横山慎吾の場合
「小説みたいな事って起こらんねえ。」
これが、横山慎吾の口癖だった。といっても彼は、小説など読む方ではない。どちらかと言えば、「最近読んだ本の名前はなんだったっけ?」と考え込んでしまうようなタイプだ。また横山の無骨な体には、文庫本は似合いもしない。
昼間は渋滞が起こるこの国道も11時を過ぎると高速道路のようになる。車に乗り込んだ時から降っていた雨はかなり本降りとなり、ぴかぴかと光る路面はセンターラインを見えにくくしていた。「この際、例の幽霊でもいいぜえ。」とうそぶく。国道○号は、こんな話が絶えなかった。結構なスピードを出しているが、極めて車は順調に路面をとらえている。今乗っているアルテッツアは、数えて五台目となる。28歳という年にしては結構な数ではないだろうか。別に裕福な訳ではない。彼は車が好きなのだ。おかげで、彼は毎月の返済に苦しんでもいるのだが。
「こういう時に、18才くらいの…もうちょっといっててもいいな。22才くらいまでの、色が黒くて、ちょっと野生的な感じながら、まだ可愛いところが残ってて、眉がすっきりしてて、ビキニが好きで、掘られたらすっげえいい声で泣くような…」
独り言を口に出す癖は、一人暮らしが長かったせいだろう。
横山の仕事は、出勤時間は決まっていても退勤時間は決まっていないような仕事だ。今も長引いた会議が終わり、ようやく家に帰るところである。「小説みたいな事って…」と、横山が言い出すのも無理がないのかもしれない。しかも高校大学とバスケットボールで鍛えていた体は、椅子にじっと座っているのを何よりも嫌がった。
突如横山は、タバコを揉み消しウインカーを出して、車を脇に寄せた。
「小説のような出来事を求めるにゃ、まず行動っと。」
行動と言動の順番が逆である。この雨の中、缶コーヒーを飲もうというのが全く横山らしい。勢いよくドアを開け、申し訳程度の屋根のある自販機の下に走り込む。ここは、米屋らしい。ビール・たばこなどと一緒になって、自販機の明りは夜の中ひっそりと自分達を主張していた。
パラパラパラとリズミカルな雨音が屋根で聞こえる。耳に心地好い。聞き入ってしまい、不意に誰かに「何をそんなに急いでいるんだ?」と言われたような気がした。口元に薄い苦笑いを浮かべて横山はあたりを眺めて見る。毎日の生活に、刺激を求めようとする自分が急におかしくなってきた。
雨の音と屋根から絶え間泣く落ちる水の流れをただ見ている。やがて外気の冷たさは、頬に寄り膝のあたりを優しく締め付けた。その感触は実家の縁側に座り、雨を見ている幼い自分を思い出させる。横山の持つ最古の記憶だ。音は続き雨も降り続いている。いつもいい気分になる車のアイドリングの音は、今は明らかに雑音だった。
どれくらいそうしていたのだろう。
「さあて。」ポケットさぐり財布を出そうとしたが、そっちに入っていたのはタバコだった。
「こっちか。」勢いよく出した反対の方に入っていた財布は、ポトリと地面に落ちた。
「あーあ。あんた皮製品でしょうが。」体をかがめ手を伸ばした時だった。
「あの。」
「おわっ!」これは、独り言ではない。はっきりとした、叫び声だった。
振り返るとニットの帽子を被った男がいる。
「驚かしてすいません、あの…犬見ませんでした?」
「うわあ、びっくりしたあ。幽霊かと思たー。いつからそこおったん?」
すっとんきょうな声を上げたのが、気まずかった横山は、わざと大きな声を出し声の主をきちんと向き合った。男の緑のウインドブレーカーは、しっかりと雨に濡れていた。身長は上背のある横山の肩くらいまではある。顔はニット帽を目深にかぶっているのでよくわからないが、立派な大人といっていいかもしれないし、声の感じは少年のような気もした。
「犬、見ませんでした?茶色と黒と混ざったような、一目見て雑種とわかるような犬なんです。」
横山の質問には、まったく答えようと思ってないらしい。
「犬?犬探しとるん?」横山は聞いた。
「さっき、かみなりが鳴ったでしょう。なんか興奮してたみたいで、吠えてたから、見に行ったらいなくなってたんです。」
「犬小屋から?」
「犬小屋ないんです。」
「かみなり鳴ったん?知らんだったよ。」
「知らないんですね。いいです。すいませんでした。」いきなり、雨の中に走りだそうとする。その時、横山はこの男がまだ少年だと確信した。
「おおい、待ちぃ。雨ん中どこ探すつもり!もう11時まわっとるんぞ。」そう言ったのは、むんずと少年の肩をつかんだ後だった。
「コーヒー飲もか。」
少年は、何も言わない。しかたなく一番よくCMをみるコーヒーを、少年に手渡してみるが、へその所でかかえたままで飲む気配はない。横山も同じ物を買い、しばらく両手を暖めながら、横目で少年を見た。雨で濡れた髪がいくつか束になって、少年のすっきりとした眉を飛び越えている。目に入りそうで、つい手が出てしまいそうになる。まずいと思った横山は、缶コーヒーを開け飲んだ。飲み物を飲むと、横山の喉は妙においしそうなぐびっという音をたてる。ユーモラスな音が少年の耳にも届いたろう。
「はよ、飲まんや。あったまるぞ。」
「…いただきます。」ようやく少年は、プルタブに手をかけた。手がかじかんでいたのだろうか、うまくあかない。
ぷしぃ、ひょいと左手を無造作に伸ばし、横山はプルタブを簡単にあけてしまった。
「どうも・・」
「へへーん、すごいやろ。俺、握力100キロある。」
「ひ100キロ?」
「うそ。そんなにあるかい。」
少年は、表情を崩し横山の方を見上げた。横山もにっこり笑う。
「雷鳴ったのいつごろ?」
「・・10時半くらい。」
「10時半から探しとったか、こん雨ん中?」
「雨まだ、降ってなかったから。」
コーヒーを二口でたいらげた横山の口には、タバコがあった。
「大切な犬なんやろなあ。いつから飼うてるの?」
「昨日。」
「昨日かぁ!」
「昨日の夕方家の近くで見つけて、飼う事にしたんです。」
人に警戒心を抱かせない横山の人柄なのだろうか。それとも、少年が誰かに話したかったせいだろうか。二人の会話は、だんだんと雨の音より大きくなっていった。
「お前、熊本人やないやろ?」会話のテンポが変わる。しばらくの間の後少年は、
「やっぱりわかるんですね。」とはっきり作り笑顔とわかる顔で、そう言った。
少年は、千葉県で育ったと言った。父の実家がある熊本に、この春引っ越してきた。転入も高校生になるとシビアで、言葉の違いもあってかなかなか学校にもなじめなかったらしい。
「千葉の大学行きたいんです。」
「そうか、熊本もいいけどな。友達おるんやろ、あっちには。」
そう横山が言った時、少年はとってもうれしそうな顔をした。
「なん、何笑ろうとんの?」横山も微笑み返す。彼の希望は両親には反対されているのだろう。
「千葉に帰るんです。」少年は、今度は自分に言ったようだった。横山は、二本目のタバコに火をつけた。拍子は、元のテンポに戻った。
「送ってく。家どっち?」
「いいですよ。走って帰れます。」
「受験生が、風邪は引かれんやろ。今だって結構寒いし。いいけん、もうおれ、帰るだけやけん。」
迷っている少年に横山は何も言わせず続けた。
「いっせえのせ、で車に乗ろ。新車のアルテッツアさんやぞ。いっせえのお、せ!」
横山は車に向かって走り出す。何やら少年は、自販機の方でかがんでいる。来ると信じていたから、横山はそのまま運転席に乗り込んだ。数秒ずれて助手席のドアが開く。
「シート濡れませんか?」うっすらと濡れている頬が上気して、少年はとても可愛く見えた。
「何してたんです。さっき?」
「ん、ああ。あれ。雨見てた。」
「雨?」
「雨降りすきなん、おれ。雨が出す音が好き。空気もなんか埃がなくなるし。」
「ふうん。そう考えると雨もいいですね。」
「犬な・・」
「いいんです。多分…これで。」
「明日になったら帰ってくるかもわからんぞ。」
「きっと、帰ったんです。」
運転中ながら、横山は少年の方を見た。まっすぐに前を見つめる少年にごまかしは感じられない。
「そうか。いいか。」
「あそこです。」
出会った時とは、くらべものにならないほど元気な声を出して少年は車から降りたが、すぐに駆け出さない。どうやら横山が車を動かすまで、見送るつもりらしい。横山はミラーの中で手を振る少年に笑いかけ、短くクラクションを鳴らした。
「小説みたいな事か…。」
助手席の方が妙に眺めがいいような気がする。しかし、帰路につく横山はとても気分が良かった。
年が明けて一年で一番寒い頃、横山のアパートに一通の手紙がついた。
「横山慎吾様へ
覚えていらっしゃいますか。ぼくは、11月の夜、コーヒーをごちそうになり家まで送ったもらった男です。
大学に受かりました。なんだか横山さんには是非連絡したくて、手紙を書いています。熊本の大学です。びっくりしたでしょう。
あの次の日、アローはちゃんと帰ってきました。(アローというのは、犬につけた名前です。矢のようにすっとんでいって時々いなくなるからつけました、けど、今日もいるみたいです。)帰ってきた犬を見てたら、熊本に住んで熊本で友達作って、熊本で勉強してみるのもいいかなあと思えてきました。変ですね。あんなに、千葉に帰りたかったのに。
春からは、大学生になります。働いてらっしゃる横山さんには申し訳ないけど、それまでは、ずっとお休みです。ぜひ、もう一度きちんと会ってお礼をしたいなあと思ってます。アローも紹介したいです。いつか、お休みの日はありませんか。ああ、大切な事を言い忘れました、僕の名前は○○○○……・。
そうだ、もう一つ言い忘れた事がありました。僕が、どうして横山さんの名前や住所を知っているかというと、あの時に財布を落としたでしょう。横山さんが車に乗ってから僕も気がついたんですけど、自販機の下に名刺を落としてらっしゃったんですよ。それを、こっそり拾って持ってたん…。
「小説みたいな事って、起こるもんやなあ。」
横山は、カレンダーを見ながら受話器を手に取った。