な姫君には分かるまい。

 ルシエラは、妹を待つ。

 優れた知性と強靭な精神、そして自分と同等の力を持つ唯一人の愛しい妹を、暖かな南の地で待っている。

 ラファエラが姉を追ってきて、紆余曲折の末に覚醒する日がきたら。そのとき、全ては彼女のものだ。

 北にあるアルフォンスの王イースレイも、西の国に君臨する幼い女帝リフルも、南の地の姉妹に敵うことはない。

「南の地に着いたら、あったかい内臓を食べながら、ゆっくり考えることにするわ。ごきげんよう、西のリフル」

 すいっと歩き出したルシエラに、リフルはぴらぴらと手を振った。

「ばいばい。“南のルシエラ”また、会う日まで」

 踊るように歩いていくルシエラの美しい姿。

 黙って見送るリフルのあどけない瞳を、ダフは見上げた。リフルが軽く嘆息する。

「……あーあ。あたしも、あのくらい大人で覚醒してたら良かったかな」

 組織で半人半魔の銀眼の魔女クレイモアとなった人間は、外見上はあまり年をとらない。そして、覚醒後の人間体は覚醒時点の形態を維持する。

 とどのつまり、幼くしてクレイモアとなり程なく覚醒したリフルの外見は、これ以上は成長することはないのだ。

「……おでは」

 少し考えた後に、ダフはぼそりぼそりと告げた。

「リフルは、可愛くていいと、思う」

 本音だった。

 もちろん育ったリフルはきっと先ほどのルシエラに負けないくらい綺麗だったろうけれど、その前に覚醒してしまったのだから仕方がない。

 深淵の者である西のリフルは、彼が力で負けて心でぞっこん惚れてしまったその時から、あどけない無邪気な瞳をした愛らしい幼い少女なのだ。

 それならそれで、問題ない。大人の綺麗な女にならなくても、彼はきっと、いつまでもリフルが好きだ。

 人間だった頃から今までずっと力が強いばかりで頭の良くない自分と、付き合ってくれているリフルが大好きだ。

「ルシエラは、綺麗だけど、リフルじゃないから、駄目だ」

 彼は覚醒者になっても力が強いだけでやっぱり外れ者で、頭のいいイースレイや涼やかな理性的な騎士だったリカルドとはやっていけなかった。

 一人ふらふらと放浪の末に覚醒したリフルと出会って戦って、めためたにぶちのめされて、だけど彼を殺さなかったリフル。

 『頑丈なのねえ、あんた。ちょっと気に入ったわ。いいわ、あたしの男になりなさいよ』と言ってくれた時のことを、彼は忘れない。

「リフルが、一番、可愛くて、いい。おでは、リフルが、一番、好きだ」

「……あーもう。うるさいわねえ、ダフってば」

 懸命に続けるダフの言葉を、リフルが呆れ返った声で遮る。

「何度も言わないでよ。ばっかみたい」

「……あう」

 素直に黙ったダフを、肩のリフルが細い足で軽く蹴る。

「帰ろ、ダフ」

「……ルシエラは、もう、いいか?」

「んー。いいんじゃないかしら?とりあえず。あたしのいる西には来ないしね」

 リフルの言葉に、彼は大人しく従った。

 

 ―――――長い年月が、過ぎた。

 北のイースレイ。西のリフル。南のルシエラ。そして彼らを生み出した組織は、東に。

 長いこと変わらなかった均衡を崩したのが、一本角の少女プリシラの覚醒だった。

 その間にも、組織は時には意図して時には意図を超えて、数々の物語を生み出していた。

 微笑のテレサとその養い子クレア。神眼のガラテア。精神を共有する双子の戦士、ベスとアリシア。

 人の形をした悪魔の獣、11体の深淵喰い。そして組織を離反した戦士たちの小集団。

 揺れる時代の中で、リフルは再びルシエラに再開した。

「……久しぶりね、ルシエラ」

 鎖で吊り上げられた彫刻のような姿に向かって、リフルは呟いた。

 妹にしっかりと抱きしめられたまま、死に近い静かな眠りの中にいる。

 美しい旧知の娘を見上げて、童女の姿をした妖魔が薄く微笑む。

 あの日。南の地へ向かったルシエラが妹を招こうとしているのは気づいていた。

 ルシエラは知らなかったのだろうが、覚醒前のルシエラと立ち会うずっと前に、西の女帝はラファエラとも見えたことがあったのだ。目覚めれば深淵に近い力を手にするだろう二人の戦士の気配は、あまりに似通っていた。あれだけの力のある血縁者を、ルシエラが忘れるはずはない。

 それでも南へ行く新たな深淵の邪魔をしなかったのは、当時すでに長いときを覚醒者として過ごし組織の刺客と戦ってきていたリフルが、知っていたからだ。

 覚醒と同時に自分たちが失ってしまったもの。人間の側に必死でとどまり続けている戦士たちの誰もが心に抱くものを。

 己の未来の姿であるかも知れない覚醒者への憎悪を超えた激しい嫌悪を、リフルが己では遠く忘れ去った身でありながらも、人外の側から既に十分すぎるほどに見てきていた、からだ。

 とりわけ、既に姉の覚醒を目の当たりにし精神に至るまでの変貌を全て己の目で見届けてしまった妹。

 ラファエラが全身全霊で覚醒を拒むだろうことを、おそらくは覚醒よりは死を選ぶほどに己が人でなくなることを恐れていることを、リフルは確信していた。

 それは間違っていなかった。にも拘らず、事態は計算外の方向へ転んだ。

「可哀想なルシエラ」

 見上げたルシエラとラファエラの融合体に、西の女帝は呟きかけた。

「あなたの妹は、そこまでして覚醒を拒んだのね。でも」

 そして、少し切なげに目を細めた。

「幸せなルシエラ。あなたの妹は、それでも決して死なせたくはないほどに、あなたを愛してたのよね」

 かすかな感傷は瞬く間に幼い瞳から消え去り、リフルは振り返った。

「ねえ。あれを目覚めさせる方法が、あるかしら」

 彼女の忠実な僕である鈍重な男に告げる。

 答えを求めてはいない。ダフにそんな知恵のないことは、リフルが一番良く知っている。

「探しに行きましょ。きっと、あるわ。見つけるの」

 2人で1人。抱き合ったままに1つになってしまった美しい姉妹を、新たな存在として目覚めさせる術が。

 足を弾ませて歩き出した少女を、急いで駆け寄った男が抱えて肩に乗せる。

 逞しい肩にかけて華奢な足をぶらぶらさせながら、彼女は振り返った。

「ラファエラ、ルシエラ。待ってらっしゃい」

 永遠に近い時を生きる魔物に相応しい光を瞳に湛えて、リフルは薄く笑った。

「起こしてあげる。それで、飼ってあげるわ。あたしがこの地上の支配者になって、ずっと、ね」

 くすくすくす、と言う笑みを残して、西の女帝は立ち去った。

 

『ラファエラ、無事だった?怪我をしないでね、私のたった一人の妹。たった一人の、家族』

『大丈夫だ、決して死にはしないよ、姉さん。……愛してるよ、ルシエラ姉さん』

 

 ダフの肩に揺られながら、リフルは笑った。

 今となっては夢のようにおぼろげでしかない記憶を、それでも姉妹は共有して、意識の底で繰り返し生きているのだろうか。

 その頃はこんな日々がかけがえのないものだなどとは考えもしなくて、けれど今となっては何を引き換えにしても取り戻せない、その時間。

 姉妹が2人共に大剣と人の心とを携えた戦士で、互いに背を預けて戦った日々のことを。

 それを思って、リフルはただ声を上げて笑った。

 

 共に人でありたかった。

 共に魔物になりたかった。

 ずっとずっと、2人だけで居たかった――――――

 

 

090811 up

 

戻る